61. さらにいずれの生に向かってか此身を度せん
人身受け難し、今すでに受く、仏法聞き難し、今すでに聞く、此身今生に向かって度せずんば、さらにいずれの生に向かってか此身を度せん、大衆諸共に至心に三宝に帰依したてまつるべし。(仏教礼讃文)
これはよく知られているように、仏教の礼讃文である。仏の教えをすでに聞いているのに、今生きているうちに真理を悟るのでなければ、一体、何度生まれ変わったら悟ることになるのか、と問い質されていることになる。しかし、それでも観音菩薩のように「照見五蘊皆空度一切苦厄」となるのは決して容易ではない。
なぜ容易でないのか。シルバー・バーチは、霊的真理というのは、それを受け入れる用意のある人にしか理解されないと述べているが、霊的な目覚めのレベルが問題なのであろう。私たちは、やはり、霊性の向上を目指して一歩一歩進んでいくほかはないのである。
62. むしろ自分のため天に宝をたくわえなさい
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。」 これはマタイ伝のことばである。本当の豊かさとは、この地上で蓄えた富ではない。それを教えて、イエスは次のように続けた。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない、天に宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。(マタイ6:20-21)
宝を天に蓄えるというのは、それを自分より貧しい人々に分け与えるということである。イエスは人に与える場合も、そのことをまわりに知らせて自慢してはならないと戒めた。それは天だけが知ることである。そして、人に与えるというのは、自分が与えられることになるからである。
63. 求めよ、そうすれば、与えられるであろう
求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。(マタイ7:7-8)
このあとは、「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。魚を求めるのに、へびを与える者があろうか」と続き、私たちが忘れてはならない神のみ恵みについて、こう教えられている。
「このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなた方の父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。」
64.自由意思は存在し、同時に、運命も存在します
自由意思は存在し、同時に、運命も存在します。まさにこれは不可解な問題です。そして、人間は神の知識に徐々に近づくことによって、初めてこの間題に対する理解が得られるのであって、けっして知的な理解によって達成できるものではないと知ったとき、自由意思と運命の問題は明らかになってきます。(「学びの栞」B64-c)
これは、霊界へ帰ったコナン・ドイルが地上へ送ってきたことばの一つである。確かに矛盾しているようにみえる。それをコナン・ドイルは、運命とは私たちが一生涯のうちに体験しなければならない一連の物理的な体験で、自由意思とは、それに対して、霊的にどのように反応するかということである、と述べている。そして、こう続けた。
「与えられた境遇に対応する中で、より優しく、かつ親切な人柄になっていけば、人生もその人に対してより優しくなっていくでしょう。逆に、恨みを持ち、同胞に対して厳しく無慈悲な行動をとる人間になれば、過酷な出来事を自分自身に引きつけ、因果の法則にしたがって、そのような厳しい状況を現実化することになるでしょう。」
65. どうして「これが神である」と示すことができるのか
神を知りたければ、宇宙を見よとよくいわれる。ラムサも、「神の最も完璧で限りない存在としての姿を思い描きたければ、宇宙空間という終わりなき永遠を思い描くとよい。宇宙空間こそが、あなたの目にするものすべてを取り囲み、在るものすべてを維持し、その存在を確立してくれるものだからだ」と述べている。
そのうえで、私たちにこう問いかけている。「皆、宇宙空間のことを、まるで何もない場所であるかのように語る。しかし、すべてのものをしっかりとその公転軌道に固定しているのは何なのだろうか。虚無空間に皆の惑星である地球を浮かばせているのは何か?百億個の太陽を有する皆の銀河を支えているのは何か?」
― 神は在る。ただ、それは広大無辺な宇宙と同様、知覚することができないのである。ラムサはそれを、つぎのようにいう。
すべてを包括し、何よりも力を持ち、つねに進化を続け、動き、存在し続けていくものの姿を、いったいどうすれば認識できるというのだろうか。このいまの瞬間の神が、次の「いま」には同じものではないというのに、どうして「これが神である」と示すことができるのか。終わりのない宇宙をいったいどう知覚すればいいのであろうか。(「学びの栞」B22-e)
66. ガイドたちがただ私たちを見守っている場合も多いのです
世界有数の霊能力者といわれるアメリカのジェームズ・ヴァン・プラグは、守護霊について、「あなたがこの世で知っていた人物の場合もあります。たとえば、母親や父親、祖父母、伯父伯母、あるいは、すでに霊の世界に去った友人。人は亡くなってもあなたのことをずっと忘れません。現世でつちかわれた愛の絆は霊界でも続くのです」と述べている。
このように守護霊は、身内の人や親しかった人の場合が多いようであるが、彼らは霊界からは常に私たちを見守り、支援の手を差し伸べようとしているといわれている。ただし、私たちの霊性向上のためには、敢えて助けようとしない場合もあるらしい。それを彼は次のように言う。
わたしたちの学習過程は決して容易ではありません。困難な状況や人生の試練からわたしたちが最大の恩恵を得られるように、ガイドたちがただ傍観し、わたしたち自身の決断を見守っている場合も多いのです。時には耐えがたい場合もありますが、そういうときこそわたしたちは最も大きなことを学び取るのです。(「学びの栞B」74-h)
67. 岩も大宇宙の一部として生命を持って呼吸している
すべてのものに生命と意識があるというのは、この世ではなかなかわかりにくいが、霊界では不変の法則であるらしい。たとえば、霊界の花には息をのむほどの美しさがあり、どの花びらからも脈打つ生命が感じられる。花を手にとれば、そこから流れ出る活力と優しさのエネルギーが感じられる、という。
霊界の田園地帯も牧歌的で、そこには美しい樹木や潅木や薮や牧草地が開けているといわれている。天候に痛めつけられることがないため、木はみなすくすくと伸びて、季節に左右されずに生育しているようだ。それらもみんなそれぞれに、個性や生気を発散しているのであろう。さらに、アメリカの霊能者ジュディー・ラドンは、それ以外の、たとえば岩のようなものにも、生命と意識はある、とつぎのように述べている。
岩は一見したところ、生命のない何の変哲もない大きな塊に見えるが、実はそうではない。岩は大宇宙の一部として生命を持って呼吸しながら変化しており、わずかではあってもたいへん重要な意識の一部が賦与されている。みなさんの世界の形あるものすべてについても、同じことがいえる。(「学びの栞B」46-z)
68.天命は絶対で宿命は相対的なものである
中村天風(1876-1968)は天風会を創始し心身統一法を広めた日本で最初のヨーガ行者といわれる。肺結核が治らないまま、心身を強くする方法を求めてアメリカやヨーロッパを歴訪して帰国の途中に、インドのヨーガの聖人といわれたカリアッパ師と会う。そのまま弟子入りしてヒマラヤ山麓で2年半修業しているうちに、肺結核は完治して悟りを開いたという異色の人物である。その彼が、運命には2種類あると次のようにいう。
自分の思慮が足りないか、あるいは力が足らないかの理由で運命が開けないことを、いわゆるどうすることも出来ない運命だと決めてしまうのは軽率極まりない話である。運命には二種類あることを知らないのだ。すなわち天命と宿命というものがある。天命は絶対で、宿命は相対的なものである。しかし、宿命というのは、人間の力で打ち開いて行くことが出来るものである。(「学びの栞B」64-e)
そして、その宿命を打ち開いていくためには、宇宙には因果律という法則が厳として存在していることを知る必要があるという。つまり、心の中に少しでも消極的な気持ちがあれば、それは自分を宇宙霊の力から遠ざけて、くだらぬ宿命を招き寄せる種を蒔いていることになる。逆に、常に心の中に感謝と歓喜の感情をもたせるように心がければ、自分の宿命を統制できることになるのである。
69. すべての生命力の背後には霊的な現実の世界があります
一粒の種を土の中に蒔き、一定の湿り気と太陽と温度があれば芽が出ることは、誰でも知っている。しかし、なぜそうなるのかは考えない。それを当たり前の出来事としてみるだけで、実は、霊的な力の現実化であることには気がつかないのである。
同様に、人間はこの宇宙を自動的に支配している法則と秩序について語るだけで満足し、太陽や惑星をそれぞれあるべき場所に維持している強大な霊の力が存在しているという事実を探求しようとはしない。コナン・ドイルはその強大な霊力を、霊界から次のように教えてくれている。
人間を含めた、地上のすべての生命力の現実化の背後には、霊的な現実という素晴らしい世界があります。こうして、真実と愛が常にこの惑星に、そして宇宙に奉仕することが可能になっているのです。(「学びの栞B」58-a)
70. あなたは死にたくても死ねないのである
あなたは永遠に不滅なのである。永遠に生き続けるのである。死にたくても死ねないのである。この事実を受け入れさえすれば何もかもが一変する。永遠に生き続けるという視点から見ると、何もかもが違って見えてくる。(「学びの栞B」2-zb)
これは世界的に著名な心霊治療家であるM.H.テスター氏のことばである。氏は1986年に他界しているが、生前は霊媒のモーリス・バーバネルと知り合い、シルバーバーチの指導も受けていた。「あなたは死にたくても死ねない」というのは、シルバーバーチのことばでもある。これに続けて氏は、こうも言っている。
かりに今一つの問題を抱えているとする。それを百年後に振り返ったらたいしたことに思えなくなっているであろう。まして二、三千年後に別の世界でのびのびと生活している時に振り返ったら、バカバカしくて話にならないことであろう。
71. 人間の死を悲しむのは間違いで愚かしいことである
霊界へ行ってからあなたは地上での生活のおさらいをさせられる。犯した過ちと、その過ちから学び取った教訓について反省させられる。自分で自分を裁くのである。が、愛する人たちが迎えに来てくれている。もうどこにも痛みも感じないし苦しみも消えている。
これは、M.H.テスターが人が死んだ直後に起こる状況を述べたものである。その後、あなたが自分が健康そのものであることに気づいて、気分が落着いたあと、地上を眺めてみるとどんな情景が目に入ってくるか。なんと、そこではあなたの柩を囲んで親族や知人たちが嘆き悲しんでいるのである。そこで、テスターは次のように続ける。
あなたはその無知に驚き、気の毒にさえ思う。が、いずれはこの人たちともいっしょになる日が来るのだと考えて自分を慰める。人間の死を悲しむのは間違いであるばかりではない。愚かしいことであり、実は一種の利己的感情の表われでもあるのである。(「学びの栞B」2-zi)
72. あなた方は神と富とに兼ね仕えることはできない
どの僕(しもべ)でも、ふたりの主人に兼ね仕えることができない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。(ルカ:16-13)
このイエスのことばは、富に親しめば、神をうとんじることを教えている。ある時、金持ちの青年に、イエスは「あなたが完全になりたいと思うなら、あなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」と言った。
しかし、沢山の資産をもっているその青年は、そのことばに従うことが出来ず、悲しみながら立ち去った。その時にイエスが弟子たちに言ったのがつぎのことばである。「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうが、もっとやさしい。」(マタイ:19-24)
73.五体は元どおり満足で見慣れた服まで着ている
ぜひ覚えておいてほしいのは、新しくこちらにやってきた旅人が身体を持たないわけではない、ということだ。ざっと調べてみれば、彼は自分が肉体をまとっていたときと同じような姿をしていることに気づくだろう。五体はもとどおり満足で、見慣れた服まで着ている。とはいえ、いつもとはっきり違う点もいくつかある。身体は以前と同じようでも、感じがまるきり違うのだ。(「学びの栞B」46-v)
これは、アメリカの霊能者ジュディー・ラドンが霊界からのメッセージを伝えた言葉である。私たちは霊界へ行ってからも、この地上にいた時と同じような身体をもつ。ただ、その身体は、地上のものに比べて「より微細な素材」からできており、痛みや病気、不快感、疲労、飢えなどの感覚はない。私たちは、これを『新樹の通信』(「霊界通信集」5-7)によっても知ることができる。このなかで新樹氏は、自分の身体や服装のことについて、次のように述べている。
(死んだ後)「僕は真っ先に自分の体はと思ったようです。するとその瞬間に体ができたように感じました。・・・・・僕が絵を描こうとしたり、水泳でもしようとしたりすると、その瞬間に体ができ上がります。つまり外部に向かって働きかけるような時には体ができるもののように思われます。」そして新樹氏は、自分の気に入った家に住み、「くつろいだ時には普通の和服、訪問でもする時には洋服を着て」過ごしていると近況を伝えていた。
74. 生命は無数の銀河のなかに存在している
「彼らは、広大な宇宙に目を向けたときでさえ、そこに生命を見ることができない。この宇宙のなかにほかの生命など存在するはずがないという信念で、凝り固まっているためにである」と、かつて、ゲーリー・ズーカフは、『魂との対話』のなかで述べた。そして、いつかは「生命は存在するすべてである」ということが、いま私たちが科学と呼んでいるものの中心原理となるときがくることを示唆して、次のように続けた。
人間の魂よりも進化した生命の形態はたくさん存在する。選択肢は文字どおり無数にある。生命は無数の銀河のなかに存在している。生命に満ちた惑星の数は、何百万、いや何十億にも及んでいる。事実、活発な意識を欠いている惑星はひとつもない。私たち人間によく似た形態の生命も存在すれば、まったく異なった形態の生命も存在するが、とにかくあらゆる惑星に、私たちが意識として理解する生命が存在しているのである。(「学びの栞B」32-b)
この点については、ラムサも、「ここにはほんの小さな銀河があるにすぎない。そしてもし皆が、自分たちがそこに存在するただひとつの生命であると考えているなら、それは倣慢であると言わざるを得ない」と述べて、「皆の住む銀河系だけでも百億個の太陽があり、それぞれの太陽には生命を維持している惑星があるのだ」(22-d)と教えてくれている。最近の宇宙の探査研究では、ハッブル宇宙望遠鏡などの観測データなどにより、これらの真実に着実に近づいているようにみえる。いまでは、宇宙には「1000億個の地球が存在する!?」とまで、NHKテレビ番組で伝えられるようになってきた。
75. 間違いや失敗は一歩ずつ進むための「神への階段」
皆がしてきたことはすべて、私も同じことをしてきている。皆の間違いと同じ数だけ私も間違いを犯してきた。自分の内に強さと美徳が欠けると皆が価値判断を下している面についても、私もやはりそう思っていたことがある。しかし、自分の弱さを知るまでは、強さがわかることはけっしてなかっただろう。自分から生命の潮が引いていくのを見るまでは、それを愛することはなかっただろう。そして、人間の残虐さをさげすむまでは、皆をひとり残らず心に抱き、受け容れることもけっしてできなかっただろう。
これは霊界の偉大な指導者ラムサの言葉である。この言葉はこう続く。「これまで皆がしてきたことはすべて、それがどんなに下劣で卑しいことであろうとも、それは単に自分のために学びの機会をつくる目的でしたことなのだ。その学びを通して、皆は傷つき、苦痛を味わい、悲しみ、そして自分をおとしめてきたのに、そこから再び立ち上がってきた」。つまり、大切なことは、失敗や過ちを犯してきたことではなく、それらを学んできたという事実を知ることである。そしてラムサは次のように断言する。
あなたは失敗したことなどない。いつも学んできたのだ。不幸にならずして幸せというものをどうして知ることができるのか。自分の目標に近づいてみて、それが自分で思い描いていたものと違う色合いのものだったとわかる前に、どうしてその目標が何かを知ることができるのか。あなたは過ちを犯したこともない。一度たりともないのだ。何も間違ったことをしたこともない。何のために罪の意識を感じる必要があるのだ? あなたのしてきた間違ったこと、失敗、誤りなどは、すべて一歩ずつ進むための「神への階段」と呼ばれるものだ。(「学びの栞B」65-e)
76. 感謝することで魂の波動は上ります
私たちの魂の振動数は意識と連動している。意識のレベルが変化すると、魂の振動数も変化するのである。恐れ、嫌悪、羨望、軽蔑のようなネガティブな感情を持てば、魂の振動数は低くなり、優しさ、思いやり、好意、喜びといったポジティブな感情を持ったときには、魂の振動数は高くなる。
作家の佐藤愛子氏は『私の遺言』(新潮社、2002年)のなかで、「現代のように人が損得のみに一喜一憂する時代では肉体の波動、精神の波動と共に魂の波動も下るのは自然のなりゆき」と述べた。そして、彼女の霊的な師である中川昌蔵氏に、「波動を上げるのにはどうすればよいか」と質問したら、中川氏は、こう答えたという。
難かしいことは全くありません。学問も知識も必要ありません。人は一人では生きられない。私は生かされている――。そのことを認識し、ありがとうという感謝の気持を表現すればいいのです。感謝することで魂の波動は上ります。実に簡単なことです。(「学びの栞B」51-s)
77. 肉の体があるのだから霊の体もあるわけである
イエスはエルサレムのゴルゴタの丘で処刑されてから、生前の予言どおりに、3日後によみがえって弟子たちの前に現われた。しかし、その時に居合わせなかった12弟子の一人のトマスは、その復活を他の弟子たちから聞いても信じようとはしなかった。その8日後、今度はそのトマスも居るところへイエスは現われ、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と諭した。(ヨハネ20・26-27)
このようにして、よみがえった後のイエスを見た生き証人は、当時 500人以上も居たといわれている。しかし、日が経つにつれて、このイエスのよみがえりを信じない信徒たちも出てきた。それをパウロが嘆いて手紙に書いた。「ある人は言うだろう。『どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか』。おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。」 そして、こう続けた。
死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。(コリント前書15・42-44)
*この「叡智の言葉B」(77)は、4月23日に「私たちは神にそむく偽証人にさえなるだろう」として載せましたが、これは (19) と重複しますので新しいものに入れ替えました。 ご了承ください。
78. あなたはこの地球上を一人で歩いているのではない
あなたは支えられている。助けられている。あなたは、この地球上を一人で歩いているのではないのである。このことを忘れないことだ。あなたの非物理的な教師やガイドたちといっしょに歩むことだ。何について尋ねたらいいか、尋ねるべきか、或いは、何を話したらいいか、話すべきかといったことで悩む必要はまったくない。彼らとの絆をあたりまえのものとして受け入れ、それを感じながら生きることだ。(「学びの栞B」47-f)
これは、ゲーリー・ズーカフが『魂との対話』のなかで述べている言葉である。私たちは実は、霊界の教師やガイドたち、つまり守護霊たちに常に導かれて生かされている。だから、自分の運命を改善し、幸せになっていくためには守護霊に感謝して自分の運命をすべて委せればよい。この心が神への感謝にも繋がり、守護霊の活躍を充分にさせる一番よい方法なのである。
彼はまた、宇宙を信頼することを説いている。宇宙を信頼するというのは神を信頼することにほかならない。彼はいう。「宇宙を信頼するということは、自分の環境はつねに、自分にとって最善の、もっとも妥当な結末をめざして動いている、ということを信じることである。これは、もしもそうならば、とか、そうなったときには、といった次元の話ではない。これは、明らかな真実である。」
79. 多くの人々は自ら命を断って霊界へ入ってしまうに違いない
人間は肉体と霊から成り立っている。そして肉体、物質界に属する眼や耳、鼻などの感覚の働きを本当の一番深い所で支配し、生命そのものを肉体に与えているのは、霊界の太陽の霊流を受けている霊の力である。これはスウェデンボルグの説明である。それを私たちは、人は肉体を伴った霊であって、霊を伴った肉体ではないと理解している。肉体をもってこの世に生きているのは、魂の修行のためであると納得もしている。
さらに、スウェデンボルグによれば、霊が本質的な存在であるがゆえに、霊から見れば、幽界と現界との境界線のようなものも存在しない。霊界とはだからこの世をも含めた大きな一つの世界であり、むしろこの世は霊界の一変種に過ぎないということになる。しかし、そのような霊界の真実が容易に理解し難いのは、自然界の知恵が人間に働いているからだと、彼は次のようにいう。
もし、人間が霊の存在、その永遠性を本当に確信をもって信じられるように全ての人々ができていたらどんなことになるか? おそらく多くの人々はその肉体的、自然的生命を全うすることなく自ら命を断って霊界へと入ってしまうに違いない。自然界は、その不思議な知恵によって人間に自然的生命を全うさせるため霊や霊界の存在と永遠性を、その死の瞬間まで人間の眼にふれさせないようにしているのである。(「学びの栞B」5-e)
80. 人はレベルの異なる霊的覚醒をもって生まれてくる
人は生まれながらにして平等であるという。かつて福沢諭吉も、「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と言った。しかし、これはあくまでもこの世での見方で、生命の一面的な捉え方であるに過ぎない。人の本質は霊であり、霊として霊性向上のために輪廻転生を繰り返す。その霊的観点からみれば、人は生まれながらにして平等なのではない。それをM.H.テスターは、次のように言っている。
われわれ人間は一人一人レベルの異なる霊的覚醒をもって生まれてくる。つまり人間の数だけ覚醒の度合の違いが存在するということである。しかもその一人一人が自分なりのペースで進歩しつつある。それゆえ自分の道は自分で求め、自分の能力に応じたところまで進まねばならない。(「学びの栞B」13-q)
テスターはさらに、こうも言っている。「機会の均等は可能であろう。が、その機会をどう生かすかは本人の健康と体力と知力と想像力、それに、それまでに開発した霊的意識の程度にかかっている。ある人は健全な身体と明晰な頭脳を具えているが、霊性の点では至って貧弱で、生きる目的だの来世だのはどうでもよいことである。一方、生まれつき身体が不自由で家も貧しく、視力または聴力といった大切な機能が欠けているが、霊性は成熟しており、生命の尊厳に目覚め、幅広く徳積みに励む人もいる。」(「学びの栞B」48-c)
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