61. 真理・霊的真理
61-a (霊的真理を知ることの重要性)
=第二次世界大戦の最中におけるメッセージ=
何もかもが危険にさらされているこうした時期こそ霊的真理を教えてあげる必要があります。信仰という信仰がことごとく片隅に追いやられ、すべてが混乱の渦中にある今こそ、こうした単純な霊的真理を説くことによって自分を役立てることができるのです。その真理だけは不変です。なぜならば不変の自然法則の働きを土台としているからです。あなた方は大規模な混乱と破滅を目のあたりにされています。他の国ではさらに大規模な、そして見るも無惨な光景が繰りかえされています。混乱と残酷、裏切りと暴虐が大手を振ってのし歩いております。まさに野獣のごとき暴力が我が物顔に振る舞っております。あたかも自由の灯が完全に消され、全てが闇と化したかの如く思われる国が数多く見られます。
こうした時こそ、われわれ霊的法則の働きを知った者が、霊的真理こそが人間にかつて想像もしなかった高い視野を与えてくれること、心の中に消そうにも消せない炎が灯してくれること、最後は霊的光明が勝ち、自由を我が物とすることができることを説いて聞かせるべき時です。それは宝の本来の資産なのです。いかに粉砕しても絶対に存在を失わない究極的な存在である
"霊″が所有していなければならないものです。霊性が怖じけづき、縮こまることはありましょう、が、決して征服されてしまうことはありません。霊界にいる私どもがぜひともお教えしなければならない大きな真理は、地上にいるあなた方も霊的存在であるということです。物質で出来たものは破壊することができます。肉体は死なせることができます。いじめることもできます。しかし霊的なものは絶対に存在を失いません。なぜなら、霊的なものは永遠なるもの、宇宙の大宝、無限にして不滅の存在、すなわち神の所有物だからです。皆さんがスピリチュアリズムと呼んでいるものは自然法則の働きの一部ですが、これが人間にも霊が宿っていることを証明しました。その証拠は、視野を曇らされず理性に従い何の捉われもなく自由な思考をめぐらすことの出来る人には、人間が本来霊的存在であることが議論の余地のない事実であることを雄弁に物語っております。そしてその基本原則から次々と重大な意味が湧き出てきます。その一つ一つがそれを受け入れる用意のできた人々に、こうしてはいられない、何とかしなくては、というせっばつまった衝動を覚えさせます。
いったん人間が霊であることを悟ると、この地上世界もその霊性を存分に発揮される環境であらねばならないとの認識が生まれます。すべての悪習、すべての罪悪、すべての悪徳、すべての既得権、すべての利己主義、貪欲、そして残虐性、こうしたものを一掃しなければならないということです。それらは全てせっかく自己開発のために地上に降りた霊ーーいずれは当たり前の生活の場となる霊界でのより素晴らしい生活に備えるために生まれてきた霊の成長を妨げることになるからです。それが声を大にして叫びたい私たちからのメッセージです。すなわち霊媒を通じて与える死後存続という素朴な真理から始まって、そこから生活を一変させる数知れない重大な意味を発見していることです。そして、こうして人類がその宿命の成就のために闘っている時、言いかえれば霊的教説がその真価を問われている時、その背後では、かつて地上で革命家、殉教者、指導者と呼ばれ、今なお新たな力を携えて霊界で研さんを重ねている見えざる大軍が、その持てる力を総結集して援護に当たっている事実を知らねばなりません。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.28-30
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61-b (死の意味と真実の知識を求める人たち)
英国中、いや世界中いたるところで、闇夜に救いを求める人がいます。その祈りーー声に出しての祈りも声なき祈りもーーただならぬ窮地で指針を求める魂の叫びが私どものところまで響いてまいります。そういう人たちこそわれわれが手を差しのべてあげなければなりません。道に迷っている人々です。その多くは自分が悪いのではありません。闇に囲まれ悲しみに打ちひしがれ、目に涙をうかべて
"死″の意味を知りたがっています。なぜ愛する者がこうも呆気なく奪い去られるのかと尋ねます。が、教会はそれに対応する答えを持ち合わせません。悲しみの杯をなめ苦しみのパンをかじらされた者は、"処女懐胎″だの"エデンの園″だの"使徒信条″だのについての説教はどうでもよいのです。真実の知識が欲しいのです。事実が知りたいのです。確証が欲しいのです。
彼らは素直にこう考えます。もしもこの世に救いになるものがあるとすれば、それは今の自分、苦しみの渦中にある自分たちをこそ救えるものであるべきだ、と。そこで私たちはあらゆる不利な条件、あらゆる障害をいとわず、そうした絶望の底に喘ぐ人々を慰めようと必死になるのです。これまでも幾度か申し上げてきたことですが、皆さんはこうしたささやかなサークルが僅かの間ここに集まって私たちのために力を貸してくださるそのことが、どれはど大きな意味があるのか、そしてそのおかげでどれほど遠く広く真理を広めることができているかをご存知ないようです。私どもが述べる僅かな真理の言葉ーー僅かとはいえ永遠の実在を土台とした不易の叡智なのですがーーそれが受け入れる用意のできた人々の心、霊的に成熟した魂に根づいていく。これは実に偉大な仕事というべきです。その真理を語るわれわれが成るほどと神の使徒であることを証明するには、ひたすらに人の役に立つことをするしかありません。つまり脅しや恐怖心や心配の念を吹き込まず、ただただ、薄幸の人々に救いの手を差しのべたいと望んでいる者であることを身をもって証明していくしかありません。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.36-38
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61-c (正真正銘の真理は変更されることがない)
スピリチュアリズムを非難する教会も今やその真理がはじめて地上へ啓示された時にみずから説いていた教説を説いてはいません。科学もほぼ百年前に説いていた学説を今は説いていません。我がもの顔だった唯物主義者さえ譲歩し、視点を変え、思いも寄らなかった新たな要素を考慮せざるを得なくなっております。それに引きかえ、私たちがこれまで説いてきたものを髪の毛一本ほどでも改めたり逸脱したりしたことがあるでしょうか。どこか私の霊訓で以前と違うところを指摘できるでしょうか。地上の事情が変ったために修正しなければならなくなった箇所が一つでもあるでしょうか。物質界での新しい発見が為されたために、それまで私どもが絶対ですと断言してきた基本的真理を改正せざるを得なくなったところがあるでしょうか。
あるわけがありません。自然法則を取り消したり変更したりしなければならなくなることは決してありません。生命活動に付随する環境条件のすべての可能性を認識しているからです。"生″の現象にも、あなた方のいう"死″の現象にも、自然法則やその働きを改めなければならないものは絶対に生じません。私どもが説く真理に死はありません。正真正銘の真理だからです。霊的実在こそ真の実在です。だからこそ存在し続けるのです。永遠に残る叡智の宝石です。受け入れる用意のある者を導く永遠の真実です。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.39-40
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61-d (永遠に変わらない霊的真理)
私どもは人間の精神的産物によって色づけされた信仰体系には関心はありません。大切なのは地上生活のように錯覚によって惑わされることのない霊の世界からの真理です。なぜか。それは、あまりに多くの落伍者、精神的浮浪者のような人間が霊界へ送り込まれる一方、一見立派そうな人間が霊的事実について誤った概念と偏見と無知のために、死後に直面する生活に何一つ備えができていないというケースが又あまりに多すぎる現実を見て、私どもは、いずれは永続的な実在の世界となる死後の生活に備えるための単純な真理を地上にいる間に知ってもらえば、私たちの手間も大いに省けるだろうと考えたのです。そこであらゆる宗教的体系と組織、進歩を妨げる信仰、不必要な障害、人間の精神を曇らせ心を惑わせる迷信に対して敢然と宣戦布告し、神の子が神の意図された通りに生きられるように、不変の霊的真理を授けようと努力しているわけです。
他人がどう言おうと気にしてはいけません。非難・中傷など、すべて忘れることです。霊的真理こそ永遠に変わらぬ真理なのです。理性が要求するすべてのテストに応えうる真理です。けっして知性を欺きません。単純・明快で、誰にでも理解できます。聖職者によるあらゆる方策が失敗したのちも止まることなく普及発展していく真理です。不変の自然法則に基づいた単純素朴な永遠の真理だからです。これには法王も大主教も司祭も牧師も教会も聖堂も礼拝堂もいりません。私どもはこれを捏ねまわして神学体系を作ろうなどとも思いません。ただこうして説くだけです。が、理解ある伝道者さえいれば、それが社会のあらゆる階層に浸透し、すベての人間が身体的にそして霊的に自由を享受し、二度と束縛の中で生きていくことは無くなるでしょう。無知の暗黒が消滅し、代って真理の光がふんだんに注がれることでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.66-68
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61-e (人間のすべてが知っておくべきこと)
(単純な霊的真理だけを説いている理由は) 難解な問題を回避したいからではありません。私は今すぐ応用のきく実用的な情報をお届けすることに目標をしぼっているからです。基本の基本すら知らない大勢の人々、真理の初歩すら知らない人が大勢いることを思うと、もっと後になってからでも良さそうな難解な理屈を捏ねまわすのは賢明とは思えません。今日もっとも必要なのは簡単な基本的真理ーー墓場の向こうにも生活があること、人間は決して孤独な存在ではなく、見捨てられることもないこと、宇宙のすみずみにまで神の愛の温もりをもった慈悲ぶかい力が行きわたっていて、一人一人に導きを与えていること、それだけです。これは人間のすべてが知っておくべきことです。また誰にでも手に入れることのできる掛けがえのない財産なのです。そうした基本的な真理さえ知らない人間が何百万、何千万、いや何億といる以上、われわれはまず第一にその人たちのことから考えようではありませんか。それがわれわれにとって最も大切な義務だと思うのです。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.68
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61-f (物的なものはいずれ朽ち果てる)
私にできることは永遠・不変の宇宙の原理・原則を指摘することだけです。地上世界のことがすべて探求しつくされ、説明しつくされ、理解されつくしたあとに、なおかつ誰一人として完全に究めることも説明することもできない永遠の摂理があります。それは構想においても適用性においても無限です。人間のすべてが、日々決断を迫られる問題に直面した時に、自分が霊的存在であること、大切なのは物的なもの----それはそれなりに存在意義はあっても----ではなくて、それがあなたの本性、永遠の霊的本性に与える霊的な意義であることを自覚することができるようになれば、どれだけ素晴らしいことでしょう。
物的なものはいずれ朽ち果て、元のチリに帰ります。野心、欲望、富の蓄積、こうしたものは何の役にも立ちません。所詮はあなた方も霊的存在なのです。真の富はその本性に宿されているものだけであって、それ以上ではありえませんし、それ以下でもありえません。そのことを生涯を通じて悟っていかなくてはいけません。それを悟ったとき、あなたは真の自分を見出したことになり、自分を見出したということは神を見出したということになり、そうなった時のあなたこそ真の意味での賢者と言えるのです。
私の目には、あれこれと”大事なこと″があって毎日あっちへ走りこっちへ走りして、忙しく暮しながらその実 “いちばん大事なこと″を見落し、なおざりにしているために、心が絶望的でヤケになっている大ぜいの人々の姿が見えます。このあたりに私どもが説く教えの核心があるのですが、お判りになりますか。その人たちが日々の生活の中に生きるよろこび---神の子として当然味わうべき充足感を見出してくれるようにと願って霊界から舞い戻ってくるそもそもの目的がそこにあることが判っていただけるでしょうか。
それはいわゆる宗教、教会、信条、教義といったものより大切です。人類を分裂させ戦争と混沌と騒乱の原因となってきた、その類のもののいずれにもまして大切です。が、それは自分という存在についての(霊的存在であるという)いたって単純な事実にすぎないのです。なのに、それを悟っているのはごく僅かな人たちだけで、大多数の人は知らずにおります。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.94-96
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61-g (流血の手段で問題が解決したためしはない)
私たちが説いていることは曽て人類の進歩のために地上へ降りた各時代の革命家、聖者、霊格者、理想主義者たちの説いたことと少しも矛盾するものではありません。彼らは霊的に偉大な人物でしたから、その霊眼によって死後の生命を予見し、その美しさが魂の支えとなって、あらゆる逆境と闘争を克服することができたのでした。彼らは地上世界にいずれ実現される神のプランを読み取り、その日のために物質界の子等の魂を高揚させるべく一身を擲ったのでした。
彼らも悪しざまに言われました。援助の手を差しのべんとしたその相手から反駁され嘲笑されました。しかしその仕事は生き続けました。それはちょうど、今日世界各地の小さな部屋で行われている、このサークルのような交霊会の仕事が、そのメンバーの名が忘れ去られたのちも末永く生き続けるのと同じです。強大な霊の力がふたたび地上世界へ注ぎ込まれはじめたのです。いかなる地上の勢力をもってしてもその激流をせき止めることはできません。
人間は問題が生じるとすぐ流血の手段でカタをつけようとします。が、そんな方法で問題が解決したためしはありません。流血には何の効用もありませんし、従って何の解決にもなりません。なぜ神から授かった理性が使えないのでしょう。なぜ相手をできるだけ大ぜい殺すこと以外に、解決法が思いつかないのでしょう。なぜ一ばん多くの敵を殺した者が英雄となるのでしょう。地上というところは実に奇妙な世界です。
地上にはぜひ私たちのメッセージが必要です。霊のメッセージ、霊的真理の理解、自分の心の内と外の双方に霊的法則と導きがあるという事実を知る必要があります。そうと知れば、迷った時の慰めと導きと援助をいずこに求めるべきかが判るでしょう。
こうした仕事において私たちは、自分自身のことは何一つ求めていません。栄光を求めているのではありません。地上の人たちのために役立てばという、その願いがあるだけです。永いあいだ忘れられてきた霊的真理を改めて啓示し、新しい希望と生命とを吹き込んでくれるところの霊的なエネルギーを再発見してくれるようにと願っているだけです。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.106-107
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61-h (人間は一人の例外もなく神の分霊)
私が残念に思うのは、本来霊的存在であるところの人間があまりに霊的なことから遠ざかり、霊的法則の存在を得心させるために私たちスビリットがテーブルを浮揚させたりコツコツと叩いてやらねばならなくなったことです。
あなた方も一人の例外もなく神の分霊なのです。ということは、あたかも神があなた方にこう語りかけているようなものです---“私がすべての法則を用意し、あなた方一人ひとりに私の分霊を授けてあります。宇宙を完全なものにするための道具はすべて用意してあります。そのすべてを利用することを許しますから、自分にとって良いものと悪いものとをみずから選択しなさい。それを私の定めた法則に順応して活用してもよろしいし、無視してもよろしい″と。
そこで神の子等はそれぞれ好きなように選択してきました。しかし他方において、霊界から地上の経綸に当たっている者は神の計画を推進するために、地上において間違いなく神の御心に感応できる人材を送り込まねばならないのです。地上の神の子等はこれまで大きく脇道に外れてしまったために霊的なことにすっかり無関心となり、物的なことしか理解できなくなっております。
しかし冷たい冬の風が吹きまくった後にはかならず春の新しい生命が芽生えるものです。地面に雪が積もり、すべてが寒々とした感じを与える時は、春のよろこびは分かりません。が春はきっと訪れるのです。そして生命の太陽はゆっくりと天界を回って、いつかは生命の壮観がその極に達する時が参ります。
今、地上全体を不満の暗雲がおおっています。が、その暗雲を払いのけて夢を抱かせる春、そしてそれを成就させる夏がきっと訪れます。その時期を速めるのも遅らせるのも、あなたがた神の子の自由意志の使い方ひとつに掛かっております。
一人の人間が他の一人を救おうと努力するとき、その背後に数多くのスピリットが群がり寄って、その気高い心を何倍にも膨らませようと努めます。善行の努力が無駄にされることは絶対にありません。奉仕の精神も決して無駄に終らせることはありません。誰かが先頭に立って藪を開き、あとに続く者が少しでもラクに通れるようにしてあげなければなりません。やがて新しい道ができあがり、通れば通るほど平坦になっていくことでしょう。
高級神霊界の神が目にいっぱい涙を浮かべて悲しんでいる姿を時折見かけます。今こそと思って見守っていたせっかくの善行のチャンスが踏みにじられていく人間の愚行を見て、いつかはその愚かさに目覚める日が来ることを祈りつつ眺めているのです。そうかと思うと、うれしさに顔を思い切りほころばせておられるのを見かけることもあります。無名の平凡な人が善行を施し、それが暗い地上に新しい希望の灯をともしてくれたからです。
私はすぐそこまで来ている新しい地球の夜明けを少しでも早く招来せんがために、他の大ぜいの同志とともに波長を物質界に近づけて降りてまいりました。その目的は神の摂理を説くことです。その摂理に忠実に生きさえすれば神の恵みをふんだんに受けることができることを教えてあげたいと思ったのです。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.112-114
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61-i (霊的にみれば俗世的な宝はガラクタも同然)
スピリチュアリズムの真実を知ったあなた方は、その分だけを物的なもので差し引いて勘定してみたことがおありですか。つまりあなた方は地上的なものでは計れない貴重なものを手に入れられた。霊的真理という掛けがえのない高価なものをお持ちになっている。自分が霊的に宇宙の大霊と直結していることを悟られた。神の分霊であるという事実を悟られた。その神から遣わされた使者の働きかけを受けとめる心掛けも会得された。
そうしたことに比べれば、俗世的な宝はガラクタも同然です。あなた方はこれから先も永遠に生き続けるのです。すると、この地上で学んだ知識、体験から得た叡智が、俗世で追い求めている物的なものに比して、その永遠の魂にとっていかに大切であるかがお判りになるはずです。
見かけの結果だけで物ごとを判断してはいけません。あなた方は “物” の目でしか見てないのです。”霊”の 目でご覧になれば、一人ひとりの人間に完全に公正な配慮がなされていることを知るでしょう。私は時おりあなた方をはじめ他の多くの人間の祈りに耳を傾けることがあります。そしていつもこう思うのです---もしも神がそのすべてを叶えてあげたら、ゆくゆくはあなた方にとって決してうれしくない結果をもたらすであろう、と。
地上を去って霊の世界へ来る人たちに私はよく質問してみることがあるのですが、霊となって自分の地上生活を振り返ってみて、そこに納得のいかないことがあると文句を言う人は一人もいません。
地上世界には今三つの大きな問題があります。一つは無知であり、もう一つは悲劇であり、三つ目は貧困です。この三つは霊についての認識が政治と結びつき、みんながその新しい知識の指し示す方向で思考し、そして生きるようにならないかぎり、いつになっても無くならないでしょう。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.116-118
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61-j (霊的真理普及は厳粛な仕事である)
ストレスと難問の尽きない時代にあっては、正しい知識を手にした者は真理の使節としての自覚をもたねばなりません。残念ながら、豊かな知識を手にし悲しみの中で大いなる慰めを得た人が、その本当の意義を取り損ねていることがあります。霊媒能力は神聖なるものです。いい加減な気持で携わってはならない仕事なのです。ところが不幸にして大半といってよい霊媒が自分の能力を神聖なるものと自覚せず、苦しむ者、弱き者、困窮せる者のために営利を度外視して我が身を犠牲にするというところまで行きません。
また、真理の啓示を受けた者----永いあいだ取り囲まれていた暗闇を突き破って目も眩まんばかりの真理の光に照らされて目覚めたはずの人間の中にさえ、往々にして我欲が先行し滅私の観念が忘れられていくものです。まだまだ浄化が必要です。まだまだ精進が足りません。まだまだ霊的再生が必要です。真理普及の仕事を託された者に私が申し上げたいのは、現在の我が身を振り返ってみて、果たして自分は頭初のあの純粋無垢の輝きを失いかけていないか。今一度その時の真摯なビジョンにすべてを捧げる決意を新たにする必要はないか。時の流れとともに煤けてきた豊かな人生観の煤払いをする必要はないか。そう反省してみることです。霊力の地上への一層の顕現の道具として、己れの全生活を捧げたいという熱誠にもう一度燃えていただきたいのです。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.84-85
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61-k (人類の霊的解放へ向かってのゴール)
真理はたった一人の人間を通じてもたらされるものではありません。地球上の無数の人々を通じて浸透していくものです。霊力の働きかけがあるかぎり人類は着実に進歩するものであることを忘れないでください。今まさに人類は霊的遺産を見出しはじめ、霊的自由をわがものとしはじめました。そこから湧き出る思い、駆り立てられるような衝動、鼓舞されるような気持は強烈にして抑え難く、とうてい抑え通せるものではありません。霊の自由、精神の自由、身体の自由にあこがれ、主張し、希求してきた地球上の無数の人々を、今、その思いが奮い立たせております。
こうして、やがて新しい世界が生まれるのです。王位は転覆され、権力的支配者は失脚し、独裁者は姿を消していきます。人類はその本来の存在価値を見出し、内部の霊の光が世界中に.燦然と輝きわたることでしょう。
それは抑え難い霊的衝動の湧出によってもたらされます。今まさにそれが更生の大事業を推進しているのです。私がけっして失望しない理由はそこにあります。私の目に人類の霊的解放というゴールへ向けての大行進が見えるからです。
『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.38-39
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61-l (あらゆる地上の問題は霊的真理を知らないことに帰着する)
あらゆる地上の問態を煮つめれば、その原因はたった一つの事実を知らないことに帰着するのです。すなわち人間は本来が霊的存在であり、神からの遺産を受け継いでいるが故に、生まれながらにして幾つかの権利を有しているということです。
その権利は、次の生活の場に備えるために、地上生活においてその属性を十分に発揮させるためのものです。その妨げとなるものはいかなるものでも排除する---それだけのことです。それをどう呼ばれようと構いません。私はラベルや党派には関心はありません。私が関心をもっているのは
“真理” だけです。
もしもあなたが私と同じ立場に立って、毎日のように発育を阻害された者、挫折した者、精神を歪められた者、未発達者、何の用意もできていない者がぞくぞくと私たちの世界へやってくるのをご覧になれば、多分あなたも私と同じように、この繰り返しに終止符を打つために何とかして地上を改革しなければという気持を抱かれるはずです。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.64
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61-m (霊的真理を知ることによって霊界からの導きを受ける)
(スピリチュアリズムを知ったことによって生じる)一ばん大きな違いは、自分が一人ぼっちでいることが絶対にないということを知ったことです。いつどこにいても霊の世界からの愛と友情と親愛の念を受けているということです。最善をつくしているときには必ず霊界かちの導きの力が加わっていること、あなたのもっているものから最善のものを引き出し、あなたの人生から最善のものを学び取ってくれるようにと願っている、友愛と親切心と協力精神に満ちた霊の存在がまわりにいてくれているということです。このことがスピリチュアリズムがもたらしてくれる一ばん有難いことです。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.136
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61-n (霊的真理は人の一生を一変させる)
私たちは何とかして地上の人々に霊的実相を教えてあげようとするわけです。すなわち人間は誕生という過程において賦与される霊的遺産を携えて物的生活に入るのだということを教えてあげたいのです。生命力はいわば神の火花です。本性は霊です。それが肉体と共に成長するように意図されているのです。ところが大多数の人間は肉体にしか関心がありません。中には精神的成長に関心を抱く者も幾らかおります。が、霊的成長に関心を抱く者はきわめて少数に限られております。永続性のある実在は霊のみです。もしも私たちの尽力によって人間を霊的本性を自覚させることに成功すれば、その人の人生は一変します。生きる目的に目覚めます。自分という存在の拠って来る原因を知ります。これから辿る運命を見極め、授かった霊的知識の意味をわきまえた生活を送るようになります。いたって簡単なことなのですが、それが私たちの活動の背後に目論まれた計画です。 霊的真理は、これを日常生活に活用すれば不安や悩み、不和、憎しみ、病気、利己主義、うぬぼれ等々を追い払い、地上に本物の霊的同胞精神に基づく平和を確立することでしょう。霊的真理を一つでも多く理解していくことが、あなた方の魂と霊的身体を霊界からのエネルギーを受けやすい体質にしていきます。これは地上と霊界を結ぶ磁気的な絆なのです。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、p.97
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61-o (自己の霊性に目覚めよ)
現今のように物質性が勝り霊性が劣る状態から、逆に霊性が物質性を凌ぐまでに発達してくれば、霊界からの指導も随分楽になることでしょう。それは、間をつなぐものが霊と霊との関係になるからです。しかし残念ながら大部分の地上の人間においては、その霊があまりに奥に押し込められ、芽を出す機会がなく、潜在的な状態のままに放置されております。これではよほどの努力をしないかぎり覚醒は得られません。物質性にすっかり浸りきり、霊が今にも消えそうな小さな炎でしかなく、まだ辺りを照らすほどの光をもたぬ人がいます。それでも、霊であることに変りありません。酷い辛酸をなめ、試練に試練を重ねた暁にはそうした霊も目を醒まし、自我に目醒め、霊的真理を理解し、自己の霊性に目覚め、神を意識し、同胞と自然界との霊的つながりを知り、宇宙の大原理であるところの霊的一体性を悟ることができるようになります。 いったんある方向への悟りの道が開かれたら、その道を閉ざすことなくいつまでも歩み続ける努力をしなくてはなりません。地上生活では完全は得られないでしょう。でも精神的に霊的に少しでも完全へ向けて努力することはできます。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp.99-100
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61-p (真理とは無限の側面をもつダイヤモンド)
私にも真理のすべてをお授けすることはできません。真理は無限であり、あなたも私も同じ様に有限だからです。われわれも無限なるものを宿していることは事実ですが、その表現が悲しいほど不完全です。完全の域に達するまでは真理のすべてを受け入れることはできません。真理とは無限の側面をもつダイヤモンドです。無限の反射光をもつ宝石です。その光は肉体に閉じ込められた意識では正しく捉らえ難く、その奥の霊のもつ自然の親和力によって手繰り寄せられた部分をおぼろげに理解する程度です。私には ”さあ、これが真理ですよ” と言えるものは持ち合わせません。あなたが求めておられるものの幾つかについて部分的な解答しかお出しできません。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.139-140
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61-q (真理はどのように受け容れられていくか)
真理は真理です。その本質は永遠に変わることはありませんが、そのバリエーション(質・程度・適用性などの変化・変異)は無限です。大衆に一度に理解してもらえるような真理を説くことはできません。一人ひとりが異なった進化の段階にあり、同じ真理に対して各人各様の反応を示すものだからです。
私はつねづね、神の計画は一度に大勢の人間を目覚めさせることにあるのではないことを説いてまいりました。そういうやり方では、永続性のある効果は期待できないからです。いっときの間は魔法をかけられたようにその気になっても、やがて必ず反動が生じ、群衆心理から覚めて個人としての意識がもどると、しばしば後悔の念とともに現実に目覚めるものです。
それではいけません。私たちの計画は個人を相手として、一人ひとりその霊的需要度に応じて真理を授けることにあります。大ていの場合、地上でもっとも縁の強かった人からのメッセージで確信を植えつけます。それによって確立された信念はいつまでも持続し、いかなる人生の嵐に遭っても、いかなる痛打を受けても挫けることはありません。
ですから、大ぜいの人を一度に目覚めさせる方法はないのです。少なくとも満足すべき結果を残させる方法はありません。
忘れてならないのは、真理を理解するには前もって魂に受け入れ態勢ができあがっていなけれければならないということです。その態勢が整わないかぎり、それは岩石に針を突きさそうとするようなもので、いくら努力しても無駄です。魂が苦しみや悲しみの体験を通じて耕されるにつれて岩石のような硬さが取れ、代わって受容性のある、求道心に富んだ従順な体質ができあがります。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.68-69
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61-r (死についての真理を知っているから得なのか)
ー交霊会に出席したある少年の質問に答えてー
答えは簡単なのですよ。知識はすべて得になるということです。ところが、残念なことに、そうとばかりも言えない事態が生じるのです。知識はたしかに喜びと幸せと落着きをもたらしてくれますが、こんどはそれをどう生かすかという責任ももたらすのです。知識は、無知から生じる愚かな心配を取り除いてくれます。知識は自分とは何かを自覚させ、これからどうすべきかを教えてくれます。そして、真理を知らずにいる人を見て気の毒だと思うようになります。真理を知らなかったために罪を犯す人はもちろんそれなりの償いをさせられますが、真理を知っていながら罪を犯す人は、もっと大きな償いをさせられます。より多くを知っているということが罪を大きくするのです。ポール君は真理を知っているだけ得です。しかし、これからどういう行いをするかが問題です。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.133-134
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61-s (霊性を発見するためになぜ目覚めなければならないのか)
― あなたは人類全体が霊においてつながっているとおっしゃっていますが、大半の人間はそのことに気づいておりません。その霊性を発見するためになぜ目覚めなくてはならないのでしょうか。そこのところがよく分かりません。
表面をご覧になって感じられるほど不可解な謎ではありません。理解していただかねばならないのは、人間は肉体をたずさえた霊であって霊をたずさえた肉体ではないということです。物質が存在できるのは霊による賦活作用であるからであり、その霊は神性の火花として存在のすべて、生命を表現しているあらゆる形態の根源的要素となっているのです。
改めて申し上げるまでもなく、地上へ誕生してくる目的は各自の魂の成長と開発と発達を促進するような体験を積み、肉体の死後に待ちうける次の段階の生活にふさわしい進化を遂げることです。
地上は幼稚園であり、霊界は大人の学校です。今この地上においてあなたは教訓を正しく身につけ、精神を培い、霊性を鍛えて、神からいただいた才能を心霊治療その他の分野で人のために使用できるまで発達させることを心掛けるべきです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 39-40
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61-t (霊的真理によって迷信を駆逐しなければならない)
― 同じ問題 (6-p) について別の交霊会で
皆さんとともにたずさわっている仕事の大変な重大性を見過ごさないようにしてください。永年にわたって幾億と知れぬ人々の心を束縛と隷属の状態に置いてきた迷信を駆逐しなければなりません。人間は本来ならば肉体と精神と霊の調和がもたらす、のびのびとした喜びの中で生活すべきなのです。霊的真理を知ることによって本当の自分とは誰なのか、何なのか、いずこへ向かいつつあるのかを理解し、心の豊かさを味わうことができるはずなのです。それが、その迷信のためにほとんど不可能な状態になっているのです。
その仕事は、当然、皆さんに辛酸をなめさせることになります。しかし困難はクスリなのです。私たち霊団の者も、こうして地上との接触が得られるようになるまでには大変な苦労がありました。
世界各地でそうした努力が為され、そして成功しております。今では世界中に霊の光が灯されております。霊力が届けられていない国はもはや一国もありません。霊力の道具は往々にして隠密裏に仕事をしなければならないことがあります。が、仕事は着実に運ばれてまいります。その真実性に否定の余地がないからです。
そういう次第で、困難というのは霊の真の資質、神から授かった才能を発揮させるための挑戦として歓迎なさることです。皆さんの内部には地上最大の力が潜在的に宿っているのです。いかなるハンディキャップも、いかなる障害も、いかなる困難も、その潜在力で克服できないものはありません。
もしもそれまでに開発したものでは敵わないほどのものであれば、祈ることによって、さらに強力な援助を要請することができます。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 125-126
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61-u (魂に受け入れる用意ができるまでは真理は受け入れられない)
真理は魂の方にそれを受け入れる用意ができるまでは真理として受け入れられることができません。これは真理のあらゆる側面について言えることです。真理とは無限性をもつものですから、その全体を理解するには永遠の時を要します。それがまた無限の過程なのです。
受け入れる用意のできていない人に真理を押しつけることはできません。そこには必ず混乱・論争・討論・議論といったものが生じます。が、それにもそれなりの意義があります。その混乱の中から、受け入れる用意のある人にとっての真理が出てきます。その用意というのは霊的進化の程度、発達段階によって決まります。それは各自が自分で決めていくというのが宿命です。
もしも私がある人たちにとっての真理を説き、それを聞いてあなたが“私には信じられません”と正直におっしゃっても、私は少しも不愉快には思いません。あなたへの愛の気持ちはそれによっていささかも減りません。なぜなら、あなたはこの地上においてあなたなりの理性、あなたなりの良識を使い、納得しないものは拒絶することで自己開発するようになっているという理解が私にあるからです。
その最終的な裁定者として私が敬意を表しているところの理性によってあなたの賛同を得ることができなければ、それは私が役に立たなかったことを意味します。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 128-129
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61-v (霊的真理は拒絶されても少しも損なわれることはない)
― 私もこうした霊的真理を説きたいと思いながら、今、同じ問題に逢着しているように思います。難しさを痛感しております。教会で説くにしてもサークルで説くにしても、これが真理なのだ、これ以外にないのだと信じて話します。その際、これが自分の信じていることであると述べて、あとは(押しつけがましいことは)何も言わない方がよろしいのでしょうか。
そうです。あとは各自の判断にまかせることです。
― 拒絶されても構わずにおくということですね。
真理というものは拒絶されたからといって少しも損なわれるものではありません。そういう人は受け入れる用意ができていないのです。ですから、待ってあげるのです。そして霊性の火花を煽ってみる程度に留めるのです。それ以上のことはできないのです。それで何の反応もなければ、その人のことを気の毒に思ってあげないといけません。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、p. 130
61-w [6-r] (一人ひとりの成長と発達と進化の程度は同じではない =1=)
―(若い女性のゲスト)あなたのおっしゃる通り私たちは生命を唯一の生命力すなわち神から受けていますから、みんなして愛と奉仕を目的とすれば、すべてがうまく収まると思うのです。そこでお聞きするのですが、平均的な一般人もこうした深い霊的な教えを理解する必要があると思われますか。一般の人には私たちが同じ神から生命力を受けているという一つの事実を理解させ、それを生活の基盤として、さらに大霊についてより多くを知るようにもって行けば、スピリチュアリズムだのキリスト教だのという形で理解するよりも、非常に多くの人が理解できるのではないかと思うのです。
おっしゃることは本質的には結構なことですし、異議を唱える人は誰一人いないでしょう。ですが、人間は一人ひとり成長と開発と発達と進化の程度が異なるものです。ある人にとってすぐに受け入れられることが、別の人からは拒絶されることもあります。もしも全員が画一的なレベルにあるのであれば画一的なメッセージで済むでしょうけど……
たとえば、ある人に大霊とは愛と叡智の極致であると説いて、それがすんなりと受け入れられても、神の存在を頭から信じない人は即座に否定するでしょう。ですから、メッセージを与える場合は、内容をその人の受容力に応じたものにしないといけません。
あなたが説くことの単純な素朴さがアピールする人もいるでしょうし、しない人もいるでしょう。人によっては世の中の不公平、さまざまな矛盾、一見無実と思える人の受難、利己的な人間がうまく罰を免れている現実を指摘して、それは一体どうなるのだと言うかも知れません。そこであなたは、延々と骨の折れる議論に巻き込まれてしまいます。
そういうタイプの人には霊的実在の動かしがたい証拠、たとえは“不治”の宣言を受けた病気が治った人の例を持ち出すにかぎります。そうすれば常識的な言葉では説明できなくても、実際に慈悲または愛の働きを見せた非物質的エネルギーの存在だけは認めざるをえないでしょう。
もう一つ大切なことがあります。知識と叡智と真理は無限に存在しますから、人間が手にすることのできる分量にも限界はないということです。うわべだけを見るかぎりでは普遍的な愛のテーマは単純に思えるかも知れませんが、その内側はとても複雑です。その複雑な裏面の理解の必要性を痛感するようになるのは、それだけの理解力が具わってからのことです。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 142-144
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61-x [6-s] (一人ひとりの成長と発達と進化の程度は同じではない =2=)
―言い替えれば、あらゆる学派や宗派はそれなりの存在価値があるということですね。それぞれが、あるー定水準に達した者に何かを与えるようになっている― 他の者には満足できない宗教でもその人には満足できるということなのでしょう。
無限なる霊は無限の表現形態を取ります。生命全体が段階的になっているのです。あなたは休みなく進化しつつあります。一段上がるごとに、その上にもう一段あることを知ります。山頂を一つ征服してみたら、その向こうにもっと高い山頂が見えてくる、と言ってもよいでしょう。
人類は異なる成長段階にある者で構成されています。したがって、すべての者にアピールする一つの教えというものは提供できないのです。相手がどの程度のものを受け入れる用意ができているかを見きわめる必要があります。あなたの説く思想がそれである人もいるでしょう。別の論拠を持ち出してそれを論ばくする人がいるかも知れません。そういう人には五感に訴えるもの―
何か常識を超えたもので、根源は霊的でも顕現の仕方が物質的なものを持ち出さないといけません。(奇跡的な病気治療など―訳者)
しかし、いかなる能力を駆使するにせよ、要はその人に成長の機会を与えることになれば、それが一ばん大切なことです。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 144-145
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61-y (大霊を始源としているがゆえに広がっていく真理)
私たちが行っている仕事が今後もますます要請されてまいります。地上世界は流血と悲劇と苦悩にあふれております。無明ゆえに神の摂理にそった生き方をせずに、暗黒と絶望へ向かう道を選択してしまいました。そこで私たちは希望と光明と安らぎと調和へ導く叡智をお教えしようとしているのです。それを地上の人間は無明ゆえに軽蔑しようとします。お届けするメッセージを拒絶します。霊力の働きかけを否定します。しかしそうした態度にはお構いなく真理は地上へ広がっていくことは間違いありません。大霊を始源としているからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 22-23
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61-z (人間は肉体をたずさえた霊であり、霊を宿した肉体ではない)
全生命の基盤となっている永遠の実在に関する知識を広めることは、もとより私たちの仕事の一環です。生命は霊であり霊は生命だからです。しかし同時に人間は肉体をたずさえた”霊”であり、霊を宿した”肉体”ではないということ、肉体はその所有者が自我を発揮するための仮の宿にすぎないという事実を、受け入れる用意のできた人たちに教えてあげることも大切な仕事です。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 25
61-za[18-zk] (魂が完全に打ちのめされるほどの出来事は決して生じない)
魂が完全に打ちのめされるほどの出来事は決して生じません。一つ一つの出来事は、いかに困難をきわめるものであっても、魂をいっそう成長させるための手段と心得てください。現実に数多くの問題と困難に取り囲まれているあなたにとっては、そういう受け止め方は決して容易なことではないでしょう。が、その場かぎりの捉え方ではなく、永遠の価値をもつ尺度があることを忘れてはいけません。それが霊的真理です。疑念に襲われた時はその真理にしがみつくことです。人間である以上は煩悩を完全に閉め出すことはできません。が、だからと言ってその煩悩を怠慢の言い訳にしてはなりません。心構え一つで煩悩を力に変えることができるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 74
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61-zb [56-o] (霊的真理を手にすれば普及と実践が伴わなければならない)
霊的真理を手にしても、それをそのままどこかに仕舞い込んでおくのでは、普及の目的は達成されたことになりません。それがその人の生活を照らし悟りを開かせるところまで行かないといけません。霊的知識は普及と実践が伴わないといけません。なぜなら地上というところは、霊が内部の霊性を発揮するための環境を求めて生まれてくるところだからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 99
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61-zc (真理というのは一見すると矛盾に思えることがある)
真理というのは至って単純なのですが、一見すると矛盾しているかに思えることがあります。闇があるから光の存在が分かり、悲しみがあるから喜びが味わえるのです。危機にさらされるから平穏無事の有難さが分かるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 144
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61-zd (真理は童子の素直な心になればいとも簡単に理解できる)
真理というものは童子のごとき素直な心になり、無知が生んだ過去の誤った概念から解放された時には、いとも簡単に理解できるものです。
シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 148
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61-ze[10-za] (霊的原理と調和して生きるように心掛けよ)
生命の基盤である永遠の霊的原理を片時も忘れずに、それと調和して生きるように心掛けなさい。それが、存在″のより高い次元と調和して生きる者にかならず訪れる冷静さと憩いと落着きと安らぎと内的静寂を確保する道です。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.157
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61-zf (人間はひたすら霊的真理のために精励すべきである)
物的身体も、神が意図されている通りに、地上生活を営む上での必需品を必要なだけ補給してやらないといけません。次に、それに宿る霊があらゆる独断的教理の束縛から解放されて、真実味も霊的価値もないものに忠誠を尽くすようなことにならないようにしないといけません。ひたすら真理のためにのみ精励すべきです。幾千年ものあいだ束縛してきたドグマや教理のことで戦争したり、口論したり、しのぎを削ったりするような愚かしいことは止めないといけません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.164
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61-zg[75-h](霊的真理に比べたら物質界のいかなる貴重品も安ピカもの)
霊的真理に比べたら物質界のいかなる貴重品も安ピカものです。これから何千年も先まで生きられてから地上生活を振り返ってごらんになると、地上で欲しくてしかたがなかったものよりも、地上で得た知識、地上で身につけた叡智の方がはるかに大切であることがお分かりになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.165
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61-zh[56-t] (人生の目的は失敗から学び霊的真理にしがみつくこと)
地上生活の究極の目的は失敗から教訓を学び、転んでは立ち上がり、日々の生活の中の冒険的な出来事に一つ一つ対処し、しかも他方においては、自分が本来は霊であり肉体は道具にすぎないこと、したがって大切なのはその霊に及ぼす影響であることを忘れずに、常にそれを優先させて基本的な霊的真理にしがみつくことです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.171
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61-zi (真理は無数の人間を通して浸透するように計画されている)
真理はたった一人の偉大な人物によって広められるものではなく、物的世界の無数の人間を通して浸透していくように計画されております。霊力の働きかけがあるかぎり人類は常に進歩し続けていることを忘れてはなりません。その働きかけに魂を鼓舞された人間の思念・欲求・衝動は実に強烈です。外部からのいかなる力によっても抑え込まれるものではなく、これ以後も抑え込まれることは決してありません。今まさに地球全体を新しい思念が無数の人々の魂を揺さぶりつつあります。霊と精神と身体の解放を切望し、当然の権利として主張し、断固として要求する、その思念です。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.173
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61-zj (物的五感を超えてすぐ身のまわりにある霊的実在を認識する)
地上の人々、なかんずく霊的知識を手にされた方たちが、せめて一度でも、物的五感を超えて、すぐ身のまわりにある霊的実在を認識してくれれば、という私の願いは切なるものがあります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.181
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61-zk (真理は受け入れる用意のできた人が受け取ってくれればよい)
私は地上に大勢の友をこしらえることが出来て、とても幸せ者であると思っております。私はただ、私に送られてきた基本的な真理を英語という地上の言語にくるんでお届けしているだけです。受け入れる用意のできた人が受け取ってくだされば、それでよいのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.184
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61-zl (宇宙の叡智の宝庫から取り出した崇高な霊的真理)
私が説く真理の最大の価値は、それが宇宙の叡智の宝庫から取り出した崇高なものであるということです。といって私は、それを無理にも信ぜよとは申しません。私の言う通りにしなさいとは申しません。また、これ以外に神すなわち宇宙の大霊へ近づく道はないなどと豪語するつもりもありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.187
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61-zm (人間の理性によるいかなるテストにも耐えうる霊的真理)
私に断言できること、絶対の自信をもって申し上げられることは、霊的な真理も人間の理性と知性と体験によるいかなるテストにも耐えうるものだということです。と言って、仮にあなたがこんなものは受け入れるわけにはいかない″と拒否なさっても、別にバチは当たりませんから心配はご無用です。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.188
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61-zn (現代の啓示も過去の啓示と同一線上にある)
現代の啓示も過去の啓示と同一線上にあります。私たちはイエスが説いた真理を否定していませんし、そのイエスもモーゼの説いた真理を否定しませんでした。われわれの後に来る人も、私たちが今説いている真理を否定することはないでしょう。しかし未来の子は一段高い進化のレベルにありますから、啓示される真理も今の時代に啓示されている真理より進歩したものであらねばなりません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp.194-195
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61-zo (霊的真理は知識として記憶するだけでは理解したことにならない)
霊的真理は、単なる知識として記憶しているだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験して初めて、それを理解するための魂の準備ができたことになります。どうもその点がよく解っていただけないようです。種子を蒔きさえすれば芽が出るというものではありません。芽を出させるだけの養分がそろわなくてはなりません。養分はそろっていても太陽と水がなくてはなりません。そうした条件が全部そろった時にようやく種子が芽を出し、生長し、そして花を咲かせるのです。人間にとってその条件″とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇の体験です。何もかもうまく行き、鼻歌まじりの呑ん気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて霊的知識を理解する素地ができあがります。そして、いったん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮しはじめることになるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp.201-202
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61-zp(地上で生き成長していくために必要な真理とは)
人間が地上生活を生き抜き成長していくために必要な真理は、これ以上つけ加えるべきものは何もありません。あとは真理をより深く理解すること、神とのつながり、および同胞とのつながりに関してより一層理解を深めることです。新たに申し上げることは何一つありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 219-220
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61-zq[65-r] (十分な体験を経てはじめて真理が受け入れられる)
叡智というものは体験から生まれます。十分な体験を経て魂がそれを要求するようになった時にはじめて真理が受け入れられます。それから今度は、その知識をどうするかの段階となります。その知識を他人のために活用する義務の問題です。そうした過程は実に遅々としたものですが、人類の進化はそういう過程を経るしかないのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 220
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61-zr[75-j] (戦争、流血、悲劇、病気の数々も霊的無知から起こる)
大半の人間は地上だけが人間の住む世界だと考えています。現代の生活が人間生活のすべてであると思い込み、そこで、物的なものを、いずれは残して死んでいかねはならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。戦争、流血、悲劇、病気の数々も、元はと言えば、人間が今この時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。人間は肉体を通して自我を表現している霊魂なのです。それが地上という物質の世界での生活を通して魂を生長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 220-221
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61-zs (確信とは真理と遭遇した時に湧き出る内的な悟り)
証拠″などといっても、ただの用語にすぎません。確信というのは内部から湧き出てくるものです。魂に受け入れ準備″が備われば理解がいきます。その理解こそ大切で、それが唯一の確信です。科学は刻一刻と変わっていき、その領域を広げつつあります。知識というものは固定したものではありません。一方、確信というのは、真理と遭遇した時に湧き出る内的な悟りです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 229
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61-zt[63-zd] (つねに霊に係わることを優先させよ)
真理普及の第一線に立って苦悩している地上の偉大なる魂は、その闘いがいかに激しく反抗がいかに強烈でも、その中にあって少しも内的な安らぎを失うことはありません。表面上の物的な出来事と霊的原理とを同じ天秤にかけてはいけません。霊が主人で物は従僕です。つねに霊に係わることを優先させなさい。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 231
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61-zu[42-zb] (相手に魂の準備ができていない時はなすすべがない)
あなたの説く霊的真理が敵意をもって迎えられた時は、その素晴らしい宝石の光が見えない気の毒な人への適切な言葉を求めて神に祈りなさい。もしもそれが少しでも効果があれば、その人との出会いは無駄でなかったことになります。もしも何の効果もなければ、それはその人がまだ霊的真理を受け入れる用意ができていなかったことを意味します。魂に準備ができていない時は、なすすべがありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 232-233
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61-zv (光と闇の戦いではいつかは光が闇を突き通す)
霊的真理のための闘争は生やさしいものではありません。バイブルにも光の勢力と闇の勢力との戦いの話が出ていますが、両者は現実に存在します。が、光の方が強力です。いつかは光が闇を突き通します。しかし時には闇があまりに濃いために、それを突き通すのに手こずることがあります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 233
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61-zw (物的所有物を絶対と思い込んでいる人は影を追い求めているようなものである)
俗世的なものはいずれ消滅するのです。束の間のものは、しょせん束の間の存在でしかありません。しかし、霊的実在は永遠です。移ろいやすい物的所有物を絶対と思い込んでいる人は、影を追い求めているようなものです。霊的真理を求めている人は、真に自分の所有物となるものを授かりつつある人です。自信をもって前進なさい。霊的知識――大霊の宝石を探し求めなさい。
トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
コスモ・テン・パブリケーション、1989、p.61
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61-zx (地上世界に怖がるものは何一つない)
残念ながら今のところ、霊的真理を理解している人はきわめて少数であり、決して多くはありません。大半の人間は、物量・権力・圧政・隷属的体制こそ“力”であるかに考えております。が、大霊の子は身体的・精神的・霊的に“自由”であるべく、地上に生をうけているのです。
いずれは霊的真理が世界各地に浸透するにつれて、地上の人間も日常生活をより自由に、より明るく生きることが出来るようになるでしょう。この英国においても、また他のいかなる国においても、もう“話が終った”わけではありません。進化しようとする霊性がゆっくりと着実に発現してまいります。その歩みを地上的勢力が邪魔をし進歩を遅らせることはできても、大霊の意図を変えさせることはできません。
もしもそれくらいのことで大霊の意図が変更の止むなきに至るものであれば、この地球はとっくの昔に崩壊していたことでしょう。霊は物質に優るのです。霊力こそ宇宙の支配力なのです。だからこそ、いつも申し上げるのです――心を奮い立たたせなさい、胸を張って生きなさい、地上世界に怖がるものは何一つありません、と。何事も必ず克服できます。
トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』(近藤千雄訳)
ハート出版、2003、pp.101-102
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61-zy (霊的真理は受け血が用意されて初めて受け入れることができる)
いいですか、真理というものは受け血が用意されて初めて受け入れることができるのであって、それ以前は知らん顔をしているものです。精神が受け入れる気になった時に真理の方からやってくるのです。せっかく訪れてノックをしても冷たくあしらわれることがわかっている時は、真理は近づこうとはしないものです。そろそろドアが開いて入れてもらえると思うまでは、少し離れたところで待機しているのです。
トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
コスモ・テン・パブリケーション、1989、p. 84
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61-zz (霊的真理を適用すればいかなる問題も遠からず解決する)
わたしは霊的真理に基づいた原理を説いております。いかなる問題もこれを適用すれば遠からず解決します。わたしは人間の苦痛の叫び声に無神経なわけではありません。できることなら重荷のすべてをわたしが背負ってあげたいくらいの気持ちです。ですが、地上世界のことは地上世界で片付けないといけないのです。そこには“公正”というものが行きわたるようになっているのです。と言って、ただ苦しい体験を積むばかりでは無意味です。その中から教訓を学び取らないといけません。そこで霊的摂理についての知識が大切となります。それを広めないといけません。
トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
コスモ・テン・パブリケーション、1989、pp. 90-91
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61-zza (霊的真理は簡単に手に入るものではない)
求道者の道は容易ではありません。真理というものは簡単に手に入るものではないからです。価値あるもの、高い評価を受けるものほど軽々しくは手に入らず、迷いと懐疑心の中をくぐり抜け、しかも誠実・崇敬・飽くなき真理探求心をモットーとして努力した末に、ようやく手にすることができるものなのです。
魂の受け入れ準備がすべてに優先するということです。魂がその真理を理解できる階段まで成長した時にはじめて、その真理の方からやってくるのであり、それまでは得たいと思っても得られないということです。受け入れるだけの態勢が出来上がっていないからです。豚に真珠とはそのことを言っているのです。
トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
コスモ・テン・パブリケーション、1989、pp. 106-107
62. 義務・使命・責任
62-a (魂を目覚めさせ自分自身の修養を始める)
私たちがいつも直面させられる問題が二つあります。一つは惰眠をむさぼっている魂に目を覚まさせ、地上で為すべき仕事は地上で済ませるように指導すること。もう一つは、目覚めてくれたのはよいとして、まずは自分自身の修養を始めなければならないのに、それを忘れて心霊的な活動に夢中になる人間を抑えることです。神は決してお急ぎになりません。宇宙は決して消滅してしまうことはありません。法則も決して変わることはありません。じつくりと構え、これまでに啓示されたことは、これからも啓示されていくことがあることの証明として受け止め、自分を導いてくれている愛の力は自分が精一杯の努力を怠りさえしなければ、決して自分を見捨てることはないとの信念に燃えなくてはいけません。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.91
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62-b (私たちは愛と叡智によって導かれている)
われわれは見せかけは独立した存在ですが、霊的には一大統一体を構成する部分的存在です。そうして、どこにいても、まわりには物的束縛から解放された先輩霊の一大軍勢が待機し、地上へ働きかけるための手段(受容性に富む人間)を求めて常時見張りを続けており、過去の過ちを繰り返させぬために、そして平凡な日常生活から人間が叡智を学び地上生活が実のあるものになってくれるように霊的知識を少しでも多く授けたいと願っている、そうした事実を認識して、これからの仕事に臨もうではありませんか。われわれは愛と叡智によって導かれ、知識とインスピレーションによって支えられている、偉大にして遠大な目的のための道具であることを片時も忘れぬようにいたしましょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.46-47
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62-c (言うことを聞かないと自認する人に各個の責任を説く)
言うことを聞くようにと、神は二つの耳をお与えになったのです。スピリチュアリズムには七つの綱領≠ニいうのがあります。その一つに各個の責任″というのがありますが、たぶんこれが七つの中で一ばん大切でしょう。異論や反論の余地のない真実が秘められているからです。あなた方は他人のすることではなく自分のすることに自分一人で責任を取るのです。あなたの責任を免除してくれるものは誰一人、何一つありません。注意を怠れば、それだけの代償を自分が払わねばなりません。それが原因と結果の自然法則なのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 56-57
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62-d (自己責任を自分の問題として真剣に自覚していく)
(そのように)ぜひ心掛けてください。あなたが自覚するしないにおかまいなく、自然法則は働き続けるものだからです。冷淡なのではありません。法則として定められたように働かざるを得ないのです。それは、私たちがこの仕事を定められた一定の線に沿って、進めざるを得ないのと同じです。
このサークルのメンバーの方には常づね申し上げていることですが、私たち霊団は、私たちのやり易い時に、私たちのやり易い方法でやるしかありません。あなた方の都合に合わせるわけにはいかないのです。あなた方と同じように私たちも、霊的にみてこれは是非やらなくてはならないと判断したことを行うに際して、やはり一定の法則による制約を受けています。みなさんの生活を蔭で操ることはできます。物質を動かすこともできます。必要とみれば金策もいたします。が、それも一定の自然法則に従って行わねばなりません。
いつも申し上げることですが、人間は自分で正しいと判断したこと、良心が命じたことに素直に従わなくてはいけません。最終的には自分自身が裁判官なのです。反省してみて自分の行ったことはすべて正しかったか、どこかに間違いはなかったかを自分で判断することができるようになっております。動機さえ正しければ絶対に(霊的に)間違ってはいません。何よりもまず動機が最優先されるのです。
あなた方も元来が霊的存在であって、それが今は物的身体を通して自我を表現しているにすぎないという、この基本的真理をつねに念頭においてください。霊をたずさえた肉体ではなく、肉体をたずさえた霊だということです。その認識のもとに内部の霊性をできるだけ多く発揮することになるような生活を心掛けることです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 57-59
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62-e (間違った教えを説いた人の償い)
いったん一つの組織に帰属してしまうと、いつしかその組織に呑み込まれてしまい、こんどはその組織がその人間をがんじがらめに束縛しはじめます。そうなってしまうと(心の奥では信じていない)古いお決まりの教説をくり返すことによって理性をマヒさせようとしはじめるものです。
私たちが非難するのは、誤りとは知らずに一心に説いている正直な宗教家のことではありません。心の奥では真実よりも組織の延命を第一と心得ている者たち、言いかえれば今もし旧来のものを捨てたらこれから先自分の身の上がどうなるかを心配している者たちです。間違っているとは知らずに説いている人を咎めているのではありません。自分の説いていること、行っていることが間違っていることを知りながら、なおかつ詭弁を弄して
"これ以外に民を導く方法は無いではないか。説くべき教えが他に無いではないか"
と開き直っている人たちです。
しかし、たとえそうとは知らずに間違った教えを説いた場合でも、過ちは過ちとして正さなければなりません。その場合は罪滅ぼしとはいえません。魂そのものが良心の咎めなしに行ったことですから、一種の貢献としての喜びさえ感じるものです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.43-44
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62-f (人に法を説く者には重大な責任がある)
永遠・不変の公正はけっしてごまかしが利きません。私がいつも見ているとおりの摂理の働きをあなたにもぜひお見せして、公正の天秤がいかに見事なつりあいを保っているかをご覧にいれたいものです。神の摂理は絶対に誤りを犯さないことを得心なさることでしょう。
人に法を説く者が重大な責任を担っていることはお分かりでしょう。私はたびたび言っております---あなた方は知識を手にされた。しかし同時にその知識に伴う責任も担われた、と。 一般の人よりも高いものを求め、さらにその人たちを導き教えんとする者は、まず自らが拠って立つ足場をしっかりと固めなくてはなりません。厳しい探求も吟味もせず、あらゆる批判に耐えうるか否かを確かめもせず、自分の説いていることが真実であるとの確信もないまま、そんなことには無とん着に型にはまった教義を説いていれば、その怠慢と無とん着さに対する代償を払わなければなりません。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.45-46
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62-g [10-i] (生きがいある人生を送るには=2= 人に尽くす使命)
大自然の法則は、われわれの一人一人に生命を吹き込んでくださった創造神と常に一体関係にあるように、そして地上世界はおろか霊の世界のいかなる力によってもその絆が断ち切られることがないように配慮してあるのです。
さらにその霊の機構を愛の力が導き管理し常に調和を維持して、受け入れる用意のある者が霊力と叡智と真理とインスピレーションとを授かるための手段を用意しております。
その上われわれみずからが道具となって、地上の人間生活を豊かにし、病める者を癒やし、喪に服する者を慰め、人生に疲れた者に力を与え、道を見失える者に導きを与える、全存在の始源からの崇高な霊力の恩恵をもたらすことができるのです。
われわれはそのための才能を授かっているのです。それを発達させることによって、われわれが手にした掛けがえのない知識の恩恵にあずかれずにいる不幸な人たちのために活用することができます。要するに、この荘厳な霊力の流れる通路としていっそう磨きをかけ、受け入れる用意のできた人々に惜しみなく恩恵をもたらしてあげられるようになることが、われわれの大切な務めなのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 28-29
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62-h (霊的指導者として人びとの救済のために献身する責任)
―(霊的指導者として人生相談にものっている人が述べる)自分自身、霊的指導者として恥じない生活をしているだろうかという疑問を抱くことがよくあります。人には自信をもって霊的真理を説きながら自分では時おり、ふと、疑いの念を抱くことがあるのです。
あなたのお名前はまさかトマス(※)ではないでしょうね。疑ってはなりません。霊的現象をその目でご覧になりその耳で聞くことのできた人は幸いです。すぐ身のまわりに存在する驚異的生命の世界をかい間見るという大変な光栄に浴されたのです。その世界には自分のことは何一つ求めず、寄るべない身の上をかこつ人々の救済のために献身している霊がひしめいているのです。それが私たちの仕事でもあるのです。
私には人間のもろさ、疑念や取り越し苦労はよく理解できます。しかし、これまで荘厳と美観と光輝と威力と指導力とを見せつけてくれた霊力に全幅の信頼を置けば、その霊力は絶対にしくじることがないということを、徐々にではあっても理解していかれることでしょう。人間の方が私たちを裏切った例はたくさんあります。が、私たちがその人たちを裏切ったことは一度もありません。
くり返しますが、あなた方にはご自分がどれほど貢献していらっしゃるかが推し測れないのです。絶体絶命と思い込んだ魂が本当の自我を見出す上で、あなた方もずいぶん手助けしていらっしゃいます。
自分がいったい誰なのか、何者なのかが分からず、霊的実在に目も耳もふさがれている無数の人を見るのは悲しいことです。道を見失い、沼地に足を取られ、もがきながら生きております。これだと確信できる道が見出せないのです。
幸いにしてそれを見出しているわれわれは、その責任の重大さ自覚して、われわれを頼ってくる人々をよろこんで迎え、暗闇の中で光明を見出させてあげようではありませんか。
(※イエスの弟子の一人で非常に疑い深い性格で、イエスの復活についても実際に手と足のクギ跡を見るまでは信じなかった。八日目にイエスが物質化して出現してトマスにその傷を見せて信じさせた。その時の有名なセリフが“見ずして信じることのできる者は幸いである”―
現代人にも通じる名言というべきであろう ― 訳者)
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 46-48
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62-i [79-o] (知識にはそれをどう生かすかという責任が伴う)
知識には責任が伴うというのが私の一貫したテーマです。知識による恩恵を受けたからには、こんどはそれをいかに生かすかという責任が必ず生じます。そこにあなたの自由意志による選択が問われます。それがあなた自身の責任の尺度となるのであり、これだけは他の誰一人として代わってあげるわけにはいきません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 86
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62-j (真理を知った者はそれだけ余分のものが要求される)
あなたがもし霊的真理についての知識を手にしながらそれに適った生き方をすることができなければ、それ相応の代償を払わねばなりません。“知らなかった”という言い訳は許されないからです。知識は自動的に責任をもたらします。真理を知った者はそれだけ余分のものを要求されます。それは言い変えれば、その人への大切な信頼にほかなりません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 86
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62-k (難題に尻込みし真理普及の最前線から撤退していく人たち)
難題にしりごみし、真理普及の厳しい最前線から撤退していく人のことを気の毒に思ってあげなさい。もともと本ものの理解ができていなかった者ならいざ知らず、一度でも魂が感動し真理の光を見た者であれば尚さら気の毒なことです。私たち霊界の者にとって、正しい知識を手にした者がかくあるべきという規準にそぐわない振舞いをする姿ほど、見るも悲しいものはありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 154
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62-l (かつて体験したことのない大きな挑戦課題を引き受ける)
はらをすえなさい。私がこの仕事を仰せつかった時、これが大変な仕事であること、多分それまでに体験したことのない大きな挑戦課題であることを聞かされました。そして用意された計画の説明を聞かされて私は、精いっぱい頑張ってみましょう″とお引き受けしました。今はどうでしょう。活字のお蔭で霊力が地球のすみずみまで行きわたっております。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.161
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62-m (物質界の全勢力を結集したものよりさらに強力な霊力)
気を引き締めないといけません。あなたは今、利己主義と貧欲と愚行、その他、混乱と悲劇と争いと憎しみの元凶である物質中心思想の恐ろしい産物との烈しい戦いに参加しているのです。しなければならないことが山ほどあります。背後に控える力は物質界の全勢力を結集したものよりさらに強力であるとの認識をもって事に当たってください。あなたには何一つ恐れるものはありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.162
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62-n[12-zza](聖職者の義務を知っていても自分の栄達を優先させる者)
真理を知らずに間違ったことをしているのであれば、まだ弁護の余地はありますが、聖職者としての義務を知っていながら自分の栄達の方を優先させている者は一体どう弁解するりつもりでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp.184-185
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62-o (あなたの霊的命運を定めていくのはあなた自身である)
良きにつけ悪しきにつけ、あなたの霊的命運を定めていくのはあなた自身です。あなた自身のことに関して最後に責任を負うのはあなた自身です。もしも死の床にあって罪を告白し特別の信仰を受け入れれば立ちどころに罪が赦されて潔白の身になれるとしたら、それはまさにお笑いものであり、茶番劇というべきです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 230
63. 霊と霊力
63-a (霊こそ実在ですべての根源)
残念ながら多くの人間が実体と影、核心と外殻とを取り違えております。実相を知らずにおります。いわば一種の退廃的雰囲気の中で生きておりますーーそれが
"生きる" と言えるならばの話ですが。霊の光の啓示を受けた人は幸いです。私としてはあなた方に、頑張って下さいとしか申し上げる言葉を知りません。霊の無限の力が控えております。イザという時にあなた方の力となって支えてくれることでしょう。
自分がいかなる存在であるのか、何のためにこの世にいるのかについての正しい認識を失わぬようにして下さい。あなた方のようにふんだんに霊的知識に恵まれた方たちでも、どうかすると毎日の雑事に心を奪われ、霊的実相を忘れてしまいがちです。が、それだけは絶対に忘れぬようにしなければなりません。地上という物的世界において生活の拠り所とすべきものはそれ以外にはないのです。霊こそ実在です。物質は実在ではないのです。あなた方はその実在を見ることも触れてみることも感じることもできないかもしれません。少なくとも物的感覚で感識している具合には感識できません。しかし、やはり霊こそ全ての根源であることに変りありません。あなた方は永遠の存在であることを自覚して下さい。生命の旅路においてほんの短い一時期を地上で過ごしている巡礼者にすぎません。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.120-121
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63-b (霊的知識の普及がなぜ必要か)
いかなる反抗勢力、いかなる敵対行為、いかなる中傷、いかなる迫害をもってしても、悲しみに満ちた人々の魂の琴線に触れ、病める身体を治し、迷える人々に光明を見出す道を教え、人生に疲れた人々を元気づけることのできる献身的な通路があるかぎり、その仕事が挫折することは決してありません。
本来なら、こうしたことはとうの昔に教会という権威を担った人々によって成就されていなければならないところです。それが現実には成就されていません。というよりは、その肝心なものが置き去りにされているのです。そして今や霊的にも物的にも、その担い手は教会とは何の縁もない普通一般の人たちとなっております。もし教会関係の人々が自分たちの本来の存在意義を自覚すれば、もし自分たちの本質がその神性にあることを理解すれば、そしてもし自分の身のまわりに存在する莫大な知識の宝庫、霊力、エネルギーを自覚すれば、それを活用して新しい世界をわけなく建設することができるところなのですが・・・・・
しかも、それは是が非でも成就していただかねばならないのです。なぜならば私たち霊界の実情を言わせていただけば、毎日毎日ひきも切らず地上から送り込まれてくる不適応者、落伍者、放蕩者、社会のクズともいうべき人たちーー要するに何の備えもない、何の用意もない、何の予備知識も持たなくて一から教えなければならない人間の群れには、もううんざりしているのです。本当はこちらへ来てすぐからでも次の仕事に取り掛かれるよう、地上での準備をしておくべきなのですが、現実にはまるで生キズの絶えない子供を扱うように看護し、手当てをしてやらねばならない者ばかりなのです。
そういう次第で、あらゆる形での霊的知識の普及がぜひとも必要です。人類が霊的事実を理解してくれないと困るのです。真理に導かれる者は決してしくじることはありません。真理は理解力をもたらし、理解力は平和と愛をもたらし、心に愛を秘めた者には解決できない問題は何一つありません。人類の指導者が直面するいかなる難題も、霊的真理と霊的叡智と霊的愛があればきっと消滅していくものです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp..88-90
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63-c (霊とはなにか)
実を言えば霊こそ生命であり、また生命こそ霊なのです。地上界、霊界、宇宙のあらゆる世界におけるエネルギー、原動力、駆動カはその
"霊"なのです。生命のあるところには必ず霊があり、霊のあるところには必ず生命があります。
皆さんが地上生活を営めるのは霊的存在だからです。もし肉体から霊的本質が撤退してしまったら、物質界はまったく感識できなくなります。人間は毎晩死んでいるようなものだと言われますが、再びその身体に戻って来れるのは
"生命の糸" によってつながっているからです。睡眠中に万一切れるようなことがあったら、生命力は二度とその身体に活力を与えることができなくなります。
肉体は霊の力によって動かされている械械です。あなたは肉体ではありません。地上にいる間だけその肉体に宿って自我を表現している
"霊" なのです。肉体の用事が終われば霊は去っていきます。
霊は無限の可能性を秘めていますから、その表現形態もまた無限です。これでおしまいという限界が無いのです。霊そのものに限界が無いからです。肉体器官を通して表現しているもの中で人間が馴染んでいるものとしては、考える、推理する、判断する、決断する、反省する、考察する、調査する、熟考するといった知的能力と、見たり聞いたり感じたり動いたり触れたりする感覚的能力があげられます。これらは肉体を通して自我を表現している霊の属性の一部です。
肉体という制約から解き放たれると、霊はさらに広範囲の表現形態を通じて自我を表現することが可能になります。霊媒、すなわち霊界からの影響力を感識してそれを地上で再現することの出来る人をみれば、それがどの程度のものであるかが、ある程度まで判るでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp..106-107
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63-d (幻影のなかで生きている私たち)
この仕事に携わる者の特権として私には幾つもの段階をへて送られてくる莫大な霊カを使用する手段が授けられております。必要とする人々へ分け与えるために使用することが私に許されているのです。私たちの世界こそ実在であり、あなた方の世界は実在ではありません。そのことは地上という惑星を離れるまでは理解できないことでしょう。
あなた方は幻影のなかで生きておられます。全て "影"なのです。光源はこちらの世界にあります。実質の世界です。こちらへ来て始めて生命とは何かということがお分りになります。その真実味があまりに強烈であるために、かえってお伝えすることができないのです。どうか、私のことをあなた方の兄貴だと思ってください。あなたを愛し、いつも側にいて、精一杯あなたを守り導きたいという願望をもって腐心している兄貴と思ってください。
私はあなたがたが気づいておられる以上にしばしばそれぞれのお家を訪れております。私に敬愛を覚えてくださっている家庭を私の地上での家庭であると思っているのです。状態がどうも良くないときーー地上での仕事にはよくそういう時があるのですーーそんな時に敬愛に満ちたあなた方の光輝で温めてもらいに来ることができるということは大いなる慰安の源泉です。
私たちは、やっていただいたことに対しては必ずそれなりの支払いをいたします。いつもこう申し上げているのですーー施しをする人はかならずそれ以上の施しをしてもらっており、差引勘定すればいつも戴いたものの方が多くなっていると。施す者が施しを受けるというのが摂理なのです。なぜなら、施しをしようとすることは魂の窓を開き、精神を広げ、心を大きくすることであり、その広くなったチャンネルを通して愛と導きと保護の力が流れ込むことになるからです。ですから、私に礼をおっしゃることはないのです。私がしていることは実に些細なことに過ぎないのですから。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp..123-124
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63-e (霊的真理を広げるために)
大きな変動期にあっては霊媒を通じそのメッセージ、霊的知識を広めることを目的とした霊力の演出がよりいっそう要請されます。
地上のいたるところに悩みを抱えた人々が無数にいます。従来の信仰は瓦解してしまいました。が、その人たちの心の奥に、自分にも気づかずにいるある種の願望があります。それは永遠の実在の証を求める心です。
人間は本来が霊的な魂を宿した存在です。そして魂はその存在を支えてくれるところのものを求めて、じつとしておれないものです。魂も養育してやらねばなりません。扶助してやる必要があります。活動の場を与えてやらねばなりません。魂は表現を求めてやまないのです。たとえ意識的には自分を理解していなくても、つまりそうした霊性を自覚していなくても、内部の霊的自分、真の個性の欲求を無視することはできません。
教会による月並みなお説教では、特殊な一部の人を除いて、満足を与えることはできなくなりました。絶え間なく進歩する世界、常に変化し生長していく世界にあっては、何世紀もの昔のおきまりの宗教的教説を今日に当てはめることは不可能なのです。となれば当然、人間が勝手にこしらえた神学をもとに同じことを繰り返し訴えても、耳を傾ける人が次第に少なくなっていくに決まっています。
この点に関するかぎり、歴史は繰り返しません。なぜなら、キリスト教の信条と教義に背を向ける者が次第に増えていっても、ではその人たちの考えが唯物的になっていくのかというと、そうではないのです。というのは、確かに無味乾燥な福音が魅力を失いつつありますが、この度はその原因に別の要素があるのです。それは宇宙の謎と取り組んでいる科学者によって、唯物主義の思想が不毛で無意味で到底受け入れられないものであることが明らかにされてしまったことです。(訳者注:物理学の進歩によって物質の究極の姿が従来の"もの″の観念を超えてバイプレーションの状態であるということが明らかになったが、それでもなおそのパイプレーションを構成する究極の要素は突きとめられていない。かつては "これが一ばんの素"という意味で素粒子論が行われたが、今ではそれも途中の段階であって、その奥にまだ何かがあるらしいことが理論物理学で言われており、その確認が実験物理学で行われつつある。ともかくも物質の本性は人間が五感で感じ取っているものとは全く異なることが明らかとなった。シルバー・ハーチほその点を指摘している)
こうした時期、すなわち多くの者が視野の変化に気づき、何もかもが改造のためにるつぼの中へ放り込まれている時こそ、霊的真理を普及すべき絶好機なのです。
かつて私は、人間が絶体絶命の窮地にある時こそ神を知る絶好機であると述べたことがあります。今、再びその必要性が大なる時となり、霊力が奔流となって流れ込んでおります。愛は死の淵を超えて届けられます。愛する者を導き、悲しみに暮れる心に慰めの方針をもたらし、病に苦しむ人には治癒カを注ぎ、道に迷える人には手引きを与え、霊力の実在の証の全てを提供せんとして心を砕いております。
そうした証を伴った真理こそ永遠なるものです。不変なのです。地上で何が起きようと霊界でどういう異変があろうと、そのために取り消されたり書き変えられたりすることは決してありません。永遠の実在なのです。一度それを把握したら、一度自分のものにしたら、一度理解してその有難さを知ったら、その時からその人の生活に光沢と美しさと豊かさと輝きと自信と確信が具わり、二度と寂しい心を抱いて歩むようなことはなくなります。
かくして真理を広めるということは大切な仕事であり、大勢の人に与えられる絶好機、人のために自分を役立てる貴重な手段であることが分ります。煩悶の叫び声をあげている数知れぬ人々は、私たちが奮闘すべき場を提供してくれているのであり、一人が光を見出すごとに、一人が無知の闇から抜け出て知識を手にするごとに、一人が悲しみの涙をよろこびの笑みに変えるでとに、魂の勝利、永遠の闘いの中における勝利を克ち得たことになります。
ですから、どこでもよろしい、誰でもよろしい、力を引き締め、鎧でしっかりと身を固め、神の大軍が背後に控えてくれているとの信念のもとに、この人類にとって掛けがえのない重大な闘いを引き続き闘い抜こうではありませんか。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp..164-167
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63-f (私たちを導く偉大な霊の力)
さきほど霊媒の言うことの信頼性が問題となりましたが、皆さんはすでにそうした場合に私が要求している判断の基準をご存知です。すなわち自分の理性に照らし、自分の判断力と常識とで決断なさることです。私はかつて一度たりともあなた方を盲目的信仰へ誘導したことはありませんし、知性が反撥するような行為を要求したことはありません。
自慢することはおよそ私には縁のないことです。宇宙を知れば知るほど謙虚な気持で満たされるものです。ですが、それでもなお私はあなた方を導く霊の力の偉大さを公言して憚りません。それが私のような者にも与えられているのです。私が偉いからではありません。私が為さんとするその意欲に免じて授けられているのです。これまでの私と皆さんとの交わりの長い年月を通じて、その霊力は存分に与えられ、それ以後も皆さんが望まれるかぎり続くことでしょう。
私はもし皆さんが日常生活の自然な成り行きの中において霊的にそして身体的にみずからを御して行くことができるのであれば、敢えてこうした交霊会の継続を望むものではありません。霊的な知識を獲得しながら身体に関わる面をおろそかにするのは感心しません。それは、身体ばかりを構って霊的側面をおろそかにするのと同じように愚かしいことです。
神の顕現であるところの大自然が与えてくれる活力と能力を存分に活用して人生を謳歌なさるがよろしい。ふんだんに与えられる大自然の恵みを遠慮なく享受し、完成へ向けて進化し続ける永遠の壮観の中にその造化の神が顕し給う美を満喫なさるがよろしい。
と同時に、その背後にあって私たちを道具として使用せんとする崇高なる霊の働きに常に思いを馳せましょう。その神の恩寵を存分に享受するために心を広く持ちましょう。なるほどと私たちが神のメッセンジャーであることを認めてもらえるように、日々の生活における言動に愛と善意を反映させるように心がけましょう。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp..170-171
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63-g (霊こそが永遠の実在)
私たちが施すものには二重の目的があります。基本的にはその中身は霊的であるということです。それが最も大切だからです。人生において各自の霊に関わることが他の全てのものに優先します。霊こそが永遠の実在だからです。ですが一方、地上の物的生活において生じることが霊性に深刻な影響を及ぼすこともあります。それゆえ私たちの努力は、地上的環境を改善し改革し修正し、ありとあらゆる不公平を是正し、不公正を取り除き、病気を駆逐し、害悪が及ぼす汚点を払拭することにも向けなくてはならないのです。私ども霊界の者は地上の落伍者、備えなき者、未熟者が次から次へと送り込まれて来るのをいつまでも許しておくわけにはいかないのです。魂の準備は本来そちらですべきものであり、こちらではないのです。地上は霊が修行のために送り込まれるところです。霊界の生活への適応性を身につけないまま霊界入りする者が多すぎます。こちらへ来てからでは教育がしにくくなります。地上の方がやり易いのです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p..184
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63-h (霊力とはどういうものか)
人間によって認識されている如何なるものさしにもかからないものです。長さもなく、幅もなく、高さもなく、重さも色も容積も味も臭いもありません。ですから、常識的な地上の計量法でいけば霊カというものは存在しないことになります。つまり実在とは人間のお粗末な五つの感覚で捉えられるものと決めてかかっている唯物的自然科学者にとっては、霊カは存在しないことになります。しかし愛は目に見えず耳にも聞こえず、色もなく味もなく寸法もないのに、立流に実感があります。それは深い愛の感動を体験した者が証言してくれます。たしかに愛のカは強烈です。しかし霊のカはそれよりも無限大に強烈です。
あなた方が生き、呼吸し、考え、反省し、判断し、決断を下し、あれこれと思いをめぐらすのも霊の力があればこそです。物を見、音を聞き、動きまわり、考え、言葉をしゃべるのも霊の力があればこそです。あなた方の行動のすべて、あなた方の存在のすべては霊の力のおかげです。物質界のすべて、そしてその肉体も、生命力にあふれた霊カの流入によって存在と目的と指針と生活を与えられているのです。物質界のどこを探しても意識の秘密は見つかりません。科学者、化学者、医学者がいくら努力してみたところで、生命の根源は解明されません。それは物質そのものの中には存在しないからです。物質はそれが一時的に借りている宿にすぎません。
霊の力はあなた方が神と呼んでいるものそのものなのです。もっとも"神″というものを正しく理解していただけないかも知れませんし、誤解してその意を限定してしまっておられるかも知れません。ともかくその霊カが曽て火の固まりであったものに今日見るがごとき生命を吹き込んだのです。その霊が土塊から身体をこしらえて、それに生命を吹き込んだのです。魂がまとう衣服です。地上のあらゆる生命を創造し、自然界のあらゆる動き、あらゆる変化を支配し、四季を調節し、一粒の種子、一本の植物、一輪の花、一本の樹木の生長まで関与している力、要するに千変万化の進化の機構に全責任を負っているのが霊のカです。
それが強大であるゆえんは、物質界に限られていないことにあります。すなわち無数の物的現象を通じて絶え間なく働いているだけでなく、見えざる世界の霊的活動のすべて、今のあなた方には到底その存在を知ることの出来ない幾重にもつながった高い界層、そしてそこで展開するこれ又あなた方の想像を絶した光輝あふれる生命現象までも、その霊力が支配しているのです。しかし、いかに強大であっても、あるいは又いかにその活動が驚異的であるといっても、それにも制約があります。すなわち、それが顕現するにはそれに適した器、道具、媒体、通路、霊媒---どうお呼びになっても構いません---そうしたものが無ければならないということです。壮大な霊の流れも、そうしたものによる制約を受けるのです。地上にどの程度のものが流れ込むかは人間側が決定づけるということです。
私がいつも、心配の念を追い払いなさい、自信を持ちなさい、堅忍不抜の精神で生きなさい、神は絶対にお見捨てにならないから、と申し上げてきたのは、そうした雰囲気、そうした条件のもとでこそ霊力が働きやすいからです。地上的な力はいつかは衰え、朽ちます。人間が築く王国は儚いものです。今日は高い地位にいても明日は転落するかも知れません。しかし霊の王国はけっして滅びることはありません。霊の尊厳は不変です。神の力はけっして衰えません。しかしその働きの程度を決定づけるのはあなた方であり、現に決定づけております。
スピリチュアリズムを少しばかりかじった人は、よく、なぜ霊界のほうからこうしてくれないのか、ああしてくれないのかと文句を言うようですが、実際にはそう言う人ほど、霊界からそうしてあげるための条件を整えてくれないものです。この苦悩に満ちた世界、暗闇と不安におおわれた世界にあって、どうか皆さんは灯台の光となっていただきたい。あなた方の自信に満ちた生きざまを見て人々が近づき、苦悩のさなかにおける憩い場、聖域、波静かな港を発見することが出来るようにしてあげていただきたい。皆さんはそういう人たちの心の嵐を鎮め、魂に静寂を取り戻してあげる霊カをお持ちになっています。
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp..170-173
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63-i (もしも霊力が働かなくなったら地球は回転を止める)
もしも霊力が働かなくなるようなことがあったら、地球は回転を止め、四季は巡ってこなくなることでしょう。もしも霊力が働きを中止したら、太陽の炎は消滅し、月はあの幽玄な輝きを見せなくなるでしょう。もしも霊力がしくじることがあったら、種子は花を咲かせず実を結ばなくなることでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.42
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63-j (摂理に順応しさえすれば必要なものに事欠くことはない)
私たちは、霊が生命を吹き込んでくれたおかげで共通の絆を与えられているのです。そのことによって全世界の神の子が根源において結ばれていることになるからです。人間が地上でも、そして死後も生き続けることを可能にしているのは、神を共通の親として、全人類を一つの家族に結びつけているのと同じ霊力なのです。
この崇高な事実こそ私たちが啓示せんとしている真理です。あらゆる物的差違、あらゆる障害、あらゆる障壁を超えるものです。肌の色の違い、言語の違い、国家の違いを超越するものです。物的存在の表面の内側に、断とうにも断つことのできない同胞性で全人類を結びつけている、共通の霊的属性があることを教えております。
今の地上世界にはぜひともこの真理が必要です。その理解さえ行きわたれば戦争は無くなります。世界中ではびこり過ぎている利己主義と貧欲と既得の権利が撲滅されます。人間の唯一の、そして真の尊厳すなわち霊性が、今あまりにはびこっている低俗な物的価値基準に対する優位を発揮するようになります。
その理解が行きわたるにつれて、無限の豊かさと輝きと崇高さと愛と指導力と治癒力とを秘めた霊の力がそれだけ多く発揮され、これまであまりに永いあいだ支配して混沌と災禍をもたらしてきた無知と偏見と迷信を駆逐して行くことでしょう。
あなた方も、お一人お一人がミニチュアの大霊すなわち神なのです。その霊はあなた方の努力次第で生長と発達と拡大を続け、成熟して開花する可能性を秘めているのです。どこまで発揮できるかを決定づけるのはあなた自身です。他の誰もあなたに代わってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。あなたも大霊であることを自覚することです。そうすれば神の王国があなた自身の中にあることに理解がいくはずです。霊力は絶対に裏切りません。
必需品を永遠に供給していくための摂理があり、それに順応しさえすれば、あなたは必要なものに事欠くことは有り得ません。空腹や渇きに苦しむようなことは決してありません。しかし、必要以上のものは授かりません。あなたの成長度に合ったものを授かるのであって、多すぎることも少なすぎることもなく、高すぎることも低すぎることもありません。摂理ですから、それ以外に有りようがないのです。
霊は物質による制約には負けません。全生命の原動力であり、全存在の始源である霊は、あなたが地上生活において必要なものはすべて供給してくれます。その地上生活の目的はいたって単純です。本来のあなたである霊的本性を開発・強化して、死後に待ちかまえる次の生活の身仕度をすることです。となると、ありとあらゆる人生体験---楽しいことも苦しいことも、光も蔭も、有利なことも不利なことも、愛も憎しみも、健康も病気も、その一つ一つがあなたの霊的成長にとって何らかのプラスになるということです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.42-44
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63-k (地上世界のすべてが霊のおかげで存在している)
真理の顕現には無限の形態があります。真理とは無限なる大霊から出るものであり、顕現の媒体となる人物の進化の程度によってその形態が違ってくるからです。その真理の理解は単純・素朴さを通して行われます。やたらに綴りの長い単語や聞きなれない難解な用語を用いたからといって、それで真理にハクがつくわけではありません。むしろそれが無知の仮面となっていることがよくあるものです。
私たちの説く真理は無辺・無限の大霊の真理です。すべての人のためのものであり、一宗一派、一個人のものではありません。全人類を愛の抱擁の中に包まんとして働きかけております。
実在は物質の中には見出せません。その肉体の中にも発見できません。存在の種子は物的器官の中には見出せません、あなたは今からすでに霊的存在なのです。私たちの世界へ来てはじめて霊性を身につけるのではありません。
受胎の瞬間から人間も霊的存在なのです。その存在の源である霊という実在からあなた自身を切り離そうとしても、それは絶対にできません。地上世界のすべてが霊のおかげで存在しているのです。霊なくしては生命はありません。なぜなら生命とは霊であり、霊は生命だからです。
(物的表面にとらわれず)肝心かなめのものにすがることです。目を逸らしてはいけません。これこそ真実であると確信したものにしっかりとすがることです。そして煩雑な物的生活の中で何が何やらわけが分からなくなった時は、大霊の力と安らぎの住む内部へ退避して、その雑念を忘れることです。そうすればその静寂の中にあなたにとって必要なものを見出すことでしょう。あなたという存在の組織は必ず神の定めたパターンにしたがって織っていくことが大切です。
そのためには一体われわれは何の目的で神によって創造されたかを忘れないようにしましょう。その神とのつながりに汚点を残すような行為は絶対にしないようにいたしましょう。そうなることが全生命の根源たる神の意図を正しく理解している者すべてに必ず与えられる恩寵に、われわれも常に浴することになるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.44-46
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63-l [10-m] (生きがいある人生を送るには=6= 霊こそ実在)
私も私なりに皆さんのお役に立ちたいと願っております。気づいていらっしゃらないかも知れませんが、これまでに味わったことのない精神的ないし霊的な豊かさをきっと手にされることになる生き方にそって導かれていらっしゃいます。そうした中にあってさえ皆さんの心の中には次々と悩みが生じ疑問を抱かれるのも、地上の人間としては止むを得ないこととして私は理解しております。がしかし、どう理屈をこねたところで、全宇宙の中にあって唯一の実在は“霊”であることを改めて申し上げます。
物質はその本性そのものが束の間の存在であり移ろいやすいものです。物的に顕現している形態そのものには永続性はありません。それが存在を保っているのは霊によって生命を与えられているからです。原動力は霊なのです。霊こそがあなたを、そして他のすべての人を地上に生かしめているのです。霊が引っ込めば物質は崩壊します。あなたの身体は元のチリに戻りますが、本当のあなたである霊は永遠の進化の旅を続けます。
あなた方は霊をたずさえた身体ではありません。身体をたずさえた霊なのです。本当のあなたは鏡に映る容姿ではありません。それは霊が地上で自我を表現するための物的な道具、複雑な機械にすぎません。霊は物質に勝ります。霊が王様であり、物質は召使いです。
こうした事実を追求していくうちに、あなたの視野と焦点の置きどころが変っていくことに気づかれます。自分がなぜ地上にいるのか、真の自我を発揮するにはどうすべきか、そうしたことを理解しはじめます。どういう種類のことであっても結構です。自分の能力を伸ばして他人への援助と啓発のために活用する―それがあなた方のなすべきことです。
忘れないでいただきたいのは、皆さんは不完全な世界に生きている不完全な存在だということです。もしも完全であれば神はあなた方を地上へ送らなかったでしょう。その不完全な世界においてあなた方は、持てる才能をいかに活用するかについて、自由な選択権が与えられております。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 31-33
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63-m [10-q] (生きがいある人生を送るには=10= 霊力の恩恵)
自分より恵まれない人のための仕事に従事することは光栄この上ないことです。われわれが人のために尽くしている時、われわれみずからも、より高い、進化せる存在による働きかけの恩恵を受けているのです。自分のことは何一つ望まず、ただひたすらわれわれを鼓舞して、暗闇のあるところには光を、無知のはびこっているところには真理を、窮地に陥っている人には援助をもたらすことに精励しているのです。
そうした強大な霊団― 生きがいのある人生を模索している人のために、われわれを道具として尽力している高級霊―
の存在をますます身近に感じることができるように努力いたしましょう。
その崇高なる霊力がますます多くの人間を通じて地上へ注がれ、恩恵を広め、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、道に迷いもはや解決の手段は無いものと思い込んでいる人々に導きを与えることができているということは、本当に有難いことです。
霊力がどこかで効を奏すると、そこに橋頭堡が敷設され強化されます。続いて新たな橋頭堡の敷設と強化を求めます。かくして次第に霊力が地球を取り囲み、ますます多くの人々がその莫大な恩恵にあずかることになります。
われわれはこれまでに存在の始源から勿体ないほど多くの恩恵を授かってまいりました。それによって同志の多くが霊的に豊かになりました。なればこそ、われわれより恵まれない人たちが同じ豊かさと美と栄光を分かち合えるように、われわれの奉仕的精神を一段と堅固に、そして強力にすることができるよう神に祈りたいと思います。
知識がもたらすところの責任も片時も忘れないようにいたしましょう。われわれはもはや、知らなかったでは済まされません。精神的自由と霊的解放をもたらす真理を手にしているからです。人間の一人一人に神性の一部を植えつけてくださった宇宙の大霊とのより一層の調和を求めて、人のために自分を役立てる機会をますます多く与えてくださるように祈ろうではありませんか。
そうした生き方の中においてこそ、すべて神が良きに計らってくださるという内的な安らぎ、静寂、悟り、落着きを得ることができます。そして無限の創造活動を促進する上でわれわれも役目を担っていることになるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 38-39
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63-n (霊には始まりも終わりもない)
― 私はテレビで The Making Of Mankind <人類発達史>を見ておりますが、見ているうちに人類の霊魂の起原のことを考えはじめました。その当初において人類の霊魂は何らかの動物の種から発生したのでしょうか。
いいえ。
― ということは、動物界はわれわれ人類と別個の存在ということでしょうか。
いいえ。
― では人類の霊魂はどこから発生したのでしょうか。
どこからも発生しておりません。霊魂に起原はありません。
― これまでずっと私は、人類の霊魂は徐々に進化してきたものと思っておりました。
そうではありません。進化してきたのは身体の方です。霊は大霊の一部であり、無始無終です。霊は無窮の過去から存在しています。それが人間の身体に宿った時に個別性を具えるのです。霊には始まりも終わりもありません。バイブルにも“アブラハムが生まれる前から私は存在している”というイエスの言葉があります。霊は常に存在しているのです。霊は人間的形体に宿ってはじめて個別性をもつことになるのであり、霊ないしは魂は常に存在していたのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.54-55
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63-o (生命の原動力である霊は過去も未来もなく常に存在する)
― (質問者が代わる) 霊魂の永遠性についてお伺いしたいことがあります。年輩の霊と若い霊という言い方をする人がいますが、霊が新たにこしらえられることがあるのでしょうか。私たちはどこから来たのでしょうか。すべての霊が再生されたものなのでしょうか。それとも大霊から新しい霊が産み出されてくるのでしょうか。
霊はこしらえられるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。さきほど“私はアブラハムが生まれる前から存在している”というイエスの言葉を引用しました。霊としてはあなたも無始無終に存在しているのです。霊を新たにこしらえなければならなかったことは一度もありません。無が有になる段階というものはこれまで一度もありません。
生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生まれるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、すべてそうです。霊は存在の大原動力です。
母胎に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばらくの間地上で機能するわけです。
しかし霊はさまざまな側面をもつことができます。そのいくつかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることは有り得ます。その意味では“年輩の霊”“若い霊”と呼べる霊は存在します。しかし“新しい霊”というものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。
胎児が無事に宿り地上生活のための身体が用意されると、霊は個別的存在として地上へ誕生してきます。霊そのものは別に新しいものではありません。個的形態を具えたというだけです。一個の人物となったというだけです。その男性または女性が成長してやがて地上を離れると、大きい自我の一側面として新しい要素を加えることになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.55-57
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63-p (霊力はいつの時代にも誰にでも届けられている)
“聖霊に対する罪”とは霊力の存在を否定することです。霊力はいつの時代にも地上へもたらされているのです。キリスト教は抽象的には霊力の存在を認めていながら、それが世界中の誰にでも届けられるものであるという話になると否定します。こうして皆さんとの交わりができるのも霊力のお蔭なのです。ホンのわずかの間とはいえ、物質の世界と霊の世界とが目的において一つに調和することを可能にしてくれる、大霊の力なのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.49
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63-q (過去の霊覚者を通して働いた霊力は今も働きかけている)
霊力の地上への働きかけを過去の話と考えてはいけません。過去の霊覚者を通して働いた霊力が今まさにこうした形で働きかけていることを理解しないといけません。当時の宗教家がその霊力を目の敵にして悪魔の仕業であると決めつけたのと同じように、今日の宗教家はそれとまったく同じ霊力が今まさに働いている事実を認めようとしません。しかし、地上世界もその後進歩したようです。もはや礫刑の手段には出ないからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 138
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63-r (邪悪な攻撃にも対処できるのは内部に秘められた霊力)
地上は困ったこと、厄介なことだらけです。価値観を見失い、優先すべきものを履き違えている者が多すぎるために、暗く陰うつで、しかも暴力沙汰の絶えない、悲しい世界となり果てております。善の勢力と悪の勢力とのせめぎ合いが果てしなく続いているのです。そうした中で私たちが一ばん頼りにするのは、霊的真理に目覚めた人たちです。邪悪な勢力の攻撃にもたじろぐことなく堂々と対処できるのは、内部に秘められた霊力と、すでに発揮しておられる霊的能力のおかげです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 153
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63-s[68-zk] (人間は宇宙最大の力である霊力の貯蔵庫である)
人間は宇宙最大の力の貯蔵庫です。霊の力を秘めているということです。それを圧殺したり、征服したり、地上への顕現を阻止したりすることはできません。あなたの地上人生が終わった時に、それまでにたった一つの魂でも救ってあげることができれば、あなたの地上での存在は無駄でなかったと言えます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.157
63-t[1-s] (難問が生じても克服できないほど大きな問題は生じない)
一つの仕事を始めると、遅かれ早かれ難問が生じるものです。しかし克服できないほど大きな問題は生じません。先のことを心配してはいけません。私も大きな歯車の歯の一つにすぎません。歯車は確実に回転します。それを動かしている力は物質界と霊界とを包含する大宇宙を経綸している力なのです。その力が森羅万象を生み出したのです。星雲を、太陽を、惑星を、大洋を、大海を、山を、花を、小鳥を、動物を、そしてあなたがた人間を生み出したのです。それほどの大きな力が、あなた一人の人生に手こずるわけがありません。私たちは人間の挫折を見たくて戻ってきたヤジ馬ではありません。私たちがお持ちした霊力はすでに地上に根づいております。その力を阻止できるものは地上には存在しません。背後霊に全幅の信頼を置きなさい。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.161
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63-u (物質の世界には霊力を抑え込む力は何一つ存在しない)
霊を完全に抑え込む力をもったものは物質の世界には何一つ存在しません。霊は物的身体が生み出すいかなる力よりも威力があります。物事がうまく運ばないで人間関係が思うにまかせぬ時は、いったん喧騒の現実界から静寂の世界へ引っ込むことです。すると霊界から発せられる強力な愛があなたを包み、霊力を補給してくれます。これであなたはすっかり落着きを取り戻して現実の世界へ臨むことができます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.163
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63-v (人間は物的身体を通して自我を表現している霊的存在である)
地上人類はみずからの力による救済を工夫していかないといけません。出来合いの方法はありません。型にはまった定石的手段というものはありません。そのためにはまず無限に展開する生命現象の背後には霊という永遠の実在があること、地上の人間は物的次元で営まれる俗世の存在であると同時に、物的身体を通して自我を表現している霊的存在であることを認識しないといけません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp.163-164
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63-w[10-zb] (どんな病気でも治しどんな困難をも克服する力を持つ人間)
人間の一人ひとりに、いかなる病気でも治し、いかなる困難をも克服する力が宿されていることが、まだ理解されていないようです。窮地において引き出すことのできるエネルギーの貯蔵庫をそなえているのです。神の王国は各自の魂の中にあるのです。この事実がなんと理解されていないことでしょう。その深い自我に触れる方法は神の摂理にのっとった生き方に徹することです。しかし、どれほどの人がそういう生き方を心掛けていることでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.165
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63-x[18-zv] (いかなる困難も内部の霊力で必ず克服できる)
純粋に物的な弱みがバランスの取れた生き方を困難にさせる時期があることは確かです。が、それも内部の霊力を駆使することによって必ずや克服できます。その内部の兵器庫にはマイナスに作用するものとの葛藤に必要な武器のすべてが揃っており、これに勝るものはありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.169
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63-y (霊力にはいかなる問題をも解決する力が秘められている)
われわれは、われわれの一人ひとりを使用せんとするより大きくより高い存在の道具であることを忘れないようにしましょう。言わば導管″のようなものであり、それを通して慰安の芳香が送り込まれ、地上の悲しみを癒やします。無限の目的をもった霊力が存在し、それには人類が直面するいかなる問題をも解決する力が秘められていることを忘れないようにいたしましょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp.173-174
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63-z (神は霊力を授かるにふさわしい人に霊力を授けられる)
皆さんはキリスト教の聖職者にも、ユダヤ教の聖職者にも、世界のいかなる宗教の指導者にもできないことがお出来になります。神は聖なる職にある人だからということで霊力をお授けになるのではありません。霊力を授かるにふさわしい資格をそなえた人にお授けになるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.185
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63-za[16-zv] (霊的なものは物的な尺度では判断できない)
期間の問題ではなく霊≠サのものに係わる問題です。霊は、何日も何週間もかかって体験するものをわずか二、三秒で体験することができます。霊的なものを物的な尺度で判断することはできません。霊的なものは霊的に判断しなければなりません。霊的なことが原因で発生した現象を地上的な期間を尺度として価値判断することはできません。さらに、理屈はどうであれ、治療家が痛みを軽減したり、らくにしてあげたり、治してしまうことができるという現実は、そこに何らかの法則が働いていることの証拠であり、同時にそれは、その患者の魂がその救いを得る段階まで来ていたことを意味します。偶然とかまぐれとかで起きているのではありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 212
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63-zb[11-t] (霊はあらゆる生命現象が生み出されるエネルギー源)
霊はこしらえるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。霊としては、あなたは無始無終に存在しているのです。霊を新たにこしらえなければならなくなったことは一度もありません。無が有になる段階というものは、これまで一度もありません。生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生み出されるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、すべてそうです。霊は存在の大原動力です。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 229
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63-zc[11-u] (母胎に宿された子は永遠の霊の一部である)
母胎に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばしの間地上で機能するわけです。しかし霊はさまざまな側面をもつことができます。そのいくつかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることはありえます。その意味では年輩の霊″若い霊″と呼べる霊は存在します。しかし新しい霊″というものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 229-230
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63-zd[61-zt] (つねに霊に係わることを優先させよ)
真理普及の第一線に立って苦悩している地上の偉大なる魂は、その闘いがいかに激しく反抗がいかに強烈でも、その中にあって少しも内的な安らぎを失うことはありません。表面上の物的な出来事と霊的原理とを同じ天秤にかけてはいけません。霊が主人で物は従僕です。つねに霊に係わることを優先させなさい。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 231
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63-ze (事故などで霊が取り返しのつかない傷を負うことはない)
――さる有名なスピリチユアリストの本に、戦地で戦友と共に一瞬のうちに戦死して、その時のショックがその後も残っている霊の話が出ておりました。あなたのお話では霊が傷つくことはないとおっしゃっていますが、この場合はどう理解すればよいのでしょうか。
一時的に傷つき、ショックが残ることはあります。が、肉体の傷が癒えるのと同じで、そのうち正常に復します。
事故死や戦死のような予期せぬ状態での死は霊にショックを与えます。死というものに何の予備知識もなかったために、その反動のようなものが生じるわけです。それで調整期間というものが必要となり、その間に自分が置かれている身の上についての理解と、霊的感覚の覚醒を促します。
あくまでも一時的なものです。霊が取り返しのつかない傷を負うことはありません。
トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』(近藤千雄訳)
ハート出版、2003、p.214
64. 運命・宿命
64-a (永遠の生命を持つ人間の宿命と自由意志 =1=)
質問: 宿命というのは地上生活の中でどの程度まで働いているのでしょうか。そもそも宿命とは何かをご説明ねがえますか。先天的宿命というのは外部の力なのでしょうか、それとも自分で選んだものなのでしょうか。あなたは再生説を説かれますが、それはなぜなのか、どういう意義があるのか説明してください。
それはどちらでもあります。ある種の外部の力があなたにその道を選択させたということです。あなたには自由意志と同時に宿命もあります。もしも地上人生とは物的生活を総合したものだと考え、それで満足できる人は、それはそれでよろしい。が、現在のその肉体に宿っている霊---必ずしも同じ側面とはかぎりません---が以前にもこの地上で生活したことがあることも考えられます。あなたは一個の大きなダイヤモンドの数ある側面の一つであって、各々の側面が全体の進化のために異なった時代にこの物質界へ顔を出していることも有りうるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.132-133
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64-b (永遠の生命を持つ人間の宿命と自由意志 =2=)
質問: 大きなダイヤモンドの側面の一つである、つまり私は類魂の一つであるという意味だと思うのですが、もしも生命が永遠だとすると、他の類魂の体験を必要とするというのは論理的におかしいように思えます。
全宇宙を通じて作用と反作用が営まれております。はるか彼方にいる者でも、あなたが叡智を身につけていく上において多大な影響力を行使することが出来るのです。人間は身体的にも精神的にも霊的にも孤立状態で生きることは有り得ないのです。それをグループソールと呼んでもダイヤモンドと呼んでも、所詮は用語を超越したものを表現するためにあれこれと用語を使ってみているにすぎません。
“あなた”とはいったい誰なのでしょう。その“あなた”という存在はいつから始まったのでしょうか。あなたという個的存在は受胎の瞬間から始まったのでしょうか。“アブラハムが生まれる前から私は存在している”とイエスが述べておりますが、それはどういう意味かお分かりですか。“霊としては私は常に存在していた”という意味です。あなたもそうですし私もそうです。インディビジュアリティの断片が異なった時代に物的世界に顔をのぞかせたということは有りうるのです。
私の説が受け入れられないとおっしゃる方と論争しようとは思いません。私は同志の方にも、ご自分の理性が納得しないものは拒絶しなさいと申し上げております。もしも私があなたから好感をもっていただけたら、そして愛ともいうべきものを頂戴できたら、それはあなたの理性が私の述べていることを真実であると認めたからであるに相違ありません。もしも理性の認可を得た上での好感を勝ち取ることが出来ないとしたら、それは私たちの仕事が失敗の運命にあることを意味します。われわれはこれまでに得た知識を土台とし信頼し合わなくてはいけません。基盤に間違いがないことを確信した上でなくてはいけません。そこから、ゆっくりと着実に、より高い道を目指して、手を取り合って開拓していきましょう。
あなたには、これから先、うれしいことがたくさん用意されております。イヤなことがないという意味ではありません。難問はつねに振りかかってきます。逆境にも遭遇します。あなたは完成された世界の完成された存在ではないからです。あなた自身が不完全であり、世の中も不完全です。しかし、あなたには自由意志があり、世の中の不完全とあなた自身の不完全を取り除いていくための力となる素晴らしいチャンスが用意されています。そこにあなたの仕事があります。
いかなる知識にも、それをいかに活用するかについての責任が付加されます。それはあなたへの一つの信託がなされたということです。その信頼を裏切ってはなりません。あなたがその知識を得るにふさわしい人間であったと同時に、これから先あなたに受け入れる用意ができた時に授けられる次の段階の知識に対しても十分な資格があることを、あなた自身の生活の中で身をもって示さなくてはいけません。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.133-135
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64-c[56-v] (運命の枠組みの中で潜在的神性を発揮するのが人生の目的)
人生には目的があります。しかしそれは当事者が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。人間の一人ひとりに神の分霊が宿っており、一人ひとりが無限の創造活動に参加できるのです。つまりあなたには個的存在としての責任と同時に、ある一定限度内での自分意志が与えられているのです。自由といっても、大自然の法則の働きを阻止することができるという意味ではありません。限られた範囲内での選択の権利が与えられているということです。運命全体としての枠組みはできております。が、その枠組みの中であなたが計画された予定表に従いながらどれだけ潜在的神性を発揮するかは、あなたの努力次第ということです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.198
65. 学び・体験・教え
65-a (厳しさの中で学ぶのが鉄則)
教える立場に立つ者は自らが学ぶ者としての然るべき体験を積まなくてはなりません。霊的教訓は他人から頂戴するものではありません。艱難辛苦ーー辛く、厳しく、難しく、苦しい体験の中で自らが学ばねばなりません。それが真に人のために役立つ者となるための鉄則です。そうでなければ有難いのだが、と私も思うことがあります。しかし側の者には分からないあなただけの密かな霊的覚醒、霊的悟り、魂の奥底からの法悦は、そうした辛い体験から得られるものです。なぜならその艱難辛苦こそ全ての疑念と誘惑を蹴散らし、祝福された霊として最後には安全の港へと送り届けてくれるからです。
これも神の摂理として定められた一つのパターンです。霊的成就への道は楽には定められておりません。もし楽に出来ておれば、それは成就とは言えません。楽に得られるものであれば、得るだけの価値はありません。人のために役立つためにはそれなりの準備が要ります。その準備を整えるためには魂の琴線に触れる体験を積み、霊位を開発し、心霊的能力を可能なかぎり霊的レベルまで引き上げなければいけません。心霊的能力を備えた人は大勢います。が、それを霊的レベルまで高めた人は多くは居ません。私たちがかかわるのは霊そのものの才能であって、霊的身体(幽体)のもつ能力、つまり肉体の五感の延長でしかないものには、たとえ地上の学者がどんなにおもしろい実験をしてくれても関心はありません。私は決してそれを軽蔑して言っているのではありません。それにはそれなりの意味があります。
地上には、自分を変えようとせずに世の中の方を変えようとする人が多すぎます。他人を変えようと欲するのですが、すべての発展、すべての改革はまず自分から始めなくてはなりません。自分が霊的資質を開発し、発揮し、それを何かに役立てることができなければ、他の人を改める資格はありません。地上人類の霊的新生という大変な事業に携わっていることは事実ですが、それにはまず自分を霊的に新生させなければなりません。真の自我を発見しなければなりません。心を入れ替え、考えを改め、人生観を変えて、魂の内奥の神性を存分に発揮しなければなりません。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.162-164
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65-b(真理のために献身する者は苦労する)
「物的生活面で苦労が多いのはなぜか」
真理のために身を捧げる者は徹底的に試練を味わう必要があるからです。霊の大軍に所属する者はいかなる困難にも耐え、いかなる障害にも対処し、あらゆる問題を征服するだけの強さを身につけなければなりません。
はじめて遭遇した困難であっさりと参ってしまうような人間が霊の道具として役に立つでしょうか。最大の貢献をする道具は浄化の炎で鍛え上げなければなりません。それによって鋼鉄の強さが身につきます。一見ただの挫折のように思えても、実際はみな計画された試練なのです。人を導こうとする者が安逸の生活をむさぼり、試錬もなくストレスもなく嵐も困難も体験しないでいては、その後に待ちうける大事業に耐えうる性格も霊力も身につかないでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.206
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65-c [46-zm] (霊界でピアノを習いたい時はやはり練習が必要か)
もちろんです。何もしないで身につくものはありません。霊界には各自の才能に応じて指導してくださる立派な先生が大勢います。地上において経済的理由や社会的環境のために発揮できなかった才能をもつ新参者は、霊界へ来てから驚くほど素晴らしい機会を与えられることがよくあります。霊界では、何ものにも束縛されることなくそれを最高度に発揮することができます。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 90-91
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65-d(完全は完全から生まれるのではなく不完全から生まれる)
完全が存在する一方には不完全も存在します。しかしその不完全も完全の種子を宿しております。完全も不完全から生まれるのです。完全は完全から生まれるのではありません。不完全から生まれるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 108-109
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65-e[58-zr](大霊に維持されている大自然の営みが最高の教えである)
聖書もなかなか立派な本です。が、もっと立派な本があります。森羅万象がそれです。大霊の摂理によって維持されている大自然の営みです。地上のいかなる書物、それがいかに部厚いものであっても、いかに敬われているものであっても、いかに神聖視されているものであっても、その大自然が教えてくれるものに較べれば、物の数ではありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 132-133
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65-f[58-zs] (生命活動が営まれているあらゆる界層を通じて働く摂理)
そこで私たちは大自然の摂理、それだけを説くのです。それをスピリチュアリズムと呼ぼうと何と呼ぼうと、要するにそれが大霊の法則であり、目に見える見えないに関わりなく、生命活動が営まれているあらゆる界層を通じて働いていることを理解していらっしゃれば、それでいいのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 133
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65-g (難解な教えよりも地上を少しでも明るくするための実践)
私は時おり霊界からの高等な教え″とやらばかりを欲しがって自分は隣人・同胞のために何一つ役に立つことをしない人たちに嫌気がさすことがあります。教えに高等″も低級″もありません。成長するにつれて神の摂理の働きをより深く理解していくのです。難解な教えを騒ぎ求めている人たちが、そんなことをやめて地上を少しでも住み良い場所、明るい場所―空腹を抱えた人が飢えを満たし、のどを渇かした人が飲み水にありつき、貧しい人たちがその疲れた身体を横たえる家を得て神の恩恵に浴せるようにしてあげれば、それこそ最高の教え″を実践していることになるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 136
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65-h[14-d] (地上では教えを説く人物に関心を向けすぎてきた)
私という一個の霊、ただのメッセンジャーにすぎない者にあまり関心を寄せてくださるのは困ります。私の用事はただメッセージをお届けすることでしかないのです。地上の人間はこれまで余りにも永いこと教えそのものよりも教えを説く人物に関心を向けすぎております。そしてその人物を誇大に評価し、祭るべきでない地位に祭り上げ、肝心の教えそのものを忘れております。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 139
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65-i [70-h] (私の使命は地上に真理と知識と叡智を啓示すること)
私の使命は一個の男女を権威ある地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡智を啓示することです。私の申し上げることに真理の刻印が押してありさえすれば、私という人物が地上で大へん高い地位にあった者か卑しい身の上の者であったかはどうでもよいことではないでしょうか。名前・権威・書物、そんなものはもうどうでもよろしい。私が訴えるのは理性のみです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 139-140
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65-j [45-f] (見栄や肩書きははぎ取られて魂がまる裸にされる霊界)
私はすでに多くの方が直感的に、あるいは理性的・論理的に理解しておられる単純な真理を改めて説いているに過ぎません。その真理の仕入れ先は霊界です。しかもその上層界です。そこではすべての人が実在を目のあたりにします。原因と結果とが即座に働き、他への思いやりの多い人が少ない人より偉い人とされ、地上時代の見栄や肩書きはすべてはぎ取られ、魂がまる裸にされて、長所も短所も衆目にさらされてしまいます。そういう世界で学んだことをお届けしているのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.182
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65-k[18-zzd] (時には思い切り涙を流すことも大切である)
時には思い切り涙を流すことも大切です。感情を発散させることになり、すっきりとして気分が和らぎます。意地を張って感情を押し込めたままにしておくよりも、涙とともにその感情を流し出した方がよいことがあるものです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.184
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65-l[13-zx] (人のために役立ち自我の開発をするには)
私たち霊団の者は地上的環境というままならぬ条件のもとで精いっぱい努力しております。そこで、皆さん方に要求するのは協力″の二文字だけです。私たちが提供するのも協力≠ナす。命令的な指図はしたくありません。強制しようとは思いません。人のために役立ち自我の開発にも役立つことをするには人間はどうすればよいかをお教えすることによって、皆さんの愛と理性に発する協力を獲得したいのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.185
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65-m (物的現象の裏には霊的実在があるという真理を学ぶ)
私たちがこうして地上へ戻ってきた目的は、物的現象のウラには霊的実在があることを披露することによって、人間が幻影を追い求めることを止め、この千変万化の地上生活の複雑な諸相を律している基本的な真理を学んでくださるように導くことです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.186
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65-n[8-i](人間が人間であることの証は欠点をもっていること)
あなたは人間です。過ちを犯します。判断を誤り、しくじることがあります。人間性は頑強に出来あがっていない故に、人間は常に弱みを背負って生きています。人間が人間であることの証は、欠点をもっているということです。だからこそ今あなたは地上へ来ているのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.186
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65-o[13-zz] (人間の完全性は地上で成就できるものではない)
完全性など、とても地上で成就できるものではありません。ですが、いずれお出でになるこちらの世界のための霊的な準備となる教訓を学ぶことはできます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.186
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65-p[19-j] (人生は硬貨の両面のように両極性から成っている)
人生は両極性から成っています。作用と反作用、同等と正反対といった具合ですが、それは同じ硬貨の両面です。ですから憎しみが愛に変わることがあると同時に、不幸にして愛が憎しみに変わることもあるわけです。両者は同じ力なのです。問題はその力をどう働かせるかです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.187
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65-q[55-n] (物的繁栄の中にあっては無視される霊的真理)
生長・変化・進化・進歩・開発・発展----これが宇宙の大原理です。一口に進化と言っても、そこには必ず潮の干満にも似た動きがあることを知ってください。循環運動、周期運動、螺旋運動−こうした運動の中で進化が営まれており、表面は単調のようで内面は実に複雑です。その波間に生きるあなたも、寄せては返す波に乗って進歩と退歩を繰り返します。物的繁栄の中にあっては霊的真理を無視し、苦難の中にあっては霊的真理を渇望するものです。それは人生全体を織りなすタテ糸でありヨコ糸であるわけです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.204
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65-r[61-zq] (十分な体験を経てはじめて真理が受け入れられる)
叡智というものは体験から生まれます。十分な体験を経て魂がそれを要求するようになった時にはじめて真理が受け入れられます。それから今度は、その知識をどうするかの段階となります。その知識を他人のために活用する義務の問題です。そうした過程は実に遅々としたものですが、人類の進化はそういう過程を経るしかないのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 220
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65-s[19-l] (宗教家の悟りも霊界から見れば実在のかすかな影を見ただけ)
宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかな影を見たにすぎません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 221
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65-t (人生体験も大きな生命機構の中の一環である)
人生体験も大きな生命機構の中の一環なのです。およそ有り難いとは思えない体験――悲しみ、辛い思い、嘆き、失望、苦しみ、痛み――こうしたものは魂にとっては貴重なのです。
しかし、それを体験している最中にはそうは思えません。こちらに来て地上生活を振り返り、部分的にではなく全体として眺めた時にはじめて、人生の価値が鮮明に理解できるのです。逆境の中にあってこそ性格が鍛えられるのです。悲哀を体験してこそ魂が強化されるのです。
わたしたちは人生を物質の目ではなく霊的生命の知識に照らして眺めます。その次元では完全な公正が行なわれるようになっているからです。ですから、賢明な人とは、すべての体験を魂の成長にとって有益となるように受け止める人、試練にしりごみせず、誘惑に負けることなく、困難に正面から立ち向かう人です。そういう心構えの中においてこそ人格が成長し強化されるからです。何でもない簡単な真理なのです。あまりに単純すぎるために地上の知識人″から小バカにされてしまうのです。
トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
コスモ・テン・パブリケーション、1989、pp.111-112
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65-u (人間関係のトラブルをどのように受け止めるか)
人間の集まるところには必ずトラブルが生じます。一人一人が霊的に異った発達段階にありますから、同じ問題を必ずしも同じようには見ていません。それは致し方のないことです。幸いにして自分の方が進化の階梯の高い位置にいる人は、自分より低い位置にいる人に対して同情と、寛容と、理解のある態度で臨むべきです。いかに高い位置に到達したとしても、それよりさらに高い位置にいる人がいることを忘れてはいけません。
トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』(近藤千雄訳)
ハート出版、2003、pp.152-153
66. 睡眠と夢
66-a (夢のなかで起きていること)
実は今でもあなたがたは毎夜のように霊の世界を訪れているのです。ただ思い出せないだけです。それは、死んでこちらへ来た時のための準備なのです。その準備なしにいきなり来るとショックを受けるからです。来てみると、一度来たことがあるのを思い出します。肉体の束縛から解放されると、睡眠中に垣間見ていたものを全意識をもって見ることが出来ます。その時すべての記憶がよみがえります。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.135
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66-b (睡眠中の霊界での体験)
睡眠中、あなたは肉体から抜け出ていますから、当然脳から離れています。脳はあなたを物質界にしばりつけるクサリのようなものです。そのクサリから解放されたあなたは、霊格の発達程度に応じたそれぞれの振動の世界で体験を得ます。その時点ではちゃんと意識して行動しているのですが、朝肉体に戻ってくると、もうその体験は思い出せません。なぜかというと脳があまりに狭いからです。小は大をかねることが出来ません。ムリをすると歪みを生じます。それは譬えば小さな袋の中にムリやりに物を詰め込むようなものです。袋にはおのずから容量というものがあります。ムリして詰め込むと、入るには入っても、形が歪んでしまいます。それと同じことが脳の中で生じるのです。ただし、霊格がある段階以上に発達してくると話は別です。霊界の体験を思い出すよう脳を訓練することが可能になります。実を言うと私はここにおられる皆さんとは、よく睡眠中にお会いしているのです。私は
“地上に戻ったら、かくかくしかじかのことを思い出すんですヨ” と言っておくのですが、どうも思い出してくださらないようです。皆さんお一人お一人にお会いしているのですヨ。そして、あちらこちら霊界を案内してさしあげているんですヨ。しかし思い出されなくてもいいのです。決して無駄にはなりませんから。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.136-137
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66-c (睡眠中に霊界を訪れる理由)
仕事をしに来る人も中にはおります。それだけの魅力をもった人がいるわけです。しかし大ていは死後の準備のためです。物質界で体験を積んだあと霊界でやらなければならない仕事の準備のために、睡眠中にあちこちへ連れて行かれます。そういう準備なしに、いきなりこちらへ来るとショックが大きくて、回復に長い時間がかかります。地上時代に霊的知識をあらかじめ知っておくと、こちらへ来てからトクをすると言うのはその辺に理由があるわけです。ずいぶん長い期間眠ったままの人が大勢います。あらかじめ知識があればすぐに自覚が得られます。ちょうどドアを開けて日光の照る屋外へ出るようなものです。光のまぶしさにまず慣れなければなりません。闇の中にいて光を見ていない人は慣れるのにずいぶん時間がかかります。それは赤ん坊と同じです。はいはいしながら進むような状態です。地上の体験を思い出すことはあっても、大半は夢見るような状態で思い出します。しかし地上での体験も霊界での体験も、一つとして失われることもありません。そのことを忘れないでください。あらゆる思念、あらゆる行為、あなた方の心から発した善意の願いは、必ずどこかの誰かの役に立ちます。その願いのあるとところには必ずそれを支援する霊が引き寄せられるからです。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.138-139
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66-d (私たちは眠っている間どんなことをしているのか)
みなさんは毎晩その肉体をあとにして別の世界へ行きます。訪れた世界での体験は二種類に分けることができます。一つは教育を目的としたもので、もう一つは純粋に娯楽を目的としたものです。教育的体験では、いずれ訪れる霊界生活で使用する霊的身体について教わります。娯楽を目的とした体験の場合は、たとえば霊界で催されているいろいろな会場を訪れます。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.152
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66-e (わけのわからないような夢をどう理解すればよいか)
変てこな夢のことですか? あれは、(異次元の)体験を脳で思い出そうとするからそうなるのです。脳は小さな袋のようなものです。霊体が肉体に戻ってきて、その間の体験を脳に詰め込もうとするのですが、小さな袋には全部が入り切れないのです。それをムリして押し込もうとするためにあのような変てこな形になるのです。夢というのは別世界での体験がそのまま現れるのではなく、その断片的な思い出にすぎません。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.153-154
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66-f (睡眠中は一人の例外もなく幽体で旅行している)
― 人間が幽体で旅行する話を聞くことがありますが、私にも同じ体験があるみたいです。どういう現象なのでしょうか。
いたって簡単なことです。幽体が肉体から脱け出て、時には私たちの世界へ、時には地上の遠隔の地まで旅行するのです。実は睡眠中は一人の例外もなく幽体で旅行しております。一時的に肉体を離れて私たちの世界を訪れ、縁のある人たちと会っているのです。これは死後の環境の変化がショックにならないように、あらかじめ準備させるための神の配慮なのです。
死の現象(二つの身体をつないでいるコードの切断)をへてこちらの住民となれば(意識の中枢が幽体へ移って)地上時代の睡眠中の体験を思い出し、それから始まる素晴らしい霊界生活への準備が整います。皆さんは毎晩死んでいると言ってもよいのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 96-97
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66-g (夢の中での親しい人との出会いは本当に会っているのか)
― 誰しも夢を見ます。その夢の中で親しい人と会ったことを思い出すことがありますが、本当に会っているのでしょうか、それともただの想像にすぎないのでしょうか。あるいは会いたいという願望がそういう夢となって現れるのでしょうか。
いえ、実際にその人と会っておられるのです。といって想像力を見くびってはいけません。厄介な面もありますが、豊かな創造性も秘めております。純粋にして最高の形態で発揮された時の想像力は驚異的な働きをします。未開発の能力を花開かせていく創造的な力となります。
夢のすべてが霊的体験というわけではありません。潜在意識に蓄積した観念の反映にすぎないこともありますし、夜おそく食べた物の反応にすぎないこともあります。
― その違いは分かるものなのでしょうか。
分かります。食べた物や潜在意識のせいである場合は霊的な効用がありません。実際に霊界の愛する人に会った場合は精神的ならびに霊的な温もり、充足感を覚えます。その違いは明確に分かります。
もっとも、その違いを見分けるには能力の発達が要請されます。物質的な印象にすぎない場合は肩にずっしりと重たさを感じますが、霊的な体験の場合には蝶に口づけをされたみたいな気分がいたします。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 97-99
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66-h (実際にはすべての人間が睡眠中に霊界を訪れている)
実際には人間のすべてが睡眠中にこちらの世界へ来ております。それは神の配慮の一つで、いよいよこちらへ来た時に環境の違いによってショックを受けないように、未来の環境に慣れさせておくのです。ちょうど子供時代を過した土地へ来るとその頃の思い出が甦ってくるように、睡眠中に訪れていた環境の記憶が甦ってきます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.38
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66-i (睡眠中は霊的身体の操作へ切り替わりあなたは霊の世界に居る)
睡眠というのは物的身体の操作から霊的身体の操作へとスイッチが切り替わることであり、その意味で、その間は霊の世界にいるわけです。その睡眠中の身体に別の霊が入ってくる心配はありません。あなたがドアを開けっ放しにして出て行ったあと、誰かがノコノコと入ってきてドアを閉めてしまうというような図を想像してはいけません。そういうものではありません。物的身体は相変わらずあなたの管理下にあります。ただ意識の焦点が別の次元に移っているというだけであって、やがて朝になれば意識が戻ります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.39
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66-j (睡眠とは違って昏睡の場合は霊と身体との関係が正常ではない)
衝撃などで昏睡状態に陥った場合は、霊と身体との正常な関係が破られているわけです。睡眠の場合は朝になれば霊がそういうものと自覚してバイブレーションを落として身体に戻る用意をします。それが正常な関係ですが、昏睡状態の場合は無理やりに身体機能から離され、しかもその機能が破壊されているために、戻ろうにも戻れないのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.39
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66-k (睡眠中に暗黒の世界を訪れる人がいることは事実である)
睡眠中に暗黒の世界を訪れる人がいることは事実です。それは魂の本性がそこの波長に合っていて自然に引きつけられる場合と、一種の犠牲的奉仕精神から自発的にそういう環境に身を置く場合とがあります。地上に籍を置く人間の霊的身体を利用することによって暗黒界の霊を救う方法があるのです。聖書にはイエスがいわゆる地獄界へ降りて行く話があります。睡眠中の話ではありませんが、原理は同じです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.52
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66-l (睡眠中に霊はその身体から脱け出して活動している)
睡眠中の皆さんは、ただの生理的反応から霊的な活動にいたるまで、さまざまな体験をしておられます。あまりにも多種多様であるために、その中から特定して、これは生理的なもの、これは霊的なもの、といったはっきりした判断ができないだけのことです。
睡眠の目的そのものは単純です。身体は一種の機械です。実にすばらしい機械で、地上のいかなる技術者にもこれほど見事な機械は作れませんが、機械である以上は休ませることが必要です。そうしないと機能を維持することができません。
大切なのはその身体の休息中に、霊がその身体から脱け出て活動しているということです。
まさに、人間は毎晩死んでいるといってもいいのです。わずかに銀色の紐(シルバーコード、魂の緒)によってつながってはいても、霊は完全に身体から脱け出ています。そのコードは実に柔軟な性質をしていて、霊はその束縛なしに完全に肉体から解放されています。
その間におもむく先は、それぞれの霊的成長と進化の程度に似合った環境です。が、それがどこであれ、そこでの体験は地上世界の時間と五感の範囲からはみ出たものばかりですから、脳という物的器官では認識できないのです。
シルバーコードが完全に切れて霊界の住民になってしまえば、そうした睡眠中の体験のすべてを思い出すことができるようになりますが、今は断片的にしか思い出せません。霊界ではそれが通常となるわけです。
トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の絆』(近藤千雄訳)
コスモ・テン・パブリケーション、1990、pp.16-17
67. 音楽・絵画
67-a (霊界には最高の作曲家や演奏家が無数にいる)
(神の計画の中で音楽は一種名状しがたい役割を演じているようである。ある日の交霊会でシルバーバーチは英国の音楽界で指導的地位にある音楽家に次のように語りかけた)
あなたが音楽を通じて世の中のために貢献していらっしゃるその実態は、あなたご自身にはまず理解できないことです。音楽、なかんずくインスピレーション的な曲は、あなた自身はごく自然な形で作曲しているつもりでも、魂を癒やし慰め刺激し鼓舞する特質を具えているものです。それはそれなりに魂の琴線に触れて、五感を通じて得られるものよりはるかに偉大な生命の荘厳さがあることを認識させます。
これから先どこで演奏なさる時も、あなたは偉大な目的のための道具であること、あなたに感謝の気持ちを伝えられない大勢の人々に心の調和と同情と激励と幸福と健康をもたらす一助となっていることを思い出してください。
こちらの世界へお出でになれば、大へんな楽しみがあなたを待っております。と申しますのは、霊界には今のあなたには理解できない性質と卓越性をもった音楽が存在するからです。地上でまだ一度もお聞きになったことのないオクターブがあります。シンフォニーもあります。コンチェルトもあります。オーケストラもあります。最高の作曲家や演奏家が無数にいます。地上にはほんのわずかしかおりません。
地上で大作曲家と言われている人のすべてがこちらへ来ているわけですが、その巨匠がその後さらに向上進化しているのです。鑑賞力をもった人なら立派な音楽をいくらでも聴くことができます。ミュージックホールは霊界が誇る財産といってもよいほどです。地上のいかなる楽器でも表現できないオクターブの音をあなたも聴くことになるのです。
それから、もちろん地上を豊かにする音楽はみな霊界を始源としております。人間がこしらえているのではありません。演奏家も作曲家もみな一種の霊媒なのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 104-105
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67-b (霊界では芸術家は地上時代の夢をすべて実現させることが出来る)
この世界に来て芸術家は地上で求めていた夢をことごとく実現させることが出来ます。画家も詩人も思い通りのことが出来ます。天才を存分に発揮することが出来ます。地上の抑圧からきれいに解放され、天賦の才能が他人のために使用されるようになるのです。地上の言語のようなぎこちない手段を用いなくても、心に思うことがすなわち霊の言語であり、それが電光石火の速さで表現されるのです。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.133
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67-c (音楽の俗悪化は地上の狂暴化の傾向と結びついている)
(別の招待客が耳障りな現代音楽の話を持ち出して、インスピレーションが形態を変えた結果なのかと尋ねた。それに対して―)
インスピレーションが変わることはありません。インスピレーションは片時も休むことなく送られております。ただ、それを受け取る用意のできた者だけが受け取っているにすぎません。波長がそれに合わなければ受け取れないということです。インスピレーションは休みなく送られております。霊力と同じく、地上へ顕現する通路を求めております。
要するに波長の一致の問題です。地上には音楽、絵画、その他あらゆる芸術分野に先駆者がいます。その人たちは時代に先んじすぎているために、在世中は一般から理解してもらえないことがあります。が、時代が進むにつれて理解力の水準が上がり、その先駆者たちに正しい評価がなされるようになります。
しかし、そのことは地上でよく生じる音楽の俗悪化には当てはまりません。これはむしろ今日の地上を蝕んでいる狂暴化の傾向と結びついた問題です。
― 現代という世代が音楽に影響しているのではないかと思っておりました。
物質を霊から切り離すことはできません。物質的なものが霊的なものへ、霊的なものが物質的なものへと、互いに反応し合い影響し合っているからです。あなたの身体は霊に影響を及ぼし、あなたの霊は身体に影響を及ぼしております。両者は隔絶したものではありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 107-109
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67-d (現代の俗悪な音楽は他人の幸せに対する無関心の表れ)
―(スイスの精神医学者の)ユングは内部にあるものは必ず外部に出るものであると述べています。現代の気違いじみた音楽にはその例証といえる要素があるのでしょうか。内部にあるよりも外部へ発散してしまった方がよいのでしょうか。それが狂暴性を発散させることになるのでしょうか。
いえ、残念ながらそれは、ごく当たり前の反応にすぎません。物的なもの、一種の利己性、つまり他人の幸せに対する完全な無関心の表れです。貪欲が巾を利かしているのです。自分たちの地上世界をみずから蝕んでいる狂暴性の原因はそこにあるのです。それが素行の面のみなならず音楽や芸術、その他ありとあらゆる生活面に表れているのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 107-109
68. 奉仕(人のために尽くすこと)
68-a (奉仕とはなにか)
宇宙に存在を与えたのは神の愛です。宇宙が存在し続けるのも神の愛があればこそです。全字宙を経綸し全存在を支配しているのも神の愛です。その愛の波長に触れた者が自分の愛する者だけでなく血縁によって結ばれていない赤の他人へも手を差しのべんとする同胞愛に燃えます。愛は自分より不幸な者へ向けて自然に手を差しのべさせるものです。全生命の極致であり、全生命の基本であり、全生命の根源であるところの愛は、よりいっそうの表現を求めて人間の一人ひとりを通して地上に流れ込みます。そして、いつの日か、全宇宙が神の愛によって温かく包まれることになるでしょう。
好感を覚える人を愛するのはやさしいことです。そこには徳性も神聖さもありません。
好感のもてない人を愛するーーこれが魂の霊格の高さを示します。あなたに憎しみを抱いている人のもとに赴くこと、あなたの気に食わぬ人のために手を差しのべること、これは容易なことではありません。確かに難しいことです。しかし、あなた方は常に理想を目標としなければいけません。他人に出来ないことをする、これが奉仕の奉仕たる所以だからです。可哀そうにと思える人に優しくする、これは別に難しいことではありません。気心の合った人に同情する、これも難しいことではありません。が、敵を愛する、これは実に難しいことです。
最高の徳は愛他的です。愛すべきだから愛する、愛こそ神の摂理を成就することであることを知るが故に愛ける、これです。愛らしい顔をした子供を治療してあげる、これはやさしいことです。しかし、奇妙の顔をした気の毒な人、ぞっとするような容貌の人を治療するのは並大抵の心掛けではできません。が、それが奉仕です。真の愛は大小優劣の判断を求めません。愛するということ以外に表現の方法がないから愛するまでです。宇宙の大霊は無限なる愛であり、由己のために何も求めません。向上進化の梯子を登って行けば、己れのために何も求めず、何も要求せず、何も欲しがらぬ高級霊の世界に辿り着きます。ただ施すのみの世界です。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988, pp.142-143
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68-b (善のための努力は必ず報われる)
善のための努力が徒労に終ることは決してありません。人のためになろうとする試みが無駄に終ることはありません。善行に嫌気がさすようなことがあってはなりません。成果が表われないことに失望してはなりません。人のために役立とうとする志向は自動的にこちらの世界からの援助を呼び寄せます。決して一人であがいているのではありません。いかなる状況のもとであろうと、まわりには光り輝く大勢の霊が援助の態勢で取り囲んでおります。裏切ることのないその霊の力に満腔の信頼を置き、それを頼りとすることです。物質の世界にはこれだけは安全というものは何一つありません。真の安全は人間の目に映じぬ世界ーー地上のいかなる器具をもってしても測ることのできない永遠の実在の世界にしかありません。
人間にとっての真の安全は霊の力であり、神が宇宙に顕現していく手段であるところの荘厳なるエネルギーです。他の全ての存在が形を変え、あるものは灰に帰し、またあるものは塵と砕けても、霊的存在のみは不変・不易であり、不動の基盤として存在し続けます。全てを物的感覚によって推し量る世界に生きているあなた方にとって、その霊的実在の本質を理解することが極めて困難であることは私もよく承知しております。捉えようとしてもなかなか捉えられないものです。ですが、私のこうした説教によって、たとえ不十分ながらも、霊こそが、永遠の実在でありそれ以外は重要でないことをお伝えすることができ、流砂のような移り変りの激しい物的存在ではなく、不変の霊的真理を心の支えとして生きようとする志を抱いて下さることになれば、及ばずながら私なりの使命を達成しつつあることになりましょう。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.102-103
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68-c (人のために役に立つ喜び)
人生において、自分が役に立つということほど大きな喜びはありません。どこを見ても闇ばかりで、数え切れないほどの人々が道を見失い、悩み、苦しみ、悲しみに打ちひしがれ、朝、目を覚ます度に今日はどうなるのだろうかという不安と恐怖におののきながら生きている世の中にあって、たった一人でも心の平静を見出し、自分が決して一人ぽっちの見捨てられた存在ではなく、無限の愛の手に囲まれているという霊的事実に目覚めさせることができたら、これはもう立派な仕事というべきです。他のいかなる仕事にも優る大切な仕事を成し遂げたことになります。
地上生活のそもそもの目的は、居眠りをしている魂がその存在の実相に目覚めることです。あなた方の世界は毎日を夢の中で過ごしているいわば生ける夢遊病者で一杯です。彼らは本当に目覚めてはいないのです。霊的実相については死んだ人間も同然です。そういう人たちの中のたった一人でもよろしい、その魂の琴線に触れ、小さく燻る残り火に息を吹きかけて炎と燃え上がらせることができたら、それに勝る行為はありません。どう理屈をこねてみたところで結局は神の創造物ーー人間、動物、その他何でもよろしいーーの為になることをすることによって神に奉仕することが何にも勝る光栄であり、これに勝る宗教はありません。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.106-107
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68-d (霊界から差し伸べられる援助の手)
悟りの道に近道はありません。代りの手段もありません。安易な道を見つけるための祈りも儀式も教義も聖典もありません。いくら神聖視されているものであっても、そんな出来合いの手段では駄目なのです。師であろうと弟子であろうと新米であろうと、それも関係ありません。悟りは悪戦苦闘の中で得られるものです。それ以外に魂が目覚める手段はないのです。私がこんなことを説くのは説教者ズラをしたいからではありません。これまでに自分が学んだことを少しでもお教えしたいと望むからにほかなりません。
さらに私は、一見矛盾するかに思えるかもしれませんが、人のために役立ちたいと望む人々、自分より恵まれない人々ーー病める人、肉身を失える人、絶望の淵にいる人、人生の重荷に耐えかねている人、疲れ果て、さ迷い、生きる目的を見失える人、等々に手を差しのべたいという願望に燃える人ーー要するになんらかの形で人類の福祉に貢献したいと思っている人が挫折しかけた時は、必ずやその背後に霊界からの援助の手が差しのべられるということも知っております。
時には万策尽き、これにて万事休すと諦めかけた、その最後の一瞬に救いの手が差しのべられることがあります。霊的知識を授かった者は、いかなる苦境にあっても、その全生命活動の根源である霊的実相についての知識が生み出す内なる冷静、不動の静寂、千万人といえども我れ行かんの気概を失うようなことがあってはなりません。
その奇特な意気に感じて訪れてくるのは血のつながった親類縁者ーーその人の死があなた方に死後の存続に目を開かせた霊たちーーばかりではありません。あなた方が地上という物質界へ再生してくるに際して神からその守護の役を命ぜられ、誕生の瞬間よりこの方ずっと見守り指導してきた霊もおります。そのおかげでどれはどの成果が得られたか、それはあなた方自身には測り知ることはできません。しかし分からないながらも、その体験は確実にあなた方自身の魂と同時に、あなた方を救ってあげた人々の魂にも消えることのない影響を及ぼしております。そのことを大いに誇りに思うがよろしい。他人への貢献の機会を与えて下さったことに関し、神に感謝すべきです。人間としてこれほど実り多い仕事ほ他にありません。
愚にもつかぬ嫉妬心や他愛ない意地悪から出る言葉を気にしてはなりません。そのようなものはあなた方の方から心のスキを与えないかぎり絶対に入り込めないように守られております。霊のカは避難所であり、霊の愛は聖域であり、霊の叡智は安息所です。イザという時はそれを求めるがよろしい。人間の心には裏切られることがありますが、霊は決して裏切りません。たとえ目にほ見えなくても常に導きを怠ることなく、愛の手があなた方のまわりにあることを忘れないで下さい。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.112-114
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68-e (人のために尽くすこと)
私たちが説く全教説の基調は "人のために己れを役立てる" という言葉に尽きます。あなた方の世界のガンとも言うべき利己主義に対して私たちは永遠の宣戦を布告します。戦争を生み、流血を呼び、混乱を招き、破壊へ陥れる、かの物質万能主義を一掃しようと心を砕いております。
私たちの説く福音は互助と協調と寛容と同情の精神です。お互いがお互いのために良くし合う。持てる者が持たざる者、足らざる者に分け与える。真理を悟った者が暗闇にいる者を啓発するために真理という名の財産を譲る。そうあってほしいのです。
地上にはその精神が欠けております。人間の一人一人が持ちつ持たれつの関係にあること、全ての人間に同じ神性が流れていること、故に神の目には全てが平等であること、霊的本性において完全に平等であるとの観念を広める必要があります。性格において、生長において、進化において、そして悟りにおいて、一歩先んじている者が後れている者に分け与えるという行為の中に偉大さがあるのです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.24
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68-f. (一人でも多く神の愛に目覚めるように)
ー 交霊会のメンバーへの年末の挨拶から ー
大きな困難の時に当って私に示された敬愛の念に対して深く感謝いたします。あなた方の不断の忠誠心が常に私に誇りをもたせ、それに応えるべく私に為しうるかぎりのことをさせていただいたつもりです。
これまでの協調の仕事ぶりは実に見事でありました。お互いがお互いに対して抱いている信頼感を損なうようなことは誰れ一人として行わなかったことが、その何よりの証です。私は、私に向けてくださる敬愛の念をいつも嬉しく思っております。それが仕事をやり易くしてくれました。自分の携わっている仕事によって心の支えを得られた人たちが情愛を向けてくださっているのだと思えば自然とそうなるのです。
どうか私たちが誇りに思っている霊的知識は、それを知らずにいる人々にも分け与えてあげなければならないものであることを忘れないように致しましょう。私たちが手を伸ばすべき分野がまだまだあること、人生に疲れ果て、生きる希望も頼りとすべきものもなく、慰めと光を求めている人が無数にいることを忘れないように致しましょう。
そういう人々のうちの幾人かは私たちが心の支えとなってあげ、日々の生活の中に確信をーー人生を生き申斐あるものにする確信をもたらしてあげることができます。
人生を嘆き、慰めとなるものを未だに見出し得ず、心は悲しみに溢れ、目に涙を溜めている無数の人々のことを忘れないように致しましょう。
病を得ている人がいること、その多くは霊の力によって治してあげることができることを忘れず、神の子が一人でも多く父なる神の愛と叡智に目覚めるように、こうした霊的知識の普及に努力いたしましょう。
では、またお会いする日まで。私はいつも愛の心を携えて訪れ、愛の心を携えて帰ってまいります。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp.115-116
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68-g (悲しみに暮れている人に何をなすべきか)
私たちの仕事は、その大きな世界、霊の宝庫へ目を向けさせ、暗闇と無知の中で道を見失っている数知れない人々に、霊的真理を知ることによって得られる導きと慰めと確信をもたらしてあげることです。それとても実は私の望んでいるところの一部にすぎません。肉親を失った人を慰めてあげること、悲しみに暮れる人の涙を拭ってあげること、こうしたことは実に大切なことです。確かにこれも私たちの使命の一部ではあります。しかしもっと大切なことは、そうした体験を通じて自分とは何か、本当の自分とは何なのか、何のためにこの地球という惑星に生を享けたのか、より一層の向上のためには何を為すべきかーーこうしたことについての正しい認識を得させてあげることです。それが一ばん大切なことです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.173
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68-h (いかなる悩みにも対処できる霊的真理)
今や大勢の人が、これが本当に人類にとっての鎮痛剤なのかと、期待の目をもってわれわれの方へ関心を向けつつあります。この真理、そしてこれに伴って得られる霊的な力は、たとえその数が何千何万となろうと援助し、導き、慰めてあげることができます。霊力の貯蔵庫は無限です。いかなる問題、いかなる必要性、いかなる悩み、いかなる心配事にも対処できます。
世界は今まさに全面的な再構築を迫られています。全ての価値観が再検討を迫られております。その大渦巻の中にあって
"これこそ基盤とすべき原理である" と自信をもって断言できる人はきわめて稀れです。
再構築にはそれに先だっての破壊が必要です。基盤は何度も言ってきたとおりすでに敷かれております。計画はできあがっているのです。今ゆっくりと、そして苦痛を伴いながらそれが姿を現わし、やがて、人間の運命がいかにして改善され神から授かった能力がいかにしてその発達のチャンスを与えられていくかが、徐々に明確になることでしょう。そこには不安や失望のタネは何一つありません。為すべき仕事があります。手を取り合えばきっと成就し、他の人も参加させてあげることができます。
私たちに与えられた光栄あるその奉仕の仕事のチャンスを楽しみに待ちましょう。そしてあなた方自身に精神的改革をもたらした同じ知識を同胞に授けてあげることができることの特権に感謝し、それがその人たちにも革命をもたらし、自分が愛と叡智にあふれた神の一部であること、その神は人間が人生から美とよろこびと輝きとを引き出すことをひたすらに望んでおられることを悟ってくれるよう祈ろうではありませんか。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.p.174-175
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68-i (数多くの人々の魂に目を開かせてきて)
=交霊会のメンバーに対することば=
私はあなた方を愛し、かつ誇りに思います。地上に戻ってくる指導霊がみな私と同じような愛を一身に受けることができれば、どんなにか満足に思うことでしょう。これほどの愛と、そしてそれ以上に尊敬の念を受けている私は本当に光栄に思い、しあわせ者であると思っております。
さて、まず正直に申しておかねばならないことは、この仕事を引き受けた頭初は、私の力量ではとても無理なように思えたことです。しかし私は、人生において何よりも大切なものとして私が尊ぶところの霊的真理は、表現方法さえ工夫すれば、数知れぬ人々にとってそれまで理解し損ねていた人生に確信と方向づけと目的とを見出すよすがとすることが出来るはずだと考えたのです。初めの頃は気の遠くなるほど困難に思え、思わず足を止めて躊躇したことが何度も何度もありました。そんな時にかならず私の耳に鳴りひびいたのが、私がこの仕事をお引き受けした時に受けた(すでにお話したとおりの)言葉でした。(訳者注−背後には幾重にもわたって霊団が控えていて、精一杯のことをやっておれば上級界から援助の手を差し向けるから案ずるな、という確約の言葉のこと) こうして勇気づけられながら私は、無数の人々の魂を鼓舞しようとする大目的のために私の手となり足となってくれる人----同胞のために身を粉にして活躍してくれる人々を深し求めてきました。数々の困難を乗り切って今日まで邁進することができました。そして皆さんもご承知の通り、数多くの人の心に感動を与え、数多くの魂に目を開かせ、数多くの人の精神を開放し、暗闇に理解カという名の光を照らすことができました。光明が射し込み、今や、かつては漆黒の闇だったところに真理という名のダイヤモンドの光が輝きはじめ、少しずつ広がりつつあります。まだまだ説かねばならないことが残っています。私は時おり思うのですが、もし立場が皆さんと逆であったら、私はもっともっとしつこく知りたがるかも知れません。それを思うと、皆さんの忍耐と私への忠誠心に対して(皮肉な意味でなしに)感心せずにはいられません。私の説く真理の素朴さと私という目に見えない存在の本性を(姓名も名のらずに)明かそうとするお粗末な弁明だけで、皆さんからこれほどの信頼と確信を得ていることだけで、私は十分に満足に思っております。
しかし、このことだけは認識し、そして安心なさってください。私がその代理人をつとめている高級霊の力----みずからその通路となることで甘んじている霊力は、宇宙の生命力そのものだということです。私の背後には数え切れないほどの進化の階梯があり、そこには私よりはるかに向上進化した霊団が幾重にも控えております。その意味では私にはおよそ霊格の高さも魂の成長度も誇れる立場にはありませんが、真理に飢えた魂にあふれた世界が待ち望んでいるメッセージを十分とは言えないまでも、お届けする道具として役立ったことだけは断言できます。あなたがたも、よくぞ私を信頼してくださいました。その信頼はけっして無駄には終らせません。より一層の理解をもたらす道へ私がかならずご案内いたします・・・・・・
『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.p.133-135
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68-j (霊的知識をもつ者の責任)
地上の同胞の心身の糧となる霊的事実の中継役をする人たちには大変な責任が担わされています。その態度いかんが地上生活において、あるいは霊の世界へ来てから、その責任を問われることになります。
霊界からの情報をしきりに求めながら、それを同胞のために活用することをまるでしようとしない人に、私は時おりうんざりさせられることがあります。そういう人は霊の述べたことなら何でも
"高等な訓え″として有り難がるのですが、各自が霊性の成長とともに神の摂理の働きをより多く理解していくのですから、訓えそのものに高級も低級もありません。
もし彼らが自分の得た知識を活用して地上をより良い生活の場、つまり食に飢える人も喉を渇かしている人もなく、神の陽光がふんだんに降り注ぐ家に住むことができるような世の中にするために何かを為せば、それこそ最高の訓えを実践していることになりましょう。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.p.32-33
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68-k (捨てることによって得をしている奉仕)
私たちの訓えの根本はServiceの一語に尽きます。地上の悪弊の一つである利己主義に対して、私たちは永遠の宣戦を布告しております。戦争、流血、混乱、破壊へと導くところの物質万能主義を打ち砕かんと努力しております。
私たちの説く福音は相互扶助、協調、寛容、思いやりの福音です。お互いがお互いのために自分を役立てるようになっていただきたい。そうすることによって持てる者が持たざる者に幾らかでも譲り、豊かな才能に恵まれた者がそれを活用して暗闇の中にいる者を啓発してあげることになるからです。
地上世界は今、もっともっと Serviceを必要としております。人間の一人ひとりが同じ全体の一部であり、人類のすべてに神の霊が流れている---その意味において万人が神のもとにおいて平等である---その本姓に関するかぎり平等である、という認識を広める必要があります。性格において、霊格において、進化において、そして悟りにおいて一歩先んじている者が、その持てるものを持たざる者に分け与えんと努力するところに偉大なる行為が生まれます。
霊の世界の働きかけに応じて働く人々、持てる才能を霊団に委ねる人々は、自分を捨てることによっていつも自分が得をしていることに気づくはずです。何となれば、その行為そのものが一つの摂理に適っているからです。収賄行為ではありません。ご利益目当ての行為でもありません。因果律の作用にほかなりません。すなわち、最も多く施す者が最も多く授かるということです。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.225-226
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68-l (一切の代償を求めずに霊的知識を伝える)
より開けたこちらの世界で知り得た価値ある知識をこうしてお授けするのは、代ってこんどはあなた方が、それを知らずにいる人々へ伝えていただきたいと思うからです。宇宙はそういう仕組みになっているのです。実に簡単なことなのです。私たちは自分自身のことは何も求めません。お礼の言葉もお世辞もいりません。崇めてくださっても困ります。私たちはただの使節団、神の代理人にすぎません。自分ではその使命にふさわしいとは思えないのですが、その依頼を受けた以上お引受けし、力のかぎりその遂行に努力しているところなのです。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.207
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68-m (絶望の淵にあえぐ人が多すぎる地上世界)
ここにおいでの皆さんは人類全体の役に立つ才能、能力をおもちの方ばかりです。これまで、その能力ゆえに、さらに豊かな才能をもつこちらの世界の者から援助を受けてこられました。ぜひその能力を実らせて、代わって皆さんが他の多くの人々によろこびを与え、さらにその人たちが自分にも世の中の役に立つ資質があることに気づいてくれるようになる---こうしてお互いがお互いのためにという輪がどんどん広がっていきます。
世間の中傷を気にしてはいけません。反発に動揺してはなりません。嫌悪の態度を見せられても気になさらないことです。あなた方がこの地上に生をうけたそもそもの使命に向かってひたすら努力しているかぎり、そんなものによって困った事態になることはありません。
地上世界にはまだまだ奉仕の精神が足りません。絶望の淵にあえぐ人が多すぎます。心は傷つき、身体は病に冒され、解決できない問題に苦悶する人が無数にいます。
そういう人たちを真理の光の届くところまで連れてきてあげれば、悩みへの解答を見出し、乱れた生活を規律あるものにしようとする心が芽生え、すべての人間が平和と調和の中で生きていける環境づくりに意欲を燃やすことになりましょう。
『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.18
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68-n (この世に存在価値のない者は一人もいない)
われわれは大いなる神の計画の中に組みこまれていること、一人ひとりが何らかの存在価値をもち、小さすぎて用の無い者というのは一人もいないこと、忘れ去られたりすることは決してないことを忘れないようにしましょう。そういうことは断じてありません。宇宙の大霊の大事業に誰しも何らかの貢献ができるのです。霊的知識の普及において、苦しみ悲しみの荷を軽くしてあげることにおいて、病を癒してあげることにおいて、同情の手を差しのべることにおいて、寛容心と包容力において、われわれのすべてが何らかの役に立つことができるのです。
かくして各自がそれぞれの道において温かき愛と悠然たる自信と確固たる信念をもって生き、道を失った人々があなた方を見て、光明への道はきっとあるのだと、感じ取ってくれるような、そういった生き方をなさってください。それも人のために役立つということです。
『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.34-35
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68-o (心霊知識の普及に献身しているコラムニストへの言葉 =1=)
ブラザー・ジョンのペンネームで二十年以上(一九六九年現在)にわたってサイキックニューズ紙上で心霊知識の解説と人生相談を担当してきたコラムニストが初めてシルバーバーチ交霊会に招かれた。
ブラザ一・ジョンが二十年あまり一遍も欠かすことなく執筆し続けた記事は、延べにして一千回を超える。その中には読者から寄せられた質問に対する情愛あふれる回答も含まれている。たとえば一九六七年の一年間に寄せられた手紙は一、四〇〇通にのぼり、人生相談的なものからコラムの内容についての質問まであるが、彼はそのすべてに、ていねいに回答している。
その真摯にして謙虚な態度はシルバーバーチと同じで、死後の存続の事実と、それが有する重大な意義について十年一日のごとく、倦むことなく語り続けている。その彼に対して、シルバー・バーチはつぎのように語った。
今夜はようこそお出でになりました。まつ先にご注意申し上げておきますが、私についていささか誇張された宣伝がなされており、私がまるで全ての叡智を具えているかのように書かれておりますが、とんでもないことです。私もあなたと同じ、いたって人間的な存在であり、弱点もあれば欠点もあり、誤りも犯します。ただ私は、霊的真理について少しばかり知識の蓄えがあり、それを、受け入れる用意のできた人たちにお分けしたいと思っているところです。
それとても私自身の所有物ではありません。私はただの代弁者にすぎません。私はその仕事を要請されたのです。仕事が完了して地上から引き上げる時期が来るまでは続けることになりましょう。が、今はまだその時期ではありません。まだもう少し時間が掛かります。これまで多くのことが成就されてまいりましたが、まだまだ為さねばならないことがあります。
霊力は条件さえ整えば、つまり一かけらの心配の念もなく、知識を基盤とした信仰と体験から生まれた確信とがあれば、時として驚異的なことをやってのけます。
あなたが今の職責を果たしていらっしゃるのも霊力のお陰です。それは私から申し上げるまでもないこととは思いますが、ただ、あなたはその貢献度、奉仕度を過小評価していらっしゃる。それはいけません。読者のために施しておられる援助の大きさはあなた自身にはお分かりになりません。多くの魂に感銘を与えていらっしゃいます。そしてそれは、地上で為しうる最も大切な仕事の一つなのです。
地上に肉体をたずさえて生まれて来るそもそもの目的は、魂が真の自我を見出すこと、言いかえれば、宿された神性に点火し、燃え上がらせ、輝かしい炎とすることです。残念ながら必ずしもそういう具合に行かないのが実情です。迷信と無知の暗闇、疑念と恐怖と困惑の泥沼の中で過ごす人が多すぎるのです。そうした中で一人でも真理に目覚めさせてあげることができれば、それだけであなたの存在価値があったことになります。たった一人でいいのです。それで十分なのです。それをあなたはすでに数え切れないほどの人に施しておられます。
その程度はどうあれ、神の使徒として働けるわれわれは光栄この上ないことです。これはキリスト教の教会にはもはや望めないことです。心の奥ではもう信じていない古い教えを決まり文句として口にするだけとなっております。とっくの昔に意味を失ってしまった紋切り型の語句、使い古した慣習と儀式をくり返すのみです。
そうした教会、大聖堂、寺院などが陳腐で空しい死物と化してしまったのは、そこに霊の力が働かなくなったからです。生命を与えているのは霊なのです。なのに、そうした建造物の中で行われていることは、霊力、キリスト教でいう聖霊を拒絶することばかりなのです。そこで、われわれのように、風変わりな式服もまとわず、祭壇もしつらえず、ただ霊力の流れる通路となり、この世で誰一人として無視されたり見落とされたりすることのない神の摂理の存在を教えることだけを心掛ける者を利用せざるを得なくなったのです。
あなたの場合も、人生が暗く荒涼として、いずこへ向かうべきかも分からず、あたかも絶望の壁に四方を仕切られた思いをさせられていた時に、啓示をうけられました。これ以上申し上げる必要はないでしょう。愛、情愛、友情、同情、慈悲、哀れみ、寛容心、こうしたものは不滅の霊性です。愛に死はないのです。死は生命に対しても愛に対しても無力なのです。いま申し上げた霊性もみな元をただせば愛の諸相なのです。私はけっしてナゾナゾを申し上げているのではありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.34-36
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68-p (心霊知識の普及に献身しているコラムニストへの言葉 =2=)
ここでシルバーバーチはその日の交霊会に、かつてブラザー・ジョンといっしょに仕事をしたこともある偉大な心霊治療家で、今はブラザー・ジョンの背後霊の一人として働いているフレッド・ジョーンズが来ていることを述べてから、さらにこう続けた。
今この会場に訪れているあなたの霊団は実にすばらしい方ばかりです。あなたをこの道に導いたのはこの方たちであり、今もずっと指導しておられます。フレッド・ジョーンズは偉大な霊です。彼にとって物的身体が小さすぎるほど霊性が大きくなったためにこちらへ来られましたが、地上に立派な足跡を残されました。この道の先駆者としての仕事をしたのです。その努力は無駄ではありませんでした。
彼が地上で仕事をしていた頃は、心霊治療を施す者はほんの一にぎりにすぎませんでした。が、今日では数え切れないほどになっております。身体と精神と魂を病んだ人がいたるところにいる病める地上では、それだけの数が必要なのです。残念ながら物質中心主義から生まれる病は感染力が強く、すぐにまん延する一種の伝染病です。しかし、光が闇を駆逐するごとく、心霊治療は正しい生き方を教えることによってその病弊を駆逐していくことでしょう。
健康を増進するのは医学でも医薬でも劇薬でもありません。不自然なものを体内に注ぎ込むことによって健康にすることはできません。それは言わば医学的愚行です。正しい生き方さえしていれば、つまり思念に邪なところがなく、霊と精神と身体とが調和していれば健康でいられるのです。日常生活のストレスと心労、あるいは利己心や邪心や強欲が生み出す不自然な緊張---こうしたものは物的存在のすべての息の根を止める毒薬です。
もしも私の話をお聞きになられて今後も頑張ろうという気持ちになってくだされば、本日ここにお出でになられた甲斐があったことになります。思うにまかせぬことがあることはよく存じております。が、霊的な褒賞を求める者にはラクな道はありません。
大霊は完全です。摂理は完全です。必ず摂理どおりに働きます。が、そのワクの中に自由意志の要素が存在し、その中に、自分の意志で貢献するチャンスが与えられているわけです。全世界を破滅に追いやる力はありません。大混乱を巻き起こすくらいならできるでしょう。が、人間のすることにはおのずと限界があります。
神の計画が狂うということは絶対にありません。もし狂えば、ないしは狂うことも有りうるとしたら、神は神でなくなります。完全が間違いを犯すはずがないのです。もし犯せば完全が完全でなくなります。自然法則という形での神の定めは無窮の過去から常に存在し、一度たりともその定め通りに働かなかったことはありません。
地球が一瞬でも回転を止めたことがあるでしょうか。汐が満ちてこなかった日が一日でもあったでしょうか。昼のあとにはかならず夜が来ていないでしょうか。蒔いたタネは正直にその果実を実らせていないでしょうか。
狂いません。神の計画は絶対に狂いません。本来は人間もその定められた計画にそって進まねばならないのです。しかし人間は愚かさと無知と利己心から誤った道へ外れる可能性もあるのです。美しい花を咲かせるべき庭園に雑草を生い茂らせることも有りうるということです。正しい生き方とは何であるかを、みずから学んで行かねばなりません。そうすることが人間としての神への貢献となるのです。潜在的には無限の霊的属性を秘めておりますが、それを駆使できるようになるには、それなりの努力をしなければならないということです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.36-39
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68-q (複雑な協力態勢で地上に届けられるようになった神の教え)
こうした人材の操作、つまり適時に適材を適所に活用することは、入りくんだ複雑な協力態勢を必要とする大へんなわざです。今や神の教えが多くの人々に届けられるようになりました。私の教えではありません。私はそれを中継してお届けしているだけです。同志の協力を得て、霊光と霊力をいくらかでも悩める地上世界へお届けすることができております。いつの日か皆さんが私のもとへ来られて、書物なり心霊誌に書かれていたのを読んだことが救いになったと告げてくだされば、私は、こうした協調的努力が無駄でなかったことを知ることになります。
『シルバー・バーチの霊訓
(9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.40
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68-r (他人のために尽くす人には必ず霊界からの援助がある)
他人のためになることをする人は、いつかはきっと他人から有難いと思うことをしてもらうものです。収支決算をしてみると必ず黒字になっております。一身を捧げている霊媒を私たちは決して見捨てるようなことはいたしません。授けられている霊的能力を最大限に発揮できるよう、常に鼓舞し勇気づけております。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.68
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68-s (人のために奉仕するには何から始めればよいか)
―(はるばるとベトナムから訪れてきた青年が質問する) 私は余暇を利用して人のために何かしたいと思っているのですが、何をしたらよいか分かりません。何かアドバイスをいただきたいのですが……
距離的にも霊的にも、あなたはずいぶん長い旅をしてこられましたね。しかし今こうしてこの交霊会に出席していらっしゃるという事実が、霊力というものがイザという時に導いてくれることの証明です。
人のために何かをなさりたいという願望に対しては、いずれそのチャンスが用意されます。ただし、急いては事を仕損じます。地上の大勢の方々に苦言を呈すれば、長い迷いの末に霊的実在に目覚めた方は、とかく何でもいいから心霊的能力を発揮したいという気持ちに駆られすぎます。
道はそのうち示されます。導きを祈ることです。あなたもこれまでの人生で、もう少しで人間への信頼を失いそうになるほどの精神的打撃を受けてこられました。しかし信頼を地上の人間にのみ置いてはいけません。神すなわち愛と叡智と知識の権化である大霊が存在します。
疑念が生じた時は精神を統一して物質界の喧騒から逃れるのです。すると霊的理解が得られます。統一状態が深まれば深まるほど内的な安らぎ、静寂、安心感、決意といったものが深まり、自分にとって最良のものが授けられるとの確信をもつことができるようになります。
私からお答えできるのはそれだけです。あなたは今すばらしい御手に抱かれております。決して一人ぼっちにはされません。時がたつにつれて人のために仕事をするチャンスが背後霊によってもたらされてまいります。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 42-43
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68-t (奉仕活動で難問が生じても自分なりの最善を尽くせばよい)
―(もう一人の招待客が尋ねる)心霊治療を体験したあと私自身もグループを結成して心霊治療を開始したのですが、その後私だけ独立して一人で治療活動を続けております。人のためになるのであれはどういう形でやっても同じと考えてもよろしいでしょうか。
あなたご自身はどうお考えですか。
―私は霊的な観点からいうと同じではないと思います。私なりにできるだけの努力はしているつもりですが、次々と難しいことが生じてくると、私の取った態度が霊界側に迷惑をかけたのではなかろうかと思うことがあるのです。
奉仕は霊の正貨です。奉仕に勝る宗教はありません。人のために自分を役立てることは尊い行為です。あなたの望みどおりの分野で仕事ができなくても、人のためになると思うことを、その時その時に行えばよろしい。ドアを押してみてすぐに開けば、その道を行けはよろしい。カギの掛かったドアをしつこく叩いてはいけません。時間とエネルギーの無駄です。
次々と生じる難問に動じてはいけません。困難は挑戦すべき課題です。困難もなく難問もなく、障害も妨害もないようでは、潜在する能力を発揮するチャンスがないことになります。
人間は危機に直面してはじめて、自分の奥に思いも寄らなかった力があることに気づきます。ふだんはその貯えの表面をひっかいている程度にすぎません。その潜在力と背後霊の導きをもってすれば、克服できないほど大きな困難はありません。
私たち霊界の者は地上で仕事をしなければならないのです。したがってその限界というものをわきまえております。つまり私たちが使用する道具は人間的煩悩を具えており、もろく、かつ気まぐれです。しかし私たちとしては差し当って使用できるもので最善を尽くすしかありません。
このサークルに来られる人々にいつも申し上げていることですが、信念に迷いが生じた時は、かつて自分がドン底にあった時に立ち帰ってみることです。もう絶対に救われる見込みはないと思われた奈落の底にいたのです。そしてその絶体絶命のピンチで道が開かれたのです。これからも道は必ず開けてまいります。
あなたはあなたなりに最善を尽くしていればよいのです。所詮あなたは完全な存在ではありません。地上においても霊界においても、完全というものは達成できないのです。完全への道は永遠に続くのです。このことは、このサークルのメンバーの方は耳にタコができるほど聞かされております。しくじってもまた立ち直ることができるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 43-45
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68-u (人のために自分を役立てることほど立派な宗教的行為はない)
― 本日こうして出席させていただきましたことを大へん光栄に存じます。あなたの教えが私の人生において素晴らしい啓示となっていることを是非とも申し上げたいと思っておりました。=英国の音楽界で指導的地位にある音楽家(67-a)のことば=
そのことを私といっしょに神に感謝しようではありませんか― 私は神の使いとなったことの光栄とその好機を与えていただいたことを、そしてあなたと奥さんはその真理を授かることができたことを、です。
何十年か前、私は同志もなくたった一人でこの地上へやってまいりました。是が非でも地上人類に霊的実在の存在を教え、霊力の働きかけの場を設立する必要があるとの理由から、私が霊界においてそれまでに獲得したものをお預けにして、(次元が異るが故の)困難な条件のもとで、この地上へ戻ってくれないかとの要請を受けたのです。それを私は挑戦のつもりでお引き受けしました。
今夜あなたから、私が光栄にも伝達させていただいた教訓―私が考え出したものではないのです―があなたの人生で大きな啓示となっていることをお聞かせくださいました。そのことに私は感謝したいと思います。と申しますのは、そのことは私に愛念を覚えさせてくださる方がまた一人増えたことを意味するからです。それは私にとって大へんうれしいことなのです。
これより先あなたには、ご自身がこれまでに恵みを受けられたように他の人々に恵みを施す機会が次々と与えられることでしょう。その機会を逃さないことです。と言って私は、あなたを始め私の同志のどなたにも、熱狂的な伝道者になってほしいと思っているわけではありません。しゃにむに他人を信じさせようとなさることは期待しておりません。あとで平静を取り戻した時にはもう忘れているような、一時的な興奮状感の群集心理につけ込む非理性的手段で真理を説いてくださることは望みません。
私が申し上げているのは、あなたにはあなたとのご縁を通じて援助の手を差しのべるべき機会が与えられることになるということです。その時にあなたなりの最善を尽くせばよいのです。地上世界には為さねばならないことが山ほどあります。
物的財産は一時的な所有物にすぎません。所有物といっても真に自分のものではなく、ただの一時的保管物にすぎません。一方、霊的財産は錆びることも色あせることもありません。永続性があります。
人のために自分を役立てることほど立派な宗教的行為はありません。それが霊の通貨なのです。自分より恵まれない人のために手を差しのべていれば、そのうち自分の生きるべき道がきっと啓示されます。あなたが窮地にあって啓示を受けられたように、窮地に置かれた人があなたの手の届くところまで導かれてくるようになるでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 107-108
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68-v[29-v] (霊媒に対する励ましのことば=1= 人のために役立つから尊い)
― 物質中心の考えをしているために、一生涯、霊的なものに気づかずに終わる人が大勢います。
そういう人のことを気の毒に思ってあげないといけません。せっかくの地上人生を無駄にしたのです。真の自我を見出せずに終わったのです。それはちょうど正規の義務教育を受けながらそれが身につかず、卒業後の大人の人生に何の備えもないまま学校生活を終えたのと同じです。
地上は死後に否応なしに始まる次の段階の生活にとって不可欠の準備をさせてくれるところです。一つ一つの体験が進化していくために支払う代価なのです。地上人生は一本調子ではありません。光があれば影があり、日和の日があれば嵐の日がなければなりません。
両極端があり、対照となるものがあるからこそ人生の意義が理解できるのです。作用と反作用は正反対であると同時に相等しいと言われます。人を憎むことのできる者はそのエネルギーを愛に転換することができるのです。愛と憎しみとは同じコインの表と裏です。どちらを選ぶかはあなた次第です。
摂理の働きは完ぺきです。一つ一つの行為に褒賞があるように、天罰もあります。その摂理をごまかすことはできません。地上では自分を偽り他人をごまかすことができます。しかし死がその化けの皮をはがし、魂のあるがままの姿がさらけ出されます。もはや見せかけは通用しません。地上にあっても、霊視能力をもった人には仮面の内側の本当の顔が見えます。地上にはマスクをかぶった人が多すぎます。
でも、あなたは今そうした人たちを救ってあげているのです。人間としての正しい道を教えてあげているわけです。人間の可能性を見せてあげているわけです。それから先のこと、つまりその知識を日常生活においてどう活用するかは、その人自身の責任です。あなたが考え込むことはありません。常に堂々と胸を張って生きることです。なさねばならないことが沢山あります。悲しいことですが、霊的真理を知らない人が無数におります。その人たちをわれわれが何とかしてあげないといけません。
あなたは、霊的能力を開発していない他の人々にはできない貢献ができるという、測り知れない光栄を担っておられます。毎日のように到来する素晴らしい好機を前に、あふれんばかりの喜びを覚えてしかるべきです。
しかし同時に、知識には責任が伴うことを忘れてはなりません。あなたには崇高な真理が託されているだけではありません。崇高な力、神の力、あらゆる可能性をもった生命力そのものも託されているのです。
自分を改造し、生きる意欲を覚えさせてあげる、そういうお手伝いをするということは、大変な責任を伴う仕事です。ですから、あなたが迷うことがないように霊界からの導きがあります。きっと道は示されます。迷うことなく突き進みなさい。一日一日が霊的高揚の源泉となる奉仕的仕事の機会をもたらしてくれます。
あなた方も私たちも、ともに大いなる事業に参加しております。地上にはなさねばならないことが山ほどあります。これまでにも多くを成し遂げてまいりましたが、これからなさねばならないことに較べれば、まだまだわずかなものです。
頑張らないといけません。そして訪れる機会を逃さず、どこででも人のためになることができるようでないといけません。そして又、霊力というものが、それをみずから手にしてそこから恩恵を摂取した人の生活を本当の意味で豊かにしてくれることを立証するために、お互いの役割を果たさないといけません。
あなたのお仕事は人のために役立つからこそ尊いのです。さらに大きな徳積みのためにもっと大きな力、もっと多くの叡智を求めて神に祈りなさい。そして又、こうして協力している私たちの姿が見えず声は聞こえずとも、私たちはこれからもあなたを見守り、導き、元気づけ、支援していくことを信じてください。
かくしてお互いの協力によって、神の子のすべてに生きる道を教えるべく意図された計画を成就していくことができるのです。そしてその仕事に勤しめば勤しむほど、大霊の絶対的な力にいっそう調和していくのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.41-44
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68-w (人のために役立つことをするチャンスは誰にも用意されている)
身分、職業、血筋、地位や肩書き、肌の色や国家の別、こうしたものには一切かかわりなく、人間のすべてに人のために役立つことをするチャンス″が用意されています。それを怠ると、それだけの代償を払わされます。その摂理には誰ひとり干渉することはできません。イエスも言っております―蒔いたタネは自分で刈り取らねばならない″と。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.63
68-x[6-x](真の宗教とは同胞に奉仕することによって神に奉仕すること)
地上では宗教に帰れ″という呼びかけがあるそうですが、真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊すなわち神に奉仕することです。そのためには殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植えつけ同胞への愛の心を強めることにならないかぎり何の意味もありません。いつどこにいても人のために役立つことをなさい。同胞の重荷を軽くしてあげることをなさい。それが宗教です。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 130
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68-y (人のためになることはどんなことでも嫌がらずに行なう)
人のためになることであれば、どんなことでもよろしい。転んだ人の手を取ってあげることでも、勇気づけの言葉を掛けてあげることでもよろしい。霊的なものに係わることでなくてもよいのです。物的なことであっても、それが相手の人にとって意義のあることであり、あなたもそれを嫌々ながらでなく気持よくしてあげるのであれば、それは立派に神の道具としての役目を果たしたことになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 130
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68-z[6-y](人間は同胞に奉仕すること以外に大霊への協力の道はない)
しょせん人間は同胞に奉仕することによって大霊に奉仕する以外に、大霊への協力の道はないのです。地上には政治学、経済学、社会学といった立派そうな名称やラベルをつけた分野があり、それが勿体つけて説かれておりますが、どれもこれも、しょせんは言葉の遊戯にすぎません。私に言わせれば
service(サービス)の一語ですべてが片付くのです。人のために役立つことをする―それが宗教です。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 130-131
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68-za (サービスの真意を理解した人こそ偉大な人物である)
サービスの真意を理解した人こそ私は偉大な人物と見なします。霊的自我の発見を目的とする人たちだけの話ではありません。極貧の人たちを救うこと、病の苦しみを取り除いてあげること、不正や横暴と闘うこと、憎悪と闘うこと、自由を守ること、害悪を取り除き、人間の霊性が神の意図された通りに発揮できるチャンスを用意してあげること―こうしたこともみなサービスです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 131
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68-zb (大霊に協力していくのは地位や名誉に関係はない)
相手が立派な地位にある人であろうと、平々凡々の庶民であろうと、そんなことはどうでもよろしい。とにかく一個の魂を立ち上がらせ、暗闇にいる人に光をもたらし、無知の牢獄にいる人を解放してあげ、お腹を空かしている人を満たしてあげ、渇いたのどを潤してあげ、争いごとを止めさせてあげることができれば、あなたは立派に大霊に協力していることになるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 131
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68-zc(一人ひとりが大霊の一部であり大霊の仕事に貢献できる)
あなた方一人ひとりが大霊の一部であることを忘れてはなりません。一人ひとりが大霊の仕事に貢献し、大霊の力と愛と知識を地上へもたらすことができるのです。自分より恵まれない人のために力を貸そうと努力する時、大霊の力がみなさんを通して顕現するのです。どの分野でもよろしい。どこの誰でもよろしい。意気消沈している人を元気づけ、弱った人に手を貸し、暗闇の中に明かりをもたらし、空腹の人に食べるものを与え、身を横たえる所さえない人に安らかな眠りの場を提供してあげれば、それが大霊に協力するゆえんとなります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 132
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68-zd[6-z] (宗教の本質と生命の本能的欲求はサービスの一語に尽きる)
宗教界の学者は宗教というものを不可解きわまる一大神秘―難解な用語と教義による上部構造を築き上げ、それが難問と困惑と混乱を生んでおります。しかし宗教の本質、生命の本能的欲求はサービスの一語に尽きます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 133
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68-ze(自分を忘れて人のために役立つことをするのは大霊の心と同じ)
サービス、すなわち自分を忘れて人のために役立つことをしようとする心は、大霊の心にほかなりません。今こそ地上世界にはこのサービスの精神が必要です。私たちがこうして説きそしてみずから実行しているのはそのためです。地上界の靄と暗黒、疑念と不安、悲しみと闘争、苦難と苦痛の背後には永遠の目的があります。それを一つでも多く理解するように努力してください。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 133-134
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68-zf (地上の全財産にも勝って大切なことをしたことになる奉仕の行為)
大切なのはあなたの行い″です。そして他のことは信じなくてもこれだけはぜひ信じてください―
たった一つの魂を光明へ導いてあげたら、あるいは飢えに苦しむ人に食を与え、のどの渇きに苦しむ人に飲み水を与えたら、あるいは又、肩の重荷を軽くしてあげ、足もとの石ころを取り除いてあげたら、それだけで地上の全財産にも勝る大切なことをしたことになるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 134
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68-zg (人のために役立つことをする者にバラ色の人生は望めない)
人のために役立つことをする者に呑ん気な、バラ色の人生は望めません。美しいバラにもトゲがあります。霊的な精進の道は厳しい試練の連続です。進むにつれて見慣れた標識が遠のいていきます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 149
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68-zg (人のための奉仕には必ず援助の手が差しのべられる)
人のために何かをしてあげようとする時、それが当を得たものであれば、それに必要な手段が必ず用意されます。無視されることは決してありません。何もかも自分で用意しなければならないというものではありません。何かが生じた時は必ず援助の手が差しのべられるものです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 151
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68-zh (人のために尽くすとき必ず複数の霊が背後で援助してくれる)
あなたが人のために役立つことをしようと努力する時、必ず背後には複数の進化せる霊が集結して援助してくれます。決して見棄ててはおきません。といって、それで物事がらくに成就されると期待してはいけません。必ず困難はつきまといます。面倒なことも生じます。が、きっと成就されます。霊の世界からの協力者は決して降参しません。あなたが投げ出さないかぎり、いつまでも、勝利するまで味方になってくれます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 152-153
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68-zi (いつどこにいても人のために役立つよう精いっぱい尽力する)
あなた方(霊的知識の大切さに目覚めた人)は地上のいかなるものにも勝る力すなわち霊力の特使です。それはありがたい名誉であると同時に大へんな責務でもあります。いただいている愛と尊厳をいささかでも傷つけることがあってはなりません。いついかなる時も寛容的で哀れみ深く、同情的で心優しい態度で、霊的真理の普及を心掛けないといけません。それが理解してもらえず冷たくあしらわれた時は、その人のことを気の毒に思ってあげることです。聞く耳を持っている人には大いに援助の手を差しのべてあげることです。単純のようで実は奥の深い真理です。いつどこにいても人のために役立つよう精いっぱい尽力する―われわれの側から要求するのはそれだけです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp.155-156
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68-zj (人のために尽くすとき手段がえられず挫折することはない)
霊的なものと物的なもののいずれにも偏らないように配慮しないといけません。物的なことに向けておられる関心よりもっと多くとは申しませんが、せめて同じ程度の関心を霊的なことにも向けるように努力してください。あえて断言しますが、人のために自分を役立てようとする行為を真摯に、謙虚に、そして敬虔な気持ちで実行する時、そのための手段が得られなくて挫折するということは決してありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.156
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68-zk [63-s] (人間は宇宙最大の力である霊力の貯蔵庫である)
人間は宇宙最大の力の貯蔵庫です。霊の力を秘めているということです。それを圧殺したり、征服したり、地上への顕現を阻止したりすることはできません。あなたの地上人生が終わった時に、それまでにたった一つの魂でも救ってあげることができれば、あなたの地上での存在は無駄でなかったと言えます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.157
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68-zl (たった一つの魂にでも生きる勇気を与えることができたら)
たった一つの魂を高揚してあげることができたら、喪の悲しみに沈む一つの魂に慰めを与えることができたら、意気地のない一つの魂に生きる勇気を与えてあげることができたら、人生に疲れ切った一つの魂に生きる力を与えてあげることができたら、それだけで十分にやり甲斐のある仕事といえるのではないでしょうか。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.164
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68-zm[47-u] (人のための善行が無駄に終わることは決してない)
物質の世界において誰かが奇特な行いをしようとする時、霊界においてそれを支援しようとする霊がすぐさま馳せ参じます。善行が無駄に終わることは決してありません。なぜなら霊界側では人類の向上のために役立つことをする人にいつでも援助の手を差しのべる用意がなされているからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.166
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68-zn[13-zze] (実際に行う無私の施しがあなたの進化を決定づける)
霊媒現象ばかりが霊力のはけ口ではありません。芸術家を通して、哲学者を通して、あるいは科学者を通しても発現することができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為、あなた方より恵まれない人々の役に立つ仕事にたずさわることです。看板は何であってもかまいません。係わる宗教、政治、芸術、経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.204
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68-zo[13-zzi] (心霊的能力は必ずしも霊的進化の指標とはならない)
ヒトは身体的にはすでに進化の頂点に達しております。次は精神的進化と霊的進化です。長い年月をかけて徐々に全人類が自己の心霊的能力に目覚めていくことでしょう。が、ここで但し書き″が必要です。心霊的能力を発揮するようになることが必ずしも霊的進化の程度の指標とはならないということです。霊的身体の有する能力を全部発揮しても、魂そのものは少しも進化していないということもありえます。本当の意味で霊的に進化しはじめるのは、人のために役立つ仕事を目的として霊界のスピリットの協力を得ながら心霊能力を開発した時です。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 214
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68-zp (人のために役立つことをするのが他のすべてに優先する)
人のために役立つことをする―― これが他のすべてのことに優先しなくてはなりません。大切なのは“自分”ではなく“他人”です。魂の奥底から他人のために良いことをしてあげたいという願望を抱いている人は、襲いくる困難がいかに大きく酷しいものであっても、必ずや救いの手が差しのべられます。道は必ず開けます。
トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たなる啓示』
(近藤千雄訳)ハート出版、2003、p.46
69. 結婚と愛
69-a. (新婚の二人に贈ることば)
私の知るかぎり愛は宇宙最大の力です。 他のいかなる力にも為し得ない驚異を働きます。愛は己れを知り尽くしております。それ故、愛する人だけでなく他のいかなる人に対しても邪なものがふりかかることを望みません。お二人が愛によって結ばれ、この世だけでなく地上での巡礼が終ったのちにも互いを認め合い睦み合うことを許されたことを幸せと思わなくてはいけません。
お二人は終りのない旅へ向けて出発されました。しかし、手に手を取り合い、心と心、魂と魂を結び合って永遠に歩み続け、永遠に共に暮らすことでしょう。こうしてお二人が愛の力によって祝福され、尊ばれ、聖別された以上、もはや私の世界にも地上にも、改めて祝福を述べてくれる人を求める必要はありません。
ですから私も "この二人に祝福あれ" などと申しあげる必要がないわけです。祝福はお二人を結びつけた愛の力によってすでに成就され、お二人の前に続く未来永劫にわたる人生を堅固に、そして調和あるものとしてくれます。お二人を結びつけた霊的知識に感謝すべきです。真の結婚、永続的な結びつきは、二つの魂が調和し、その当然の成り行きとして進化の法則の成就のために奉仕の道で共に援助し合うことであることを、肝に銘じて下さい。
力と導き、霊感と叡智が常にあなた方のまわりにあること、霊の力がいつもあなた方と共にあって手助けし、援助し、鼓舞してくれること、お二人に忠誠心と愛着さえあれば、それがいかに身近かなものであるかをいつでも証明してみせることが出来ることを銘記して、前向きに生きることです。
まさしくあなた方お二人は一体です。前途に横たわる人生には豊かな祝福に満ちております。問題も困難もトラブルも起きないと言っているのではありません。それは人間としてどうしても遭遇することになっているのです。地上生活を送る魂は有為転変のすべてを体験しなければなりません。が、お二人はきっとそれらに堂々と対処し、そして克服して行かれることでしょう。魂まで傷つくようなことはないでしょう。なぜなら、一人では苦しいことも、二人で対処すれば半分ずつとなり、結局少しも苦にならないことになるからです。
こうい言い方をすると多分あなた方は、これから大変な苦労があるのだと勘ぐり始めておられるに相違ありません。が、私はそんな意味で言っているのではありません。苦労を通じて霊力の働き、地上への働きかけの原理を理解した者だけが、その霊力との交わりから生まれる内的な喜びを味わうことができることを述べんとしているまでです。
それは地上の言語ではなかなか表現しにくいことです。が、その霊力の恩恵に浴した者は、人生には魂まで傷つけ挫けさせ宿命の成就を妨げるほどのものは絶対に生じないことを知り、自信をもって堂々と生きることができるということです。霊的淵源に発し、神性を宿したその素晴らしい富ーー神の宝庫の一部であるところの、無限の価値を秘めたその宝は、受け入れる用意さえ整えれば永久に自分のものとすることができます。
若くして(地上の年令で言えばのことですが)真理に目を開かせていただいた恵みに感謝しなければなりません。煩悩の霧が晴れ、その霊的真理があなた方の心に居場所を得たことを喜び、それがあなた方に真の自由をもたらしたように、こんどは他の人々へもその自由をもたらしてあげなくてはならないことを自覚してください。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp.35-37
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69-b (霊界で愛する者と再会して若返るか)
地上で愛し合った男女が他界した場合、もしも霊格の程度が同じであれは霊界で再び愛し合うことになりましょう。死は魂にとってはより自由な世界への入口のようなものですから、二人の結びつきは地上より一層強くなります。が二人の男女の結婚が魂の結びつきでなく肉体の結びつきに過ぎず、しかも両者に霊格の差があるときは、死とともに両者は離れていきます。それぞれの界へ引かれていくからです。若返るかというご質問ですが、霊の世界では若返るとか年を取るといったことでなく、成長、進化、発達という形で現れます。つまり形体ではなく魂の問題になるわけです。イエスが嫁にやったり取ったりしないと言ったのは、地上のような肉体上の結婚のことを言ったのです。男性といい女性といっても、あくまで男性に対する女性であり、女性に対する男性であって、物質の世界ではこの二元の原理で出来上がっておりますが、霊の世界では界を上がるにつれて男女の差が薄れていきます。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.141
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69-c (肌色の違う異人種間の結婚は妥当か)
私も有色人種です。これ以上申し上げる必要があるでしょうか。地上では “色素″つまり肌の色で優劣がきまるかのように考えがちですが、これは断じて間違いです。優劣の差はどれだけ自分を役立てるかによって決まることです。ほかに基準はありません。肌の色が白いから、黄色いから、赤いから、あるいは黒いからといって、霊的に上でもなければ下でもありません。肌の色は魂の程度を反映するものではありません。地上世界ではとかく永遠なるものを物的基準で判断しようとしがちですが、永遠不変の基準は一つしかありません。すなわち
“霊” です。
すべての民族、あらゆる肌色の人間が神の子であり、全体として完全な調和を構成するようになっております。大自然の美事なわざをご覧なさい。広大な花園で無数の色彩をした花が咲き乱れていても、そこには、ひとかけらの不調和も不自然さも見られまぜん。すべての肌色の人間が融合し合った時、そこに完璧な人種が生まれます。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.213-214
*****
69-d (結婚生活も物質の側面からだけ考えてはいけない)
男女が生活を共にするということを物質の側面からだけ考えてはいけません。あなた方は二つの霊的存在であることを忘れてはなりません。二つとも大霊の一部であり、霊界からの愛がお二人のために尽力したように、お互いにいたわり合い、愛し合い、尽くし合うとの誓約のもとに一緒になられるわけです。これから二つの魂が冒険の旅に出るために一緒になられるのです。その意味でわたしたちは物的な側面よりも霊的な側面の方を見つめております。わたしたちにとってはその方が永遠の実在だからです。
時には寂しさや悲しみ、困難、試練が訪れることは覚悟しなければなりません。それもお二人の進化にとっての糧となるのですから・・・・・。それが生じた時・・・・・きっと生じます ・・・・・その時は潔く対処し、それがお二人の人間性を磨き、絆をいっそう強くする上で大切なものであることを理解なさってください。
トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
コスモ・テン・パブリケーション、1989、pp. 203-204
70. 不合理と思える教えは遠慮なく拒否せよ
70-a (不合理と思える教えは遠慮なく拒否せよ)
いかに立派な霊であっても、いかに高級な霊であっても、いかに博学な霊であっても、その説くところがあなたの性分に合わないとき、不合理あるいは不条理と思えるときは、遠慮なく拒否するがよろしい。あなたには自由意志があり、自分で自分の生活を律していく責務があるのです。私たちがあなた方の人生を代りに生きてあげるわけにはまいりません。手助けはできます。指導もできます。心の支えになってあげることもできます。ですが、あなた方自身が背負うべき責務を私たちが背負ってあげるわけにはいかないのです。
私たちの願いはあなた方に生き甲斐ある人生を送っていただくこと、つまり内在する才覚と能力と資質とを存分に発揮していただくことです。そうなることが現在の地上生活の目的に適うことであると同時に、やがて死を迎えた暁に次の段階の生活への備えもできていることになるからです。これが私の基本的人生観です。そして、これまで永い間私の訓えに耳を傾けてくださった方なら認めてくださると思いますが、そうした人生を最終的に判断を下すのは、あなた自身の
"理性" であるというのが私の一貫した考えです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.58
*****
70-b (理性を働かせて徹底的に吟味せよ)
価値あるものは苦難と悲哀なしには達成できません。地上は地上なりの教訓の修得方法があるのです。それは避けるわけにいきません。今、霊的勢力が地上全土にわたって活動を開始しつつあり、あらゆる地域の人々に霊的メッセージが届けられ、その心を明るく照らし、その光が広まるにつれて物質万能主義の闇を追い散らしていきます。
私たちは罰の恐ろしさをチラつかせながら説得することはしません。恐怖心から大人しく生きる、そんな卑屈な臆病者になってほしくはありません。内部に宿る神性を自覚し、それを発揮することによって霊位を高め、一段と崇高な真理と叡智を身につけていただくことを目指しております。
そのためには、まず、これまでに得たものに不満を抱くようにならなければなりません。なぜなら、今の自分に満足できず、さらに何かを求めようとするところに、より高い知識を得る可能性が生まれるものだからです。満足する人間は進歩が停滞します。満足できない者はさらに大きな自由へ向けて突き進むことになります。
私たちは決してあなた方に “理知的に難しく考えず、ただ信じなさい” とは申しません。逆に”神から授かった理性を存分に駆使して私たちを試しなさい。徹底的に吟味しなさい。その結果もし私たちが述べることの中に低俗なこと、邪険なこと、道義に反することがあると思われたら、どうぞ拒絶してください″と申し上げております。
私たちはひたすらあなた方に”より高潔な生活″、自己犠牲と理想主義を志向する生活を説いております。もしそれをお認めいただければ、それは私たちの訓えの中身に神の刻印が押されていることを証明するものと言えましょう。
たった一個の魂でも目覚めさせることができれば、悲嘆に暮れる者をたった一人でも慰めてあげることができれば、怖じ気づいた人の心を奮い立たせ人生に疲れた人に生きる勇気を与えることができれば、それだけでも努力の甲斐があったことにならないでしょうか。
私たちのメッセージを耳にして心に動揺を来し、困惑し、わけが分らなくなりながらも、先入主的信仰によって身動きが取れずにいる人が大ぜいおります。しかしその人たちも、牢獄に閉じ込められた魂へ向けて呼びかける自由の声を耳にして煩悶しています。
そういう人たちにこそ私たちのメッセージを届けてあげるべきです。思いも寄らなかったものが存在することを知ってそれを必死に求めようとする、そのきっかけとなります。真理とはすべて踏み石の一つにすぎません。
この霊媒の口をついて出る言葉にもしもあなた方の理性に反撥を覚えさせるもの、神の愛の概念と矛盾するもの、愚かしく思えるもの、あなたの知性を侮辱するものがあるとすれば、それは、もはや私の出る幕ではなくなったことを意味します。私の時代は終ったことになります。
この交雲会これまで数え切れないほど催されておりますが、その間私が魂の崇高なる願望と相容れないものを述べたことは、ただの一度もないと確信しております。私たちは常にあなた方の魂の最高の意識に訴えているからです。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.101-104.
*****
70-c (あなた方の理性にだけ訴える)
私たちの使命はもはやそんな、しょせん人間にすぎないものを超人的地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡智をお届けするだけです。私が地上で傑出した指導者であったか、それとも哀れな乞食であったか、そんなことはどうでも良いことです。私の述べていることに真理の刻印が押されていれば、それでよろしい。名前や権威や聖典に訴えようとは思いません。訴えるのはあなた方の理性だけです。
人間の知性に矛盾を感じさせるようなことは何一つ要求いたしません。人間としての道義に反すること、尊厳に関わること、屈辱感を覚えさせること、人類を軽蔑するようなことは決して説きません。私たちは全人類の意識を高め、地上における一生命としての位置、宇宙における位置、創造神とのつながり、一つの家族としての地上人類どうしの同胞関係を正しく理解する上で必要な霊的真理を明かそうとしているのです。
これまでのように何かというと聖典の文句を引用したり、宗教的指導者の名前を持ち出したり、宗教的権威をふりかざしたりすることはいたしません。私たちは神から授かっている理性を唯一の拠りどころとして、それに訴えます。ただ単に聖書に書いてあるからというだけの理由で押しつける方法はとりません。理性が反撥を覚えたら拒否なさって結構です。ただ、よく吟味してくだされば、私たちの説くところが霊的存在として最高にして最善の本能に訴えていること、その目標が間違った古い考えを洗い落とし、代って、あとできっと有難く思ってくださるはずの大切な真理をお教えすることであることが分かっていただけるものと確信します。地上のいわゆる宗教は真実を基盤とすべきであり、理性の猛攻撃に抗しきれないようなものはすべて廃棄すべきです。
『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.110-111
*****
70-d (理性に反し叡智と相容れないものは拒否せよ)
私たちの述べることの中にもしもあなた方の理性に反すること、叡智と相入れないように思えることがあれば、どうか受取ることを拒否なさってください。良心の命令に背いてはいけません。自由意志を放棄なさってはいけません。私どもは何一つ押しつけるつもりはありません。強要するものは何一つありません。私たちが求めるものは協調です。ご自分で判断されて、こうすることが正しくかつ当然であるという認識のもとに、そちらから手を差し伸べて協力してくださることを望みます。理性をお使いになったからといって少しも不快には思いません。私どもの述べたことに疑問をもたれたからといって、いささかも不愉快には思いません。その挙げ句に魂の属性である知性と理性とがどうしても納得しないということであれば、それは私たちはあなた方の指導霊としては不適格であるということです。
私はけっして盲目の信仰、無言の服従は強要いたしません。それが神が自分に要求しておられることであることを得心するがゆえに、必要とあらば喜んで身を捧げる用意のある、そういう協力者であってくれることを望みます。それを理想とするかぎり、私たちの仕事に挫折はありません。ともに神の使いとして手に手を取り合って進み、神の御心を日頃の生活の中で体現し、われわれの援助を必要とする人、それを受け入れる用意のある人に手を差しのべることができるのです。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.64
*****
70-e[10-l ] (生きがいある人生を送るには=5= 理性の納得)
本来の住処である霊界から地上へこうして戻ってきて皆さんの賛同を得るのに私たち霊団が愛と理性に訴えていることを、私は誇りに思っております。有無を言わせず命令することはしません。ああしてほしいとか、こうしてくれとかの要求もいたしません(※)。あなた方の判断によって自由におやりになられるがよろしい。そして霊の世界から申し上げることがあなた方の理性を納得させることができず反発を覚えさせる時、知性が侮蔑される思いをなさる時は、遠慮なく拒絶なさるがよろしい。
(※この姿勢は頭初からの方針として徹底しており、例えば霊言を公表すべきか否かについてさえ、バーバネルとスワッハーとの間で意見が対立し激論を闘わせたこともあったのに、シルバー・バーチはそのことに一言も口をはさんでいない。これは霊界の計画だから早く公表するように、といった助言があってもよさそうに思えるのであるが、それすらなく、実際にサイキックニューズ紙に連載され、やがて霊言集として出版されるまでに十数年の歳月が流れている―訳者)
私たちとしては皆さんが自発的に望まれた上で協力と忠誠を捧げてくださるように、皆さんの内部の卑俗なものではなく最高の判断力に訴えなければならないのです。と言って私たちの方からは何もしないというのではありません。それぞれの活動の分野、日常の仕事において援助を受けていらっしゃることに気づかれるはずです。そしてそれとは別の分野において、人のために役立つことをするように導かれているのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 30-31
*****
70-f [60-o] (来世についての通信に食い違いがあることの理由)
(よく指摘される問題として、来世についての通信に食い違いがあることが挙げられる。その点について質されてシルバー・バーチがこう語った)
霊の世界が無辺であること、したがって当然そこに住む者による体験の多様性もまた無限であることを知らなければいけません。霊界の生活には霊的に上下の段階があり、したがってそれぞれに体験の相違というものが生じるわけです。
あなたと交信している霊は、その時の段階での自分の体験を述べているだけです。その後進歩してもう一つ上の次元の存在の場へ行けば、かつて抱いていた意見を改める可能性があるわけです。
このように、霊界についてどういう内容のことが伝えられるかは、通信霊の進歩の程度によって違ってくるわけです。ここで忘れてならないのは、地上近くで生活している霊ほど、これから体験することになっている上層界の高度な霊的事実を伝える能力が限られているということです。
その霊がいま生活している界層については何でも入手できます。が、それより高い界層のことは理解できませんから、伝えてくることは必然的にその霊にとって明白なことに限られることになります。低い界へ下りることはできますが、高い界へは上がれないのです。
私から申し上げる忠告はいつも同じです。霊からの通信はことごとく理性でもって判断しなさいということです。常識的に考えてどうしても受け入れ難いものは拒否なさることです。私たちとて絶対に間違いを犯さないわけではありません。まだまだ完全からは程遠い存在です。完全に到達するには無限の時を要するのです。何度も申し上げているように、それは永遠に続く過程なのです。
サークルのメンバーの方にも、あるいはご招待した方にも、私はけっして“こうしなさい”とか“これを信じなさい”とかは申しません。独裁的指導者ではないからです。私たちは協力者なのです。皆さんの愛さえ獲得すれば仕事は成就したも同然であるとの認識のもとに私たちは、真実と叡智と論理と理性と愛をもって皆さんの協力を得なければならないと考えているのです。
私たちの宗教は真理の宗教です。私たちから提供するのは真理のみです。私たちが真実であると理解したかぎりの真理、私たちおよび皆さんに啓示された通りの真理です。その表現の仕方は拙劣かも知れません。なぜなら私たち霊団の者もあなた方と同じ人間味を残している存在であり、過ちも犯しますし、欠点もあるからです。
しかしこれからも私たちは、人生のすべての基盤となっている永遠にして不変の霊的原理であると信じるものを皆さんに説き続けます。その霊的摂理に忠実に生きているかぎり、絶対に危害はこうむらないことを断言します。
と言って、地上生活につきものの困難と苦難と面倒なことから逃れることはできません。なぜなら、それは魂の進化にとって必須のものだからです。光明を味わうには暗黒を体験しなくてはなりません。太陽の有難さを知るには雨の日を体験しなくてはなりません。人生は両極性を体験しなくてはなりません。一方だけでは他方の存在価値が分からず、物質的にも精神的にも霊的にも啓発が得られないからです。
無限の叡智を具えた大霊はあなた方に理性という才能を賦与なさっています。何ごとにもそれを使用することです。たとえ霊界からのものであっても理性が反発を覚えるものは恐れずに拒否なさるがよろしい。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 87-89
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70-g (知的判断力や理性を存分に使って私のことばを吟味せよ)
“理屈を言ってはいけません。そう信じればよいのです”―私はそんなことは申しません。反対に “神が与えてくださったもの(知的判断力・理性)を存分にお使いになって私をお試しなさい。しっかり吟味なさい。そしてもしも私の言うことに卑劣なこと、酷いこと、道徳に反することがあれば、どうぞ拒否なさってください” と申し上げます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 87
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70-h[65-i](私の使命は地上に真理と知識と叡智を啓示すること)
私の使命は一個の男女を権威ある地位に祭り上げることではありません。真理と知識と叡智を啓示することです。私の申し上げることに真理の刻印が押してありさえすれば、私という人物が地上で大へん高い地位にあった者か卑しい身の上の者であったかはどうでもよいことではないでしょうか。名前・権威・書物、そんなものはもうどうでもよろしい。私が訴えるのは理性のみです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 139-140
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70-i (地上で宗教と呼ばれているものは真理を基盤としなければならない)
私たちはもはや書物や人物や権威を拠り所とはいたしません。神から授かっている理性、これを拠り所とし、これに訴えかけます。真理というものは神聖″のスタンプを押されている書物から文句を引用することで広まるものではありません。理性が納得しないといけません。もしも私の述べることがあなたの理性にそぐわない時は、あっさりと拒絶なさってください。しかし同時に、私の申し上げていることが人間の最高にして最上の本能に訴えていること、古い時代からの誤った知識を取り除いて、人間にとって大切な霊的真理をお届けしようとしていることも分かっていただけるでしょう。地上で宗教と呼ばれているものは真理を基盤としなければなりません。そして理性の攻撃に耐えきれないものは棄て去らないといけません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 140
71. 心霊主義と既成宗教
71-a (霊的真理を広めていくために)
私たちの仕事が始まった当初、(その表面の現象だけを見て)世間の人は何とたわいもないことをして、と軽蔑の眼差しで見たものでした。"テーブルラッパー"(※)---彼らはサークルのメンバーをそう呼んで軽蔑し嘲笑しました。しかし、そうした現象も実は大きな目的をもった一大計画に組み込まれていたのです。私たちの意図した影響力は次第に大きくなり世界中へ広がっていきました。各分野で名声を得ていた名士を次々とその影響下に誘っていきました。偏見によって目隠しをされ理性が迷信によって曇らされている者は別として、やはり著名人の証言がすべての人に尊重されるという考えからそういう手段を選んだのです。(※初期の頃は叩音ラップによる通信が盛んに行われた−訳者)
その後もますます多くの人材が同じ霊的影響下に置かれていきました。霊媒も増えました。サークル活動が広まり盛んになりました。科学、医学、思想、宗教、その他ありとあらゆる分野の人をこれに参加させ、当時すでに猛威をふるっていた誤った物質万能主義を否定する現象、新しい高度な生命観を示唆する霊的事実、唯物思想の終焉を予告する目に見えない力の存在へ目を向けさせました。ほどなくして---実に短期間のうちに---そのテーブルラッパーたちは宗教を腐敗から守る運動の旗手となっていったのです。
わずか百年足らずの間にどれだけのことが成就されたか、それをこうした経過の中から読み取り、それを教訓としてこれ以後どれだけのことが成就できるか、そこにみなさんの先見の明を働かせてください。しかし私たちが今まさに欲しているのは、もっと多くの道具---背後から導き鼓舞してくれる霊の力に満腔の信頼を置いてくれる人材です。霊的実在を悟りそれを他の同胞のために使用してくれる人、真理を暗い生活の灯として持ち歩いてくれる人です。
私たちが望んでいるのは、まずそうした霊的真理のメッセンジャーみずからがそれを日常生活において体現し、その誠実さと公明正大さに貫かれた生活を通して、見る人の目になるほどと神のメッセンジャーであることを認識させることです。それから今度は積極的に世に出て社会生活のすべての面にそれを応用していってほしいのです。つまり、まずみずからが身を傷め、それから他人のために自分を役立てる仕事に着手するということです。これまでもあなた方が想像なさる以上に多くの仕事が成就されてまいりましたが、これから先に成就されていく可能性に較べれば、それは物の数ではありません。
世の中を見回して、あなた方の努力のしるしを読み取ってごらんなさい。古くて使いものにならない教義やドグマの崩壊が見て取れるはずです。誤った信仰の上に築かれた構築物がいたるところで崩壊しつつあります。私たちの説く霊的真理は(心霊学という)知識を土台として築かれております。その土台はいかなる嵐にもビクともしません。なぜなら事実--霊的事実---を土台としているからです。あなた方が建造の一役を担ったその殿堂は、あなた方が(死んで)物質界に感応しなくなったのちも、あなた方の奮闘努力の記念碑として末永くその勇姿を失うことはないでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.50-52
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71-b (真理は前進し、無知と迷信は後退する)
真理は前進し、暗黒と無知と迷信と混迷を生む勢力は後退します。霊力はますます勢いをつけ、これまで難攻不落と思われていた分野にまで浸透しながら凱旋し続けます。これが私たちが繰りかえし繰りかえし宣言しているメッセージです。あなた方は今まさに地上に新しい存在の秩序を招来するために貢献しておられるということです。ゆっくりとではありますが変革が生じつつあります。新しいものが旧いものと取って替るとき数々の変動は避けられません。それも神の計画のうちに組み込まれているのです。
常に基本的な霊的真理を忘れぬように、と私は申し上げております。常にそれを念頭におき、その上に宗教観、科学観、哲学観、倫理観、道徳観をうち立ててください。すぐにご大層なことを想像なさる御仁に惑わされてはなりません。私たちの説く真理はいたって単純であるがゆえに、誰にでもわかり誰にでも価値を見出すことができます。神の子としての人間の有るがままの姿を何の虚飾もなく説いているからです。すなわち神の分霊を宿し、その意味において真実 "神の子"であり、永遠にして不変の霊の絆によって結ばれているという意味において真に同胞であり、人類全体が一大霊的家族であり神の前に平等であるということです。
霊の目をもって見る者は民族、国家、気侯、肌の色、宗教の別を超えて見つめ、全人類を一つにつなぐ霊の絆を見てとります。地上世界は今こそそうした単純な真理を見直す必要があります。あまりに永いあいだ教義とドグマ、祭礼と儀式といった宗教の本質ないしは生命の大霊とは何の関係もないものに躓いてきました。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.52-53
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71-c (日常生活の生き方が大切)
私は魂をより意義ある生活へ誘うものでないかぎり教義、信条、ドグマといったものには関心がありません。日常の行い以外のものには関心がないのです。根本的に重要なのは日常生活の生き方だからです。いかなる教義もいかなるドグマもいかなる儀式も、原因と結果の関係を寸毫だに変えることはできません。霊性を一分たりとも増すことも減らすこともできません。それは日常生活によってのみ決定づけられるものだからです。私たちが忠誠を捧げるのは宇宙の大霊すなわち神とその永遠不変の摂理であって、教義でもなく書物でもなく教会でもありません。
今や霊の力がこうして地上に顕現する新しい手掛かりができたことを喜んでください。真理を普及するための新しい人材が次々と霊力の支配下に導かれていることに着目してください。新しい通信網ができたことに着目してください。人類の進歩を妨げてきた既成権力が崩され障害が取り除かれていきつつあることに目を向けてください。私たちは刀剣や銃を手にせず愛と寛容心と慈悲と奉仕の精神でもって闘っている大軍の一翼を担っております。私たちの武器は真理と理性です。そして目指すのは人間として当然受け取るべきものを手にできずにいる人々の生活に豊かさと美しさをもたらしてあげることです。
神とその子等の間に立ちはだかろうとする者には、いかなる地位にあろうと、いかなる人物であろうと容赦はいたしません。地上に神の王国を築くためには地上のいずこであろうと赴く決意はけっして揺らぎません。これまでも数々の虚言、中傷、敵意、迫害に遭ってまいりました。が、勇気ある心の持ち主、断固たる決意を秘めた魂が闘ってきてくれたおかげで、こうして霊の力が地上に顕現することができたのです。今も新しい世界の前哨地に多くの勇士が歩哨に立ってくれております。ですから私は皆さんに、元気をお出しなさい、と申し上げるのです。心に迷いを生じさせてはなりません。変転きわまりない世の中の背後にも神の計画を読み取り、あなた方もその新しい世界の建設の一翼を担っていることを自覚してください。真理は絶え間なく前進しているのです。
意気消沈した人、悲しげにしている人に元気を出すように言ってあげてください。先駆者たちの努力のたまものをこれから刈り入れるのです。そしてそれが明日を担う子供たちにより大きな自由、より大きな解放をもたらす地ならしでもあるのです。不安は無知という暗闇から生まれます。勇気は自信から生まれます。すなわち自分は神であるとの真理に目覚めた魂はいかなる人生の嵐をもってしても挫かせることはできないとの自信です。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.53-55
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71-d (知識にはかならず責任が伴う)
私がお教えしているのはごく単純な真理です。しかし単純でありながら大切この上ない真理です。地上人類がみずからの力でみずからを救い、内在する神性を発揮するようになるためには、そうした霊的真理を日常生活において実践する以外にないからです。あなた方はその貴重な霊的な宝を手にされていること、それがすべての霧とモヤを払い、悟りの光によって暗闇を突き破ることを可能にしてくれることを知ったからには、自信をもって生きてください。しかし同時に、知識にはかならず責任が伴うことも忘れてはなりません。知った以上は、知らなかった時のあなたとは違うからです。知っていながら霊力を無視した生き方をする人は、知らないために霊的真理にもとる生き方をする人よりも大きな罪を犯していることになります。
その知識を賢明にそして有効に生かしてください。一人でも多くの人がその知識を手にすることができるように、それによって魂を鼓舞され心が開かれる機縁となるように配慮してあげてください。私たちの方でも一人でも多くの人の涙を拭い、心の痛みを癒し、燦然たる霊的真理を見えなくしている目隠しを取り除いてあげようとの態勢でいるのです。親である神を子等に近づかせ、子等を神に近づかせ、人生の奥義にかかわる摂理を実践に移させようとして心を砕いているのです。そうすることによって利己主義が影をひそめ、生命の充足感を地上に生きる人のすべてが味わえることになるでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.55-56
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71-e (心霊主義の普及と既成宗教)
私たちはこれまで確かに成功をおさめてまいりました。しかし、そうしたスピリチュアリズムの発展を私たちは他の宗教と同列に並べて考えていないことを銘記してください。私たちにとってスピリチュアリズムというのは宇宙の自然法則そのものなのです。これを体系化して幾つかの信仰箇条とすべき性質の教えではありません。キリスト教とて頭初は自然法則の一つの顕現でした。ユダヤ教もそうですし仏教もそうです。そのほか地上に誕生した宗教のすべてが最初はそうでした。それぞれの教祖が霊覚でもってその時代の民衆の成長、発展、進化、慣習、鍛練、理解力等の程度にふさわしいビジョン、インスピレーション、悟りを手にしました。それがさらに受け入れる用意のある者に受け継がれていきました。それは一部とはいえ真理であることには間違いありませんでした。ところが残念なことに、そのささやかな真理が(人間的夾雑物の下に)埋もれてしまいました。
真理のもつ純粋な美しさを留めることができなかったのです。まわりに世俗的信仰、神学的概念、宗教的慣習、伝承的習俗などが付加されて、玉石混交の状態となってしまいました。やがて神性が完全に影をひそめてしまいました。そして新たにそれを掘り起こし蘇生させる必要性が生じたのです。過去の宗教はすべて---例外なしに---今日こうして地上へ届けられつつあるものと同じ啓示の一部であり一かけらなのです.一つの真理の側面にすぎないのです。それらを比較して、どちらがどうということは言えません。届けられた時の事情がそれぞれに異なるのです。たとえば今日の世の中ですと、昔では考えられなかった通信手段が発達しています。伝達し合うことにあなた方は何の不自由も感じません。何秒とかからずにお互いがつながり、メッセージを送り、地球を一周することができます。
これまでの啓示と異なるところは、入念な計画にしたがって組織的な努力が始められたということです。それが地上の計算でいけば約百年前のことでした。こんどこそは何としてでも霊的知識を地上に根づかせ、いかなる勢力をもってしても妨げることのできない態勢にしようということになったのです。その計画は予定どおりに進行中です。そのことは、霊的知識が世界各国で盛んに口にされるようになってきていることで分かります。霊力は霊媒さえいれば、そこがどこであろうとおかまいなく流入し、新しい前哨地が設立されます。
ご承知のように私は常に、一人でも多くの霊媒が輩出することの必要性を強調しております。霊界からの知識、教訓、愛、慰め、導きが地上に届けられるためには、ぜひとも霊媒が必要なのです。一人の霊媒の輩出は物質万能思想を葬る棺に打ち込まれるクギの一本を意味します。神とその霊的真理の勝利を意味するのです。霊媒の存在が重要である理由はそこにあります。両界をつなぐ媒体だからです。知識と光と叡智の世界から私に届けられるものをこうした形で皆さんにお伝えすることを可能にしてくれる(バーバネルという)霊媒を見出したことを嬉しく思うのも、そこに理由があります。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.56-58
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71-f (本来は最大の味方であるべき陣営の抵抗)
私たちはほぼ一世紀にわたって、霊的真理を基本とした訓えを地上に根づかせようと努力してまいりました。それこそがこれから築かれていく新しい秩序の土台である以上、何としてでも困難を切り抜けなくてはならないからです。本来は最大の味方であるべき陣営の抵抗と敵意に耐えぬき闘いぬいてまいりました。宗教的分野において子羊たちを導こうとする人間(キリスト教の指導者)ならもろ手をあげて歓迎すべきものなのに、逆に自分たちの宗教の始祖(イエス)の教えであるとして広めんとしてきた主義・信条のすべてにみずから背いて、そういう立場の人間にあるまじき酷い言葉でわれわれを非難してきました。そこには愛も寛容心も見られません。それどころか、私たちを悪魔の使いであると決めつけ、神の子羊を正義の道から邪な行為、不道徳、利己主義へ誘惑せんとする闇の天使であるとして、悪口雑言のかぎりを浴びせます。
しかし、そうした激しい抵抗の中にあっても、私たちの説く真理は今や世界中に広がり、これまで抵抗してきた勢力は退却の一途をたどっております。私たちは現今のキリスト教が基盤としている教説を否認する者です。愛と正義と慈悲と叡智の根源である大霊が地上人類に対して呪うべき行為を働くはずがないことを主張する者です。神の怒りを鎮めるのに残酷な流血の犠牲が必要であった、などという言い訳は断じて認めません。いかなる権力をもってしても自然の摂理に介入できたためしは一度もないことを主張します。神学の基盤と構造のすべてを否定する者です。なぜならば、それは人類の進歩の時計を逆まわりさせ、その狭苦しいひとりよがりの世界に合わないものはいかなる発見も発明も進歩も拒絶してきたからです。
そうしたものに代って私は、啓示というものが常に進歩的であること、かつての指導者の一人ひとりが神の叡智の宝庫からひと握りずつを地上へもたらしてきたこと、そしてその一連の系譜の最後を飾ったのがかのナザレのイエスであり、私たちはそのイエスを鼓舞したのと同じ霊の力の直系の後継者として、同じ福音、同じ真理を説いている者であることを宣言します。人間に購い主はいらないのです。神との仲介者は不要なのです。自分の荷は自分で背負う義務があり、日々の生活の中の行為によって霊的生命を高めもすれば傷つけもするのです。内部に神性を宿していることは今も、そしてこれから先も永遠に変りません。変るのは程度の上下であって、本質は決して変りません。向上進化というのはその潜在約神牲をより多く顕現していく過程にほかならないのです。
いかなる教義、いかなる信条をもってしても、過った行為がもたらす結果をねじ曲げることはできません。私たちの説く神は永遠・不変の法則によって宇宙を統治しており、その法則の働きによって地上の人間は地上で送る人生によってみずからを裁くようになっていると説くのです。かつて地上においてこうした真理を説き、それ故に迫害を受けた先駆者たちに対して私たちは、今や彼らの努力が実りの時代を迎え、古き秩序が廃れ新しき秩序のもとに霊的生命が芽生えはじめている兆しを地上のいたるところに見ることが出来るようになった事実をお知らせしております。
永いあいだ真理の太陽をさえぎってきた暗雲が足ばやに去りつつあります。そして光明が射して無数の人々の生活を明るく照らし、こんどはその人たちが、自分を自由にしてくれた真理の伝道者となっていきます。それだけの備えができている人たちです。私どもは地上の人々がみずからの力でみずからを救い、死せる過去と訣別し、精神と霊を物質による奴隷的束縛から解放する方法をお教えするために戻ってまいりました。古くからの教えだからといって有り難がってはいけない---知的な目をもって真理を探求し、常識に反し理性を反撥させるものは一切拒絶しなさい、と申し上げているのです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.59-61
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71-g (人類を霊的奴隷状態から解放するために)
そもそも私がこの利己主義と残酷に満ちた地上へ降りてくることになったのは、人類への愛と使命があったからです。そこでこの度も(霊界での総会を終えたあと)こうしてあなた方のもとへ戻ってまいりました。私なりに出来るかぎりの援助を与えるためです。人類を霊的奴隷状態から解放し、神性を宿す者が当然わがものとすべき神の恩寵---霊的生活、精神的生活、そして身体的生活における充足---を得させるという(地球規模の)大使命の推進の一翼を担う者として戻ってまいりました。
その使命の成就を妨げんとするものは何であろうと排除しなければなりません。私たちが目指す自由は(霊的・精神的・身体的の)あらゆる面での自由です。その道に立ちはだかる既成の特権と利己主義の全勢力に対して、永遠の宣戦を布告します。あなた方より少しばかり永く生きてきたこの私、あなた方がこれよりたどらねばならない道を知っている先輩としての私からあなた方に、どうか勇気をもって邁進されるよう申し上げます。お一人おひとりがご自分で思っておられる以上に貢献なさっておられるからです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.62-63
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71-h (霊的活動における指導霊と交霊会の役割)
過去数年の間に私たちは数多くの人々を知識の大通りへと案内してまいりました。しかしまだまだ大きな仕事が為されます。世界各地で数多くの心霊治療家によって行われている霊的治療の成果に目を向けてください。大地に再び視界が開けていく様子を思い浮かべてください。予言者の声が再び地上にこだまするようになり、夢かと紛うものを見るようになります。先見の明が開けはじめます。病める人々が癒され、肉親の死を悲しんでいる人々が慰められつつあります。あなた方は本当に恵まれた方たちです。人間が永遠の魂の旅の中にあってほんの束の間をこの地上という生活の場で過している、永遠にして無限の霊的存在であることをご存知だからです。
私はそのメッセージをあなた方の助力を得ながら広め、私を地上へ派遣した霊団の使命を推進したいと望んでおります。私たちはいま勝利へ向けて前進しております。誤謬と利己主義、迷信と無知、自惚れと悪逆無道の勢力を蹴散らし過去のものとしなければなりません。
もはやそうしたものが許される時代は終ったのです。真理が理解されるにしたがって暗闇が光明へとその場を譲ってまいります。人々はその目を上へ向けて新しい世界の夜明けを待ち望んでおります。新しい世界は新しい希望と新しい悟りを与えてくれます。
神のみ恵みの多からんことを。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.63-64
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71-i (イエスは霊界からの働きかけの最高責任者)
ほぼ二千年前にイエスは磔刑にされました。それはただ、当時の祭司たちがイエスを憎んだからにすぎません。イエスを通して霊力のほとばしりを見せつけられたからでした。まさに神の子にふさわしい人物だったからにほかなりません。このままでは自分たちの立場が危ないと思ったのです。私たちが今それとまったく同じ反抗に遭っております。宗教界がこぞって〃真理〃を磔刑にしようとしております。しかし、それは不可能なことです。真理は、ただ真理であるが故に、あらゆる反抗、あらゆる敵対行為の中でも厳然と存在し続けます。キリスト教界の外部では次々と霊力が顕現しているにもかかわらず、空虚で侘びしいかぎりの巨大な建造物の中には、その陰気な暗闇を照らす霊力の光は一条も見られません。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.78
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71-j (宗教とは他人のために自分を役立てること)
私はレンガとモルタル、祭壇と尖塔でできた教会には何の興味もありません。何の魅力も感じません。建造物にはまるで関心がないのです。私が関心を向けるのは "魂" です。それで私は神とその子の間に横たわる障壁を取り除くことに奮闘しているのですが、不幸にして今日では教会そのものがその障壁となっているのです。これほど大きな罪悪があるでしょうか。宇宙の大霊である神は一個の教会に局限されるものではありません。一個の建造物の中に閉じ込められるものではないのです。神の力は人間各自がその霊性を発揮する行為の中に、すなわち自我を滅却した奉仕の行為、困窮せる無力な同胞のために一身を捧げんとする献身的生活の中に顕現されるのです。そこに宇宙の大霊の働きがあるのです。
確かにキリスト教界にも奇特な行いをしている真摯な人材がそこここに存在します。が私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、ぜひとも取り除かねばならないからです。真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。同胞のために自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまでそのことを何度申し上げてきたことでしょう。然るに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と流血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし新しい霊的真理はすでに根づいております。もはやその流れをせき止めることはできません。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.79-80
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71-k (今なお人類のために働いているイエス)
誤解され、崇められ、今や神の座にまつり上げられてしまったイエス---そのイエスは今どこにおられると思われますか。カンタベリー大聖堂ではありません。セントポール寺院でもありません。ウェストミンスター寺院でもありません。実はそうした建造物がイエスを追い出してしまったのです。イエスを近づき難い存在とし、人類の手の届かぬところに置いてしまったのです。神の座にまつり上げてしまったのです。単純な真理を寓話と神話を土台とした教義の中に混ぜ合わせてしまい、イエスを手の届かぬ存在としてしまったのです。
今なおイエスは人類のために働いておられます。それだけのことです。それを人間が(神学や儀式をこしらえて)難しく複雑にしてしまったのです。しかも今こうして同じ真理を説く私たちのことを天使を装った悪の勢力でありサタンの声であり魔王のそそのかしであると決めつけております。しかし、すでにキリスト教の時代は過ぎました。人類を完全に失望させました。人生に疲れ、絶望の淵にいる地上世界に役立つものを何一つ持ち合わせていません。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.80-81
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71-l (霊界に帰ってイエスに会う楽しみ)
この機会は私にとって何よりの楽しみであり、心待ちにしているものです。この時の私は、わずかな期間ですが本来の自分に立ち帰り、本来の霊的遺産の味を噛みしめ、霊界の古き知己と交わり、永年の向上と進化の末に獲得した霊的洞察力によって実在を認識することのできる界層での生命の実感を味わうことができます。自分だけ味わってあなた方に味わわせてあげないというのではありません。味わわせてあげたくても、物質界に生きておられるあなた方、感覚が五つに制限され、肉体という牢獄に閉じ込められて、そこから解放された時の無上のよろこびをご存知ないあなた方、たった五本の鉄格子の間から人生をのぞいておられるあなた方には、本当の生命の何たるかを理解することはできないのです。霊が肉体から解放されて本来の自分に帰ったとき、より大きな自分、より深い自我意識に宿る神の恩寵をどれほど味わうものであるか、それはあなた方には想像できません。
これより私はその本来の自分に帰り、幾世紀にもわたる知己と交わり、私が永い間その存在を知りながら地上人類への奉仕のためによろこんで犠牲にしてきた"生命の実感"を味わいます。これまでに大切に仕舞ってきたものをこの機会に味わえることを私がうれしくないと言ったらウソになりましょう。ご存知のとおり、この機会は私にとって数あるフェスティバル(うれしい催し)の中でも最大のものであり、あらゆる民族、あらゆる国家、あらゆる分野の者が大河をなして集結して一堂に会し、それまでの仕事の進歩具合を報告し合います。その雄大にして崇高な雰囲気はとても地上の言語では表現できません。人間がインスビレーションに触れて味わう最大級の感教も、そのフェスティバルで味わう私どもの実感に較べれば、まるで無意味な、ささいな出来ごとでしかありません。
その中でも最大の感激は再びあのナザレのイエスにお会いできることです。キリスト教の説くイエスではありません。偽り伝えられ、不当に崇められ、そして手の届かぬ神の座にまつり上げられたイエスではありません。人類のためをのみ思う偉大な人間としてのイエスであり、その父、そしてわれわれの父でもある神のために献身する者すべてにその偉大さを分かち合うことを願っておられるイエスです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.81-82
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71-m (間違った教えは即座に捨て去るだけの準備が必要)
知識を求める人にはちゃんとその人なりのものが用意されているものです。ですが、皆さん方のように真理普及の第一線に立つ者は、みずから冒険を求める勇気がなくてはいけません。時には予想もしなかった危険にさらされることも覚悟しなくてはいけません。未踏の奥地にまで踏み込む用意も必要です。しかも、真理に導かれる所ならどこへでも付いて行き、間違いであることが分かったものは、たとえ古くから大切にされている教えであっても、即座に棄て去るだけの心の準備ができていなくてはなりません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.192
72. 子供と教育
72.-a (現代の教育に欠けているもの)
人間それ自身についての真理を教える用意がなされていないことです。人間が霊的な宿命を背負っている霊的存在であるという事実へ指向された教育が無いことです。根本的にはどの教育も人間は本来が肉体的存在で、それに精神ーーそしてたぶん魂とおぼしきものーーが宿っていると教えています。本来が霊的存在で、それが肉体に宿っていること、今この地上においてすでに
"霊"なのであり、それが自我を発揮し霊性に磨きをかけていること、日々が霊性を豊かにするための教訓を学ぶ好機であり、死後に待ちかまえているより大きな生活への準備をしているという事実を教えておりません。子供の潜在的能力についての理解、宗教についての理解ーーこれが欠けております。そして、大して必要でもない知識を教え込むことに関心が向けられすぎております。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.68
*****
72-b (子供の宗教教育のあり方について)
今日の子供は明日の大人であるという、ごく当たり前の考え方でその問題と取り組んでみましょう。当然それは学校教育を終えたあとの社会生活において、その社会の重要な責務を担う上での備えとなるべきものでなければなりません。
意義ある社会の一員として、いかなる事態においても、社会のため人類のために貫献できる人物に育てるための知識を授けることが教育の根本義なのです。それには何よりもまず宇宙の摂理がいかなるものであるかを説いてやらねばなりません。人間が有する偉大な可能性を教え、それを自分自身の生活と、自分の住む地域社会に役立てるために開発するよう指導してやらねばなりません。
子供は感受性が強いものです。知能的にも、教えられたことが果たして真理であるかどうかを自分で判断することができません。とても従順ですから、教えられたことは何もかも本当のことと信じて、そのまま呑み込んでしまうのです。
このように、子供を教育することは、実に貴重でしかもデリケートな原料を扱っていることになります。教え込んだことがそのまま子供の性格のタテ糸となりヨコ糸となって織り込まれていくのですから、教育者はまず教育というものの責任の重大さを自覚しなくてはなりません。子供の潜在意識に関わることであり、教わったことはそのまま潜在意識に印象づけられ、それが子供のその後の思想を築いてゆく土台となるのです。その意味で、筋の通らぬ勝手な訓えを説く宗教家は、動機がどうあろうと、人類とその文明の将来に大きな障害を築いていくことになり、罪を犯していることになるのです。
子供に種々さまざまな可能性が宿されていることを知らない人、霊的真理に通じていない人、子供が霊的存在であり神の子であることを知らない人、宇宙における人間の位置を理解していない人---こうした人に育てられた子供は健全な精神的発育を阻害されます。
ここで子供の物的生活における必須の要素について語るのは私の領分ではありません。それについてはすでに十分な知識が普及しております。あらゆる分野の科学とあらゆる生命現象についての教育、地上なりの豊かな文学と芸術と教養の真価を味わえる精神を培う上で役に立つものすべてを教えてやるべきであることは明白です。
そこで宗教の問題にしぼって申せば、宗教とは個々の魂が人生のあらゆる闘いに堂々と対処し、そして克服していく上での指導原理である以上、教育上きわめて重大な意義を有することは明らかです。子供の一人ひとりが神の一部であり、本質的に霊的存在であるからには、”自由″がもたらすところのあらゆる恵みを受けて生きるように意図されております。その魂を幼い時期に拘束し自由を奪うようなことをすれば、それは魂の基本的権利を無視することになります。奴隷状態に陥らせることです。霊的奴隷としてしまうことです。
“自由″こそが教育の核心です。私の考えでは、宗教についての正しい真理を教わった子供は自由闊達に成長します。教育に携わる人が子供に自由を与えてやりたいという意図からでなく、古い神話や寓話への忠誠心を植えつけたいという願望から物ごとを教えていけば、それは子供の精神の泉を汚染することになります。もしも知性があれば拒絶するはずの間違った教義を教え込むことは、宗教的観点からみても教育的観点からみても、その子にとって何の益にもなりません。
それだけでは済みません。いつかきっと反撥を覚える時期がまいります。無抵抗の幼い時期に間違ったことを教え込んだ人たちみんなに背を向けるようになります。幼い魂は若木のように逞しく真っすぐに生長するように意図されております。それが間違った育て方をされるということは存在の根をいじくり回されることであり、生長が阻害されます。
霊について、神とのつながりについて正しい真理を教えるのでなく、倒れかかった教会を建て直し、空席を満たそうとする魂胆から誤った教義を押しつけんとする者すべてに対して私は断固として異議を唱えます。宗教についての真実を申せば、真理のすべてを説いている宗教など有りえないということです。どの宗教も、真理の光のほんの一条しか見ておりません。しかも悲しい哉、その一条の光すら永い年月のうちに歪められ、狂信者によって捏造されております。
子供には宗教とは人のために自分を役立てることであること、ややこしい教義に捉われることなく、まじめで無欲の生活を送り、自分が生活している社会のために尽くすことであること、それが神に対して真に忠実に生きるという意味であることを教えてやらねばなりません。
『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.217-220
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72-c (教会に通う十代の若者にどう霊的真理を説けばよいか)
今日の若者は反抗的なところがありますから、理性と論理に訴えるのが一ばん良いと私は考えます。彼らの気持の中には、過去の教えは暗黒の世界をもたらして自分たちを裏切ったという考えがあります。私だったらこうしてお持ちしている霊的真理の背後の理念の合理性を訴えたいと思います。その際にスピリチュアリズムとかオカルトとかのラベルや、神秘的、秘教的といった言い方はしない方がよろしい。ただの用語にすぎないのですから。
それよりも、脳と精神の違い、物質と霊の違いを教え、今すでに自分という存在の中に化学的分析も解剖もできない、物質を超えた生命原理が働いており、それが原動力となって自分が生かされているのだということを説くのです。人間という存在は最も高度に組織化され、最も緻密で最も複雑なコントロールルームを具えた、他に類をみない驚異的な有機体です。その無数の構成要素が調和的に働くことによって生き動き呼吸できているのです。しかし実は、その物的身体のほかにもう一つ、それを操作する、思考力を具えた、目に見えない、霊的個性が存在していることを説くのです。
目に見えている表面の奥に、評価し考察し比較し反省し分析し判断し決断を下す精神が働いております。それは物的なものではありません。人間には情愛があり、友情があり、愛があり、同情心がありますが、これらは本質的には非物質的なものです。愛を計量することはできません。重さを計ることも、目で見ることも、舌で舐めることも、鼻で嗅いでみることも、耳で聞いてみることもできません。それでも厳然として存在し、英雄的行為と犠牲的行為へ駆り立てる最大の原動力となっております。
あなたの教会へ訪れる若者はまだ、あなたがすでにご存知の霊的真理は何も知らないわけですが、その子たちにまず精神とは何でしょうかと問いかけてみられることです。それが肉体を超えたものであることは明白ですから、では肉体が機能しなくなると同時にその肉体を超えたものも機能しなくなると想像する根拠がどこにあるか---こういう具合に話を論理的に持っていけば、よいきっかけがつかめると思います。
それによって何人かでも関心を抱いてくれる者がいれば、その好機を逃してはいけません。嘲笑やあざけりは気になさらないことです。あなたの言葉を素直に受け入れてくれる者が一人や二人はいるものです。その種子はすぐにではなくても、そのうち芽を出しはじめることでしょう。それであなたは、自分以外の魂の一つに自我を見出させてあげたことになるのです。私たちは地上の人々が正しい生き方を始めるきっかけとなる、真の自我への覚醒と認識をもたらしてあげることに四六時中かかわっております。それが私たち霊団に課された大目的なのです。人生の落伍者、死後に再び始まる生活に何の備えもない、何の身支度もできていないまま霊界入りする人があまりに多すぎるからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.154-156
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72-d (若者に霊的真理へ関心を向けさせるにはどうするか)
私の考えでは、若者は一般的に言って人生体験、とくに身近な人を失うことによる胸をえぐられるような、内省を迫られる体験がありませんから、ただ単に霊の世界との交信が可能であることを証明してみせるという形で迫ってはいけないと思います。我が子が死後も生きているといった一身上の事実の証明では関心は引けません。
私はやはり若者の理性と知性に訴えるべきだと思います。すなわち論理的思考が納得するような霊的真理を提示し、それを単に信じろとか希望を見出せとか要求するのではなく、それが合理的で理性を満足させるものであり、真理の極印が押されたものであることを理解させるために、こちらが説くことを徹底的に疑ってかからせるのです。
私だったらその霊的真理は不変の自然法則によって統制されている広大な宇宙的構想の一端であることを説きます。生命現象、自然現象、人間的現象のあらゆる側面と活動が、起こりうるすべての事態に備えて用意されている神の摂理によって完全なる統制下に置かれているということです。
それゆえ地上に起きる出来ごとはすべて法則によって支配されたものであると説きます。つまり原因と結果の法則が働いており、一つの原因には寸分の狂いもない連鎖でそれ相当の結果が生じるということです。奇跡というものはないということです。法則は定められた通りに働くものであり、その意味ではすべてのことが前もって知れているわけですから、奇跡を起こすために法則を廃棄する必要はないのです。
そう説いてから、心霊実験による証拠を引き合いに出して、それが、人間は本来が霊であること、肉体は付属物であって、それに生命を吹き入れる霊の投影にすぎないことを証明していることを指摘します。つまり、肉体そのものには動力も生命力もないのです。肉体が動き呼吸し機能できているのは、それを可能ならしめるエネルギーを具えた霊のおかげなのです。霊は物質に優るのです。霊が王様だとすれば物質は従臣です。霊が主人だとすれば、物質は召使いのようなものです。要するに霊がすべてを支配し、規制し、管理し、統制しているのです。
そう述べてから更に私は、以上のような重大な事実を知ることは深遠な意義があることを付け加えます。これを正しく理解すれば人間的な考えに革命をもたらし、各自が正しい視野をもち、優先させるべきものを優先させ、永遠の実在である霊的本性の開発と向上について、その仮の宿にすぎない肉体の維持に向けられている関心と同じ程度の関心を向けるようになることでしょう。
以上のような対応の仕方なら若者も応じてくれるものと私は考えます。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.156-158
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72-e (組織的社会に対する現代の若者たちの反抗について)
私は若者の反抗は別に気にしておりません。私がいけないと言っているのは若者による暴力行為です・・・・・反抗するのは若者の特権です。安易に妥協するようでは若者でなくなります。追求し、詮策し、反逆しなくてはいけません。地上世界はこのたび幾つかの激変を体験し、慣習が変化し、既成の教えに対する敬意を失いました。
こうした折に若者なりに自分たちの住む世界の統治はかくあるべきだと思うものを求めても、それを非難してはいけません。しかし肝心なのは地上生活もすべて霊的実在が基本となっており物的現実とは違うという認識です。物質にはそれ自身の存在は無いのです。物質の存在は霊のおかげなのです。物質は外殻であり、外皮であり、霊が核なのです。
肉体が滅びるのは物質で出来ているからであり、霊が撤退するからです。老いも若きも地上の人間すべてが学ばねばならない大切な教訓は、霊こそ全生命活動の基盤だということです。地上生活におけるより大きな安らぎ、より一層の宿願成就のカギを握るのは、その霊的原理をいかに応用するかです。すなわち慈悲、慈愛、寛容心、協調的精神、奉仕的精神といった霊的資質を少しでも多く発揮することです。
人間世界の不幸の原因は物質万能主義、つまりは欲望と利己主義が支配していることにあります。我欲を愛他主義と置きかえないといけません。利己主義を自己犠牲と置きかえないといけません。恵まれた人が恵まれない人に手を差しのべるような社会にしないといけません。それが究極的に今より大きな平和、協調性、思いやりの心を招来する道です。
私は絶対に悲観していません。私はつねに楽観的です。人間世界の諺を使わせていただけばボールはいつも足もとに転がっている″と申し上げます。(フットボールから生まれた言いまわしで、目の前に成功のチャンスが訪れている、といった意味−訳者)
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.160-162
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72-f (若者のお金と地位だけを目的としている生き方に批判的か)
私は若者が悪いと言っているのではありません。彼らは言わば犠牲者です。今日の混乱した世相には何の責任もありません。しかし同時に、彼らが何の貢献もしていない過去からの遺産を数多く相続しております。さまざまな分野でのパイオニアや改革者たちが同胞のために刻苦し、そして豊かな遺産を残してくれているのです。
見通しはけっして救いようのない陰うつなものではありません。確かに一方には世の中を悪くすることばかりしている連中もいますが、それは全体の中の一部にすぎません。他方には世の中に貢献している人々、啓発と叡智とをもたらし、来るべき世代がより多くの豊かさを手にすることができるようにしようと心を砕いている人たちが大勢いるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.162-163
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72-g (意見を受け入れようとしない若者にどう対処すべきか)
とても難しいです。この道に近道はないのです。が、あなたもせめて物的自我から撤退して静かな瞑想の時をもち、受け身の姿勢になることはできます。それがあなたの家族を見守っている霊とのより緊密な接触を得る上で役立ちます。
--- 「問題は結局良い環境を作るということでしょうか」という質問に対して---
若者というのは耳を貸そうとしないものです。若いがゆえに自分たちの方が立派なことを知っていると思い込んでいるのです。それが地上での正常な成長過程の一つなのです。あなただって若い時は親よりも立派なことを知っていると思っていたはずです。若者が既成の権威に対して懐疑を抱くということは自然な成長過程の一つであるということを認識しなければいけません。(環境うんぬんではなくて)けっきょく親として一つの手本を示して、その理由づけができるようでなければいけません。それしか方法はありません。若者も霊的存在としての人間の生き方はこうあるべきだという、幾つかの道があることは認めなくてはいけません。しかし、若者がそのことを理解するのは容易なことではありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.163-164
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72-h (大人はゆとりのある態度で若者を見守っていくことが大切)
若者は一筋縄ではいきません。あえて言わせていただきますが、ここにおいでの皆さんの誰一人として、若い時に大人を手こずらせなかった方はいません。大人になるにつれて若者特有の反抗的性格が薄らいでいきますが、若い時は大人が世の中をめちゃくちゃにしている---俺たちが建て直すのだ、という気概に燃えたに相違ないのです。
が、成長して理解力が芽生えてくると、知らず知らずのうちに恩恵を受けていることが沢山あることに気づいて、それに感謝しなければならないと思いはじめます。こうしたことも両極の原理、バランスの原理の一つなのです。つまり若輩と年輩とがそれぞれの役割をもち、男性と女性の関係と同じように、お互いに補足し合うようになっているのです。
人生のしくみは完全なバランスの上に成り立っております。それぞれの存在が正しく機能を発揮すれば全体が調和するようになっているのです。ですから、年輪を重ねた大人は大らかな心、ゆとりのある態度で、これから数々のことを学んでいく若者を見守ってやることが大切であることになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.174
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72-i (わけもなく塞ぎこんでいる若者は霊的に飢えているのか)
― わけもなく塞ぎ込んでいる人間が多いのですが、若者にいったい何が起きているのでしょうか。霊的に飢えているのでしょうか。
道を見失っているのです。彼ら若者は暴力の支配するこの時代に生をうけました。彼らの気持の中には大人は自分たちを裏切ったという考えがあります。また、従来の宗教では救いは得られないとも考えております。
― その考えは大人に責任を負わせすぎだとは思われませんか。誰しも自分なりの道があるはずです。
私はそうした若者の考えに賛成であると言っているのではありません。私は現代の若者の心理を説明しているだけです。いずれは彼らも年輩になるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、p. 176
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72-j [6-m] (子供には宗教をどのように教えていけばよいか)
―(質問者かわる)妻と私の間に子供ができた場合、宗教問題についてその子にどう教えたらよろしいでしょうか。とくに私の場合はキリスト教信仰に全面的には納得していませんし、スピリチュアリズムの真実性を理解しております。
思っていらっしゃるほど難しい問題ではありません。親としてのあなたの責任は、その子が自然な成長をとげるようにしてあげることです。幼少時は精神が柔軟なために、教え込まれたものは思慮分別なしに吸収してしまいます。そういう時期に間違ったことを教えないように、正しい宗教的知識の中で個性を発揮させることが大切です。
ご承知のように、幼少時に受け入れたものは潜在意識の中に固着し蓄積して、その後の真理の受け入れの障害となります。私たちが人間に真理を教え込もうとする際に一ばん困るのは、幼少時に受けた間違った教育が無意識のうちに抵抗させる働きをすることです。すっかり根づいてしまっているために、それを排除するのに大へんな時間が掛かります。
また時おりあるのが一種のカタルシス的反応です。つまり、成人してから、それまでに蓄積したものを良いものも悪いものも一切投げ棄てて、世の中のすべてのものへ反抗することに快感を覚えるようになります。
親としてのあなたの責任は、子供の心に間違った教えを植えつけないようにすることです。どうか子供にはすべての宗教の基本となっている真理、共通した真理を教え、大きくなって神学的教義を教えられても魅力を感じず、単純・素朴な真理を求めるようになる、そういう素地をこしらえてあげてください。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 118-119
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72-k [6-q] (霊的実在に無知な宗教指導者の教義は何の益もない)
― 宗教の教義の問題が取りあげられ、それがただの人間的産物であり人間性の霊的向上にとって何の益もないのに、そのツケは結局霊界へ回されてくる事実を指摘して
―
地上の大半の人間が生命とは目に見え手に触れるものにあると考えております。その当然の結果として、人生には深い目的などはないと信じています。
それに加えて不幸なことに、肝心の霊的・精神的指導者たるべき人たちが、これ又、霊的実在について無知なのです。その証しを見たことも聞いたこともなく、したがって人に説くこともできないのです。今日では宗教とは教義のことであると思われており、それが後生大事にされているために、肝心の霊力の働く余地がないのです。
教義というのは人間の考えによって作りあげられたものです。霊力は大霊から発せられますから、神性を帯びております。ですから本来は霊力による啓示の方が教義に優先されるべきなのです。
現代の地上世界には義務教育を行う国がたくさんあります。子供たちは一つの目的つまり学校を出たあとの社会生活に適応できるような教育を実施するためのカリキュラムの中で学習するために学校へ通います。それを首尾よく学んだ子は、大人になって必ず直面する問題を、ある程度の理解をもって迎えることができます。きちんと学ばなかった子は卒業後の人生に備えができていません。
あなたの地上生活は霊の幼稚園のようなものと思えばよろしい。真の自我である霊が私たちの世界つまり霊界での生活に備えるために、この地上で学習をするのです。
しかし現実には、あまりに多くの人間が何の備えもなくやってまいります。そのため、こちらで改めて教育しなければなりません。地上でも、学校へ行かなかった大人に基本から教え直すのは難しいものですが、こちらへ来た人間に基本的な霊的教育をするのは、それよりはるかに困難となります。
死後にも生活があり、そこでは地上生活の言動の一つ一つについて責任を問われるということを知れば、それからの人生観は一変するに違いありません。いえ、一変すべきなのです。
聖書には“大地とそこに満つるものは主のものなり”(コリント@10・26)という言葉があります。一度手にしたら、霊的知識はいくら人にあげても減ることはありませんが、地上の富は、人にあげればそれだけ減ります。そこに霊的財産と物的財産の違いがあります。
物的財産はいくら貯めても、それを永久に所持することはできません。地上に生きている間だけの管理人であり預り人であるにすぎません。失うことがあります。盗まれることがあります。価値が下がることがあります。色あせてきます。美しさを失います。いずれにしても、いつまでも自分のものではあり得ないのです。
それに引きかえ霊的財産は、いったん手にしたら永遠に失うことはありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 126-128
73. 心霊能力
心霊能力は何か持ち物を手に入れるような具合に自分の所有物とするのではありません。心霊能力がはたらくその通路となるということです。心霊能力は例外なく(潜在的に)全ての人間に宿されております。それは肉体を去ったのちの生活で自我を表現するための手段です。それを未発達の状態で所有しているのです。ふだん一般の人は使用していませんが、霊媒が使用してみせているわけです。
と言っても、各自の能力がみな一様に同じ発達段階にあるわけではありません。潜在意識の表面まで来ている人は霊媒になろうと思えばなれます。霊視能力というのは霊体の目で見ることであり、霊聴能力というのは霊体の耳で聞くことです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.105
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73-b (若者に霊能を養成する会合に参加することは勧めるか)
初めからは勧めません。最初は精神統一のためのグループにでも加わることを勧めます。その方が若者には向いているのでしょう。瞑想によってふだん隠れているものに表現のチャンスを与えるのです。
---「それはうっかりすると、いわゆる神秘主義者にしてしまいませんか」という質問に対して---
もしそうなったら、それは方向を間違えたことになります。それも自由意志による選択に任されるべきことです。若者には若者なりの発達の余地を与えてやらねばなりません。受け入れる準備ができれば受け入れます。弟子に準備ができれば師が訪れるものです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.158-159
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73-c (現代の若者の霊的開発に対して働きかけるためには)
今日の若者の問題の原因は、一つには第二次世界大戦による社会環境の大変動があります。それが忠誠の対象を変えさせ、過去に対して背を向けさせ、いま自分たちが置かれている状況に合っていると思う思想を求めさせているのです。
若者は本性そのものが物ごとを何でも過激に、性急に求めさせます。従来の型にはまったものに背を向け、物質のベールに隠されたものを性急に求めようとします。(LSDのような)麻薬を使って一時的な幻覚を味わうとか、時には暴力行為で恍惚を味わうといった過激な方法に走るのも、若者が新しいものを求めようとして古いものを破壊している一例と言えます。
もとより霊的開発に手っ取りばやい方法があるかに思わせることは断じてあってはなりません。それは絶対に有り得ないのです。霊の宝は即座に手に入るものではありません。努力して求めなくてはなりません。霊的熟達には大へんな修行が必要です。それを求める人は、本格的な霊能を身につけるためには長期間にわたる献身的修行を要することを認識しなくてはなりません。
若者にはぜひとも物質を超えたものを求めさせる必要があります。物質の世界が殻であり、実在はその殻の内側にあることを認識すれば、それが生への新たな視野をもたせることになるでしょう。そうなった時はじめて若者としての社会への貢献ができることになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.159-160
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73-d[58-z] (心霊能力が軍事面などに利用されようとしている危険について)
― 心霊能力を軍事面に利用しょうとする実験が、とくにソ連において行われていると聞いておりますが、このまま行くと実際に心霊能力が好ましからざる方面で使用される危険がありそうです。
私は少しも心配しておりません。私は皆さん方のどなたよりも永く生きてまいりました。その間に見聞し理解したことによって私は、無限なる叡智と愛をもって全星雲、全天体を包摂する大宇宙機構を考案した大霊に対して、大いなる崇敬と畏敬と感嘆の念を禁じ得ないのです。
すべての人間、すべての事柄が自然の摂理によって規制されております。それには手落ちというものがなく、数学的正確さをもって働き、絶対に間違いを犯しません。宇宙間のありとあらゆる存在がその中に包摂されていますから、何一つ、誰一人として排除されたり忘れ去られたり無視されたりすることがないのです。壮大なものから微細なものに至るまで、単純なものから複雑なものに至るまで、あらゆる存在を自然の摂理が支配し支え規制しているのです。
地上での人間の行為にも制約というものがあります。その自然の制約に背いたことはできません。人間がなしうる害悪と破壊の程度にも、その制約による限界が設けられているのです。
そういう次第で私は楽観主義者であり、悲観的な考えは持ち合わせません。今おっしゃった実験は軍事的な利用価値を検討するものですが、それによっていかなる害悪がもたらされようと、他方において科学的技術その他あらゆる力を駆使して人類に恩恵をもたらさんとしている人たちによってもたらされる利益の方が大です。
心配してはいけません。心配の念はロクなものをもたらしません。心配の念は魂を蝕みます。心配の念は精神も錆つかせます。心配の念はせっかくの霊的援助の通路を塞いでしまいます。地球をはじめとして宇宙間のあらゆる天体の責任者は大霊なのです。いつかは善が悪を駆逐します。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 58-59
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73-e (心霊能力の行使にはそれ相当の責任が伴う)
― (73-d に続いて)するとあなたは、心霊能力が邪悪な目的に使用される可能性があることは否定なさらないわけですね。
大霊はあなたがた人間をロボットや操り人形にはなさりませんでした。一定範囲内の自由意志、選択の自由を与えてくださっています。が、それにも制約があり、限度があります。その摂理に背いたことはできません。
心霊能力というものを持ち合わせる以上は、それを悪用しようと思えばできないことはありません。ただし、それには責任が伴います。いかなる知識もそれ相当の責任というものが付加されずして手に入れることはできません。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 59-69
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73-f (人間は一人の例外もなく心霊的能力をそなえている)
人間は例外なく心霊的能力をそなえております。これは大へん大きな意味をもっております。歴史を勉強なされば、この事実は世界のすべての宗教の起原に結びついている基本的真理であることを理解なさるはずです。偉大な宗教家の教えの中には必ずそのことが述べられています。みな同じ始原からのインスピレーションを受けているのですから当然のことです。人間は成就すべき霊的宿命をもった霊的存在であること、死後に待ちうけるより大きな生命活動にそなえるためにこの地上に来ていること、そして死ぬ時には地上でみずからの力で身につけた愛、みずから築いた性格、みずから開発した霊的才覚をたずさえて行くということを異口同音に説いております。これこそがすべての宗教の中心的教えではないでしょうか。しかもそれがすべての宗教において、一つの例外もなく忘れ去られていることも事実ではないでしょうか。膨大な量の教義、神学、教条主義、宗教とは何の関係もない、あるいは宗教として何の価値もない、人間的思考の産物によって置き代えられているのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp.37-38
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73-g [51-f] (太古にさかのぼるほど人類は超能力を使用していた)
地上世界は永い間の物質中心の感覚によって粗悪な生活の場となってしまいました。もともと人類は数多くの霊的感覚を使用することができたのです。内部の霊妙な能力に気づいていたのです。古い記録をごらんになれは、太古にさかのぼるほど超能力が使用されていたことがお分かりになるはずです。それが物質文明の発達とともに次第に萎縮し、今日では霊的バイブレーションがキャッチできる人はきわめて少数となりました。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.46
74. 背後霊
74-a (誰がどんな基準で背後霊に選ばれるか)
血縁関係のある霊もいれば、地上的な縁故関係はまったくなくて、果たさんとする目的において志を同じくする者、言ってみれば霊的親近感によって結ばれる場合もあります。そこには民族や国家の違いはありません。地上を去り、地上的習性が消えていくと、民族性や国民性も消えていきます。魂には民族も国家もありません。あるのは肉体上の差異だけです。
(背後霊として選ばれる基準としては)地上世界のために為すべき仕事があることを自覚して、みずから買って出る霊もいますし、ある霊的な発達段階まで来ている霊が、人類啓発の使命を帯びた霊団から誘いをかけられる場合もあります。
私はその誘いを受けた一人です。自分から買って出たのではありません。が、やってみる気はないかと言われた時、私はすぐに引き受けました。正直言ってその仕事の前途は、克服しなければならない困難によって
"お先まっ暗"の状態でした。しかし、その困難は大体において克服され、まだ残されている困難も、取り除かれたものに比べれば、きわめて小さいものばかりです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp.130-131
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74-b (霊界で働くための資格)
こちらの世界は実にうまく組織された世界です。人間には想像できないほど高度に組織化されております。それでいて、その仕事を運用するには、こうした(霊の適正をテストする)小さな組織が必要なのです。私たちの霊団の中にはあなた方も名前をよくご存知の方が何人かいます。ところが、どういうわけか、揃って遠慮がちな性格の人ばかりで、私が出なさいとけしかけても、いつも
"あなたからお先に″と言って後へ引っ込むのです。
さて、たとえばあなたが自分で霊団を組織したいと思われても、霊の方があなたの仕事に共鳴して集まってくれなくてはだめですし、また呼び寄せるだけの霊力を発揮できる段階まであなたが進化していなくてはなりません。こちらの世界ではその人の人間性が全てを決します。絶対的実在は霊なのです。それには仮面も変装も口実もごまかしもききません。何一つ隠せないのです。全てが知れてしまうのです。
なぜかと言えば、その人のオーラ、色彩、光輝がその人の本性を示しているからです。教える資格もない者が先生ズラをしてもすぐにバレます。その人には教えられないことが明らかなのですから。ですから、あなたが人類のための仕事に志を抱く霊を呼び寄せようとしても、あなたご自身が霊的成長によって霊を引きつける力を具えていなければ、それは叶えられないということです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp.131-132
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74-c (通信霊の身元は保証できるか)
保証には二つあります。一つは通信霊が出す証拠に自然に具わっているものです。いつか必ず正体を見せます。もう一つは、これはとくに初めてしゃべる霊あるいは、せいぜい二度目の霊に言えることですが、その会を指揮している支配霊による身元の保証です。私のみるかぎり、何年も続いている有名な交霊会の支配霊は信頼できます。もっとも、だからといってーー私の話はいつもこのことに帰着するのですがー-そうした交霊会に出席している人が一瞬たりとも理性的判断をおろそかにしてよいと言っているのではありません。これは神からの贈物です。支配霊が誰であろうと、通信霊が誰であろうと、もし言っていることが自分の理性に反発を感じさせたら、それはきっばりと拒絶するのが絶対的義務です。
私たちの仕事の基本は"協調性″にあります。あくまでも人間側の自由意志と腹蔵のない同意のもとに手をつなぎ合って進まないと成功は得られません。しばしば言ってきたことですが、私の言うことがどうも変だと思われたら、どうぞ受け入れないでください。拒絶してください。私は絶対に誤りを犯さないとか叡智の全てを所有しているなどとは思っておりませんから、同意が得られない時はいっしょに考え合って、お互いに勉強していきましょう。
そういう方法でいけばきっと成功します。威圧したり強制したりして仕事をすすめるやり方は私たちは取りません。神から授かった理性の光で導き、一歩一歩をみずからの意志で踏み出すように仕向けます。
私たちが絶対に誤りを犯さないとは申しません。もっとも、故意の偽りを述べることとはまったく別問題です。実によりて木を知るべしーーこれは実に良い判断方法です。もし利己主義や欲得を煽るような、あるいは世間への義務をおろそかにさせたり、汚ない考えや隣人への思いやりに欠ける言説を吐くようなことがあったらーーもしも慈悲の心を忘れさせ自己本位の生き方を勧めるようなことがあったら、それが立派な罪悪性の証拠と言えます。
が、私たちの訓え、私たちの説く思想は、こちらの世界から発せられる全てのものの底流にある唯一の動機、すなわち
"人のために自分を役立てる″ということを第一に強調するものです。皆さんも互いに扶け合い、自分が得たものを他人に分け与え、かくして神の恩寵が世界中に広がるように努力していただきたいのです。実によりて人を知るべしーーこれが最後に勝利を収める方法です。なぜなら、それが神の御心であり、その神は愛と叡智によって動かされて、大自然の法則を通じて働いているからです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp.134-136
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74-d (人類を導く霊としての資格)
実際には一たん高度な(霊的)知識を手にすれば、それを間違って使用することはないでしょう。と言うのは、その知識を得たということは、その正しい使用法を心得る段階まで向上していることを意味するからです。
全ては摂理によって規制されているのです。入れ替り立ち替わりしやべりたがる低級霊の場合は別として、名の知れた支配霊が道徳的に首をかしげたくなるようなことを言った例は決してないはずです。非難したり中傷したり陰口を言ったり、つまり低俗な人間のするようなことを支配霊がしたためしはないはずです。人類を導く者としての資格があるか否かを見きわめる仕事をしている霊を得心させるだけの器量がなくてはならないからです。自分がコントロールできない者がどうして他人を正しい道へ導くことができましょう。でも、最後はあなた方自身が判断なさることです。
私たちに設けられた基準は実に高度なものです。何しろ混迷する人類を導くという使命に携わっているのです。指導者として十分な器量を具えていなければなりません。そこでこの仕事に携わる者は厳重な監視下に置かれます。また成果を報告し、細かい吟味を受け、仕事をさらに進展させるための再調整が為されます。私がいつもあなた方に、全てを安心して霊の世界の者にお任せしなさい、と申し上げるのはそのためです。あなた方に敬愛をもち、あなた方のために働き、さらにあなた方を通じて他の人々へ援助の手を差しのべたいと願っているスピリット、それだけを唯一の願いとしているスピリットであることは十分に証明済みのはずです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、pp.140-141
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74-e(守護霊にも守られないのはなぜか)
その時点でのもろもろの事情によって支配されているからです。各自に守護霊がいることは事実ですが、ではその事実を本当に自覚している人が何人いるでしょうか。自覚が無ければ、無意識の心霊能力をもち合わせていないかぎり守護霊は働きかけることはできません。霊の地上への働きかけはそれに必要な条件を人間の方が用意するかしないかに掛かっています。霊の世界と連絡のとれる条件を用意してくれれば、身近かな関係にある霊が働きかけることができます。よく聞かされる不思議な体験、奇跡的救出の話はみなそれなりの条件が整った時のことです。条件を提供するのは人間の方です。人間の方から手を差しのべてくれなければ、私たちは人間界に働きかけることができないのです。
『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
潮文社、1985、p.209
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74-f (各国の指導者たちにも指導霊が働いているか)
むろんです。常に働いております。またその関係にも親和力の法則が働いていることも事実です。なぜかと言えば、両者の間に霊的な親近関係があれば自然発生的に援助しようとする欲求が湧いてくるものだからです。
たとえば地上である種の改革事業を堆進してきた政治家がその半ばで他界したとします。するとその人は自分の改革事業を引き継いでくれそうな人物に働きかけるものです。その意味では死後にもある程度まで、つまり霊の方がその段階を卒業するまでは、国家的意識というものが存続すると言えます。同じ意味で、自分は大人物であると思い込んでいる人間、大酒呑み、麻薬中毒患者などがこちらへ来ると、地上で似たような傾向をもつ人間を通じて満足感を味わおうとするものです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.234
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74-g (指導者が霊の働きに反応しない場合はどうなるか)
別にどうということはありません。但し、忘れてならないのは、無意識の反応---本人はそれと気づかなくても霊界からの思念を吸収していることがあるということです。インスピレーションは必ずしも意識的なものとはかぎりません。むしろ、大ていの場合は本人もなぜだか分からないうちに詩とか曲とか絵画とかドラマとかエッセーとかを思いついているものです。霊の世界からのものとは信じてくれないかも知れません。が、要するにそのアイディアが実現しさえすれば、それでよいのです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.234-235
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74-h (各国に向けた霊的計画が用意されているか)
すべての国にそれなりの計画が用意されています。すべての生命に計画があるからです。地上で国家的な仕事に邁進してきた人は、あなた方が死と呼ぶ過程をへてもそれをやめてしまうわけではありません。そんなことで愛国心は消えるものではありません。なぜなら愛国心は純粋な愛の表現ですから、その人の力は引き続きかつての母国のために使用されます。さらに向上すれば国家的意識ないしは国境的概念が消えて、すべては神の子という共通の霊的認識が芽生えてきます。しかし、私どもはあらゆる形での愛を有効に活用します。少なくとも一個の国家でも愛しそれに身を捧げんとする人間の方が、愛の意識が芽生えず、役に立つことを何一つしない人間よりはましです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.235
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74-i (地上の発明・発見等は殆ど霊界からの導きによる)
あえて断言しますが、地上世界にとっての恵み、発明・発見の類のほとんど全部が霊界に発しております。人間の精神は霊界のより大きな精神が新たな恵みをもたらすために使用する受け皿のようなものです。しかしその分量にも限度があることを忘れないでください。残念ながら人間の霊的成長と理解カの不足のために、せっかくのインスピレーションが悪用されているケースが多いのです。科学的技術が建設のためでなく破壊のために使用され、人類にとっての恩恵でなくなっているのです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.236
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74-j (霊界からの悪魔的なインスピレーションもあるか)
あります。霊界は善人ばかりの世界ではありません。きわめて地上とよく似た自然な世界です。地上世界から性質の悪い人間を送り込むことをやめてくれないかぎり、私たちはどうしょうもありません。私たちが地上の諸悪を無くそうとするのはそのためです。こちらへ来た時にちゃんと備えができているように、待ちうける仕事にすぐ対処できるように、地上生活で個性をしっかりと築いておく必要性を説くのはそのためです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.236-237
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74-k(背後霊に援助を要請するためには)
困難が生じたときは平静な受け身の心になるように努力なさることです。そうすればあなた自身の貯蔵庫から---まだ十分には開発されていなくても---必要な回答が湧き出てきます。きっと得られます。われわれはみな進化の過程にある存在である以上、その時のあなたの発達程度いかんによっては十分なものが得られないことがあります。が、その場合もまた慌てずに援助を待つことです。こんどは背後霊が何とかしてくれます。
求めるものが正しいか間違っているかは、単なる人間的用語の問題にすぎません。私たちからみて大切なのは
“動機”です。いかなる要求をするにせよ、いかなる祈りをするにせよ、私たちが第一に考慮するのはその動機なのです。動機さえ真摯であれば、つまりその要求が人のために役立つことであり、理想に燃え、自分への利益を忘れた無私の行為であれば、けっして無視されることはありません。それはすなわち、その人がそれまでに成就した霊格の表れですから、祈るという行為そのものがその祈りへの回答を生み出す原理を作用させております。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.55-56
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74-l (求める者には必ず霊界からの援助と指導が与えられる)
霊界には、いついかなる時も、インスピレーションによる指導と鼓舞の手段を用意した霊の大軍が控えております。真剣に求めてしかも何一つ手にすることが出来ないということは絶対にありません。求める者にはかならず救助と援助と指導とが与えられます。かつて地上のためにこれほど大規模な活動が行われたことはありません。真摯に求める者のために生きた真理の水を用意し、叡智に満ちた驚異的現象を用意し、霊の貯蔵庫が無尽蔵であること、いかなる要求にも応えられること、誰であろうと、どこにいようと、その恩恵にあずかることができることを知っていただく態勢ができております。
生まれや地位、身分、職業、民族、国家の別は関係ありません。また仕事で地下に潜っていても、海洋へ出ていても、空を飛んでいても、あるいは列車に乗っていても、船に乗っていても、工場で働いている時も事務所で働いている時も、お店でお客の相手をしている時も、あるいは家で家事にたずさわっている時も、つねに霊の力の恩恵にあずかることができるのです。
霊的貯蔵庫との波長がうまく調和しさえすれば、その恩恵にあずかることができます。各自がもつ受容能力に似合った分だけを授かります。何とすばらしい真理でしょう。それなのになお地上にはそれを否定する人がいます。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.113-114
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74-m (霊的真理に対する迫害は常に逆効果をもたらせてきた)
これまでに起きたことはもとより、これから生じるであろう出来ごとも、霊に目覚めた者が不安や恐怖を抱くほどのものは何一つありません。忠誠心と自信とをもち、背後より支援してくれるその力の存在を忘れることなく、真理はいかなる反抗勢力に遭っても、真理であるがゆえに耐え抜くものであることを確信して邁進すべきです。
私はいつも、昨日や今日の出来ごとによってすぐに揺らぐようなことのない永遠不変の原理を説いております。永遠の実在---不変の摂理の働きに基礎をもつ実在の一部なのです。この知識を活用することによって、決断に際して不安も恐れもなく、自分がたずさえている真理はかならずや勝利をおさめるのだという確信をもつことができます。
この真理はすでに地上に根づいております。役割を忠実に果たしておられる皆さんの存在が白日のもとにさらされることになりますが、それをむしろ天命として喜んで受けとめるべきです。なぜならば、それはわれわれの説く真理によって困惑すべき者を困惑させていきつつあることの証左だからです。本当はとうの昔に取り除かれるべきだったものを今、新しいほうきによって掃き取っているところなのです。その過程にも教訓的要素が意図されております。が、掃き取られる側がそう大人しく引きさがるわけがないでしょう。当然の成り行きとして、そこに闘争が生じます。
それも栄誉ある闘争の一部です。その背後には霊の大軍が控えております。光り輝く天使の群れの援助を得ているわれわれに絶対に挫折はありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.115-116
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74-n (29-d) .(支配霊は常に霊媒自身よりも霊格が高いのか)
いえ、そうとはかぎりません。その霊媒の仕事の種類によって違いますし、また、支配霊≠ニいう用語をどういう意味で使っているかも問題です。地上の霊媒を使用する仕事に携わる霊は協力態勢″で臨みます。一人の霊媒には複数の霊から成る霊団が組織されており、その全体の指揮に当たる霊が一人います。これを支配霊″と呼ぶのが適切でしょう。霊団全体を監督し、指示を与え、霊媒を通じてしゃべります。時おり他の霊がしゃべることもありますが、その場合も支配霊の指示と許可を得た上でのことです。しかし役割は一人ひとり違います。指導霊″という言い方をすることがあるのもそのためです。 入神霊言霊媒にかぎって言えば、支配霊はかならず霊媒より霊格が上です。が、物理現象の演出にたずさわるのは必ずしも霊格が高い霊ばかりとはかぎりません。中にはまだまだ地上的要素が強く残っているからこそその種の仕事にたずさわれるという霊もいます。そういう霊ばかりで構成されている霊団もあり、その場合はかならずしも霊媒より上とはかぎりません。しかし一般的には監督・支配している霊は霊媒より霊格が上です。そうでないと霊側に主導権が得られないからです。
『シルバー・バーチの霊訓
(7)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.176-177
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74-o (指導霊崇拝の傾向に対して警告する理由)
指導霊といえども完全ではありません。誤りを犯すことがあります。絶対に誤りを犯さないのは大霊のみです。私たちも皆さんと少しも変わらない人間的存在であり、誤りも犯します。ですから私は、霊の述べたものでも(すぐに鵜呑みにせず)かならず理性によってよく吟味しなさいと申し上げているのです。私がこうして皆さんからの愛と好意を寄せていただけるようになったのも、私自身の理性で判断して真実であるという確信の得られないものは絶対に口にしていないからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.18
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74-p (指導霊は崇拝されるべきではないという認識)
こうした仕事を通じて私たちが皆さんにお教えしなければならない任務の一つは、私たち自身は実に取るに足らぬ存在であることを認識していただくことです。どの霊もみな神の使者にすぎないのです。ですから、自分以外の誰かがその神の意志と霊力にあやかれるようにしてあげれば、それは自分に課せられた仕事を成就していることですから、その機会を与えられたことに感謝すべきだと考えるわけです。
私がこうしてこの霊媒を使用するように、私を道具として使用する高級霊団の援助のもとに素朴な真理をお届けすることに集中していると、時として私自身の存在が無くなってしまったような、そんな感じがすることがあります。
私はこれまでたどってきた道を後戻りして、その間に発見したものを受け入れる用意のある人たちに分けてあげるようにとの要請を受け、そしてお引受けしたのです。私は絶対に誤りを犯さないなどとは申しません。まだまだ進化のゴールに到着したわけではありません。が、これまでに発見したもの、学んだことを、それが皆さんのお役に立つものであれは、なんでも惜しみなくお分けします。
その教えが悲しみと悩みと困難の中にある人たちの救いになっていることを知るのが、私にとって充足感の源泉の一つなのです。その教えは私個人の所有物ではないのです。それは全ての者がたどるべき道があることを教え、その道をたどれば自分自身についての理解がいき、全生命を支配している無限の霊力の存在に気づき、各生命がその霊力の一部をいただいていること、それ故に絶対に切れることのない絆で結ばれていることを知ります。
そういう次第ですから、指導霊ないしは支配霊としての資格を得るにいたった霊は、自分自身が崇拝の対象とされることは間違いであるとの認識があるのです。崇拝の念は愛と叡智と真理と知識と啓示と理解力の完全な権化であるところの宇宙の大霊、すなわち神へ向けられるべきなのです。神とその子等との間の一層の調和を目的とした感謝の祈りをいつ、どこで、どう捧げるべきかについて、間違いのないようにしないといけません。
もっとも、みなさんからの愛念は大歓迎です。私がこうして使命を継続できているのも地上に愛があるからこそです。その愛を私がいただけるということは、私が託された仕事を成就しつつあるということです。これからも、この冷ややかな地上世界に降りた時の何よりの支えとなる愛の温かさを頂戴しつづけるつもりです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.19-21
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74-q (指導霊の中で地上でクリスチャンであった人は少ないのか)
少ないわけではありません。知名度が低かった---ただそれだけのことです。地上の知名度の高い人も実はただの代弁者にすぎないことをご存知ないようです。つまり彼らの背後では有志の霊が霊団やグループを結成して仕事を援助してくれているということです。その中にはかつてクリスチャンだった人も大勢います。もっとも、地上で何であったかは別に問題ではありませんが……
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.149-150
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74-r (一人の支配霊がいくつかの類魂を従えていることがある)
― 一般的に言って指導霊というのは人間のパーソナリティの規模を拡張した、その延長と考えてよろしいでしょうか。それともまったく別個の存在でしょうか。
とても複雑な問題です。今おっしゃったパーソナリティはインディビジュアリティに置きかえた方がよいと思います。私は物的身体から派生する人物像であるパーソナリティと、その人物像という仮面(マスク)の背後の実像であるインディビジュアリティとを区別しております。
地上ではあなたという存在はあくまでも独立した一人物ですが、霊的なインディビジュアリティは必ずしもそうではありません。例えばアフィニティというのがあります。これは一個の魂が半分に分かれた存在で、二つが同時に地上へ誕生することがあるのです。
それから私がダイヤモンドの側面にたとえている“霊相”とでも呼ぶべきものがあります。一個のダイヤモンドがあって、それにたくさんの“相”facetがあります。それぞれが地上に誕生して体験を持ち帰り、ダイヤモンドの光沢を増します。
さらにそのダイヤモンドがいくつか集まって一個のインディビジュアリティを構成しております。例えばこの霊媒(バーバネル)と奥さん(シルビア・バーバネル)と私(シルバー・バーチ)とはー個のインディビジュアリティに所属しております。一人の支配霊がいくつかの類魂を従えていることがあるわけです。それを“延長”と呼びたければそう呼ばれて結構です。が、結局は同じことに帰一します。つまり地上で肉体を通して顕現するのはインディビジュアリティのごくごく小さな一部ということです。
(訳者注― これまでインディビジュアリティとダイヤモンドとが同一物であるような表現で説明していたのを、ここではじめて霊側から見た場合の違いを解説している。
要するに意識の中枢であるインディビジュアリティがあって、その分霊を受けた魂の集団、いわゆるグループソールがある。その魂の一つ一つにも相facetがあり、その相が地上へ誕生してくることもある。一つだけのこともあれば二つ、三つ、あるいはもっと多くの相が一度に一個の人間として誕生してくることもあり、全部が、つまり一個のダイヤモンドがそっくり誕生してくることもある。魂が大きいというのは相を数多く携えているということである。使命が大きいほど多くの相を携えている。
ダイヤモンドに例えられているのは一個の魂のことであり、その魂がたくさん集まって一個のインディビジュアリティを構成している。地上で“自分”として意識しているのは脳を中枢として顕現している地上特有の人物像であって、その中において霊的自我の占める要素はきわめて少ない。よほどの切実な試練でも体験しないかぎり目覚めない。そこでシルバー・ハーチは安楽な生活より苦難の生活の方が有難いのです、と言うわけである。
なお以上の説明は、“霊側から見た場合の違い”であって、それを人間側からどう理解するかは、例えや用語の受け止め方によって各人まちまちであろう。シルバー・バーチがたびたび言っているように、用語にはあまりこだわらない方がよい)
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 136-138
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74-s (すべての導きは宇宙の大霊すなわち神から来る)
― 霊の導きを受けていることは私にも分かりますし、そのレベルの高さも分かるのですが、分からないのは、その導きの源が普遍的な始源なのか、それとも特定の指導霊なのかという点です。祈りまたは瞑想によってその出所を確かめる方法はあるのでしょうか。
よく引用される諺をまた使用させていただきましょうか。“師は弟子に合わせて法を説く”と言います。これがご質問への答えにならないでしょうか。そのようなことにこだわってはいけません。すべての導きは宇宙の大霊すなわち神から来ます。神庁から派遣される霊、およびあなたと霊的近親関係にある高級霊が、あなたが地上へ誕生する前から付いてくれているのです。
必ずしも姿を見せるとはかぎりませんが、霊によってはきちんと姿を見せて地上での仕事について相談し、よく納得してから誕生させる場合もあります。その霊を何と呼ばれても結構です。今もちゃんと控えてくださっています。側を離れることはありません(九巻の解説《“霊がすぐ側にいる”ということの意味》参照)。その仕事は聖書(詩篇)にある通りです― “神は天使を遣わして汝を守り、すべての面倒を見させ給う”
いずれも光り輝く存在です。それぞれの受け持ちの人間を取り囲み、保護と指導と援助という、みずから課した責任の遂行に当たります。その最後の目標は霊的発達を促すための道へ導くことです。それは容易なことではありません。岩や石ころだらけです。しかも見なれた景色を後にするにつれて、ますます困難さを増していくものです。(同じことを別のところで“霊的理解が深まるにつれて、ますます孤独感が増していくものです”と表現している― 訳者)
しかし、低く沈むだけ、それだけ高く上がることもできるのです。志は無限に高くもつことができます。完全というのは、いつかどこかで達成される性質の過程ではありません。到達せんとする過程の無限の連続です。
霊の褒賞を手に入れたければ、それなりの犠牲を払う覚悟がなくてはなりません。しかし、いったん手に入れたら二度と失うことはありません。
私たちは人間世界の困難な事情、問題、そして欲求のすべてをよく理解しております。物的な世界に住んでおられるのだということを十分認識しております。そこで、奉仕的な仕事に打ち込んでおられる方が食べるものや飲むものに事欠くことのないように、その供給源との連絡を取りもっております。必要最少限のものは必ず手に入ります。
皆さんだけでなく、お会いする人すべてに申し上げていることは、人間としての最善を尽くしてさえいればよろしいということです。それ以上のものは要求しません。たとえ倒れてもまた立ち上がることができるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 138-140
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74-t (大切なのは指導霊の人種ではなくその霊の威力である)
― 私には二人の指導霊がついてくださっていると聞いております。一人はエジプト人で、もう一人は北米インディアンです。本当かどうか、確認していただきたいのですが……
なぜそのようなことにこだわるのかが理解できません。その二人がしっかりとした霊であることはお認めになっているのでしょう?
― その点は疑問の余地はございません。
だったら、その二人の霊が地上でどこに住んでいたかなどということはどうでもよいことではありませんか。大切なのは霊の威力です。間違いなく霊の世界からのものであることを示してくれる力です。あなたを愛し、そして援助してくれる背後霊に密かな信念をお持ちなさい。あなたを迷わせるようなことはいたしません。イザという時は必ず道を示してくださいます。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 143-144
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74-u (持てる霊力を役立てたい一心から働きかける無数の背後霊)
皆さんの味方として差し向けられる霊はいろいろです。地上で顔見知りだった人、血縁のあった人、さらにはそうした地上的縁とは無関係に、ただ地上人類への愛に動かされてやってくる高級霊もいます。背後霊というと人間はとかく名前を知っている人たちのことを頭に浮かべがちですが、そのほかに、自分の存在を知ってもらいたいとも功績を認めてもらいたいとも思わず、ただ持てる霊力を役立てたい一心から働きかける霊が無数にいることを忘れないでください。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 21-22
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74-v (見ることができなくても一人ひとりを導いてくれている背後霊)
肉眼で見ることも肉耳で開くことも肌で触れてみることもできませんが、背後にはあなたとの地上的縁のある霊、血縁はなくても無私の愛に動かされた霊が控え、援助し、鼓舞し、もっとも生き甲斐のある生き方へと導いてくれております。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp.48-49
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74-w (背後霊にはあなたの困難や願望のすべてが分かっている)
背後霊にはあなたの困難、問題、願望のすべてが分かっております、又、ここが物質の世界であり、それなりの物的必需品というものがあることも承知しております。あなたが真理に忠実に生きておれば、飢えや渇きに苦しむことはありません。絶対に必要なものは必ず用意されます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.49
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74-x [79-p] (あなた次第でものごとは善にも悪にもなる)
ものごとは善にもなり悪にもなります。そこにあなたの選択権、自由意志、決断力、判断力を使用する要素があるわけです。それは大霊があなたに与えた神性の一つです。言い変えれば、あなたは神の操り人形ではないということです。その判断・決断に際して背後霊は、あなたが正しい選択をするよう精一杯の努力をします。しかし時には大切な教訓を学ばせるために思い通りにさせることもあります。が、その裏にはあなたがきっと無傷で立ち直り貴重な叡智を身につけてくれるとの確信があります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 86-87
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74-y (絶体絶命の時にはあなたの背後霊が道を開いてくれる)
危機に立ち至ったら、それまでの過去を振り返って、お先真っ暗の絶体絶命の時に道が開かれてきたことを思い出してください。そこに背後霊の導きがあったのです。それはこの後も決して見棄てることはありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 151
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74-z (あなたは一人ではなく常に背後霊に見守られている)
あなたが一人ぼっちでいることは決してありません。困難の中で一人で悪戦苦闘させられることはありません。たとえ目に見えず、耳に聞こえず肌に感じられなくても、背後霊の影響がつねにあなたを包んでおります。霊についての実相を理解しさえすれば地上世界は改革できるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.162
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74-za[47-v] (あなたの善行を手助けしようとする霊は大勢いる)
あなたにとってまったく見知らぬ霊、名前すら聞いたことのない霊でありながら、あなたのために力になってあげたい一心で来てくれる霊が大勢いるものです。そういう霊は名のりたがりませんし、見返りというものを一切期待しないものです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.167
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74-zb (いかなる事態にあっても背後霊が控えてくれている)
勇気をもって進みなさい。落胆や失敗がないというのではありません。これからも数多くの失敗と落胆があることでしょう。しかし、いかなる事態にあってもあなたの背後には、困難に際しては情熱を、疲れた時には元気を、落胆しそうな時には励ましを与えてくれる霊が控えてくれていることを忘れてはなりません。一人ぼっちということは決してないということです。大霊が使者を派遣してくださっております。私もその中の一人です。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp.174-175
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74-zc (背後霊に全幅の信頼を置きなさい)
一つの仕事を始めると、遅かれ早かれ難問が生じるものです。しかし克服できないほど大きな問題は生じません。先のことを心配してはいけません。私も大きな歯車の歯の一つにすぎません。歯車は確実に回転します。それを動かしている力は物質界と霊界とを包含する大字宙を経綸している力なのです。その力が森羅万象を生み出したのです。星雲を、太陽を、惑星を、大洋を、大海を、山を、花を、小鳥を、動物を、そしてあなたがた人間を生み出したのです。それほどの大きな力が、あなた一人の人生に手こずるわけがありません。私たちは人間の挫折を見たくて戻ってきたヤジ馬ではありません。私たちがお持ちした霊力はすでに地上に根づいております。その力を阻止できるものは地上には存在しません。背後霊に全幅の信頼を置きなさい。
『シルバー・バーチの霊訓 (12』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 161
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74-zd (宇宙には物的身体による体験をもたない高級霊が存在する)
この宇宙には、物的身体による体験をもたない高級霊の界層が存在します。そういう種類の霊にしかできない宇宙経綸の仕事があるのです。一度も地上の人間のような形態をもったことのない高級霊です。その界層での成長にとって地上的顕現は不必要なのです。居ながらにして高級霊で、宇宙の上層部に所属しています。“光り輝く存在”というのがそれです。現実にそういう存在がいます。
トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』
(近藤千雄訳)ハート出版、2003、p.124
75 物質世界・唯物主義
75-a (物質世界の「実在」はすべて影である)
物質の世界に生きておられるあなた方は実在から切り離されております。あなた方自身にとって、そのことを理解することが難しいことは私もよく承知しております。なぜならば、あなた方なりに何もかもが実感があり実質があり永遠性があるように思えるからです。ご自分を表現しておられるその身体、地上という大地、住んでおられる住居、口にされる食べもの---どれをとってもこれこそが実在であると思いたくなります。でも、それらはことごとく "影" であり "光" ではないことを申し上げねばなりません。あなた方は五感に感応しない世界を想像することができません。従ってその想像を超えた世界における活動と生活ぶりを理解することができないのは当然です。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.69-70
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75-b (地上世界は実在ではなく影である)
こうした会合の場は、地上の人間でない私どもがあなた方地上の人間に永遠の原理、不滅の霊的真理、顕幽の区別なくすべての者が基盤とすべきものについての認識を新たにさせることに意義があります。物質界に閉じ込められ、物的身体にかかわる必要性や障害に押しまくられているあなた方は、ともすると表面上の物的なことに目を奪われて、その背後の霊的実在のことを見失いがちです。
肉体こそ自分である、いま生きている地上世界こそ実在の世界であると思い込み、実は地上世界はカゲであり肉体はより大きな霊的自我の道具にすぎないことを否定することは実に簡単なことです。もしも刻々と移り行く日常生活の中にあって正しい視野を失わずに問額の一つ一つを霊的知識に照らしてみることを忘れなければ、どんなにか事がラクにおさまるだろうにと思えるのですが・・・・残念ながら現実はそうではありません。
こうした霊界との協調関係の中での仕事にたずさわっておられる人でさえ、ややもすると基本的な義務を忘れ、手にした霊的知識が要求する規範に適った生き方をしていらっしゃらないことがあります。知識は大いなる指針となり頼りになるものですが、手にした知識をどう生かすかという点に大きな責任が要請されます。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986, pp.14-15
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75-c (霊的であるより物質的にならざるを得ない場合もあるのでは)
「まず神の御国と神の義を求めよ。しからば全てそれらのもの汝らに加えらるべし」 (マタイ・6・33)
・・・・・(両方とも可能であることが)当然です。が、優先すべきものをちゃんと優先させ、霊的真理を忘れなければ、物質面をおろそかにすることはないはずです。私は物質界に生きる人間としての責務を回避すべきであるかに説いたことはー度もありません。霊的存在として優先すべきものをちゃんと優先させ、その上で物的人間としての責務も忘れないということであらねばなりません。霊をおろそかにしてもいけませんし、精神をおろそかにしてもいけませんし、身体をおろそかにしてもいけません。責任をもつべきことを回避してはいけません。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 128-129
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75-d (既成宗教よりも頑固な共産主義とどう対決すべきか)
(ゲストの一人)われわれスピリチュアリストは形骸化しつつある古い宗教と対決し反抗することに多大の時間とエネルギーを注ぎ込んでいるようですが、もう一つの宗教である―
信奉者は宗教と呼ばれることを拒否なさるかも知れませんが― マルキシズムないしはコミュニズム(共産主義)についてはまったく言及しておりません。今では少なくとも思想上の共鳴者は人類の三分の一にも達しています。既成宗教のいずれよりもはるかに頑強で、その影響力は強烈です。これこそ純粋な唯物観を説いている点で、われわれの本当の敵ではないかと思うのですが……
コミュニズムというのは何のことでしょうか。
― マルクスとレーニンとエンゲルスの著作をもとにした政治的、経済的、ならび社会的思想と言ってよいかと思います。
もしもコミュニズムが真の協調性を意味し、階級上の差別もなく、住民がお互いに助け合う心をもった社会のことであるとすれば、現在の地上世界で思想的にコミュニズムを標榜している国家には、そういうものは存在しておりません。私の言わんとするところを明確に述べてみましょう。
地上社会の問題のそもそもの根源はマテリアリズム(物質偏重・唯物思想)にあります。皆さんはそれと真っ向から対立するスピリチュアリズムを提唱し唱道なさっているわけです。そして霊が実在であることが単なる理論ではなくて事実であることの証拠を提供しております。私と同じく皆さんは、ナザレのイエスをリーダーとする神庁の霊団によって考案された霊的大計画の一環として、霊力を地上へ送り届けるだけでなく、そこにしっかりと根づかせ、いかなる地上の勢力がたとえ束になってかかっても、それを駆逐できないようにするために、本日もこうしてここに集まっているわけです。
今まさに世界中にそのための霊的橋頭堡が設営され地固めされつつあります。それはさらに多くの橋頭堡を築くためです。霊力はすでに地上にしっかりと根づき、その恵み深い影響力を発揮しております。公的には禁じられている国々においてすら働いており、これからも働き続けます。
皆さんは明日のことを思い煩う必要はどこにもありません。最善を尽くして私たちに協力してくださればよいのです。そのうち徐々にではありますが、地上のガンである物欲が除去されていきつつあることに気づかれるでしょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 178-180
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75-e (霊界には共産主義の指導霊というのも存在するか)
―(もう一人のゲストが息子から依頼された質問として) “共産主義者の指導霊”というのも存在するのでしょうか。
そういう質問をされて私がどういう受け取り方をするかを説明しますので、しっかりと理解してください。
私はラベルというものにはまったく関心がありません。私にとっては何の意味もありません。地上世界ではラベルが大切にされます―
共産主義者、社会主義者、保守党、労働党、スピリチュアリスト、セオソフィスト、オカリスト、等々、挙げていったらキリがありません。しかし、大切なのはラベルではなく、その中身です。コミュニストという用語の起源は、物的財産は共有するのが正しいと信じた遠い昔にさかのぼります。それ自体はとても結構なことです。
いかがでしょう、有り余るほど持っている人が足りない人に分けてあげるというのは公正なことではないでしょうか。教師というのは持てる知識を持たざる生徒に譲ってあげようとする人のことではないでしょうか。
分かち合うというのは立派な原理です。私たち霊がこうして地上へ戻ってくるそもそもの目的も、やはりそこにあります。皆さんは私たちから学び、私たちは皆さんから学ぶということです。
聖書にも“地球とそこにあるものすべては主のものなり”(コリント@10・26)とあります。これは人間は地上のものは何一つとして所有できない―自分のものとはなり得ないことを意味します。地上にいる間だけリースで所有しているようなものです。永遠に自分のものではありません。地上のゴタゴタは皆が自分がいちばんいいと思うものを少しでも多く自分のものとしようとする― いちばん、悪いものを欲しがる者はいません― そこから生じております。その結果として強欲、貪欲、私利私欲が王座に祭り上げられ、物欲第一主義が新しい神として崇拝されることになります。
地上には物欲優先の副産物が、見るも痛ましいほどはびこっております。悲劇・卑劣行為・飢餓・栄養失調・残虐行為・動物実験、こうしたものはすべて物欲を優先させることから生じる恐ろしい産物です。
みんなで分け合うという理念は結構なことです。共産主義という用語そのものに怯えてはいけません。初期のクリスチャンには全財産を共有し合った時期が、少しの間でしたがありました。ということは彼らのことをコミュニストと呼んでもよいことになります。
一つの理念をもつことと、それを実現するために拷問や抑圧や迫害や専制的手段を用いることとは別問題です。そこに大事な違いがあります。
ですから、ご質問に対するお答えは、大霊の恩恵を惜しみなく分かち合うべきであると信じて働いているコミュニストの指導霊はいます、ということになります。そこに何ら問題とすべきものはないと思います。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 180-182
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75-f (物的なものだけに目を向けている人間は大きな過ちを犯す)
人間はやはり神の摂理にのっとった生き方をしなければならないのだと思い知るまでは、混沌と破綻と悲劇と崩壊の止む時はないでしょう。私たちは人間も本来は“霊”であることを原理とした摂理を説くほかはありません。なぜなら、物的なものが朽ち果ててチリとなった後になお残るのは霊的なものだからです。物的なものだけに目を向けている人間は大きな過ちを犯します。なぜなら、その生き方は幻影を追い求めて永遠なるものを忘れているからです。いたって簡単なことなのですが、そのことがいまだに理解されておりません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.24
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75-g[5-l] (肉体を含めて物質は一種の障害物であるという見方もできる)
物質は一種の障害物であるという見方もできます。鈍重で、もどかしくて、活気がありません。それにひきかえ霊は軽快で、繊細で、鋭敏です。が、その霊も地上で自我を表現するには五つの物的感覚を使用しなければならないのです。たとえてみれば巨匠が粗末なバイオリンを使って演奏するようなものです。巨匠の魂には音楽的インスピレーションが湧き出ていても、バイオリンが粗末であるために、その織細な響きが出せません。人体はまさに土の塊りです。しかし、地上で生活するにはそうした器官に宿るしかないのです。
シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 148-149
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75-h[61-zg](霊的真理に比べたら物質界のいかなる貴重品も安ピカもの)
霊的真理に比べたら物質界のいかなる貴重品も安ピカものです。これから何千年も先まで生きられてから地上生活を振り返ってごらんになると、地上で欲しくてしかたがなかったものよりも、地上で得た知識、地上で身につけた叡智の方がはるかに大切であることがお分かりになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.165
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75-i[10-zc] (正しい生き方が身につけば霊力の無限の恩恵がもたらされる)
物質それ自体に存在はありません。霊によって活力を与えられてはじめて存在を得ているのです。霊こそ生命であり、あなたが受けておられるエネルギーも宇宙の生命力とまったく同じものです。その意味であなたも創造活動に参加しているのです。正しい生き方、正しい考え方が身につけば、霊力がもたらしてくれる無限の恩恵に浴することができるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.168
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75-j[61-zr] (戦争、流血、悲劇、病気の数々も霊的無知から起こる)
大半の人間は地上だけが人間の住む世界だと考えています。現代の生活が人間生活のすべてであると思い込み、そこで、物的なものを、いずれは残して死んでいかねはならないものなのに、せっせと蓄積しようとします。戦争、流血、悲劇、病気の数々も、元はと言えば、人間が今この時点において立派に霊的存在であること、つまり人間は肉体のみの存在ではないという生命の神秘を知らない人が多すぎるからです。人間は肉体を通して自我を表現している霊魂なのです。それが地上という物質の世界での生活を通して魂を生長させ発達させて、死後に始まる本来の霊の世界における生活に備えているのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 220-221
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75-k (唯物主義は本質的に貪欲、強欲、自分第一主義に根ざしている)
唯物主義はその本質自体が貪欲、強欲、自分第一主義に根ざしています。同じ天体上に住んでいながら、自分以外の者への思いやりも気遣いも考えず、ひたすら自分の快楽と蓄財に励みます。敵対関係、戦争、怨恨――こうしたものを産み出すのは唯物主義です。物質がすべてである、死はすべての終りである、だったら自分の思うままに生きて何が悪い、という論法です。
こうした自己中心の考えが地上界に暗黒と困難、闘争と暴力と憎み合いを生み出すのです。人間は霊的存在としての宿命を背負っているのですから、その宿命を成就するための生き方をするには、そうしたものを無くさないといけません。
トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』
(近藤千雄訳)ハート出版、2003、pp.180-181
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75-l (地上の人間は霊的な価値が理解できないでいる)
地上というところは妙な世界です。霊の目をもってご覧になれば、人間が愚かなことばかりしていることに呆れるはずです。いずれはチリと化してしまう、どうでもよいものを後生大事にし、永遠の宝である霊的なものは疎かにしております。霊的な価値が理解できないのです。その場かぎりの愉しみや喜びばかり求め、その物的欲望に埋もれて、肝心の霊性が顕現する機会がほとんどありません。
しかも、そうした地上かぎりの所有物を多く蓄積した者が偉大な人″とされます。どうせ滅びてしまうものを集めようとする人と、永遠に残るものを集めようとする人のどちらが偉大な人″でしょうか。
トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
コスモ・テン・パブリケーション、1989、p. 253
76 動物 (進化・死後)
76-a (動物も死後は飼い主といっしょに暮らすのか)
どっちとも一概には言えません。なぜなら、これには人間の愛がかかわっているからです。死後も生前のままの形体を維持するか否かはその動物に対する飼主の愛一つにかかっているのです。もしも動物とその飼主---この飼主(Owner)という言葉は好きではありません。他の生命をわがものとして所有する(own)などということは許されないのですから---その両者が時を同じくして霊界へ来た場合、その飼主のところで暮らします。愛のある場所が住処となるわけです。愛が両者を強く結びつけるのです。その場合は住処がありますから動物界へ行く必要はありません。
動物界に住むのは飼主より先に霊の世界へ来た動物にかぎられます。誰かに世話をしてもらわなくてはならないからです。さもないと、心を温めてくれただけでなく一時的にせよ"不滅生"の要素を吹き込んでくれた"愛"から切り離されて、動物といえども心を取り乱すことがあるのです。地上で人間的な愛と理性と判断力と情愛を一身に受けた飼主より先に他界した場合は、その主人が来るまで動物界へ行ってそこで面倒をみてもらいます。それはちょうどあなた方が遠出をする時にペットを専門家に預けるのと同じで、霊界の動物の専門家に世話をしてもらうわけです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.88-89
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76-b (動物への愛は死とともに終わることはない)
長い進化の道程のどこかの時点で、神が、というよりは、法則の働きによって動物の魂に自我意識が芽生え、やがて理性が芽生え、知性が発達してきました。その段階で人間は判断力というものを身につけたわけです。すなわち物事を意識的に考え、決断する能力です。しかし実はそうした能力は全部はじめから潜在していたのです。どんなに遠く遡っても、魂の奥に何らかの形で潜在していたのです。それが目覚めるには神の息吹きが必要でした。
さて、そうして神が動物に霊性の息吹きを吹き込んだように、あなたがた人間も動物に対して同じことが出来るのです。人間は神の一部です。従って進化の順序の中で人間の次に位置する動物に対して、その霊性の息吹きを吹き込む能力を具えています。つまり動物との接触の中で、愛という霊的な力によって、動物の魂に自我意識を芽生えさせることが出来るのです。それがその後の長い進化の道程を経て、やがて人間という頂点にまで達するわけです。愛が生命のすべてのカギです。動物であろうと人間であろうと、愛は死によって何の影響も受けません。愛こそは宇宙の原動力です。全宇宙を動かし、全てを制御し、全てを統治しています。また愛は人間を通じて他の生命へ働きかけようとします。人間同志でもそうですし、動物、植物といった人間より下等な生命でもそうです。人間が可愛がる動物---犬、猫、その他のペット類---へ向けられる愛は死とともに終るのではありません。愛があればこそ生命は進化するのです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.89-90
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76-c (霊界の動物との生活はいつまでも続くのか)
いえ、その点が人間と違います。人間と動物はどこかの時点でどうしても別れなければならなくなります。地上の年数にして何十年何百年かかるかわかりませんが、動物の進化と人間の進化とではその速度が違います。より大きな光明へ向けて絶え間なく向上していく人間のペ−スについて行けなくなる時が来ます。人間は死の関門を通過して霊界の生活に慣れてくると、言いかえれば自分を地上と結びつけていた絆が切れたことを自覚すると、向上進化を求める欲求、内部の神性を発揮しようとする欲求が次第に加速されていきます。そして魂に潜む能力を他の生命の進化を援助する方向へと発揮しようとします。そうやって人間が霊的に向上すればするほど、動物はそのスピードについて行けなくなり、やがて死後も燃え続けた愛の炎も次第に小さくなり、ついには動物はその所属する種の類魂の中に融合していきます。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.91
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76-d (霊界では動物はやがて個性を失っていくのか)
その通りです。そこに人間と動物の大きな違いがあるわけです。動物は類魂全体として未だ一個の個性を有する段階まで進化していないのです。その段階まで進化すれば、もはや動物ではなくなり、人間の段階に到達したことになります。ペットとして可愛がられた動物は、人間の愛の力によって言わば進化の段階を飛び超えて人間と一緒に暮らすわけですから、その愛の糸が切れてしまえば、もとの類魂の中に戻るほかはありません。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.92
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76-e (動物の人間界への誕生の可能性)
(動物の)人間界への誕生には二種類あります。 古い霊が再び地上へ戻ってくる場合と、"新しい霊" が物質界で個体としての最初の段階を迎える場合です。
双方とも霊魂です。双方とも自我意識をもった霊であり個性をもった霊的存在です。ただ、一方がベテランの霊で、進化の完成のためにどうしても物質界で体験しなければならないことが生じて、再び地上へやってくるのに対し、他方は、やっと人間の段階にまで達した新入生です。直前まで動物だった類魂が人間界への仲間入りをしたのです。アメーバの状態から始まって爬虫類、魚類、鳥類、そして動物と、ありとあらゆる進化の段階をへて、今ようやく人間へと達したのです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.93
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76-f (自然の摂理が完全なら動物界になぜ弱肉強食があるのか)
おっしゃる通り摂理は完全です。たとえ人間にはその顕現のすべては理解できなくても完全です。(三千年もの)永い経験で私は自然の摂理には何一つ不完全さがないことを知りました。無限の叡智と無限の愛によって生み出されたものだからです。これまで何度も申し上げておりますように、創造活動のありとあらゆる側面に対応した摂理が用意されており、何一つ、誰一人として忘れられたり、放ったらかされたり、見落されたりすることがないのです。
その一つである進化の法則は、存在と活動の低い形態から高い形態への絶え間ない進行の中で働いております。低い動物形態においては、見た目には残忍と思える食い合いの形を取ります。が、進化するにつれてその捕食本能が少しずつ消えていきます。先史時代をごらんなさい。捕食動物の最大のものが地上から姿を消し、食い合いをしない動物が生き残ってきております。これにはもう一つ考慮すべき側面があります。そうした動物の世界の進化のいくつかの面で人類自身の進化がかかわっていることです。すなわち人類が進化して動物に対する残忍な行為が少なくなるにつれて、それが動物界の進化に反映していくということです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.178-179
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76-g (動物の中には進化して人間的資質さえ見せているのもある)
それは当然そうあってしかるべきことです。どの種属においてもそうですが、進化の世界では未来において発揮されるものを今の段階で発揮している前衛的存在と、現在の段階で発揮すべきものすら発揮していない後衛的存在がいるものだからです。
人類について言えは、天才、革命家、聖賢といった存在が霊的資質を発揮して、あすの人類のあるべき姿を示しております。人間として可能な最高の英雄的精神と奉仕的精神の見本を示しているわけですが、動物の世界にもそれに比肩しうるほどの資質を、他の仲間から抜きん出て発揮するのがいます。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.179-180
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76-h (大自然はなぜ捕食動物のような悪い見本を用意したのか)
大自然が悪い見本を用意するようなことはしません。大自然は宇宙の大霊すなわち神が顕現したものです。神は完全です。神の摂理も完全です。大自然は、その本来の仕組みどおりに働けばかならずバランスと調和が取れるようになっているのです。人間が自然と調和して生きれば、地上はパラダイス、神の御国となります。
たしかに捕食動物はいますが、それは適者生存≠フ摂理の一環であり、しかも大自然の摂理全体のほんの小さな側面にすぎません。自然界の本質は協調です。共存共栄です。たとえてみれば人間は地球の庭師のようなものです。植物の本性に合わせて手入れをしておれば庭は美しくなります。今では人間が捕食動物となっています。何百万年もの歴史の中で人間ほど破壊的な生物はおりません。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.180
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76-i (病気を予防するために殺虫剤を使用することも間違いか)
すべての生命に敬意を抱かねばならないのは言うまでもないことですが、これも動機と程度の問題です。特殊な環境において病気の原因となる虫が発生するので殺虫剤を使用するという場合は、その動機は正しいと言えます。生きるための環境条件を確保する必要を考慮に入れなければいけません。たとえばダニが発生した場合、その家に住む者の健康を確保するという動機からであれば、スプレーして駆除してしまった方がくつろいで暮らせます。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.181
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76-j (知的な動物が死後人間界へ進化していくことはあるか)
進化も自然の摂理の一部です。これにも一本の本流とたくさんの支流とがありますが、全体としては同じ摂理の一部を構成しております。あなたがた人間に潜在している霊性と動物のそれとは質的にはまったく同じものです。程度において差があるだけで本質においては差はありません。霊は無限ですから、可能性としては人間においても動物においても驚異的な発現力を秘めておりますが、霊的には両者とも一本の進化の道に属しております。その道程のどの時点で動物へ枝分かれし、どの段階で人間へ枝分かれするかは、誰にも断定できません。私はそこに取り立てて問題とすべき要素はないと思います。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.181-182
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76-k (動物も人間と同じコースをたどって進化するのか)
動物には動物としての進化のコースがあります。それも進化活動全体の背後にある同じパターンの一部です。動物の場合は(進化というよりは)一種の発達過程です。もしも私から子供はみんな両親と同じように進化するのでしょうか″と尋ねたら、答えはイエス≠ナもありノー≠ナもあるでしょう。子供にはそれぞれにたどるべき人生のパターンがあらかじめ定められております。が、そのパターンの範囲内において、それまでに到達した霊的意識の段階によって規制された自由意志の行使が許されております(それが進化の要素となるー訳者)。霊を宿した存在には無限の可能性があります。
動物には動物なりの、進化の全過程の中で果たすべき役割があり、それを基準とした進化のコースをたどります。やはり因果律が絶対的要素です。今現在あるものはすべて、かつてあったものの結果です。動物も宇宙進化の大機構で欠かすことのできない存在であり、それは山川草木、海、そのほか自然界のあらゆるものが欠かせない存在であるのと同じです。
それらを一つにまとめている絆が霊″です。生命は一つなのです。人間は動物とつながっているだけでなく、生命あるものなら何とでもつながっているのです。ただし、それらはそれぞれに定められた進化のコースをたどります。そして、それらがどこまで進化するかは、それぞれの次元での進化の法則によって決まります。花、木、小鳥、野生動物、そして人間と、それぞれに適応した法則があるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.182-183
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76-l (死後の動物が類魂の中に帰らず地上の姿でいる場合もある)
人間と親密な関係にあった動物にかぎって、個体を具えたままの存続が可能なのです。そうした動物は地上にいる時から、類魂としての本能のまま生きる動物には得られない、個体としての進化が促進されております。それは人間と動物との間で霊的進化を促進し合うという、すばらしい関係の一例といえます。動物が皆さんとともに同じ環境で過ごすということは、そうでない場合よりもはるかに人間らしい個性的な意識を発達させることになるのです。そうした人間的″表現というものに縁のなかった動物は類魂の中に埋没していきます。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.185-186
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76-m (人間の優しさが動物の進化を促進することになるのでは)
それも一本の進化の大木の枝のようなものです。進化の道が枝分かれして発展したものです。そこにおいては、優しさが優しさを呼び、哀れみが哀れみを呼び、愛が愛を呼び、憎しみが憎しみを呼びます。ですから、人間は常に最高の理想を目標としなければいけないことになります。そう努力することの中で、人間と動物とが進化の道程でお互いに促進し合うことになるのです。それはすべての生命が一つだからです。物質的にはさまざまな区別がありますが、霊的には一つです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.186-187
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76-n (人間に愛され進化を促進された動物は死後再生するか)
輪廻転生説というのがあるようですが、動物は再生しません。
人間に可愛がられた動物は、霊界でずっと待っていて、その人が他界してきた時に出迎えます。永遠に消滅することのない個的存在を与えてくれた人ですから、必要なかぎりずっと待っています。存続するのはその個的存在です。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.187
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76-o (動物は人間との縁で個的存在の獲得が意図されているのか)
そうです。人間がその思考と行為において動物に対する愛を発揮すればするほど、動物の方も愛を発揮するようになり、それこそ、聖書の中のオオカミと小ヒツジの話のように、人間と動物とが並んで寝そべるようになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.187-188
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76-p (人間が生きるための動物の屠殺は神の愛と矛盾しないか)
自分たちで勝手に動物を殺しておいて、神がそうせざるを得なくしているかにお考えになってはいけません。どちらにするかは、あなた方が決めることです。動物を殺さないと生きて行けないというものではありません。が、いずれにせよ、答えは簡単です。そうした問題をどう処理していくかによって人類の進化が決まるということです。自分たちのやっていることに疑問を感じるようになれば、その時、あなたの良心が次の答えを出します。
人間は自分のすることに責任を取ることになっており、その行為の一つ一つが、その人の霊性に影響を及ぼします。その際にかならず考慮されるのが動機です。動機にやましいところがなく、どうしても殺さざるを得なかったという場合は、その行為はあなたの成長にプラスに働きます。
霊的摂理は原因と結果の関係、タネ蒔きと刈り入れの原理の上に成り立っており、これは絶対にごまかせません。あなたのすること、考えること、口にすることの一つ一つがそれ相応の結果を自動的に生み出します。そこにごまかしは利きません。悪いと知りつつ間違ったことした場合は、その結果に対して責任を取らされます。その結果としての苦しみは自分で背負わねばなりません。
良い行いをする場合でも、それが見栄から出ているのであれは動機がお粗末でいけませんが、魂の自然の発露として善行を施した場合は、そういう行いをしたという事実そのものが、あなたを霊的に向上させます。それが摂理というものなのです。
私が常々申し上げているのは、殺害″の観念がつきまとう食糧品はなるべくなら摂取しない方がよいということです。殺すということは絶対にいけないことです。ただし、その動機を考慮しなければならない場合があることは認めます。
霊的向上を望む者は、いかなる犠牲を払っても大自然の摂理と調和して生きる覚悟ができていなければなりません。その摂理は霊的なのです。霊が発揮すべき側面はいつの時代も同じです。愛と慈悲と寛容と同情と協調です。こうした原理にしたがって考えれば、食すべきものを食し、飲むべきものを飲み、正しい生き方に導かれます。しかし、最終的に選択するのはあなた自身です。そのために神は自由意志というものをお与えになっているのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.188-190
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76-q (動物に投与している抗生物質などが人間の体内へ入ってきている)
それは、他の生命に害悪を及ぼすと必ずそれに対して責任を取らされるという、大自然の永遠のサイクルの一環です。他の生命に残酷な仕打ちをしておいて、それが生み出す結果を逃れるということは許されません。貪欲以外に何の理由づけもなしに動物をオリの中で飼育し、動物としての本来の権利を奪うことは、悪循環をこしらえることにしかなりません。そのサイクルの中で因果律が生み出すものに対して、人間は苦しい代償を支払わねばなりません。動物であろうと花であろうと小鳥であろうと人間であろうと、自然界全体が恵んでくれる最高のものを得るには、慈悲と愛と哀れみと親切と協調しかないのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.190-191
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76-r (動物実験は真に役立つものではないという認識について)
動物実験によって何一つ役立つものが得られないというわけではありません。が、その手段は間違っていると申し上げているのです。何の罪もない動物に残酷な仕打ちをすることは霊的なことすべてに反するからです。
人間は自分のすることに責任を取らされます。動機は正しいといえるケースも沢山ありますし、それはそれとして霊的発達に影響を及ぼします。摂理とはそういうものなのです。がしかし、神は、子等が動物への略奪と残忍な行為によって健康になるようには計画しておられません。それは改めて強調する必要を認めないほど明らかなことでしょう。
学者が道を間違えているのはそこのところです。人間の方が動物より大切な存在である。よってその動物を実験台として人間の健康と幸福の増進をはかる権利がある、という弁解をするのですが、これは間違っております。
共存共栄こそが摂理なのです。人間がその責任を自覚すれば、哀れみと慈悲の心が生まれてくるはずです。他の生命を略奪しておいて、その結果として自分に及ぶ苦しみから逃れられるものではありません。略奪行為は略奪者自身にとって危険なことなのです。残虐行為はそれを行う人間にとって罪なことなのです。愛を発揮すれば、それだけ自分が得をするのです。憎しみの念を出せば、それだけ自分が損をするのです。摂理がそういうふうに出来ているのです。
したがって当然、みなさんは動物への残虐行為を減らし、もっと良い方法、哀れみに満ちた手段を教えるための努力をすべきです。人々に、みずからの生活を規律正しくし自然の摂理と調和して生きる手段を教えてあげれば、みんな元気で健康で明るさいっぱいの人間になれるのです。
霊的にみて間違っていることは決して許されるものではありません。しかし、不完全な世界においてはある程度の間違いと行き過ぎはやむを得ません。そうした中にあって皆さんが、平和と友好と和合と愛の中で暮らすべき全生命の福祉を促進するために闘うべきなのです。愛とは摂理を成就することなのです。他の生命に残酷な行為をしているかぎり、愛を成就しているとは言えません。ナザレのイエスは自分の敵に対して向けられる愛を最高のものとしました。もとより、これは生やさしいものではありません。情愛、共感、近親感を覚える者を愛することは容易です。しかし、とかく敵対関係になる相手を愛することがもし出来れば、それは神の御心の最高の表現であると言えます。
何ごとにつけ、価値あるものは成就することが困難にできあがっているのです。もしも霊的進化がラクに達成できるとしたら、それは達成するほどの価値はないことになりましょう。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.191-193
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76-s (動物は人間に虐待され屠殺されるために生まれてくるようなもの)
---「霊的に正しければ物的な側面も正しくなるとおっしゃったことがありますが、地上の動物についてそれをどう当てはめたらよいのでしょうか。人間によって虐待され屠殺され誤用されるために生まれてくるようなものです。動物は霊的に何も間違ったことはしていないはずですが」という質問に対して---
そうではありません。動物の霊は、霊は霊でも人間の霊とは範疇が違います。人間には正しい選択をする責任が負わされています。そこに自由意志があります。進化の計画を促進することもできれば遅らせることもできます。つまり、限られた範囲内においての話ですが、地球という惑星でいっしょに暮らしている他の生命をどう扱うかについて自由意志を行使することが許されております。地上は悪用・濫用・誤用だらけです。その中でも決して小さいとは言えないのが動物への無用の虐待と略奪です。しかし、人間が進化していくにはそうした過程もやむを得ないのです。もしも人間から自由意志を奪ってしまえば、インディビジュアリティを進化させ発展させていくチャンスが無くなります。そこが難しいところなのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.194
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76-t (動物への虐待が生じることが許されるというのが理解できない)
生じることが許される″という言い方をなさるということは、あなたは人間から自由意志を奪い去った方がよいとお考えになっていることになります。くり返しますが、もしも人間が自由意志を奪われたら、ただの操り人形でしかなくなり、内部の神性を発揮することができなくなります。霊的本性が進化せず、地上生活の目的も果たせません。あなたが地上に生をうけたのは、地上が霊の保育所であり、学校であり、訓練所だからです。さまざまな挑戦にあい、それを克服していく中で自由意志を行使してこそ、霊は進化できるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.194-195
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76-u (人間が悪いことをして動物が犠牲を払うのは間違いではないか)
埋め合わせと懲罰の法則というのがあります。あなたが行う尊いこと悪いことのすべてが、自動的にあなたに霊的な影響を及ぼします。大自然の因果律は絶対に免れません。埋め合わせと懲罰の法則はその大自然の中核をなすものです。罪もない人民が支配者の横暴な振舞いによって被る犠牲に対して埋め合わせがあるように、残虐な取り扱いをうけた動物にもそれなりの埋め合わせがあります。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.195-196
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76-v (人間はこれから先も動物虐待を続けていくのではないか)
いえ、そうとばかりも言えません。他の生命に対する責任を徐々に理解していくでしょう。人間は進化しつつある世界での進化しつつある存在です。絶頂期もあれば奈落の底もあり、向上もすれば転落もします。進化というのは螺旋形を画きながら進行するものだからです。しかし全体としては少しずつ向上しています。さもないと進化していないことになります。無限の叡智と無限の愛によって、すべてのもの、すべての人間についてしかるべき配慮が行き届くように、ちゃんとした構想が出来あがっていることを認識しなくてはいけません。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.196-197
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76-w [50-g] (人間は動物を虐待していながらうまく罪を免れている)
うまく罪を免れる人は誰一人いません。摂理は間違いなく働きます。たとえ地上で結果が出なくても、霊界でかならず出ることを私が断言します。因果律はいかなる手段をもってしても変えられません。永遠に不変であり、不可避であり、数学的正確さをもって働きます。原因があればかならず結果が生じます。それから逃れられる人は一人もいません。もしいるとしたら、神は神としての絶対的な資格である完全なる公正を失います。
そのこととは別に、もう一つ私がいつも強調していることがあります。残念ながら人間は宿命的に(五、七十年という)ほんの短い視野しか目に入らず、永遠の観念で物ごとを考えることができないということです。あなた方には地上で発生していることしか見えませんが、その結果は霊界で精算されるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.197-198
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76-x(神の御心に従えば動物が実験材料にされることもなくなる)
その通りです。ですから、われわれは今後とも啓発と真理の普及を、いつどこにいても心掛けなくてはならないのです。その妨げとなるものを一つでも取り除くことができれば、そのたびにそれを喜びとしなければいけません。霊の力は単なる変革をもたらすのではありません。そこに進化があります。地上の人間が大自然とその背後に秘められた莫大な力から絶縁した行為をすれば、それに対する代償を支払わねばなりません。
人間は霊的属性、霊的潜在力、霊的才能をたずさえた霊的存在です。自分だけでなく他の存在、とくに動物の進化を促進することになる生き方をする能力を具えているのです。進化の生き方をする能力を具えているのです。進化の大計画は何としても達成しなければなりません。それを人間が邪魔をして遅らせることはできます。が、完全に阻止することは絶対にできません。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.198-199
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76-y (動物は下等といわれたりするが人間とは進化の道が違うのか)
いえ、進化は全生命が一丸となって歩むものです。進化の法則はたった一つあるのみで、それが生命活動の全側面を規制しております。
いつものことながら、用語が厄介です。下等動物″という用語を用いれば、動物は人間と同じ意識段階まで到達していないことを意味します。たしかに動物には人間のような理性、理解力、判断力、決断力をつかさどる機能が仕組まれておらず、大部分が本能によって動かされているという事実から言えばその通りです。ですから、そうした限られた一つの視点から観れば動物は
”下等”と考えることができます。しかし、それですべての検証が終わったわけではありません。
動物に教えられることが多いのは当然のことです。動物は忠誠心、愛着心、犠牲心、献身といった資質をけなげに表現しますが、これは人間が学ぶべきすばらしい手本です。しかし人間はそれらを意識的に、そしてもっと高度に発揮できます。なぜなら、動物よりも意識の次元が高いからです。ただし、ここでは霊的意識のことではありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.199-200
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76-z (飼い猫は人間には見えない霊の存在に気づいているのか)
もちろん気づいております。人間に見えなくなったのは、あなた方の文明---時としてそう呼ぶのはふさわしくないことがあるのですが---それが人間生活を大自然から遠ざけたことに原因があります。つまり大自然がもたらしてくれる能力と力から人間が絶縁しているのです。そのために文明人は大自然と密接につながった生活をしている人種よりも心霊能力が発達を阻害されているのです。
一般的に言って、家庭で飼われている動物は文明の恩恵は受けておりません。動物の方がその飼い主よりも自然な超能力を発揮しております。そういうわけで、残念ながら動物の方が霊的存在について人間よりも自然な形で意識しております。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.201
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76-za (動物愛護運動に生涯を捧げている或る夫妻へのことば =1=)
あなた方(Michael & Armand Denis)は肉体に閉じ込められているために、ご自分がどれほど立派な仕事をされたかご存知ないでしょう。お二人は骨の折れるこの分野を開拓され、人間と動物との間に同類性があり従ってお互いの敬意と寛容と慈しみが進化の厳律であることを見事に立証されました。
大自然を根こそぎにし、荒廃させ、動物を殺したり、(実験で)片輪にしたりするのは、人間のすべきことではありません。強き者が弱き者を助け、知識あるものが無知なるものを救い、陽の当たる場所にいる者が片隅の暗闇を少しでも無くすための努力をすることによって、自然界の全存在が調和のある生命活動を営むことこそ、本来の姿なのです。
その点あなた方は大自然の大機構の中での動物の存在意義を根気よく紹介され、正しい知識の普及によく努力されました。それこそ人間の大切な役割の一つなのです。地上の難題や不幸や悲劇の多くが人間の愚かさと自惚れによって惹き起こされていることは、残念ながら真実なのです。
慈しみの心が大切です。寛容の心を持たなくてはいけません。自然破壊ではなく、自然との調和こそ理想とすべきです。人間が争いを起こすとき、その相手が人間どうしであっても動物であっても、結局は人間自身の進化を遅らせることになるのです。人間が動物を敵にまわしているうちは自然界に平和は訪れません。平和は友好と一致と協調の中にこそ生まれます。それなくしては地上は苦痛の癒える時がなく、人間が無用の干渉を続けるかぎり災害は無くなりません。人間には神の創造の原理が宿っているのです。だからこそ人間が大自然と一体となった生活を営むとき地上に平和が訪れ、神の国が実現する基礎ができるのです。
残酷は残酷を呼び、争いは争いを生みます。が、愛は愛を呼び、慈しみは慈しみを生みます。人間が憎しみと破壊の生活をすれば、人間みずからが破滅の道をたどることになります。ことわざにも“風を蒔いてつむじ風を刈る”と言います。悪いことをすればその何倍もの罰をこうむることになるのです。
何ものにも憎しみを抱かず、すべてに、地上のすべての生命あるものに愛の心で接することです。それが地上の限りない創造的進化を促進するゆえんとなります。それは、人間がその一部を占めている進化の機構の中で為しうる最大の貢献です。
挫けてはなりません。あなた方の仕事に対して人はいろいろと言うことでしょう。無理解、無知、他愛ない愚かさ、間抜けな愚かさ、心ない誹誘、等々。これには悪意から出るものもありましょうし、何も知らずに、ただ出まかせに言う場合もあるでしょう。それに対するあなた方の武器は、ほかならぬ霊的知識であらねばなりません。所詮はそれがすべての人間の生きる目的なのです。霊的知識を理解すれば、あとは欲の皮さえ突っ張らなければ、神の恩恵に浴することができるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.202-204
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76-zb(動物愛護運動に生涯を捧げている或る夫妻へのことば =2=)
お二人は多くの才能をお持ちです。まだまだ動物のために為すべき仕事が山ほど残っております。地上の生命は全体として一つのまとまった生命体系を維持しているのであり、そのうちのどれ一つを欠いてもいけません。お二人が生涯を傾けておられる動物は、究極的には人間が責任を負うべき存在です。なぜならば、人間は動物とともに進化の道を歩むべき宿命にあるからです。ともに手を取り合って歩まねばならないのです。動物は人間の食欲や道楽の対象ではないのです。動物も進化しているのです。
自然界の生命はすべてが複雑にからみ合っており、人間の責任は、人間どうしを超えて草原の動物や空の小鳥にまで及んでいます。抵抗するすべを知らない、か弱い存在に苦痛を与えることは、ぜひとも阻止しなくてはなりません。
装飾品にするために動物を殺すことは、神は許しません。あらゆる残虐行為、とりわけ無意味な殺生は絶対に止めなくてはなりません。物言わぬ存在の権利を守る仕事にたずさわる者は、常にそうした人間としての道徳的原理に訴えながら闘わなくてはいけません。小鳥や動物に対して平気で残酷なことをする者は、人間に対しても平気で残酷なことをするものです。
動物への残忍な行為を見て心を痛め涙を流す人は、いつかはきっと勝つのだという信念のもとに、勇気をもって動物愛護のための仕事を続けてください。多くの残酷な行為が、無知であるがゆえに横行しています。それらは、霊的知識を知って目が覚めればたちどころに消えてしまうのです。また、一つの霊的知識に目覚めると、その知識のもつ別の意義にも目覚めてくるものです。その時こそ魂が真の自由への道を歩み始めた時でもあるのです。
動物と人間とは、進化のある段階でどうしても別れ別れにならざるを得なくなります。地上の年数にして何万年にもなるかも知れませんが、動物と人間とでは霊的進化のスピードが違います。より大きな光を求めて絶え間なく成長していく人間の魂についていけなくて、動物は置き去りにされることになります。
いったん物質のベールをくぐり抜けて霊界入りし霊的生活環境に慣れてくると、つまりあなたを地上に縛りつけていた絆が切れたことを認識すると、進歩しようとする欲求、内部に渦巻く神性を開発しようとする欲求が加速されます。いつどこにいても、修行次第で自分をいっそう役立てることを可能にしてくれる資質を開発しようとします。その霊的開発の分野において高く昇れば昇るほど、動物はついていけなくなります。そして、死後もなお炎を燃やしつづけた愛が次第に衰えはじめます。やがて炎がチラチラと明滅しはじめ、最後は同じ種属の類魂の中へ融合していきます。
創造物全体の進化を支配する総合的機構は一つあるだけですが、それぞれの顕現の形態にそれなりの異なった進化のコースがあります。人間が成就している個別的意識をもつに至っていない動物には、種属全体としての類魂があります。もっとも、同じ種属の動物でも人間との接触を通じて個別化を促進されて、人間に似た形態の個別的意識をもつに至っているのもいます。
全体としての類魂もいつまでも同じ状態にあるのではなく、つねに進化しております。高級界の神霊が人間に対する責任を自覚しているごとくに人間が地上の全創造物に対する責任を自覚するようになれば、動物の進化が加速され個別化が促進されます。しかし、人間との関係がよほど接近しないかぎり、ある程度まで同一方向ではあっても、進むコースは別々です。進化が進むにつれて類魂の数は少なくなり、個別化された魂が増えてまいります。
全生命を通じて“霊”という共通の近親関係が存在します。生命のあるところには必ず霊が存在します。人間の残忍性は動物の進化を遅らせるという形で反映します。それは人間の野獣性がみずからの進化を遅らせるのと同じことです。そのプロセスは同じです。全生命は協調、すなわちそれぞれが自分を役立てるということによって互いの進化に貢献し合うように意図されているのです。
何ごとにつけ動機が重大な要素となります。愛する動物が手の施しようのない状態となっている時、これ以上苦しませるのが忍びなくて地上的生命に終止符を打たせる処置を取るのであれば、その動機は正当です。しかし動物の生得の権利を完全に無視して一かけらの同情心もなしに屠殺するとなると、その動機は利己的です。それは人間自身にとっても動物にとっても良かろうはずはありません。そこで、殺された動物の霊を何とかしてやらねばならなくなります。人間の場合、死産児や天折した子の霊は地上で味わうべきであったものについて埋め合わせが行われますが、動物の場合も同じで、地上で得そこなったものについて埋め合わせがあります。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.204-207
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76-zc(動物愛護運動に生涯を捧げている或る夫妻へのことば =3=)
あなた方はみずからの意志を行使できない生命---その愛情と忠誠心と信頼と献身とが不幸にして、自分たちのしていることがいかに間違ったことであるかを知らない人間による情け容赦ない残虐行為によって皮肉な報復を受けている動物の保護のために献身しておられます。動物虐待は人間が気取って“文明”などと呼んでいるものにとっての大きな汚点であり、邪悪な汚辱です。
西洋人は私たちレッドインディアンを野蛮人と呼びますが、人間と同じ霊によって生命を与えられ同じ進化の道を歩みながら、一方的に人間によって略奪され苦しめられてきた動物に対するこれまでの人間の態度は、それに劣らず野蛮です。
お二人がこの道に導かれたのは決して偶然ではありません。霊的熟達の極印は哀れみの情にあるからです。哀れみのないところに霊的進化はありません。すべての存在、すべての動物、あらゆる生物、地上に存在する霊的顕現のすべてに対して哀れみの情を向けなくてはいけません。進化の道を少し先まで進んだ者は、共有している世界の不可欠の存在であるすべての人間、すべての生物に対して責任があることを自覚するものです。
抵抗する勢力がいかに強かろうと、障害や困難が見た目にいかに大きかろうと、善いことのために払われた犠牲はけっして無駄にはなりません。今たずさわっておられる闘いは最後には必ずや勝利をおさめます。なぜなら、最後には真実が勝利をおさめるからです。これからたどられる道もけっして容易ではありません。しかし先駆者たる者、大胆不敵な魂は、気楽な生活を期待したり蓮の台の生活を夢見たりするようなことがあってはなりません。魂が偉大であるほど、要請される仕事も大きなものとなるものです。
申し上げるまでもないことと思いますが、地上であなた方とともにこの道にたずさわっている同志のほかに、私たちの世界でもあなた方に協力せんとして、霊の大軍が控えております。その先頭に立って指揮しているのが地上でアッシジの聖フランチェスコと呼ばれていた人物です。地上時代にもこの悪弊の改善運動に全身全霊を捧げ、今また霊界からたずさわっているパイオニアには長い長い系譜があるのです。
時として味方であるべき人物が敵にまわることがあります。また時として、悲しいことですが、この道にたずさわっている人が本来の目的を忘れて我欲を優先させ、一身上の都合の方が大義より大切であると考えるようになったりします。万が一そういう事態になった時は、それは本来の道を見失ったわけですから、その人のために蔭で涙を流しておやりなさい。
私たちから要求することは、あなた方に啓示された光明にひたすら忠実であってくださる---それだけです。自分を役立てるという目的にひたむきでありさえすれば---これ以上の崇高な宗教はないのです---自動的に莫大な霊の力を呼び寄せ、それが数々の障害を取り除き、神の慈愛あふれる意志が地上に顕現されることになるでしょう。
生命はその全側面において互いに混じり合い依存し合っております。そこに一種の親族関係ともいうべき密接なつながりがあります。生命は無限ですから、その顕現もまた無限の形態をとっております。どの部分も他と切り離されて存在することはできません。
動物の中には人間との接触を通じて、人間とよく似た個的意識が芽生えているものがいます。もとより人間が動物に個別性を賦与するわけではありません。それは出来ませんが、潜在しているものを加速させることはできます。それは皆さんが精神統一その他の修行によって内部の霊的能力を開発するのと同じです。感性を具えた存在に永遠の資質を賦与することができるのは宇宙の大霊すなわち神のみです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.207-210
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76-zd(動物愛護運動に生涯を捧げている或る夫妻へのことば =4=)
動物の魂も本質においては人間の魂とまったく同じです。双方とも同じ神から出ているのです。違うのは質ではなく程度です。動物と人間とでは発達の法則が同一方向ではあっても別々になっております。地上に生をうけた目的を果たして霊界入りし、他界直後の余波がおさまると、両者は別れ別れになります。
このように、両者にはそれぞれに果たすべき役割があります。人間は地上での人物像、つまり肉体器官を通じての魂の部分的表現が次第に消え、反対に霊的本性が開発され、潜在する完全性がより大きな発現の機会を得ます。永遠の時をへて成就される完全性へ向けて向上するにつれてパーソナリティが減り、インディビジュアリティが増えていきます。また動物は人間との愛の絆があるかぎり、目的を果たすまで人間とのつながりを維持します。
すべての種″に地上界と霊界とで果たすべき役割があります。何の原因もなしに、つまり偶然に存在するものは一つもありません。神の完全なる構想によって、あらゆる創造物、あらゆる生命がそれなりの貢献をするようになっているのです。用もない種が地上に発生したために絶滅させなければならなくなったなどということは絶対にありません。人間が地上で最大の破壊的動物であってはならない理由はそこにあります。
野生動物と人間との共存共栄が次等に当たりまえのこととなりつつあります。それは人間の動物への愛が大きくなって恐怖の壁が崩されつつある証拠です。人間がもしもこれまでのように動物を屠殺したり狩猟をしたり威嚇したりすることがなかったら、動物の側に恐怖心というものはおきなかったはずです。進化の促進のために人間とのつながりを求める動物もいるのです。身体機能上の進化ではなくて心霊的進化です。
しかし進化とは一直線に進むものでないことを忘れてはなりません。上昇と下降とがあります。スパイラルに進行します。感激的な絶頂にまで上がる時があるかと思えば、悪魔に呪われたようなドン底へ落ちる時もあります。そうした中にも計画は着実に進展し、進化が成就されていくのです。
愛が愛としての本来の威力を発揮するようになれば、すべての創造物が仲良く暮らせるようになります。地球という生活環境を毒し問題を発生させる不協和音と混沌のタネを蒔くのは、人間という破壊主義者、人間という殺し屋です。すべての問題は人間がこしらえているのです。神が悪いのではありません。動物が悪いのでもありません。人間が自由意志の行使を誤り、(万物の霊長だなどと)勝手に優越性を誇ったためです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.210-212
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76-ze (他界した妻から動物愛護運動家の夫に対する伝言)
奥さんからの伝言ですが、奥さんはあなた(デニス氏)がその後も動物愛護の仕事---あなたとともに生涯をかけた、動物への無用で愚かで邪悪な残虐行為を止めさせるための仕事をずっとお続けになっていることを喜んでおられます。これはまさに文明の汚点、恥ずべき汚辱です。全生命の同一性を理解しておられる皆さんは、下等な存在と見なされている動物が本来の権利を存分に発揮できるようにしてあげるための闘争に嫌気がさすようなことがあってはなりません。
虐待、残忍、苦痛、無益な流血への挑戦を続けてください。その価値ある闘争におけるあなたの役割を存分に果たしてください。最後はかならず善意が愚行に打ち勝ちます。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p. 212
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76-zf (残虐行為をしている側が勝っていると思える場合があるが)
光が闇を征服するように、善はかならず悪を征服します。闇の力は光には勝てませんし、悪の力も善の力には勝てません。気落ちしてはなりません。あなた(デニス氏)の背後には、かつて地上で同じ仕事に献身し死後も引き続き地上の生命すべてに自由をもたらすために尽力している霊団が控え、味方になってくれております。
プランというものがあるのです。あなたはその成就のための仕事に参加する栄誉を担っておられるのです。最後にはかならず成就されるのです。それを邪魔することはできます。遅らせることはできます。妨害することはできます。しかし、それによって神が計画を撤回なさるようなことは絶対にありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p. 213
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76-zg (霊界とちがって地上では動物愛護運動に一致団結がない)
一致団結というのは難しいものです。残念ながら地上においては往々にして原理・原則よりも個人的な考えが優先されます。立派な仕事にたずさわっているものの、時が経つにつれて初心を忘れ、一身上のことばかり考えるようになります。人間の煩悩の一つです。それは、つまるところ霊的理解力の欠如から生まれております。献身的に取り組んではいるものの、それは自分の思うように進んでいるかぎりの話です。自分の考えが正しいと思うのは良いとして、それが最高でそれしかないと自惚れはじめます。これが、地上で同じ仕事にたずさわっていて、こちらへ来てからもその成就のために援助している霊を困らせる問題の一つなのです。
あなた方に心掛けていただきたいのは、容易なことではありませんが、その種の人間に個人的見解の相違を忘れさせ、基本の原理・原則に立ち帰って、最初にこの仕事に情熱を燃やした時の目標に向かって無心に努力するように指導することです。これは今たずさわっておられる動物愛護の仕事にかぎりません。他の分野においても言えることです。たとえばスピリチュアリズムと呼ばれている思想運動においても、自己顕示欲が強い人がいて、とかく自惚れが原因となって衝突が起きていませんか?
私は善のための努力は絶対に無駄にされないと申し上げます。闘いはかならず勝利をおさめます。なぜなら背後に控える霊力は、それくらいのことでは押し止められないほど強大だからです。いかなる抵抗に遭ってもかならず退却せしめます。
改革は私たちの世界から鼓吹されるのですが、同時に強大な霊力を具えた輝ける存在による祝福と協力とが与えられます。あなたは是非とも為さねばならないことへの情熱を失ってはなりません。善行への励みに嫌気がさしてはなりません。これは大切なことです。(嫌気を吹き込み、やる気を無くさせようとする邪霊集団の働きかけがあるから---訳者)勇猛果敢な精神を保持しなければいけません。あなたには為すべきことが山ほどあります。今のところあなたはそれを立派にやってのけておられます。どうにもならないと思える事態にいたっても必ず道が示されます。
私の記憶では、ここにお集りの皆さんの誰一人として、克服できないほどの困難に遭遇された方はいらっしゃいません。時にはギリギリの瀬戸際まで待たざるを得ないことがあるかも知れませんが、きっと道は開けます。
いかに美しいバラにもトゲがあります。見たところ不潔なものの中からきれいなものが出てくることがあります。大自然は両極性、多様性、付随的対照物、というパターンの中で営まれております。絶頂があればドン底があり、晴れの日があれば嵐の日があり、無知な人がいれば知識豊かな人がおり、戦争があれば平和があり、愛があれば憎しみがあり、真実があればウソがあり、弱みがあれば強みがあります。それぞれに果たすべき役割があります。
進化の法則はそうしたパターン以外には働きようがないのです。弱点の中に長所を見出すことがあります。暗闇の中でこそ光明が見出せるのです。困難の中にあってこそ援助が得られるのです。夜明け前には必ず闇夜があるというのは陳腐な譬えですが、やはり真実です。これも人生のパラドックスの一つです。進化というのはそうしたパターンの中でこそ不易の目的を成就していけるのです。
こうしたことを知ったからには、あなたは悲観なさる必要などどこにもありません。残虐行為の当事者たちが自分たちのしていることの極悪非道さを知らずにいることであなたが思い悩むことはありません。あなた自身も気づいていらっしゃらない要素がいろいろとあるのです。あなたも一個の人間に過ぎませんが、内部には神性という黄金の筋金が入っているのです。それこそがあなたの宝庫です。発電所です。イザという時のエネルギー源です。
同志の中に手を焼かせる者がいたら、その人のことを気の毒に思ってやることです。道を間違えているのです。そういう人間を激しい口調で説き伏せようとしてはなりません。素朴な真理を教えてあげるだけでよろしい。そのうち分かってくれるようになります。
あなたは今みずからの自由意志で選択した仕事にたずさわっておられます。神から授かったもっとも大切な贈物の一つと言えるでしょう。もしかしたら理性も思考力も挑戦欲も懐疑心も持てない、ただの操り人形、ロボットのような存在となっていたかも知れないのです。それが、反対にあなたには無限の神性が潜在的に宿されているのです。何かに挑戦することによってそれを引き出すことができるのです。その時の奮闘努力が霊のはがねを鍛えるのです。掛けがえのない絶好機です。霊がその純金の姿をあらわし神性を発揮することになるよう、どうか今こそあなたの気骨を示してください。
挑戦にしりごみしてはなりません。闘うということは、霊的な目的意識さえ失わなければ、為になるものです。あなたより少しばかり年輩の魂である私から、最後にひとこと激励の言葉を述べさせていただきましょう。いついかなる時も永遠の霊的原理を指標としそれに頑固にしがみついているかぎり、あなたに、絶対に挫折はありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 213-217
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76-zh (交霊会に招かれたもう一人の動物愛護運動家へのことば)
本日あなたにお出でいただいたことを非常にうれしく思っております。人類の啓発と、感性を具えたあらゆる形態の生命への慈悲心を教える仕事に献身しておられる神の僕をお迎えすることは大いなるよろこびです。
その仕事が容易ならざるものであること、前途に困難が山積していることは私もよく存じております。しかし、霊の褒賞は、困難に直面した時ほど最大限の信念を堅持できる人にしか獲得できないのです。あなたは容易ならざる道を選んでしまわれました。私はけっしてあなたが今それを後悔していらっしゃると申し上げているのではありません。あなたはこの道をみずからの自由意志で選択なさったことを指摘しているだけです。もう分かっていらっしゃると思いますが、地上で先駆的な仕事にたずさわっている人たちはけっして孤独な闘いを強いられているのではない---霊界から大々的に援助を受けている事実を分かってほしいと思っている霊が大勢います。
この分野の仕事は困難をきわめます。改めるべきことが沢山あります。が、残虐行為を一つでも終わらせる、ないしは少なくすることに成功すれば、その分だけ永遠の創造活動に参加したことになるのです。
申し上げるまでもないことと思いますが、地上に共存する動物にも人間と同じように“奪うべからざる権利”というものがあります。進化の法則は地上の全生命を包括していること、一つとしてその働きの外にはみ出ることは有り得ないこと、形態はいかにさまざまであっても、すべてが一丸となって前進するものであること、すべての残酷な行為は、それが人間どうしであっても動物への仕打ちであっても、結局は生命の世界全体の進化を遅らせることになる---こうしたこともすべてあなたはすでにご存知と思います。
この大切な分野において少しでも進展があれば、それは大きな勝利であると見なすべきです。私と同様あなたも、人類の進化が動物の世界全体と密接につながっていることをよくご存知です。献身と忠誠をもって人間に仕えている動物たち、また人間の進化によってその進化が促進されるようにと地上に生をうける動物たちに対する責任を人間が無視しあるいは忘れるようなことがあると、それは人間みずからの進化をも遅らせることになるのです。
困難、戦争、貪欲、利己主義、こうした物質万能主義の副産物はすべて、人間が愛、情け、哀れみ、慈悲、好意といった霊的資質を発揮しないかぎり地上から無くなることはありません。そうした資質は神からの授かりものなのです。それが発揮できるようになるまでは、人間はみずからを傷つけることばかりします。乱獲や残虐行為の一つ一つが人間どうし、あるいは動物に対して害を及ぼすのは無論のこと、それが人間みずからの進歩を妨げることになるのです。
地上の動物愛護運動の背後には偉大な霊の集団が控えております。そのリーダーといってよい立場にあるのが(※)地上で“アッシジの聖フランチェスコ”と呼ばれた人物です。霊界において活発にこの運動を展開しており、他界後に身につけた霊力をフルに活用してあなた方の仕事の成就を援助しております。
(※ リーダーといってよい立場、というあいまいな言い方をしたのは、その上にも、そのまた上にも高級霊が控えて指揮しているからである。『霊訓』のイムペレーターも四十九名の霊団の頭であるが、その上にはプリセプターと名のる、直接人間界と接触できないほどの高級霊が控えていた。それは多分紀元前九世紀の予言者エリヤであろうとされているが、いずれにせよ最後に行き着くところは、地球圏に限っていえは、地球の守護神である。なお聖フランチェスコSan
Francesco d’Assisi は十三世紀のイタリヤのカトリック修道士で、庶民的愛と清貧を主義とするフランシスコ修道会の創始者―訳者)
問題に直面した時はそれをどう処理するかの決断を下さねばなりませんが、そんな時にいちばんお勧めするのは、瞑想状態に入って魂の奥へ引きこもり、神の声に耳を傾けることです。
今あなたがたずさわっておられる仕事は、あなたご自身がお選びになったのです。この分野にも組織、協会、審議会などがいろいろとありますが、そうしたものは本来の機能を果たせないかぎり存在しても無意味です。この種の仕事は内奥の生命、霊的実在についての知識に目覚め、他の生命との霊的つながりを理解した者が、自分を役立てるという動機一つに鼓舞されて仕事に従事するということであらねばなりません。
以上の私からのメッセージ、といっても、そう伝えるように言われたのでお伝えしたまでですが、それが少しでもお役に立てば、その代弁者となったことを私はうれしく思います。
あなたのように闘いの最前線に身を置く者は、ひるむことのないよう鍛えられ試される必要があるのです。これまでの数々の体験は、そうした試練の中でも肝心な要素として用意されたものでした。すなわち霊の純金を磨いて浮き出させて、イザという時に霊力を引き出し、窮地に陥った時に引きこもって安らぎを得るために、その内奥の力、内奥の避難所の存在に目覚めさせることに目的があったのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 217-211
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76-zi (動物愛護で時として取るべき方向に迷うことがある)
その時点で正しいと思われたことをなさればよいのです。ただし、これが正しいということに確信がなくてはいけません。動機が純粋であれは、その後に派生してくるものも善へ向かいます。万が一動機が間違っていたことに気がつかれれば、その時は自分が責めを負えばよろしい。が、闘って敗れ、しかも動機にやましいところがなければ、もう一度気を取り直して闘いを挑むのです。
われわれは闘士なのです。挑まねばならない闘いがある以上は闘士であらねばなりません。しかも、いま挑んでいる闘いは、あらゆる闘いの中でも最大の闘いではないでしょうか。無知と愚行と利己主義と迷信---光明に逆らう闇の勢力すべてとの闘いです。抑圧と残虐と略奪と無用の犠牲(動物実験)に対する闘いです。ぜひとも勝たねばならない大規模な闘いです。
あなたがもしたった一つの残虐行為でも止めさせることができれば、あなたの全人生が生き甲斐あるものとなります。その無益な残虐行為こそ、地上から完全に駆逐するまでわれわれは何度でも闘いを挑まねばなりません。見た目にいかに抵抗が大きくても、決してひるんではなりません。かならずや勝利はあなた方のものとなります。
あなた方が望んでいる改革のすべてが、あなたの在世中に成就されるとはかぎりません。しかし、そのうちの一つでも、二つでも、あるいは三つでも成就されれば、あなたが地上に存在した意義があったことになります。
時どき私は、この仕事に没頭しておられるあなた方に、できることなら私たちの世界の動物が一かけらの恐れも怖じ気もなく安らかに仲良く暮らしているところを一度ご覧に入れたいものだと思うことがあります。そこはまさに動物にとっての天国なのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 221-222
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76-zj (動物も人間と同じく物的身体を具えた霊である)
悲しいかな、霊的発達の未熟さゆえに人間は、自分を生かしめている霊力が地球を共有している他のすべての生命体を生かしめている霊力と同じであることに理解がいかないのです。動物も人間と同じく物的身体を具えた霊であることが理解できないのです。
われこそは万物の霊長であると信じているのであれば、それゆえにこそ動物に対する責務があるはずなのに、人間はそこが理解できないのです。上の者が下の者を手助けするのが当たり前です。しかるに現実は、罪もない動物に無用の残虐行為を情け容赦なく行っております。しかもそれは人間の健康増進のためと信じてのことなのですが、それは間違いであり、そういう手段から健康は得られません。
そうした邪悪で悪魔的でさえある実験を完全に阻止するためにも霊的真理の普及が急務なのですが、これは永い時間の掛かる問題です。いま自分たちが行っていることが間違いであることに気づいて良心の苛責を覚えるようになるまで、霊性が発達するのを待たねばならないのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 198-199
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76-zk [79-j] (なぜ動物は人間によって苦しめられねばならないのか)
― なぜ動物は人間の手によって苦しめられねばならないのでしょうか。人間の霊的成長の試金石となるために地上に置かれているのでしょうか。もっと高い進化の段階に達している別の天体へ置かれていれば、そこの住民に可愛がられて霊的進化も促進されるはずですが……
それと同じ疑問が人間についても言えませんか。つまり、なぜ人間は地上で同じ人間の手で苦しめられねばならないのかということです。なぜ苦しむことのない、どこか別の世界へ置いてもらえないのでしょうか。
理解しなければならないのは、地上というところは予備校ないしはトレーニングセンターであって、その目的は内部の神性を可能なかぎり発揮する機会を提供することである、ということです。
人間には、ある一定限度内での話ですが、自分の行為を決定する自由意志が与えられております。その自由選択の結果として地上あるいは霊界における進歩を促進もすれば阻止もするという、そういう体験の繰り返しの中で霊性が発達し、少しずつ不完全な部分を棄てて行くことになるのです。
自由意志があるということは、その当然の可能性として、それを間違ったこと、愚かしいこと、報復的なことに使用する者もいることになり、その結果として苦しむ人も出てくることになります。もしも神が動物も人間も申し分のない状態であることを望まれたならば、地上にもあるいは霊界にも存在していないでしょう。とっくに完全の頂上を極めていることでしょう。しかしそれは有り得ないことなのです。なぜなら、完全とは永遠に続く過程のことだからです。
動物への虐待行為を阻止するには、いろいろとしなければならないことがあります。善の勢力と悪の勢力との戦い、真理を知った者と無知な者との戦いが延々と続いております。また、動物にも地上で果たしている役割があること、人間が住む権利があるのと同じ意味において動物も地上に住む権利があることが、どうしても理解できない近視眼的な人種もいます。これからも戦いは続きます。が、真理は必ず勝利を収めます。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 199-201
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76-zl (進化の鉄則は人類を含めてすべての動物を包摂する)
―人間とともに進化を続けている鳥類や魚類は次は何になるのか教えていただけないでしょうか。それは、いわゆる“精霊進化”に属するのでしょうか。昆虫は次は何に進化していくのでしょうか。昆虫の中にはとても進化していて独自の複雑な“文明”すら持っているように思えるのが多くいますが……
まず“文明”という用語はここでは適切でないと思います。いかなる生活にせよ、文明とは社会および生活様式に適応していくための手段のことです。
さてご質問の意味ですが、一羽の鳥がやがて一人の人間になっていくのかということであれば、答はノーです。精霊進化というのは妖精およびそれに類する存在に関わる自然的生命の進化のことです。自然界の成長の中で果たす役割があるのです。進化とは全生命に関わる自然法則の一環であって、それは神の愛の証しでもあります。低い次元から高い次元へ向けての不断の向上のことです。
進化の鉄則はすべての生命、すなわち昆虫類、鳥類、動物、そして人類のすべてを包摂しています。それぞれに果たすべき役割があり、しかもお互いに関連し合っております。孤立しているものは一つもありません。全体として完全な複合体を形成しているのです。あなた方人間も、動物の進化に関連した法則と同じ法則によって支配されているのです。
その自然法則に従って生活していれば、言いかえれば自然法則と調和していれば、あなたは天命を全うできると同時に他の生命の進化を助けることにもなります。各自が協調的要素としての役割を果たすように宇宙の全機構ができあがっているのです。協調とは反対に自然に逆らった行為に出る者は、その逆らった対象だけでなく自分自身に対しても酷い仕打ちをすることになります。自然と協調する者は自然の発達を助けると同時に、自分白身の霊性の開発をも助長することになるのです。
― ということは、われわれは人類として特別の存在ではなく、大自然の進化の過程の一部にすぎないということになるのでしょうか。
人類も生命の永遠の営みの一部にすぎません。その中にあってもし人間がオレたちは他の生物よりも特別に高等なのだと自負するのであれば、ちょうどあなた方が霊界の高級霊からの援助を求めるように、他の下等な生命を援助してやる義務があるはずです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 201-203
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76-zm (動物の世界には“高等な生命”というものはあるか)
ありません。それぞれの種にそれぞれの進化のコースが割り当てられているのです。生命として存在しているものは、霊であるからこそ存在できているのです。霊は生命であり、生命は霊です。それゆえ、生きとし生けるものすべてが―
小鳥も魚も花も木も果実も、みな霊なのです。高等とか下等とかいうのは、その無数の生命現象の中にあって、他の生命にくらべた場合の進化の到達度を言っているにすぎません。人類は魚類にくらべれば高い発達段階にあるかも知れませんが、私たちの世界の神庁に所属する神霊にくらべれば低いことになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、p. 203
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76-zn[25-e] (動物を虐待した者は霊的代償を払わねばならなくなる)
― 動物保護運動がなかなか思うにまかせません。むしろ悪化の一途をたどっているように思えます。
それは人間に自由意志が与えられていることから生じる当然の結果です。もしも何一つ問題がなく闘争もなく犠牲が強いられることもなく困難も生じなかったら、人間は進歩しません。進歩は困難に遭遇した時に得られるのであって、気楽な生活の中では得られません。それぞれの魂が内在する力を引き出すための努力をするように何らかの試練の時に遭遇するというのが、進化における不可欠の過程の一つなのです。
進歩の速い面もあれば遅い面もあります。とにかく同じ地球を共有する他のすべての存在と仲良くするということが人間の責務です。が、どっちへ転んだところで自然の摂理による埋め合わせがあります。動物が動物なりの進化のコースをたどるように配慮するのは人間の責務です。それを怠れば、人間はそれなりの代償を払わねばなりません。動物に残酷な仕打ちをしている者は、いずれその行為の一つ一つに霊的代償を払わねばなりません。
悲しいかな、苦しめられるのはいつも罪のない側です。が、自然の摂理は曲げられません。殺人を犯せば殺した方はその償いをしなければなりませんし、殺された方にはその犠牲の埋め合わせがあります。埋め合わせの原理は間違いなく働きます。神は一人一人の人間にきちんと賞罰が計算されるように公正の原理を定めておられます。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 203-204
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76-zo[58-x] (生物同士が共存共栄しながら生きていくのが自然界の原則)
― 自然界では“強い者”が生き残っているように思えるのですが、そうなるとその原則は人間界や霊的なことにはどう適用されるのでしょうか。
相利共生(二種類の生物が相互に利益を得ながら生活すること)という言葉をお聞きになったことはありませんか。これが自然界の原則ではないでしょうか。互いに協力し合うことによって自然界がその目的を果たしていく、というのが基本原理ではないでしょうか。
樹木が大気中の炭酸ガスを吸収しそれを酸素にして排気する。それを人間が呼吸して生命を維持する。これが調和、協調、つまりは自然の力の働きではないでしょうか。
― 私はとくに動物のことを念頭において質問したのですが……
有史以前の動物の中で現在まで生き残っているのはどの種類でしょうか。たとえば象がいます。象はどう猛な動物だったでしょうか。そうではありません。草食動物であり、他の動物を襲ったりしませんでした。なのに生き残っており、他の肉食動物は滅びています。どっちが“強い者”でしょうか。
あなたも庭をお持ちなのでご存知でしょうが、自然の摂理を大切にすれば立派な庭になり、摂理を無視すれば台なしになります。人間同士だけでなく動物に対しても情愛を向けないといけません。他の人間を搾取してはいけません。動物を搾取してはいけません。大自然を搾取してはいけません。
そういう心掛けで生きれば、人間だけでなく地上に生きているすべての存在が、宇宙最大の力すなわち神によって考案された進化の法則の究極の目的である平和と秩序と調和を手にする上であなたも貢献していることになるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 205-206
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76-zp[17-zk] (動物実験を続ける限り人間の真の健康と福祉は促進されない)
人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得することは神の計画の中にはありません。すべての病気にはそれなりの治療法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視して動物実験を続けるかぎり、人間の真の健康と福祉は促進されません。動物はそんな目的のために地上に生をうけているのではありません。真の健康は調和です。精神と霊と肉体の正しい連係関係です。三つの機能が一体となって働くということです。これは動物を苦しめたり体内から特殊成分を抽出したりすることによって得られるのではありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.208
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76-zq (人類が苦しめている動物も解放してやらねばならない)
解放されなければならないのは女性だけではありません。男性だけでもありません。子供だけでもありません。人類によって苦しめられている動物も解放してやらねばなりません。霊はつねに自由であるべきです?物的な何ものによっても束縛されるべきではないのです。物的身体は霊が存分に自己表現をする手段として与えられているのであり、解放とはそれを制約するものすべてを取り除いてあげることです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 232
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76-zr (動物を殺して人間の食糧や衣服にするのは間違いか)
こうしたことはすべて程度問題であり、進化の一過程として捉えるべきです。自然界は弱肉強食であるとよく言われていますが、それは大自然の進化の部分的現象にすぎません。大自然がすでに完成されていると述べている霊界通信はないはずです。自然界も進化の途上にあるからです。
理想を言えば――わたしの答えはどうしても理想を述べることになってしまいますが ――動物を人間の食糧として、衣類として、また(遊牧民の)住まいとするために殺すのは間違いです。しかし、未熟な世界においては完全な理想が実現されることは期待できません。しかし、だからといって、理想へ向けての努力をしないでよいということにはなりません。
どうしても殺す必要がある時は、なるべく苦痛を与えない方法を取らないといけません。残酷な殺し方は止めてください。食糧を得るために殺すのは間違いであることを人類が悟る段階まで一足跳びに到達することはできない以上、殺し方をできるだけ苦痛を与えないように工夫してください。
皆さんは変化しつつある世界に生きており、わたしたちも、どうせ今すぐには実現できないと知りつつ、理想を説いております。もしもわたしたちが努力目標としての理想を説かずにいたら、与えられた使命を全うしていないことになります。目標の水準は高めないといけません。低くしてはいけないのです。
『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
コスモ・テン・パブリケーション、1989、(pp.147-148)
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76-zs (人間より動物の方が心霊能力が優れていると思われるのはなぜか)
人間がいま送っているような「文化生活」を体験していないからです。人間がもしも文化生活の恩恵に浴さなかったら、心霊能力が普段の生活の一部となっていたはずです。つまり人間は文明と引き替えに心霊能力を犠牲にしたわけです。動物には人間のような金銭問題もなく、社会問題もないので、本来なら人間が到達すべきであった段階へ人間より先に到達したのです。人間の場合は物質文明が心霊能力を抑え込んでしまったわけです。いわゆる霊能者というのは進化のコースの先駆者です。いずれは人間のすべてが発揮するはずの能力をいま発揮しているわけです。
近藤千雄訳編『古代霊は語る』潮文社、1984、p.195
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76-zt (霊界にはどのような種類の動物がいるか)
地上で可愛がられている動物、親しまれている動物、大切にされている動物、人間とほとんど同等に扱われて知性や思考力を刺戟された動物のすべてがおります。そうした動物は飼主の手から離れたことでさびしがったり迷ったりするといけないので、動物界に連れてこられて、他の動物といっしょに暮らしながら、動物の専門家の特別の看護を受けます。そこには動物を喜ばせるものが何でも揃っており、やりたいことが何でも出来るので、イライラすることがありません。そして時には地上にいる飼主の家の雰囲気内まで連れてこられ、しばしその懐しい雰囲気を味わいます。心霊知識のない人が自分の飼っていた犬を見たとか猫が出たとか言ってさわぐのはそんな時のことです。何となくあの辺にいたような気がするといった程度にすぎないのですが、地上の動物の目にはちゃんと見えています。霊視能力が発達していますから・・・・・
近藤千雄訳編『古代霊は語る』潮文社、1986、pp.195-196
77. 戦争・殺人・不戦主義
77-a (不戦主義・参戦拒否の是非について)
批判的意見を寄せられる方は、私がこれまで戦争というものをいかなる形においても非難し、生命は神聖であり神のものであり、他人の物的生命を奪う権利は誰にもないという主張を掲げてきながら、こんどは 〃英国は今や正義の戦に巻き込まれた。これは聖なる戦である。聖戦である〃 と宣言する者に加担しているとおっしゃいます。
私は永年にわたってこの霊媒を通じて語ってまいりました。今これまでに私が述べたことを注意ぶかく振り返ってみて、この地上へ私を派遣した霊団から指示されたワクに沿って私なりに謙虚に説いてきた素朴な真理と矛盾したことは何一つ述べていないと確信します。今も私は、これまで述べてきた通りに、人を殺すことは間違いである、生命は神のものである、地上で与えられた寿命を縮める権利は誰にもないと断言します。前にも述べたことですが、リンゴは熟せば自然に落ちます。もし熟さないうちにもぎ取れば、渋くて食べられません。霊的身体も同じです。熟さないうちに、つまり、より大きな活動の世界への十分な準備ができないうちに肉体から離されれば、たとえ神の慈悲によって定められた埋め合わせの原理が働くとはいえ、未熟のまま大きなハンディを背負ったまま新しい生活に入ることになります。
その観点から私は、これまで述べてきたことのすべてをここで改めて主張いたします。これまでの教訓をいささかも変えるつもりはありません。繰り返し(毎週一回)記録されている私の言葉の一語一語を自信をもって支持いたします。同時に私は、いかなる行為においてもその最後に考慮されるのは〃動機〃であることも説いております。
まだこの英国が第二次世界大戦に巻き込まれる前、いわゆる "国民兵役"への準備に国を挙げて、一生けんめいになっておられた時分に、〃こうした活動に対してスピリチュアリストとしての態度はどうあるべきでしょうか〃との質問に私は
〃そうした活動が同胞への奉仕だと信ずる方は、それぞれの良心の命ずるがままの選択をなさることです〃
と申し上げました。
いま英国はその大戦に巻き込まれております。過去にいかなる過ちを犯していても、あるいはいかに多くの憎しみの種子を蒔いていても、少なくともこの度の戦争は英国みずから仕掛けたものでないことは確かです。しかし、それでもやはり戦争をしているという咎めは受けなくてはなりません。後ればせながら英国もこの度は、いくぶん自衛の目的もかねて、弱小国を援助するという役目をみずから買って出ております。もしも兵役によろこんで参加し、必要とあらば相手を殺めることも辞さない人が、自分はそうすることによって世界のために貢献しているのだと確信しているのであれば、その人を咎める者は霊の世界に一人もいません。
動機が何であるか----これが最後の試練です。魂の中の静かな、そして小さな声が反溌するが故に戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだという考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にいざとなれば我が身を犠牲にする覚悟をもって戦場へ赴く人間とは、私たちの世界から見て上下の差はありません。動機が最も優先的に考慮されるのです。
派閥間の論争も結構ですが、興奮と激情に巻き込まれてその単純な真理を忘れた無益な論争はおやめになることです。動機が理想的理念と奉仕の精神に根ざしたものであれば、私たちはけっして咎めません。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.214-216
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77-b (戦争で殺人が正当化されることがあるのはなぜか)
私たちは決して地上世界がやっていることをこれでよいと思っているわけではありません。もし満足しておれば、こうして戻ってきて、失われてしまった教えを改めて説くようなことはいたしません。私どもは地上人類は完全に道を間違えたという認識に立っております。そこで、何とかしてまともな道に引き戻そうと努力しているところです。しかし地上には幾十億と知れぬ人間がおり、みな成長段階も違えば進歩の速度も違い、進化の程度も違います。すべての者に一様に当てはめられる型にほまった法則、物的ものさし、といったものはありません。固定した尺度を用いれば、ある者には厳しすぎ、ある者には厳しさが足りないということになるからです。殺人者に適用すべき法律は、およそ犯罪と縁のない人間には何の係わりもありません。
かくして人間それぞれに、それまでに到達した成長段階があるということを考慮すれば、それを無視して独断的に規準をもうけることは許されないことになります。前にも述べましたように、神は人間各自にけっして誤ることのない判断の指標、すなわち道義心というものを与えています。その高さはそれまでに到達した成長の度合によって定まります。あなた方が地上生活のいかなる段階にあろうと、いかなる事態に遭遇しようと、それがいかに複雑なものであろうと、各自の頼るべき手段を判断する力---それが自分にとって正しいか間違っているかを見分ける力は例外なく具わっております。あなたにとっては正しいことも、他の人にとっては間違ったことであることがあります。なぜなら、あなたとその人とは霊的進化のレベルが違うからです。徴兵を拒否した人の方が軍人より進化の程度において高いこともありますし低いこともあります。しかし、互いに正反対の考えをしながらも、両方ともそれなりに正しいということも有りうるのです。
個々の人間が自分の動機に従って決断すればそれでよいのです。すべての言いわけ、すべての恐れや卑怯な考えを棄てて自分一人になりきり、それまでの自分の霊的進化によって培われた良心の声に耳を傾ければよいのです。その声はけっして誤ることはありません。けっしてよろめくこともありません。瞬間的に回答を出します。(人間的煩悩によって)その声がかき消されることはあります。押し殺されることはあります。無視されることもあります。うまい理屈や弁解や言いわけでごまかされることもあります。しかし私は断言します。良心はいつも正しい判決を下しています。それは魂に宿る神の声であり、あなたの絶対に誤ることのない判断基準です。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.217-219
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77-c (戦争で戦うことは正しいことか)
私はつねづねたった一つのことをお教えしております。動機は何かということが一ばん大切だということです。そうすることが誰かのためになるのであれば、いかなる分野であろうと、良心が正しいと命じるままに実行なさることです。私個人の気持としては生命を奪い合う行為はあってほしくないと思います。生命は神のものだからです。しかし同時に私は、強い意志をもった人間を弱虫にするようなこと、勇気ある人間を卑劣な人間にするようなことは申し上げたくはありません。すべからく自分の魂の中の最高の声に従って行動なさればよいのです。ただし、殺し合うことが唯一の解決手段ではないことを忘れないでください。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.221
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77-d (暴れ狂う暴漢を殺すのは認められるか)
あなた方はよく、ある事態を仮定して、もしそうなった時はどうすべきかをお尋ねになります。それに対して私がいつもお答えしていることは、人間として為すべきことをちゃんと行っていれば、そういう事態は起きなかったはずだということです。人間が従うべき理念から外れたことをしながら、それをどう思うかと問われても困るのです。私たちにできることは、真理と叡智の原則をお教えし、それに私たち自身の体験から得た知識を加味して、その原則に従ってさえいれば地上に平和と協調が訪れますと説くことだけです。流血の手段によっても一時的な解決は得られますが、永続的な平和は得られません。
血に飢えて殺人を犯す人間がいます。一方、自由のための戦いで殺人行為をする人もいます。そういう人の動機に私は異義は唱えません。どうして非難できましょう。明日の子供のために戦っている今日の英堆ではありませんか。
私にできることは真理を述べることだけです。だからこそ政治的レッテルも宗教的ラベルも付けていないのです。だからこそどこの教会にも属さず、いわゆる流派にも属さないのです。
人間は自分の良心の命じる側に立って、それなりの役目を果たすべきです。どちらの側にも----敵にも味方にも----立派な魂をもった人がいるものです。ですから、動機とは何か----それが一ばん大切です。こうすることが人のためになるのだと信じて行なうのであれば、それがその人にとっての正しい行為なのです。知恵が足りないこともあるでしょう。しかし、動機さえ真剣であれば、その行為が歪められることはありません。なぜなら魂にはその一ばん奥にある願望が刻み込まれていくものだからです。
私は常にあなたがた地上の人間とは異なる規準で判断していることを忘れないでください。私たちの規準は顕と幽のあらゆる生活の側面に適用できる永遠に不変の規準です。時には悪が善を征服したかに思えることがあっても、それは一時的なものであり、最後には神の意志がすべてを規制し、真の公正が行きわたります。
その日その日の気まぐれな規準で判断しているあなた方は、その時々の、自分が一ばん大事だと思うものを必要以上に意識するために、判断が歪められがちです。宇宙を大いなる霊が支配していることを忘れてはなりません。その法則がこの巨大な宇宙を支えているのです。大霊は王の中の王なのです。その王が生み神性を賦与した創造物が生みの親をどう理解しようと、いつかはその意志が成就されてまいります。
地上の無益な悲劇と絶望の有様を見て私たちが何の同情も感じていないと思っていただいては困ります。今日の地上の事態を見て心を動かされなかったら、私たちはよほど浅はかな存在といえるでしょう。しかし私たちはそうした地上の日常の変転きわまりないパノラマの背後に、永遠不変の原理を見ているのです。
どうかその事実から勇気を得てください。そこにインスピレーションと力とを見出し、半世紀にもわたって善意の人々が夢見てきた真理の実現のために働き続けてください。その善意の人々は刻苦勉励してあなた方の世代へ自由の松明を手渡してくれたのです。今あなた方はその松明に新たな炎を灯さなくてはならないのです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.221-224
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77-e (戦争が宗教心を呼び起こすことがあるか)
それはまったく話が別です。それは 〃窮地〃に立たされたことに由来するにすぎません。つまり互いの
″大変さ″を意識し合い、それが同情心を生み、少しばかり寛容心が培われるという程度のことです。団結心にはプラスするでしょう。困った事態を互いに理解し合う上でもプラスになるでしょう。それまでの感情的わだかまりを吹き飛ばすこともあるでしょう。しかし真の宗教心はそれよりもっともっと奥の深いものです。魂の奥底から湧き出る
〃人のためを思う心〃です。そして今こそ地上はそれを最も必要としているのです。
何でもない真理なのです。ところが実はその "何でもなさ" がかえって私たちをこれまで手こずらせる原因となってきたのです。もっと勿体ぶった言い方、どこか神秘的な魅力をもった新しい文句で表現しておれば、もう少しは耳を傾けてくれる人が多かったのかも知れません。その方が何やら知性をくすぐるものがあるように思わせ、今までとはどこか違うように感じさせるからです。
しかし私たちは知識人ぶった人間をよろこばせるための仕事をしているのではありません。飢えた魂に真理の糧を与え、今日の地上生活と明日の霊的生活に備える方法をお教えしているのです。あなた方は永遠の旅路を行く巡礼者なのです。今ほんのわずかの間だけ地上に滞在し、間もなく、願わくば死後の生活に役立つ知識を身につけて、岐れ道で迷うことなく、旅立つことになっております。あなた方は旅人なのです。常に歩み続けるのです。地上はあなた方の住処ではありません。本当の住処はまだまだ先です。
人類はあまりに永いあいだ真理というものを見せかけの中に、物的形態の中に、祭礼の中に、儀式の中に、ドグマの中に、宗教的慣習の中に、仰々しい名称の中に、派閥的忠誠心の中に、礼拝のための豪華な建造物の崇拝の中に求めてまいりました。しかし神は
″内側″にいるのです。″外側″にはいません。讃美歌の斉唱、仰々しい儀式----こうしたものはただの
″殻″です。宗教の真髄ではありません。
私は俗世から遁れて宗教的行者になれとは申しません。地上生活でめったに表現されることのない内部の霊的自我を開発するための生き方を説いているのです。それがよりいっそう、人のため人類のためという欲求と決意を強化することになります。なさねばならないことは山ほどあります。ですが、大半の人間は地上生活において″常識″と思える知識ばかりを求めます。あまりに永いこと馴染んできているために、それがすでに第二の天性となり切っているからです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.226-228
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77-f (第一次世界大戦の終結にあたってのメッセージ)
過去二十年間にわたって地上世界は偉大な犠牲者たちを裏切り続けてきました。先頭に立って手引きすべき聖職者たちは何もしていません。混迷の時にあって何の希望も、何の慰めも、何の導きも与えることができませんでした。宗教界からは何らの光ももたらしてくれませんでした。わけの分からない論争と無意味な議論にあたら努力を費やすばかりでした。何かというと、神の目から見て何の価値もない古びた決まり文句、古びた教義を引用し、古びた祭礼や儀式をくり返すだけでした。
この日は、二分間、すべての仕事の手を休めて感謝の黙祷を捧げますが、その捧げる目標は、色褪せた、風化しきった過去の記憶でしかありません。英雄的戦没者と呼びながら実は二十年間にわたって侮辱し続けております。二分間という一ときでも思い出そうとなさっておられることは事実ですが、その時あなた方が心に浮かべるのは彼らの現在の霊界での本当の姿ではなくて、地上でのかつての姿です。本来ならばそうした誤った観念や迷信を取り除き霊の力を地上にもたらそうとするわれわれの努力に協力すべき立場にありながら、逆にそれに反抗する側にまわっている宗教界は恥を知るべきです。戦死して二十年たった今なお、自分の健在ぶりを知ってもらえずに無念に思っている人が大勢います。それは地上の緑ある人々がことごとく教条主義のオリの中に閉じこめられているからにほかなりません。
聖俗を問わず、既得権力に対するわれわれの戦いに休戦日はありません。神に反逆する者への永遠の宣戦を布告する者だからです。開くべき目をあえて瞑り、聞くべき耳をあえて塞ぎ、知議を手にすべきでありながら敢えて無知のままであり続ける者たちとの戦いです。今や不落を誇っていた城砦が崩れつつあります。所詮は砂上に基盤を置いていたからです。強烈な霊の光がついにその壁を貫通しました。もう、霊的真理が論駁されることはありません。勝利は間違いなくわれわれのものです。われわれの背後に勢揃いした勢力はこの宇宙を創造しそのすべてを包含している力なのです。それが敗北することは有り得ません。挫折することは有り得ません。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.228-230
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77-g(第二次世界大戦の戦死者が続出するなかで)
死んでいく人たちのために涙を流してはいけません。死に際のショック、その後の一時的な意識の混乱はあるにしても、死後の方がラクなのです。私はけっして戦争の悲劇、恐怖、苦痛を軽く見くびるつもりはありませんが、地上世界から解放された人々のために涙を流すことはおやめなさい。
(戦死していくときには)苦しむ者もいれば苦しまない者もいます。一人ひとり違います。死んでいるのに戦い続けている人がいます。自分の身の上に何が起きたかが分からなくて迷う者もいます。が、いずれも長くは続きません。いずれ永遠への道に目覚めます。むろん寿命を全うして十分な備えをした上でこちらへ来てくれるに越したことはありません。しかし、たとえそうでなくても、肉体という牢獄に別れを告げた者のために涙を流すことはおやめになることです。その涙はあとに残された人のために取っておかれるがよろしい。こう言うと冷ややかに聞こえるかも知れませんが、とにかく死は悲劇ではありません。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.230-231
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77-h (戦死した者は悲劇なのではない)
解放の門をくぐり抜けた者にとっては悲劇ではありません。私は自分が知り得たあるがままの事実を曲げるわけにはまいりません。皆さんはなぜこうも物的観点から物ごとを判断なさるのでしょう。ぜひとも
″生″のあるがままの姿を知ってくださるよう願わずにはおれません。いま生活しておられる地上世界を無視しなさいと申し上げているのではありません。そこで生活しているかぎりは大切にしなくてはいけません。しかしそれは、これから先に待ちうける生活にくらべれば、ほんのひとかけらにすぎません。あなた方は霊を携えた物的身体ではありません。物的身体を携えた霊的存在なのです。ほんのひとときだけ物的世界に顕現しているにすぎません。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、p.231
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77-i (「不戦主義者」の態度を聞かれて)
私はラベルには関心がありません。私はなるべく地上のラベルには係わり合わないようにしております。理想、理念、動機、願望---私にとってはこうしたものが至上の関心事なのです。たとえば自らスピリチュアリストをもって任じている人が必ずしもスピリチュアリズムを知らない人よりも立派とは言えません。不戦主義者と名のる人がおり、その理念が立派であることは認めますが、問題は結局その人が到達した霊的進化の程度の問題に帰着します。不完全な世の中に完全な矯正手段を適用することはできません。時には中途半端な手段で間に合わせざるを得ないこともあります。世の中が完全な手段を受け入れる用意ができていないからです。こちらの世界では高級な神霊はまず動撥は何かを問います。動機がその行為の指標だからです。もし動機が真摯なものであれば、その人の願望はまるまる我欲から出たものではないことになり、したがって判断の基準も違ってきます。
『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.146-147
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77-j (人間の気高さと醜さの極限を見せてきた第二次世界大戦)
無数の平凡な男女が、かつてない苦しみの中でかつてない勇気を出すことによって、そこに人間の到達しうるかぎりの高所と、理想に燃えたときの人間の忍耐力の可能性を示しました。
しかし同時にこの時期は、短かったとはいえ人間の残忍性の奥をのぞかせた時期でもありました。つまり人間の到達しうるかぎりの気高さと醜さの極限を見せてきました。言いかえれば人間の霊性のすばらしさを見せると同時に、堕落したときの極悪非道ぶりも見せつけたのです。
しかし、いずれも同じく人間のしたことです。霊と肉の両極から成り立っている存在だからです。そのどちらがより強く人間を操るかによって生じる差にすぎません。霊の道を選ぶか、それとも肉の道を選ぶかの差です。私たち霊界の者にはもはや肉体はありません。ですから、民族、国家の別、肌の色、教義、階級の違いの観点から物事を処理することはしません。
人間がとかくこだわる境界線とか制限区域といった観念にはとらわれません。全人類を神性という共通の要素をもった霊的存在としてみます。一人一人が全体にとって無くてはならぬ存在なのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.42-43
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77-k (戦争は憎悪と利己心と私利私欲から生まれる)
肉体が死ぬと人間は霊界の存在となり、地上的束縛のすべて---それまで自分の本来の姿を見る目を曇らせてきたもの、無意味な残酷さへ追い立ててきた狭量さ、長いあいだ地上のガンとなってきたケチくさい不覚容精神と利己主義のすべてをかなぐり棄てます。
大切なのは、あなた方はもともと霊的存在であり、果たすべき霊的宿命をもってこの地上にあるという認識です。ですから、これからの新しい時代は霊的真理を土台として築かなければなりません。証拠をもって立証されたという意味において真理といえるものを土台としなければなりません。(その霊的真理から生まれる)寛容精神と善意と愛と奉仕精神と協調心をもって臨めば、地上に恒久的平和と調和のとれた世界を招来することができるでしょう。古い概念にとらわれ、憎み合い、国家間の不和、民族と肌の色と階級の違いにこだわり続けているかぎり、地上に戦争のタネは尽きないことになります。戦争は、とどのつまりは、憎悪と利己心と物質的な私利私欲から生まれるものだからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.43-44
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77-l (戦争で敵として戦いあって死んだ二人にどう対処するか)
それはその二人の霊の状態次第です。条件つきの答えで申しわけありませんが、そうした問題は規格品的回答で片づけられる性質のものではないのです。それぞれの霊的進歩の状態によって異なるのです。死んだあとも延々と戦い続けている者もいます。が、いつかは、地上で抱いた敵対心は肉体の死とともに消滅すべきものとの認識が芽生えてきます。
霊界の下層界では地上で起きていることのすべてが再現されております。地上での戦争や抗争がそのまま続けられております。が、霊的覚醒とともにその界層を離れて、地上で培われた偏見と敵意をきれいに棄て去ります。そうなると問題はひとりでに解決されてまいります。霊的摂理の理解とともに、自分の為すべきことは霊的な身支度をすること、自分自身の霊性を磨くこと、自分自身の能力を開発することであることを自覚し、それは他人のために自分を役立てることによってのみ成就されるものであることを認識します。いずれにしても問題はあくまで過渡的なものです。霊的事実を知らずにいる者にいかにしてそれを認識させるかということです。そのためにあらゆる手段を講じるのです。
一ばん厄介なのは、自分がすでに地上を去った人間であることが納得できない人たちです。ひじょうに頑固なのがいます。さほどでもない者もいます。わりに素直なのもいます。このように、人類のすべてが同じ進化の階梯にいるわけではないのです。したがって一人ひとりの霊への対処の仕方も、それぞれのその時点での必要性に応じたものでなければなりません。
『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.74-74
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77-m (戦争は何の解決にもならず逆に新たな問題を生み出す)
質問: 僕らのような若者の多くが真理を求めています。後に続く世代を育てるための、よりよい世界を望んでいます。なのになぜ人間は殺し合い、同胞を不具にし合うのでしょうか。なぜ異なった民族、異なった宗教の人間を憎むのでしょうか。なぜこの地上にそれほど愛が乏しいのでしょうか。僕らは地上に平和が来ることを望んでいます。が、いつ、どういう形で来るのでしょうか。先輩の聖賢たちが失敗してきた問題を、どうすればわれわれが解決できるのでしょうか。僕らはまだ若く、体力があり、無知と愚行、貪欲と憎悪に対する闘争によろこんで参加したいと思っております。あなたの助言をお聞かせください。
これはとても難しい問題です。今あなたがおっしゃった無知と愚行は、実に永いあいだ地上世界に根を張っております。それを一夜のうちに取り除いてしまう呪文はありません。大自然は過激な革命ではなく一歩一歩の進化によって営みを続けているのです。すべての生長・発展はゆっくりと、しかも冷厳な法則によって営まれています。子供の身体を無理やりに生長させようとすると必ず不自然なことが生じます。それと同じで、霊的生長を性急に求めると失敗します。
こんなことを言うのは別に弱気になっているからではありません。私は、幸いにして霊的実在をかいま見ることを許された者は何事につけても楽観的であらねばならない、と信じます。が、いかに鈍感な人間でも、真理を知ることが自分に対して幾つかの制約を課したことになることに気づくものです。人間の力ではどうしようもない摂理というものに従わねばならないということです。
私たちは万能薬は持ち合わせません。私たちに言えることは、霊的知識が広まり、その結果として無知が減るにつれて、それだけ人間と人間との間の差別が少なくなり、戦争が減り、貪欲が薄れ、日なたが多くなるということだけです。地上の現状を一変させる力は私たちにはありません。できるのは、受け入れる用意のできた者に人間本来の生き方を教える霊的真理を根気気よく説いて感化していくことだけです。
人間には、例によってある限られた範囲内での話ですが、選択の自由が許されております。宇宙の無限の霊力とともに創造活動に参加し、進化の行進を促進することができるのです。反対に邪魔することもできます。遅らせることもできます。ためらわせることもできます。それも、大きな進化の過程の一コマなのです。
無限なる叡智を具えた神は人間をでくの坊、操り人形、ロボットにはしませんでした。神の所有する崇高な属性のすべてを潜在的に授かっているのです。ですから、人間界のことは人間みずから選択しなければなりません。その上で、戦争が何の解決にもならないこと、逆に新たな問題を生み出すこと、貪欲と利己心はその内部に、みずからの災禍のタネを宿していることを思い知らねばなりません。
その昔ナザレのイエスは“すべて剣を取る者は剣にて滅ぶ”と申しました。人間はみずからの選択でそれを学んで行かねばなりません。あなた方が個人として為しうることは、どこにいても霊的知識を普及することです。あなたのほかに一人だけでも光と真理をもたせてあげることが出来たら、それだけであなたの地上人生は無駄でなかったことになります。それが私からの忠言です。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.121-123
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77-n [79-h] (人類はいつかは戦争のない平和な暮らしができるようになるか)
これは難しい問題です。まず理解していただかねばならないのは、神は人間に自由意志というものを授けられているということです。自由意志のない操り人形にしてもよかったのです。が、自由意志による選択の余地を与えられることによって、人間も永遠の創造的進化の過程に参加する機会がもてることになったのです。
人間は地上をエデンの園、楽園、天国にすることもできれば、暗く荒涼とした、恐ろしい悪の園にすることもできます。そこに選択の余地が残されているのです。
戦争、暴力、貪欲、情欲、利己主義がはびこるのは物質中心の考え方をするからです。そういう考え方をするのは、これほど多くの宗教が存在しながら大半の人間が肉体が死ねばすべておしまいと思っているからです。死後にも実感をともなった生活―地上生活の賞罰が清算される世界が存在するという事実が信じられず、地上生活が唯一の生活の場であると考えます。すると当然、物質がすべてなら今のうちに思い切り欲望を満足させておこう、ということになります。それが戦争を生み、憎み合い、征服し合い、殺し合うことになります。
もっともこれは真相の一面を述べたまでです。有難いことに、他方では、人間のわがままによる混乱を抑制するための摂理も間違いなく働いております。その一環として私たちは、地上に霊的実在についての知識をもたらすための大事業にたずさわっているのです。
霊媒の活用によって人間が霊的天命を背負った霊的実在であることを証明することができます。その天命を全うするも損なうも、日常生活における身の処し方一つに掛かっております。因果律、すなわちタネ蒔きと刈り取りの摂理は絶対に狂いません。
良い行いをすればそれだけ幸せを味わいます。利己的な行いをすればそれだけ苦い思いをさせられます。摂理はごまかせません。死の床でいくら懺悔の言葉を述べても、すでに始動している因果律の働きを止められるものではありません。
こうした真理を理解する人が増すにつれて戦争が減り、平和な地域が広がっていきます。これは一朝一夕にできることではありません。
私には以上のようなお答えしかできません。自分の役目を果たすのです。自分なりの最善を尽くすのです。縁あって近づく人の力になってあげることです。親切に、寛容に、そして慈悲の心をもって接するのです。機会さえあれば、どこででも人のために役立つことを心掛けることです。それが世の中に貢献するゆえんとなります。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 185-187
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77-o[39-y] (ある霊聴能力者に対する勇気づけの言葉 =2=)
・・・・・・地上人類は道を見失い、物的利己主義と貪欲と強欲の沼地に足を取られ、それが戦争と暴力と憎しみを生んでおります。霊の優位性を認識し、人間が肉体をたずさえた霊であることに得心がいく―
言いかえればすべての人間が神の分霊であり、それゆえに人類はみな兄弟であり姉妹であり、神を父とし母とした一大家族であることに理解がいった時、その時はじめて戦争も暴力も憎しみも無くなることでしょう。代わって愛と哀れみと慈悲と寛容と協調と調和と平和が支配することでしょう・・・・・
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、p.54
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77-p (人間同士の戦争はどのように理解したらよいのか)
無限なる叡智と愛を具えた大霊は地球人類を創造するとともに、ある範囲内での自由意志を授けられました。同時に大霊は、人間が個的存在としていかに生きるべきかについての誤りない指標としての神性が開発されるように、人類全体の霊と精神と身体とに配剤なさっております。
大霊は人間をただの操り人形―選択する自由も力も持たない、機械仕掛けのような存在にすることもできたのです。が大霊は自由意志を与えてくださいました。しかし自由意志があるということは、同時に自分の行為への責任もあるということになります。
あなたは“善いこと”をしてもいいし“悪いこと”をしてもいいのです。善と悪とは一つのコインの表と裏のようなものです。愛と憎しみ、光と闇、嵐と静けさもそうです。これを両極性といいます。そのどちらを選ぶかにあなたの選択権があるということです。
そこで戦争のことですが、あなたはその動機に立ち帰って、こう自問するのです―“なぜ戦争をしなくてはならないのか”“両者が共通して求めているものはいったい何なのか”“それは互いに相手を支配することなのか”
そうした問いにあなた白身が考えて答えを出さないといけません。所詮はあなた方の世界です。パラダイスとするも地獄とするもあなた方人間次第です。どちらかを選ぶ自由と、どちらにもできる手段を具えているからです。
―私個人にはできません。一人の人間ではどうしようもありません。
“個”が集まって地上人類全体ができ上がっているのです。一人でも多くの“個”が貪欲と強欲と残虐と横暴を止めれば、その数だけ平和に貢献するのです。あなたはあなたの生活、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念に責任を負うのです。他人のしたことで償いをさせられたり報酬を受けたりすることはありません。それが摂理なのです。
平和を求めて祈り、霊界の高級霊の道具として協力しようとなさる努力は必ず報われます。人間の協力を得てはじめて霊力を地上へ届け、戦争や暴力行為、その他、地上の文明を混乱させ存在を脅かすものすべてに終止符を打たせることができるのです。
しかし、これより先もまだまだ地上から戦火の消えることはないでしょう。なぜなら、人類全体が一つの巨大な霊的家族であるという、この単純な真理が未だに理解されていないからです。肉体は撃ち殺せても霊は死なないのです。この事実が世界各国の国政をあずかる人たちによって理解され、その関連分野を通じて実行に移されるようにならないかぎり、戦争の勃発は避けられないでしょう。
人間が人間に対して行う非人間的行為に対して、私たちは何の責任もありません。これは因果律の働きが片付ける問題です。もちろん人類にとって“よりよき時代”は到来します。ぜひともそうあらねばなりません。が、失望のドン底から一気に幸福の絶頂へと一夜のうちに転換するようなわけにはまいりません。一歩一歩の段階的過程をへるほかはありません。
霊的真理を理解する人が増えるにつれて、その知識にのっとった生き方をする人が増え、その人たちの生活が依存している各種の制度も、霊と精神と身体がその幸福と成長と成熟にとって必要な体験が得られるように改善されていくことでしょう。
あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられる霊的思想が前世紀(一八四八年)に勃興したのもそこに目的があります。それはかつてのように突発的ですぐに立ち消えになるようなものではなく、総合的な計画のもとに行われて、すでに霊力は完全に地上に根づいております。これからもその前線基地は拡張しつづけ、ますます多くの人間がその恩恵に浴することになるでしょう。
ある人は“黄金時代”と呼び、ある人は“地上天国”と呼んでいるものは、いつかは成就されます。それまでにどれほどの時が掛かるかは、私の口からは敢えて予言しないでおきましょう。ただ、物的進化が絶え間なくその目的を果たしつつあるように、それと併行して霊的進化もそれなりの役割も果たしつつあることを申し上げておきます。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 173-176
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77-q(人間はどの程度まで殺すことが許されているのか)
―人間はどの程度まで殺すことが許されているのでしょうか。
“許されている”という言い方は感心しません。たしかに人類には自由意志が与えられておりますが、それは条件つきであり制約があります。やりたいことは何をやってもよいという意味での、無制約の自由ではありません。
そもそも自由意志の授与は、人間が大自然の創造の過程に参加し、大自然の摂理と調和して生き、健康と理解と悟りを得て天命を全うするための神の計画の一環なのです。そうでなかったら進化も発展もありません。
自由意志がなかったら皆さんは成長と進化のチャンスのない、ただの操り人形となってしまいます。せいぜいロボットのような行動しかできません。が、自由意志があるということは、その行使の仕方に責任を持たねばならないということになります。
殺すという行為は、たとえやむを得ない事情はあるにしても、いけないことであることは明らかです。生命を与える力はないのですから、奪う権利もないはずです。が、酌量すべき情状というものがあることも事実です。
霊的に進化するにつれて人間は、霊的実在についての知識を基盤とした明確な原理にのっとって生きなければならないことを自覚するようになります。所詮完ぺきな生き方は望むべくもありませんが、改善の余地は大いにあります。
地球は生命活動の場の一つに過ぎません。これからもっともっと多くの生活の場を体験することになっております。それが永遠に続くのです。地上生活なんかいい加減に送ればよいと言っているのではありません。あなたが送るべき全生活のほんのひとかけらに過ぎないことを申し上げているのです。
その地球をよりよい生活の場とするために努力なさってください。地球は宇宙の惑星の中でも最も進化の程度の低い部類に属します。が、それなりの進化の目標があります。同時に、進化とは永遠の過程でもあります。完全ということは永遠に達成できないのです。なぜなら、完全に近づけば近づくほど、その先にまだ達成すべきものがあることを知るからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 176-178
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77-r (戦争がもたらす地上と霊界双方への弊害について =1=)
別の日の交霊会で戦争がもたらす地上と霊界双方の弊害について語る―
私たちは霊界が再び傷ついた魂の病院となるのはご免こうむります。こうして地上の皆さんとともに仕事をしている私たちから申し上げたいことは、皆さんは私たちがお教えしていることのすべてを地上生活に摂り入れていくだけの用意ができていなければならないということです。
私たちが代りにやってあげるわけにはいかないのです。私たちには人間のしている間違ったことがもたらす結果が分かります。地上でそういうことをしていたら霊界へ来てからこうなりますよ、ということをお教えすることしかできません。
そのことをわざわざこうして地上へ戻ってきて教えねばならないのは、戦争のもたらす結果が破綻と害悪でしかないからです。霊界へ送り込まれてくるのは霊的に未熟な魂ばかりです。言ってみれば、熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。地上で使用していた肉体という表現機関を破壊されて分別を失った魂を一体なぜ私たちが癒やしてあげねばならないのでしょうか。人間が人間としての義務を果たさないがために霊界へ送られてくる未熟な魂の世話をしに、一体なぜ私たちが巡礼の旅先からこの地上へ後戻りしなければならないのでしょうか。
もしも私たちに愛の心がなければ、つまりもしも大霊の愛が私たちを通して表現されなかったら、こうして同じ大霊の子である地上の皆さんと交わるようなことはしていないでしょう。どうか私たちの説く真理を唯一の判断の基準として私たちを裁いてください。“あなたの教えは間違っている―われわれの常識に反するから”などという幼稚なことを言ってはなりません。
霊界にとっての迷惑はさておいても、地上での戦争を正当化することが許されるわけがありません。物質的な面にかぎってみても、ただ破壊するのみです。霊界にとっても正当化の根拠はありません。なぜならば、神の摂理への干渉にほかならないからです。霊はその機が熟した時に肉体から離れるべきであるとの摂理に、よくも平気で逆らえるものだと呆れます。
皆さんはかくあるべきという原理を何としても擁護しなくてはなりません。分別のない人たちに霊の仕事の邪魔を許してはなりません。ご存知でしょうが、進歩と平和と調和を求めて戦う私たち霊団の向こうを張って、それを阻止せんとする組織的な活動をしている邪霊集団もいるのです。
訳者注―私が“英国の三大霊訓”と呼んでいる『シルバーバーチの霊訓』と『ベールの彼方の生活』と『霊訓』のうち、邪霊集団の存在についていちばん強く説き警告しているのは『霊訓』である。その中から参考とすべき箇所を部分的に紹介しておきたい。通信は自動書記によるインベレーターからのもの。
《すでに聞き及んでいようが、今汝を中心として進行中の新たな啓示の仕事と、それを阻止せんとする一味との間に熾烈なる反目がある。われらの霊団と邪霊集団との反目であり、言い替えれば人類の発達と啓発のための仕事と、それを遅らせんとする働きとの闘いである。それはいつの時代にもある善と悪、進歩派と逆行派との争いである。 逆行派の軍団には悪意と邪心と欺瞞に満ちた霊が結集する。未熟なる霊の抱く憎しみによって煽られる者もいれば、其の悪意というよりは悪ふざけ程度の気持ちから加担する者もいる。要するに程度を異にする未熟な霊がすべてこれに含まれる。闇の世界より光明の世界へと導かんとする、われらをはじめとする他の多くの霊団の仕事に対し、ありとあらゆる理由からこれを阻止せんとする連中である。
汝にそうした存在が信じられず、地上への影響の甚大さが理解できぬのは、どうやらその現状が汝の肉眼に映らぬからのようである。となれば汝の霊眼が開くまでは、その大きさ、その実在ぶりを如実に理解することは出来ぬであろう。
その集団に集まるのは必然的に地縛霊、未発達霊の類である。彼らにとって地上生活は何の益ももたらさず、その意念の赴くところは彼らにとっては愉しみの宝庫とも言うべき地上でしかなく、霊界の霊的な喜びには何の反応も示さぬ。かつて地上で通い慣れた悪徳の巣窟をうろつきまわり、同質の地上の人間に憑依し、哀れなる汚らわしき地上生活に浸ることによって、淫乱と情欲の満足を間接的に得んとする。(中略)
一方、人間の無知の産物たる死刑の手段によって肉体より切り離された殺人者の霊は、憤怒に燃えたまま地上をうろつきまわり、決しておとなしく引っ込んではおらぬ。毒々しき激情をたぎらせ、不当な扱いに対する憎しみ―その罪は往々にして文明社会の副産物に過ぎず、彼らはその哀れなる犠牲者なのである―を抱き、その不当行為への仕返しに出る。地上の人間の激情と生命の破壊行為を煽る。次々と罪悪をそそのかし、自分が犠牲となったその環境の永続を図る。(中略)
かくの如く地上の誤りの犠牲となって他界し、やがて地上へ舞い戻るこうした邪霊は、当然のことながら進歩と純潔と平和の敵である。われらの敵であり、われらの仕事への攻撃の煽動者となる。至極当然の成り行きであろう。 久しく放蕩と堕落の地上生活に浸れる霊が、一気に聖純にして善良なる霊に変わりうるであろうか。肉欲の塊りが至純なる霊に、獣のごとき人間が進歩を求める真面目な人間にそう易々と変れるであろうか。それがありえぬことくらいは汝にも分かるであろう。
彼らは人間の進歩を妨げ、真理の普及を阻止せんとする狙いにおいて、他の邪霊の大軍とともに、まさに地上人類とわれらの敵である。真理の普及がしつこき抵抗にあうのは彼らの存在のせいであり、汝にそうした悪への影響力の全貌の認識は無理としても、そうした勢力の存在を無視し、彼らに攻撃のスキを見せることがあってはならぬ》
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 182-184
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77-s (戦争がもたらす地上と霊界双方への弊害について =2=)
地上世界は人類というものを民族別に考えず、すべてが大霊の子であるという観点から考えないといけません。障壁をこしらえているのは人間自身なのです。大霊ではありません。大霊は人間の一人ひとりに神性を賦与しているのです。したがって人類のすべてが大霊の一部なのです。
地上は建設すべきものが山ほどあるというのに、上に立つ“お偉方”はなぜ破壊することばかりしたがるのでしょう。大霊はそうした人間の行為のすべてを規律的に治めるための摂理を用意しております。それに干渉するようなことをしてはなりません。逆らったことをすれば、その結果は破壊と混乱でしかありません。そのことは(世界大戦で)目のあたりにしたばかりではないでしょうか。
ここにお集まりの皆さん方の一人ひとりが積極的にその影響力を行使して、大霊の計画の推進のために尽力する人たちを先導していただきたいのです。大霊が流血を望まれると思いますか。戦争による悲劇、苦痛、失業、飢餓、貧民窟を大霊が望まれると思いますか。子等が味わえるはずの恵みを奪われて喜ばれると思いますか。戦争で親を奪われて、幼な子が路頭に迷う姿を見て大霊が喜ばれると思いますか。
殺意が芽生えた時、理性が去ります。人間には神性が宿っていると同時に、動物進化の名残りとしての獣性もあります。人間としての向上進化というのは、その獣性を抑制し神性をより多く発揮できるようになることです。獣性が優勢になれば戦争と衝突と殺人が横行します。神性が発揮され、お互いに援助し合うようになれば、平和と調和と豊かさが得られます。
地上世界を国別、民族別に考えてはなりません。すべてが大霊の一部であることを教えないといけません。みんな大霊の子なのです。海で隔てられていても大霊の前では兄弟であり姉妹なのです。私たちの教えは単純です。しかし真実です。自然の摂理に基づいているからです。
摂理を無視した方法で地上世界を築こうとすると混乱と無秩序が生じます。必ず破綻をきたします。
忍耐強い努力と犠牲を払わないことには、これからも数々の戦争が起きることでしょう。タネを蒔いてしまった以上は、その産物を刈り取らねばなりません。因果律はごまかせないのです。流血の争いというタネを蒔いておいて平和という収穫は刈り取れません。他国を物理的に支配せんとする欲望の張り合いをしながら、その必然の苦い結果を逃れるわけにはまいりません。
愛のタネを蒔けば愛が実ります。平和のタネを蒔けば平和が実ります。互助のタネを地上のいたるところに蒔いておけば、やがて互助の花が咲き乱れます。
単純な真理なのです。あまりに単純すぎるために、かえって地上の“お偉方”を当惑させるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 184-186
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77-t (大戦で戦死した人たちの犠牲をどう考えるか)
― “大戦”(※)で戦死した人たちの犠牲は何一つ良い結果を生み出さなかったのでしょうか。(※英語で“大戦”Great
Warという時は第一次世界大戦のことをさすが、ここでは第二次大戦も含む戦争一般のこととして訳した―訳者)
何一つありません。今の世界の方が “偉大なる戦争”勃発以前よりさらに混とん状態に近づき、破壊が増しております。
― 数多く見られた英雄的行為が無駄に終わってしまうこともありうるのでしょうか。霊的に何の報いもないのでしょうか。
その犠牲的行為をした当事者個人にはあります。動機が正しかったからです。ただ忘れないでいただきたいのは、そうした英雄を後世の人間が裏切っていることです。犠牲を無駄に終わらせています。その原因は相変わらず物的欲望を優先しているからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 186-187
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77-u (終戦記念日の催しは少しは役に立っているか)
―毎年のように“終戦記念日”の催しがありますが、少しは役に立っているのでしょうか。
たとえわずか二分間であっても、まったく思い出さないよりはましでしょう。が、その日をライフル銃と銃剣と花火という、戦争で使用する軍事力の誇示で祝って、いったいどうなるというのでしょう。何か霊的な行事で祝えないものでしょうか。
―同じ日にスピリチュアリストの集会で行っている記念行事を続けることには賛成なさいますか。
真実が表現されているところには必ず価値あるものが生まれます。説教も奉仕的精神を生むものであれば結構です。ただ聞くだけで終る説教では無意味です。聴衆をいかにも平和の味方であるかの気分に浸らせるだけのキザな説教ではいけません。
私が望むのは実際の活動を生み出すような説教、人のために役立つことをしたいと思わせるような説教、弱者に勇気を与えるような説教、喪の悲しみに暮れる人を慰めてあげるような説教、住む家さえない人たちの心の支えとなるような説教、物質界の汚点である虐待行為のすべてに終止符を打たせるような説教です。
お互いがお互いのためになることをする以外に平和の道はありません。すべての人間が互助の精神に満たされ、人のためになる行為を実践するようになるまでは、平和は到来しません。これまで続けられてきた終戦記念日も、今日では次の戦争の準備のための小休止でしかありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、p. 188
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77-v (不戦主義や兵役拒否の運動には賛同するか)
―不戦主義(兵役拒否)の運動には賛同なさいますか。
私はどの“主義”にも属しません。私にはラベルはありません。名目に惑わされてはいけません。その目的としているものは何か、何を望んでいるのか、そこが大切です。なぜなら、敵と味方の双方に誠実で善意の人がいるからです。
私たちの教えはいたって単純ですが、それを実行に移すには勇気がいります。一つの糸口をつかんだら、つまり霊的真理を知ることによって覚悟を決め、物的生活のあらゆる事柄に奉仕と無私の精神で臨めるようになれば、地上に平和と和合が招来されます。
それは主義・主張からは生まれません。神の子がそうした精神の真実性を悟り、それを日常生活において、政治活動において、工場において、政府機関において、あるいは国際政策において応用していくことによって初めて実現されるのです。
私たちにできるのは、これこそ真実に基づいていると確信した原理を説き、それを応用すれば、必ずや地上世界によい結果がもたらされることを自信をもって申し上げるのみです。
その地上世界にいるのはあなた方です。最後の責任はあなた方にあります。しかし皆さんが人の道を誤ることさえなければ、私たちも精一杯の愛と厚意をもって導き、万全の協力を惜しまないことだけはお約束します。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 189-190
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77-w [58-zh] (利己主義のタネを蒔けばその結果を刈り取らねばならない)
人間は戦争が起きるとすぐに“なぜ神は阻止してくれないのか”“なぜ未然に防いでくれないのか”とおっしゃいます。が、人間みずから神の摂理を無視する方向を選択した以上は、その責任は人間にあります。やりたいことを勝手にやっておいて、その報いを逃れるというのは許されません。摂理は変えられません。蒔いたタネは自分で刈り取るのです。利己主義のタネを蒔けばそれ相当の結果を刈り取らねばなりません。高慢・嫉妬・怨み・貪欲・悪意・不信・猜疑心―こうしたタネを蒔けば、やがて時をへて戦争と困窮と混乱を生みます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 87-88
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77-x[27-f] (なぜ多くの敵を殺すのが唯一の解決策だと考えるのか)
地上の人間は流血によって問題が解決されるかに考えますが、これまでの歴史でそのような方法で問題が解決した例はありません。流血は無益であり、結局は徒労に終わります。なぜ人類はせっかく神から授かっている理性が使えないのでしょうか。なぜできるだけ多くの敵を殺すのが唯一の解決策だと考えるのでしょうか。敵を一ばん多く殺した者が英雄とされる----地上というところは不思議な世界です。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p.181
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77-y[79-v] (戦争への参加・不参加の是非判断には動機が優先される)
動機が何であるか----これが最後の試練です。魂の奥の静かな、そして小さな声が反発するがゆえに戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだという考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にイザとなれば我が身を犠牲にする覚悟をもって戦場へおもむく人間とは、私たちの世界から見て上下の差はありません。動機がもっとも優先的に考慮されるからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 223
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77-z(死刑制度は報復心に駆られているという意味で間違いである)
原則として人間が人間の生命を奪うのは間違いです。なぜなら、人間には生命を創造する力はないからです。
私は、死刑制度によって事態は少しも改善されないと信じます。殺人行為を平気で行なう者が、絞首刑その他の処刑手段に怯えて行為を思い止まるようなことは、まず有り得ないと考えます。いずれにせよ、死刑に処することは正義からではなく報復心に駆られているという意味において、間違いです。
いかなる場合においても、生命の基本である霊的原理から外れないようにしなくてはなりません。殺人者を殺すことによって、殺された人は少しも救われません。
トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』(近藤千雄訳)
ハート出版、2003、p.28
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77-za (戦争の流血の悲劇の原因は元はといえば利己主義にある)
真の平和は物的な問題に霊的摂理を適用するようにならないかぎり訪れないということが、なぜ地上の人には解らないのでしょうか。戦争、そしてその結果としての流血と悲劇と涙、さらには混乱と騒乱と災禍と破綻の原因は、元はといえば利己主義にあるのです。
その利己主義を互助の精神と置き替えてはじめて平和が到来すること、物量主義と権力を第一に考える古い概念と国威発揚の野望を捨て、それに代ってお互いが助け合って生きようとする精神――強い者が弱い者を助け、余るほど持っている人が足らない人に分けてあげるという関係にならなくてはいけません。
トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
コスモ・テン・パブリケーション、1989、pp. 182-183
78 自殺
78-a (自殺をどのように受けとめるか)
私たちに反論する人たち、とくにローマカトリック教会の人たちは、私たちが自殺を容認している---臆病な自殺者を英雄または殉教者と同等に扱っていると非難します。が、それは見当違いというものです。私たちは変えようにも変えられない自然法則の存在を認めると同時に、同じ自殺行為でも進化の程度によってその意味が異なると観ているのです。たしかに臆病であるがゆえに自殺という手段で責任を逃れようとする人が多くいます。しかし、そんなことで責任は逃れられるものではありません。死んでもなお、その逃れようとした責任に直面させられます。しかし同時に、一種の英雄的行為ともいうべき自殺---行為そのものは間違っていても、そうすることが愛する者にとって唯一の、そして最良の方法であると信じて自分を犠牲にする人もいます。そういう人を卑怯な臆病者と同じレベルで扱ってはなりません。大切なのは動機です
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.219-220
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78-b (耐えきれない苦しみから自殺するのか)
=あなたに耐えきれない苦しみはない=
(耐えきれない苦しみから自殺するのではありません。)それは違います。その説明の順序としてまず、これには例外があることから話を進めましょう。いわゆる精神異常者、霊的に言えば憑依霊の仕業による場合があります。が、この問題は今はワキへ置いておきましょう。いずれにせよこのケースはごく少数なのです。大多数は、私に言わせれば臆病者の逃避行為にすぎません。果たすべき義務に真正面から取り組むことが出来ず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることが、その苦しみから逃れる一番ラクな方法だと考えるわけです。ところが死んでも、というよりは死んだつもりなのに、相変らず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変らず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを造り出して、それが外界との接触を遮断します。そうした状態のまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。
しかし、すでに述べたように、一ばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今のべた通りそう思惑どおりには行きません。が、一方、これはそう多くあるケースではありませんが、動機が利己主義ではなく利他主義に発しているとき、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発しているときは、たとえそれが思い過しであったとしても、さきの臆病心から出た自殺とほまったく違ってきます。
いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分自身の手で自分の人生を書き綴っているのです。一たん書き記したものはもう二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その鉄則は絶対であり不変です。だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。
いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になればかならず光が見えてきます。魂の内奥に潜む勇気が湧き出て釆ます。その時あなたはその分だけ魂を開発したことになり、霊界からの援助のチャンスも増えます。背負いきれないほどの荷は決して負わされません。なぜならその荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。決して神が
"この男にはこれだけのものを背負わせてやれ″と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。
宇宙の絶対的な法則のはたらきによってその人間がそれまでに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷を拵えることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギ−を正しく使えば、それを元通りにすることが出来るはずです。
『古代霊は語る』(近藤千雄訳編)潮文社、
1986、pp.125-127
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78-c (死後の生命を信じて病人が医学的手段での延命を拒否するのは)
ならばその時の動機づけが大切なポイントになります。同じ行為でも動機づけによって正当性が違ってきます。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.148
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78-d (自殺者が仮に喜びと幸せを感じながら自殺した場合はどうか)
その場合は動機が自己中心的ということになります。自然の摂理をごまかすことはできません。こればかりは例外がありません。蒔いたものは自分で刈り取らねばなりません。それ以外にありようがないのです。動機がすべてを決定づけます。その時点において良心が善いことか悪いことかを告げてくれます。もしそこで言い訳をして自分で自分をごまかすようなことをすれば、それに対して責任を取らされることになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.148
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78-e (悩みを抱えて自殺してもその悩みが消えるわけではない)
― 大きな悩みを抱えて自殺まで考えている男性から投書があり、シルバーバーチ霊は自殺行為をどう観ているかを聞いてみてほしいとあった。投書が読み上げられるのを聞いてシルバーバーチはこう語った。
事態を改善するよりも悪化させるようなことは、いかなる魂に対してもお勧めするわけにはまいりません。自殺行為によって地上生活に終止符を打つようなことは絶対にすべきではありません。もしそのようなことをしたら、それ相当の代償を支払わねばならなくなります。それが自然の摂理なのです。地上の誰一人として、何かの手違いのためにその人が克服できないほどの障害に遭遇するようなことは絶対にありません。
むしろ私は、その障害物はその人の性格と霊の発達と成長にとって必要だからこそ与えられているのですと申し上げたいのです。苦しいからといって地上生活にさよならをしても、その苦しみが消えるわけではありません。それは有り得ないことです。またそれは摂理に反することです。地上であろうと霊界であろうと、神の公正から逃れることはできません。なぜならば、公正は絶対不変であり、その裁定はそれぞれの魂の成長度に合わせて行われるからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p. 206
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78-f (自分が不当な状態に置かれていると悩み自殺を考える人)
― [78-e] に続いて(司会者):この方は現在の自分の置かれている状態が不当だとおっしゃりたいようです。
分かっております。地上の人間は時として物事を逆さまに見ていることがあります。きわめて不完全な知識でもって判断しようとされます。人間にも一定範囲の自由意志が許されており、それを行使していらっしゃいますが、誰一人として自然の摂理から逃れられる人はいません。
物質の世界から霊の世界へ移ったからといって、それだけで魂に課せられた責任から逃れられるものではありません。それだけは明確に断言できます。無限の知識にくらべると、われわれは何と知らなすぎることでしょう。が、そのわずかな知識しかもたない者でも、今までより少しでも多く知ったら、その知識を有効に活用しなければなりません。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p. 207
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78-g (自殺者の死後の状態は魂の発達程度によって違ってくる)
― 自殺者は死後どのような状態に置かれるのでしょうか。
それは一概には申し上げられません。それまで送ってきた地上人生によって異なるからです。開発された霊的資質によって違ってきます。魂の発達程度によって違ってきます。そして何よりも、その自殺の動機によって違ってきます。
キリスト教では自殺をすべて一つのカテゴリーに入れて罪であるとしておりますが、そういうものではありません。地上生活を自分で勝手に終わらせる権利は誰にもありませんが、自殺に至る事情には酌量すべき要素や環境条件がいろいろとあるものです。
― いずれにせよ自殺行為が為にならないことだけは間違いないでしょう。
むろんです。絶対に為になりません。地上生活を勝手に終わらせることが魂にプラスになったということは絶対にありません。が、だからといって、自殺した者がみんな暗黒界の暗闇の中に永遠に閉じ込められるわけではないと申し上げているのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 207-208
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78-h [18-s](耐え切れない苦しみだから自殺するのではないのか)
別の日の交霊会では、親戚の者が自殺をしてしまったという人からの投書が読み上げられた。その最後に「自殺行為は霊的進歩の妨げになるのでしょうか」という質問があった。これに対してシルバーバーチが「もちろんです」と答えると、神は耐え切れないほどの苦しみは与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐え切れない苦しみを受けるからではないでしょうか、と質問が続いた。
それは違います。説明の順序として、これには例外があることから申し上げましょう。いわゆる精神異常者、あるいは霊に憑依されている場合もあります。が、この問題は今はわきへ置いておきましょう。いずれにせよ、このケースはごく少数です。大多数は私に言わせれば臆病者の逃避行為であると言ってよいと思います。果たすべき義務に真正面から取り組むことができず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れるいちばんラクな方法だと考えるわけです。ところが、死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断します。その状態から抜け出られないまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。
しかし、私がいつも言っているように、いちばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今述べた通り、そう思惑どおりには行きません。が一方、時たまあるケースとして、動機が利己主義でなく利他主義に発している時、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発している時は、たとえそれが思い過しであったとしても、さきの臆病心から出た自殺とはまったく違ってきます。
いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分の手で自分の人生を書き綴っているのです。いったん書き記したものは二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。
だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれは必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。責任を全うしようとしたことが評価されて、その分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。背負い切れないほどの荷はけっして負わされません。なぜなら、その荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。けっして神が“この人間にはこれだけのものを負わせてやろう”と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。
宇宙の絶対的な法則の働きによって、その人間がその時までに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷をこしらえることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えは、それを元通りにすることが出来るはずです。
― 因果律の働きですね。
そうです。それが全てです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 208-211
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78-i (ノイローゼで自殺したのなら罪はないことにならないか)
― たとえば脳神経に異常をきたしてノイローゼのような形で自殺したとします。霊界へ行けば脳がありませんから正常に戻ります。この場合は罪はないと考えてよろしいでしょうか。
話をそういう風にもって来られると、私も答え方によほど慎重にならざるを得ません。答え方次第では私がまるで自殺した人に同情しているかのような、あるいは、これからそういう手段に出る可能性のある人に口実を与えていることになりかねないからです。
もちろん私にはそんなつもりは毛頭ありません。今のご質問でも、確かに結果的にみればノイローゼ気味になって自殺するケースはありますが、そういう事態に至るまでの経過を正直に反省してみると、やはりそのスタートの時点において私がさきほどから言っている“責任からの逃避”の心理が働いていたのです。もしもその人が何かにつまずいた時点で“自分は間違っていた。やり直そう。そのためにどんな責めを受けても最後まで責任を全うしよう”と覚悟を決めていたら、不幸をつぼみのうちに摘み取ることが出来ていたはずです。
ところが人間というのは、窮地に陥るとつい姑息な手段に出ようとするものです。それが事態を大きくしてしまうのです。そこで神経的に参ってしまって正常な判断力が失われていきます。ついにはノイローゼ気味となり、自分で自分が分からなくなります。問題はスタートの時点の心構えにあったのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 211-212
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78-j (自殺行為によって学べる教訓は何一つない)
― 自殺をすることまで計画されていることがあるというのは本当でしょうか。
とんでもありません! 計画というのは母胎に宿る以前に霊自身によって立てられるのです。
― 自殺行為によって学べる教訓は何一つ無いということでしょうか。
あるわけがありません! 生命は宇宙の大霊が授けるのです。それを縮める権利は人間にはありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、p.60
79 人間の自由意志・動機
79-a (人のために奉仕する自由意志)
自由意志の占める要素はきわめて重大です。ただ忘れてならないのは、自由意志という用語には一つの矛盾が含まれていることです。いかなる意志でも、みずからの力ではいかんともし難い環境条件、どうしても従わざるを得ないものによって支配されています。物的要素があり、各国の法律があり、宇宙の自然法則があり、それに各自の霊的進化の程度の問題があります。そうした条件を考慮しつつ私たちは、人類の進歩に役立つことなら何にでも影響力を行使します。あなた方の自由意志に干渉することは許されませんが、人生においてより良い、そして理に叶った判断をするように指導することはできます。
お話したことがありますように、私たちが最も辛い思いをさせられるのは、時として、苦境にある人を目の前にしながら、その苦境を乗り切ることがその人の魂の成長にとって、個性の開発にとって、霊的強化にとって薬になるとの判断から何の手出しもせずに傍観せざるを得ないことがあることです。各自に自由意志があります。が、それをいかに行使するかは各自の精神的視野、霊的進化の程度、成長の度合が関わってきます。私たちはそれを許される範囲内でお手伝いするということです。
『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
潮文社、1986、pp.232-233
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79-b (人間はどこまで自由に自分の運命を選べるのか)
男性と女性とが互い足らざるところを補い合って全体を完成させる---理性で解答の出ないところは直感で補う---これは補完の摂理≠フ一つの側面です。人間には自我の開発のためのチャンスが常に与えられております。それをどう活用するかは本人の自由意志に任されております。
人生に偶然はありません。偶発事故というものはありません。偶然の一致もありません。すべてが不変の自然法則によって支配されております。存在のどの側面を分析しても、そこには必ず自然法則が働いております。人間もその法則の働きの外には出られません。全体を構成する不可欠の一部だからです。
その法則はあなた方が何らかの選択をした際に確実に働いてきました。選択をするのはあなた方自身です。その際あなた方を愛する霊による導きを受けておられます。足もとを照らす光としての愛です。それに素直に従えは意義ある人生を歩むことになる、そういう愛です。
愛は生命と同じく不滅です。物的なものはその本性そのものが束の間の存在ですから、いつかは滅ぶ運命にありますが、霊的なものは永遠に不滅です。愛の本性は霊的なものです。だからこそ永続性があるのです。死を超えて存在し続けます。バイブルにあるように愛とは神の摂理を成就することです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.32-33
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79-c (自由意志はカルマによってどの程度まで制約を受けるか)
人生はすべてが自然の摂理によって規制されております。気まぐれな偶然や奇跡などによって動かされているものは何一つありません。すべてが原因と結果、種まきと刈り入れです。さもなければ宇宙は混乱状態におちいります。いずこをご覧になっても無限の叡智から生まれた無限の構想の中で自然法則が働いている証拠を見出すことができます。
たとえば四季のめぐりがそれです。惑星と星雲の動きがそれです。潮の満ち引きがそれです。花々の美事な生育ぶりがそれです。それらのすべてが自然法則によって支配されているのです。となれば、その法則の枠組みを超えたものは絶対に起きないということですから、いくら自由といっても、そこにはおのずから限界がある---法則という神の力による制約があることになります。しかし、法則の裏側にも法則があります。物理法則だけではありません。精神的法則もあり、霊的法則もあります。
あなたが生き、呼吸し、存在しているのは、あなたという霊が受胎によって物質と結合して個的存在を得たからです。その個的存在が徐々に発達していきつつあるのです。その発達過程においてあなたには自由意志という要素、つまりその時どきの環境条件の中で道を選択する力あるいは判断力を駆使できることになっております。あなたが最良にして最高の選択をなされば、あなたの民族のために、世界のために、森羅万象のために、宇宙の霊的発達と進化のために貢献することになります。なぜなら、あなたの霊は宇宙の大霊の一部だからです。
宇宙のすみずみまで支配している神性とあなたもつながっているということです。あなたはミクロの大霊なのです。大霊が具えている神性のすべてをあなたも所有しており、それを開発していくための永遠の時が用意されているのです。
明日の朝あなたはいつもより一時間はやく起きようと遅く起きようと、あるいは起きずに終日ベッドにもぐっていようと、それはあなたの自由です。起きてから散歩に出かけようとドライブしようと、それも自由です。腹を立てるのも自由です。冷静さを取り戻すのも自由です。そのほか、あなたには好き勝手にできることがいろいろとあります。
しかしあなたは太陽の輝きを消す力はありません。嵐を止める力はありません。あなたの力を超えたものだからです。その意味であなたの自由意志にも限界があります。それからもう一つ別の限界もあります。これまでにあなたが到達した精神的ならびに霊的進化の程度です。たとえは人を殺める行為は誰にでもできます。が、その行為に至らせるか否かは、その人の精神的ならびに霊的進化によって決まることです。ですから、あなたに選択の自由があるとはいっても、その自由はその時点でのあなたの霊的本性によって制約を受けていることになります。宇宙にはこうしたパラドックス---一見すると矛盾しているかに思える真実---がいろいろとあります。自由意志といっても常に何らかの制約を受けているということです。
さて、ここで私はもう一歩踏み込まねはなりません。あなたがカルマの問題をお出しになったからです。このカルマも非常に大きな要素となっております。なぜなら、地上に誕生してくる人の中にはあらかじめそのカルマの解消を目的としている人が少なくないからです。たとえ意識へのぼってこなくても、その要素が自由意志にもう一つ別の制約を加えております。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.37-38
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79-d (完全に自由な意思が行使できる者はいない)
完全に自由な意志が行使できる者はいません。自由といってもある限られた範囲内での自由です。あなたの力ではどうにもならない環境条件というものがあります。魂は、再生するに当たってあらかじめ地上で成就すべき目的を自覚しております。その自覚が地上で芽生えるまでには長い長い時間を要します。魂の内部には刻み込まれているのです。それが芽生えないままで終わったときは、また再生して来なければなりません。首尾よく自覚が芽生えれば、ようやくその時点から、物質をまとった生活の目的を成就しはじめることになります。
人間の本性を私が変えるわけにはまいりません。その本性は実に可変性に富んでおります。最高のものを志向することもできれば、哀れにもドン底まで落ち込むこともできます。そこに地上へ再生してくる大きな目的があるのです。内部には霊的な可能性のすべてが宿されております。肉体は大地からもらいますが、それを動かす力は内部の霊性です。
人生をどう生きるか---霊のことを第一に考えるか、それとも物質を優先させるか、それは本人の自由意志の選択にまかされております。そこに人間的問題の核心があるのですが、援助を求めてやってきた人にあなたは、その選択に余計な口出しをせずに、必要な援助を与えなければいけません。援助が効を奏さなければそれ以上かまう必要はありません。(それであなたの責任は終わったということです)縁あってあなたのもとを訪れたということは、その人にとって自我を見出す絶好機がめぐってきたということです。成功すれば、あなたは他人のために自分を役立てる機会が与えられたことに感謝なさることです。もし失敗したら、その人のことを気の毒に思ってあげることです。
『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp.39-40
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79-e (自由意志を行使して無限の可能性の宝庫を開いていく)
=結成したばかりの青年部のメンバーで四人の若い真面目なスピリチュアリストが、どんな難しい質問でもよいから用意してくるようにとシルバーバーチから言われて、交霊会を訪れた。二十代の男女二人ずつのメンバーに対して、はじめに述べられたことば=
あなた方は比較的若い年齢でこうした素晴らしい機会に恵まれたことを喜ぶべきです。今日なおあまりに多くの人たちが日陰の中で暮らし、きつね火を追い求め、幻影を抱き、実在を見出せずにいることは何と悲しいことでしょう。あなた方は一人一人が無限の可能性の宝庫なのです。その中のどれだけを自分のものとするかは、あなた方の努力次第です。それが自由意志をどれだけ行使するかの尺度となります。どこまで追求するか、それはひとえにあなた方自身にかかっております。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、p.120
79-f[40-zd] (自由意志の限界と絶対に免れることのできない因果律)
講演(40-zb)の質疑応答:― さきほどあなたは、一歩控えて思いどおりにやらせるほかはないことがあるとおっしゃいました。その人には好きな道を選ぶ自由意志があるわけですが、もしもその人が自由に行動してそれが仕事をぶち壊すようなことになったらどうなるでしょうか。
自由といってもある一定の範囲内での話です。無制限の自由ではありません。その人の霊的成長と進化から生じる一定の条件によって制約されます。完全な自由選択が許された無制限の自由ではありません。
― 本当の意味での自由意志は存在しないわけですか。
ある限界内での自由意志が存在するということです。その段階での判断に基づいて好きな道が選べます。そしてそれがその人の霊的進歩を妨げもすれば促進もするということです。
― かりにあなたが代わりに選択してあげたら、それがその人の進歩を妨げることになるかも知れないし促進することになるかも知れないわけですね。
それは有り得ることです。ただ、なかなかうまく説明できないのですが、表向きは単純そうでも、その裏面は、法則の内側に法則があり、そのまた内側に法則があり、そのまた内側にも法則があって、実に複雑なのです。しかし、神の叡智は完ぺきですから、絶対に手落ちがないように、すみずみまでバランスが取れております。
― せっかくの成果をぶち壊しにするような行為も、全体の計画にとっては大して支障を来たさないということなのでしょうか。
とんでもないことをして成果のいくつかをぶち壊しにすることはあっても、全部を台なしにするようなことはないということです。人間の行為が及ぼす被害も多寡が知れてるということです。地上のいかなる人物にも、神の意志を完全に台なしにしたり、計画の推進を完全に阻害するほどの損害を及ぼす力はありません。
― ということは、この地球上で発生する災害もすべて神の計画の中で起きているということでしょうか。
人間はその神の計画のワク外で行動することはできないという意味で、そう言えます。絶対に免れることの出来ない因果律というものがあるからです。その冷厳な法則が人間に宿命的な限界というものを設けております。ぶっきらぼうな言い方をすれば、地上の科学者には宇宙全体を全滅させるほどの破壊力は製造できません。そこに限界があります。
『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
潮文社、1987、pp. 196-198
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79-g [58-b] (切ることの出来ない神との縁)
私にできることは、いつの時代にも適用できる真理を繰り返し説くことです。それを受け入れ、生活の基盤とするのはあなた方の役目です。それは容易なことではありません。しかし、もしも容易であったらそれだけの価値はないことになりましょう。霊的探検に容易なものは何一つありません。霊の歩むべき本来の道は何にも増して困難なものです。聖者の道、悟りへの道、円熟への道は容易には達成されません。自己犠牲を伴う長くゆっくりとして根気のいる、曲りくねった道です。己れを棄てることーーこれが進化の法則です。
もしも霊の最高の宝が努力なしに手に入るものだとしたら、これは,永遠の叡智を嘲笑うことになります。これは絶対的摂理として受け入れなくてはいけません。私はかつて一度たりとも神が光と善にのみ宿ると述べたことはないつもりです。善と悪の双方に宿るのです。無限絶対の存在である以上、神は存在の全てに宿ります。宇宙間の出来ごとの一部だけを除外して、これだけは神とは別個のもの、何かしら、誰かしら、とにかく別種のエネルギーの仕業であるなどとは言えません。私はいつも宇宙は全て両極性によって成り立っていると申しております。
暗闇の存在が認識されるのは光があればこそです。光の存在が認識されるのは暗闇があるからこそです。善の存在を認識するのは悪があるからこそです。悪の存在を認識するのは善があるからこそです。つまり光と闇、善と悪を生むカは同じものなのです。その根源的なカがどちらへ発揮されるかは神のかかわる問題ではなく、あなた方の自由意志にかかわる問題です。そこに選択の余地があり、そこに発達のチャンスがあるということです。
地球は完全な状態で創造されたのではありません。個々の人間も完全な状態で創造されたのではありません。完全性を潜在的に宿しているということです。その潜在的完全性が神からの霊的遺産であり、これを開発することが個人の責務ということです。それには自由意志を行使する余地が与えられています。善か悪か、利己主義か無私か、慈悲か残酷か、その選択はあなたの自由ということです。ただし忘れてならないのほ、どちらの方向へ進もうと、神との縁は絶対に切れないということです。神の力とエネルギーと援助を呼び込む手段は常に用意されています。しかしそのためには時には魂の奥の間に引きこもり、その静寂の中でできるだけ神との融合を保つことを怠ってはなりません。
『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp.83-84
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79-h [77-n] (人類はいつかは戦争のない平和な暮らしができるようになるか)
これは難しい問題です。まず理解していただかねばならないのは、神は人間に自由意志というものを授けられているということです。自由意志のない操り人形にしてもよかったのです。が、自由意志による選択の余地を与えられることによって、人間も永遠の創造的進化の過程に参加する機会がもてることになったのです。
人間は地上をエデンの園、楽園、天国にすることもできれば、暗く荒涼とした、恐ろしい悪の園にすることもできます。そこに選択の余地が残されているのです。
戦争、暴力、貪欲、情欲、利己主義がはびこるのは物質中心の考え方をするからです。そういう考え方をするのは、これほど多くの宗教が存在しながら大半の人間が肉体が死ねばすべておしまいと思っているからです。死後にも実感をともなった生活―地上生活の賞罰が清算される世界が存在するという事実が信じられず、地上生活が唯一の生活の場であると考えます。すると当然、物質がすべてなら今のうちに思い切り欲望を満足させておこう、ということになります。それが戦争を生み、憎み合い、征服し合い、殺し合うことになります。
もっともこれは真相の一面を述べたまでです。有難いことに、他方では、人間のわがままによる混乱を抑制するための摂理も間違いなく働いております。その一環として私たちは、地上に霊的実在についての知識をもたらすための大事業にたずさわっているのです。
霊媒の活用によって人間が霊的天命を背負った霊的実在であることを証明することができます。その天命を全うするも損なうも、日常生活における身の処し方一つに掛かっております。因果律、すなわちタネ蒔きと刈り取りの摂理は絶対に狂いません。
良い行いをすればそれだけ幸せを味わいます。利己的な行いをすればそれだけ苦い思いをさせられます。摂理はごまかせません。死の床でいくら懺悔の言葉を述べても、すでに始動している因果律の働きを止められるものではありません。
こうした真理を理解する人が増すにつれて戦争が減り、平和な地域が広がっていきます。これは一朝一夕にできることではありません。
私には以上のようなお答えしかできません。自分の役目を果たすのです。自分なりの最善を尽くすのです。縁あって近づく人の力になってあげることです。親切に、寛容に、そして慈悲の心をもって接するのです。機会さえあれば、どこででも人のために役立つことを心掛けることです。それが世の中に貢献するゆえんとなります。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 185-187
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79-i [55-j] (科学技術の発達に伴う人類の自由意志選択の責任)
― (ジャーナリストが質問する) 霊界および他の世界から人類へ向けてさまざまな警告が届けられております。あるものは原子力は悪であるから阻止せよと言い、またあるものは人類の独善主義について警告しています。そうした警告めいた予言を総合的に検討して記事を書くようにとの依頼を受けているのですが、ご意見を承りたいのです。もし何か特別に警告すべきことがありましたら明確に述べていただきたいのですが……
私は原子力が悪だとは思いません。その使用法が邪悪になることはありえます。しかし反対に測り知れない恩恵をもたらすこともできます。そのカギを握るのは、その途方もないエネルギーを管理する、あるいは管理を誤るかも知れない立場にある人たちです。
警告めいた予言のことですが、霊界にカッサンドラ(ギリシア伝説の凶事の予言者)のような霊がいて、何か大変なことが地球に迫りつつあるということで大ゲサに嘆いているような図を想像してはなりません。
そんな単純なものではないのです。大霊は子等に一定限度内の自由意志を与えておられます。その自由意志による選択によって地上を光輝と美と豊かさに満ちた所にすることもできれば“生き地獄”とすることもできます。その選択をするのはあなた方人間なのです。
科学技術の発達とともに途方もないエネルギーの存在が明らかにされて、それをいかなる目的に使用するかの責任が大きくなってまいります。正しい進化の方向を選ぶことになる唯一の道は、私の理解しているかぎりでは、無限の神性を宿している子等がそれをできるだけ多く発揮して地上世界を美しく飾り、大自然がその豊かな恩恵を実らせるようにする以外にありません。
それが人間が選択すべき唯一の道です。それを無視して富の神マモンを崇拝し、欲望に乗り、利己的になり、他人のことはどうでもよいと考えるようになったら最後、自分の国だけでなく地球全体が暗愚と困難と悪と疫病という、自由意志の選択の誤りが生み出す結果で埋めつくされることになります。
しかし、そう申し上げながらも尚かつ私は、人間がいかに驚異的なエネルギーを手にしようと、それよって起こす破壊や荒廃を一定限度で食い止める無限の力には到底太刀打ちできないことを断言しておきます。地球全体を、あるいは宇宙そのものを完全に破壊する力は持てません。
― やはりあくまでも神の持ち物というわけですね。
そうです。あくまでも大霊の持ち物であり、大霊が支配しなければならないのです。大霊は無限です。無限なる愛であり、無限なる叡智であり、すべて子等に、地上を天国となしてそこに共存するための手段を提供してくださるのです。それを受け取るか否かの選択は自由ですが・・・・・
自由だからいいのです。もしも人間が操り人形かロボットのようなものだったら人生は何の意味もないことになるでしょう。完成へ向けての進化も成長もありません。永遠の虚無の世界となってしまいます。それは神の意図するところではありません。
皆さん方のどなたよりも永く宇宙人生を送ってきた私は、神の完全性が生み出した宇宙の美事な機構を畏れと驚嘆と敬意と感嘆をもって眺めるようになりました。無限の知性が考案した摂理の働きを阻止できるものは何一つ存在しません。
人生のすべての相を支配している永遠の霊的原理をかい間見るという光栄に浴した者は、明日はどうなるのかという不安を抱く必要はみじんもありません。驚異的な科学技術の発達、科学的業績は善にも悪にも使用できますが、いくら悪いことに使っても、それがもたらす破壊にも限界があります。地球全体、およびそこに住む人類をもろとも破滅させてしまうほどの無制限・無束縛の自由が許されるわけではありません。
愛は憎しみに勝ります。霊は物質に勝ります。その宇宙最大の力は生命の大霊かち出ているのです。無限の知性によって考案され、無限の叡智によって支配されている宇宙の摂理は、いま住んでおられる世界が少しでもよい世界へ向けてゆっくりと着実に進歩するように配慮してあるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 195-198
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79-j [76-zk] (なぜ動物は人間によって苦しめられねばならないのか)
― なぜ動物は人間の手によって苦しめられねばならないのでしょうか。人間の霊的成長の試金石となるために地上に置かれているのでしょうか。もっと高い進化の段階に達している別の天体へ置かれていれば、そこの住民に可愛がられて霊的進化も促進されるはずですが……
それと同じ疑問が人間についても言えませんか。つまり、なぜ人間は地上で同じ人間の手で苦しめられねばならないのかということです。なぜ苦しむことのない、どこか別の世界へ置いてもらえないのでしょうか。
理解しなければならないのは、地上というところは予備校ないしはトレーニングセンターであって、その目的は内部の神性を可能なかぎり発揮する機会を提供することである、ということです。
人間には、ある一定限度内での話ですが、自分の行為を決定する自由意志が与えられております。その自由選択の結果として地上あるいは霊界における進歩を促進もすれば阻止もするという、そういう体験の繰り返しの中で霊性が発達し、少しずつ不完全な部分を棄てて行くことになるのです。
自由意志があるということは、その当然の可能性として、それを間違ったこと、愚かしいこと、報復的なことに使用する者もいることになり、その結果として苦しむ人も出てくることになります。もしも神が動物も人間も申し分のない状態であることを望まれたならば、地上にもあるいは霊界にも存在していないでしょう。とっくに完全の頂上を極めていることでしょう。しかしそれは有り得ないことなのです。なぜなら、完全とは永遠に続く過程のことだからです。
動物への虐待行為を阻止するには、いろいろとしなければならないことがあります。善の勢力と悪の勢力との戦い、真理を知った者と無知な者との戦いが延々と続いております。また、動物にも地上で果たしている役割があること、人間が住む権利があるのと同じ意味において動物も地上に住む権利があることが、どうしても理解できない近視眼的な人種もいます。これからも戦いは続きます。が、真理は必ず勝利を収めます。
『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 199-201
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79-k[15-g][20-c](人間は自由意志を与えられていても選択を誤ることがある)
― 感情についてお聞きしたいことがあります。私たちが立派と思っている愛国心その他の愛でも、実際は一種の利己主義であることがあります。
何ごとも動機が大切です。愛国心でも、自分の国家と国民のことだけを考えて、よその国のことは一切眼中にないようでは、それは一種の利己主義です。
最高の指針となるのは人のために役立つこと、思いやり、謙虚さ、寛容心、協調性といった形で表現される愛です。愛は宇宙最大の力です。
あなた方は人間です。完全ではありません。完全は地上では絶対に達成されません。こちらの世界でも達成されません。絶えず発達し進化し伸びていく存在です。内部には神性を帯びた潜在力が秘められています。また、一定限度内での自由意志も授けられています。
したがってあなたは神の意図された通りのイメージにしたがって行動して内部の神性を発揮することもできますし、低級な感情と欲望のおもむくままに生き、永遠の持ちものとはならない俗物を求めるだけの人生で終わることも許されます。それは神が地上の人間のすべてに与えられた自由選択の権利です。
しかし人間である以上はその選択を誤ることがあります。そして途中で挫折してしまいます。そこで私たちは、善悪の判断に際して“動機”を重要視します。神は一人一人に良心という絶対に狂うことのない監視装置を用意してくださっております。それがあなたの行為が正しいか間違っているかを正確に教えてくれます。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 74-75
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79-l [17-zi] (臓器移植が許されないとすれば手術はできなくなるのでは)
― しかし、もしも臓器移植が許されないとすれば、手術はできなくなります。
人間には自由意志があります。操り人形ではありません。十字路で右へ曲がるか左へ曲がるかは自分で決められます。選択は自由です。もしも神が人間を操り人形にした方がよいとお考えになっていれば、皆さんは操り人形になっていたはずです。
しかし皆さんも私が“無限の創造活動”と呼んでいるものに参加するだけの力を秘めているのです。が同時にそれを邪魔し、妨害し、遅らせることもできます。ただし、変更させることはできません。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、p. 81
79-m [58-zf] (摂理は完全であり自由意志も摂理の中に組み込まれている)
摂理は完全であり、自動的に作動します。誰一人それから逃れられる人はいません。自由意志も摂理の中に組み込まれております。その働きは一定の進化の段階まで到達すると分かるようになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp.62-63
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79-n (人間のすべてには一定範囲内の自由意志が授けられている)
大霊は人間のすべてに一定範囲内の自由意志を授けてくださっています。あなたは操り人形ではないということです。知性があり、理性があり、判断力・決断力・反省力を有し、自分の意見を主張し、人生体験によって叡智を身につけていくことができます。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 86
79-o[62-i ] (知識にはそれをどう生かすかという責任が伴う)
知識には責任が伴うというのが私の一貫したテーマです。知識による恩恵を受けたからには、こんどはそれをいかに生かすかという責任が必ず生じます。そこにあなたの自由意志による選択が問われます。それがあなた自身の責任の尺度となるのであり、これだけは他の誰一人として代わってあげるわけにはいきません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 86
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79-p [74-x] (あなた次第でものごとは善にも悪にもなる)
ものごとは善にもなり悪にもなります。そこにあなたの選択権、自由意志、決断力、判断力を使用する要素があるわけです。それは大霊があなたに与えた神性の一つです。言い変えれば、あなたは神の操り人形ではないということです。その判断・決断に際して背後霊は、あなたが正しい選択をするよう精一杯の努力をします。しかし時には大切な教訓を学ばせるために思い通りにさせることもあります。が、その裏にはあなたがきっと無傷で立ち直り貴重な叡智を身につけてくれるとの確信があります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 86-87
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79-q [58-zi] (自由意志は使い道を誤ると償いをしなければならない)
自由意志は神からの授かりものです。しかしその使い道を誤るとそれなりの償いをしなければなりません。摂理にのっとった生活をすれば恩恵を刈り取ります。逆らった生き方をすればそれ相当のものを刈り取ります。前者は平和と幸福と豊かさをもたらし、後者は悲劇と戦争と流血と混乱をもたらします。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 88
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79-r [50-q] (大霊の神性の種子が人間の一人一人に植え込まれている)
大霊の神性の種子が人間の一人一人に植え込まれています。それは畑に植えた種子と同じく、生長に必要な養分を与えれば必ず芽を出し、大きく育ち、やがてその美事な花を咲かせ実を結びます。あなた方は一人一人が庭師です。内部の神性が首尾よく芽を出すかどうか、あるいはいつ芽を出すかは、各自の努力次第です。そこには自由意志というものが許されております。暗闇に閉じ込め、発育に必要な光を当てなければ、大霊の顕現する機会はありません。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 88
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79-s (人の行為は何事においても動機がその価値を決める)
何事も動機がその価値を決めます。慈善事業に気前よく大金を寄付する億万長者は、その行為によって少しも霊性は伸びません。反対に、これは絶対に意義があると信じて無い金をはたいて援助する人は、その動機ゆえに霊性が伸びます。苦しむ人を見て止むに止まれぬ気持ちになるのは霊的属性の一つです。愛・情愛・友愛・同情・哀れみ・親切心・奉仕の精神は霊の属性です。それらを表現している時あなたは霊的自我を表現していることになります。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、pp. 94-95
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79-t (なるべく多くの人にとって益になることを動機として判断せよ)
決断を下さなければならない事態に立ち至った時は、それが特定の少数の人ではなく、全部の人、あるいはなるべく多くの人にとって益になることを動機として判断しなさい。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 99
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79-u[58-zw] (人生はすべて法則によって支配されている)
人生はすべて法則によって支配されております。天命・宿命・運命----こうした問題は何世紀にもわたって思想家の頭を悩ませてまいりました。では真相はと言えば、法則の内側にもまた別の次元の法則が働いているということです。宇宙には何人にも動かしがたい基本的法則がまず存在します。そして、それとは別に、自由意志を行使できる法則もあります。ただし、自由意志による行為が原因となってそれ相当の結果が生じます。それは絶対に避けるこけとはできないということです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 212
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79-v[77-y] (戦争への参加・不参加の是非判断には動機が優先される)
動機が何であるか----これが最後の試練です。魂の奥の静かな、そして小さな声が反発するがゆえに戦争に参加することを拒否する人間と、これが国家への奉公なのだという考えから、つまり一種の奉仕的精神から敵を殺す覚悟と同時にイザとなれば我が身を犠牲にする覚悟をもって戦場へおもむく人間とは、私たちの世界から見て上下の差はありません。動機がもっとも優先的に考慮されるからです。
『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
潮文社、1988、p. 223
80 学問・科学・研究
80-a (霊界でも常に実験し知識を増やす努力をしている)
(ウィリアム・クルックス、オリバー・ロッジ、その他の世界的科学者が心霊現象を調査研究したビクトリア時代(ビクトリア女王が王位にあったのは一八三七年から一九〇一年であるからスピリチュアリズム勃興からほぼ半世紀と重なる―訳者)と違って今日では心霊的能力が言わば顕微鏡的精密さをもって厳しく観察されているが、霊界では地上の科学をどう見ているであろうか。まず科学者の質問から始めよう。)
―私は人のために役立つことをすることが大切であることはあなたの霊言で読み、かつそう信じておりますが、それと同時に大切なのは知識を集積すること、つまり学問だと思います。霊界では学問はどういう具合に行われるのでしょうか。この物質界を科学的に研究するには実験ということをしますが、霊界でも実験を行うのでしょうか、それともやはり純粋に精神的なプロセスで行われるのでしょうか。
知識は大霊と同じく無限に存在します。それには終止符を打つところがありません。進歩すれば、さらに多くの知識を手にする資格ができます。頂上を求めて永遠に登り続けるようなもので、ここが頂上だと思ったら、その上に別の頂上が見えるということの連続です。知識・進歩・発達・開発・発展―
こうしたものはすべて永遠のプロセスです。
この物質界ではAをBでやってみたらどういう結果が出るかということを知るために実験を行います。霊界でも実験を行いますが、物質界のやり方とはまったく異なります。なぜかと言いますと、私たちの関心は“霊”が見せる千変万化の顕現の仕方に向けられているからです。ある意味ではいつも実験をしていると言えます。
簡単な例をあげてみましょう。霊界には死後もなお、地上の病気で苦しんでいる人を救うことに専心している医師がおります。その医師たちには地上で身につけた技術があります。人体のメカニズム、その働き具合をさまざまな反応の仕方についての知識も具えております。
さて一方、こちらの世界には地上にない種類のエネルギー、程度を異にする霊力、つまり生命力があり、それに地上で得た知識を組み合わせて地上の患者を治すことを研究しております。それは患者に応じてさまざまなエネルギーを組み合わせる、絶え間ない実験であるといえます。
強すぎてもいけないのです。強すぎると、それが通過する治療家に障害がおきます。治療家の受容力が発達し、より高い運動速度、威力、どう呼ばれても結構ですが、それに耐えられるようになると、治癒エネルギーの強度を増すことができます。
ここでもまた言語を超越したものを表現するための用語を見つけるのに苦労しますが、要するにこちらの世界でも常に実験し、休みなく知識を増やす努力をしております。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 148-150
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80-b (科学者の研究は物的次元から高度な次元へと進歩していく)
(別の日の交霊界でシルバーバーチが “一世紀前の科学的宇宙像は今日とは雲泥の差があります”と述べたのに対して)
― それは、これからは科学者も物的次元の研究から高度な次元へと進歩していくことを意味しているのでしょうか。
(原子のような)目に見えない世界とその未開発の潜在的エネルギーの研究が進むにつれて、みずからの論理でそうならざるを得なくなるでしょう。科学者が霊的に成長すれば、その途方もないエネルギーを善の方向へ使用する方法も分かってくることでしょう。
そうするうちに自分自身にもそうした無尽蔵の見えざる能力が潜在していることを知って、次第にその開発へ目を向けるようになるでしょう。外部にあるものは内部にあるものが顕現したにすぎません。(驚異としか言いようのない人体も内部にある霊すなわち生命力が顕現したものであることを言っている―訳者)
その生命力は物質のように切り刻むことはできません。分割して別々の容器に入れておけるような性質のものではありません。原子の生命も本質的には人間や動物や花や樹木の生命と同じものです。全体が一つの生命体であり、それが無限の形態で顕現しているのです。
― 地上の科学者はもうそのレベルまで理解が達しているでしょうか。
いえ、まだまだですが、理解している人もいます。オリバー・ロッジなどは現象の裏側の実在についての霊的な理解ができた科学者のよい例です。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 150-151
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80-c(科学者が地球全体を破壊するに至ることはない)
― 今後その理解が科学者一般に行きわたるまでには多くの人間と多くの物を犠牲にすることになるのでしょうか。
いえ、科学者のすることにも限界があります。どんなに間違ったことをしても地球全体を破壊してしまうまでには至りません。自然の摂理によって、地上でなされる被害は一部の人間が考えているほど恐ろしいものとはならないようになっているのです。しかも究極的には大霊の意志が地上に行きわたることになっているのです。その計画を挫けさせられる人間は地上にはいません。遅らせることはできます。邪魔することもできます。しかし大霊を支配することはできません。
大自然の摂理の仕組みと働きについて幾ばくかの見識を得たわれわれは、いかなる事態が起きようと、あるいは人間がいかに愚かしいことをしでかそうと、大霊の意志はかならず行きわたるとの確信をもつことができます。そしてその摂理によってますます多くの愛と哀れみと慈悲と互助とが地上で行使されるようになります。
科学も絶対に誤りを犯さないわけではありません。科学者とて間違いを犯す可能性をもった、ただの人間にすぎません。私は科学を神のごとく絶対視してはいません。地球には科学者が言っているような終末はありません。永遠に存在し続けます。
いかがです、あなたも科学者の見解が間違っていた例をいくつかご存知でしょう?
― 私は科学者ではないのですが、正直言ってその点を真剣に考えさせられることがありました。
科学者の見解が間違っていた例をいくつかご存知なのでしょう?
― 実にたくさんあります。
ですから地球の未来について科学者が述べたからといって、それが必ず正しいという保証はどこにもないのです。(訳者注−部分的にしか紹介されていないので、この前にどういう対話があったのかは憶測の域を出ないが、私の推測では、たとえば最近さかんに警告されている、スプレーなどに使用されているフロンガスによる成層圏の破壊の問題が出て、このまま破壊が進めば紫外線が大量に地球に届いて、地上の生命が死滅するという説が出されたのであろう)
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 151-153
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80-d [18-za](大霊が無限の叡智によって人類のために案出した進化の法則
)
ローデシアから訪れた科学者に向って―
これまでたどられたあなたの足跡も、背後霊によって暗闇から光明へと導かれてまいりました。これは、低く下がれるだけ高く上がれるという償いの法則によって本当の意味での人間的向上が得られる過程の一環なのです。光を見出すのは闇の中においてこそです。喜びを見出すのは悲しみの中においてこそです。真実の自我を見出しはじめるのは、地上にはもはや頼りになるものは何もないと思えた時です。
これは人生の両極性という、魂が其の自我を見出すための原理の一つです。果てしない宇宙に展開する生命活動の一つ一つが、規律づけられた何らかの役割をもっております。嵐も、青天と同じく、無くてはならないものなのです。闇も、光と同じく、無くてはならないものです。人間性が鍛えられるのは苦しい試練の中においてこそです。その両極性を体験してはじめて成長しはじめるのです。
私は庇理屈を言っているのではありません。大霊がその無限の叡智によって地上の人類のために案出した進化の法則がそうなっているということを申し上げているのです。言い替えれば、必要なものは時が熟せば与えられるということです。困難・試練・試金石・障害、こうしたものは魂がその潜在的資質を発揮するために欠かせない体験です。一種の触媒を掟供してくれるのです。
これまでを振り返ってごらんになれば、最大の窮地と思えた時に道が開かれ、真実の自我を発揮する方向へと導かれていることに気づかれるはずです。同じ道をたどった人からあなたがそうして援助していただいたように、こんどはあなたが人に手を差しのべてあげるチャンスが与えられることになるでしょう。
それが神が意図されている仕組みなのです。すなわち集団ではなく一人ひとりが自我の開発を促す永遠の真理を手にし、さらにそれを縁ある人に授けていくという仕組みなのです。援助を求める人を絶対に拒否してはなりません。同時に、たとえ援助の手を拒否されても、それは、せっかくの自己革新のチャンスを目の前にしながら、その人がまだ受け入れる用意ができていなかったためにそれを生かし切れなかったのですから、気の毒に思ってあげることです。
あなたはそれだけのものを授かることができたことを喜ばないといけません。同時に、それとて、これから先あなたを待ちうけている無限の真理のほんの一かけらに過ぎないことを知ってください。まだまだ掘り起こすべき霊的財宝が山ほどあるのです。人のために尽くすチャンスも数多く与えられてまいります。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 153-155
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80-e(霊界でも病気治療や霊視能力などの研究が続けられている)
別の日の交霊会で―
私たちは片時も休むことなく研究に勤しんでおります。とくに病気治癒、霊視能力、入神現象の質を高めるための新しい方法、アイディアを実験しております。しかし所詮は、そちらから提供してくれる材料次第です。そこには自由意志と個人的義務の問題がからんでおります。
私たちはそちらから提供していただくものより多くのものをお返ししております。それが私たちの義務なのです。扶助し支援すると同時に、人間としての基本的な必要品に事欠くことのないように計らうことになっております。それから先のことは本人が決めることです。(あくまで謙虚に神の道具として辛抱するか、金銭欲や虚栄心といった煩悩に負けて堕落していくかは、自由意志と個人的義務の問題であって、そこまで立ち入ることは許されないということ―訳者)
私たちはあくまでも謙虚に献身してくれる道具が欲しいのです。何度も申し上げていることをここで改めて申し上げますが、献身こそ霊の正貨です。大義のために献身することこそ気高いのです。なぜならその時あなたは内部の神性を発揮していることになるからです。
私たちからお願いしたいのは、倫理的意識をできるだけ高く持っていただきたいということです。私は常に皆さんを成就というゴールへ向けて、ゆっくりではありますが確実に進歩するよう援助しています。申し上げていることは至って単純なことです。人間として最善を尽くしていてくださればよいのです。そうすれば私たちの協力のもとに、縁あって訪れてくる人の力になってあげることができるのです。
『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、pp. 155-156
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80-f (霊界にも学問のための建造物があるのか)
もちろん、ありますとも。こちらの教育システムはいたって単純です。ありとあらゆる分野の知識が得られるように、各種のホール、専門学校、総合大学等が用意されています。そこで教える資格をもつ者は、教育者としての才覚をそなえた人にきまっています。
この無限の宇宙の中のありとあらゆるテーマについての知識が得られるようになっていて、教師も、それぞれの分野にふさわしい資格をもっている者が揃っており、受け入れる用意のある人に分け隔てなく与えられます。どの分野だけ、といった制約はありません。受け入れる用意のある人には何でも与えられます。つまり、唯一の条件は魂の受け入れ態勢です。
トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の絆』(近藤千雄訳)
コスモ・テン・パブリケーション、1989、p.43
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80-g (核エネルギーをどう利用するかは人間の責任である)
核エネルギーをどう利用するか――善用するか悪用するかは、もちろん深刻な問題です。戦争のための必要性に駆られて発明されたものが、実は霊的にはまだ正しく使いこなせない巨大なエネルギーだったことに、その深刻さの根があります。
知的な発明品が霊的成長を追い越したということです。科学も、本当は霊的に、倫理的に、あるいは宗教的にチェックを受けるべきなのに、それが為されなかったところに、こうした途方もない問題が生じる原因があります。人類は今まさに、莫大な恩恵をもたらすか、取り返しのつかない破壊行為に出るかの選択を迫られているのです。
これはまた、自由意志の問題に戻ってまいります。これには逃れようにも逃れられない責任が伴います。大霊はその無限の叡知によって、地上の人間のすべてに、精神と霊と、モニターとしての道義心を賦与しておられます。もしも自由意志がなければ、人間はただのロボットであり、操り人形にすぎないことになります。
自分の行為への責任の履行なしには、神の恩恵は受けられません。その責任が課せられている人にしか解決できない問題というものがあるということです。
核への恐怖が一種の戦争抑止力としての役割を果たしているという意見も出されるに相違ありません。たしかに物的観点からすればそうかも知れません。が、いずれにせよ、人間の為し得る破壊にも、限界というものがあります。
トニー・オーツセン編「シルバーバーチの新たなる啓示」(近藤千雄訳)
ハート出版、2003、pp.22-23
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80-h (知識は人間を尊大にするものではなく謙虚にするものである)
知識は本来人間を尊大にするものではなく謙虚にするものです。知れば知るほどまだまだその先に知るべきものがあることを自覚させるからです。尊大にさせるのはむしろ無知の方です。知らないから生意気が言えるのです。最高の知識人はみな謙虚でした。知れば知るほど、知らないことが多いことを思い知らされるからです。
わたしたちへ向けて軽侮と嘲笑の指をさす人たちは、頭の中に何もない無知で身を固めた人たちです。知識を求め、新しい真理をよろこんで受け入れる素直な魂には、霊の力が感動を及ぼすことができます。そういう素地ができているからです。大霊の使徒として、その知識と叡知と力と意志とを地上にもたらすことに心を砕いているわたしたちにとっては、そういう人こそ役に立つ人材なのです。
トニー・オーツセン編『シルバー・バーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)、
コスモ・テン・パブリケーション、1989、p.59
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