1876年のUniversity of Oregon 創立時の最初の校舎、Deady Hall。キャンパスはここから南と東へ拡大していった。むかしは、この校舎から正門までの道の上で誰かとすれ違うときには、必ず声を掛け合うという規則があったという。
 大学の紋章の入った鉄門の前で。
1957年9月。アメリカ人学生と対等以上の学業成績を維持しなければ奨学資金の支給は停止される。時間の経つのが早く、勉強に明け暮れしていた毎日であった。
左側は学生会館、右は男子寮の一つ、Gamma Hall。この4階中央部に私の部屋があった。留学生用の研修を受けたUniversity of California, Berkeleyで1か月半を過ごしたあと、1957年9月22日にここへ移る。 
男子寮Gamma Hallの私の部屋。
机、椅子、箪笥などは備え付けられ
ている。机上のタイプライターは自
分で買った。大学では、リポート、論
文はすべてタイプで打たなければな
らない。廊下を隔てて寝室がある。
自室の窓から見下ろす。学生用駐
車場の一部。日本ではまだ、学生
が自動車を持つなどということは、
考えられなかった時代であった。 

左端は女子寮のHendricks。当時は、男女別の規則が厳しく、男子学生は、入り口付近のラウンジ以外は入室は許されなかった。男女学生とも、一年生は全員、学生寮に入ることになっていた。
 講義が終わって、図書館へ向かう
学生たち。卒業までに半数くらいの
学生がふるい落とされるので、みん
な勉強には熱心であった。 


 図書館から学生会館への道。芝
生は一年中緑を保っていた。この芝
生の緑には、ずいぶんこころが癒さ
れたような気がする。

女子寮のひとつ、Susan Campbell。
 Gamma Hall からこの寮の前の道
を通って図書館へ通っていた。

 中央の建物は美術館。日本や中
国の美術品も展示されている。夏目
漱石の孫のマクレーン・陽子さんが
ここでアルバイトをしていた。

 キャンパス中央部の広場。講義を
 受けてでてきた学生たちは、それ
ぞれの寮、図書館、学生会館へと散
っていく。  
女子寮の一つ、Carson Hall。学生たちはよく勉強する。遠くから見える部屋の灯りは、深夜の1時、2時になってもその多くが消えなかった。
 
奥の左端にScience Building左手
前には男子学生用水泳プール。右側
には学生のための診療所があった。
キャンパスの隅々まで、緑の芝生は
よく手入れされている。
  
       
 女子寮Susan Campbel の学生たち。
普段はもっとカジュアルな服装をして
いるが、週末のパーティで、ちょっと
着飾っている。
図書館の東側から教育学部へ通ず
る道。この左側中程に、春になると見
事な花を咲かせる桜の大木があった。
   
 中央奥の建物が図書館。私の大学
院学生用の個室は、この建物の裏手
にあった。平日は午後10時まで、試
験中は午後12時まで利用できる。
  
1958.11.27. ビーチクラフト機でオレゴ
ン大学上空を飛ぶ。左手に操縦舵を
、右手にカメラをもって、機体を右に
傾け、私が撮影。このあとオレゴン州
の上空を30分以上も飛びまわって貴
重な経験になった。

オレゴン大学のキャンパスを上空から私が撮影。ビーチクラフト機は、4人乗りで、前の座席には私と 「思い出」のなかで触れたバイアリーさんが座っていた。操縦桿はどちらかが握れるようになっている。
学生会館 Erb Memorial Union地下
には、学生のための娯楽施設や売店
ジム、クラブ、サークルなどの部室な
どもある。  


学生会館のコーヒー・ショップ。学内
では、食堂でも寮でも、アルコール類
は一切禁止されていた。簡単な昼食
は 50〜70セントくらいだが、当時の
為替レート (1ドル=360〜450円)で
は日本の大学食堂の10倍くらいの感
じであった。
 学生会館休憩ラウンジ。学生たちは勉強に追われているので、あまりゆっくり休んでいるひまはない。ほとんどの学生は、夏休み以外にはアルバイトもしない。

夏休みに入る前のひととき。女子寮
の前で。勉強に追われていた春学期
終わると、男女学生たちは水をか
けあいながら、大騒ぎをして浮かれ
ている。

キャンパスの夜景。図書館から寮へ
帰る途中に撮影する。図書館では午
後10時頃まで勉強して、あとは、寮
の部屋で勉強を続けていた

陸上運動場奥に見えるのがフット
ボールの試合場。私は勉強に疲れ
ると、ときどきこのあたりを散歩した。

フットボール競技場Hayward Stadium
。試合前の大学楽団の演奏があって
、競技場を一周する。 


フットボール試合を応援する相手方
大学のチア・リーダーたち。飛行機を
借り切ってやってくる大勢の学生たち
と、熱心な応援風景が繰り広げられる。 
オレゴン大学の応援団とチア・リー
ダーたち。マスコットは、アヒル。
黄色と緑のユニフォームで激しく踊
りまわる。

オレゴン大学の野球場。アメリカの大
学では野球はフットボールほど盛ん
ではない。 左の建物はバスケットボ
ールの試合などに使われるMcArthur
Court。

McArthur Courtでのバスケットボー
ルの試合を応援する学生たち。バス
ケットボールは、フットボールに次い
で人気があった。   
バスケットボールの試合が始まる前
には、チア・リーダーたちを中心とす
る大学間の激しい応援合戦が繰り
広げられる。 大勢の一般市民も
入場料を払って応援にやってくる。
大学の休みの折りに、各地の教会な
どでスライド写真を見せながら、日本
の生活・文化を紹介したことが何度
かあった
宿泊先の家族とともに
教会の前で。

大学の近くを流れるウィラメット川。澄
みきった水の色が美しい。この川を渡
ると、大学の街 Eugene から離れるこ
とになる。
オレゴン州の州立公園クレィタ湖
その名の通り、8千年前の火山噴火
口の跡に出来た湖で、水の色が吸
い込まれるように青い。

町はずれのドライブイン・レストラン。
当時、日本にはまだ、コカコーラやハ
ンバーガーなどはなく、このようなドラ
イブインもなかった。 


1957年のクリスマスの休みにポート
ランド郊外の Mt.Hood へドライブする
。車は友人が500ドルで買った中古の
ポンティアック。    

Mt.Hood は標高 3,686メートルで日本の富士山よりほんの少し低い。格好のスキー場になっていて、私もここで初めて滑ってみた。

Mt. Hood のスキー場ロッジ。この建
物の横には露天の温泉場があって、
水着姿で泳いだりしていた。標高3千
3百メートルのこのあたりまで車で上
れる。  

Portland の繁華街のクリスマス風景
。閑散としている。クリスマスの休み
には、人々はあまり出歩かない。家庭
で家族や友人たちと過ごすのが普通
である。
Portland の日本領事館。1958年正月。オレゴン州の留学生たちは、正月には領事夫妻に招かれて日本食のご馳走になった。
1958年の夏休み。友人の車に同乗し
て、ニューヨークまで約5千キロのド
ライブをする。当時、このような高速
道路がすでに開通していた。


イエローストーン国立公園に立ち寄る。
熊が放し飼いにされているので
外に出ることは禁止されていた。
イエローストーン国立公園の一部。
広大な公園内には湧き出ている
温泉が1500か所もあると聞いた。

Idaho の Boiseあたりであったろう
か。
小さな田舎町で、子どもたちは
純朴であった。


Buffalo の街。アメリカ大陸を西から
横断し、東海岸へ近づいて行くにつれ
て、建物がだんだん古くなっていく。


Buffaloからナイヤガラの滝へ。1958
年からもう45年以上も経っているか
今ではこの滝の落下点はかなり
後退していると思われる。
ニュージャージーへ向かうフェリーの
上からマンハッタンを遠望する。当時
の日本にはまだ高層ビルはなかった
から、珍しい風景であった。
エンパイアステイトビルの展望台から
。前方にクライスラービル、右にハドソ
ン川の畔の国連ビルが見える。
9.11
事件で崩壊した2棟の世界貿易セン
タービルはまだ建てられていなかっ
た。
ニューヨークのブロードウェイ好き
な料理を選んでコインを入れれば出
てくるコインレストランがあったのに
は驚かされた。

ロックフェラーセンターの前面の花壇
で。近くの電器店で日本製のトランジ
スター・ラジオを売っていたが、当時は
「日本製」では売れないので「輸入品」
というラベルがつけられていた。

ニュージャージーのAsburyPark.
岸沿いの Boardwalk、板敷きの遊歩
道。右下が砂浜になっていてその先
には大西洋が広がっている。当時の
貧しかった日本からみると、圧倒的に
豊かな雰囲気があった。

Asbury Park, Berkeley Cartlet Hotel
私が夏休みにアルバイトをしていたホテル。週末には、ニューヨークからの客で賑わっていた。仕事休みの日に、アルバイト仲間とプールサイドで。
ワシントンの硫黄島記念碑。この頃は
まだ日本は野蛮国と思われることが
多く、反日宣伝の映画などもまだ残っ
ていた。観光客もそんなに多くない時
代で、ホワイト・ハウスにも割合自由
に入って歩きまわることが出来た。

ニューヨークからバスで南下して、ア
トランタに着く。当時はまだ、南部では
黒人差別が公然と行われていた。
広々として冷房の利いた白人用待合
室。私はこの中でしばらく休んだ。
アトランタのバス停留所の黒人用待合室。狭い部屋で冷房もない。大学の友人にこのような人種差別を批判したら、アメリカでは白が黒を差別するが、日本では黄色が黄色を差別しているではないか、といわれたことがある。
ニューオリーンズまで、南下して、昼
間バスで市内観光をしたあと、 Canal
通りで夜景を撮る。「欲望という名の
電車」が走る市電の線路。

Salt Lake City の基礎を築いた先人
たちの銅像。"This Is It Statue" 東
部から定着地を求めてやってきた先
人たちがこの丘で、ここを理想の地と
して、街を築き上げた。
ネバダ州の Reno にてここでは、
賭博公認でバスの駅にもスロットマ
シーンがある。ニューヨークからここ
まで、1週間くらいかかったが、ここ
からはオレゴンは近い。
1959年3月、帰国の途中、シアトルに
寄る
湖に浮かぶ Floating Bridge
の夜景「思い出」に書いた山手君と
ワシントン大学を訪れた日の夜、ここ
までドライブする。

シアトルからカナダのバンクーバー
へ出て、そこから日本へ向けて出航
する
山下汽船の山姫丸に乗った。
港から見たバンクーバーの夜景。
1959年3月29日夜に出航して、日本
へ帰国の途中、太平洋上で山姫丸
の船長と
春の太平洋は荒れる日
が多かった。2週間かかって4月15
日に東京港に着く。