21. 父母への孝養のために念仏をとなえたことは一度もない


 親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず。そのゆへは、一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり。(『歎異抄』第五条)

 父母というのは自分の父母だけが父母なのではない。人間は何度も何度も生まれ変わるから、生きとし生けるものは、みんないつかの世で、自分の父母であり兄弟姉妹であった。そう信じていた親鸞は、だから念仏をとなえる場合でも、現世の自分の父母だけに対する孝養のつもりでとなえたことは一度もない、と弟子の唯円に言った。




 22. 自分がどれほど美しいかあなたは知ることがなかった

 自分がどれほど美しいか、あなたはついぞ知ることがなかった。自分をしっかりと見たことがなかったからだ。自分が誰なのか、何者なのかを見据えたことがなかったのだ。(「学びの栞B」54-j)

 これは、古代霊ラムサのことばである。「神がどんな姿か見たいだろうか。鏡のところに行ってみよう。そうすれば、あなたは神と面と向き合っているのだ!」と、直截に私たちが神の子であることを教えようとする。そして、続けて言った。

 自分は価値ある人間であることをまず知ることだ。あなたの真価を評価できる物差しなどない。あなたの美を描き出せる像もない。そして、あなたの世界に終わりもないのである。




 23. 他者のためにすることは自分のためにすることである

 あなたが自分のためにすることは、他者のためにすることである。他者のためにすることは、自分のためにすることである。なぜなら、あなたと他者とはひとつだから。(「学びの栞B」26-i)

 神はこのように言った後、「このことを理解するには、一生涯かかるかもしれない。あるいはもっと多くの生涯が必要かもしれない。なぜなら、この真実の中心にはさらに大きな真実があるからである」と続けた。




 24. 私の死の日の予言もその正しさが証明されるであろう

 日本真言宗の開祖である空海は自分の死の4か月も前に、弟子たちの前で、3月21日寅の刻に死ぬことを予告したことで知られている。その予告どおり、空海は、承和2年(835年)3月21日寅の刻 (いまの午前4時ごろ)に大往生した。

 大学者で稀代の霊能者でもあったスェーデンボルグも、メソディスト派の創始者で1971年3月2日に死んだジョン・ウェスレーに、「私は、あなたが霊界において私に会いたいと希望していることを知った。私は、来年、1772年3月29日に、この世を捨て本当に霊界の霊となることに前々から決まっているので、このことも併せてお知らせしておくことにする」と霊能で手紙を送った。

 スェーデンボルグは、この事実を自分の手記のなかに記して、「私がウェスレーへの手紙で示した私の死の日の予言もやがて私の死後において、その正しさが証明されるであろう」と書き残した。そして、そのことばのとおりに、1772年3月29日に他界した。(「学びの栞B」57-d)



 25. 愛する者たちとの再会はなんという喜びでしょうか

 魂が愛する者たちと再会したときに体験する愛の深さと喜びを、いったいどうすれば、私はあなた方に伝えられるのでしょうか。本当に悲しい別れであったものが、もはや、それは自分に与えられた運命ではないと悟るのはなんという喜びでしょうか。(「学びの栞B」:21-b)

 これは、コナン・ドイルのことばである。名誉も地位も財産も擲って、人は死んでも生き続けるという霊的真理の普及に後半生を捧げたコナン・ドイルは、自分の死後も、霊界からメッセージを送り続けた。この愛する者たちとの再会の喜びも、彼自身の霊界での体験である。愛するもの同士には、別れはない。それをコナン・ドイルはつぎのようにも言っている。

 愛する者との再会ほど喜びに満ち、心を慰めてくれるものがあるでしょうか。今は亡き、父親、母親、夫、妻、兄弟、姉妹、子供と、再びこの世とあの世の障壁を越えて心を通わせられるということを知るほど、心を慰めてくれるものがあるでしょうか。それは本当のことなのです。素晴らしいことに本当なのです。



 26. 自分が生前いかに盲目だったかを知って衝撃を受ける

 「物質界で生活してゆく上でもっとも有利なように、自己はごく狭い範囲に限定される必要がある。だが死ぬと同時に、あなたがた一人ひとりの機能は飛躍的に拡大する」とジュディー・ラドンは言う。肉体の束縛から離れれば、急に千里眼の持ち主となってテレパシーが通じるようにもなるらしい。

 だから、この世を去れば、その拡大された能力によって、いましがた自分が終えたばかりの人生の目的は何だったのか、またその目的に向かって努力してきたかが、一瞬のうちに明らかになる。問題は、その時に後悔する人がいかに多いかということのようである。ジュディーにはそれが霊視できるのであろう。こう述べている。

 だからといって、うまく目的を果たした者や本来進むべき方向に忠実だった者が少ないわけではない。しかし、こちらへの到着後ただちに自分が生前いかに盲目だったかを知って衝撃を受ける者を、わたしたちはあまりにも多く眼にしている。(「学びの栞B」:2-y)



 27. 与えられた境遇により優しく対応する

 コナン・ドイルによれば、人間には、運命と自由意思による選択の両方が存在している。運命とはその人が一生涯のうちに体験しなければならない一連の体験を意味し、自由意思とは、その人の日常的な生活を支配する一連の状況や境遇に対して、霊的にどのように反応するかということである。そして霊界から、私たちにこう伝えてきた。

 与えられた境遇に対応する中で、より優しく、かつ親切な人柄になっていけば、人生もその人に対してより優しくなっていくでしょう。逆に、恨みを持ち、同胞に対して厳しく無慈悲な行動をとる人間になれば、過酷な出来事を自分自身に引きつけ、因果の法則にしたがって、そのような厳しい状況を現実化することになるでしょう。(「学びの栞B」:64-c )



 28. 永久に呪われた者などどこにも一人としていな

 地獄はあるのか、ないのか。霊界は階層社会だから、光り輝く光明の世界から薄暗い無明の世界まで、何層にも分けられるのであろう。だから、「こちらには、まさに地獄ではないかと思われるものがたしかに存在している。地上でひどい誤りを犯した者が、必ずといっていいほど、自分の間違いを修正するのに役立つような険しい人生航路をとるからである」とジュディー・ラドンはいう。

 しかし、地上でいう地獄とは、人間は邪悪であるから罰せられる必要があると教えられた人びとによって創り出されてきた。そのような「地獄という概念は誤りであり、それがあなたがたの世界のすべての牢獄にいる『犯罪者』よりもさらに大きい苦しみと悲しみの原因となってきた」とも、この霊界の使者はいう。そして、こう続けた。

 永久に呪われた者など全宇宙のどこを捜してもひとりとしていない。これまで教えられてきたような地獄は存在しないのである。生きとし生けるものすべてには神の祝福があり、いかに道を誤った行動をとろうとも、どの魂にも希望に満ちた未来がある。(「学びの栞B」:16-j )



 29. 命の始まりと終わりには定められた時機があります

  アメリカ人で、世界有数のミディアムといわれるジェームズ・ヴァン・プラグによれば、人が人工呼吸器によって生きつづけている場合でも、「やはり神聖な意図が働いている」のだという。そして私たちは、どんな病気や健康上の危機に見舞われたときでも、それらを成長や進歩の機会ととらえて、学ぶことができる、と述べている。

 医学が進歩発達して、確かに人間は長生きできるようにはなったが、しかし、それでも、天の摂理のなかで生かされている人間のいのちを医学が左右することはできないのであろう。いくら有能な医者でも、神を演ずることはできないのである。そのことを彼は、つぎのように表現している。

 以前から何度も述べているように、命の始まりと終わりには定められた時機があります。肉体から離れるべきときが来れば霊は自然に離れていくものだ、とわたしは固く信じています。科学がみずからの能力をいくら過信しようとも、どれほど多大な努力をしようとも、全宇宙を統べる偉大なタイムレコーダーを止めることはできません。(「学びの栞B」:57-e)



 30. 敵を愛し迫害する者のために祈れ

 「隣り人を愛し、敵を憎め」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなた方に言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。(マタイ5:44)

 イエスには、「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい」(マタイ5:39) ということばもある。ただ粛然とさせられる思いである。そのうえで、さらにつぎのことばを聞くことになる。

 あなたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。(マタイ5:46-47)



 31. 念仏して地獄におちたとしても決して後悔しないでしょう

 念仏をとなえれば本当に極楽に生まれることができるのか、あるいは地獄におちることになるのか、そんなことはわかりません。たとえ法然上人にだまされて念仏をとなえ、そのあげくに地獄におちたとしても、決して後悔することはないでしょう。(『歎異抄』第2条)

 信仰に迷いをもった信者たちが、関東からはるばると京都にいる親鸞を訪ねてきて親鸞に教えを乞うた。その信者たちに対して親鸞が答えたのが、このことばである。信仰とはこういうものだと、おそらく親鸞が血を吐くような思いで自らの心情を吐露している。その後で、親鸞はこう続けた。

 阿弥陀如来の本願が真実であるならば、釈尊の教えも決して虚言であるはずはありません。釈尊の教えが真実であるなら、善導大師の説かれることも偽りではないでしょう。善導大師の説かれることが真実であるのなら、どうして法然上人のことばに嘘があるでしょうか。そして法然上人のことばが真実であるならば、この親鸞の言うこともまた、空言ではないのです。これが私の信心です。このうえは、皆さんが念仏をお信じになろうが、なるまいが、それは皆さんのお考え次第です。



 32. 感謝と喜びで人生を考えるよう習慣づけよう

 中村天風氏によれば運命には天命と宿命の二種類がある。天命は絶対で人間が変えることはできない。現代に生まれてきたとか、男や女に生まれたたりするようなものである。しかし、宿命は相対的なもので人間の力で打ち開いて行くことが出来るという。では、そのためにどうすればよいか。

 心に憎しみや怒り、悲しみなどの、少しでも消極的な気持ちがあるならば、それは自分を宇宙霊の力から遠ざけて、暗い宿命を招き寄せる種を蒔いていることになる。宇宙には因果律という法則が厳として存在しているから、そういう心持ちでいては、いつまで経っても本当の安心立命はえられない。だから、常に、心の中に感謝と歓喜の感情をもたせることが必要である。それを氏はこう教える。

 習慣として、何でもいいから、感謝と喜びで人生を考えるよう習慣づけよう。この心がけが、宿命統制にすこぶる効果があるということがわかるなら、宿命統制ということが、さほど困難でないと悟れることと思う。まことに、この真理こそ絶対である。(中村天風『運命を拓く』講談社、1994年、pp.146-147)



 33. すべての試練は実際には神からの贈り物である

 エリザベス・キュブラー・ロスは、2004年8月24日に亡くなったが、最後の重病の床のなかで、「悲しいことに、とわの別れを告げようとしているこの世界にたいしてだけは不安を感じている。地球全体が苦しみにあえいでいる。地球が生まれてからこのかた、いまほど衰弱した時期はない。あまりにも無思慮な搾取によって、地球は長いあいだ虐待されてきた」と書いている。このことばは、つぎのように続く。

 「まもなく地球がこの悪行を正す時期がくると、わたしは信じている。人類の所業に報いる大地震、洪水、火山の噴火など、かつてない規模の自然災害が起こるだろう。わたしにはそれがみえる。わが亡霊たちからも、聖書に描かれているような規模の大異変が起こると聞いている。それ以外に、人びとが目ざめる方法はないのか?自然をうやまうことを説き、霊性の必要性を説くためにとはいえ、ほかに道はないのか?」 そして、遺言のように、こう述べた。

 わたしのこころはあとに残していく人たちに向けられている。どうか、恐れないでほしい。死が存在しないことを想起さえすれば、恐れる理由はなにもない。恐れることなく自己をみつめ、自己について知ってほしい。そして、いのちを、やりがいのある課題だとみなしてほしい。・・・人生に起こるすべての苦難、すべての悪夢、神がくだした罰のようにみえるすべての試練は、実際には神からの贈り物である。それらは成長の機会であり、成長こそがいのちのただひとつの目的なのだ。(「学びの栞B:18-d」)



 34.嫌だなと思うと脳内に毒性物質が分泌される

 人間の脳には、β(ベータ)エンドルフィンという麻薬のモルヒネよりも数倍強力で、しかも副作用のない「脳内モルヒネ」がある。これをどんどん分泌させると、脳だけでなく体全体にまですぐれた薬理効果を及ぼすということを、かつて医師の春山茂雄さんが『脳内革命』のなかで述べていた。人間には本来、自己治癒能力が備わっているということであろう。

 その脳には、ノルアドレナリンという物質もあって、これは、私たちが怒ったり強いストレスを感じたりすると分泌されてくる。しかし、この物質は蛇毒に次ぐ物凄い毒性をもっていて、そのせいで病気になり、老化も進んで早死にしてしまうのだそうである。イエスは「明日のことを思い煩うな」と教え、『神との対話』のなかでも「心配というのは、最悪の精神活動のひとつである。非常に自己破壊的な憎悪のつぎに悪い」といわれていることが、医学的にも証明されていることになる。春山さんは言う。

 人から何かいわれて「いやだな」と思うと、脳内に毒性のあるノルアドレナリンが分泌される。そのとき逆に「いいな」と思うとβ−エンドルフインが出るのです。ノルアドレナリンが分泌されるほうがいいか、βーエンドルフインが分泌されたほうがいいかは、自明の理でしょう。(「学びの栞B:9-a)



 35. 息を吸い込むことで宇宙の生命力を吸い込む

 「病気になるもっとも多い理由は、リラックスできないということです」とコナン・ドイルは教える。もともと医者であった彼は、死んでからも霊界からこのようなメッセージを送り続けた。「あなた方のほとんどが、意識的にも無意識的にも、糸がピンと張りつめたような緊張した生活を送っています。これは目を覚ましているときだけでなく、眠っているときでも同じです。緊張した心のまま眠りにつくと、あなたの指、肘、膝、脊髄、その他の骨の部分が、心のあり方に応じた緊張を保ちつづけているのです」という。

 だから、私たちにとって大切なことは、子供のときからリラックスすることの大切さを学ぶことである。それを習慣にして、毎日の生活をゆったりとした気持ちで、自分自身ばかりでなく、ほかの人たち、そして神との心の調和を保ちながら生活することを心がける。そうすれば、霊体および肉体の中を、エネルギーがなんの滞りもなく、リズムをもって流れるようになる、と彼は述べ、さらに、こう付け加えた。

 息を吐くとき、人は毒を吐き出します。というのは、息を吐くことによって人は、使い古した肉体的な物質を絶えず吐き出しているのです。ですから、逆に、息を吸い込むことによって、人は純粋なプラナ、すなわち、宇宙の生命力を吸い込むべきなのです。この宇宙生命力であるプラナは、人間の肉体をリズムのある完全な健康状態に保ってくれるものです。(「学びの栞B:17-a)



 36.わざわざ戦争や殺人を体験する必要はなくなるのです

 「人を牢獄に入れても、その心、その思考を閉じ込めることは絶対にできません。身体はどんなに押さえつけられていても、思考はそのまま活動を続けるのです」などと、ラムサは思考の持つ力の偉大さを繰り返し説いた。

 そして、「神という叡智では、悪であるものは何もありません。あらゆるものは、智慧を与えるひとつの体験なのです」と言い、命を奪われる場合でもそれは犠牲者ではなく、殺されるかもしれない可能性に思いをめぐらした者が体験のために、相手の殺意を自分に引き寄せるのだという。そのうえで、つぎのように述べた。

 自分の存在は悪ではなく、神そのものなのだと気づくとき、そして神という名の生の流れによって自分の存在はすべて愛され、支えられているとわかったとき、自分の価値、自分の大切さを理解するのに、わざわざ戦争や強姦や殺人、あるいはそれに類するようなことを体験する必要はなくなるのです。(「学びの栞B:9-w)



 37.神に求めたりすがったりせず感謝しなさい

 何かを求めて神に祈るというのは私たちのありふれた行為である。しかし、『神との対話』のなかで神は、「あなたは求めるものを手に入れられないし、欲するものを得ることもできない。求めるというのは、自分にはないと言いきることであり、欲すると言えば、まさにそのこと― 欲すること― を現実に体験することになる」という。したがって、正しい祈りとは、求めたりすがったりすることではなく、感謝でなければならない。

 「現実に体験したいと考えることを前もって神に感謝するというのは、願いはかなうと認めることだ……。感謝とは神を信頼することだ。求めるより前に神が応えてくれると認めることだから。決して求めたりすがったりせず、感謝しなさい」と神は教える。(「学びの栞B:4-h)

 「でも、前もって神に感謝したのに、それが実現しなかったらきっと幻滅しますよ」といわれて神はこう答えた。「感謝は神をあやつる手段ではない。宇宙をごまかす仕掛けではない。口では神さまに感謝しますと言いながら、内心、願いが満たされていないと信じていたら、神はもちろんあなたが信じるとおりにする。



 38. 愛は最も高く最も純粋なエネルギーです

 「大部分の人々は、自分達の霊的本質に気づいているとはいえない生活を送っています。自分達は魂も霊も特にない、単なる物体にすぎないかのように行動しています。そうでなければ、私達がずっとやり続けているような馬鹿げたことを、するはずがありません」と『魂の療法』のなかでワイス博士は述べている。

 未だに大虐殺を行ない、絶え間なく戦争をし、人殺しや強姦もすれば、拷問も盗みも行なっていることがここでは「馬鹿げたこと」とされているが、その対極にあるのが愛であろう。霊性を自覚することは愛に目覚めることである。博士もまた、「私達のような霊的存在は、殺人や強盗ではなく、思いやりと慈悲を実行すべきです」と、次のように、愛の大切さを説く。

 愛は最も高く、最も純粋なエネルギーです。その最高の波動で、愛は知恵と意識の両方を持っています。そして、すべての存在を結びつけるエネルギーです。愛は絶対であり、決して終ることはありません。(「学びの栞B:10-k)



 39. ほんとうの自分は何者かを知るのは死ぬときだ

 病院では、普通、患者が安らかに尊厳をもって死ねるようにするのではなく、何としてでも生かし続けることだけを考える。「医師や看護婦にとって、死は失敗なのだ。友人や親戚にとって、死は災いだ。ただ、魂にとってだけ死は救い、解放だ」と『神との対話』のなかで神はいう。

 「あなたがたは、死ぬのはよくない、という社会を創りあげた。死んでもいいなんて言ってはいけない、そんな社会だ」とも言われているが、そのとおりである。最も大切なことは、自分とは何かを知ることであろう。神の言葉は、こう続けられている。

 一生を通じて、あなたは身体が自分だと思っている。ときには精神が自分だと思うこともある。ほんとうの自分は何者かを知るのは、死ぬときだ。(「学びの栞B:2-zb)



 40. 思考には波動がありそれが特定の感情として体験される

 ひとつ知っておいてほしいのです。頭の中で思いめぐらし、理解すべく心に抱く思考には、すべてある振動数の波動があり、それが特定の感情として体験されるのです。(「学びの栞B:9-h)

 これは、ラムサのことばである。苦痛を感じている場合は、その場合の思考が低いレベルの振動数の波動を生じさせ、感情面ではその波動が痛みとして体験されているのだという。愛の場合は、逆に、思考の高い波動がもたらす高揚感を味わうことになる。

 大切なことは、その波動が死後の在り方をも方向付けることである。「霊界でのそれがどこであれ、自分の理解のために意識がおもに向いている方向が、あなたの行く天界です。それは、あなたの持つオーラと、あなたの存在の精霊が、その場所の波動へとあなたを引きつけていくからなのです」とラムサは教えている。