81. 貧しくとも幸せになれる。
               ―ショーペンハウアー (1788 - 1860年)―

 アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)は、1788年、現在のグダニスク(ドイツ名ダンツィヒ)に富裕な商人の父と女流作家の母との間に生まれた。ゲッティンゲン大学医学部に進学したが、後にベルリン大学に移り、フィヒテの講義を受ける。ドイツの哲学者で、主著は『意志と表象としての世界』である。冒頭のことばはありふれて平凡だが、大哲学者のことばであるだけに重みがある。このことばについて彼は、「善良で慎みのある穏やかな性質の人は、貧しい環境にいても幸せになれるが、強欲でねたみ深く、意地悪な性格の人間はたとえ世界一金持ちであったとしても、みじめな気持ちから脱げ出せない。ところが、高い知性を備え、すばらしい人格を常に保っている人には、一般の人間が追い求める快楽の大部分が余分なもので、わずらわしいお荷物といってもいいほどなのだ」と、解説している。(『ショーペンハウアー・大切な教え』友田葉子訳、イースト・プレス、2010、p.29)

 ショーペンハウアーは、さらに、「富は幸せを邪魔するくらいだ」とまで言っている。その理由について彼が述べているのは、こうである。「富とは、厳密にいえば、あり余るぜいたくであり、私たちの幸福に役立つことはほとんどない。世の中には、本当の意味での精神的な教養や知識に欠け、知的職業にふさわしい客観的興味を持つことができないために、自分が不幸だと感じている金持ちが大勢いる。現実的な当然の生活必需品というレベルを超えて富を持つ行為が、人の幸福に影響することはまずないといっても過言ではなく、むしろ幸せを邪魔するくらいだ。資産を守るには、多大な不安がつきものだからである。」(同書、p.31) マタイ(19:24)の「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうが、もっとやさしい」を思い出すが、ショーペンハウアーも、貧しくとも幸せになれる、というより、貧しい人こそ幸せになれるのだ、と言っているようでもある。





 82. 爾(なんじ)より出づるは爾に反(かえ)る。
                           ―孟子(前372年?  - 前289年)―


 孟子は戦国時代中国の儒学者で、儒教では孔子に次いで重要な人物とされる。「孟母三遷」の話はよく知られているが、この真偽はあきらかではない。性善説を主張し 、仁義による王道政治を目指した。冒頭のことばは、『孟子』(梁恵王下)に出てくる。原文は「出乎爾者反乎爾者也」。「自分のしたことの報いは、自分自身に返ってくる」、つまり、因果応報で、善悪や禍福はすべて自分の身から出た結果ということであろう。シルバー・バーチも、「賞も罰も自分でこしらえているのです。自分で自分を罰し、自分で自分に褒美を与えているのです。それがいわゆる因果律、タネ蒔きと刈り取りの原理です。その働きは絶対です」と述べている。(『霊訓 (12)』 p.149)

 小林正観さんが書いた『幸も不幸もないんですよ』(マキノ出版、2010、p.138)には、彼がいう宇宙の「大法則」として、「投げかけたものが返ってくる。投げかけないものは返らない。愛すれば愛される。愛さなければ愛されない。嫌えば嫌われる。嫌わなければ嫌われない」とある。これも、因果応報である。私の高校時代に聞いたか読んだかした話で、出典は覚えていないが、「誰か汝を罰する」というのがあった。ある人が高僧のところへやってきて、自分の身に降りかかってくる悩みや不幸を綿々と打ち明けて助けを求めた。それを黙って聞き終わった高僧は、「誰か汝を罰する」と一喝した。お前を苦しめているのは、ほかの誰でもない。お前自身だと言ったのである。





 83. 人を相手にせず天を相手にせよ
                                      ― 西郷隆盛(1828−1877)―


 これは、『南洲翁遺訓』第25条のことばである。全文は「人を相手にせず天を相手にせよ。天を相手にして己れを尽し、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」となっている。西郷南洲翁遺訓の編纂は、薩摩人の手によってではなく、旧敵の庄内藩の藩士達によって刊行された。明治維新の前夜、三田の薩摩屋敷を焼き払うなどして最期まで抵抗した庄内藩に対して、降伏後も新政府軍の西郷は報復しようとはせず、慈愛を持って寛大な処置をとった。そのことに感謝した庄内藩が、明治23年にこの遺訓集を作成して全国に広めたと伝えられている。

 西郷のこのことばは、「敬天愛人」の揮毫にも示されているが、西郷は天を敬い天命を知る人であった。第24条にも、「道は天地自然の物にして、人は之を行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も、同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」とある。これは、「神を愛し、己を愛するがごとく他人を愛せ」というイエス・キリストの教えを思い起こさせる。西郷のいう天とは神のことであろう。そして、さらにいえば、神とは宇宙の自然法則である。大自然の摂理といってもいいかもしれない。シルバー・バーチは、それさえ理解すれば、人生の最大の秘密を学んだことになるといっている。(『霊訓(5)』p.155)





  84. まず臨終の事を習うて後に他事を習うべし
                                   ― 日蓮 (1222‐1282)―

 日蓮は、いうまでもなく、鎌倉時代の高僧で、鎌倉仏教のひとつである日蓮宗・法華宗の宗祖である。人々の苦しみを取り除き、社会全体が幸せになるように願った日蓮は、来世ではなく"今を生きる"ことの大切さを熱心に説いた。冒頭の引用は、「妙法尼御前御返事」のなかのことばである。世の中は諸行無常で、いつ自分が死ぬかもわからない。だから、何よりもまず、死ぬ身であることを忘れるな、という戒めととってよいであろう。そして、こういう意味での戒めは、日蓮ならずとも、いろいろな人が世に伝えている。親鸞も、子どもの時にすでに、「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠んだ。

  しかし、この日蓮のことばを、生は死と隣り合わせであるから、真に「今を生きる」ためにも、まず「何よりも死について学べ」と取ると、理解は容易ではない。孔子でさえ、「未知生、焉知死」(いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや)と言った。(『論語』先進篇) いまだに「人生」というものがわからないのに、どうして「死」というものがわかろうか、というわけである。「死」については、確かによくわからない。古来、宗教家のみならず、学者、知識人と言われるような人々も、おそらく「よくわからない」ままに、数多くの言説を世に出してきた。そのようななかで、少なくとも私にとっては、シルバー・バーチの死についての教えだけが、ほとんど唯一の、納得し、共感し、深く心に沁み込んだ「無上甚深微妙の法」であった。(拙稿「真実の教えを求めて」参照。⇒H.P.「プロフィール」Z)





 85. 他人と過去は変えられない。
    しかし、自分と未来は変えることができる。
                            
― エリック・バーン(1910-1970)―


  エリック・バーン(Eric Berne)は、カナダ出身の精神科医であった。カナダのケベック州モントリオールで開業医の子として生まれ、1935年にマギル大学より医学博士の学位を受けた。交流分析(TA)の提唱者として、現在のカウンセリングにも大きな影響を与えたといわれる。精神分析医・心理学者としての、『人間関係のテクニック』、『人間関係の心理学』などの著作は日本でも読まれてきた。原文は、You cannot change others or the past. You can change yourself and the future. である。この「過去は変えられない」は、少女時代に麻薬に手を染めるなどの荒んだ生活を送ったノルウェーの王太子妃 メッテ・マ−リットのことばでも知られている。(「折々の言葉」No.71参照)

 私たちは完全を内包する不完全な存在である。不完全だから、この世に生まれてきた。完全な存在であるならこの世に生まれることはない。不完全の状態から、苦労や失敗を重ねながら、いろいろと学びを深めて完全へ向かっていく。その学びの中でも最も大切なのが様々に降りかかる困難の克服と人間関係の悩みであろう。人生行路の中で辛い経験や失敗、人間関係で傷ついたり、苦しんだりした体験は、誰もが持っている。だが、どんなに変えたいと願っても、過ぎてしまった過去は変えることができない。同じように、他人が嫌だから自分の好むように変えたいと思っても、それは不可能である。他人を変えようと思えば、自分が変わるしかない。だから、変えられるのは自分と未来だけなのである。





 86. 天に宝をたくわえなさい。
                           ― 「マタイ伝」6: 20 ―


 これは、「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない」(6:19)に続くことばである。イエスは、「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」とも言った。(6:24) 「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(19:24)ということばもある。それでは、天に宝を蓄えるためには、どうすればよいか。イエスは、ある資産家の青年に、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物をすべて売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになる」と教えた。(19:21) しかし、イエスからそう言われても、資産を全部投げ出して貧者に施すのはなかなかできることではない。金銭に執着するのは、昔も今も、人の常である。家族がおれば強い反撥や深刻な財産相続争いのもとになったりもする。その青年は悲しみながらイエスから離れて行った。

 「天に宝をたくわえなさい」ということばは、何時の頃からか、私の心のなかに深く沈潜するようになった。世俗的な栄光のさなかに、滞米中、突然妻と子を失った後では、社会的な地位や名誉や財産などといったものは、ただただ空しかった。やがて、私には、このことばに導かれて歩むことが、妻と子への供養を考えて生きていくうえでのほとんど唯一の心の拠り所になっていった。そのような私には、聖書のつぎのことばが胸に沁みた。「野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった」。このイエスのことばはさらにこう続く。「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなた方に、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」(6:28-30) ―― シルバー・バーチは、「宗教とは人に尽くすことである」と言った。(『霊訓 (7)』p.57) それを受けて私は、「天に宝を積むこと」が自分なりの宗教である、と思うようになっている。





 87.風さそう 花よりもなお 我はまた
    春の名残を いかにとやせん

                            ― 浅野内匠頭長矩(1667‐1701)―


 浅野内匠頭長矩は幼少期に父と母を失い、1675年に9歳で赤穂浅野家の家督を継いで、第3代藩主となった。15歳で山鹿素行から山鹿流兵学を学んだ教養人であったが、性格は短気で怒りやすかったといわれたりしている。今でいう統合失調症であったという説もある。元禄14年(1701年)3月14日、勅使饗応役であった長矩は、指南役の吉良上野介義央から冷たくあしらわれ、「遺恨あり」と、江戸城松の廊下で、背後から吉良上野介を斬りつけた。背中と額に傷を負わせて 3度目に脇差を振り上げたところを、そばにいた梶川頼照に取り押さえられたと伝えられている。長矩の藩主としての資質を問われる事件であった。時の将軍・綱吉は朝廷と将軍家との儀式を台無しにされたことに激怒し、長矩の即日切腹と赤穂浅野家五万石の取り潰しを即決した。冒頭にあげたのは、35歳の長矩が切腹の前に遺したとされる辞世の句である。他人の贋作であるという説もあるようだが、哀調を帯びた美しいこの句の響きは、私の胸にも忘れられずに残っている。

 「美しく咲いている桜の花が風に誘われて散ってしまうのは名残惜しいが、それよりもなお儚く散っていく私は、自分の思いをこの世にどう留めればよいのであろうか」という慨嘆が伝わってきて、この句は哀切である。この事件のあと、家臣の大石内蔵助など47人が、主君の無念を晴らすため、紆余曲折のすえ、元禄15年(1703年)12月14日未明に本所の吉良邸へ討ち入って上野介の首級をあげる。世間ではこの仇討を「忠臣蔵」としてもてはやし、芝居などでは、殊更に吉良上野介の悪役ぶりを強調するが、その吉良は、領地三河国幡豆郡では、治水事業や新田開拓を進めた名君として、領民からその人柄が慕われていたという。若い長矩が逆上して斬りかかったが、目の前の無防備で61歳の老人に軽傷を与えただけで殺せなかった。この世間知らずの未熟な行為が後に主君の仇討となり、家臣の47人の命が断たれる結果にもなった。この世では、時代により地域により、或いは人により、ものの見方はさまざまであるが、霊界の厳正な尺度では、この長矩と相手の上野介は、それぞれどのように評価されているのだろうと思ったりもする。





 88.  もうおねがい ゆるして 
     ゆるしてください おねがいします

                              ― 船戸結愛(2014〜2018)―


 去る6月6日、夕方のテレビニュースを見ていると、東京都目黒区の5歳の船戸結愛(ゆあ)ちゃんが3月に死亡した事件で、両親が虐待と遺棄致死の容疑で6月6日に逮捕されたと報じられていた。33歳の父親と25歳の母親が、1月下旬ごろから結愛ちゃんに十分な食事を与えずに栄養失調状態に陥らせて放置し、3月2日に低栄養状態などで起きた肺炎による敗血症で死亡させたというのである。父親は結愛ちゃんの実の父ではなく、昨年2月と5月にも、傷害容疑で書類送検されていた。母親も、「自分の立場が悪くなるのを恐れて」結愛ちゃんへの虐待を止められなかったらしい。テレビニュースでは、結愛ちゃんが「謝罪」を綴っていたノートの一部がつぎのように伝えられていた。

 もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんから
 きょうよりももっともっとあしたはできるようにするから
 もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします
 ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして
 きのうぜんぜんできてなかったこと
 これまでまいにちやってきたことを なおします

 この文は、翌日になって、さらに、新聞やテレビで大きく報道されたから、ご覧になって方も多いであろう。テレビにこの文が映し出されたとき、私は強いショックを受けた。いまもこうして、この文を書き写していると、涙がどっとあふれ出そうになる。5歳の結愛ちゃんは、一字一字、この文をノートの上に綴っていきながら、どんなにか辛かったことであろう。翌日の新聞(「朝日」2018.06.07)によると、このあとにも、この文はこう続けられていた。

 これまでどれだけあほみたいにあそんでいたか
 あそぶってあほみたいなことはやめるので もうぜったいぜったいやらないからね
 ぜったいぜったいやくそくします

 5歳の女の子にこのような文を書かせた大人の人間の冷酷さに、私は激しい感情を抑えることができない。遊ぶというのは幼い子にとっては健やかな生育の大切な一部で、必要有益であり、楽しくいいことである。その遊びを、このように悪いことのように思い込ませられているというのは、結愛ちゃんがあまりにも哀れで、口に出せることばもない。ただ、この純粋無垢の5歳の女の子が紡ぎ出したことばの圧倒的な重みに、激しく心を打たれて、打ち震えるだけである。





 89. わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
    わが道は、あなたがたの道と異なっていると
    主は言われる。
    天が地よりも高いように、
    わが道は、あなたがたの道よりも高く、
    わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

                                     ― 「イザヤ書」55:8-9 ―


 人生には、悲しみや苦しみがつきまとう。時には、自分がどうしてこんな目に合わねばならないのか、神も仏もあるものか、と思ったりすることもある。まわりの幸せそうな人々を見て、世の中の不公平を嘆くこともあるかもしれない。私たちはどうしても自己中心的になりがちで、幸・不幸も自己の狭い視野のなかの「常識」によってしか判断しようとはしない。かつて私も、突然の家族の死に直面して、悲嘆と絶望の淵に沈んでいた時があった。その時に、ふと目にしたのが、イスラエルの預言者イザヤの、冒頭に掲げたことばである。

 私たちの、この地上での、財産、地位、名誉などの、物的、世俗的な欲求に対しては、霊界からは少しの関心も持たれることはない。そこまでは、わかっている。そんな欲求は、当人の霊性の開発、精神的成長にとってなんのプラスにもならないからである。しかし、真に窮地に陥って、すべてを投げうって必死に救済を求めても、願いは叶えられないこともある。それは何故か。そうした必死の願いをもあえて無視して、その状態のまま放っておくことが実はその願いに対する霊界からの最高の回答である場合がよくあると、シルバー・バーチはいう。(『霊訓 (1)』p.170) 「わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」のである。 シルバー・バーチはまた、こうも言った。

 《大自然の摂理の働きは完ぺきですから、その機構の中にあって誰一人、何一つ忘れ去られることは有りえないのです。すべての存在を包摂するように完全な摂理が行きわたっているのです。何一つ、誰一人その外にはみ出ているものはありません。あなたが神に見落とされるということは有りえないのです。ということは、あなたに必要なものはすべて知れているということです。祈ることによって受ける援助は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的発達段階に応じたものとなります。》(『霊訓(11)』p. 115)





 90.悲観論者はあらゆるチャンスに困難を見出す。
    楽観主義者はあらゆる困難にチャンスを見出す。

                          ― ウィンストン・チャーチル(1874〜1965)―

 チャーチルはいうまでもなく英国の政治家で、第二次世界大戦中に首相となり、英国の戦争を主導した人物である。ノーベル文学賞も受賞している。大戦中は、ロンドンもドイツ空軍の猛爆にさらされ、イギリス国民も戦禍に苦しんでいた。しかし、チャーチルは、「現在我々は悪い時期を通過している。事態は良くなるまでに、おそらく現在より悪くなるだろう。しかし我々が忍耐し、我慢しさえすれば、やがて良くなることを私は全く疑わない」と言って、国民を励まし続けた。彼は、「私は楽観主義者だ。それ以外のものであることは、あまり役に立たないようだ」と自らも言っているように、根っからの楽観主義者であった。イギリスの歴史学者ポール・ジョンソンは著書『チャーチル ― 不屈のリーダーシップ』のなかで、イギリスが生き残り、最終的に勝利を収めるためには、チャーチルの指導力が必要であったと述べ、「チャーチル以外では、イギリスを救えなかった」と言い切っている。(日経BP社、2013、p.274) 冒頭のことばの原文は、”A pessimist sees the difficulty in every opportunity; an optimist sees the opportunity in every difficulty.” である。

 ものごとにはすべて、プラスの面とマイナスの面がある。そのどちらを取るかによって、人生も変わっていくのであろう。自分に与えられたものに対して、悲観論者は、これだけしかないのか、と不満をもつ。楽観主義者は、こんなに多くを頂いて有難いと感謝する。与えられたものが同じであっても、幸福な者と不幸な者がいるのは、幸福というものは、本来、人生における客観的な出来事で決まるのではなく、出来事をどのように解釈するかという主観的な心の働きによって決まるものだからである。だから、シルバー・バーチも、どんな場合でも、落胆したり悲観的になってはいけないと教える。そして、次のように諭した。「不安を抱いたり動転するようなことがあってはなりません。不安は無知の産物です。知識を授かった人は、それによって不安を追い払えるようでなくてはなりません。皆さんは宇宙最大のエネルギー源とのつながりが持てるのです。これまでに知られた物的世界のいかなるエネルギーよりも壮大です。崇高なエネルギーです。それをあなた方を通して流入させ、恵み深い仕事を遂行することができるのです。」(『霊訓 (10)』p. 37)





 91. 幸福への道はただひとつしかない。
    意思の力でどうにもならない事は、悩まないことである。

                                              ―エピクテトス(50年頃 - 135年頃)―

 エピクトテスは、古代ギリシアのストア派の哲学者である。その『語録』と『提要』は、すべてのストア哲学のテキストの中でおそらくもっとも広く読まれ、影響力の大きなものであるといわれてきた。「人間を不安にするものは物事そのものではない。物事に対する見解が人間を不安にさせる」ということばも残している。要するに、人それぞれのものの見方が、人を不安にさせたり、悩ませたりするのであろう。一方では、全く同じように与えられた客観的事実を前にしても、悩むことはなく不安に思うこともない人もいることになる。

 昨日のことをいくら悔やんでも、過ぎてしまったことは変えようがない。明日のことをいくら心配しても、未来は不確実で予測することはできない。だからイエスも、「明日のことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日で十分である」と言った。(マタイ伝6:34) 私たちが背負う荷の三分の一は過去である。残りの荷の三分の一は未来である。この過去と未来の荷を取り除けば、私たちが背負う荷は、今日の三分の一だけになる。どうにもならないことは神さまにお任せして、今日の一日を充実させて生きることが幸福への道になるのであろう。





 92. こころの貧しい人たちは幸いである。
    天国は彼らのものである。

                                    ― 「マタイ」5:2 ―


 これは「本当の幸せとは何か」を群集に教えようとしたイエスのことばである。「貧しさ」も、物質的な貧しさは取るに足らないかもしれないが、精神的な貧しさは深刻である。それを、敢えて、「こころの貧しい人たちは幸いである」と言っている。このことばは、英文訳例では、”Happy are those who know they are spiritually poor; the Kingdom of heaven belongs to them!”となっている。つまり、「精神的に貧しい」ことを知っている者が、幸せと言っているのである。それは、神に近づく機会が与えられているから、といってよいのかもしれない。たとえば、かつてのパウロがそうであった。神を知らず、誇るべき知恵もなく、キリスト教徒を迫害する「罪びとの頭」であったが、天からの光に打たれ、イエスのことばを聞いてからは、180度回心して、神の使途となり栄光の天にまで引き上げられた。

 この後に続く、「悲しんでいる人たちは、さいわいである。彼らは慰められるであろう」(マタイ5:3)の「悲しみ」も、単なる自分自身の利己的な悩みや悲しみをいうのではないであろう。大いなる悲しみは、しばしば大いなる霊的真理との接点にある。その霊的真理を理解する条件として、シルバー・バーチは、「その条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇です。何もかもうまく行き、鼻歌まじりの呑気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです」と述べている。(近藤千雄訳編『古代霊は語る』潮文社、1986、pp.116-117) 私も、かつて、家族を失った深い悲しみから立ち直りかけた時、優れた霊能者のA師から、悲しみに遭ったことを「喜んでください」といわれたことがあった。





 93. 人は欲しいものを祈り願い
    神様は必要なものをくださる。

                                 ― 渡辺和子(1927-2016)―


 渡辺和子は、1936年、小学校3年生で9歳の時に二・二六事件に遭遇している。当時陸軍大将で教育総監であった父・渡辺錠太郎が青年将校に襲撃され居間で射殺されたのをすぐそばで目撃した。1954年上智大学大学院修了。1962年にボストンカレッジ大学院で博士号を取得したのち、同年9月に岡山県のノートルダム清心女子大学教授になり、1963年には36歳という異例の若さで同大学の学長に就任した。若いころにはうつ病になったりしたが、「病気になったおかげで、心の医者としてのキリストとの出会いがあり、特に弱い人に対して少し優しくなった」と述懐する。(『どんな時にでも人は笑顔になれる』PHP、2017)冒頭のことばも、彼女が自分の苦しみの体験から紡ぎ出したものであろう。

 イエスは、確かに、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と言った。(ルカ11-9)しかし、これは、求めたら「求めたそのもの」が与えられるという意味ではないはずである。求めている本人にとって、「必要なもの」が与えられるということなのである。そして、その必要なものとは、しばしば、挫折であり、苦難であり、悲しみである。それらが、求める本人の霊的成長にとって必要だから、である。シルバー・バーチも、「あなたに必要なものはすべて知られている」と言い、「祈ることによって受ける援助は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的発達段階に応じたものとなります」と述べた。(『霊訓 (11)』p. 115)「地上の人間の願いを聞いていると、もしもその通りに叶えさせてあげたら大変なことになりかねないことがたくさんあります」とも言っている。(『霊訓 (12)』pp.26)





 94.金持ちとして死ぬことほど不名誉なことはない。
                               ― アンドリュー・カーネギー(1835−1919) ―


  アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)はスコットランド生まれのアメリカの実業家である。「鋼鉄王」と称された立志伝中の人物で、ジョン・ロックフェラーに次ぐ史上2番目の富豪といわれてきた。1868年、33歳のとき、カーネギーは「蓄財は偶像崇拝の悪い種の一つだ。金銭崇拝ほど品位を低下させる偶像はない」と書き残している。そして同じ文章の中で、自分の品位を落とさないために35歳で引退してその後は慈善活動を行うと記し、冒頭の「金持ちとして死ぬことほど不名誉なことはない」ということばを書き加えた。「自分が豊かになれば、次に、社会を豊かにせよ」、「富は得ることのみには価値はない。有意義に使う時に価値がある」ということばも残している。

  彼はそのことばの通り、残りの人生を慈善活動に捧げ、図書館建設、世界平和、教育、科学研究などに多額の寄付をした。ニューヨーク・カーネギー財団、カーネギー国際平和基金、カーネギー研究所、カーネギーメロン大学、カーネギー教育振興財団、カーネギー博物館などの創設などに資金を提供した。アメリカ各地やイギリスおよびカナダなどでの創設した図書館だけでも約3,000に及んでいる。彼は、1919年に気管支肺炎のため83歳で亡くなったが、その時までに、既に3億5069万5653ドルを寄付していて、遺産は約3000万ドルであったといわれる。そしてその遺産のほとんども、彼の遺志を継いで慈善団体や年金などに遺贈された。莫大な財産をすべて社会に還元して、名誉ある生涯を全うしたといえるであろう。





 95. 私たちは、大きいことはできません。
     小さなことを大きな愛をもって行うだけです。

                                  ― マザー・テレサ(1910〜1997)―


 マザー・テレサは、現在のマケドニアのスコピエに生まれ、神の愛の宣教者会の創立者として知られる。幼少の頃から聡明で地理が好きだった。1946年、汽車に乗っていた時、「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という天からの啓示を受け、カルカッタで神の愛の宣教者会を設立したといわれる。飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人、そういう人たちのために働くことを神の愛の宣教者会の目的とした。

 世界中の人々から讃えられ、各国の政府や組織から称賛を受けたマザー・テレサだが、彼女に対しては生前から批判や告発、抗議の声も少なくなかった。その矛先は例えば彼女の修道会の資金管理であり、末期の人への洗礼の奨励や医療ケアのあり方などであった。しかし彼女は怯まなかった。神の啓示を受けたという彼女の確信が、頭書のことばになり、揺るぎなく彼女を支え続けていたのであろう。死後にはヨハネ・パウロ2世がマザー・テレサを列福し、2016年9月に列聖されて聖人となった。彼女の命日である9月5日は聖人の日の祝日とされている。





 96. たとえ全財産を失っても、悩まないでしょう。
    悩んでも何かを得られるとは思わないからです。
    できる限り最高の仕事をして、結果は神に委ねます。

                               ― J.C.ペニー (1875−1971)―


 ジェームズ・キャッシュ・ペニー(James Cash Penney) は、アメリカの大手デパートチェーン、J.C.ペニーの創立者である。人生には喜びもあるが、悲しみや悩みもつきものである。そして、おそらく、喜びよりも、悲しみや悩みの方が、私たちを精神的に成長させることが多い。ペニーも決して順風満帆で全米に約1000カ所の大型店などを展開できるようになったわけではなかった。「私はあらゆるトラブルに感謝している。ひとつのトラブルを克服したあと、より強くなり、これからやってくるものに、よりよく対処できるようになっていたからだ」ということばも残している。やるだけのことはして、あとは神に委ねる。おそらく、これが私たちにとっても処世の正しい道である。

 「不安、心配、悩みの大半は、変えられない現実を無理に変えようとあがくことで、永遠に増殖する。変えられることにはチャンスを見つけ、変えられないことには、折り合いをつけよう。それが心の安定を築き守るための鉄則である」と『人を動かす』で著名な D.カーネギーはいう。しかも、心配や不安は的中しないことのほうが多い。人は、まだ起こってもいないことを恐れ、心配する。作家のマーク・トウェインも「私がこれまで思い悩んだことのうち、98パーセントは取り越し苦労だった」と言った。不安や悩み悲しみは、霊界からの癒しのエネルギーを遮断するばかりでなく、心身を傷つける生物化学的反応をも惹き起こす。やはり、何よりも大切なことは、誠心誠意努力を尽くした後は、すべてを「神に委ねる」ということであろう。





 97. この身今生に向かって度せずんば、
    さらにいずれの生に向かってかこの身を度せん。

                                 ― 仏教礼賛文(三帰依文)―

 ここにいう「度」とは仏教のことばで、「生死の迷いの海を越えて、悟りの彼岸に渡ること」と『広辞苑』にある。「般若心経」は、観世音菩薩(観音さま)が一心不乱に修行していた時に、すべてが「空」であることを悟って、「度一切苦厄」、つまり、一切の苦しみを乗り越えた、ということばで始まっている。しかし、私たち凡夫は、そのような安心立命の境地を求めようとしても、なかなか容易ではない。「五濁悪世」のなかで、苦しみ悩み、死の影に怯えながら、束の間の命を無明のうちに明日に繋いでいる。それを空海は、「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて生の始めに暗く、死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し」(『秘蔵宝鑰』)と戒めた。この「礼賛文」でもいう。今生で、悟りを開くことができないのであれば、一体、いつまた生まれ変わったときに悟れるのであろうか、と。

 しかし、この「悟り」というのは、私たちにはどうも高遠過ぎて手が届きにくい気がする。せめて、これを「生と死の真理を理解すること」とでも捉えれば、私たちにも希望がもてないことはない。幸いにして、『シルバー・バーチの霊訓』がすぐそばにある。気が向きさえすれば、いつでもその珠玉の教えに触れることができる。そして、理性を失わず素直な気持ちでその真理の言葉に真摯に向き合っていけば、生の始めを知り、死の終わりについて理解を深めることも、決して難しいことではない。誰でも必ず死の恐怖をも乗り越えて、心穏やかに生きていけるようになるに違いない。仏教礼賛文では、「無上甚深微妙の法は百千萬劫にもあい遇うこと難し」ともいうが、私たちにとっては、このシルバー・バーチの教えこそ、「無上甚深微妙の法」であるとはいえないであろうか。私たちは、その教えによって、私たちなりに、「今生に向かって度す」ことも出来るのである。





 98. 然り余は万を得て一つを失わず、
    神も存せり、彼も存せり、国も存せり、自然も存せり、
    万有は余に取りては彼の失せしが故に改造せられたり。

                                   ―内村鑑三(1861−1930)―


 明治24年(1891年)1月9日、当時の第一高等学校講堂で挙行された教育勅語奉読式で、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。その時、内村は教頭に次ぐ地位にありながら、敬礼はしたが最敬礼をしなかった。このことが非難され大きな社会問題になり、内村は国賊と罵られて職を奪われた。これが「第一高等中学校不敬事件」である。世間の激しい抗議にさらされるなか妻の加寿子は流感で倒れて、2か月の病臥の後に死去する。内村は悲嘆のどん底に落ちた。そのような苦境に呻吟するなかで内村は、その2年後、『基督教徒の慰め』を書いて出版した。

 内村は、妻加寿子を、死に至らしめた罪は自分にあるとして悲しむ。「熱心のあらん限り」回復を祈ったが、その祈りは聴かれなかったと嘆く。そして、絶望のあまり、一時は、祈ることさえ止めてしまった。牧師の慰めのことばも親友の転地の勧めも、いまは恨みを残すだけで、「愛する者を返せ」と荒熊のように乱れるほかはなかった。しかし、それでも、神の存在だけは疑いえなかった。「もし神なしとせば真理なし、真理なしとせば宇宙を支える法則なし、法則なしとせば我も宇宙も存在すべきの理なし」、故に神が存在しないと信じることはできない、と考えるに至って、やがて信仰を取り戻していく。そして、同書のなかで書いたのが、「然り余は万を得て一つを失わず」という冒頭のことばである。





 99. 他人に感謝を期待すると、苦痛が増える。
    人は生まれながらにして感謝を忘れる生き物だ。

                           ― デール・カーネギー(1888−1955)―


 デール・カーネギー(Dale Carnegie)は、アメリカ・ミズーリ州の貧しい農家に生まれた作家・評論家であった。今日でも支持の高いベストセラー『人を動かす』(1936年)の著者として有名である。冒頭に掲げたのは、彼の『道は開ける』(東条健一訳)(新潮社、2014)のなかのことばである。他人に感謝を期待して、失望した経験を持った人は多いだろう。ローマ帝国五賢帝の一人マルクス・アウレリウスも『自省録』のなかで、「今日、私は、自己中心的で倣慢で感謝の念を持たない人たちと会う。だが、私は驚きもせず気にもしない。世界は、そういう人たちで満ちているのだ」と書いた。デール・カーネギーは言う。「責められるべきは、恩知らずな人間の本質か――それとも、人間の本質に無知な私たちか? 感謝を期待するのは止めよう。たまに感謝されたらうれしい驚きになるし、感謝されなくても気にならなくなる。」

 人生のこういう当たり前の理屈がわからなければ、時に私たちは人間関係で深刻に悩み、挙句の果てには、うつ病になったりもする。スイスのカール・ユンクと並び称されるオーストリアの精神科医、心理学者アルフレッド・アドラー(1870−1937)は、彼の名著 『人生の意味の心理学』で「他人は私を喜ばせようとしないのに、なぜ私が他人を喜ばせないといけないのか、と多くの人は言う……うつ病の本当の理由は、他人に協力しないことなのだ……仲間と対等な関係で協力できればすぐに治る」といい、「うつ病は、私の処方にしたがえば14日で治るだろう。他人を喜ばす方法を、毎日考えればいいのだ」とも書いている。他人に対しては、感謝を期待せず無償の愛で接し、与えることのみを考える。実は、与えることが与えられることなのである。人間関係から私たちが学ばなければならないことは多い。





 100. あなたは私を見たので信じたのか。
     見ないで信じる者は、さいわいである。

                                 ― ヨハネ 20:29 ―


 イエスが、ユダの讒言により捕らえられて、ゴルゴタの丘で十字架につけられた時、ペテロをはじめ殆どの弟子たちは、累が及ぶのを恐れて逃げ隠れていた。イエスは死を前にして、自分を処刑しようとする兵士たちの前で、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と言ったあと、脇腹を槍で突き刺されて絶命した。(「ルカ」23:34) そのイエスは、しかし、かねて予言していたように3日目によみがえる。一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちの隠れ家に潜んでいると、イエスが入ってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言った。自分の手と脇腹の傷跡も弟子たちに見せた。弟子たちはみな、目の前によみがえったイエスを見て、驚きながらも深い感動と大きな喜びに包まれた。

 十二弟子の一人のトマスは、イエスがこの隠れ家に現われた時、たまたま外出していて彼らと一緒に居なかった。ほかの弟子たちが、彼にイエスのことを告げ、「わたしたちは主にお目にかかった」と伝えると、トマスは彼らに言った。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。(「ヨハネ」20:25) 8日の後、イエスの弟子たちはまた家の中に居り、その時はトマスも一緒であった。戸はみな閉ざされていたが、イエスが入って来て、皆の前に立ち、「安かれ」と声をかけた。それからトマスに向かって言った。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れて見なさい。」トマスは一言もなかった。辛うじて、ひと言「わが主よ、わが神よ」と口に出してひれ伏した。その彼に対してイエスが言ったのが冒頭のことばである。

 このイエスの復活によって、その復活があったからこそ、師を見捨てて逃げ隠れしていたあの弱かったイエスの弟子たちは、はじめて深い信仰に目覚めて猛然と起ち上がった。石を投げつけられてもひるまず、投獄され鞭打たれても屈せず、そのために殉教の死を遂げても、決してイエスを信じることをやめようとはしなかった。イエスが処刑されたのが紀元30年で、弟子たちはその時から命を賭けてイエスの教えを広めはじめ、そして、紀元64年にはもう、あの歴史に残る皇帝ネロのキリスト教徒迫害が起こっている。イエスの死後わずか34年で、ガリラヤに発生したユダヤ教の一分派ともいうべきキリスト教が、遠く離れた帝国の首都ロ−マにまで進出し、皇帝ネロの弾圧の対象となる程までに影響力のある宗教団体になっていたのである。その後、ローマ帝国は313年にキリスト教の公認に踏み切り、392年には、キリスト教はローマ帝国の国教になった。