遺族はなぜアメリカを弾劾するか



   潰えてしまった唯一の願い

 あの忌わしい大韓航空機撃墜事件で、私が妻・富子と長男・潔典を一瞬にして奪われて以来、まもなく2年になろうとしている。
 昨年(1984年)9月1日の一周忌には、二人のための追悼の本『妻と子の生きた証に』を出版したが、その編集の折に、潔典の友人が持ってきてくれた中学校の卒業文集を見ていて、はっと胸を打たれたことがあった。
 文集の終わりの方に、卒業生一人一人に対するアンケートがあったのである。その中に「一つだけ願いが叶うとすれば何を願う?」という設問があって、潔典はそれに対して「平和に生き続けること」と答えていた。
 これを書き残して札幌北高等学校に入り、東京外国語大学に進んだ潔典は、三年目の夏休みにアメリカから帰国の途中、母親とともにあのKAL 007便に乗った。「平和に生き続けたい」という彼の「唯一の願い」は、たった五年半で潰えてしまったことになる。
 事件が起こった時、私はノース・カロライナ州立大学の客員教授として、長女の由香利は同じ大学の留学生として、ノース・カロライナ州の首都ローリーにいたが、由香利の手許には、一つの詩が残されていた。富子が、「これはすばらしい詩だから」と、わざわざコピーして、アメリカまで由香利のために持ってきてくれたものである。
 その一節には、次のようなことばが並んでいた。

  生きているということ
  いま生きているということ
  それはミニスカート
  それはプラネタリウム
  それはヨハン・シュトラウス
  それはピカソ
  それはアルプス
  すべての美しいものに出会うということ
  そして
  かくされた悪を注意深くこばむこと

 谷川俊太郎氏の詩集『地球へのピクニック』の中の「生きる」であった。
 この私の妻と子の、「生きる願い」を無残にも断ち切ってしまった大韓航空機撃墜事件とは、いったい何であったのか。
 事件当時の、日韓を含めたアメリカ側の一方的なソ連非難にもかかわらず、また、その後のアメリカが主導する日韓との口裏を合わせての強力な情報操作にもかかわらず、いまでは、事件の背後で黒い魔の手を動かしていたものの輪郭が、かなりはっきりと浮かび上がってきたように思える。
 それは、富子と潔典が好きであったアメリカ国民の、自由と正義を重んじ人権と友愛を尊ぶ信条や感覚とは裏腹に、無辜の人命をもほしいままに政治の道具として弄ぶ大統領ロナルド・レーガンとその一派の、思い上がった不気味な陰影である。


   マンスフィールド大使からの手紙

 アメリカ東部標準時間で8月31日午後7時、衝撃のニュースをテレビで聞いて、そのまま一睡もできずに夜を明かした私と由香利は、その日のうちに帰国の途についた。
 日本に着いてからは、極度の混乱と悲嘆の中で私は寝込んでしまった。過酷な現実に直面する気力もなく、しばらくは夜となく昼となく眠り続けた。あの、あまりにも異常な007便の航路逸脱の状況を新聞、雑誌等でたどり直し、自分なりに少しずつ真相究明を考えるようになったのは、それから何ヶ月も経ってからのことである。
 日本人犠牲者の20家族50数名は、在日韓国人犠牲者の一家族を含めて遺族会を結成し、一昨年の暮れから、ほとんど毎週のように勉強会などを開いていた。だんだんと事件の状況を把握していく過程で、 KAL 007便のソ連領空侵犯は故意によるものであること、アメリカはこの領空侵犯の一部始終を二時間半にわたって熟知していたこと、の二つは疑いえない事実として確信するようになっていった。そして、昨年の春から毎月一日を「抗議の日」と定め、大韓航空、ソ連、アメリカに抗議の電報や手紙を送り続けるようになった。(これらの詳細については、拙著『疑惑の航跡』(潮出版社)をお読みいただければ幸いである)
 そのようなアメリカ大統領レーガンに宛てた遺族会連名の抗議文に対して、昨年6月8日付で、はじめてマンスフィールド大使から返事が届いた。これは、現在まで、私たちの遺族会に送られてきたアメリカ政府の唯一の文書で、会長宛のその全文は日本語に訳すと次のようになる。

 1983年9月1日、ソ連戦闘機によって撃墜された大韓航空機の悲劇にアメリカが関与していたのではないかという点について、あなたが1984年5月1日にレーガン大統領宛に出されたいくつかのご質問に、私がお答えいたします。
 アメリカ政府は、この悲惨な事件で生命を奪われた269人の乗客、乗員のご不幸に対し、哀悼の意を表するものであります。ご承知のように、犠牲者の中には、アメリカ下院議員一人、のほかに多くのアメリカ市民も含まれていました。レーガン大統領が1983年9月5日に述べたように、この犯罪は世界中で決して忘れえてはなりません。
 お手紙の中であなたが指摘されたいくつかの疑問については、アメリカ政府は大韓航空機の悲運にいかなる役割も絶対に果たしていないと申し上げたいと思います。大韓航空機と短時間の間、公海上で同一空域を飛行していた米軍偵察機は、007便がソ連に攻撃を受けた1時間も前に、基地に帰投していました。それに、軍備管理協定に基づく監視任務についていた米軍偵察機は、KAL 007便のことやその飛行位置についても、何も知らなかったのです。
 米軍の情報組織は、大韓航空機が通常の航路から逸脱していたということを知っていたというあなたの主張に対しては、米軍の情報組織はその地域をレーダーでカバーしていなかったし、国際民間航空用の無線周波数を使ってモニターしてもいなかったことを強調しておきたいと思います。この点については、どうか ICAO(国際民間航空機関)報告書もご参照ください。 
 ご家族、友人の方々を失なわれたあなた方のお悲しみは、どのようにお慰めしても薄らぐものではないと思いますが、アメリカ政府もあなた方とともに、この残酷で意図的な撃墜事件の悲しみと怒りを分かち持つものであります。
 おわりに、日本人犠牲者のすべてのご家族に深く弔意を表し、犠牲者の悲劇的な死は決して忘れられることはないであろうと、こころから信じていたいと思います。

 うわべだけは一応ていねいな文言を連ねてはいるが、私はこの手紙の中にアメリカ政府の弱者に対する傲岸不遜と、しらじらしく黒をも白と言いくるめようとする許し難い卑劣さをみる。この手紙は要するに、

 @アメリカ政府は事件にいかなる役割も絶対に果たしていない。
 A米軍偵察機RC135は、KAL 007便の飛行について何も知らなかった。
 B米軍情報組織はその地域をレーダーでカバーしていなかったし、国際民間航空用の無線周波数を使ってモニターしてもいなかったーー。

 という三点を強調するのがポイントであると思われるが、これらはおそらく、みんな嘘である。遺族会の誰もが、もはやこんなアメリカ政府の「弁明」を信じようとはしていなかった。


   遺族会の反論

 アメリカ政府は、事件の情報を一手に握っていて、それを洩らさない以上嘘はばれることはないと思っていたのであろう。しかし、1983年9月1日の事件直後に国務省でシュルツが読み上げた声明は、次のようなことばではじまっているのである。

 16時(グリニッジ時間=日本時間1日午前1時)頃、大韓航空機がソ連のレーダーに捕えられた。その時点からソ連機(複数)の追跡がはじまった。大韓航空機はソ連領空に迷いこみ、その後カムチャッカ半島、さらにオホーツク海、サハリンの上空を飛んだ。ソ連機(複数)はこの民間航空機を二時間半にわたって追跡した……。

 これは、大韓航空機とソ連機の動きをアメリカが「二時間半にわたって」すべて見ていたということであって、この声明自体がアメリカの綿密な傍受活動を「不注意にも」暴露したものにほかならない。その後の多くの新聞報道なども、冷静に分析していけば、アメリカが「何も知らなかった」というのが嘘であることはあまりにも明白で、ここでは、それに対して改めて反論する必要さえないように思われる。
 おそらく、「アメリカは大韓機がコースをそれた時から、国務、国防、国家安全保障会議、情報機関代表を集めた特別作業グループを作り、対応に当たった」(「読売新聞」1983年9月2日、大畠ワシントン特派貝の談話)のが実情であったに違いない。
 私たちは、8月1日の「抗議の日」にまた遺族連名でサインして、英文の手紙をワシントンのレーガン宛に送った(原文の "you" は、ここでは「きみ」と訳しておきたい。大統領といえども レーガンは、少なくとも私たちにとっては重大な「犯罪容疑者」である)。

 1984年5月1日にきみ宛に出した手紙に対し、マンスフィールド大使から、アメリカ政府は大韓機撃墜事件に一切関与していないという返事が届いた。彼はその手紙の中で、KAL 007便と短時間同一空域にいた米軍偵察機 RC135は、KAL機に対するソ連の攻撃が行なわれた時には、すでに地上に戻って1時間以上も経っていたと述べ、さらに、アメリカ情報組織のレーダーは、KAL機航路逸脱地域をカバーしていなかったとも書いてきている。
 私たちは、しかし、このような説明にはまったく納得することができない。彼は事実のごく一部を指摘しただけで、269人の人命を犠牲にしてまでソ連の軍事情報を得ようとして、アメリカ軍が深く関与していたそのほかの部分については注意深く隠していると私たちは考えている。
 きみも承知している通り、ソ連はあの日の夜、アメリカが2機のRC135とP3オライオン1機を飛ばしていたと主張しているが(そのことはアメリカ政府も否定していない)このRC135が、ソ連のレーダーに民間機が捕捉された場合の電波を探索していることは「ありふれた作戦行動の一つなのだ。また、このRC135が民間航空機を含むいかなる種類の航空機に対しても、あらゆる周波数で通信できる能力を持っていることは、ここで私たちが指摘するまでもないであろう。
 マンスフィールド大使のアメリカ情報組織についての言明に対しては、私たちはそれをそのまま信じこんでしまうほど無知ではない、とだけ言っておきたい。あのような言い方をするのであれば、例えばシエミヤのレーダー「コブラディーン」の能力はどういうことになるのか。これは200にのぼる目標物を一度に捕捉することができ、宇宙間の2000マイルも離れた野球のボールほどの大きさの物でも的確に追跡できるのではなかったか。あるいは、アメリカ海軍の電子偵察艦『オブザーベイション・アイランド』の「コブラジュディ」はどうなのか。これは大気中を飛行する複数のミサイル弾頭さえ追尾できる能力を持っているのではなかったか。
 レーガン大統領、私たちはきみが世界に向かって真実を述べていないのではないかと思っている。6月1日にきみに出した手紙の中でも述べたように、私たちはきみがソ連の軍事情報を手に入れようとして、この航路逸脱の悲劇を最大限に利用するためのあらゆる策を弄してきたのではないかと疑っている。そのようなきみの行為は、大量殺人の共犯に当たるのではないかと私たちは考えているのだ。
 私たちは、あのソ連の残酷と野蛮性を弾劾し続けているが、同時に、アメリカのこのような非人道性に対しても、私たちの愛する家族を見殺しにしたきみの人命軽視に対しても、これからも強く弾劾を続けていくであろう。


   乗員遺族の「証言」

 この手紙を出したあと一カ月経って迎えた犠牲者の一周忌には、私たち遺族はチャーター船『第二宗谷丸』に乗りこみ、はじめてソ連領海内に入って、モネロン島近くの007便墜落現場まで行った。小雨の降る中で洋上慰霊祭を行なったあと、50数名の遺族たちは舷側に立って、それぞれに花束と涙を暗い海の上に落とした。
 深い悲しみの中で、考えれば考えるほど抑えることのできない怒りがこみ上げてくる。私たちは稚内に引き返す途中、船中で20人近くの内外記者団を前に、遺族会の名前で声明を出した。「われわれは、大韓航空機撃墜事件の一周年にあたり、理不尽にも一瞬にして生命を奪われた愛する家族たちの怨念を体し、人道と正義と平和を世界に訴えるために次の通り声明する」という切り出しで、大韓航空の殺人飛行に抗議し、民間航空機と知っていたはずでありながら撃墜したソ連の蛮行を弾劾した。そして、アメリカについてはこう述べた。

 アメリカの軍情報組織は、KAL 007便の航路逸脱の一部始終を熟知していて、同機を救える立場にありながら、一片の警告を発しようともせず、乗客乗員269名を死に至らしめた。これはアメリカの人道に対する許し難い犯罪である。われわれは、その軍事優先の人命軽視と非人道性を強く糾弾し、あわせて、故意としか考えられない同機のソ連領空侵犯は、米軍情報組織と緊密な連携のもとに行なわれたのではないかという重大な疑念を重ねて表明する。

 KAL 007便の航路逸脱については、私たちは終始一貫、単なる「人為ミス」ではなかったことを主張し続けてきたが、それが意図的なものであったことを示唆する一つの「証言」がある。
 1983年秋、事件後間もない頃、KAL 007便の乗員の遺族たちの弁護を担当することになったアメリカ人弁護士4人がソウルヘ出向いて、千機長夫人、宋副操縦士夫人に「証言」させていた。これは西ドイツ・ミュンヘンの映画プロデューサーのアンドレ・リビツク氏によってビデオテープにとられ、西ドイツの代表的なテレビ会社であるARDから、昨年8月23日と本年2月29日の2回にわたって放映された。
 私の手許にある「KAL 007便の悲劇」と題されたこの番組のテキストの中で、「証言」に立会った一人であるサンフランシスコのメルビン・ベリー弁護士は、その時の模様を次のように述べている。
 
 私はソウルヘ飛んで、機長と副操縦士の二人の未亡人と話し合ったのです。この二人は、機長も副操縦士も、意図的にソ連領空を飛行して近道をした場合には手当てを支給されていたと私に語りました。この発言は、私のほか3人のアメリカ人弁護士と30人の遺族の前で自発的になされたものです。
 二人の未亡人は、大韓航空が機長たちにソ連領空を飛んだ場合に特別のボーナスを支払っていたと言ったのですが、未亡人たちはその上、このソ連領空の飛行を機長たちがひどく恐れるようになって中止したがっていたということもつけ加えました。私はこの発言に非常に驚かされたものです。

 いわゆる「ショート・カット説」の出所がこれであるが、これはおそらく、燃料節約のためというより、米軍に軍事情報を収集させるための意図的領空侵犯であったとみるべきであろう。
 しかし、これよりももっと衝撃的なのは、次の情報であった。
 二人の未亡人との面接が終わったあと、アメリカ人弁護士の一人、ワシントン州タコマのチャールズ・ハーマン氏が、個別に千機長未亡人と会ったのである。その時千夫人はハーマン弁護士に、「主人はあの最後になった飛行任務のため韓国を出発する前、私に、この次の飛行は特に危険だと言っていました」と告げたという(後述の「ネイション」誌1985年8月17ー24日号にも、この告白についての記載がある)。
 これは、昨年(1984年)11月号の「世界」に掲載された「大韓機撃墜事件ーー米国はすべてを知っていた」の筆者デービッド・ピアソン氏が、直接ハーマン氏から聞いた話として私に知らせてきたものである。
 この情報を裏書きするかのように、実は、1983年8月30日、あの事件が起こる直前、千機長夫人は夫の死亡の場合に備えて新しく生命保険をかけていた。東邦生命保険金杜の教育保険で、千機長死亡の場合の保険金受取人は当時10歳であった長男の千凡珍となっている。千機長夫人は同日、保険金3000万ウォンのための掛金10万6740ウォンを払い込んでいたのである(「韓国日報」1983年9月3日)。


   情報操作に加担する日本政府

 いろいろな傍証のほかにこのような「証言」や事実があったにもかかわらず、私たちが頼りにしていたICAOは、1983年の暮れに事務局長報告書の形で「人為ミス説」を打ち出してしまっていた。私たちは失望しながらもその報告書にはどうしても納得できず、その後も機会があるたびに「故意としか考えられない」と表明し続けてきた。
 ところが本当は、この「人為ミス説」は1984年2月16日に当のICAO内部でもすでに否定されてしまっていた。これは、1984年12月になって、共同通信によつやっと明るみに出た事実である。
 ICAO理事会から、「人為ミス説」を盛りこんだ事務局長報告書の内容を技術的に検討するよう委任されたICAOの航空委員会が、人為ミス説は「根拠があるものとは認め難く、支持し難い」と議事録の中で明記していたのであった(「北海道新聞」1984年12月14日)。
 この航空委員会には、日本からもカナダ大使館の安部憲治一等書記官が毎回出席していたから、日本政府は人為ミス否定の事実を知っていたはずである。それなのに、なぜその後の国会答弁などでも、安倍外務大臣はあいかわらず「人為ミス説」の方だけを持ち出して、それが権威のあるICAOの見解であるとくり返したのであろうか。
 真相究明の国会決議がありながら、その真相究明に日本政府は終始きわめて消極的であった。事件のカギを握っているはずのアリューシャン列島シェミャのレーダー資料をアメリカに要求するよう質問主意書を出した秦豊参議院議員に対しても、政府は応じようとはしなかった。
 「御指摘の米軍レーダーは、民間航空機の追跡を行なうことを任務としておらず、国際線の旅客機の監視は行なっていない旨米国から説明を受けており、政府としては、改めて御指摘のデータの提供等を要請する考えはない」
 と、アメリカ一辺倒のそっけない答弁書が返ってきただけであった。
 おそらく日本政府の真意は、「真相を究明していけばアメリカの謀略が明らかになってしまう。だから真相を究明するつもりはない」というところにあったのであろう。
 ICAOの事務局長報告書には、もともと強大な国際政治力を背景に、真実でも正義でも強引にねじ曲げてしまおうとするアメリカ政府の傲岸不遜な干渉が感じられていたのだが、日本政府もそのようなアメリカ政府に迎合して、重要資料を要求しようとはしなかったのみならず、真実を覆い隠すための情報操作の片棒をかっいできたふしがある。
 その一つは、KAL 007便がサハリンに侵入する直前の航跡データである。
 事件後の9月9日、モスクワでの緊急記者会見でオガルコフの示した航跡図では、007便は午前3時2分に、サハリン直前てほぼ直角に右旋回し、それからやや緩やかに左旋回してサハリン上空に突入している。
 それを追っているソ連機は、3時9分に「そうだ、目標は方向を変えた。・・・・・・目標は当方の左方80度」などと言っていることが防衛庁公表の交信記録でも確認されていた。
 しかし、防衛庁はこの旋回部分のレーダーデータは公表しなかった。公表したのは007便の右旋回と左旋回が終わった3時21分からで、その前はブランクである。
 その点を国会で何度突かれても、矢崎防衛局長は、自衛隊がとらえたのは「すでに公表したものがすべてである」と答弁をくり返した。
 それは、おそらく嘘である。
 この点については、「世界」1985年5月号の増尾論文「大韓航空機事件と自衛隊」の中で詳細に述べられているのでここではふれないが、この論文では、多くの資料とデータをもとに、極めて明快に矢崎氏のウソと自衛隊の情報操作の一端が「立証」されている。ある報道関係者はこの論文を読んで、「震えが止まらなかった」と卒直な感想を私に述べた。
 しかし、この増尾論文の中で述べられているような隠されてきた事実が明らかになるまでには、衆議院予算委員会における大出俊議員の周到に準備された長時間の質問と追及があったことを、私たちは決して忘れることができない。
 貴重な持ち時間をフルに使って、本年も2月15日以降3回にわたり、大韓機撃墜事作の真相を執拗に追う努力をされてきた大出氏の姿は、私たち犠牲者の遺族にとっては、文字通り「地獄で仏」に出会ったようであった。
 私はそれらの議事録を涙が出る思いで何度も読み返し、そして、妻と子の遺影の前に供えた。
 この大出俊議員の追及により、防衛庁は本年2月28日、「自衛隊のレーダーによる大韓航空機の高度及び速度等」というレーダー記録をはじめて同議員に提出した。
 これも増尾論文にくわしく述べられているのでここでは省略するが、これは防衛庁が自らKAL 007便の意図的なソ連領空侵犯を「証明」した極めて重要なデータであった。
 前に、シェミヤのレーダー記録を要請しようとして政府に拒否された秦豊参議院議員は、この防衛庁の資料について再度の質問主意書を提出した。
 これに対し政府も5月14日、遂にこの自衛隊レーダーの内容を認める答弁書を出した。これで、KAL 007便のパイロットが成田には嘘の報告をしながら、意図的に操縦かんを握るなどしてソ連領空を左右上下に跳梁していたことが事実となった。
 マスコミもやっと少し動いてくれて、私はその夜おそく、NHKテレビに呼び出された。翌朝のニュースのための録画で、この「意図的領空侵犯」についての感想を述べたあと、真夜中の暗く冷えきったわが家に戻った。
 こともあろうに、このように無法で粗暴な大韓航空機にかけがえのない富子と潔典を乗せてしまったことが、いまさらのように悔やまれてならず、私は強い罪の意識にさいなまれながら、悶々として朝まで眠れなかった。


    アメリカの謀略

 事件の真相の一部はこうして明らかになったが、それではなぜ、あの007便が500キロも航路を外れてサハリンの上空へ飛びこんでいったのであろうか。
 夫人の「証言」にもあるように、危険を十分意識し、領空侵犯をいやがってもいた機長の千柄寅が、自分だけの判断で生命の危険を冒してまでソ連の軍事基地の上空を故意に飛ばなければならない理由はない。
 考えられる理由はただ一つ、アメリカ側からの「強い要請」である。それ以外の可能性はあるだろうか。
 防共の最前線として、軍事力の多くをアメリカに依存せざるをえない韓国は、アメリカのそのような非情な「要請」に対しても、それを断ることができない弱い立場にある。悪質なのはアメリカであるが、おそらく千柄寅も、いやいやながらもその「要請」を受け入れてしまったのであろう。
 KAL 007便の交信記録の最後は「1212デルタ」(日本音響研究所の解析では「101デルタ」)で終わっていることが、1983年10月5日に運輸省が公表した記録で明らかになっているが、これは、民間航空機なら決して使うことのない「アメリカの某機関」に対する暗号といわれているものであった。このような「暗号」を最後に発していること自体が、007便の哀れな、しかし人道上決して許すことのできない、領空侵犯の役割を雄弁に物語っているように思える。
 衆議院予算委員会の与党側委員である石原慎太郎氏も、独自の調査を基に、この「暗号」の存在こそがアメリカからの「要請」を示すカギであることを「流砂の世紀に」の中で示唆した。その上で、前のムルマンスクの領空侵犯と今度の領空侵犯は、両方とも、大韓機をおとりにしてソ連側の迎撃能力を探知しようとしたアメリカの謀略であったとはっきり言い切っている(「新潮」1984年8月号)。
 大韓航空機事件というのは、一般の航空機事故とはまったく異質であって、あのブラック・ボックスが見つからなかったから真相の解明が困難だというものでは決してない。真相ははじめからわかっていた。ただそれを、日韓を含めたアメりカ政府側がひたすらに隠してきただけにすぎない。そして、そのための嘘の上塗りは、驚くべきことに未だに続けられているのである。
 本年2月24日のワシントン・ポスト紙の報道では、北太平洋航路の民間機が乗っ取られてソ連領空に入りそうになった場合に備えて、日本の管制当局を通じソ連側に事前に通報する手順を、7年前にすでに定めであったことが明るみに出た。
 この内規を定めた米連邦航空局は、KAL 007便の場合は「撃墜されてはじめて航路をそれていたことがわかった」のであり、この手順のようにソ連側に通報できるのは「あくまでも事前に判明した時だけである」と、言い逃れをしているらしい。
 3月3日の国内各紙によると、そのあと、ごていねいにも2月下旬からワシントンで、日米両国がソ連まで呼び入れて事務レベルの協議を行ない、緊急時の民間航空機の安全運航確保をめぐって協調体制をとることで原則的に合意した、とある。
 さらに5月7日の各紙は、レーガンがフランス・ストラスブールの欧州議会で行なう演説の中で「現在の米ソ首脳間のホットラインに加えて、大韓航空機撃墜事件のような不測事態の再発を防ぐための、米ソ軍当局間の直接のホットラインを開くことを提案すると述べた」という記事を大きく載せたりしている。
 これらの新聞報道が事実であるとすれば、あくまでも「犯罪」を覆い隠すための嘘をつき続け、事件の真相を欺聴で塗りつぶして過去に葬り去ろうとする関係当局の厚顔無恥に激しい怒りを抑えることができない。
 たとえ百の「内規」を作っても、千の「危機管理」で合意しても、万の「ホットライン」を増設しても、民間航空機を謀略に巻きこみ、為すべき通報も行なわず、乗客の人命を政治の道具として利用する「犯罪人」を放置したままでは、事件の再発など妨げる道理がないではないか。
 この大韓機撃墜事件では、なぜこれほどまでに幼稚な嘘と欺瞞がいつまでも大手を振ってまかり通るのであろうか。
 大韓機撃墜事件の再発を防止するというのなら、「空の危機管理」ではなく、謀略で地球そのものさえ一挙に破滅させてしまいかねない「犯罪人」の「管理」こそ必要不可欠な条件なのである。


   犠牲者のために真実のことばを

 19世紀末のフランスでドレフュス事件が起こった時、一人の人間の人権を守るためにエミール・ゾラは「われ弾劾す」と軍を相手に立ち上がった。
 しかし、この大韓航空機事件の意味するものは一人の人権ではない。269人の殺人である。社会正義の躁礪であり、人間性に対する冒濱であり、世界平和への挑戦である。事件の圧倒的な風化現象の中で悲しみと苦しみに耐えながら、私たちが日本の「エミール・ゾラ」の出現になお期待を抱き続けることは、許されないことなのであろうか。
 思い上がった冷血集団の理不尽な暴虐に、私の妻と子を含めた240人の乗客たちは、おそらく、血の叫び声で抗議しながら北の海に散らされていったであろう。
 それらの血の叫び声を代弁するために、私たちは、事件が何であったかを語る真実のことばを遺族会内で公募して、いま稚内市に建立中の慰霊碑の石に刻みこまなければならないと考えてきた。
 ところが遺族の知らないところでいつのまにか、外務省と稚内市が目を通した碑文ができあがっているという「うわさ」が流れはじめた。その「うわさ」の碑文との間に軋櫟が予想される中で私は敢えて応募して、こう書いた。

    愛と誓いを捧げる

 愛しい人たちよ、1983年9月1日の未明、あなた方を乗せた大韓航空007便は安全運航の責任と義務を完全に放棄し、定められた航路から500キロも外れて故意にソ連領空を侵犯しました。そのためにソ連迎撃機のミサイルで撃墜され、何の罪もないあなた方まで犠牲にされてしまったのです。

 アメリカ政府と軍部はこの領空侵犯を熟知していて、はじめから終わりまで克明に追っていたはずであったのに、なぜ警告して救おうとはしなかったのでしょうか。ソ連政府と軍部はこの航路逸脱を二時間半にわたって捉えていながら、どうして軍用機と間違えて撃墜してしまったというのでしょうか。

 愛しい人たちよ、あなた方の生きる喜びを無残にも奪い去った大韓航空と米ソの人命軽視を私たちはあくまでも糾弾し、事件の真相を明らかにしていくことを誓います。あなた方の犠牲を決して無駄にさせないためにも、いのちの重みと平和の尊さを広く世界の人々に訴えていくことを誓います。

 愛しい人たちよ、どうかいつまでも安らかにお眠りください。

 しかし、この程度の、抑えた碑文案ですら、墜落現場のモネロン島附近をはるかに見下ろすその慰霊碑の丘が国有地であるからという理由で、アメリカに気を遣う外務省やソ連を刺激したくない稚内市の意向も無視できないという問題がたちまち尖鋭化してしまった。
 国有地だからこそ、日本国憲法の精神にそった不偏不党のことばが刻みこまれなければならないのであって、そうでなければ、慰霊どころか、尊い犠牲を無駄にさせないために世界平和を訴えていくこと出来なくなってしまう。だが、そういう一部の強い意見も、諸般の深刻な事情から妥協を迫られ、大切な碑文は、この私の原文から人命軽視の責任追及も真相究明の誓いも削除した骨抜きの形のものになってしまおうとしている。
 事件の真実を解明していくための裁判にも、いろいろと困難が予想されるようになってきた。
 昨年の暮れ、私たち遺族の大半は、大韓航空やソ連のみならずアメリカ政府の非情に対しても訴えを起こしていたアメリカの遺族たちにならい、アメリカでの提訴に踏み切ったが、ちょうどその頃、007便の航路逸脱のカギを握っているとみられていた後続機015便の朴機長が、ワシントン連邦地裁に呼ばれて延言を行なうことになっていた。
 だが朴機長は、証言のために出廷することを承諾したあと、なぜか急に「一身上の都合」で大韓航空を退職してしまっている。パスポートも取り上げられてソウル郊外の自宅にひきこもったまま、国外には出られない状態になっていることは、証言を前にしたタイミングからいっても極めて不自然であるといわなければならない。
 本年3月5日のワシントン・ポスト紙の報道では、ワシントン連邦地裁における裁判の延言の中で、米軍がKAL 007便のレーダー記録を廃棄してしまっていたことも明らかになった。米空軍は通常、航空機事故に関する情報は保存しておくきまりになっているにもかかわらず、KAL 007便のものだけはないというのである。
 また、去る5月4日には、ニュージャージーのあるアメリカ人犠牲者の遺族が、大韓航空と10万ドル(邦貨にして約2400万円)で和解を成立させたと新聞は伝えた。
 10万ドルの中味は、7万5000ドル・プラス・アルファーで、7万5000ドルはモントリオール協定の無過失責任限度額を示す金額である。大韓航空の「無過失」を認めたという態度もさることながら、36歳の郵便局員で生計の担い手であった犠牲者の遺族に対する補償としては、アメリカでは、いや日本においてさえ、ちょっと考えられない「異常な」数字であった。
 本年2月、私たちは、アメリカで大韓機撃墜事件の真相を究明しているあるグループから、アメリカ政府がアメリカの遺族たちに対して密かに和解の勧告に動きはじめたという情報を得ていたが、あるいはそれが現実になったのであろうか。
 私たちのアメリカにおける提訴も、大韓航空側の申し立てによる裁判管轄権の問題で、日本で航空券を購入した一部の者は提訴のやり直しを迫られる情勢になってきた。次から次へと私たちの悲しみと苦しみは、いつまでも続いて終わることがない。
 何しろ相手はしたたかな大韓航空で、そのあとには日韓両政府を抱きこんだアメリカ政府が控えている。巨大で不気味なおどろおどろしたものに立ち向かって、さらに事件の真相を究明していこうとする私たちの努力も、しょせんは「蟷螂の斧」でしかないのかもしれない。
 しかし、私たちは生きている限り、決して屈することはないであろう。これからも人道の正義のために、明らかにすべきことは明らかにし、社会秩序と世界平和のために、訴えるべきことは訴えていくであろう。これが犠牲者たちに対する私たちの、せめてもの供養である。


    強まる疑惑

 去る8月17日の朝日新聞は、「大韓機のスパイ疑惑強まる」という見出しで、米「ネイシヨン」 誌の疑惑特集を紹介した。
 「ネイション」誌は、アメリカにおける真相究明を阻む動きについて、本稿でもふれた、KAL 007便の飛行状況を正確に知る手がかりになったはずの米空軍レーダーによる航跡記録の廃棄のほか、次のような点もあげている。

 @米連邦航空局が職員に対し、KAL 007便についての情報を一切、口止めしている。
 A情報公開法に基づく資料請求に対しても、回答が十分得られない。
 B上下両院の情報特別委員会による調査は、政府側の説明を受けただけに終わっている。

 そして同誌は、巻頭の論説で、「この奇怪で悲劇的な事件の全面的な真相究明に、なぜアメリカ議会が公式に乗り出すことをためらっているのか、それが大きなミステリーだ」とも述べた。
 アメリカ政府にもし疾しいことがなければ、手持ちの資料の一部を公表するだけでも簡単に潔白を立証できるはずであるのに、なりふりかまわず隠蔽工作をしていること自体が、彼らの謀略を逆に裏づけているようにみえる。私たちが、いまなお毎月出し続けているレーガン宛の電報と手紙にも、マンスフィールド大使の返事以来、一切答えようとはしてこなかった。「アメリカは民主主義の国であり、人間のいのちはすべてに優先して尊重される。だから、軍事目的のために民間機を利用するようなことは決してしないはずだ」と世間の人は思い、アメリカ政府も、そのような「世間の常識」に便乗する。日本政府に対する公式の通報にさえ、「アメリカは民間機を情報収集に利用することはない」としらじらしく言明した。
 しかし、アメリカ政府と軍は、アメリカ国民と決して同じではない。自分たちが掲げる国家目的のためには、謀略でも、大量殺人でも、民間機の軍事利用でも、彼らは平気でやってのけるのである。
 大韓機撃墜事件とその後の強力な情報操作により、それまでは通りそうもなかった1875億ドルにのぼる1984年度国防支出権限法案を通し、中間選挙で敗れて危うかった大統領再選も果たして、一気に軍拡路線を突っ走りはじめたのがレーガンである。
 この大きな「成果」に味をしめ、またいつか別の形での「大韓機事件」を引き起こしてしまいかねないと危倶の念を抱くのは、私だけであろうか。 

        (岩波書店 「世界」 1985年10月号所収)