―いろいろなソースから100の言葉を選んで―



 1. 一粒の麦もし地に落ちて死なずにあらば

 一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだら、豊かに実を結ぶようになる。(ヨハネ12:24)

 高校生の頃から、このことばは私の胸に沁みついている。「人は如何に生きるべきか」と考えるたびに、このことばを思い出してきた。年を経て、「人はどのように死ぬべきか」などと考えるようになってきても、やはりこのことばが頭に浮かんでくる。私が親しんできた旧訳では、こうである。

 一粒の麦、もし地に落ちて死なずにあらば、ただ一つにてあらん。もし死なば、多くの実を残すべし。




 2. 困難な人生は罰ではなくむしろチャンスなのです

 魂は時には、特別に厳しい人生を選びますが、これは自らの霊的な成長を促進するためか、または同じように困難な人生を生きている他の人々を助け、導き、元気づけるための行動です。困難な人生は罰ではなく、むしろチャンスなのです。
     (ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)PHP研究所、2001年、p.86)


 アメリカの精神科医・ワイス博士は退行催眠によって過去生や人間の生まれ変わりを「実証」してきたが、その博士だからこそ、言えることばであろう。人は自らの親を選び、環境を選んで生まれてくる。このことばは、それを理解したうでの延長線上にある。




 3. 生の始めに暗く死の終わりに冥し

 生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生の始めに暗く、
 死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し。 (空海『秘蔵宝鑰』)

 人間は生まれては死に、死んでは生まれて、何度も転生する。これは、いったい何度生まれ変わったら、この生と死の真理が理解できるようになるのかという、空海の嘆きが伝わってくるようなことばである。「五濁悪世」のなかでは、真理はそれほどまでに遠いのであろうか。仏教礼賛文のなかにも、「この身今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん」とある。

 空海は、いうまでもなく平安時代の高僧で、774年に生まれて835年に亡くなっている。自分の死ぬ日時を、3月21日の寅の刻(午前3時〜5時)と予言し、弟子たちに「嘆くなかれ」と戒めつつ、予言通りに死んでいった。



 4. 一日の苦労はその日一日だけで十分である

 だから、明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイ 6:25-34)

 イエスは、この前にこう言っている。

 「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことを思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなた方に言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」

 この最後のことば 「この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」は、胸に深く響いてくる。モノが溢れ、食も足りていながら、なお欲望の渦に巻き込まれていろいろと悩み思い煩う。そういう人が飽食の世の中だからこそ、かえって増えているのではないか。

 イエスはさらに「あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上によくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ」と嘆いたあと、続けて述べたのが、冒頭のことばである。



 5. 心配や不安を抱いてはならない

 心配というのは、最悪の精神活動のひとつである。非常に自己破壊的な憎悪のつぎに悪い。心配は何の役にも立たないエネルギーの浪費である。(ウォルシュ『神との対話』1997、p.255)

 このことばは、さらに、「不安は、精神的、肉体的健康に悪影響を及ぼす。不安とは増幅された心配である。心配、憎悪、不安はすべて、これらから生まれる気がかり、苦々しさ,短気、貪欲、不親切、批判、非難などともに、細胞レベルで身体を攻撃する。そうなったら健康を保つことはできない」と続く。

 人間は怒ったり強いストレスを感じると、脳からノルアドレナリンという毒性の強い物質が分泌される。逆に、明るい前向きな気持ちになると、無害でしかもモルヒネよりも効果のあるβ−エンドルフインが出るという科学的根拠も示されている。(「学びの栞B」9-a)



 6. 私たちは何度許さねばならないか

 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七度までですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。(マタイ 18:21-22)

 人を許すのは難しい。「絶対に許せない」と怒りを抑えきれず、自分自身をも深く傷つけたりする。しかし、やはり許さなければならないのであろう。許さないでものごとが解決することはない。イエスは、こうも言った。

 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。(マタイ 6:14-15)



 7. 私たちは死後の世界で今現在生きています

 何度も繰り返しますが、私たちは死後の世界で今現在、生きています。これを本当に人類に理解してもらいたいのです。(「学びの栞B」2-l)

 これは、コナン・ドイルが死後、霊媒を通して送ってきたことばである。生前から彼は「人は死なない」という重大な真実を伝えるために、作家としての地位や名声や財産を擲ってまで、懸命に講演や著述を続けた。霊界からさらに、彼は次のように訴えた。

 人間は死後も生き残るだけでなく、すべての生命の背後には普遍的かつ創造的な神の力が働いているということ、そして、人間がこの神の力を認識し、すべての生きとし生けるものとの同胞愛に生きる気持ちになるまでは、人間はけっして永続的な心の安らぎ・幸せ・調和を見いだせないということを証明したいのです。



 8. あなたはあまりにも美しくかけがえのない存在である

 「あなたは誰なのか? なぜここにいるのか? あなたの目的と運命とはいったい何なのか? あなたは自分が単なる偶然の産物であり、ほんの短い時間ここに生きて、次の瞬間には消滅するためだけに生まれてきたと思うのだろうか?」― かつて3万5千年前のこの地上に王者として生きたラムサはこう問いかけて、自分が見てきたいのちの真実をつぎのように解き明かす。

 あなたは、膨大な時間の中で繰り返し繰り返し生きることを通じて、いまの自分であるすべてになってきたのだ。そしてその生の一つひとつから智慧を得て、あなたという独自の美しい存在をつくり出してきたのだ。永遠という時間のほんの一瞬の間のためだけに創造されるにしては、あなたはあまりにも美しく、あまりにもかけがえのない存在である。(「学びの栞B」54-b)



 9. なぜ早く死んで極楽浄土へ行きたいと思えないのか

 はるか遠い昔から今日に至るまで、生死を繰り返してきたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ見たこともない極楽浄土は恋しくないというのは、本当によくよく煩悩は強いものにちがいない。(『歎異抄』第9条)

 親鸞に向かって弟子の唯円が、「いくら念仏をとなえていても、どうも天に舞い地に踊るというような全身の喜びが感じられません。それに、真実の楽園であるはずの浄土へも、早く行きたいという気持ちが起こらないのはどうしてでしょう」と、率直に聞いた。それに対する親鸞の答えが、この言葉である。

 仮に、監獄に閉じ込められた人が、自由な外の世界に憧れながら何十年も過ごし、年老いて釈放されたとする。その人にとっては、もう監獄の中が人生のすべてで、いまさら自由な外の世界では生きていけないと思うかもしれない。監獄からは出たがらないかもしれない。「本当によくよく煩悩は強いもの」だからである。



 10. 私達は両親を自分で選んでこの世に生まれてくる

 私達は両親を自分で選びます。普通はこれまでの転生で縁のあった魂を親に選びます。子供、青年、成人へと肉体的に成長しながら、私達は霊的にも進化してゆきます。(「学びの栞B」43-c)

  これは、ブライアン・ワイス博士が退行催眠によって発見した真実である。私たちは偶然にいまの環境に生まれたのではない。輪廻転生しながら霊的進化を遂げていくために、必要な環境を自分で選んで生まれてきたのである。そして、この霊的進化のための学びは終わることがない。

 ワイス博士は続けて言う。「肉体の死によって魂が体を離れたあとも、私達の学びは高次の次元、つまり、意識のより高い次元で続いてゆきます。今、終ったばかりの人生を回顧し、そこでの課題を学び、次の転生を計画するのです。学びは肉体の死によって終りはしません。」



 11. あなたは自分の意思でこの地上に生まれ変わってきた

 ここに戻ろうと決意したのは、あなたです。あなたが再びこの次元で自分を表現したいと望んだのです。(「学びの栞B」23-s)

 親子関係の葛藤のなかで「なぜ私を産んだのか」と親を責める人もいる。人生に絶望して、こんな世の中に生まれてこなければよかったのにと嘆く人もいる。霊界からラムサは、この地上に生まれることを決意したのはほかならぬあなた自身だとこう断言して、続けて言った。

 ですから、もしあなたが自分のみじめな状況を誰かのせいにしようとするのなら、自分の目をしっかりと見据えなくてはなりません。自分のよろこびも、自分の存在も、自分の悲しみも、あるいはすばらしき人生も、すべてはあなた自身にその責任があるのです。本当に、そろそろこれを皆が知るべき時期にきています。



 12. 戦争が聖なるものでありうるでしょうか

 戦争が「聖なるもの」であり得るでしょうか? これは矛盾する言葉、真反対の言葉をつなげたもの、絶対的な罪、そして、人を惑わすための表面的な理由づけです。(「学びの栞B」77-b)

 二十一世紀が始まっている今日でさえ、数知れない戦争、殺人、大量虐殺を行なうために、神の名が利用され続けている、とブライアン・ワイス博士は警告する。「聖なる戦い」などはあるはずがないのである。「魂には人種も宗教もありません」と博士は続けて言う。

 「恐怖を手放し、他の宗教の人々を自分と同じ人間であり、天国への道を歩む同志だと思うことによってのみ、私達は真に無条件の愛に満ちた存在になれるのです。・・・・・多くの転生をくり返すうちに、私達はすべての宗教、すべての人種を経験しています。魂には人種も宗教もありません。魂は愛と慈悲だけしか、知らないのです。」



 13. なぜ人間には霊のことがわからないのか

 どんなに遠く離れた所からも鳥は間違いなく自分の巣に帰ることができる。花は季節がくれば正確に花を咲かせ実を結ぶ。また、蜂のような昆虫でも人間も及ばない精巧な巣をつくり統制のとれた集団的生活を送る----。これが、巨大な霊能力者スウェデンボルグ(1688〜1772) のいう自然界の知恵である。人間が霊界や霊のことがよく解らないのも実は肉体的な存在としての人間が自然界の知恵に動かされているためだ、と述べて彼はこう続ける。

 自然界は、その不思議な知恵によって人間に自然的生命を全うさせるため霊や霊界の存在と永遠性を、その死の瞬間まで人間の眼にふれさせないようにしているのである。(「学びの栞B」5-e)

 では、逆に、もし、すべての人々が霊の存在、その永遠性を本当に確信をもって信じられたら、どんなことになるか? 「おそらく多くの人々はその肉体的、自然的生命を全うすることなく自ら命を断って霊界へと入ってしまうに違いない」と彼は言う。



 14. 復讐してはならない

 「目には目を、歯には歯を」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。(マタイ5:38-40)

 この後には、「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と、続く。それは「天にいますあなたがたの父の子となるためである」という言葉は重い。私たちが自分を愛するものだけを愛しても、それは当然のことであって、なんの報いもない。



 15. 苦しみは出来事に対する反応の中にあるだけである

 世の中には苦しみや悩みが絶えない。しかし、本来、苦しみや悩みは、「人間経験に不必要であるだけでなく、賢明でないし、身体にも悪い」と神は言う。そして、その後に、この言葉が来る。

 出来事はただ起こっているだけだ。それをあなたがたがどう感じるかは、またべつの問題だ。(「学びの栞B」11-j)

 一つの出来事に対して、苦しむ人と苦しまない人がいる。死という「一つの出来事」に対してさえ、悲しむ人と悲しまない人がいるといっていいであろう。出来事はただ起こっているだけなのである。



 16. たとい騙されて地獄に堕ちたとしても決して悔やまない

 たとひ、法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ。(『歎異抄』第2条)

 「私としては、ただ念仏を称えて阿弥陀仏のお助けにあずかれという法然上人のおことばを、そのまま疑いもなく信じているだけなのです。たとい法然上人に騙されて、念仏を唱えた後で地獄におちたとしても、少しも後悔することはないでしょう」と親鸞は言った。

 親鸞は、その後でこう続けている。「弥陀如来の本願が真実であるのなら、釈尊の教えも決してうそではないでしょう。釈尊の教えが真実なら、善導大師が説かれていることが間違っているはずはありません。善導大師の説かれていることが真実なら、どうして法然上人の言われることに偽りがあるでしょうか。法然上人の言われることが真実なら、この親鸞の言っていることも決して空言ではないのです」。



 17. 人はなぜ神を認識できないのか 

 神を認識できないのは、それがわかるところまで成長していないからです。成長すればわかるようになります。(大空澄人「いのちの波動」導きの声より)

 大空氏は天の声を聞くことができる人である。天界からのインスピレーションをえて、それを氏は、ホームページ「いのちの波動」(リンク集参照) のなかで「導きの声」として公開している。氏は、神を認識できない理由を、さらにこう述べている。

 暗闇の中を小さな照明を持って歩いていたら狭い範囲しか見えません。大きな照明を持てばもっと広い範囲を見渡せるようになります。それと同じことです。成長に伴いより大きな照明を手にすることができるのです。それでも神の一部が分かった程度です。さらに見えていない部分があることを知るようになります。神の全容を知るということは人間には不可能なことです。



 18. わたしを見ないで信じる者はさいわいである

 イエスが死後、弟子たちの前に姿を現したとき、12弟子の一人であったトマスは、そこにいなかった。ほかの弟子たちからイエスが現われたと聞いても信じようとはせず、「私はその手に釘あとを見、わたしの手をそのわきにさし入れて見なければ、決して信じない」と言った。

 その8日後に、イエスはトマスの前に現れ、トマスに言った。「あなたの指をここにつけて、わたしの手をみなさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい」。トマスはよみがえったイエスの姿を目の前にして、さぞ畏れおののいたことであろう。やっとイエスに答えて言った。「わが主よ、わが神よ」。

 イエスは彼に言った。「わたしを見たので信じたのか。見ないで信じる者はさいわいである」。(ヨハネ20:29)



 19. 私たちは神に背く偽証人にさえなるわけだ

 イエスが死後よみがえった姿を見た者は500人以上もいた。そのうちの大多数は、その時まだ生きていた。それなのに「あなた方のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか」とパウロは嘆く。

 彼自身が死後のイエスの声を聞いて、キリスト教の迫害者から180度転向し、誰よりも熱心な宣教者になっていた。パウロは言う。「もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教は空しく、あなた方の信仰もまた空しい」。そして、続けて言った。

 すると、私たちは神に背く偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである。(Tコリント15:15)



 20. 肉の体があるのだから霊の体もあるわけである

 死んでも死なないことを信じられない人が多いのは、昔も今も同じである。かつてパウロは言った。「ある人は言うだろう。どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんな体をして来るのか。愚かな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか」。さらにパウロは、こう続けた。

 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、肉の体でまかれ、霊の体によみがえるのである。肉の体があるのだから、霊の体もあるわけである。(Tコリント15:44)