(日付の新しいものから順にならべてあります) [参考資料 No.20] (2018.12.13) 死をめぐるいくつかの考察 本願寺法主が説いている死後の生
2. 死後世界とは 私は死後の世界は確実にあると思います。私が仏様を観想して得られた情報は次のようなものです。
「一般の人が考えている死ということは肉体がなくなるということで生命そのものは次の次元に移行するということである。多くの者は死んだということに気が付かない、何故ならまわりの環境は肉体を持ち地上界で生きていた時と比べて大きく変わらないように見えるからである。しかし死後の世界は肉体の束縛から自由になるので自分の想念がすべてを作る。自分の思うとおりの世界が現れるということ。例えば肉体を養う必要がないので金は必要なく自分がしたいことに打ち込むこともできるし行きたいところにも行ける。自分の意識の範囲内で自由であるということ」。 死ぬということは終わりではなく次の次元へのスタートである、または本来の所に帰るということではないかと私は思っています。弘法大師空海の言葉に「阿字の子が阿字のふるさと立ち出でてまた立ち帰る阿字のふるさと」というものがあります。これはご詠歌でもよく詠われています。人は阿字(真言密教でいう大日如来すなわち宇宙の命の根源)の分身でありその故郷からこの世に来ていたものが役目を終えて再び故郷(大日如来)に帰るということを謳ったものですが正にその通りであると思います。私の地方では中陰供養(初七日、二七日、三七日など)の時にこのご詠歌(梵音といいます)が唱えられていますがこれを唱える事によって死者を迷うことなく正しく導こうとしているのです。 以下は書籍などに一般によく書かれている死後の世界の説明です。 死者は自分の心の波動に合った所へ自動的に引き寄せられて行く。様々な煩悩や未練を持ったまま死ぬとそういう世界に行く。欲や恨みや怒りにあふれた世界、云わば地獄のようなところに行く事になり心が浄化されるまでなかなか上に行けない。そこにはこの世と全く同じものがあり自分が死んだという事が理解できない者もいる。一方死ぬまでに死後世界のことを理解し一応この世の欲などを卒業したものはもっと上のほうのレベルに進むことができる。これは閻魔大王が関所で振り分けるのではなく自動的にそうなる。魂は進化していくので次第に上のほうに上がっていくようになる。そしてある期間をあの世で過ごした後に本人が望めば再びこの世に生まれ出てくる。 最近の精神世界の主な説ではグループソウル(類魂)というものがありそこでは自分の仲間の集合体がある。霊の家族ともいうべきグループソウルは常に進化を目指しているのでいろいろな事を学ぶ必要がある。地上界でしか学べないことがあるのでそれを体験するために其の中の一人が地上に派遣されこの世で一生を過ごし学んだ事をその集合体に持ち帰り情報を共有する。派遣は本人の自由意志が尊重されるがテーマを与えられて地上に派遣される。自分の人生での宿命や生まれついての性格、考え癖などは自分ひとりのものではなく集合体として持っているものから来ている。派遣された者は死後に情報を持ち帰るだけではなく睡眠中に集合体本体に自分が得たものをフィードバックしている。 グループソウルは常に地上に派遣された者を見守りその喜怒哀楽をともにしている。派遣された者が死後迷った場合はグループソウルが助けようとする。最後はグループソウルに帰還して融合するが自己というものは失われることなく一個人として個性を維持する。そして再び進化の道をたどる。
9. 悠久の時を生きて 私達の命は宇宙の創造主から授かったもので悠久の時をこの宇宙と共に進化しながら生き続けるものだと思います。私達自身が創造主の分身であり神の子、仏の子であります。死というものはこの世の生活を終え肉体と別れ本来の場所に帰っていくことです。死んだら全て終わりでは断じてないのです。また我々がこの世にいる期間は極めて短いものだと思います。故郷に帰った私達はこの物質界の束縛を離れ自由なところでこの世で学んだ事を知恵として身につけ一段と成長していくのです。
私達がこの地上界に来る目的は学ぶ為でありそこは物質界、肉体があることによって一つの出来事を何倍にも実感として味わう事ができ、それは魂に深く刻み込まれます。そしてこの地上界は様々な事を実地してみる、テストしてみる場でもあると思います。それは一つの冒険であり楽しくもありリスクも伴うでしょう。新鮮な実体験をする場所がこの地上界(地球生命系)ではないでしょうか。生命系の辿るコースの中に必須として組み込まれているのでしょう。 そこは道場のようなところなので当然試練もありますが自分の身の丈以上のものは来ません。必ず自分の能力の範囲内で乗り越えることが出来るはずです。それを乗り越えた時一段の進歩があります。例え思ったような結果が出なくても悲観することはありません。それに向かって努力することに意義があるのですから。それによって人は多くのものを学ぶ事が出来るのです。 また自分の身の回りに起きる事は全て必然、無意味に起こるものはありません。自分が過去にやった行いの結果が現れてきているのでそれを素直に受け止めたらいいのです。全ては宇宙の法則によって動いているのでその流れに逆らうことなく乗っていけばいいのです。人との出会いも全て偶然ではありません。一期一会という言葉がありますがこの人生における出会いにも全部意味がありそれは現世だけでなく過去から続いていたかもしれないし将来どこかで再会するかもしれないのです。そういうことを考えると面白いものです。私も還暦間近、この世で生活する期間はもうそれほど長くないでしょう。残りの人生を新たな発見にワクワクしながら生きていきたいと思っています。
「いのちの波動」⇒ http://ww81.tiki.ne.jp/~okwhiro/ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 【参考資料 14】 (2011.10.18 ) 大空澄人氏 HP「いのちの波動」より許諾を得て転載
~~~~~~~~~~~~~~~~ 【参考資料 13】 (2011.06.30 ) =『天国からの手紙』関連原稿= 武本昌三先生『天国からの手紙』を読んで
拝啓 武本昌三先生 武本先生の著書『天国からの手紙』(学研)を、さっそく、一読しました。武本先生が、あの大韓航空機爆破事件によって、最愛の奥様と、素晴らしい息子さんを亡くされた時の、胸を押しつぶすような心痛と、絶望、そして全てのものに対する暗闇というものが、本の中から、私に伝わってきました。 そして、そのような人には理解できない長い苦しみの中で、生きるために、武本先生が、霊的世界の研究を始めたことが書かれていました。先生は、多くの探求をしてきました。もちろん、多くの素晴らしい出逢いがありましたが、先生にとって、その極みは、やはり、大英心霊協会だったでしょう。武本先生が、それだけイギリスという国に縁が深いことを示していました。 素晴らしい霊媒との出逢いを通して、武本先生は、本当に霊的世界が存在し、肉体的に死を迎えた者が、実際は死んではおらず、別の世界で、間違いなく生きているということを確認されたということは、本当に素晴らしいことです。そのように、自分の身体で、確実に別の世界で生きているという実体験をされたということは、その事実を、まだ知らずに、愛する者を亡くした多くの人々にとっては本当に生きる力と希望をもたらす福音であり、残された家族や人々にとって、それ以上に大切な事はないとと思います。 特に、社会的にも地位がある、大学教授という肩書きを持ちながら、こうした活動を行っている事に対して深く敬服いたします。しかし、それは誰が何と言おうと、真実である為、一点のやましさも、恥ずかしさも必要なく、堂々と社会全体に、語り伝えていくべきものであります。 人間が死んでしまえば、全てが無くなってしまう、というものでは決してなく、たとえその肉体的機能が停止しても、人間は、別の生命存在となり、永遠に生き続けていく存在であるということです。このことは、実は、何も宗教的世界だけが扱う特別な事柄ではなく、人間という存在は、全ての事柄の基盤にあることですから、別に一部の特殊な世界だけに閉じ込めている事柄ではなく、通常の、どの世界にも共通する世界の事柄の話であるのです。 もちろん、それを、初めから、怪しげな内容として考えることではなく、多くの科学的検証や数多くの証拠や事実を通して、あくまでも客観的裏づけのあるものとして考えていくということです。このようなことに対して、全てを、主観的に考えていくと言う事では決してありません。そうした態度は、誤りを生んでしまいますし、真実から外れてしまうからです。 そのことは西洋哲学の祖であるソクラテスも、はっきり明言していますし、全てのアカデミズムの親でもあるプラトンは、全て、その考えを基盤として、語っているからです。本当のことは、通常の科学を超え、通常の常識を、いつも超えているところに在るからです。プラトンと同じレベルのアカデミズムに帰って行くことこそが、今、最も進んだアカデミズムであることを世の知識人は知るべきでしょう。 武本昌三先生のご健康と、今後の御活躍を、深くお祈り致します。 敬具 2011/06/11 中村 慈呂宇 http://zen-ichi.jugem.jp/?eid=151 ~~~~~~~~~~~~~~~~ 【参考資料 12】 (2011.06.20 ) =『天国からの手紙』関連原稿= さまざまな非業の死 私は、寂しさを紛らわせるために、ロンドンの街を一人でよく歩きまわった。ロンドン塔にも何度か足を運んでいる。ここには、1974年に、家族四人で訪れたことがあった。当時、文部省在外研究員として滞在していたアメリカから、夏休みに家族四人でヨーロッパ旅行の途中、ロンドンにも2週間ほど滞在していたのである。 大韓航空機事件が発生した1983年には、私たち家族は、二度目のアメリカ生活を送っていた。ノースカロライナ州の首都ローリーに住んでいたが、このローリーという名前は、イギリスの軍人、海洋探検家、廷臣、文人という多彩な顔を持っていたウォルター・ローリーから、とったものである。 彼は、エリザベス一世の寵愛をえて、一五八四年にはナイト爵の称号を与えられていた。ぬかるみに高価なマントを広げて女王を通したという伝説は有名である。 このローリーは、イギリスではもっとも早く、一五八四年から新大陸へ向かっての探検隊を送り込んでいる。翌年の一五八五年には初めての移住民団を出発させた。彼らは、現在のノース・カロライナのロアノーク島に上陸したが、原住民のインディアンたちと折り合いが悪く、定住するには至らなかった。 その後、一五八六年にも、八七年にも移住が試みられたが、成功しなかった。結局定住には失敗して、移住民は全滅した。 彼らがなぜ全滅してしまったのか詳しいことはわからない。インディアンに殺されたのかもしれない。私は、1983年の事件の直前には、富子、潔典、由香利と一緒に、このロアノーク島の移住の現場を訪れているが、いま残っているのは、その跡地だけである。 彼らがもし成功していたら、アメリカ植民第一号の栄誉をになうことになり、ウォルター・ローリーの名声はますます高まっていたであろう。しかしその栄誉は、その後の一六〇七年のジョン・スミス船長によるジェイムスタウンの植民に奪われることになってしまったのである。 最初の植民には失敗したが、彼は植民計画の強力な推進者であり続けた。その功績を称えて、ローリーの州議会議事堂の前には、ウォルター・ローリーの大きな銅像が建てられている。 このウォルター・ローリーは、その後、女王の機嫌を損ね、一五九二年には不義のかどで一時、ロンドン塔に投獄された。この時には間もなく、釈放されたのだが、一六〇三年のジェームズ二世の時になって、今度は陰謀のかどで一三年間もロンドン塔に幽閉されてしまった。冒険家である上に詩作や散文に長じた文人でもあった彼は、この獄中で大著『世界歴史』を書き上げた。 その後彼は、奇跡的にロンドン塔から出獄したが、次は一六一八年、王命に反して、スペイン人を相手に争乱を起こした罪で、またもやロンドン塔の「血まみれの塔」に押し込められてしまう。そして今度は助からず、処刑されてしまった。 彼の名をつけたアメリカの町にかつて住んでいた私としては、このような波瀾万丈の生涯を送ったローリーの最後の悲劇に、いささかの感情の動きを抑えることができない。 後に私は、第八章で述べるように、霊能者を通じて、前世で私は一六七八年頃にイギリスに生まれ、この殖民計画の推進に積極的に携わっていた、と聞かされて因縁めいたものを感じることになる。 その当時、ジェイムスタウンは、ようやく基礎が固まって拡大発展しようとしていた。一方、北部のマサチューセッツでも、一六二〇年にメイフラワー号で到着した新教徒たちの一団がプリマスに街を築き始めていた。 この移民初期にイギリスで殖民計画を推進していたとすれば、そのような人物の数はそう多くはなかったはずだから、私は、このウォルター・ローリーに極めて近いところで、彼のあとを継いで、アメリカへの殖民計画に努力していたことになるのかもしれない。 ローリーはロンドン塔で処刑されたが、ロンドン塔は、彼だけではなく、数多くの王侯貴族たちが処刑されてきたところだから、どことなく陰惨な雰囲気を漂わせている。一時、王宮であったことはあるが、ここは要するに監獄である。 過酷なイギリスの歴史の中で、投獄、拷問、暗殺、処刑などの暗黒面の陰惨さを最も色濃くにじませた舞台となっているのが、このロンドン塔であるといってよいであろう。 その陰惨な歴史の中で残酷さがひときわ目立っているのは、一四八三年、十三歳で即位した幼いエドワード五世と、当時十一歳であった弟のリチャードが二人とも「血まみれの塔」に幽閉され、暗殺されてしまった事件である。 この二人を幽閉したのはそのあとで王位に就いたリチャード三世だが、暗殺の首謀者も彼であったらしい。その噂がもっぱらになって、彼は人気を落とし、たった二年王座に就いていただけで、一四八五年、ヘンリー七世に殺されてしまった。シェイクスピアはリチャード三世をせむし男に仕立ててその悪人ぶりを描いている。 ヘンリー七世は、王領の拡張、王室庁の設置、商工業の奨励、関税強化などにより、イギリス絶対主義の基礎を固めた。それなりに治世の効果をあげたのだが、その次男が、離婚問題を引き起こして、ローマ教皇と対立し破門されたあのヘンリー八世である。 ヘンリー八世は、王妃キャサリンが男子後継者を生まないので、これを離縁し、ひそかに密通を重ねていた侍女のアン・ブーリンと結婚した。しかし、彼女も女の子一人を生んだだけで、男の子を生まなかった。勝手なものでヘンリー八世は、一五三六年、彼女に姦通罪の汚名を着せて「緑の塔」で処刑してしまった。 さらに、自分の離婚に反対した『ユートピア』の著者トマス・モアも、ロンドン塔へ送って処刑している。トマス・モアはその時、ヘンリー八世を補佐する大臣でもあったが、「国王の臣として、されどまずは神の下僕として」という自己の信念をつらぬくことばを残している。 邪魔者を一掃したヘンリー八世は、その後次々と四回も妃を変えた。 皮肉なことに、このヘンリー八世とアン・ブーリンの間に生まれた女の子がのちのエリザベス一世である。彼女もまたロンドン塔に幽閉されるなど苦難の多い少女時代を送ったが、メアリー一世の死後二十五才で即位すると、文化的にも「エリザベス時代」と呼ばれる黄金時代を迎え、国力も世界に向かって発展していった。スペインの無敵艦隊を撃破したのも彼女の治世下である。 十六世紀の後半、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントとの抗争が激化し、イギリスとスペインもその抗争の渦に巻き込まれていた。当時のイギリスはまだ新興国であった。海外に伸びていこうとすれば、制海権を握っていた大国スペインに必ず叩かれる。特に北ヨーロッパと大西洋の二方面で、この両国の利害関係はことごとく衝突していたといってよい。 そのような折りに、イギリスのエリザベス一世がカトリックであったスコットランドの女王メアリー・スチュアートを処刑するという事件が起きた。一五八七年二月のことである。しかし、実は、その裏には、エリザベス一世の暗殺計画があった。 メアリー・スチュアートはフランスのフランソア二世と結婚して、夫の死後、一五六一年にスコットランド女王になった女性である。ところがその後一五六七年に、再婚した夫のダーンリーを殺したボスウェルと結婚したことから反乱を招き、エリザベス一世のもとに逃れて庇護を求めた。 しかしエリザベス一世は彼女を監禁してしまった。カトリックに対する反感もあったのであろう。そこでメアリーはエリザベス一世を暗殺しょうとしたのだが、その片棒をかついだのがフエリペ二世であった。計画は事前に露見してメアリーは処刑されてしまったのである。 イギリス女王になったエリザベス一世は、父親が繰り返した無節操な結婚と母親の悲劇に懲りたのであろうか、女盛りの彼女に対するヨーロッパ各国の君主からの求婚にも一切応じょうとはしなかった。「私は国家と結婚している」と宣言して、一生独身で過ごし、一六〇三年に死んだ。 エリザベス一世の母親のアン・ブーリンがロンドン塔で処刑されたその翌年の一五三七年の九月、レスタシャーのブラッドゲイトで、一人の女の子が生まれた。のちのレディー・ジェーンである。 たった九日間、女王の椅子に座っただけで、処刑されてしまった悲劇の女性として知られている。処刑場は、これもやはり、ロンドン塔の「緑の塔」であった。 彼女は、へンリー七世の曾孫にあたる。幼少の頃から勉学に勤しみ、ギリシア語、ラテン語を正確に読み話すことができたほか、アラビア語やヘブライ語にも通じていた才媛であったという。 ノーサンバランド公の野心のため、その四男のギルフォード・ダッドレーと結婚させられ、十六歳で王位を継ぐことになる。彼女はそれをいやがって必死に抵抗したが、押し切られてしまった。 しかし、彼女は正当な王位継承者ではなかったので、国民の反対の声が強く、わずか九日間で王位を投げ出さなければならなかった。その上、反逆罪で捕らえられ、夫のダッドレーとともに、ロンドン塔で斬首されてしまうのである。一五五四年二月十二日のことである。 ついでに付け加えておくと、代わって王位に就いたメアリー一世は、カトリックの復活を目指して徹底的にプロテスタントを迫害し、「血のメアリー」と呼ばれた。レディー・ジェーンより二十一才年上である。 一五五四年にスペイン王のフエリぺ二世と結婚したが、このフエリペ二世は、後年一五八七年にイギリス征服を目指して無敵艦隊を差し向けた男である。 レディー・ジェーンの悲劇もまた、イギリス宮廷の多くの悲劇の連鎖の中のひとつであった。 このジェーンの悲劇を、一九〇〇年にロンドンに留学した夏目漱石も作品で取り上げた。彼は『倫敦塔』の中で、次のように書いている。 《……銃眼のある角を出ると滅茶苦茶に書き綴られた、模様だか文字だか分らない中に、正しき画で、小く「ジェーン」と書いてある。余は覚えずその前に立留まった。英国の歴史を読んだものでジェーン・グレイの名を知らぬ者はあるまい。またその薄命と無残の最後に同情の涙をそそがぬ者はあるまい。ジェーンは義父と所天の野心のために一八年の春秋を罪なくして惜しげもなく刑場に売った。踏み躙られたる薔薇の芯より消え難き香の遠く立ちて、今に至るまで史を播く者をゆかしがらせる。ギリシャ語を解しプレートーを読んで一代の碩学アスカムをして舌を捲かしめたる逸事は、この詩趣ある人物を想見するの好材料として何人の脳裏にも保存せらるるであろう。余はジェーンの名の前に立留ったぎり動かない。動かないと云うよりむしろ動けない。》 これは、ロンドン塔の「ビーチャム塔」の内側に彫ってある落書きの中に「ジェーン」の名を見つけた漱石が、その時の心情を述べたものである。「義父と所天」とあるのは、ノーサンバランド公と夫のギルフォード・ダッドレーのことである。また「一八年の春秋」は、十六歳を昔流に数え年でいったものであろう。 十六歳のジェーンは、ロンドン塔に幽閉されながら、死を前にして自分の名前を壁に刻み込んだ。ジェーンは殺されたが、その名前はいまも壁に残っている。漱石でなくても、彼女の哀れな一生を知れば、誰でもその前から動けなくなるに違いない。 このレディー・ジェーンの処刑を描いた痛ましい絵がトラファルガー広場のナショナル・ギャラリー(国立美術館)にある。 ロンドン大学からロチェスターの自宅へ帰る時、私は、いつもは地下鉄駅のラッセル・スクエアからピカデリー線に乗ってグリーン・パークで乗り換え、ヴィクトリアへ出るのだが、時には、途中のピカデリー・サーカスで降りてこのナショナル・ギャラリーに立ち寄ることもあった。ピカデリー・サーカスでべイカルー線に乗り換えチャーリソグ・クロスで降りたほうがもっと近いが、ピカデリー・サーカスから歩いても十分とはかからない。 ナショナル・ギャラリーには、ダ・ヴィンチの「岩山の聖処女」「聖処女と幼子」などのはか、ゴッホの「向日葵」「麦畑」、レンブラントの「自画像」「水浴する女」、モネの「睡蓬」、ルノアールの「セーヌ川のボート遊び」、ピカソの「水夫」、セザンヌの「水浴びをする女たち」等々、数多くの名作が所狭しとばかり並べられているが、その中に、ドラロッシの「レディー・ジェーンの処刑」がある。初めてこの絵の前に立った時、私は衝撃を受けた。 この中のジェーンは純白のドレスを着て、白い布で目隠しをされている。純白のドレスはおそらく絹であろう。腰元からしなやかに裾に流れる襞は柔らかい光沢を放っている。 彼女は冷たい石の床に置かれたクッションの上にひざまずき、両手を伸ばして、自分の首を乗せる木の台を探ろうとしているところである。悲しみと怒りを超えた静かな諦観の中で差し伸べられたその両手の指先の、なんと可憐で哀しいことか。 首切り台には堅い樫の木でも使っているのであろうか。三〇センチくらいの高さの四角い台形である。その下には乾いた藁が敷かれている。首を切った時に流れ出す血を吸い取るために違いない。そしてその横には、まるで悪魔の使いでもあるかのような屈強な首切り役人が、研ぎすました斧を左手にしてジェーンを冷然と見下ろしている。 ジェーンの心許ない両手の指がこの首切り台を捉え、脆いている上体を静かに前に倒して自分の頭をその上に乗せたら、この男は斧を振り上げるはずである。それをこの首切り役人は待っているのである。 絵の上では時間はそこで止まっている。時間の経過はそこでにわかに、重苦しく恐ろしい意味を持ち始めて見る者に迫ってくる。その中で十六歳のジェーンの、あくまでも清楚な、布で目隠しされても幼子のようなあどけなさが感じられる、そして高貴な顔の輪郭は、神々しいまでに美しい。 背後の壁にもたれて二人の女が泣き崩れている。ジェーンの侍女であろうか。一人は壁を叩いて慟哭しているように見える。他の一人は嘆きのあまり失神するのではないかと思われる風情である。 画面に描かれているもう一人は牧師で、目隠しされたジェーンの肩を抱くようにして、首切り台へ誘導しようとしている。役目とはいえ、なんのための牧師か、とつい思ってしまう。思っても詮無いことである。それはわかっている。彼が誘導しようとしているのも、首切り台へではなくて天国へなのだ。 しかしそれでも、あふれてくる思いはどこかへぶつけなければおさまらない。私はロンドンにいて、幾たびこの絵の前で立ち止まったであろうか。漱石が、壁に刻み込まれた「ジェーン」の字の前で立ち止まって動けなくなってしまったように、私もまたこのジェーンの処刑の絵の前に立つと、決まってしばらくは動けなくなってしまっていた。 これもこの後でわかったことであるが、八章で後述するように、前世での私はこのジェーンの処刑の後、約百二十年の時を経て、「王家と多少かかわりのある家系に生まれ、イギリス王立アカデミーのメンバーであった」ことになっている。より具体的には、一六七八年頃にロンドン近郊に生まれて、ロバート・ジェームズ・ハンプトンといったような響きの名前であったらしい。 しかし、イギリス王家と「多少かかわりのある家系」に生まれたとしても、それは別に、人の優れた資質を示すものではないであろう。王家の家系の者の中には、ここに書いてきたリチャード三世のように残酷な悪人もおれば、ヘンリー八世のように独断専行で、明らかに霊格の低いわがまま者もいる。ただ、王家が介在するこれらの様々な非業の死は、その頃でも終わっていたわけではないから、前世での私には、他人ごとではなく、もっと身近に感じ取られていた、ということはあったかもしれない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 【参考資料 11】 (2011.06.20 ) =『天国からの手紙』関連原稿= 霊界訪問を繰り返す普通の人々 霊界についての無知と偏見にいろどられた世間の常識は、ここ二、三十年で、少しずつ変わってきたようにみえる。 たとえば、アメリカの映画女優シャーリー・マクレーンが、一九八三年に、自らの霊的体験を『Out on a Limb』(邦訳『アウト・オン・ア・リム』)という本に書いたが、これは全米で三百万部を越す大ベストセラーになった。その結果、全米で輪廻転生を信じる人が、一九八一年のギャラップ調査では二三パーセントであったのに対して、この本が出てからは、その割合が三五~四〇パーセントに跳ね上がったという。(『前世療法』二七一頁) その後、前述の、アメリカの精神科医・ブライアン・ワイス博士が、自分の体験した輪廻転生の神秘を、一九八八年に『Many Lives, Many Masters』(邦訳『前世療法』)にまとめて発表すると、これも二百万部のベストセラーになり、霊的知識の普及に大きな役割を果たしている。 このような死後の生活や輪廻転生などを書いた本は、日本でもいろいろと出回るようになってきた。最近では霊能者の江原啓之さんが『人はなぜ生まれ いかにして生きるか』などの本を書いて、その出版著書の累計が三百万部を越えるなど、一部ではスピリチュアル・ブームという声さえ聞かれるまでになっている。 そのなかで注目させられるのは、アメリカのモンロー研究所が可能にした霊界探訪に参加して、自分の目で霊界を見てきたという日本人も増えてきたことである。その口火を切ったのが、二〇〇三年に、「臨死体験」を超えるといわれる、『死後体験』(ハート出版、二〇〇三年)を書いた坂本政道さんであった。 彼は、この本の最後に、「ひとつだけもう一度言っておきたいことがある。それはわたしは超能力者ではない、ごく普通の人間だということだ。そういう人でも好奇心と熱意さえあれば、死後の世界を探索し、未知を既知に変えることができる」と書いている。(同書、二五〇頁) 臨死体験で霊界を垣間見たという人は世界中に少なくはない。あのキュブラー・ロス博士も、すでに触れてきたように、臨死体験の記録を二万例も集めて、人間は死後も生き続けることを数多くの著作で訴え続けてきた。 しかし、臨死体験というのは、いわば霊界の入り口まで行った経験で、実際に霊界の内部にまで入り込んだわけではない。一旦霊界の中に入り込んでしまったら、それは本当に死んだということで、もう二度とこの世には帰って来ることはできない。そう考えるのが一般の常識である。 それを、好奇心と熱意さえあれば、「ごく普通の、超能力者でもない人間でも死後の世界を探索することができる」というのは、一体どういうことであろうか。ここでは、その普通の人の霊界訪問を取り上げてみたい。 『死後体験』の著者の坂本政道さんというのは、東京大学、カナダのトロント大学大学院で学んだハイテク・エンジニアである。死後の世界への好奇心から、二〇〇一年以来、アメリカのバージニア州にあるモンロー研究所を度々訪れ、死後体験を重ねてきた。それを彼は、その本の中でこう書き出している。 《六度にわたるモンロー研(ロバート・モンロー研究所)の訪問で、得たことは多い。そのなかで一番の収穫は、自分は独りではなかったということ、ガイドたちが見守ってくれていた、ということを知ったことである。その存在を直接感ずることがなくても、常日ごろ、わたしのすぐそばで、じっと見守ってくれていた。こう知ることでなにかすごくほっとした。肩の荷が下りたような気がする。また自分が死んだら、ガイドたちが面倒見てくれると思うと、死に対して持っていた漠然とした恐怖が、かなり軽減した。》 (前掲書、二四四頁) この「死に対する漠然とした恐怖」は、おそらく誰もが持っているものであろう。彼は、子どもの頃から、人間は死んだらどうなるのかということに興味を抱き、死を思うと心が真っ暗になって、暗黒の闇のなかに突き落とされることもあったそうである。 「死というのは残酷なものである。死に直面した場合、たった独りで対峙しなければならない。誰も助けてくれないのだ。そして、たった独りで死んでいかなければならない。死以外の世間事は時間の経過が解決することもあるが、死はそうはいかない。時間はことを悪化させるだけである。死に直面した場合、問題の先送りはできない」などとも書いている。 そして、いずれ、死と対峠しなければならない時がくるが、その前に何とか死の恐怖を解決できないものかと思っていた。それがモンロー研究所を訪問することで、新たな展開をみることになった、というのである。彼の話は、さらに、こう続く。 《モンロー研で死後の世界を自分で体験し、そのさまざまな世界を直接把握することができた。死後は未知ではなくなったのだ。これだけでも死の恐怖はかなり減った。ここで、重要な点は、わたしは死後の世界について、誰かの話を聞いてそんなものかと理解したのではない。自分の直接体験で知ったという点だ。この違いは大きい。言ってみれば、幽霊を見た人の話をテレビで見て、「ふーんそんなもんかね」と茶の間で言ってるのと、その茶の間に幽霊が出てきて、ぞっとしたぐらいの差がある。 そしてガイドたち、トータル・セルフとの出会いである。ガイドたちが、常に見守ってくれていたことを知ったことは大きい。上述したように、それを知ることで得た安心感は大きい。 モンロー研ではさらに、いくつもの過去世の自分を知ることができた。自分は悠久の過去からずっと存続してきたことがわかった。肉体は滅んでも魂は永遠なのだ。魂という表現が正しいかどうかはわからない。自分の本質とか実体とか言ったほうが、正しいかもしれない。それが肉体とは独立して存在すること自体は、体外離脱体験を通して知っていた。が、自分が悠久の過去から輪廻を繰り返していたことを、直接体験を通して知ることはなかった。モンロー研はそれを可能にした。 それだけではない。わたしは家内といくつもの過去生で兄妹だったり、いいなづけだったり、夫婦だったりしたこともわかった。いわゆるソウル・メイト(魂の伴侶)である。死に別れたり、結婚できなかったりしたことが多かったので、いまの関係の持つ重さ、大切さが身にしみてわかる。家族に対しても同じ思いだ。袖すりあうも多生の縁。すべての出会いは偶然ではない。そこに過去からの強いつながりを感じるのである。》 (前掲書、二四五~二四六頁) モンロー研究所というのは、体外離脱を中心に研究と実践を行っている研究機関で、ロバート・モンローが一九七一年に創始した。彼は四十二歳のときに体外離脱を経験し、以来七十九歳の寿命をまっとうするまで離脱を繰り返したといわれている。 彼は、最初の体外離脱の時には、このまま死んでしまうのではないかと思いパニックを起こしたそうだが、しばらく繰り返すうちにコントロールできるようになった。 脳波を調べると体外離脱中は一定のパターンがあることに気がつく。ラジオ制作会社の社長であった彼は、音響効果を利用して「へミシンク」と名付けられた体外離脱信号音を発明し、一般の人が体外離脱を体験するための研究所設立に踏み切った。これが、モンロー研究所である。 へミシンクとは音響効果によって脳波のコントロールをするシステムである。たとえば右の耳から一〇〇ヘルツの音を聞かせ、左の耳から一〇五ヘルツの音を聞かせると、頭の中央では五ヘルツのうなりを生じる。これはちょうどシータ波に当たり、通常はうとうとと眠りかけたときの脳波となる。 さらに脳の別の場所に一〇〇ヘルツと一〇八ヘルツで八ヘルツのうなりを作る。これはアルファー波に当たり、精神を覚醒させるための働きがある。これらを微妙に組み合わせることで、人工的に金縛りのような状態を作ることができるというのである。 この研究所の特殊な点は、体外離脱を繰り返したロバート・モンローの脳波のパターンをすべて蓄積して、データベース化していることである。それを利用して、脳の中で生じるうなりを微妙にコントロールし、ロバート・モンローと同じ脳波のパターンを作り出すことができる。だから一般の人でも、外部からのコントロールによって、超能力者であるモンロー氏の脳波を獲得できるようになるというわけである。 体外離脱というのは、なかなか大変な経験で、普通は、よほど条件が整わなければできないといわれている。誰でも、自由に好きなときにできるものではない。しかし、モンロー研究所はそれを可能にしたのである。 研究所には、一度に二十五人までが寝泊まりして被験者として体験できる設備がある。体験コースは大きく三つに分かれる。一つはゲートウェイ(門)といってこれは入門コースである。次はライフライン(命綱)で死者の領域に達するものである。最後は体外離脱をして行ける最高の領域を目的とした、エキスプロレーション二七(探求二七)というプログラムである。いまでは、この入門コースの日本語版CDも、東京で買えるようになった。 このモンロー研究所には、二〇〇五年の時点で世界中からすでに一万人以上の人びとが訪れているそうだが、そのなかには、坂本政道さん以来、何人もの日本人も含まれているという。ここに取り上げる森田健さんもそのうちの一人である。 森田さんは、坂本さんと同じように、大学では電子工学を学んだ「超能力者ではないごく普通の人」である。彼もまた、モンロー研究所で何度も霊界訪問を繰り返していたが、霊界では、亡くなった長男や父、祖母と会って、いろいろとアドヴァイスを受けたりしてきた。 そのうちの一つを、つぎに引用してみたい。胎児の時に他界した長男と最初に出会う場面である。 「ところで君の名前は何て言うの?」 「僕の名前はケンイチ」 そこで初めて彼は顔を上げました。そこには胎児の顔がありました。 私と妻は一度流産を経験しています。妊娠六カ月に入ったときに流産したのです。 私はその出産に立ち会ったので、私のみが彼の顔を見ていました。その胎児の顔はまるで仏像のようにやすらかだったのが印象的でした。 へその緒が切り取られ、別室に行ってしまうまで私はずっと手を合わせていました。おそらく最初で最後の私の息子でした。見つめ合うこともせず、何も話し合うこともせず、彼は生まれたと同時に逝ってしまいました。 私たちは彼に健一という名前をつけ、彼のためにお葬式をしました。 その顔が目の前にあったのです。私は圧倒的な感情に包まれながら彼を抱きました。 実は死者との遭遇セッションに入ってから、私は彼のことが気になっていました。おそらくフォーカス二三にいると思っていました。だから浮かばれない魂を探すとき、どこかにケンイチがいるかも知れないという想いを持っていました。しかし二日前から一緒にいるコビト君が彼だとは思ってもいませんでした。 彼は、「僕はいつもあなた達のそばにいる」というフレーズに続いて、 「僕はあなた達を助けるために生まれてきたんだ。こういう運命になることは初めから予定されていた」 と言いました。 彼の顔はあのとき以上にやすらかで愛に満ちていました。(森田健『「私は結果」原因の世界への旅』講談社、α文庫、二〇〇五年、一八~二三頁) この文中の「フォーカス二三」というのは、モンロー研究所の定義によると、霊界では一番地球に近い下層社会である。肉体を失ったばかりで死を認識できず、死の現実を受け入れられなかったり、地球の生命系に縛られて自由になれないでいる人たちが、このレベルに存在する。 一般に自殺した人は成仏できないといわれることが多いが、その人たちはこの領域にいることになる。また事故などで即死した人も、ここには多いといわれている。 この上には、フォーカス二四~二六があって、信念体系領域と名付けられている。何らかのかたちで死後の生の存在を否定する宗教や哲学を信じる人たちは、ここに来るようである。霊的真理から離れれた利己的な考えや概念を頑固に持ち続けた人たちも、肉体を離れると、まずここに来る。 霊界というのは、自分の想いがなんでも具象化、物体化するところだから、同じ想いを強固に共有する者たちがそれぞれにいろいろな世界を創り上げているのである。 人を騙したり、傷つけることによって生きがいを見出しているような人びとの世界もあれば、男女が犯しあう世界、アルコール中毒者の世界などもあって、その歪んだ患い込みの強さは、二六から二四へ降りるほど、烈しくなるという。 さらにその上にあるのが、フォーカス二七で、ここは、自由で安らぎに満ち、霊的に進化した人々の想念で創り出された世界である。ここへ来て、人は初めて次の生へ転生することができるらしい。 フォーカス二七には、さまざまな機能があり、それぞれの機能に応じて、死者をあたたかく迎え入れるための「レセプションセンター」とか「癒し・再生センター」、「教育センター」などのはか、生まれ変わるべき次の人生についてカウンセラーと協議や計画をする「計画センター」もあるようである。 森田健さんが、胎児で亡くなった健一ちゃんと実際に逢ったのも、実は、このフォーカス二七の領域であった。ただ彼は、霊界を訪れる前には、ここに引用した文の中で述べているように、「フォーカス二三」にいると思っていたのである。 モンロー研究所の定義では、「フォーカス二七」の上にも、「フォーカス三四・三五」「フォーカス四二」「フォーカス四九」などがあることになっている。「フォーカス四二」というのは、この宇宙の太陽系さえ越えた世界で、ちょっと想像もつかないが、さらにその上の「フォーカス四九」は、銀河系をも越えることになる。 二〇〇三年に『死後体験』を書いた坂本政道さんは、その後も、霊界への訪問を繰り返して、「超能力者ではない普通の人」の目で、「フォーカス四二」と「フォーカス四九」の壮大な世界を、『死後体験Ⅱ』(ハート出版、二〇〇四年)にまとめた。 現実離れしているので、当然、批判や疑問はあった。「『死後体験』に書いた事柄はまったくの夢か幻覚ではないのか、少なくてもそうでないと証明できていない」という読者からの指摘もあったらしい。それに対して、彼は、こう述べている。世間の無知の壁を乗り越えるのが、いかに難しいかということがここでも示唆されているようで、最後に取り上げておきたい。 《世の中には、科学的に存在が証明されたことしか信じない人たちがいる。証明されてない事柄はすべてウソだ、幻覚だとして受け入れない人たちである。たとえば、霊や死後の世界の存在について、科学的に証明されていないからそういうものは存在しないと言う。『死後体験』や本書で述べたような事柄を、科学的に証明されていないから幻覚だと断定する。 そういう人たちは、今の科学はこれ以上進歩発展しないと考えているのだろうか。なぜなら、今までに存在が証明されたことしか存在しないのなら、これから発見される事柄は存在しないことになるからである。 彼らの論理に従えば、物理学の最先端で議論されている海のものとも山のものともはっきりしないような新しいアイデアや新しい素粒子はすべてウソということになる。 たとえば「11次元の超ひも」や「M理論」などである。あるいは、宇宙物理学で登場するダークマターやダークエネルギーである。これらの存在はまだ科学的に証明されていない。彼らの論理に従えば、こういうものは存在せず、これらはウソであり幻覚ということになる。 このように、科学的に存在が証明されたことしか信じないと言う人たちは、科学的ではない。むしろ彼らは既存の出来上がった科学を信奉する宗教家である。科学信奉という新宗教の信者である。 真の科学者とは未知の分野に果敢に飛び込み、未知を既知へと変える努力をする人を言う。それがたとえそのときの世の常識に反していても、常識のほうが間違っているのではないかと疑う勇気のある人である。》 (前掲書、一二~一四頁) ~~~~~~~~~~~~~~~~ |
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