思い出を残して(回想と謝辞)


  私が大学で英語を教えるようになったのは、アメリカ留学から帰ってきた1959年からである。その当時から、毎月、研究社「英語青年」と大修館「英語教育」をとっていた。そのうちの「英語教育」のほうは、1960年から1982年まで、22年分のものを製本して、22巻にまとめて持っていた。

  その22巻の「英語教育」を跡見図書館に寄贈させてもらえることになって、昨年12月17日、研究室からカートに積み込んで図書館まで運んだ。矢島さんに手伝ってもらいながら、22巻を図書館のカートに移し替えていたとき、ふと、これらの22年分の雑誌に対する哀惜の念が胸をよぎった。「英語教育」から離れていくーー。それはまさに、雑誌そのものよりも、私自身が「英語教育」から離れていくことでもあった。私は、定年退職の日が迫りつつあることを、そのとき急に強く実感したのである。

  この「英語教育」は1982年までで、それ以降は講読していない。1983年、フルブライト上級研究員としてアメリカにいた私は、大韓航空機事件で家族が犠牲になった。私の生活はそのとき以来一変した。アメリカの大学での教職を中断して帰国してからも、長い間、札幌の自宅で、無明の闇に呻吟する日々が続いた。

  1985年秋のある週末に、『大韓航空機事件の研究』(三一書房)刊行のための研究会で上京していた私は、研究会の世話役のM氏から、「今日は会のあとで話があるから、札幌へ帰る飛行機の便を遅らせてほしい」と急に言われた。「毎月何度も飛行機で往復するのは大変だし、東京の大学へ移ってはどうか」という突然の話であった。M氏は優れた著述家であり、有能な経営コンサルタントでもある。私はM氏の高い知性と判断力に一目おいていた。そのM氏から「是非、東京の大学の先生に会ってもらいたい」と言われて、かなり強引にその日のうちに会わされたのが「英文」の中尾一人教授であった。

  地方の国立大学に長年勤めていて、私はまだ「跡見」という名前をよく知らなかった。短大であることも知らなかった。しかしM氏は、とにかく東京に来てもらいたい、と執拗に私を説得した。その後、池袋のホテルで、M氏を含めて、鈴木幸夫学長と中尾教授に会い、私は気持ちを固めることになった。思いがけなく、1986年の春から、私は長年住み慣れた札幌を離れて、跡見の教壇に立つことになったのである。

  跡見では、研究室がそれまでの四分の一の広さの相部屋になった。女子学生だけのクラスの授業も学力レベルの差を意識させられていた。初めのうちしばらくは雰囲気の違いに少しは戸惑っていたかもしれない。しかし、やがてそれにも慣れていった。跡見には、私のような「よそ者」をも包み込む鷹揚で穏和な雰囲気がある。精神的におぼれかかっているような状態であった私には、それが救いであった。

  授業は手を抜かずに、私なりに一生懸命とり組んできたつもりだが、ほとんどの学生たちは素直に反応してくれたように思う。学年最後の授業で、私は何度も受講生たちから花束をもらっていた。そんな学生たちの姿を、「優しく、可能性を秘めた跡見の学生たちのために」と副題をつけたエッセイで「英文宴」第三号に書いたこともある。

  こうしていつの間にか、15年が過ぎていった。私は跡見に来てからも、事件の後遺症のなかで生きてきただけに、学生たちへの教育に没入することで自分自身をも支えてきたような気がする。考えてみると、これまでの15年間、私はまだ一度も、遅刻も欠勤も休講もしたことがない。出張で授業に出られないときにも、講義の内容を録音してテープで「授業」をしてきた。休講のないアメリカの大学では当たり前のことで、別に自慢しているつもりはないが、これは短大の職員の方々を含めて、まわりから支えられていなければ出来ないことである。私はまず何よりも、このように15年間、まわりから支えられてきたことに感謝しなければならないと思っている。

  特に「英文」の先生方には、いろいろとお世話になってきた。私の「主任」時代には、授業が終わってからの会合にも頻繁につき合っていただいたりして、「英文」は、私にとっても居心地のいい職場であった。それは、当時の中尾一人先生を含めて、浅原義雄先生、小倉尚憲先生、内藤歓修先生の温厚なお人柄による。比較文化論、英米事情概説、英語海外研修、英文情報処理などの授業科目新設などから、公募による教員採用、LL副手採用、AV機器の整備、EVERGREENの発行等に至るまで、浅原先生らは新参の私をよく支えてくださった。私のような頑迷な人間が跡見で曲がりなりにも仕事を続けてこれたのも、これら諸先生のご温情によるものと深く感謝している。


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1992.12.16 伊豆、熱川館で。太平洋が目の前に広がる部屋
で、英文専攻のカリキュラム改革などを熱心に語り合った。
前列右端が私。



  その居心地のよさに甘えて、私は、教育の面ではともかく、研究の面では少々怠けてきたかもしれない。教える側も切磋琢磨して、勉強を続けることがもとより大切なのであろうが、「英文」の年長者でありながら、私はついに、そのような研究ないしは勉強の牽引役にはなりえなかった。そのことを、この際、お詫びさせていただきたいと思う。

  跡見を去るにあたって、私が「英文」でひそかに幸運だと思い続けてきたことにも触れさせていただきたい。「英文」初の公募で来ていただいた兼武進先生に、1988年以降、同僚としてのおつき合いをしていただいたことである。お名前を出して先生にはご迷惑になるのかもしれないが、私は先生の深い学識と謙虚なお人柄に深く傾倒してきた。私はいつか、おずおずと、先生といっしょにシェイクスピアなどの英書を読む読書会のようなものを提案したことがあったが、それは、先生といっしょに読むというよりも、先生からシェイクスピアを教えていただきたかったからである。

  兼武先生はおそらく、日本の大学では有数の「英文の達人」であるのみならず、希有の「日本文の達人」でもある。先生の高潔なご人格と珠玉のような名文をしばしば思い起こしながら、私は、こころひそかに兼武先生を自分の師と仰いできた。私の最後の職場となったこの跡見で、このような兼武先生といっしょに過ごしえた幸運を、私はこれからも決して忘れることはないであろう。 

  この最後の学年で私が担当したのは、例年通り、基礎演習と情報処理のほか、比較文化論、英語学、英語音声学、それに、英語研究TとUである。私の授業は、いつも、授業中に私語をする学生が一人もいない状態が当たり前になっていた。比較文化論のように、通常は百名を超える受講生がいる場合でも、教室の中は静まりかえって、90分の講義の間、私語をする者は一人もいなかった。毎年のように、単位取得後もくり返して受講する学生も何名かいたが、そのような熱心な学生たちに私は励まされ元気づけられてきた。

 最近は跡見もだんだん変わってきて、授業の進め方にもかなりの神経とエネルギーが必要とされるようになってきたが、本学年度も、その私語のない状態は維持されてきた。そして、跡見での最終講義になった本日の比較文化論では、受講生のほぼ全員から、学習ノートの中で、心のこもった感謝の言葉を受けた。教師冥利に尽きるといわなければならないであろう。従順にそして真剣に、よく私の授業についてきてくれた多くの学生諸君には、私の方からこそ、この機会に、衷心より幾度もくり返してお礼を申し上げたいと思う。

  昨年八月に、引率代行した英語海外研修も、現地の人々には好感をもって迎えられ、思ったより順調に進んだ。跡見の英語海外研修については、そのほとんどを私が企画担当してきて、私には深い思い入れがある。その前年の辛い経験があっただけに、昨年度の参加学生たちの素直な明るさには、私は救われる思いであった。最後の海外研修引率を楽しい想い出にしてくれた16名の参加学生諸君にも、ここで改めて、こころから厚くお礼を申し上げる。

                      ー 2001年1月15日 ー