b-61 (妻は死んだ日の夜から現われて対話が続いた)

  (ミネソタ州でソーシャルワーカーをしているダニエルは、二十八歳の妻キャシーをガンで失い、その夜から四日連続で、つぎのような啓示的な幻想的コミュニケーションを体験した。)

 妻が先立った日、身も心もぼろぼろに疲れて床に入った。気分をほぐそうとして目を閉じると、いろんな思いが頭を駆けめぐった。そこへだしぬけに、キャシーの輝くばかりの姿が割り込んできたんだ。目をあけてみたが、やっぱり見える。彼女がそばにいる気配がはっきり感じられて、心が静かになっていくのがわかった。
 キャシーはきれいだった。ゆったりとした輝くばかりに白いドレスを着て、このうえなく美しい顔をしていたよ。あれほど晴れやかな妻を見たのは、はじめてだった。豊かな茶色の長い髪も、もとどおり。化学療法や放射線治療を受ける前のまんまだった。ともかく、見とれるほど美しかった。
 キャシーは、テレパシーで話しかけてきた。「いまはとでも幸せで、祖父母やほかの親戚にも会ったのよ」と言った。「きみを愛しているよ。それに元気そうだし、もう苦しんでいないのが何よりうれしいよ」と、ぼくも話しかけた。
 しばらくのあいだ、二人で一緒にいる幸せに浸っていた。「ぼくのために来てくれて本当にありがとう」と礼を言ったよ。姿が消えていくとき、「必要なときには必ずそばにいるわ」と言ってくれた。
 つぎの晩、お通夜が終わったときは、体の感覚がなくなったかと思った。ベッドに倒れ込むと、またもやいろんな思いが頭を駆けめぐった。キャシーがぼくらのしたことを気に入ってくれたかどうか考えていたら、またしても彼女の気配がして、美しい幻が見えた。前の晩よりもっと明るい、もっと軽やかなドレスを着ている。彼女の周囲も背後も光り輝いているし、彼女自身も光を放っているんだよ。
 そして彼女は、「今日はほかの友人や親戚にも会って、とっても忙しかったのよ」と言うんだ。
 子どもたちのことを相談すると、「あたしがついてるから、心配ないわよ」って言う。「長いあいだ看病してくれてありがとう」と言うから、ぼくも「信頼して看病を任せてくれて、ありがたかったよ」と礼を言った。その晩は、どうやらそこで眠ってしまったらしかった。
 つぎの日、キャシーを埋葬した。まだいままでのことが、よく飲み込めていないような気がしたよ。その晩眠りにつくと、またキャシーのすばらしい幻が戻ってきた。また一段と明るさと輝きを増しているように見えて、まるで彼女の体が純粋な光に乗っ取られてしまったかのようだった。
 「そちらの世界ってどんなところだい」と聞くと、こう答えた。「ここではとっても幸せよ。お互いのあいだに境界がないもの。自分のもってる良さがすべてわかるし、ほかの人の良さもみんなわかる。ここでは、一人ひとりの良さがすっかりわかるようになるっていうことが、成長なのよ。良さがわかる能力が、だんだん向上していくの。だから相手の良さがもっと深く、もっと自在にわかるようになるわ。私はそんな愛と自由を知ることができるのよ、あなたより一足お先にね」 思いを分かち合っていると、やがて幻は消えていった。
 四日目の夜も、床に入ると幻が戻ってきた。目をあけていても閉じていでも、幻はいつもどおりに浮かんでいた。ただしキャシーは、見えにくくなっていた。ますます明るく光り輝いていたからだ。
 「一緒に行きましょう。見せたいものがあるの」と言われて、どういうわけか、ぼくも幻の中へ踏み込んでいった。深い谷底へ向かって、二人で細い道を下って行った。谷の両側には高くて険しい山がつらなっていて、項ははるか上空にそびえている。
 「これが人生よ」と彼女が言った。
 「谷を通る道はたくさんあるし、大勢の人にも会うわ。それぞれ何が正しい、何がまちがっているという自分なりの考えをもつようになるでしょう。だから、その人のありのままを受け入れることね。列の先頭に立って行く人もいるし、頭上への道を、一生涯を骨を折って登って行かなければならない人もいるわ」
 谷の入口についたとき、キャシーの姿がゆっくりと明るい白い光の中へ消えていって、やがてその光にすっぽり飲み込まれてしまった。そしてその光もまた、山の頂上の同じような光の中へと消えていった。
 キャシーに置き去りにされたような感じは、不思議としなかった。あたかも彼女が光の中にいて、あるいは彼女が光そのもので、その光には境界がない、そんな感じがした。彼女から放射された光がぼくに溶けこんでいて、二度と去らないような気がした。
 幻があらわれなくなっても、喪失感はなかった。その体験が、あまりに生きいきとして真に迫っていて、頼もしかったから、何の疑いも疑問も起きなかった。体験それ自体が、一つの完全な、完結したものに思えたんだ。

   ビル&ジュディ・グッゲンハイム『生きがいのメッセージ』
    片山陽子訳(飯田文彦編)、徳間書店、1999、pp.335-338





 b-62 (二人の子供たちの霊界からのメッセージ)

 この五年間に私たち夫婦は二人の子供をなくすという体験をした。一人は三女の玲で、彼女は致死性小人症という、骨が成長しない病気をもって生まれてきた。いつ死ぬかわからない状態で二七二日という世界記録を作って彼女は死んだ。その後、間もなく養子にした星はわずか生後三カ月で幼児突然死症候群でこの世を去った。私たち夫婦には元気な子供が三人いるが、この二人の子どもの死のショックは大きく、生きることの意味がもうないとすら感じた。
 そんな時、カリフォルニア在住の霊能者であるジョアンヌ・スティールワゴン女史を、友人から紹介された。彼女は心理学者であるが、異次元の存在との交流ができる人だという。彼女の一つの特徴は霊視ができることである。つまり、ヴィジョンが見える。
 妻のジャネットは、悲しみに打ちひしがれた状態で、こう言った。「なぜこのような体験を私たちがしなければならなかったのか、なぜ玲はああいう状態で生まれ、死んでいかなければならなかったのか」、ただそれだけを知りたかったのである。ジョアンヌは、霊視して、こう語った。「私にはなんのことかわかりませんが、一人の女の子がにこにこして、『お母さん、私の手を見て』と言って、両手を振っています」
 ジャネットにはすぐにわかった。玲は致死性小人症であったため、手足が全然成長しなかったのである。それが、今は、あの世に行って手も普通になっているよ、と見せてくれたのである。それから玲は私たち夫婦に「ありがとう」と言っていると、ジョアンヌは語った。彼女は「無条件の愛」を体験するために、あのような身体をもってこの世に生まれてくることに決め、私たち夫婦はその親になる約束をしたというのである。これは一つの約束であるが、かならず守らなければならないというものではない。しかし、私たちはこの約束を守り、彼女をありのままに愛してくれたことに玲は感謝している、というのだった。
 玲は生まれる以前に異常があることはわかっていて、生まないという選択もあると医師に暗示されたこともあった。
 星からのメッセージは、彼は「悲しみ」という感情を自ら体験するために、私たちの家族のところにやってきて、死ぬことを選択した、というものだった。星を養子にしたときは生後一カ月で、健康そのものの子だった。私たちの家族一人一人はほんとうに星を可愛がり、楽しい時を過ごしていた。ジョアンヌを通して星が語るには、彼自身そのように愛情に囲まれた生活の中で、本来の自分の目的を見失いそうになるところだった。そういう状態で突然死んで、別れなければならない悲しみ、そして家族である私たちの悲嘆を体験することが、彼の使命だったと語った。
 私たちのことを何も知らなかったジョアンヌを通して語られたこれらのメッセージは、語っている存在が玲であり星であることを示す証拠を伴っていた。

  アイヴァン・クック『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』(大内博訳)
    講談社、1994、pp.320-321 (「訳者のことば」より)





 b-63 (死の床にある人を近親者の霊が迎えに来る現象)

 超心理学者のカーリス・オシス博士とエルレンドゥール・ハラルドソン教授は、この領域の五年におよぶ研究成果を『人は死ぬ時何を見るのか』(原題At the Hour of Death 笠原敏雄訳、日本教文社1991年)にまとめ、1979年に出版した。二人はインドとアメリカの病院で同じ調査を行い、両方の国で同じ現象が起きていることを発見した。インドでもアメリカでも、死の床にある人を霊が迎えに来ており、霊の多くは死んだ近親者の姿をしていた。調査した877人の患者のうち、両国でほぼ半数ずつ、合計591人にこの体験が起きていた。薬物による幻覚の可能性はまったくなかった。ちなみにイギリスの統計によると、死の床にある人が霊姿を見ることは、病気でないふつうの人の場合の三倍も多いのだ。
 病院の調査では、インドとアメリカで体験にいくらかの違いがあることがわかった。アメリカでは死んでいく患者を迎えに来た霊姿の大半が女性で、亡くなった母親のことが多かったが、男性優位社会のインドでは、たいてい男性だった。また特殊な宗教的人物の霊姿もたまに見られたが、本人の信仰と霊体験にはつながりがないように見えた。実際、死後の世界があるとは考えていない患者が、何十人も、あの世からの迎えに出会っているのである。
 霊姿を見た人には明らかな変化が観察された。死は暗く、ときには苦痛の大きい体験であるが、霊姿の訪問を受けた人の72パーセントという圧倒的多数が、心が晴れ晴れとして、よろこんで向こうに行くという気持ちになっていた。当然ながら誰もが旅立ちたいわけではなく、少数ながら助けを求めて声を上げる人もいた。迎えについて行くことに抵抗を示す人は、アメリカ人よりインド人患者のほうに多かった。アメリカ人で、まだあの世へ行く覚悟ができていないと言った人は、たった一人だった。

   ジェフリー・アイバーソン『死後の生』片山陽子訳、
     日本放送出版協会、1993、pp.138-139





 b-64 (インドの病院で入院中の女医が死者の幻を見る)  

 入院していたときのことです。とても容態が悪く、うつらうつらしていて、まわりのようすもあまりはっきりとはわからなかったんです。四一度の高熱でした。私の母とキルティという名の女生徒が見舞いに来ていました。
 そのときベッドに寝ていると、突然キルティのおじいさんが病室に入って来ました。どちらかというと小柄な人で、すごく厚いメガネをかけて、いつものドーティ(男子の腰布)を着けていました。キルティのおじいさんだとわかったのは、いつもキルティを迎えに来るときと服装が同じだったからです。おじいさんは私の足もとのところに立ちました。そして何度もこう言うんです、すみませんが孫を帰してやってください、あの子を家へ帰らせてくださいって。
 何度もそう言うので、私はうるさく感じて寝返りをうって向こうを向いてしまいました。それでも彼はまだそこに立って、どうか孫を帰してくださいとしつこく言いつづけるんです。うるさくてしかたがないので、キルティに帰りなさいと言うことにしたんです。でもおじいさんが待っているからとは言いませんでした。彼女はもう当然おじいさんの姿を見たものと思いこんでいたからです。キルティは帰りたくないと言いました。私の具合があんまり悪そうなので、つきそっていたいって。彼女がいうことをきかないので、私はそれなら少なくとも家に電話しなさいと言ったんです。彼女は電話をかけに行き、そして大あわてで病室にもどって来ました。とても動転していて……。なんと彼女が電話をする五分前に、おじいさんが亡くなっていたというんです。あわてて家へ帰って行きました。
 私はひどく具合が悪かったものですから、彼女におじいさんのことは何も言いませんでした。でもあとで、おじいさんはほんとうに彼女を呼びに来ていたにちがいないと思いました。おそらく死にかかっていたちょうどそのときだったんだろうと。おじいさんは実際にそこに来て立っていたんだと、あの当時は本気で考えました。
 いろいろ考えてみて、二つ三つ可能性が浮かびました。医者だったら、誰もほんとうに幽霊が来たとは考えないでしょう。たぶん熟のせいだった、熟で意識が混濁して幻覚を見たんだと考えるのがふつうだと思います。
 それでも、彼が亡くなるちょうどそのときに、彼が私のベッドのそばに立っている幻を見るなんて、なんて不思議なめぐり合わせだろうと思うんです。説明するのはとても難しいでしょう。科学的に説明をつけることは無理だと思います。

   ジェフリー・アイバーソン『死後の生』片山陽子訳、
      日本放送出版協会、1993、pp.140-141





 b-65 (娘の霊が自分が殺されたことを母親に訴える)

 ASPR(アメリカ心霊研究協会)のリチャード・ホジソン博士は、1897年7月3日付の『シカゴ・イブニング・ジャーナル』紙で、はじめてその事件を知った。「奇怪な証拠で有罪判決」と見出しをつけた記事にはこうあった。はじめ検視陪審員は、自宅で死んで見つかったある女性の死を心臓病によるものとしていた。しかし葬式がすんでから、死んだ女性、シュー夫人の母親のところに夫人の幻があらわれるようになり、自分は夫に絞め殺されたのだと訴えた。母親は娘の霊が口にするこまごまとした事柄から、娘が殺されていたことを確信し、当局を説得して遺体を掘り起こさせた。その結果、夫は第一級謀殺の容疑で審理され、終身刑を宣告された。
 ホジソンはこのケースを検討したいと考え、母親のヒースター夫人と七人の証人の供述書を入手した。証人は、犯罪が立証される前に母親から娘の幻についていろいろと聞かされていた人たちである。ホジソンは地区検事補とも連絡をとり、公判の記録の写しを手に入れた。
 ヒースター夫人は法廷でこう語っていた。「すべては娘の葬式がすんだあと、『なぜ死んだのか、もう一度もどってきて教えてちょうだい』と祈ったときからはじまったんです。そのときから死んだ娘は都合四回私のところへあらわれて、どうやって殺されたかを話していきました。殺された当日、あの子の夫が帰宅して夕食のテーブルにつこうとしました。『彼は怒ったの。肉料理が何もなかったからよ。でもバターもりんごもチェリーもあったし、ゼリーも三種類あったわ。テーブルにはいろいろ出ていたのよ……』と娘は言いました。口論になって、彼は壁から娘の写真をはずして山積みにし、アクセサリーや衣類を毛糸の入っていたバスケットに投げこんだんです」。陪審員の一人はホジソン博士に、バスケットの中にそのとおりの品物が発見されたことを伝えている。
 「ああ、お母さん、彼がおどりかかって私の首を絞めたの……」と高齢のヒースター夫人は法廷で娘の言葉を伝えた。老婦人は、もしや夢を見ていたのではないかとたずねられた。「はじめてあの子が来たときは、もう寝ようとしていたときでした。暖炉のそばにあの子がいたんです。ほんとにいるのかしらと思って腕にさわってみたんです。ちゃんと血肉のついた腕でした」
 さらに詰問された夫人は、こうつけ加えた。「あの子が見えたので、私は肘をついて体を起こして、手をのばしてみたんです、こんなときはお棺に入ったまま来るのかどうか調べてみたくて。お棺があるかどうか確かめたかったんですよ。そんなものはありませんでした。あの子はこの世を去ったときとどこも変わっていませんでした。私はあの子に話をしに来てちょうだいと言いました。そしたら来てくれたんです」
 ヒースター夫人は何週間もかけて当局を説得し、娘の墓をあばく許可をとりつけた。夫人の言葉がまじめに受け取ってもらえたのは、二つの事実のためだった。一つは、娘の霊姿が着ていたと夫人が主張する服が、殺された当日実際に彼女が着ていたものだったこと。もう一つは、ヒースター夫人は娘の家を訪問したことがなかったにもかかわらず、犯行のもようの説明が実際の家のつくりと一致していたことである。老夫人はついに保安官をつれて娘の家へ行くことになった。
 陪審員の一人が書いている。「ヒースター夫人は彼らとともに家に行き、それまで一度もその家を見たことがなかったにもかかわらず、どのドアを通ってどう行くかを、娘の霊に教えられたとおりに説明しました。そしてあるドアの前で立ちどまると、やはり霊に教えられたという、ある一か所を指さしました。そこの床には血痕と争ったあとがありました」
 ヒースター夫人は法廷で言った。「あの子が言ったとおりの場所がありました。そこにほんとうに血のあとがあったんです。あの子の言ったとおりでした。私はあの子が死ぬまで、その家を見たことがありませんでした。私が何も知らないうちに、あの子がそういうことを全部教えてくれたんです」
 証人は、遺体が掘り起こされる前にヒースター夫人が死因について詳しく述べていたことを証言した。娘は母親に「首の最初の関節のところを、血まみれになるまで絞めつけられた」と訴えていた。
 シュー夫人の遺体を調べると、首の関節が第一頸椎と第二頸椎のあいだでこわれていることがわかった。発掘と死体解剖に立ち会った陪審員は、「検死の結果、ヒースター夫人が私やほかの数名の前で、前もって述べていたことが、あらゆる点で正しかったことがわかりました」とホジソン博士に書いた。

   ジェフリー・アイバーソン『死後の生』片山陽子訳、
     日本放送出版協会、1993、pp.147-149





 b-66 (教会で銃で撃たれて死んだ司祭が交霊会で語った) 

 一九四八年、トスカナ地方のある小さな村で交霊会がもよおされた。会場はイタリアの超心理学者シルビオ・ラバルディニの自宅。一〇人の家族と友人が見守る中、地元の霊媒が深いトランスに入っていった。やがて部屋のいろいろな方向から声が聞こえてきて、直接談話(霊が霊媒の発声器官を借りずに直接話しかけてくる)がはじまった。そのときふいに聞きなれない声が割りこんできた。その部屋の中の誰一人聞いたことのない声だった。

 私はあなたがたを見ることはできませんが、存在を感じることはできるんです。私もかつてはあなたがたのように、そんなふうに存在したんです。私は司祭でした。幸福な人間でした。ああ、こうやってようやく真実をお話しできてとてもうれしい。私は拳銃で殺されたんです。だが恨んでいるわけではありません。私はオハイオ州のカントンで司祭をしていたジュゼッぺ・リカルディです。私はあなたがたのことは存じません。兄弟だということがわかるだけです。敵どうしではありません。兄弟ですから。
 私はある女の人に撃たれました。ミサが終わったときでした。司祭としてではなく、ジュゼッぺ・リカルディ兄弟として撃たれたんです。撃たれたとき、とてもあたたかく感じました。私は起きあがって、その人になぜ撃ったのか、たずねたいと思いました。でも彼女はヒステリーのような状態で、私のことなど目に入らないようでした。私が起こしてくれと頼んでいることにも気づいていないようでした。でもそんなことはもうどうだっていいんです。
 私たちはみんな兄弟です。オハイオの光と美しい花々があなたがたにもたらされますように。

 リカルディの声は、ほかに二つの短いメッセージを残して消えた。殺された日時が不明だったので調査は困難と考えられたが、ラバルディニはアメリカへ手紙を書いた。しかし本格的な調査がはじまったのは、一九八六年、彼がバージニア大学のイアン・スティーブンソン博士にイタリアで出会ったときだった。
 スティーブンソン教授はリカルディの死の事実をすぐにつきとめた。一九二九年三日二〇日、カントンの聖アントニウス教会でのこと、ミサをあげ終えた司祭にマミー・ゲリエリ夫人が近づいた。五歳になる娘をつれていた。夫人は司祭に二言三言告げると彼に発砲。五発のうち二発が命中し、司祭は運ばれた病院でその日のうちに死亡した。ゲリエリ夫人はリカルディが娘に性的いたずらをしたと非難したが、彼は断固否定した。夫人は精神異常だともいわれていた。司祭を撃ったあと、夫人は教会の階段の上で静かに警察の到着を待った。司祭殺害の罪で裁判にかけられたが無罪となった。

   ジェフリー・アイバーソン『死後の生』片山陽子訳、
     日本放送出版協会、1993、pp.186-187





 b-67 (スピリチュアリズム運動の始まりになった交霊)

 スピリチュアリズム運動と呼ばれる近代のミディアムシップ(交霊)の復興は、一八四八年ニューヨーク州ハイズヴィルにあるジョン・フォックスの質素な農場ではじまった。三月に、彼の妻と二人の若い娘たちが、家のなかで不思議な音がするのに気づいた。やがて家中の者が、ラップ音やノック音がしたり、家具が動いたりするのを見聞きするようになった。ある晩、一家が床についた後、風が強くなって家中にいろいろな説明のつかない音が響きわたる。ジョン・フォックスがバタバタとはためいている窓を閉めに階下へおりると、騒ぎがあまりにもひどいので、家族のほかの人たちも彼に続いた。下の娘が、父親が窓枠を動かすたびに壁のなかでそれと連動したような音のすることに気づいた。フォックス夫人は次のようにしるしている。
 妹のキャシー[ケイト]が「オバケさん、わたしのするとおりやってみて」といって手をたたくと、即座にそれと同じ数だけラップ音がした。彼女が手をたたくのをやめると、音のほうもしばらくやんだ。するとこんどはマーガレットが「だめよ、わたしのするとおりにして」といって手をたたきながら一、二、三、四と数えると、またしてもラップ音がそれに答えた。……そこでわたしは、その場のだれにも答えられないような質問をしてみようと思い立ち、(前夫との子どもも含めて)わたしの子どもたちの年齢を上から順番にラップ音で答えてごらんといった。すると、即座にすべての子どもたちの歳が正確に返ってきた。そこでわたしは「質問に正しい答えをしているのは人間ですか?」とたずねてみた。ラップ音はない。「これは霊ですか? もしそうならラップ音を二回鳴らしてください」ラップ音が二回。・・・・・・さらに「もし傷ついた霊ならラップ音を二回鳴らしてください」と開くと、即座にラップ音が二回鳴って家全体が振動した。・・・・・・この同じ簡単なやり方によって、それが三十一歳の男性で、この家で殺され、遺体は地下室に埋められているということがわかったのだ。
 夜がふけるにつれ、フォックス家の人びとは、その現象の立会人になってもらおうと隣人たちを呼び集めた。その後もラップ音やノック音はつづき、口伝えでその地方一帯に噂がひろがるにつれ、遠方からも見物人がやってくるようになる。質問に音で答えるというやり方を見ていた近所のある人が、アルファベットを早口でいって霊に望みの字のところで音を鳴らしてもらい、またアルファベットをくり返して次の字を探すというやり方でことばや文章をつづっていけば、もっと正確な情報が聞き出せるのではないかという提案をした。
 こうしてその実在は、自分の身の上話をもっとくわしく語れるようになった。霊によると、彼はチャールズ・B・ロズマという行商人で、その屋敷で殺され地下に埋められたという。地下室を掘ってみると、人間の骨が見つかった。それから五十六年後の二度目の発掘では、行商人のブリキ箱と残りの骨、所持品などが掘り出された。今日フォックス屋敷とロズマの遺骨は、そこからほど近いニューヨーク州リリーデールにあるスピリチュアリズム運動本部に展示されている。

    ジョン・クリモ『チャネリング(T)』プラブッダ訳、
       ヴォイス社、1992、pp.182-184





 b-68 (急逝してその前日葬儀が終わったばかりの友人が顕れる)

 (カール・ユングは次のような自然発生的透視チャネリング体験を取り上げて、ごく一般的なブックテストの一例を紹介している。)

 ある晩、わたしは目をさましたまま横になり、急逝してその前日葬儀に付されたばかりの友人のことを考えていた。……と突然、彼が部屋にいるのが感じられた。わたしのベッドの足元に立って、いっしょにきてくれといっているような気がしたのだ。・・・・・・わたしは想像のなかで彼について行った。彼はわたしを家から連れ出すと、庭を出て道路を通り、最後に彼の家へはいって行った。・・・・・・・そして脚立に上ると、本棚の上から二段目に並んでいる赤い表紙の五冊の本の二冊日を見せてくれた。この体験があまりにも不思議だったので、わたしは翌朝彼の未亡人を訪れて、図書室をのぞいてもいいかとたずねた。すると案の定、昨夜ヴィジョンで見たとおり本棚の下に脚立が置いてあり、しかも遠くからでも赤表紙の五冊の本が見えたのだ。・・・・・・その二巻目のタイトルは『死者の遺産』であった。

    ジョン・クリモ『チャネリング(T)』プラブッダ訳、
      ヴォイス社、1992、p.283