運命の岐路 − ノース・カロライナへの道 − 昨年(1983年)のアリゾナ大学の講義は、5月初めにすべて終わって、5月6日から期末試験であった。私の長女の由香利の場合は、5月12日の人類学の試験が最後で、翌日からは夏休みに入った。 私は、8月末の新学期から、ノース・カロライナ州立大学で教えることになっていたが、どういうものかあまり気がすすまず、夏休みに入っても、ぐずぐず出発を延ばしていた。3月の初めに、長男の潔典(きよのり)が母親と一緒に来るはずであったのに、母親の実家の不幸で来れなかった。そのショックが後を引いていて、由香利と2人だけで、さらに遠く、ノース・カロライナヘ移ることが、耐えられないような気がしていたのである。 東洋学部のベイリー教軽から、砂漠の中での朝食会に招待されたのは、そんな時であった。私と、カリフォルニアに教職が決まったW氏との送別会を兼ねて、砂漠の中で早朝、朝食を一緒にとるのだと言う。私と由香利は、言われた通り、朝六時半にベイリーさんの家へ行き、皆で3台の車に分乗して、砂漠へ向かった。 町の中心から東へ約40分、ツーソンでは一番高いレモン山へ行く途中に、ベイリーさんの目指す場所はあった。灌木の中の空き地にテーブルを組み立て、持参のコーヒーとサンドウィッチ、果物などで朝食をとりながら、とりとめのないおしゃべりを楽しむ。 朝早いうちは何とかしのげるが、日中の温度は摂氏で40度近くに上がるので、長くは居れない。1時間くらいでそろそろ引き上げようとしていた時、近くでドーンという自動車同士がぶつかったような音がした。皆でかけつけてみると、何と、そこには、朝食後その辺で遊んでいたベイリーさんの長男で15歳のショーンが、小型トラックにはねられ、倒れていたのである。騒然となった。 ショーンは死んだ。W氏の所属している教会で、簡素な追悼式が行われ、その後火葬されて、遺灰はショーンが好きであったレモン山に撒かれた。1遇間後、ベイリーさんは、以前から予定していた東部への旅行に、家族ぐるみで出発した。 肉体は滅びて土に帰るものだから、アメリカ人は、一般的に、遺体とか遺骨にはあまりこだわらないのが普通である。霊魂だけが神とともに天に在って、永遠に生き続けると考える。墓前には、だから、食物は供えない。ツーソンのダウンタウンの近くの広大な市営墓地へ行ってみても、造花の色彩だけが灼熱の太陽の下に、異様に映えていた。 墓地の中には火葬場もあるが、煙は出ていても人は誰もいない。火葬の時には、葬儀屋さんが遺体を引き取りに来て、終わったら遺骨は届けてくれるのである。遠方の場合は、郵便で送ることもあると聞いた。 葬式などの時に、涙を流すのは東西変わりはないが、ただ、いつまでも悲しみ続けることはあまりない。ベイリーさんの時も、それはそうであった。天国での再会を、固く信じているからであろうか。 しかし、ショーンの死は私にとっては、また、大きなショックであった。ベイリーさんが東部へ出発したあとでも、私自身はとても旅行どころではないような気がしていた。一時は帰国を決意して、荷物も一部、日本へ送ったくらいである。迷いに迷ったあげく、赴任期間を半年に短縮してもらって、やっとノース・カロライナ行きを決心した。7月1日の朝、私と由香利は、小さな車に荷物をいっぱい積み込んで、とうとうツーソンをあとにしたのである。 インターステイト10号を一路東へ向かって、平均時速95キロで走り続ける。ニューメキシコの中程から南へ下って、テキサスに入った。ここからは、メキシコとの国境の町、エルパソもそう遠くはない。 アメリカには、全国どこでも同一料金で、清潔と安さが売りものの「モテル6」というのがある。ベッド二つのツインの部屋で23ドル。その国境の近くにもあって、第1日日の夜はそこにとまった。 翌朝、早目に起きて、車内にも屋根の上にも荷物をいっぱい積み込んだまま、メキシコ国境へ向かった。メキシコは物価が安い。みやげものも、珍しいものがかなり安く手に入る。私は車で街を一巡し、少し買い物をして食事を済ませてから、グラスヘ向かって走り続けるつもりであった。 メキシコ国境は、私と由香利にとって初めてではなかった。前にいたアリゾナのツーソンからは、3時間も南へ走れば、ノガレスという国境の町があって、3度ほど訪れている。アメリカ側の路上に駐車し、とことこ歩いて国境のフェンスに達する。そこで、回転バーをぐるっと押して入れば、そこはもう、メキシコであった。 フェンスを境にして、豊かさと貧しさ、調和と乱雑のコントラストが極立っていた。30分も歩くと、一回りできるほど街も小さかった。ごみごみした街並みは、ほとんどがアメリカ人買物客相手のみやげもの店で、値切ればいくらでもまけていく。由香利は、初め20ドルといわれた革の財布を、3ドルで買った、というより、買わされた、こともある。 しかし、このエルパソは、規模がまるで違っていた。大都会である。国境を車で越えたのはいいが、どこをどう走ってよいのかわからない。道を聞こうとすると、わっと人が寄り集まってくる。マーケットまで案内する、安い店を知っている、と片言の英語で口々に叫ぶのである。 知らぬ場所では、こういうのは気味が悪い。屋根に積んである荷物も、いつ引きずり下ろされるかわからない。 どこへ行っても、この執拗に集まってくる群衆に辟易して、買物はあきらめ、街の一角をぐるりと一巡しただけで、逃げるように、また、アメリカ側へ出てしまった。 エルパソから4時間近く走ると、インターステイト20号が分離して始まり、上へ伸びていく。その20号に入って、ピーコスという小さな町に泊まり、翌日はまた、ダラスへ向かった。 大平原の中を、道がたんたんと伸びて、周囲には視界を遮るものは何もない。ぐるりと地平線に囲まれた大円形の中を、前方の地平線を目指して、ひたすらに突っ走るだけである。 昔、太平洋を船で渡ったことがあるが、大海原を取り巻く水平線の大きな輪の中に、船が一つだけぽつんと浮かんで、妙な孤独感があった。このテキサスの大平原を走るのも、それに似ていた。まわりには、見るものは何もないから、単調さに飴きて、由香利もうつらうつらしている。私はひとりハンドルを握りながら、しばしば、運転者の孤独というようなことを考えたものである。 ツーソンからの走行距離が、キロにして1200、1400と伸びていくうちに、少しずつではあるが、緑が多くなり、道も平坦ではなくなってくる。やがて、砂漠の中の蜃気楼のように、高層ビルが遠望され始めた。それがテキサスの商都グラスであった。 ダラスでは留学生F君の案内で、ケネディが暗殺された場所を見た後、近くの展望塔へ上がった。最上階の売店では、絵葉書からボールペンのようなものに至るまで、超大型サイズのものが売られている。テキサスでは何でも大きいことが自慢なのである。蝿叩きまで、普通の5倍はありそうなのがぶら下げてある。「テキサスでは蝿まで大きいのかな」と私が言ったら、ブロンドの、これも大型の女店員がにやっと笑った。 ダラスからさらに北東へ進んで、インターステイト30号に乗る。これでアーカンサス州に入り、リトルロックで40号に乗り換えれば、あとは目指すローリーまで一直線である。 メンフイスまで来て、ノース・カロライナ州立大学のK教授に電話した。前から頼んであったアパートはまだとれていないという。ローリーはアパート事情がよくない。場合によっては8月まで待たなければならないかも知れない。そうなれば、荷物は研究室にでも置かせてもらって、アパートが空くまで、マサチユーセッツにいる友人のところへ旅行に出るつもりにしていた。 とにかく、急いでも仕方がないようであった。私たちは、メンフイスの郊外の州立公園で、初めてテントをはって2日間休養したり、ナッシュビルでは1日中観光バスで、大学や、劇場や、億万長者が30人も住んでいるという大邸宅群を見て回ったりした。 ナッシュビルを出たのは7月9日の朝である。インターステイトも、このあたりまで来ると丘陵がなだらかに連なる間を縫うようにして走り、深い木立の濃い緑が大きなうねりとなって、次から次へと現れては消えていく。 夕方になってアパラチア山脈を越えた。ここから、いよいよ、ノース・カロライナである。州境の近くに観光案内所があって、その裏側には、グレイト・スモーキー山脈国立公園の堆大な景観が広がっている。大きく深呼吸をし、またアクセルをふんだ。山間のモテルに一泊して、翌日、とうとうローリーにたどり着く。ツーソンからの 2.200マイル、3.500キロの旅はこうして終わったのである。 結局、アパートは自分で探した。郊外の 2LDKで、トイレも二つついている真新しい広々としたアパートに移った時、「これで、ママも潔典もよべるね」と、私は由香利に言った。 7月14日に電話がついて、最初の電話を東京へかけた。電話に出た妻・富子に、ちょっと急だけれども、これからでも来れるようだったら来てはどうか、と言った。これが運命の岐路であった。私は、このことを思い出す度に、今でも激しく、胸が痛む。 キャンセル待ちのKALの航空券が、8月3日になってやっととれ、富子と潔典は2日後に慌しくニューヨークヘ飛んで来た。3月に来れなかった焦りもあったであろう。しかし、そのKAL機は遂に2人を無事に帰してはくれなかったのである。 ノース.カロライナヘの道は、私の妻と子の、富子と潔典の、死に至る道であった。 福武書店「英語」1984年8月号所収 |