昭和11年
(0歳)
2月24日、東京・九段で生まれる。山本勘治、雪香の長女。生後 2日目に二、二六事件が起こり、生家のあたりは騒然としていたと いう。
昭和16年
(5歳)
九段・富士見幼椎園に入園。靖国神社は生家の近くであったので、 神社の境内は、この頃、彼女の格好の遊び場であった。
昭和17年
(6歳)
九段、富士見小学校に入学。
昭和19年
(8歳)
靖国神社の近くでトラックにひかれて足首の骨にひびが入る。
5月に新潟県赤倉にあった別荘に疎開、名香山北小学校へ転入学。
卒業時、卒業生総代となる。
昭和20年
(9歳)
東京九段の生家は3月10日の大空襲で焼夷弾の直撃を受け全焼す る。
昭和23年
(12歳)
新潟県中穎城郡妙高中学校に入学。多感な少女時代を妙高山の麓で 過ごし、妙高山の自然を深く愛したが、このことが性格形成やもの の考え方に大きな影響を与えた。卒業時には卒業生総代として答辞 を読む。
昭和26年
(15歳)
新潟県高田市の県立北城高校に入学。
昭和27年
(16歳)
夏休み前に東京に戻って杉並区の荻窪に居住。共立女子高校2年に 編入学。文学書を愛読し、国語はもっとも得意な学科目であった。
昭和29年
(18歳)
3月、共立女子高校卒業。4月、共立女子短期大学家政科に入学。 串田孫一、井上靖等の作品を愛読する。
昭和31年
(20歳)
3月、共立女子短期大学家政科卒業。4月、お茶の水、帝国判例出版株式会社に入社。井上靖文学への傾斜が強まる。この頃は文学書 に打ちこむことが生き甲斐であった。三鷹のキリスト教会にも通っ たりする。
昭和35年
(24歳)
3月15日、私と結婚。私の室蘭工業大学への赴任に従って4月から北海道苫小牧市に居住。
昭和36年
(25歳)
3月29日、長女由香利誕生。
昭和37年
(26歳)
6月5日、長男潔典誕生。この後、室蘭市水元町の室蘭工業大学官舎へ移り住んだ。2人の子供たちには、幼少の頃から美しい絵本 と童話に親しませた。
昭和42年
(31歳)
10月、私の小樽商科大学への転任に従って、小樽市緑町の小樽商科大学官舎へ移った。この頃から由香利と潔典にバイオリンを習わせ始めた。
昭和44年
(33歳)
札幌市白石区に家を新築し4月に引越す。由香利は白石区の本通小学校3年生、潔典は一年生。由香利と潔典にバイオリンの練習を続けさせたはか、「若草サークル」を組織し、子供たちに子供劇場や児童合唱団、子供音楽会等へ参加する機会をしばしば与えて情操教 育に熱心であった。
昭和48年
(37歳)
私が文部省在外研究員として、アメリカ・オレゴン大学へ行くことになって、12月24日、一家4人でアメリカヘ向かう。
昭和50年
(39歳)
1月にアメリカから帰国。帰国後は札幌市西区手稲金山(かなやま)の新居に移った。井上文学の愛読続く。書店へ行くのが何よりの楽しみであった。将来は子供のための図書館を作りたいという夢をもつ。
昭和55年
(44歳)
2月頃から上京、父・山本勘治の看病のため荻窪の実家に滞在。4月14日、病没するまで献身的な看病を続ける。この頃、由香利は上智短期大学英語科に入学。
昭和56年
(45歳)
潔典が東京外国語大学英米語学科に入学。まわりの誰からも好かれるような潔典の資質を深く愛していた。「潔典がそばにいるだけで、こころが和む」 と私に漏らしたことがある。
昭和57年
(46歳)
8月、由香利はアリゾナ大学留学生として1人で先にアメリカヘ出発。この頃、母・雪香の胃ガンを発見、フルブライト客員教授として9月に渡米することになっていた私と共にアメリカヘ行く予定を変更し、東京に残ることになる。献身的に母親の看病を続ける。
昭和58年
(47歳)
2月9日、母・雪香死亡。看病の無理がひびいて健康を害し、3月に予定していた潔典との渡米を中止する。8月5日に潔典と渡米、谷川俊太郎氏の「生きる」をコピーしてもってきて由香利に渡した。
9月1日、帰国の途中、事件に遭遇。