昭和37年
(0歳)
6月5日、北海道苫小牧の市立病院産室で出生、体重3千4百グラム。赤ん坊の時からどことなくおっとりしていて、泣く時ものんび りした泣声を出した。潔典(きよのり)と命名し、「のんちゃん」 とよぶ。
昭和39年
(2歳)
室蘭工業大学の官舎に居住。保健所からの推薦で、赤ちゃんコンクールに出場、健康優良児として表彰をうけた。

昭和40年
(3歳)
性格温順、まったく手がかからない子であった。大学の近くに貯水池があって、その上の吊橋を渡ろうとした時、吊橋が少し揺れると、ほかの子は皆平気なのに、この子はしゃがみこんでしまった。いま何故かそのことをよく想い出す。眠るとき、眼をつむるのがこわいと言ったことがある。

昭和41年
(4歳)
6月5日が4歳の誕生日。この日潔典は上機嫌で、いぬいとみこ作 『ながいながいペンギンの話』を一時間近くも声を出して一気に読み上げた。この本と、その時の録音テープは今も残っている。夏に車で数日間かけて、北海道を一周旅行する。

昭和42年
(5歳)
8月15日「きよ」と潔典が名を入れた湯呑み茶碗が残っている。札幌の円山動物園を訪れた時に、そのような催しがあって焼き入れてもらった。10月には小樽へ転居。

昭和43年
(5歳)
4月、小樽市富岡のカトリック系藤幼稚園に入園。

昭和44年
(6歳)
4月、札幌、白石区の新居へ転居、本通小学校に入学、欲のない素直な性格で、いつも満ち足りてにこにこしているようなところがあった。
小学校に入ってまもなく野球に熱を入れはじめる。2年生の頃、将来の志望についてのアンケートに「プロ野球の選手になる」と書いた。そしてそのあとに「どうしても」とつけ加えた。
昭和48年
(11歳)
12月24日にアメリカヘ出発。1月からオレゴン州・ユジーンのアイ ダ・バタソン小学校 5年級に編入学。英語は6ヶ月ぐらいから急速の進歩を遂げて不自由しなくなり、1年後には成績もクラスで上位であった。

 
昭和50年
(12歳)
1月に帰国後、アメリカ遊学中の1年間を在学期間として算入してもらい6年次に復学、3月まで西区手稲金山(かなやま)から往復に3時間以上かけて、もとの本通小学校に通学を続けた。本通小学校卒業後4月、家の近くの手稲西中学校に入学。野球と「ビートルズ」に熱中。明るい性格でよく冗談を言っては人を笑わせた。
昭和53年
(15歳)
3月、手稲西中学校卒業。4月、札幌北高等学校入学、自宅からは片道一時間半もかかったが、高校生活を楽しみ毎日元気に通学した。海が見える彼の部屋からはよくギターの音色が流れてきた。英語学者になるのでなければ音楽家になりたい、と言っていたらしい。
昭和56年
(18歳)
3月に札幌北高校卒業。その前の卒業コンパでは少し酒を飲みすぎたらしい。降りるはずの手稲駅を乗りすごし小樽近くまで行ってしまったのを車で迎えに行ったが、私はその時の彼からも、父親に対するあたたかい思いやりと優しさをしみじみと感じとっていた。「潔典のそばにいるだけでこころが和む」と、富子がよく言っていたのを思い出す。
昭和56年
(18歳)
4月、東京外国語大学英米語学科入学。潔典の東京での生活のために買った多摩ニュー・タウンのアパートから通学する。
昭和57年
(19歳)
3月14日、春休みで札幌へ帰ってきた。富子は由香利の卒業式などで上京中。23日まで、10日間、手稲金山の家で私と2人で過ごした。 潔典は札幌北高校時代の友人と会ったり、私といっしょに大学の私の研究室までついて来たりした。潔典が東京へ戻る日、私は近くのバス停を見下す石段の上まで見送って行った。潔典は石段を下り、道路へ出て歩きながら振返り手を振った。石段の上からじっと立ったまま見ていた私も手を振って応えた。これが潔典が金山の家を出た最後になった。この年の夏、由香利と私はアメリカヘ行く。
昭和58年
(20歳)
2月、祖母死亡。3月のアメリカ行きを断念。傷心のうちに九州へ小旅行し、帰りに広島の原爆犠牲者慰霊碑を訪れている。
昭和58年
(21歳)
8月5日、アメリカヘ出発。9月1日、帰国の途中、母親とともに事件に遭遇。