(日付の新しいものから順にならべてあります)




                                     [参考資料 No.20]  (2018.12.13)

   死をめぐるいくつかの考察  


 2011年3月11日に起こった東日本大震災では、多くの方々の命が失われた。遺族の方々の悲しみの極限にある心が少しでも軽くなるお手伝いをしたいという思いで書かれたのが、この本、一条真也『のこされたあなたへ』(佼成出版社、2011)である。著者の一条氏は、愛する人を亡くして人の悲しみを癒す「グリーフケア」の普及に努めている作家である。「死は最大の平等である」をスローガンに、真に心豊かな供養のあり方を求め、自ら葬祭会社の経営もしている。ここでは、この本の中の死に関して書かれた氏のいくつかの考察を引用しておきたい。メーテルリンクの『青い鳥』に触れている箇所もあるが、これは私も今まで何度かこのHPでも取り上げてきただけに興味深い。小見出しの番号は、便宜上、私がつけたものである。


     *****

 1.「死」は「不幸」なこと?

 あなたは、今、この無限ともいわれる広大な宇宙のなかで一人ばっちになってしまったような孤独感と絶望感を感じているかもしれません。誰にもあなたの姿は見えず、あなたの声は聞こえないように思われるかもしれません。亡くなった人と同じように、あなたの存在もこの世から消えてなくなったのでしょうか。
 フランスには「別れは小さな死」ということわざがあります。愛する人を亡くすとは、すなわち死別ということです。愛する人の死は、その本人が死ぬだけでなく、あとに残された者にとっても、小さな死のような体験をもたらすと言われています。
 もちろん、わたしたちの人生とは、何かを失うことの連続です。わたしたちは、これまでにも多くの大切なものを失ってきました。しかし、長い人生においても、一番苦しい試練とされるのが、あなた自身の死に直面することであり、あなたの愛する人を亡くすことなのです。
 「愛する人」と一言でいっても、家族や恋人や親友など、いろいろあります。
 わたしは、親御さんを亡くした人、御主人や奥さん、つまり配偶者を亡くした人、お子さんを亡くした人、そして恋人や友人や知人を亡くした人が、それぞれ違ったものを失い、違ったかたちの悲しみを抱えていることに気づきました。
 そして現実に悲しみの極限で苦しんでおられる方々の心が少しでも軽くなるお手伝いをしたいと願い、愛する人を亡くした人へのメッセージを綴ることにしました。
 そのために、古今東西の宗教、哲学、文学、心理学、神秘学などに広く目を配り、すべての人にとって当てはまりそうな、普遍的な知恵となりうる考え方を求めました。そのうえで、わたし自身の考えをまとめました。
 わたしは、若い頃からずっと「死」について考えてきました。「死」について考え続けてきたなどというと、なんだか陰気な死神のような人間だと思われるかもしれません。
 もちろん、「死」よりも関心のあるテーマはあります。それは、「幸福」です。物心ついたときから、わたしは人間の「幸福」というものに強い関心がありました。
 学生のときには、いわゆる幸福論のたぐいを読みあさりました。それこそ、本のタイトルや内容に少しでも「幸福」の文字を見つければ、どんな本でもむさぼるように読みました。そして、わたしは、次のように考えました。
 政治、経済、法律、道徳、哲学、芸術、宗教、教育、医学、自然科学……人類が生み、育んできた営みはたくさんある。では、そういった偉大な営みが何のために生まれ、存在するのかというと、その目的は「人間を幸福にするため」という一点に集約される。さらには、その人間の幸福について考えて、考えて、考え抜いた結果、その根底には「死」というものが厳然として在ることに思い至りました。
 そこで、わたしが、どうしても気になったことがありました。それは、日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と人々が言うことでした。
 わたしたちは、みな、必ず死にます。死なない人間はいません。いわば、わたしたちは「死」を未来として生きているわけです。その未来が「不幸」であるということは、必ず敗北が待っている負け戦に出ていくようなものです。
 わたしたちの人生とは、最初から負け戦なのでしょうか。どんなすばらしい生き方をしても、どんなに幸福感を感じながら生きても、最後には不幸になるのでしょうか。
 あの、あなたのかけがえのない愛する人は、不幸なまま、あなたの目の前から消えてしまったのでしょうか。亡くなった人は「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのでしょうか。
 そんな馬鹿な話はないと思いませんか。わたしは、「死」を「不幸」とは絶対に呼びたくありません。なぜなら、そう呼んだ瞬間、わたしは将来かならず不幸になるからです。
 死は決して不幸な出来事ではありません。愛する人が亡くなったことにも意味があり、あなたが残されたことにも意味があります。
 本書を最後まで読まれたあなたは、きっと死の本質について理解されるはずです。そして、おだやかな悲しみを抱きつつも、亡くなられた人のぶんまで生きていくという気持ちになってくれることを信じています。
 それは、何よりも、あなたの亡くした愛する人がもっとも願っていることなのです。(pp.25-28)



 2.あなたが「死ななくなる」方法

 二五〇〇年前の中国に、生命を不滅にするための方法を考えた人がいました。かの孔子です。彼は、なんと、人間が死なないための方法を考え出したのです。その考えは、「孝」という一文字に集約されます。
 「孝」とは何か。
 あらゆる人には祖先および子孫というものがあります。人間にとって、祖先とは過去であり、子孫とは未来です。その過去と未来をつなぐ中間に現在があり、現在は現実の親子によって表わされます。
 すなわち、親は将来の祖先であり、子は将来の子孫の出発点です。ですから子の親に対する関係は、子孫の祖先に対する関係でもあるのです。
 孔子の開いた儒教は、そこで次の三つのことを人間の「つとめ」として打ち出しました。
 一つ目は、祖先祭祀をすること。仏教でいえば、先祖供養をすることです。
 二つ目は、家庭において子が親を愛し、かつ敬うこと。
 三つ目は、子孫一族が続くこと。
 この三つの「つとめ」を合わせたものこそが「孝」なのです。
 「孝」というと、ほとんどの人は、子の親に対する絶対的服従の道徳といった誤解をしています。それは間違いです。
 死んでも、懐かしいこの世に再び帰ってくる「招魂再生」の死生観と結びついて生まれた観念が「孝」というものの正体です。
 これによって、古代中国の人々は死への恐怖をやわらげました。なぜなら、「孝」があれば、人は死なないからです。
 それは、こういうことです。死の観念と結びついた「孝」は、次に死を逆転して「生命の連続」という観念を生み出しました。亡くなった先祖の供養をすること、つまり祖先祭祀とは、祖先の存在を確認することです。
 また、祖先があるということは、祖先から自分に至るまで確実に生命が続いてきたということになります。さらには、自分という個体は死によってやむをえず消滅するけれども、もし子孫があれば、自分の生命は生き残っていくことになる。
 だとすると、現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐつていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きていることになります。わたしたちは個体としての生物ではなく一つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。
 これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚するということなのです。ここにおいて、「死」へのまなざしは「生」へのまなざしへと一気に逆転します。
 この孔子にはじまる壮大な死生観は、明らかに生命科学におけるDNAに通じています。とくに、イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスが唱えた「利己的遺伝子」という考え方によく似ています。
 生物の肉体は一つの乗り物にすぎないのであって、生き残り続けるために、生物の遺伝子はその乗り物を次々に乗り換えていくといった考え方です。
 なぜなら、個体には死があるので、生殖によってコピーをつくり、次の肉体を残し、そこに乗り移るわけです。子は親のコピーにほかなりません。
 「遺体」とは「死体」という意味ではありません。人間の死んだ体ではなく、文字通り「遺した体」というのが、「遺体」の本当の意味です。つまり遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのです。
 あなたは、あなたの祖先の遺体であり、ご両親の遺体なのです。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているのです。
 このように、「孝」はDNAにも通じる大いなる生命観なのです。「孝」があれば人は死なないとは、そういうことです。あなたが祖先の祭祀を行ない、子孫の繁栄を願うことによって、人は永遠に生き続けるのです。(pp.105-108)



 3.あの世を垣間見た人々の記録

 ロスと並んで、「死」の問題を直視し、それを追求した人物に、レイモンド・ムーディーがいます。アメリカの哲学博士および医学博士です。
 一九六〇年代半ば、ロスが死の研究をはじめた頃、ヴァージニア大学の若き哲学者ムーディーは臨死体験の証言を集めはじめました。臨死体験とは、医師から死の宣告を受けたにもかかわらず、奇跡的に生き返った人の体験です。
 彼は十一年間、臨死体験の証言を集め続けましたが、ほかにも同じような研究をしているロスという人物の名前も知りませんでした。ノースカロライナ州東部の大学で哲学を教えた後、ムーディーは自分は医者になるべきだと考えました。そして、医学の学位を取りました。その間に収集した臨死体験談は一五〇ほどになりましたが、それらにはすべて基本的な共通点があったのです。
 非常な衝撃を受けた彼は、『かいまみた死後の世界』(中山善之訳、評論社)という本を著しました。編集者からその校正刷を送られたキューブラー・ロスは、自分も同じような本を書きたかったのだと打ち明けたそうです。同書は一九七七年に出版され、全米でベストセラーとなりました。この研究によって臨死体験ははじめてオカルトや宗教的な現象としてではなく、哲学、心理学、医学の研究対象としてみなされるようになったのです。
 この本が出版される前は、死に関する話題はアメリカでもタブーでした。多くの医師は、臨死体験を患者の精神異常による幻覚として片付けてしまうのが実状だったのです。したがって患者は珍しい体験をしても、それを医師に話すような雰囲気ではなかったのです。しかし、ムーディーの開拓的な研究によって、そのような状況も変化しました。この本にあげられた事例のすべてには驚くほどの共通点が見られますが、ムーディーはさらにその後の調査をまとめた著書『続 かいまみた死後の世界』(駒谷昭子訳、評論社)において、臨死体験の一般的特徴を次のように十三の項目にまとめました。

 一人の男性が死に近づいています。肉体的苦痛が頂点に達したとき――
 1.医師が自分の臨終を宣告するのを聞きます。
 2.耳障りな音が聞こえはじめます。その昔はワァーンという大音響だったり、ブーンとうなるような音だったり、さまざまです。
 3.  同時に、長いトネルの中をすごいスピードで通り抜けていくような感覚があります。 このトンネルを抜けると、
 4. 突然、自分が自分自身の物理的肉体を遊離したのがわかります。しかし、まだ自分の物理的肉体のすぐ近くにいます。一人の傍観者として、みんなが自分を生き返らせようと動き回っているのを見ます。
 すぐに気持ちも平静になり、この奇妙な状態に慣れてきます。自分の「身体」はあるのですが、これは先刻脱け出てきた「身体」とは異なった性質のものであり、異なった力を備えるものです。間もなく、新しい局面が展開しはじめます。
 5. 他者に出会うのです。すでに他界している親類や友人もいます。
 6. そして、今まで会ったこともないような、愛と温かさにあふれる霊的存在、すなわち「光の生命」が出現します。
 7. 「光の生命」は自分の生涯の主な出来事をフラッシュ・バックし、質問を発します。もちろん、物理的音声を用いてではありません。
 8. ある時点で、明らかに「この世」と「あの世」との分岐点となっている境界、あるいは限界に近づきますが、自分はまだ死ぬときではないことに気づきます。
 9. ここで、完全な喜び、愛、平和に包まれていたい、物理的肉体に戻りたくないと抵抗します。
 10. しかし、結局は物理的肉体に戻って、蘇生します。
 11. 自分はこの体験を他人に話そうとするのですが、それはたやすいことではありません。
 12. まず、この世のものではないものを表現する、適当な言葉がないのです。そのうえ、この話をして、人の笑いの種にもなりたくありません。
 13. しかし、この体験は、その後の自分の人生に大きな影響を及ぼします。とくに死について、また、死と人生との関わり合いについて、以前とはまったく別の見方をするようになりました。

 ムーディーは『続 かいまみた死後の世界』で、前著にはなかった臨死体験パターンの新しい事実として「全知全能感・光あふれる場所・さまよう霊魂・超自然の救い主」の四点が発見されたことを報告しています。そのなかでとくに「全知全能感」すなわち、宇宙の本質を一瞬にして洞察するという体験が注目されます。ムーディーは臨死体験の際に全知全能感があったという一人の女性から次のような話を聞き出しました。
 「自分の生涯のフラッシュ・バックを見たあとだったように思います。突然、あらゆる全知識――この世の初めから未来永劫に続く全知識――を掌握したように思えました。一瞬にして、全時代のあらゆる秘密、宇宙、星や月、ありとあらゆるものの持つ意味を悟ったのです。しかし、わたしが物理的肉体に戻ると決めると、この知識は消え失せ、今は何ひとつ思い出せないのです」
 わたしたちは死ぬとき、神秘主義者たちが「アーカシック・レコード」と呼んだ全宇宙のデータベースを解読し、ムーディーの聞いた臨死体験者の女性のように「ありとあらゆるものの持つ意味」を悟ることができるのでしょうか。古代ギリシャの哲学者プラトンは「知るということは、思い出すということである」という言葉を残しています。わたしたちは、この世に生まれてくる前、すべてを知っており、母親の胎内に宿った瞬間、それを忘れてしまうのかもしれません。この世での一生とは、その忘れてしまった全宇宙の秘密を思い出していく旅だという見方もできるのです。
 そして、臨死体験とは、古来の宗教者などによる「神秘体験」や、宇宙飛行士たちの「宇宙体験」にも通じます。宇宙飛行士たちは、宇宙から地球を見ました。この行為は、神秘体験者や臨死体験者にも共通しています。
 臨死体験者たちの中には、身体から魂が脱け出し、宇宙空間へ飛び出して地球を見たという者がかなりいます。そう、宇宙船が重力をつきぬけて地球から宇宙へ出てゆくという現象は、いわゆる幽体離脱なのです。臨死体験者たちが、まるで透視力を持ったかのように頭が明晰になったり、光を見たりするといった報告も多く、これも神秘体験および宇宙体験のケースと共通しています。
 つまり、臨死体験とは、神秘体験であり、宇宙体験なのです。そして、それらはすべて、重力からの脱出にもとづく体験なのです。いずれの体験においても、おそらく脳のなかで幸福感をつくるとされるβエンドルフィンが大量に分泌されているのでしょう。
 臨死体験については、まぎれもない霊的な真実だという説と、死の苦痛から逃れるために脳が作り出した幻覚だという説があります。しかし、いずれの説が正しいにせよ、人が死ぬときに強烈な幸福感に包まれるということは間違いないわけです。しかも、どんな死に方をするにせよ、です。
 こんな平等がほかにあるでしょうか!
 まさしく、死は最大の平等です。日本人は死ぬと「不幸があった」と馬鹿なことを言いますが、死んだ当人が幸福感に満たされているとしたら、こんなに愉快な話はありません。
 いずれにせよ、あなたの愛する人は、物理的肉体の死によって、地球の重力から脱出し、宇宙空間を自在に飛び回っているのではないでしょうか。
 そう、あなたの愛する人は、いま、どこまでも自由なのでしょう。(pp.188-193)



 4.『青い鳥』 と死者の世界

 その癒しの物語として代表的な作品が、メーテルリンクの 『青い鳥』 です。
 シュタイナーは、死者のことを思うことが、死者との結びつきを強めると訴えました。これは、『青い鳥』の「思い出の国」のくだりと完全に重なります。幸せの青い鳥を求めて、チルチルとミチルが訪れた「思い出の国」は、濃い霧の向こう側にありました。そこは、乳色の鈍い光が一面にただよう死者の国です。この「思い出の国」で、チルチルとミチルの二人は亡くなった祖父と祖母に再会します。

 おばあさんチル わたしたちはいつでもここにいて、生きてる人たちがちょっとでも会いにきてくれるのを待ってるんだよ。でも、みんなほんのたまにしかきてくれないからね。お前たちが最後にきたのは、あれはいつだったかね? ああ、あれは万聖節のときだったね。あのときはお寺の鐘がなって……。
 チルチル 万聖節のとき? ぼくたちあの日は出かけなかったよ。だって、ひどい風邪で寝てたんだもの。
 おばあさんチル でも、お前たちあの日わたしたちのこと思い出したろう?
 チルチル ええ。
 おばあさんチル それごらん。わたしたちのことを思い出してくれるだけでいいのだよ。そうすれば、いつでもわたしたちは目がさめて、お前たちに会うことができるのだよ。
 チルチル なあんだ。それだけでいいのか。
 おばあさんチル でも、お前、それぐらいのこと知っておいでだろう?
 チルチル ううん、ぼく知らなかったよ。
 おばあさんチル (おじいさんに)まあ、驚きましたね。あちらではまだ知らないなんて。きっと、みんななにも知らないんですねえ。
 おじいさんチル わしたちのころと変りはないのさ。生きてる人たちというものはほかの世界のこととなると、全くばかげたことをいうからなあ。
 チルチル おじいさんたちいつでも眠ってるの?
 おじいさんチル そうだよ。随分よく眠るよ。そして生きてる人たちが思い出してくれて、目がさめるのを待ってるんだよ。生涯をおえて眠るということはよいことだよ。だが、ときどき目がさめるのもなかなか楽しみなものだがね。
 チルチル じゃ、おじいさんたち本当に死んでるんじゃないんだね?
 おじいさんチル (びっくりして)なんだって? 今なんていったね? どうもお前たちは、わしたちの知らない言葉を使うねえ。それは新しい言葉かね? 新しく発明されたのかね?
 ミチル 「死ぬ」っていうこと?
 おじいさんチル それそれ、その言葉だよ。どういう意味なんだね?
 チルチル ねえ、人がもう生きてないということなんだよ。
 おじいさんチル あちらの人たちはばかだねえ。
 チルチル ここはいいところなの?
 おじいさんチル ああ、悪くないよ。そしてみんながお祈りしてくれるとなおいいのだがね。
 チルチル でも、とうさんがもうお祈りするなといったよ。
 おじいさんチル それはちがう。それはちがう。お祈りすることは思い出すことだがねえ。
                                            (堀口大学訳)

 自身が偉大な神秘主義者であったメーテルリンクも、死者を思い出すことによって、生者は死者と会えると主張しているのです。
 メーテルリンクの時代は、世界的に「スピリチュアリズム」と呼ばれる心霊主義が流行していた時期でした。あちらこちらで死者の霊と会話をするという交霊会が開催されましたが、彼は霊媒や催眠術まで詳しく検証しています。さらには、現代のホスピスにおける夕ーミナルケアまで予見していました。
 「死」に強い関心を抱きつづけたメーテルリンクは、ノーベル文学賞を受賞した二年後の一九一三年に『死後の存続』(山崎剛訳、めるくまーる)を刊行しました。これは死後の意識について論じた本であり、カトリックの禁書目録に入れられたいわくつきの問題作です。この本で、メーテルリンクは次のように書いています。
 「この生と世界において、重要な出来事はただ一つ、死しかないのである。どれほど警戒しようと、その際をかいくぐつて死は力を結集し、一挙に幸福に襲いかかってくる。逃れようとあがけばあがくほど、その虜になる。脅えれば脅えるほど、恐怖は増す。死は人間の恐怖を糧とするからだ。死を忘れようとする者は、死の思いに捕われ、死から逃れようとする者も、逃れる先には常に死が待ち構えている。死は一切をその暗い影で覆う。人はたえず死のことを考えていても、それは無意識に、さもなければ明確な認識ができずに、そうしているにすぎない。正面から見据えず、背を向けるものに、いやでも人は捕われる。また探求する意欲を他に逸らし、死に立ち向かう力をことごとく使い果してしまう。同時に、死を暗い本能の手にゆだね、明晰に考えることもない」
 これほど「死」について正面から真剣に論じた文章を、わたしはほかに知りません。まさに、メーテルリンクは「死」の問題にとりつかれた人物といってもよいでしょう。
 『死後の存続』が刊行された一九一三年という年にも意味があったと思います。その前年である一九一二年には、かのタイタニック号が沈没して一五〇〇人以上の犠牲者を出しました。当時、「史上最悪の海運事故」と騒がれ、世界中に「死」のイメージを撒き散らした出来事として知られています。日本の宮沢賢治にも強い影響を与え、『銀河鉄道の夜』にはタイタニック号の犠牲者とおぼしき乗客が登場します。
 それから『死後の存続』が刊行された翌年である一九一四年には、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フエルディナント大公夫妻が銃撃されたサラエボ事件により、第一次世界大戦が勃発しました。世界中が戦争に巻き込まれ、大勢の人々が死亡するという「死の時代」が本格的に幕を開けたのです。そんな時代背景をメーテルリンクは敏感に察知していたように思います。
 さらに、彼がここまで「死」に深い関心を抱いたのには理由がありました。じつは、彼は少年時代に臨死体験をしていたのです。彼の最晩年の回想記である「青い泡沫」(『死後の存続』所収)には「水死」という断章があります。それによれば、メーテルリンクが子ども時代を過ごした家の庭は、家屋と運河の間に細長く伸びていました。この運河で彼は溺れかけたことがあるのです。幸い、建築中だった塔の上から父親に発見され、彼は一命をとりとめました。気がつくと自分のベッドに横になっていましたが、水をしこたま飲んでそれを吐き出したために少し気分が悪かったそうです。このときの経験を彼は次のように書いています。
 「この意識のない間、私は死のごく近くまで行った。もし実際に死の世界に到達していたら、ほかのことは覚えていなかっただろう。私は気づかずに大いなる扉を越えるには越えた。一瞬だが、ある種の驚くべき光を体験したからである。そこには苦しみ一つ、不安一つなかった。目が閉じ、腕がしきりに動き、そしてもう私はいなかった」
 これは明らかに臨死体験の報告にほかなりません。メーテルリンクはまた、こうも述べています。
 「そしてあの時と同じように、穏やかで、すばやく、甘美な死を再び体験できることを今は心待ちにしている」
 このような少年の日の臨死体験こそが、メーテルリンクに「死」の問題を考えさせ、ファンタジーの名作『青い鳥』を書かせたのではないかと、わたしは思います。(pp.220-226)

     (一条真也『のこされたあなたへ』 佼成出版社、2011より)





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                                    [参考資料 No.19]  (2018.11.29 )

  本願寺法主が説いている死後の生


 大谷暢順氏は、本願寺法主で、親鸞聖人の直系子孫の25世であるという。その大谷氏が『人間は死んでもまた生き続ける』(幻冬舎、2015)という本を書いている。大谷氏は、この本の中で、自分は本願寺に次男として生まれたので、長男のように大事にされることもなく、大きな本願寺という組織が好きになれなかった、と述懐している。本来なら、京都の大谷大学で仏教を学ぶのが筋であったが、なんとか僧侶になるその宿命から逃れようと東京大学に入り、さらにフランス文学を学ぶためにパリへ留学したという経歴の持ち主である。パリ第七大学で文学博士号を取ったが、その後、本願寺の「お東騒動」を経て、1996年に新たに「宗教法人 本願寺」を登記・認可され、本願寺第25世法主に就任した。

 仏教の僧侶は、世間の人々が考えているように、すべて死後の世界を信じているわけではない。宗派にもよるが、死後の世界や霊界の存在を否定している僧侶も決して少なくはない。それだけに、本願寺法主の大谷氏がこのような本を書いているのは興味深い。この本には、「死後の生」のほかにも、浄土真宗の教えが幾つか付け加えられているが、以下、その要点を14にまとめて抜き書きしてみたい。小見出しの番号は、便宜的に私がつけたものである。


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  1.「死んだら、終わり」ではない

 人は皆、迷いのなかに生きています。
 どんなに立派な人であろうと、完全な人間はいません。人間というのは、もともと迷いのある者として生まれてくるのです。
 しかも、この世に生まれたら、最後は必ず死ぬことになります。いかなる天才であろうが、徳の高い人であろうが、これだけはまぬがれません。生きるということは、つまり死に向かうことなのです。なんとも哀しい身の上ではありませんか。しかし、死を離れて生はなく、生を離れて死もないのです。
 なぜ、人間は生まれたり死んだりするのでしょうか。
 仏教には、「輪廻転生」という思想があります。人間のみならず、犬も猫も、鳥も魚も虫も、そして草や木も、生きとし生けるものには魂があり、それぞれの魂は車輪が回転するように絶えず生まれ変わり死に変わるのだ、と教えています。
 「霊魂不滅」という言葉があるように、魂は人智では計り知れない昔から、ずっと迷い続けて、生きては死に、死んでは生きて永遠に存続するといわれています。
 この輪廻思想は、仏教が開かれる前からインド人のなかにしみこんだ教えです。古代エジプトやギリシャにも同じような思想があったようですが、近代の西洋にはなじみがなく、私はフランスで何度も「仏教はいいですね、輪廻転生という思想があるから」とうらやましがられました。
 キリスト教の場合は、人生は一度きりで、死者は最後の審判の日に復活して神の裁きを受け、神の国に迎え入れられるか、地獄に落ちるかのどちらかだとされています。
 イスラム教もほぼ同じで、ユダヤ教のほとんどの宗派は、死者は土にかえると考えられているそうです。
 「人は死んでも生まれ変わるのだと考えることで、どんなにあなたたち東洋人は魂に安らぎを得ていらっしゃることでしょう」
 国際会議の通訳をしていたときに、外国人女性の通訳から、そう声をかけられたこともありました。(pp.36-37)



  2.死んだあと、人間はどうなるのか

 確かに、死んだあとどうなるのかわからないというのは不安ですし、死んだら終わりだといわれると、いよいよ死ぬのが怖くなりますね。
「この世さえ満足に生きられたら、死後はどうなってもいい。いや、死後には何もない。人間は死んだら消えてなくなるのだ」
 このようなことを口にする日本人は大勢いますが、本気でそう思っている人は案外少ないのではないでしょうか。私の知るかぎり、今の人はとても死ぬのを怖がっています。昔より今のほうが、ずっと死を恐れています。
 浄土真宗で、最近は通夜などで行うことが多くなった「枕経」は、本来は臨終を迎えつつある人の枕元で読んだものです。今、たいていの人は病院で亡くなりますが、坊さんは病院へ行ったらいかんという。お坊さんイコール葬式と考える人が多いのでしょう、縁起が悪いとか不吉だとかいって敬遠されるのです。これもやはり、いかに死を恐れているかということの証拠だと思います。
 だれにとっても、死んだらどうなるのかは気になるものです。とりわけ高齢者には、死後のことほど心にかかる問題はないでしょう。
 しかし、いくら考えでも答えの出ないことですし、死んだら本当に何もなくなってしまうのか……と死後を想像するのさえ、おぞましいという人も少なからずいると思います。ですから多くの人は、そういう問題を避けているのではないでしょうか。
 考えてみれば、生まれながらに死が約束されているということほど、理不尽なことはありません。
 ひたすら働いて、できるだけ人に迷惑をかけまいと真面目に暮らしてきた人も、老いとともに体力がなくなり病みがちになって、人の世話にならないと命を保てなくなります。いくら財産をたくわえたところで、それを墓場まで持っていくことはできません。
 長年の問に知り合った親しい人びとはもちろん、妻あるいは夫や子供とも必ず別れなければならない。
 それだけではありません。つらい目、苦しい思いをしながら得た数多くの経験は、死んだとたんに無に帰してしまう。一所懸命に勉強してようやく身につけた知識や生活の智恵なども、息が絶えると同時にすべて消え失せてしまいます。
 人間の一生なんで、まことに「骨折り損のくたびれ儲け」以外の何ものでもない、という思いにもなるでしょう。
 ところが、仏教が説くところによれば、何度死んでもそのたびに生まれ変わって魂は永続するのだといいます。そこで、さきほどお話ししました国際会議の通訳の女性などは、生まれ変わるたびに知識を増やし、勘を磨いていやが上にも立派な通訳になれると仏教に期待を寄せたのでしょう。
 彼女でなくとも、私たちが輪廻転生する存在だとすれば、前途に希望を見いだす人は多いに違いありません。(pp.39-41)



  3.自分の積み重ねた「業」の結果が現在

 なぜ、私たちはこうして六道を輪廻しなくてはならないのか。それは、一人ひとりの魂が持つ業(ごう)のためであるとされています。
 この業とは、意志や行為、行動の総称です。よく「身口意の三業」というのですが、体と口と心で行う所作のすべてが業となります。
 業は、後に何らかの報いをもたらす潜在的な力「業力」を持つといわれ、前世に積んだ業は、現世でその報いを受けます。体と口と心の所作が悪ければ、当然好ましくない結果を招くことになり、人を傷つけるだけでなく、自分をも傷つけるのです。
 仏教では、すべての物事は「因果の法則」に支配されていると説きます。因果とは、原因と結果の関係を表わす言葉で、物事には必ず原因があり、その原因に応じた結果が出るという意味です。善因善果、悪因悪果といって、善い行いは善い結果を生み、悪い行いは悪い結果を生むというわけです。
 「人間は、この世に生まれたときは皆、けがれがなく純真です。社会の悪に染まるから、ひねくれていくのですよ」という人がいますが、私は、そうではないと思います。
 卑近な例で申しますと、同じ親から生まれた兄弟姉妹でも、生まれながらに性格のとてもいい子がいる反面、ひねくれた子供もいます。それは、やはり業というものを前提に考えなければ理解できないことです。
 要するに、私たちそれぞれが過去のいくつもの生、「過去世」で積み重ねた行いが、今生(この世に生きている間)に結果となって、さまざまな形で現れるわけですね。
 そして、死んだあと、どの世界に生まれるかば、今生の行為(業)によって決まるのです。
 あらっぽくいえば、私たちが餓鬼でもなく畜生でもなく、こうして人間に生まれたということは、前世で少なくとも極悪非道なふるまいはしなかったということでしょう。そういう意味では喜ばしいことです。
 また、今生で善い行いを積み重ねれば、次に生まれ変わったときは、人間か天人になれるでしょう。逆に悪いことをすれば、畜生か餓鬼道、地獄に落ちる可能性も十分にあります。
 善いことをすればするほど、より楽しい幸せな世界へ生まれ変わることができ、反対に悪事を重ねれば重ねるほど、より苦しみの多い不幸な世界へ生まれ変わらねばなりません。
 つまるところ、輪廻転生のはてしない連鎖は、神仏のなす業ではなくて、「自業自得」という言葉もあるように、ほかならぬ自分自身の業の力が働いてなるのです。
 そうなると、自分の悲運に対して、だれかを恨むこともできません。何事も過去における自分の積み重ねた業が、自らの現在をつくっている、というのですから。
 「こんなもの、ただのお話にすぎない」といってしまえば、それまでです。死後の世界があるかないかは証明できませんし、証明できないからといって、そんなものはないといい切ることもできません。
 考えようによっては、死んだら終わりではなく、来世があるのだから、今は次の生まれ変わりのための準備だと解釈することもできましょう。
 古来インドの社会通念だった輪廻転生の思想は、人びとに善業をできるだけ積んで、未来にその善果を得るようにしなさい、と教えました。つまりは人徳の向上をすすめるための良識だったのです。
 私は仏教徒ですから、輪廻転生を信じています。人間に「煩悩」があるかぎり、人は死んだら六道のどこかへ生まれ変わるのだと思っています。(pp.46-49)



  4.阿弥陀さまとお釈迦さまは何が違うのか

 しかし、私たち凡人は、お釈迦さまのように煩悩を自ら断ち切ることはできません。煩悩にまみれて生きるのが人間です。たとえ、どんなに善い行いを積み重ねたとしでも、煩悩があるかぎり、輪廻の迷いの世堺から逃れることはできません。だからこそ、阿弥陀仏の救いが必要なのです。
 仏教には、さとりの仏教ともいえる聖道門と、救いの仏教である浄土門があります。
 聖道門は、「自力」の教えです。天台宗や真言宗、禅宗などのように、厳しい修行に耐え、精進を重ねて、自分の力でさとりの境地をめざす道です。
 浄土門は、浄土宗や私たち浄土真宗の「他力」の教えで、人間というのは、さとりを開くほどの力はないのだから、自力を捨てて、阿弥陀仏の救いにすべてをゆだねるというものです。
 阿弥陀仏とお釈迦さまを混同している人もいるようですが、まったく別の仏です。阿弥陀さまというのは、「本師本仏」といわれ、大宇宙におられる無数の仏の先生です。
 この地球上で、さとりを得られたのはお釈迦さまただお一人ですから、「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」といわれていますが、大宇宙には大日如来や薬師如来、阿閦如来など、「ガンジス河の砂の数ほど」の仏がおられると説かれています。そのすべての仏が師として仰いでいるのが、阿弥陀さまなのです。
 阿弥陀さまは、その昔、法蔵という名の菩薩(さとりを開いた者を如来と呼ぶのに対して、修行者を菩薩と呼ぶ)で、さとりを求めて修行をしていました。
 すべての人間は、煩悩によって苦しみ続けている。欲するものがなければないで苦しみ、あればあったで苦しむ。さとりを得ることができなければ、その苦悩から逃れることはできず、迷いの世界を輪廻し続けるしかない……。
 法蔵菩薩は、煩悩まみれの私たち凡人を眺めて不憫に感じ、どうにかして救わずにはおれない、と思い立たれたのです。
 そして、一人も漏らさず、きっと救ってやるという願いを抱いて、五劫という年月の修行のあと、仏になられました。
 ひとことで「五劫」といいますが、「一劫」とは――とても大きな岩があって、天女が三年に一度きて、薄い軽やかな羽衣ですうっと岩をなでていく。そうして、その岩が天女の羽衣で擦れてなくなってしまう、という年月をいうのだそうです。五劫は、その五倍です。
 そんな気の遠くなるほどの長い歳月をかけて、法蔵菩薩は修行を重ねられ、ついにさとりを開かれました。
 法蔵菩薩の願いは四十八ヵ条にわたるので四十八願と呼ばれていますが、その願いはすべて成就されて、阿弥陀仏という仏の位を得ました。
 仏になると自分の国「仏国土」を持ちます。たとえば大日如来の密厳浄土や薬師如来の東方浄瑠璃世界など、さまざまありますが、阿弥陀さまの国は、「極楽浄土」と呼ばれることになりました。
 「極楽」は、サンスクリット語で「スクハーグァティー」といって、苦しみのまったくない幸せに満ちたところ、という意味です。
 四十八願のうちもっとも重要だといわれている第十八願では、「ひたすら阿弥陀仏を信じ、この達成された四十八願の力を頼りとして、極楽に生まれることを願った者には、きっとその望みをかなえよう」と約束されています。
 どんな人間も、阿弥陀さまの本願をいちずに信じれば、お約束通りに救われて、死後は極楽往生(極楽に往って生まれ変わること)ができる、とされています。(pp.56-59)



  5.なぜ浄土真宗には修行がないのか

 仏教といえば、坐禅とか滝行とか回峰行とか、さまざまな修行があります。たとえば        禅宗のお寺へ行くと、庭がきれいに掃き清められていますね。それは毎朝早く起きて、庭を掃き、廊下を雑巾がけして……といった修行が数多くあるからです。
 しかし、浄土真宗にかぎっては、修行が一切ありません。修行というのは自力に頼る行いである、とみなしているからです。
 ただひたすら阿弥陀さまの本願力を信じることが唯一にして、最善。浄土真宗には、「信心獲得」という言葉があって、信心を得る、信心を持つということがすべてなのです。
 法然上人は、「南無阿弥陀仏」ととなえたら救われる、と説かれました。念仏を仏にさしあげるのだ、と。
 それに対して親鸞聖人は、念仏の功徳(よい果報をもたらすような善行)によって極楽浄土に生まれるのであれば、それは自力による修行ともいえるのではないか……と考えられました。
 そして、いや、そうではなく、すべては阿弥陀さまから頂戴するのだ、信心ですら阿弥陀さまより授かるのだ、と徹底して阿弥陀さまの救いの力に頼るという信心の道を説かれたのです。これが一切の自力を捨てるという、「絶対他力」の教えです。
 浄土真宗では、「信後念仏」といって、まず信仰があって、そのあとに念仏があります。信心を持つことで極楽往生が決まり、決まったあとで、その喜びを口に出して「南無阿弥陀仏」ととなえる。私たちの「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀さま、救ってください」ではなくて、「阿弥陀さま、救ってくださって、ありがとうございます」という感謝の言葉なのです。(pp.62-63)



  6.死後が救われれば、この世でも幸せになれる

 仏教というのは死後のことだけを説いて、この世を否定していると考えている人が多いようですけれど、決してそうではありません。
 『教行信証』には、真実の信心を得た者は、現世で十種の利益を必ず得られると書かれています。
 一つには、目に見えない梵天や帝釈天、四天王など諸天神が常に守ってくださる(冥衆護持の益)
 二つには、この上ない功徳が身についてくる(至徳具足の益)
 三つには、前にもふれたように、悪いことが善いことに転換される(転悪成善の益)
 四つには、阿弥陀仏はもちろん、ガンジス河の砂の数ほどあるといわれている諸仏が、そろって信心がなくならないように守ってくださる(諸仏護念の益)
 五つには、ガンジス河の砂の数ほどある諸仏が、はめたたえてくださる(諸仏称讃の益)
 六つには、阿弥陀仏の光明につつまれて、常に守っていただける(心光常護の益)
 七つには、心が喜びでいっぱいになる(心多歓喜の益)
 八つには、そういう喜びを与えてくださった仏のお慈悲に対して恩返しをしたいと思わずにはいられなくなる(知恩報徳の益)
 九つには、自分と同じようにほかの人たちも信心を得られるようお手伝いさせていただくことができる(常行大悲の益)
 最後の十は、いつ死んでも極楽浄土へ往生できる「正定聚」の仲間に入ることができる(入正定聚の益)
 これは、親鸞聖人が、浄土真宗の七高僧の一人、唐の善導大師の教えを引用したものですが、後生(死んでから後)が助かるということは、そのまま今生が助かることにつながるわけですね。(pp.154-155)



  7.死後の世界に目を向ければ、人生はより豊かになる

 蓮如上人は、信仰を得た者は現世利益と来世利益の二益を得ることができる、とはっきり謳いました。『御文』には、こんなたとえ話があります。
 われわれ浄土真宗の信仰を得た者は、稲を得たようなものだ。現世のことばかりを追求している者は藁を得ただけである。稲を得たら、藁は自然と手に入る。藁ばかり求めるのは、実にばかばかしいことだ――と。
 他力本願の信仰が身につけば、現世利益は自然にやってくるというのが蓮如の教えで す。前にお話ししたように、蓮如自身、逆境のなかで他力の信心を得て、現世で大成功をおさめています。
 他力の教えというのは、今生きているこの世と、この世の中をつつんでいるもっと大きな世界、つまり死後の世界にふれることで、自力の教えで生きている人よりも、より広く大きく生きることができるというものです。
 興味深いことに、キリスト教の聖書にも、次のような有名な一節があります。
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の生命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の生命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(『ヨハネによる福音書』12章24~25節)
 一粒の麦が死ななければ一粒のままで終わってしまうけれど、死ぬことによって多くの実を結ぶ、つまり多くの生となる。自分の生に執着すると、その生自体をなくすが、生に執着しなければ、かえって永遠の生を得る、と説いています。
 私流に申しますと、人生の成功や安泰を最終目的として、それに固執するよりも、死後の世界、つまり永遠の生命、魂というものに目を向けることによって、かえってその人生、現世をも充実したものにすることができる、ということだと思います。(pp.156-157)



  8.くよくよ思い悩んでいると幸福はやってこない

 私はときどき、過去の不始末を思い出して、大いに悔やむことがありました。
 「あのときはとんでもない悪いことをした」という気持ちになりだすと、もういても立ってもいられなくなる。といって、すぎてしまったことはどうすることもできない。そう思うと、後悔の念はいよいよ激しくなって私を責め立て、いく晩も眠れないことがありました。
 そんなあるとき、『御文』に書かれている言葉が突然、頭に浮かんだのです。
 「我身の罪の探き事をばうちすて、仏にまかせまひらせて……」
 懺悔のあとはいつまでも思い煩わず、罪悪感を捨ててしまって、阿弥陀さまにすべでをお任せすることだ、と。
 私は、稲妻が体を通り抜けるような衝撃を受けました。
 浄土真宗では、私たちが罪深いことを繰り返し教えます。それから、仏の救いも教えます。
 しかし、その中間にあるこの言葉を、案外見すごしてしまうことが多いのです。私もそれまで何度も読みもし、聞きもしてきた言葉なのに、頭の上を通りすぎてしまっていました。確かに何でもないような一句ですが、これこそがポイントだと気づきました。
 世の中には、いつも人に迷惑をかけながら、それをいささかも気にしない人がいます。困ったものですね。自分の罪を反省し、懺悔の心を起こさないかぎりは、仏法に出会うことはできないでしょう。
 そうかといって、自分のあやまちをいちいちくよくよ思い悩んでいても、やはり仏法にはふれがたい。いたずらに自己卑下して臆病になるのも、仏の心に添うことにはなりません。
 蓮如上人は、何度も繰り返し、自分の罪にこだわる心を一刻も早く捨てて、仏の救いに身を任せるようにすすめています。過去の罪はいくら悔いでも決してつぐない切れるものではない、そんな思いはすべてかなぐり捨てて、仏にお任せすればよろしい、と。
 そして、ひとたび信仰の喜びを得たなら、仏の恩をありがたく思い、人びとから受けた恩を喜び、また人びとに恩を与える喜びに生きることのほうが、はるかに幸せなのだ、と説かれているのです。(pp.160-162)



   9.意識して呼吸をすると心が軽くなる

 端坐でもっとも重要なのは、呼吸です。
 「呼気」は、自分を投げ出すということです。フーと自分のなかのものを十分に吐き出してしまう。それは自分を捨てること、つまりは「自力」をなくすことです。
 水泳にたとえてお話ししたことがありますが、自分の力で泳いでやるぞと力めば力むほど、体は沈んでいく。水に自分の身をゆだね、外の世界に自分をほうり出すことによってしか泳ぐことはできません。呼気というのは、それに当たります。
 呼気をフランス語でエクスビラシオン(expiration)といいますが、エクス ex というのは、外へ出すという意味です。動詞はエクスピレ(expirer)で、これには死ぬという意味があります。
 非常に象徴的だと思うのですが、吐き出す、自分を捨てる、自分を死なしてしまう、それがエクスビラシオンです。
 西洋式の深呼吸ですと、息をスーと吸ってからフーと吐く。でも、坐禅や端坐のときは、まず吐きます。最初に自分を捨てるわけですね。
 次が「吸気」です。十分吐いて自分を捨て切ってしまったところで、今度は自然に外のものがスーと入ってくる。「他力」を体のなかに受け入れるわけです。
 自分を捨てて、外のものを体に入れる。これをフランス語でアンスピレ(inspirer)といいます。名詞はアンスビラシオン(inspiration)、英語でいうインスピレーションです。インスピレーションとは突然のひらめき、霊感です。私流にいえば、信仰の喜びです。
 生きていくためには食べることも眠ることも必要ですが、一番大事なのは息をすることでしょう。生きるということの本体みたいなものだと私は思います。
 いわば、「生きる」ことは「息する」ことなのです。
 その息は、今申しましたように、呼気と吸気の繰り返しです。自分を投げ出して、他力を受け入れる。つまり、私が阿弥陀仏と一体になることです。
 えらい突飛なことをいうとお思いかもしれませんが、私はそう感じております。
 私たちは無意識に呼吸をしています。要するに、知らず知らずのうちに、小さい我を吐き出して、大きな仏の命を体に受け入れている。仏の教えに従っているのです。
 仏というのがしっくりこなければ、大宇宙を貫く天地自然の法則とでも考えてください。まったく同じとはいえませんが、とりあえず、そういうことにしておきましょう。
 いつも息をしているということに意識を持ったら、かえっておかしいことになりますけれど、時たま、そのことをはっきりと認識するだけでも、心は軽くなっていくと思います。
 そういう意味でも、たまに端坐してみることをおすすめします。
 何もしないで、ただ坐っているのは、時間の無駄だと思われるかもしれませんが、多忙な現代人には、とにかく自分の仕事や雑事を忘れるひとときを持つことが必要です。
 しばらくの間、静かな場所に身を置いて端坐することで、煩悩にまみれた日常の自分から解放されましょう。自分自身からも解き放たれるのが、最大の、そして本当の自由です。(pp.171-173)



  10.おごり高ぶると、必ずしっぺ返しがくる

 現代は、「個」や「我」の強い、まさに自力本位の時代であるといえましょう。
 かつては、「人間の力ではどうしようもないことがある」と思いながら暮らしていく生き方がありました。そういう生き方、つまり「他力」とともに生きる生活を忘れてしまったわけですね。
 西洋でも中世以前は、神や自然という大きな存在のなかに自分は生かされているという世界観がありました。
 それがルネッサンスをきっかけに、人間をやみくもに礼賛する人間中心主義や合理主義、個人主義へと大きく傾いて、人間があたかも神に代わる絶対者のような存在に成り上がってしまった。
 礼賛された知性を人間はフルに使って、科学のあらゆる分野で驚異的な進歩を遂げ、今、私たちはその恩恵にあずかっています。もちろん、これは深く感謝すべきことです。
 しかし、人間はどんなことでもできる、などと思い上がってはいけない。人間は、自分の意志と力で生き続け、理性と知性を働かせれば、どんなことでもなし得ると思うのは、ただの錯覚にすぎません。
 分子生物学者の村上和雄さん(筑波大学名誉教授)は、ヒトの遺伝子暗号の解読をしながら、ふと気づかれたといいます。
 遺伝子暗号を読む技術もすごいけれど、もっとすごいことがある。当たり前だけれど、「読む」前に「書いてある」。だれが書いたのか。人間ではない。これだけ精巧な生命の設計図を人間が書けるわけがない――と。
 ヒトの遺伝子暗号は、約三十二億の科学の文字で書かれているそうです。これは本にすると、一ページ千字で、千ページある大百科事典にして、計三千二百冊分にもなるといいます。
 成人の人間は約六十兆個もの細胞から成り立っていて、その一つひとつの細胞のなかの核にあるDNAの重さはわずか一グラムの二千億分の一、その幅は一ミリメートルの五十万分の一にすぎない。そんなごく微小の空間に、それほど膨大な情報が書きこまれていて、その情報によって私たちの生命は形づくられ維持されている。
 それらの事実を目の当たりにして、村上教授は、よくわからないけれど不思議な自然の働きがあると考えざるを得なくなり、その人智を超えた働きを、「偉大な何ものか」という意味で「サムシング・グレート」と名づけられました。
 その存在に気づかされたとき、
 「私が小さいころから聞いていた神様の話と、科学の世界でやってきたことが無理なく交じり合い、共存共鳴するようになりました。ちょっとかっこよくいえば、遺伝子の暗号のなかに神のはたらきを見たわけです」
 と著書のなかで明言されています。
 人間の意志や知性のとうてい及ばない、他の力が私たち人間に働きかけているということ、また人間のできることが限定的であることを、今日の科学を切り開いてきた科学者がすでに認識しているのです。
 それを忘れて人間がおごり高ぶり、あまりに無謀なふるまいをすると、必ず自然からしっぺ返しがくるでしょう。自力に固執すれば、人間は苦海でもがきながら間違いなく沈んでしまいます。(pp.174-177)



  11.知性より感性こそが人生を左右する

 私は、日本人が近代の西洋思想の影響を受けて、いよいよ幸福から遠ざかっている気がしてなりません。
 もともと日本人には、花鳥風月を愛でる感性がありました。西洋では人間にとって自然は対峙するもの、征服する対象として考えるので、同じ自然のなかにいながら、感覚がまるで違います。
 いつだったか、アメリカ人と食事をしていたときに庭で秋の虫たちがいい声で鳴いていたら、彼はうるさい、やかましい、といいました。アメリカ人にとって虫の声は雑音でしかないわけです。鳥や虫の声を愛でる、という感性がない。西洋には花見や月見などという文化もありません。
 花鳥風月を楽しむという日本の文化は、さかのぼれば『古事記』『日本書紀』にもあります。『古事記』は七一二年に編さんされましたが、日本人はそのずっと前から自然を愛し、自然と人間とが融け合った世界に暮らしでいたのです。
 お釈迦さまは、すべてのものは移り変わる、人生は苦しいのだ、「諸行無常一切皆苦」と割り切られましたが、仏教が日本に伝わると、日本人は花が散りゆくときのように、生あるものが消え去るところに儚さと美を感じ取るという境地に達します。
 つまり、「もののあわれ」を感じる美意識とともに、あるがままの現実を受け入れるしなやかさがありました。
 知性や理性が偏重されるにつれて、日本人の感性は鈍ってきた気がしますが、感性こそが人間の幸福を左右するのです。
 たとえば私は、花鳥風月もさることながら、音楽を聴いても「ああ、いいな」と思う。それが、いつごろだれによってつくられた曲なのか、などと考えません。ただ 「ああ、いいな」と感じる。それが大事なのです。
 そのとき、本来の自分が出てきます。感動したときにこそ、いつもは知性や理性で抑えつけて無理やり閉じこめている自分というものが出てくる。それが幸せであり、自分自身が救われるわけです。
 信仰も同じです。自力に国執せず他力を頼むとき、手放しで感動することができます。「子供が親に飛びつくときの感動」と私はたとえることがありますが、そこには何の邪心も打算もない。信心を得るのに、知性や知識などは必要ありません。
 ただ、感性さえあればいい。感性のみが、仏や神の声を聞くことができるのです。(pp.177-179)



  12.「ありがたい」と思うだけで幸せは生まれる

 私たち現代人の不幸の一つは、豊かさを感じる能力が薄れていることでしょう。
 今、私たちは人類の歴史上かつてない素晴らしい文明の恩恵に浴しています。生活のすべての面で、毎日のように新しい文明の分け前にあずかっているわけです。
 しかし、その分け前を貧ることに夢中になって、それらを一つひとつ賞味するいとまもなくなってしまっています。
 仏教では、激しく執着してやむことがないことを渇愛といい、喉が渇いたときに塩水を飲むようなもので、飲めば飲むほど渇きが増すのだと述べましたが、まさにその通りです。私たちは豊かになればなるほど貧欲になり、その欲を満たすことが生き甲斐になって、手にしたものの価値を感じ取る能力が弱まってきたのです。
 何十年か前までは、「行き倒れ」といって、食べるものがなくで道ばたで死ぬ人がいました。私は戦中、戦後、空腹のまま寝なければならないというつらさを味わいました。雑草でも何でも食べられるものは食べましたけど、それでも腹いっぱいにならず、ひもじくて眠れませんでした。昭和初期まで日本にも飢饉があったといいます。飢えて死ぬというのは、どれほどつらいことだったか……。
 今でも、世界では一日に四万人が餓死しているといいます。
 それなのに、日本人は腹いっぱい食べるだけでは満足せず、もっとおいしいもの、もっと珍しいものをと求め続けて、さらには食べ物を捨てている。家庭から出される残飯もふくめて食品廃棄量は世界でもワーストレベルで、本来食べられるのに捨てている食品の年間総量は、世界全体の食糧援助量の約二倍に匹敵するという。これは猛省しなければいけません。
 食べるものも、電気・水道・ガスも、今、有るものは、有り難いもの――有ることが難しいものなのです。
 有るのが当たり前ではなく、それが有り難いものだとわかれば、それだけでも幸福は生まれると思います。(pp.179-181)



  13.人間は偶然の連続で生きている

 人間というものは、偶然の連続で生きでいるんだ」
 これはある人がいった言葉なのですが、私もしみじみそう思います。
 死というものは、いつやってくるかわかりません。いつ何時、大きな地震が起こるかもしれないし、火事が起きて逃げ切れないかもしれない。どれだけ用心していでも、交通事故に巻きこまれるかもしれないし、殺人事件の被害者にならないともかぎらない。
 事件や事故はまぬがれでも、突然、心臓がパタッと止まるかもしれません。
 私たちは、そういうことのない偶然の連続で生きて、いつか必ず死ぬわけです。
 ところが今は、必然のこととして生きて、偶然死ぬんだ、と勘違いしている人のほうが圧倒的に多いようですね。
 「○○さんに万一のことがありましたら」とよくいわれますが、死は万が万あるのです。死ぬことは必然だけれども、生きている瞬間、瞬間は偶然なわけです。
 『法句経』という経典にも、「ひとの生をうくるはかたく やがて死すべきものの いま生命あるはありがたし」とあります。
 本来、人間というのは、生きるか死ぬかの狭間をずっとさまよっているのです。私たちが今、生きているというのは、奇跡的に死なずに済んでいるだけです。怠け者だから死んで、努力家だから生きている、というわけでもないでしょう。
 たまたま、「生」を得られている。生きさせてもらっている、つまり生かされているということです。
 生きていくのが困難だった時代は、そういう意識が濃厚だったと思います。ですから「ありがたや」という言葉も生まれたのでしょうが、今はたいていの人が生きているのを当たり前のように思っています。
 しかし、そう考えているかぎり、いつまでたっても真の幸福はやってきません。生きているのではなく、生かされている、という自覚を持つことが、私は幸せの始まりだと思います。(pp.184-186)



  14.困難に直面したら「仏に問われている」と考えよ

 最近、私は、「他力」というのは、未来から私たちに働きかけてくる力だと思うようになりました。
 自分のした行為によって自分の行き先が決まっていくという輪廻転生の思想は、悪くいえば、宿命論というか運命論です。しかし、過去世から積み重ねてきた悪業は、今後どんな悪果をもたらすのか、私たちは予想することができません。
 この世で犯したあやまちなら、自ら正すこともできますが、過去世でどのような業を犯したか、私たちはとうてい知ることができません。今、自分の置かれている境遇は、自分が積んできた業のせいなのだといわれでも、現在までに過去の業の結果のすべてが出尽くしているのかどうか、わかりません。将来、今よりも悲惨な境遇が待ち受けていないと、どうしていえましょう。
 それを思うと、暗澹たる気持ちになりませんか。私など、自分の業に羽交い締めにされているような気がします。
 実にこの世はつらくて、ままならない。それがすべて自らの悪業のしわざなのだと決めつけられたら、もはや絶望以外の何ものでもなくなってしまいます。生きていく希望がなくなるではありませんか。
 「他力」という教えは、そもそもこの絶望感を克服しようとして生まれたものではなかったのか――。こんなことは親鸞聖人も蓮如上人も、どなたもおっしゃっていませんが、私はそんなふうに感じるのです。
 自分の業によって過去から現在に押し寄せてくるものすごい力と、まったく違うところからやってくる他力というものがある。あえていえば、他力は未来から私たちに働きかけてくる力です。この「未来力」は、私たちをよりよく生きる方向、絶対の幸福へと引っ張っていこうとしているに違いない、というふうに思えてきたのです。
 他力という未来からくる力にはよいこともあれば、私たちには不幸や災いと思えるものもあるのです。生きるというのは、まさに海を泳いでいるようなもので、泳いでいたら波が向こうから自分におおいかぶさってくる。災いの波はなんとか避けたいし、いい波がきたらそれに乗りたい。いってみれば、人生は他力とのつき合いということになりましょう。
 繰り返すようですが、これは知性や理性の問題ではなく、感性の問題です。五感を研ぎ澄ませて、常に未来から働きかけてくる力に対していつも敏感でなければいけない。
 その他力のなかに仏の本願というもの、人間を救ってやりたいという慈愛がふくまれているということを感じ取る。
 つまり、恩を感じるということです。ああ、うれしい、頂戴します、ありがとう! という気持ちがわいてこなければいけません。
 人びとは神仏に、「この難題をどうにかうまく解決できるよう、お願いします」とせがんだり、「悩んでいます。どうすればいいのか、教えてください」と答えを求めたりするでしょう。
 私は、それは間違いだと思います。人間が仏に問うて、仏が人間に答えるのではないのです。仏が、人間に問うてくる。答えを、仏が私たちに求めているのだと思います。
 仏さまはお慈悲で何でも教えてくださるけれども、ただ答えを教えて、それを鵜呑みにさせていたら、人間はいつまでたっても成熟しない。だからときには厳しい試練も与えて、あなたならどうしますか? と問いを投げかけている。
 そうして私たち一人ひとりに、この世に生まれて、この世を生きている、その人生の意義を発見させながら、絶対の幸福へと導いているのではないか、と思います。
 私は、皆さんに、仏教の信者にはなかなかなれなくても、「仏法の人」になってほしい。つまり仏の教えを学んで、それにもとづくような大らかな人生を送っていただきたい、と願っています。
 そこにはいつも、尽きることのない仏の愛につつまれているという喜びと安らぎが、きっとあると思うのです。(pp.190-194)

    (大谷暢順『人間は死んでもまた生き続ける』幻冬舎、2015、より)





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                                [参考資料 No.18]  (2018.11.12 )
      「あの世」をめぐる対話 


 『死ぬことが怖くなくなるたったひとつの方法』(徳間書店、2012年)という本がある。思い切ったタイトルの本だが、これは矢作直樹氏と坂本政道氏との共著で、サブタイトルは『「あの世」をめぐる対話』となっている。その一部は、すでに「学びの栞」(B)のなかでも取り上げてきた。このタイトルで両氏が対談したのであれば、その内容がどういうものになるか容易に推測できるが、全体像をよりよく把握するために、その要点を以下に、引用しておきたい。
 はじめに、自己紹介を兼ねて、坂本氏がこう述べている。

 《はじめまして、坂本政道です。よろしくお願いします。二〇一一年八月に矢作さんは現役の東京大学の教授でいらっしゃるにもかかわらず、『人は死なない』(バジリコ刊)というすごいタイトルの本を出されましたね。私は立場上、違和感なく受け取りましたが、世の中のほとんどの方が「東大教授が何かとんでもないことを言っているぞ」と驚かれているのではないでしょうか。霊魂の話がたくさん出てきますから……。
 そこで、私自身は 『死後体験』シリーズ(ハート出版)をはじめ、死後に関する著書をたくさん書かせていただいていますし、せっかくの機会ですから、本書は全体趣旨として、やはり「死」というものを考える、そして一般的にはその対極に位置すると思われている「生」というものも併せて考える本にしたらいいのでは、と提案します。「死」について、矢作さんと徹底的に、真摯に話したいと思っています。
 「死」は誰にとっても共通項です。にもかかわらず、世の中には、まだ「死」というテーマに対するタブーが根強くありますから、いい意味でそれを破りたいと思うわけです。
 日本では現在、年間で約一二〇万人が死んでいます。大都市一個分くらいが毎年死んでいるわけです。出生率はなかなか回復しませんし、他国と違って移民政策もありませんから、日本の人口は着実に減っています。今後は急激に減少するでしょう。
 世界の人口は七〇億人を突破したそうですが、それでも毎年二億人は死んでいるはずです。世界的に見ると平均寿命が五〇歳くらいでしょうか。
 この「毎年二億人が死んでいる」という数字のスケール感はすごいです。日本の人口分くらいが、毎年毎年、地上から消えているわけですから。二〇一一年に起きた東日本大震災でも二万人前後の方々が死亡、もしくは行方不明になりました。
 そしてあの大震災で、皆感じたと思います。「死の問題は他人事ではない、実はすごく身近な問題なのだ」と。本当は常日ごろから、真剣に考えなければならないテーマです。
 よく考えるとすごく不思議です。ギリシャ時代から今日まで、昔も今も変わっていないというか、全然進歩していないわけです、死に対する人類の考えというのは。
 ギリシャ時代は科学の芽が次々と出現しました。分子だとか原子だとかの話もみんなあるし、その流れはずっと今日まで続き、さまざまなテクノロジーが発達し、いろいろな実験が繰り返されました。すべては自由な発想で実験を繰り返したからこそ、現代科学はギリシャ時代の科学から飛躍的に発展したわけで、数々の実験結果を得たことで「理論」を作ることができた、だからこそ物理とか化学とか医学が発展したのです。
 ところが、死というものについては実験できません。再現性が成立しない。
 だからいつまで経ってもギリシャ時代と同じことを、延々と議論し続けているわけです。死を超えて「向こうまで行く」という実験が可能なら、その分野の科学というものが飛躍的に進歩できたはずです。それは、私の専門であるヘミシンクで「体験」はできますが・・・・・。》(pp.14-16)

 この坂本政道氏は、東京大学理学部物理学科を卒業後、カナダのトロント大学大学院で電子工学を学んだ。ご本人が言っているように、カチカチの唯物論者であったが、36歳の時に体外離脱を体験して、価値観が一変した。いまでは、ヘミシングによる霊界探訪で、多くの業績を残している。これに対して、対話相手の矢作氏は、すでによく知られているように、東京大学医学部教授で、附属病院集中治療部部長である。坂本氏に次いで、こう切り出している。

 《矢作直樹です。今回はこちらこそよろしくお願いいたします。私も今回、坂本さんと「死」というものについて語ることに賛成です。
 医療の分野、特に私が携わっている救急医療の現場では、「死」についてお話しすることが以前より一般的になってきてはいます。
 ただ実際は、本当に死に直面するまで、一般の人が死について話したり、考えたりすることは、なかなかないのではないでしょうか。タブーな話として避けているように思います。
 日本人が死を身近に考えなくなった理由には、大きく二つあると思います。
 一つは自宅での臨終が激減したということです。
 私が生まれた昭和三〇年から三一年にかけてだと、一般の方の四分の三が自宅で亡くなっています。ところが今は自宅で亡くなる方が全体の一〇%台。そもそも自宅で亡くなる方が減ったことで、死を身近に目にしなくなったのです。
 もう一つは、核家族が増えたということでしょう。
 私が生まれたころ、あるいは幼少の時代というのは三世代同居が全国で見られました。全世帯数のうち、どのくらいのシェアを占めるのかはわかりませんが、祖父母と父母と兄弟姉妹という三世代が一緒に暮らす光景は、日本では普通でした。
 それが高度成長期やオイルショック、八〇年代後半のバブル期と九〇年代の経済暗黒時代を経て、日本では核家族が主流となりました。
 現在では三世代同居されている方は稀だと思います。だから、自分のおじいちゃんやおばあちゃんが亡くなる場面を見ないわけです。
 こういう構造的に縁遠くなってしまったものは、理屈というか理念というか、想像で理解することに、限界があるのかもしれません。
 これはまったくの私見ですが、若い人はある一定期間、老人ホームでボランティアするとか、何かそういうのでもやったらどうなのかな、と考えたりもします。
 ドイツのある町ではそういう仕組みがあるそうです。老人ホームや保育園や学校や病院を、いわばモールみたいにしてお互いが「見える関係」にした町をつくっているそうです。
 町を人工的につくるのが、果たしていいのかどうかという議論は別にして、何かそういった「生活の中に、人の一生(生き死に)を見られる」仕組みを入れるといいと思っています。》(pp.16-18)

 このあと、両氏の対話が続く。本文は247頁になっているが、その中から、要点だけを取り上げていきたい。文頭の番号(1~12)は、便宜上、私が付けたものである。


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 1.私はヘミシンクというものを日本に紹介しています。アメリカにモンロー研究所という研究機問がありますが、ここは手短に言うと「生きているうちに死後の世界を体験しょう」というテーマで運営されている機関です。
 ヘミシンクを簡単に説明すると、これは同研究所を創ったロバート・モンロー氏が開発したバイノーラルビートという音響技術に基づく「あの世を経験できる音」であり、そういう超常現象を体験するための滞在型プログラムを、モンロー研究所では提供しています。
 実は末期がんの方とか、いわゆる終末期の方のために作られたヘミシンクCDもあります。『ゴーイング・ホーム』と言います。人間が死んだ後、どこに還っていくのかを体験するCDです。それを聞く人は自分が死ぬ事実を受け入れていなくてはなりませんし、それは大半の方にとっては抵抗があるでしょう。ですから誰にでも気軽にお勧めはしません。
 しかし死という現実を自分自身で受け入れた人は、向こうに行く練習をしておくといいわけで、生きているうちにそのCDを聞いておこうという方も増えています。
 創設者であるロバート・モンローは普通のビジネスマンでした。ラジオ番組を制作する番組制作会社を経営していました。業界ではちょっとした有名人だったそうです。ラジオでヒットするようなクイズショーとか、いろいろな番組を作っていて、すごく忙しかったらしいです。忙しい時には週に二六本、彼のところで作った番組をいろいろな局でやっていたという話です。
 それが戦後、一九五〇年代くらいですか、睡眠学習を研究しようと思って眠りながら外国語などを勉強する方法を、自分自身を被験者にして開発し始めます。まず初めに眠りを誘導する必要があるということで、音を使った睡眠誘導技術の研究を始めます。
 ところがずっとやっているうちに、そういう音を全然聞いてない時に、普段眠りにつくとか、あるいは昼寝する時に、自分が自分の肉体から抜けるということを経験します。これが一九五八年で、モンローが四二歳の時のことです。最初の体外離脱があって、それから頻繁に体外離脱するようになります。
 その当時、彼は全然そういうのを知らなくて、何かすごく恐怖心に襲われたんですけれども、次第に恐怖心を乗り越えていくと、体外離脱を通していろいろなことを学ぶようになるわけです。死後の世界を探索したり、過去世を探索したり、地球以外のいろいろな惑星に行ったり、別の世界や別の次元に行ったり……。
 その経験で一番大きかったのは、彼自身の価値観が変わったことでした。
 狭い物質世界にとらわれていた価値観から、より大きな、より自由な価値観へと転換したのです。死後世界があるという事実が当たり前になったわけですし、自分にいろいろな過去があるとか、地球に来る前にさまざまな星を転々とした事実とか、高次の意識存在がたくさんいるとか、そういうことを知ってしまったわけです。
 それがモンロー氏自身の価値観をどんどん変えて、より自由な存在になれたことから、他の人にも同じようになってもらいたいと考えたわけです。(坂本)[pp.25-27]


 2.私は大学時代、物理をやっていました。その当時は、世の中のことはすべて物理学で説明がつくと頑なに信じていました。今、出会う人からは皆、信じられないと言われますが、当時はコチコチでした。物質自体とそこから生まれるエネルギーとで、すべての現象の説明がつくはずだと。それがカバーする領域は人間の意識から何から、もうすべての領域だと信じていました。
 ところが、三六歳の時に体外離脱を体験しました。自分が肉体から脱け出すということを体験したのです。それによって価値観が一八〇度回転しました。こういった物質論的な見方は間違いだと知ったのです。自分は肉体ではない、自分は肉体とは独立した存在だとはっきり知ったのです。
 これはかなりショッキングな体験でした。これまでずっと自分が信じてきたことが、そうではないとわかったのですから。
 物質ですべての説明がつくという価値観を今でも保持している人は大勢います。特に医師の中には多いようです。彼らは、自分の知識力で説明がつかないものはオカルトだと決めつけます。
 しかし私も笑えないのです。意識や精神活動すら、脳内現象ですべて論理的な説明がつくはずだと、ある時期までずっと思っていました。
 それは一種の信仰です。科学では説明がつかないこともたくさんあるわけです。科学では扱ってないジャンルがある。一例をあげると、夢を見ること自体、実ははっきりした説明がつきません。脳の作用だとか、記憶の貯蔵庫からファイルが出ているとか、想像しているとか、いろんな「言い訳」はあるけれど、どれもはっきり定義できない。そもそも夢って何なのか?
 自分が夢を見たことを科学的に証明することはできません。しかしみんな夢を見るから、科学的に証明できなくても、それをあり得ない現象とは考えません。みんなが見るからです。もしこれが自分しか見ないなら、あなた夢なんか見て頭がおかしいんじゃないの、正気を失ったんじゃないの、となってしまう。科学的に証明できないし、それ以上に問題となるのは、自分以外の人間が夢を見ないという状況です。
 人間世界の常識って、実はその程度のレベルなのだと思います。
 だから、科学で説明がつかないこと、科学の範疇ではないことがたくさんあります。感情や愛情、あるいは思考もそうです。そういうものは科学の範疇に入っていないものなのに、科学万能主義の人たちはその事実自体を忘れているのです。
 だから結局、科学で説明がつかないことは全部「非科学的」と呼び、おかしいと決めつけるんですよね。体外離脱なんてあり得ない、頭がおかしいというわけです。(坂本)[pp.30-32]


 3.プレアデス星団に所属するある惑星では、皆自分が提供できるサービスを無料で提供しています。それぞれが提供できることって、皆違いますよね。でも、そういう要求が来たら、自分のできることを全力でやるわけです。医師なら、そういう患者さんが来た時に医療技術を全力で提供するわけです。
 それぞれが提供できることを、それぞれが100%の力で提供することによって、すべてのものが無料化されます。
 レストランへ行っても食事はタダ、スーパーへ行っても物は全部自分の必要なだけ取っていいというわけです。無料だったら、別にあえてたくさん持っていく人もいないし、盗人も生まれません。誰も困らないからです。必要な分だけ持って帰り、家で食事を作ればそれでいいわけです。
 その代わり、自分が人から必要とされれば、自分ができることを人にしてあげるという社会システムです。これ、実に素晴らしいと思いませんか? 誰が儲かるのかとか、そういう三次元的なレベルの議論は存在しません。
 それがおそらく、私たち地球人が進むべき次のステージでしょう。(坂本)[pp.128-129]


 4.物がなくても生きていける、十分楽しいという人を見ると、「何だ、いらないんだ」と誰もが容易に理解するはずです。私自身、年を取った親を見た時にそう恩いました。
 私の両親が住んでいたのは普通の一軒家でしたが、父親が亡くなると、残った母親は荷物の一切合切を残したまま、一部屋のスペースでいいと言って、アパートに引っ越しました。そこに収まるものしか持ち込めないのですが、十分幸せそうに過ごしているわけです。
 それを見ていると、あ、いらないんだと感じました。
 今、私たちがなぜこんなに物を追いかけるのかと言うと、坂本さんが言う通り、そこには大きな不安があるのだと思います。不安だから物を追いかける、でも満たされないからさらに追いかける、しかしそれでも満たされません。
 私がここで言う不安というのは「自分は生き残れないのではないか」という心理です。
 つまり「死の不安」が根っこにあるわけです。
 死の不安から解放されると、根本的な不安が心から消えますから、もう物を追いかける必要がなくなります。
 死後の世界とこちら側の世界を隔てているベール、というかその二つを分けて考える意識の壁が薄くなり、死への恐れがなくなるということはすごいことであり、死の恐れがなくなった途端、人間はあらゆる不安から解放されるのではないでしょうか。本当の意味で自由になります。
 すると、自分の周囲を物で固める必要なんてないのだと、気がつくわけです。
 それを手放せるというか、死後の世界と境が薄くなり、死というものに対する恐怖がなくなるということは、とてつもなく大きなインパクトがあり、それによっていろいろな呪縛から人間は自由になります。
 お金や物質に執着し、必死になって追いかけなくてもいいわけです。そういう方向に、どうも日本は向かっているような感じがします。
 右肩上がりの経済成長というか、どこまでもそういう方向を目指すような価値観では、どう考えても、この先は生きていけません。
 少しずつ、経済的には小さくなるかもしれません。
 でも、十分すぎるほど馬鹿騒ぎしたと思います。日本は大きな戦争でたくさんの人を死なせたし、戦後の経済復興も果たせたし、狂乱的なバブルも経験したし、その崩壊でいろいろと勉強もしたし、今は今で混沌として先が見えないという状況を経験させてもらっているわけですから、もう十分でしょう。
 心の部分で幸せや安寧を得る方向に向かうべきでしょう。
 もっとシンプルでリラックスした、エコな生活スタイルを目指すべきです。
 ドミニック・ローホーが書いた『シンプルに生きる』(幻冬舎刊)という本がありますが、世界的にもそっちのほうに価値観がシフトしていると思います。(矢作)  [pp.130-132]


 5.今、世界で起きているさまざまな天変地異は「人類の集合意識」が起こしている部分もあると、私自身は考えています。集合意識を代表するような存在がいます。ここ一〇年ほど、世界中で大地震や気候の大幅な変動が続いていますが、これらも相当前からプランニングされていると思います。
 アセンションの一環としてそれらを起こして、みんなの気づきを促そうというわけです。
 それによって気づく人も大勢いますし、気づかない人も大勢います。東日本大震災でも、かなりの日本人、あるいは他国の人たちの意識変化が見られました。価値観というか考え方というか、行動の方向性も含めて変わった人が多かったと思います。思いやりの気持ちが生まれ、実際にそれを行動に移した人が大勢います。
 ボランティアに行ったり、あるいはボランティアに行かないまでも義援金を寄付したりしたわけです。日本全体で被災地をサポートしようという思いやりの心が生まれ、何かしようというふうに思ったわけです。
 被災地やそこに近いところでは、例えば物にせよ、時間にせよ、労働にせよ、かぎられたものを分かち合おうという思いが強く発生しました。
 もう一つ、重要な意識変化があります。
 それは、自然との共存が重要なのだということに、多くの人が気づいたことです。
 それまでは原子力でオールオッケーと考えていたのですが、いや原子力では難しいのではないか? ダメでしょう、というような意識変化です。
 もっと自然と共存できるような生き方にスイッチしなくてはならないのだと、多くの日本人が、いや世界の人々が思い始めました。ですから今、日本の多くの方がこれを機に原子力依存をやめたい、別の発電方法に切り替えたいと主張しています。自然にとって害がない方向に行きたいと思っているのです。
 東日本大震災では尊い命が犠牲になってしまいましたが、残った1億2千数百万人は価値ある新しい方向に進まなければならないと思います。(坂本)[pp.130-132]


 6.患っていた病気が治った時とか、ある種そういうイベントがあると、肉体は「生きていることの喜び」を感じます。死について考えるということは、同時に、生について考えるということであり、死だけを切り取って考えるという思考回路は本来ないはずです。
 母親が亡くなった後、私はそれまでの価値観がガラツと変わりました。
 何かを欲しいと思わなくなりました。
 物に囲まれていなくても、例えば最低限のお金があれば食べていけるし、読みたい本も読める。冠婚葬祭に関しても、一応の義理固めさえできれば、それ以上のお金はいらないというふうに思い始めたわけです。
 逆に執着しないで済むので、気持ちは非常に楽です。
 他人と比べてどうこう思う感覚もありません。私みたいに身内がいなければ、いつ死んだってオーケーです(笑)。
 この感覚はすごく幸せです。
 生活できるだけのお金があれば資産もいらない、必要以上の物もいらない、これで十分です。私は運動が好きですが、走ったり自転車に乗ったり泳いだりするのですが、そういうことをした後に、ゆっくり休んでご飯が食べられる、これで十分幸せを感じます。
 その究極がヨガの聖人ではないのかなと思います。
 飲食しなくても普通だし、何も必要なくて、いつでも神様とつながっている、それが究極だろうなという気がします。(矢作)[pp.141-142]


 7.私はかつてモンロー研究所に行くたびに、ものすごい体験をしたこともあり、その体験を『「臨死体験」を超える死後体験』(ハート出版刊)などに書きました。
 面白いほど、どんどん価値観が変わっていったのです。それだけインパクトが強かったのです。他人が何かを言うのを聞いてそうかなと思うのも重要ですが、自分が直に体験すると、価値観が変わらざるを得ません。
 モンロー研究所のヘミシンクは、それを可能にしてくれます。自分の体験が広がるというのは、ちょっと代えがたいすごさです。
 ただしこれも好き嫌いがありまして、ヘミシンクがうまくいかないとか合わないという人もたくさんいます。ですから、自分に合った方法がそれぞれあると思いますので、それを探してやればいいと思います。これから「あの世」と「この世」の境界が、ベールが薄れます。今はまだはっきりと分かれていますが、段々とその間が、今まで分厚いカーテンがかかっていたのが薄くなり、向こう側が見やすくなります。
 すると、どうなるか?
 亡くなった人と交信できたり、彼らが見えたり、話が普通にできたりするようになります。それはおそらく向こう数十年くらいのことになるでしょう。
 私たちの身体を構成する物質には振動数というものがありますが、アセンションと共にその振動数がどんどん上昇していきます。
 その結果、「あの世」と「この世」の境界にあるベールが薄くなってゆくのです。
 そもそもアセンションは「肉体の振動数を上げること」だという専門家もいます。
 特に若い子たちは、そういう現象に対して敏感で、それはむしろ当たり前だみたいな子供が最近増えています。年配者、特に団塊の世代やその上の世代の人たちは、今後も多分、価値観が変わらないと思いますが、若い子たちの価値観はものすごく自由です。
 ですから死後世界に対する偏見のようなものも、今後は消えていくでしょう。「死」がみんなの身近な存在となり、怖いという感覚が減るのではないでしょうか。
 あそこにおじいちゃんとおばあちゃんがいる、ニコニコ笑っているよという感じです。それをごく一部の霊媒でチャネリングするのではなく、普通の人が普通に体験できる状況です。
 私はパソコンにスカイプをつけていますが、イギリスにいる息子と時々話していると、まったく距離感を感じません。動画つきの電話ってすごいです。しかもスカイプ同士は無料通話です。ちなみに息子は三人いますが、東京とか神奈川県にいる息子とは、ほとんど会いません。スカイプもしないので距離感がありますが、イギリスとはずいぶん近い感じがしています。物理的な距離ではないのですね。
 そのうち「あの世」と「この世」をつなぐスカイプみたいなものができる時代がくるでしょう。(坂本)[pp.156-158]


 8.自分の状祝をあえて自分で選んで生まれてきたという話には同意しますね。自分の人生は自分で選択している、つくっているということだと思います。キリスト教が言うような、神がすべてを創るというのとは根本的に違うわけです。
 キリスト教国であるアメリカというのはそういう意味で実に不思議な国です。
 かの国は基本的にキリスト教が中心をなす国ですが、それにもかかわらず、結構な量でスピリチュアル系の書籍が毎年のように出版されています。
 過去世とか輪廻ということを認めず、体外離脱は悪魔の仕業だと決めつけるキリスト教の下で、スピリチュアルな考え方がこれだけ興味を持たれているというのも不思議な気がします。
 ただ、よく考えてみると、そもそも一九六〇年代のニューエイジ運動はアメリカ西海岸で始まったものです。既存のキリスト教に飽き足らない人たちが東洋思想に魅了されたことがきっかけだったわけです。その流れが今に続いているのです。
 ということは、表向きはキリスト教徒でもそれに疑問を持ち、スピリチュアルな考えに賛同する人が意外に多いということではないでしょうか。
 ただそういったことに否定的なキリスト教徒も多数いることは事実で、中にはかなり原理主義的な考えの人もいるようです。
 このようにアメリカにはバラエティに富む人たちが暮らしています。私見ですが、このことは輪廻の回数の少ない人からかなり多い人まで広範囲の人がアメリカにはいるということを示しているのだと思います。
 輪廻の回数によって人の興味や考え方が大きく変化していくようです。
 まだ回数の少ない人は、地球でのあらゆることが刺激的で魅了されます。特に欲を刺激することがらにのめり込んでいきます。しばらく、欲の追求に血眼になります。
 回数が中ぐらいになってくると欲の追求だけでは満足が得られず、宗教に興味を持つようになり、さらに特定の宗教にはまり込みます。
 回数が多くなってくると、宗教からも離れ、より自由な生き方を求めるようになります。そして最終的に真の自由の身になって地球から離れていきます。
 アメリカは輪廻の回数という意味で非常に若い人(回数の少ない人)も多い反面、もうそろそろ卒業の段階に来ている人もいるという不思議な国です。
 それに対して、今の日本は概して古株が集まってきているようです。
 諸外国を見ると、中国はかなり若くて血気盛んな連中が集まっているように見受けられます。韓国はどちらかというとアメリカに似たミックスです。インドは日本とアメリカの中間ぐらいというところでしょうか。(坂本)[pp.161-163]


 9.大本教(正式には大本)の開祖である出口なおの「お筆先」が京都府亀岡市の教団本部にあります。
 美術館みたいな感じで展示してあるわけですが、それを見た時は驚きました。読み書きのできないなおがわずか二七年の間に、新聞紙程度の大きさの半紙に二〇万枚、書いたわけです。ずーっと、二七年間。
 これが後の『大本神諭(教典)』ですが、あれを目にすると、人間のやることじゃないとわかります。
 ある意味で常識を超えています。常識を超えると普通は見えません。そこにあっても。多分あれは、そういう感覚なのかなと思います。
 出口なおの娘婿・出口王仁三郎が書いた『霊界物語』も、実に八三冊もあるのですが、その執筆スピードを例えて言えば、一日で三〇〇頁分の書籍を仕上げ、それを毎日毎日、こうワーツと書く形式です。それも自動書記で、ぶ厚い本八三冊分。人間業ではありません。
 その事実を論理思考でどう考えても、これは人のやっていることではないなという結論に向かうわけです。
 出口なおに至っては、字を書けない人だったわけですから。
 そういう事実が日本中に、世界中にあるわけですから、それらをより精査することで、「この世」には人類科学の範疇を飛び超える出来事があるのだという「共有知識」が明確になるのだと思います。(矢作)[pp.169-171]


 10.現場を踏んでいくと、知識だけでなく知恵が身につきます。その手術と並んで私が今注目しているのは、先ほど少し触れましたが「スピリチュアル・ヒーリング」です。
 『人は死なない』にはほとんど書きませんでしたが、すでにスピリチュアル・ヒーリングで劇的に病気が治った症例はいくつもあります。中国地方にいる某物理学者の方は、数年前にがんを患い、その後、腸閉塞を起こしたりして調子が悪かったそうですが、知人のヒーラーのところに行った途端、治ってしまったというのです。皮膚科でも取ったほうがいいと言われたがんが、ヒーリングを受けた一週間後、自然にポロッと落ちてしまったそうです。皮膚科の先生が相当驚いたそうですが、それは驚くのは無理もありません。
 そんな劇的な体験をしたのが物理学者だったものですから、ご自身も相当な感銘を受けたようで、次から次へと学校や物理業界で宣伝したそうです。
 他にもがんで手術をしようかと悩んでいたその先生の教え子の女子大生は、ヒーリング後にがんが消えてしまったそうで、当然がんが消えたその証拠も画像で残っているわけですが、その結果、彼女は手術しないで済みました。
 スピリチュアル・ヒーリングは、別に稀なことではありません。
 この世界ではかなり有名な広島在住のT先生という方がいらっしゃるのですが、T先生は明確に「業を落とすことはできるけれど、業の性質によっては延命はできない」と仰っています。
 ただし、例えばがんの人でも二つ、必ずできることがあるそうです。
 一つは、苦しまなくすること。薬でしか痛みや苦しみが取れないものを、取れるようにすること。もう一つは、がんが怖くなくなることだそうです。この二つはT先生を含めたヒーラーの皆さんが、どなたも同じように仰います。
 寿命は変えられなくてもエネルギーを受けることで、苦しみや恐怖感を取り除くわけですが、これをどう表現するのが適切なのかは悩むところでして、強いて言えば「向こう側の治療医」がこっちにチャネリングして、ある種の力を与えているのかなと私は想像します。(矢作)  [pp.173-174]


 11.モンロー研究所の話に戻しますが、参加者の多くが体験するのは「人生は今回だけじゃない」ということです。一般に輪廻転生と聞くと、一人の人間が時代ごとにさまざまな人物として生まれ変わり、さまざまな人生を経験するというイメージですよね。もちろん当然それもありますが、しかしどうもそれだけじゃないようです。
 つまり自分が複数に分裂して、例えば五人とか一〇人とかですが、その分裂したそれぞれが輪廻する状況があるようです。自分が五人に分裂する場合を例にとると、自分はA、B、C、D、Eに分かれます。で、AはAl、A2、A3と順に輪廻してゆきます。それと並行してBもBl、B2、B3と輪廻します。同様にC~Eも輪廻します。この中のたとえば、B3がこの自分です。
 ということで、どうも単純な輪廻ではないようで、いくつにも自分が分かれ、それぞれが輪廻しているという状況のようです。ちなみに自分が何人に分裂するのかはわかりません。
 ですから他の自分もたくさんいますし、それは別の時代を生きているわけです。同じ時代に生きている自分がもう一人くらいはいるようです。
 これは物質世界のちょっと上からの視点で見た場合ですが、もっと上のほうから見ると、分裂も転生も、全部同時に見えます。
 つまりそのさらに上の世界から見ると、それはもはや輪廻ではなく、すべてが同時並行して生きているような感覚です。
 もう一挙に体験している感じですね。下のほうの視点から見ると、順番に輪廻しているという感覚です。
 私の場合、それまではオリオンとかプレアデスとか、いろいろな星を体験して地球に来ましたが、地球に来たのはつい最近のような気がします。ここ一〇〇年とか、そこは正確にわかりませんが。その後、一挙にいろいろな時代の自分を体験しています。ちなみに一番初めの自分は六〇億年前の自分だといわれました。(坂本)[pp.192-194]


 12.多くの人が向こうの世界がどういう世界なのかをよく理解し、実際に「この世」と「あの世」の往来が自由にできるようになり、その習慣に社会全体が馴染めば、不安や恐怖感は次第に薄れます。怖がる必要がありません。
 ですから、そういう練習というか準備を、今生きている間にしておくことが必要です。
 肉体の死後の世界について、生前、実際に向こうへ行って様子を見てくるとか、亡くなった人に会って会話を交わすとか、そういうことを経験すれば「なるほど、死んだらああいうところへ行くんだ、ああいう生活をするんだ」と理解できますからね。
 本書でもたくさん話をしましたが、要するに、体験することでしか、我々人間が古代から持ち続ける死に対する不安と恐怖をなくす方法は、ないわけです。
 「この世」と「あの世」のベールが薄くなっていると話しましたが、このことも今のうちに理解してほしいと思っています。
 あちら側に別の世界があり、こちらの世界とつながっているということを知ること。すると、これまで以上に前向きに生きられるし、前向きに死を迎えられます。「死んだらこちらの低次元世界が終わるだけで、向こう側に行くんだから」というような感じです。
 ちなみに死後世界にはさまざまな世界があり、中には変な世界がありますから、そういうところに行ってしまって苦しむことがないようにするにはどうしたらいいのかとか、そういう知識もノウハウとして知っていれば、変な世界に行くこともないでしょう。(坂本)[pp.220-221]

  (矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるたったひとつの方法』徳間書店、2012より)




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                              【参考資料 17】 (2018.10.22)

    ヒマラヤ聖者のことば


 相川圭子氏の『ヒマラヤ聖者の太陽になる言葉』(河出書房新社、2015)という本がある。著者の相川氏は、仏教やキリスト教の源流である5000年の伝統を持つヒマラヤ秘教の正統な継承者であるという。1986年、伝説の大聖者ハリババジに邂逅して、標高5000メートルを超えるヒマラヤの秘境にて死を超える修行を重ねた。その結果、神我一如に長い間とどまる「最終段階のサマディ(究極の悟り)に到達し、究極の真理を悟ったという人である。
 その彼女が、この本でどういうことを述べているか。その要点を(1~18)に分けて、抜き出してみた。(番号は、便宜上、私がつけたものである)


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 1. 欲しいものが手に入ると、気持ちは一瞬満たされ、嬉しく感じます。節約して買ったものであれば、満足感もあります。コツコツ勉強して取った資格や合格なら、大きな達成感と解放感に満たされます。
 「これでいい」という、一段落した安定感が、嬉しさになります。しかし、その安定した喜びもつかのま、次はあれ、あるいはこれと欲しいものが浮かび、そこに再び向かいはじめることでしょう。
 仕事や勉強の能力が高くて、体もじょうぶな人ほど、次から次へと望みに向かって、走り続けていきます。その人は、いったいどこへ向かっているのでしょう。もしかしたら、「幸福」の意味さえ、あまり考えるヒマがないのかもしれません。
 いま何が欲しいですかと聞くと、「もうちょっとのんびりする時間」という答えしか、返ってこないかもしれません。
 でも、本当に「のんびり」すると、かえって不安になって、すぐに仕事や勉強をはじめてしまうのではないでしょうか。
 がんばることが好きで、それを続けていると、疲れていでも疲れたと感じないで、やがて深いところで疲れきってしまいます。
 こうした生き方は、あまり「幸福」ではなさそうです。幸福になるために疲れる――大きな間違いをしているのかもしれません。幸福というのは、「感覚の喜ぶこと」「心が喜ぶこと」ではないのかもしれません。(pp.23-24)


 2. 「幸福になりたい」と考えて生きている人の多くは、心を一生懸命に働かせます。その心の働きが、心はもちろん、体も消耗させていきます。現代生活は便利で快適ですが、忙しすぎるので、心のエンジンを常に大回転させています。
 人間は自然の一部、宇宙の一部ですから、自然の法則、宇宙の法則に反したことをすると、消耗してしまいます。いろいろなことがうまくいかなくなって、それが体に来ると病気になってしまいます。
 陽である太陽、そして陰である月は、交互に昼と夜を創り出します。太陽が出ているとき、すべての命あるものが働き出します。太陽が沈むと月が昇って月の光で癒しが始まります。静かな波動で興奮は鎮められ、安らぎ、回復するのです。
 そうした自然のリズムがあります。そうした自然に反する、リズムが狂ったままの生き方を続けると、心身のバランスが崩れ、病気になってしまいます。
 人類は電気を発明し、夜も照明で明るくし暗闇を征服しました。夜も活動しているのが当たり前の環境にあります。夜になって眠ろうとしても、今日の仕事の反省、また明日のスケジュールの確認と、心が働いたままの人が多いのではないでしょうか。なかには、なかなか眠れないという人もいるでしょう。
 ですから、現代の生活では、不自然になった生理機能を正常に戻すために、意識的に自然を取り戻さなければならないのです。
 それと同時に、現代の豊かさに対応するには、体と心を目覚めさせ、進化もさせなければなりません。それは、潜在意識の開発です。
 眠りの機能や内臓の働きは、自律神経が司っています。人間はさらに自律神経までコントロールできるように進化していく必要があります。そうでないと、ストレスでバランスを崩し、病気になることは必然です。人間は心をつかいすぎているのです。
 心と体を上手につかうためにどうするか。どうしたら心が平和に、またより自然になるのでしょうか。
 そうした進化への道が、サマディ(人の意識の究極のステージ。悟りはその中で起こる)への道、悟りへの教えにあります。サマディへの道には、すべてを癒し、力を与える恵みがあります。それを歩むことで、自然を取り戻し、それをコントロールできる超自然の力を得ることさえできるのです。(pp.25-27)


 3. 宇宙には見えない神秘の存在があり、その力によってこの見える宇宙が創造されました。その神秘の存在が神といわれる存在です。
 神を信じます。それはこの小宇宙の私たちの中にもあります。その力によって生かされています。それを信じることは、そこからの恵みをいただくことなのです。ですからお互いに尊敬し、拝み合うのが一番よいのです。
 あなたに起きていること、自分が持っている資質も、神が贈ってくれたものなのですから、欠点も含めて学びのよいきっかけとして、すべてに感謝をしていきましょう。(P.40)


 4.人は、神と離れて常に自己防衛する行為をしています。本当に他者のためを願い、何一つ見返りを求めずに、無欲で行動していることなど、ほとんどないのではないでしょうか。一見そのように見えでも、それは持ちつ持たれつ「ギブ・アンド・テイク」の関係なのです。
 そう考えてみると、自分が嫌になってしまうかもしれません。エゴの利己的な思いに気づくことは、高度な気づきです。また、それに気づきはじめることは、だれにとっても辛く、大なり小なりの痛みをともなうものです。でも、それがあなたにとって、最大のチャンスなのです。
 生きるため、生存のためのエゴを落とし、無欲になることはできません。でも欲をほどほどにすることは可能です。
 「親のため」「夫のため」「子供のため」「部下のため」「社会のため」と思っていたことの多くは、じつは自分のエゴを満足させるためのものだったのではないでしょうか。立ち止まって顧みることは、とても大切です。
 自己嫌悪が襲ってきても、そのあとには必ずクリエイティブなパワーがもたらされます。
 社会で人と関わっていくと、多くのストレスもありますが、それは自分のエゴに気づくチャンスです。さまざまな嫌な感覚の中に、エゴの兆しがあります。
 意見が違い、自分の考えに反対されたりすると、エネルギーに摩擦が生じます。それは嫌な感覚となってわかります。相手のアドバイスの愛を、あるいは自分自身をも受け入れられずに、反発をしているのです。
 こだわりを手放しましょう。気づきましょう。愛を選択しましょう。許しましょう。エゴにつながるのではなく、神につながりましょう。(pp.43-44)


 5.執着をとるには、捧げる行為をします。あなたがとらわれのない心への進化、また愛ある大きな心に進化するには、欲しがるより、捧げる行為である布施をするのもよいでしょう。正しくつかわれ、みんなの意識が高まるつかわれ方をするお布施がよいのです。あなたが寺院をつくるのもいいでしょう。時間を人のために捧げることもよいでしょう。人を助け、さらに自分の大切なものを人に捧げましょう。
 まずは小さなことからはじめ、心の中の荷物やゴミを少しずつ捨てていくことを意識しましょう。
 そして、それが人の役に立つ行為に進化していく形で心を浄化していくのです。もったいない、持っていたい、というものを手放したとき、あなたは心の「軽さ」と「自由さ」を、ともに感じることでしょう。
 人間の心には「ものをくっつける」性質があって、まるで磁石のようです。つい、いろいろなものをくっつけてしまう心の働きに気づいて、よけいなものを引き離していくことで心を軽くし、自由になることができます。また、よいことをして、無欲になって執着を取ると心が楽になるのです。
 心のゴミを取り除くのに、最も適しているのは瞑想です。心の中を高次元のエネルギーで溶かす瞑想に、ぜひ出会っていただきたいと思います。
 心は何層にもなっていて、そう簡単には浄化できません。本当の自分に出会う修行をします。心を浄化し執着を取り除くことで、本当のあなた=魂が見えてくるのです。同時に「心」から「愛」への進化をします。くっつけるより、愛の形で差し出しましょう。(pp.53-54)


 6. あなたの心の中には、何がありますか。心は、いろいろなものを抱え込んでいます。そして、心は一生懸命です。あなたはいつも心をつかっています。捨てることができたということは、そのものへの執着がはずれたということです。ものへの執着がはずれた心には隙間ができ、リラックスできるようになります。
 部屋をつかっていると散らかってゴミが増えます。それと同じように、心の中に長年にわたる失敗や成功、楽しいこと辛いこと、思い込みや執着、こだわりなどが、ゴミのようにいっぱいになっています。お掃除をしたことのない心なら、なおさらです。
 そうしたものを捨てていくのがいいのです。心を空っぽにしていくのです。つまり、心を浄化するということです。人の中にはそうしたさまざまなストレスが積み重なって記憶されています。また、それらが同じようなエネルギーを引き寄せる働きになってもいます。磁石のように引き寄せるのです。
 もしあなたが、他人の言動への苛立ちや、家族への不満、時間に追われての焦り、恋人への嫉妬、お金持ちをうらやむ気持ち、いじめられて恨む心など、「もし、それがなければ楽なのに」という思いを抱えていたらどうでしょう。
 それらの負の感情は、お金や物が手に入ったときに満たされて、消えるものではありません。その心を浄化していく必要があります。
 あなたは、社会が悪い、あの人が悪い、あるいは何で自分はこんなふうなのだと、人を責めたり自分を責めたりするかもしれません。心はそうしたものを連綿と引き寄せていきます。子供のときの体験にスイッチが入るとそうなりやすいのです。それを断ち切るには、あなたは信頼のもとに高次元のエネルギーにつながり、その深い思い込みや記憶を見て、浄化する必要があります。
 サマディパワーはそうしたエネルギーに寄り添って、気づきと浄化を与えます。いきなりの強引な浄化ではなく、気づきながら本人の理解で進むことが大切です。また祝福をいただくと最速で浄化が起き、奇跡が起こります。次第に心が浄化されて真理に気づくと、心の奥深くにある魂は自由になります。体や心が魂から力を得たとき、心の曇りが取れ、真の智恵が目覚めるでしょう。(pp.54-56)


 7. 人間の心はクリエイティブに、さまざまな便利なものを発明します。そして素晴らしい文明、文化を築いてきました。それは神のような力をいただいているのです。思いやりがあり、人を助け、人を育て、人間的にも成長していきます。
 しかし、ときにその心が苦しむこともあります。心が痛み、嫌悪感が湧いてきます。その一方で心があるからこそ「楽しい」「嬉しい」、それに「好き」だと感じることもあります。心は喜びと苦しみを繰り返すのです。
 心の思いによって軽かったり重かったりと、心に翻弄されています。そうした心を支える見えない存在があります。それは不動のエネルギーです。心を浄化すると、そうしたエネルギーが現れます。
 いつも安定して純粋で、高いエネルギーを保つ方法があります。
 それは、源の最高のエネルギーにつながることです。神につながるのです。
 心の性質を知っていかなければ、その心に翻弄されて苦しむことになります。また嫌な感情やよい感情があって、心というのはじつに移ろいやすく変化します。その変化は、一瞬のものです。
 心の満足も一瞬のことであり、次の瞬間にはもっと満足感のある刺激が欲しくなります。そうして、人は過剰にエネルギーをつかい、心をつかいすぎて消耗してしまうのです。心配するのはやめようと思っても、「わかってはいるけどできない」のは、長年にわたってつかい続けた「心の癖」です。
 心には、過去生を含めた過去の体験、経験など、すべてが刻み込まれています。それを「カルマ」(業)といいます。瞑想し、よけいなものを捨てていくということは、悪いカルマを落として、魂を浄化していくということです。
 自分は「心」だけで生きているのではないこと。その奥に「魂」=「真の自分」があること。それを知ることが、幸福につながるのです。そのことを信じて生きていきます。「本に書いてあったから理解した」というのではなく、悟っていくのです。(pp.57-59)


 8.人は仕事を通して成長し、磨かれていきます。そして、仕事をすることによって対価をいただき、生きるために必要なものを買いそろえています。
 生きることには競争がともない、辛いこともたくさんあるでしょう。仕事のストレス、職場のストレスが、ますます大きくなっているようです。アルバイトをしている大学生も、就職活動をしている大学生も、新入社員も、中年の管理職も、だれもかれもが何らかのストレスを抱えているのではないでしょうか。
 それら多くの人にストレスを与えていることの一つに、「人間関係」があるようです。上司、部下、同僚、後輩などとうまくいかない。失敗が怖い、叱られるのが辛い。周囲の目が気になって仕方ない。うまく気持ちが伝わらない。嫌われている気がする。そのように訴える人が、たくさんいます。
 現代社会は忙しく、がんばりすぎたり、突っ走りすぎたりします。そこで、心が傷つき、迷い、苦しみ、悩むのでしょう。それが、体をむしばんでしまうこともあるのでしょう。
 まじめな人ほど消耗していきます。それに気づかないほど忙しい人もいるでしょう。人にはいろいろな考え方、感じ方があり、それぞれ違います。そのことを受け入れられずに、イライラしたり、勘違いをしたりして、摩擦を生じることもあるのではないでしょうか。
 そんな中、気をつかうことで丸く収めようとする人もいますが、うまくいかないようです。最も大切なものは愛です。「気をつかうより、愛をつかいなさい」ということです。
 みんなの心がイライラしたら、悪い雰囲気になります。そうした心が行き交う中にいると、ますますストレスを受けやすくなってしまうでしょう。心のイライラは、環境に悪影響を及ぼすのです。
 あなたが変われば、あなたの環境を変えることができます。出会いの相手は神が送ってくださった学びの対象です。感謝しましょう。あなたの好き嫌いを超えた深い愛を放ちましょう。
 あなたの感謝と愛の気持ちがまわりに伝わり、まわりからもよいエネルギーが返ってくるでしょう。雰囲気も浄化され、余計なことが気にならなくなってくるのです。あなたの無限の愛を引き出すために神につながりましょう。心を浄めるために無償の愛をつかいます。(pp.65-67)


 9.勉強、仕事、家事、子育てをする中で、人は多くを学び、成長してきました。
 自分の体も心の働きも、その内側は通常は見えません。心の働きは人を通して見えてきて、自分のいまの心の状態がわかってきます。人との出会いは、自分の姿を見ることになる尊い機会です。
 瞑想は人の内面を浄化して気づきを与え、成長させてくれます。瞑想で心の浄化が進むと、自分の心の動きが見えてきます。そして、人間関係から生じるストレスを浄化します。心の中には、いろいろな体験の記憶があります。さらにその奥には、人の本質の神聖なクオリティがあります。瞑想は心身を浄化して、究極には心の源、さらにはそれを超え、創造の源にまで遡っていくものです。(pp.67-68)


 10.本当の愛とは、神につながった愛です。純粋な汚れのない愛、神のように平等に愛する愛です。
 エゴからの愛ではありません。ハートの奥深くから湧き上がるものです。無限の愛です。その愛は心を浄化し、カルマを浄化して、さらに純粋な心の奥から現れます。
 宇宙と一体となった本当の自分からあふれ出るものです。損得で変化しない、見返りを求めない愛です。
 「愛してあげたのだから、愛してほしい」「尽くしているから大事にしてほしい」「与えているから感謝してほしい」という感情は、本当の「愛」ではありません。こうした愛は「交換の愛」「欲から出た愛」「心の愛」なのです。
 心は変化するとともにその愛は固着し、さらに依存して、本人をますます苦しめます。そして執着し、自分をむしばみ、人も引きずりおろして満足しようとさえします。
 本当の愛は、見返りを求めず、ただ与えるのです。無償の愛です。
 人のハートの奥には、愛の海があります。それは、真の自我のところにあります。それを目覚めさせましょう。 (pp.71-73)


 11.心に思っていることは不思議なことに現実に起きてしまいます。「あの人は嫌いだ。あの仕事は嫌だ」とか「自分はダメな人間だ」と思えば、その心は「ダメ」なものばかり引き寄せてしまいます。「どうせできない」と思えば、心も体も「できない」方向に、協力して動きはじめます。
 なぜ「できない」と感じるのかといえば、それは過去にうまくいかなかった体験から自信が持てない、自分を信じることができない、ということなのです。
 過去にできなかったのは、集中力がなかった、体力がなかった、理解が足りなかったなどの原因があったのかもしれません。その人のキャラクターなどに原因があり、うまくいかなかったことが、知らないうちにトラウマになってしまったのかもしれません。
 そうした「過去」の経験が積み重ねられた記憶は、本来わからないし、変えることができないのです。それらを瞑想で浄化することができます。いっさい考えるのをやめて、本質を信じます。すべてのエネルギーが協力し合って、よい思いが実現するように動きはじめます。
 ここで注意したいことは、「信じる」というのは、自分の過去の経験や習得した技術などの実績や体力に自信を持つということではありません。あなたが気づいていない力、本来すべての人間が持つ潜在的な自然のエネルギーと魂を、「信じる」ことです。
 つまり神を信じることなのです。見えない存在の神を信じることは、難しいという人もいるかもしれません。本当のあなたである魂、つまり神への扉を開けてもらうとよいのです。ディクシャという高次元のエネルギー伝授で、神につながらせていただくのです。
 すると神に楽につながり、信じることができるようになります。守りとパワーをいただいて願いをかなえでいくことができるのです。
 人は思い込みで「自分の能力」「得意」「不得意」を限定しています。本当は得意も不得意もない、根源に何でもできる見えない存在、神がいて、そこに力があるのです。
 神につながり、神を信じることで、無限の存在から力が働き、可能性が開かれます。(pp.87-88)


 12.すべての人を愛し、尊敬することが、人と人との関係で一番大切です。神の望む世界は調和と愛です。人を愛することは、その人の中の神を尊敬し、愛することであり、自然を愛することです。
 それは、宇宙の一部になることでもあります。宇宙と同じもので、できているのが体です。つまり、体は小宇宙です。
 そして、どの人にもあなたと同じ宇宙があり、その中に本質があります。ですから、尊敬し感謝して愛することができるのです。でも、そのことを教えられ、言葉でわかってもなかなかそうはできません。それは、いままでの価値観を通して見てしまうからです。お互いに不完全であることを認め、あるがまま受け入れていきましょう。
 相手に対して、何か嫌な気持ちを感じたら、自分の意識を少しそこから離して、その現状を俯瞰してみてください。
 失敗を叱責されたとき、理不尽な指示のとき、成功した人を羨む気持ちが起きたとき、気が合わない隣人を疎ましく思うとき、お姑さんの小言が嫌なとき、親を悲しませる子供に困っているとき、少し離れた場所から、ただじっと見てみるのです。
 「私は、怒りながら悲しんでいる」「自分の思い通りにならないことを悔しがっている」と、自分の心を「見る」のです。
 あの人が何をした、何をしてくれなかったという「外側」のことを見るのではなく、自分の内側に目を向けます。ただ、「あるがまま」を見ます。いい、悪いの判断をしないのです。自分を責めたり、相手を責めたりしません。
 そこに何が見えるでしょうか。「自分の中に愛が少ないなあ」ということに気づくかもしれません。自分の不完全さを知ることは、相手を許していくことにもつながります。その人を通しでの嫌悪感は、じつは相手を鏡にして、自分の嫌なものを見てしまったときにも起きるのです。
 すべての出会いは学びです。相手に感謝しましょう。多くの人は、相手からいいものをもらおうとしています。どうしても相手に完全性を期待しています。自分からいいものを出していくなど、思いもよらないわけなのです。自分から親切を出していかないで、人から親切にしてもらいたいと思っていることに気づきます。
 これからは、あるがままを受け入れましょう。平等心を持ち、自分から慈愛を出していきましょう。そして、あるがままといっても、やはりあなたを成長させる道を歩むのです。その結果に一喜一憂しないで、慈愛を出し、感謝を出し続けていきましょう。(pp.90-92)


 13.あなたを変えるには、まず行為から入ります。心と肉体があってこそ、人はよい行為ができます。死んでもあの世に何も持っていかれません。執着は苦しみをつくり、この世界を天国にすることはできません。もっと自ら差し出して執着を取り、功徳を積みます。布施をします。奉仕をします。すると執着や欲がはずれ、魂が磨かれます。
 さらに、瞑想などをして浄化することができます。あなたの内側を変えて、楽に幸せになることができます。心配する心をいまにつなげましょう。無心になります。
 私たちは真の成長をするために、生まれてきたのです。浄化をした純粋な心と体は、天国のようであり、またそれを通して見る外の世界は、希望にあふれた天国になるでしょう。れが今生で天国を創るということです。
 あなたへの注意があります。「いまが不幸」だと思い、明日の幸福を願ってはなりません。いま生きている自分、いまの瞬間が幸福であることが大切であり、いま、よい思いを持ちます。感謝する気持ちを持つとよいでしょう。
 幸福は「過去」にもありません。「あのときが一番幸せだった」とばかり、思い出にとらわれることは、いまにいないことです。天国は「いま」にあることを忘れないでください。不幸はいまにいない心なのです。
 いまの連続が未来につながり、空っぽの心から、いろいろな不幸な気持ちがはずれていくのです。そして、足が大地につくことを感じましょう。手が動くことを感じましょう。あなたは、いまを感じているのです。そのいまに、安らぎがスタートするのです。(pp.101-103)


 14.生まれる前に亡くなった曾祖父と趣味が同じだったり、癖が似ていたり、「言い伝え」の先祖と同じ職業を選ぶなど、「これもカルマなのかな」と感じることが、だれにもあります。
 初めて訪れる場所なのに「あ、この場所を知っている」という体験はありませんか。いわゆる「デジャブ」(既視感)ですね。それは、記憶にない体験か、過去生からの記憶かもしれません。カルマに刻まれた記憶は、ずっと続いています。
 親の育て方が子供に影響を与えるとか、DNAを引き継いだことにより顔や体型が似るというレベルを超えたものが、たしかにあります。自分では意識しない体験の記憶、その積み重ねがあなたの運命を決めている。そう考えるのが「カルマ」です。
 ですから、カルマは運命決定論のようですが、カルマを浄化することによって「運命は変えられる」とも説いているので、運命決定論ではありません。
 この世界は見えない偉大な不思議な力によって創造されたのです。見えない偉大な力が働き調和をとり、すべてを生かしめています。自分の中にもその力があり、生かされているのです。その存在を人は神と呼んでいます。
 その存在、神を信じることで、そこからのパワーがいただけるのです。そして、楽に生きていくことができます。神はあなたの成長を願っています。
 体と心は、神からいただきました。それを正しくつかい、人を傷つけないよい行為をしましょう。よりよいものを分かち合いましょう。言葉を美しくつかい、人を好き嫌いで判断しないようにし、自分を愛しましょう。
 そうした行為が、よい種となって、よい運命をもたらすのです。
 親から充分な愛情を注がれず、辛い記憶がトラウマとなっていたとしでも、親を憎まず、この世に送り出してくれたことに感謝してください。
 あなたを裏切り、傷つけて去った恋人に対しても、憎んだり、恨んだりしないでください。恋人として喜びを与えてくれたことに、感謝をしましょう。
 それはわかっているけれども、怒り、後悔、憎しみが、どうしても湧き上がってくるときには、少しずつでも無心になれるように、瞑想する時間を持ってください。憎しみのカルマにとらわれていると、必ず同じことを繰り返すことになります。よい行為をし、よい種をまき、悪いカルマを自分で浄めていくことで、あなたに本当の幸福が訪れるでしょう。無償の愛で一生懸命、人を助けましょう。あなた自身があなたの人生を美しくできるのです。(pp.108-110)


 15.回復できない病気、愛する人の死、そうした不幸に出会うこともあるでしょう。辛いことですが、どうか悲しみすぎないでください。若くして亡くなる人もいますが、それはすでに心身が疲れ果てていたのかもしれません。
 それもカルマです。いずれにしろ、その人の運命であり、どんなに悲しくても、神が決めたことを受け入れて、その人の冥福を祈ります。次の生では、神の加護に出会いますようにと願いましょう。
 若い人が突然車にはねられて亡くなるのは痛ましく、気の毒ではありますが、何か理由があって起こるべくして起きた事故なのです。その方々にも神の愛がとどきますようにと、祈りましょう。
 次々に肉親と死別するようなことがあっても、それもまたカルマなのです。縁が薄かったのかもしれません。
 また、たとえ、あなたに死が迫っていたとしでも、過去を悔やむのではなく学びとします。これをきっかけに、生の大切さに気づき、「いま」にいて、感謝しましょう。見えない存在、神につながりましょう。
 「生きているときこうしてあげればよかった」「こうしていたら死ななくてもすんだかもしれない」と悔やまないようにしましょう。それもすべて必要なことが起きていたのです。ずっと自分を責めたりしても、亡くなった方は救われません。また自分も救われません。
 失ったものや人に執着し続けることこそ、不幸なことです。不幸な心は、さらに不幸を引き寄せてしまいます。
 すぐには難しくても、ただそれを受け入れることです。失われた生は、再び次の生に引き継がれていきます。高次元の存在に祈り、そこにつながりましょう。
 年に何回かは供養をしましょう。そのことにより、その方の霊が浄まることでしょう。
 いろいろな人生があり、いろいろなカルマがあります。生まれてきて、またこの世を去っていかなければならないのです。成長するために、いろいろな体験を積み重ねています。さらに人間に生まれたことは、カルマを浄化するための修行ができる素晴らしいチャンスです。気づいて成長していきましょう。(pp.110-112)


 16.暗い気持ちになって落ち込んでいる人に、私はときどきこういいます。
 「無理をしてでもいいから、とりあえず声を出して笑ってみて」
 何も面白いことなんかないと思っても、何も考えずに、ともかくお腹から声を出して「あっはっはは……」と笑うのです。それだけで、気にしていたことやわだかまりを発散することができ、気持ちが変わります。笑いにはいろいろな力があります。
 腹筋をしっかりつかうし、笑うことで免疫細胞の働きも強くなるのです。いいものを引き寄せてくれます。不幸な気分のときも、笑えば、少し幸福になれます。
 ノイローゼや鬱病など、心の病気になると、笑えないようです。そのような人が笑えるようになったら、それは回復の兆候です。病気というほどのことはなくても、負の感情にとらわれて、心が固まってしまっている人も、笑うことができません。
 まずは解放のために、暗い気持ちにとらわれやすい人は、少しでもいいですから、意識的に無理をしてでも笑ってみてください。「作り笑い」でも、充分に効果はあります。まずは笑いましょう。1分間くらいでいいです。きっとよい効果があります。
 ただ笑うということ、赤ちゃんの天使の笑いがあなたの中にもあります。心を浄化し何の不安もない、空っぽな心になったとき、あなたの自然な喜びにタッチします。(pp.126-128)


 17.ヒマラヤに住む修行者や聖者は、現代の日本人には考えられないような生き方をしています。普通の人ならとても生きていられない空気の薄いヒマラヤの高地で、親兄弟の縁を断ち切って、すべてを捨ててほとんど何も持たず、修行をしています。
 ヒマラヤ聖者たちは下界に下りてくることはないので、何歳なのかよくわかりません。ショールや布切れを身にまとい、修行中はほとんど何も食べず、何も飲むことなく、過酷な自然環境の中で深い瞑想をしています。
 そのヒマラヤ聖者の存在とサマディによって、世界は守られているのです。
 彼らは神と、自然と一体となることで体も精神もいっさい消耗することなく、本来の生命力だけで生きています。
 ヒマラヤの修行者たちは、現代に生きる人と違って気をつかうことも、無駄な体力をつかうこともありません。人によく思われるための努力もしません。競争もしません。
 ヒマラヤの修行者たちにあるのは純粋な意識、愛、神・自然・宇宙と一体となること、そして偉大な意志の力です。その願いがかなうのです。サマディの中で起きる究極の悟りが唯一の目的であり、最上の幸せです。それは人生の最高の目的であり、真実の悟りを得たのです。
 ヒマラヤの修行者たちは、5000年以上も昔から、ヒマラヤの奥地に伝えられた智恵を受け継いでいます。そのヒマラヤ聖者を目指す修行者に会おうと思っても、なかなか会うことができません。ましてやヒマラヤ聖者となると、会うことはほとんど不可能だと思われています。彼らは神と自然と一体になり、サマディにずっと没入しています。(pp.138-139)


 18.自分の行為や思いを浄めることが大切であり、気づくことが大切です。
 殺生しない。嘘をつかない。盗んではならない。みだらなセックスをしない。これらが具体的な戒めです。
 すべてを慈しみなさい。分け与えなさい。足ることを知りなさい。もっと愛を与えなさい。正直でいなさい。誠実であれ。神を信じなさい。師を信じなさい。清潔にしなさい。真理の智恵を学びなさい。純粋でありなさい。これらが具体的なすべきことです。
 これらの道徳的ともいえる教えは、体の行動と、考えと、発語(言葉を発する)という行為を浄めます。悪いカルマを積まないためには、心はいいことにだけつかい、暴力的な言葉をつかわないということも、大切です。日常生活で、カルマを積まない生き方をするのです。このことがしっかりできて、内側の修行の準備となります。生きる行為で精神をしっかりさせて正しくしていくことは、最も大切な修行なのです。(pp.147-148)

   (相川圭子『ヒマラヤ聖者の太陽になる言葉』河出書房新社、2015)





          ~~~~~~~~~~~~~~~~



                             【参考資料 16】 (2018.09.06)

   死後の魂のあり方を示す法則 


  私たちは宇宙の摂理の中で生かされ、宇宙の摂理に従って霊界へ移っていく。その過程で私たちは霊性向上を目指してさまざまな経験をつんでいくことになるが、そのなかには、喜怒哀楽があり、悲歎や苦悩などもないわけではない。試練の厳しさに立ち竦んで、自分だけがなぜこのように不幸なのだと思い込んでいる人もいるかもしれない。しかし、私たちより遥かに多く、宇宙の摂理の働き具合を見てきたシルバー・バーチは、その摂理は完璧で、私たちの人生には、「不公平は絶対にない」と断言する。( 『霊訓(1)』 p.47など)

 シルバー・バーチは、何度か、宇宙の摂理を私たちに理解させるために、「タネ蒔きと収穫の法則」を取り上げている。「蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた種は大自然の摂理に正直に従ってそれなりの実りをもたらします」というのである。そして、つぎのように続ける。「自然界について言えることは人間界についてもそのまま当てはまります。利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の結果を刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の結果を刈り取らねばなりません。寛容性のない人、頑なな人、利己的な人は不覚容と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理は変えられません。永遠に不変です。」 (『霊訓(4)』p.24)

 私たちはこのように、この世に生きている間も、あの世へ移ってからも、宇宙の摂理に従って、生き続ける。この宇宙の摂理の一部を、「死後の魂のあり方を示す法則集」としてアラン・カルデックが『天国と地獄』(浅岡夢二訳、幸福の科学出版、2006)にまとめている。アラン・カルデック(Allan Kardec、1804-1869)は、フランスのリヨンで生まれた教育学者で医学博士でもある。1854年にスピリチュアリズムと出会い、1856年には主著となる『霊の書』を刊行した。その後、彼は「霊との対話」に基づく何冊もの大著を著し、その著作シリーズは、当時のヨーロッパで400万部を超える大ベストセラーになったといわれている。その彼の「確固たる事実から導き出された」という法則集を、以下、少し長くなるが引用しておきたい。


     * * * * *


 第1条  魂、ないし霊は、地上における肉体生活を通じて克服できなかった未熟さを、すべて、霊界においても引き受けなければならない。霊界において幸福になるか不幸になるかは、地上生活を通して、どれだけ心の浄化を果たしたかによって決まる。
 第2条  完全な幸福は、心を完全に浄化したときに与えられる。未熱さが残っているかぎりは、苦悩から脱却することはできず、喜びは制限される。逆に言えば、悟りが高まるほど、喜びが深まり、苦悩から自由になるのである。
 第3 条 たった一つの欠点から不幸が生じるのではなく、また、たった一つの長所から喜びが生まれるのではない。苦しみの総量は、欠点の総量に見合っており、喜びの総量は、長所の総量に見合っているのである。
 たとえば、十の欠点を持っている魂は、三つの欠点を持っている魂よりも苦しみが大きい。十の欠点のうち、半分を克服すれば、苦しみも、それだけ少なくなり、欠点をすべて克服すれば、苦しみはまったくなくなって、完全な幸福を得ることができる。ちょうど、地上において、病気を何種類も持っている人間が、一種類しか病気を持っていない人よりも苦しむのと同じことである。
 また、十の長所を持っている魂は、三つしか長所を持っていない魂よりも多くの喜びを得ることができる。
 第4条  魂は、進歩の法則に基づき、意志に基づいて努力しさえすれば、みずからに欠けている長所を獲得し、すでに持っている欠点を取り去ることができる。つまり、どの魂に対しても、未来は開かれているのである。
 神は、みずからの子供を見放すことはない。魂が完成に近づけば近づくほど、より大きな幸福を与える。魂みずからがあげた成果を、すべて魂自身に還元するのである。
 第5条  苦悩は未熱さから生じ、幸福は成熟から生まれるものである以上、魂は、どこに行こうとも、自分を処罰する原因をみずからの内に持つ。罰を与えるための特定の場所は必要ないのである。
 したがって、地獄とは、魂が苦しんでいる、その場所にあると言える。それは、天国が、幸福な魂がいるところに存在するというのと同じである。
 第6条  人間がなす善、または悪は、みずからの内にある長所、または欠点の産物である。なし得る善を行わないというのは、したがって、未熟さの結果である。
 未熱さが苦しみの原因である以上、霊は、地上において、なした悪によって苦しむだけでなく、なし得たにもかかわらず、なさなかった善によっても苦しむ。
 第7条  霊は、自分のなした悪がどのような結果を招いたかまで、つぶさに見せられるので、反省が進み、更生への意欲が高まらざるを得ない。
 第8条  神の正義は無限である。すなわち、善と悪は、すべて厳正に評価される。それが、どんなに小さなものであれ、たった一つの悪しき行為、たった一つの悪しき思いでさえ、見逃されることはなく、それが、どんなにささやかなものであれ、たった一つのよき行為、たった一つのよき思いでさえ、評価されないことはない。
 どのような邪悪な人間であれ、それが、どんなに些細なものであれ、善をなせば、それは必ず評価される。その瞬間こそ、向上への第一歩だからである。
 第9条  あらゆる過ち、あらゆる悪は、債務となり、必ず、それを償わなければならない。ある転生で、それが返済されなかった場合には、それは、次の転生に持ち越される。そこでも償われなければ、さらに次の転生に持ち越される。
 というのも、すべての転生は関連しているからである。もし、いまの転生で弁済した場合には、二度と支払う必要はない。
 第10条  霊は、霊界においても、物質界においても、みずからの末熱さに由来する苦しみを引き受けなければならない。
 物質界で引き受ける、あらゆる悲惨、あらゆる不幸は、われわれの未熱さの結果、すなわち、今世、あるいは、それ以前の転生でなした過ちの償いである。したがって、地上で経験している苦悩、不幸の性質を分析してみれば、自分が、今世、あるいは過去世でなした過ちの性質が分かるし、その過ちの原因となった自分の欠点の性質も分かるはずである。
 第11条  償いは、犯した過ちの重さと性質によって、それぞれ異なる。したがって、同じ程度の重さの過ちであっても、それが犯された状況に応じて、軽減されたり加重されたりする。
 第12条  償いの種類と期間に関しては、絶対的な、あるいは画一的な決まりがあるわけではない。唯一の普遍的な決まりは、「それが、どのように評価されるかに応じて、過ちは罰を受け、善行は報いを受ける」ということである。
 第13条  罰の期間は、罰を受けている霊が、どれほど向上したかに応じて変化する。前もって期間が限定された罰というものは存在しない。霊が深く反省した上で向上を果たし、善の道に戻ったとき、神が、その罰に終止符を打つのである。
 そのようにして、霊は常に自分の運命を自分で決めることができる。かたくなに悪にとどまりつづけることで、苦しみを長引かせることも可能だし、努力して善をなすことによって、苦しみを和らげ、その期間を短縮することも可能なのである。
 期間があらかじめ決められている処罰は、次の二点で不都合をはらんでいる。
 まず、すでに向上を果たした霊をそのまま罰しつづける可能性がある。次に、まだ悪から脱していない霊を解放する可能性がある。
 神は正義であるから、悪を、それが存在しつづけるかぎりにおいて罰するのである。言葉を換えて言えば、悪は、結局は心の問題であり、それ自体が苦しみの原因となるから、悪が存在するかぎり、苦しみも続くというわけである。心の中の悪がなくなるに応じて、苦しみもまた軽くなる。
 第14条  罰の期間は向上のいかんにかかわっている。したがって、罪を犯した霊が向上しないかぎり、苦しみは続く。それは、その霊にとっては永遠に続くように思われるだろう。
 第15条  反省しない霊は、苦しみがいつ終わるか、まったく分からないので、それが、あたかも永遠に続くかのように感じる。そのために、「永劫の刑罰を受けている」と思うのである。
 第16条  悔悟が向上への第一歩である。しかし、それだけでは不充分であって、さらに、償いが必要となる。悔悟と償いによって初めて、過ちと、その結果を消し去ることが可能となる。
 悔悟によって希望が生まれ、再起への道が開かれるので、悔悟は償いの苦しさを和らげることになる。しかし、償いを行って初めて、罪の原因が消滅し、したがって、その結果である罪も消えるのである。
 第17条  悔悟は、いつでも、どこでも生じ得る。悔悟が遅れれば、それだけ苦しみは長引く。
 償いとは、肉体的、精神的な苦痛のことであり、犯された過ちに付随する結果である。この世で始まることもあり、死んでから霊界で行われることもあり、あるいは、次の物質界への転生の際に行われることもある。過ちの痕跡が消滅するまで続くのである。償いとは、自分の悪事の対象となった人に対して善を行うことである。
 みずからの弱さ、あるいは、意志の欠如によって、今世じゅうに過ちの償いができなかった者は、今後の転生において、みずからが選んだ条件のもとに、その人と出会うことになる。そして、自分が犯した悪に見合う善を、その人に対して行う必要があるのである。
 あらゆる過ちが、直接、目に見える犠牲を引き起こすとは限らない。その場合には、次のようにすれば償いが完了する。
 なすべきであったにもかかわらず、なさなかったことをなす。怠った、あるいは無視した義務を果たし、成し遂げられなかった使命を完了させる。
 また、すでになした悪に見合う善を行う。つまり、倣慢であった者は謙虚になり、冷酷だった者は優しくなり、エゴイストだった者は思いやりを持ち、悪意に満ちていた者は善意の人となり、怠け者だった者は勤勉となり、無用だった者は有用な人間となり、放蕩を行った者は節度を取り戻し、悪しき見本だった者はよき見本となる。そういうことである。こうすることによって、霊は、過去を有効に利用することができるのである。
 第18条  悪霊となった者は、幸福な世界から排除される。そうしないと、幸福な世界の調和を乱すからである。
 彼らは、下位の世界にとどまり、辛酸をなめつつ、償いを果たす。そうして、徐々に未熱さから脱していくのである。 その結果、優れた世界に移動していくことが可能となる。
 第19条  霊には、常に自由意志があるので、向上は、ときには遅く、また、いつまでも悪を改めない者もいる。何年も、何十年も、さらには、何世紀も悪にとどまる者がいる。しかし、その空いばりにもかかわらず、最後には、苦しみに屈服し、神に反抗することをやめ、至上者の権能を認めざるを得なくなる。悔悟の最初の光が心に射しはじめるや、神は、それに応じて希望をかいま見させるのである。
 いかなる霊といえども、「向上の可能性がいっさいない」という状況に追い込まれることはない。だが、みずからの自由意志を行使して、霊自身が、進んで、永遠に劣った状態に身を置き、あらゆる被造物に適用される、神聖なる進化の法則から逃れつづけることは、可能である。
 第20条  霊がどれほど未熟であろうと、邪悪であろうと、神が霊を見捨てることはない。どの霊にも守護霊が付いており、その心境の変化をうかがい、彼らの内に、よき思い、向上への欲求、犯してしまった悪を償おうとする気持ちを起こさせようとして、働きかけている。
 一方では、指導霊が、決して強制することなく、本人には知られないかたちで働きかけている。霊は、外部から何らかのかたちで強制されるのではなく、自分自身の意志で向上していかねばならないからである。自由意志を発揮して、よい方向にも悪い方向にも進めるが、「どちらかの方向に、強制的に追いやられて、引き返すことができなくなる」ということはない。
 悪をなした場合、悪の道にとどまりつづけるかぎり、その結果としての苦しみを引き受けつづけざるを得ない。善に向かって一歩でも歩みを開始すれば、ただちに、その成果は表れはじめる。
 第21条  各自が責任を負うのは、自分が犯した過ちに対してのみである。何人といえども、他者の罰を引き受けることはない。ただし、みずからが悪の手本となり、他者にも悪を犯させた場合、また、悪の発生を防ぐことが可能であったにもかかわらず、それを行わなかった場合は別である。
 また、自殺は常に罰せられる。冷酷さによって他者を絶望に追いやり、その結果、自殺せしめた者は、自殺した者よりも重い罰を受ける。
 第22条  罰の種類は無限にあるが、未熟な魂に対する罰は、ある程度、決まっている。ニュアンスの違いは多少あるが、結果的にはだいたい同じである。
 霊的進化を怠り、物質に執着した者に対する罰は、まず、「魂と肉体の分離がなかなか行われない」ということである。死の苦しみが続き、霊界への移行が困難となる。その混乱の期間は、場合によっては、数カ月、数年に及ぶこともある。
 それとは逆に、意識の浄化が進んでいる者は、生前からすでに霊的生活を送って物質から解放されているために、肉体と魂の分離は動揺もなく急速に行われ、霊界への穏やかな目覚めを得ることができる。この場合、混乱はほとんど見られない。
 第23条  精神的に未熟な霊は、死んだのにもかかわらず、自分がまだ生きていると思うことが多い。この錯覚は、数年にわたって続くこともあり、そのあいだじゅう、彼は、地上生活における、あらゆる欲望、あらゆる苦悩、あらゆる不都合を感じつづける。
 第24条  犯罪者は、自分の犯罪の犠牲者、犯罪が行われたときの様子を、繰り返し再現して見せられる。これは実につらいものである。
 第25条  ある者たちは、漆黒の闇の中に放置される。ある者たちは、絶対的な孤立の中に置かれる。自分がどこにいて、この先どうなるのかが、まったく分からないのである。
 最も重大な罪を犯した者たちは、最も厳しい拷問を経験するが、いつ終わるか分からないだけに、それは本当に耐えがたいものとなる。大多数は、親しかった者たちに会うことを禁じられる。原則として、全員が、犠牲者が味わったのと同じ痛み、苦悩、欠乏を経験させられる。
 やがて、悔悟ならびに償いへの欲求が生じると、苦痛は和らぎはじめ、そうした苦しい状況に、自分自身で終止符を打てるという可能性が見えてくる。
 第26条  傲慢に暮らしていた者は、自分が地上にいたときに軽蔑していた者たちが、栄光に包まれ、人々に囲まれ、称賛されて、はるかな高みにいるのを見る。自分は最下層に落とされているのに、である。
 偽善者は、光に貫かれて、心の奥に秘めていた考えを全員に暴露される。逃げも隠れもできないのである。官能に溺れていた者は、あらゆる誘惑、あらゆる欲望にさらされるが、決して満足を得ることができない。守銭奴だった者は、自分の金がどんどん他人によって使われるのを見るが、それを防ぐすべはない。
 エゴイストだった者は、全員に見捨てられることによって、かつて自分が他者に与えていた苦しみを経験するのである。喉が渇いても、誰も水をくれない。腹がすいても、誰も食べ物をくれない。誰も手を差し伸べてくれず、誰も慰めの声をかけてくれない。彼は、生前、自分のことしか考えなかったので、彼が死んでも、誰も彼のことを思ってくれないし、誰も悲しんでくれないのである。
 第27条  死後、みずからの過ちの結果としての罪を避けたり、あるいは軽減したりするには、生きているあいだに、できるだけ、それを解消しておく必要がある。そのためには、充分な反省を経て、その悪事を償うことである。そうすれば、死後に、もっと恐ろしいやり方で償うことを免除される。
 過ちを解消する時期が遅れれば遅れるほど、その帰結は、より苦痛に満ちたものとなり、果たすべき償いは、より厳しいものとなる。
 第28条  死後の霊の境涯は、生前の心境に正確に対応したものとなる。やがて、新たな転生輪廻の機会を与えられるが、それは、新たな試練を通して償いを果たすためである。
 だが、それも、すべて彼の自由意志に任されているため、もし、その機会を充分に生かさなかったとしたら、さらに、次の転生で、今度は、もっと厳しい条件のもとに再度チャレンジすることになる。したがって、地上生活を通じて、多くの苦しみを経験している者は、「それだけ、自分には償うべき過去の過ちがある」と自覚することが大切である。
 また、悪徳を重ね、社会に役立つことをしていないにもかかわらず、表向きは幸福を享受しているように見える人間がいるとすれば、次の転生で高く支払わされることを覚悟しなくてはなるまい。そうした意味を込めて、イエスは次のように言ったのである。「苦しむ者は幸いである。彼らは慰めを得るであろう」
 第29条  神の慈悲は無限である。だが、神は一方で極めて厳格でもある。神が罪人を許すということは、罪を免除するということではない。罪人は、その罪を償わないかぎり、過ちの帰結を引き受けざるを得ない。
 神の慈悲が無限であるとは、「神が、善に戻ろうとする罪人に対して常に扉を開いて待っていてくださる」という意味であり、「本当に悔い改めた者は必ず許してくださる」という意味なのである。
 第30条  罰は一時的なものであり、自由意志に基づく悔悟と償いによって解消されるが、それは、罰であると同時に、また、悪を犯すことによって傷ついた心を癒すための治療でもある。したがって、罰を受けている霊は、徒刑を科せられた罪人というよりも、むしろ、病院に収容されている病人と見るべきなのである。
 この病人たちは、みずからの過ちの結果である病気に苦しみ、また、それを治すためのつらい処置も受けなければならないが、治る希望を失っているわけでは決してない。そして、思いやりを込めて医者が書いてくれた処方箋に、忠実に従えば従うほど、治る見込みは高くなるのである。処方箋に従わない場合、医者にできることは何もない。
 第31条  霊は、地上に転生してくると、霊界で決意してきた解決手段を実行して、過去世で集積した悪を償おうとする。
 したがって、一見、存在理由がないように思われる、種々の悲惨や不遇などにも、本当は、それなりの、しっかりした理由があるということを知らなければならない。それらは過去の悪行の帰結であって、われわれが進化するためには必要不可欠なのである。
 第32条  「神が、人間を、決して間違いを犯さないように完璧に創ってくだされば、人間は、未熱さに由来する不幸を経験しなくても済んだのに」と思う人もいるかもしれない。神が、知識においても精神性においても完璧な人間を創ろうと思えば、当然、そうできたはずである。だが、そうはなさらなかった。というのも、叡智に満ちた神は、進化の法則にすべてを委ねることを選ばれたからである。
 人間が不完全であり、したがって、程度の差はあれ、必ず不幸に見舞われるということは事実であって、認めざるを得ない。すでに、そうなっているからである。そのことをもって、神が善でもなく公正でもないと考えるとすれば、それは神への反逆となるだろう。
 たとえば、もし、あらかじめ神から特権を与えられており、他の人間が苦労しなければ手に入れられない幸福、あるいは、他の人間がどんな苦労をしても決して手に入れられない幸福を、何の努力もなしに与えられるような人間がいるとすれば、それは、神が公正さを欠くということにもなるだろう。
 しかし、霊は絶対的な公平さのもとに創られたのである。あらゆる霊は同じように創られた。最初に創られたとき、その能力には差がまったくなかった。例外的な扱いを受けた霊はただの一人も存在しなかったのである。目的に達した霊は、必ず、他の霊と同様に、未熟な状態から試練の段階を経て徐々に向上していった霊なのである。
 以上のように考えてみれば、行動の自由が全員に与えられていることになり、これ以上、公平なことはない。幸福への道は全員に開かれているのである。
 目的も、全員同じである。目的に達するための条件も、全員同じである。そして、そのための決まりも、全員の意識の中に、しっかりと刻み込まれている。神は、努力の結果として、全員に公平に幸福を与えてくださるのであって、特別措置によって、限られた者にだけ幸福を与えるわけではない。
 各人は、努力することにおいて、また、努力しないことにおいて自由である。一生懸命、努力する者は、早く報いられる。途中で迷ったり、道草を食ったりする者は、当然、目的地に着くのが遅くなる。しかし、それも、すべて自分の責任である。
 善を行うのも、悪を行うのも、各人の自由に任されている。まったく自由であって、どちらかの方向に強制的に向かわせられるということはない。
 第33条  未熟な霊を待ち受ける苦しみは、その種類も程度もさまざまであるが、死後の運命を決める規則は、次の三つの原理に要約される。
 ①  苦しみは未熟さから生じる。
 ②  あらゆる未熟さ、そして、それに由来する、あらゆる過ちは、それ自体に罰を内包している。不摂生をすれば病気になるように、また、無為が必ず退屈につながるように、未熱さは、必然的に、過ち、そして罰という帰結を生み出す。したがって、それぞれの過ち、また、個人ごとに、特別の罰を考え出す必要はない。
 ③  人間は、誰でも、意志の力によって、その未熟さから脱することができ、したがって、未熟さの当然の帰結としての悪を免れることができる。そして、そのことによって幸福になれるということが保証されている。

 以上が、神の正義による法である。すなわち、霊界においても、地上においても、各人の努力に応じた結果が与えられるということである。

       (アラン・カルデック「前掲書」、pp. 316-332)





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                         【参考資料 15】 (2011.10.19 )
                            大空澄人氏 HP「いのちの波動」より許諾を得て転載

          死後の世界   (1,2,7,9,11を転載)

  1. 死後の世界はあるのか

最近のスピリチュアル系の本などの影響で死後の世界は存在するということは人々のコンセンサスになりつつあると思います。死んだら全て終わりと考えるのと死後の世界はあると考えるのでは人生は全く違ったものになってしまいます。

以下は私の実体験から得られた死後世界に関する情報です。

父が亡くなってから15年近くになりますが今まで数え切れないくらい情報交換がありました。夢で、仏壇で、墓で死者は我々に情報を伝えようとしています。しかし普通はこの世とあの世では波長が違うので我々が普通この世で用いるような手段ではコミュニケーションをとる事は出来ません。夢で意思を伝えようとすることは多いようですが残念ながら多くの人は目覚めた時に内容を忘れてしまっています。

数年前に私は奈良の法華寺の有名な十一面観音の写真の入った額を仏壇に置いたことがありました。その夜夢のなかではっきりと父の声がして「応接間の風通しが悪い」というのです。はて応接間とは?と思いましたが、ああ仏壇の事かとわかりすぐにその額を降ろしました。父は見知らぬ仏像の写真を置く事が気に入らなかったのでしょう。それから西国巡礼にも行きたかったらしく遍路の衣装で私と父と2人で巡礼に行っている夢もありました。それ以後私は巡礼などに行くときは父のことを意識しながら行く事にしていました。当時は仏壇の前でお経を唱え始めたころでした。その頃は読経をしているとピシッとかバキッという音(いわゆるラップ音)がしょっちゅうしていました。夜一人でやっていたら怖かったものです。お盆の時は一段と大きな音が聞こえ蝋燭の向こうに影が写ったり家の飼い犬が吼えたりとそれは賑やかなものでした。今思えば先祖の方々で成仏出来ていない人達だったのかそれとも私が拝んだりするのでビックリしたのかもしれません。今は皆さん成仏されたのか実に静かです。

仏壇で位牌や写真を見て父の声や生前の姿を思い浮かべていると大体意識が繋がっているようです。瞼の裏にかすかにイメージを感じることができるようになれば繋がっていると考えて間違いないようです。今父がどうしているかというと、これはごく最近の交信です。
父はあの世で学校のような所に行き何かを学んでいるようです。人間関係や時間に束縛されることもなく自由に楽しく生活できるのだそうです。「自分の生前の事を思い出すと一般に人が人生で追い求めるものは大して意味のあることではなかった。様々な事で葛藤してきたが今思えばそれは空しいものであった。今はとても良い所にいて快適だ、知り合いで苦しんでいる者がいるけど早くこっちに来ればいいのに。今の家や将来の事でもお前が好きなようにしたらいい」。そして何か馬のようなものに乗って去って行きました。もうこの世の事には殆ど関心がないという感じで仏壇の事で注文を付けていた頃とは違います。見えるビジョンはレースのカーテンを3枚ほど重ねて見たという感じです。我々がこの社会で普通に人々と会話したり姿を見たりする事に比べるとその鮮明度は低いものです。

さて亡くなった人たちは一体どこにいるのでしょうか?空の上や月にいるのではなくすぐ傍にいるようです。コインの裏表と言ったらいいでしょうか。彼らのいるところは我々肉体を持っている者たちには普通感知できないようになっているようです。説明に適切な言葉を見つけるのは難しいのですが次元の違う所にいるということです。我々がいる所は3次元の世界、亡くなった人たちがいるのは4次元の世界で向こうからはこちらの事はわかるけどこちらからはあちらの事がわからないということです。しかし眠った時には意識が自由になり4次元の世界に行ったり来たりしているのだそうです。

その4次元の世界では時間というものはこの世と測り方が違い過去、現在、未来が全て一つのものとして認識できるらしいのです。4次元の世界の上には5次元、6次元というレベルがありさらに上に上がると宇宙の創造主のところに到達するようになっている。霊が進化していくにつれ上の次元に登っていくらしいのです。地上界(我々のいる世界)、霊界、神界というような構造になっているそうです。詳しいことはスピリチュアル系の本に分かりやすく説明されています。

さて昨夜と今日の朝父との交信がありました。内容をここに載せるにあたっては父の了承を得ております。

10月19日夜
「こちら(あの世)に来てからそっちの世界(この世)で積もった塵をきれいにするのに何年もかかった」。向こうに山がありそこにはチベット寺院のような建物がみえる。そこは眩しいくらい光にあふれていてその前で父がにこやかに微笑んでいます。

10月20日朝
山と波静かな湖が見え手前が草原になっていてそよ風が吹いています。草が風になびいています。そこに父が立っていて付近に美しい女性も含め何人かの人がいますが皆優しい笑みを浮かべています。父のメッセージです。
「ここには心を乱すようなものが何一つなく人々は皆仲良く協力しあって生活している。こちらの景色は実に素晴らしい。その美しさは実際にこちらに来てみないとわからない。地上界(我々のいる世)での生活はものの道理を理解することが大切であり結果はあまりこだわる必要はない。なぜならそちらは仮の世界、修練の場なのであり真実の世界はこちらにある。そちらでは努力の結果が正しく出るということが少ないがその過程において学ぶ事に意味がある。成功して何かを手に入れるということが最終目的ではないのだから」。



  2. 死後世界とは

私は死後の世界は確実にあると思います。私が仏様を観想して得られた情報は次のようなものです。

「一般の人が考えている死ということは肉体がなくなるということで生命そのものは次の次元に移行するということである。多くの者は死んだということに気が付かない、何故ならまわりの環境は肉体を持ち地上界で生きていた時と比べて大きく変わらないように見えるからである。しかし死後の世界は肉体の束縛から自由になるので自分の想念がすべてを作る。自分の思うとおりの世界が現れるということ。例えば肉体を養う必要がないので金は必要なく自分がしたいことに打ち込むこともできるし行きたいところにも行ける。自分の意識の範囲内で自由であるということ」。

死ぬということは終わりではなく次の次元へのスタートである、または本来の所に帰るということではないかと私は思っています。弘法大師空海の言葉に「阿字の子が阿字のふるさと立ち出でてまた立ち帰る阿字のふるさと」というものがあります。これはご詠歌でもよく詠われています。人は阿字(真言密教でいう大日如来すなわち宇宙の命の根源)の分身でありその故郷からこの世に来ていたものが役目を終えて再び故郷(大日如来)に帰るということを謳ったものですが正にその通りであると思います。私の地方では中陰供養(初七日、二七日、三七日など)の時にこのご詠歌(梵音といいます)が唱えられていますがこれを唱える事によって死者を迷うことなく正しく導こうとしているのです。

以下は書籍などに一般によく書かれている死後の世界の説明です。

死者は自分の心の波動に合った所へ自動的に引き寄せられて行く。様々な煩悩や未練を持ったまま死ぬとそういう世界に行く。欲や恨みや怒りにあふれた世界、云わば地獄のようなところに行く事になり心が浄化されるまでなかなか上に行けない。そこにはこの世と全く同じものがあり自分が死んだという事が理解できない者もいる。一方死ぬまでに死後世界のことを理解し一応この世の欲などを卒業したものはもっと上のほうのレベルに進むことができる。これは閻魔大王が関所で振り分けるのではなく自動的にそうなる。魂は進化していくので次第に上のほうに上がっていくようになる。そしてある期間をあの世で過ごした後に本人が望めば再びこの世に生まれ出てくる。

最近の精神世界の主な説ではグループソウル(類魂)というものがありそこでは自分の仲間の集合体がある。霊の家族ともいうべきグループソウルは常に進化を目指しているのでいろいろな事を学ぶ必要がある。地上界でしか学べないことがあるのでそれを体験するために其の中の一人が地上に派遣されこの世で一生を過ごし学んだ事をその集合体に持ち帰り情報を共有する。派遣は本人の自由意志が尊重されるがテーマを与えられて地上に派遣される。自分の人生での宿命や生まれついての性格、考え癖などは自分ひとりのものではなく集合体として持っているものから来ている。派遣された者は死後に情報を持ち帰るだけではなく睡眠中に集合体本体に自分が得たものをフィードバックしている。

グループソウルは常に地上に派遣された者を見守りその喜怒哀楽をともにしている。派遣された者が死後迷った場合はグループソウルが助けようとする。最後はグループソウルに帰還して融合するが自己というものは失われることなく一個人として個性を維持する。そして再び進化の道をたどる。

 7. この世とはどういうところか

父の話や自分の感覚、書籍などに表されているあの世(様々なレベルがありますが)というのは共通の波動を持った者たちがそれぞれに階層を作って住み分けをしているようであります。霊界の上のほうでは安定していて平安寂静な世界なのだろうと思います。これこそが極楽というところなのでしょう。

一方この我々が住む地上界はピンからキリまであらゆるものが混在している世界ではないかと思います。極端な貧富の差もあり、極楽のようなところもあり地獄のようなところもあります。人が10人集まれば必ず気の合わない人がいて問題が起きたりします。しかし嫌でも付き合わなければならないという事情があるとそこから抜けられません。これが天国なら気の合わない者が一緒のグループに入るという事はないのでしょう。

感情の面では喜怒哀楽全てのものが存在して極端から極端に動きます。喜びの感動に震える事もあれば怒りの感情が爆発する事もあり悲しみに涙する時もあり人を憎んだり妬んだりもします。良くないと知りつつ悪感情を持ってしまうのが人間です。そういう事が起きる原因は我々が物事を主に物質の眼で見るからではないかと思うのです。

人間はこの世で肉体を持ち、まずはそれを養わなくてはならず様々な物質に囲まれて生活しています。生き延びる為には他のものを犠牲にしなければなりません。果てしのない競争社会、思想や人種の違いから争いが起こり憎しみ合い、殺し合いにまで発展します。ここは嫌な所だと思っても肉体を持っている以上自由に移動する事はできません。またお金、家、土地、財産、社会的地位というものに無関心でいる訳にはいかず、どうしてもそれに捉われます。つまりここでの生活は自分の肉体も含め物質に縛られているといえるでしょう。

最近のスピリチュアリズムによれば宇宙の生命系全体を霊界と呼び私達が現在生活しているこの地上世界を物質界、それ以外を非物質界というふうに定義づけています。つまりこの世も霊界ではあるが物質に頼って生活しているので宇宙生命系から見ると特異な場所であるという事です。霊とは命という事です。私達の肉体も霊(命)が宿って初めて機能を発揮することが出来るのです。霊というと何かおどろおどろしいものという捕らえ方をされがちですがそうではないのです。霊という言い方に抵抗があるならば“意識”という言葉で表現してもいいと思います。

私達が日常感じられる意識を顕在意識と言いますがそれは本来の自分が持っている意識の一部にすぎないのです。意識の本体を潜在意識といい日常生活の上ではそれを自覚することは殆どなく夢とかひらめきという形で現われて来るものです。本来の自分が持っている意識の潜在能力は高いのですがこの地上生活では自分の肉体の中に封じ込められてその能力の一部しか使えないようになっているようです。本来の意識のポテンシャルは発揮できずそういう観点からはこの世は随分と不自由なところだと思います。そういう場所へ何を好き好んで人は輪廻転生してくるのでしょうか。



  9. 悠久の時を生きて

私達の命は宇宙の創造主から授かったもので悠久の時をこの宇宙と共に進化しながら生き続けるものだと思います。私達自身が創造主の分身であり神の子、仏の子であります。死というものはこの世の生活を終え肉体と別れ本来の場所に帰っていくことです。死んだら全て終わりでは断じてないのです。また我々がこの世にいる期間は極めて短いものだと思います。故郷に帰った私達はこの物質界の束縛を離れ自由なところでこの世で学んだ事を知恵として身につけ一段と成長していくのです。

私達がこの地上界に来る目的は学ぶ為でありそこは物質界、肉体があることによって一つの出来事を何倍にも実感として味わう事ができ、それは魂に深く刻み込まれます。そしてこの地上界は様々な事を実地してみる、テストしてみる場でもあると思います。それは一つの冒険であり楽しくもありリスクも伴うでしょう。新鮮な実体験をする場所がこの地上界(地球生命系)ではないでしょうか。生命系の辿るコースの中に必須として組み込まれているのでしょう。

そこは道場のようなところなので当然試練もありますが自分の身の丈以上のものは来ません。必ず自分の能力の範囲内で乗り越えることが出来るはずです。それを乗り越えた時一段の進歩があります。例え思ったような結果が出なくても悲観することはありません。それに向かって努力することに意義があるのですから。それによって人は多くのものを学ぶ事が出来るのです。

また自分の身の回りに起きる事は全て必然、無意味に起こるものはありません。自分が過去にやった行いの結果が現れてきているのでそれを素直に受け止めたらいいのです。全ては宇宙の法則によって動いているのでその流れに逆らうことなく乗っていけばいいのです。人との出会いも全て偶然ではありません。一期一会という言葉がありますがこの人生における出会いにも全部意味がありそれは現世だけでなく過去から続いていたかもしれないし将来どこかで再会するかもしれないのです。そういうことを考えると面白いものです。私も還暦間近、この世で生活する期間はもうそれほど長くないでしょう。残りの人生を新たな発見にワクワクしながら生きていきたいと思っています。



  11. この世を終わる前に

数年前から親族の高齢者が次々と病気や認知症などで人生の最終局面に向かう姿を何人も見てきました。彼らはいずれも家族の手を煩わせ、一旦は家族にとってこれ以上面倒を見るのはもう限界だと感じさせるレベルまで状況は悪化しています。しかしいずれのケースも予期しなかった事が起きて事態は劇的な変化を見ています。それらは何処からともなく救いの手が差し伸べられて収まるべきところに収まっています。世話をする人達にとっては救われたと感じられるものなのです。

認知症で家族の重荷になっていた老人が急に発熱して倒れ、熱が引いた後で空きが無かったはずの老人施設から空きが出た旨連絡が入り即座に入所する事ができた。そして入所後は今までとは別人のように性格が温和になり快適に施設で毎日を過ごしているというケース。

それからこれもかなりの認知症で問題行動が多くもう家庭内で世話をするのは限界なので老人施設に入所させた所、そこでも持て余すようになり家族は思案に暮れていたところ本人が突然の大怪我で入院、歩けなくなりほぼ寝たきりの入院生活をしているうちに今までの険しい性格は影を潜め穏やかな顔つきに変わってしまった。そして退院と同時に他の老人施設に空きがあることが分かりそこに入所、今では問題を起こす事も無く日々穏やかに暮らしている。

もう一つは2人住まいの老夫婦で夫は傍から見れば最近心身の衰えが目立ってきたにもかかわらず長年の自分の生活のペースを変えようとしない。自分の身の回りのことが出来なくなり妻や周囲の人の力を借りながら生活するようになった。それでも彼は周囲のアドバイスは聞き入れず医療機関で精密検査も受けることもせず介護サービスを受ける事にも消極的で頑固に今までのペースを変えようとはしなかった。もう年老いた妻による介護も限界に達し、このまま行けば共倒れになるしかないと感じさせるものであった。

そんな矢先ある朝彼はついにベッドから起き上がれなくなり、病院に運び込まれることになる。色々調べた結果様々な病気が重なり合っていることがわかり入院生活が始まる。老妻はそれにより今までの彼女の能力の限界を超えた介護から解放された。病気が発見されて入院するという結果だけ見るとそれは不幸な事と捉えられるかもしれないがそれは状況が一つ先の段階に進んだ、一つの問題が解決したと言える事である。

以上の老人達の状態を観察していると環境が変わった後いずれもよく眠るようになり、そうなると表情が以前と変わってきたのです。柔和な顔つきになり、子供のようなあどけなさを見せる事もあります。私は老人の問題で悩んでいる親類の家の仏壇を何度か拝んだ事がありますがその時そこに掛けられている先祖の写真や位牌がよく語りかけてきます。「おまえの力を貸しておくれ」とか「あれは(その人の子で今病気)子供の時甘えん坊だったからね、今まで一杯好きなことしてきたからもうこの辺でいいよ」というふうに意思を伝えてきます。以前私の母が深夜家で倒れた時は家の仏壇から一筋の光が母のほうに向けて差し込んできました。その直後母は動転した気持ちも治まり朝まで静かに眠る事が出来ました。

これらの現象を見ると人間が人生の終わりに近づく時、先祖の人たちは見守ってくれていて事ある時には救いの手を差し伸べてくれるのだろうと思います。そしてこれから赴く死という過程を問題なくクリアーできるように導いてくれているのでしょう。眠っている間に魂は先祖や守護霊の指導を受けているに違いありません。一生を振り返ってみて今後どういう心構えが必要なのかとか色々教育をされているのでしょう。「姑が私にありがとうと言ってくれた。こんな事は今まで何十年も一緒に暮らしてきて初めてよ」とは今まで一緒に暮らして世話をしてきたお嫁さんの言葉です。また頑固に自分のペースに固執してきた老人からも「ありがとう、ありがとう」という言葉が自然に出るようになってきました。いずれもよく眠るようになってからです。守護霊や先祖の人たちはその人間がこの世を去る時期も分かっているでしょうからそれに向けて色々と準備をしてくれているのでしょう。死ということは残された家族にとっては悲しい別れと感じるものかもしれませんが当人は今生での重荷から開放され喜ばしいことなのです。この世は修行の場であってリスクもあり大変な世界なのです。霊界では親しい人達との再開も果たせるし、先に行って待っていたペットが大歓迎してくれるのだそうです。誰よりも先に飛びついてくるので他の人たちが近づけないほどだとか。

人生の最終局面にある人たちの心の動きについて弘法大師よりメッセージを頂いたので2月17日の神仏の声に掲載しました。

            「いのちの波動」⇒ http://ww81.tiki.ne.jp/~okwhiro/



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                         【参考資料 14】 (2011.10.18 )
                             大空澄人氏 HP「いのちの波動」より許諾を得て転載

                  
      真理を求めて  1~11を転載)


 1.始めに

私たちは今未曾有の環境変化のなかにあるようです。地球的規模の気候変動、スケールを増す自然災害、また民族間の対立激化、政治や経済の混乱、過去に例を見ない凶悪な事件の頻発など過去何十年、何百年のあいだにしか起きないことが極めて短期間に集中的に起こっているように感じます。一体この先どうなるのでしょうか。この不安感は誰もが抱いていることでしょう。科学の世界では色々な説が出回っていますが確定的なものはありません。また宗教界においても今の人心荒廃に対する的を射た答えは見当たりません。一体何がどう狂ってしまったのかテレビや新聞の記事を見るに付け不安感が増すばかりです。

そんな折、私は数年前から自分の人生の目的、人がこの世で生きる意味などを自分独自の方法で追求してきました。私は真言宗の信徒ではありますが僧侶でも神職でも学者でもありません。ごく普通の還暦間近の男性ですが子供達も自立し収入は減少したものの精神的に余裕が出てきたので仏教関係のことを学び始めたのです。きっかけは瀬戸内寂聴さんの法話集を聞いたことでした。それから四国遍路、西国巡礼などをこなす内に今までに見えなかったものが見えるようになりました。今流行の精神世界の事も研究しこれもその範疇に入るかもしれませんがヘミシンクといってある種の音響効果によって異次元の世界を探求できるというプログラム(自宅学習)も試みてみました。私の場合仏教を学びはじめた頃から不思議と絶好の環境に恵まれました。年齢、仕事環境、家庭環境、自然環境など全ての事が程よくバランスされそれはこの事を進めるために用意されていたかのようでした。何かに導かれてここまで来たというしか表現のしようがありません。

その結果今までの人生においては見る事が出来なかったものが見えてきて自分の人生の意味がわかり正しく自信をもって生きられるようになりました。私が今の時点で辿り着いたものは宇宙の摂理でした。そして因果律をもととして宇宙の全ての事は起こるべくして起きている、人の心の動きさえもがその中にあります。因果律すなわち因果の法則はお釈迦様が発見した事になっていますが日本では因果の法則と言えば何かそこはかとなく暗いイメージで捉えられているようですがそうではありません。宇宙はある目的をもって営みを続けているようです。その目的とは何か、それは愛と調和と進化を実現することであり因果律というルールを土台として全てのものが動いているようです。岩石や植物、動物など存在するもの全てです。何者もその法則から外れることは出来ません。そうであればそれに逆らうことなくその法則に素直に沿っていけばいいということになります。しかし日々の生活で次々に現われてくる目の前の出来事や洪水のような情報に振り回されてそんな事を考えてみる余裕などないというのが現実でしょう。

宇宙の法則はきわめてシンプルなものですが人は物事を難しく考えてしまうようです。わざわざ必要のない理屈をつけてそれに囚われるから余計真実が見えなくなります。私は殆どの人が回り道をしているのではないかと思います。宗教においても特殊な修行をした者にしか真髄が分からないとしたら一般の者がそこまで達するのは極めて困難ということになります。特別な修行をしなければ人は真理を知る事ができないのでしょうか。そんなことはありません。真理は単純明快、誰でもその中にいるのに気が付かないだけです。自由にものが言える一般人であるからこそ気付く事言える事をこれから表現していきたいと思います。2年前に弘法大師より受けた啓示があります。「真理はそれを捜し求めて見つけるものではない、いつも君達と共にある」

  2. 不穏な動き

この夏の異常な暑さは今まで体験した事のないものでした。9月の彼岸の頃でさえ30度以上の日が続きました。ちょっと前には新潟の地震、年金の問題、警察の不祥事、政界では突然の総理辞任、相撲界の混乱と今までの常識から考えられないような事件が休む間もなく起きています。特徴は今までなら隠し通せたようなことがあっという間に表面に出てくるようになっています。斧で親を切り殺すという事件がコピーでもしたかのように2件続けて起きました。異常に感じる事件を全部取り上げたらそれだけで終わってしまいそうです。マスコミは悪い事しか報道しませんから何故これほどまでと感じるのは当然のことです。私は自然災害も含めこれらの事は理由があって起きていると思っています。それは浄化の動きで悪いものを一斉に表面に炙り出そうという働きであると思います。今まで溜まりに溜まった人間のカルマ(業)を精算する動きのようです。それがスピードアップしているように感じます。

地球規模で地震、洪水、台風が次々と発生ししかもそのスケールが大きくなっています。地球は人間にとって母なる星、この地球は生き物が生きるために絶妙なコントロールのもとに置かれています。その母なる星も最近は人間による環境破壊でかなりダメージを受けておりその影響をどうにかしなければこのまま行けば人間が住めなくなるかもしれません。私は地球は単なる土と水で出来た物体ではなく意識というようなものを持った生き物であると思っています。当然ある外力が働けば反応が返って来るでしょう。自然災害もまた意味無く起こっているものではなさそうです。

私は空や雲を毎日のように観察していますが2年前あたりから太陽の光が一段と強まっているように感じます。夕焼けの美しさは素晴らしいものです。月も澄んだ夜空で妖しいほどに輝いており見ていると吸い込まれそうです。両手のひらをかざすとピリピリとするほどです。宇宙のエネルギーが強まっているようなのです。地上は混乱しているけれど宇宙は一段と浄化され清められていっているのではないかという感じさえします。私はオカルト趣味でも神秘主義者でもありませんが物のエネルギーに敏感でオーラが見えたり神社や寺に行くとよく声を聞きます。家の仏壇や神棚でも同じです。また予知夢というものも時々見ます。いわゆる霊能力というものが少し備わっているのでしょう。

ここからちょっとそういう世界に入ってみます。神社や寺などでそこの神様や仏様を観想し祈ると声が聞こえてくるのでこれを神仏の声ということにします。こういう話にはついていけないと言う人も多いと思いますが次の話をどう解釈されるかは個人の判断にお任せします。2年前に台風が接近してきている時に地元の八幡神社に行き台風がこの辺を直撃しませんようにと神様にお願いしたところ 「台風は自然現象が生むもの必然的におきるもの、晴れの日もあれば嵐の日もある。人間はこの自然の恵みのお陰で生きていられるのである。人間が自然のことをどうこうしようなどと考えることは思い上がりである。人は自然の中で生かされていることを忘れないように」というメッセージが返ってきました。

また家の神棚に奉っている天照大御神からは「台風など自然災害はある意味で新陳代謝の一つである。自然淘汰の意味がありそれにより新しいものが生まれてくる。人には試練かもしれないが何もなく平穏無事に生きていくならば鍛えられるということが無くなり進歩が止まってしまう。より一層の進化のために人類にとっては試練も必要なのである」ということでした。次にこれも家に奉ってあるお釈迦様からです。「自然は人が自然に接する態度に応じて反応する。やさしく接すればやさしく返ってくる。厳しく接すれば厳しく返ってくる。人間関係と同じこと、人も自然とつながっているから」。

こういう話は科学万能の現代社会では受け入れがたいでしょう。今まで現代科学は目に見えないもの、感じられないものは存在を認めないというスタンスを取ってきています。こういう神の啓示などという話をしていると下手をすると気違いあつかいされかねないのが今の社会ですが精神世界のことは未だ殆ど解明されていません。人の心の動きを科学でどう説明すればいいのでしょう。脳が全ての精神活動を司っていることになっていますが事実でしょうか。精神病患者の脳にどういう器質的な異変が起きているのでしょうか。何か目に見える変化が起きていることが分かればそこを治せば治癒することになりますがそれがわかりません。これら心の動きのことは未知の領域で殆どわからないというのが現実だと思います。他方私が得たこれらのメッセージの信憑性を証明する手段はありません。科学的に実証して見せることは現段階では不可能です。

このように神仏や死者の霊など普通はこの世界の人間には感知できないものと交信をすることをチャネリングといいます。チャネリングにも2種類あり一つはいわゆる神憑りという状態(トランス状態)でこの場合受ける側の自分の意識は殆どなくなりほぼ相手側の意識が流入して相手の言葉でしゃべるようになるといわれるものです。有名な恐山のイタコがそうです。また昔の神社の巫女もそうですが横に神審といって本物の神様が降臨してきているのか確かめる役の者が同席していたそうです。この神憑りは周囲の人が知らない時代の出来事や人名なども正確に伝えることがありうまく行けばかなり信頼性の高いもののようです。恐山のイタコは信頼できるのは一割に満たないという話もありますが真意の程は知りません。一方自分の意識はそのままで異次元の存在と通信する方法があります。これはどうしても自分の意識が入りという欠点があります。また自分の知識にないものを受信した場合それを言葉にして表現する事が出来ません。私が今までそういうメッセージを受けていたやり方は後者のほうですがこれは後でわかりました。誰でも実際は日常生活上でひらめきや夢という形で異次元との接触をしているけれどそれに気がつかないだけです。

その話の続きは後述しますが以上の神仏のメッセージを要約すれば人間は自然とともにありそれによって生かされているのだから自然の動きに逆らわずに生きるべきであるということを伝えていると思います。人は自然、宇宙と調和して生きるようにしないといけませんよと言っているのです。これは宇宙との一体化を謳う真言密教の教えと全く同じです。さて前述した自然環境の変動や社会の混乱は今後どうなるのでしょうか。私には分かりませんがここも神様や仏様にご登場願い意見を伺ってみました。

弘法大師
今世の中が大きく変化して動きが早くなっているがこれは時代の節目、今だけが特別というわけではなくそういうことは過去何回かあった。人生を大河を渡ることに例えるならば今は川の水が激流となっている。本物と偽者が振り分けられており偽者は生き残れなくなってきている。自分をしっかり定めて環境の変化に惑わされる事なく正しく物事を見つめ自分の心と向き合い本心に沿った生き方をするよう心掛けなさい。

須佐之男尊
今、地球を含めあらゆる自然環境が大きな変動期にある。物、財産、社会的地位や名誉など今までの価値観が大きく変わっていくことになる。真に価値あるものが判るようになるだろう。あらゆる生き物はこれからの環境変化により品種改良のようなことが行われるだろう。適応できないものは滅ぶ。今までの価値観は大きく変わることになるがこれは因果律の働きによる。誰かが意図的に行うものではなくそれはバランスを修正するための自然の働きである。それらの変化の後に人間は精神面の進化を見る。

観世音菩薩
今、宇宙のエネルギーが強くなっているため全ての現象が従来に比べて激しく現れるようになっている。それは今後も続くが物事に動じない強い心を持って生きなさい。

天照大御神
地球の自然環境の変化は必要があって起こっているもの。一人ひとりの人間はそれを認識しながらも過度に案ずることなく1日1日を精一杯生きればよろしい。どのような変化にも順応しなければならない。今のような現象は人類がかつて行ってきた業を清算するための動きでもあるがそれだけではなく様々なものが複合的に働いている。

お釈迦様
自然を注意深く観察していれば今後の変化が感じ取れるだろう。発想を柔軟にしておくことが大切である。今までになかったタイプの人間が現れてくるようになるがその準備は整いつつある。それは進化した人間の姿である。心にこだわりを持たずに生きていくことが大切である。

祓戸大神(穢れを払う神)
今の社会の混乱を引き起こしているものは人間のエゴである。科学技術の進歩に伴い人間のエゴは一段と強くなった。それがこれから削り取られて行くことになる。突出したものは因果律の働きによってバランスの修正が行われる。

これらのメッセージをどういうふうに理解するかは各自の判断にお任せします。誰もが潜在的にこのままではいけないという危機感を持っているはずです。占いや預言書の類も一杯出回っていますが皆が危機感を持っていることの現われだと思います。私個人的には人間は最終的には試練を乗り越えその後には今までよりも進歩したものが現われるのではないかと感じています。唯この先かなりの試練があるのでしょう。

人はこの世に生きていくうえでエゴというものはある程度必要でそれがなくなったら生きられません。生存本能から根ざした各種の欲はこの世で肉体を持って生きていくうえで必要なものです。機械文明が進み生活が便利になればなるほど人はわがままになります。日常生活の上で誰かの手を借りる必要が無くなって来るとどうしても自分ひとりでも生きられるかのような錯覚に陥りやすくなります。そしてお金、今やこの国では金のために生きている、金に魂を乗っ取られた人たちが増えてきました。聞くも浅ましい金銭に関する事件で新聞の第三面は溢れかえっています。人生の目的は金を稼ぐことでしょうか。誰もがそれを見てひど過ぎる、もう目にあまると感じるようになった時反省の心が芽生えます。人間はあんなになってはいけない、自分はああならないようにしなければと感じます。そして行き過ぎたものへの修正の力が働きます。多くの人がそう思えば大きな力になります。悪いニュースは問題点を社会に見せてくれていると思えば役に立っていると言えます。

このようにして物事は一方向に行き過ぎると戻りバランスをとろうとする習性があるようです。過去の人類の歴史をみてもいやと言うほどその実例を見せてくれています。ローマ帝国、蒙古、ナチスドイツ、旧ソビエト、日本では平家、織田信長、豊臣秀吉などなど。今の人間の行き過ぎた金銭欲による混乱にはすでに修正の動きが出てきているように感じます。何事も陰の極がくると事態は陽転するというところからみれば今は陰の極に近づいていると思います。天変地異なども恐怖を煽るかのように噂されていますがその事を心配したところで仕方がありません。どうせ私たちはこの地球の上で生かしてもらっているのですから。明るい未来を考えたいものです。



 3.神仏は実在するのか

私は以前から人の死後の世界など精神世界に対する興味を持ち、本などでは色々解説したものが多く出回っていますが唯そういうものを知識として理解するのでなく自分で直接見たり聞いたり出来ないものかと思っていました。また仏教にも親しんでいました。熱心に信心していたほうだと思います。するとどうしても出てくるのが本当に仏様はいるのだろうか?という疑問です。これは誰にでもあるのではないでしょうか?仏様がいないのであれば拝んでも意味がない、では死後の世界のことを仏様に聞いてみようと思ったのです。本当に仏様がいるなら教えてくれるだろう。今もそうですが当時私は観音様をとても信仰していました。そこで以下のようなことを試みたのです。

夜、家の仏壇の前で「観音様、人は肉体が死んでも魂は残り輪廻転生すると聞いています。しかし私は以前から疑問に思っていましたが人は多くの場合死期が近づくと精神の方もボケてきたりその機能は肉体と共に衰え死に向かっているように見えます。魂も肉体と一緒に無くなってしまうのではありませんか?どうか教えてください」と聞いてみたのです。するとその夜次のような鮮明な夢をみました。

10年以上前に亡くなった父が畑で懸命に農作業をしていてその横でこれも10年前に死んだ我が家の犬が若い時の姿で走り回っているのです。なるほど彼らは死んだけれどもこの世と違う所で生きているのだなと思いました。しかしまだ疑問点が残り、死ぬ時には魂は一体どういう状態になるのかわかりません。そこでその日の朝自室で瞑想し「観音様、そのとき魂はどんな状態になっているのか知りたいのです」。と心の中で再度質問をしてみました。するとすぐに以下のようなビジョンが瞼の裏に浮かんできました。脳の中で見るというか実際に肉眼でものを見るのとは違います。

プロペラ機が現われそれは着陸態勢に入っています。次第に高度を下げエンジンのパワーを落としゆっくりと着陸していきます。ビジョンはそれだけでしたが十分に理解することができました。魂は死という過程をスムースに通過できるよう飛行機のエンジンがパワーダウンしていくようにその活動を弱めていくということなのだろうと思いました。そして観音様にお礼を言いました。その時以来さらに観音様との関係が深まり私は悩み事や問題が起きる度観音様に意見を伺うようになりました。そしてこれまで直接指導と言っていいほどに問題解決のヒントや人としての生きる道を教えて頂いたのです。

そうこうするうちに伊勢神宮に参拝する機会がありその素晴らしい神気に打たれそれ以来神道の世界にも入るようになりました。もともと日本は神道の国、寺と同じくらい神社があるのに寺だけ行って神社に行かないのは不自然だと感じていました。そして神社にも行き始めた頃、地元の神社で「神道と仏教は入り口が違うだけ、行き着く先は同じである」という神様からのメッセージを受けました。その後は一段と多くの神仏との交信が広がり現在に至ります。

人は本を読んだり人の話を聞いたりして知識を得ることができますが本当に身に付いたものにするためには実体験をすることが必要でありそこで初めて分かったと言えるのだと思います。私は医療人ですがこの業界においてもいくら勉強して知識を頭に詰め込んでもそれだけでは実戦においては殆ど役にたちません。全ての分野がそうであり信仰、宗教においても実際に自分が身を持って体験して初めて確信が持てるのだと思います。参考までに私が今までに受けた思い出に残るメッセージを次に紹介します。

伊勢神宮で 2006年2月
よくお参りに来られた。人にはそれぞれ本分があり人生においてそれを尽くすこと。日々明るく前向きに、物事のマイナス面を見るのでなくプラスの面を見るように、自分をよく知り長所を伸ばす事、そなたは子供達(私の子供達)を自分の力の範囲で導いてやりなさい。

西国巡礼、総持寺で 2006年11月
人は時々自分自身のことを客観的に見てチェックしなければならない。ともすれば独りよがり、自己満足に陥り易くそうなっていないか自己反省する必要がある。

西国巡礼、善峰寺で 2006年11月
人は過去のものを全て持っていては前に進めなくなってしまう。不要なものは捨て去らねばならない。物事を理解するにはそれにふさわしい時期というものがありその時が来なければ本当に理解することはできない。

私はこれまで通常の方法で得た知識と実体験を比較検証しながら進んできました。実体験の骨格となっているのが神仏のメッセージです。そこから得た結論は神仏という存在は間違いなく存在すると思います。しかしこれを科学的に実証して見せることは出来ません。弘法大師、お釈迦様は歴史上人間として実在したことは間違いなく言い方を変えると人の霊との交信と捉えることも出来るでしょう。八幡神は応神天皇ということになっていますが天照大神、スサノオの尊など神道の神々はかつて地上に人間として存在していたことがあるのかはわかりませんから本当に存在するとしたら完全な神霊ということになります。精神世界の本などを見ると通常の人間が神など超高級霊と交信するのは不可能である。何故なら非常に次元の高い霊はその波動が霊妙すぎて人間の出す波動と合わせることは極めて難しい。神との交信をしたというケースは殆どが間に交信を中継する存在がいて双方の波動を調整する。その役を果たしているのはその人の守護霊であることが多いということです。私の場合もそうなのかもしれないと思います。




 4.神と仏はどう違うのか

私が感じるところではやはり違いがあるようです。神様の場合は一様にそのエネルギーが強く圧倒的な力を持っているように感じます。特に以前早朝に伊勢神宮の荒祭りの宮に行ったときは怖いほどのものを感じました。人間が一人で相対するということが恐れ多いと感じます。この国の最高神として非常に気高く尊く表現する言葉が見当たりません。伊勢神宮は宇宙エネルギーが直接降り注ぐ場所、天照大御神は宇宙神と言ってもいいかもしれません。伊勢は別格としてスサノオの尊を奉ってある島根の須佐神社もすばらしい神気が満ちています。スサノオノ尊は神話では悪役のようなイメージで捉えられていますが実は優しいところがあり私は時々アドバイスをもらいますがやはり底知れぬパワーを秘めた神様という感じです。総じて神様は自然系の超高級霊(そういう言い方が適切かどうかわかりませんが)という感じがします。この自然系をコントロールしたりしているのかもしれませんがやはり根本には愛というものを感じます。祈ると風が吹いてくることが多く偉大な自然の力を実感します。

一方仏様の場合は神様のようなパワーというものは感じません。知らないうちに心が溶け合っているような感じといったらいいでしょうか(真言宗の入我我入という感じです)目の前に圧倒的な存在感を感じるということはありません。やはり人間に近い存在、過去人間をやっていたのかもしれません。言葉で言い表すとしたら愛、知恵、悟りです。

これはあくまでも私の主観でありまたそれぞれの働きについては仮説なので人によっては感じ方が違うと思います。神仏は全知全能、人知の及びもつかぬ存在という捉え方をされているようです。確かにそう感じますが、必ずしもオールマイティではなさそうでそれぞれ得意分野があるようです。仏教に13仏がある意味からしてもまた僅かばかり感情というものもあるように感じます。神仏に可愛がられる人間というのも確かにありそうで社会的地位などは関係なく素直で飾り気のない性格がいいようです。神仏に接するととにかく清らかなエネルギーを感じ、心に持っていたわだかまりが一瞬のうちに溶けていきます。明らかにこの世の波動ではないことが肌で感じられます。そして全てをお任せしていいのだという気持ちになります。その時意識は多分違う次元にいるのだと思います。何も考えるな、考える必要はない、素のままで、己のありのままでいなさいという波動を感じます。

神仏など超高級霊は過去、現在、未来の時空に束縛されることなく瞬時に全てを把握出来るのだそうです。例えば人が問題を抱えていて救いを求めたとするとこちらが何も言わなくても全てをわかっています。交信は全てテレパシー、どんな遠くにいても瞬時に伝わり言語は必要がないらしいです。人が神様にお願いをしようと神社に行った場合、神様はこちらがものを言わなくてもすでに全部お見通しというわけで一切のうそは通用しません。

前に薬師如来を奉ってある山岳寺院に行った時のことです。仏様は人が来たらその人がどこが悪いかすぐ分かるのですかと尋ねると「一目見ただけで分かる、頭の色をみたらその人間がどこが悪いのかわかる」という答えがありました。その時はおかしなことを言うなと思いました。頭が皆ランプのように光っているとは面白いと思いましたが後でオーラが見えるようになってその意味がわかりました。確かに人のオーラの色はそれぞれ違います。ピンク、グリーン、黄色、紫、青など様々でそれは人の感情や性格、肉体の健康を表すとされています。仏様は人を見る時そのオーラを見ているのでしょう。実に面白い話です。私が今の時点で分かったと思っているのは神仏の実態のほんの一部だと思います。人間の力で測れるようなものではありません。



 5. 神頼み

我々はよく神仏に色んな願い事をしますが本当に聞き入れてくれるのでしょうか。内容によるでしょう。近頃は自分勝手な願い事が多いと神職がぼやいているそうです。
自分のエゴから出た願い事はまず聞いてもらえません。願い事が人や世の中の役に立ち愛の心からなるものはおそらく叶うでしょう。但し結局は自分が努力しなくては成就しません。一生懸命やっているのに自分の手に負えないような障害が現れたときなどは神仏もよしわかったなんとかしてやろうと思うにちがいありません。そんな時霊験が現れます。

普段殆ど信仰心のない人でも危急のときは神様助けてくださいと手を合わせますがそれは潜在的に目に見えない大きな力というものが存在していることを感じているからでしょう。そういう時は普段傲慢な人でも謙虚で純粋な気持ちになっていると思います。

神や仏を敬うということは突き詰めれば大自然の偉大な力を敬うことで信仰の原点であると思います。また言い方を変えると神や仏というのは高次元の意識体ですからそういうものに通じる為には普段から通信回路を開いておかないといざという時に間に合いません。神や仏への通信回路、それが祈りです。祈りにおいてはお経や祝詞の上手下手より真心が何より大切です。

そういう神様や仏様でさえ因果の法則を超えて力を及ぼすことは出来ないのだそうです。神や仏でさえ因果律のルールを破ることは出来ないと考えてよさそうです。また神仏がこの世に姿を現したり直接手を下すということはありません。人を媒介としてその神威を現します。




 6. 眼に見えない世界とエネルギー

オーラは生命体が出すエネルギーですがインターネットをみたら入門書があったので買って読んでみると意外と簡単に見ることができました。それから人のオーラを色々みて研究してみました。肉体の表面には薄いくっきりとした膜のようなエーテル体と呼ばれるものがありこれは肉体の健康状態を反映し色はあまり変わりません。次に厚さ10から20cmくらいの層がありアストラル体と呼ばれています。これは人の感情を表現しそのときの感情によって刻々と変化しています。その外層にはメンタル体、コーザル体という層が広がっていますが簡単には見えません。

オーラをみると仏像の光背にそっくりで人がオーラをみてそれを表現したことがわかります。大体において人が心静かにしているときは緑色になりこれは癒しの色だそうです。静かに読経などしているときは緑色が出ています。議論に白熱している人の頭を見ると赤いオーラに囲まれています。このあいだ歌手の島倉千代子さんが悲しい歌を歌っているのをテレビで見ると頭が大きな青い色に包まれていました。子供のピアノの演奏会を見る機会があり見ていると一人上手な子がいて弾き始まると頭が輪郭のはっきりした大きなピンク色のオーラに包まれました。後の自信なげに弾いている子をみるとオーラは小さくぼんやりとしています。

若い女性がはにかんだ時などはパッとピンク色になりそれは綺麗です。私は会合のときつまらなくなるとよく出席者のオーラを観察します。心はそこになくぼんやり他の事を考えていそうな人をみると幽霊のようにスーッとオーラが離れていきます。体から離れて浮き上がっています。温泉の露天風呂でもよく見えますがあるとき空を見て雲の観察をしている人がいて見たら頭から空に向けてまっすぐに高くオーラが伸びていきました。これはすごい、どこかの高僧なのかと思って後でみたら普通の中年男性でした。

空や宇宙というものに気を向けるとそういうオーラが出るのかもしれません。人のオーラを観察するとき許可なく前からまじまじと見るわけにはいきません。どうしても後ろからか距離をおいてということになります。 人の肉体をそこから外すとオーラが残りそれだけ見ると幽霊だということになるのでしょう。魂はオーラの中に存在し肉体が死ぬとエーテル体は肉体とともに消えるそうでそれ以外のものが幽界に移行していくのだそうです。オーラを見ていると生命の神秘を感じ人は肉体だけの生き物ではないということが実感としてわかります。

オーラは人間や動物だけでなく植物や人が愛用しているもの、携帯電話、財布、お守りからも出ています。特にお守りは強いエネルギーが出ているようで手のひらを近づけるとチリチリするものを感じます。いわゆる期限切れのお守りを確かめてみると有効期限中?のものと比較しても全く変わりません。寺社は毎年取り替えて欲しいでしょうけど。仏像や位牌に手のひらを近づけるとぬくもりやしびれ感を感じることが出来ます。よく家のお大師様の頭の上でチェックしているので間違いありません。その事でお大師さまや先祖に「お前、ええ加減にせいよ」と叱られた事はまだありません。

こうしてみると寺社でお札やお守りの炊き上げをすることは意味があることになります。それぞれエネルギーがこもっているので埃まみれにしたり粗末にすることは良くないのでしょう。清浄な気のあふれた神社に行き入り口のところで仏像の施無畏印のように手のひらを拝殿にむけると手のひらにジリジリするものを感じることがあります。エネルギーが放出しているという事でしょう。それによって良い神社かどうかわかります。

手のひらは癒しのエネルギーが出るところで霊気といってそれで身体のヒーリングを行う方法があります。人は身体のどこかが痛いとき思わず手のひらを当てますが手当てという言葉はそこから発生したということです。確かに霊気は効き目があるようです。しかも一切費用はかかりません。よく祈る人は体に気が一杯溜まっているのでその手のひらはかなりの癒しの力を持っていると思います。よく行者さんが数珠で撫でてくれたら悪いところが治ったという話を聞きますが強い癒しの力が放出されたのでしょう。

私たちは常に目に見えないエネルギーに囲まれて生活しています。上にあげたものは気のエネルギーですがその他に多くのエネルギーを知らすに浴びていることでしょう。また満月の夜月に向けて手をかざすとかなり強いピリピリしたものを感じます。月は色々なものに何らかの影響を与えているに違いありません。それらのものは何時の日か科学で説明できる日が来るのでしょう。

この間ムーという雑誌にロシアのロマノフという著名なヒーラーがロシアから日本の読者に向けてエネルギーを送るという記事が載っていたので試してみました。紙に図形が書いてあってそれを手のひらに挟んでいればよいということでした。エネルギーが送られる時間は日本時間の夜8時から40分間です。それをやっていると両手の平がジーンと熱くなってきてピリピリしはじめ次に体も熱くなってきました。指定の時間が終わると元に戻り明らかにエネルギーを受信できたという実感がありました。エネルギーの質は運命を好転させるパワーを持ったものということでした。それから何日かして500kmくらい離れたところに住んでいた娘とメール交信したところ同じ内容の夢を見ていたことがわかりました。親子の関係もスムースになったように感じました。娘はこの実験に関して全く何もしていません。エネルギーというものは距離に関係なく伝わるということが実感としてわかります。遠隔ヒーリングというのは送信側と受信側が波動を合わせれば十分に効果をあげることができるのでしょう。



 7.人の人生は決まっているのか

人は時々先に起こる事の夢を見ることがあります。世間で人が亡くなる前に虫の知らせがあったというのはよく聞く話です。またそれ以外にも社会で起きる事件を前もって夢で見たというのもよく耳にします。潜在意識は覚醒中は気が付かないが寝ているときはふるさとのあの世に行っていろいろな事を学んでくるという話を聞きます。潜在意識は次元を超えて広がりすべてのことを知っているが人間はこの世に生きているときは肉体の中に封じ込められ本来の魂(意識)が持っている能力の何分の一しか発揮できない。あの世、4次元の世界ではこの世のようにはっきりした時間がなく過去、現在、未来というふうにはっきり分れていないという説があります。それらの説が正しいとすれば寝ている間に潜在意識が4次元の世界に行き情報を収集してくれば未来を知ることが出来ることになります。唯目覚めた時にはその多くを忘れるようになっているようです。確かに歴史上多くの預言者がいます。また星占いなどでその人間の未来のことが結構当たるということを聞きます。そういうものが的中する(当たらないことも多い)という事はやはり未来はある程度確定したものがあるのかもしれないと考えるのも不自然ではないと思います。前から時空というものに関心を持っていたのでこれをお大師様に聞いてみました。人は自分の未来を知る事は出来るのですか?すると答えはこういう事でした。

「人の未来は大体の骨格が決まっていて後は自分の自由意志で肉付けして仕上げていくようになっている。また自分が将来こうしたいと思う事は未来からの波動を受けてそう思うようになっていく。人の人生の大筋はあらかじめ決められていて西に向かって進んで行くようになっているものが急に東に行くようなことにはならない。一時的にそうなっても後で修正の力が働く。人はそれぞれに目的をもってこの世に生まれてきておりその目標を達成しなければならないからである。もし自分の未来を予測したいならば今まで歩んできた道を振り返ってみればその延長線上に未来があるということになる。未来の出来事を具体的に知るということは人間には原則的に出来ないようになっている。考えてみればよい、あるスポーツの試合で勝敗がわかっているなら誰が見に行くだろうか?自分の将来の出来事が、また政治や経済界で起きる事が予め全て分かっていたとしたら一切努力する必要はなくなるではないか。人は先のことが分からないから一生懸命に努力するわけで分かっていたら努力というものを放棄してしまうだろう。事を成し遂げた感動、勝利の喜び、敗北の悔しさ、別れの悲しさ等そういう喜怒哀楽は先の見えないこの環境のもとでこそ体験し学べるものであり人はこの世でそういう体験や感動を通して魂の成長をしていくようになっている。この仕組みは人の進化のための絶対不変の宇宙の摂理でありもしそれが崩れたら世の中は成り立たない。故に人は先のことはあまりわからないほうが良く、その日その日を精一杯生きればよい」。

もう60近くなると自分の先のことが見えるような気がします。確かに先の出来事が分かってしまっていたら日常の営みが意味を成さなくなってしまいます。私は人の人生というのは本当は多くのことは決まっているのではないかと思うことがあります。宿命という言葉がそうです。特に生まれる時、結婚相手と時期、仕事、人との出会い、死ぬ時期など人生の大きなイベントはあらかじめ決まったものがあるのではないかと前から思っていました。自分や家族の事を振り返ってみるとそれを強く感じます。あれは初めから決まっていたのかと。主要な人生のターニングポイントを振り返って見るとおぼろげながら自分のコースが見えてきます。大きな骨組みが決まっているならあとの肉付けをするのが自分の自由意志ということになります。

パチンコ台を連想してみましょう。はじき出された玉は釘に当たってカンカンと弾き返され何通りかあるルートのどれかを通って最後は必ず下の穴に転がり込むようになっています。釘は想定以外のルートを玉が通らないように巧妙に設置されています。自由意志は殆どありません。その玉が昆虫など下等動物の一生です。人間はそんなことはありません。それではあまりにもみじめです。地上で最も進化した生き物ですから自由意志で行動できます。しかしすべてに自由でしょうか。

後に出てくるお釈迦様のメッセージの7月28日、4:50pmのところに「人は自分の力で何でも出来るように思いがちだが実際はこの大きな宇宙の摂理の元に生かされているのである」というくだりがあります。そして弘法大師の「人の人生の骨格は大体決まっていてあとはそれを肉付けしていくだけ」という啓示、そして私たちは結局因果律という秩序の中で生きているという事などを総合的に判断してみると定められた枠の中での自由ということになるのかもしれません。

そうだとすると将来を案じたところで意味がないことになります。私たちは人生の青写真で大方の事を決められてこの世に生まれて来たのではないかと感じます。それならばその決められたコースの中で精一杯やるしかありません。人生の岐路で迷い悩んだ挙句に決断して道を決めたということがよくあります。結果がわかっていたら何も苦労する事はありません。でもそれでは何の進歩もありません。だからそういうことを知らないほうがいいのでその最中にいるときは分からないようになっているのです。人は進化しなくてはいけません。それが宇宙の摂理のプログラムだと思います。一体どんな形でそんなプログラムを設定することができるのかそれは全くわかりませんが宇宙の英知は私たちには計り知れません。余談ですが私は今まで自分の寿命を方々の神様や仏様に聞いてみましたがこれだけは絶対に教えてもらえませんでした。神仏は知っているはずですがそれを教えるのはタブーなのでしょう。もしそれをやるとルール違反、私はこの世にいられなくなるのでしょう。とにかく余計な事を考えず一日一日を命輝かして精一杯生きるということが宇宙の摂理に合う生き方だと思います。



 8. 宇宙の摂理

惑星の軌道、地球の自転、潮の満ち引き、海流、四季の移り変わりなど森羅万象の全てを司っているものが宇宙の摂理です。またそれは植物や動物、人間などあらゆる生き物の営みをもコントロールしています。人間では男女の2次成長、昆虫がサナギから孵化して成虫に、一粒の種子から間違えることなくそれぞれの野菜や木に成長して実をつける。卵から違える事なく爬虫類や鳥類が生まれる。自然をよく観察すると私たち人間も実は宇宙の摂理によって生かされているということが分かると思います。もしちょっとでもこの摂理が崩れると自然界はメチャクチャな事になります。人は到底この地球上で生きてはいられません。もし宇宙の創造主が今の人類は心掛けが悪すぎる、一度滅ぼしてしまったほうがいいと考えたとしたらそれは雑作もないことでしょう。

しかし宇宙は明らかに意思を持っていて目指すものは愛と調和と進化ですからそのようなことはあり得ないでしょう。全体としては進化の方向に向かうようになっているけれども一方的に進むのではなく短いスパンで見ると3歩進んで2歩下がるというようなことを繰り返しているのかもしれません。




 9. 生命の神秘と科学

今まで科学は検知できないものは実在しないという見方をしてきました。科学で分かっていないものはまだ山ほどあると思います。分からないことのほうが多いでしょう。遺伝子を例にとっても体重60kgの人間は60兆個の遺伝子を持っていてその細胞一個一個に例外を除いてすべて同じ遺伝子が組み込まれているそうです。たった一個の細胞(受精卵)からスタートして分裂を繰り返しながら人の体の各組織を正確に形づくりそれぞれの細胞が間違えることなく遺伝子のプログラムに従って設計図どおりに人間の体を仕上げていく。人の細胞1個の核に含まれている遺伝子の基本情報は30億の科学の文字で書かれているのだそうです。これを本にしたとすると1000ページの本で1000冊分になるということで天文学的な数字です。

人の心臓から各臓器を回って再び心臓に帰ってくるまでの血管の全長は約9万kmあるそうです。また人の体は怪我などで欠損した場所があってもきちんと元通りに修復される、別の組織が間違ってそこに再生されるということはありません。怪我などで出血したらその場所に血小板が集まってきて破れた血管を塞ぎ、血管が収縮してそれ以上の出血を防ぐ、また大量に出血すると全体の血液量が減ると困るので体液が移動して血漿の量を一定に保とうとする、そういうような働きが自然に起きるように設計されています。そして外から菌やウイルスが侵入してくると白血球が集まってきてそれを封じ込めようとします。

現在歩いたり話をしたりするロボットが出来てはいますが人体のレベルとは比較のしようがありません。また現代科学は未だに細胞1個つくることも出来ません。こういう人間の肉体をいったい誰が作ったのか?進化の結果偶然にそうなったのか?そう考えるにはあまりに無理があり過ぎます。人間だけでなく他の生き物を見渡しても考えれば考えるほどその技術力というのは到底人間の及びもつかないものだと思います。地球上の生き物も含め全宇宙をコントロールしている存在こそが宇宙の摂理、創造主、(最近はサムシンググレイトと呼ばれることも多い)であると言えるでしょう。私たちが通常認識することの出来る範囲は極めて狭いものに過ぎず限られた場所でうろうろしているだけかもしれません。我々の周囲には人間が感知することの出来ないものが一杯存在しているにもかかわらず私達はそれに気が付きません。目隠しされているようなものだと思います。



 10. お釈迦様のメッセージ

去年の夏僧侶である娘婿から貰ったお釈迦様の像を観想して得られたメッセージを記します。こういうものはまとまりのある文章にするのは甚だ難しく理解しづらい文章になっていると思いますが一人で聞いたものを筆記しながら作成しました。一切の修正を加えていません。こういうものをもし私が勝手に自作してそれを神仏の言葉であると言って公表したりすると私は大きなカルマを背負い込んでしまうことになります。そういう事は恐ろしくて出来るものではありません。お釈迦様というと因果の法則をはじめとして哲学者的なイメージが強いように思いますが現在その実体を正しく知る事は不可能に近いと思います。私はそのことについて議論したりする程の知識はありませんし史実云々を議論するという事には関心もありません。唯自分が感得したものをそのまま文章で表現してみました。

お釈迦様のメッセージ  2006年7月28日  6:50AM
私が説いた教えは人がどうすれば幸せにこの世を生きられるかという方法である。内容は物事へのこだわりを捨て楽しく生きようということである。人が苦しむ時その原因は自分が作り出しているものであり私の教えはそうならない為のものである。仏教は後で色々な解釈や宗教的作法、行事などがついてきているが実際は単純明快なもの。今の時代は複雑で考えなければならない事が多いが真実は今も昔も変わらない。仏教について難しく考えすぎないように。本来の教えはシンプルなものである。難しく考えすぎると本質が見えなくなる。

 同日  4:50 PM
八正道とか苦集滅道とか色々難しい言葉があるがそういうものを理屈で理解して実践しようとしても意味はない。私が悟ったのは地上の全ての生命を育む偉大なエネルギーであり理屈ではない。人は自分の力で何でも出来るように思いがちだが実際はこの大きな宇宙の摂理のもとに生かされているのである。この偉大なエネルギーの流れに溶け込み一体となれば自然に色々な煩悩は消えていき苦しむことはなくなる。難解な教理に振り回されたり欲望を無理に押さえつけたりする必要はなく意味もない。 この偉大な宇宙の摂理の中で生かされていると感じられるようになった時以前のような悩みや苦しみが消えていることがわかり幸せを味わうようになる。世界の宗教はすべてこの偉大な宇宙の真理より源を発している。宇宙には全てを支配するものが存在する。それに気づき身をゆだねることが悟りへの道である。

 7/29 6:40 AM
素直さが悟りへの鍵である。人は自分が一人であると感じると不安になるがそうではなく自分を支え見守ってくれる大きな存在があることに気がついてくる。素直に疑わずに信じていればそれがわかる。八正道とかその他の理屈はすべて宇宙の理のなかに含まれており理屈に囚われていると真実を見ることはできない。理論は教えを体系化し説明する為の手段であって現実的ではない。学問としてそういうことを論じるなら意味もあろうが現実にそれらを実践するのは難しく意味がない。私はそういう理屈ではなく直に人々と触れ合い心で導いてきた。人は八正道などのルールを厳格に守ろうとすれば生き生きと人生を生きられるものではない。

人は形に捉われず伸び伸びと楽しく生きねばならない。そういう生き方こそが宇宙の理に調和できるのである。楽しいと感じる時生きる力が湧いてくる、そして楽しいと感じるものが最も自分を生かせる道なのである。また苦境に立ったときは物事を大きな視野から客観的に見るようにすれば自分の今置かれている状況がわかり解決策が浮かんでくる。

日々楽観的な気持ちで暮らすのが良い。悲観的になると次々に悪いものが吸い寄せられてくる。次々と悪い事が起こるような人間は心が暗く悲観的になっているからである。これも宇宙の法則であって自分の思いが実際の現象を生むのであり日々の心がけが大切である。心静かに大らかな気持ちでいるようにすること。私は常に人々が幸せに生きられることを望んでいる。

 7月30日  7:00 AM
今後は仏教も次第に形を変えていくだろう。宗教は人や世の変化に伴って変化し、進化していくものである。仏教においても他の宗教においてもこれからは一つの宗教の殻に閉じこもっていては時代遅れになる。科学をはじめ他の様々な分野のことを取り入れより幅広く柔軟に時代の変化に適応していかねばならない。 旧来の教えのみに固執していてはとり残されるようになる。

この国では葬儀や法事など宗教的行事をやるのが仏教という認識が強いが実生活のなかで真に役立つものになるよう形を変えていかなければならない。仏教は人を幸せに導かねばならない。常に真理を追究する姿勢とそういうことを理解し実行する人間がこれからの仏教界には必要である。

 同日 3:45 PM
人が考えたり行動したりする事は見えざる大きな世界の影響を受けている。人は皆その世界に繋がっているからである。皆が良い感情を持って生活すると世の中が良くなっていく。逆に悪い感情を持つと悪い出来事が起こるようになる。 良い思いを持つ人間が増えていく事で世の中も地球環境もよくなる。

人間は皆同胞、お互いに繋がっているのでその動きがあるレベルにまで達すると急激に変化する。物事を否定的に考えるのでなくプラス思考の人間を一人でも増やしていかなければならない。

宇宙の真実を知る事が悟ると言う事である。真実を知れば自然に物事の価値判断も出来るようになり迷いも無くなる。何が自分にとって重要か何が不要なものであるか判ってくる。宇宙の愛のエネルギーを受け入れること、これは真実を知ればそのエネルギーが入ってくるのである。人は喜び、歓喜を味わう時最もよいエネルギーを出す。暗い思い、疑い、怒りなどの悪感情は真理への道を閉ざしてしまう。リラックスして満ち足りている時が最も宇宙エネルギーと通じ易い。私は今も生き続けこの世のことを見ている。宇宙の真実を理解する者は私と通じる事が出来、知恵を授けることができる。人類や地球の危機が叫ばれているが危機感が現われた時には実際には修復機能が働き始めているのである。人々が危惧した通りに最悪の結果にならないことが多いのはその為である。これもまた宇宙の法則である。私に通じ教えを授ける事の出来る人間が現われることは私にとって喜びである。

地球も含めて宇宙にはプラスとマイナス、善と悪、陰と陽が存在しお互いにバランスをとろうとしている。どちらかに傾いた時には復元作用が働き元に戻るようになっている。良くない出来事が起きても過度に悲観的になる必要はない。それは必ず元に戻り次には良い事が起きる。日々の生活では何かに偏ることなくバランスの取れた態度が望ましい。私はそなた達が幸せに人生を暮らせるように見守っている。

 7月31日 7:00 AM
家族はお互いに認め合い許しあう事、家庭はその訓練の場でもある。川や海岸の石が角が取れて丸くなっていくように人はその環境の中でお互いに自分自身のことをよく認識し向上させる事が出来る。社会は家庭を大きくしたようなものである。

 9:00 PM 悟りへの道
物の道理を理解し、豊かな感受性と深い洞察力を持ち、物事を偏りなく客観的に見る事、情報に流されず事の真相を見抜く事。日頃の行いがバランスが取れている事、人を愛する、愛を与える事。自分の感情をコントロールする事。

また感性を磨く為には自然のもの、植物、動物、人が出すエネルギーを感じる練習をする。高度な芸術にふれる、自らも芸術をやる。それらをそのまま受け入れ感じてみるようにすればそれぞれが意思を持っていることが分かるようになる。プラスの波動、マイナスの波動がわかるようになる。対人関係においては相手がものを言わなくても考えていることが分かるようになってくる。

次第に自分とその他自然界のものが意識で繋がっている事を肌で感じられるようになる。そのうちに自分の思い、想念が外部に影響を及ぼす事が出来るようになる。良い神社仏閣に行き、祈ることは自分のエネルギーの流れを良くし自身の波長を整える効果がある。それにより高い次元の波長と合うようになってくる。自分が宇宙と繋がっている事を実感し、人を幸せに出来るようになってくる。宇宙の愛のエネルギーを周囲に分け与えることが出来るようになる。そういう人間が増える事によって世の中が良くなる、そして地球を救うことになる。

次々と悪事を働く者は自らの波長をそのレベルの波長に合わせており、悪いものしか入って来なくなる。そして世の暗闇ばかりを見るようになってくる。マイナスのことを積み重ねるとやがて限界点に達し自壊作用で潰れることになる。良い波動を持つものは良い波動と合い、良いエネルギーがどんどん入ってきてさらに良くなる。悪とは反対の事が起きる。

 8月1日  6:50 AM
悪い波動、想念に染まっている者を救うにはどうすればよいか。愛のエネルギーを注ぐ事、宇宙のエネルギーは大いなる愛であるから全てのものを凌駕する。



  11. 因果の法則と実証

 悪い事をするとばちが当たる、良い事をすればよい事があるというのは我々が子供の頃からよく聞かされてきましたがこれは事実です。神様や仏様が罰を下すのではなく因果律によって裁かれるということだと思います。私自身のことで思い当たることは山ほどありますがプライベートなことなのでその中から一つだけ紹介しましょう。

3年前に西国巡礼に行ったときの事です。滋賀県の琵琶湖の北部に国宝級の観音像を収めている寺や庵があります。日本で最も美しいとされる観音像もあります。そのなかのある小さな寺で綺麗な観音様が安置されていて写真撮影禁止になっていました。私は管理人が居なくなった隙にその観音像の写真を撮ってしまいました。うまい事やったなと思いながらそこを後にし次の札所である琵琶湖に浮かぶ竹生島にある宝厳寺に渡る船を待っていました。空腹だったので船着場のベンチでコンビニで買った弁当を開けて食べることにしました。食べ終わってほぼ空の弁当のパックをベンチの上に置くとそれまで無風だったはずなのに急に一陣の風が巻き起こりパックが舞い上がり私の頬をパシッと叩いたのです。醤油が私のシャツを濡らしました。ハッとしてこれは写真を写したことの罰だなと思わずにはいられませんでした。因果律が働いたのかどうかは実証することはできませんが人間の直感はほぼ正しいと思います。

私たちは見つからなければ悪い事をしてもやり得だと思ったりします。本当にそうでしょうか?しかし過去社会の目に触れる形で現われてきたものを見れば一目瞭然だと思います。政治家、官僚、事業家、芸能人などの悪業が暴かれていく様をみればよく分かります。誰も知らない、見ていないから何をやっても良いと思っても天は絶対に見逃してはくれません。全ての事が記録されて残っているのです。そして然るべき時が来たらそれを自己責任において精算しなければならないのです。内部告発で発覚するという形で出てきても因果律が働いた結果そうなったのです。最近の動きを見ているとその働きが活発化しスピードアップしているように感じます。

誰も因果律の働きから逃れることは出来ないのです。多くの人は何か自分にとって不都合なことが起きたとしてもそれが因果律が働いた結果そうなったという事に気付いていないのです。事実それは普通わかりません。人の行為や思考というものは全部モニタリングされていると私は思っています。また僧侶、医者、教師など人を導かなければならない立場の者が悪いことをした場合その罪は無知ゆえに何も知らずに犯した罪に比べて何倍も重くなります。また家族、地域、国のレベルにおいてもそれを単位とした因果律があるようです。アメリカ、イラン、イラク、中国、朝鮮半島などの動向を見ても表面的な動きの下にそれを感じる事ができると思います。

以下は仮説です。

「私たちが今までにやってきたことの記録は自身のオーラの中に全部記憶されて残っている。プラスの事マイナスの事が一杯入っています。しかしそれらはいずれ中和される必要があります。宇宙のエネルギーはニュートラルに向けて働くので全てのものを中和させなければなりません。例えばマイナスのエネルギーが溜まってくるとどこかでそれを放出する必要がありじっとその機会を待っています。そこでその対象が現われるとそれに向けて放電するようにエネルギーが放出される。そういう仕組みでカルマの精算が行われるのかもしれない。因果律の働きは数学的ですから機械的にそれは行われる。閻魔大王がそれをやるのではありません。その人間が今生でそれを精算できなかったら次の世に持ち越されるということもある。一体誰がそんなシステムを作ったのか?宇宙の創造主でしょうか?遺伝子の働きの凄さを見るに付けそれぐらいのことは出来てもおかしくないと思ってしまいます」。

それでは一体何を基準にして人の行為の善悪、プラスとマイナスが決まるのかというと大まかに言って宇宙の理(愛、調和、進化の道)に反する事はマイナス、それに貢献することならプラスということになるかと思います。これは仏教の教えをみれば一目瞭然だと思います。仏経の中に十善戒という教えがあり仏教徒はそこに挙げられたような悪い事をしませんと誓うものです。ですから正しく仏教の教えを守っていれば間違いありません。しかし厳密にそういうものを守ろうとすると現代社会の中では生きていけません。それにこだわると息苦しくなります。そして束縛されているように感じてしまいます。そういう気分で家の弘法大師像の前に来たら次のインスピレーションが降りてきました。

「因果律を否定的に捉えるのではなく進化の為のプログラムと考えるべきである。それによって反省しそれをバネに自らが進歩することに意味がある。因果律は人を縛り付ける為のものではなく正しく導く為にあり実態は大いなる愛の摂理なのである」。

さすがはお大師様!もう合掌するだけです。孫悟空が雲に乗り世界の果てまで飛んでいったと思ったらそこはお釈迦様の指の間を行ったり来たりしていただけだったという話がありますが、なるほどそういうことだったのかと思わせます。

仏教で陰徳という言葉がありますがこれは人知れずに奉仕などの善業を積んで行くということです。普通なら、誰も見ていないのにやっても認めてくれないから、と思いがちですが実はそうではなくちゃんと天のスコアーにつくようになっているのです。改めて仏教の奥深さを知る思いです。例え過去に悪い因を作ったとしても心を入れ替えて善業に励めば悪因は解消されていくのではないでしょうか。そう思いたいものです。

善を成すようになってくれば心の波動が高くなってきて高い波動のものと引き合うようになり一段と上を目指すようになります。そうなれば怒り、恨み、妬みなどの低いマイナスの波動には感応しなくなります。そうすることで霊性の進化が得られるのではないかと思います。マイナスのエネルギーで作られた過去の悪因とも引き合わなくなるのではないでしょうか。

日頃の生活で細かく因果の法則などを気にしていたら到底伸び伸びとは生きられません。誰でも感じる事ですが良い事をすれば後が気持ちがよく、逆に良くない事をしたら後味が悪いです。悪いと感じることをしなければいいのです。人は誰でも本能的に知っているのです。明るく前向きに生きていれば自然に悪い事をしようという気はなくなります。

     「いのちの波動」⇒ http://ww81.tiki.ne.jp/~okwhiro/

              



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                         【参考資料 13】 (2011.06.30 )
                               =『天国からの手紙』関連原稿=