1998.4.20 発行
 こすもすセミナー特別講演

 いのちを慈しみ
  
     明日に向かって生きる



      武 本 昌 三


   かつての私自身の
  希望のない呻吟の日々を思い起こしつつ
  このささやかな拙文を
  人知れず生活の重荷に悩んでいる方々に
  そして誰よりも
  いまなお死の影のなかで悲しみ苦しんでいる方々に
  こころを込めて捧げる



    は じ め に

 この講演を始めるにあたり、講演の内容に関係してまいりますので、簡単に私の経歴の一端に触れさせていただきたいと思います。
 私は、十数年前まで、北海道の札幌に長年住んでいて、小樽商科大学と北海道大学で教鞭をとっておりました。かつての私には、アメリカで暮らした経験が三度あります。一度目は留学生としてでした。太平洋岸のオレゴン州のユジーンという街に州立のオレゴン大学がありますが、そこに二年近く滞在して大学院を修了しました。それが一九五九年のことです。帰国してからは大学で教鞭をとるようになり、それは今も続いています。
 二度目のアメリカ生活は、それから一四年後になります。一九七三年の暮れから一九七五年の春にかけて、私は文部省の在外研究員としてアメリカへ渡り、母校のオレゴン大学で客員教授を勤めました。その時には、妻と中学一年の長女、小学校五年の長男が一緒でした。子どもたち二人は、現地の学校へ通い、夏休みには家族四人でアメリカ一周旅行をしたり、ヨーロッパを車でまわったりして、大変思い出深い一年を過ごしました。
 三度目は、それから八年後です。一九八二年になって、私はフルブライト上級研究員に選ばれ、今度はアリゾナ大学で客員教授を勤めました。アリゾナ大学の留学生となった長女と二人で、大学のあるツーソンという町に住んでいましたが、その時は、妻と東京外国語大学の学生であった長男は東京に残りました。この三度目のアメリカ生活で、私たち家族は、全く予想もできなかった国際的な大事件に巻き込まれることになります。
 その翌年、一九八三年の夏に、私は東部のノース・カロライナ大学に移り、長女もその大学に編入学して、首都のローリーという町に住んでいました。そこへ、夏休みを利用して、東京から妻と長男がやってきて、私たち親子四人は、久しぶりに家族水入らずの生活を送りました。いろいろとノース・カロライナやバージニアの各地を旅行したりして、楽しい一か月を過ごしましたが、妻と長男は、この夏休みを終えて帰国するときに、あの大韓航空〇〇七便に乗ってしまったのであります。妻と長男は、九月一日未明、日本を目前にしたサハリンの海上に散らされました。
  私は、大学で教壇に立つこともできなくなり、長女と一緒に帰国してからは、寝たきりの病人のような状態になりました。起きていることだけでも苦しくて、私は昼も夜もただ眠り続けました。眠ってさえいれば、悲しみからは一時的にでも逃避することができます。だから、目を覚ますことを恐れました。目を覚まして過酷な現実に直面すると、悲しみよりも痛みが全身を突き抜けます。私はもうろうとした精神状態のなかでうつらうつらしながら、目を覚まして正気に戻ると、また慌てて眠ろうとしていました。
 その当時のことを思い出しますと、いまこうして、皆さんの前でお話ししているのが不思議なような気がいたします。その頃は、妻や長男のことを話そうとしても、声も出ませんでした。のちに私は、『疑惑の航跡』(潮出版社)という本のなかで、この極限状態の自分を書くことになりますが、それをここでくり返すつもりはありません。ただ、こういう状態から、長い年月を経て、私は少しずつ、本当に少しずつ、生とは何か、死とは何かを、考え、学び、掴み始めていったということを、はじめに、申し上げておきたいのであります。


  一  祈 り へ の 道

  事件が起こる前までの私は、宗教とか霊界とかには、全くといってよいほど縁のない無知な人間でした。家には仏壇があって、浄土真宗の法名で父や母の位牌がありますが、浄土真宗のこともほかの宗派のことも殆ど何も知りませんでした。その私が、いつの頃からか、毎朝お経をとなえるようになりました。お経のことは何も分からず、それでも毎朝お経をとなえていました。お経をとなえていると、自然に涙が出てきます。お経のことは何もわからないわけですから、お経が有り難くて涙が出るのではありません。ただ悲しくて涙が出るのです。あまりにも自分が惨めでつい泣いてしまうのです。しかし、それでもほかに為すすべもなく、毎日お経を読んでいました。
 浄土真宗のお経の中に、「仏説阿弥陀経」というのがあります。お釈迦様が大勢の弟子たちを前にして、西の方はるか彼方に、極楽という世界があることを教えているお話です。そこでは阿弥陀仏が今も法を説き続けている。その極楽というのは光り輝く壮麗な世界で、人は誰でも、阿弥陀仏の名号を唱えることによってその極楽に往生できる。そしてそのことは、東西南北上下の六法世界の数多くの諸仏によっても証明されているのだ、というような内容だと思います。私は、このお経のなかで、「これは嘘ではない、本当のことなのだ」と何度も何度もくり返して述べられていることばに、わずかながらも心を癒されているような気持ちになることがありました。
 それでも、「はるか西の彼方に極楽がある。これは嘘ではない」と言われても、つい「本当だろうか?」と思ってしまいます。地球は球形で一回りすると約四万キロです。今は飛行機で割合簡単に地球を一周できますから、日本から飛んで西へ西へと行けば、またもとの場所、つまり日本に戻ってきてしまいます。極楽はどこにあるのでしょうか。地球の上ではなくて、それは、西の空のかなたにあるのだ、と言われても、そこには無限の大空が宇宙の果てまで広がっているだけです。極楽とはその空の彼方にあるのでしょうか。それこそ何か、雲を掴むような話で、どうも実感が湧かないような気がしてくるのです。
 結局、極楽などというものは一種の気休めであるに過ぎない。人間というのは、他の生き物のすべてがそうであるように、死んだらそれでおしまいで、あとは灰になるだけだ、というように考える人が少なくないのも致し方のないことかもしれません。実際、人間が死んで葬儀が終われば、火葬場に運ばれて目の前で灰になっていくわけですから、「死んだらそれで終わりだ」という言い方には、それなりに、説得力があるようにも思われます。そのような「迷い」に対して、かって空海は、次のように述べました。

 生まれ、生まれ、生まれ、生まれて
 生の始めに暗く、
 死に、死に、死に、死んで
 死の終わりに冥し。

 これは 『秘蔵宝鑰』という本に残されている空海(弘法大師)のことばです。人間は生まれては死に、死んでは生まれて、何度も何度も輪廻転生をくり返すものだが、いったい何度生まれ変わったら、この生と死の真理が理解できるようになるのだろうという、空海の嘆きが伝わってくるようなことばです。
 空海は、ご存じのように、平安時代の高僧で、七七四年に生まれて、八三五年に亡くなっています。自分の死ぬ日時を、三月二一日の寅の刻(午前三時〜五時)と予言し、弟子たちに「嘆くなかれ」と戒めつつ、予言通りに死んでいきました。この空海の死んでいく場面は映画にもなっていますが、死ぬ前の一〇日あまりは五穀を断ち、自ら体を浄めて宇宙の大日如来のもとへ帰っていくことになっています。
 私たちはどうも見える世界だけがすべてで、見えない世界のことについては関心が及ばないのかもしれません。自分の目で見えるものは信じられるが、見えないものはなかなか信じようとはしないのです。生の始めも、死の終わりも、実は「目に見えないもの」を心の目で見ることがでなければ、理解できないことを空海は教えようとしていたのでしょう。
 大切なのは、目に見えるものではなくて、目には見えないものです。霊の世界がそうです。そしてそれは、狭い現代科学の領域と次元をはるかに超えています。般若心経には、「照見五蘊皆空度一切苦厄」とありますが、ここでも、すべてのものの実体は「空」、つまり、見えないもので、見えるもの「色」は、実は仮の姿でしかないことをいっているのだと思います。しかし、当時の私には、そういうこともわかっていませんでした。 
 一九八三年の十一月下旬のある日、札幌の自宅でほとんど寝たきりのような毎日を送っていた私は、ふと妻の友人に霊能者の青木耀子さんという方がおられたことを思い出して、青木さんの自宅を訪れました。私自身は青木さんとは初対面でしたが、その時の私は「溺れる者は藁をも掴む」思いでした。青木さんは、私の顔を見るなり、「もうそろそろ、お見えになる頃と思っていました」と、いきなり言われました。彼女は、事件のあと、私の妻・富子と長男・潔典(きよのり)のために二週間の供養をして下さったのだそうです。そして、霊界の富子と潔典とも話しをした、と切り出されたのです。
 「話しをした?」 私は内心の激しい動揺を懸命に抑えながら、黙って聞いていました。青木さんはつぎのように言われました。
 「霊感を感じましてね、精神を統一していると清らかな雰囲気に包まれて潔典さんが現れたんです。私は最初、それは富子さんだと思ったのですが、よく見ると、潔典さんでした・・・・・」私は極度に緊張しながら、一瞬、(そんなことが本当にありうるのだろうか)と思いましたが、ただ黙って聞き続けました。彼女はさらに、こう続けました。
 「潔典さんはですね、はじめに『ありがとう』とおっしゃって、それから『楽しかった』と言われました。私が、『アメリカ旅行が楽しかったのですか』と聞きますと、潔典さんは『いいえ、アメリカ旅行だけではなくて、今までの生活がすべてです』と答えられました」
 ここまで聞いて、私は思わず、こころのなかで「あっ」と叫んでいました。直感で父親の私にはわかるのです。「ありがとう・・・・・楽しかった・・・・・今までの生活がすべて・・・・・」これは潔典のことばだと直感でわかった瞬間、涙がぽろぽろとこぼれました。
 霊界のことなど何も知らなかった私は、あまりにも不思議な気がして、三日後にはまた青木さんを訪れ、潔典のことばを確認したりしました。そして、その後何度か足を運んでいるうちに、妻の富子からも、「どうか、いつまでも悲しまないでください・・・・・由香利に夢を、いつも明るい希望を・・・・・」と告げられたりしました。由香利というのは、長女の名前です。このことがあってから、私ははじめて真剣に、霊界や、死後の世界についての本を読み始めるようになりました。


  二  コナン・ドイルからのメッセージ

  一生懸命に死の意味を探り求めようとしていると、少しずつ、いろいろなことがわかってきますが、ここではまず、コナン・ドイルのことからお話しすることにいたしましょう。
 コナン・ドイルは皆さんもご存じのように世界的にも有名なイギリスの推理作家で、あの名探偵の象徴ともいうべきシャーロック・ホームズの創作者です。そのコナン・ドイルは、一八五九年にスコットランドのエディンバラに生まれ、エディンバラ大学の医学部で学びました。医学部を卒業して、イギリス南部のポーツマスで医師を開業しましたが、患者が少なく、暇であったことが、小説に力を入れるきっかけになったといわれています。
 しかし、彼にはもうひとつ、熱心な心霊研究者としての顔がありました。晩年には、文字通り、文筆家としての栄光に満ちた経歴さえ捨てて、多くの国々へ講演旅行に出かけたり、論文を書いたりして、心霊研究の普及のために献身しました。彼は、一九三〇年の七月に七一歳でこの世を去りましたが、死んでからも、霊界から通信を送り続け、いのちが永遠であることの証言を行ってきました。このコナン・ドイルの心霊研究とはどういうものであったか、それをここで、もう少し詳しく、お話しさせていただきます。
 コナン・ドイルも、大学を出たばかりで若かった頃は、人間的な容姿をした神の存在などというものをまだ信じることはできませんでした。宇宙が普遍の法則によって支配されていることは誰も否定できないから、大自然の背後にはおそらく知性を備えた巨大エネルギーが存在する。ただ、それはあまりにも巨大かつ複雑で、ただ存在するということ以上には説明のしようがない。それが、その当時のコナン・ドイルにとっては、神なるものに対する理解の限界であったようです。
 その頃、それは多分一八八六年のことですが、彼は偶然、『エドマンズ判事の回想録』という本を手に入れて読むことになります。その本を書いたエドマンズ判事というのは、当時、ニューヨーク州最高裁判所の判事で、高い人望を得ていましたが、同時に、心霊研究に意欲を燃やしていた心霊研究家でもありました。
 エドマンズ判事は、当初、心霊現象を一種のトリックであると考えて、それを暴く目的で、霊界との通信を試みている交霊界に参加したようです。しかし、どのように考えても真実としか思えない現象を現実に体験させられて、その真相究明に乗り出したのが心霊研究に深入りするきっかけとなりました。いわば、ミイラ取りがミイラになってしまったわけであります。
 けれども、判事という仕事がら、世間の目はやがて批判的になり、「エドマンズ判事は、裁判の判決のことまで霊能者にお伺いをたてている」という噂まで聞かれるようになります。彼はそれを弁明するために、「世に訴える」という釈明文を新聞紙上に掲げたりしましたが、批判はおさまらず、結局、法曹界から身を引いて、自由の立場で心霊研究の普及に努めたという人物です。
 そのエドマンズ判事の本を読んだコナン・ドイルは、まだ半信半疑でしたが、それでも、何かに憑かれたように、心霊関係の本を次からつぎへと読み始めるようになりました。そして、驚いたのは、実に多くの学者、特に科学界で権威を持っている人たちが、霊と肉体とは別個の存在であり、肉体が滅びてもいのちは生き続けることを完全に信じ切っているのを知ったことでした。
 その後コナン・ドイルは、ロンドンにある心霊研究協会の会員になります。それから彼は、協会の所有する調査研究の報告書を片っ端から読んでいきました。やがて一九一四年に第一次世界大戦が始まり、それが一九一八年に終わる頃まで、コナン・ドイルは交霊界にもしばしば参加して、心霊現象の研究に余暇のすべてを注ぎ込んでいきました。
 一方、巷では、戦争の悲劇に嘆き悲しむ人々が増えていました。戦場で散らされた若者の魂がどこへ行ったのかもわからず、戦死者の妻や母親などが泣き崩れています。それを見ているうちに、コナン・ドイルは、物質科学が未だに知らずにいるエネルギーがあるのかないのかという問題よりも、この世とあの世を隔てている壁を突き崩し、霊界からの希望と導きの呼びかけに答えることが何よりも大切なのだと、考えるようになりました。そして、彼の関心は、次第に霊界からの啓示に向かっていったのです。
 このような長い逡巡と懐疑の過程を経て、コナン・ドイルは、死後の実相について、次第に確信を持つようになっていきました。死後の実相については、さまざまな霊界からの通信にあまり矛盾はない。問題はそれらがどこまで正確かということでした。
 彼の考え方はこうです。太古から地球上の各地で語り伝えられてきた死後の世界の概念と比較して、細かい点では相違することがあっても、霊界からの通信がことごとく一致しており、そこに一貫性が認められる場合には、それを真実と受け取ってよい。たとえば、彼自身が個人的に受け取った通信の数は二〇種類ほどですが、それらがことごとく同じことをいっているのに、それがすべて間違っているとは考えにくい。それらの通信には、この地上時代のことに言及しているものが少なくなく、それらは調査の結果、間違いなく正確であると証明されているものが多い。その場合、過去の地上生活に関する通信は正確であっても、現在の霊界についての通信だけは虚偽であるとするには無理がある、と彼はいうのです。
 そして、彼が確信を持っている死後の世界の実相を次のように、述べました。

  死ぬという現象には痛みを伴わず、いたって簡単である。そしてそのあとでは、想像もしなかったような安らぎと自由を覚える。やがて肉体とそっくりの霊的身体をまとっていることに気づく。しかも地上時代の病気も傷害も完全に消えてしまっている。その身体で、抜け殻の肉体の側に立っていたり浮揚していたりする。そして、肉体と霊体の双方が意識される。それは、その時点ではまだ物的波動の世界にいるからで、その後急速に物的波動が薄れて霊的波動を強く意識するようになる。*(1) 
 
 それからのコナン・ドイルは、心霊研究こそは人間が研究すべき最も重要な問題であることを確信しながら、その研究のために、自分の得たすべてを、富や名声や、安逸な生活をも擲って、その生涯を捧げました。そして、彼は、自分が確信していた心霊研究を証明するために、死んでからも、あの世からの通信を送り続けたのです。ちょうど、私の妻や長男が札幌の青木さんを通じてことばを送ってきたようにです。
 コナン・ドイルの場合は、その死後の通信を仲介したのは、アメリカのミネスタという名の女性でした。彼女は著名な心霊研究者で、女流作家でもありました。生まれながらの超能力を持ち、透視や、未来を予見する能力のほか、病気を診断し治療する特殊な才能なども身につけていたといわれています。そのミネスタを通じて、コナン・ドイルはあの世から、数多くの通信を送ってきています。たとえば、そのなかで、彼は次のように言っています。

 何度も繰り返しますが、私たちは死後の世界で今現在、生きています。これを本当に人類に理解してもらいたいのです。
 人間は、死後も生き残るだけではなく、すべての生命の背後には神の力が働いているということ、そして人間がこの神の力を認識し、すべての生きとし生けるものとの同胞愛を持つまでは、人間は決して、永続的なこころの安らぎ、幸せ、調和を見いだせないことをどうぞ理解してください。*(2)  

 コナン・ドイルが一九三〇年の夏に「死んだ」とき、彼の遺体が安置されたイギリス・サセックス州の自宅には、世界中の彼の作品愛読者、友人、知人等からの美しい花々が特別列車によって運ばれてきたそうです。それらの花々で、広い庭もいっぱいに覆い尽くされたといいます。
 コナン・ドイルの葬儀は盛大でしたが、それは一般的な意味での葬儀とは異なっていました。湿った雰囲気とは無縁の、明るく静かなガーデン・パーティであったそうです。数多くの参列者は、ほとんど喪服も着ていませんでした。
 コナン・ドイルのよき理解者であったジョン・ディクソン・カーという人が、『サー・アーサー・コナン・ドイルの生涯』という本を書いていますが、その最後は次のようなことばで結ばれています。
 「彼の墓碑銘を書くなかれ。彼は死んではいない」*(3) 


  三  臨死体験と死後の生

  エリザベス・キューブラー・ロスという名前は、皆さんの中にもご存じの方が少なくないと思います。アメリカのシカゴ大学の精神医学部教授を勤め、末期ガン患者をどのように看護するかというターミナル・ケアの世界的な権威として有名です。日本でも、『死ぬ瞬間』『死ぬ瞬間の対話』『死ぬ瞬間の子供たち』『死ぬ瞬間と臨死体験』などという数多くの本が翻訳されて、読売新聞社から出版されています。
 彼女は、スイスの典型的な中流家庭に三つ子の長女として生まれました。生まれたときの体重は九〇〇グラムしかなく、顔は醜く、毛も生えていなかったそうです。「三つ子の一人として、両親もがっかりするような醜い子に生まれたのは悲劇であった。しかし、こんな九〇〇グラムしかなかった私でも生きる価値はあるのだ。そのことを一生かけても証明しなければならない、と漠然と感じながら、私は必死に努力した」と彼女は言っています。そして、つぎのようにも書きました。

 私が今のような仕事をするためには、そんなふうに生まれ育つ必要があったのです。でも、そのことを理解するには五〇年かかりました。人生には偶然というものがありません。いつ、どこで、どんなふうに生まれてくるかということすら偶然ではありません。私たちが悲劇だと思っているものも、私たちがそれを悲劇にするから悲劇なのであって、私たちはそれをチャンスとか成長のための好機と見なすことだってできるのです。そうすると、悲劇だと思っていたものが、じつは私たちに対する激励、つまり人生を変えるために必要なヒントであったことがわかってきます。*(4) 

 「人生には偶然はない。悲劇だと思っているものも、実は恵みなのだ」という考え方は、今では私にもよくわかりますが、それがわかるようになるのに、私の場合も五〇年以上もかかりました。皆さんは、このようなことばをどのように受け留められるでしょうか。彼女はさらに、こうも言っています。

  人が人生で直面するありとあらゆる困難、試練、苦難、悪夢、喪失などを、多くの人はいまだに呪いだとか神の下した罰だとか、何か否定的なものと考えているようです。でも、ほんとうは自分の身に起こることで否定的なことはひとつもありません。本当です。どうしてみんなはそれに気がつかないのでしょう。あなたが経験する試練、苦難、喪失など、あなたが「もしこれほどの苦しみだと知っていたら、とても生きる気にはなれなかっただろう」というようなことはすべて、あなたへの神からの贈り物なのです。*(5)

 キュブラー・ロス博士は、数多くの死にゆく患者たちに接していくうちに、だんだんと死そのものを理解していくようになりました。死を理解すると、死が怖いものとは思わなくなります。あの自分の死を予言して死んでいった空海と同じです。それは、彼女自身の次のような体験談にもよく表れています。少し長くなりますが、その彼女の話しに耳を傾けてみることにしましょう。これは、最近臨死体験なども研究している評論家の立花隆さんが、アメリカまで出かけて、キュブラー・ロス博士に直接会い、聞き出した話しです。

 正確な日付は覚えていないのですが、スイスに久しぶりに帰ってきて、妹と会ったときです。私は実は三つ子の三人姉妹の一番上なのです。妹二人はスイスに住んでいます。その時、ドイツの大学で四週間の集中講義をして、数日後には、カナダのモントリオールで開かれるホスピスに関する国際セミナーに参加することになっていました。その間の二日間を利用して、妹に会いに、チューリッヒにやってきたのです。三人で夜遅くまで楽しくおしゃべりして、その夜は、片方の妹のところに泊まりました。
 その翌朝、スーツケースを詰めて、部屋の掃除もすませ、あとは空港に行くばかりというところまで準備をととのえた上で、朝食のコーヒーに手をのばしました。それを一口すすって、タバコを一服したとたん、私は急に意識が薄れ、そのまま倒れてしまいました。あ、私は死ぬところなんだ、というのが直感的にわかりました。そのとき、私の目の前に妹がいました。私は、せっかく妹の前で死ぬのだから、自分の死のプロセスがどういう風に進行していくのか、逐一言葉にして彼女に伝え、エリザベス・キュブラー・ロスがいかに死んだかを、彼女に語り伝えてもらおうと思ったのです。そこで、大声で妹に、「ねえ、わたし死ぬのよ!」と叫びました。足先から体の上のほうに、熱い波のようなものが上昇してきました。この波が上まできたら、きっと私は死ぬと思いました。
  そのとき私はまだ自分の寿命がきているとは思っていませんでした。あと十年か十五年かは生きるだろうと思っていました。しかし、私は死を恐れてもいなければ、忌み嫌ってもいませんでした。死は、この世を卒業することだと思っていましたから、むしろ、喜び祝うべきことだと思っていました。だから、自分が死に近づきつつあるということが嬉しくて興奮しきっていました。そして、大声を出して早口で妹に、自分の心境や刻一刻変わっていく生理的感覚の 変化などを、まるで競馬の実況放送でもやっているかのようにしゃべり続けました。とても暖かくていい気持ちだとか、とても嬉しい、大感激しているとか、自分の死の実況放送をしたのです。
  そして最後に、臨死体験の領域を飛び越えて、まるで、滑走するスキーのジャンプ選手のように身構えました。すると次の瞬間、私は、花でいっぱいの峠の山道に立っていました。それはスイスの山道でした。臨死体験では、必ず生と死の境界ともいうべき場所に出ますが、それがどういう場所になるかは、文化によって、個人によってまちまちです。川である場合もあれば、橋である場合もあります。私の場合はいかにもスイス的な峠の山道だったわけです。そこで、私は人生のパノラマ回顧も体験しました。私の人生のすべての行為、すべての言葉、すべての考えがよみがえりました。それから、その向こうに光り輝く光の世界があり、私はそこに一直線に飛び込んでいきました。そこは本当に安らぎと愛に満ちた世界でした。
  しかし残念ながら、次の瞬間、私は意識を回復していたのです。私の時はまだ来ていなかったのです。妹が真っ青な顔をして私をのぞき込んでいました。
  「私の実況放送、聞いた?」と聞くと、彼女はキョトンとして、私が発したのは、最初の、「ねえ、わたし死ぬのよ』の一語だけで、あとは一言も言葉を発しなかったというのです。*(6) 

  これは、キュブラー・ロス博士自身の臨死体験ですが、これとは別に、彼女が医者として患者の治療に当たっている間に、患者の臨死体験の例を二万件も集めたそうです。人間は死んでも死なない、死というものはないのだ、ということを人々に説いてまわるのが自分の使命だと、感じていたからだということです。
 しかし、やがて、彼女はまた悟ります。人間のいのちは永遠であって、本来、死というものはないのだということは、聞く耳を持った人なら彼女の話を聞かなくてもわかっている。しかしその一方で、その事実を信じない人たちには、二万はおろか百万の実例を示しても、臨死体験などというものは脳のなかの酸素欠乏が生み出した幻想にすぎない、と言い張るに違いないことを知るようになりました。それで彼女は、臨死体験の例を集めて「死後の生」を証明しようとする努力を二万件でやめたというのです。彼女は、少し自嘲気味に言っています。「わかろうとしない人が信じてくれなくても、もうそんなことはどうでもよいのです。どうせ彼らだって、死ねばわかることですから。」*(7)  
 キュブラー・ロス博士は、臨死体験と死後を区別して、死後の霊体こそが本当の自分であることをいろいろと述べていますが、ここではそれらに触れる余裕はありません。ただ、私たちは、実体でないものを実体と勘違いし、そして、そのように勘違いしていることにも気がついていないことが多いので、もう一つだけ、彼女のことばを紹介しておきたいと思います。

 あなたが鏡の中に見る姿は本当のあなたではありません。あなたは鏡に映った自分を見ながら、太りすぎだとか、バストが小さいとか、お尻が大きすぎるとか、しわだらけだとか、あれこれ愚痴をこぼしていることでしょうが、そういう自分は一切どうでもいいのです。あなたが美しいのは、あなたがあなたであるから、つまりあなたがこの世にたった一人しかいないからです。*(8)


  四  人間の生まれ変わり

  前述のコナン・ドイルは、「人間の魂が霊的な完成に近づくためには、どれほどの時間が必要かをよく考えて見れば、人間がたびたび生まれ変わることの必要性がわかるだけでなく、人生の些細な出来事ですら、大きな意味を持つことがわかるはずです」と述べています。今度はこの「輪廻転生」つまり「生まれ変わり」を取り上げてみましょう。
 この生まれ変わりは、仏教でもいろいろと取り上げられていますが、親鸞の弟子・唯円(ゆいえん)が書いたとされる『歎異抄』の第五段にも次のような文章があります。
  
 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりて助けさふらふべきなり。

 ここでは親鸞は、父母というのは自分の父母だけが父母なのではない。人間は何度も何度も生まれ変わるから、生きとし生けるものは、みんないつかの世で、父母であり兄弟であった。だから、念仏をとなえる場合でも、現世の自分の父母だけに対する孝養のつもりでとなえたことは一度もない、と言っています。
 親鸞にとっては、まわりの人たちすべてが、親であり兄弟でもありました。これは、先ほどのコナン・ドイルが、同胞愛の必要性を述べているのと同じですが、それも、人間が何度も何度も生まれ変わっているからこその同胞愛です。「人間の生まれ変わり」、おそらくこれが、「人類皆兄弟」の同胞愛とともに、仏教の教えを支える根幹であるといってよいのでしょう。
 真言宗では、「人身は受け難し、今すでに受く。仏法聴き難し、今すでに聴く。この身今生に向かって度せずんば、更にいずれの生に向かってかこの身を度せん」と礼拝文を唱えます。これも、生まれ変わりの人間の姿を表したものといえるでしょう。空海の、「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて・・・・・」と基本的には同じで、何度生まれ変わればいのちの真実がわかるようになるのか、いまの人生で真実を掴むべきだと、無明の闇から抜け出すことを教えているのです。かっての私のように、長い間何もわからず、無知無明のままに悲しみ苦しみ続けてきた者には、この礼拝文は、このようにも聞こえました。
 「人間のいのちは永遠で、死んでも死なない、また生まれ変わるのである。それが真実であることを仏法が教えている。そしていまおまえはそれを聴いている。それなのにおまえがこれを知ろうとしないのであれば、いったいいつになったらこの真実を知るのか。この真実を知ろうとしないで、何故いつまでもいつまでも悩み苦しむのか・・・・・・」と。
 この生まれ変わりが、科学の分野でも実証され始めたのは、最近三、四〇年来のことです。欧米の大学医学部で、「退行催眠」という精神医学の治療法が発達してきたからでした。催眠というと、私たちは何となくトリックや奇術めいたものを連想してしまいますが、欧米の大学医学部で行われているのは、そういうものではありません。医術としての催眠です。
 訓練を受けた医師の誘導によって、患者が心身をリラックスさせ、意識をある一点に集中させると、意識の奥に潜んでいた過去を思い出すことができます。それによって、過去に受けたこころの傷などを探ろうというものです。ただし、過去生にまで遡るためにはかなり高度な催眠技術が必要で、この治療法が、欧米でもひろく一般化されているわけではありません。
 そのなかで、ヨーロッパの九つの大学の学位を持つイギリスのアレクサンダー・キャノン博士は、この退行催眠の研究者としては先駆者の一人です。被験者一、三八二人を紀元前何世紀というはるか昔まで退行させたという記録を持っています。そのキャノン博士も、初めのころは生まれ変わりを信じようとはしていませんでした。一九五〇年に出した自分の著書の中で、博士はつぎのように述べています。

 何年もの間、生まれ変わりの説は、私にとって悪夢であり、それに反駁しようとできるかぎりのことをした。トランス状態で語られる光景はたわごとではないかと、被験者たちと議論さえした。あれから年月を経たが、どの被験者も信じていることがまちまちなのにもかかわらず、つぎからつぎへと私に同じような話しをするのである。現在までに一千件をはるかに越える事例を調査してきて、私は生まれ変わりの存在を認めざるをえなかった。*(9)

 キャノン博士は、一九七〇年代から一九八〇年代にかけて、何千人もの患者を退行催眠により治療してきましたが、その業績の上にさらに研究を積み重ねてきたのが、カナダのトロント大学医学部の精神科主任教授を務めるジョエル・L・ホイットン博士です。
 ホイットン博士は、一四歳ころから催眠家としての腕前を発揮してきました。二〇代になってから、彼は次第に人間の生まれ変わりに関心を持つようになり、催眠技法に磨きをかけていったといわれています。
 深い催眠状態に入れる人たちはーーそれは人口の四〜一〇パーセントくらいといわれていますがーーみな同じように、指図に従って誕生前の前世に戻れる、ということを発見したのは、彼がトロント大学の精神科主任教授になった頃です。「前世に戻ってください。・・・・・さあ、あなたは誰で、どこにいますか」。こう博士が言うと、催眠状態の被験者は、自分に関する別の時代、別の場所でのエピソードを詳しく話し始め、その時の自分の姿を再び演じてみることさえありました。*(10)
 このような催眠下の被験者を通じて、ホイットン博士は人間の生まれ変わりの理由を明らかにしていきました。簡単にいえば、それは魂の修行をするために自ら選んで、この世に生まれてくるということです。
 人間は、いろいろと自分の修行に適した計画をたてて生まれてきますが、なかにはその計画が充分でない魂もあるようです。それを催眠下の被験者が博士に告げるときには、必ず不安そうな表情になります。一方、はっきりした計画を持った魂は、その計画が困難に満ちたものであっても、淡々としてそれを博士に語るそうです。そして、計画が決定されれば、あとはまた、生を受けてこの地上の肉体に戻ることになります。
 つまり、人間の誕生は、この世での修行への出発であり、死とはまさにあの世への帰郷で、修行の苦しみから解放されて憩いの期間に戻ることにほかなりません。死とは、だから、本当は悲しむべきことではないのでしょう。逆に、修行とはいえ、時間と空間のない自由なあの世から、肉体をまとって物質界の拘束を受けるこの世に生まれることは一種の苦痛であるにちがいありません。そのために、またこの世に生まれることに消極的な魂も少なくない、といわれています。
 一体今まで私たちは何回くらいこうして生まれ変わっているのでしょうか。私自身も、いろいろな前世で、意欲を持って生まれたり、消極的な生まれ方をしたこともあったはずです。私は霊能力はありませんから自分ではわかりませんが、自分の過去生について何度かは聞かされたことがあります。アメリカでベストセラーになった『神との対話』という本が、いま日本でも翻訳されて売られていますが、そのなかでは、「あなたは過去に六四七回生きている。いまは六四八回目の人生だ」と告げられている場面があります。関心のある方はお読みになってください。*(11)
 ホイットン博士の被験者の場合、死んでから次に生まれ変わるまで最低一〇か月、最も長いものでは八〇〇年以上だそうです。平均的には四〇年ほどになりますが、その数値は、過去数百年の間に確実に縮まってきました。昔の世界では大きな地球上の変化はなく、今日ほど生まれ変わりの誘因が見られませんでした。現代では、地球上の変革が相次いで、この世での新しい体験を待ち望んできた魂たちを誘い込むため、生まれ変わりの頻度が増えてきているようです。それが、世界の人口の急激な増加につながっているのだといわれています。*(12)
 ホイットン博士は、このような人間の生まれ変わりありようを、自らの長年の研究と退行催眠による実証をとおして、つぎのように述べています。

 一番重要なのは、今回の人生で私たちがおかれた境遇は、決して偶然にもたらされたものではないということである。私たちは、この世においては、あの世で出生前に自ら選んだことを 体現しているのである。私たち自身が、あの世で肉体を持たない状態の時に決定したことによって、今回の人生が決まる。そして、どのような潜在意識で人生を生きていくかによって、いわゆる運、不運も決められるのである。*(13)


  五  終わりのない生命・生きる意味

  この講演でお話しする内容については、私も大学に籍をおく研究者の一人として、注意深く、「科学的な」検証に耐えるものだけを紹介することに心がけていますが、それでもこのような内容に対して異論、反論がないわけではありません。アメリカでもそれは同じです。その真偽を探るために、ジョージア大学教授のロバート・アルメダー博士は、死後の生命についての肯定論者と否定論者の主張を客観的に分析し検討する作業を続けてきました。その結論はどうだったでしょうか。一九九二年に博士は、その検討結果をつぎのように述べています。

  私たちは現在、人類史上はじめて、人間の死後生存信仰の事実性を裏づける、きわめて有力な経験的証拠を手にしています。このことが、哲学や倫理学における今後の考察に対して持つ意味は、きわめて大きいといえます。
人間が死後にも生存を続けるという考え方は、誰にでも認められる証拠によって事実であることが証明できるばかりか、誰にでも再現できる証拠によって、事実であることが、すでに証明されているのです。*(14)

 このように、死後の生が「証明された事実」であっても、それでもそれを受け付けようとしない人には、やはり押しつけてはならないのでしょう。キュブラー・ロス博士も言っているように「死んだらどうせわかること」だからです。ホイットン博士に引き続き、ここではもう一人だけ、退行催眠研究者について触れておきたいと思います。アメリカのマイアミ大学医学部教授のブライアン・L・ワイス博士です。一〇年前の一九八八年に『Many Lives, Many Masters』と題して、退行催眠の実例を紹介する本を出版しましたが、これは日本では、『前世療法』というタイトルで翻訳されて出版されています。 
 この本の原題のなかの「マスター」とは、日本では一般に指導霊とか守護霊といわれています。私たち一人一人を保護し、魂の成長の助言や指導を行ってくれているいわば私たちの「恩師」です。恩師は当然、私たちのことはすみからすみまで何でも知っているので、退行催眠の時など、超意識下で恩師からのメッセージを受けることがあります。ワイス博士は、そのような自らの体験をこの本にまとめました。その序文のなかで、博士はこう書いています。「私がこの本を書いたのは、心霊の分野、特に生まれる前や死んでから後の魂の体験に関する研究に、少しでも貢献するためである。これから読者の方々がお読みになるものは、一字一句、本当のことである。私は何一つつけ加えていない」。*(15)
 このワイス博士は、やや長めの金髪で魅力的なキャサリンという神経症の患者を退行催眠によって治療していました。キャサリンは、水を怖がり、暗闇を怖がり、飛行機を怖がり、そして何よりも死をひどく恐れていたそうです。それらの原因を退行催眠によって治療していく過程が、本の中では時間を追って詳細に書き記されています。しかしここでは、そのキャサリンが、退行催眠の治療を受けている最中に、指導霊からワイス博士宛のメッセージを伝えた部分だけを取り上げてみることにしましょう。 
  ワイス博士の前で長椅子に横になり、深い催眠状態に入っているキャサリンが急にこう言い出したのです。

  あなたのお父様がここにいます。あなたの小さな息子さんもいます。アブロムという名前を言えば、あなたはわかるはずだと、あなたのお父様は言っています。お嬢さんの名前はお父様からとったそうですね。また、彼は心臓の病気で死んだのです。息子さんの心臓も大変でした。心臓が鳥の心臓のように、逆さになっていたのです。息子さんは愛の心が深く、あなたのために犠牲的な役割を果たしたのです。彼の魂は非常に進化した魂なのです。・・・・・彼の死は、両親のカルマの負債を返しました。さらに、あなたに、医学の分野にも限界があること、その範囲は非常に限られたものであることを、彼は教えたかったのです」。*(16)

  これを聞いたワイス博士は、びっくり仰天します。「今、一九八二年、私の薄暗い静かな診療室で、隠されていた秘密の真実が、耳を聾する瀧の如く、私の上に降り注いでいた」と博士は書いています。正確を期するために、このあとも、博士自身のことばでその驚きを再現してみましょう。

 鳥肌が立つ思いだった。こうした情報をキャサリンが知っているはずがなかった。どこかで調べることができるようなことでもなかった。父のヘブライ名、一千万人に一人という心臓の欠陥のために死んだ息子のこと、私の医学に対する不信感、父の死、娘の命名のいきさつ、どれもあまりにも個人的なプライバシーに関することばかりだった。しかも、どれも正確だった。 ・・・・・もし、彼女がこんな事実を明らかにできるのであれば、他にどんなことがわかるのだろうか?私はもっと知りたかった。
 「誰?」。私はあわてて言った。「誰がそこにいるのですか?誰がこんなことをあなたに教えてくれるのですか?」
「マスター達です」と彼女は小声で言った。
「マスターの精霊達が私に教えてくれます。彼らは私が肉体を持って、八六回生まれている と言っています」*(17)

 この時以降、自分の人生はすっかり変わってしまった、とワイス博士は言っています。神の手が差し伸べられて、彼の人生のコースを変えてしまったのです。それまでは、注意深く批判的に一定の距離を置いて読んでいた沢山の霊界に関する本の内容が、すべて納得できました。彼は、亡くなった父も息子も「生きている」ことを知りました。「私は事実を掌握したのだ。証拠を得たのだった」と博士は結んでいます。
 しかし、人生が修業の場であるとすると、ワイス博士の息子さんの場合もそうですが、なぜ幼くして死んでしまうということが起こるのでしょうか。それは、若くしてこの世を去る人々は、すでにこの世での目的を果たしてしまったためか、あるいは、若くして亡くなること自体が、その人や家族にとって大きな意味を持ちうるからなのだそうです。福島大学助教授で『生きがいの創造』の著者である飯田史彦さんは、「その人たちには、それ以上生きながらえて、成長する必要がありません。なぜなら、自分たちの死が、両親の成長を早める材料になっているからです」という指導霊からの教えを引用して、つぎのように述べています。

  もちろん、亡くなった直後に自分の役割を思い出しますから、若くして亡くなった魂も、自分の死を後悔することはありません。むしろ、「自分が死ぬことによって両親や家族の精神的成長を早める」という役割を果たしたことに大いに納得し、両親をあの世から激励するのです。親にとって、子供の死ほど精神的に成長できる貴重な試練は、ほかにないためです。
 しかも、決して永遠の別れではなく、いつかこの世を去ったときに、必ず再会することができます。これらの仕組みを、さまざまな根拠のある科学的知識として知らせることによって、「死別の悲しみ」という、抜け道のない暗やみの中にとどまりもがいている方々を、どれだけ救うことができるでしょうか。*(18)

  この「決して永遠の別れではなく、必ず再会できる」ことは、知る人ぞ知るで、霊界通信などでは当たり前の「常識」になっているようです。私も、あの世へ行けば、妻や長男とも再会できることを知っています。その時には、長男からも、二一歳の若さで霊界へ移った理由を改めて聞かされることになるのかもしれません。
 もうひとつ、若死にしなくても、精神病や肉体的障害などをもつことの本当の意味はなんでしょうか。ワイス博士は、「重い精神病や肉体的障害などのように、深刻な問題を持つことは、進歩のしるしである。こうした重荷を負うことを選んだ人は、たいへん強い魂の持ち主だ。なぜなら、もっとも大きな成長の機会が与えられるからである」と述べています。そして、「普通の人生を学校での一年間だとすれば、このような大変な人生は、大学院の一年間に相当します。安楽な人生、つまり休息の時は、普通は、それほど意味を持っていないのです」とさえ、言い切っているのです。*(19)


    お わ り に

  以上、いろいろといのちの実相について、私が学んだこと、知り得たことの一端をお話ししてまいりました。時間も過ぎましたので、この辺で終わらせていただきます。
  私はよく、真理を知らないということは自分を弱くし、本当の意味で自分を不幸にしてしまうと思うことがあります。逆に、知っていれば、私たちは強いし、世の中には何も恐れることはありません。自分に起こることは「すべて良いこと」だからです。
 自分が惨めだ、不幸だと思っている人は、世の中に少なくありませんが、そのような人も、本当は、恵まれていて幸せであることに気がついていないだけなのかもしれません。神から見放されているのではなくて、決してそうではなくて、かえって人一倍、神から愛情を注がれているのではないでしょうか。そのことに早く気がつくべきだと思います。
 よく言われることですが、神は決して私たちに、背負うことのできないほどの重荷を背負わせることはありません。人一倍力と能力があるからこそ、人一倍多くの荷物を背負うことができます。それを立派に背負い通すことによって、私たちはそれだけ、人一倍早く成長できるのでしょう。それは重荷ではなくて、私たちを本当の幸せへ導くための神の恵みなのです。私はいまだに修行不足で仏教徒とはいえませんし、キリスト教徒でもありませんが、そういうことが少しずつわかってきました。
 神の愛はすべての人々に限りなく注がれています。私たちは一人一人がいつもあたたかく神に見守られています。私たちは、そのような神の恵みを受けていることに気がつき、感謝し、自分のいのちを慈しまなければなりません。使命を持ってこの世に生まれた、世界にたった一人しかいない自分なのです。そして、自分の存在の真実を知ることで迷いや弱さを振り捨て、自信と希望をもって明日に向かって生きていくのが、本来あるべき私たち人間の姿であろうと思います。
 ご静聴をどうも有り難うございました。


 

 *(1) コナン・ドイル『コナン・ドイルの心霊学』(近藤千雄訳)
   潮社、一九九二年、九四頁。
 *(2) アイヴァン・クック『コナン・ドイル』(大内博訳)講談社、
   一九九四年、二四四頁。
 *(3) アイヴァン・クック、前掲書、三一頁。
 *(4) キューブラー・ロス『死ぬ瞬間と臨死体験』
   (鈴木晶訳)読売新聞社、一九九七年、二〇頁。
 *(5) キューブラー・ロス、前掲書、七八頁。
 *(6) 立花隆『臨死体験』(上)、文芸春秋、一九九四年、
   四三一−四三三頁。
 *(7) キューブラー・ロス、前掲書、一二九頁。
 *(8) キューブラー・ロス、前掲書、一三七頁。
 *(9) J・L・ホイットン『輪廻転生』(片桐すみ子訳)人文書院、
   一九八九年、九三頁。
*(10) J・L・ホイットン、前掲書、一七頁。
*(11) N・D・ウォルシュ『神との対話』(吉田利子訳)
   サン・マーク出版、一九九七年、二七七頁。
*(12) J・L・ホイットン、前掲書、七五−七六頁。
*(13) J・L・ホイットン、前掲書、一一五頁。
*(14) R・アルメダー『死後の生命』(笠原敏雄訳)
   TBSブリタニカ、一九九二年、五頁、一八九頁。
*(15) B・L・ワイス『前世療法』(山川紘矢他訳)
   PHP研究所、一九九六年、九頁。
*(16) B・L・ワイス、前掲書、五六頁。
*(17) B・L・ワイス、前掲書、五九頁。
*(18) 飯田史彦『生きがいの創造』PHP研究所、
   一九九六年、一五三頁。
*(19) B・L・ワイス『前世療法』(2)(山川紘矢他訳)
   PHP研究所、一九九六年、二一七頁。



  本稿は、こすもす斎場三階大ホールで一九九七年六月一四日に行なわれた「こすもすセミナー」特別講演の内容に加筆修正を加えてまとめたものです。講演の際には、話のなかで引用した本につ いてのご質問も受けたりしましたので、本稿では引用箇所にはすべて注をつけて、英書については便宜上、訳本名で出典を明らかにしておきました。
  私の講演の内容をできるだけ多くの方々に広く知っていただきたいと言われて、このような小冊子にしてくださった溝口祭典・溝口勝巳社長のご配慮に、こころから厚くお礼申し上げます。



 謝  辞

  この小冊子は、弊社「こすもすセミナー」での武本昌三先生の昨年度特別講演をまとめていただいたものであります。
 「いのちを慈しみ、明日に向かって生きる」と題する先生のご講演は、当日ご参集の数多くの方々に多大の感銘を与え、涙を流して聞いておられた方々も会場のあちらこちらで見られました。この感動を、さらに多くの皆様方に分かち合っていただきたいというのが、この小冊子を発行するにあたっての私の念願であります。
 「こすもすセミナー」での諸先生のご講演もすでに一〇回を数えていますが、このような講演を通じて、私たち葬祭に携わる者といたしましても、皆様とともに、神仏のみ教えやいのちの尊さについて、いろいろと学ばせていただいております。この特別講演でも、私たちが誠心誠意、皆様に奉仕させていただくことの大切な意味をあらためて深く考えさせられました。
 私たちは、この世での修行を終えられた方々が霊界で安らぎと憩いの時を過ごすべく旅立ちされるのを、深い敬意と衷心からの真心をもってお送りさせていただくのが、厳粛な使命であると自覚いたしております。今後とも、尊いいのちの実相に深く思いをいたし、こころのこもった一層のご奉仕ができますよう、皆様方のご教導をよろしくお願い申しあげます。
 すばらしいご講演をして下さったうえに、その内容をこのように小冊子にまとめて下さいました武本先生、そして当日、熱心に耳を傾けて下さったご参集の皆様方に、重ねて厚くお礼を申し上げます。

  一九九八年四月二〇日 
        株式会社 溝口祭典 代表取締役 溝 口 勝 巳