子供たちのアメリカ遊学


  アメリカヘの旅

 「お前、ABCくらいは書けるのだろう?」
と、私は隣の座席の息子に聞いてみた。一九七三年の暮れ、クリスマス狂躁曲が流れる日本を後にして、アメリカヘ向かう日航機の中でのことである。私は一年間の文部省在外研究員として、オレゴン州ユジーンの、オレゴン大学へ行くところであった。かつて、十数年前、大学院時代をここで過ごしたこともある気安さもあって、今度は、妻と、中学一年の娘・由香利(ゆかり)、小学校五年の息子・潔典(きよのり)を伴っていた。
 当時、娘は、中学に入って半年以上も、英語を習ってきたわけだから、いくつかの単語と、基本文型くらいは知っていた筈であった。しかし、息子と英語との結びつきは、それまで何もなかった。アメリカ大陸が近くなってきたという機内のアナウンスを聞きながら、私は、ちょっと、そのことが気になってきたのである。「大文字くらいならね」と、息子はくすぐったそうな表情で答えた。それも活字体だけで、筆記体や小文字の方は、「習ってもないのに、書ける筈ないでしょう」であった。
 私は英語の教師でありながら、生来の不精者であったから、渡米が決まってからも、娘や息子に、英語を教えるというようなことはしなかった。別に深い考えがあって、わざとそうしたわけではない。少しくらい教えておいた方がいいかなあ、とは考えていたが、ばたばたと、付焼刃的に押しつけてもキキメはないとも思ったりして、結局、何もしないうちに出発してしまっただけのことである。彼らは、いま流行の学習塾にも行ったことがなかったし、家庭教師にもつかなかった。アメリカへ行くというので発奮して、自分たちだけでひそかに、英語を勉強したらしい形跡もまったくなかったから、はじめから、父親のうしろにくっついてさえいれば安全と、高をくくっていたのかもしれない。
 目指すユジーンに着いたのは大晦日で、それも、深夜であった。途中、ロサンゼルスやサンフランシスコなどに二、三日ずつ滞在して、子供たちは、急に飛び込んだ英語の世界の中を歩き回って疲れ、ふだんの朝寝坊が、いっそう甚だしくなっていた。
「飛行機で空ばかり飛んでいたのでは、アメリカをよく見ることは出来ないから、サンフランシスコからはバスで行こうか」などと言っていたのを、余儀なくまた飛行機に変更したが、年末のローカル線は意外に混んでいたため、日中の席がとれず、ついユジーンには、深夜到着という破目になってしまったのである。
 深夜では、大学の宿舎に入る手続きもとれない。出迎えのファルコネリ教授に不手際を詫びて、とりあえず、近くのホテルヘ連れていってもらう。荷物を運び込んでくれて、ファルコネリ教授が帰って行ったとき、かすかに教会の鐘の音が流れ、時計を見るとちょうど零時であった。私たちのユジーンでの生活は、はからずも、一九七四年の黎明とともに始まったのである。
 ユジーンは、緑の美しい、人口九万の静かな大学町である。町の中を、ウィラメット川が東から北西に向かってゆるやかに流れ、その東寄りに川を北端にして、大学の広大なキャンパスがひろがっている。オレゴン州特有の木材加工業が若干あるほかは、特にこれといった産業のないユジーンでは、学生数一万六千、教職員四千のオレゴン大学が、最大の「産業」であった。町全体も、大学を囲むようにして周辺にのび、広さは、七、八十平方キロもあるであろうか。
 私たちの宿舎は、キャンパスから西に向かって四キロの、町はずれに近いところにあり、子供たちが入る予定の小学校は、家から徒歩で数分のところにあった。日本の小学校なら、三つか四つは入りそうなひろびろとした緑の敷地の中央に、きれいなコの字型の校舎があって、校名をアイダ・バタソンといい、児童は二百人しかいない。校庭がそのまま歩道に接している一隅に立って、「あれがお前たちの学校だ」と子供たちに言うと、彼らの顔は一瞬、ひきしまったように見えた。英語も話せないのに一体どういうことになるのか、いま現実に校舎を眼の前に眺めて、彼らの心の中には、好奇心よりも、急に強い不安が沸き起こってきたに違いなかった。
 海外の小学校に入るのに、子供が一種の拒絶反応を起こすことは、決して珍しいことではない。娘と息子も、ごく身近にそのような例を知っていた。近所にいて親しく付き合っていた子が、やはり一年間ドイツの小学校に通うことになつたとき、その子はいやがって、苦しまぎれに「死んでしまいたい」と口走ったというのである。一年後同じように国外へ出ることになつて子供たちは、この話をひとごとでなく受けとめた筈であった。私と、そしておそらく妻の意識の中にも、この「死んでしまいたい」は、重苦しくよどんでいたといってよい。
「大丈夫でしょうか?」と妻は時々気にして私に言い、私は仕方なく「大丈夫だろう」とあいまいに答えていた。
 はじめ私は、子供たちをそれぞれ、二年と三年くらいのクラスに入れてもらうつもりであった。大文字ABCだけの息子と、それと五十歩百歩の娘では、はじめから、英語力はほぼ完全にゼロである。英語力ゼロのショックを少しでも和らげるためには、出来るだけ低学年がいいと考え、そのようにカウンセラーのミセス・プルイトにも言ってみた。
 この小学校ではたまたま、日本の子供を迎えるのがはじめてであった。英語は、アルファベットを読み書きできる程度であることは言ってあったが、この銀髪の美しい初老のミセス・プルイトは、バタソンの子供たちにもいい勉強になる、とはりきっていたようである。
 「ご心配はいらないと思います。ことばのハンディキャップを考えても、子供は慣れるのが早いですから、五年と六年に編入させたらどうでしょうか」と彼女は言った。この問題では、校長ともいろいろ話し合ったのだとも言う。私にも妻にも、反対する根拠があるわけではなかった。
「どうせ一年間だけのことだから、どちらでも大した相違はないかも知れない。まあ、言われた通りにしてみるか」
 私たちの態度ははなはだ無責任であった。
「無理なようだったら、また相談に行くより仕方がない」
 -----これで、息子が五年生、娘は六年生のクラスに編入されることが決まった。

  日本語から英語ヘ

 ユジーンに着いてからのはじめの一週間は、大学関係者、古い友人・知人などに対する挨拶まわりと、それに、中古自動車を含めて最低限度の世帯道具を揃えるためのショッピングで、またたく間に過ぎた。その間、どこへ行くのにも、妻と子供たちは何時もいっしょであった。妻も、学生時代の英語はきれいに忘れて、ほとんど「白紙状態」であったから、対外折衝はすべて私がやらなくてはならない。家で電話が鳴っても、受話器は私がとるしかなかつた。
「お父さんはいいなあ、英語ができるから・・・・・」
 と子供たちは真にうらやましそうに何度も言い、自分たちでも時折受話器をにぎっては、「ハロー、イエス・・・・・イエス、ノウ・・・・・サンキュウ、グッドバイ・・・・・」などと、電話で話す真似をしたりしていた。自分たちが登校する日が近くなるにつれて、英語が話せたら・・・・・という願望は、異常なまでに強くなっていたのかも知れない。
 八日目に、娘と息子は初めて登校した。その前夜、私は彼らに「トイレはどちらですか?」と「家に帰ってもよろしいですか?」の二つの表現を教えた。当日、私は妻と学校までついて行ったが、おのおのの教室の前まで行き、担任の先生に挨拶して子供たちを引き渡してしまったら、帰るほかはなかった。教室の中へ入ってみることはしなかったから、娘も息子も、それぞれどのように、この新奇な体験を受けとめたのか知るよしもない。
 昼食は、学校で給食をとる。児童も先生も全員食堂に集まり、父兄も五十セントを払えば、何時でもいっしょに食べてよいことになっていた。私と妻は、その日の昼食だけ子供たちといっしょにとることにし、また学校へ出かけた。行ってみると、娘も息子も、それぞれクラスメートにはさまれて、「無事」食べているところであった。アメリカの子供たちは、食事中もにぎやかで、しきりに娘や息子にも話しかける。しかし、彼らはただにこにこするだけで、答えようがない。そばに行って「大丈夫か?」と聞いたら、二人とも「うん」と答えた。その表情が思ったより明るいのに安心して、私と妻は家に引き返した。
 その夜、息子にとっては画期的な「事件」が起こった。電話がかかってきたのである。いつもの通り私が受話器を取り上げると、男の子の声であった。ダスツンというクラスメートで、「キヨノーリ」と話したいという。「オーイ、きよのり、お前に電話だ」と言ったら、彼はさすがにびっくりしたらしい。たじたじとなった。とにかく受話器をにぎらせ、私はそばで介添役をつとめることにした。「まず、ハローと言いなさい」。息子は仕方なく「ハロー」と続けた。「ジス・イズ・キヨノリ・・・・・」、「ジス・イズ・キヨノリ・・・・・」 あとは眼を白黒させているだけであった。ダスツンがペラペラしゃべっている英語が、私にまで聞こえる。要するに、君と友だちになりたい、食堂では隣に座らないか、というようなことを、熱心にくり返しているのであった。息子には勿論、一語もわかるはずはなかった。
 もの珍しさもあったのであろうか、娘と息子の編入学は、はじめの二、三日、バタソンの子供たちの間に、ちょっとしたセンセイションを巻き起こしたようである。よそのクラスからもわざわざやって来て、自己紹介して帰る子供もいると聞いた。言葉が通じなくとも、そういう好意の表現はわかるものであろう。娘と息子は、たちまち学校が好きになってしまったらしい。「何かよく分からないけれども面白い」と言って、楽しんで登校するようになつた。
 英語についても、自然にいろいろ聞くようになつたが、これはそれまでになかったことである。「エニバリって何のこと?」「anybodyで、誰か、ということさ」「フォンコーは?」「phone call だろう。電話をかける、ということだ」「先生が時々、キッズ、キッズというよ」「kidは子供で、たくさんいるとkidsになる。まあ、子供の皆さん、ということかな」-----
 こう質問がふえてきては、放っておくわけにもいかない。間もなく私は、土、日を除いて毎晩、三十分から一時間ほど、いっしょに英語を勉強することを提案した。その日の英語の質問に答えて、それから少しずつ、簡単な表現を覚えさせていく。子供たちに異存がある筈はなかった。
 電話はその後、娘のところへも息子のところへも、ほとんど毎日かかってくるようになり、慣れるにしたがって、彼らも受話器を自分でとるようになつた。しかし、最初の受け答えだけは何とか出来ても、その後が続かない。結局は私が通訳することになつた。それでも、そのような形で電話に出ることがだんだん平気になり、私のいない時の電話は、あとでかけ直してもらったりすることも覚えていった。この程度まで慣れるのに、二、三週間もかかったろうか。
 しかし、何よりも娘や息子にとって役にたったのは、これらの電話の主が、電話ばかりではなく、よく家へ遊びに来てくれたことである。はじめの一、二カ月はほとんど毎日であった。二人、三人、ときには五人、六人も一度にやって来て、狭いわが家ににぎやかな英語がはんらんした。よく開いていると、娘と息子も、時々、ぽつんぽつんと何か言っている。たとえば娘は、千代紙で作られた小箱をプレゼントするのに、"This is my mother made box. This is Japanese paper. I give you this." などと言い、息子にいたっては、「外へ出て、バスケットボールをやろう」と言うのを "You, outside, play, baseball, OK?" ですませていた。
 大切なことは、先ずしゃべることであって、はじめから正確な英語に固執することではない。しゃべりながら、しゃべることを通じて、子供たちは少しずつ、正しい英語に近づいていくのが本筋であろう。私は、子供たちのしゃべる英語については、間違いだらけでも、ほとんど直すことをしなかった。
 英語の教師を十数年やってきて、私には英語の難しさが頭にこびりついている。難しい異質の言語だから、間違うのはむしろ当たり前であって、これを一つ一つ直していたら、ものを言わなくなるだけである。娘と息子は、英語の難しさを知らなかった。慣れてくると「恐いものなし」で、子供同志の妙な隠語まで覚えてくる。「お父さん、こんな単語知っている?」と聞かれて、「そんなの知らない」と答えると、「大学の先生のくせに、これ知らないの?」と言ったりもした。
 こちらの小学校の授業は、土、日を除いて、毎日朝八時半から午後二時半までときまっていて、教科内容は、日本と大して変わらない。変わっているのは、一クラスの人数が二十数名で非常に少ないことと、教室内の雰囲気が、まったく自由でのびのびしていることである。
 どこの教室も、前面に黒板があって、教卓があって、その前に子供たちの机が何列かにきちんと並んでいる、というのではなかった。教室の片隅に、数人が囲めるような大きなテーブルが二つ三つあり、別の一隅にはテレビがあって、その前に、椅子が数個無造作に投げ出されている。中央部の半分は、どこかの家庭からでも寄附してもらったらしい使い古したカーペットが敷かれ、これも中古の、大きなソファーがどっしりと腰を据えていたりする。残つた空間を、子供たちの机が、ここに五つ、あちらに六つと、とびとびに散らばっているという具合である。壁ぎわには、本棚や図画・工作の陳列棚、発芽中の植物のガラス容器から熱帯魚の水槽のようなものまで、きわめて雑然と並べられているのも、いかにもアメリカの小学校らしい感じを受ける。                    能力別のグループに分けて指導したり、一対一で、先生と向かい合うことも少なくないから、同じ時間内でも、全員が同じ内容のものを学習しているとは限らない。それぞれの学習を行いながら、ソファーにすわって片ひじをついていたり、机の上にあぐらをかいたり、カーペットの上に寝ころんだり、といった状態も決して珍しくはなく、日本の小学校を見慣れた眼には、自由というより、おそらく、乱雑と映るかも知れない。
 子供たちは、まったくアット・ホームでのびのびと振舞い、教室の中は決してあまり静粛ではなく、先生の英語と子供たちの英語が、常ににぎやかに飛び交っている。このような雰囲気の中で、娘も息子も、毎日のように、担任の先生から個別指導を受けられたのはしあわせであった。息子は、アルファベットを筆記体で書くことから教わり、娘は、簡単な読み物を毎日読まされていた。

  アジア系アメリカ人

 やがて三月になり、中旬から一週間の春休みを迎えることになつた。冬の間の陽光の乏しさに耐えつつ、緑の美しさを懸命に保ち続けてきたかに見える家々の芝生にも、鮮やかに生気がよみがえり、町のいたるところで、一斉に、桜が咲きほころびはじめた。ユジーンでは、そして多分、オレゴン州としても、一年で最も美しい季節である。
 私たちは家族全員で、大学の貸し切りバスによるオレゴン州一周旅行に出かけた。これは主として、留学生のための三泊四日の旅行で、宿泊はすべて、各地の民家がすすんで引き受けてくれる。日中は、政府機関や各種公共施設の見学のほか、姿も高さも日本の富士山とよく似たマウント・フッドや、ワシントン州との境界をなしている雄大なコロンビア川とその周辺、アイダホ州に近い広漠とした荒野の中のインディアン居留地、カスケイド山脈中の溶岩の堆積や奇岩絶壁などを見て回る予定であった。
 最初の日、バスはオレゴン州の首都セイラムに寄り、全員が知事のトム・マッコール氏に会った。知事は、一人一人に握手を求め、娘と息子のところに来ると、気軽に話しかけてきた。
「お名前は?」「どこから来たの?」「いま何年生?・・・・・」
 この程度の英語なら、どこででも、大抵初対面の際に言われてきたことだから、子供たちも返事には慣れてしまっている。一応、すらすらと彼らが答えるのを見て、知事はあるいは、彼らにはまだ、聞く力も、話す力もないことに、気がつかなかったかも知れない。子供が二人だけであったためか、機嫌よく、娘と息子を両脇に抱くようにして、写真に納まってくれた。子供たちはただ、にこにこしているだけである。知事がもしそれ以上、何か話しかけたら、今度は間違いなく答えられなかったであろう。彼らはきっと、とっておきの英語を持ち出すに違いなかった。「アイ・アム・ソリー、アイ・キャント・スピーク・イングリッシュ・ベリ・ウエル・・・・・」
 このような、挨拶だけの英語を話す機会は、その後も旅行中、子供たちに何度か訪れた。挨拶だけは「流暢に」すませて、あとはニコニコで間に合わせる。その後の会話の空白を埋めるの、もっぱら、私の役目であった。
 こちらのアメリカ人は、普通、眼の前にいるアジア人が、英語を話せないかもしれないことを、よく理解しない。彼らは第一、相手がアジア人であることが分かっても、いわゆる「外国人」だとは思わないことが多いのである。中国系、日本系、韓国系のアメリカ人は、特にこの太平洋諸州に、決して少なくはないから、大都会の空港やホテルなどの、すぐそれと分かるような外国人を除いては、大てい、アジア系アメリカ人と思われてしまう。アジア系アメリカ人なら、英語が分からない筈はないから、娘や息子に対しても、例えば、英語をゆっくりしやべったりするようなことは、まったくなかった。
 アメリカ人ではない「外国人」のアジア人は、はじめのうち、この鉄砲玉のように早口の英語にとまどう。しかし、こちらの社会では、英語の出来ない「外国人」であることに甘えていては、動きがとれない。アメリカ人は普通、そのような外国人に同情して対応するすべを知らないのである。むしろ、こちらから一歩進んで、英語は下手でも、なまりがあっても、自分はアジア系アメリカ人だと考えて振る舞う方が、すべてにおいてスムーズにいくような気がする。「しんどい」ことではあるが、もともと外国生活などというのは、「しんどい」ものであり、多少なりとも、そのような意識の変革をも要求されるものであろう。
 このオレゴン州一周流行は、外国人としての旅行であった。行く先々で私たちは、間違いなく外国人として迎えられた。しかし、それにもかかわらず、宿泊先のアメリカ人家族をはじめ、私たちを歓迎するための集会に集まってきた町の人々の中で、英語の下手な「外国人」であり続けることは、どことなくちぐはぐで、無理があるような気がした。私は、まだまだ「外国人」であることから抜け切れないでいる妻や子供たちの、このちぐはぐを少しでもカバーするために、終始気を使わなければならなかった。楽しい流行ではあったが、やはり、少し疲れた。
 春休みも終わって、日ましに暖かさを増す陽ざしの中を、娘も息子も、また元気いっぱいに学校に通いはじめた。もう、通学するのには、何不自由ないような顔をしてはいたが、勿論、授業の内容には、まだほとんどついていけなかったに違いない。
 彼らは、新しく選択科目として、毎日一時間、発音とリーディングの指導を、専門の先生から受けるようになっていた。私も、「無精者」で甘んじているわけにもいかない。大学で仕事を終えて帰ったあとの夜の勉強を、子供たち相手に続けた。学校のものと同じテキストを使いながら、くり返しリーディングを行い、そしてそれと並行して、できるだけ多く、簡単な書き取りや作文をやらせる。和訳はむしろ有害であることが多いので、あまり力を入れないが、大意だけは常にしっかり把握させることを念頭においた。テキストは日本では、中学一年後半から二年目にかけて使うような程度のものであったろうか。このテキストにも慣れてきたある日、三頁ばかりの物語を読んで本を閉じさせ、そのあらすじを日本語でまとめさせたあとで、何気ない風をよそおって、彼らに言ってみた。「さあ、今度はそれを英語で話してごらん」
 私は自分の英語教師としての経験から、日本の英語教育の中では、中学から大学に至るまで、この種のreproduction(再生)の訓練がもっとも欠けているものの一つであり、したがって、大てい学生たちにとっては苦手で、いやがられることをよく知っていた。こういうことは、はじめから、出来ないものと思い込んでいるような学生も、決して少なくはない。娘と息子は、このような事実にも無知であった。ここでも「恐いもの知らず」である。彼らは、時々、つまりながら、それでも平気な顔をして、物語を英語で繰り返し、そしてそれを紙に書いた。
 私の頭の中にはその時、ふと小さな感慨がよぎったように思う。娘はともかく、息子の方は、ABCからはじめて数カ月であった。彼らだけが、特にできのいい子なのではないだろう。学習環境の相違のためであるとはいえ、私はあらためて、非能率的な日本の英語教育に費やされているおびただしい時間とエネルギーを、そしてまた、英語教師としての焦燥と自責の念を思い起こしたのであった。
 かつての聞く力も話す力もゼロであった子供たちの英語力は、三カ月ぐらいではやはり同じで、あまり変わることはない。しかし、彼らの英語習得の過程を見ていると、六ヶ月目くらいに一つの転機を迎えた、といえそうである。それまで抑えていたものが、急に噴出しはじめた感じで、不完全ながら、子供たちの口から英語がひんぱんに飛び出しはじめた。電話がかかってきても、もう父親の手をわずらわせない。自分たちの方からも、臆せずダイヤルを廻すようになつた。息子は、自分の誕生パーティの招待状を、何やらあやしげな英文で作り、娘はディナーの礼状を、自分で書くと言っては、内心私をはらはらさせた。時には、姉弟げんかを、日本語まじりの英語でやったりもする。街へ出れば彼らはもう、おそらく誰の眼にも、「アジア系アメリカ人」なのであった。彼らも、日本の街を歩く気軽さで、このアメリカの街を歩いた。

  アメリカ旅行とヨーロッパ旅行

 ユジーンは大学町だけあって、人々も親切である。一部の州でよく問題になる人種差別や偏見も、少なくとも表面的には、ほとんどこの町で感じることは出来ない。「ユジーンはいい町ですよ」という言葉を、「オレゴン州はいい州ですよ」という言葉と同じくらい、ヨーロッパ系アメリカ人からも、アジア系アメリカ人からも、そして、いわゆる「外国人」からも、私たちは幾度となく聞き、私たちも自然に、そう思うようになっていった。
 娘と息子にとっては、オレゴン州ユジーンがアメリカのほとんどすべてであり、アメリカとはユジーンの別名であった。彼らは、日本の友達へ出す手紙の中にでも、ユジーンでは、あるいは、オレゴンでは、と書くべきところでも、つい、アメリカでは、にすりかえてしまっていたかもしれない。アメリカとは何か? このような問いに答えるには、アメリカはあまりにも広大で、人種構成も、日本では考えられないくらい、複雑多岐にわたっていることを、子供たちはまだ、よく理解してはいなかった。
 ユジーンは、日本の本州と四国を合わせた大きさのオレゴン州の中の小さな一つの町に過ぎず、そしてそのオレゴンも、アメリカ五十州の一つに過ぎない。「ところ変われば品変わる」である。町によって、州によって、あるいは国によって、制度も習慣も変わり、人々の考え方や価値判断の基準も変わる。世界が小さな日本を中心にして廻っているのでは決してないように、オレゴンがアメリカの中心なのでもない。私はこんなことを、理屈ではなく体で、子供たちに感じとらせたいと考えていた。子供たちにとっては、単なる英語学習よりも、こちらの方がはるかに意義は大きい。
 ユジーンの私たちの家の壁には、大きな世界地図と、それと同じくらい大きなアメリカ地図が、はりつけられていた。このアメリカ地図の方には、かつて私が大学院時代に、車とバスで走り回ったアメリカ一周の足跡を、太い赤線で示してあった。私たちは、この同じ地図の上に、もう一本のアメリカ一周の線を、何度か、書いては消し、消しては書いたりした上で、六月中旬、夏休みに入ると同時に、車でアメリカ一周族行に出発することにした。
 車は六十一年型シボレーであった。よく手入れされて外観も美しく、エンジンの調子もよかったとはいえ、十三年間にすでに、二十数万キロメートルも走ったしろものであった。これだけの大きな流行となると、いささかの不安がなかったわけではない。だいたいこの車を買った時は、例のオイルショックで、オレゴン州ではガソリン不足が特にひどかった。十ガロンのガソリンを求めて、朝五時からスタンドの前に並んだり、百六十キロ離れたポートランドへさえも、帰りのガソリンが心配で行けなかったくらいであった。大学へ通う足として、やむなく買ったものの、この車でアメリカを一回りするなどということは、私自身、全く予想はしていなかったのである。
 大学の仕事の関係で、八月中旬から約一カ月、イギリスや他のヨーロッパ諸国訪問の予定があとにひかえていたので、私たちには、いまさら車を買い換える余裕はなかった。私たちは出来るだけ経費を切りつめるため、この車にテントや寝袋を積み、炊飯道具や食料をいっぱいにつめ込んで、まずカリフォルニアに向かって南下しはじめた。それから約七週間、アメリカ各地の大学や図書館を訪ねるかたわら、美術館、博物館などもはばひろく見てまわる予定であった。
 車の故障のかなり高い可能性を含めて、この広大な大陸の地表を、アリのようにはっていくには、はじめからいろいろな困難が予想されていた。「自殺行為だ」とおどかした友人もいたくらいである。私たちは「予想通り」いろいろな困難に遭遇した。
 カリフォルニアからネバダヘ入ったとたん、早速試練が訪れた。私たちの車には、冷房がない。広漠とした荒野のすさまじい熱気に、身の危険さえ感じて、進路を変更せざるを得なくなり、ユタからコロラドへ逃げ込んだのである。しかし、ロッキー山脈越えで、酸欠のためか車のエンジンが完全にストップしてしまう。ネブラスカでは真夜中の突然の嵐に、テントが吹き飛ばされそうになった。子供たちが小さな力をいっぱいに出して、テントの中から必死にポールを支えていた情景は、いまもありありと眼の前に浮かぶ。アパラチア山脈では、壮絶な雷に追いかけまわされ、ニュー・ジャージーの森の中では、遂に妻が寝込んだ。車もニューヨークのマンハッタンの真ん中で、二度目のトラブルを起こして立ち往生する・・・・・・。
 イースト・コーストまで三週間かけた片道だけでも、ざつとこんな具合であった。しかもまだ、帰路が残っていた。はじめははしゃぎまわっていた子供たちも、これが容易ならぬ流行であることを、もう十分に、体で感じはじめていたようである。
 子供たちはワシントンの博物館で、リンドバークのスピリット・オブ・セントルイス号を見てからは、よく大西洋横断飛行のことを話題にした。「翼よ、あれがパリの灯だ」には、実際、身につまされるものがあったらしい。「もし、この車で無事ユジーンに帰れたら、このエンジンにキスするわ」と娘は何度か言った。ボストンの海岸に立って、眼の前にひろがる大西洋を眺めながら、私たちは、気が遠くなるくらいに遠く離れてしまった、小さなユジーンの町をなつかしんだ。
 やがて進路を西へとる。西に向かうということは、私たちにとって、何とすばらしいことであったことか。エンジンの音さえ、こころなしか快調に聞こえる。ここまで来ると、この車も執念みたいなものが出てきて、もとの古巣へたどりつくまでは、決して挫折しまいと奮起しているかのようであった。「人間でいえば、もう八十歳というところなんでしょうにね」と妻は同情し、私たちの車に対するいたわりと感謝の気持ちも日ましにふくらんでいった。
 五週間経ち、六週間が過ぎた。ナイアガラからデトロイトに抜け、シカゴまで来てちょっと北上すると、あとはオレゴンまで、ほぼ一直線であった。出発以来の走行距離は、八千キロ、一万キロ、一万五千キロと伸びていく。西への道も、文字通り平坦ではなかったが、確実に一歩一歩、オレゴンに近づいているということは、大きなはげみであり、なぐさめであった。アイオワの平原で、モンタナの山中で、あるいはワシントンの渓谷で、私たちは真黒に日焼けし、汗にまみれて、興奮や涙や、時には笑いのシンフォニーを奏でた。子供たちのこころの中には、それらの余韻がいつまでも尾を引いていくに違いない。数々の想い出をいっぱいに乗せて、出発後八週間目に、車はとうとう無事ユジーンにたどりついた。全行程約一万八千キロであった。
 私はこの族で、僥倖を期待しはしなかった。他人に頼る気持ちもあまりなかった。事故にあっても助けてもらえず、キャンプ場などでも仲間はずれにされる、というようなことがあったとしても、それはそれでかまわない。それも一つの「アメリカ」であることを、子供たちは学ぶ筈であると考えた。いろいろなことがあり、いろいろな人たちと出会っては別れた。私たちは、差別にも偏見にも悪意にも無縁であった。それどころか、見知らぬ人々からの数多くの献身と、善意と、親しみ深い笑顔が、私たちの胸に深く刻み込まれて残った。私はむしろそのことで、はじめて引け目のようなものを感じ、「参ったな」と誰に言うともなくつぶやいたものである。これもたしかに「アメリカ」に違いない。

 一週間休養して、ロンドンへ飛んだ。予定していた一カ月の、イギリスとヨーロッパ諸国訪問旅行である。ロンドンに着いてからも、宿泊はその日から安ホテルを歩いて探した。息子はどこへ行くにも必ず私につき添って、アシスタントをつとめ、娘は母親のそばを離れず、何かと母親をかばつた。アメリカ一周旅行以来、私たちの間には、何時の間にか、効率よく動きまわるための、行動と分業のパターンのようなものが出来上がっていて、はじめてのロンドンでも、そう不自由した記憶はない。ロンドン英語も、「何だか少しヘンだけど、ママの通訳ぐらいなら出来る」と子供たちは言った。ピカデリー・サーカスで、面白おかしく通行人に呼びかける女売子の、口まねをしては笑いころげる気持ちの余裕が彼らにはあった。
 ロンドンからは、汽車と船でアムステルダムへ行き、そこで小さな車を借りた。ライン川に沿って走り、アルプスの山々を越え、ローマの遺跡をめぐってスイスに至り、白鳥が群れ遊ぶ美しい湖畔の町で、息子は五十ドルの腕時計を買った。日本出発以来の、彼の大きなユメであった。彼はこの日に備えて、せっせと小遣いを貯め続けてきたのである。娘はフランスで、小さなフランス人形を買い、妻はベルギーで、刺繍をしたテーブルクロスを買う。その日その日の宿さえさだかでない、ヨーロッパ放浪旅行の、彼らにとっては貴重な記念品であった。
 国境をいくつも越え、その度に通貨が変わり、ことばが変わった。しかし、どこの国でもことばには終始あまり不自由はしなかった。いや、不自由はしなかった、といえばウソになるだろう。不自由はしたけれども、ほとんど苦にはならなかった。私自身は、英語のほかはロシア語を少しと、ドイツ語の片言ぐらいしか知らない。「それでイタリアやフランスヘ行ったらどうするの?」と子供たちは本気で心配して、何度も聞いたが、「相手が英語を知らなかったらね、まあ、ゆっくり日本語でも話してみるさ」と、私はのんきに答えていた。子供たちは、本当に私が日本語を使うまでは、これをじょうだんだと思っていたらしい。
 私はハンドルをにぎりながら、ヨーロッパのどの町へ行っても、安ホテルを探したり、美術館を訪ねたりするのに、しょっちゅう道に迷っていた。その度に、誰かれとなく人をつかまえては、ひんぱんに道を尋ねた。まず英語でやってみる。駄目なら今度は、目的の地名とか建物の名前だけをていねいに発音し直す。食堂でも同じで、メニューの名前だけは覚えていて、それで通じた。単語だけでは愛想がないから、私は実際、何度も日本語をくつつけて、用を足したのである。
 外国語は、卑屈になってしゃべれば、通じないばかりか、相手に不快感をさえ与えかねない。言葉そのものよりも、態度が問題なのである。相手が日本語をしゃべれないことでは対等であり、卑屈になる理由はない。私は子供たちにも、「英語でダメなら、落ち着いて日本語で話しなさい」と言っていた。
 それでも、少しでも言葉が通ずるということは、すばらしいことである。ブリュッセルでエイジェントに車を返して、四週間ぶりにロンドンへ帰ると、ロンドン英語の響きが耳に快かった。子供たちはユジーンに帰ってからも、パリやローマより、ロンドンの方が好きだと言う。少なくともロンドンでは、彼らも英語が未知の言語ではなかったことが、あるいは彼らに、そう思わせているのかもしれない。

  帰国を前にして

 夏休み三ヶ月を、アメリカとイギリス、ヨーロッパ諸国の旅行でフルに使って、またもとの静かなユジーンの生活に戻ると、外はもう、すっかり秋であった。わが家の周りの、木々の緑は日ましに紅葉し、高い空に浮かぶ雲のさまにも、そこはかとなく哀愁がただよいはじめる。
 アメリカでは、学年が変わって、息子はパタソンの六年生に進級し、娘はかつてのクラスメートたちとともに、中学へ移った。第三代の大統領にちなんでジェファソンという。少し家から遠いが、それでも歩いて二十分くらいである。敷地ばかりだだっぴろくても、どこか可愛らしいパタソンに比べると、敷地も校舎も、さらに一まわりも二まわりも大きい。生徒の数も多くて六百を超え、みんな、どことなく大人びて見えた。
 中学になると、毎日の教科は全部選択で決めるので、学期のはじめには、各自の時間割作成のために若干の手続きがいる。娘は、不明な点は友人に電話をかけて聞いたりしながら、すべて自分でやり、親の手をわずらわすことはなかった。中学では娘も、パタソンから来た進級生の一人であったから、はじめから外国人ではなく、アジア系アメリカ人と思われていたのかもしれない。はじめてパタソンに入学した時のように、何かにつけて特別の配慮を受けるようなことも、少しもなかった。
 娘と息子が久しぶりに登校してみたら、留守をしていた三ヶ月の間に、いろいろ変化が起こっていたようである。パタソンの校長が変わり、かつての娘の担任はカリフォルニアへ行つてしまい、クラスメートも何人か、親の転勤でいなくなってしまっていた。アメリカの社会は、移動がはげしい。そのためか、別れる時も、たんたんときわめてあっさりしていて、「情に流されやすい」私たちは、時にはほとんど耐えられぬ思いをするくらいである。
 最初の電話以来、息子の無二の親友になったダスツンも、大学の付近のアパートへ引越したので、小学校も変わってしまった。この子は、「ぼくが覚えているだけでも、引越しは十六回目だよ」とけろっとしていた。私たちと知り合ってからでは、これが二回目である。はじめはパタソンの近くの自宅にいて、それを他人に貸してから私たちの家の近くのアパートに引越してきた。それが春休みの間である。そして今度は、夏休みの間に、家賃なしで管理人として住み込めるアパートを見つけて移ったのであった。
 父親は、オレゴン大学の法律専攻の学生で二十六歳、ダスツンにとっては、三度日の義父である。母親は、ホテルや食堂で働きながら、五人の子供を育て、現在の夫を大学に通わせている。やはりオレゴン大学で美術を専攻して、もう何年も前に卒業しており、年齢も、今の夫より七歳上だ。こういう「状況」に、こちらの子供たちはよく慣れており、周囲もそれを、特異な眼で見ることはない。無邪気で利発なこのちびっ子は、息子に対しても、「君のお父さんは何人目なの?」と聞いたりした。年齢からみて、一、二回変わっても、不思議ではないと思ったのかもしれない。
 娘の親しい友人の一人であるジーンも、引越してしまった。この子の父親はまだ若いが、自動車修理工場の経営者で、裕福である。母親に似て背が高く、クラスでも一番ののっぽだが、一人いる弟の方は、背も低くて顔も似ていない。一度うっかり、「君は背が高いのに、どうして君の弟はチビなんだろう」と言ったことがあったが、その時の返事によると、弟は貰い子であった。父親が殺傷事件を起こして刑務所に入り、母親が生活に困って捨てようとしたのを、もらったのだという。本人も十分に「納得している」と言った。こういう「状況」にも、こちらの子供たちはよく慣れており、じめじめした暗さはみじんもない。実際、このアメリカの子供たちの天真爛漫な明るさには、娘や息子以上に、親の私たちも、教えられるような気がしていた。
 このダスツンやジーンは、いわばわが家の「常連」であった。毎朝家に来て、時には朝食さえ共にして、娘や息子といっしょに登校した仲である。「常連」がいなくなって、娘も息子も、はじめてひとりで登校するようになつた。小学校と中学校は方向も違う。ひとりで登校することも、親の私たちには、一つの成長のようにも思えた。
 しばらく休んでいた私と子供たちとの勉強は、十一月に入ってからまた始めるようになった。やはり三十分ずつくらいで、内容にも特に新しいものがあるわけではない。書いて、そしてしゃべることも、従来通り続けた。
 娘や息子が、時々電話などで話しているのを聞いていると、発音だけは目立ってよくなっていることがわかる。先生からも時々ほめられるらしい。これは大きな収穫で、日本ではこうはいかない。しかし文法の点からいえば、小さな間違いや、自己流のでっち上げが結構多い。それでも本人たちは、何不自由ない顔をしてしゃべり、そしてそれで、話は一応通じてはいる。通じているからかえつて、自分でも間違いに気がつかず、そのまま英語が、歪んだ形で定着してしまいやすい。やはり側面から、少しは見守ってやる必要があった。
 しかし、そうはいっても、私自身、毎夜三十分くらいの勉強が、大いに役立つと考えていたわけではない。帰国が一月のはじめに迫っていて、残された時間も多くはなかった。子供たちの英語の習得は、はじめの「半年日の転機」のあとは、ごくゆるやかに上昇カーブをえがいていくだけである。
 もしこのカーブが、あと一年も続くのであれば、あるいは二つ目の転機とでもいうべきものが、訪れるのかもしれない。英語の力は、読み、書きを含めて、アメリカの子供の水準に完全に追いつき、すべての科目の授業の中で、子供たちの態度は、「受動」から「能動」に変わっていく。しかし、残された一、二ヶ月の上昇カーブの中だけでは、私がいくら横から口出ししても、特にどうということはないようにも思えた。一種の気休めにすぎないかもしれない。やはり、日本に帰ってからの英語に、期待をつなぐほかはないようである。
 一つの懸念は、アメリカの英語と日本の「英語」の相違である。日本の「英語」は、かなり特珠な、いわば学校教育専用の「英語」であって、日本の学校に在学し、高校や大学を受験するのには便利であるが、それ以外には、あまり役に立たない。英語をなぜ学ぶのか、生きた英語の実態がどうであるか、ということにまで関心が及ばず、枝葉末節のクイズ解答方法などが、案外重要視される。いきおい、本質が見失われて形式がはびこり、英語も、本来の英語とはまた別の、「教師のための英語」がはばをきかすだけである。
 かつて、ある中学の研究会で、何校かの生徒たちに統一問題による客観テストをやらせたその解答を、「分析・研究」していたことがある。よく見ると、問題そのものが英語としておかしいのであった。正しい答えは出ない筈なのに、生徒たちは受験技術でそれをこなし、研究会ではその「結果」を議論している。むつかしい外国語だから無理もないことではあるが、英語の正体を、教える方がまだよく掴めていないことが決して珍しくはない。いわば「群盲、象をなでる」式の「英語」であって、教えられる方も、何年間も汗水たらして「石の橋を叩く」ことにのみ没頭して、そして遂に、「渡れない」で終わる。
 今からかなりはっきり予想できることは、いま中学生の娘も、帰国したらやがて中学生になる息子も、日本式のペーパーテストでは多分、英語も出来がよくないだろうということである。せっかくの、怖いものなしで立派に通じる英語も自信を失い、このまま放置しておけば、日本の教室では英語力ゼロに逆戻りしていく可能性が強い。私はまた、気休めにしかならないような三十分の夜の勉強を、日本でも続けなければならなくなるのであろうか。
 しかも日本では、英語だけが問題なのではない。英語は単なる一教科にすぎず、一年の滞米生活で少々できるようになつても、また、日本へ帰って出来なくなつても、もともと大したことではないに違いない。私たちを真にやりきれない思いにさせるのは、娘や息子を、好むと好まざるとにかかわらず、そのすさまじい渦の中に巻き込んでしまいそうな、あの異様な受験体制そのものの姿である。日本では子供たちを、遊び放題遊ばせてきて、アメリカに来てからもそれは続いた。しかし、一年という大きな「ハンディキャップ」を負ったあとでは、それはもう限度であろう。日本からアメリカヘ来て、英語しか通じない学校で、「拒絶反応」を起こすことのなかった彼らも、今度は逆に、アメリカから日本へ帰って、日本語が自由に通ずる学校の中で、はじめて「拒絶反応」を起こすようになるのかもしれない。

  さよなら、アメリカ

 いよいよ十二月になって、ユジーンでは雨期に入った。すっかり葉が落ちて、黒ずんだ木々の梢を背景に、しとしとと音もなく、毎日のように雨が降る。町のあちらこちらで、クリスマス・ツリーの市が開かれ、ダウンタウンのショッピング・センターでも、クリスマスの飾りつけが一斉にはじまった。しかし、ラウドスピーカーなどから喧噪が流れ出すようなことは、決してない。町の中を、日一日と、徐々に静かに、クリスマスムードが浸透していく感じである。私たちはもう、帰国の準備をしなければならない。日本までの飛行機のスケジュールを調べ、本や家財道具の荷造りなども、少しずつはじめるようになった。
 中旬になると、娘の中学校で、クリスマス・コンサートが開かれた。それが今学期のほとんど最終行事である。これが終わると最後の第三週を迎え、小学校も中学杖も、二十一日からクリスマス休暇に入る。コンサートでは、娘はクラスメートとともにバイオリンを弾いた。バイオリンは先生からの借り物であり、ロングスカートの演奏用ドレスは、学枚の家庭科の時間に自分で縫ったものである。会場にあてられた広い体育館の中を、バイオリンの音が澄みわたり、数百の父兄は熱心に耳を傾けている。最後のバイオリンは身にしみた。次にまたコンサートが開かれるときには、もうここには娘はいない。名残惜しさと感謝の気持ちがおのずとふくらんでくる。
「皆さん、本当にいろいろとありがとうございました。あのバイオリンを弾いている娘も、ここにいる息子も、お蔭さまで楽しい想い出をいっぱいに胸に抱いて、まもなく日本へ帰ります・・・・・・」
 私は、生徒たちにも、先生方にも、そしてバイオリンの音色に聴きいっている父兄たちにも、一人一人に、こころからのお礼を述べたいような気がしていた。
 学期の終了と帰国を目前にひかえ、私たちの身辺は急にあわただしくなってきた。パタソンでは、学期末の教師と父兄の懇談会があった。一人一人時間を決めて担任と会い、今学期の間の勉強の結果を中心に語り合う。小学校では、点数式の成績の評価はなく、各科目について、講評ノートがあるだけである。息子は、算数と工作と体育がよかった。厳しい講評の科目はなかったが、英語がゼロからスタートして一年目であることが考慮されていたに違いない。リーディングの科目では「アメリカ英語の発音がとてもきれいです」とさえ書かれてあった。
 娘のジェファソン中学校からは、電算機処理の成績カードが送られてきた。彼女がこの学期にえらんだ七科目についての評価が、ABCDEの五段階式でタイプされてある。国語、文学、社会、体育の四科目は "Average"(平均)のCであった。しかし、数学と音楽と家庭科の三科目で、Bを越えてAだったから、思いがけなく、総評では「平均」よりかなり上になってしまっていた。
 ついに第三週も半ばになった。子供たちは十二月二十日の金曜日、最後の授業に出るのがつらいと言う。私もその日、お別れの挨拶に行くのがつらい気がする。しかしそれを顔には出したくない。思えばよくここまでやってこれたものだった。長い一年である筈であった。しかしまったく、あっという間にあっけなく過ぎ去ってしまって、一年もいたことがとても信じられないような気がする。ボルチモアの「ベーブ・ルース」、ピッツバーグの「フォスター」はユメであったか。ボンの「ベートーベン」、ストラットフォードの「シェイクスピア」はマボロシか。今あらためてふり返ってみると、過ぎ去った一年間のさまざまな出来事が、次から次へとよみがえり、なつかしさがこみ上げてくる。そのことも、今は言うまい。
 娘と息子は、とうとう最後まで、この広大で複雑なアメリカ社会の、冷たさにも、厳しさにも、醜さにも触れずに帰る。衣・食・住が完全に保障されているものの、見る眼の限界が子供たちにもあった。しかし、それもそれでよいであろう。今はただ、この子供たちとともに、あふれてくる思いを抑えて、「アメリカ人のように」、たんたんと、さりげなく別れを告げるだけである。さよなら、ユジーン。さよなら、アメリカ----また来る日まで。

     *****

 日本に帰って一年が過ぎた。娘と息子はいま、札幌の中心部からかなり離れた郊外の、海と山の見える小さな中学校に通っている。山奥の分教所を思わせるような、いまどき珍しい、小学校と同居の古い木造校舎で、帰国後、町の真ん中からこの近くに引越してきたとき、こんな学校にも正規の英語の先生はいるのだろうかと、ちょっと気になったほどであった。札幌もここまでくると、周りにはまだ、ふんだんに自然が広がっていて、遊び場所にはこと欠かない。受験競争の喊声も、ひばりのさえずりがのどかに青空に消えていくこのあたりでは、あまりかしましくは響いてこないようである。
 ユジーンからは、いまもしばしば、子供たちのところへ手紙がくる。ダスツンはまた家が変わるらしい。ジーンは昨年、私たちのあとを追うようにたった一人で日本にやって来て、わが家で娘と一ヶ月を過ごして帰ったが、近頃は日本語の勉強に熱中している様子である。それに刺激されたのか、もう一人の親友であったメァリーからも、今年の夏あたり、日本へ行くつもりだと言ってきた。このようなかつての「常連」をふくめて、娘も息子も、それぞれ何人かのクラスメートを相手に、あいかわらず、間違っても平気な英語で、せっせと返事を書いては出している。「アメリカ」は今でもまだ、彼らのこころの中に、現実に生き続けているのに違いない。
 子供たちは「外」から「内」へ帰ってきて、今度は「内」から「外」を見る立場になった。彼らは、このような立場の相違を経験してはじめて、「内」も「外」も、いくらかでも客観的に、自分たち自身の眼で見ることが出来るようになってきたと思う。今まで、何気なく見落してきた日常生活のこまごましたことがらにも、彼らはよく「相違」を認識し、その度に彼らなりの日米「比較文化論」を展開するようになつた。私はこのような相違の認識が、外国語としての英語の学習とあいまって、子供たちの思考の奥行きを深め、視野をも広めて、偏見にとらわれない自由な人間として育っていく、よすがになってくれることを願わずにはおられない。子供たちがこれからの世界の中で生きていくための、それは、最も基本的な一つの条件であり資格であると思うからである。
                            
   ー1976年4月 ー   初出:「北方文芸」1976年7月号