[参考資料 51] 2021.03.29

      マイヤースの「永遠の大道」より

近藤千雄『シルバーバーチに最敬礼』(コスモス・ライブラリー、2006)では、「資料A」として、フレデリック・マイヤース『永遠の大道』(浅野和三郎抄訳)を近藤千雄さんが全訳したものから、その一部が取り上げられている。(pp.49-66)
 ここでは、マイヤースが、「永遠の大道の旅人としてすでに見えざる境界≠通過し、しばしば全く新たな認識をもって舞い戻ってくる我々にとって、死は単なる偶発的一事象、ある種の優しさこそあれ、辛くも悲しくもない一挿話に過ぎなくなっている。しかし地上界に身を置く人間にとって死は一夜の宿り、長い道中での休憩所のように思えることであろう」と切り出している。そして「またそれは、人によっては熱に浮かされた一夜となるかも知れない。恐怖におののく一夜となるかも知れない。奇っ怪な夢にうなされ通しとなるかも知れない」などと続けて、次のように述べている。


     *****


 さて読者は、各種の通信によって、死の現象の秘密を解くカギが自我のまとう身体の振動数の変化にあることを、多分、ご存じであろう。例えば地上の人間が外的環境を感知するのは、肉体の振動数が環境のそれと同じある一定の範囲に限られているからである。あなたの振動数をその範囲外に変化させたとしよう。その瞬間に他の人間も大地も物体も視界から消えて失くなるであろうし、他の人間にはあなたの存在が見えなくなるであろう。
 それゆえ死とは身体の振動数の変化を意味するに過ぎない。そしてその変化のためには一時的な意識の中断が必要となる。なぜなら、魂がそれまでの一定の振動数の身体から異なる振動数をもつ身体へと移るための準備をしなければならないからである。
 このように、地上界から次の界へ入るに当たって急激な断絶や飛躍があってはならないわけで、それで私が冥府と呼んでいる中間境の必要性が生じる。ご存じの通りイエス・キリストでさえこの境涯に入って、暫しの休息を取っている。
 ここで第一の疑問が生じる。医師が「ご臨終です」と述べた直後のその死者の魂はどういう形態で自我を表現しているのであろうか。ついさっきまで明るい個性を見せていた人が冷たい亡骸となってしまったのを見て、誰しも「一体どこへ行ってしまったのだろう?」と思うものである。感性豊かで知性のみなぎっていた、あの愛しい人がこの宇宙から消滅してしまうとは、少なくとも臨終の宣告を聞いて暫くは、どうしても信じられない。
 その直感的心情は実は正しいのである。死が万事の終わり、生命の旅の終着だとは信じたくないという心情は、決して間違ってはいないのである。
 人間には、地上生活の初めから終わりまで、ダブルという一種の接合体がそなわっている。これは内的精神と脳との連結機関であって、多くの重要な機能をもっている。例えばあなた方が夜寝入ると、意識による身体機能のコントロールは途絶える。表面上の中断ではなく、完全な忘却状態となる。その間に見る支離滅裂な夢は、大部分は日中の活動によって興奮したり苛立ったりした神経の反応に過ぎない。その間、自我の本体(魂)はダブルの方へ移っていて、その留守中に身体が神経性エネルギー、いわゆる元気の素を摂取する。睡眠ほど大事なものはない― 飲食物より大切である―というのが古来の常識であるが、それは正解なのである。
 このテーマについてこれ以上解説する余裕はない。ともかくダブルというのは、もし人間の目に映じれば肉体とそっくりの形をしており、数多くの糸状の細いコードと二本の太い銀色のコードで連結されている、と承知していただければよい。シルバーコードの一本は大陽神経叢[訳注−みぞおちのあたりで、ヨガでいうチャクラの一つがある]、もう一つは脳[訳注−松果体という説が有力。ここにもチャクラがある]とつながっている。このコードは弾力性に富み、睡眠中にいくらでも伸びる。死の現象はこれら大小のコードが切断されることから始まり、最後に二本のシルバーコードが切断した時に完結する。
 魂が肉体から離れた後も生命力だけがどこかの細胞に留まっていることがあるのは周知の事実である。この現象は医者の首をひねらせる難問のようであるが、霊界から見れば簡単に説明がつく。コードの中のどれかが切断されないために、ダブルが肉体から完全に離れきれないのである。死の現象がすんなりと進行せず、言うなれば旅の途中で足止めを食うわけであるが、それによって肉体的に苦しむということはない。
 が、自分の臨終の場に居合せてくれている親族や知人・友人の存在を強く感じることで、心情的に辛い思いをするかも知れない。もっとも、それもそう長く続くものではない。速ければ一時間、長くとも二、三時間もすれば、地上界の束縛から完全に自由になる。
 地上の人間が死者の枕元を見つめ、あの世へ旅立った者を悼む気持は分からないでもないが、その魂の安否について懸念するには及ばない。なぜなら、肉体から離れた直後は誰しも半睡眠状態にあるからである。死に際してのあの苦悶、悪夢に苛まれているかのごときうわ言、熱にうなされているかのごとき身悶えは、魂がダブルへ移動する前の現象であり[訳注−大小のコードがほとんど切れたり衰弱しているので、魂自体は見た目ほど苦しんではいない]、死の瞬間においては、事故死などの急死の場合は別として、魂の意識はいたって平静である。薄ぼんやりとした視界の中での暫しの休息で、その中で時として先立った親友や親戚の姿に接することがある。
 もちろん、死後に置かれる環境は、各自、大いに異なる。例えば地上時代に一度も人を心から愛するということのなかった者は、土くれでできた肉体を離れると同時に暗闇の孤独の中に置かれる。その暗さは地上の夜の暗さとは比較にならない、漆黒の闇である。
 しかし、そのような絶対的孤独の状態に置かれるのは極めて少数の者に限られる。よくよくのエゴイスト、悪逆非道の人非人を除いては、そのような目に遇うことはまずないと思ってよい。
 ごく平均的な男女は、死に際して何の苦痛も味わわない。魂そのものはすでに肉体から分離しているので、肉体がいかに苦しそうにしていても、本来の自我はただ眠気を感じるのみで、風に乗って漂う小鳥のように、当てもなくあちらこちらを漂っている心地がする。
 その感じは、長患いの後に死を迎えた者にとっては、うれしい安らぎでさえある。それゆえ、見た目には哀れな姿で死んで行くのを目の当たりにしても悲しむことはない。すでに病苦から免れ、この世とあの世の間をはばたきながら、心と知覚の平静さから生まれる名状し難い満足感に浸っているのだから……
 そのうち魂はゆっくりとダブルの中に収まり、肉体から離れて少しの間その遺骸の上を浮遊する。いずれ人間はその様子を写真に撮ることができるようになるであろう。そしてその乾板に写るのは一片の白い雲、淡い白色の存在であろう。いかに精巧なカメラをもってしても、それ以上の細かい姿は捕らえられないであろう。が、我々には全く異なる魂の姿が見える。我々の霊的身体の感覚が肉眼より遥かに精巧にできているからである。そして、通例その魂のまわりには、親戚や友人が出迎えに訪れているものである。
 おびただしい数の死者の魂が続々と入ってくる冥府で展開する情況は、その十分の一を伝えるのも不可能なほど複雑を極める。そこで私は、常識的な意味で真面目に生涯を終えた平均的人間が辿るコースを叙述してみようと思う。
 この冥府に滞在する期間は、各自その本性によって異なる。血縁のある親戚や霊系を同じくする友人・知人の出迎えを受けた後、あるいは彼らとの暫しの対話を交わした後に、その新参の霊はまるでベールで包まれたような安らかな休息状態、半覚醒状態とでもいうべき状態に陥り、そこで何の恐怖も感興も伴わずに地上時代の体験を見つめる。
 その状態はあたかも心地良い夏の昼下がりに、陽光にきらめく景色をうつらうつらと眺めるのにも似ている。そこに展開するドラマの中に自分もいるのだが、今はそれに情的に巻き込まれることなく、一歩離れた立場から自分の行動を見物し、統括霊の光(判断力)の援助を得ながら批判している。
 そのドラマは「影芝居」という用語がぴったりである。それを見てどのような反応を示すかは一人ひとり大いに異なる。ほとんど記憶らしい記憶を留めない者もいれば、辺りの安らかな静けさにうっとりして、目の前に展開するドラマに喜びも悲しみも感じない者もいる。
 しかし、そうした中にあっても死後の過程は着々と進行しており、ダブルの中から幽体が脱け出る。そして、その時には地上生活の霊的価値の査定が終了している。ちょうど古いコートを脱ぎ捨てるようにダブルから脱け出るまでに、統括霊の光によって価値評価が下されている。そして上るか下るかの最終判断のみが本人に任される。
 それまで肉体とのつなぎ役をしていたダブル― 今やヨレヨレの衣服のようになった媒体―を脱ぎ棄てたあと、彼はすっかり意識を取り戻して夢幻界の一住民となる。実はその時に新調のダブルを身につけている。〃脱け出た〃と表現したのは、いちばん外側の殻、言わば残像≠かなぐり棄てたという意味である。
 右の「影芝居」の期間は地上の時間にして三、四日で十分である。その間に新しい身体である幽体と自我との調整が完了している。
 もっとも、大勢の中には変人・奇人がいるもので、地上時代のままのヨレヨレのダブルで冥府をうろつき回り、地上界と幽界の境界付近に出没する妖怪変化―人間の苦悩のタネを撒き散らし分別心をくらまして喜ぶ不可思議な存在― と出くわして肝を冷やす者もいる。
 しかし実際問題として、そうした奇怪な存在が人間の死の過程に影響を及ぼすことはない。少数の変わり者を除いて、ごく普通の他界者は何の苦痛も悩みもなしに、半醒半夢の冥府を無事通過する。地上から訪れる旅人にとって冥府は決して恐怖や苦悶の場ではないのである。
 生理学によると、記憶は単に脳の役割に過ぎないということになっている。確かに、脳の一部に傷を受けるだけで知能が正常に働かなくなり、自分の過去のことが何一つ思い出せなくなることは事実である。
 が、実際は過去を忘れたわけでもないし、知性を失ったわけでもない。脳というメカニズムの一部が機能しなくなり、記憶に係わっている知性が地上界へ発現できなくなったまでのことである。内的には知性は相変わらず生き生きとしており、記憶も完全に留めている。物的な脳に感応しないまでのことである。つまりダブルという接合体にこそ記憶と知性の機能が宿されていて、自我が物的生活で体験するものを全て記録しているのである。
 忘れてならないのは、このダブルというのは誕生から死に至るまで肉体に付属していて、魂を宿し、保護し、実質的には肉体よりもはるかに忠実に自我に仕えていることである。
 人間的な見方からすれば記憶こそが本人のアイデンティティ、つまり個的存在としての自己確認 ―魂とか意識とかの用語が伝えるところのものにとって必須の要素のように思えるであろう。ところが、全てを失うかに思える死の現象によって、そうしたアイデンティティはいささかも失われない。と言うのは、今も述べたように、魂はその記憶の中枢をダブルの中に置いているからである。
 そのダブルの外殻を形成している成分は死後間もなく廃棄され、本質的要素である幽体が残る。もっとも、この幽体も地上生活中ずっと自我のお伴をしながら機能を果たしてきて、これから始まる夢幻界でも自我に仕え、個性の連続性を維持してくれるのである。
 ダブルの浄化作用が行われるのは「影芝居」を見ている期間中である。新たなエネルギーを吸収し、魂の変化に合わせて改造と調整が行われる。すると不思議な、驚くべき変革、あたかも繭を破って蝶が飛び出すように、ダブルの中にいた魂が―入った時はヨレヨレの見すぼらしい姿だったのが― 新調されたばかりの幽体をまとって、はつらつたる元気と、地上界から持ち越した願望に燃えて、夢幻界での生活に入る。
 夢幻界というところは、そうした願望の成就にはお挑え向きにできているのである。 (近藤千雄、前掲書、pp.51-58)