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=寸感・雑記=   




    コロナ予防対策についての共同宣言 (2021.01.28)


 中部大学の大門正幸教授(「参考資料 38」 に紹介)からメールをいただいて、東大名誉教授の矢作直樹さん等7名の医師、大学教授が「新型コロナ感染症予防対策についての共同宣言」を出していることを知りました。この宣言のなかでは、「新型コロナウイルスの脅威は、実際に多くの人が感じているより圧倒的に低く、私たちの生活様式が変更されなければならない程の死の脅威は存在しない」 と述べられています。そして、「これは無責任で荒唐無稽な仮説でもなければ、陰謀論に傾倒した空想でもなく、検証可能なデータが示す客観的事実」であると、付け加えられています。

 その「客観的事実」として、「宣言」が挙げているのは、つぎのようなデータです。

 新型コロナウイルスのPCR検査の実施件数は、4,050,466件(12/1現在)
 新型コロナウイルス感染症の感染者(PCR検査陽性者)148,694人のうち
  死亡者は2,139人
  入院治療等を要する者は21,056人
  退院又は療養解除となった者は125,470人

 インフルエンザの患者 毎年推定1,000万人のうち
  2019年度の感染者数728.5万人
  死亡者数3,325人

 そして、「宣言」はこのデータをこう解説しています。

 《新型コロナウイルスによる死亡者とされる人数は、インフルエンザより少なく、2/3程度。肺炎の1/44。交通事故死亡者数はコロナ死亡者の約2倍。転んで亡くなる方の人数の方が多いというのが現実です。
 インフルエンザに関して言えば、毎年2000万人がワクチンを接種するにもかかわらず、非常に発症が少なかった2019年でさえ、新型コロナウイルス感染症の約50倍の、728.5万人もの人々が感染し、新型コロナウイルス感染症の死亡者を超える3,325人の方々が亡くなっています。》

 「宣言」では、PCR検査による陽性者認定にも科学的根拠からその実効性に疑問を投げかけていますが、こういう専門的な根拠については、医学的知識のない一般の人々には、なかなかわかりにくい面もあります。しかし、マスクの着用が、「ウイルス感染予防・伝搬予防効果がないばかりか、健康を阻害するリスクの方が高い」 と、この「宣言」で指摘されているのには考えさせられました。私なども日常的にマスクを着用していますが、それは意味のないことなのでしょうか。ここでは、その根拠をこう述べています。

 《ウイルスの大きさ(0.1μm)、飛沫の大きさ(5μm~)に対し一般的なマスクの網目は遥かに大きく、ウイルスを止めることができない。大きなツバの塊を止めることはできるが、空気感染・接触感染・媒介物感染に対しては無意味である。マスクさえ着用していれば感染予防になるという大きな誤解は他の対策がおろそかになることにも繋がり、かえって危険である。
 マスクは空気中のゴミ、雑菌、ウイルス、口腔内からの細菌等を集積し溜め込むフィルターであり、国民が正しい着用方法を理解しないままで長期間に渡って同じマスクを着け続け、そのマスクを触れた手指で他への接触や食事をしている現状は感染拡大防止の観点から見ても逆効果である。
 人は、約21%の酸素濃度の空気を吸い込み(吸気)、肺で酸素を体内に取り込んで約15%の酸素濃度の空気を吐き出す(呼気)。通常、16%の酸素濃度を吸い始めると酸欠の自覚症状が現れ、10%以下で死の危険が生じる。
 マスク内部には自分の体内から放出された二酸化炭素や不要物質が溜まり、それをまた吸い込んでいるので慢性的な酸欠状態となり様々な不調や免疫力低下の原因となる。》

 この「宣言」に名前を連ねているのは、つぎの7名の方々です。

  武田邦彦 中部大学特任教授
  吉野敏明 歯科医・歯周病専門医、日本歯周病学会指導医、評議員、歯学博士
  大橋眞  徳島大学名誉教授、モンゴル国立医科大学客員教授、免疫生物学専門家
  矢作直樹 東京大学名誉教授、(前東京大学医学部附属病院救急部集中治療部部長)
  藤井聡  京都大学大学院工学研究科教授
  内海聡  Tokyo DD Clinic院長、NPO法人薬害研究センター理事長
  井上正康 大阪市立大学名誉教授(分子病態学)、 FMTクリニック院長

 日本政府ならびに各自治体、およびメディア関係の人々に対する提案として出されたこの共同宣言の全文は、http://www.werise.tokyo/declaration/ で読むことができます。 コロナウイルス感染拡大の実態を正しく理解するためにも、ご一読をお勧めしたいと思います。

 シルバー・バーチは、「取り越し苦労は最悪の敵で、精神を蝕む」と言っています。医学的にも、大きな不安や心配は、私たちの心身を蝕む猛毒の作用を及ぼすことが実証されているようです(「学びの栞」(B)9-a, 9-c など参照)。そのような負の感情は、私たち一人一人に備わっている肝心の自己治癒力や免疫力をも損ねてしまいかねません。世界中で感染者が1億人を超え、日本でも 2度目の緊急事態宣言が出されて3週間になる現在のコロナ禍のなかでは、私たちも、いわゆる「三蜜」を避け、逆効果にならぬようマスクも正しく着用して、手洗いを励行するなどの配慮は、もちろん必要でしょう。しかし、過度の不安や怖れでネガティブに畏縮してしまうことなく、心身の健康維持に気を配りながら、この難局をみんなで元気に乗り越えていきたいものだと思います。



  本年から、「霊訓原文」のスペースを利用して、「寸感・雑記」の項目を新しく加えることにしました。
     「寸感・短信」の続編ですが、「随想集」「身辺雑記」のスペースが既にいっぱいになっていますので、
     この項目に従来の「随想集」「身辺雑記」を含めて、「寸感・雑記」としました。





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    この世で生きていくということ
         ― 五木寛之 『大河の一滴』 を読んで考える ―    (2021.02.22)


 五木寛之『大河の一滴』(幻冬舎文庫)という本がある。1998年4月に刊行されて以来、ロングセラーとなって読み継がれてきたエッセイ集である。この本は、第1ページの1行目に、いきなり、「私はこれまで二度、自殺を考えたことがある」と書き出されていて、「最初は中学二年生のときで、二度目は作家としてはたらきはじめたあとのことだった」と続く。中学一年生の時に朝鮮の平壌で敗戦を迎え、38度線を越えて日本へ引き揚げるまでの凄惨な体験や、引き揚げ後の九州の田舎の生活では、履いていく靴がなくて下駄で通学し、雨の日は、裸足であったことなども、赤裸々に綴られている。

 五木さんは、昭和7年(1932年)生まれだから、今年で 89歳になる。私より 2歳若い。私も敗戦で無一文になった貧乏暮しは経験しているし、焼け跡の広がる大阪での苦しい飢餓状態も身に染みて体験している。田舎の親戚の家へ行って、白い米のご飯を半年ぶりに口にした時には、ゆっくりと噛んでいるうちに、ひとりでに涙がぽろぽろとこぼれ落ちたこともあった。五木さんは、後に、東京で大学生活を送るようになっても、「アルバイトの連続で、まともに学校へも行けなかった」と書いているが、私も同じである。新宿あたりの焼け跡整理の日雇い労働や、会社の臨時雇い、倉庫番、家庭教師などのアルバイトで明け暮れて、結局、最初の一年は大学も留年せざるを得なかった。私たちの年代の者は、満州事変から始まる日中戦争、太平洋戦争で、少年期を戦時色一色のなかで過ごし、敗戦後も戦争の惨禍の後遺症を長く引き摺って生きてきたといえる。

 しかし、その日本での生活も、1950年代に入ると、朝鮮戦争による特需以来の経済発展で、少しずつ庶民は貧困から抜け出していった。特に1954年(昭和29年)から1973年(昭和48年)までの約19年間は、「神武景気」や「岩戸景気」、「オリンピック景気」、「いざなぎ景気」、「列島改造ブーム」と呼ばれる好景気が立て続けに発生して、国民総生産(GNP)も、当時の西ドイツを抜き世界で第2位となった。それが、戦後初めてのマイナス成長を経験することになるのは、1973年10月の第四次中東戦争をきっかけに原油価格が上昇した「オイルショック」によってである。高度経済成長時代は終焉を迎えて、その後は、1991年 2月のバブル崩壊に至るまでの安定成長期へと移行する。そして、ついこの間まで、「失われた20年」といわれる低成長期が続いた。

 このような社会の変遷のなかで、日本では、長い間、戦争を経験することもなく平和であった。生活水準も上がり、人々は飽食し、住居にはモノが溢れて、若者も女性も車を乗り回すことも当たり前のようになった。しかし、だからといって、私たちは幸せになったといえるのであろうか。表面的には、衣食住に不自由はなく、人々が豊かな生活を享受しているようにみえることがあっても、それとは裏腹に、社会のあちらこちらで深刻な心の貧しさが、さまざまに影を落としているようにも思える。五木さんが、この本を書いたのはもう20年以上も前のことだが、その頃の日本でも、決して、明るい平穏な日々が続いていたわけではない。

 その当時は、阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、政財界の混乱、バブル崩壊からいまだに立ち直れない経済、さらに神戸では中学生による小学生殺害事件と、世紀末を象徴するような出来事が続発していた。モノ優先の社会のもろさを図らずも露呈した阪神・淡路大震災のあと、経済的繁栄に抱いていた不信感が一気に噴出して、人々は内面的な豊かさ、いわば、心に目を向けるようになったと思われた。ところが「心の時代」という言葉がひろがりはじめた矢先に、こんどはオウム真理教による地下鉄サリン事件に遭遇する。心というものにも、人びとは不安を覚えるようになった。モノも頼りにならない。しかし心も危ない。ではどうすればいいのか、と人々は迷い始めた時代でもあった。

 モノが豊かになっても、心は豊かにならない。むしろ、モノが豊かになればなるほど、心の闇も深くなっていくことさえある現実を、私たちは思い知らされてきたのではないか。20年前には、20年前の闇があり、現在には現在の闇がある。社会の一部に暗い蔭を宿している事態は、今も変わらない。

 今の日本も、世界では経済大国といわれる豊かな社会であるには違いないが、庶民の多くに至るまでその恩恵を受けて、幸せに生きているわけではない。2011年 3月の東日本大震災の後遺症もまだ残っている。政治の上では、安倍政権による「特定秘密保護法」や「国家安全保障法」の数を頼んでの強引な成立、「モリ・カケ・サクラ」で暴かれた権力乱用と120回以上に及ぶ首相による嘘の国会答弁、元法相夫妻の参院選での買収容疑などが続いた。その一方では、各地で頻出する幼児への虐待、相模原市の障害者施設における現職員による 19人の殺害、36人を死亡せしめた京都アニメーション放火事件、或いは、72歳の父親が 35歳の長男を殺すなどの、子供の障害や病気に悩む親による殺人・心中事件などの悲惨な事件が後を絶たない。

 経済大国と言われている今の日本にも、その社会の片隅には依然として眼を背けたくなるような悲惨な状況が潜んでいるのである。その闇の深さを示す一つの指標が日本国内の自殺者の数字であろう。五木さんも、この本のなかで、「自殺の流行は世界的風潮ですが、問題は貧困と戦乱の巷にあるような地域よりも、物質的繁栄を享受し、福祉がゆきとどき、経済大国として世界をリードしている日本のような国で、年間 2万 3千人以上の自殺者が出ているという事実です」と、その現象の特異さについて述べている。

 厚生労働省の統計によると、自殺者数は、1983年及び1986年に25,000人を超えたものの、1991年には 21,084人まで減少し、その後 2万人台前半で推移していた。しかし、1998年に32,863人となり、さらに 2003年には、最多の 34,427人となった。その後、2010年以降は減少を続けており、2015年には 24,025人で、急増前の 1997年以来の水準となった。それからも減少傾向が続いていたが、昨年、2020年には、おそらく、新型コロナウイルスの感染拡大による経済悪化の影響などもあって、また上昇し、20,919人となっている。死因では、これは第7位で、8位の肝臓病より多い。2020年度の交通事故死者数 2,839人に較べると 7.4倍にもなる。コロナウイルスの感染が国内で初めて確認されたのは、昨年の 1月16日であったが、それ以来、一年間の死亡者は、6,300人ほどである。その間の自殺者の数はそれよりも 3倍以上も多い。

 とりわけ重大なのは、日本では、若い世代の自殺者が際立って多いということである。15歳~39歳の各年代の死因の第1位は「自殺」であるという。その下の、10~14歳においても、1位の「がん」に続く 2位となっている。先日の新聞でも、2020年に自殺した小中高校生の数が、コロナの影響もあって、前年比で約 4割増しの 479人であることが大きく報じられていた。(「朝日」2021.02.16)

 厚生労働省によると、こうした状況は国際的に見ても深刻であり、15~34歳の若い世代で死因の第1位が自殺となっているのは先進国では日本だけであるらしい。同省の白書では、フランス・ドイツ・カナダ・米国・英国・イタリアの6か国のデータとの比較も掲載されているが、自殺の死亡率(人口10万人あたりの死亡者数)は、ドイツで 7.7、米国で 13.3、英国で 6.6などだが、日本は 17.8と格段に高い傾向にある。

 かつて、二度自殺を考えたことがあるという五木さんは、この著書で、日本の自殺者の数を、民間の戦争犠牲者の数と比較している。満州事変から、日中戦争、そして太平洋戦争へと続いた「十五年戦争」で亡くなった非戦闘員の数は、広島、長崎、沖縄戦、東京大空襲などによる死者などを含めて膨大な数になる。正確な人数は掴めていないが、ある統計では、672,000人となっているらしい。この数に対する自殺者の数を対比して、その深刻さを、彼はこう述べている。

 《機関銃の弾も飛んでこなければ空襲もないいまの日本で、年間 2万3千人以上も死者が出て、年間 10万人もの人が自殺を試みている。死者だけでも 30年たてば 70万人以上になる可能性がある。さらに死にたいと思いながらも、死への恐怖や苦痛に対する恐れ、残された者たちへの配慮などから自殺に踏み切れない人たちが、自殺する人たちの 10倍はいるといわれていますから、その裾野の広さは驚くべきものでしょう。これは見えない戦争というしかありません。》(前掲書、p.295)

 世のなかには、心が温まるような明るい話題も決して少なくはないから、このように、自殺などの暗い面ばかりを見てはいけないであろう。しかし、世間の常として、私たちの身のまわりには、気が滅入るような様々な出来事も否応なく耳目に入ってくる。前にも触れたが、戦前の悪名高い「総動員秘密保護法」を連想させる「特定秘密保護法」や戦後の平和を支えてきた憲法9条の法体系を抜本的に変質させてしまう「国家安全保障法」などの強引な成立、さらには、貧富の格差をますます広げているような経済のあり方への疑問や不信などから、環境破壊や自然災害の増加などに至るまで、日本の平和と安全のためには、決して安易に見過ごしてはならない世の中の流れや風潮もある。

 私には、子どもの頃のひとつの記憶がある。1941年12月8日に太平洋戦争が始まった時、私はまだ小学校 5年生であった。初めのうちはハワイの真珠湾軍港を奇襲して戦果を挙げたりしたが、早くも、翌年の 6月のミッドウェー海戦では、日本海軍は、投入した空母 4隻とその搭載機約 290機の全てを喪失するという大敗北を喫した。しかし東京の大本営は、それをひたすらに隠して、その後も、ありもしない「赫赫たる戦果」を発表し続けた。日本軍が撃沈、撃墜したはずの米空母や艦船、航空機の数字を、新聞に発表されたのを足していくと途方もない数になって、それらが嘘であることは子ども心にも感じられたし、一方では、米空軍による日本本土空襲が現実になってきていた。このままでは国が滅んでしまうのに、なぜ大人たちは黙っているのだろうと不思議に思ったことを覚えている。

 それから 70数年を経て、いまの私は、その「大人」になって久しい。その間に、軍国主義は民主主義になり、世の中は大きく変わったが、私たちは、戦前戦中とは異なる、また別の、さまざまな社会の不条理や退廃に晒されるようにもなった。このまま進んでいけば将来はどうなっていくのだろうと、次世代へのいささかの危惧を感じさせられることもしばしばである。

 例えば、日本の食糧自給率ひとつをとってみても、カナダの 264パーセント、アメリカの 130パーセント、フランスの 127パーセントなどに対して、先進国では最低の 38パーセントでしかない。自分で作るよりは外国から買う方が得だというわけで、ついこの間までは、農政は米作農家に減反を強いてきたりした。その一方で、世界では 9人に 1人が飢餓に苦しみ、5秒毎に 1人の子どもが餓死しているというのに、日本では、「大食い競争」なるものが横行し、まだ食べられるのに捨てられてしまう「食品ロス」が、年間で 612万トンにも上っている。(農林水産省2017年推計。これだけあれば、1億人に茶碗一杯ずつの食料を供与できるという。) これらも、醜悪な、目に余る現実である。敗戦後の食料不足で、日本人の1,000万人が餓死するといわれていた時に、米占領軍の配慮による小麦粉や雑穀の緊急輸入で辛うじて生き延びてきたことなどは、もうすっかり忘れ去られてしまったようにみえる。

 小さいことかもしれないが、むかし、社会評論家の大宅壮一が、テレビの普及で、「一億総白痴化する」と言ったことがある。「一億総白痴化」は、一時、流行語になった。いまは何といえばよいのであろう。ことばや風俗の乱れ、倫理観の衰頽は覆うべくもない。民放の一部にみられる騒々しいだけのドタバタ劇などは論外であるとしても、近頃はNHKにも、悪影響が懸念される見苦しい番組が現われるようになった。純粋無垢であるはずの 5歳の女の子の人形が、大人に向かって平気で名前を呼び捨てにし、「ボーと生きてんじゃねーよ!」と汚い罵声を浴びせている。そして、そんな醜悪な人形に、見識のない大人たちが、「5歳なのに・・・さすが・・・」などと、わざとらしい、歯がうくようなお世辞で応えたりする。(ついでながら、わざわざ "Don't sleep through life" という訳語が付け加えられているが、これではこのことばの汚く下品なののしりの口調は伝わらない。ほとんど誤訳に近い。) 視聴料を徴収している公共放送が、こんな愚劣な番組を日本中に流してもいいのかと、嫌悪感を禁じ得ないのである。このような頽廃的な状況が重なってくると、それならば、国民の一人として、なぜ声をあげようとしないのか、という自責の念に駆られることもないわけではない。この本の著者も、そんな感じが抑えられないようである。しかし彼は、こう書いている。

 《いま自分が生きている時代をどう見るかは、その人その人の立場による。現在の政治や、経済や、医療や、教育のことを考えると、私にはひどいことになっているなあ、と、もはやため息すら出ない感じがする。いちいち例をあげるまでもない。筆にするだけでも気が滅入ってきそうだ。
 しかし、そのことについて、私はこれまで大声で嘆いたり、激しい批判の文章を書いたことがほとんどない。せいぜいがぶつぶつ独り言のようにつぶやき、皮肉っぽい言葉を吐くくらいのものだった。たぶん、自分もその濁世の汚水のなかを泳いでいる一匹の雑魚ではないか、といううしろめたさが心の隅にわだかまっているからかもしれない。》 (同書、pp.51-52)

 考えてみると、世の中が「ひどいことになっている」のは、20年前やいまの社会だけではない。いつの世でも、何処でも、それはみられた。仏教では、この世を「五濁悪世」と観じ、かつては親鸞も、『歎異抄』の中で「地獄は一定すみかぞかし」といった。この世の栄枯盛衰では、『平家物語』の冒頭の句「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」などが思い出される。人生の儚さでは、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」で始まる『方丈記』の、「よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし」ということばも、頭を掠める。世の中で生きていくということは、いずれにせよ、このような諸行無常のなかでの苦しみや悩みに身を晒すことである、といえるのかもしれない。五木さんは、それを、この本のなかで、つぎのように書いた。

 《人間の一生とは本来、苦しみの連続なのではあるまいか。憲法が基本的な国民の人権を保障してくれたとしても、それは個人の心の悩みや、「生老病死」の問題まで面倒をみてくれるわけではないだろう。
 人は生きていくなかで耐えがたい苦しみや、思いがけない不幸に見舞われることがしばしばあるものだ。それは避けようがない。憲法で幸福に暮らす権利と健康な生活をうたっているのに、なぜ? と腹を立てたところで仕方がない。まず、人生というものはおおむね苦しみの連続である、と、はっきりと覚悟すべきなのだ。》 (同書、p.18)

 五木さんは、悩み苦しむ人たちの気持ちに寄り添い、仏教や浄土思想などについても多くの優れた著作を世に出してきた。この本でも、自分が子どもの頃から苦労してきた体験を基にして、この世で生きていく心構えのようなものを懸命に読者に伝えようとしている。その誠意と善意は疑うべくもなく、敬意を表することにもやぶさかではないが、ただ、このような彼の文に接していると、この世では、夢も希望もなく、苦しみや悲しみが付き纏うだけのようにも思えて、ちょっと寂しい。「人生というものはおおむね苦しみの連続であると、はっきりと覚悟すべき」というのは、わからぬでもない。しかし、それだけでは私たちは救われないのである。未来に向かっての、もっとポジティブな展望は持てないものであろうか。

 ただ、そうはいっても、私自身がかつてそうであったように、一般の多くの人々の思考は、ここで行き詰まりになって、おそらくそれ以上は進まない。世の中はそういうものだと、諦めるしかないのであろう。あとは「神頼み」で、人々の無力感の前にはどうしようもない大きな壁が立ちはだかるだけである。その状況は、五木さんの場合も、この本で示されている限りでは、例外ではない。どうしたら、その壁を乗り越えられるか――。 ここで必要になってくるのが、霊的視野でのアプローチである。

 そもそも、私たちは何のためにこの世に生まれてきたのか。苦しむだけで、その先の展望が少しも開けないとするならば、生まれてくるそのこと自体が不幸そのものになってしまう。人はそんな生まれ方をするものであろうか。世間の常識では、この疑問に答えられない。さまざまな宗教で述べられている教説でも、納得できる答えを見つけ出すのは容易ではないであろう。おそらくそれは、私たちが自分の本質を見失っているからである。人は、本来、霊を伴った肉体ではなく、肉体を伴った霊である。だから、霊としての霊的視野で捉えるのでなければ、この世での生活の真実の姿も見えてこないのである。

 ここで、決定的に重要なのは、私たちはこの世だけを生きているのではない、という事実の認識であろう。私たちは、これまでも数多くの生と死を繰り返してきたし、これからも、何度も何度も、生まれ変わっては、新しい人生を生きていく。そのようないのちの在り方の真実を、私たちは、シルバー・バーチから、或いは、他の霊界の多くの指導霊たちから学んできた。厳然として存在する宇宙の摂理についても、何度も教えられてきた。そして、生とは何か、死んでから何処へ行くのかという究極の問題も、私たちなりに理解できるようになっている。私の場合はそれを、近著の『生と死の真実を求めて』(「参考資料」No.60)でも触れてきた。私個人の、極限の悲しみであった妻と子との死別も、霊界の大いなる力の導きであったことを知って、初めて無明の闇から脱け出すことができたことも、そのなかで述べた。

 私はこの小著を、一昨年の10月、自分の人生の締めくくりとして書いたのだが、その後、新型コロナ・ウイルスの感染拡大が起きて、私たちは「百年に一度」といわれる新たな「苦しみ」に直面するようになった。一年を経た現在も、気が滅入るようなニュースが巷に溢れ、東京、大阪、神奈川などを含む10都府県では、2度目の「緊急事態宣言」が、まだ解除されていない。しかし、おそらくこの状況も、「苦しみの連続」として捉えてはいけないのであろう。ネガティブな受け止め方をすれば、それだけで気力が削がれて、私たちが体内に持っている折角の免疫力も低下してしまう。

 この世の「苦しみ」とは、いわば、実態のない仮象である。その本質は、それぞれに克服していかねばならない一つの体験であり、霊的視野で捉えていけば、克服することによって未来への展望が拓けて、つぎの世の人生設計のための確かな礎石になる。私はいま、五木さんのいう「苦しみの連続」の「仮象」にそのまま引きずり込まれないためにも、改めて、つぎのような、シルバー・バーチの教えの一端を思い起こしている。

 先ず第一に、私たちは、自分で、親を選び、育っていく環境をも選んで、この世に生まれてきた。苦しむだけの人生であれば、私たちには自由意思が与えられているから、自分の理性で判断して、この時代のこの場所に生まれてくることは選択しなかったはずである。

 第二に、悩みや、苦しみにはそれぞれに意味がある。この世で体験するそれらは、すべて自分の霊的成長のための貴重な教材として、生まれる前に、自分が選んできたものである。だから、乗り越えられない悩みや苦しみはない。乗り越えられないものを自分で選ぶことはないからである。

 第三に、宇宙の摂理は完璧で、一人ひとりの人生に不公平は絶対にない。この世では、輪廻転生の永遠の生命の一こまを生きているが、そこでの体験で仮に「不公平」と思われることがあったとしても、それも、実は、霊的成長のために必要な教材の一つであるにすぎない。必要な教材としての体験だから、本当は、自分にとっては望ましく、いい体験なのである。つぎの人生では、その体験を活かして、また別の、必要な「いい体験」をすることになるであろう。

 自分の霊性の発達にとって、どういう体験が大切であるかの判断は、この世の私たちには出来ないのだと、シルバー・バーチはいう(「学びの栞」(A)18-zzj)。この世への誕生の際には、肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に閉じ込められてしまうからである。(『霊訓 ⑴』p.38) 短い一瞬のこの世での体験は、永遠の全体像のなかではごく限られた一部でしかなく、「瞬間」からは「永遠」の実像は見通しえない。だから、この世での私たちの判断は歪み、しばしば、「楽しみや希望」を「苦しみや絶望」として捉えてしまう。本来、「平穏と喜び」であるものも、「波乱と悲しみ」に変形してしまうのであろう。霊的存在である真実の私たちの姿は、もともと、苦しみや悲しみとは無縁である。永遠の生命のなかで、一人の例外もなく、速い、遅い、の違いはあるかもしれないが、光を目指して歩んでいる神の子だからである。

 最後にもう一度、このコロナ禍の重圧のなかで本稿を読んでくださっている皆さんと共に確認しておきたい。私たちのこの世での生活は、決して、単なる「苦しみの連続」なのではない。激しさを増す競争社会のなかで、自分だけが一方的に、不公平、不利益を負わされているわけでもない。だから、他人を羨む何の理由もない。いま私たちがこうしてこの世に生きているのは、自分にふさわしい様々な喜怒哀楽の体験と学びを通して、自分自身の着実な霊的進歩を目指していくためである。そして、それはまた、私たちのつぎの生への、明るい、幸せの展望に繋がっていく希望の歩みの一こまであることを、改めて肝に銘じておきたいと思うのである。




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     ある日の新聞の記事から            (2021.03.25)


 先週の3月17日の朝日新聞の記事のなかから、目に留まった三つの文章のそれぞれの一部を抜き出してみたいと思います。

 まず今夏のオリンピック開催についてです。
 現在、コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言が、1都3県でやっと3月21日に解除されましたが、感染対策専門家の間では、まだ感染リバウンドの可能性については楽観できないでいるようです。オリンピックについても、海外客の入国は認めないことにして、聖火リレーも今日スタートの予定ですが、国内の観客だけで入場制限をして実施されることになるのでしょうか。
 このようなコロナ禍の状況のなかで、朝日新聞編集委員の駒野剛氏は、「終える至難に立ち向かうとき」と題して、つぎのように、開催を諦めることを説いています。(「多事奏論」欄)

 《いま、菅義偉首相の最大の使命はコロナ禍を終わらせることである。ワクチン接種を遅滞なく実施し、大規模な検査で感染者を見つけてハンデミックを封じ込め、経済が回らなくて苦境に立つ企業や家庭に救済の手をさしのべる。それだけで、内閣がいくつあっても足りない大仕事だ。
 菅首相は東京五輪をコロナ禍を克服した証しとして実現する、と予定通りの開催にこだわり続けている。終息を楽観し過ぎていないか。
 そんな有り様を「あぶはち取らず」という。感染力が強い変異ウイルスが広がる一方、海外から多くの選手団が日本に訪れ、国内の移動が活発になればウイルスは勢いを増すだろう。選手には気の毒だが、現下の情勢では、少なくとも今夏は五輪はできないと諦める時だ、と私は考える。
 多くの国民が求めるのは「日本の政治が機能している証しとしてのコロナ禍根絶」のはずだ。
 首相は終える至難に立ち向かうべきだ。》


 つぎは、「歴史街道」という欄で、専門誌の編集長のことばをまとめた「過去から学ぶ人生論」③ として、PHP研究所の大山耕介氏が、今年の一月に急逝された半藤一利さんのことを書いた一文です。半藤さんは1930年生まれで私と同年です。彼の『昭和史』は、同世代の一人として、身につまされるような思いで熟読した記憶があります。奥さんの末利子さんが、夏目漱石のお孫さんで、彼女のお姉さんにあたるマックレィン陽子さんとは、私は1950年代にオレゴン大学に留学していた頃から親しくしていました。(「寸感・短信」No.9に「マックレィン陽子さんの訃報に接して」 =2011.11.06= という小文を載せています。)
 PHPの大山耕介氏は、「これまで数多くの作家や研究者の方々に寄稿して頂きました。なかでも忘れられないお一人が、1月に急逝された『歴史探偵』半藤一利さんです」と述べたあと、こう続けています。

 《半藤さんにとっての最後の連載原稿は、弊誌に寄せて頂きました。昨年8月号から12月号までの連載で、タイトルは「『名言』で読み解く太平洋戦争」。
 「アジアは一つ」「武士道というは死ぬ事と見付けたり」「バスに乗り遅れるな」……。良くも悪くも戦時中の日本で流布したスローガンや軍人らの言葉を半藤さんが選び、その背景を解説しています。この連載企画は、ご自身の申し出によるものでした。
 半藤さんがある日、「あの戦争のことを自分の孫の世代に分かりやすく伝えたい。これが自分の最後の仕事」と言われ、手書きの原稿をご本人の実の孫に託されました。その孫は、弊社(PHP研究所)で編集の仕事に携わっています。この連載は5月、「戦争というもの」というタイトルで出版予定です。》


 三つ目の記事は、「声」欄の特集「失って得たもの」に載った読者の投稿の一部です。北海道在住で、いまは77歳になられている主婦の奥寺幸子さんが、「最高の笑顔を残し旅立った父」というタイトルで、彼女がまだ若かったころの日々を振り返り、「父はがんによる気管切開手術の後、頻繁にたんの吸引が必要になった。私は遠方から父のもとへ駆けつけ、母と交代で夜間も付き添った」と書き出しています。父君は、彼女に見守られながら、その一か月後、1989年6月に亡くなられたのだそうですが、その時のことを彼女はつぎのように書いています。

 《死後処置が終わり「お父さん、家に帰ろうね」と面布を外した。父は何と満面の笑みであった。ただただ驚き、両の手でまだ温かい父の頻に触れた。うれしくて私も笑った。
 苦痛から解放されたからなのか、人生を全うした満足からなのか、はたまた「良い人生を送りなさい」というエールなのか。枕経を上げてくれたお坊様や納棺師さんもこのような笑顔は初めて見るとおっしゃる。
 23歳で結婚し親元を遠く離れた私に与えられた父と娘の時間。最高の笑顔を残しての旅立ちは大切な宝物だ。私も人生の最終章に向け、父から学んだ潔さを胸に歩み続けたい。》




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   ある日の新聞の記事から (続)            (2021.04.05)


 前項に引き続き、まず、「朝日新聞」(2021.03.26)の「声」欄の投稿を取り上げます。福島県の岡本恒夫氏(75歳)が、「国民が自粛に協力するためには」と題して、コロナウイルスの感染拡大防止に国民が進んで協力しようとしない一つの要因について触れていました。「テレビでは外出する人の数が各所で増え気昧なこと、居酒屋などが閉店になっても路上で酒を飲む若者たちの姿を映している」 と述べたあと、こう続けています。

 《菅義偉首相が自粛を呼びかけても、協力する国民が減っているようだ。しかしここ数年の国のリーダーの行動、発言を見るとやむなしの感もある。森友・加計学園を巡る一連の対応や桜を見る会の疑惑に関して当時の安倍晋三首相が国会で100回以上うその答弁をしたことなどだ。
 さらに現在問題となっている総務省幹部への度重なる接待問題などへの、菅氏の官房長官として、また首相としての対応だ。それらはすべて、国民の真相を知りたいという望みに対し、隠蔽することはあっても、協力することはなかったと言える。それなのに自粛に協力するように言われても、戸惑うのではないか。
 今は外出を控えるのが正しいとは理解していても、国のリーダーが不祥事を隠蔽し続けるような正しくない姿勢を見せている限り、国民が素直に従うのは難しいのではないか。》

 この投稿が載ってからも、感染拡大は止まっていません。自粛疲れの反動とか、感染対策の緩みを指摘する医療専門家の意見なども紙面に見られますが、そんななかで、厚労省の官吏たち23人が3月24日の深夜まで銀座の飲食店で会食していた事実が大きく報道されました(「朝日」2021.03.31)。感染対策の徹底を呼びかけている役所の職員による行動に批判の声が高く、翌朝の「朝日」でも、さらに、「厚労省の大会食 誰も止めず」というタイトルで、これも大きく報じらていました。発覚後、省内では 2~3人が受話器にかかりきりになるほど、抗議の電話が鳴り続けている、ということです。これでは、やはり、政府からの自粛要請にも 「国民が素直に従うのは難しい」 といえそうです。


 つぎは、日本語の誤用についてです。同紙の「天声人語」(2021.03.25)が、あってはいけない言い間違いの例として、このような某社の例を挙げています。

 《某社で社員を集めた決起集会があり、営業本部長が演説した。不況だが力を合わせようと声を張り上げ 「みんな、一糸まとわぬ団結心で頑張ろう」。その後に登壇した社長がまたやった。諸君、もう後戻りはできないぞと言いつつ「すでに匙は投げられたのだ」。会社は大丈夫かとみな思ったに違いない。》

 これは、もちろん、「一糸乱れぬ」と「賽は投げられた」の言い間違いですが、このような言い間違いも、時と場合によっては、「日本語を知らない」だけではすまされない社会的に深刻な意味を孕んでいることがあります。この「天声人語」は、このあと、こう続けられています。

 《おとといの話であきれたのは、自民党の二階俊博幹事長の「他山の石」発言である。衆院議員河井克行被告が裁判で買収行為を問われたことについて、「党としても、こうしたことを他山の石として対応しなくてはならない」と言った。買収の舞台となった一昨年の参院選で、2人目の公認候補に河井案里氏を擁立したのは自民党本部。その案里氏側に計1億5千万円を提供したのも党本部である。党の後ろ盾なかりせば、あれだけの買収ができたのかどうか。恥ずべきは「自分の山」そのものだろう。(中略)
 そんな幹事長が長く権勢を保てるのは、一糸乱れぬ団結が自民党にあるからか。見ているこちらが匙を投げたくなる。》


 コロナウイルスの感染拡大で、気の滅入るような記事が多いなかで、こころ温まるつぎのような投稿もありました。「朝日新聞」(2021.03.25)の「声」欄の「四国遍路旅 犬に導かれ次の寺へ」です。福岡県の石田芳紀氏(79歳)が、約6年前に、夫婦で四国88か所の遍路旅を連続して歩かず、2年かけて達成した時の思い出話として、6キロの距離を犬に導かれた経験をこう綴っています。

 《徳島県のある民家の庭で、日向ぼっこをしていたおばあさんに道を聞いた。「23番札所には、そこにいる犬が道案内しますよ」と言う。冗談だろうと思っていると、寝そべっていた犬がむっくりと起き上がり前を歩き始めた。どんどん進み、坂道では頂上付近で我々がついてきているか確認するように待ち、交差点や三差路、交通量の多い所などをひたすら先導した。無事次のお寺に到着した。お寺にいた人からご褒美のえさをもらっていた。地図で見たら約6キロ道案内してくれていた。その人によると、巡礼者を案内し、タ方になると家に帰り、翌朝巡礼者を待っているという。遍路中は様々な「お接待」を受けたが、犬にお接待されたのは初めてだ。これだから旅は楽しい。やめられない。》




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 花の下にて春死なん             (2021.04.22)


 南北に長く、起伏に富んだ日本列島では、桜の開花の時期も一様ではないが、東京では、コロナ禍のなかでも、今年も 3月中旬から、桜は一斉に花開いて私たちを和ませてくれた。気持ちが滅入るようなニュースばかりが伝わってくる中で、青空を背景に美しく咲き誇る花の映像は心の癒しになったが、いつの間にか、そのような桜の季節も過ぎて行った。桜前線は北上して、いまは青森県弘前市で弘前公園の2,600本の ソメイヨシノが満開のようだが、わが家の近くでは、枝垂れ桜の大きな古木も、花びらはみんな消えて、豊かな緑の若葉に姿を変えている。

 桜の花は可憐で優しく、そして、はかない。毎年、その桜が満開の頃になると、きまって思い出していた歌がある。西行法師(1118~1190)のつぎの歌である。

    願わくは 花の下にて 春死なん
     その如月の望月のころ
 

 西行は、平安末期から保元・平治の乱を経て鎌倉幕府成立へと移り変わる激動の時代を生きた武士であり、僧侶、歌人でもあった。平氏棟梁の平清盛と同年の生まれである。如月(きさらぎ)とは 2月のことで、望月(もちづき)とは満月を意味する。これは、むかし使われていた陰暦では2月15日で、この2月15日はお釈迦様の亡くなった日でもあった。今の暦では3月の後半にあたる。西行が死んだのは、2月15日を一日すぎた2月16日であったといわれているから、彼は、この歌のように、いまの暦では3月の下旬、「花の下にて春死なん」の願望どおりに73歳の生涯を終えたことになる。

 西行の死は、一日違いとはいえ自らの願望の通りで見事であったが、しかし、「願わくは」と詠っているのだから、このような死ぬ日のことを予知していたとは考えにくい。これに対して、真言密教を確立した空海(774~835)の場合は、よく知られているように、正確に自分の死の日時を予告していた。

 空海は、亡くなる5日前に残した『御遺告』によれば、弟子たちに、「私が入滅しようと定めたのは、今年の3月21日の午前4時である。悲しんではいけない」と告げ、このことばの通り、835年(承和2年)3月21日の午前4時に、右脇を下にして亡くなったと伝えられている。享年62歳であった。空海の死は「入定」といい、現在も生きていて多くの人を助けているという信仰がある。

 空海は卓越した霊能力者であったから、自分の死期をも正確に予言できたのであろう。そして、近代では、同じように巨大な霊能力者であったエマニュエル・スウェデンボルグが、自分の死ぬ日を予言し、そして、予言通り、その日に死んでいる。

 スヴェデンボルグ(Emanuel Swedenborg、1688年1月29日~1772年3月29日)は、スウェーデン出身の貴族で、人類史上最高の霊能者といわれていただけではなく、物理、天文、生理、経済、哲学などの学問分野でも、18世紀最大の学者としての名声があった。彼の霊的体験に基づく大量の著述の多くは、いまも、ロンドンの大英博物館に保管されているという。その彼が書いた『スウェデンボルグの霊界著述』は、「私は20余年間にわたり肉体をこの世に置いたまま、霊となって人間死後の世界、霊の世界に出入りしてきた。いま、私は世を去るに当たり、これらの全てをありのままに記し世の人々に伝えよう・・・・」と、世間では理解できないような異様なことばで書き始められている。

 この『スウェデンボルグの霊界著述』は、抄訳されて、日本では、『私は霊界を見てきた』(今村光一訳、叢文社、1983年)として出版されている。その抄訳によると、冒頭のことばに続けて、スウェデンボルグは、こう述べている。

 《私がこれから記すのは、私自身が人間死後の世界、霊の世界で、この身をもって見聞きし、体験してきたことの全てである。
 私のような人類に稀な体験は、多くの人々が信じようとしないだろう。だが、私は今は、このことを深く詮議はすまい。なぜなら人々がこの手記を読まれれば、ここに記されたことの全てが真実であることを信ぜざるを得なくなることを私は絶対の確信をもって信じているからだ。そして人々は、さらに霊が永遠の存在であり、われわれのこの世の自然界とは別に霊界というもう一つの世界の存在することも知るに至るであろう。》 (p.6)

 そして、スウェデンボルグは、この本の最期に、「私自身の死の予告」として、「私は来年(1772年)3月29日に、この世を捨て霊界の霊になることが前々から決まっているので、このこともお知らせしておくことにする」と明記していた。スウェデンボルグは、この予告どおり、1772年3月29日に他界した。

 私たちは、一人ひとりが自分の死期を定めてこの世に生まれてくるといわれているが、誕生の際には、その死期についての意識も、鈍重な肉体の壁の奥深くに閉じ込められて知覚されることはない。ごく稀に、その壁を通り抜ける霊能力を持つ空海やスウェデンボルグのような超人だけが、潜在意識の奥に潜む生命の実相に迫ることが出来るのであろう。しかし、もし、人は誰でも自分の死期を認識できるのであれば、それは決して望ましいことではないかもしれない。かえって、困惑と恐怖を招き寄せるだけになることもあるだろう。冒頭の、西行の歌なども、人々はいわば「三人称の死」についての「願望」として捉えているから、他人の目の余裕をもって、その響きの美しさに共感できるのだと、いえなくもない。

 ところで、私は、一昨日の4月20日で、91歳になった。89歳の時に、自分の人生の締め括りのつもりで『生と死の真実を求めて』と題する小著を書いたが、私はまだ生き続けている。昨年4月の90歳の誕生日の頃は、生憎、コロナウイルスの感染拡大が始まったばかりで、その日の「寸感・短信」(No.194) では、内村鑑三のことばを引用しながらも、「心嬉しく逝かんのみ」などと言ってはおられないような心境である、と私は書いた。しかし、そのコロナウイルスの感染は、なお第4波の拡大を続けていて、いまも収束する気配はない。世間の長寿願望に引きずられているわけではないが、死ぬ時期としては、今なお、まことに望ましくない状況だといえそうである。

 内村鑑三は、「永き眠りに就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば・・・・」と述べていた。私も、妻と子の死を契機として、生と死や霊界のことなどをいろいろ教えられ、自分なりに学びを深めてきて、この世で生を終えても、「無知の異郷」に行くのではないことを知っている。これは私にとっては今生の大きな進歩で、大変有難いことと思っている。いまの私は、この世の地位や名誉、特に世俗的な財産などには何の魅力も感じなくなっているが、この霊的真理の一端を知り得たことだけは、何にも代えがたい貴重な「財産」になった。ただ、死ぬ時期を自分で認識する霊能力はないから、それは神様にお任せして、あとはこころ穏やかに、読書に親しみながら残された課題に取り組んでいるだけである。

 私は1930年に、まだ世界大恐慌の余波が日本でも色濃く残る中、大阪で生を受けたが、今度は東京の片隅で、自分の人生の最終段階でも、このようなコロナウイルスのパンデミックの惨禍を体験することになろうとは、全くの想定外であった。これまでに世界中での感染者は1億4073万人を超え、死亡者も 301万人以上に達している。しかも最近では、ウイルスの変異株で感染者も急増して1日70万人を超えているともいう。日本でも、感染者は少ない方とはいえ、総数で53万人を超え、死者も1万人に近づこうとしている。(「朝日」2021.04.19) 感染拡大が始まってから、すでに1年以上になり、現在は、世界中でワクチンの接種も進んでいるから、このコロナ禍もやがては収束に向かうと思われるが、それまでにあと何か月かかるのであろうか。

 遅ればせながら、日本もワクチン接種を始めているし、遅くとも、来年の春、また桜が美しく花開く頃には、コロナ禍も完全に過ぎ去っていてほしいものである。「三蜜」だとか「外出の自粛」などの束縛からも解放されて、人々が安心して花見を楽しめるようになっていることを期待したい。そして、できれば、それを自分の目でも確かめておきたい気もするが、しかし、91歳にもなって余喘を保っている身では、そのような期待を抱くことも分不相応なのかもしれない。そう思いながらも、いまは微かに、「願わくは 花の下にて 春死なん」という西行の歌の調べが、私の脳裏をかすめたりしている。




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     コロナ禍のなかで生きる             (2021.09.30)


 人類は、紀元前3,500年に、いまのイラクなどにあたるメソポタミアで数万人単位の人間が暮らす都市が成立して以来、いつの時代も、感染症を体験してきた。都市の存在には、常に、感染症が付き纏ってきたといってよい。古代エジプトのミイラにも、天然痘や結核など、感染症の痕跡が残されているし、1347年から51年にかけてのヨーロッパ、中東を中心とするペストは、ヨーロッパだけでも死亡者が2,500万人を超え、1918年のスペイン風邪では、世界で4,000万人以上が死亡するなど、さまざまな感染症の過酷な記録も残されている。

 近年では、2002年~2003年にアジアやカナダを中心に感染拡大した重症急性呼吸器症候群(SARS)や、2012年にアラビア半島の国々からヨーロッパ地域などにも拡大した中東呼吸器症候群(MERS)などの感染症が発生した。そして、それらが、今回の、2019年からの新型コロナウイルスのパンデミックに続いているのである。世界の感染者数は、米 ジョンズ・ホプキンス大学の発表で、9月28日時点では、2億3,233万5,077人、死者は 475万6,430人となっているが、まだ感染拡大は収まる気配がない。最大の感染国アメリカでは、感染者4,311万6,442人、死者は、69万0,426人にも達している。日本でも、NHKの調べで、9月28日現在、感染者が169万8,343人、死亡は、1万7,577人となっている。私たちはいま、まさに「百年に一度」といわれる災禍の真っ只中に置かれているのである。

 もう一年半以上も続いてきたコロナの感染は、日本では第5波が少し収まりかけて、第4回の緊急宣言が今月末でやっと終わろうとしている。しかし、第6波への感染拡大の懸念は根強く、このまま、コロナ禍が収束する気配はない。依然として、外出の自粛や「三蜜」を避けるための社会的イベントの規制等も行われ、長期にわたるコロナ禍は、旅行・宿泊業者や飲食業界などにも深刻な影響を与え続けている。そのために、数多くの庶民にも、失業、休業、減給などで、生活苦が重くのしかかってきた。新聞、テレビなどでも、気の滅入るようなニュースばかりが多く、人々は家に閉じこもり、委縮して、ただひたすらに重圧に耐えているようにみえる。

 私は、今年の4月で91歳になったが、自分の人生の最晩年で、このようなコロナ禍を経験するようになるとは予想もつかなかった。思いがけずに随分長生きしてしまったが、おそらく90歳くらいがこの世を去る潮時だろうという考えもあって、89歳の時に遺稿のつもりで、「生と死の真実を求めて」という一文を書いておいたのだが、その後、新型コロナのパンデミックに直面することになって、死ぬに死ねないような気持ちで今日に至っている。この世は、霊性向上のための「魂の学校」といわれるが、私はいろいろと、学ぶというより学ばされてきて、やっと「卒業」を迎えようとする矢先に、「こういうことも学んでおくように」と、留年を宣告されたような気持ちである。

 私たち昭和一桁生まれの人間は、日中戦争や太平洋戦争のなかでの窮乏生活を体験し、敗戦後の飢餓状況に苦しみ、その後は貧困に喘ぎながら、復興への道のりを歩み続けてきた。その後の人生も決してバラ色であったわけではない。私個人としても、有為転変の世の中で、いろいろな悲しみや嘆きがあった。なかでも、1983年9月1日の大韓機事件で妻と子を失ったことは、生きていくことが苦しいほどの大きな衝撃であった。そして、最晩年のいま、私はこの新型コロナ・ウイルスのパンデミックを身をもって体験しながら、91歳にもなって、残り少ない余命を生きている。シルバー・バーチも言っているように、自分に起こっていることは決して偶然ではなく、すべて必然で意味があるはずであるが、このような私の生涯の、その意味とは何であろうかと、考えさせられることもしばしばである。

 もし今の私が、かつてそうであったように、死後の生については何もわからず、人は死ねば終わりで灰になるだけだと思っているのであれば、私の一生は、多分、人一倍不幸な人生であったということになるかもしれない。現実には、私の後半生は、生きる希望をも失い、悲嘆と絶望の深い淵に沈みこんでいただけであったから、その苦しみに耐えて、いままで生き続けてこれたかどうかも疑わしい。しかし、無明の闇の中の長年の彷徨を経て、いまは、大変有難いことに、シルバー・バーチなどの高位霊の教えに接して、霊的真理に目覚めている。霊界の妻と子の「生存」も確認して、長年の間「文通」してきたし、いままで味わってきた苦難の意味も私なりに理解できるようになった。そして、近い将来、私が霊界へ赴く時がくれば、霊界の懐かしい家族たちとも再会が待っていることもよく知っている。結局、この世での私の生涯は、決して、不幸であったということにはならないであろう。

 仏教の「般若心経」は、「観自在菩薩が、深般若波羅密を行じたまいし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり」というようなことばで始まっている。ただ、このような仏典を何度読んでも、私たち凡人は、観自在菩薩(観音さま)のように、すべては空であると達観して一切の苦を乗り越えた、というわけにはいかない。煩悩にまみれた私たちには、それは、はるか彼方の手の届かない境地である。しかし、そのような私たちでも、「生命は永遠であり、人は死なない」という単純明快な霊的真理によっては、少なくとも、「五濁悪世」といわれるこの世での苦の意味は、ポジティブに捉え直すことが出来るような気がする。仏教によっても救われることがなかった私にとっては、このスピリチュアリズムの霊的真理こそが、「無上甚深微妙の法」であった。

 私たちは、何度もこの世に生まれては死んでいくが、死んだらそれですべてが終わるのではない。人は生き続けて、生命は永遠である。不完全から完全を目指して、生まれては死に、死んではまた生まれて、魂の向上を目指していく。私の場合は、後半生で、たまたま優れた霊能者たちの助力によって、過去数千年の間の数十回に及ぶ輪廻転生の姿も示されてきたので、この「永遠の生命」は、自然に受け入れることが出来た(私の『天国からの手紙』には、編集者が作成してくれた「現家族の過去生における関係性」という付表に、私自身の多様な過去生の具体例が示されている)。永遠の尺度では、この世で90年を生きても、100年を超えても、それはほんの瞬間であるに過ぎないが、私は、しばしば、その永遠のなかで、何度も何度も、その具体例に示されているような「瞬間」を繰り返しながら、様々な人生体験を積み重ねてきた。

 今生では、私の長男は、「世界史の転換点」ともいわれた国際事件に母親と共に巻きこまれて21歳でこの世を終えた。私は当時、この21歳という若さにこだわって深く悲しんだが、永遠の尺度では、この21歳も、現在の私の91歳も、その差は限りなくゼロに等しく、一瞬であることには変わりはない。それに、無数の生まれ変わりの中では、誰でも、幼年期や青少年期の死を一再ならず経験してきているはずでもある。大切なのは、その一瞬の人生で、様々な体験を経て、どれだけ霊的な成長を遂げたかということであろう。若くして霊界へ旅立つということは、若くしてこの世の学びを終え、使命を果たしたということでもある。その観点から見ると、今生のこの「魂の学校」では、21歳で早々に学業を終えた優等生の長男に較べて、91歳の私は、鈍才で学びが遅く、いまはまた「留年」して、卒業が遅れているともいえそうである。

 もともと私は、200年ほど前のイギリスにおける前世に至るまで、霊的真理に接する機会が何度もありながら、社会的地位や名誉が傷つくことを恐れて、霊的な領域には近づこうとはしなかったらしい。そのような私が、素直に霊的真理を受け容れるようになるのには、この世で、よほど大きな試練が与えられなければならなかった。これは、「生と死の真実を求めて」にも書いているが、優れた霊能者のA師によって伝えられた次のような霊界通信によっても、そのことは直截に示されている。

 「・・・・・あなたが霊的なことに目覚め、価値観を正し、本当に大切なもの、すなわち、神と愛と命と心に目覚めるために、このこと(大韓航空機事件で妻と長男が亡くなること)が必要だったのです。否が応でもあなたはその方へ駆り立てられていきました。あなたは、その一連のプロセスを経ていくことで浄化され、価値観が変わり、神を求める人に作り替えられました。また、それをもって、この世の認識の暗い人たちに、大事なメッセージを体を持ったまま伝える任務に就くようにされました。」(2004年6月5日)

 この世の、瞬間的な尺度によってのみものを見るのであれば、永遠の世界の生と死の真実を把握することはできない。この世は「五濁悪世」でしかなく、喜怒哀楽の波に飲み込まれて、自分を見失うだけで、生きてきた意味も分からずに一生を終えてしまうことになりかねない。しかし、私たちは、本来が霊的存在である。霊を宿した肉体ではなく、肉体を伴った霊である。霊本来の永遠の立場で、自分を見つめ直すことによって、いままで見えていなかった自分の人生の悲しみや苦しみの実相も見えてくるようになる。シルバー・バーチも、「全ての魂がそうであるように、あなたの魂も、地上でいかなる人生を辿るかを誕生前から承知していたのです」と言ったあと、こう続けている。「その人生で遭遇する困雄、障害、失敗の全てがあなたの魂を目覚めさせるうえでの意味をもっているのです」。(『霊訓 (1)』p.71)

 つまり、この世で私たちが体験するあらゆる困難、障害、失敗などはすべて、実は、私たちの霊性向上のためのいわば「教材」である。不幸そのもののように思える悲嘆や苦悩、絶望なども決して例外ではなく、その教材と取り組むことによって学力が伸びていく。そして、これもシルバー・バーチが言っているように、私たちは「地上でいかなる人生を辿るかを誕生前から承知していた」。言い換えれば、それらの様々な教材を自ら選んで学ぶためにこの世に生まれてきた。だから、そのような困難、障害、失敗などの教材を体験するのは、偶然ではなく必然である。自分が選んでいるのだから、自分にとって必要な体験で、自分の霊性向上のためには、いいことであるに違いない。ただ、科学万能のこの物質社会にどっぷりと浸かっている間は、そのことに気がつくのが、あまり容易ではないだけである。シルバー・バーチは、そういう霊的真理を理解するためには、魂に受け入れる準備が必要で、そのためにこそ試練が与えられるのだと、次のように述べている。

 《苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性といってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。
 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。》 (『霊訓 (10)』 pp. 22-23)

 このようにみてくると、苦しみ悩むことの多い人生体験も、あまり悪いものではないようである。難しい教材に取り組んでいる者は称えられるべきであっても、決して惨めではないのと同じである。私たちはこの世への誕生の時に、潜在意識の奥深くに閉じ込めてしまっているが、もともと、この世の様々な体験は、前述のように、私たちが生まれる前に、自分で必要と思われるものとして選んできた。それなのに、それらの自ら選んだ体験で苦しみ悩むというのは、大きな心得違いといえるのかもしれない。この意味でも、この世で幸せに生きていくためには、やはり、刹那的な狭い常識に捉われることなく、霊的存在としての広い視野をもつことがどうしても必要であろう。

 たとえば、金銭的に貧しいことが、必ずしも不幸を意味しないし、何の不自由もない平穏無事の生活の継続が幸福のための必須の要件なのでもない。聖書には、よく知られているように、「富める青年」という話がある。ある資産家の青年がイエスのところへやってきて、人としてのいましめを守ることのほかに、どんなよいことをしたらいいでしょうか、と訊いた。イエスは、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物をすべて売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」と、答えた。そのことばに従えそうもない青年は、悲しんで立ち去っていった。イエスはまわりの弟子たちに、「富んでいる者が天国に入るのは、難しいものである」と言った。さらに繰り返して、「富者が神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るより難しい」と続けた。(「マタイ」19章16-24) 金銭的な豊かさだけではなく、何の不自由もない無事平穏な生涯も、決して、本当の幸せではない。それは、何の教材も与えられずに学校も休んでいるようなもので、折角この世に生まれてきても、心を磨いて進歩発展することは期待できないからである。私が親しくしていた前掲の霊能者A師は、そのような「無事平穏」だけの人がいるとすれば、それは「神様にも見放された哀れな人だ」と笑いながら言ったこともあった。

 私自身は、ちょっと大袈裟にいえば「波乱万丈」ともいえるような苦難の体験を経てきて、そして最晩年のいまは、日本の片隅でコロナ・ウイルスのパンデミックを体験している。91歳にもなって余喘を保っているが、それは、冒頭でも述べたように、この世の「魂の学校」で卒業適齢期を過ぎていても卒業できず、いわば、「留年」を続けているような形である。しかし、この世の悲しみや苦しみにも、それぞれにポジティブな意味があるのであれば、予想外であった私のこの「留年」にも、それなりの意味があるはずである。留年していても、与えられた課題が無くなったわけではなく、学ばなければならぬことは多い。コロナ禍のなかで、人より遅れて歩んでいることに劣等感を持つことなく、いまは、無事「卒業」できる日の来ることに希望を繋いで、黄昏の道を何とか前向きに、歩み続けていきたいと思っている。




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     死の恐ろしさについて考える
       ― 新聞「声」欄への投書をめぐって ―              (2022.02.28)


 「朝日新聞」の「声」欄(2022.02.07)に、「死を思うことは恐ろしいけれど」という投書が掲載されていた。中学生の 吉川紗掛さん(大阪府、13歳)が、この投書にこう書いている。

 《死んだら、どうなるんだろう。私はよく、そんなことを考える。
 天国や地獄という死後の世界が本当にあって、そこで存在し続けることができるのなら、そう願いたい。けれども、死によって私の意識も、心も、何もかもが永遠に消え失せてしまうとしたら・・・・・・。いま、これを書きながらも私は、底なし沼に沈んでいくような恐怖に襲われている。そして、「まだ私は若いから」と思考を中断するのだ。
 他の人はどうだろう。私が敏感なのかと思ったが、まわりの友人に聞いてみるとやはり、恐ろしくて考えるのをやめるという。この恐怖からどうやって逃げたらいいんだろう。大人になったら、怖くなくなるのだろうか。
 死は、この世で命を授けられた生き物すべての宿命なのだと、改めて思う。生きるということは、死へ近づいていくこと。恐ろしいが、しかしそれに気づいたからこそ、この命を何かのため、だれかのために使い切りたいとも思う。死ぬ時、私は十分頑張ったと思えるような人生にしたい。そのために、私はどうしたらいい? 答えを見つけるべく、いまこの時を生きていこうと思う。》

 この投書のように、「死によって私の意識も、心も、何もかもが永遠に消え失せてしまうとしたら」と考えて、「底なし沼に沈んでいくような恐怖に襲われ」るのは、この中学生だけではないであろう。まわりの友人たちも、「恐ろしくて考えるのをやめる」といっているのも、頷けるような気がする。「大人になったら、怖くなくなるのだろうか」と、疑問も投げかけられているが、この中学生も言っているように、「生きるということは、死へ近づいていくこと」だから、怖くなくなるようにはならず、むしろ、大人になれば、余計に死の恐怖を身近に感ずるようになるのかもしれない。

 この投書に対して、たまたま、それを読んだ一人の大人の反応も、同じ「声」欄(2022.02.21)に、「死をめぐる思索に触れてみて」というタイトルで載せられていた。富山県在住の「無職」池田典恵さん(50歳)の投書である。そこには、こう書かれている。

 《13歳の吉川結芽さんの投稿「死を思うことは恐ろしいけれど」(7日)を読みました。大人と言われる年齢の私も、あなたと同じくらい死を恐れています。初めて死を意識したのは、野口英世の伝記を読んだ10歳くらいの時。黄熱病で亡くなるくだりで、「人は必ず死ぬのだ」と底知れぬ恐怖を覚えました。
 「死んだらどうなるか」は、人間にとって大きな謎のひとつです。古今東西、多くの人々が死について考え、論じあってきました。その成果のひとつが宗教です。私個人はピンと来るものがないので宗教の信者ではありませんが、宗教が説くあの世や来世などを信じて安心を得るのもひとつの方法でしょう。
 あなたには、死について語り合えるお友達がいるのですね。それは、とても良いことだと思います。死をタブー視し、話すことさえ嫌がる人も少なくありませんから。
 私たちは、先人が積み重ねた死をめぐる思索を、書物や芸術作品、映像などで知ることができます。若いあなたもお友達も、ぜひ様々な考えに触れてみて下さい。ちなみに今の私が信じている死の定義は、「死とは目覚めのない眠りである」です。》

 「大人と言われる年齢の私も、あなたと同じくらい死を恐れています」というこの投書者は、「宗教が説くあの世や来世などを信じて安心を得るのもひとつの方法でしょう」と書きながらも、自分は、そのような宗教の信者ではないと言っている。そして、最後に、自分が信じている死の定義は、「死とは目覚めのない眠りである」と述べている。中学生の「死の恐怖」に対して、自分も死の恐怖を感じていることを告白しながら、「私たちは、先人が積み重ねた死をめぐる思索を、書物や芸術作品、映像などで知ることができるのだから、ぜひ様々な考えに触れてみて下さい」という、この大人の投書者の態度は、善意にあふれて優しい。

 「死の恐怖」についての受け止め方は、おそらく、このような大人の「常識」が、世間では一般的であろう。だから、このように新聞にも載るのである。逆に、「死によって意識も、心も、何もかもが永遠に消え失せてしまう」というのは間違いで、意識も心も消えることはない。更には、「死とは目覚めのない眠り」なのではなく、生命は不滅で永遠であり、死ぬということは、霊界で生き続けることにほかならない、などと言っても、世間には、おそらく、非常識な妄言の類いとして受け入れられないであろう。仮に誰かがそのようなことを書いて投書しても、新聞には載せてもらえないに違いない。

 いまでは、「死をめぐる思索」についても、シルバー・バーチの霊言などを含めて、スピリチュアリズムの書籍が数多く世に出回っているが、それらが、この中学生や大人たちの目に触れることはないのであろうか。目に触れても、死後の生とか霊界という科学では証明できない「真実」には拒絶反応を起こして、手に取って見ることはないのであろうか。私自身が、大人になっても長い間、生と死の真実については全く無知であったから、その私には、霊的真理に気がつかない、或いは、近づこうとしない人々がいるとしても、それらの人々に、同情はしても批判する資格はない。しかし、その一方で、「死の恐ろしさ」というより、生き続けている家族をも死んだと勘違いして嘆き悲しんでいた「無知の恐ろしさ」を、身に染みて深く感じてきただけに、いまの私は、永遠の生命については、一人でも多くの人々に伝えなければならないという気持ちが強い。そのような二つの思いのなかで、私の脳裏には、次のようなシルバー・バーチのことばが、時折、浮かんだり消えたりもする。

 《真理は魂の方にそれを受け入れる用意ができるまでは真理として受け入れられることができません。これは真理のあらゆる側面について言えることです。真理とは無限性をもつものですから、その全体を理解するには永遠の時を要します。それがまた無限の過程なのです。
 受け入れる用意のできていない人に真理を押しつけることはできません。そこには必ず混乱・論争・討論・議論といったものが生じます。が、それにもそれなりの意義があります。その混乱の中から、受け入れる用意のある人にとっての真理が出てきます。その用意というのは霊的進化の程度、発達段階によって決まります。それは各自が自分で決めていくというのが宿命です。》 (『霊訓 (11)』 p. 128)




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    死の恐ろしさについて考える (続)
       ― 新聞「声」欄への投書をめぐって ―              (2022.04.21)

 
  この欄の前回(2022.02.28)で、「朝日新聞」の「声」欄に載った「死を思うことは恐ろしいけれど」という13歳の女子中学生の投書と、それに対する50歳の無職の女性の「死をめぐる思索に触れてみて」という投書について紹介した。この投書が載ったのは、2月7日であったが、その反響が大きかったようで、「朝日新聞」は、再び、この13歳の中学生の投書を載せたうえで、「どう思いますか」というほぼ紙面1ページ全部を埋め尽くすような特集記事(2022.03.16)にしている。

 ご覧になった方も多いと思われるが、ここには、6名の方の投書が載っている。そのうちの一人、父を57歳で亡くして、絶望の淵に居たという27歳の中学教員は、こう書いている。

 《・・・・・(死の)直後はぬくもりのあった父の体が次第に冷たくなっていった時の衝撃は忘れられません。そこにはもう、父はいないと感じました。では、父はどこにいるのか。天国とか地獄とか、そんな具体的ではなくとも、「あの世」と呼ばれるどこか別の世界にいると思うと、苦しかった胸は少し楽になりました・・・・・》

 「死んだらどうなるんだろう」。そう自問しながらひとりで四国遍路を歩きとおしたという69歳の薬剤師もいる。この人は投稿文の中で、「・・・・・私は死ぬことも生きることもそれほど大きく変わるものではなく、区別なくつながっていると感じたのです。自分がやりたいこと、今日やるべきことを、懸命にやっていたらそれでいい」と書いている。

 この特集で、「私は還暦を迎えた今も死は怖い」と告白しているのは、60歳の高校教員である。「死んでもきっと誰かの心の中で生きている」とか「あなたの命は子どもたちに受け継がれている」とか言われても、慰めにもならない、とも言う。そして、こう続けている。

 《とはいうものの、近しい人々の死を幾度も体験する中で、悟ったことがある。死は生の延長線上に在るのだから、身構える必要はないということ。普段通りの時の流れから、ふっと消えていくのが死なのであろう・・・・・》

 「私は不思議に死が怖くない」と書いている人もいる。「2年半前に逝った夫のところにいける、と思っているから」という 80歳の主婦である。その心境を彼女は、生前あの人が私に「良い老後が送れるようにずっと見守ってやるよ。安心して生きや」と書き残してくれたからだ、という。「この言葉がなかったら、多分辛くて寂しくて、どう過ごしただろうかと思う」とも記している。

 このほか、数年前、仕事で関わりのあった方々を同じ年に3人も亡くして動揺したという30歳のデザイナーは、「個人的にはあまり死後の世界を信じていないので、今この世界でつながった方とのご縁をないがしろにしてはならないと思うようになった」といい、76歳の無職の男性は、「死について考えることは、いかに生きるかの原点のような気がします」と述べた後、「私たちがこの世に生まれてきたこと自体に意味があるのではないでしょうか。人生を理解するには、生き尽くす必要がある。それが今の私の正直な心境です」ということばで締めくくっている。

 この特集には、最後に、谷川俊太郎氏の「怖さ薄れ ちょっと楽しみ」と題する小文も付け加えられている。この中では、氏は、「死が怖いというのは、自分がいなくなるのが怖いんでしょ。それが僕にはあまりありません。自分がいなくなったって全然かまわないんです」などと、述べている。そして、つぎのようにも書いた。

 《僕は、ことばというものをあんまり信用していないんです。言葉の宿命みたいなもので、実在そのものに迫りたいと思っても、実在は言葉では捉えられないんです。死についてもそうだと思います。だから逆に言えば、死の先に何かあるのかな、という楽しみも生まれてくる。僕自身は、生と死はつながっていると思うんですけどね。》

 2月28日に掲載された13歳の女子中学生の投書は、このように、特集が出されるまでに大きな反響を呼び起こしたのだが、しかも、その反響は、これだけでは終わらなかった。これも、多くの方が目にされていると思うが、「朝日新聞」は、さらに「『死』について」という (上)(下)二回の特集を組んで、それぞれ5名の投稿を載せているのである。(2022.04.03~04.04) おそらく、最初の特集の後も、「声」欄には数多くの投稿が寄せられていたのであろう。一人の女子中学生の投稿に対して、3回もの特集を組むというのは、「朝日新聞」としても極めて異例であるに違いない。

 このうち、(上)では、難病を次々に発症させてきた70歳の主婦の、「死は私にとって神からの最高のプレゼントである」という一文には考えさせられた。彼女は、投稿でこう書いている。

 《痛み地獄の毎日は悪化して20年。もちろん、生を選び、治療手術を選んだことに悔いはない。一方で、私にとっては死は特効薬とも思う。死が確実に痛みから私を解放してくれる。耐え難い痛みの中で私は、死を救いの女神と合掌している。》

 ほかには、74歳の援農ボランティアの、「私は結婚式を翌月に控えて最愛の母を失っている。以来、神も仏もあるものかとの思いで過ごしてきた。無信心の身ではあるが、自分が死んだ後は共に生きた人たちの近くで、千の風になっていられたらいいなと思う」などという文が目につく。

 一方、特集の(下)では、「私はあがき苦しみながら最後を迎えるものだと覚悟している」という、68歳の無職の男性の投稿がある。また、84歳の無職の男性は、「死ぬとすべてが無になってしまうのなら生きる意味があるのか。全くわからない・・・・・そして今は、『歎異抄』によって、回答を得て生きております」などと書いている。その他、いずれの投稿文にも、当然のことのように、永遠の生命についてのポジティブな文言などは、見当たらない。これは、前回でも触れたが、仮に誰かがそのようなことを書いて投書しても、非常識な妄言の類いとして、新聞には載せてもらえないのであろう。

 死に対する怖れは、まず、死とは何かを知らないことから来る。知らないから怖いのである。だから、何よりも大切なことは、生と死の真実を知ることであろう。例えば、シルバー・バーチは、いろいろなところで、「生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはない」、「霊は永遠で、死ぬということはありえない」、「生命に死はない。死のうにも死ねない」などと繰り返している。「"死"というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です」。(『霊訓(4)』p.132)などと言ったりもする。そして、こうも説いている。

 《死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。》(『霊訓(4)』p.134)

 そのうえで、人の死を悲しむのも「間違いである」と、次のようにきっぱりと断定しているのである。

 《人間はあまりに永いあいだ死を生の終りと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私どもはぜひとも無知――死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。》(『霊訓(3)』p.44)

 このようなシルバー・バーチのことば一つを取り上げても、死の恐怖に怯えている人々には大きな救いになると思われるのだが、世間では、なぜ、そうはならないのだろうか。「私たちは死んでも死なない。霊的存在として永遠に生き続ける」という極めて単純で明快な霊的真理も、この世の「常識」の前では、非科学的な妄言として白眼視され、聞き流されてしまうのが普通である。また、新聞などでいくら特集を組んでも、このような真理のことばは取り上げられることはない。だから、数多くの投稿を羅列しても、すべてが的外れで虚しいのである。それでは、死の怖れを克服することなど出来そうもない。前掲の特集(下)の 68歳の無職の男性のように、「あがき苦しみながら最後を迎える覚悟」でもしなければならないのであろうか。やはり私たちは、死の怖れを克服するためには霊的真理に目覚めるほかはない。

 ただ、ここで考えなければならないのは、死についての霊的真理を真に理解するためには、それを受け入れる魂の準備が必要であるということである。魂の準備ができていないうちは、生と死の真実も頭には入らない。シルバー・バーチもその魂の準備の重要性を何度もくりかえして強調している。次のようにである。

 《忘れてならないのは、真理を理解するには前もって魂に受け入れ態勢ができあがっていなければならないということです。その態勢が整わないかぎり、それは岩石に針を突きさそうとするようなもので、いくら努力しても無駄です。魂が苦しみや悲しみの体験を通じて耕されるにつれて岩石のような硬さが取れ、代わって受容性のある、求道心に富んだ従順な体質ができあがります。》(『霊訓 (7)』pp.68-69)

 ここで、魂の受け入れ態勢ができあがっていくのには、「苦しみや悲しみの体験を通じて」であると述べられていることにも留意する必要がある。逆に言えば、苦しみや悲しみの体験がなければ霊的真理は理解できないということである。それをシルバー・バーチは、「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません」と言った後、こう述べている。

 《そうした困難と苦難のすべてが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです。過去を振り返ってごらんなさい。往々にして最大の危機に直面した時、最大の疑問に遭遇した時、人生でもっとも暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台になっていることを発見されるはずです。いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みもなく、困難が生じても自動的に解決されてあなたに何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ一つ転がっておらず、征服すべきものが何一つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを一つひとつ克服していく中にこそ得られるのです。》(『霊訓(4)』p.41)

 「いつも日向で暮らし、何の不幸も心配も悩みもない」ような暮らしぶりを、私たちは幸せの極みであるように思いがちであるが、シルバー・バーチは、それでは霊的進歩は望めないという。そして、むしろ、「悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです」と言いながら、こう続けている。

 《悲しみはそれが魂の琴線にふれた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぶだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。》(『霊訓(1)』p.55)

 私は、このホームページのなかでも、折に触れて、霊的真理に無知であることの恐ろしさについて述べてきた。大切な家族が生きているのに死んでしまったと勘違いをし、悲しまなくてもいいのに嘆き悲しんで、絶望の淵に沈む。何年も、そのような無明の闇の中で苦しんでいたことがあっただけに、無知の恐ろしさが身に沁みているからである。その体験を経て、2011年、81歳の時には、私は、ようやく闇の中から脱け出して、『天国からの手紙』(学研パブリッシング)のなかで、こう書くようになった。

 《人は死なない。というより、死ぬことができない。愛する家族も死んではいない。いまも生き続けている。話し合えないことも決してない。
 ただ、そのことを知らずに、死んだらすべては終わったと諦めて、愛する家族をみずから忘却の彼方へ押し流し、話し合おうとはしない人たちが、おびただしくまわりにはいるだけである。
 確かに、その姿は目の前には見えないかもしれない。
 しかし、もう永遠に会えない、となぜ思い込むのか。話し合うこともできないと、誰がそう言ったのか。「死んで」しまったのだから、本当にもう会うことも話し合うこともできないのか。それを自分で確かめたのか。
 いまでは、私は、溢れるような思いを抑えて、そう問いかけることができる。》(pp.310ー311)

 これを書いた時からさらに10年が経過して、私は、昨日の4月20日で 92歳になった。この年齢では、この世の死には隣り合わせで近接していると言っていいと思うが、私自身は、「死の怖れ」のような意識からは、すでに離れてしまっている心境である。しかし、このホームページで、「死の恐ろしさについて」のような原稿を書いていると、否応なく、多くの人々の相も変わらず迷い、悩み、苦しんでいる姿が目の前に去来する。私はまた、自分自身の、生も死も何もわからず、苦しみ悩んでいたかつての日々を思い起こしたりするのだが、いまはただ、10年前と同じように、「人は死なない。というより、死ぬことができない」、としみじみと語りかけたい気がしている。特に、愛する家族を亡くして悲しんでいる人に対しては、「溢れるような思いを抑えて」、また、あの時と同じような問いかけをしてみたい気持ちになったりもする。




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     生き続けていく人間としての心構え   2022.05.23


 人はこの世に生まれる前に、自分の寿命を決めてくるという。いつ死ぬのかも決まっていて、シルバー・バーチも、「死ぬべき時期がくれば、いかなる医師も生かし続けることはできません」と言っている。(『霊訓 (10)』p. 130)「人は生まれる前に、自分の人生の長さを決めてきます。いつ、どうやって死ぬのかも、すでに決まっているのです。つまり寿命とは、もって生まれた宿命なのです」と言っている霊能者もいる。(「学びの栞B」 57-n) しかし、通常は、その自分の寿命についても、生まれた時に深層意識のなかに閉じ込められてしまうから思い出されることはない。霊能力の巨人であった空海(774年-835年4月22日)やスウエーデンボルグ(1688年-1772年3月29日)のように、自分の死ぬ日と時間までを正確に予言することが出来た人々は極めて稀な例外である。

 私の知る優れた霊能力者のA師も、「人の寿命を予知するのは容易ではない」と言っていた。私自身も、長く生きても 87~88歳と「予言」されたこともあったが、いつの間にか、92歳にもなってしまった。まったくの、思いがけない長生きであるが、ここまで生きてくると、もう改めて霊能者に見てもらうまでもなく、死ぬべき時期は、そう遠い将来ではないことが自分でもわかる。ただ、かつてのように、生と死の真実もわからず、霊界の存在も知らずに無明の闇のなかで呻吟することがなくなっていることだけは、こころから神に感謝しなければならないと思っている。

 私が89歳の時に遺言のつもりで書いた小冊子『生と死の真実を求めて』(「参考資料」No.60に転写)のなかにも引用しているが、インドのマハトマ・ガンジー(1869年—1948年)は、次のようなことばを残している。

  Live, as if you were to die tomorrow.  (明日死ぬかの如く、生きよ)
  Learn, as if you were to live forever. (永遠に生きるかの如く、学べ)

 このようなことばも、私は、生と死の真実を私なりに理解できるようになってからは、新しい視点で受け止めるようになった。たとえば、シルバー・バーチは、「そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当り前なのです」と言っている。死というのは「元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです」とも述べている。(『霊訓』(10)』p. 21)

 つまり、死ぬということは、本来の自分の棲み家へ戻ることである。だから、「明日死ぬかの如く、生きよ」というのも、一般に感じられているような死にまつわる恐怖心や絶望感が無くなってしまえば、単に、故郷の実家へ帰る日が明日になってもいいように準備せよ、というほどの軽いことばになる。ただ、この世の引っ越しと違うのは、家財道具や持ち物等の物的資産を一切残していかねばならないということくらいであろう。そのうえで、私たちは、霊界の新しい棲み家で、いまの自分そのままに生き続ける。「元の出発点へ帰る」といっても、すべてがご破算になって、ゼロからやり直すのではない。いまの自分の霊的資質は、才能や性格などを含めて、そっくりそのまま持ち続けていくのである。

 そうすると、「永遠に生きるかの如く、学べ」もまた、世間一般とは違った視点で受け止めていくようになる。死んでしまえば灰になって無に帰するのだから、「死ぬとわかっていて、いまさら何を学ぶ必要があるのか」というようには、決してならない。「永遠に生きるかの如く」ではなく、私たちは「永遠に生きるのだから」学ぶことを止めてはならないのである。輪廻転生の度毎にそれまでに学んできたことを基盤にして、その上でさらに研鑽を積んでいくのが私たちの真実の姿である。ここで、あらためて、確認のために、シルバー・バーチの次のようなことばを思い起こしておきたい。

 《しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在には不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。
 ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願いごととは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。》(『霊訓 10』p. 20)

 このような霊的真理は人生に大きな影響を与えるから、深く学んでいくことは極めて大切であるが、しかし、学ぶべきことは、もちろん、霊的真理だけではない。これは、前掲の『生と死の真実を求めて』のなかでも触れているが、1991年の春、私はロンドン大学客員教授として渡英した。1年間のロンドン滞在中、シルバー・バーチの著作を繰り返し読み、ロンドン大学に通う傍ら、大英心霊協会(SAGB)にも頻繁に訪れて、十数人の霊能者達から数十回の霊言を受けた。アン・ターナーの卓越した霊能力にも導かれて、私はここで初めて、長年の無明の闇から脱け出すことが出来た。1992年の3月、帰国の途中、インドへ寄り、各地の仏跡巡りをした後、ニュー・デリーにあるマハトマ・ガンジーの慰霊碑を訪れた。その敷地の一角に、ガンジーのことばが刻まれた石碑があって、そこには、「自分のまわりの一番貧しい人を見つけて、その人を助けよ」とあった。その頃は、霊的真理に目覚めたばかりで、自分のいのちも救われたような気持ちになっていただけに、このことばも私には深く身に沁みた。

 このような、貧者、弱者に対する無償の愛を実践することも、おそらく霊的真理の理解を深めること以上に大切な学びであろう。イエス・キリストは、ある資産家の青年に、「あなたが完全になりたいと思うなら、あなたの持ち物を全部売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになる」と言った。「富める者が神の天国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりもむずかしい」とも言っている。(「マタイ」19:19-24 ) このことばに従えなかった青年は、悲しんで立ち去ったが、このような情景は、2千年を経たいまも変わらない。むしろ、目まぐるしい文明の発達とは裏腹に、人間の霊性は退化して、物質本位の価値観がさらに深く広く世界中に浸透しているようにみえる。金銭的に豊かになることが人生の目的のように思い込むのが当たり前のようになってしまって、日本の社会をちょっと見渡しても、蓄財に血眼になっている人々がなんと多いことか。こんな世の中では、私たちがいま、生きているうちに学ばなければならないのは、何よりも、「天に宝を蓄える」ことであるようにも思える。

 「天に蓄える宝」は、もちろん、この世での金銭の援助だけではない。他人に対する労わりのこころ、優しいほほえみ、慰めのことば、激励、助力、社会奉仕等々、利他的献身の一つ一つの行為が、目に見えないところで「天国の宝」となって、確実に蓄えられていく。それらが、実は、霊的存在としての自分の本当の財産である。それらの、人のため、世のための行為の総量が、たとえば数量的に1であれば、1が天に蓄えられる。10であれば、天国の蓄えも10になる。与えたものが千や万であれば、天国に蓄えた自分の財産も、千、万となって自分に返ってくるであろう。逆に、自己中心的に、貪欲と悪意で人を傷つけ、世の中に害を及ぼしたりすれば、これらの数値はそれぞれにマイナスになって、霊的存在としての本来の自分は、天国に負債を積み上げていくことになる。この因果関係も、私たちが学ばねばならない宇宙の摂理の一部である。この摂理は完璧で、寸分の狂いもなく働らき、私たちが自分たちの行為の代償として受けるべきものを髪の毛一本ほども変えることはできない。シルバー・バーチは何度も繰り返してこの宇宙の摂理の完璧さを強調しているが、つぎのように言ったこともある。

 《利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑なな人、利己的な人は不覚容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理は変えられません。永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる讃美歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉し都合のよいように変えることはできません。
 発生した原因は数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。 聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。霊的成長を望む者は霊的成長を促すような生活をするほかはありません。
 その霊的成長は思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば内部の神性が日常生活において発揮されてはじめて成長するのです。邪な心、憎しみ、悪意、復讐心、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。》(『霊訓4』pp.25-26)

 私たちは、このような厳然とした宇宙の摂理の中で生かされ、生きている。この真実を肝に銘じておくことも、大切な学びのひとつであろう。私たちは、この世と霊界の間を、生まれては死に、死んでは生まれて、輪廻転生を繰り返してきた。その度に、人間としての不完全さを少しずつ矯正してきたのである。霊界と違ってこの世は、五濁悪世といわれる四苦八苦の世界だが、実は、そのような環境の中で揉まれることによって、私たちは学びを深め、「天に宝を蓄える」ことを知り、霊的に成長していく。そして、やがていつかは、一人ひとりが、遅速の違いがあっても必ず高い霊格をもつことになって、私たちはもう、この世には生まれてこなくなる。仏教でいう解脱である。それからは、霊界の本来の棲み家に安住し、光に包まれて生きていくことになる。その光への道を確かな足取りで歩み続けるためにこそ、私たちは、希望を持って「明日霊界へ還ってもいいような生き方」を心がけ、「永遠に生きる者としての学び」も続けていかねばならないのであろう。




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   日本人の詩歌のたしなみ
          ― 太田道灌の山吹伝説をめぐって ―     (2022.06.16)


 太田道灌は室町時代後期に関東地方で活躍した武将である。江戸城を築城したことでもよく知られている。永享4年(1432年)、関東管領上杉氏の一族である扇谷上杉家の家宰を務めた太田資清の子として生まれた。幼名は鶴千代で、文安3年(1446年)に元服してからは、資長(すけなが)を名乗った。兵学を学び、殊に『易経』に通じて当時の軍配者(軍師)の必須の教養であった易学を修め、また武経七書にも通じていた。後に、父に次いで自らも上杉氏の家宰となり、武将としても学者としても一流という定評があったという。また、歌道にも精通して、様々な優れた和歌が残されている。「山吹の里」の伝説はここから生まれた。それは、次のような話である。

 ある日のこと、道灌は鷹狩りにでかけて俄雨にあってしまい、たまたま見かけた一軒のみすぼらしい家にかけこむ。すると、思いもよらず年端もいかぬ少女が出てきた。道灌が「急な雨にあってしまった。蓑を貸してもらえぬか」と声をかけると、その少女は黙って出ていき、しばらくして、道灌に、蓑ではなく山吹の花の一枝を差し出したのだという。その意味が理解できなかった道灌は、「花が欲しいのではない」と怒り、そのまま、雨の中を濡れて帰って行った。

 その夜、道灌が、家臣たちの前でこのことを語ると、そのうちの一人が進み出て、「『後拾遺集』に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠まれたものに、『七重八重 花は咲けども山吹のみ(実) のひとつだになきぞかなしき』という歌があります。その娘は蓑ひとつなき貧しさを山吹に例えたのではないでしょうか」と言った。それを聞いて驚いた道灌は己の不明を深く恥じた。そして、その日を境にして歌道に精進するようになったと伝えられている。

 山吹というのは、バラ科の落葉低木で、キクの花のような花形のキクザキヤマブキ、黄色味を帯びたシロバナヤマブキなど、多くの品種があるが、この歌のように「七重八重に咲く」ヤエヤマブキだけには、果実ができない。つまり、実(み)のない山吹である。それを、「蓑(みの) がない」の意味に含めて、その年端もいかぬ少女は、「貧しくてお貸しする蓑もありません」と道灌に伝えようとしていたのである。しみじみと心を打たれる奥ゆかしい情景だが、それにしても、山里の年端もいかぬ少女の、何という深い教養であろうか。後世の創作といわれてはいるが、鄙には稀な美談として受け止めておきたい気がする。

 この山吹の少女の話は、1739年に成立した逸話集・湯浅常山著『常山紀談』(巻の一)に「太田持資歌道に志す事」として載っているものである。それを読んだアイルランド出身で詩人のピーター・マクミランさんが、「朝日新聞」紙上(2022.05.22)に、「渡された山吹の色は」と題して、つぎのように英訳を試みている。

   七重八重花は咲けども山吹の
     みのひとつだになきぞかなしき

    Blossoms upon blossoms
     blooming Japanese roses――
    Just as they have no berries,
     it is such a shame,
     I’ve no straw raincoat for you !


 醍醐天皇の皇子兼明親王(914-987)が詠まれた上の歌は、『後拾遺和歌集』(第十九)に収められているから、この歌の「みのひとつだになき」の「みの」は「実の」であって、当然のことながら「蓑」(straw raincoat)の含意はない。だから、厳密に言えば、これは誤訳ということになるが、「山吹の里」の伝説の、年端もいかぬ少女の残像が強く残っているいまは、無理なくその美しい響きの中に、吸い込まれていくような気がする。

 マクミランさんは、この歌の翻訳の前に、山吹の名所として知られている京都嵐山の松尾大社に詣でたそうである。大社に到着すると、視界が黄山吹で埋め尽くされている。奥の庭園には、「七重八重に咲く」ヤエヤマブキ(白山吹)もあるが、開園前で見ることが出来なかった。そのことを嵯峨の自宅に帰って近所の主婦に話したら、彼女は、自分の家の庭から、白山吹をひと枝持ってきてくれて、その時、太田道灌の話も聞かされたのだという。マクミランさんは感動した。「これまでの人生には実らないことも多くあったが、白山吹のように、これから嵯峨で実っていくかもしれない」と、幸せに満たされたことを述懐している。

 このような詩歌とのかかわりは、平安時代中期の作家・歌人であった清少納言にもあることを思い出した。『枕草子』にある話だが、清少納言は、この山里の少女とは違って、いわば上流階級の人間であり、一条天皇の皇后であった中宮定子に仕えていた教養人であった。話の舞台も、みすぼらしい田舎家ではなく、宮中の皇后の部屋である。これは、清少納言自身の書いたことだから事実に違いないが、彼女の機転に感心することはあっても、特に感動することはない。次のような話である。

 冬のある日、中宮定子は清少納言の知識を試してみようと思い、「香炉峰の雪はどうなっているだろうか?」と言ってみた。この香炉峰とは、中国・中唐の詩人白居易(772-846)の詠んだ詩に出てくる山のことである。現在の江西省九江市にある廬山の北側の峰で、香炉に似た形をしているところからこう名付けられたらしい。原文は「香炉峰雪撥簾看」で、「香炉峰に積もった雪を、御簾を上げて眺める」というふうに描写されている。白居易の詩集は当時の日本でも広く愛読されていたから、清少納言もそれを知っていた。この一文を踏まえて彼女は、部屋から見える山を香炉峰に見立てようと、下りていた御簾を高く上げさせたというのである。中宮定子は、満足の笑みを浮かべ、まわりにいた女官の一人も、清少納言に向かって、「香炉峰の雪のことは、私も知っておりますし、歌などに詠むこともありますが、このように御簾を上げようとまでは思いつきませんでした。あなたはやはり、この中宮のお側につく人にふさわしい人のようです」と、彼女の機転を称えた。

 ついでに付け加えておくと、この清少納言が書いた『枕草子』は、兼好法師の『徒然草』、鴨長明の『方丈記』と並んで「古典日本三大随筆」に数えられている。平安中期というのは、もう千年も前の世界だが、この時代には、同じく作家で歌人の紫式部が世界最古の小説といわれる『源氏物語』を書いているし、和泉式部なども紫式部の同僚女房で、与謝野晶子などから「情熱的な」歌人として高く評価されている。平安時代というのは、数々の女流作家・歌人たちの煌びやかな才能で彩られた時代でもあった。ヨーロッパの短い文学史では、三、四百年前の女流詩人の名を見出すのは困難であるのに、日本では、千年も前にすでに、このように女流作家・歌人たちが、平安朝の文学史に大きな足跡を残しているのは驚くべきことであるといわねばならない。

 さらに時代を遡れば、奈良時代末期に成立したとみられる『万葉集』初期の代表的な女流歌人である額田王(ぬかたのおおきみ)などもいる。彼女は、631年(舒明天皇3年)から637年(同9年)頃の誕生と推定されているが、正確にはわかっていない。よく知られている歌に、「熟田津に船乗りせむと月待てば  潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」があるが、これは、663年に、中大兄皇子(のちの天智天皇)が朝鮮半島の百済の救援に2万7千人の兵を送り出した折の、熟田津(にきたつ)での情景を詠ったものである。熟田津は、愛媛県の道後温泉あたりの地名という説があるが、正確にはわかっていない。当時の中大兄皇子は、母親の斉明天皇を凌ぐ政治的実権を握っていて、この海外派遣に国運を賭けていた。その中大兄皇子が、船旅の途中で熟田津に一泊したあと、斉明天皇と共に、いま船出の夕べを迎えて船団を見送ろうとしている。斉明天皇にも中大兄皇子にも、深い祈りがあったであろう。その気持ちを推量して、額田王がこのような雄渾で格調の高い歌を詠んだ。

 一方で、額田王は、「あかね指す紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る」というような情緒纏綿とした歌も詠んでいる。彼女は、大海人皇子(のちの天武天皇)と結婚して子どももいたが、この歌を詠んだときには、大海人皇子とは別れて、大海人皇子の兄である天智天皇と恋人関係にあった。大海人皇子は、権力者の兄のそのような非情に逆らえなかった。額田王も本意ではなかったであろう。その後、大海人皇子が、朝廷のレクリエーションで、蒲生野での狩りに出た時に、広い狩場の一隅に、自分との逢瀬を求めて忍んできた時の情景を、額田王がこのように詠んだのである。狩場のあちらこちらには、警備の兵がおかれている。その中で、大海人皇子は紫野へ標野へと道なき道を、踏みしめてやってきた。別れの時には、狩り装束の皇子は盛んに手を振って、警備の兵に見られるのではないかと彼女は気を揉んでいる。「あかねさす むらさきの ゆき しめの ゆき  のもりはみずや きみがそでふる」という、もう千三百年も前の美しい日本語の調べが、現在の私たちにも切々と伝わってくるが、これは、女流文芸の歴史の浅い外国では、例をみないことで、日本独自の、奇跡的な詩歌の伝承といってよいかもしれない。

 この万葉の時代からさらに数百年を経て、室町中期に入り、道灌の「山吹の里」の伝説が生まれることになるのだが、道灌には、このほかにも、次のような逸話が残されている。

 主君の上杉定正が上総の庁南(現長南町)に軍勢を出した時に、山が迫っている海辺を通ることになった。定正は、「山の上から弩(おほゆみ)を射懸けられるかもしれない、また潮が満ちているか否かが判断しにくい」と考えて、進軍を危ぶんでいた。その時は夜中で、潮の満ち干も目で見て判断することができなかった。道灌は、「では、私が見て参りましょう」と進言して馬で馳け出し、やがて帰って来て、「潮は引いています」と言った。「どうして干潮だとわかったのか」と問われて、『遠くなり 近くなるみの浜千鳥  鳴く音に潮の満干をぞ知る』と詠んだ歌があります。つまり、浜千鳥の鳴き声が遠く聞こえるか近く聞こえるかで、干満を判断できるのです。今は、千鳥の声が遠くに聞えましたから、干潮です」と道灌は答えたという。

 また、こういう言い伝えもある。いつのことであったか、軍を帰城させようという時に、これも夜間の事であったが、利根川を渡ろうとして、あまりに暗くて浅瀬の場所がわからない。このときに道灌は、「『底ひなき 淵やはさわぐ山川の 浅き瀬にこそあだ波はたて』という歌がある。波音が大きい所を渡れ」 といって、無事に利根川を渡した、というのである。

 その道灌の活躍によって、主家の扇谷家の勢力は大きく増した。それとともに、道灌の威望も絶大なものになっていた。ところが、主君の定正は、家臣である道灌が、優れた統率力と戦略で敵を圧倒し、その功を誇って主君を軽んじる風もみられたとし、道灌に反感を持つようになった。その道灌が、人心の離れた山内家に対して謀反を企てたとも中傷されたりしている。そしてついに、道灌は、文明18年(1486年)8月25日、定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれた折、入浴後に風呂場の小口から出たところを主家の意を汲んだ曽我兵庫に襲われ、暗殺されてしまったのである。享年55歳であった。

 刺客の曽我兵庫は、道灌を槍で刺した。その時、道灌が歌を好むことを知っていた曽我兵庫は、道灌に向かって、「かかる時 さこそ命の惜しからめ」と上の句を詠んだ。この問いかけは、こんな時には無情の極みである。しかし道灌は、致命傷に少しもひるまず、悠然として、下の句をこう続けた。それが、「かねてなき身と 思い知らずば」である。「常日頃から、死ぬことの覚悟はできていたから、いまさら、この命を惜しいと思うことがあろうか」というのである。見事な受け答えというほかはない。のちに、新渡戸稲造は、『武士道』(1899年)のなかで、この歌に触れ、勇気ある真に偉大な人物が死に臨んで有する「余裕」の一例として紹介している。 ―― かつて、鷹狩りにでかけて俄雨にあった時に、里の少女から山吹の一枝を差し出されて、蓑がないことを暗喩されて以来、不明を恥じて歌道に精進するようになった道灌の、これは、最後の歌になった。それも、下の句だけである。「かかる時 さこそ命の惜しからめ かねてなき身と 思い知らずば」




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    文明の発達につきまとう影        (2022.07.28)


 1970年に大阪の千里丘陵で開催されて以来、2度目の大阪万博が、2025年4月13日(日) から 10月13日(月)まで184日間、大阪市此花区の人工島、夢洲(ゆめしま)で開催されることになっている。想定来場者数は約2,820万人で、経済波及効果は試算で約2兆円になるらしい。開催日まで1000日となった7月18日には、記念イベント「1000 Days to Go」が行われ、万博での実用化を目指して開発が進められている「空飛ぶクルマ」のデモフライトも、兵庫県尼崎市の臨海地域で披露された。インターネットの写真の記事では、機体は長さ約5.6メートル、高さ約1.7メートルで2人乗り。離着陸地点で高さ約30メートルまで上昇した後、飛行エリア内を約840メートルにわたり無人飛行したという。

 万博の会場・夢洲までの鉄道や車の混雑が懸念される中、空中を移動する次世代モビリティーの関心が高まり、この「空飛ぶクルマ」は、空中タクシーとして万博の目玉の一つともされている。その運航は、大阪市内の梅田や難波と夢洲を結ぶピストン飛行、関西国際空港や神戸空港から夢洲へ遊覧しながら飛行する2つのルートが想定されている。料金体系は、タクシーと同様、初乗り680円で、以降10秒毎に250円を加算する方式が採用される。大阪市内から夢洲で所要時間10~15分で、費用は一人あたり1万5000円~2万2500円、関西空港~神戸空港から夢洲では所要時間40分で、費用一人あたり約6万円と見積もられているようである。

 空中タクシーがこのように現実化すれば、やがて、それが各地にも広がって、現在の車社会のように、空中自家用車も日本の空を飛びまわるようになるのであろうか。私もこの世で 92年も生きていると、こんな空中タクシーの出現も身近に感ずるようになって、文明の発達もここまで来たか、といういささかの感慨を禁じ得ない。

 ついこの間も、米航空宇宙局(NASA)の新型宇宙望遠鏡「ジェームズ・ウェップ」が、宇宙探索で、130億光年の彼方に存在する銀河を撮影したという画像が公開されていた。(「朝日」2022.07.12 ) これは、130億年前の銀河の映像が、秒速30万キロのスピードで130億年かかって、大宇宙の中では砂浜の砂粒一つの大きさにもならないような、このちっぽけな地球にいま届いたということである。かつて、1961年4月12日、当時のソ連宇宙飛行士のガガーリンは、ボストーク号で世界初の有人宇宙飛行に成功した。その時まで人類は、自分たちの住む地球を外から見たことはなかったが、このガガーリンの宇宙飛行で、初めて、世界中の人々が宇宙に浮かぶ「青い地球」の姿を見ることが出来るようになった。私もつくづくと眺めて、その可憐な美しさに感動した。それから人類は、月に着陸し、火星に探査機を下ろし、日本でも、2020年12月に、探査機「はやぶさ2」が、小惑星「リュウグウ」の砂を採取したカプセルを持ち帰ったりしている。そして今は、130億年前の銀河の実像も、自分の目で見ることが出来るのである。文明の発達は、留まるところを知らないもののようである。

 この文明の発達によって、私たちの生活も随分、快適で便利なものになった。いまでは、冷蔵庫、洗濯機、風呂、水洗トイレもついている家で、酷暑の夏も、クーラーを利かして、大人も子どもも、テレビを見たり、スマホをいじったりしている。これは、日本でも1960年代の高度経済成長期以後に現れ始めた現象で、それまでの生活では、私たちは敗戦後の食うや食わずの欠乏と貧困をそのまま引きずって生きていた。私はその貧困のなかで大学を卒業して、公立高校での教員2年目で、アメリカのオレゴン大学給費留学生に選ばれた。1957年の夏に船で2週間かけて太平洋を渡ったが、その頃の私の高校での月給はドルに換算すると 25ドルくらいであった。当時の公定レートは、1ドル360円となっていても、日本のドル不足で、実勢は 1ドル400~420円であったから、これはアメリカの高校教諭の 300ドルを超える給料に較べると、十数分の一にしかならない。アメリカは夢のように豊かな国で、その頃すでに、どの州でも無料の州高速道(State Highway)が縦横に発達し、高校生でも車を自由に乗り回していた。その当時の日本では、自家用車を持つなどというのは、ごく一部の金満家を除いては、まるで雲を掴むような夢でしかなかった。その日本でも、十数年を経て、誰もが自分の車で走りまわるのが当たり前のようになろうとは、想像も出来なかった。

 しかし、その後、日本では経済成長が続くことになる。経済成長自体は、実は、1950年代の後半から、朝鮮戦争の特需を契機にして始まっていたが、「高度成長」を庶民レベルで実感し始めたのは、1960年代になってからである。生活は少しずつ豊かになり、社会の様相も近代的な変貌を遂げていくようになった。1964年10月には、東京オリンピックも開催され、それに合わせて、東海道新幹線も開業した。高度経済成長期の最後を飾った大阪万博も1970年の3月から9月まで大阪府吹田市の千里丘陵で開催された。これは、アジア最初の万国博覧会ということで、世界各国の新技術や文化を結集して来場者は 6,400万人を超えた。私も家族と共に行ってみたが、人々が多すぎて、めぼしい展示場に入るのに、酷暑の中で1~2時間も並んで待たされて閉口した記憶がある。この万博では、動く歩道、モノレール、リニアモーターカー、電気自転車、電気自動車、テレビ電話、携帯電話、缶コーヒー、ファミリーレストラン、ケンタッキーフライドチキンなど、現代社会で普及している製品やサービスなども、初めて登場した。

 東海道新幹線に始まる新幹線建設も、当初は、東京ー新大阪が4時間運転であったが、1965年からは、3時間10分になった。東京ー大阪間の飛行機も、所要1時間20分で、庶民の間でも利用者が増えていった。一方では、高速道路の建設も、名古屋と神戸を結ぶ名神高速道路が1957年に開始され、1962年には、東京と名古屋を結ぶ東名高速道路や、山間部経由で東京ー名古屋を結ぶ中央自動車道なども建設が開始された。名神高速道路は、1964年9月に全通し、東名高速道路も、1965年には全通している。その後も、毎年、200キロから250キロの建設が、全国各地で行われ、当初予定の7,600キロの高速道路網はすべて完成して、さらに現在も増え続けている。

 この目まぐるしい交通機関の発達は、東京ー大阪間を約1 時間で結ぶ世界最高速のリニア中央新幹線の建設にも及んでいる。リニア中央新幹線は時速500km、現在の新幹線の約2倍の速さで山梨と東京を約20分、東京と大阪もわずか1時間ほどで結ぶという世界最速の新幹線である。しかし、この狭い日本で、それをさらに導入するのにどのような意味があるのだろうか。メリットとしては、リニア中央新幹線の導入は、東京ー名古屋ー大阪という大都市圏を一体化し、ひと続きのメガポリスを誕生させるとともに、日本列島全体の時間距離を短縮し、経済社会活動の効率性を高める効果があるのだという。また、広い地域を高速交通網に組み入れることができ、多様な拠点都市が誕生するともいう。

 しかし、鉄道の在来線のほかに、新幹線、高速道路、航空路が縦横にはりめぐらされているなかで、さらにもっと便利で速い交通手段がどうしても必要なのであろうか。このリニア新幹線工事は、自然の宝庫である南アルプスに約25㎞の長大なトンネルを掘るため、地下水位の低下や枯渇・河川の減水等により、南アルプスの高山植物や雷鳥、猛禽類等の生態系が破壊される危険があるとされている。大井川の水が、トンネルに毎秒2トン漏水する結果、大井川下流域の約62万人の飲料水、農業用水、工業用水に影響を与える、などの理由で、住民による訴訟も各地で行われている。

 ついでに触れておくと、日本の鉄道が新橋ー横浜間で初めて開通したのは、今からちょうど150年前の1872年(明治5年)のことであった。その時は、全線29キロを時速32キロで53分かけて走ったが、これは、当時の日本人にとっては、大変なスピードであった。この文明の発達を祝って、新橋駅では盛大な式典が催され、明治天皇と建設関係者を乗せたお召し列車が横浜まで往復運転するなど、国をあげてのお祭り騒ぎをしている。それまでの日本人は、たまに馬や篭に乗ることはあっても、当然のことながら、みんな何処へ行くのにも自分の足で歩いていた。

 例えば、東海道五十三次は江戸日本橋から京都までの125里26町(494km)で、後に延長された大坂(現在の大阪)の高麗橋までの「五十七次」は、137里(538km)であったが、これだけの距離を昔の人は、通常、一日で35キロほどの距離を、7時間かけて歩いていた。時速にすると約5キロで、これで京都までは14~15日、大阪ならば16~17日で辿り着く。道中には風光明媚な場所や有名な名所旧跡なども多く、人々は、てくてく歩いて情緒あふれる(と思われる)旅を続けながら、もちろん、不便、不自由などは感じなかったはずである。それを、今では、東京ー大阪間を、人々は自分の車で高速道を通って、10時間ほどで走り抜ける。頻繁に発着する新幹線に乗れば、3時間で着く。飛行機ならば1時間20分である。それでも飽き足らずに、今度は、リニア新幹線で、所要時間を1時間に縮めるのだという。文明の発達はとどまることなく、このように、人々に薔薇色の幻想を与え続けるようである。しかし、繰り返しになるが、こんな狭い国土の中で人口も減っているというのに、私たちは、そこまで速く走ることに拘る必要があるのであろうか。

 数多くの文明の利器に支えられて生活が豊かになり、苦労の少ない安逸な日々を送れるようになることはいいことには違いない。しかし、問題の一つは、文明の発達が地球の環境にさまざまな悪影響を及ぼしてきたことである。膨大な量の木材の伐採、産業廃棄物による公害の発生、土壌、河川の汚染、さらには、化石燃料の大量消費による二酸化炭素の排出などで、近年は、海洋や大気にまで汚染が広がって、地球上の各地で旱魃や豪雨などの異常気象を惹き起こしたりしている。そんななかで、今年2月には、ロシアのプーチン大統領が、ウクライナへ侵攻し、核兵器使用の可能性も示唆して世界に衝撃を与えた。戦争というのは常に効率よく人を殺すことを目指すもので、そのための武器開発に鎬を削って、一面では、文明発達の温床でもある。なかでも核兵器は、文明発達の最たるものだが、それを使って核戦争になれば、今度は世界が滅びる。それもわからず、この権力者が、核兵器を使うことで自分の国だけが勝利して生き延びるとでも考えているとしたら、救い難い愚かさである。

 社会生活面では、先日、7月2日には、携帯電話大手のKDDIが通信障害を起こし、全面復旧まで86時間を要して、約3,915万回線でトラブルを与えた。2018年12月には、ソフトバンクが、通信障害で、約3,060万人に影響を与えているし、2021年10月には、NTTドコモも、同じく1,290万人の通信を困難にしていたから、この種の文明の利器も、便利には違いないが一旦故障すれば、広範囲な被害を及ぼすことになる。このような通信障害のことなどは、或いは些細なことかもしれない。しかし、現在私たちがしばしば直面している異常気象や、ロシアのウクライナ戦争によるエネルギー不足などで、大規模な停電などが起こったりすれば、その影響は重大である。しかも、それが十分にあり得ることを、私たちは、ついこの間、6月30日に政府によって解除されたばかりの「電力需給ひっ迫注意報」で思い知らされてもいる。

 文明の発達につきまとう影は、このような物質面のもたらす負の部分のことだけではない。私たちが何よりも留意しなければならないのは、それを受け止める心の問題であろう。人類の長い歴史を通じて、文明の発達は、私たちの生活が少しでも楽に、より快適になるようにと、私たちが担ってきた多くの痛み、苦しみ、不便などを取り除いてきた。それは確かに好ましい、いいことだが、実は、いいことばかりではない。そこでは、「生きる意味」がどんどん見失われていく、と哲学者の森岡正博氏はいう。氏は、痛みを排除する仕組みが社会の隅々にまで張り巡らされた現代文明のありようを、「無痛文明」と名付けて、「『無痛文明』に生きる残酷さ」という小論のなかで次のように述べている。

 「つらいことに直面させられ、苦しみをくぐり抜けたあとに、自分が生まれ変わった感覚を抱くことが人間にはあります。古い自分が崩れ、新しい自分に変わったことで感じる喜び。それは人間の生きる意味を深い部分で形作っているはずです。無痛文明とは人々が生まれ変わるチャンスを、先手を打ってつぶしていく文明なのです」(「朝日」2022.06.07)

 少しでも楽に、少しでも便利にと、より快適な生活を追い求めることに慣れきってしまっている私たちは、いまコロナウイルスの感染急拡大の第7波のなかで、人それぞれに多少の不自由、不便を強いられている。コロナ禍がもう3年目にもなって、経済は停滞し、生活に不安を抱えている人々も、決して少なくはない。政府は、今度の第7波では「経済をまわしていくため」に行動制限を考えていないという。「経済をまわす」というのは、要するに、出来るだけ多くの人々が出歩いてお金を使い、出来るだけ多くのモノを買うことを意味する。質素倹約というのは、古来、日本の美徳であったはずだが、いまの日本では、ほとんど死語になってしまった。もし人々が一斉に質素倹約に努め、モノを買うのも控えるようになったら、経済は忽ち破綻する。自転車操業と同じで、人々がモノを次々に買い続けなければ、資本主義は成り立たずに倒れてしまうのである。いまさら、東海道五十三次を歩いて旅をした時代には戻れないように、私たちが、快適な、不便、不自由のない「無痛文明」の外へ出て生きていくことは出来ない。そして、そのことから起こる何よりの問題は、霊的存在としての本来の人間の姿を見失いがちになってしまうということである。

 私たちは、もともと、霊性の向上を目指してこの世に生まれてきた肉体を纏った霊であるが、文明の発達は、霊性の向上とは必ずしも相関しない。むしろ、痛みも苦しみもなく、不便、不自由もない安逸な生活を求め続けて、「無痛文明」にどっぷりと漬かってしまうようになってしまっている現在では、私たちは、「霊性の向上」からは遠ざかってしまっているようにも思える。コロナ禍で、若干の不便、不自由を強いられているこの機会に、私たちはもう一度、私たちは誰か、なぜこの世に生まれてきたのか、といういのちの原点に立ち返ってみることも必要なのではないであろうか。

 私たちは、霊性の向上の上でも未熟な存在で、未熟であるがゆえに、それを克服して向上していくために、親を選び、環境を見定め、学ぶべき課題を携えてこの世に生まれてきた。そのことは、私たちは何度も、霊的真理の学びの中で確認してきている。そして、そのための学びに必要なのは、喜びでなくて悲しみや苦しみであり、自由、便利、安全ではなく不自由や不便、困難であることも、教えられてきた。つまり、学びのために必要な環境とは、「無痛文明」とは相容れない関係にあるともいえる。シルバー・バーチは、「地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたものすべてが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです」という。そして、こう続けている。

 「過去を振り返ってごらんなさい。往々にして最大の危機に直面した時、最大の疑問に遭遇した時、人生でもっとも暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台になっていることを発見されるはずです。いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みもなく、困難が生じても自動的に解決されてあなたに何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ一つ転がっておらず、征服すべきものが何一つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを一つひとつ克服していく中にこそ得られるのです。」(『シルバー・バーチの霊訓(4)』 p.41)

 シルバー・バーチは、また、「霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験してはじめて、それを理解するための魂の準備が出来あがるのです」とも言っている。私たちは、霊性の向上のために、ほかならぬその霊的真理を「実生活の場で真剣に体験」しようとして、この世に生まれてきたはずであるが、それでいて、痛みも悲しみも不自由、不便もない安逸な生活に埋没してしまっていては、真剣に体験することも出来ずに生まれてきた意味も失われてしまう。「無痛文明」では、霊的存在である人間が霊性を向上させるための条件を備えてはいないのである。その条件について、シルバー・バーチは、さらに続けて、こう述べている。

 「その点がどうもよくわかっていただけないようです。タネを蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりますまい。養分が揃っていても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまく揃った時にようやくタネが芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。
 人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇です。何もかもうまく行き、鼻歌まじりの呑気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて、霊的知識を理解する素地が出来あがるのです。」(『古代霊は語る』pp.116-117)

 もう 3年目になるコロナウイルスの全国的な感染、ロシアによるウクライナへの侵攻、安倍前首相の殺害などから、「サル痘」の国内初めての感染確認、季節外れの大雨による水害や鹿児島・桜島の爆発的噴火、さらにはヨーロッパやアメリカなどでの時ならぬ熱波の襲来や、大規模な森林火災の発生など、気が滅入るようなニュースが後を絶たない。一昨日、7月26日には、14年前の秋葉原無差別殺傷事件で17人を殺傷した加害者の死刑が執行されたことが大きく報じられたりもした。現在の社会も、うわべは「無痛文明」を装っていても、内実は五濁悪世のままである。霊的視点からみれば、しかし、これらの暗いニュースも、霊性向上のために私たちが学ぶべき教材の一部であるに違いない。私はいま、文明の発達と霊性の向上が相克するこのような世の中で、コロナ禍を経験しながら人並み以上に生き延びていることの意味を、改めて私なりに考えさせられたりしている。




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   アン・ターナーの霊界からのメッセージ    (2022.08.22)


 アン・ターナーは、2010年8月22日に霊界へ還っていった。今日は、彼女の12回目の命日である。アン・ターナーについては、私の著書『天国からの手紙』(学研パブリッシング、2011)をはじめ、このホームページでも、「アン・ターナーと私」(「プロフィール」Ⅵ)、「アン・ターナーの命日に憶う」(「寸感・短信」2013.08.22)などに、いろいろと書いてきた。今日の命日にあたっては、彼女の霊界からのメッセージの一部を取り上げ、改めて、アン・ターナーと私の家族との「奇しき縁」といったようなことについて、書き残しておきたい。

 1991年春から1年間、私はロンドン大学客員教授として渡英し、ロンドン郊外のロチェスターに住んでいた。週の半分、講義と下調べで大学へ通うほかは、自宅の芝生の庭に面した居間の片隅で、研究テーマの「日英比較文化論」についての資料集めや原稿執筆などで時間を過ごしていた。大英心霊協会のことはよく知っていたが、ミーディアムに会う前に、充分に気持ちの準備をしておかねばならないと思っていたので、シルバー・バーチの原本を買い集めて熱心に読んだりもしていた。私がロンドンの生活にも慣れてきて、初めて大英心霊協会でアン・ターナーと会ったのは、翌年の1992年2月4日のことである。その日の午後、私は、アン・クーパーという名の女性霊能者の 2度目のシッティング(Sitting、霊能者の前に座って霊界からの情報を受けとること)を予約していたので、大英心霊協会へ行き、二階の待合室になっている「リンカーンの間」で、ひとりで座っていた。

 そこへ一人の中年の女性が入ってきた。ベネトンのブランド名の入った白いトレーナーシャツのようなものを着ている。私は、「あなたもシッティングにこられたのですか」と聞いた。すると彼女は、「いや、私はここのミーディアムなのです」と言って、名刺を一枚私にくれた。それが、アン・ターナーであった。彼女はすぐに部屋を出ていったのだが、名刺をみると、住所がロチェスターになっている。しかも、その住所は、私の家からは歩いても10分くらいで行ける距離であった。私はその時、なんとなく因縁めいた親しみを感じて、そのアン・ターナーの名刺を大事にしまいこんだ。

 その時、私は、アン・ターナーとは会うべくして会ったことが、いまではわかっている。霊界からの計らいであった。アン・ターナーの指導霊は、彼女が Teacher Chang と呼んでいる中国古代の高位霊で、彼女にとっては神のような「大先生」である。彼女は霊視で見えるその大先生の容貌を自分でスケッチして、その肖像画を自宅の祭壇の上に掲げていた。霊界では私の長男の潔典(きよのり)がこの Teacher Chang に依頼し、それを受けて大先生が、大英心霊協会でアンと私が出会うように導いたということのようである。私は、その日、アン・クーパーとのシッティングが終わった後、協会入口の受付で新しくアン・ターナーとのシッティングを予約した。そして、2月11日にまた大英心霊協会へ出向いて、今度はミーディアムとしての彼女の前に座ったのである。

 期せずして、その 2月11日は、終生、私の忘れられない日になった。私と家族のことなど何も知らないはずの彼女が、いきなり、「いまあなたの前には息子さんが立っていて非常に感動している様子だ」と言い出した。私はひと言もしゃべらず、黙って聞いていた。彼女は続けて、「息子さんは身長が5フィート8インチ(173センチ)くらいで、聡明な顔つきに見える」と言った。これは、数日前のアン・クーパーとのシッティングでも言われたことで、特に驚くことはなかった。ところがアン・ターナーは、さらに、「息子さんが、自分の名前を『キ・ヨ・ノ・リ』と名乗っている・・・・」と続けたのである。私は激しくこころを打たれた。そのあとも、次々に彼女は、1983年、飛行機事故、家族だけしか知らない私の足の傷跡のこと等々、極めて正確に真実を描き出していった。言っていることにひとつの間違いもなかった。あり得ないことが起こって、一言もなく耳を傾けていた私は、ただ、深く項垂れるばかりであった。

 あの時、やはり潔典はそこに来て、私の目の前に立っていた。「非常に感動した様子」を見せながら――。潔典は生きている。その他の可能性は何も考えられなかった。この重大な事実を前にして、それまでの私の、霊の世界や死後の生命に対する長年の無知蒙昧、疑惑、不信、逡巡などは一瞬にして吹き飛ばされた。私はその時から、否応なく、霊的真理に目覚めていくことになったのである。アン・ターナーの霊能力のお陰であった。もしかしたら、そのシッティングを、高位霊Teacher Chang も霊界から見守ってくれていたのかもしれない。

 私は、その後、アン・ターナーの家でも、何度も彼女の前に座って霊界からのメッセージを受け取っていたが、一度、その Teacher Chang から頭を優しく抱きかかえられたことがある。大先生は、それまで何年もの間、悲しみ苦しみ嘆いてきた私を憐れんでくれたのであろう。それはその時の感じで私にもわかった。しかし、現実に私を抱きかかえているのはアンである。私はちらっと彼女の目を見たが、それは深く沈んだ空虚な目であった。霊界と交信しているその時のアンは Teacher Chang になりきっていて、そのような自分の動作は何も覚えていない。そんな時には、仮に自分の腕や足を切り取られたとしても、何の痛みも感じないだろうと、アンは目覚めたあとで私に言った。

 大英心霊協会に所属する数十人のミーディアムたちは、みんな優れた霊能力の持ち主であった。自分たちの霊能力を人々を救うために役立てたいと、30分のシッティングで、日本円に換算すると1,500円くらいの、ほとんど交通費だけの安い料金で奉仕活動を行っている。特に、心霊治療のヒーリング・コースなどは無料であった。患者が難病を治してもらったりしてお礼の気持ちを伝えたければ、協会の入口に設けられている小さな募金箱に気持ちだけの寄付をすればよいことになっていた。霊的真理を伝えるのに、金銭的利益を求めてはならないのであろう。だから、大英心霊協会のミーディアムたちは、みんな謙虚で献身的であった。

 私は、そのうち 20人ほどのミーディアムたちから、矢継ぎ早に、シッティングを受けていた。それぞれに極めて正確度の高いメッセージを私に伝えてくれたが、そのようなミーディアムのなかでも、アン・ターナーは群を抜いた霊能力の持ち主で、私にとっては特別の存在であった。彼女は大英心霊協会で初めて会って以来、その後十数年にわたって、霊界にいる妻・富子、長男・潔典とこの世の私とを結ぶ貴重なパイプ役になってくれたのである。このことについても、私は、著書やホームページにいろいろと書いてきたから、ここでは繰り返さない。

 イギリスでの一年の滞在を終えて、1992年4月に日本へ帰国してからも、私は毎年のように、夏休みや春休みにイギリスへ出向いて、彼女の自宅を訪れ、霊界からの妻と長男からのメッセージを受け取っている。特に、長男・潔典の誕生日である 6月5日には、毎年、私から潔典宛ての手紙を書き、それに対する返事を、アン・ターナーを通じて、潔典から受け取るのが慣わしになっていた。彼女が後にウェールズへ転居した後も、それは一度も欠かさず続けけられていたが、2008年の6月になって初めて、その「文通」は中断された。アン・ターナーの右肺にがんが見つかり、病院で受けはじめていた化学療法のせいで、体力と気力が衰えてきたからである。

 病院では、彼女の右肺を手術で取り除き、そのあと放射線治療を続けることを考えたようであるが、肺気腫も両方の肺に認められて、生命の危険が伴うということで手術には踏み込めなかった。しかし、化学療法を何か月か続けても症状は改善せず、肺がんはさらに大きくなってきたので、医師たちは相談のうえ、6週間の集中強化放射線治療を試みることになった。これにも生命のリスクは伴うが、その方法しか取るべき手段はないということで彼女も同意せざるをえなかったらしい。

 その年2008年の8月5日、その集中強化放射線治療を受けるために、指定されたサウス・ウェールズの放射線専門病院を、アン・ターナーは夫君のトニーに伴われて訪れた。たまたま、8月5日は、彼らの結婚記念日でもあった。予約は午前11時であったが、10時前にはもう病院に着いたらしい。アン・ターナーはかなり緊張していたという。待合室に隣接する小さなコーヒー・ショップで、夫君とお茶を飲みながら診察の時間を待つことにした。

 そのコーヒー・ショップの片隅には、200~300冊くらいの古本を並べた書棚があって、その売上金は、がん研究のために寄付されることになっていた。お茶を飲み終わった夫君のトニーが立ち上がって、その書棚の前でふと目に留まった一冊の本を取り上げた。それが1983年の大韓航空機事件を扱った R.W.Johnsonの 『SHOOT DOWN (撃墜)』であった。トニーからその本を受け取ったアン・ターナーは、この「偶然」にことばを失うほど、ひどく驚いたらしい。わざわざその本の写真を撮って私のところへ送ってきた。その手紙で、私は、その時も彼女が、霊界の富子と潔典のふたりと会話を交わしていたことを知った。そこには、次のように書かれていた。

 《……そこで、トニーが取り上げたただ一冊の本が、大韓航空機事件を扱ったこの本だったのです。これで、私は、富子さんと潔典君が来てくれていることがわかりました。富子さんと潔典君は、私が、その病院を選んでその日に訪れていることが、治療のためには非常によいことだ、などと話してくれました。》

 夫君のトニーも霊能力者であるが、私は彼には家族のことは何も話していない。私の妻と長男が大韓航空機事件の犠牲者であったことも知らなかったはずである。しかし、そのときは何かを感じ取っていたのかもしれない。アン・ターナーにも、事件のことは私自身からはほとんど何も話していないが、彼女は、霊界にいる私の妻や長男とはミーディアムとして何度も会い、話をしているので、事件だけではなく、富子と潔典のことは、それぞれの容貌から性格、人となりを含めて、熟知していたといってよいであろう。

 アンとトニーは、そのとき、富子と潔典も、その場に来ていることを察知して、一度に緊張や不安が消し飛んだという。やがて診察室に呼ばれて、その病院での最初の診察を受けたときには、富子と潔典はアンの手を握りしめて、彼女を励まし、慰めていたらしい。その様子が彼女の手紙には、こう続けられている。

 《トニーも私も、信じられないほど元気づけられたのです。緊張が一度に解けて、すっかり楽になりました。私が診察室へ入ってからも、富子さんと潔典君は、そばにいてくれました。私の手を握って私を慰め、温かい愛と癒しの力で私を包んでくれました。私が診察の間、目を閉じているときにも、ふたりからの光が感じ取られました。
 誰があの本を、この待合室に寄付したのかわかりませんが、霊界では、私が 2008年の8月5日に、そこへ行くことを予知してその本を置いてくれていたのでしょう。それは、霊界からも見守ってくれていることの証しです。毎日、霊界から愛を送ってくれていることに、私たちは感謝しています。》

 霊界では、すべてお見通しで、8月5日にアン・ターナーがその放射線専門病院に来ることも、彼女よりも先に知っていた、というのであるが、それはおそらく、その通りであろう。ただ、アンは、その日にその病院で、最初の集中強化放射線治療を受けることになると思っていた。しかし、それは、そうではなかった。その日の診察は、右の肺がんの大きさや位置を改めて確かめ、強度の放射線を正確にがんに照射するための予備的な診察であったらしい。手順を誤ると生命に関わるので、その予備的処置には、その後の診察を含めて何週間もかかった。そして、やっと、最初の放射線を照射する日が決まった。それは9月1目であった。奇しくも、大韓航空機事件の起こった日と同じで、私の妻と長男の命日である。

 2008年9月1日――。その日には、私は、北海道・稚内の「祈りの塔」の前で行なわれた事件後25周年の慰霊祭に参加していた。「祈りの塔」には、私が書いた「愛と誓いを捧げる」の詩文と英文の「事件概要」のほか、犠牲者269人全員の名簿が壁に刻まれている。そのなかの「武本富子」、「武本潔典」の名を私は行くたびに辛い思いで見直していた。この同じ9月1日に、時差の違いはあるが、遠く離れたイギリスのウェールズで、アン・ターナーは生命のリスクが決してないとはいえない最初の強力な放射線治療を開始していたのである。別の手紙で、彼女は、その「偶然の一致」を、こう伝えてきた。

 《あなたが稚内で、慰霊祭に参加しているとき、私は最初の放射線治療を受けていました。そのときも、富子さんと潔典君は、私に癒しのエネルギーを送ってくれていました。私はそのことを、こころから感謝しています。》

 その日も、富子と潔典は、放射線治療室に横たわるアン・ターナーのそばにいて、癒しの手を差し伸べていたというのは、不思議といえば不思議であるが、彼女にはそれがわかるのであろう。アン・ターナーは、事件後、無知で頑迷な私を救い出すのに大きな役割を果たしてくれた。私は彼女のお陰で、悲歎と絶望の淵から生き返ることが出来た。富子と潔典も、その彼女には、私と同様に、あるいは私以上に、深い恩義を感じているはずである。彼らは彼らなりに、少しでも、彼女への誠意と感謝の気持ちを示したかったのかもしれない。

 そのアン・ターナーは、9月1日からの放射線治療で、期待以上の成果があったらしい。少なくとも、肺がんのそれまで以上の成長は止められた。彼女はその後も病院通いは続けたが、そのころの手紙では、肺がんを根絶することは無理にしても、いまは、がんが「冬眠状態」になったと医者に言われている、とあった。そして、「私はいまはとでも元気です」と、付け加えていた。

 その療養生活の間に、彼女は、かねてからの念願であったスピリチュアリズムの本を書きはじめ、翌年の 2009年に、夫君のトニーとの共著で 『LIVING BREATHING SPIRIT(「霊は元気に生き続ける」、Con-Psy Publications, Greenford, Middlesex,2009)を出版した。さらに次の年の春には、同じく夫君との共著で、『WALKING WITH SPIRIT(「霊と共に歩む」、Con-Psy Publications, Greenford, Middlesex, 2010)も出版している。この二冊とも、その中には、私との十数年に及ぶ手紙のやり取りや、霊界にいる私の妻と長男への「文通」なども含まれている。しかし、この出版の後、アン・ターナーは、肺がんが進んで、2010年8月22日に、霊界へ還っていった。いまとなっては、この二冊の本は、私に遺された彼女の形見になった。

 生前のアン・ターナーは、死を少しも怖がってはいなかった。痛いのはいやだが、死ぬのは平気だと言っていた。その彼女は、霊界の安らかな生活も熟知していたから、少しも迷うことなく、穏やかに霊界へ還っていったはずである。大先生の Teacher Chang からも、「よく帰ってきた」と愛娘を迎え入れるように歓迎されていたにちがいない。いまも、霊界でいろいろと導かれて、霊的真理の学びを深めていることであろう。

 私は、霊界の妻や長男を含めて、このように、彼女とはいわば家族ぐるみの付き合いをしてきた。彼女は富子や潔典ともすっかり「顔見知り」になっていたから、これはこの後でも触れるが、霊界でも懐かしい「再会」を果たしていた。しかし、私自身は、もうこの世では彼女とは会えなくなってしまって、やはり、淋しい気がしてならない。葬儀は2010年8月31日に行なわれたが、その頃の私の体力では、アンの家のあるイギリスのウェールズまで行けそうもなかった。香典を送って、トニーに霊前に私からの花束を捧げてくれるようにお願いした。

 その翌年、2011年(平成23年)3月11日に東日本大震災が発生した。私は、その頃、『天国からの手紙』の原稿の終章を書き始めたところであった。やがて本文原稿のすべてを書き終えて、「あとがき」のなかで、私は次のように書き加えた。

 《・・・・・・いまは、何よりもまず、被災者の方々が立ち直っていくために一番必要なものは何か、を考えていかねばならない。もちろん、それは、食べ物であり、水であり、燃料であり、住む家である。ライフラインの早急な復活も切実である。しかし、それだけでは、人は生きていけない。やはり、被災者の方々が立ち直っていくために何よりも必要なことは、「いのちの真理」を知ることであろう。それが一番大切である。私がそれによって、立ち直ることが出来たように。
 私たちは、この地上世界で、狭い、短い、物的な尺度でしかものを見ないが、その尺度では、この世は、不公平だらけである。特に、今度の大震災では、その不公平感が最大限に拡大されていてもおかしくないように思える。しかし、誤解を恐れずに言えば、宇宙の摂理のなかでは、不公平はない。地上生活は永遠の生命から見れば、ごく短い、一瞬でしかないから、そこでは不公平に大きく傾くことがあっても、霊的な永遠の天秤では、やがて必ず平衡を取り戻すのである。
 愛するご家族を失って嘆き悲しんでおられる多くの被災者の方々には、涙を禁じえないが、それらの方々にも、あえて私は申し上げたい気がする。愛するあなた方のご家族は、決して「死んで」はいない。私の愛する家族が死んでいないように・・・・・》 

 この『天国からの手紙』の出版も、実は、天の計らいであった。霊界の潔典も企画の段階から関わっていたようである。すべて霊界からの示唆と支援により、ことがすらすらと運ばれていった感じで、私が発案して出版社へ持ち込んだのではない。かねてより、霊能者たちからの「予言」で、この種の本を出版することになることは知らされていたが、アン・ターナーの死後、しばらくして、思いがけなく出版社と編集者たちからの要請をうけて、この本を書き始めることになったのである。その時の本書担当の編集者のひとりが Sさんで、彼女は有能な霊能力者である。

 この本は、東日本大震災の 2か月後に出版されて、2011年6月5日には、東京都江東区の清澄庭園「大正記念館」で、出版記念講演会が開かれた。6月5日は潔典の誕生日なので、講演会終了後、近くのレストランで、編集者の方々が、潔典の誕生祝いを兼ねて、出版祝賀会を開いてくれた。編集者の Sさんは、この本の出版にあたって、霊界の潔典から、題名が「天国からの手紙」になること、江原啓之さんに推薦文を依頼することなど、度々メッセージを受け取っていたようである。そのなかには、私宛の手紙も何通か含まれていた。この出版祝賀会の時も、Sさんから席上で、潔典から私への新しく届いた手紙を手渡された。

 そのなかで、潔典は、「アン・ターナーはこちらに参りました。神々様のお使いになるべく、日々、修行に励んでおります、僕たちとは縁で結ばれた方です。お互いにお互いを救う境遇にあります。こちらにおいても、現世のお父さんたちをも含めて、お互いに導き、助け合うことが行われるのです・・・・・」などと、書いている。そして潔典は、アン・ターナーから託された私への手紙を、「アン・ターナーからお父さんへ」として、つぎのように彼女のことばを伝えてきた。

 《私たちは縁があって、めぐり合い、共に歩んでまいりました。私はこの縁を大変有難く思っています。こちらに来て、キヨノリとめぐり合い、富子さんともお会いしましたが、思っていた通りの方々でした。素晴らしい方々です。
 私はおふたりに大変お世話になりましたが、これも、ショウゾウ、あなたとの縁が結びつけてくれたものです。さまざまなつながりの中で、人と人が和すること、これこそ日本人が本来もつ素晴らしい資質ですね。
 いま日本は、大震災で大変な時にありますが、あなたのその苦しみの経験から得たものを用いて、多くの人々が目覚める導きができることを、こころから願っています。
 霊界はなかなか良い所、素敵な所ですよ、ショウゾウ――、あなたがいらっしゃるのを楽しみにしています。どうかお体に気を付けて、それまで、多くの人々を導く活動を続けて下さい。
 そうそう、たまには、トニーにも連絡してあげてくださいね。私は元気でいることをお伝えください。それでは、またお会いしましょう。―― アン・ターナー》

 手紙では、このあとまた、潔典の、出版を祝うことばが続くのだが、長くなるのでその部分は割愛する。ただ、アン・ターナーが、サウス・ウェールズの放射線専門病院で最初の診察を受けたとき、富子と潔典がアンの手を握りしめて彼女を励まして以来、アン・ターナーが霊界へ還ってからも、このように富子と潔典との和やかな交流が続いていることは、私にとっても有難いことである。いま 92歳の私も、やがてその仲間にいれてもらうことになるであろうが、その私には、アン・ターナーの「霊界はなかなか良い所、素敵な所ですよ」 といっていたことばが、殊更に優しく響く。その彼女の、今日は、没後12年目の13回忌を迎えて、私は改めて、アン・ターナーとの家族ぐるみの奇しき縁を思い浮かべながら、彼女の霊界での神の使徒としての恙なき修行を、こころからお祈りしたい気持ちである。








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