61. もし、人が死後の生命の存在を信じていたのに、
   実はそれが存在しなかったとしても、
   べつに何も損したことにはならない。
   しかし、死後の生命が存在するにもかかわらず、
   それを信じなかったために手に入れそこなったとしたら、
   もう取り返しがつかない。
   その人は、永久にすべてを失うことになる。

                    ― ブレーズ・パスカル(1623-1662)―


 ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)は、17世紀のフランスの哲学者、思想家、数学者、キリスト教神学者である。早熟の天才で、その才能は多分野に及んだ。しかし、短命で、39歳で死去している。「人間は考える葦である」などの多数の名文句やパスカルの賭けなどの多数の有名な思弁がある『パンセ』は有名であるが、これも生前には出版されず『遺稿集』となった。冒頭のことばは、人間の不滅性と死後の生命について、信仰を前提とせずに、独自の思索を展開して得た結論である。要するに、信じればすべてを手に入れることができ、そのことで失うものは何もないのだから、死後の永遠の生命を信じる決断の方に賭けるべきだ、というのである。

 おそらくパスカルは、霊的真理には通暁していなかったであろう。霊的真理にも信仰にもよらず、思考を深めていけば「死後の生命」をもこのように捉えていけることを彼は示している。これに信仰が加われば、例えば親鸞のことばになっていく。親鸞は来世について、「念仏をして本当に浄土に生まれるのか、あるいは地獄に落ちるのか、そんなことはどうでもよい。たとい法然聖人に騙されて念仏を唱えたために地獄に落ちても少しも後悔しない」と言った。霊的真理では、さらに、この「死後の世界」は、シルバー・バーチがいうように、「人間は、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当り前なのです」ということになる。(『霊訓 (10) p.21』
  (2016.12.16)





  62. ついにゆく道とはかねて知りながら、
     昨日今日とは思わざりしを

                                                ― 在原業平(825-880) ―


 平城天皇の孫である在原業平は平安朝の歌人である。容姿端麗で歌才すぐれ、六歌仙の一人であった。この歌は彼の臨終の作として『伊勢物語』に収められている。人の世は、不確定なことばかりであるが、ただひとつ確定的なことがある。それが死である。私たちはみんな必ず死ぬ。どんなに健康な人でも、業平のように貴族で贅沢三昧の暮らしをしていた人でも、例外なく、何一つ持たずにみんな平等に死んでいく。これだけはっきりした事実を背負って生きながらも、私たちは、自分が死ぬことについては、つい気を逸らせてしまいがちである。

 鎌倉初期の親鸞は9歳の時、仏門に入る決心をして天台座主である慈円を訪ねた。すでに夜だったので、「明日の朝になったら得度の式をしてあげましょう」と言われた。しかし、親鸞は「明日までは待てません」と言って、その場で歌を詠んだ。それが「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」であったといわれている。親鸞は、自分の命を桜の花に喩え、「明日自分の命があるかどうか分からない」との思いを伝えたのである。浄土真宗中興の祖といわれる蓮如の「御文」にも、人はみな「朝には紅顔あって、夕には白骨となれる身なり」とあるのを思い出す。
  (2017.01.06)





  63. 君子もとより窮す
     小人窮すればここに濫
(みだ)

                                 ― 孔子(前552-前479) ―


 孔子は、春秋時代の中国の思想家、哲学者、儒家の始祖である。氏は孔、諱は丘で、孔子とは尊称である(子は先生という意味)。周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。しかし志を遂げられず、55歳の時に追われるように魯を離れ、14年に及ぶ遊説の旅に出た。陳の国に滞在中、呉と楚の決戦の煽りをうけて陳を脱出し弟子たちと共に楚へ向かったが、呉の敗残兵に襲われ食料のすべてを奪われてしまった。平原の中で飢えと疲労で動けなくなってしまった時に、弟子の子路が孔子に「君子でも窮することがあるのですか」と突っかかるようにして言った。それに対して、孔子が平然として答えたのが、頭書のことばである。――君子でももちろん窮することはある。ただ、小人は窮すると乱れて自分を抑えることができなくなるが、君子はそのようにはならない。

 子路のみならず、これを聞いた子貢や顔回などの弟子たちは、深い感動と喜びを覚えたに違いない。飢えたからこそ耳にすることができた師の尊い教えである。孔子は「五十にして天命を知る」と言っている。天命を知った孔子には絶望はなかった。陳に来る前には、宋国に入ろうとして、時の有力者桓魋(かんたい)から生命を脅かされたことがあった。その時の孔子は61歳。「天、徳をわれになせり、桓魋、それわれを如何せん」と昂然としていた。――天は自分にこの世の乱れを直す使命と、それを果たしうる能力とを授けて下さっている。その自分に対して桓魋ごときが何ができるか」と言ったのである。天命を知った孔子は、「桓魋ごとき」からも天から守られていると信じていた。陳の国西方の平原で飢えに苦しむことになったときにも、孔子は天から決して見捨てられることはないことを知っていたのであろう。
  (2017.01.25)





 64. みづから一念発心せんよりほかには
    三世諸仏の慈悲も済
(すく)ふことあたはざるものなり

                                  ― 一遍(1239~1289) ―


 一遍上人は、鎌倉時代中期の高僧で伊予の松山に生まれた。寺を持たず、家や財産も持たず、持ち物はすべてを捨てて、ひたすらに「南無阿弥陀仏」6字の名号だけを広めるために諸国を遊行した。死ぬ前には、書物もすべて焼き捨て、自分が死んだら、遺体は「野に捨てて獣に施すべし」と遺言している。「捨て聖」ともいわれるゆえんである。まだ若かったころ、熊野での修行で、済度するのは仏であって己れではないという悟りから、民衆に対しては、ただ名号の札を配るだけでよいと考えるようになった。これが賦算である。そして名前を一遍と改めた。一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、南無阿弥陀仏を一遍(一度)唱えるだけで悟りが証されるという意味が含まれている。

 「南無阿弥陀仏」の名号だけに徹していた一遍上人であったが、しかし、いかに「済度するのは仏」であっても、三世諸仏から救われるためには、自ら一念発心することが不可欠であるという。これが冒頭のことばである。つまり、南無阿弥陀仏は、一念発心したうえでの名号でなければならない。そのことを教えながら、一遍上人は、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と書いたお札を人々に配って歩く賦算を続けた。「南無阿弥陀仏を称えて臨終を迎えたときには、もう極楽に往生することが阿弥陀仏によって決定されている。だから、安心して毎日の生活を過ごしなさい」と言って人々を導いていったのである。このお札をまず60万人に配って歩くことを考えたのだが、実際には、25万1724人まで配ったところで、一遍上人は、51歳で亡くなった。
   (2017.02.09)





 65.もし死人の復活がないならば、
    キリストもよみがえらなかったであろう。

                            ― パウロ(紀元5-67) ―


 パウロはよく知られているように、初期キリスト教の使徒であり、新約聖書の著者の一人である。はじめはイエスの信徒を迫害していたが、天からのイエスの声を聞き、劇的な回心をして熱心なキリスト教徒となった。その後は身命を賭してキリスト教発展に努め、最後には殉教している。冒頭のことばの後には、「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神に背く偽証人にさえなるわけだ。なぜなら、万一死人がよみがえらないとしたら、わたしたちは神が実際よみがえらせなかったはずのキリストを、よみがえらせたと言って、神に反するあかしを立てたことになるからである」と続く。

 イエスは磔にされた後予言通りに三日後に甦った。それを聞いても信じようとはしなかった使徒のひとりトマスに、イエスが面前に現れて、「手を私の脇に差し入れて見よ」と諭した話は感動的である(ヨハネ20:24-29)。パウロは手紙のなかで、「使徒十二人の前に現れ、そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している」(コリントⅠ:15:5-6)と書いている。当時、このように、イエスの甦りの目撃者の大多数がまだ生きていた。甦りを目撃したはずなのに、それでも月日が過ぎていくと、甦りに確信が持てなくなる者が現れたりもする。それなら「わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。すると、わたしたちは神に背く偽証人にさえなるわけだ」というパウロのこのことばは重い。
     (2017.02.22)





 66. 何歳まで生きたかは重要ではない。
    いかにして生きたかが重要だ。

                      ―エイブラハム・リンカーン(1809-1865)


 リンカーンは霊的真理に深い関心を寄せていたことが知られているから、人間のいのちの永遠性についても意識していたであろう。世間では100年まで生きる人と10年で死ぬ人との差は、絶望的に大きいように捉えられがちだが、いのちが永遠であるなら、100年と10年の差も限りなくゼロに等しい。どちらも一瞬であることに変わりはない。やはり大切なことは、その一瞬をどのようにして生きたかということである。短命を選んで生まれてきた者には、短命だからこそ得られる感動と経験があり、長命を選んで生まれてきた者には長命だからこそ学べる喜怒哀楽の人生模様がある。冒頭のことばの原文は、It’s not the years in your life that count. It’s the life in your years.である。

 死後の世界の存在を前提にすれば、この世の幸・不幸が長寿や短命によって決まるものではないことも自然に理解されるはずである。シルバー・バーチも、「あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で60歳、70歳、もしかして 100歳まで生きたとしても、無限の時の中での 100年など一瞬の間にすぎません」と言い、さらに、「肉体的年齢と霊的成熟度とを混同してはいけません。大切なのは年齢の数ではなく、肉体を通して一時的に顕現している霊の成長・発展・開発の程度です」と続けている。(『霊訓 (10)』1988、p.62)
   (2017.03.15)





 67. 人は多くのものに
    迷惑をかけてしか生きられない。

                                 ― 小林正観(1948-2011) ―

 小林正観『100%幸せな1%の人々』のなかのことばである。この後に、こう続く。(人は)「動物や植物の命をいただいて生きている。道端のアリを何気なく車でつぶしているかもしれない。『人間は他の存在物に対して迷惑をかけていない』ということはありえないと気づきます。『迷惑をかけていない』とおもうこと、『迷惑をかけないで生きていくぞ』と決意をするより、『迷惑をかけている存在なのだから、その自分を支えてくださっている存在物たちに対して心から感謝をし、感謝しながら生きていく』ことのほうが前向きで楽なのではないか。」

 このように、何よりも感謝しながら生きていくことの大切さを、氏は数多くの著書や講演会などで伝えようとしてきた。まず、私たちが生きるということは、動物や植物のいのちをいただいている、つまり動物、植物を殺しているということである。私たちは、動物、植物を殺すことなくしては生きられない。殺して生かされている。それだけを考えても、感謝の気持ちが起こらなければならないのであろう。よく知られている氏のことばに、「ありがとう」を一万回となえると幸せになり、二万五千回となえると涙があふれだし、五万回となえると奇跡がおきる、というのもある。
   (2017.03.29)





 68. 父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
                                   ― ヨハネ (11: 41) ―


 イエスが二人の盲人の目を治した話がある。盲人たちが「私たちを憐れんでください」とイエスに救いを求めてきた。イエスは「わたしにそれができると信じるか」と訊いた。盲人たちは、「主よ、信じます」と言った。そこで、イエスは彼らの目にさわって言われた。「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」。すると、彼らの目が開かれた。(マタイ9:28-30)信仰がこのように奇跡をも可能にする。イエスは「祈りのとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」(マタイ21:22)と言っていた。イエスが愛していたベタニアのラザロが死んだとき、人々は、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようにはできなかったのか」と言った。イエスは、死んで4日経っていたラザロの墓石をあけさせて、目を天に向けて言った。冒頭のことばは、その時の祈りである。

 イエスは、この後こう続けた。「あなたがいつでも私の願いを聞き入れてくださることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたが私をつかわされたことを、信じさせるためであります」。こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。(ヨハネ11:42-44)イエスが死人を生き返らせた感動の一瞬である。このほかにも、イエスが、会堂司の死んだばかりの娘を生き返らせた話も伝えられている。(マタイ9:18-25)イエスのいうように、信じて求めるものは必ず与えられる。だから、イエスはこの場合も、ラザロを生き返らせる願いが必ず叶えられることを信じて、奇跡が起きる前に、「お聞き下さった」ことを過去形で述べて、まず感謝しているのである。
   (2017.04.12)





 69. 正しい祈りとは、
    求めたりすがったりすることでは決してなく、
    感謝である

                         ― ニール・ウォルシュ『神との対話』―

 神との対話のなかで、姿を見せてほしいと神に願うウォルシュに対して、「神は外から分かる形で、あるいは外界の現象を通じて出現するのではなく、そのひとの内的体験を通じて姿を現す」のだと神はいう。そして、「啓示が要求されるなら、啓示は不可能である。求めるのは、そこにないからであり、啓示を求めるのは、神がみえないということだから」と神は続けた。それに対して、ウォルシュがさらに、「それでは、欲しいものを求めることはできないのですか? 何かを祈るというのは、じつはそれを遠ざけることになるのですか?」と訊くと、神は「あなたは求めるものを手に入れられないし、欲するものを得ることもできない。求めるというのは、自分にはないと言いきることであり、欲すると言えば、まさにそのこと― 欲すること ―を現実に体験することになる。したがって、正しい祈りとは、求めたりすがったりすることでは決してなく、感謝である」と冒頭のことばで答えた。(同書、p.25)

 神はこのあとにも、「現実に体験したいと考えることを前もって神に感謝するというのは、願いはかなうと認めることだ・・・・。感謝とは神を信頼することだ。求める前に神が応えてくれると認めることだから。決して求めたりすがったりせず、感謝しなさい」と付け加えている。これは、(68)の、イエスの祈り「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します」にも表れている。しかし、それでもウォルシュは、「祈りがかなえられなかったというひとは、おおぜいいます」となおも食い下がる。神はまた答えた。「何かを求めたり、願ったりしたら、望んだことがかなう可能性は非常に小さい。なぜなら、『欲求を陰で支えている思考』というのは、『望みはかなっていない』という思いだから、そちらのほうが現実になるのだ。」結局、私たちが知らなければならないのは、本当に必要なことは、求めもしないうちに神は応えてくれているということである。それを信じ、感謝することが本来の祈りなのであろう。
  (2017.04.26)





 70.世も世にあるものも、愛してはいけない。
    もし世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。

                              ― ヨハネ「第1の手紙」2-15 ―

 このヨハネのことばは、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は永遠にながらえる」と続く。イエスは、僕(しもべ)は、二人の主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他を愛し、あるいは、一方に親しんで他方を疎んじるからである、と言った。だから「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」のである。(ルカ16:13)

 現代に住む私たちは、かつてなかったほどの便利で快適な生活をしている。しかし、だからといって、それだけ幸福で生きがいを感じているわけではない。モノと金銭に対する欲望がますます肥大化していくなかで、満たされない欲望に惨めな挫折感を味わう人も少なくはない。この世的な、物欲、肉欲、金銭欲、名誉欲などに囚われることは、すべて神から離れていくことを意味する。しかし、神から離れてしまっては人の幸福もあり得ないことを、2千年前から、聖書はこのように教え続けてきた。
   (2017.05.24)





 71. 過去は変えることができません、
    どんなに変えたいと願っても。
    しかし、未来は変えることができます。

                           ― メッテ・マ-リット(1973年~  ) ―

 メッテ・マ-リットは幼いころに両親が離婚し、母親に育てられ、麻薬に手を染めるなどの荒んだ少女時代を送っていた。彼女は、当時交際していた男性との間に子供を身ごもりシングルマザーとして長男のマリウスを出産する。この長男の誕生を機にメッテ・マ-リットはそれまでの堕落した生活を改め、麻薬も断ち切った。長男を抱えたまま飲食店で働き、猛勉強して名門のオスロ大学に入学する。そこで出会ったノルウェー王太子ホーコン・マグヌスに見染められ、長男マリウスを連れて王太子ホーコンとオスロ市内のアパートで同棲を始めた。しかし、王位継承者が3歳の長男を持つ27歳のシングルマザーと同棲しているというのは前代未聞で、大きな社会問題になった。彼女の元恋人で子供の父親に当たる男性は麻薬中毒で服役歴があることや、メッテ・マ-リット自身も麻薬パーティーに出入りしていた経歴があることなどが次々に暴露され、次の王妃にふさわしくないとの声が一斉に巻き起こった。

 マスコミは連日彼女らを非難し、王室に対する90パーセントもの支持率が一気に68パーセントに低下した。さらには国王夫妻が2人の結婚を認めていたことを発表したことが逆に支持率を43パーセントまで低下させることとなった。そのような中で2000年12月、メッテ・マ-リットは王太子ホーコン・マグヌスと並んで婚約発表の記者会見をする。その様子はテレビでノルウェー全土に放映された。マ-リットは涙ながらに自らの少女時代の過去を国民に謝罪し、誠意をもって過去との決別を約束した。冒頭にあげたのは、そのときに彼女が言った言葉である。確かに、過去は変えることができない。しかし、誰でも、未来を変えることはできるのである。このことばは強く国民の胸を打った。この会見でメッテ・マ-リットの正直で誠実な態度が好感度を急上昇させ、新聞社には彼女に対する激励の投書が殺到した。将来の王妃として彼女を支持する国民の割合は70パーセントに達した。彼女はその翌年の2001年8月25日、オスロ大聖堂で結婚式をあげてノルウェーの王太子妃となった。
   (2017.06.07)





 72. 雨が降ったら雨が降ったでいいのです。
   病気になったら病気になったでいいのです。
   死ぬときには死ぬのがいいのです。

                              ― 良寛(1758-1831)


 良寛は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家である。越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に生まれた。父の山本左門泰雄はこの地区の名主で、以南という俳人でもあったといわれるが、その四男三女の長男であった。良寛は父の後を継ぐ名主見習いを始めて2年目の18歳の時、突如出家し、子供の頃に勉学を積んだ曹洞宗光照寺で修行をするようになった。その後、安永8年(1779年)22歳の時、良寛の人生は一変する。故郷を捨て、玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事するようになったのである。寛政2年(1790年)に厳しい修行を終えた良寛は、その翌年、34歳の時に、「好きなように旅をするが良い」と言い残して世を去った国仙和尚の言葉を受けて、諸国を巡り始めた。

 48歳の時、越後国蒲原郡国上村(現燕市)に「五合庵」と名付けた質素な庵をむすんだが、体力が衰えた70歳の時からは、島崎村(現長岡市)の木村元右衛門邸内に住むようになった。無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示すことや簡単なことばや格言によって一般庶民に解り易く仏法を説いた。冒頭にあげたことばもその一つである。「死ぬときには死ぬのがいいのです」は、身に染みることばである。辞世の句として、「散る桜 残る桜も 散る桜」を残している。この句は、太平洋戦争期に、特攻隊の心情になぞらえた歌としても著名であった。岡山県倉敷市の良寛ゆかりの円通寺には、「うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ」の句碑が建てられている。
   (2017.06.21)





 73.  私は、自分の障害を神に感謝しています。
    私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、
    この障害を通してだったからです。

                                ― ヘレン・ケラー(1880~1968)―

 よく知られているように、ヘレン・ケラーはアメリカ合衆国の教育家、社会福祉事業家である。三重苦の聖女といわれてきた。2歳のときに高熱にかかり、一命はとりとめたものの、聴力、視力、言葉を失い、話すこともできなくなる。家庭教師として派遣されたアン・サリバンは、幼少の頃に弱視だった自分の経験を生かしてヘレン・ケラーを厳しくしつけ、忍耐強く指文字で言葉を教え、ついにヘレン・ケラーは指文字で話せるようになった。「言葉というものがあるのを はじめて悟った日の晩、ベットの中で 私は嬉しくて嬉しくて、この時はじめて早く明日になればいいと思いました」と、後に彼女は述懐している。ヘレン・ケラーは、日本を含め、世界各地を歴訪し、身体障害者の教育・福祉に生涯を捧げた。

 見ることも、聞くことも、声を出して話すこともできないというのは大変な障害であるが、ヘレン・ケラーはその障害を神に感謝している。確かに彼女が言っているように、この障害がなかったら、自分を見出し、神を見つけることもできなかったのかもしれない。障害者だからこそ見えない真理も見えるようになることがあるのであろう。ヘレンケラーは、「悲しみと苦痛は、やがて人のために尽くす心という美しい花を咲かせる土壌だと考えましょう」と言っていた。「もし幸福な生活を送りたいと思う人々がほんの一瞬でも胸に手を当てて考えれば、心の底からしみじみと感じられる喜びは、足下に生える雑草や朝日にきらめく花の露と同様、無数にあることがわかるでしょう」ということばも残している。
     (2017.07.21)





 74. 久遠劫より流転せる苦悩の里はすてがたく、
    いまだむまれざる安養の浄土はこひしからずさふらふこと、
    まことに、よくよく煩悩の興盛にさふらふにこそ。

                                    ― 「歎異抄」第9条 ―


 弟子の唯円から、「念仏を唱えても飛び立つほどの嬉しさを感じることができませんし、早く浄土へ行きたいとも思えないのはなぜでしょう」と訊かれて、親鸞は、「実は私もそれを不思議に思ったことがあったが、そなたも同じであったか」と前置きして、答えたのが冒頭のことばである。「遠い昔から今にいたるまで、めぐりめぐってきた煩悩の故里、迷いのこの世は去る気持ちが起こらず、まだ生まれたことのない安らかな浄土を恋しいと思えないのは、われながら煩悩の強さにあきれるばかりだ」と親鸞は言った。

 浄土へ行けるというのは、本当なら、踊り出さずにはいられないほどの大きな喜びのはずなのに、それを喜ばせないようにさせているのが凡夫の煩悩である。それだけに、よくよくその煩悩は深いものに違いない。しかし、阿弥陀仏はそのことをよくご存じで、だからこそ、早く浄土へ行きたいと思えない凡夫の気持ちを憐れみ、そのような凡夫を救うという誓願をたてられたのである。つまり、阿弥陀仏の救いの対象は凡夫で、それが親鸞のいう「悪人」である。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(第3条)と、「悪人」が救われることを親鸞が強調したのもそのためであった。





 75. 信仰は書斎にこもり、書籍のうちにうずまりて獲らるるものではない。
     教師の説教を聞いて獲らるるものではない。
    人生の実際問題に遭遇して、
    血と涙とをもってその解釈を求めてついに獲らるるものである。

                                  ― 内村鑑三(1861~1930)―


 内村は、「産を失うも可なり、願わくは神の聖顔(みかお)を失わざらんことを。病に悩むも可なり、願わくは神の聖旨(みこころ)を疑わざらんことを。人に棄てらるるも可なり、願わくは神に棄てられざらんことを。死するも可なり、ねがわくは神より離れざらんことを。神はわがすべてなり。神を失うてわれはわがすべてを失うなり」(『一日一生』教文館、1986、p.18)と書いている。内村にとっては、人生にふりかかる苦難はむしろ神の恩寵であった。苦難を克服することによって、より一層、神に近づいていくことができるからである。「人に嘲られ、踏みつけられ、面前にて卑しめられ、悪人として偽善者として彼らの蔑視するところとなりて、しかる後に栄光は来るなり」(同書、p.213)とも言っている。

 札幌農学校(現・北海道大学)を首席で卒業した内村は、北海道開拓使民事局に勤め、3年後の明治17年(1884年)には教会で知り合った浅田タケと結婚する。しかし、半年後には破局を迎えて離婚した。その後、渡米してマサチューセッツ州のアマースト大学に入学し、総長で牧師でもあるシーリーによる感化を受け、宗教的回心を経験したといわれる。第一高等中学校(現・東京大学)嘱託教員の時に、いわゆる「不敬事件」により、学校を追われ、再婚していた妻・加寿子が世間の非難の中で病死する。流浪・窮乏の時代を経て、娘のルツ子も原因不明の病のために18歳で亡くしてもいる。それらの体験をもとにして、内村は、信仰による苦難の克服を『基督信徒の慰め』などの著作のなかで説いた。






 76.  しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、
      念仏にまさるべき善なきがゆへに。
     悪をもおそるべからず、
     弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆへに。

                                ― 「歎異抄」第1条 ―


 阿弥陀仏が、まだ法蔵菩薩という仏より一段低い菩薩の身分であった時に、すべての人類を救うことを発願した。その誓願を成就するために五劫という無限に長い年月をかけて思索を重ねた結果、ついに念仏を創り上げて誓願を果し、成仏することができた。だから、私たちがその阿弥陀仏の大きな願い(本願)に身を委ねるとき、おのずから念仏せずにはいられない心持ちになってくる。そして念仏を口にするその瞬間、私たちはすでにまちがいなく救われている自分に気がつくのだ。このように説き起こして、親鸞は最後に、冒頭のことばで結んだ。

 親鸞は、その阿弥陀仏の本願さえ信じるならば、ほかのどんな善行も必要ではないという。その阿弥陀仏の誓い、すなわち念仏をとなえることこそ最高の善で、究極の救いの道だからである。そしてまた、自分の愚かな心や、邪悪な欲望や、犯した罪の深さに怖れおののくことなどもない。阿弥陀仏の力強い本願のまえでは、その光をさえぎる悪などありはしないのだから、とも言いきっている。他力念仏の絶対性を主張し、念仏にこめられた親鸞の深い信仰を吐露しているといえるであろう。「本願を信じさえすれば他の善も必要ではない」とは、煩悩にまみれた身には殊更に強く胸に響くことばである。






 77. これが私のわかりやすい宗教です。
    寺など必要ではありません、難しい哲学も必要ではありません。
    私たち自身の頭と心が私たちの寺なのです。
    そしてその哲学とは優しさです。

                               ― ダライ・ラマ14世(1935~ )


 ダライ・ラマ14世は、1935年、チベット北部の小さな農家に9番目の子として生まれた。幼名はラモ・ドンドゥプである。3歳の頃、1933年に死去したダライ・ラマ13世の化身を見つけるためにチベットの政府が派遣した捜索隊が、さまざまなお告げに導かれて遂にこの幼児を発見し、4歳の時にダライ・ラマ14世として認定された。1959年に政治難民としてインドへ亡命して以来、世界中に散らばるチベット民族に対して政教両面における指導的立場にある人物と目されている。1989年には、世界平和やチベット宗教・文化の普及に対する貢献が高く評価され、ノーベル平和賞を受賞。カナダ名誉市民やパリ名誉市民にも選ばれている。宗教家としての数多くの著作があるが、冒頭のことばには、ダライ・ラマ14世の宗教観が直截に表現されている。

 この「寺など必要ではありません」については、キリスト教にも、教会にいろいろ付随してきた権威・権力を克服するという理念に立った運動がある。内村鑑三の「無教会主義キリスト教」がそうであった。シルバー・バーチも、「宗教そのものは教会とは何の関係もありません」と言い、「神学などはどうでもよろしい。教義、儀式、祭礼、教典などは関係ありません。祭壇に何の意味がありましょう。尖塔に何の意味がありましょう。ステンドグラスの窓にしたからどうなるというのでしょう」とも言って、キリスト教の権威や壮大な聖堂などを批判している。そして、「宗教とは何かと問われれば私は躊躇なく申し上げます。自分を人のために役立てること、それが宗教です」と、極めて簡潔明瞭に宗教の定義を述べた。(『霊訓 (7)』p.57)






 78. わが身をば 焼くな埋むな そのままに 
    斗満の原の 草木肥やせよ
 
                                            ― 関寛斎(1830~1912)―


 関寛斎は現在の千葉県の生まれで、佐倉順天堂で医学を学んだ。後に長崎でオランダ人医師ポンペに師事し、文久2年(1862)には、徳島藩の藩医になった。慶應4年(1868)の戊辰戦争の時には、奥羽出張病院の院長として、負傷者が出ると敵味方の区別なく治療した。戦後、徳島で開業医になったが、寛斎は「患者に上下はない」を信条としていて、特に貧しい人たちには親身になって温かく接した。人々は寛斎のことを「ゲタばきの名医」と呼んで敬愛したという。明治の新政府に仕えれば「軍医総監や男爵」の栄達は間違いないといわれていたが、明治35年(1902)、72歳の時、一念発起して、原野であった北海道陸別町の開拓事業に全財産を投入し、450万坪の広大な関農場を拓く。のちにこの土地を開放して、開墾協力者に分け与えようとした寛斎と、アメリカ式の大農場への夢を抱く息子たちとの対立が続き、82歳で服毒自殺する。冒頭に掲げたのはその時の辞世の句である。

 関寛斎は、当時の日本では最高の医術をもちながら、貧者には徹底して無料でのぞんだ。無料患者の数は有料患者のざっと6倍であったといわれている。北海道へ移ってからも、まわりの貧しい開拓民やアイヌの人たちに常に「与えること」を心がけた人であった。アメリカ式の大農場への夢を捨てきれなかった息子たちとの軋轢について、寛斎を尊敬していた徳富蘆花は『みみずのたはごと』のなかで、「父は二宮尊徳流に与えんと欲し、子は米国流に富まんと欲した」と書いている。結局、寛斎の無私無欲の慈善の精神は子供たちには理解されることはなかった。遂には、孫の大二(長男生三の次男)が祖父を相手取り、財産分与を求めて訴訟を起こしたのである。寛斎が自殺したのは、裁判所の呼び出しがあった次の日であった。司馬遼太郎は『胡蝶の夢』で、寛斎のことを「高貴な単純さは神に近い」と評している。彼が拓いた陸別町では、関神社を祀るなど町の開祖として顕彰されているという。






 79. 幸福は、己れ自ら作るものであって、
    それ以外の幸福はない。

                               ―トルストイ(1828~1910)


 レオ・ニコラエヴィチ・トルストイは、いうまでもなく、帝政ロシア時代の小説家、思想家で、ドストエフスキー、ツルゲーネフと共に、19世紀ロシア文学を代表する文豪である。1844年にカザン大学に入学するが、社交や遊興にふけって成績はふるわず、中途退学している。1847年には、広大なヤースナヤ・ポリャーナを相続し、農地経営に乗り出したが、これも順調には進まなかった。その後、志願して軍人になり、コーカサス戦争やクリミア戦争に従軍したが、この体験が後に非暴力主義を展開する素地となる。人道主義や人類愛への傾斜も強めていった。代表作に『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』などがある。文学のみならず、政治・社会にも大きな影響を与えた。

 幸福とは何か。それは自らが作るものである、とトルストイはいう。おそらく、はじめから幸福な人と不幸な人がいるのではなくて、幸福だと思っている人と不幸と思っている人がいるだけなのであろう。だからトルストイはさらに言う。「幸せになりたいのなら、なりなさい」。しかし、晩年のトルストイは、家庭では幸せではなかった。召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ、自らの莫大な財産を用いて貧困層へのさまざまな援助を行い、「人間が死んだり、金銭を失ったり、家がないとか、財産がないとかいうことが、哀れなのではない。人間は、自分の本来の財産、最高の財産、すなわち愛するという才能を失った時が、哀れなのである」ということばも残しているが、このようなトルストイの社会の弱者に対する愛と献身が妻には理解されず、1910年、ついに家出をして旅先で亡くなったのである。82歳であった。






 80. 足るを知る者は富む
                                        ― 老子(紀元前6世紀~?)―

 司馬遷によって編纂された中国の歴史書『史記』の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物で、道教を創立した人物とされている。老子は尊称で、姓は「李」、名は「耳」、字は「伯陽」といった。楚の国の苦県(現在の河南省)の出身で、周王朝の王宮法廷で書庫の記録官を勤めていたという。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)と同時代の人とされているが、正確なことはわかっていない。冒頭のことばは「知足者富」(足るを知る者は富む)である。満足することを知っている者は、心豊かに生きることができる、と老子は説いた。

 仏典にも、同様の教えがある。釈迦が涅槃に入る前の最後の教えを説いた「遺教経」には、「知足の人は大地に寝ても、安らかである。知足でない人は、天界に住んでも満足しないし、また、富裕であっても、その心は貧しい。知足の人は、たとい貧乏であっても、その心は富裕である」とある。「生きとし生けるものに差別はなく、世界にも差別はない。谷は山が高いことを羨まず、谷であることに満足している。山は谷の深いことを羨まず、山であることに満足している」(「十善法語」)ということばもある。無いものを欲しがったりしないで、有るものに感謝すべきであるということであろう。