事件のあらまし

 大韓航空機事件と呼ばれる事件は、1978年にもあった。パリ発ソウル行きの大韓航空機が、ソ連領空内を600キロメートル近く2時間半も侵犯して逃げ回り、軍事要衝ムルマンスク近くで強制着陸させられた事件である。

 その5年後の、1983年8月31日、今度はニューヨーク発、アンカレッジ経由ソウル行きの大韓航空(KAL)007便が、同じように、ソ連領空を侵犯した。アンカレッジ離陸後、カムチャッカ半島を横断、さらにサハリンをも横断し、正規の航空路(R20)をソ連寄りの北に500キロメートル、5時間半にわたって逸脱した結果、モネロン島付近でソ連軍機により撃墜されてしまったのである。乗客・乗員269名が犠牲となり、乗客の中には、私の妻と長男も含まれていた。

 この007便の侵犯したコースは、ソ連側の対米最前線重要基地上空であり、米側が諜報戦で、絶えずスパイ機による挑発行為を繰り返していたということも、後に明らかになった.ソ連軍によれば、カムチャツカにおいては、007便と米軍スパイ機RC−135がソ連側レーダー上で重なっていたたといわれ、いわゆるランデブー飛行ではないかとの疑惑を招いた。

 米政府は、当初、RC−135の介在を否定していたが、米国会議員の情報リークの結果、その事実を認めた。あの1978年のムルマンスク事件が、やはり、ソ連の対米最前線で起きた領空侵犯事件であったことからも、撃墜された大韓航空機は意図的にソ連領空を侵犯したのではないかという疑惑がはじめからつきまとった。

 一方、アメリカのレーガン政権は、この事件直後から、ソ連軍機による非武装の民間機撃墜を恐るべき「悪の帝国」の蛮行事件として、猛烈な対ソ非難を行い、それまでは議会で通りそうもなかった巨額の軍事予算を承認させて、一層の対ソ軍備強化に乗り出していった。大韓航空機事件は、米ソの緊張激化と冷戦構造に多大な影響を及ぼし、レーガンが「世界史の転換点」といったように、世界史的な大事件となったのである。

 事件後の1983年9月中旬に国連傘下のICAO(国際民間航空機関)特別理事会は、事故調査委員会を組織し、同年12月13日にその最終報告を発表した。それによると、有り得べき仮説として、磁方位飛行説(アンカレッジからまもなく、246度の磁方位に機首を固定したまま飛行してしまった)か、インプット・ミス説(慣怯航法装置に経度を10度間違えてインプットしたため逸脱した)かを挙げている。しかし、この結論について、ICAO内部の技術的専門委員会である航空委員会そのものが、その2ケ月後、それら二つの仮説に賛成できないとしている。

 大幅な航路逸脱の原因については、様々なミス説、意図的航路逸脱説が出され、意図的航路逸脱の理由としては、燃料節約説、スパイ説、オトリ飛行説などが取り上げられてきた。しかし、事件の解明は、関係当事国の軍事機密の厚い壁に阻まれ、大きな疑惑を残したまま年月が流れていった。

 1989年になると、大韓航空機事件の在米遺族らが、大韓航空、米政府などを被告として争っていた裁判で、ワシントン連邦地裁陪審は、「事件は航路を逸脱したことを知りながら意図的にソ連領空の飛行を続けたパイロットの違法行為によるもの」と法廷で認定するなど、この事件の真相究明を要求する国際的な運動が真相に一段と迫る新しい段階に入っていった。

 日本でも、事件の翌年、国会議員、ジャーナリスト、航空機技術者、市民運動家などによる「大韓航空機事件の真相を究明す会」が設立され、熱心な究明活動が続けられてきた。1988年1月には、その究明活動の一環として、『大韓航空機事件の研究』(三一書房)が刊行されている。