二つの図書館の思い出


 敗戦から3年目、東京でも新宿や池袋にまだ戦災の焼け跡があちらこちらに残っていた頃、私は赤坂見附の当時の都立第一高等学校(現・日比谷高校)に入学した。校舎の一部は空襲で焼けたままであったが、校庭の一隅には、国会議事堂を見下ろすような位置に独立した図書館が、戦災をまぬがれて立っていた。
 
 日本はまだ貧しく、紙不足で本の出版もその数は限られていた。西田幾多郎の『善の研究』の新版発売がニュースになったくらいで、学友の何人かは、発売当日、出版元の岩波書店の前に早朝から並んで買い求めていた。
 
 その頃の学友たちの間では、たとえば、夏目漱石や芥川龍之介などの作品は、中学2、3年頃までに全部読んでいるのが当たり前になっていた。「当たり前」でなかった私は、少し焦った。そこで一念発起して図書委員になり、委員の特権を利用してかび臭い書庫に自由に出入りしながら、乱読を始めたのである。府立一中時代の谷崎潤一郎の作文などをノートに書き写したり、空腹をも忘れて太宰治の『人間失格』などを読みふけったりもした。いま考えると、この都立一高図書館の湿った空気のなかで、私の文体のようなものも徐々に形作られていったような気がする。

 それから数年後、東京で大学を終えた私は留学生に選ばれて渡米し、オレゴン大学の大学院生になった。大学院生には、図書館のなかに小さな個室が与えられる。私は、講義の間と、食事や睡眠の時間を除いて、ほとんどその個室で本に囲まれて過ごした。講義では、数多くの文献、雑誌を次々に読まされていたが、図書館の蔵書はその当時で130万冊もある。必要な本や雑誌は、すぐに借り出すことが出来た。

 オレゴン大学の学生の多くは、週日はほとんど図書館で猛烈に勉強していた。私も彼らに負けずについていくのに必死であった。時間の経つのが早く、あっという間に一日が終わってしまう。一日が24時間ではどうしても足りない。せめてあと2、3時間はほしい、と何度切実に思ったことか。

 そのオレゴン大学図書館の私の個室の窓の外には、銀杏の木が一本立っていた。緑の葉が秋には黄色になり、やがて少しずつ散っていく。春になると小さな芽が膨らみ始め、夏にはまた、青々として葉が生い茂る。この銀杏の木がふたたび春を迎えて小さな芽をつけ始めた頃、私は大学院を終えて日本へ帰った。

 「図書館」には、私にとってなつかしい響きがある。そして、その余韻のなかでは、40年以上たった今でも、あの窓の外の銀杏の木が、淡いセピア色にかすんで見え隠れする。

   (2001.3.20)