[参考資料 51] 2021.03.29

      マイヤースの「永遠の大道」より

近藤千雄『シルバーバーチに最敬礼』(コスモス・ライブラリー、2006)では、「資料②」として、フレデリック・マイヤース『永遠の大道』(浅野和三郎抄訳)を近藤千雄さんが全訳したものから、その一部が取り上げられている。(pp.49-66)
 ここでは、マイヤースが、「永遠の大道の旅人としてすでに〝見えざる境界〟を通過し、しばしば全く新たな認識をもって舞い戻ってくる我々にとって、死は単なる偶発的一事象、ある種の優しさこそあれ、辛くも悲しくもない一挿話に過ぎなくなっている。しかし地上界に身を置く人間にとって死は一夜の宿り、長い道中での休憩所のように思えることであろう」と切り出している。そして「またそれは、人によっては熱に浮かされた一夜となるかも知れない。恐怖におののく一夜となるかも知れない。奇っ怪な夢にうなされ通しとなるかも知れない」などと続けて、次のように述べている。


     *****


 さて読者は、各種の通信によって、死の現象の秘密を解くカギが自我のまとう身体の振動数の変化にあることを、多分、ご存じであろう。例えば地上の人間が外的環境を感知するのは、肉体の振動数が環境のそれと同じある一定の範囲に限られているからである。あなたの振動数をその範囲外に変化させたとしよう。その瞬間に他の人間も大地も物体も視界から消えて失くなるであろうし、他の人間にはあなたの存在が見えなくなるであろう。
 それゆえ死とは身体の振動数の変化を意味するに過ぎない。そしてその変化のためには一時的な意識の中断が必要となる。なぜなら、魂がそれまでの一定の振動数の身体から異なる振動数をもつ身体へと移るための準備をしなければならないからである。
 このように、地上界から次の界へ入るに当たって急激な断絶や飛躍があってはならないわけで、それで私が冥府と呼んでいる中間境の必要性が生じる。ご存じの通りイエス・キリストでさえこの境涯に入って、暫しの休息を取っている。
 ここで第一の疑問が生じる。医師が「ご臨終です」と述べた直後のその死者の魂はどういう形態で自我を表現しているのであろうか。ついさっきまで明るい個性を見せていた人が冷たい亡骸となってしまったのを見て、誰しも「一体どこへ行ってしまったのだろう?」と思うものである。感性豊かで知性のみなぎっていた、あの愛しい人がこの宇宙から消滅してしまうとは、少なくとも臨終の宣告を聞いて暫くは、どうしても信じられない。
 その直感的心情は実は正しいのである。死が万事の終わり、生命の旅の終着だとは信じたくないという心情は、決して間違ってはいないのである。
 人間には、地上生活の初めから終わりまで、ダブルという一種の接合体がそなわっている。これは内的精神と脳との連結機関であって、多くの重要な機能をもっている。例えばあなた方が夜寝入ると、意識による身体機能のコントロールは途絶える。表面上の中断ではなく、完全な忘却状態となる。その間に見る支離滅裂な夢は、大部分は日中の活動によって興奮したり苛立ったりした神経の反応に過ぎない。その間、自我の本体(魂)はダブルの方へ移っていて、その留守中に身体が神経性エネルギー、いわゆる元気の素を摂取する。睡眠ほど大事なものはない― 飲食物より大切である―というのが古来の常識であるが、それは正解なのである。
 このテーマについてこれ以上解説する余裕はない。ともかくダブルというのは、もし人間の目に映じれば肉体とそっくりの形をしており、数多くの糸状の細いコードと二本の太い銀色のコードで連結されている、と承知していただければよい。シルバーコードの一本は大陽神経叢[訳注-みぞおちのあたりで、ヨガでいうチャクラの一つがある]、もう一つは脳[訳注-松果体という説が有力。ここにもチャクラがある]とつながっている。このコードは弾力性に富み、睡眠中にいくらでも伸びる。死の現象はこれら大小のコードが切断されることから始まり、最後に二本のシルバーコードが切断した時に完結する。
 魂が肉体から離れた後も生命力だけがどこかの細胞に留まっていることがあるのは周知の事実である。この現象は医者の首をひねらせる難問のようであるが、霊界から見れば簡単に説明がつく。コードの中のどれかが切断されないために、ダブルが肉体から完全に離れきれないのである。死の現象がすんなりと進行せず、言うなれば旅の途中で足止めを食うわけであるが、それによって肉体的に苦しむということはない。
 が、自分の臨終の場に居合せてくれている親族や知人・友人の存在を強く感じることで、心情的に辛い思いをするかも知れない。もっとも、それもそう長く続くものではない。速ければ一時間、長くとも二、三時間もすれば、地上界の束縛から完全に自由になる。
 地上の人間が死者の枕元を見つめ、あの世へ旅立った者を悼む気持は分からないでもないが、その魂の安否について懸念するには及ばない。なぜなら、肉体から離れた直後は誰しも半睡眠状態にあるからである。死に際してのあの苦悶、悪夢に苛まれているかのごときうわ言、熱にうなされているかのごとき身悶えは、魂がダブルへ移動する前の現象であり[訳注-大小のコードがほとんど切れたり衰弱しているので、魂自体は見た目ほど苦しんではいない]、死の瞬間においては、事故死などの急死の場合は別として、魂の意識はいたって平静である。薄ぼんやりとした視界の中での暫しの休息で、その中で時として先立った親友や親戚の姿に接することがある。
 もちろん、死後に置かれる環境は、各自、大いに異なる。例えば地上時代に一度も人を心から愛するということのなかった者は、土くれでできた肉体を離れると同時に暗闇の孤独の中に置かれる。その暗さは地上の夜の暗さとは比較にならない、漆黒の闇である。
 しかし、そのような絶対的孤独の状態に置かれるのは極めて少数の者に限られる。よくよくのエゴイスト、悪逆非道の人非人を除いては、そのような目に遇うことはまずないと思ってよい。
 ごく平均的な男女は、死に際して何の苦痛も味わわない。魂そのものはすでに肉体から分離しているので、肉体がいかに苦しそうにしていても、本来の自我はただ眠気を感じるのみで、風に乗って漂う小鳥のように、当てもなくあちらこちらを漂っている心地がする。
 その感じは、長患いの後に死を迎えた者にとっては、うれしい安らぎでさえある。それゆえ、見た目には哀れな姿で死んで行くのを目の当たりにしても悲しむことはない。すでに病苦から免れ、この世とあの世の間をはばたきながら、心と知覚の平静さから生まれる名状し難い満足感に浸っているのだから……
 そのうち魂はゆっくりとダブルの中に収まり、肉体から離れて少しの間その遺骸の上を浮遊する。いずれ人間はその様子を写真に撮ることができるようになるであろう。そしてその乾板に写るのは一片の白い雲、淡い白色の存在であろう。いかに精巧なカメラをもってしても、それ以上の細かい姿は捕らえられないであろう。が、我々には全く異なる魂の姿が見える。我々の霊的身体の感覚が肉眼より遥かに精巧にできているからである。そして、通例その魂のまわりには、親戚や友人が出迎えに訪れているものである。
 おびただしい数の死者の魂が続々と入ってくる冥府で展開する情況は、その十分の一を伝えるのも不可能なほど複雑を極める。そこで私は、常識的な意味で真面目に生涯を終えた平均的人間が辿るコースを叙述してみようと思う。
 この冥府に滞在する期間は、各自その本性によって異なる。血縁のある親戚や霊系を同じくする友人・知人の出迎えを受けた後、あるいは彼らとの暫しの対話を交わした後に、その新参の霊はまるでベールで包まれたような安らかな休息状態、半覚醒状態とでもいうべき状態に陥り、そこで何の恐怖も感興も伴わずに地上時代の体験を見つめる。
 その状態はあたかも心地良い夏の昼下がりに、陽光にきらめく景色をうつらうつらと眺めるのにも似ている。そこに展開するドラマの中に自分もいるのだが、今はそれに情的に巻き込まれることなく、一歩離れた立場から自分の行動を見物し、統括霊の光(判断力)の援助を得ながら批判している。
 そのドラマは「影芝居」という用語がぴったりである。それを見てどのような反応を示すかは一人ひとり大いに異なる。ほとんど記憶らしい記憶を留めない者もいれば、辺りの安らかな静けさにうっとりして、目の前に展開するドラマに喜びも悲しみも感じない者もいる。
 しかし、そうした中にあっても死後の過程は着々と進行しており、ダブルの中から幽体が脱け出る。そして、その時には地上生活の霊的価値の査定が終了している。ちょうど古いコートを脱ぎ捨てるようにダブルから脱け出るまでに、統括霊の光によって価値評価が下されている。そして上るか下るかの最終判断のみが本人に任される。
 それまで肉体とのつなぎ役をしていたダブル― 今やヨレヨレの衣服のようになった媒体―を脱ぎ棄てたあと、彼はすっかり意識を取り戻して夢幻界の一住民となる。実はその時に新調のダブルを身につけている。〃脱け出た〃と表現したのは、いちばん外側の殻、言わば〝残像〟をかなぐり棄てたという意味である。
 右の「影芝居」の期間は地上の時間にして三、四日で十分である。その間に新しい身体である幽体と自我との調整が完了している。
 もっとも、大勢の中には変人・奇人がいるもので、地上時代のままのヨレヨレのダブルで冥府をうろつき回り、地上界と幽界の境界付近に出没する妖怪変化―人間の苦悩のタネを撒き散らし分別心をくらまして喜ぶ不可思議な存在― と出くわして肝を冷やす者もいる。
 しかし実際問題として、そうした奇怪な存在が人間の死の過程に影響を及ぼすことはない。少数の変わり者を除いて、ごく普通の他界者は何の苦痛も悩みもなしに、半醒半夢の冥府を無事通過する。地上から訪れる旅人にとって冥府は決して恐怖や苦悶の場ではないのである。
 生理学によると、記憶は単に脳の役割に過ぎないということになっている。確かに、脳の一部に傷を受けるだけで知能が正常に働かなくなり、自分の過去のことが何一つ思い出せなくなることは事実である。
 が、実際は過去を忘れたわけでもないし、知性を失ったわけでもない。脳というメカニズムの一部が機能しなくなり、記憶に係わっている知性が地上界へ発現できなくなったまでのことである。内的には知性は相変わらず生き生きとしており、記憶も完全に留めている。物的な脳に感応しないまでのことである。つまりダブルという接合体にこそ記憶と知性の機能が宿されていて、自我が物的生活で体験するものを全て記録しているのである。
 忘れてならないのは、このダブルというのは誕生から死に至るまで肉体に付属していて、魂を宿し、保護し、実質的には肉体よりもはるかに忠実に自我に仕えていることである。
 人間的な見方からすれば記憶こそが本人のアイデンティティ、つまり個的存在としての自己確認 ―魂とか意識とかの用語が伝えるところのものにとって必須の要素のように思えるであろう。ところが、全てを失うかに思える死の現象によって、そうしたアイデンティティはいささかも失われない。と言うのは、今も述べたように、魂はその記憶の中枢をダブルの中に置いているからである。
 そのダブルの外殻を形成している成分は死後間もなく廃棄され、本質的要素である幽体が残る。もっとも、この幽体も地上生活中ずっと自我のお伴をしながら機能を果たしてきて、これから始まる夢幻界でも自我に仕え、個性の連続性を維持してくれるのである。
 ダブルの浄化作用が行われるのは「影芝居」を見ている期間中である。新たなエネルギーを吸収し、魂の変化に合わせて改造と調整が行われる。すると不思議な、驚くべき変革、あたかも繭を破って蝶が飛び出すように、ダブルの中にいた魂が―入った時はヨレヨレの見すぼらしい姿だったのが― 新調されたばかりの幽体をまとって、はつらつたる元気と、地上界から持ち越した願望に燃えて、夢幻界での生活に入る。
 夢幻界というところは、そうした願望の成就にはお挑え向きにできているのである。 (近藤千雄、前掲書、pp.51-58)






                                           [参考資料 52]  2021.04.26

    子は親を選んで生まれてくる 


 私たちは霊的真理をいろいろと学んできて、誕生の時には、親を選んで生まれてきたことを知っている。しかし、一般には、この事実を知っている人々は多くはない。子どもの誕生で、「親が子を選んで産むのか、子が親を選んで生まれるのか」と訊かれても、世間の常識では、そもそも「選ぶ」ということ自体がよく理解できない。子を産んだのは親であるから、子を選んで産んだのも親であるのが当たり前ではないかと答えるのが普通であろう。
 そのような世の中で、「子は親を選んで生まれてくる」ことを知らないことが、時には、家庭や、教育の場で深刻な問題を惹き起こすことがある。その問題を改めて考えてみるための資料として、以下、その真実を「知らない場合」と「知っている場合」の二つの立場の違いを、それぞれ(A)と(B)に分けて、参考文書を例示しておきたい。「どうして自分を産んだのか」、「自分は何故こんな親の下に生まれたのか」などと嘆くような例は、世間では珍しくはないが、いうまでもなく、誕生の真実を知らない(A)の場合には、説得力のある対応は期待できない。(B)の資料は、私が書いたものから選んだ。



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 (A) 渡辺和子『あなただけの人生をどう生きるか』筑摩書房、2018 より

 渡辺和子氏は、1927年北海道旭川市生まれのカトリック修道女である。9歳の時、二・二六事件で時の教育総監であった父・渡辺錠太郎が目の前で、青年将校に暗殺されるという過酷な体験をした。聖心女子大学卒業後、上智大学大学院を修了して、ノートルダム修道女会に入り、アメリカのボストンカレッジ大学院で教育学博士号を取っている。その後、36歳の若さで、ノートルダム清心女子大学の学長になった。2016年に膵臓癌により89歳で死去した。『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎)が200万部を超えるベストセラーになるなど、多くの著作でも知られている。以下は、『あなただけの人生をどう生きるか』のなかの一部である。(同書、pp.173-175)


     *****


 いつだったか、大学生を対象とした人格論の中で、人間の自由と責任について講義をした後、一人の学生が廊下で次のような質問をしたことがある。「先生は今しがた、自分で選んだことに対しては責任をとれとおっしゃいましたが、私たちは自分で選んでこの世に生まれて来てはいません。そんな時には責任もないのですか」
 芥川の作品の中で、河童の父親は、母の胎にいる子に尋ねる。「お前はこの世に生まれて来るかどうか。よく考えた上で返事しろ」。そしてお腹の子が「生まれて来たい」といえば産むという。
 それに比べると人間の世界は不合理であり、勝手なものである。生きるという大変な責任のかかる事柄を、当の本人には一言の相談もなしに親が決めている。産む、産まないも親の勝手なら、産んで後、抵抗することのできない幼児をコインロッカーに押しこめるのも、高速道路に棄てるのも親の自由と心得ている。そのあげくの果てに、子どもが一人前になると親は手をひいてしまって、生きることへの全責任はいっさい本人にかかってくるのだ。その点、河童の世界の方が筋が通っている。「両親の都合ばかり考えているのはお恥ずかしいですからね。どうもあまり、手前勝手ですからね」と父親河童は言う。
 前出の学生の質問に対しては、「逆は必ずしも真ではない」ということで危うく身をかわしたものの、「生きる」ということを自由に選ばなかった者が、その一生のある時点で、なぜ生きねばならないかと問うのは当たり前だし、彼らに向かって生きる責任を説くのは実にむずかしいことだとしみじみ思った。
 物事がうまくいっている間はいい。生きることもそれほどの重荷でなく、ありがたいと思える時さえあるのだ。ところが一旦物事がひどくこじれたり、他人から誤解されたりして生活に疲れてしまった時、自分はどうして生まれて来たのだろう、なぜ生きつづけないといけないのだろうと思うことがある。生きることが面倒になって、日なたに寝そべっている犬を見ても羨ましくなるのはこんな時である。
 不治の病にかかって、結婚もできなくなり、一生この重荷を背負って生きなければならないことを知らされた一人の卒業生は、「どうして私だけがこんなに苦しまないといけないのか。どうして私を産んだのかと言って母にくってかかる時もある」と述懐した。自分の不節制で病気になったのならまだ諦められるのにとも言った。
 「一旦生まれたからには生きないといけない。自らともしたのではなくても、自分というろうそくにすでに火がともされているのだから、自分の手で消してはいけない。なぜなら、その火は偶然にともされたのではないからだ。私たちは生きていると思うから苦しいので、生かされていると思わなければ」。その人にそう言いながら、何とむずかしいことだろうと思った。自分が同じ立場にいたとして、この言葉が果たして納得できるだろうかと不安になった。





 (B)-1-  拙著『真実の自分を求めて』 (HP「講演集」第5集)から

 世間では、母親が子に向かって、「おまえを生んだのは私だ」と言うようなことも珍しくはありません。しかしラムサはここで、親は子を創造することはできないと言っています。意外な表現のようですが、しかしこれは、科学的あるいは確率論的な見方からいっても、そうであることがわかるでしょう。人間誕生の過程を考えてみれば、親は共同作業で子を産むことはできても、一人一人の子を選んで産むことは決してできないからです。
 人間の誕生は、いうまでもなく、母親の卵子と父親の精子の結合によってもたらされます。数百万から選び抜かれた細胞から卵子は月に一つずつ放出されますが、その数は女性の一生のうちでわずか五百であるにすぎません。その卵子を目指して放出される精子の数は一度に三億とも四億ともいわれます。しかし、その精子がミクロの世界のなかで抜きつ抜かれつの壮絶な勝ち抜きレースを展開して、やっと勝ち残ったわずか百前後が子宮の入り口までたどり着いても、そこに目指す卵子がいるとは限らないのです。
 数百万の細胞の中から選び抜かれて育った卵子が、卵管を通って子宮に移動するまでの数時間だけが受精可能で、そこで無事に卵子とたった一つの精子が結ばれる確率の低さは、ゼロに限りなく近いといってよいでしょう。つまり、一つの勝者の精子が無事卵子と結合できるまでには、おそらく数十億あるいは数百億の敗者の精子が勝ち抜きレースから脱落するわけです。この勝ち抜きレースの主役は一人一人の「子」であって、決して親ではありません。親は、この勝ち抜きレースに誰が勝とうが誰が負けようが、その選択には全く関わることができずに無力なのです。
 このように親は、遺伝的には確かに親ですが、どの子を産むかを選ぶことはできません。選ぶのは、子の側でありえても、決して親ではないのです。そして、もし子の側にそのような主体的な選択の意志が認められないというのであれば、残された可能性としては、神の意志とでも考えなければならなくなります。これは科学的レベルで捉えた真理の一端に過ぎませんが、子は本当に親を選ぶのでしょうか。これについては、つぎのような霊界からの貴重な証言があります。

 《人はみな永遠の存在である。腕に抱かれた幼子や赤ん坊も、星々と同じく大昔から存在している。意識は永遠であり、不滅なのだ。
 人は自分の人生の境遇を選択する。もしこちらの領域に来てみたなら、皆さんの世界に生まれ出る機会を切に待ち望む、数知れない仲間たちを目のあたりにするだろう。彼らは地上の喜びと豊かな環境を懐かしがり、切望している。また多くの人にとって、魂の領域自体も学ぶべきことは多いのだが、「地球学校」という意義深い領域にとってかわることはできない。
 赤ん坊はすっかり成熟した完全に進化した魂であり、魂の領域では成人の姿をして見える。もし彼らの魂がこの世でさらに学ぶように駆り立てれば、彼らは、自分たちが入っていくのにふさわしい環境を検討し探す。彼らは母親を捜し、そして一種の宇宙の順番待ちのリストに登録する。家柄を慎重に調べ、適切な縁組みを探すのはわたしたちの領域にいる多くの者たちの仕事だ。そんなわけで、赤ん坊は皆さんの世界への新参者ではなく、おそらくその両親と同程度の年月を経ているのである。両親が子供から非常に多くのことを学ぶのも不思議はない。》 (ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』(片桐すみ子訳)人文書院、1997、pp.18-19)

 子供はこのように、自ら親を選んで生まれてきます。そして、前にも触れましたがほとんどの場合、人は自分の知っている親を選ぶといわれます。前の生で子供や親であった存在たちです。ただ、この地上界での自己表現の媒体を提供してくれるというだけの理由で、自分の知らない人を親に選ぶこともあるようです。また、自分が戻りたいときに、そのための媒体がないこともよくあって、場合によっては自分にあった化身を見つけるのに何百年と待たされることもあります。しかし、ラムサも言っているように、本当の意味で、人の母親、父親であるものは一人もいないのでしょう。すべての人間は、神という生命を分け与えられた息子であり娘だからです。つまり、私たちの誕生は「神の意志」であり、本当の親は神であることを知らねばなりません。



 (B)-2- 「親を選んで生まれてくる子供たち」 (HP「寸感・短信」No.107)より

 池川明・豪田トモ共著『えらんでうまれてきたよ』(二見書房、2010)という本がある。著者の池川氏は長年、赤ちゃんの誕生に接してきた産婦人科の医師で、豪田トモ氏は、池川氏の講演を聞いて感動し、その内容をドキュメンタリー映画「うまれる」に仕立て上げた監督である。
 産婦人科医の池川氏は、この本のなかで、「生まれる前の記憶」に興味をもったのは、親子関係をよくするヒントが含まれていると感じたからと述べている。そして誕生前後の記憶について調査を始め、2003年から翌年にかけて、保育園に通う 3601組の親子を対象にアンケート調査を実施した。その結果、胎内記憶がある子は33パーセント、誕生記憶がある子は20パーセントもいることがわかったという。(同書pp.71-72)
 これは極めて高い数字である。胎内記憶はこれほどありふれた現象なのに、なぜそれが一般には知られてこなかったのか。氏は、「赤ちゃんには何もわかるはずがない」という偏見が、真実を見誤らせているのではないかと考えている。子どもがせっかく話し出しても、親が聞き流したり否定したりするうちに、子どもは口を閉ざし、やがて成長とともに記憶を失っていくのかもしれない。それで氏は改めて、子どもたちの胎内記憶や誕生時の記憶などの実例を、この本でいろいろと紹介しているのである。そのなかには、つぎのような記憶も含まれている。

 (例1)
 おかあさんとおとうさんが別れるのは知ってたよ。わかってたけど、ぼくはおかあさんをえらんだんだよ。空の上から見ていたら、おかあさんがすごくがまんしているように見えたし、悲しそうに見えたから来たよ。おとうさんには新しい家族ができるけど、おかあさんはたぶんひとりだから・・・・・。ぼくがいるから大丈夫だよ。――汐音くん

 (例2)
 ママ、はるかはわかってたんだよ。お空からママのことを見てママがいいって決めたんだけど、そのときにおじさんがやってきて、「このママのところに行くとパパはいないんだよ」って言われた。でも、それでもいいから、ママのとこに来たくて来たんだから、はるかはパパがいなくても大丈夫なの。――羽琉香ちゃん

 (例3)
 おかあさんのおなかに入る前は、雲の上で神さまといっしょにいたの。わたし以外にもいろんなお友だちがたくさんいてね、みんな天使みたいに羽がついてるの。おかあさん、「かわいくてやさしい女の子がほしい」っておいのりしてたでしょ? だから神さまがわたしに、「あのおかあさんのおなかに行きなさい」って言ったの。だからわたしが生まれたのよ。自分でおかあさんをえらぶ子もいるし、神さまがおかあさんをえらぶ子もいるけど、わたしの場合はおかあさんがわたしをえらんだのよ。知ってたでしょ? ――美咲ちゃん

 このなかの、(例2)の羽琉香ちゃんのことばについては、お母さんは、「離婚をしたばかりの頃、当時3歳の娘が話してくれた言葉です。この記憶のおかげで救われました」と述べている。(例1)の汐音くんも、お母さんが離婚することを知っていたうえで、そのお母さんを「力になりたい」と思って選んだようである。このように、お母さんが「寂しそうだったから」とか「悲しそうだったから」という理由で選ぶ子どもは決して少なくはないと池川氏はいう。(例3)の美咲ちゃんは、「おかあさんがわたしをえらんだのよ」と話しているが、これは、おかあさんの祈りに神さまが応えたと考えていいのかもしれない。
 私の手許には、デーヴィッド・チェンバレン『誕生を記憶する子どもたち』(片山陽子訳、春秋社、1994)や平野克己『輪廻する赤ちゃん― 誕生の秘密』(人文書院、1996)などもあるが、このような本によって日本や世界各国の実例をさらに紹介するまでもなく、子どもは親や環境を自ら選んで生まれてくる。この世でいう逆境をわざわざ選ぶことも決して珍しくはないが、それも自分の霊性向上のためである。私たちは、そのような霊的真理についてもいろいろと学んできた。例えば、シルバー・バーチの教えでは、これは、つぎのような表現になる。

 《地上に生を享ける時、地上で何を為すべきかは魂自身はちゃんと自覚しております。何も知らずに誕生してくるのではありません。自分にとって必要な向上進化を促進するにはこういう環境でこういう身体に宿るのが最も効果的であると判断して、魂自らが選ぶのです。ただ、実際に肉体に宿ってしまうと、その肉体の鈍重さのために誕生前の自覚が魂の奥に潜んだまま、通常意識に上がって来ないだけの話です。》 (『シルバー・バーチの霊訓(1)』 p.38)



 (B)-3- 「メーテルリンクの『青い鳥』」 (HP「随想集」No.65)より

 メーテルリンクの『青い鳥』は、貧しい木こりの子どものチルチルとミチルが、幸福の象徴である「青い鳥」を求めて冒険の旅に出る物語です。「思い出の国」では、すでに亡くなっている祖父母と再会し、「未来の国」では、これから地球に生まれてくる弟とも出会います。作者のメーテルリンクはベルギー生まれで、法律を学んだ後、文学を志した詩人・劇作家ですが、クリスマスのための童話を頼まれて、1906年にこの戯曲を書きました。1910年には、ノーベル文学賞も受賞しています。
 このメーテルリンクの『青い鳥』が、私のホームページ「学びの栞」(B) 36-f で取り上げているコナン・ドイルの『人類へのスーパーメッセージ』(講談社、1994年)にも出てきます。この「スーパーメッセージ」は、コナン・ドイルが自分の死後、霊界から送ってきた通信の一部を紹介したものですが、そのなかで、『青い鳥』について、次のように触れているところがあります。

 《こちらの世界から、著名な作家のインスピレーションがどこから来ているのかを見ていると、じつに興味深いものがあります。メーテルリンクの『青い鳥』を思い出します。その本の中に、子供たちが地球に戻るべく名前を呼ばれるのを待ちながら、みんなが集まっている場面があります。
 それぞれの子供は袋を持っていて、その袋には、地球に持ってかえる贈物や知識だけでなく、自分が患うことになる百日咳や狸紅熱といった病気も、きちんと包まれて入っています。子供たちは、星の海を “父なる時”の船に乗って渡り、地球で待っている母親のところに帰ろうとしているのです。》(pp.264-265)

 これは、いうまでもなく、人間がこの世に誕生するのは、時を選び、親を選んで、地上で体験すべきこともすべて了解し納得したうえであることを示しています。しかし、通常はこういう霊的真理は容易には理解されることがありません。そのことをよく知っているコナン・ドイルは、ですから、このような話を、「ただのおとぎ話だと言う人もいるでしょう。しかし、ここには、大変な真実が述べられているのです。それはおそらく、宇宙存在から降りてきたか、作者の自我の前意識のレベルから出てきたものでありましょう」と、つけ加えているのです。この地上で、人間があらわす偉大な業績は、しばしば、霊界からの導きによるものであることがシルバー・バーチの霊訓などによっても示唆されていますが、メーテルリンクが、このような作品を書くことができたのも、決して例外ではないことを、コナン・ドイルも伝えたかったのでしょう。
 コナン・ドイルが例にあげているこの場面は、『青い鳥』の第5幕第10場「未来の国」にあります。改めてここで検証するために、その該当部分を岩波少年文庫『青い鳥』(末松氷海子訳、2004年)から再現してみましょう。未来の国へ行ったチルチルとミチルが、その翌年、チルチルとミチルの弟として生まれてくることになっている「一人の子」に会う場面から、ト書きを省略して、会話の部分だけを引用してみます。未来の国のその子は、広間の奥から走ってきて、まわりに沢山いる子どもたちを掻き分け、チルチルの前に出て、挨拶をするのです。

 一人の子 チルチル、こんにちは!
 チルチル あれっ! どうしてぼくの名前、知ってるの?
 その子  こんにちは! 元気かい? ねえ、ぼくにキスして! ミチルもね。ぼくがきみたちの名前を知ってたってふしぎじゃないよ。だって、ぼく、きみたちの弟になるんだもん。たったいま、きみたちが来てるって聞いたから・・・・・ぼく、広間のずっと奥にいて、夢中になって考えてるところだった。ぼくはもう準備ができてるって、母さんに言ってね。
 チルチル なんだって? ぼくたちのところへくるつもりかい?
 その子  そうだよ。来年の復活祭直前の日曜日にね。ぼくが小さいうちは、あんまりいじめないでね。今から二人にキスできて、とってもうれしいよ。父さんに、こわれたゆりかご直しておいて、って言ってよ。ぼくたちのうちっていいとこ?
 チルチル まあ、悪くはないな。母さんはとってもいい人だし・・・・・
 その子  どんなもの食べるの?
 チルチル その日によってちがうよ。お菓子を食べる日もあるんだ。そうだよね、ミチル?
 ミチル  お正月と、それから七月十四日の革命記念日ね。母さんが作ってくれるの。
 チルチル その袋の中になにが入ってるの? ぼくたちに、なんか持ってきてくれるの?
 その子  三つの病気を持っていくんだ。しようこう熱と、百目ぜきと、はしかと・・・・・
 チルチル えーっ! 三つも! じゃ、そのあとはなにするの?
 その子  そのあと? 死んでしまうのさ。
 チルチル それじゃ、生まれたって、なんにもならないじゃないか。
 その子  そう決まってるんだもの。しかたないよ。

 この最後の部分の会話には考え込まされてしまいます。「その子」は、チルチルとミチルの弟として生まれ、猩紅熱、百日咳、はしかを病んで、そして死んでいくことをも「選んで」、地上に生まれてくるわけです。地上では、これは大変不幸な生涯ということになりますが、霊界では、永遠の生命は自明ですから、当然のことながら、その「不幸」の捉え方も同じではないはずです。幼くしてこの世を去っても、それは、霊性の向上のために必要な体験で、学ぶべき課題がそれぞれに与えられている、という大切な意味をもつことになるのでしょう。そしてそれが、決して、単なるおとぎ話ではなくて、「大変な真実」であることを、霊界に行ったコナン・ドイルが再確認してくれている、といってもいいのかもしれません。






                                        [参考資料53] 2021.05.24
      神様に近いような特別な人 


 梯久美子『昭和の遺書』(文春文庫、2009年)に、太平洋戦争中、第十六軍司令官としてジャワ島攻略戦を指揮、オランダ、イギリス軍と戦って勝利をおさめた今村均大将についての一文がある。
 今村均(1886-1968)は、新潟県の新発田中学を首席で卒業し、東京で受験勉強していた19歳の春、判事をしていた父の虎尾を亡くした。経済的な理由もあって、陸軍士官学校に入学したあと、1915年に、陸軍大学校27期を首席で卒業している。同期生には本間雅晴(3番の成績)や東條英機(11番の成績)がいた。

 今村均は、ジャワ島攻略戦で勝利した後、オランダ軍から没収した金で各所に学校を建設したり、日本軍兵士に対し略奪等の不法行為を厳禁として治安の維持に努めたりするなど現地住民の慰撫に努めた。また、かつての支配者であったオランダ人についても、民間人は住宅地に住まわせて外出も自由に認め、捕虜となった軍人には人道的な待遇と処置を受けさせるなど善政を敷いたことが知られている。その後、今村は、第八方面軍司令官としてニューブリテン島のラバウルに着任する。飢餓に苦しんだガダルカナル島の教訓から、食料の自給に努める中、敗戦を迎えた。
 戦後、戦犯として次々と裁かれていく部下を見て、みずからの意志でラバウルの戦犯収容所に入所し、過酷な環境にある部下を力づけた。やがて自身もオーストラリア軍による裁判で禁固10年の判決を受け、巣鴨拘置所に送られるが、部下とともに服役したいと占領軍に直訴し、日本軍将兵が多く服役していたマヌス島刑務所へ入所した。
 昭和28年に帰国し、翌年、巣鴨プリズンから釈放されると、自宅の庭の隅に建てた三畳の粗末な小屋に独居、自身を幽閉するかのような生活を送った。戦闘で、あるいは戦犯として命を落とした部下たちへの罪責の念を持ちつづけ、老いた身体で元部下のための金策や就職斡旋に奔走したという。

 今村はオランダ軍による軍事法廷でも裁かれており、そのときの求刑は死刑だった。クリスチャンである長男はそれを知り、今のままでは煉獄に墜ちる、処刑される前に洗礼を受けるようにと日本から手紙を書いた。今村は陸軍士官学校時代から聖書を読み、キリスト教に深い関心を抱いていたが、受洗はしていなかった。
 その時の、今村の返事が残されている。それは次のようなものだった。

 《私は聖書にあらわれている神の愛を信じ、イエスが罪人救済のために説かれた道を有難いと敬仰している。また私が神に対する大きな罪人であることは自認しており、その上幾万の部下をたおし、しかも祖国をこんな窮境に陥れた大罪責を負う者として死後に天国や浄土に往くことは絶対にない、そんなことを望むのは許すべからざる僭上の沙汰であることをつくづく思いきわめている。(中略)
 神は地上の罪人を常に愛しつづけられている。だからこの世のそとにさらに地獄などを設けこの上の懲罰を加えることは、これこそ絶無だと思う。が、万一にも私の信念が間違いであり、地獄が地上のそとに設けられてありそこに導かれることがあっても、そこにいるかも知れない幾万の部下の霊といっしょに苦しむなら、それはむしろ本望といわなければならない。どうか私の霊の行方については心を苦しめないでいてくれ。》(前掲書、pp.91-92)

 結局、この裁判の判決は無罪だったが、この本の著者は、「処刑を覚悟して書かれたこの手紙には、今村の指揮官としての責任の自覚の深さと、どこまでも部下とともにあろうとする思いがあらわれている」と、述べている。

 太平洋戦争下のニューギニア戦線・ラバウルでは、たまたま、漫画家の水木しげるが、日本軍兵士として過酷な戦争体験を重ねていた。水木は、米軍の攻撃で左腕を失ったが、その彼が、野戦病院を見舞いに訪れた今村均に声をかけられたという。その時の今村は「太って日に焼けたやさしいお爺さんという感じ」で、高位の軍人につきもののいかめしさや威圧感がまったくなかったらしい。水木しげるは、軍隊と軍人が嫌いであったが、唯一の例外が、今村均大将であった。この本の著者は、水木にインタビューしたとき、水木しげるが「あの人は神様に近いような特別な人でした」と、しみじみ話していたと書いている。(前掲書、p.93)

 今村均は、贖罪の生活を続けて、1968年(昭和43年)に82歳で死去した。墓は仙台市の輪王寺にある。






                                    [参考資料54] 2021.06.24.
     司馬遼太郎の霊魂観 


  司馬遼太郎(本名、福田 定一)は、1923年(大正12年)の大阪生まれで、1960年(昭和35年)産経新聞社記者として在職中に、『梟の城』で直木賞を受賞している。翌年に産経新聞社を退職し、作家生活に入った。その後は、ここで記すまでもなく、小説家、ノンフィクション作家、評論家として、膨大な著作を世に遺した。代表作に『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』『坂の上の雲』などがあり、『街道をゆく』をはじめとする多数のエッセイなどでも活発な文明批評を行った。1991年(平成3年)に、文化功労者に選ばれ、1993年(平成5年)には、文化勲章も受章している。1996年(平成8年)2月、腹部大動脈瘤破裂のため72歳で死去した。法名は、「遼望院釋淨定」である。

 私は、司馬遼太郎の愛読者の一人である。その著作のほとんどに長年、親しんできた。何度か、読み返した本も何冊かある。私も大阪生まれだし、氏が青少年期を過ごした大阪の街、氏が通った上宮中学、大阪外国語学校なども私の知らないところではない。氏が学生のころよく通ったという松坂屋の横の御蔵跡町の図書館は、私にも思い出があるし、後に、大阪城公園駅の駅ホールの大きな壁面に刻まれた、「おごそかなことに、地もまたうごく」で始まる大阪を謳いあげた見事な詩のことばには、胸が熱くなるものを感じたりもする。私は、ひそかに、司馬遼太郎を自分の日本語文章の師として、仰いできた。

 その司馬遼太郎には、評論やエッセイのなかで、宗教に触れられている箇所も少なくはないが、ただ、霊魂の存在については、否定的であったようである。氏は、スピリチュアリズムとは、ついに生涯、無縁であった。スピリチュアリズムに傾倒していたコナン・ドイルについても、同じ作家の一人として、氏はよく知っていたと思われるが、この点についても、私の知る限りでは、氏は沈黙している。霊界や霊魂の存在は、シルバー・バーチから学んできた私たちにとっては自明で重要な課題であるが、ここでは氏の霊魂観を、参考資料のひとつとして、二つの講演会で述べた内容を、そのまま取り上げておきたい。私は氏の人柄を敬愛しているが、ただ、ここで延べられているような氏の霊魂観には同調できない。

 一つ目の講演は、1993年9月7日、東京大学安田講堂で行われた。東京大学医学部外科学第一講座第二講座開講百年を記念して行われたもので、演題は「『花神』から『胡蝶の夢』へ」であった。この講演の内容は、『司馬遼太郎全講演 第3巻』(朝日新聞社、2000、pp.328-340)に収められているが、そのなかに、仏教とキリスト教をとりあげ、霊魂の存在の有無について取り上げているところがある。このなかで氏は、こう述べている。


 《・・・・・・仏教というものは、もともと霊魂を否定する宗教なのです。
 親鸞も霊魂を否定する立場にありましたが、いちいち親鸞に質問した人がいませんので、書き残されてはいません。ただ阿弥陀如来を信じなさいと、親鸞は言います。
 阿弥陀如来とは人の名前のようですが、要するに「空」ということです。「空」ということのいわばニックネームが阿弥陀如来であり、空(ゼロ)への崇拝と感謝だけが親鸞の思想でした。
 人は死ねば十万億土に旅をして、お浄土に行く。これは比喩ですね。
 十三世紀の親鸞ははっきりと言いませんでしたが、この世もゼロであり、宇宙もゼロであり、人は死ねばゼロとなる。それが親鸞の真意だったと思います。
 しかし親鸞以後、親鸞の思想を崇拝することはあっても、深めようと努力した人はどれだけいるのでしょうか。
 いまだに霊魂があるとか、霊魂が作用するとか、人のたたりだとか、幽霊が出るとか言いますね。せっかく世界的な思想家である親鸞を持ちながら、その思想を未整備のままにしておいたためではないでしょうか。
 キリスト教の世界ですと、霊魂はあります。ソウルやスピリットだけが問題であって、亡くなったあとの死体は単なる物質、イットでしかありません。神はクリエーターであり、神はこの世をすべてつくつて、いまもつくりつつある。新しい医学が発見されても、それはわれわれがいままで知らなかっただけであり、すでに神がつくり給うたもの。神はつくり続けているのだと、神さえ信じれば非常にわかりやすい。サイエンスの邪魔にはなりません。
 もっとも、仏教はむしろキリスト教よりも科学的な宗教なのです。
 「縁起」という言葉がありますね。
 リレーション(関係)ということであります。すべての生命現象は関係によって成り立っている。これはお釈迦さんの仏教理論の重要なひとつです。
 いろいろな関係のもたれあいで生命ができあがっています。
 矛盾があって二律背反はあるけれども、生命はそれを克服していく。異物が反応を起こして大変だとなれば、それをどうアウフヘーベン(止揚)するかということになる。日夜、医学が苦労していることですね。
 お釈迦さんの仏教の世界は、そのままサイエンスの世界であると私は思うのですが、日本の現実はどうでしょう。
 先ほども言いましたが、民衆は古代のアニミズムを残したままで今日に至っています。
 遺骨をお墓に埋めて拝みに行く。
 これは美風ですが、お墓信仰など、もともとの仏教にはありません。
 明治以前の迷信と慣習の上にのり、現在、葬式仏教はますます濃厚になっています。戒名といいますと、中国名前ですが、お金を払って中国名前にしても仕方ないですね。
 臓器移植に反対する人の中で、極端な話ですが、肝臓の一部に霊魂が宿っているような言い方をする人がいます。
 日本仏教が親鸞や、あるいは空海を尊びすぎて今日まで来た怠慢が、いま来ているわけです。》 (前掲書、pp.338-339)

 ついでながら、冒頭で触れたように、司馬遼太郎の家は浄土真宗で、彼の死後つけられた法名は、遼望院釋淨定である。こぢんまりとした墓は、京都市東山区の大谷本廟にある。飾り気のない真四角の大理石の石柱の正面に「南無阿弥陀仏」とあり、左側面に「司馬遼太郎」、右側面に「遼望院釋淨定」の文字が刻まれている。浄土真宗で唱えられる「仏説阿弥陀経」などでは、壮麗な極楽浄土の様子が繰り返し述べられ、その浄土に往生することを念願すべきであると教えられるが、司馬遼太郎自身は、これもまた、フィクションであると考えていたであろうか。臓器移植の問題については、シルバー・バーチは反対しているが、そのような霊的視点は、司馬遼太郎にはなかったようである。


 つぎは、1995年3月5日、津市の三重大学講堂大ホールで、三重大学医学部創立50周年記念として行われた講演「臓器移植と宗教」から、一部を抜き出したものである。このなかで、司馬遼太郎自身は、臓器移植の賛成、反対、どちらの結論も持っていない、と切り出している。その底流にある日本人の思想について述べるのだと、断わっている。そして、ここでも、キリスト教とは違って、仏教には、もともと、霊魂はないことが、繰り返して、つぎのように話を続けた。

 《世界は相対的な世界であると、日本人はこの島に生まれたときから思っています。しかし西洋では違います。
 「アブソリュート(絶対)」ということがあります。相対的な世界を超える、この世界をつくった唯一の存在がある。ゴッドですね。
 西洋の場合、道端に亡くなっている人がいたとして、その人の霊魂は天国に行った、あるいは地獄に行った。死体は単なる物質にすぎません。
 三重大学の医学部ではしょっちゅう死体を扱うでしょうが、英語では死体のことを彼とも彼女ともいいません。
 「イット(それ)」
 という。死ねばイットにすぎない。
 日常的な会話ですが、神学的といってもいいですね。なにせ死んだ途端にイットになってしまうのですから。
 霊魂は天国か地獄に行きます。私を見つめる心があって、それを霊魂という。ソウルです。それらは神といつも行き来している。神の命令を聞いている。キリスト教の神は怖いですからね。
 ひょっとすると神と悪魔が同じ人物ではないかと思わせるほどに怖い。
 言いつけを聞かないと大変なことになる。どんなひどい目にあうかもわからない。阿弥陀如来のように、逃げ回っても追っかけて救ってくださるようなものではない。それだけ「絶対」とは怖いものらしい。
 霊魂があって天国に行く。残された死体はイットです。欧米において臓器移植が進んだのは、この死生観が大きく影響しています。
 仏教にも霊魂はあるじゃないかと、みなさんは思うかもしれません。
 ないんです。仏教は霊魂を否定する、認めない宗教です。
 そんなこと言ったって家に来るお坊さんの言うことと違う。死んでもお父さんはあちらでにこにこしてますよとか、死んだおばあちゃんがそういうふうにしてくれたんですねとか、言うじゃないかと思われるでしょう。
 それは人間の霊魂があってほしいという願望です。
 ゼロということをお考えください。
 死んで霊魂があるとするなら、それだけは「ある」ということになる。
 「空」にはなりません。
 サンスクリットで霊魂のことを「アートマン(我)」といいます。アートマンはあるというのが、インドの主要な宗教ですが、お釈迦さんは認めなかった。仏教では「我」もまた仮のものだ、「無我」こそが仏教の本質だという。釈迦ののちの学者たちも認めず、日本でもずいぶん論議されましたが、結局霊魂はないとしてきた。そうやって頑張ってきたのが、日本の正統的な仏教の人たちでした。
 ですけどね、お坊さんがそんなことを言ったら檀家がつきません。
 霊魂はなんとなくあるということを言わなくては、信者はつきません。
 霊魂はないということに耐えていく、剛毅な精神が仏教には必要なんですが、そんなに立派な人はいませんな。みんな弱い人間ですから、霊魂はあるとかないとか言っているうちに、阿弥陀如来の思うつぼになる。
 だいたい釈迦にお墓はありません。インドは昔から火葬でした。火葬はお金がかかります。お金がない人はガンジス川に流します。お金のある人は焚き代を払って、遺骨をもらう。釈迦も遺骨になって、その遺骨を仏舎利といいますが、その仏舎利はずいぶんほうぼうにあるようですね。
 釈迦の墓はない。空に帰られたわけですから、墓は必要としない。》 (前掲書、pp.477-478)





 
                                          [参考資料55] 2021.07.29.  
     ブライアン・ワイス博士の催眠療法 


 私たちはこの世に生まれては死に、死んでは、また、この世に生まれてくる。何度も何度も、この生まれ変わりを繰り返しながら、さまざまな喜怒哀楽の経験を積み、霊性の向上を目指していく。霊的真理のなかでも、この輪廻転生が、私たちの生と死を考える上では、最も重要なキーワードの一つになるのではないか。そして、この生まれ変わりの事実を、1980年代以降、医療の場で明らかにしてきたのが、ワイス博士の催眠療法であった。

 ブライアン・ワイス(Brian L.Weiss)博士の著書 Many Lives, Many Masters(邦訳『前世療法』 山川紘矢・亜希子訳、PHP研究所、1991)は、1988年にアメリカで出版されて以来、全米でベストセラーになった。その後、博士は、1992年に二冊目の本 Through Time Into Healing (『前世療法 2』 山川紘矢・亜希子訳、PHP研究所、1993)を書き、名声は全米に広まって、各地でセミナーや講演会を開いてきたという。ブライアン・ワイス博士は、1966年コロンビア大学を優等で卒業後、1970年、エール大学で医学部で医学博士号を取っている。これらの著書を書いていた当時は、マイアミ大学医学部精神科の教授を務めていた。

 ワイス博士が、患者に対して行なっていた催眠術とはどういうものであったか、その催眠術により得られた前世療法で、どのようにして患者は癒されていったか。その過程と実例の一部を、『前世療法2』と『前世療法』のなかから、以下に抜き出しておきたい。



     ************



    催眠術と退行催眠

 患者に過去世を思い出させるために私が使っている方法は催眠術です。催眠術とは何なのか、催眠術をかけられるとどのような状態になるのか、知らない人が多いのではないかと思います。催眠術は実は、そんなに不思議なことではありません。催眠というのは、意識がある一点に集中することで、私たちは日常生活でもこうしたことはよく体験しているのです。
 すっかりリラックスして何かに意識が集中し、外部の物音や刺激に気持ちを乱されないような時、その人は軽い催眠状態にいます。実はすべての催眠は自己催眠であり、被験者、つまり催眠をかけられている人が催眠のプロセスをコントロールしています。セラピスト、つまり私のように催眠をかける役割の者は、単なるガイド役にすぎません。ほとんどの人は毎日、催眠状態を体験しています。たとえばおもしろい本や映画に夢中になっている時もそうですし、自宅の近くまで来てほとんど無意識に車を運転している時のように、自動的に行動している時は、一種の催眠状態に入っているのです。
 催眠の目的の一つは、瞑想と同じように、潜在意識へ到達することです。潜在意識とは通常の意識の下にある部分、つまり思考や感情や外部の刺激等の常に私たちの自意識に立ち現れるものの下にある意識のことです。この潜在意識は、私たちが普段気がついているレベルよりずっと深い所で機能しています。潜在意識に起こっていることは、私たちの表層意識では捉えることができません。潜在意識の動きが表層意識に到達する時、私たちは直感、知恵、創造性等が湧き出る体験を味わいます。
 潜在意識は論理や空間や時間にしぼられない存在です。そして、時間を超えてすべてのことを思い出すことができます。何か問題がある時、潜在意識からすばらしい解決法がもたらされることもあります。潜在意識は私たちの日常の能力を超えた知恵を、表層意識にもたらします。催眠術は治療を目的として、意識を集中させて潜在意識の知恵を手に入れるための方法です。表層意識と潜在意識のバランスが普段と変わって、潜在意識が支配的な力を持つ時、私たちは催眠状態にあるといえます。催眠術には様々のレベルがあり、軽い催眠状態から深い催眠状態まで、いろいろなレベルに導けるように、工夫されています。
 催眠とは表層意識と潜在意識に私たちの注意をどんな割合で集中させるかで、その深さや浅さが決まるともいえます。事前に催眠について説明を受け、恐怖心を除いておくと、ほとんどの人が治療のために必要な、自分に合った深さの催眠状態に入ることができます。ただ一般の人々は、テレビ、映画、舞台などで見た催眠術の印象が強く残っていて、催眠術そのものに対して誤解があるようです。
 催眠状態は眠っている状態とは異なります。あなたは自分が体験していることをみんな意識しています。非常に深い催眠状態に入っている場合を除いて、あなたは意見を述べたり、批判したり検閲したりすることもできます。それに何を話すかは常に自分で決めることができます。催眠は、心の秘密をしゃべらせてしまう注射とは違うのです。タイムマシンに入って気がついたらそこは別の時代と場所で、現実を忘れ去ってしまうということでもありません。ある人たちはまるで映画を見るように自分の過去世を見ます。また、過去世の中にすっかり入り込んでしまって感情的に反応する人もいます。見るというよりは、感じるだけという場合もあります。時には実際に物音が聞こえたり、においを感じるということさえあります。そして、催眠から覚めてもその間に体験したことはすべて憶えているのです。
 こうした深い催眠に入るためには、高度の熟練が必要ではないかと思うかもしれませんが、私たちは誰でも、完全に目覚めた状態と眠っている状態の間の「半覚醒状態」として、毎日体験していることなのです。眠りから覚めたばかりでまだ夢をはっきりと憶えている時間がありますが、この間私たちは一種の半覚醒状態にいるのです。これはまだ日常の記憶や感覚が戻ってこない前の状態です。催眠状態と同じように、この状態では創造力がさかんに働きます。半覚醒状態では意識は完全に心の内側へと向かい、潜在意識にある創造性の源に到達することができるからです。半覚醒状態は制限も限界も存在しない〝天才〟の状態だといわれています。
 この状態では、私たちは自分で自分に課した制限や捕われから解放されて、自分の持つすべての資質を手に入れることができるのです。(中略)

 催眠術は少しも危険ではありません。私の患者で、今まで催眠状態から抜け出せなくなった人は一人もいません。抜け出したいと本人が思えば、いつでも催眠状態から抜け出せるものです。それに、自分の倫理観や信条を冒されることもありません。やりたくないのに鳥やあひるの真似をさせられることもありません。他の誰も、あなたをコントロールすることはできません。あなたは完全に自分をコントロールしているのです。
 催眠状態では、あなたは常に意識があって自分のしていることを観察しています。深い催眠状態で子どもの頃のことや過去世のことを次々と思い出している最中でも、セラピストの質問に答え、ふだんの言葉でしゃべり、自分が思い出している事柄の場所や時代を知ることができるのは、このためです。時にはその事件が何年に起きたかまでわかることもありますが、これは閉じている目の前にぱっと数字が現れたり、インスピレーションでわかったりするからです。催眠状態でも心は常に現在の意識を保っており、子ども時代や過去世の記憶を解釈しています。たとえば、一九〇〇という数字がひらめいて、古代エジプトでピラミッドの建設にたずさわっている自分の姿を見ると、たとえ紀元前という文字は浮んでこなくても、それが紀元前一九〇〇年であるとわかるのです。
 自分が中世ヨーロッパの戦争で戦っている農民だと発見した患者が、その過去世の中に現在の知人を見つけ出せるのも、同じ理由からです。また、催眠中の患者が現代英語を話せたり、その過去世で使っていた原始的な武器を現代のものと比較したり、年月日を詳しく述べたりできるのも、このためなのです。
 つまり、患者の現在の心が意識し、観察し、説明しているのです。被験者は、過去世の様々な事柄や出来事を、今現在の人生と常に比べることができます。ちょうど、映画の観客であり批評家であり、同時に出演もしているスターのようなものです。そして、その間ずっと、被験者は完全にリラックスした催眠状態にいます。
 催眠は、患者を潜在意識に触れさせて、病気を治す強い力を持つ状態へと導くことができます。いわば、催眠術は患者を「いやしの木」の繁った療法の森へ連れてゆくようなものです。そして、催眠術が患者を「いやしの国」へ連れてゆくものとすれば、退行のプロセスは、いやされるために患者が食べなければならない聖なる果実をつけた木なのです。
 退行催眠療法とは、患者の現在の生活にいまだに悪影響をもたらしたり、様々な症状の原因となっている記憶を呼び戻すために、時代の如何を問わず昔の時代にまでさかのぼる心理的な行為です。催眠術は、通常の意識状態では近づけないような過去世の情報を得るために、患者の心に意識の障壁を飛び越えさせることができるのです。 (『前世療法 2』、pp.22-27)




    退行催眠の実例 (患者のキャサリンに対する第一回目の退行催眠)

 「木が何本かと、石だたみの道があります。料理のための火が見えます。私の髪は金髪です。茶色の粗布でできた長いドレスを着ています。足にはサンダルをはいています。私は二十五歳です。私にはクレアストラという名前の女の子がいます……彼女はレイチエルだわ(レイチエルは現在の彼女の姪である。二人はとても親密な関係にあった)。とても暑いです」

 私はびっくりした。胃がキュッとちぢみ、部屋の中がとても寒く感じられた。彼女の見ているビジョンや思い出は、非常にはっきりしているようだった。あやふやな所はまったくなかった。名前、時代、着ているもの、木、すべてがありありとしていた。何が起こっているのだろう? その時の彼女の子どもが、現在の姪だなんてことがあり得るのだろうか? 私はますますわけがわからなくなった。それまで、何千人も精神病の患者を診てきたし、催眠療法も数え切れないほど行なったが、こんなに見事な幻想には、夢の中の場合でさえ、一度も出逢ったことはなかった。
 時をもっと先に進めて、死ぬ場面に行くようにと、私は彼女に指示した。こんなにはっきりした幻想(それとも思い出?)の中に浸っている人に、どう対処すればよいのかよくわからなかったが、私は彼女の症状の原因になった事件を探していた。死ぬ時に起こった事件が、特別な傷になっているかもしれなかった。洪水か津波が、その村を襲ったようだった。

 「大きな波が木を押し倒してゆきます。どこにも逃げ場がありません。冷たい。水がとても冷たい。子どもを助けないと。でも、だめ……子どもをしっかりと抱きしめなければ、おぼれそう。水で息がつまってしまった。息ができない、飲み込めない……塩水で。赤ん坊が私の腕からもぎ取られていってしまった」

 キャサリンはあえぎ、息ができなかった。突然、彼女の体がぐったりして呼吸が深く、安らかになった。

 「雲が見えます。……私の赤ん坊も一緒にいます。村の人たちも。私の兄もいます」

 彼女は休んでいた。その人生は終わったのだった。彼女はまだ、深いトランス状態にいた。(中略)

 「もっと続けて下さい」と私は言った。「他に何か思い出せますか?」

 「私は黒いレースのドレスを着ています。頭にも黒いレースをつけています。私の髪は黒くて少し白髪がまじっています。時代は一七五六年で、私は.スペイン人です。名前はルイザ、五十六歳です。私は踊っています。他の人たちも踊っています。(長い沈黙)私は病気です。熱が高く、冷や汗をかいています・…‥たくさんの人が病気です。死にかけています……水が原因の病気だということを、医者は知りません」。

 私は彼女に、少し先へ行くように指示した。

 「私の病気は治りましたが、まだ頭痛がします。熱のせいと、水のせいで、目と頭が痛みます。病気の原因は水でした……たくさんの人が亡くなりました」  (『前世療法』 pp.26-29)

    *ワイス博士の退行催眠の実例のいくつかは、「学びの栞 B」No.53 (催眠術・退行催眠)
          にも載せてあります。







                                         [参考資料56] 2021.08.30
    医師たちが語る自らの臨死体験


 臨死体験の研究については、アメリカのシカゴ大学教授で、ターミナルケアの世界的権威といわれたエリザベス・キュブラー・ロス博士(Elisabeth Kübler-Ross、1926-2004)が先駆者としてよく知られている。彼女は死への過程のみならず、死後の世界に関心を向けるようになり、『死ぬ瞬間』など、死をテーマにした本を20冊も書いている。彼女自身も幽体離脱を体験し、霊的存在との交流などについても、世界各地で数多くの講演を行った。しかし、一方では、死後の生などを説くのは、大学教授としてあるまじき妄言として、様々な反撥や非難を浴びたりした。やがて彼女は、臨死体験の例を集めて「死後の生」を証明しようとする努力をついに二万件でやめてしまう。その彼女は、こう洩らしていた。「わかろうとしない人が信じてくれなくても、もうそんなことはどうでもよいのです。どうせ彼らだって、死ねばわかることですから。」(『死ぬ瞬間と臨死体験』鈴木晶訳、読売新聞社、1997年、p.129)

 日本でも、臨死体験に関する本は数多く出版されている。今年の4月に80歳で亡くなられた立花隆氏も、アメリカへ出かけてエリザベス・キュブラー・ロス博士に会い、その後も、欧米各国の臨死体験者の体験談を直接聞き取ったりして、『臨死体験』(全2巻、文藝春秋、1994)を書いている。しかし、氏は、「科学的立場」に固執して、最後まで、「死後の生」については懐疑的であった。東大医学部教授であった矢作直樹氏が、2011年に、『人は死なない』を上梓した時にも、「東大教授ともあろうものが」と貶していた。科学だけが拠り所である世界では、いまでも、科学者などが、科学では証明できない霊的真理について理解に至るようになるのは、決して容易ではないようである。

 このような風潮の中で、現在、米国シアトル在住のバイオ・エネルギー・ヒーラー&トレーナーとして活躍している 日本人唯一のイーレン気功認定講師エリコ・ロウ氏が、『死んだ後には続きがあるのか ―臨死体験と意識の科学の最前線―』(扶桑社、2016) という本を出している。この本には、医者や科学者が、臨死体験によって、霊的真理に触れるようになっていくいくつかの実例が示されている。そのうちの三つを、以下に、取り上げておきたい。



          **********


 A. 脳神経科医アレグザンダー博士の例

 近年になって臨死体験の研究がホットなテーマになった背景には、自らの臨死体験を経てその現実性を確信し、研究者として、かつ被験者として臨死体験をめぐる議論に加わった医師や科学者が増えたこともある。
 もっとも有名になり、かつメディアでも盛んにその真偽が取り沙汰されたのは、脳神経科医のエベン・アレグザンダー博士の例だろう。
 アレグザンダー博士は2008年に自宅で突然、意識不明になり病院に運ばれ、細菌性の脳炎と診断され、数週間にわたり昏睡状態が続いた。アレグザンダー博士によれば、その間に、何もない暗闇の無の世界にしばらくいた後、光のトンネルを抜けて美しい野原に行き、出迎えてくれた見知らぬ若い女性に連れられて死後の世界を体験していた。
 アレグザンダー博士自身は当初、昏睡状態で脳が混乱したことによる幻想の記憶だろうと思った。が、それにしては体験の記憶が現実の記憶以上に鮮明で詳細なことを不思議に思っていた。回復した後に、昏睡状態だったときの自分の脳の診断画像を見て愕然とした。脳膜のほとんどが細菌にやられていて、脳が機能停止状態だったからだ。医学の常識からすれば、生き残ったのも奇跡で、後遺症なく回復する見込みはない状態だったのだと、脳神経の専門医として認めざるを得なかったのだ。
 自身の臨死体験を公表し本も出版したアレグザンダー博士は、「ハーバード大の脳神経科医の臨死体験」として、医師や科学者の学会でも講演者としてもてはやされ、センセーショナルにメディアでも取り上げられた。そして、臨死体験中に脳が完全に機能停止していたといえるのか、アレグザンダー博士の記憶は、脳がある程度回復した後のものではなかったのか、といった懐疑論や批判にもさらされた。
 しかし、アレグザンダー博士によれば、臨死体験中に脳が機能していたか否かにかかわらず、死後の世界は実在する、と断言できる理由があるという。
 赤ちゃんのときからもらい子として育ったアレグザンダー博士の元に、臨死体験後、実の親から、ひとつの写真が送られてきた。アレグザンダー博士がその存在も、数年前に死んでいたことも知らずにいた実の妹の写真だった。その写真の女性こそが、臨死体験中に自分の導き役となってくれた女性だったのだ。

   エリコ・ロウ『死んだ後には続きがあるのか ―臨死体験と意識の科学の最前線―』
     扶桑社、2016 pp.33-35)



 B. 臨死体験で自分の未来に起こる悲劇を知らされた医師

 アレグザンダー博士が臨死体験を公表したことで、それまでのタブーが解禁となったかのごとく、自らの臨死体験を公表する医師が相次いだ。
 形成外科医のマリー・ニール博士は1999年に水難事故で死にかけたときに臨死体験をしていたことを、2012年になって公表した。
 ニール博士は南米のチリで休暇中に、急流の川下りで、カヤックごと滝の激流に呑み込まれて溺死しかかった。沈没したカヤックと木の間に足が挟まれ抜け出せなくなった。完全に水面下に沈んでいたから、すぐに仲間に発見される可能性もなかった。
 状況的には絶体絶命だったが、ふだんの仕事では複雑な脊髄の手術を専門とする外科医で、緊迫した状況には慣れていたためか、ニール博士はパニックを起こさなかった。
 自分は川岸からは離れた川の真ん中で濁流下に沈んでしまった。自分が消えたことに一緒に川下りをしていた仲間が気づいて助けてくれようとしても、すぐには見つからず、間にあわないだろう。溺死は免れない、とニール博士は自分の状況を冷静に判断した。
 ニール博士はキリスト教徒の家庭に生まれたものの強い信仰心はなく、ことに医師になってからは、科学志向で宗教は信じていなかった。
 が、水中で息が続かなくなり、死を覚悟するに至り、自分でも驚いたことに、「神様のご意志のままに」と祈っていた。助けてほしいと願ったのではなく、心の底から、「なるがままに」という気持ちになったのだという。
 すると、急にそれまでの息苦しさが消えてラクになり、心が安らかになった。意識がからだから出て浮き上がり、水中に漂いだした。カヤックから抜けだせず、溺死している自分の姿が下に見えたのだ。その足は不自然な形に曲がっており、複雑骨折していることも「診断」できた。
 ニール博士の意識はそのまま水上まで浮上し、空高く浮き上がり、昇天した。
 天界では20人近くの人の魂に出迎えられ、無条件の愛で包まれた気がした。個々の魂には輪郭のようなものがあり、それぞれに輝いていたが、肉体は持っていないようだった。
 誰が誰なのかは特定できなかったものの、出迎えてくれたのが生前親しくしていたがすでに亡くなっていた人たちの魂であることは分かった。ニール博士はテレパシーのような以心伝心で彼らと語りあい、再会を喜んだ。
 ニール博士は故人の魂に連れられ、「神への道」を歩みはじめた。が、ふと振り返ると、眼下に地上の世界が見えた。川岸に自分が横たえられ、一緒に川下りをしていた友人親子が必死で蘇生させようとしていた。ニール博士の名を叫び、生き返ってくれと乞うていた。
 事故にあう前のニール博士は、仕事も順調で、愛する夫や子どもたちもいて、幸福そのものだった。が、死んでみると死後の世界のほうが超リアルで現実的だった。それに比べると「生前」の人生や現実の世界は、映りの悪いテレビで見るドラマのようで現実味が感じられなかった。
 しかし、必死で自分を蘇生させようとしている友人たちに愛情と同情を感じたニール博士は、天界で自分の道先案内人を務めてくれていた魂たちに、「ちょっと待っていて」と頼んだ。そして、自らの意志で地上の自分のからだに戻り、ひと呼吸した。
 その後、再び天界に戻ってきたニール博士が道先案内人に連れられ天界の奥に進むと、光り輝く大広間の入り口のようなところに着いた。しかしニール博士が大広間に入ろうとしたところで、またも、息を吹き返らせようとする地上の友人たちの叫びが聞こえてきた。
 ニール博士は、いらだちを覚えたものの、彼らの期待に応えたくなり、もう一度、自分のからだに戻ってひと呼吸してから、天界に帰った。
 そして、大広間に入ろうとしたのだが、今度は突然に、悲しみが湧き上がってきた。そして天界の魂たちに、ニール博士はまだ大広間には入れない、地上に戻らなければいけない、と告げられた。
 嫌がるニール博士を、魂たちが現実の世界の川岸まで連れ戻した。次の瞬間、ニール博士の意識は自分のからだに戻っていた。
 現実の世界で息を吹き返したニール博士は、友人たちに取り囲まれ、心肺蘇生法を施されていた。
 すぐに外科医としての理性が戻った。足が動かせないことから脊髄を痛めたのだろうと考え、損傷を最小限に防ぐために、「すぐにステロイド剤を注射してくれ」と頼んだことを、ニール博士は覚えている。
 ニール博士は地元の病院からすぐにアメリカに搬送された。重傷だった上、溺れていたことから急性肺炎も起こしていたので、しばらく入院生活を送ることになった。
 入院中、もう瀕死状態ではなくなったのに、ともすると、ニール博士の意識は、意図せず天界に戻ってしまうことが続いた。
 ふと気づくと、天使のような存在と一緒にいるのだ。ニール博士はその天使たちから、人生の意味や道理について、多くを学びはじめた。
 ニール博士は自分がなぜ死にかけて地上に戻されたのかを知らされた。さらには、自分の未来に起こる悲劇まで予告された。
 いまは元気そのものに見えるニール博士の夫が近い将来病に倒れる。そして、ニール博士の長男は成人できずに若死にする、というのだ。
 そうした天界へのトリップを何度か繰り返した後、天使たちとのコンタクトは断たれた。いつまでもふたつの世界とつながっていたのでは、現世で生きていくニール博士のためにならない、という天使たちの判断だった。
 ニール博士が語った事故の顛末は、現場にいた友人たちや夫の証言で、事実だったことが確認されている。
 ニール博士と一緒に川下りをしていた友人たちは、ニール博士のカヤックが川面から消えことに気づくと、あわてて捜索を始めた。やがて水面下に沈んでいたニール博士を発見したが、濁流直下で救出に手間取り、なんとか川岸に引き上げたときにはすでに鼓動も呼吸も止まっていた。
 医師である友人たちがそれでも諦めずに、蘇生を試み続けた結果、ニール博士は息を吹き返した。現場の状況や周囲にいた人の証言によれば、ニール博士は20分間以上、心肺停止状態になっていたと推測できる。
 一股的には溺死寸前で蘇生された場合、心肺停止中に脳が酸欠状態になったことによる後遺症が残りがちだが、20分も息が止まっていたはずのニール博士の脳はまったく損傷していなかった。
 とはいえ、からだは重傷で、退院後もしばらくは寝たきりだったニール博士は長期間のリハビリを経て、ようやく普通に生活できるまでに回復し、医師としての仕事にも復帰した。
 ニール博士が知らされた家族の未来は、現実となった。ニール博士の強いすすめで健康診断を受けた夫は、前立腺ガンが早期発見され、幸い全治した。
 息子が若死にする可能性があることは恐ろしくて家族にも言えなかった。ニール博士は息子が18歳になる前に死ぬのではと密かに心配し続け、ことあるごとに息子の行動予定を変えさせたりしていた。その結果、交通事故で危うく死にかけた、といったニアミスは何度かあったものの、息子は無事に18歳の誕生日を迎えた。が、危険は回避できた、とニール博士が安堵した矢先、息子は海外旅行中にクロスカントリー・スキーをしていて突然飛び出してきた車と衝突し、即死した。
 もちろん、ニール博士は悲嘆にくれた。だが、自らの臨死体験を経て、人の肉体は死んでも魂は生き残ることを確信していたニール博士は、いつかは天界で息子と再会できることに慰めを見いだしているという。
 息子の生命に関わる予知を公にしたくない、ということもあって、ニール博士は長年、自分の臨死体験の詳細は語らずにいた。予知が成就してしまったことはニール博士にとっては悲しいことだったが、同時に、自分の臨死体験が幻想や思い込みではなく、現実に起こったことだったという確証にもなった。
 ニール博士は、医師としての仕事よりも、むしろ、生死の専門家である医師の立場から、臨死体験は現実の現象で、肉体は死んでも人の魂は生き残る、ということを世界の人に知らせることこそが第二の人生の転職だ、と感じるようになった。  (前掲書、pp.35-42)



 C. 30回以上の臨死体験で意識の無限を実体験した科学者

 突然、心肺停止しては数分後に息を吹き返すという奇病により、幼少の頃から医療記録に残る心肺停止状態での臨死体験を30回以上も実体験したという科学者がいる。
 量子物理学者で化学者でもあるウィリアム・ブレイ博士で、大手製薬会社の研究開発やCIAのコンサルタントとして働く一方、人の生死と意識、宇宙の関係について、独自の考察を進めていた。
 博士は著書のなかで、「いまだに意識が死を超えて生き残るか否かが議論されていることのほうが不思議で、意識が肉体とは別の存在であることは明らかだ」としている。
 ブレイ博士によれば、臨死体験者の多くが見るトンネルは、意識が有限の世界から無限の世界に帰る移行を示している。
 人は有限の世界で、粒子と波動からなる生物として生きているが、人の意識自体は波動として無限の世界に広がって存在している。無限が有限におさまらないように、無限の意識が有限の脳におさまることはあり得ない、というのがブレイ博士の見方だ。
 いわゆるライフ・レビューは、すべての時空が同時に存在する無限の世界に意識が戻ったことにより、生前の出来事に関しても、他人からの見方を含むその全体像を認知できるようになっただけで、とくに人に反省を強いるというような目的ではない、と博士は語っている。
 ブレイ博士は、「臨死体験の体験談はすでに無数に報告されている」として、自分自身の臨死体験の詳細についてはあまり公表していないが、いわゆる「地獄のような体験」については研究事例が少ないとして、自らの体験を次のように紹介している。
 どんなところか確かめようと、臨死体験中、意図的に「地獄」に行ってみたことがある。それは宗教や映画が描くような、おどろおどろしいところではなかった。この宇宙と同様に、意識でできた世界で、人が死ぬ過程の自然な一部のように思える。
 地獄には見ようによっては動物や化け物に見える人間のような存在がいて、お互いに傷つけ合ったりしていた。
 印象に残っている体験としては、暗いスラムのような街角で、そこから抜け出せなくなっているような人間に出会い、手をとって引き上げた瞬間に、目が覚めたことがある。私は病院のベッドで息を吹き返したのだが、翌日、病院の中で、自分が臨死体験中に地獄で助けた男に出会った。その男も臨死体験中に自分が地獄のようなところから助けられたことを覚えていて、私たちが出会った通りの名前まで一致していた……。
 量子物理学の天才が自らの複数の臨死体験をベースとして考察する臨死体験論だけに科学者からも注目されていたが、残念なことにブレイ博士は2014年に、帰らぬ人となってしまった。  (同書、pp.267-269)






                                 「参考資料 57」 2021.10.25
      アマチュア天文学者の臨死体験 


 木内鶴彦氏は1954年に長野県で生まれたアマチュア天文学者である。子どもの時から星や宇宙の神秘に魅せられ、独自の観察を行ってきた。後には、いくつかの彗星を自分でも発見して、彗星ハンターとしてNASAやバブル天文台の科学者の間でも名前が知られるようにもなった。1993年9月には、国際天文学連合から、木内氏の、スウィフト・タットル彗星発見の業績により、小惑星が「kiuchi」と命名されている。

 木内氏は、臨死体験者としても著名である。航空自衛隊で運航管理者(ディスパッチャー)として勤務していた22歳のとき、当時としては大変珍しい上腸間膜動脈性十二指腸閉塞で一度死亡を確認されていながら、奇跡的に、30分後に蘇生した。死後蘇生したことが医師のカルテに記録されている例としては国内で唯一といわれている。その経過は学会で報告され、木内氏自身も、著書のなかでその体験を述べている。

 その後も、木内氏は、何度か臨死体験を繰り返し、その結果、死後の世界でも自分の意志で自由に時空を超えられるようになったという。アマチュア天文学者として星座の位置を熟知していたため、それを時計代わりにして時代を見極め、世界の過去や未来はもとより、天体としての地球の歴史や宇宙創世のメカニズムも見てきたとも述べている。その驚異的な内容を記している一冊が、木内鶴彦『臨死体験で明かされる宇宙の「遺言」』扶桑社、2016 である。

 この本の中で、木内氏は、臨死体験には二段階ある、と述べている。故人に出会ったり、人生を回顧したりするのは第一段階で、そうした段階では、まだ脳が関与している。その段階を過ぎると、意識は完全に体外離脱し、本当の死後の世界、物質世界ではない次元に移行する。それが臨死体験の第二段階である。そこでは自分が誰かという自己音義や認識力は保ちつつ、全知全能の宇宙の全体意識からの情報も得られる、というのである。この「宇宙からの情報」については、本書をお読みいただきたい。ここでは、本書のなかの「臨死体験」だけを取り上げることにする。

 臨死体験については、世界中で数多くの事例が報告されているが、それを2段階に分けて述べられているのは、珍らしいといえるかもしれない。氏によれば、人は、第一次の臨死体験を経て「第二次臨死体験」で死んでいく。そして、重要なのは完全に‟死んで”からの「第二次臨死体験」だという。当然ながらこの体験を語れる人は、ほんのわずかしかいない。本当に“死んで”から生き返るのだから、それを体験するのは、ほとんど奇跡的な確率であるといってよいだろう。氏は、その奇跡の生還を体験をした一人なのである。そのうえ木内氏は、臨死体験の中で瞬間移動なども体験している。それらについての木内氏の実体験の例を、同書から、下記の4点にまとめて引用しておきたい。


     *****


 A. 第一次臨死体験

 病院に運び込まれて一週間後、医師が宣告した通り、私の意識は突然なくなりました。まるでシャッターが閉まるように、突然真っ暗になったのです。
 ふと気がつくと、私は真っ暗闇の洞窟の中にいました。洞窟の下は生温かくてぬらぬらした泥のような感覚です。その感覚がとてもリアルだったのを覚えています。
 遠くを見ると、光が見えます。私はその光を目指して、泥の中を這うようにして進んでいきました。このあたりの様子は「第一次臨死体験」をした人たちが語ることとよく似ています。
 洞窟を出ると、あたりは夕方のような薄暗い草原です。光をめざしてなおも歩くと、川に突き当たりました。「これが世間でいう三途の川か」と私はぼんやり思いました。
 これは「第一次臨死体験」に共通するものですが、皮膚感覚はとてもリアル、でも、頭の中は終始ぼうっとしていて、まるで夢の中にいるようなふわふわした感じです。
 光は川の向こう岸にありました。私は草の間に粗末な木の舟を見つけると、舟に乗って、両腕で水をこぎました。手を水に入れたときの感覚や水の抵抗もリアルに感じられました。
 途中何度も休みながら、ようやく対岸に着きました。すると向こう岸には喪服を着た中年の見知らぬ女性が立っていたのです。あとで写真を見てわかったのですが、この人は私がまだ赤ちゃんのころに亡くなった私の叔母だったようです。
 女性は私をたき火のところに連れていきました。ずっと見えていた光はこのたき火だったのです。そこには五人の人がいて、たき火を囲んで話をしていました。そのうちの一人が、なんと二〇代で自動車事故で亡くなった私の従兄弟だったのです。
 私たちが再会を喜び合っていると、中年の女性が私を促して、丘のほうに連れていきました。そこは光にあふれていて、いい香りのする花が一面に咲いていました。光の中にはなんともいえない優しい女神のような女性の顔も見えました。
 このように光を見たり、女神や偉大な何かに遭遇するという経験も、「第一次臨死体験」ではよく語られているものと同じです。おそらく死に瀕した際に、脳から脳内麻薬が分泌され、苦痛をやわらげているのかもしれません。それがこんな幸せな〝夢″を見させるのでしょうか。
 私がこれ以上ない幸せに包まれていると、突然、ふわっと夢から覚めるように、病室の自分に戻りました。これが私が「第一次臨死体験」で見てきたことです。

    木内鶴彦『臨死体験で明かされる宇宙の「遺言」』扶桑社、2016、pp.21-23



 B. 第二次臨死体験

 病室に戻った私は、「あれ、夢を見ていたのかな」と思いました。意識はとてもクリアで、まるで、朝目覚めたときのようなすっきりした感覚だったからです。一瞬、私は「助かったのか」と思いました。でも何か様子が変です。
 身悶えするほど苦しかった全身の疼痛と、背中にできた床ずれの刺すような痛みがうそのように消えていたからです。しかも付き添っていた母が「鶴彦が死んじゃった!鶴彦! 鶴彦!」と私の体を揺すっていたのです。ベッドサイドにいた父も動転した様子で私を見ています。
 私は二人を安心させようと思い、「大丈夫だよ」といいながら、体を起こしました。そしてベッドサイドに腰をかけて後ろをふり返ったとき、のけぞるくらい仰天してしまったのです。なぜならそこにはまぎれもない私の体が横たわっていたのですから。
 私はベッドサイドに腰かけている。でも私の体はベッドに寝ている。「私」という意識は間違いなくベッドサイドに腰かけている私のほうにありますから、だとしたらベッドで寝ている「私」は何者なのでしょうか?
 私は父に「おやじ!」と呼びかけてみました。するとその瞬間、驚愕するようなことが起きました。私は父の中に入り、父の目になって、ベッドに横たわっている「私」を見ていたのです。
 私は夢中で父に「おやじ、大丈夫だよ」といいました。あとで生き返ったあと、父に確認してみると、父は私の臨終の場で、「おやじ、大丈夫だよ」という私の声を頭の中ではっきり聞いたそうです。
 私はパニックになりました。いったい自分がどうなってしまったのか、見当もつきません。私自身は鮮明な意識とともに、病室にいて、現実を見ている。にもかかわらず、誰も私に気づかないのです。
 叫んでも、家族の体を揺すっても誰も気づかないどころか、みな、ベッドの上に横たわっている私の体にすがりついて、「鶴彦が死んだ」と大騒ぎしています。
 そのうち、医者や看護師たちがやってきて、私の体に救命措置を施し始めました。その集団の後ろで、まるで傍観者のように私は私の肉体を眺めているという、なんとも奇妙な状況が出現してしまいました。
 どうやら私は体がなくなって、意識だけの存在になってしまったようです。 (前掲書、pp.23-25)



 C. 瞬間移動(空間)

 しばらく呆然としていた私ですが、ふと気がつくと母がいません。「あれ? おふくろは?」と思ったその瞬間です。ふたたび驚くべきことが起きました。私は瞬間的に、病院の一階ロビーにいた母のところに移動していたのです。
 母は親戚に私が亡くなったことを知らせようと、電話の前に立っていました。私の姉に電話しようとしているのですが、気が動転しているのか、手が震えてうまくダイヤルが回せません。
 私は母の横で懸命に姉の電話番号を教えていましたが、もちろんそんな声が届くはずもありません。ふと私は「姉貴たちはどうしているんだろう?」と思いました。その瞬間です。またもや驚くべきことが起きたのです。
 私は姉のところに瞬間移動していたのです。母から緊急の電話を受けた長姉は車に飛び乗って、病院に向かおうとしていました。私は姉の隣の助手席にちょこんと坐って、しばらく一緒に走りました。もちろんどんなに話しかけても、姉は私の存在に気がつきませんでした。
 体がなくなって意識だけの存在になると、空間が移動できるのではないか。私はそう思いました。そこで試しに私の友人のことを思い浮かべてみたのです。思った通り、私はガソリンスタンドに勤めている友人のところに瞬間移動していました。
 たまたまそこには帰省中の友人二人も合流していて、ストーブを囲みながら、三人で世間話をしていたようです。そのうち彼らは私のうわさ話を始めました。
 後日、生き返ったあと、私は友人たちにその話をしてみたのです。
 「俺が病院で死にかけていたころ、おまえらはこのストーブの前で俺のうわさ話をしていたろう? こんな内容で話していたよな」「なぜ知ってるんだ?」「だって、俺はそこにいたんだよ」。
 友人たちはみな気味悪がって、私と距離を置くようになりました。友人だけではありません。母や父や姉たちも、私が経験したことを話すと、「鶴彦は大病から生き返って、頭がおかしくなってしまった」と心配するのです。
 私が臨死体験で得た経験を封印しようと決意したのは、大病のせいで頭がおかしくなったと思われたり、親しい人たちがどんどん私から離れていく経緯もあったからです。 (前掲書、pp.25-27)



  D. 瞬間移動(時間)

 それはともかく、臨死状態にある最中、私は意識だけの存在になると、空間を自由に移動できるらしいということに気がつきました。こうなると、持ち前の好奇心がむくむくと頭をもたげてきます。
 「空間を自由に移動できるということは、時間も移動できるかもしれない。たしか、アインシュタインもそんなことをいっていたし」
 そこで私は過去に戻ってみようと思いました。というのも、私には一つだけ、どうしても確認しておきたい不思議な過去があったからです。

 あれは私が六歳の頃でした。姉や兄と千曲川の川原を歩いていたときです。落石に遭い、九死に一生を得たことがあったのです。そのとき私は「危ない!」という声をはっきりと聞いています。後ろをふり返ると、まさにそのときぐらぐらする岩が崖の上から、私たちの頭上めがけて落ちようとしていたのです。
 私はとっさにすぐ前を歩いている姉を突き飛ばし、自分は後ろにのけぞりました。大きな岩は私たちの間をすり抜けて、ゴロンゴロンと音を立てて落ちていきました。しかし不思議なことに、姉兄の誰一人として「危ない」という声を聞いた者はいないのです。
 たしかに川原には、私たちきょうだい以外、人っ子一人いませんでした。
 「あのとき、『危ない』と声をかけてくれたのは誰だったんだろう?」。そのことが大人になってもずっと私の頭にこびりついて、離れませんでした。あのときに戻れるのなら、声の主を確認したい。それが私の強い思いだったのです。
 私はあのときのことを思い出そうとしました。するとその瞬間、私は夏の千曲川の川原に移動していたのです。目の前を幼い私と兄や姉たちが数珠つなぎになってゆるゆると歩いていきます。その姿を私は空中のちょうど斜め四五度上方の角度から眺めている感じでした。
 ふと視線をずらすと、横の岩だなにある岩が不安定に揺れています。このまま行くと、あの岩が彼らの上に落ちてしまうかもしれない。私はとっさに「危ない!」と声を張り上げました。幼い私が驚いてこちらをふり返ります。
 そして前を行く姉を突き飛ばし、自分は後ろにのけぞると、二人の間を大岩が転げ落ちていきました。
 なんとあのとき私が聞いた声は、時空を超えてやってきた私自身の声だったのです。あの日、あのときの光景がそっくりそのまま目の前で繰り広げられていました。
 長い間の謎がこれで解けた気がしました。これは私の個人的な見解ですが、おそらく守護霊といわれているものは、未来において自分や自分と親しい誰かが亡くなるとき、肉体から分離した意識が瞬間的に過去に飛び、過去の自分に何らかのメッセージを送っているのではないでしょうか。
 守護霊が自分自身だったなんて、ちょっと笑える気がします。 (前掲書、pp.27-30)