断たれた言語学者への夢 潔典君を偲ぶ 東京外国語大学教授 宮 岡 伯 人 夏のアラスカ調査から帰国してまもなくのことでした。おなじくアンカレッジを発った大韓航空の惨事を報ずる朝刊に潔典君と富子様のお名前を見出したのは。 潔典君には、6月もなかば過ぎだったか、1年先輩の輿石哲哉君とともに訪ねてみえた研究室で、ふたことみこと交わしたのが最後となりました。夏のアメリカ行きを話す口調は、いつものように控え目ではありながら、いかにも楽しげでした。 富子様には、1度お目にかかれただけとなりましたが、それも14年前のこと。潔典君はまだあどけない小学2年生、姉上の由香利さんは4年生でいらしたはず。札幌アメリカ領事舘にビザの受給にでかけた折、白石のお宅で心尽くしの夕食をちょうだいしながら、ご家族みなさまの暖かいおもてなしに、ついつい時間も遠慮も忘れ去り、そのまま1泊させていただきました。 潔典君については、以後ときおり武本先生からご成長ぶりをうかがうだけで、お会いすることもなく、いつの間にか、大学生となっておられました。東京外大に合格されたとき、なにか言語学のようなことを息子はやりたがっているんですよ、と話された先生のおことばに父親のおおきな誇りと期待が読みとられたのはいうまでもありません。 その1年後、すなわち先生にはながらく同僚として公私両面でお世話になった小樽商大から東京外大に移った一昨年の春、見事に成長された潔典君と再会することになり、先生のご期待がうべなるかなと思ったことでした。 つたない言語学概論の授業にでてきた潔典君は、わたしの関西弁の講義はまどろこしかったのでしょう。ノートをとりながら、ニューズウイークか(どうか大教室の教壇からは然とは判らぬものの)なにか週刊誌を開いて、回転のはやい頭の片側で英語を勉強しておられたようです。最終試験は、たしかご祖母さまのご不幸があって受けられぬということで、代わりにレポートを求めました。提出されたのは『歴史・比較言語学のなかにおける英語のいくつかの現象』というタイトルの、幅広くかつ正鵠をえた理解にもとずく、手際よく纏められた好編(4百字詰め14枚)でした。 のちに伺うと、大学院にもすすまれ、研究者の方向をすでにお考えであったとか。お父上のご期待を十分にかなえられる、めぐまれた資質の持主であったことを知るだけに、ご不幸は痛ましすぎます。 しかも、最愛のおふたりが大国的エゴの狭間で犠牲となられ、個人のレベルではどこにももっていきようのない、あまりにも大きな憤慨と深い悲しみの淵にいまもおそらく佇んでおられるにちがいない先生と由香利さんに、どのような言葉がお慰かとなりえましょうか。今年も数日後にむかうアラスカの、おふたりがご生前の最後の地となったアンカレッジで、ひたすら御冥福をお祈り申しあげるのみです。 ************** この、潔典が書いた「歴史・比較言語学のなかにおける英語のいくつかの現象」は、跡見短大『英文宴』(1988年3月)に掲載され、その後、『アメリカ・光と影の旅』(122頁〜142頁)に収められている。私は、それに「遺稿追記」をつけ加えて、つぎのように書いた。 本文は、私の長男、武本潔典の遺稿である。これが書かれたのは1983年の、多分2月下旬、潔典が東京外国語大学英米語学科2年生の学年末試験終了後であったと思われる。言語学担当の宮岡伯人教授に出されたもので、同教授は、かつて小樽商科大学で私の同僚であった(このレポートのオリジナルは、同教授から私宛に送られてきた)。 宮岡教授の文中の「ご祖母さまのご不幸があって」とあるのは、当時、荻窪に住んでいた母方の祖母、山本雪香の死亡である。2月9日のことで、胃癌であった。私はその前年の夏から、フルブライト客員教授としてアリゾナ大学にいた。はじめ同行するはずであった妻は、母親の看病のために東京に残っていたが、悲しみと過労のために、葬儀のあと寝込んでしまった。 制度の違いで、アリゾナ大学では3月中も授業は行なわれている。私は言語学者を目指していた潔典が、東京での春休み中に、アリゾナ大学での言語学講義を受講出来るよう手筈を整えて待っていたのだが、この祖母の死亡で、彼は3月の受講を諦め、母親とともに訪米を夏休みに延ばした。そして、短い夏のアメリカを家族水入らずで過ごしたあと、帰国の途中、あのKAL007便に乗ってしまったのである。 私は、あとを追うようにしてアメリカを離れた。それがレクイエムの族のはじまりであった。多摩の丘の上の緑の木立ちのなかに、潔典のために買ったアパートがある。無明の闇をさまよいながら、2か月めにやっとなかへ入った。その、富士が見える潔典の勉強部屋には、東京外国語大学入学以来彼が買い集めた約2百冊の言語学を中心とする和洋の蔵書と、のめりこむように愛読していた雑誌「言語」(大修館)と英字誌「TIME」が揃って残されていた。あれからすでに4年余の歳月が経つ。 おそらく、いまの彼なら、この間違いなく自分のものであった2年間の学問的基盤の上に、さらに4年の蓄積を重ねて、このようなささやかなレポートではなく、言語学の世界を闊歩する楽しみを、きちんとした学術論文で表現していることであろう。しかし、それを確かめるすべは、父親の私にも最早ない。ただ私に出来るのは、この本文の理解を助けるための若干の補注をつけ加えることで、悲しみを抑えてこれを書いていたにちがいない20歳の時の潔典と、小さな、たましいの対話をこころみることだけである。そしてそれとともに、彼の足跡を一つ、ここにこうして留めさせていただくことにもなつた。 − 1988年1月 − |