学びの栞 (A) 


 1. 心配・不安・恐怖 (明日のことを思い煩うな)


  1-a (霊界の先祖や肉親から守られるために)

 あなたが愛し、あなたを愛してくれた人々は、決してあなたを見捨てることはありません。いわば愛情の届く距離を半径とした円の範囲内で常にあなたを見守っています。時には近くもなり、時には遠くもなりましょう。が決して去ってしまうことはありません。その人たちの念があなたがたを動かしています。必要な時は強く作用することもありますが、反対にあなたがたが恐怖や悩み、心配等の念で壁をこしらえてしまい、外部から近づけなくしていることがあります。悲しみに涙を流せば、その涙が霊まで遠く流してしまいます。穏やかな心、やすらかな気持、希望と信念と自信に満ちた明るい雰囲気に包まれている時は、そこにきっと多くの霊が寄ってまいります。
 私たち霊界の者は出来るだけ人間との接触を求めて近づこうとするのですが、どれだけ接近できるかは、その人間の雰囲気、成長の度合、進化の程度にかかっています。霊的なものに一切反応しない人間とは接触できません。霊的自覚、悟り、ないしは霊的活気のある人とはすぐに接触がとれ、一体関係が保てます。そういう人はスビリチェアリストばかりとは限りません。知識としてスピリチュアリズムのことを知らなくても、霊的なことを理解できる人であればそれでいいのです。宗教の違い、民族の違い、主義主張の違い、そんなものはどうでもよろしい。冷静で、穏やかで、明るい心を保つことです。それが霊界の愛する人々、先祖霊、高級霊からの援助を得る唯一の道です。恐れ、悩み、心配、こうした念がいちばんいけません。

      『古代霊は語る』(近藤千雄訳編)潮文社、
        1986、pp.251-252.


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  1-b (恐怖心こそ人類最大の敵である)

 解決しなければならない問題もなく、争うべき闘争もなく、征服すべき困難もない生活には、魂の奥に秘められた神性が開発されるチャンスはありません。悲しみも苦しみも、神性の開発のためにこそあるのです。「あなたにはもう縁のない話だからそう簡単に言えるのだ」ーーこうおっしゃる方があるかも知れません。しかし私は実際にそれを体験してきたのです。あなた方よりはるかに長い歳月を体験してきたのです。何百年でなく何千年という歳月を生きてきたのです。その長い旅路を振り返った時、私は、ただただ、宇宙を支配する神の摂理の見事さに感嘆するばかりなのです。一つとして偶然ということがないのです。偶発事故というものがないのです。すべてが不変絶対の法則によって統制されているのです。霊的な意識が芽生え、真の自我に目覚めた時、何もかもが一目瞭然とわかるようになります。私は宇宙を創造した力に満腔の信頼を置きます。
 あなた方は一体何を恐れ、また何故に神の力を信じようとしないのです。宇宙を支配する全能なる神になぜ身をゆだねないのです。あらゆる恐怖心、あらゆる心配の念を捨て去って、神の御胸に飛び込むのです。神の心をわが心とするのです。心の奥を平静にそして穏やかに保ち、しかも自信をもって生きることです。そうすれば自然に神の心があなたを通じて発揮されます。愛の心と叡智をもって臨めば何事もきっと成就します。聞く耳をもつ者のみが神の御声を聞くことが出来るのです。愛がすべての根源です。愛ーー人間的愛はそのホンのささやかな表現にすぎませんがーー愛こそ神の摂理の遂行者なのです。
 霊的真理を知った者は一片の恐怖心もなく毎日を送り、いかなる悲しみ、いかなる苦難にもかならずや神の御加護があることを一片の疑いもなく信じることが出来なければいけません。苦難にも悲しみにもくじけてはいけません。なぜなら霊的な力はいかなる物的な力にも優るからです。
 恐怖心こそ人類最大の敵です。恐怖心は人の心をむしばみます。恐怖心は理性をくじき、枯渇させ、マヒさせます。あらゆる苦難を克服させるはずの力を打ちひしぎ、寄せつけません。心を乱し、調和を破壊し、動揺と疑念を呼びおこします。
 つとめて恐れの念を打ち消すことです。真理を知った者は常に冷静に、晴れやかに、平静に、自信にあふれ、決して乱れることがあってはなりません。霊の力はすなわち神の力であり、宇宙を絶対的に支配しています。ただ単に力が絶対というだけではありません。絶対的な叡智であり、また絶対的な愛でもあります。生命の全存在の背後に神の絶対的影響力があるのです。
 はがねは火によってこそ鍛えられるのです。魂が鍛えられ、内在する無限の神性に目覚めて悟りを開くのは、苦難の中においてこそなのです。苦難の時こそあなたが真に生きている貴重な証しです。夜明けの前に暗黒があるように、魂が輝くには暗黒の体験がなくてはなりません。そんな時、大切なのはあくまでも自分の責務を忠実に、そして最善をつくし、自分を見守ってくれる神の力に全幅の信頼を置くことです。

  近藤千雄訳編『古代霊は語る』潮文社、1986、pp.113-115


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 1-c (この世の生活には何一つ怖いものはない)

 地上生活に何一つ怖いものはありません。取り越し苦労は大敵です。生命力を枯渇させ、霊性の発現を妨げます。不安の念を追い払いなさい。真実の愛は恐れることを知りません。その愛が宇宙を支配しているのです。そこに恐怖心の入る余地はないのです。それは無知の産物にほかなりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから知識を携えて霊的理解の中に生きることです。取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。人間が恐るべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念をもつ魂は恐れることを知りません。
 あなた方の "呼吸する" というなんでもない動作一つでも、それを可能にしているのは、宇宙を創造し惑星や恒星の運行を司り、太陽に無尽蔵のエネルギーを与え、大海の干満を司り、あらゆる植物の種子に芽を出させ、地上に千変万化の彩りを添えさせているところの根元的生命力と同じものです。その力はかつて一度たりとも働きを狂わせたことはありません。海の干満が止まったことが一度でもあったでしょうか。地球が回転を止めたことがあったでしょうか。自然法則が機能しなかったことがあったでしょうか。
 物質界は生活の一側面にすぎません。あなたの生活の全体ではないのです。人間の多くが悩みが絶えないのは、無意識のうちに物質の世界にのみ生きていると思い込んでいるからです。本当はあなた方と私とは同じ宇宙の中に存在するのです。霊界と地上とが水も漏らさぬように区別されているのではありません。互いに融合し合い調和し合っています。死ぬということは物的身体による認識をやめて霊的身体によって魂の別の側面を表現しはじめるということに過ぎません。
 あなた方が直面する悩みごとは私にもよく分かっております。しかし霊的知識を有する者はそれを正しく運用して、物的要素に偏らないようにならなければなりません。霊的要素の方に比重を置かなければいけないということです。正しい視野に立って考察すれば、焦点を正しく定めれば、日常生活での心の姿勢さえ正しければ、物的要素に対して最少限度の考慮を払い、決して偏ることはないでしょう。そうなれば霊的自我が意のままに働いてあなたを支配し、生活全体を変革せしめるほどの霊力が漲り、ついには物的要素に絶対に動かされない段階にまで到達することでしょう。
 永遠なるものを日常の出来ごとを基準にして判断しても駄目です。あなた方はとかく日常の精神によって色づけされた判断、つまり自分を取りまく環境によって判断を下しがちです。そして、それまで成就してきた成果の方は忘れがちですが、これは物質の中に閉じ込められ、朝目を覚ました瞬間から夜寝るまで日常的問題に追いまくられているからです。今と昔を較べるために過去のページを繙いてごらんなさい。そこに背後霊による指導のあとがありありと窺えるはずです。霊的知識に恵まれた者は決して首をうなだれることなく、脇目も振らず前向きに進めるようでなくてはなりません。背後霊は決して見捨てないことをご存知のはずです。人間が神に背を向けることはあっても、神は決して人間に背を向けることはありません。無限の可能性を秘めたこの大宇宙の摂理と調和した生活を営んでさえいれば、必要な援助は必ず授かります。これは決して忘れてはならない大切な真理です。
 霊の世界の存在を知った者は、より大きな生活の場をかいま見たことになります。宇宙の構造の内奥に触れたが故に無責任なことができなくなります。置かれた世界に対する義務と責任をいっそう自覚するからです。決してそれを疎かにせず、また物的なことに心を奪われたり偏ったりすることもありません。安全も援助も全て "霊" の中に見出すことができます。地上の全ての物的存在も、あなた方の身体も、霊の顕現であるからこそ存在し得るのです。
 この真理があなたの生活を支配しはじめた時、それに伴う内的静寂と冷静さが生まれ、日常生活の一つひとつに正しい認識をもつことができるようになります。あほらしく思えていい加減に処理したり、義務を怠るようになると言っているのではありません。私が申し上げたいのは、そうした知識を手にした人でも、ややもすると日常生活の基盤である霊的真相を忘れてしまいがちであるということです。霊的な目で日常生活を眺め、その背後に霊的基盤があることを忘れずにいれば、最大の敵であるところの取り越し苦労と決別できるようになります。知識はわが身を守る鎧です。不安は魂を蝕み錆つかせます。

    『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp73-76 


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 1-d (世の中には心配することなど何一つない)

 私は自信をもって皆さんに申し上げますが、この世の中には心配することなど何一つありません。
 人間にとって最大の恐怖は死でしょう。それが少しも怖いものではないことを知り、生命が永遠であり、自分も永遠の存在であり、あらゆる霊的武器を備えていることを知っていながら、なぜ将来のことを心配なさるのでしょう。 
 ・・・・・・不幸の訪れの心配は不幸そのものより大きいものです。その心配の念が現実の不幸よりも害を及ぼしています。

    『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.42-43

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 1-e (完璧な信仰はすべての恐怖心を追い払う)

 私のことを私の背後に控える大きな存在の表象、代弁者、代理人と思ってください。その大きな力があなた方を包み、支え、その力があなた方を導いているのです。どこにいてもその知識を携え霊の世界との協力関係を確立した人は、イザという時にその豊かな力を呼び寄せることができます。
 皆さんのような方が怖れたり、取越苦労をしたり、心配したり狼狽したりする必要はまったくありません。完璧な信仰は完璧な愛と同じく全ての恐怖心を追い払うものだからです。人間が恐れを抱くとまわりの大気を乱す波長を出し、それが援助しようとする霊を近づき難くします。霊的な力が地上において本来の働きをするためには、静かで穏やかな確信ーー全ての恐怖心が消え、より大きな生命力と調和した光輝が漂い、何が起きようと必ず切り抜けられることを信じ切った、そういう確信が無ければなりません。

  『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
   潮文社、1985、p.125

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 1-f (学識があり誠実そのものの人の取越苦労)

あなたは純粋に地上的な学識と霊的知識とを混同しておられるのではないでしょうか。霊的実在についての知識の持ち主であれば、何の心配の必要もないことを悟らねばなりません。人間としての義務を誠実に果たして、しかも何の取越苦労もしないで生きて行くことは可能です。義務に無とん着であってもよろしいと言っているのではありません。かりそめにも私はそんな教えは説きません。むしろ私は、霊的真理を知るほど人間としての責務を意識するようになることを強調しております。しかし、心配する必要などどこにもありません。霊的成長を伴わない知的発達もあり得ます。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.56


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 1-g (取越苦労性の人は霊的に未熟か) 

 その通りです。真理を悟った人間はけっして取越苦労はしません。なぜなら人生には神の計画が行きわたっていることを知っているからです。まじめで、正直で、慈悲心に富み、とても無欲の人でありながら、人生の意義と目的を悟るほどの霊的資質を身につけていない人がいます。無用の心配をするということそのことが霊的成長の欠如の示標といえます。たとえ僅かでも心配の念を抱くということは、まだ魂が本当の確信を持つに至っていないことを意味するからです。もし確信があれば心配の念は出てこないでしょう。偉大なる魂は泰然自若の態度で人生に臨みます。確信があるからです。その確信は何ものによっても動揺することはありません。このことだけは絶対に譲歩するわけにはいきません。なぜなら、それが私たちの霊訓の土台であらねばならないからです。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.57

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 1-h(俗世的な悩み事や煩わしさに呑み込まれるな)

 物的生活に欠かせない必然性から問題が生じ、その解決に迫られたとき、言いかえれば日常生活の物的必需品を手に入れることに全エネルギーを注ぎ込まねばならないときに、本来の自分とは何か、自分はいったい何者なのか、なぜ地上に生活しているかといったことを忘れずにいることは困難なことです。そこで私のような古い先輩---すでに地上生活を体験し、俗世的な有為転変に通じ、しかもあなた方一人一人の前途に例外なく待ちうけている別の次元の生活にも通じている者が、その物的身体が朽ち果てたのちにも存在し続ける霊的本性へ関心を向けさせていただいているのです。それが基本だからです。あなた方は霊的な目的のためにこの地上に置かれた霊的存在なのです。そのあなた方を悩まし片時も心から離れない悩みごと、大事に思えてならない困った事態も、やがては消えていく泡沫のようなものにすぎません。
 といって、地上の人間としての責務をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。その物的身体が要求するものを無視しなさいと言っているのではありません。大切なのは正しい平衡感覚、正しい視点をもつこと、そして俗世的な悩みや心配ごとや煩わしさに呑み込まれてしまって自分が神の一部であること、ミニチュアの形ながら神の属性のすベてを内蔵している事実を忘れないようにすることです。そのことを忘れず、その考えを日常生活に生かすことさえできれば、あなた方を悩ませていることがそれなりに意義をもち、物的、精神的、霊的に必要なものをそこから摂取していくコツを身につけ、一方に気を取られて他方を忘れるということはなくなるはずです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.175-176

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  1-i(取り越し苦労と不必要な心配はやめよ)

 無駄な取越苦労に振り回されている人が多すぎます。私が何とかして無くしてあげたいと思って努力しているのは不必要な心配です。神は無限なる叡智と無限なる愛です。われわれの理解を超えた存在です。が、その働きは宇宙の生命活動の中に見出すことができます。驚異に満ちたこの宇宙が、かつて一度たりともしくじりを犯したことのない神の摂理によって支配され規制され維持されているのです。その摂理の働きは一度たりとも間違いを犯したことがないのです。変更になったこともありません。廃止されて別のものと置きかえられたこともありません。いま存在する自然法則はかつても存在し、これからも永遠に存在し続けます。なぜなら、完璧な構想のもとに全能の力によって生み出されたものだからです。宇宙のどこでもよろしい。よく観察すれば、雄大なものから極小のものに至るまでのあらゆる相が自然の法則によって生かされ、動かされ、規律正しくコントロールされていることがお分かりになります。途方もなく巨大な星雲を見ても、極微の生命を調べても、あるいは変転きわまりない大自然のパノラマに目を向けても、さらには小鳥、樹木、花、海、山川、潮のどれ一つ取ってみても、ちょうど地球が地軸を中心に回転することによって季節のめぐりが生まれているように、すべての相とのつながりを考慮した法則によって統制されていることが分かります。種子を蒔けば芽が出る---この、いつの時代にも変らない摂理こそ神の働きの典型です。神は絶対にしくじったことはありません。あなたがたの方から見放さないかぎり神はあなたがたを見放すことはありません。
 私は、神の子すべてにそういう視野をもっていただきたいのです。そうすれば取越苦労もなくなり、恐れおののくこともなくなります。いかなる体験も魂の成長にとっては何らかの役に立つことを知ります。その認識のもとに一つ一つの困難に立ち向かうようになり、首尾よく克服していくことでしょう。そのさ中にあってはそうは思えなくても、それが真実なのです。あなた方もいつかは私たちの世界へお出でになりますが、こちらへ来れば、感謝なさるのはそういう暗い体験の方なのです。視点が変ることによって、暗く思えた体験こそ、そのさ中にある時は有り難く思えなくても、霊の成長をいちばん促進してくれていることを知るからです。今ここでそれを証明してさしあげることはできませんが、こちらへお出でになればみずから証明なさることでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.205-206


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 1-j  (死に直面したら恐怖心を抱くのも当然ではないのか)

 おっしゃる通り当然でしょう。が、その状態こそ恐怖心を捨てる試金石でもあります。私たちがみなさんの前に掲げる理想がひじょうに到達困難なものが多いことは私も承知しております。私たちの要求することのすべてを実現するのは容易ではありません。が、最大の富は往々にして困難の末に得られるものです。
 それには大へんな奮闘努力が要求されます。が、それを私があえて要求するのはそれだけの価値があるからです。いつも申し上げておりますように、あなた方はそれぞれに無限の可能性を秘めた霊なのです。宇宙を創造した力と本質的に同じものが各自に宿っているのです。その潜在力を開発する方法を会得しさえすれば、内在する霊的な貯えを呼び覚ます方法を会得しさえすれば、霊力の貯水池から吸み上げることができるようになりさえすれば、恐怖の迫った状態でも泰然としていられるようになります。
 人生の旅においてあなたを悩ますあらゆる問題を克服していく手段は全部そろっているのです。それがあなたの内部に宿っているのです。イエスはそれを “神の御国は汝の中にある” と言いました。神の御国とはその無限の霊的貯蔵庫のことです。自己開発によってそれを我がものとすることができると言っているのです。開発すればするほど、ますます多くの宝が、永久に自分のものとなるのです。もしも私の説く訓えがラクなことばかりであれば、それは人生には発展と進化のチャンスがないことを意味します。人生には無数の困難があります。だからこそ完全へ向けてのチャンスが無数にあることになるのです。生命は永遠です。終りがないのです。完全へ向けての成長も永遠に続く過程なのです。
 
    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.75-76

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 1-k[29-w] (霊媒に対する励ましのことば=2= 取り越し苦労は無知の産物)

 ・・・・・・・・・・ここにお集りの同志の方にいつも申し上げていることですが、私たちは私たちのやり方で私たちのタイミングで事を運ぶしかないのです。魂が自覚するのを辛抱強く待たねばなりません。それには何十年も掛かることがあります。そして、その甲斐あってやっと受容力を発揮しはじめると、とたんに人間の方が高慢になって“さあ、どしどしやろう”といった調子で、性急に事を運ぼうとします。
 私たちがそれまで辛抱強く時機の熟するのを待ったことをご存知ないのです。私たちは霊的な世界から物的な世界へ向けて影響力を行使しなければなりません。そのための通路として霊媒を使用しなければなりません。もしも適当な霊媒が見当たらなければ、霊感的に導き指示を与えて、せっかくの通路を無意識のうちにでも塞いでしまうことのないように細心の注意をもって監視しなければなりません。これが又とても厄介な仕事なのです。
 確固たる霊的知識に裏うちされた完ぺきな信頼と自信と信仰(信念)とがある時はその通路が開いており、受容性が高いのですが、そこへ不安の念が入り込むと、とたんに雰囲気が乱れて、通路を塞いでしまう要素が生まれます。取り越し苦労は無知の産物です。霊的知識をたずさえた者が不安の念を抱くようなことがあってはなりません。
 同じく、悩みの念も、その中身が何であれ、成就されるはずのものを成就されなくしてしまいます。私はいつも交霊会の開会に際してこう述べています―“心配、悩み、疑い、不安の念のすべてを、しばし、わきへ置きましょう”と。霊力が存分に、そして自由に流入するのを、そうした念が妨げるからです。
 私たちを信頼してください。きっと道をお教えします。扉を開いてさしあげます。閉め切られた扉をノックしてみて開かない時は、あきらめることです。ノックしてみてすぐに開いた時は、真っすぐに突き進まれるがよろしい。それがあなたにとって正しい道なのです。私たちとしてはそういう形でしか援助できないのです。良い知恵をしぼって導いてあげるということでしか援助できないのです。(人間的努力の範囲まで踏み込むわけにはいかないということ―訳者)
 あせってはなりません。快く私たちの協力者となってくれるだけでよいのです。そうすれば私たちなりの役割を果たします。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.44-48

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 1-l (明日のことを思い煩ってはいけない)

 明日のことを思い煩ってはいけません。大切なのは今日です。あなたのなすべきことに能力の限りを尽くしなさい。最善を尽くす―私たちはこれ以上のことは要求しません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 144

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 1-m (落胆や絶望の陰湿な感情は背後霊にとって厄介な障害となる)

 いつも明るく楽天的で愉快な気分を忘れないようにしてください。うなだれてはいけません。背後霊にとって最も働きかけやすい雰囲気は、陰うつさや落胆や絶望感の無い状態です。そうした陰湿な感情はあなたのオーラを包み込み、背後霊にとって厄介な障害となります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 149

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 1-n (心配や恐れからは何一つ良いことは生まれない)

 心配からは何一つ良いことは生まれません。心配と恐れはあなたにとって味方ではなく敵です。不屈の心、冷静さ、自信、決意、こうした資質は悟りを開いた魂から生まれるものです。あなたはこれまで立派に導かれてきたのです。これからも導きがあります。疑念が生じた時はいったん心の働きを止めて内的静寂の世界へ引っ込み、霊的資質の発現を待つのです。この地上人類の霊的覚醒のための闘いに参加している将校は、戦況がいかに苦しくなっても、盤石の信念をもってその持ち場を死守しないといけません。そのためにこれまで厳しく鍛えられ試練にさらされてきたのです。背すじを真っすぐにしなさい。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.158

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 1-o (取り越し苦労は霊界からの援助を遮断する最悪の敵である)

 取り越し苦労は最悪の敵です。精神を蝕みます。霊界から送られてくるはずの援助の通路を塞いでしまいます。あなたを包んでいる物的・精神的・霊的雰囲気を乱します。理性の敵でもあります。透徹した人生観と決断力という二つの人生最大の味方の妨げになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.158

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 1-p (心配の念は実質のないただの影として一刻も早く放り捨てよ)

 心配の念が心をよぎった時は、実質のないただの影にすぎないものとして一刻も早く放り棄てることです。考えてもごらんなさい。光の方が闇に勝るのです。知識の方が無知に勝るのです。真理は迷信を打ち破り、必ずやその存在価値を発揮します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.158

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 1-q (今を大切に生き明日のことを思い煩ってはならない)

 私たちがお教えしようとしている人生の秘訣は、今を大切に生きるということです。明日のことを思い煩ってはいけません。あなたには霊的知識があります。どこかに仕舞い込んでおいてはいけません。それを全人生の基盤とするのです。その知識が生み出す自信をもって生き、決して悲観的になってはいけませんと言っているのです。明日という一日を素敵な冒険と可能性をもたらしてくれるものとして、力強く迎えるのです。人生は陽気さと快活さに満ちたものでなくてはいけません。心配の念はけちらしなさい。心配は無知と迷信の産物です。あなたは光栄にも素晴らしい知識の中で生きられる条件を手にしているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.159

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 1-r (悩みの中にあっても笑いを失ってはならない)

 笑顔のあるところに大霊の働きがあるのです。悩みの中にあっても笑いを失ってはいけません。それができるようになれば何事も必ず解決します。このことは私が永いあいだ繰り返し申し上げてきたことです。俗世のことに悩まされて笑顔を忘れるようでは、まだまだ真理を悟ったとは言えません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.159

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 1-s [63-t] (難問が生じても克服できないほど大きな問題は生じない)

 一つの仕事を始めると、遅かれ早かれ難問が生じるものです。しかし克服できないほど大きな問題は生じません。先のことを心配してはいけません。私も大きな歯車の歯の一つにすぎません。歯車は確実に回転します。それを動かしている力は物質界と霊界とを包含する大宇宙を経綸している力なのです。その力が森羅万象を生み出したのです。星雲を、太陽を、惑星を、大洋を、大海を、山を、花を、小鳥を、動物を、そしてあなたがた人間を生み出したのです。それほどの大きな力が、あなた一人の人生に手こずるわけがありません。私たちは人間の挫折を見たくて戻ってきたヤジ馬ではありません。私たちがお持ちした霊力はすでに地上に根づいております。その力を阻止できるものは地上には存在しません。背後霊に全幅の信頼を置きなさい。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.161

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 1-t (明日の運命は今この時点で取る態度によって決まる)

 右を向いたり左を向いたり後ろを向いたりしてはなりません。やってしまったことを悔むのは間違いです。過去のページはすでに閉じられたのです。もう二度と開くことはできないのです。大切なのは今日です。明日の運命は今この時点で取る態度によって決まるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.162

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 1-u[54-l] (悩みや失望は自分が霊であることを理解していない証拠)

 一ばん厄介なことは、人間が物的なものに浸り切ってしまい、人生のすべての基盤である永遠の霊的原理を忘れてしまうことです。あなたがもし思い通りにならないからといって悩んだり、失望したり、イライラしたりするようであれば、それはあなたがまだ一ばん大切なことは本当のあなたである霊≠ノ係わることでありその身体″ではないということを理解していない証拠です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.172

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 1-v (誰の人生にも孤独感を味わう時期があるものである)

 ふさぎ込むのは止めなさい。だれの人生も孤独感を味わう時期があるものです。まわりにどんなに親しい人がいてくれても孤独に思うものです。が、そこから意気消沈の状態へ落ち込んではなりません。あなたほどの霊的知識を手にされた方なら、地上にも霊界にも、恐れるものは何一つありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.172

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 1-w (物的に孤独だからといって霊的に孤独なのではない)

 物的に孤独だからといって霊的に孤独であるわけではありません。霊的意識が芽生え潜在的な能力が発現すれば、物的に孤独であっても、辺りに霊的なものがいろいろとあることに気づかれるはずです。その多くは愛と情と血縁の絆によって結ばれていることが分かるようになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.173

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 1-x (取り越し苦労や心配は真理を知らない無知から生まれる)

 取り越し苦労はいけません。心配は無知から生まれます。真理を知って知識の光≠フ中で生きなさい。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.188

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 1-y[18-zzc] (解決できない問題というのは絶対に生じない)

 暗黒の勢力と既得権にあぐらをかいている宗教界との戦いのほかに、もう一つ、人間の心“心配の念”という敵との戦いもあります。無知から生じる無用の心配の念が無数の人間の心に巣くっております。心配というのは想像の世界にしか存在しないものです。実在しないということです。それで私は心配の念を棄てなさいと繰り返し申し上げるのです。解決できない問題というのは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷は与えられません。常に明るく確信に満ちた雰囲気の中で生活していれば、必ずや援助し導いてくれる勢力を呼び寄せます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.190

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 1-z[54-o] (あなたは身体の奥に莫大なエネルギーを秘めている)

 あなたはその身体の奥に神の属性である莫大なエネルギーのすべてを未熟な形、あるいはミニチュアの形、つまり小宇宙の形で秘めているのです。その秘められた神性を開発してそれを生活の原動力とすれば、心配も不安も悩みも立ちどころに消えてしまいます。なぜなら、この世に自分の力で克服できないものは何一つないことを悟るからです。その悟りを得ることこそあなた方の勤めなのです。それは容易なことではありませんが……。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.196

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 1-za[51-j] (すべての悩みや取り越し苦労は一時的なものにすぎない)

 人間は物質の中に埋もれた生活をしているために、バイブレーションが低くなっております。朝目を覚まし、まだ意識が完全に働かないうちから、あれやこれやと煩わしいことや心配ごとの波に呑み込まれていきます。大きい悩み、小さい悩み、真実の悩み、取り越し苦労に過ぎぬもの、等々いろいろあります。いずれにせよ全ては一時的なものにすぎないのですが、そういうものに心を奪われてしまうと、背後霊が働いてくれている事実を忘れ、あなた方の思考の流れの中から霊的要素が閉め出され、霊的流入を遮断する一種の壁をこしらえてしまいます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.203

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 1-zb (恐怖心は無知の産物で知らないから怖がるのである)

 恐怖心は無知の産物にほかなりません。つまり知らないから怖がるのです。ですから、知識をたずさえて霊的理解の中に生きることです。取り越し苦労の絶えない人は心のどこかにその無知という名の暗闇があることを示しています。そこから恐怖心が湧くのです。人間が恐れるべきものは恐怖心それ自体です。恐怖心は闇の産物です。霊力に不動の信念をもつ魂は恐れることを知りません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.203-204














 2. 死 (あなたは死後も生き続ける)


 2-a (生命は本質が霊的なものであるが故に永遠である)

 すでに地上にもたらされている証拠を理性的に判断なされば、生命は本質が霊的なものであるが故に、肉体に死が訪れても決して滅びることはありえないことを得心なさるはずです。物質はただの殻に過ぎません。霊こそ実在です。物質は霊が活力を与えているから存在しているに過ぎません。その生命源である霊が引っ込めば、物質は瓦解してチリに戻ります。が、真の自我である霊は滅びません。霊は永遠です。死ぬということはありえないのです。
 死は霊の第二の誕生です。第一の誕生は地上へ生をうけて肉体を通して表現しはじめた時です。第二の誕生はその肉体に別れを告げて霊界へおもむき、無限の進化へ向けての永遠の道を途切れることなく歩み始めた時です。あなたは死のうにも死ねないのです。生命に死はないのです。
 不滅の個霊としてのあなたは肉体の死後も生き続け、あなたという個的存在を構成しているものはすべて存続するという事実を立証するだけの証拠は、すでに揃っております。死後も立派に意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせ愛を表現するカがそなわっています。愛は神性の一つなのです。愛はその最高の形においては神々しさを帯びたものとなります。そして生命と同じく、不滅です。
 私たち霊団の者はなぜこの地上へ戻ってくるのでしょう? 数々の心痛と難題と苦悶と災難と逆境の渦巻く地上世界へ永遠に別れを告げることは、いとも簡単なことです。しかし、私たちには地上人類への愛があります。そして又、それに劣らぬ愛の絆によってあなた方と結ばれている霊(地上的血縁でつながっている霊や類魂)も存在します。
 教会で行われる婚礼では、「死が二人を別つまで」という言い方をしますが、もしも二人が霊的に結ばれていなければ、死が訪れる前から二人は別れております。そこに愛があれば、二人を別れさせるものは何一つありません。愛は宇宙における強力なエネルギーの一つです。ひたすら人類のためと思って働いている霊界の高級霊を動かしているのも愛なのです。
 私たちは自分自身のことは何一つ求めません。崇拝していただこうとは思いません。敬っていただこうとも思いません。もしも私たちが何かのお役に立てば、そのことを大霊に感謝していただき、ご自身が恩恵を受けたその恩返しに同胞へ恩恵を施してあげてくだされば、それでいいのです。

  サイキック・プレス編『シルバーバーチは語る』
     ハート出版、pp.13-15


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 2-b (死とはなにか)

  あなたがたはまだ霊の世界のよろこびを知りません。肉体の牢獄から解放され、痛みも苦しみもない、行きたいと思えばどこへでも行ける、考えたことがすぐに形をもって眼前に現われる、追求したいことにいくらでも専念できる、お金の心配がない、こうした世界は地上の生活の中には譬えるものが見当たらないのです。その楽しさは、あなたがたにはわかっていただけません。
 肉体に閉じ込められた者には美しさの本当の姿を見ることが出来ません。霊の世界の光、色、景色、木々、小鳥、小川、渓流、山、花、こうしたものがいかに美しいか、あなたがたはご存知ない。そして、なお、死を恐れる。
 "死"というと人間は恐怖心を抱きます。が実は人間は死んではじめて真に生きることになるのです。あなたがたは自分では立派に生きているつもりでしょうが、私から見れば半ば死んでいるのも同然です。霊的な真実については死人も同然です。なるほど小さな生命の灯が粗末な肉体の中でチラチラと輝いてはいますが、霊的なことには一向に反応を示さない。しかし一方では私たちの仕事が着々と進められています。霊的なエネルギーが物質界に少しずつ勢力を伸ばしつつあります。霊的な光が広がれは当然暗闇が後退していきます。
 霊の世界は人間の言葉では表現のしようがありません。譬えるものが地上に見出せないのです。あなたがたが "死んだ" といって片づけている者の方が実は生命の実相についてはるかに多くを知っております。

     『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.131-133


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  2-c (死ぬことは悲劇ではない)

 死ぬということは決して悲劇ではありません。今その地上で生きていることこそ悲劇です。神の庭が利己主義と強欲という名の雑草で足の踏み場もなくなっている状態こそ悲劇です。
 死ぬということは肉体という牢獄に閉じ込められていた霊が自由になることです。苦しみから解き放たれて霊本来の姿に戻ることが、はたして悲劇でしょうか。天上の色彩を見、言語で説明のしようのない天上の音楽を聞けるようになることが悲劇でしょうか。痛むということを知らない身体で、一瞬のうちに世界を駈けめぐり、霊の世界の美しさを満喫できるようになることを、あなたがたは悲劇と呼ぶのですか。
 地上のいかなる天才画家といえども、霊の世界の美しさの一端たりとも地上の絵具では表現できないでしょう。いかなる音楽の天才といえども、天上の音楽の施律のひと節たりとも表現できないでしょう。いかなる名文家といえども、天上の美を地上の言語で綴ることは出来ないでしょう。そのうちあなたがたもこちらの世界へ来られます。そしてその素晴らしさに驚嘆されるでしょう。

     『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.133-134


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  2-d (死は自由であり解放である)  

 死は地上生活の労苦に対して与えられる報酬であり、自由であり、解放です。いわば第二の誕生です。死こそ真の生へのカギを握る現象であり、肉の牢の扉を開け、閉じ込められた霊を解き放ち、地上で味わえなかった喜びを味わうことを可能にしてくれます。愛によって結ばれた仲が死によって引き裂かれることは決してありません。神の摂理が顕幽の隔てなく働くと言われるのはそのことです。愛とは神の摂理の顕現であり、それ故にありとあらゆる人間の煩悩ーー愚かさ、無知、依桔地、偏見等々を乗り超えて働きます。

  『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、p.150

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 2−e (なぜ死を悲しむのか)

  =交霊会の仲間の死を悼む発言に対して=

 いったい何を悲しむというのでしょう。死に際して悲しみを抱くということは、まだ進化が足りないことを意味します。本当は地上に留まること自体が苦痛であり、地上を去ることは苦痛から解放されることであり、暗黒の世界から出て光明の世界へ入ることであり、騒乱の巷から平和な境涯へと移ることを意味することを思えば、尚のことです。霊的知識を得た者がなぜその知識と矛盾する悲哀に心を傷めるのか、私は理解に苦しみます。
 もう一歩話を進めてみましょう。霊的真理についての知識を初めて手に入れた時、それは目も眩まんばかりの啓示として映ります。それまでの真っ暗闇の混乱、わけの分らなかった世界がぱっと明るく照らし出される思いがします。が、その新しい理解がいかに大きいものであっても、やがて納まるべきところに納まり、その人の在庫品の一つとなっていきます。しかし知識は使うためにあるのです。その知識のおかげで視界が広がらなくてはいけません。理解力が増さなくてはいけません。洞察力、同情心、寛容心、善意がいっそう大きくならなくてはいけません。せっかく知識を手にしながら、それをある限られた特別の機会のために取っておくことは許されません。それは人生のあらゆる側面における考えを改めるために使用されるべきものです。皆さんがこれまでに学び、観察し、体験してきたことに幾ばくかでも真理があったとすればーーもし学んできたことが霊的な価値を有するものであれば、その価値はそれを実際に使用し実生活に適用することによって少しでも多くの霊的自我を発揮させることで生かされるのです。
 身近かな人の死に直面した時、あの馴染みの顔、姿、あの言葉、あの笑顔がもう見られなくなったことを悲しむのではないと断言なさるのなら、あなたは絶対に悲しむべきではありません。この交霊会での知識は週に一度わずか一時間あまりの間だけの知識として取っておいていただいては困ります。皆さんの日々の生活の中で使用していただかないと困ります。その霊的な価値は工場において、仕事場において、事務所において、商いにおいて、専門職において、天職において、奉仕的仕事において、家庭内において、その絶対的基盤としなければなりません。あなた方の生活のすべての行為における光り輝く指標とならなければなりません。それが知識というものの存在価値なのです。と言うことは、スピリチュアリストを自認する方はスピりチュアリズムというものをーーこれも霊的真理の一側面に付した仮の名杯にすぎませんがーー身内の人を失って悲しむ人のためにだけ説いて、それ以外の時は忘れているということであってはならないということです。私どもが教えんとしていること、駆使しうるかぎりの力を駆使して示さんとしていることは、この宇宙が霊的法則によって支配された広大な世界であること、そしてその法則は、人間みずから見えることより見えないことを望み、聞こえることより聞こえないことを望み、物が言えることよりも言えないことを望み、常識より愚昧を好み、知識より無知を好むことさえなければ、決して恩恵をもたらさずにはおかないということです。
 知っているということと、それを応用することとは別問題です。知識は実生活に活用しなくてはなりません。死を悼むということは霊的知識が実際に適用されていないことを意味します。地上生活を地上生活だけの特殊なものとして区切って考える習癖を改めなくてはなりません。つまり一方に物質の世界だけに起きる特殊な出来ごとがあり、他方にそれとはまったく異質の、霊的な世界だけの出来ごとがあって、その二つの世界の間に水も漏らさぬ仕切りがあるかのように考えるその習癖から卒業しなくてはいけません。あなた方は今そのままの状態ですでに立派に霊的な存在です。死んでから霊的になるのではありません。違うのは、より霊的になるという程度の差だけであって、本質的に少しも変わりません。あなた方にも霊の財産であるところの各種の才能とエネルギーが宿されているのです。今からあなたのものなのです。肉体に別れを告げたあとで配給をうけて、それを霊体で発揮しはじめるというのではありません。今日、いまこうしている時からすでにそれを宿しておられるのです。言わば居睡りをしながら時おり目を覚ます程度でしかありませんが、ちゃんと宿していることには違いありません。霊的知識を手にしたあなた方は人生のあらゆる問題をその知識の光に照らして考察し、そうした中で霊の所有物、才能のすべてを発揮できるようにならなければなりません。
 悪いと知りつつ非を犯す人はーー"罪を犯す″という言い方は私は好きではありませんが---知らずに犯す人よりはるかに悪質です。盗むことは悪いことですが、霊的知識を手にした人がもし盗みを働いたら、それは千倍も悪質な罪となります。恨みを抱くことは悪いことですが、霊的知識を知った人がもし誰かに恨みを抱くようなことがあったら、それは千倍も悪質な非となります。知識はすべてのことに厳しさを要求するようになります。私がいつも"知識は責任を伴う″と申し上げているのはそういう意味です。霊的なことを知っていながらそれが実生活における行為にまるで反映していない人が多すぎます。難しいことかも知れませんが、人間は一人の例外もなく今この時点において霊の世界に住んでいること、決して死んでから霊になるのではないということをしっかりと認識してください。死ぬということはパイブレーショソの問題、つまり波長が変るということにすぎないことを認識してください。知覚の仕方が変るだけのことと言ってもよろしい。日常生活で固くてしっかりしていると思っているものとまったく同じ、いえ、もっともっと実感のあるものが、たとえあなた方の目に見えなくても、立派に存在しております。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.40-44

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 2-f (死を悲しむのは間違っている)

 "生″を正しい視野で捉えていただきたい。その中で "死″が果たしている役割を理解していただきたいと思います。人間はあまりに永いあいだ死を生の終りと考えて、泣くこと、悲しむこと、悼むこと、嘆くことで迎えてきました。私どもはぜひとも無知--死を生の挫折、愛の終局、情愛で結ばれていた者との別れと見なす無知を取り除きたいのです。そして死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。死ぬということは生命を失うことではなく別の生命を得ることなのです。肉体の束縛から解放されて、痛みも不自由も制約もない自由な身となって地上での善行の報いを受け、叶えられなかった望みが叶えられるより豊かな世界へ赴いた人のことを悲しむのは間違いです。
 死の関門を通過した人はカゴから放たれた小鳥のようなものです。思いも寄らなかった自由を満喫して羽ばたいて行くのです。人間が死と呼ぶところの看守によって肉体という名の監獄から出させてもらい、(原則として)それまでの肉体に宿っているが故に耐え忍ばねばならなかった不平等も不正も苦しみも面倒もない、より大きな生へ向けて旅立ったのです。霊本来のかぎりない自由と崇高なよろこびを味わうことになるのです。
 苦痛と老令と疲労と憂うつとから解放された人をなぜ悲しむのでしょう。暗闇から脱して光明へと向かった人をなぜ悲しむのでしょう。霊の本来の欲求である探求心を心ゆくまで満足できることになった人をなぜ悼むのでしょう。それは間違っております。その悲しみには利己心が潜んでいます。自分が失ったものを悲しんでいるのです。自分が失ったものを自分が耐えていかねばならないこと、要するに自分を包んでくれていた愛を奪われた、その孤独の生活を嘆き悲しんでいるのです。それは間違いです。もしも霊的真理に目覚め、無知の翳みを拭い落とした目でご覧になれば、愛するその方の光り輝く姿が見えるはずです。死は決して愛する者同士を引き離すことはできません。愛はつねに愛する者を求め合うものだからです。あなた方の悲しみは無知から生じております。知識があれば愛する者が以前よりむしろ一段と身近かな存在となっていることを確信できるはずです。霊的実在を悟ることから生じるよろこぴを十分に味わうことができるはずです。
 皆さんもいずれは寿命を完うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。霊が成熟して次の進化の過程へ進む時期が来ると自然にはげ落ちるわけです。土の束縛から解放されて、死の彼方で待ちうける人々と再会することができます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.44-46

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 2-g (呼吸が止まった直後に起きること)

 魂に意識のある場合(高級霊)は、エーテル体が肉体から抜け出るのがわかります。そして抜け出ると目が開きます。まわりに自分を迎えに来てくれた人たちが見えます。そしてすぐそのまま新しい生活が始まります。魂に意識がない場合は看護に来た霊に助けられて適当な場所----病院なり休息所なり----に連れて行かれ、そこで新しい環境に慣れるまで看護されます。

   『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.145

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 2-h (死は悲しむべきことではない)

 この交霊会も死が幻影であることを証明する機会の一つです。すなわち死の淵を霊的知識で橋渡しをして、肉体という牢獄を出たあとに待ちうける充実した新たな生活の場の存在を紹介するために私たちはこうして戻ってきているということです。何でもない、実に簡単なことなのです。ですが、その簡単なことによって、これまでどれほど意義ある仕事が為し遂げられてきたことでしょう。手を変え品を変えての普及活動も、結局は古くからの誤った認識を駆逐するためにその簡単な事実を繰りかえし繰りかえし述べているにすぎません。その活動によって今や霊的知識への抵抗が少しずつ弱まり、橋頭堡が少しずつ広がりつつあります。われわれの活動を歯牙にかけるに足らぬものと彼らが多寡をくくっていたのも、つい先ごろのことです。それがどうでしょう、今やあなた方のまわりに、崩れゆく旧態の瓦礫が散乱しております。
 私たちは施設はどうでもよいのです。関心の的は人間そのものです。魂と精神、そして両者を宿す殿堂としての身体---これが私たちの関心事です。人間も神の一部であるが故に永遠の霊約存在である---この単純にして深遠な真理に耳を傾ける人すべてに分け隔てなく手を差しのべんとしているのです。実に単純な真理です。が、その意味するところはきわめて深長です。いったんこの真理の種子が心に宿れば、大いなる精神的革命をその人にもたらします。
 皆さんはよく、かつての偉大な革命家を鼓舞したのはいったい何であったかが分からないことが多いとおっしゃいます。しかし人間の思想を一変させるのは何げなく耳にする言葉であることもあります。ほんのささやき程度のものであることもあります。一冊の書物の中の一文であることもあります。新聞で読んだたった一行の記事である場合だってあります。私たちが求めているのも同じです。単純素朴なメッセージによって、教義でがんじがらめとなった精神を解放してあげ、みずからの知性で物ごとを考え、人生のあらゆる側面に理性の光を当てるようになっていただくことです。古くからの教えだから、伝来の慣習だからということだけで古いものを大切にしてはいけません。真理の宝石、いかなる詮索にも、いかなるテストにも、いかにしつこい調査にも耐えうる真理を求めなくてはなりません。
 私の説く真理をきわめて当たり前のことと受け取る方がいらっしゃるでしょう。すでにたびたびお聞きになっておられるからです。が、驚天動地のこととして受けとめる方もいらっしゃるでしょう。所詮さまざまな発達段階にある人類を相手にしていることですから当然のことです。私の述べることがどうしても納得できない方がいらっしゃるでしょう。頭から否定する方もいらっしゃるでしょう。あなたがた西洋人から野蛮人とみなされている人種の言っていることだということで一蹴される方もいらっしゃるでしょう。しかし真理は真理であるがゆえに真理であり続けます。
 あなたがたにとって当たり前となってしまったことが人類史上最大の革命的事実に思える人がいることを忘れてはなりません。人間は霊的な存在であり、神の分霊であり、永遠に神とつながっている---私たち霊団が携えてくるメッセージはいつもこれだけの単純な事実です。神とのつながりほ絶対に切れることはありません。時には弱められ、時には強められたりすることはあっても、けっして断絶することはありません。人間は向上もすれば堕落もします。神のごとき人間になることもできれば動物的人間になることもできます。自由意志を破壊的なことに使用することもできますし、建設的なことに使用することもできます。しかし、何をしようと、人間は永遠に神の分霊であり、神は永遠に人間に宿っております。
 こうした真理は教会で朗唱するためにあるのではありません。日常生活において体現していかなくてはなりません。飢餓、失業、病気、スラム等々、内に宿す神性を侮辱するような文明の恥辱を無くすことにつながらなくてはいけません。
 私たちのメッセージは全人類を念頭においております。いかなる進化の階梯にあっても、そのメッセージには人類が手に取り理解しそして吸収すべきものを十分に用意してあります。人類が階段の一つに足を置きます。すると私たちは次の段でお待ちしています。人類がその段まで上がってくると、また次の段でお待ちします。こうして一段また一段と宿命の成就へ向けて登っていくのです。

  『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.26-29

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 2-i (死を四季の移り変わりになぞらえて)
 
 四季の絶妙な変化、途切れることのない永遠のめぐりに思いを馳せてごらんなさい。すべての生命が眠る冬、その生命が目覚める春、生命の世界が美を競い合う夏、そしてまた次の春までの眠りに備えて自然が声をひそめはじめる秋。
 地上は今まさに大自然の見事な顕現---春、イースター、復活---の季節を迎えようとしております。新しい生命、それまで地下の暗がりの中で安らぎと静けさを得てひっそりと身を横たえていた生命がいっせいに地上へ顕現する時期です。間もなくあなた方の目に樹液の活動が感じられ、やがてつぼみが、若葉が、群葉が、そして花が目に入るようになります。地上全土に新しい生命の大合唱が響きわたります。
 こうしたことから皆さんに太古の非文明化時代において宗教というものが大自然の動きそのものを儀式の基本としていたことを知っていただきたいのです。彼らは移り行く大自然のドラマと星辰の動きの中に、神々の生活---自分たちを見つめている目に見えない力の存在を感じ取りました。自分たちの生命を支配する法則に畏敬の念を抱き、春を生命の誕生の季節としてもっとも大切にいたしました。
 同じサイクルが人間一人ひとりの生命においても繰り返されております。大自然の壮観と同じものが一人ひとりの魂において展開しているのです。まず意識の目覚めとともに春が訪れます。続いて生命力が最高に発揮される夏となります。やがてその力が衰えはじめる秋となり、そして疲れはてた魂に冬の休眠の時が訪れます。しかし、それですべてが終りとなるのではありません。それは物的生命の終りです。冬が終わるとその魂は次の世界において春を迎え、かくして永遠のサイクルを続けるのです。この教訓を大自然から学びとってください。そしてこれまで自分を見捨てることのなかった摂理はこれ以後も自分を、そして他のすべての生命を見捨てることなく働き続けてくれることを確信してください。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.30-32

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 2-j (死はいのちを滅ぼすことができない)

 あなたはまさに一個の巨大な原子---無限の可能性を秘めながらも今は限りある形態で自我を表現している原子のような存在です。身体の内部に、いつの日かすべての束縛を押し破り真実のあなたにより相応しい身体を通して表現せずにはいられない力を宿しておられるのです。そうなることをあなた方は死と呼び、そうなった人のことを悼み悲しんで涙を流されます。それは相も変わらず肉体がその人であるという考えが存在し、死が愛する人を奪い去ったと思い込んでいる証拠です。
 しかし死は生命に対して何の力も及ぼしえません。死は生命に対して何の手出しもできません。死は生命を滅ぼすことはできません。物的なものは所詮、霊的なものには敵わないのです。もしあなたが霊眼をもって眺めることができたら、もし霊耳をもって聞くことができたら、もしも肉体の奥にある魂が霊界の霊妙なバイブレーションを感じ取ることができたら、肉体という牢獄からの解放をよろこんでいる、自由で意気揚々として、うれしさいっぱいの甦った霊をご覧になることができるでしょう。
 その自由を満喫している霊のことを悲しんではいけません。毛虫が美しい蝶になったことを嘆いてはいけません。カゴの烏が空へ放たれたことに涙を流してはいけません。よろこんであげるべきです。そしてその魂が真の自由を見出したこと、いま地上にいるあなた方も神より授かった魂の潜在力を開発すれば同じ自由、同じよろこびを味わうことができることを知ってください。死の意味がおわかりになるはずです。そして死とは飛び石の一つ、ないしは大きな自由を味わえる霊の世界への関門にすぎないことを得心なさるはずです。
 他界してその自由を味わったのちに開発される霊力を今すぐあなた方に身をもって実感していただけないことは私は実に残念に思います。しかしあなた方には知識があります。それをご一緒に広めているところです。それによってきっと地上に光をもたらし、暗闇を無くすことができます。人類はもう、何世紀も迷わされ続けてきた古い教義は信じません。教会の権威は失墜の一途をたどっております。霊的真理の受け入れを拒んできた報いとして、霊力を失いつつあるのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.36-38

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 2-k(死後存続の証拠は十分に提供されている)

 お伝えする真理はいたって単純なものなのですが、それにはまず証拠になるものをお見せすることから始めなければなりません。
 すなわち偏見を捨てて真摯な目的、真実を知ろうとする欲求をもって臨む者なら誰にでも得心がいくものであることを明らかにしなければなりません。あなた方の愛する人々はそちら側からそのチャンスを与えてくれさえすれば、然るべき通路(霊媒)を用意してくれさえすれば、死後もなお生き続けていることを証明してくれます。
 これは空想の産物ではありません。何千回も何万回もくり返し証明されてきている事実を有りのままに述べているまでです。もはや議論や論争のワクを超えた問題です。もっとも、見ようとしない盲目者、事実を目の前にしてもなお認めることができなくなってしまった、歪んだ心の持ち主は論外ですが。
 以上が第一の目的です。”事実ならばその証拠を見せていただこう。われわれはもはや信じるというだけでは済まされなくなっている。あまりに永いあいだ気まぐれな不合理きわまる教義を信じ込まされてきて、われわれは今そうしたものにほとほと愛想をつかしてしまった。われわれが欲しいのはわれわれ自身で評価し、判断し、測定し、考察し、分析し、調査できるものだ”---そうおっしゃる物質界からの挑戦にお応えして、霊的事実の証拠を提供するということです。
 それはもう十分に提供されているのです。すでに地上にもたらされております。欲しい人は自分で手にすることができます。それこそが私がこれまであらゆる攻撃を耐え忍び、これからもその砦となってくれる”確定的事実“というスピリチュアリズムの基礎なのです。もはや ”私は信じます。私には信仰というものがあります。私には希望があります” といったことでは済まされる問題ではなくなったのです。”事実なのだからどうしようもありません。立証されたのです” と断言できる人が数え切れないほどいる時代です。

   『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1987、pp.25-26

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 2-l (死後も生き続けていることの意味を探る)

 人類史上はじめて宗教が実証的事実を基礎とすることになりました。神学上のドグマは証明しようのないものであり、当然、議論や論争がありましょう。が、死後の存続という事実はまともな理性をもつ者ならかならず得心するだけの証拠が揃っております。しかし、証明された時点から本当の仕事がはじまるのです。それでおしまいとなるのではありません。まだその事実を知らない人が無数にいます。その人たちのために証拠を見せてあげなくてはなりません。少なくとも死後にも生命があるという基本的真理は間違いないのだという確証を植えつけてあげる必要があります。
 墓の向うにも生活があるのです。あなた方が “死んだ” と思っている人たちは今もずっと生き続けているのです。しかも、地上へ戻ってくることもできるのです。げんに戻ってきているのです。しかし、それだけで終わってはいけません。死後にも生活があるということはどういうことを意味するのか。どういう具合に生き続けるのか。その死後の生活は地上生活によってどういう影響を受けるのか。二つの世界の間にはいかなる因果関係があるのか。
 死の関門を通過したあと、どういう体験をしているのか。地上時代に口にしたり行ったり心に思ったりしたことが役に立っているのか、それとも障害となっているのか。こうしたことを知らなくてはいけません。
 また、死後、地上に伝えるべき教訓としていかなることを学んでいるのか。物的所有物のすベてを残していったあとに一体なにが残っているのか。死後の存続という事実は宗教に、科学に、政治に、経済に、芸術に、国際関係に、はては人種差別問題にいかなる影響を及ぼすのか、といったことも考えなくてはいけません。そうなのです。そうした分野のすべてに影響を及ぼすことなのです。なぜなら、新しい知識は、氷いあいだ人類を悩ませてきた古い問題に新たな照明を当ててくれるからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1987、pp.27-28


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 2-m (人は自然な死に方をしたほうが霊界では受け入れ易いか)
       − 交霊会に出席している少女の質問に対して −

 もちろんです。大きな違いがあります。もしも地上のみんなが正しい知識をもち自然な生き方をすれば---もしもですよ---そうすれば死に方があっさりとして、少しも苦痛をともなわなくなります。そして又、死後の霊の身体を調節する必要もないでしょう。ところが残念なことに、実際はそんなにうまい具合に行っておりません。
 地上を去って霊界へ来る人のほとんどが自分がこれからどうなるのか、自分というのは一体どのようにできあがっているのか、霊的な実在とはどんなものなのかについて恐ろしいほど無知なのです。その上、地上で十分な成長をしないうちにこちらへ来る人がそれはそれは多いのです。そういう人は、私がたびたび言っておりますように、熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。ルースちゃんも知っているように、そんなくだものはおいしくありませんね。
 果実は熟せば自然に落ちるものなのです。霊が十分に成長すると自然に肉体から離れるのです。いま私の世界へ、渋いくだものや酸っぱいくだものがぞくぞくとやってきております。そのため、そういう人たちをこちらで面倒を見たり、監視したり、手当てをしたり、看護をしたりして、霊界に適応させてあげないといけないのです。みんながちゃんとした知識をもってくれれば、私のように地上の人間の面倒を見ている者はとても手間がはぶけて有難いのですけどね。ルースちゃんの言う通り、死に方によって大変な違いが生じます。以上のような答えでいいですか。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.122-123


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 2-n (亡くなった人を悲しむのは一種の利己主義である)

 (亡くなった人を悲しむのは)一種の自己憐憫の情です。自分自身への哀れみであり、愛する者を失ったことを嘆いているのです。苦の世界から解放された人のために涙を流すべきではありません。もちろん地上生活が利己的すぎたために死後もあい変わらず物質界につながれている人(地縛霊)がいますが、それは少数派に属します。
 大部分の人にとって死は牢からの解放です。新しく発見した自由の中で、潜在する霊的資質を発揮する手段を見出します。無知の暗闇でなく、知識の陽光の中で生きることが出来るようになるのです。
 過ぎ去った日々の中に悲しい命日をもうけて故人を思い出すとおっしゃいますが、いったい何のために思い出すのでしょう。そんなことをして、その霊にとってどんな良いことがあるというのでしょうか。何一つありません!過ぎ去ったことをくどくど思い起こすのは良くありません。それよりも一日一日を一度きりのものとして大切に生き、毎朝を霊的に成長する好機の到来を告げるものとして、希望に胸をふくらませて迎えることです。それが叡智の道です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p. 64


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 2-o (物質に惑わされ物的なものには価値がないことが理解できない)

 それは要するに無知と知識の差です。そこで私どもは出来るだけ知識を広め、その境界線をできるだけ広げていくように努力しているのです。知識を手にすれば、人生を正面から見つめ、そして悟ります。無知のままでいることは暗闇の中にいることです。
 私たちはひたすら力になってあげたいと願っているだけに尚のこと嘆かわしく思えるのですが、地上の人間が無知と偏見と、みずからこしらえた迷信という壁に取り囲まれているために、それが目覚めを阻害して、容易に破壊できないのです。その厚い壁は真理も突き通せないのです。嘆かわしいと表現したのは、その人たちの地上の身内の人でも手の出しようがないからです。そこで死後しばらくはベールのそちらとこちらの双方に悲しみがあります。が、地上を去った者のために涙を流すことはありません。その事実を認識し受け入れることによって、死んでいった者を引き止めるようなことが無くなります。感情的障壁をこしらえなくなります。精神と霊を正しく調整することが出来るようになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 66-67


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 2-p (人の死を悲しく思うのが人間の情ではないのか)

 私の世界へやってきた人は死が階段を一つ昇ったことを意味すること、大きな解放を得たことを理解します。潜在的能力を発揮するチャンス、地上でなし得なかった仕事をするチャンス、かつては考えられなかったほど生気はつらつとした生活ができるチャンスを得ます。もちろん地上生活に断絶が生じたことに悲しみの情を覚えるのは当然です。が、他界して行った者に何ら悲しむべきものはないという事実を知ることによって、その悲しみを少しでも小さくすることは出来るはずです。(無理な要求をするようですが)私たちは皆さんに対して常に理想を目標として掲げなければならないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 67-68


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 2-q [10-e](死後の生命を知っても死後に備えた生き方は容易ではない)

 その間題は結局は悟りの問題に帰着します。あなたが肉体をたずさえた霊的存在であること、地上はいつまでも住み続ける場ではないこと、物的なものは儚い存在であることを悟れば……もしもあなたが、死後、霊としてのあなた、不滅のあなた、神性を宿したあなたが蘇って永遠の進化の旅を続けることの意味を悟ることができれば…もしもあなたがそうした悟りに到達すれば、そしてそこで叡智の導きに素直にしたがうことができれば、あなたは自然に死後の生活に備えた生き方をするようになります。あなたの行為はすべてあなたが到達した霊的自覚の程度によって支配されるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 69-70


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 2-r [57-c] (霊格に関係なく地震などで一度に大量の死者が出るのはなぜか)

 なぜあなたは死をそんなに禍のようにお考えになるのでしょうか。赤ん坊が生まれると地上ではめでたいこととして喜びますが、私たちの方では泣いて別れを惜しむこともしばしばなのです。地上を去ってこちらの世界へ来る人を私たちは喜んで迎えます。が、あなた方は泣いて悲しみます。死は大部分の人にとって悲劇ではありません。しばらく調整の期間が必要な場合がありますが、ともかくも死は解放をもたらします。死は地上生活が霊に課していた束縛の終わりを意味します。
 あなた方はどうしても地上的時間の感覚で物ごとを見つめてしまいます。それはやむを得ないこととして私も理解はします。しかしあなた方も無限に生き続けるのです。たとえ地上で60歳、70歳、もしかして 100歳まで生きたとしても、無限の時の中での 100年など一瞬の間にすぎません。
 大自然の摂理の働きに偶然の出来ごとというものはありません。あなたは霊のために定められた時期に地上を去ります。しかも多くの場合その時期は、地上へ誕生する前に霊みずから選択しているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 70-71


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 2-s (死は独房の扉の鍵を開けて解放してくれる看守の役を果たす)

 私たちの世界の素晴らしさ、美しさ、豊かさ、その壮観と光輝は、地上のあなた方にはとても想像できません。それを描写しようとしても言葉が見出せないのです。ともかく私は矛盾を覚悟の上であえて断言しますが、”死” は独房の扉のカギを開けて解放してくれる看守の役をしてくれることがよくあるのです。地上の人間は皆いつかは死なねばなりません。摂理によって、永遠に地上に生き続けることはできないことになっているのです。ですから、肉体はその機能を果たし終えると、霊的身体とそれを動かしている魂とから切り離されることは避けられないのです。かくして過渡的現象が終了すると、魂はまた永遠の巡礼の旅の次の段階へと進んでいくことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 72-73


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 2-t [21-d] (私たちが死んだら霊界へはどのようにして行くのか)

 死とは物的身体から脱出して霊的身体をまとう過程のことです。少しも苦痛を伴いません。ただ、病気または何らかの異状による死にはいろいろと反応が伴うことがあります。それがもし簡単にいかない場合には霊界の医師が付き添います。そして、先に他界している縁者たちがその人の玉の緒″が自然に切れて肉体との分離がスムーズに行われるように世話をしているのを、すぐそばに付き添って援助します。
 次に考慮しなければならないのは意識の回復の問題ですが、これは新参者各自の真理の理解度に掛かっています。死後にも生活があるという事実をまったく知らない場合、あるいは間違った来世観が染み込んでいて理解力の芽生えに時間を要する場合は、睡眠に似た休息の過程を経ることになります。
 その状態は自覚が自然に芽生えるまで続きます。長くかかる場合もあれば短い場合もあります。人によって異なります。知識をたずさえた人には問題はありません。物質の世界から霊の世界へすんなりと入り、環境への順応もスピーディです。意識が回復した一瞬は歓喜の一瞬となります。なぜなら、先に他界している縁のある人たちが迎えに来てくれているからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 103


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 2-u [56-j ] (何のために生まれてくるのか=2= 生き続ける命)

 神の法則に例外というものはありません。存在するもののすべて― 地上の森羅万象だけでなく、無辺の大宇宙のあらゆるもの― が神の配剤にあずかっているのです。どちらへ目をやっても、そこに神の法則の働きがあります。小さすぎて見落とされたり、大きすぎて法則のワクからはみ出たりすることは有り得ません。それと同じ法則があなたにも働いているのです。もちろん私にも、そして他のすべての人にも働いております。
 これで、作用と反作用とが正反対のものであると同時に相等しいものであることがお分かりでしょう。幸福の絶頂に至るにはドン底の苦しみを味わわねばならないこともお分かりでしょう。そして又、皆さんが自分ではドン底を味わったつもりでいても、まだまだ絶頂を極めてはいらっしゃらないこともお分かりでしょう。その証拠に、心の奥のどこかにまだ死後の世界についての疑念をおもちです。
 しかし人間は生き続けます。地上で永遠に、という意味ではありません。地上的存在には不滅ということは有り得ないのです。物的なものには、その役割を終えるべき時期というものが定められております。分解して元の成分に戻っていきます。大自然の摂理の一環として物的身体はそのパターンに従います。が、あなたそのものは存在し続けます。生き続けたくないと思っても生き続けます。自然の摂理で、あなたという霊的存在は生き続けるのです。
 ある種の教義や信条を信じた者だけが永遠の生命を与えられると説いている宗教がありますが、永遠の生命は宗教や信仰や憧れや願いごととは無関係です。生き続けるということは変えようにも変えられない摂理であり、自動的にそうなっているのです。
 そもそも人間は死んでから霊となるのではなくて、もともと霊であるものが地上へ肉体をまとって誕生し、その束の間の生活のためではなく、霊界という本来の住処へ戻ってからの生活のために備えた発達と開発をするのですから、死後も生き続けて当り前なのです。元の出発点へ帰るということであり、地上のものは地上に残して、宇宙の大機構の中であなたなりの役目を果たすために、霊界でそのまま生き続けるのです。
 その無限の宇宙機構の中にあって神の子は、一人の例外もなく必ず何らかの役目があります。そして、それを果たそうとすると、いろいろと困難が生じます。が、それは正面から迎え撃って克服していくべき挑戦と心得るべきです。困難と障害は、霊性を発達させ進化させていく上において必要不可欠の要素なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 20-21

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 2-v (死は自由をもたらしてくれる有り難い解放者)

 死ぬということは霊が肉体から脱皮して姿を現す過程のことです。何一つ怖がる要素はありません。死は有難い解放者です。死が自由をもたらしてくれるのです。
 地上では赤ん坊が生まれると喜びます。ところが、いよいよ地上へ誕生しようとする時こちらでは泣いて別れを惜しむ霊が大勢いるのです。それと同じく、地上で誰かが死ぬと泣いて悲しみますが、こちらではその霊を出迎えて喜んでいる人たちがいます。
 死とは地上生活がその目的を果たし、霊がこれから始まる霊的生活が提供してくれる圧倒的な豊かさと美しさとを味わう用意ができたことを意味します。少なくとも本来はそうあらねばならないのです。
 皆さんにも霊が宿っております。生命を与えている霊的本性です。肉体もお持ちですが、それもその霊によって生命を賦与されてはじめて存在しているのです。霊が最終的に引っ込めば―“最終的に”と申し上げるのは、一時的には毎晩のように肉体から引っ込み、朝になると戻ってくるからです― 肉体に死が訪れます。生命活動が切れたからです。
 霊視能力者が見れば、霊体と肉体とをつないでいるコードが伸びて行きながら、ついにぷっつりと切れるのが分かります。その時に両者は永久に分離します。その分離の瞬間に死が発生します。そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても肉体を生き返らせることはできません。(訳者註― 近似死体験というのがあるが、これは医者が“ご臨終です”と宣告してもコード=玉の緒=がまだ切断していなかった場合である)

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 50-51

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 2-w (飛行機事故で即死の場合は霊的にどういう影響があるか)

 今申し上げたこととまったく同じです(3-b [57-f])。 霊的事実についての知識がある人は何の影響もありません。知識のない人はそのショックの影響があるでしょう。が、いずれにせよ、時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 52-53

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 2-x [36-o] (死後の生命なんか欲しくないと本心から思っている人)
         =地上への誕生も必ずしも強制されるわけではない=

 ― 死後の生命なんか欲しくないと、本心からそう思っている人がいます。そういう人たちにどう説かれますか。

 地上なんかに二度と生まれたくないと本心から思っている霊がいますよ。しかしそれは、いかんともし難いことなのです。自然の摂理との縁を切ることはできません。あなたがどう思うかに関係なく摂理は働きます。開けゆく大自然のパノラマが人間の小さな欲求や願望、あるいは反抗にもお構いなく展開していく姿をご覧になれます。

 ― と言うことは、私たちは地上へ来たくなくても無理やり来させられるということでしょうか。私はその点は自由な選択が許されると思っていました。

 必ずしも強制されるわけではありません。地上からこちらへ来るのにも自由選択が許されるように、こちらから地上へ行くのにも選択の余地が与えられています。ぜひとも為さねばならない仕事があることを自覚して地上へ誕生する霊がいます。行きたくはないけど、どうしてもしなければならない用事があるので止むを得ず誕生する霊もいます。あるいは償わねばならないカルマ(業)があって誕生してくる場合もあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1988pp.58-59

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 2-y[46-zl] (死後の生命と霊界での生活をいかに立証するか)

 − 死後の生命の存在を立証しようとすると、いろいろと不可解に思えることが生じてきます。どう証拠立てたらよいか思案しているのですが、存続するというのは一種のエネルギーとしてでしょうか、思念としてでしょうか。それともそれは今のわれわれと同じような、何らかの身体を具えたものなのでしょうか。

 死後の生命とおっしゃいますが、私は時おり地上世界を見渡して、はたして死ぬ前に生命があるのかと、疑わしく思うことさえあります。まったく生きているとは思えない人、あるいは、かりに生きていると言えても、これ以上小さくなれないほどお粗末な形でしか自我を表現していない人が無数におります。
 霊界での生活がどのようなものであるかを伝えるのは、とても困難です。なぜかと言えば、私たちは人間のその五感に限られた状態で理解できる範囲を超えた次元で生活しているからです。言語というのは、あなた方の三次元の世界を超えたものを伝えるにはまったく無力です。
 死後の世界の豊かさをお伝えしようにも、それを例えるものが地上に無いので、うまく言い表せないのです。強いて言えば、本来の自我の開発を望む人たちの憧憬、夢、願望が叶えられる世界です。発揮されることなく終わった才能が存分に発揮されるのです。
 経済問題がありません。社会問題がありません。人種問題がありません。身体でなく魂が関心のすべてだからです。魂には白も赤も黄も黒もないのです。
 界層ないしは境涯というものがあり、そこに住む者の進化の程度に応じて段階的な差ができています。あなたが他界後に落着く先は、あなたが地上で身につけた霊的成長に似合った界層であり、それより高いところへは行けません。行きたくても行けません。また、それより低いところでもありません。行こうと思えば行けますが、何らかの使命を自発的に望む者は別として、好んで行く者はいないでしょう。
 霊的意識が深まるにつれて、自分に無限の可能性があること、完全への道は果てしない道程であることを認識するようになります。と同時に、それまでに犯した自分の過ち、為すべきでありながら怠った義務、他人に及ぼした害悪等が強烈に意識されるようになり、その償いをするための行ないに励むことになります。
 埋め合わせと懲罰の法則があり、行為の一つ一つに例外なく働きます。その法則は完全無欠です。誰一人としてそれから逃れられる者はいません。見せかけは剥ぎ取られてしまいます。すべてが知れてしまうのです。と言うことは、正直に生きている人間にとっては何一つ恐れるものはないということです。
 難しい問題が無くなってしまうわけではありません。解決すべき問題は次から次へと生じます。それを解決することによって魂が成長するのです。何の課題もなくなったら、いかなる意味においても“生きている”ということにはならなくなります。魂は陽光の中ではなく嵐の中にあってこそ自我を見出すものなのです。
 もしも私があなたの悩みは全部こちらで引き受けてあげますと申し上げたら、それはウソを言っていることになります。私にできることは、問題に正面から対処して克服していく方法をお教えすることです。いかに大きな難題も障害も、霊の力の協力を得れば、人間にとって克服できないものはありません。
 霊は、今の私のように人間の口を借りてしゃべらなくても、いつまでも援助の手を差しのべることができます。時間と空間という厄介なものがないからです。あなたがいつどこにいても援助できます。その時の条件下で可能なかぎり援助し続けるでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 82-84

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 2-z  (死について=1= 人間はいつ死んだといえるか)

 ―これは多くの知人からよく聞かれることで、とても厄介なことになっている問題ですが、つまり人間はいつ死んだと言えるかという問題です。最近の新開やテレビでも、いつ本当に死んだことになるかについて医師や法律家の間でずいぶん議論されております。心臓が停止したら死んだことになると言う人もいれば、脳死をもって本当の死だと主張する人もいます。あなたは何をもって“死んだ”と判断すべきだとお考えですか―この地球という惑星へ別れを告げる時、つまり物的身体と別れるのは……。

 分かりました。ご承知の通り人間には霊が宿っています。その身体を生かしめている、神性を帯びた実在です。そして、その霊によって活力を与えられて初めて存在を得ている物的身体を具えています。
 すでに述べましたように、霊が最終的に引っ込んだ時―この“最終的に”というところをここで特に強調しておきます。なぜなら一時的ならば毎晩寝入るごとに引っ込み、朝目が覚めると戻っているからです― 霊が最終的に引っ込んでしまえば、物的身体は活力源を失うので、死が訪れます。
 さて、いわゆる“霊視能力”をもった人が見ると分かりますが、霊体と肉とをつないでいるコード(玉の緒)が霊体から次第に離れるにつれて伸びていき、それがついに切れた時、両者の分離が最終的に完了します。その分離の瞬間が死であり、そうなったら最後、地上のいかなる手段をもってしても、肉体を生き返らせることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 206-207


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 2-za  (死について=2= 臓器移植には賛成できない)

 ―そもそもこの間題が生じたのは臓器を摘出する技術が新たに開発されたからです。今日では医師は生きた心臓とか腎臓を頂戴するために人が死ぬのを待っているという状態です。そこで問題となるのが“この人は本当に死んでいるか” “もう臓器を摘出することが許されるか”ということで、それが医師を悩ませる深刻な問題となっているわけです。

 臓器移植については私もよく存じております。そして又、その動機が立派である場合が多いことも知っております。ですが私は、人間のいかなる臓器も他人に移植することには反対であると申し上げざるを得ません。
 そもそも死というのは少しも怖いものではありません。死は大いなる解放者です。(このあたりから“大勢いるのです”というところまで、おかしさを噛み殺した言い方でしゃべっている)死は自由をもたらしてくれます。皆さんは赤ん坊が生まれると喜びます。が、私たちの世界ではこれから地上へ生まれて行く人を泣いて見送る人が大勢いるのです。同じように、地上では人が死ぬと泣いて悲しみますが、私たちの世界ではその霊を喜んで迎えているのです。なぜならば、死の訪れは地上生活が果たすべき目的を果たし終えて、次の霊界が提供してくれる莫大な豊かさと美しさを味わう用意がこの霊に具わったことを意味するからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 207-208

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 2-zb  (死について=3= 死後の死体をどう取り扱うか)

 ― もう一つ、多くの人を悩ませているのは、死後の死体の取り扱いの問題です。人によっては、死体をいじくり回す前は一定の時間そっとしておいてあげる必要があると信じており、そういう人たちは、今日の医学界では人が死ぬとさっさと実験室へ運び込んで医学実験ないしは教材として使用する傾向があるので心配しているわけです。死後すぐに死体をいじくり回すと魂または霊に何らかの害があるでしょうか。

 それはその霊が霊的なことについての知識があるか否かによって違います。何も知らない場合は一時的に障害が及ぶことがあります。なぜかと言えば、たとえ肉体と霊体とをつないでいるコードが切れても、それまでの永年にわたる一体関係の名残りで、ある程度の相互作用が続いていることがあるからです。一般的に言えば、霊的なことにまったく無知だった人の場合は、埋葬ないし火葬を行なう前に三日間は合間を置くことをすすめます。それから後はどうなさろうと構いません。死体を何かの役に立てるために提供したいのであれば、それは当事者がそう決断なさればよろしい。
 ただ、次のことも申し添えておきます。人間には生まれるべき時があり、死すべき時があります。もしその死すべき時が来ておれば、たとえ臓器移植をしても、肉体をそれ以上地上に永らえさせることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 208-209

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 2-zc  (死について=4= “突発事故”による死の霊的影響)

 ―それと関連した問題として“突発事故”による死の問題があります。たとえば百二十人の乗客を乗せた飛行機が離陸して十五分後に爆発して全員が即死したとします。この場合は乗客の魂または霊にどういう影響があるでしょうか。

 今申し上げたのとまったく同じことです。霊的実在についての知識がある場合は何の影響もありません。知識のない人はショックによる影響があります。しかし、いずれ時の経過とともに意識と自覚を取り戻します。

 ―天命を全うしないうちに突発事故で他界した場合、次の再生が早まることになるのでしょうか。

 私はその“突発事故”という用語が気に入りません。原因と結果の要素以外には何も働いていないからです。“たまたま”と思われるものも因果律の作用にすぎないものです。再生の問題についてですが、これは大へん複雑な問題で、もっと時間をいただかないと十分なお答えができません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 209-210

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 2-zd  (死について=5= 死者の霊に教えを読んで聞かせることの効用)

 ―最後に・・・・・最近私はルドルフ・シュタイナーの本を読んだのですが、その中で彼は“死者へ向って読んで聞かせる”という供養の仕方を説いております。この“読んで聞かせる”ことの効用についてご教示を仰ぎたいのですが。

 “死者”というのは何のことでしょうか。

 ―ですから、物的身体から離れて霊界へ行った人たちです。

 ああ、なるほど! 私はまた、目の前に横たわっている死体に向って読んで聞かせるのかと思いました。(ここでシルバーバーチ独特の含み笑いをする)

 −違いますよ!

 そうすることで一体どうなると言っているのでしょうか。

 ―何人かの弟子達が他界した親戚縁者へ向けて毎日かなりの時間、ある教えを読んで聞かせるというのです。それを聞くことで、その親戚縁者の霊がよい影響を受けると考えているわけです。

 別に害はないでしょうが、大して益になるとも思えません。こちらの世界には受け入れる用意のできた人なら誰でも知識が得られるように、たくさんの施設が用意してあります。受け入れる素地ができていなければ受け入れることはできません。それをそちらでしようと、こちらでしようと、それは同じことです。そうでしょう、サム、師は弟子に応じて法を説くほかはないわけでしょう。

 (訳者注)原則的にはシルバーバーチの言っている通りかも知れないし、事実、霊界ではわれわれの想像を超えた規模で地縛霊の救済が行われているのであるが、それとは別に、愛着を覚える人間に意識的にあるいは無意識のうちに寄りそってくる霊がいて、その人間が考えていることや読んでいるものによって感化されるということは実際にあるようである。背後霊がそう仕向けるのである。その意味からも私は、読経のように形式化するのは感心しないにしても、例えばシルバーバーチの名言をくり返し読んだり祈りの言葉を声に出して唱えることは、自分の魂の高揚になるだけでなく、聞いてくれているかも知れない霊にとっても勉強になると考えている。シルバーバーチは“よくあなた方はご自分で想像しておられる以上に役に立っておられますよ”と言っているが、それはそういう意味も含まれているのではないかと考えている)

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 210-212

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 2-ze (霊に十分な準備が整わないうちに起こる肉体の死)

 人間が"死"と呼んでいるのは物的身体が物を言わなくなる現象です。用事が終わって霊との縁が切れ、元の大地へ戻っていくのですが、往々にしてそれが、霊に十分な準備が整っていないうちに起きるのです。それはともかくとして、霊は肉体という牢から解放されて、それよりはるかに精妙な構造をした霊的身体で自我を表現することになります。地上では眠っていた霊的感覚が発揮されはじめると、その活動範囲も飛躍的に広がります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.32

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 2-zf [46-zt](死後に赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしい所である)

 死後あなたが赴く界層は地上で培われた霊性にふさわしいところです。使命を帯びて一時的に低い界層に降りることはあっても、降りてみたいという気にはなりません。と言ってそれより高い界層へは行こうにも行けません。感応する波長が地上で培われた霊性によって一定しており、それ以上のものは感知できないからです。結局あなたが接触するのは同じレベルの霊性、同じ精神構造の者にかぎられるわけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.34

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 2-zg (霊的に無知であれば死後しばらくは地上に戻ってうろつく)

 こちらへ来た当初は霊的環境に戸惑いを感じます。十分な用意ができていなかったからです。そこで当然の成り行きとして地上的な引力に引きずられて戻ってきます。しばらくは懐しい環境−我が家・仕事場など---をうろつきます。そして大ていは自分がいわゆる死者″であることを自覚していないために、そこにいる人たちが自分の存在に気づいてくれないこと、物体にさわっても何の感触もないことに戸惑い、わけが分からなくなります。しかしそれも当分の間の話です。やがて自覚の芽生えとともに別の意識の世界にいるのだということを理解します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.35

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 2-zh[8-e](霊的に覚醒するまでは地上の個性はそのまま残る)

 死んで間もない段階では地上にいた時と少しも変わりません。肉体を捨てたというだけのことです。個性は同じです。性格も変わっておりません。習性も特徴も性癖もそっくりそのままです。利己的な人は相変わらず利己的です。欲深い人間は相変わらず欲深です。無知な人は相変わらず無知のままです。落ち込んでいた人は相変わらず落ち込んだままです。しかし、そのうち霊的覚醒の過程が始まります。いわゆる復活″です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.36

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 2-zi  (死後も地上圏へ戻ろうと思えば戻れるし現に戻っている)

 死後にも生命は存在します。いわゆる故人″も今なお生き続けております。地上圏へ戻ろうと思えば戻れますし、現に戻っております。しかし、ただそれだけの表面上のことだけでこの問題を片づけてはなりません。なぜ生き続けることができるのか、どういう過程で甦るのか、新しい生活にとってそれまでの生活はどういう影響を及ぼすのか、地上と霊界とはどういうつながりになっているのか、死の門をくぐったあとにどういう体験をしているか― 地上での言動や思想が向上を促しているか足を引っぱっているか、地上の人間に伝えるべき教訓として何を学んでいるか……こうしたことが宗教にも科学にも政治にも経済にも芸術にも国際関係にも影響を及ぼすのです。永いあいだ人類を苦しめてきた問題に新たな光を当てることになるからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.46-47

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 2-zj  (死ぬ時は決して一人で霊界へ旅立つのではない)

 死ぬ時は決して一人で旅立つのではありません。愛でつながった人々が付き添って、何かと面倒を見てくれます。これには例外はありません。影の世界から首尾よく脱け出て新しい素敵な生活に入れるように手引きをする態勢ができております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.48

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 2-zk  (人間に賦与された生命の炎を消すことはできない)

 人間は墓場を乗りこえて生き続けます。人間も本来は霊だからです。火葬の炎さえその霊を滅ぼすことはできません。物質の世界はもとより、いえ、霊の世界の何をもってしても、内部に宿る神性、この世に生をうけることによって賦与された生命の炎を消すことはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.50

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 2-zl[25-h] (失敗や屈辱の人生ももう一度やり直すことができる)

 私たちが地上の人々にもたらすことのできる最高の霊的知識は人生が死″をもって終了するのではないこと、したがって苦しい人生を送った人も失敗の人生を送った人も屈辱の人生を送った人も、みなもう一度やり直すことができるということ、言いかえれば悔やし涙を拭うチャンスがかならず与えられるということです。人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人間は内在している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスが与えられ、同時に又、愚かにも摂理を無視し他人への迷惑も考えずに横柄に生きた人間には、その悪業の償いをするチャンスが与えられます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.209

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 2-zm (死は少しも怖いものではないのになぜ心配するのか)

 人間にとって最大の恐怖は死でしょう。それが少しも怖いものではないことを知り、生命が永遠の存在であり、自分も永遠の存在であり、あらゆる霊的武器を備えていることを知っていながら、なぜ将来のことを心配なさるのでしょう。不幸の訪れの心配は、その不幸そのものより大きいものです。その心配の念が現実の不幸より害を及ぼしております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 211


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 2-zn[41-w] (死にまとわりついている悲しみと嘆きは取り除くこと)

 皆さんもいずれは寿命を全うしてその肉体に別れを告げる時がまいります。皆さんのために尽くして古くなった衣服を脱ぎ棄てる時が来ます。土の束縛から解放されて、死の彼方で待ちうける人々と再会することができます。その目出たい第二の誕生にまとわりついている悲しみと嘆き、黒い喪服と重苦しい雰囲気は取り除くことです。そして一個の魂が光と自由の国へ旅立ったことを祝福してあげることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 218

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 2-zo[27-i] (生命の実相を知らない人間こそ“立派な死者”である)

 あなたがた人間こそ死者″です。本当の生命の実相を知らずにいるという意味で、立派な死者です。神の宇宙の美しきが見えません。地上という極小の世界のことしか感識していません。すぐ身のまわりに雄大な生命の波が打ち寄せているのです。愛しい人たちはそこに生き続けているのです。そしてその背後には幾重にも高く界層が広がり、測り知れない遠い過去に同じ地上で生活した人々が無数に存在し、その体験から得た叡智を役立てたいと望んでいるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 218-219

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 2-zp(肉体の死は霊界への誕生で自由解放への扉を開いてくれる)

 肉体にはいずれ死が訪れます。死によって霊が肉体から解放されるのです。その意味では、肉体の死は霊の誕生です。その死を地上の人間は悲劇とみますが、われわれ霊界の者にとっては少しも悲しむべきことではありません。霊界への誕生なのですから、死は自由解放への扉を開いてくれる恩人です。煩わしい地上の悩みごとから解放してくれるのです。特殊な例外を除いて、死は罰ではなく、報酬です。ですから、死というものを、何としても食い止めねばならない悲劇と見ないで、魂が本来の自我を見出すために仕組まれた、大自然の生命活動の一環と見るべきです。

  トニー・オーツセン編「シルバーバーチの新たなる啓示」
    (近藤千雄訳)ハート出版、2003、p.136

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 2-zq (死は愛する者どうしを裂くことは絶対にできない)

  自ら死を体験したのち三千年の霊界生活を体験してきたこのわたしから是非とも申し上げたいのは、死は愛する者どうしを裂くことは絶対にできないということです。愛はすべての障害を打ち砕きます。愛は必ずやその愛する相手を見つけ出すということです。
 愛する人がこの残虐と誤解と無知の世界から、内部の神性がより豊かに発見される世界へと連れて行かれたことを泣いて悲しむのはお止めなさい。神があなたの庭から一本の花を抜き取って神の庭へ植え代えられたことを悲しんではなりません。その庭で、あらゆる制約と束縛とから解放されて、内在する香りをより多く放つことになるのです。

   トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
    コスモ・テン・パブリケーション、1989、p.171

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 2-zr (死んで初めてわかる本当の意味での生きるということ)

 皆さんは死んだあともずっと生き続けるのです。その時までは、本当の意味での生きる″とはどういうことなのか、何ものにも拘束されずに生命の実感を味わうというのはどういうことなのか、肉体に閉じ込められた今の魂では理解できない自由≠フ味を満喫するというのはどういうことかはお解りにならないでしょう。
 一度もカゴの外に出たことのない鳥に、囲いのない広々した森の中で、枝から枝へと飛び渡れるということがどういうものかが解るでしょうか。

    トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
       コスモ・テン・パブリケーション、1989、p. 112

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 2-zs (霊界から地上界へ誕生するのは一種の“死”とみてよいか)

 結構です、一種の死です。あなた方が死と呼んでいるのは霊的に見れば霊界への誕生であり、あなた方が誕生と呼んでいるのは、霊的には死と同じです。
 何度も申し上げていることですが、仲間が地上界へ行ってしまうのを見て、霊界では大勢の者が涙を流しているのです。反対に、地上を去ってこちらへ来るのをあなた方が悲しんでいる時、私たちは“ようこそ”と言ってよろこんで迎えているのです。すべては全体としての視野の捉え方の問題です。

    トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』
       (近藤千雄訳)ハート出版、2003、p.161

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 3. 遺体・葬祭

 3-a (死体は土葬にするよりも火葬にする方がいいか)

 ぜったい火葬がよろしい。理由にはいろいろありますが、根本的には、肉体への執着を消す上で効果があります。霊の道具としての役割を終えた以上、その用のなくなった肉体のまわりに在世中の所有物や装飾品を並べてみたところで何になりましょう。本人を慰めるどころか、逆に、いたずらに悲しみや寂しさを誘うだけです。
 人間は、生命の灯の消えたただの物質となった死体に対してあまりに執着しすぎます。用事は終わったのです。そしてその肉体を使用していた霊は次のより自由な世界へと行ってしまったのです。
 死体を火葬にすることは、道具としてよく働いてくれたことへの最後の儀礼として、清めの炎という意味からも非常に結構なことです。同時に又、心霊知識も持たずに霊界へ来た者が地上の肉親縁者の想いに引かれて、いつまでも墓地をうろつきまわるのを止めさせる上でも効果があります。
 衛生上から言っても火葬の方がいいと言えますが(※)、この種の問題は私が扱う必要はないでしょう。それよりもぜひ知っていただきたいことは、火葬までに最低三日間は置いてほしいということです。というのは未熟な霊は肉体から完全に離脱するのにそれくらい掛かることがあるからです。離脱しきっていないうちに火葬にするとエーテル体にショックを与えかねません。

 ※『霊訓』の続編である『インペレーターの霊訓』に次のような箇所がある。
 《二つの埋葬地の中間に位置する家に滞在していたことを咎められたモーゼスが「なぜいけないのですか」と尋ねたのに対し、レクターと名のる霊が答えた。
 「最近のあなたは墓地に漂う臭気に一段と影響されやすくなっております。その近辺で長時間寝たり呼吸したりしてはいけません。そこに発生するガスや臭気は鈍感な人なら大して害はないが、あなたほどに発達してくると有害です」
 ― でも、すぐそばではありません。
 「二つの墓地の中間に位置しています。あたりの空気にはあなたの身体に有害なものが充満しています。肉体が腐敗する際に強烈な臭気を発散する。それが生者の呼吸する空気に混入し、それに惹かれて地縛霊がうろつきます。どこからどう見ても感心しないものですが、霊的感受性が敏感な人間にとっては尚のこと有害です」
 ― 墓地を嫌っておられるようですが、埋葬するより火葬の方がよいというお考えですか。
 「朽ち果てていく肉体を生きた人間の生活の場のどまん中に埋めることほど愚かなことはありません。呼吸する空気が汚染されてしまいます。もう少し進歩すれば生きた人間に害になるようなことはやめるでしょう」》


    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp. 214-217

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 3-b [57-f](遺体は火葬する前に一定期間安置しておく必要があるか)

 ― 死者はある一定期間そっと安置しておいてあげる必要があると信じている人がいます。それと言うのも、最近では人体を使って実験をするために死体をかつさらうように実験室へ持っていくことがよくあるのです。こうしたことは魂ないし霊にとって害があるのでしょうか。

 それはその死者の霊が霊的事実についての知識があるかどうかによります。もし何の知識もなければ、一時的に害が生じる可能性があります。と言うのは、霊体と肉体とをつないでいるコードが完全に切れたあとも、地上での長いあいだの関係によって相互依存の習性が残っているからです。
 その意味では一般的に言って埋葬または火葬までに死後三日は間を置いた方がよいでしょう。それからあとのことは、どうなさろうと構いません。死体を医学的な研究の材料として提供したければ、それも結構でしょう。そちらで判断なさるべきことです。
 ただ一言いわせていただけば、誰にも生まれるべき時があり死すべき時があります。もしも死すべき時が来ていれば、たとえ臓器移植によってもその肉体を地上に永らえさせることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 51-52









 4. 祈り


 4-a (祈りとはなにか)

 私は祈りとは魂の憧憬と内省のための手段、つまり抑えがたい気持ちを外部へ向けて集中すると同時に、内部に向けて探照の光を当てる行為であると考えております。本当の祈りは利己的な動機から発した要望を嘆願することではありません。われわれの心の中に抱く思念は神は先刻ご存じなのです。要望は口に出される前にすでに知られているのです。
 なのになぜ祈るのか。それは、祈りがわれわれのまわりに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段であるからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して、精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態におくことになるのです。わずかな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることができ、かくしてわれわれに本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。
 利己的な祈りは時間と言葉と精神的エネルギーの無駄遣いをしているにすぎません。それらには何の効力もないからです。何の結果も生み出しません。が、自分をよりいっそう役立てたいという真摯な願いから、改めるべき自己の欠点、克服すべき弱点、超えるべき限界を見つめるための祈りであれば、そのときの高められた波長を通して力と励ましと決意を授かり、祈りが本来の効用を発揮したことになります。

  シルビア・バーバネル編『シルバー・バーチの霊訓(7)』
     (近藤千雄訳)潮文社、1987,pp.198-199


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  4-b (祈りには効き目があるか)

 本当の祈りと御利益信心との違いを述べれば、祈りが本来いかにあるべきかがお分かりになると思います。御利益信心は利己的な要求ですから、これを祈りとよぶわけにはいきません。ああしてほしい、こうしてほしい。カネがほしい、家がほしいーーこうした物的欲望には霊界の神霊はまるで関心がありません。そんな要求を聞いてあげても、当人の霊性の開発、精神的成長にとってなんのプラスにもならないからです。一方、魂のやむにやまれぬ叫び、霊的活動としての祈り、暗闇に光を求める必死の祈り、万物の背後に控える霊性との融合を求める祈り、そうした祈りもあります。そうした祈りには魂の内省があります。つまり自己の不完全さと欠点を自覚するが故に、必死に父なる神の加護を求めます。その時の魂の状態そのものがすでに神の救いの手を受け入れる態勢となっているのです。ただ、これまでも何度か述べたことがありますが、そうした祈りをあえて無視して、その状態のまま放っておくことが実はその祈りに対する最高の回答である場合がよくあります。こちらからあれこれと手段を講じることがかえって当人にとってプラスにならないという判断があるのです。しかし魂の奥底からの欲求、より多くの知識、より深い悟り、より強いカを求める魂の願望は、自動的に満たされるものです。つまり、その願望が霊的に一種のバイプレーションを引き起こし、そのバイプレーションによって当人の霊的成長に応じた分だけの援助が自動的に引き寄せられます。危険の中にあっての祈りであれば保護のためのエネルギーが引き寄せられ、同時に救急のための霊団が派遣されます。それは血縁関係によってつながっている霊もおれば、愛の絆によって結ばれている類魂もおります。そうした霊たちはみな自分もそうして救われた体験があるので、その要領を心得ております。

   アン・ドゥーリー編『シルバー・バーチの霊訓(1)』
     (近藤千雄訳)潮文社、1988、pp.169-171


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 4-c (祈りの効果は、祈る人の地位には関係ない)

 地位には関係ありません。肝心なのは祈る人の霊格です。大主教が霊格の高い人であればその祈りには霊カが具わっていますが、どんなに立派な僧衣をまとっていても、スジの通らない教義に疑り固まった人間でしたら何の効果もないでしょう。もう一ついけないのは集団で行う紋切り型の祈りです。案外効果は少ないものです。要するに神は肩書きや数ではごまかされないということです。祈りの効果を決定づけるのは祈る人の霊格です。
 祈りとは本来、自分の波長をふだん以上に高めるための霊的な行為です。波長を高め、人のために役立ちたいと祈る行為はそれなりの効果を生み出します。あなたが抱える問題について神は先刻ご承知です。神は宇宙の大霊であるが故に宇宙間の出来事のすべてに通じておられます。神とは大自然の摂理の背後の叡智です。したがってその摂理をごまかすことは出来ません。神をごまかすことは出来ないのです。あなた自身さえごまかすことはできません。

     『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1986、p.47


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 4-d (シルバー・バーチの祈り) -1-

 神よ−天地の創造主、至尊至高の絶対的なカ、全存在の宿命の統括者にまします神よ、私たちはこれまであなたの得さしめ給いし全てのものに対して深甚なる感謝の意を表明いたします。
 私たちの為に暗き道を明るく照らし給いしその光、あなたを、そして私たち自らをより深く理解させて下さったその知識、そして私たちを栄光と光輝とによりて温く包んで下さったその叡智に対して深く感謝いたします。
 私がこうして存在することの真の理由、宇宙人生の背後に秘められた真の目的を啓示され給い、日夜私たちをお導き下さるその愛に深く感謝いたします。
 また、私たちのために真理普及の道を切り開いて下さった先達の数々、地ならしをして下さった開拓者の数々、悪戦苦闘した改革者たち、その他、宗教家、哲学者、賢聖−ーそのうちのある者は地上にては名も知られず、死して漸くその偉大さを認められ、あるいは死後もなおその偉大さを気づかれずにおりますが、こうした人々の全てに対しても深い感謝の念を禁じ得ません。
 これまでにあなたより授けられた恩寵に対し厚く御礼申し上げます。皆々と共に感謝の言葉を捧げるとともに、代りて私たちがあなた御カの通路となり、あなたの御計画堆進の一翼を担い、御子たちのために役立つことができますよう導き給わんことを。
 ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

    アン・ドゥーリー編『シルバー・バーチの霊訓(1)』
      (近藤千雄訳)潮文社、1988、pp.196-197


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 4-e (祈りは誰に向けられるべきか)

 とても良い質問です。人のために何とかしてあげたいと思われるのは真摯な魂の表われです。全ての祈り、全ての憧憬は神へ向けるべきです。ということは、いつも嘆願を並べ立てなさいという意味ではありません。
 たびたび申し上げているように、祈りとは波長を合わせることです。すなわち私たちの意志を神の意志と調和させることであり、神とのつながりをより緊密にすることです。そうすることが結果的に私たちの生活を高めることになるとの認識に基いてのことです。意識を高めるということは、それだけ価値判断の水準を高めることになり、かくして自動的にその結果があなた方の生活に表われます。
 何とかして宇宙の心、宇宙の大中心、宇宙をこしらえた神にまず自分が一歩でも近づくように、真剣に祈ることです。それから、何とかしてあげたいと思っている人がいれば、その方を善意と、ぜひ自分をお役立てくださいという祈りの気持で包んであげることです。
 ですが、それを自分が愛着を覚える人のみにかぎることは感心しません。たとえ崇高な動機にに発するものであっても、一種の利己主義の色あいを帯びているものだからです。それよりはむしろ全人類のためになる方法で自分の精神が活用されることを求めることです。ということは、日常生活において自分と交わる人に分け隔てなく何らかの役に立つということです。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1985、pp.168-169 

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 4-f (シルバー・バーチの祈り ) -2-

 神よ、私たちはあなたの完璧な摂理の背後に秘められた完全なる愛を説き明かさんと努力している者でございます。人類はその太古よりあなたがいかなる存在であるかを想像しながらも、その概念はいつも人間的短所と限界と制約の上に築かれてまいりました。
 宇宙の生命活動を律するその霊妙な叡智を人間は幽かながら捉え、それを人間に理解できる言葉で説明せんとしてまいりました。あなたの性格を人間のすべてに共通する弱点と欠点と感情を具えた一個の人間として想像しました。気に入った者には恩寵を与え、気に入らぬ者には憤怒を浴びせる人間味むき出しの神を想像いたしました。その後の進化に伴って人間の知識も進歩いたしましたが、この大宇宙を創造した究極の存在について想像したものは真のあなたの姿には遠く及びません。
 無限なる存在を有限なる言葉で表現することは所詮いかなる人間にも不可能なのでございます。あなたの尊厳の神性、あなたの愛と叡智の永遠性は、五つの感覚のみの物質の世界に閉じ込められた人間には真実の理解は不可能なのでございます。
 そこで幸にして実在の別の側面を体験させていただいた私たちは、あなたが定められた摂理の存在を説いているところです。すべてを包含し、すべてを律する法則、不変不朽の法則、無数の生命現象に満ちた宇宙における活動を一つとして見逃すことのない法則、すべての自然現象を律する法則、人間生活のすべてを経綸する摂理に目を向けさせようと致しているところでございます。
 一宗一派に偏った神の概念を棄て、宇宙がいかなる法則によって支配されているかを理解することによって、そこに連続性と秩序とリズムと調和と完全なバランスの観念が生まれてまいります。一人一人が無限なる組織の中の一部であり、自分一個の生命活動もあなたのご計画の中に組み入れられていることを自覚いたします。
 私たちの仕事は人間の霊に宿されているところの、人生に輝きを与えるはずの資質、いまだに未知の分野でありながら莫大な可能性に満ち、その活用によって人間生活に豊かさと生き甲斐、壮厳さと気高さ、人生観を一変させてしまう広大なビジョンと精神的飛躍を与えるところの魂の秘奥を明かすことにあります。
 それこそ人間を永遠なるものとつなぐものであり、それこそあなたがお授けくださった神聖なる属性であり、それを開発することが少しでもあなたに近づき、存在の意義を成就し、あなたの遺産を相続することになるものと信じるのでございます。
 かくのごとく私たちは人間の霊的成長を促す分野に携わる者です。そこが人間がこれまで最も無知であった分野だからでございます。その無知の暗闇を払いのけることによって初めてあなたの真理の光が人類の水先案内となりうるのです。闇の存在はことごとく消え去り、あなたの御子たちは、あなたの意図されたとおりに自由に堂々と、神性を宿す者に相応しい生き方に立ち帰ることでございましょう。
 ここに、ひたすらに人類のためをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1985、pp.212-214 

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 4-g [44-a] (シルバー・バーチの祈り) -3-

 神よ、あなたは一体どなたにおわし、いかなるお方におわすのでしょうか。いかなる属性をお具えなのでしょうか。
 私たち(霊界の者)はあなたを完璧なる摂理の働きであると説いております。たとえば宇宙に目を向けさせ、その構想の完璧さ、その組織の完璧さ、その経綸の完璧さを指摘いたします。そしてその完璧な宇宙の姿こそあなたの御業の鑑であり、あなたこそ宇宙の全生命を創造し給いし無限の心であると説いております。
 私たちは自然界の一つ一つの相、一つ一つの生命、一つ一つの草花、一つ一つのせせらぎ、小川、海、大洋、一つ一つの丘そして山、一つ一つの恒星と惑星、一つ一つの動物、一人一人の人間に目を向けさせ、そのすべてがあなたの無限なる根源的摂理によって規制され支配されていると説きます。
 私たちは宇宙間のすべての現象がその根源的摂理から派生したさまざまな次元での一連の法則によって支配され、かくしてその働きの完璧性が保たれているのであると認識している者でございます。
 そのあなたには特別の寵愛者など一人もいないことを信じます。不偏不党であられると信じます。あなたのことを独裁者的で嫉妬心をもつ残忍なる暴君のごとく画いてきたこれまでの概念は誤りであると信じます。なぜなら、そのような人間的属性は無限なる神の概念にそぐわぬからでございます。
 これまで私たちは地上とは別個の世界においても同じあなたの摂理の働きを見出し、そしてそれがいついかなる時も寸分の狂いもないことを確認したが故にこそ、その摂理とそれを生み出された心に満腔の敬意を捧げ、その働きのすべて--- 物的、精神的、そして霊的な働きのすべてを説き明かさんと努めております。なかんずく霊的なものを最も重要なものとして説くものです。なぜなら、すべての実在、すべての生命の根源は霊的世界にあるからでございます。
 あなたの子等のすべてがあなたの摂理を理解し、その摂理に従って生活を営むようになれば、すべての悲劇、すペての暗黒、すべての苦悩、すべての残虐行為、すべての憎悪、すべての戦争、すべての流血行為が地上から駆逐され、人間は平和と親善と愛の中で暮らすことになるものと信じます。
 ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インデイアンの祈りを---無意味な文句の繰り返しでなく、真理と叡智と光と理解力と寛容の心を広げる手段(人間)を一人でも多く見出したいとの願いとして---捧げ奉ります。

  『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.184-186

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 4-h (シルバー・バーチの祈り =4=

 ああ神よ、あなたは大宇宙を創造し給いし無限の知性におわします。間断なき日々の出来ごとの全パノラマを統御し規制し給う摂理におわします。全存在を支える力におわします。物質的形態に生命を賦与し、人間を動物界より引き上げて、いま所有せるところの意識を持つに至らせ給いました。
 私たち(霊団の者)はあなたという存在を絶対的法則---不変にして不可変、そして全能なる摂理として説いております。あなたの摂理の枠を超えて何事も起こり得ないからでございます。宇宙の全存在はその摂理の絶対的不易性に静かなる敬意を表しております。あなたの霊的領域においてより大きな体験を積ませていただいた私たちは、あなたの御力によって支配されている全生命活動の完璧さに対する賞讃の念を倍加することになりました。
 私たちほ今、そのあなたの仔細をきわめた摂理の一端でも知らしめんとしている者でございます。それを理解することによって、あなたの子等があなたがふんだんに用意されている生命の喜びを味わうことが出来るようにと願うゆえに他なりませぬ。
 私たちは又、無知という名の暗闇から生まれる人間の恐怖心を追い払い、生命の大機構における"死″の占める位置を理解せしめ、自分の可能性を自覚させることによって、霊的本性の根源である無限の霊としての自我に目覚めさせんものと願っております。それは同時に彼らとあなたとのつながり、そして彼ら同士のつながりの霊的同質性を理解させることでもございます。
 あなたの霊が地球全体をくるんでおります。あなたの神性という糸が全存在を結びつけております。地上に生きている者はすべて、誰であろうと、いかなる人間であろうと、どこに居ようと、絶対に朽ちることのない霊的なつながりによってあなたと結ばれております。故に、あなたと子等との間を取りもつべき人物などは必要でないのでございます。生まれながらにしてあなたからの遺産を受け継いでいるが故に、あなたの用意された無限の叡智と愛と知識と真理の宝庫に、誰でも自由に出入りすることが許されるのでございます。
 私たちの仕事は人間の内奥に宿された霊を賦活し、その霊性を存分に発揮せしめることによって、あなたが意図された通りの人生を生きられるように導くことでございます。かくして人間はいま置かれている地上での宿命を完うすることでしょう。かくして人間は霊的存在としての義務を果たすことになることでしょう。かくして人間は戦いに傷ついた世の中を癒し、愛と善意を行きわたらせる仕事に勤しむことでしょう。かくして人間はあなたの真の姿を遮ってきた暗闇に永遠に訣別し、理解力の光の中で生きることになることでしょう。
 ここに、あなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.216-217

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 4-i (型にはまった祈りには効果がない)

 祈りとは何かを理解するにはその目的をはっきりさせなければなりません。ただ単に願いごとを口にしたり決まり文句を繰り返すだけでは何の効果もありません。テープを再生するみたいに陳腐な言葉を大気中に放送しても耳を傾ける人はいませんし、訴えるカをもった波動を起こすことも出来ません。私たちは型にはまった文句には興味はありません。その文句に誠意が込もっておらず、それを口にする人みずから、内容には無頓着であるのが普通です。永いあいだそれをロボットのように繰り返してきているからです。真の祈りにはそれなりの効用があることは事実です。しかしいかなる精神的行為も、身をもって果たさねばならない地上的労苦の代用とはなり得ません。
 祈りは自分の義務を避けたいと思う臆病者の避難場所ではありません。人間として為すべき仕事の代用とはなりません。責務を逃れる手段ではありません。いかなる祈りにもその力はありませんし、絶対的な因果的連鎖関係を寸毫も変えることはできません。人のためにという動機、自己の責任と義務を自覚した時に油然として湧き出るもの以外の祈りはすべて無視されるがよろしい。そのあとに残るのが心霊的ないし霊的行為であるが故に自動的に反応の返ってくる祈りです。その反応はかならずしも当人の期待した通りのものではありません。その祈りの行為によって生じたパイプレーションが生み出す自然な結果です。
 あなた方を悩ます、全ての問題と困難に対して正直に、正々堂々と直正面から取りくんだ時---解決のためにありたけの能力を駆使して、しかも力が及ばないと悟った時、その時こそあなたは何らかの力、自分より大きな力をもつ霊に対して問題解決のための光を求めて祈る完全な権利があると言えましょう。そしてきっとその導き、その光を手にされるはずです。なぜなら、あなたのまわりにいる者、霊的な目をもって洞察する霊は、あなたの魂の状態を有りのままに見抜く力があるからです。たとえばあなたが本当に正直であるか否かは一目瞭然です。
 さて、その種の祈りとは別に、宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜならその魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招来するからです。このように、一口に祈りといっても、その内容を見分けた上で語る必要があります。
 ところで、いわゆる"主の祈り″(天にましますわれらが父よ、で始まる祈祷文。マタイ6・9〜13、ルカ11・2〜4 訳者) のことですが、あのような型にはまった祈りは人類にとって何の益ももたらさないことを断言します。単なる形式的行為は、その起原においては宿っていたかも知れない潜在的な力まで奪ってしまいます。儀式の一環としては便利かも知れません。しかし人間にとっては何の益もありません。そもそも神とは法則なのです。自分で解決できる程度の要求で神の御手を煩わすことはありません。それに、ナザレのイエスがそれを口にした(とされる)時代から二千年近くも過ぎました。その間に人類も成長し進化し、人生について多くのことを悟っております。イエスは決してあの文句のとおりを述べたわけではありませんが、いずれにしても当時のユダヤ人にわかりやすい言葉で述べたことは事実です。
 今のあなた方には、父なる神が天にましますものでないことくらいお判りになるでしょう。完全な摂理である以上、神は全宇宙、全生命に宿っているものだからです。この宇宙のどこを探しても完璧な法則が働いていない場所は一つとしてありません。神は地獄のドン底だけにいるものではないように、天国の一ばん高い所にだけ鎮座ましますものでもありません。大霊として宇宙全体に普遍的に存在し、宇宙の生命活動の一つひとつとなって顕現しております。
"御国の来まさんことを″などと祈る必要はありません。地上天国の時代はいつかは来ます。かならず来るのです。しかしそれがいつ来るかは霊の世界と協力して働いている人たち、一日も早く招来したいと願っている人たちの努力いかんに掛かっております。そういう時代が来ることは間違いないのです。しかしそれを速めるか遅らせるかは、あなた方人間の努力いかんに掛かっているということです。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.218-221

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 4-j (人間の神性を称えるシルバーバーチの祈り)=5=

 神よ、私たちはあなたの永遠の真理、あなたの無限の力、あなたの不変の摂理の生き証人でございます。あなたの聖なる御業であるところの大自然のパノラマの中に、私どもはあなたの神性の顕現を拝しております。
 私どもは昇りゆく太陽の中に、沈みゆく太陽の中に、夜空のきらめく星の中に、大海の寄せては返す潮の中に、そよ風とその風に揺れる松のそよぎに、やさしい虫の音に、澄み切った青空の中に、そのほか移り変る大自然のあらゆる営みの中に、あなたを見出すことができます。
 また、あなたは生きとし生けるもののすべてに宿る霊の中に見出すことができます。人間においてそれは意識を有する個的存在として顕現しております。あなたとともに宇宙の限りなき創造の大業に携わらしめるために人間をその高き段階へとお引き上げくださったのでございます。
 あなたは人間にあなたの聖なる属性を数多くお授けになりました。人間はその霊的資質を有するが故の当然の成り行きとして、物的生命を超えたより精妙なる力、すなわち霊力を知覚せしめるところの霊的能力を有しております。
 人生を営むことを可能ならしめているものは、その霊力にほかなりません。人間を全創造物から超脱せしめているものもその霊力にほかなりません。思考をめぐらし、判断を下し、反省し、決断し、美に感嘆し、美を賞美し、叡智を授かり、その真価を悟り、知識を獲得し、それを大切にする能力も、霊カあればこそでございます。
 より高き世界からのインスピレーションを感受せしめるのも霊力でございます。人生の重荷に耐えかねている者のもとへ赴くことができるのも霊力あればこそでございます。霊の世界の存在を知覚し、その世界の居住者が人間をより広き奉仕的行為のために使用せんとしている事実を認識することができるのも、霊の力ゆえでございます。果てしなき宇宙の大機構の中に置かれた己れの位置を理解せしめるのも霊の力でございます。私たちは人間にそうした本来の役割を成就せしめるものについての知識、死後に赴く世界にふさわしきものを身につけさせるものについての知識を広めんと希望している者でございます。
 そうなってはじめて人間は、いま目を曇らせている暗闇をみずから払いのけることを得ることでございましょう。そうなってはじめて叡智と真理と悟りと調和と平和の中に暮らせるようになることでございましょう。そうなってはじめて同胞があなたとの真のつながりと生きる目的、そして人間が死と呼ぶ扉の向こうに待ちうけている、より大きな生命の世界の存在を理解する上で力となることができることでございましょう。

    『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.222-224

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 4-k (相互扶助の尊さを称えるシルバーバーチの祈り)=6=

 神よ、私たちはあなたの真理、あなたの叡智、あなたの愛、そしてあなたの、永遠なる自然法則の理解を広めるために、力のかぎりあなたの忠実な子供たらんと願っている者でございます。地上のあなたの子等にあなたの無限の機構の中における存在価値を理解させること---真の霊的自我を見出し、暗黒と冷酷と怒りと憎しみに満ちた世界にあって、あなたから授かった力を発揮するように導いてあげることを願いと致しております。私たちは霊的実在についての単純素朴な真理---正義と権利と善と美の永遠の基盤であるところの真理を説かんと致しております。道を見失える者、いずこにあなたを見出すべきかを知らずに迷える者に対しては、あなたが彼ら自身の中に存在すること、あなたの無限なる霊がみずからの存在の内部にあること、まさしく天国は彼らの心の中にある---よろこびと幸せの国、叡智と悟りの国、寛容と正義の国は自分の心の中にあるという事実を教えることを目的と致しております。
 私たちは悲しみに暮れる人々、人生に疲れた人々、病める人々、困窮せる人々、肉身を失ったまま慰めを得られずにいる人々、いずこに導きと英知を求めるべきかを知らずにいる人々に近づき、あなたがその人々をけっしてお見捨てになったのではないことを教えてあげたいと願っている者でございます。私たちの使命は地上のすべての地域とその住民にいっさいの分け隔てなく行きわたっております。あなたの霊は人間界のすみずみまで流れ、雄大なる宇宙のあらゆる現象に現われ、意識的存在のすべてに顕現されていると認識するゆえにございます。
 その事実を認識することによって新たな安らぎが得られ、それは、ひいては人間の心と魂と精神を鼓舞してお互いがお互いのために生きる意欲を誘い、あなたの子のすべてに分け隔てなく奉仕することによってあなたに奉仕することになることでございましょう。

  『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.224-225

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 4-l (シルバー・バーチの開会の祈り) -7-

 神よ、私どもはあなたの測り知れぬ愛、限りなき叡智、尽きることなき知識、果てしなき顕現の相をどう説き明かせばよいのでしょうか。永きにわたってあなたを誤解し間違った信仰を抱いてきたあなたの子等にどう説けば、あなたを正しく認識できるのでしょうか。あなたは決して無知な人間が想像するごとき嫉妬ぶかい、横暴な方ではございません。また残忍にして復讐心を抱き、血に飢え、えこひいきをし、選ばれし者のみを愛する方でもございません。
 あなたは全生命の大霊におわします。その息吹きが創造を生み、そのリズムが永遠なる宇宙のあらゆる相、あらゆる動き、あらゆる鼓動に表われております。私どもはあなたを完璧なる摂理---絶対に誤らず、絶対に連続牲を失うことのない法則として啓示せんものと努めております。物的世界のみならず霊的世界の最奥をも含む全生命活動を支えるあなたの法則に断絶はありえないのでございます。宇宙間の何一つとしてあなたを超えて存在するものは有りえないのでございます。なぜならあなたは全存在の中に存在しておられるからです。
 しかしあなたの霊は、あなたがあなたに似せて創造された人間的存在において最高の形で表現されております。なぜならば、あなたは人間にあなたの霊、あなたの神性を賦与され、あなたの属性のすべてを授けておられるからでございます。最下等の動物的存在の位より彼らを引き上げ、いずれはあなたの創造の大業に参加する権利を与えられたのでございます。
 かくして生まれたあなたとのつながりは、切ろうにも切れない宿命となります。なぜならば人間はあなたの一部であり、それは、あなたも人間を離れて存在し得ないことを意味するからでございます。すなわち、あなたの霊は彼らのすべてをお抱きになると同時に彼らの内部にも存在し、自己犠牲と愛他の生活、慈悲と思いやりの行為、老若男女、そしてまた鳥獣に対しても己れを役立てんとする行為において最高の形で顕現なさっておられます。理想主義に燃え、迷える者に希望を、疲れし者には力を、暗闇にいる者に光を与えんと努力する者の生活にあなたが顕現しておられると理解しております。
  私どもは幾世紀にもわたって忘れ去られてきた摂理---霊眼を開き霊耳をもって聞き霊力の働きかけに素直にしたがって霊的感受性を鼓舞された少数の者のみが知ることを得た霊的法則を明かすべく努めております。それを実践することがあなたへの理解を、宇宙についての理解を、そして全人類についての理解を深めることになる、そうした理法を教え、そこに自己の霊性を高めひいてはそれが同胞の霊性を高めることになり、かくして共にあなたのもとへ少しでも近づかしめる手掛かりを見出すことになるよう願っております。
 その仕事のために私どもは、同じく霊界にあって一日も早く地上へ新しい秩序をもたらし、新しい世紀を招来せんとして、あらゆる民族、あらゆる教義、あらゆる国家の人間とも協力する上で吾々と同じ立場をとる無数の霊に呼びがけております。これこそが私どもの祈り---心から、魂の奥底から湧きでる願いであるとともに、可能なかぎり人のために己れを役立てることによってそれを実現せんとする祈りでもございます。その目標へ向けて私どもは真摯なる気持で自信をもって邁進いたします。あなたを味方とするかぎり決して挫折はないと信じるが故にほかなりません。なぜならば、あなたの力は、私どもの努力を必要とする場において、常に支え、守り、導き、援助し、指示してくださるからでございます。

   『シルバーバーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.5-7

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 4-m (シルバー・バーチの閉会の祈り) -8-

 いつもながら私は、ささやかなる勤めを可能ならしめる温かき愛を得て、宇宙の大霊に深い感謝の念を覚えつつ、この場をあとにいたします。この仕事を開始した当初、私どもは多難な条件のもとで何とか推進するために強烈なる祈念と真剣なる誓願をもって臨みました。今その努力が実りつつあることを私どもはこの上なくうれしく存じます。
 私たちすべての者に存在をお与えくださり、神性とその属性のすべてを宿らせ給いし神よ、どうかこののちも、私どものためにでなく真理のために、そしてその真理をぜひとも必要としている人々のために、より一層の成功を得させ給わんことを。世界各地で行われておりますこの会と同じ交霊会において、そこがあなたの愛を知る機縁となるべく、どうかあなたの霊の御力をこの幾層倍にも顕現なされたく、お祈り申し上げます。
 あなたの子等が自分自身の中にあなたを見出し、それを生活の中にて発現せんとの決意に燃え、怖れも悲劇も争いもなく、あなたの豊かな恵みを享受できる世の中において、お互いがお互いのために努力し助け合い、平和と調和と一致協力のもとに生きつつ、あなたの御心を体現していくことになるよう、切にお祈り申し上げます。

     『シルバーバーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.8


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 4-n (交霊会におけるシルバー・バーチの開会の祈り =9=)

 神よ、いつの時代にも霊覚着たちは地上世界の彼方に存在する霊的世界を垣間見ておりました。ある者は霊視状態において、ある者は入神の境地において、そして又ある者は夢の中においてそれを捉え、あなたの無限なる壮厳さと神々しき壮麗さの幾ばくかを認識したのでした。不意の霊カのほとばしりによる啓示を得て彼らはこれぞ真理なり---全宇宙を支配する永遠にして不変・不動の摂理であると公言したのでした。
 今私どもは彼らと同じ仕事にたずさわっているところでございます。すなわちあなたについての真理を広め、子等があなたについて抱いてきた名誉毀損ともいうべき誤った認識を正すことでございます。これまでのあなたは神として当然のことであるごとく憎しみと嫉妬心と復讐心と差別心を有するものとされてきました。私どもはそれに代わってあなたの有るがままの姿---愛と叡智と慈悲をもって支配する自然法則の背後に控える無限なる知性として説いております。
 私どもは地上の人間一人ひとりに宿るあなたの神的属性に目を向けさせております。そしてあなたの神威が存分に発揮されるにはいかなる生き方をすべきかを説こうと努めているものでございます。そうすることによって子等もあなたの存在に気づき、真の自分自身に目覚め、さらにはあなたの摂理の行使者として、彼らを使用せんとして待機する愛する人々ならびに高級界の天使の存在を知ることでございましょう。
 私どもはすべての人類を愛と連帯感を絆として一体であらしめたいと望んでおります。そうすることによって協調関係をいっそう深め、利己主義と強欲と金銭欲から生まれる邪悪のすべてを地上から一掃することができましょう。そして、それに代ってあなたの摂理についての知識を基盤とした地上天国を築かせたいのです。その完成の暁には人類は平和の中に生き、すべての芸術が花開き、愛念が満ちあふれ、すべての者が善意と寛容心と同情心を発揮し合うことでしょう。地上を醜くしている悪徳が姿を消し、光明がすみずみまで行きわたることでしょう。
 ここに、己を役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

  『シルバーバーチの霊訓 (6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.8-9

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 4-o (祈りはどのようにして霊界へ届くか)

 この問題も祈りの動機と祈る人の霊格によります。ご承知のとおり宇宙はすみからすみまで法則によって支配されており、偶然とか奇跡とかは絶対に起こりません。もしもその祈りが利己心から発したものであれば、それはそのままその人の霊格を示すもので、そんな人の祈りで病気が治るものでないことは言うまでもありません。ですが、自分を忘れ、ひたすら救ってあげたいという真情から出たものであれば、それはその人の霊格が高いことを意味し、それほどの人の祈りは高級神霊界にも届きますし、自動的に治療効果を生む条件を作り出す力も具わっています。要するに祈る人の霊格によって決まることです。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, p.46


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 4-p (交霊会でのシルバー・バーチの祈り) -10-

 神よ。私たちは到達しうるかぎりの高く尊く清きものとの調和を求めて祈りを捧げるものです。私たちはあなたの中に完全なる愛と叡智の精髄と、宇宙の全生命活動を支配する永遠不滅の大精神の存在を確信いたしております。小さき人間の精神ではあなたのすべてを捉らえることはできませぬ。それゆえに人間が抱くあなたについての概念は、ことごとく真理の全体像のおぼろげな反映にすぎないのでございます。
 しかし同時に私たちは、全宇宙をその愛の中に抱擁し、規律と不変性をもって、過失も欠陥も汚損もなく統括し支配している絶対的摂理の驚異を理解することはできます。すなわち、あなたはその叡智によって全存在の一つ一つの側面、活動の一つ一つが管理され、すべてが一つのリズムのある、調和のとれた宇宙機構の中で滞ることなく流動しております。その中にあってあなたの子等はそれぞれの定められた位置を有し、全体に対して必須にして不可欠の役割を演じているのでございます。
 その一つ一つの小さな火花があなたの巨大なる炎の存在に貢献いたしております。私どもは各自に潜在する未熟なる霊の萌芽がその始源であるあなたとのつながりに気づき、永遠に切れることのない霊的絆で結ばれていることを悟ることによって、その霊性を存分に発揮することになるよう指導いたしております。
 私たちの仕事は、人間がいま発揮している資質よりさらに精妙なる霊的資質を発揮することによって、今は手の届かない高所を目指し、待ちうける宝の宝庫へ一歩でも近づこうとする向上心を鼓舞すべく、力と知識と叡智の源であるあなたの存在を説くことにあります。
 宇宙には、資格ある者なら自由にそして存分にわがものとすることのできる、莫大な霊的宝庫が存在いたします。そして地上よりはるかに広大な生活の場における新たな体験から生み出された叡智によって、地上世界に光明と豊かさをもたらさんとしている進化せる先輩霊もまた無数に存在いたします。その活動の障害となるのは偏見と歪曲、迷信と無知、そして人間生活の暗黒面に所属するものすべてが蓄積せるものです。
 私たちは地上世界を知識の照明によって満たし、人間がつねに真理によって導かれ、あなたの愛の存在に気づいてくれることを望んでやみませぬ。そうすることがあなたからの豊かな遣産と崇高なる宿命を悟らせ、手にした真理に則った生活を送らせてあげるゆえんとなるからに他なりませぬ。
 ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

   『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.15-16


     *****


 4-q (神が全生命に宿っているのに特に祈る必要はあるのか)

  その方が祈りたくないと思われるのなら、別に祈る必要はないのです。私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないものを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列にすぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです。祈りには目的があります。魂の開発を促進するという霊的な目的です。ただし、だからといって祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。
 祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にするための刺戟---これから訪れるさまざまな闘いに打ち克つために守りを固める手段です。何に向かって祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方にかかわってくる問題です。
 言いかえれば、祈りとは神性の一かけらである自分がその始源とのいっそう緊密なつながりを求めるための手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めたとき、その時こそ真の自我を見出したことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.205


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 4-r (祈り求めたものはすでに授けられたのと同然か)
    −「汝が祈り求めるものは
       すでに授かりたるも同然と信ぜよ。
       しからば汝に与えられん」
       というイエスのことばに疑問を抱くある女性に対して−


 この方も、ご自分の理性にそぐわないことはなさらないことです。祈りたい気拝があれば祈ればよろしい。祈る気になれないのでしたら無理して祈ることはありません。イエスが述べたとされている言葉が真実だと思われれば、その言葉に従われることです。真実とは思えなかったら打っちゃればよろしい。神からの大切な贈りものであるご自分の理性を使って日常生活における考え、言葉、行為を規制し、ご自分が気にくわないもの、ご自分の知性が侮蔑されるように思えるものを宗教観、哲学観から取り除いていけばよいのです。私にはそれ以上のことは申し上げられません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.206


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 4-s (シルバーバーチの祈り) -11-

 ああ神よ。私たちはあなたの尊厳、あなたの神性、無限なる宇宙にくまなく行きわたるあなたの絶対的摂理を説き明かさんと欲し、もどかしくも、それに相応しき言葉を求めております。
 私たちは、心を恐怖によって満たされ精神を不安によって曇らされている善男善女が何とかあなたへ顔を向け、あなたを見出し、万事が佳きに計らわれていること、あなたの御心のままにて全てが佳しとの確信を得てくれることを期待して、霊力の豊かな宝のいくつかを明かさんとしているところでございます。
 その目的の一環として私どもは、これまで永きにわたってあなたの子等にあなたのあるがままの姿---完璧に機能している摂理、しくじることも弱まることもない摂理、過ちを犯すことのない摂理としてのあなたを拝することを妨げてきた虚偽と誤謬と無知と誤解のすべてを取り払わんとしております。
 私たちは宇宙には生物と無生物とを問わず全ての存在に対して、また全ての事態に対して備えができているものと観ております。あなたから隠しおおせるものは何一つございません。神秘も謎もございません。あなたは全てをしろしめし、全てがあなたの摂理の支配下にございます。
 それゆえに私どもは、その摂理---これまで無窮の過去より存在し、これより未来永劫に存在し続ける摂理を指向するのでございます。子等が生活をその摂理に調和させ、すべての暗黒、すべての邪悪、すべての混沌と悲劇とが消滅し、代わって光明が永遠に輝きわたることでございましょう。
 さらに又、愛に死はないこと、生命は永遠であること、墓場は愛の絆にて結ばれし者を分け隔てることはできぬこと、霊力がその本来の威力を発揮したときは、いかなる障害も乗り切り、あらゆる障壁を突き破って、愛が再び結ばれるものであることを証明してみせることも私どもの仕事でございます。
 私たちは、人間が進化を遂げ、果たすべく運命づけられている己れの役割に耐えうる素質を身につけた暁に活用されることを待っているその霊力の豊かさ、無尽蔵の本性をもつ無限なる霊の存在を明かさんと欲しているものでございます。
 ここに、己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げ奉ります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.207-209


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 4-t (シルバー・バーチの交霊会開会の祈り =12=)

 神よ。みずからに似せて私たちを造りたまい、みずからの神性の一部を賦与なされし大霊よ。私たちは御身と私たち、そして私たち相互の間に存在する一体関係をいっそう緊密に、そして強くせんと努力しているところでございます。
 これまでに私たちに得させてくださったものすべて、かたじけなくもお与えくださった叡智のすべて、啓示してくださった無限なる目的への確信のすべてに対して、私たちは感謝の意を表し、同時に、これ以後もさらに大いなる理解力を受けるにふさわしき存在となれるよう導きたまわんことを祈るものでございます。
 私たちは、これまであまりに永きにわたって御身をおぼろげに見つめ、御身の本性と意図を見誤り、御身の無限なる機構の中における私たちの位置について誤解しておりました。しかし今ようやく私たちも、御身の永遠の創造活動に参加する測り知れない栄誉を担っていることを知るところとなりました。その知識へ私たちをお導きくださり、御身について、私たち自身について、そして私たちの置かれている驚異に満ちた宇宙について、いっそう包括的な理解を得させてくださったのは御身の愛にほかなりません。
 今や私たちは御身と永遠につながっていること、地上にあっても、あるいは他界後も、御身との霊的な絆が切れることは絶対にないことを理解いたしております。それゆえに私たちは、いかなる時も御身の視界の範囲にあります。いずこにいても御身の摂理のもとにあります。御身がいつでも私たちにお近づきになられるごとく、私たちもいつでも御身に近づけるのでございます。
 しかし、子等の中には自分が永久に忘れ去られたと思い込んでいる者が大勢おります。その者たちを導き、慰め、心の支えとなり、病を癒やし、道案内となる御身の霊的恩寵の運び役となる栄誉を担った者が、これまでに数多くおりました。
 私たちは死のベールを隔てた双方に存在するその先駆者たちの労苦に対し、また数々の障害を克服してくれた人たちに対し、そして又、今なお霊力の地上へのいっそうの導入に励んでくださっている同志に対して、深甚なる感謝の意を表明するものでございます。
 どうか私たちの言葉のすべてが常に、これまでに啓示していただいた摂理に適っておりますように。また本日の交霊会によって御身に通じる道を一歩でも前進したことを知ることができますように。
 ここに常に己れを役立てることをのみ願うインディアンの祈りを捧げます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp. 2-4


     *****


 4-u (交霊会でのシルバーバーチの祈りから =13=)

 内部に宿るあなたの霊こそ、私たちが何とかして発揮させてあげたいと願っているものでございます。それを発揮することによって初めて人間は神性をもつ存在としての限りない美質、豊かさ、光輝、威厳、壮大さ、気高さを真にわがものとすることが出来るのでございます。
 そうした資質を自覚することによって人間は自我意識を高め、自分を物的なものに縛りつけている拘束物の幾つかを切断し、未開発の精神と霊の豊かな遺産を手にすることが出来るのでございます。かくしてインスピレーションと叡智と啓示と真理への窓を開くことになります。それらは高き世界からの恩寵としてこれまでも脈々と流れているのであり、人間の受容力に応じて受け入れられているものでございます。
 その流れは常に壮大にして崇高なる霊力を伴っております。霊力こそ生命の源泉であり、強力にして生命力にあふれ、病の人には健康を、衰弱せる人には元気を、迷える人には導きを、そして今なお暗闇の中にいる人には光明をもたらすのでございます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、p.84


     *****


 4-v  (真実の祈りは心の奥底から油然として湧き出るもの)

 真実の祈りは心の奥底から油然として湧き出るものです。神に挨拶するための機械的な口上手段ではありません。スピリチュアリストをもって任じている人も、もし日常生活においてその霊的真理の意味を生かすような生き方をしていなければ、何の徳にもなりません。私たちはラベルは崇めません。大切なのは、自分はこういう者ですとみずから称していることではなくて、ふだん行っている行為です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.117-118

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 4-w (シルバー・バーチの交霊会開会の祈り =14=)

 開会の祈り(Invocation)

 これより霊的世界に属する摂理の一端を啓示させていただくに当たり、その成功を宇宙の大霊にお祈りいたします。
 大霊について、また大霊と宇宙間の全生命現象およびそこに住まう大霊の子等とのつながりについて、より明確な理解を得さしめることができますよう、お祈りいたします。
 幾世紀もの永きにわたって大霊はあまりにも誤解され、小さく見くびられ、制約されてまいりました。そこで私どもは完全なる法則の働きとしての大霊の其の姿を啓示せんとしているところでございます。
 大霊はすべての生命現象の背後に存在するものでございます。宇宙間に存在するものはすべて大霊の活力と栄養を得ているからこそ存在できているのでございます。
 進化のあらゆる段階にある創造物がその摂理に絶対的に従っております。雄大なるものも慎ましきものも、強きものも弱きものも、小鳥も花も、木も風も、海も山も、丘も谷も、晴天の日も雨の日も、嵐も稲妻も、およそ大霊の表現でないものは無いのでございます。
 私どもはすべてが大霊の霊的イメージに似せて創造されていること、その存在を通して大霊の神性が表現されていること、動き呼吸し生きていられるのは大霊が内部に宿っているからであり、また大霊の内部に存在しているからであることを啓示せんといたしております。
 その親と子の関係に割って入れる者は誰一人いません。なぜなら、無限なるその貯蔵庫に納められている全インスピレーション、全真理、全叡智、全摂理、全知識は、子等が向上心と謙虚さと奉仕的精神をもってその道具となることを望みさえすれば、誰にでも手にすることができるものだからです。
 また私どもは人間の魂の中に例外なく潜在している偉大さ、誤解によって閉じ込められ、使用されることを待ち望んでいる強大な力、日常生活の中で身体を通して勢いよく顕現して霊的高揚を覚えさせる力をお見せしたく思っております。すべての子等が充実した生活、美にあふれた生活、地上に生をうけた目的を得心した生活を送り、望みさえすれば得られる地上ならではの豊かさと愉しさと利点を手にしてほしく思うのでございます。
 要するに私どもは大霊を子等に近づけ、また子等を大霊に近づけ、立ちはだかる障害を克服し制約と限界を無くして、子等が大霊の存在を知り仕事の中でその御心を顕現して行けるようにしてあげることを目的としているのでございます。
 ここに、ひたすらに人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

     『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 208-210

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 4-x (シルバー・バーチの交霊会閉会・感謝の祈り =15=)

 感謝の祈り(Benediction)

 私は、たとえ声は聞こえなくても、たとえ姿は見えず手に触れることはできなくても、私たちが常にお側にいることを皆さんに知っていただきたいと思います。
 愛するが故に私どもは皆さんのまわりに、またすぐお側に待機しており、その愛が、皆さんにそして皆さんを通して愛を必要とする人々に手を差しのべることを可能にしてくれるのです。
 か弱い人たち、元気を失くした人たち、路傍に倒れている人たち、社会の落伍者たち、いずこへ向うべきかを知らぬまま人生に疲れ果てている人たち、もはや俗世の宗教に安らぎを見出すことができず、しかもなお真実を求めている人たち、魂は自由を求めつつも教義とドグマと、対立する宗派の教えによってがんじがらめにされている人たち―こうした人たちに愛の手を差しのべることができるのでございます。
 私どもの教える真理は永遠にして無限なる大霊の真理です。一人のものではなく、すべての人に分け与えられるべきものです。全人類をその温かき抱擁の中に収めてしまうのです。
 願わくば皆さん方のすぐ身のまわりに存在する強大な力、休みなく地上へ注がれている大いなる愛、皆さんを通して顕現することを求めているインスピレーション、啓示されることを待ちわびている真理、地上を啓発せんとしている叡智の存在に気づかれんことを。
 また願わくば人のために役立つ仕事を通してみずからを強大なる霊力に近づけ、その莫大なエネルギー、万物の背後に控える大霊と一体となり、その摂理に順応し、その知識を豊かに体得することによって、大霊の道具として、子等のために役立たれんことを。
 神の祝福のあらんことを。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 210-211

     *****


 4-y (真摯な祈りが何の反応もなく見過ごされることは絶対にない)

 ― 祈りの効用について説明してください。

 知識の領域を少しでも広めようとする努力、病める人を一人でも多く治してあげたいと思う心、死別の悲しみに暮れる人をもっと慰めてあげたいと思う気持、人生に疲れた人があなたという灯台を見つけられるように一層の輝きを増したいという願い― いずれも私たちがたずさわっている仕事なのですが― こうした真摯な祈りが何の反応もなく見過ごされることは絶対にありません。
 あなたは一人ぼっちではないのです。大軍の一員なのです。われわれの背後、見えざる次元には、たぶんあなたには想像もできないほど進化した霊の大集団が控えているのです。あなたも私も、そして私たちと志を同じくする者は、いつでもその援助を授かることができるのです。
 唯一の制約条件は、それを受け入れ吸収する能力です。霊的資質を培うほど、それだけ多くの美しさと輝きと壮大さと高潔さと光沢を身につけることになります。それが魂を刺戟して、地上への誕生とともに賜わった遺産である内部の神性をますます発現したいと願う気持ちにさせるのです。
 うなだれてはいけません。教会や礼拝堂や寺院よりも、あなた方の方がはるかに大きな仕事ができるのです。皆さんは霊力を発揮することができます。そういう建造物にはそれができません。逆に霊の出口を閉じ、外へ出られなくしている不毛の神学の方を後生大事にしております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 112-113

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 4-z (祈りは自然の摂理よりも大霊に向けられるべきである)

 ― (サークルのメンバー)祈りの対象は自然の摂理であるべきでしょうか。

 いえ、対象は内にも外にも存在する大霊であるべきです。その大いなる霊力とのより緊密な関係を築くべく、さきほど述べたような真摯な願望と精神統一を通して努力すべきです。より多くの啓示、より多くの知識、より多くの叡智、より深い理解を求めての祈りであるべきです。そうした祈りは必ずや聞き届けられます。なぜなら、それを祈願するというその事実が、内部の神性の発現を促しているからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 113-114

     *****


 4-za (欲しがるのではない真摯な祈りは必ず聞き届けられる)

 ― あることで霊界からの働きかけがあったことを確信することがあるのですが、こちらから別に祈ったわけではありません。どうやってわれわれの必要性に気づいてくれるのでしょうか。

 真摯な祈りは必ずその標的を見出します。皆さんが心から祈る時―“祈る”のであって何かを“欲しがる”のではありません― その祈りの念は必ず聞き届けられます。霊視能力をお持ちの方であれば、皆さんの周囲に何らかの絆、親近感、および特殊な分野での共通の奉仕的精神をもつ霊がいつも待機しているのが分かります。祈りの念がその霊をいっそう身近なものにするのです。
 磁気力にも似た吸引力の法則が働くのです。祈ることによって霊がそれに応えて働きかけるかけ橋ができあがるのです。私がいつも取り越し苦労はお止めなさいと申し上げるのはそのためです。心配の念はその人の周囲の物的ならびに霊的雰囲気を乱し、私たちによる援助が届けにくくなるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 114-115

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 4-zb (あなたに必要なものはすべて神によって知られている)

  ― 霊の方では人間が神のお助けを祈るまで待つのでしょうか。それとも祈る祈らないに関係なく、放っておくべき時は放っておき、援助すべき時は援助するのでしょうか。

 大自然の摂理の働きは完ぺきですから、その機構の中にあって誰一人、何一つ忘れ去られることは有りえないのです。すべての存在を包摂するように完全な摂理が行きわたっているのです。何一つ、誰一人その外にはみ出ているものはありません。あなたが神に見落とされるということは有りえないのです。どこにいても神の管理下にあり、すべてを包摂する自然の摂理の活動範囲の中にあります。
 ということは、あなたに必要なものはすべて知れているということです。祈ることによって受ける援助は、その時点までに到達した精神的ならびに霊的発達段階に応じたものとなります。
 ただ祈り方についてこちらから注文させていただくとすれば、黙祷よりも声に出した方が、その人が本当に目指しているものは何かが明確になるという利点があります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 115

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 4-zc (祈りで援助を受ける能力は神の存在を信じる信じないには関係ない)

  ― 祈るどころではなくて絶望のドン底に沈んでいるような人はどうなるのでしょうか。神なんかいるものかと思っている場合は援助は届けられないのでしょうか。

 人間が神なんかいるものかと思ったからとて、別にどうということはありません。それが神を困らせることはありません。

  ― そういう人にも救いの手は差しのべられるのでしょうか。いろんな事情から祈ることができない人、あるいは神が信じられない人がいるとします。そしてその人が今苦しい境遇にあり、救いの手を必要としています。こういう場合はどうなりますか。

 援助を受ける能力は神の存在を信じる信じないには関係ありません。その段階での精神的ならびに霊的発達程度によります。それが受け入れるものの中身を決定します。それが最もふさわしいということです。それも原因と結果の関係であり、自然のきまりです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1988、p. 116

     *****


 4-zd (交霊会で録音されたシルバー・バーチの祈り =16=)

 訳者前置き―本章(8章 最後の晩餐) はシルバーバーチの交霊会を録音したカセットテープSilver Birch Speaks<シルバーバーチは語る>の全訳である。原書では部分的に分散して紹介されているが、本書ではまとめて全部を紹介することにした。シルバーバーチの交霊会は初期の頃は速記のみで、その後は速記と録音とによってすべて保存されているが、市販用にカセットテープに収められたのは、これまでのところこれが唯一である。

 皆さまに大霊の祝福のあらんことを。
 本日もいつもの順序で会を進めることとし、悩みごとや厄介なこと、心配ごとや不安は取りあえず脇へ置いていただきましょう。そしてお互いが可能なかぎり和気あいあいのうちに最高のものを求めんとする願望において一つとなるよう努力いたしましょう。(次第に開会の祈りに入る)
 無限なる愛と叡智の根源である大霊を超えるものは誰一人、何一つ存在し得ません。その大霊こそが、私たちの住まうこの果てしなき宇宙の責任者であらせられ、その無限なる知性が、巨大と微細とを問わず、また複雑と単純とを問わず、ありとあらゆる存在を支配し規制する摂理のすべてを創案し維持しておられます。それが、およそ例外というものを知らない不変不動の法則にしたがって一糸乱れることなく働いているのでございます。
 私たちはその崇高なる力に深甚なる敬意を表するものでございます。その力が驚異的真理を啓示し、それが私たちの精神の領域を広げ、自分とは一体誰なのか、また何者なのかについてのより大きな理解を与え、さらには、われわれのすべてをその懐に抱きかつ支配する崇高なる力について一層明瞭なる心象を抱かせてくれるところとなりました。その驚異的機構の中にあっては、誰一人、何一つ、見落とされることも忘れ去られることも、あるいは無視されることもございません。いずこにあろうと、ありとあらゆる存在が扶養と供給を受けるよう配慮されているのでございます。
 同時に私どもは、いついかなる時も私たちの背後には強大なる高級霊団が控えていることも認識いたしております。その望むところはただ一つ、私たちのために力を貸し、代わって私たちが恵まれぬ人たちのために力を貸すようになる、ということでござまいす。私たちはこれまで多大の援助を受け、慰めを与えられ、導きを得てきたからには、こんどは代わって私たちが、授かった才能のすべてを駆使して、死別の悲しみの中にある人には慰めを、病の苦しみの中にある人には癒やしを、悩める人には導きを、人生に疲れた人には力を、道を見失える人には道しるべを与え、彼らを取り巻く暗闇に光輝あふれる真理の光明をもたらしてあげる心の用意を常に整えさせ給わんことを。
 ここに、常に己れを役立てることをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 194-197

     *****


 4-ze (交霊会で録音されたシルバー・バーチの閉会の祈り =17=)

 私のすべての同志に対して、私からの愛の気持をお届けしたいと思います。その方たちの多くはまだ一度もお会いしたことがございません。しかし皆さんからお寄せくださる愛と好意の念を私はいつも有難く思い、それがあればこそこうして地上での仕事ができているという事実を知っていただきたく思います。
 これは容易ならざる仕事です。私はこれを一つの素晴らしい挑戦としてお引き受けしたのです。地上は冷ややかな世界です。荒涼として陰うつで暗い世界です。しかし、その中にあって私たちはそこここに愛と好意と友情の炉辺を見出し、そこで魂を温め、そうした地上の灯台から放たれる光輝を見る楽しさを味わうことができております。
 また新参の方々には“導きを祈り求めなさい。知識を祈り求めなさい。真理を祈り求めなさい。かならずや授かります”と申し上げたいと思います。昔から“求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれん”と言われておりますが、これはまさしく至言です。
 それではこれを(カセットで)お聞きくださる方々、ならびに本日ここにおいでの皆さまにも、つねに大霊の祝福のあらんことを。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 215-216

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 4-zf (交霊会におけるシルバー・バーチの祈り =18=)

 神よ。あなたは全生命の背後の法則におわします。太陽の輝きはあなたの微笑です。天より降りそそぐ雨滴はあなたの涙です。夜空にきらめく星はあなたの眼差しです。夜の帷はあなたのマントです。そして人のためを思いやる心はあなたの愛にほかなりません。
 あなたの霊は全存在に内在しております。森羅万象はあなたの霊の顕現にほかなりません。美しく咲き乱れる花となり、さえずる小鳥の声となって顕現しておられます。あなたへの思いを抱く者ならば、あなたは誰にでも理解できるのでございます。
 ああ、神よ。全宇宙を法則によって知ろしめされるあなたは、無窮の過去より存在し、無窮の未来にわたって存在いたします。これまでにあなたは霊の目をもって見る者に真実の姿を顕示され、愛を教え叡智を説き、理解しうる範囲においてご計画を披露してまいられました。地上天国を築かんと願う者たちの魂を鼓舞し、霊力が生み出す勇気をもってあなたの進化の仕事に協力するよう導かれました。
 また、あなたの使者として私たちを地上へ遣わされ、地上の子等の魂を解放し、あなたがいかに身近な存在であるかを認識させるために、新たな光明、新たな知識、新たな真理、新たな叡智をもたらすべく、高揚と慰安と教化と啓示の仕事を託されました。
 願わくはこのサークルをあなたの霊力によって満たし、ここを聖殿としてあなたの真理の輝きを流入せしめ、地上の暗き場所を明るく照らし、平和と幸せと知識と叡智をもたらすことができますように。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 2-3

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 4-zg (何が一番よいかを判断できるのは霊界の方が上である)

 困ったことに人間は自分に都合のよいことが都合のよいタイミングで生じてくれることを望みます。しかし私たちはそういう期待にはお応えしかねます。私たちには私たちなりのタイミングがあります。皆さんよりは先見の明が開けておりますから、皆さんにとってその時点でどうなるのが一ばん良いかの判断は、皆さん自身よりは私たちの方が上です。地上の人間の祈りを聞いていると、もしもその通りに叶えさせてあげたら大変なことになりかねないことがたくさんあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.25-26

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 4-zh (シルバー・バーチの祈り=19= すべての無知を駆逐するために)

 ああ、神よ。あなたは無限なる摂理におわします。無限なる叡智におわします。無限なる愛におわします。無限なる知識におわします。無限なるインスピレーションにおわします。
 私たちがあなたへの讃仰の祈りを捧げるのは、あなたが全世界の中心にあらせられるからにほかなりませぬ。生命はあなたと共にあり、あなた無くして何一つ存在できませぬ。なぜなら、あなたは全生命にみなぎり、すべてを支え、すべてを包摂しておられるからでございます。あなたは私たち人間的生命のすべてに神性の一部を賦与され、それが地上の民族のすべてをあなたと一体ならしめていると理解いたしております。
 大いなる神よ、それゆえに私たちはあなたへの祈りにおいて決して原罪を恥じて恐れおののきつつ膝を屈することなどはいたしませぬ。これまでに授かった知識に照らし、私たちもあなたの一部であり、私たちの存在なくしてあなたも存しえぬとの理解のもとに祈ります。あなたの子たる私たちすべてにあなたの霊性が宿り、それが常により高い顕現を求め、私たちを通して御心の成就を求めているとの理解のもとに、浩然の気概をもってあなたの御前に立ちます。
 ああ、神よ。地上の子等に霊的摂理を教える機会をお与え下さったことに、私たちは深甚なる感謝を捧げます。その摂理を手にした子等の援助を得て私どもは、あなたの壮大な計画を啓示することによってあなたと物質の世界に貢献し、その知識が地上の全民族に地上生活の目的を理解せしめ、すべての無知を駆逐することになるのでございます。
 あなたの力がすべての弱みを補強します。あなたの光がすべての暗闇を照らします。そしてすべての不幸と悲劇が喜びと幸せによって置き代えられることになるのでございます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.29-30

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 4-zi (一つとして同じでない祈りの言葉 シルバー・バーチの祈り=20=)

 大いなる神よ。無限なるあなたの奇しき摂理が私たちすべての存在を維持せしめております。あなたの愛が私たちのすべてを包摂しております。あなたの叡智が私たちのすべてを導いております。あなたの霊力が私たちのすべてを支えております。あなたの知識がよろめきがちな私たちの足もとを照らしてくださっております。
 あなたについて、また霊の世界と、それよりさらに小さき物質の世界に顕現されているあなたの御姿についてこれまで啓示してくださった知識に対して、私たちは深く感謝申し上げます。あなたの完ぺきなる摂理、すべてを支え、すべてを包摂し、何一つ落度もなく、片時も休むこともなく、全大宇宙とその中での生命活動の一つ一つに配剤されている完ぺきな律動に感謝の念を捧げます。
 ああ、神よ。忝なくもあなたは、いつの時代にも御身について時代相応の啓示をお授けくださっております。そのための使者として、あなたによって物質圏の世界へ派遣され、子等の霊性を鼓舞し、霊的真理へ目を閃かしめんと努力してきた有志の僕に対して、深甚なる感謝を捧げます。あなたの意図されている生命の豊かさを存分に発揮した生活を送るには、霊的真理の理解をおいて他に道はございません。
 ああ、神よ。あなたの叡智の無限性、あなたの知識の崇高性、あなたの真理の永遠性を理解できる者はおりません。地球の全時代の叡智を集めても、あなたには敵いません。いかなる人物にもあなたの威力は理解できません。私たちを生かしめ機能せしめている内部の霊性は人間の知性を超えたものであり、その大きさも、その深さも計ることはできません。
 あなたから授かった霊的生命に感謝いたします。それが私たち子等を互いに結びつけ、一個の霊的家族としております。霊と霊、心と心、精神と精神、愛と愛のつながりにおいて、死の淵さえ超えて一体ならしめているのでございます。
 また私たちは、有難くもかつて地上を旅した霊たちと幾重にもつながっており、さらにその奥にはあなたを中心とする、物質の束縛から完全に解放された神庁の大組織が存在しているのでございます。
 大いなる神よ。私たちはあなたの霊力の恩寵の豊かさを身をもって感じ、あなたとのつながりが永遠であるからには、あなたの叡智、あなたの霊力を少しでも多くいただくために、みずからの霊性を少しでも高めんとして祈るものです。
 この祈りが霊的なものへの意識を維持せしめ、永遠の霊的真理の理解を助け、より一層あなたの御心に適った生き方を可能にするのでございます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.41-43

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 4-zj (一つとして同じでないシルバー・バーチの祈り =21=)

 ああ、大いなる神よ。あなたは生命の息吹きにおわします。全生命の背後の摂理におわします。森羅万象の大中心におわします。万事を賢明に計らわれる大霊におわします。
 あなたは完全なる愛にあらせられ、完全なる叡智にあらせられ、完全なる公正にあらせられます。この全大宇宙として顕現なされた完全なる摂理にあらせられます。
 過去においてもあなたは、物質の靄にさえぎられることなく霊的波長を捉えることのできた者に、御身についての啓示を与え給いました。物質の次元を突き抜けて霊の次元へと高揚できる者に、あなたはその大いなる愛を顕現なさっておられます。
 あなたは今の時代に霊の道具を絶えず感化なさっておられるごとくに、太古においてもその時代にふさわしい賢者を感化なされました。あなたはいつの時代にもふんだんにインスピレーションを啓示され、人間の心を通してあなたの愛を顕現なさらんとしておられます。それは、ひとえに、子等にとってあなたがいかに身近な存在であるかを理解せしめんとする配慮にほかなりませぬ。
 ああ、神よ。あなたはこの全大宇宙を造られた大霊におわします。極大なるものの中の極大、極小なるものの中の極小を創造なされました。そして物質の世界に人類なる存在を生みつけられ、その一人ひとりにあなたの霊性の一部を賦与されました。それはあなたとの不変・絶対の絆であり、人間が地上生活のいかなる困難をも克服する力を有することを意味します。
 またあなたは、内在するその霊性を顕現させ地上におけるあなたの計画を促進する手助けをさせるために、人間にもあなたの創造活動に参加する能力をお授けになりました。
 さらにあなたは、地上の道具としての人間があなたの愛、あなたの叡智、あなたの力、あなたの意図を受けとめんと努力する時は、いずこであろうとあなたの使者をつかわして守護と指導に当たらしめ、鼓舞し高揚して、あなたの摂理をいっそう正しく地上に行きわたらしめんとなさいます。
 ここに集える私どもは、ここを拠点として絶望の淵にいる人、悲しみに暮れる人には新たなる希望と慰めを見出させ、人生に疲れた人には新たな力を見出させ、生きる意欲を失った人には新たな憧れを抱かせ、涙を浮かべている人には生命に死はなく死後も永遠に生き続けるとの知識に喜びを見出させてあげることにより、あなたのお役に立ちたいと願う者たちでございます。
 願わくは、ああ神よ、地上の子等を少しでもあなたに近づけるためにみずから物質界へ降りて活躍する者と、霊の世界より働きかけている者との協力によって、あなたの愛が地上に根づくのを妨げんとする諸悪のすべてを取り除かしめたまわんことを。
 ここに、他の同志とともに、あなたの子等に奉仕することによってあなたに奉仕せんとするインディアンの祈りを捧げます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.53-56

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 4-zk (一つとして同じでないシルバー・バーチの祈り =22=)

 ああ、真白き大霊よ。あなたの法則が全大宇宙を支えております。あなたは全生命の責任者におわします。あなたの創造なされたものだからでございます。物質の世界の子等にもあなたの神性をお授けになられました。
 あなたは子等をご自身に似せてお造りになられました。その魂にあなたの霊力を植えつけられ、それが子等を永遠にあなたと結びつけております。それは、子等も進化するにつれて、より一層あなたに似た存在となりうることを意味します。
 ああ、神よ。あなたは無窮の過去より全大宇宙を治め、無窮の未来にわたって絶対的な支配者におわします。なんとなれば、あなたは全生命の始原たる大霊にあらせられるからでございます。
 あなたは全存在を支え、生命の全側面に顕現しておられます。それは物質の世界であろうと、はるか高き次元の霊の世界であろうと、意識ある存在に例外はございません。
 このたび私たちはあなたのお召しにあずかり、あなたの使者として、地上へご意志をもたらし、ご計画を啓示し、それを実らせるべく派遣されました。
 私たちは物質の子等との協調活動の中において彼らがあなたを理解し、彼らみずからを理解し、憎み合いから生まれた組織を愛の組織に置きかえ、自己中心主義を互助の精神に置きかえ、戦争を止めさせて平和をもたらし、飢餓に終止符を打たせて、あなたがふんだんに用意されている恵みが平等に行きわたるようにと願っております。
 大いなる神よ。私たちは、片時とはいえ、こうして低き界層にて生活するあなたの子等と交わる時を得て、彼らとの協調的活動によってより大きな仕事を成し遂げ、悩める者を救い、暗闇の中にいる者に光明をもたらし、弱き者に力を与え、病める者を癒やし、人生の嵐の真っ只中にいる者に心の平静をもたらしてあげる仕事に勤しむことができることに深く感謝申し上げます。
 ここはまさに魂の安息所であり光明の聖殿にございます。かくのごとき場を得さしめたまいしことに、われわれは深く感謝し、この場を通じてご意志の一層の支配を行きわたらせるために、それを妨げる障害を取り除かんと努力いたす所存でございます。
 その目的のために私どもは祈り、刻苦し、地上の民に奉仕することによりあなたに奉仕せんと願うものです。
 ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.64-66

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 4-zl  (一つとして同じでないシルバー・バーチの祈り =23=)

 ああ、真白き大霊よ。あなたは全生命の始原にあらせられ、その中心におわします。あなたは全生命の支配者にあらせられます。なんとなれば、あなたは全生命の内部に存在したまい、あなたの法則が無限に展開する驚異的宇宙の生きとし生けるもの全てを維持し経輪しているからでございます。
 あなたの摂理は絶対にして、壮大なる現象の中の最も壮大なるものであろうと、些細なる出来事の中の最も些細なものであろうと、宇宙間に生じるもの全てをご存知であらせられます。なぜなら全てがあなたの摂理によって管理され、その摂理の働きでないものはないからでございます。
 ああ、神よ。あなたは物質の子等にご自身の神性の一部を賦与し給い、子等が常にあなたと結ばれ、かつ、進化と開発によりて次第にあなたに似た存在となることを可能ならしめられました。あなたは子等を物質の世界へ送られるに当たり、子等があなたと同じ神性を表現し、あなたの摂理を体現することによってあなたに奉仕する機会を用意なさいました。
 また、あなたは子等に自由意志を授け給い、かつまた、正しいことと間違ったこととを判断するための能力をお授けになりました。さらに子等がみずからの力で地上を天国となすための資質をお授けになっておられます。
 ああ、無窮の時を通じて全生命の王として君臨なされる大霊よ。あなたは無限なる叡智と公正と哀れみをもって、そして、そのいずれにもまして、無限なる愛をもって支配なされます。
 その実行のためにあなたは使者を遣わされ、地上の有志との協調体制のもとに、無用の苦しみと悩み、病と不調、罪悪と戦争、つまりは光明のあるべきところに暗黒をもたらし、安らぎのあるべきところに苦しみを生じさせ、豊かな恵みに浴すべきところに飢餓を招いている諸悪を一掃せしめんと意図されておられます。
 大いなる神よ。私どもは地上にあなたの王国を築かんと願う者との協力のもとに、みずからこしらえた魂の牢獄の中にいる人間が、みずから背負える重荷に屈することなく、首尾よくそこから脱し、暗闇の中ではなく光明の中で生きられるよう、あなたという太陽へ目を向けさせんと努力しているところでございます。
 その目的のために私たちはあなたに祈り、子等のために献身することによってあなたに献身せんとするものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 82-84

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 4-zm (一つとして同じでないシルバー・バーチの祈り =24=)

 ああ、真白き大霊よ。全生命はあなたを中心として巡り、物質の世界と霊の世界との区別なく、人間的存在のすべてがあなたの御胸に抱かれております。
 あなたは全存在の大中心におわします。なぜなら、あなたという存在はすなわち全生命の顕現にほかならないからでございます。あなたの霊が生命を賦与し、あなたは生命そのものであり、あなたゆえに生命が存在し、あなた無くしては何一つ存在しえぬのでございます。
 ああ神よ、あなたは全存在を維持しておられます。あなたの叡智が全存在を創造し、あなたの意図が全存在の形態となって顕現しております。あなたのご計画は顕幽の別を超えた全界層を通じて展開しつつ、次第にその実現へ向かっております。
 あなたは宇宙の大霊におわします。その大きさは、いかに崇高なる精神の持ち主にも、その全容を理解することはできませぬ。にもかかわらず、あなたは大なるものの中の極大なものの中に宿られると同時に、小さきものの中の極小のものの中にも宿りたまうのでございます。
 全大宇宙の中にあってあなたの認知なくして生ずるものは何一つございませぬ。なぜならあなたは摂理によって全生命を包摂し、それゆえにあなたはいずこにも存在したまい、全存在に行きわたっておられるからでございます。
 その摂理を少しでも多く顕現せしめんと願うあなたの僕たる私どもは、地上の有志との協力のもとに、物質の世界と霊の世界とのかけ橋をより強化し、より多くの使者が地上へ戻り、あなたからの愛と美と安らぎのメッセージを届けんとする大事業のために、あなたの霊力を賜らんことを祈るものでございます。
 そのかけ橋を渡って地上へ戻るのは、あなたの直属の進化せる天使のみではございません。いまだに地上圏に属する、巡礼の旅の途上にある者も数多くこれに参加しております。
 地上の人間の思いが、かつてあなたの愛と霊力を示さんとして地上へ降りた一個の霊へ向けられるこの時期(クリスマス)にあたり、私どもは地上の子らがあなたの霊が彼らの内部にも存在し、それが彼らの世界の全障害を取り除くことを可能ならしめることを改めて認識せしめんと願うものです。
 彼らがあなたの御意志を生活と行為の中において発現しようと心掛ければ、きっとそれが叶えられることでございましょう。
 ここに、人のために役立つことをのみ願うあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 89-91

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 4-zn(一つとして同じでないシルバー・バーチの祈り =25=)

 皆さまとごいっしょに神の祝福を祈念いたしましょう。
 ああ、真白き大霊よ、森羅万象がこぞってあなたへの讃美を奏でております。なぜなら生きとし生けるものすべては、あなたの摂理によって生かされており、自然界の律動のどれ一つとしてあなたの表現でないものはないからでございます。
 いつの世にもあなたは物質の世界においてあなたの愛、あなたの叡智、あなたの知識を輻射できるだけの能力をそなえた者を地上へ遣わされ、あなたの霊性の生ける模範として、人間の心の暗闇にあなたの真理の光をもたらし、あなたの無限なる叡智と愛によって全人類を照らす道具たらしめました。
 そしてこの度、改めてあなたの使者として私どもを遣わされ、あなたとあなたの摂理についての知識を地上へもたらし、地上の子らがあなたとのつながりを理解し、ひいては自分みずからについて理解し、物質の世界に置かれている目的を理解してくれることを望んでおられます。
 幸いにして私どもは、地上の子らの中にもあなたの霊性に触れ、その耳・その目・その精神・その心・その魂をより高き生命の波長に合わせ、私どもがあなたから仰せつかったメッセージに耳を傾ける者を見出し、その者たちとの交わりの場をもつことを得ております。
 その幸せに深甚なる感謝を捧げます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 104-105

     *****


 4-zo (一つとして同じでないシルバー・バーチの祈り =26=)

 ごいっしょに神の祝福を祈願しましょう。
 ああ、大いなる神よ。あなたは全生命の霊そのものにおわします。その霊が全生命にみなぎり全宇宙に満ち満ちております。生きとし生けるものすべてがあなたの霊性を反映しております。大自然の営みの一つ一つに顕現なさっておられます。大自然はあなたの霊性の鑑にほかならないのでございます。
 ああ、真白き大霊よ、あなたは全大宇宙の背後の摂理におわします。人間の理解力によって明らかにされた小さい部分だけにかぎりませぬ。いまだに人間の意識にのぼらない、さらに大きな部分にも同じあなたの摂理が働いているのでございます。
 あなたは太陽の光線の中にも宿っておられます。朝露の中にも、雨の中にも宿っておられます。風に揺れる松の枝にも宿っておられます。轟く雷鳴の中にも、走る稲妻の中にも、小鳥のさえずりの中にもあなたが宿っております。
 あなたは生きているもの、動くものすべてに宿りたまい、そして人間の霊魂の中に最高の形で顕現され、その存在価値を発揮する行為の中であなたの神性を発現せんとしているのでございます。
 ああ神よ。私どもはあなたがいつの時代にも分け隔てなく全人類に啓示なさってきた宇宙の神秘に感謝の意を表します。
 あなたの御力によって暗闇にそそがれた光明、無知を追い払った叡智、迷信を駆逐した正しい知識、悩める者にもたらされた慰め、健康を害し痛みに苦しんでいる者にもたらされた霊力に対して感謝を捧げます。
 また、あなたの御胸より溢れ出て、地上のすべての民族に配属されているあなたの使者を通して顕現される崇高なる愛に深甚なる感謝の意を表します。
 かくして、その地上の同志の援助のもとに私たちが霊の世界からあなたのご計画の推進に参加し、物質の世界におけるあなたの王国の建設に役立つ栄誉を担わせて下さったことに感謝いたします。
 私たちの働きかけに応えて人間界から寄せられる無私の奉仕と愛の心、そしてまた、あなたのご意志を地上に顕現させる目的のもとに私たちとつながっている者すべての誠意に対する感謝の気持をあなたに捧げます。
 大いなる霊よ。願わくは御力の地上への顕現を妨げんとする障害がすべて排除され、他のすべての交霊の場と同様に、このサークルにおいてもあなたの霊が少しでも多く顕現されることを祈ります。
 ここにあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 117-120

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  4-zp(祈りの切望そのものが自動的に扶助を呼び寄せる)

 祈りとは魂の表現です。具体的に言えば、祈りとは光明あるいは導きを叫び求める魂の止むに止まれぬ切望です。その切望そのものが自動的に扶助を呼び寄せます。なぜならその思念の威力が稼勤しはじめるからです。それが回答を呼び寄せる原因であり、回答が結果です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 122

     *****


 4-zq[13-zq] (祈りはその波長の感応する界層の霊を即座に呼び寄せる)

 霊の側では人間側がどういう祈りをするかを待つ必要はありません。なぜならば祈りの本質そのものが、その波長の感応する界層の単数または複数の霊を即座に呼び寄せるからです。それも魂の進化の程度によって自然に決まることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 122

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 4-zr(人間の祈りに感応した霊はその人間が稼動させた威力を増幅させる)

 祈りの念に感応して呼び寄せられた霊は、地上界への奉仕の願望から、その人間が稼動させた威力を増幅させることになります。霊力の一部である思念の波動がいよいよ大きく活動を開始したわけです。それによって宇宙の霊的エネルギーがその人の進化の程度に応じた範囲での活動を許されることになります。ということは、その人間の手の届く範囲のエネルギーを自由に駆使できるということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 122

     *****


 4-zs (祈る人間の進化の程度次第では思念を集中する必要がある)

 その人間の進化の程度次第では、求めている特定の目標に思念を集中する必要がある場合もあります。そのほうがその人にとって有効であるというのであれば、私はそれはそれで結構であると申し上げます。しかし、祈りに関して大切なのは、大霊・生命の原理・宇宙の摂理、こうしたものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 122-123

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 4-zt (皆さんの祈りは口に出さずとも神は先刻ご承知なのです)

 時おり皆さんは自分の魂にとって為にならないもの、進化を遅らせることになるものを要求されます。それは叶えてあげるわけにはいきません。また時おりそれを手にするだけの十分な努力をしていないものを要求されます。それも与えられません。そして時にはそれを手にする用意のできたものを要求されます。それは、ここという好機をみて与えられます。このように皆さんが心に抱く祈りは、口に出さずとも神は先刻ご承知なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 123

     *****


 4-zu (赦免を祈っても支払うべき代償は必ず支払わねばならない)

 赦免を求めて祈っても法則が手直しされることはありません。支払うべき代償はかならず支払わねばなりません。しかし、赦免を求めて祈るということは、自分の間違いに気づいて神の摂理との調和を求めはじめたことを意味します。すなわち魂への内省を始めたことになり、それは本当の進化の始まりであると言えます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 123

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 4-zv (祈りを目的もなしに繰り返すだけでは何の意味もない)

 祈りの言葉を何の目的もなしに繰り返すだけでは、ただ大気中に一定の波動を起こすだけです。が、誠心誠意、魂の底からの祈り、神の御心と一体となり、神の道具として有意義な存在でありたいと願う心は、その波動そのものがその人を神の僕としてより相応しく、そしてより逞しくします。祈るということ、真実の自分を顕現すること、心を開くこと、これが背後霊との一体化を促進するのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 124

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 4-zw (祈りは魂の波長を最高度に高めんとする真摯な願い)

 真実の祈りは人のために役立つ行為への心の準備であらねばなりません。より高い波長に適合させるための手段です。と言っても私のいう祈りは、どこの誰が書いたのかも分からない、しかも何の意味かも分からない文句を繰り返すことではありません。誠心誠意の祈り、魂の波長を最高度に高めんとする真摯な願いです。その結果として感応するインスピレーションに満たされて、あなたは一段と逞しい存在となります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 124

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 4-zx (祈りは心と魂と精神をこめたものであらねばならない)

 誠心誠意の祈りは、その行為そのものがより高い波長と感応させます。祈るということ自体が心を開かせるのです。ただし、その祈りは心と魂と精神をこめたものであらねばなりません。こうして欲しい、ああして欲しいといった、ただの要求は祈りではありません。真実の意味での祈りは大へんな霊的活動です。それは何かの目的への手段であって、目的そのものであってはならないというのが一ばん適格な表現かと思います。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 124-125

     *****


 4-zy (祈りには魂の開発を促進するという霊的な目的がある)

 私は無理にも祈れとは誰にも申しておりません。祈る気になれないのを無理して祈っても、それは意味のない言葉の羅列にすぎないものを機械的に反復するだけですから、むしろ祈らない方がいいのです。祈りには目的があります。魂の開発を促進するという霊的な目的です。ただし、だからといって祈りが人間的努力の代用、もしくは俗世からの逃避の手段となるかに解釈してもらっては困ります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 125

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 4-zz (祈りは魂の憧憬を高め決意をより強固にするための刺戟である)

 祈りは魂の憧憬を高め、決意をより強固にするための刺戟―これから訪れるさまざまな闘いに打ち克つために守りを固める手段です。何に向かって祈るか、いかに祈るかは、本人の魂の成長度と全生命の背後の力についての理解の仕方にかかわってくる問題です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 125

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 4-zza (祈りとは神との緊密なつながりを求めるための手段である)

 祈りとは神性の一かけらである自分がその始原とのいっそう緊密なつながりを求めるための手段です。その全生命の背後の力との関係に目覚めた時、その時こそ其の自我を見出したことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 125-126

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 4-zzb (一つとして同じでないシルバー・バーチの祈り =27=)

 真白き大霊よ。あなたは全存在の大源におわします。あなたは太初です。あなたは終極です。すべてのものに存在し、すべての相に顕現しておられます。霊の世界の最高界であろうと、物質の世界の最低界であろうと、そこに何ら相違はございません。
 あなたは光明の中に存在すると同時に暗黒の中にも存在します。春に存在すると同時に秋にも存在します。夏に存在すると同時に冬にも存在します。日和の中に存在すると同時に嵐の中にも存在します。あなたは稲妻の中にも雷鳴の中にも存在なさっております。
 そよ風の中にもあなたが存在します。小鳥のさえずりの中にもあなたが存在します。風に揺れるこずえにも、小川のせせらぎの中にも存在します。高き山の頂きにも大海の深き底にも存在します。無数の太陽の集まる星雲の中にも、きらめく星の一つ一つにもあなたが存在いたします。
 あなたは意識の進化の程度の差にかかわりなく、すべての生命に宿っておられます。すべての意識の中に顕現しておられるのです。
 あなたは愛の中にも憎しみの中にも存在します。叡智の中にも愚かさの中にも宿っておられます。内側にも外側にも存在しておられます。何となれば、あなたは絶対的な大霊にあらせられ、その摂理なくしては何一つ存在しえないのでございます。
 ああ、真白き大霊よ、あなたの大きさは到底地上の言語では表現できませぬ。地上のいかなる進化せる人物によってもあなたの全体像を理解することはできませぬ。
 あなたはいつの時代にも人間の信仰の対象とされ、あらゆる言語によって讃美されてまいりました。多くの人間によって、あまたの聖なる書の中に啓示されてまいりました。物質の霧を突き抜けて霊の目″をもって見通せる者を通じて、あなたは分け隔てなくそれぞれの時代にあなたの摂理を啓示なさってこられました。
 ああ神よ、あなたは今まさに地上世界へ新たにあなたの使節を遣わされ、子らを一層あなたの身近き存在となし、子らがあなたを少しでも多く理解し、あなたの霊力を活用することによって、物質の世界へ安らぎと豊かさと幸福をもたらすための新たな啓示を行っておられます。
 その道具としてあなたのお役に立つことを願う私どもは、地上の子らとの協力によって暗黒の世界へあなたの光明をもたらし、あなたの力、あなたの愛、あなたの摂理を物的宇宙のすみずみまで顕現せしめんと望むものです。
 ここに、あなたの子らに仕えることによってあなたに仕えんとするあなたの僕インディアンの祈りを捧げます。

   『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
     潮文社、1988、pp. 126-128

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 4-zzc (一つとして同じでないシルバー・バーチの祈り =28=)

 神よ、あなたは法則です。叡智です。愛です。知識です。インスピレーションです。
 私たちがあなたを讃美するのは、あなたが全生命の大中心であらせられるからにほかなりません。あなたあっての生命であり、あなたなくして生命は存在しません。あなたは全生命にみなぎり、あなたの法則が全存在を支え、全存在を包摂しております。
 あなたは私たち人類のすべてにあなたの霊の一部を賦与され、それが地上の人類のすべてをあなたと結びつけております。
 それゆえに、ああ神よ、私たちは決して生まれながらにして罪深き存在などではなく、それゆえの恐れから膝を折ってあなたに阿ることもなく、私たちはあなたの一部であり、同時にあなたは私たちの一部であるとの認識のもとに、浩然の気をもって祈ります。
 あなたの子として私どもはあなたの霊性を宿し、それが常により高い顕現を求めて、私たちを通じて摂理を成就せんといたしております。
 神よ。こうして地上の子らに霊的次元の摂理を啓示する機会をお与えくださったことに深く感謝いたします。この機会のおかげで私たちは地上の子らとの協力のもとに、あなたの驚異的計画を披露することができます。全人類に、彼らが地上という物質の世界に置かれていることの意義を理解させてあげることができます。正しい知識によって無知をなくさせることができます。霊力によって人間的煩悩を駆逐させることができます。光明によって地上の暗黒を明るく照らし、苦しみと悲劇を喜びと幸福によって置きかえさせることができるのでございます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 141-142


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 4-zzd[48-f] (ものごとを目先の結果だけで判断してはならない)

 目先の結果だけで判断してはいけません。あなた方は物質の目だけでご覧になっておられます。もし霊の目で見ることができれば、一人ひとりに完全な公正が行きわたっていることがお分かりになるはずです。私は時おり皆さんの祈りに耳を傾けてみることがありますが、もしも神がその願い通りになさったら却って皆さんにとって好ましくない事態になるのだが、と思うことばかりです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.166

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 4-zze (一つとして同じでないシルバー・バーチの祈り =29=)

 生命のすべてに存在を与え給いし大霊よ。私たちをこの場に集わしめ、あなたの霊力を活用して大自然の摂理の存在を証し給う大霊よ。私たちはあなたの道具として、この地上での奉仕の機会をいただいたことに深甚なる感謝の意を表します。
 ああ、真白き大霊よ。あなたは全生命の光におわします。あなたの存在なくしては、ただの暗闇のみとなるからでございます。
 あなたは全生命を包摂する法則におわします。あなたの存在ありてこそ星はしかるべき位置を保ち、太陽は輝き、花は咲き、小鳥は歌うのでございます。
 あなたとあなたの摂理ありてこそ、あなたの霊は物質の世界にも顕現し、しかもあなたとの絆を保ち続けられるのでございます。
 その絆を通じてあなたはご自身を顕現なさいます。それは挫折せる者を救い勇気づけてあげようとする欲求であり、人生に疲れた人を援助してあげようとする熱意であり、心の渇いた人に真理のうるおいを、衰弱した人に力を与えてあげたいと思う願望でございます。
 子らの想像を絶する偉大さと崇高さをそなえし大霊よ。地上のいかなる聖賢の洞察力をもってしても計りがたき愛と美と叡智にあふれし大霊よ。私たちはあなたを宇宙の最大にして最強の存在として認識いたしております。神の中の神であり、王の中の王であり、絶対的摂理であり、その働きは完ぺきにして行き届かないところはございません。
 私たちはあなたの御名においてなされてきたこと全てが栄誉と栄光に満たされんことを、そして又、この場にあなたの霊の宿らせ給う神殿(交霊の場)が確立され、あなたの霊力に満たされ、あなたの光にあふれ、その輝きを遠く広く地上の暗き所にあまねく行きわたらせ、この物質の世界に御身とその永遠の摂理についての認識を根づかせんと祈るものでございます。
 その仕事のために私どもは高遠の世界の有志に援助を求め、その霊力と叡智をもって人類に、御身についてまた自分みずからについてのより深い理解をもたらし、あなたが彼らを地上に置かれたそもそもの天命を全うせしめんと望むものでございます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.175-177

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 4-zzf[12-zzb] (イースターは真実の生き方に目覚めることを祈る時)

 イースターは全生命の復活を祝う時です。それは太陽系の全天体が一丸となって、地上世界が悲劇と苦痛と災厄から復活して、より意義ある人生、真実の生き方に目覚めるようにと祈る、その祈りのシンボルなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.188

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 4-zzg  (一つとして同じでないシルバー・バーチの祈り =30=)

 皆さんとの協力のもとに私たちが勤しんでいる仕事への祝福を求めて、ごいっしょに大霊への祈りを捧げましょう。
 ああ、真白き大霊よ。あなたは全生命を包摂する摂理にあらせられます。なぜなら、あなたは全生命を創造し、全生命を扶養し、全大宇宙はあなたとあなたの摂理があればこそ存在を得ているからでございます。
 あなたは森羅万象となって顕現なさっておられます。昇っては沈む太陽にも、満ちては引く海の潮にも、夜空に輝く星にも、小鳥のさえずりの中にも、稲妻と雷鳴の中にも顕現なさっておられます。
 大霊よ。あなたはいつの時代にもあらゆる民族によりて崇拝され、幸いにして、あなたを垣間見ることを得た者の理解力に応じて表現されるに任せてまいられました。しかし真実のあなたは物質の子等の中のいかなる聖賢の理解力をも超えた偉大さと巨大さと愛と叡智と公正と慈悲とをそなえた存在にあらせられます。
 あなたの僕として霊の世界より仕える私たちは、永きにわたって埋もれてきたあなたの摂理、首尾はく物質の霧を突き抜ける霊的な識別力と理解力を持つ者によって、きわめて稀れにしか掘り起こされることのなかった霊的真理を、地上の子等に啓示せんと努力しているところでございます。
 私たちは地上の子等がこの宇宙の孤児ではなく、大霊にあらせられるあなたの分霊を受け、内部に無限の力と光を宿すがゆえに、いかなる邪悪も不正も克服し、その霊性によってあなたの存在とあなたの摂理の絶対性とを認識することによって、地上にあなたの王国を実現していく、その援助をしているところでございます。
 弱き者を高揚し、人生に疲れた人に慰めを与え、暗闇にいる者に光明をもたらさんと望む地上の同志たち、あなたの愛の地上への顕現を妨げんとする勢力のすべてに抵抗する気概に満ちた同志との一致協力を願っております。
 それが私どもに課せられた仕事であり、あなたのため、あなたの王国のため、あなたの光明と愛のために献身せんとする者すべてと力を合わせたく存じております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 236-238








 5. 霊・魂・肉体

 5-a (肉体と魂は密接に関係している)

 肉体が受けた影響はかならず魂にも及びますし、反対に魂の状態はかならず肉体に表れます。両者を切り離して考えてはいけません。一体不離です。つまり肉体も自我の一部と考えてよいのです。肉体なしには自我の表現はできないのですから。本来は霊的存在です。肉体に生じたことは霊にも及びます。

    『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1986, p.29

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 5-b (霊が正常であれば肉体も健康である)

 私どもが肉体そのものよりもその奥の霊により大きな関心を向けていることを理解していただかねばなりません。霊が正常であれば肉体は健康です。霊が異常であれば、つまり精神と肉体との関係が一直線で結ばれていなければ、肉体も正常ではありえません。この点をよく理解していただきたいのです。なぜなら、それはあなた方(心霊治療家)がご苦労なさっているお仕事において、あなた方自身にも測り知ることのできない側面だからです。完治した人、痛みが和らいだ人、あるいは回復の手応えを感じた人があなた方へ向ける感謝の気持ちも礼も、魂そのものが目覚め、内部の巨大なエネルギー源が始動しはじめた事実にくらべれば、物の数ではありません。
 あなた方は容易ならざるお仕事にたずさわっておられます。犠牲と献身を要求される仕事です。困難のさなかにおいて為される仕事であり、その道は容易ではありません。しかし先駆者のたどる道はつねに容易ではありません。奉仕的な仕事には障害はつきものです。かりそめにもラクな道、障害のない道を期待してはなりません。障害の一つ一つ、困難の一つ一つが、それを乗り越えることによって霊の純金を磨きあげるための試練であると心得てください。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986, pp.33-34

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 5-c (霊が存在するから身体は存在できる)

 あなた方は物質をまとった存在です。身を物質の世界に置いておられます。それはそれなりに果たすべき義務があります。衣服を着なければなりません。家がなくてはなりません。食べるものが必要です。身体の手入れをしなくてはなりません。身体は、要請される仕事を果たすために必要なものをすべて確保しなければなりません。物的身体の存在価値は基本的には宝の道具であることです。霊なくしては身体の存在はありません。そのことを知っている人が実に少ないのです。身体が存在できるのはまず第一に霊が存在するからです。霊が引っ込めば身体は崩壊し、分解し、そして死滅します。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1986、p.200


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 5-d (霊と霊の道具としての身体にどのような注意を)

 別にむつかしいことではありません。大方の人間のしていることをご覧になれば、身体の必要性にばかりこだわって精神ならびに霊の必要性に無関心すぎるという私の意見に賛成していただけると思います。身体へ向けている関心の何分の一かでも霊の方へ向けてくだされば世の中は今よりずっと住みよくなるでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986p.203


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 5-e(身体にはあまり構わなくてもよいのか)

 それは人によって異なる問題ですが、一般的に言って人間は肉体のことはおろそかにしていません。むしろ甘やかしすぎです。必要以上のものを与えています。あなた方が文明と呼んでいるものが不必要な用事を増やし、それに対応するためにまた新たな慣習的義務を背負い込むという愚を重ねております。肉体にとって無くてはならぬものといえば光と空気と食べものと運動と住居くらいのものです。衣服もそんなにあれこれと必要なものではありません。慣習上、必需品となっているだけです。
 私はけっして肉体ならびにその必要条件をおろそかにしてよろしいと言っているのではありません。肉体は霊の大切な道具ではありませんか。肉体的本性が要求するものを無視するようにとお願いしているのではありません。私は一人でも多くの人間に正しい視野をもっていただき、自分自身の本当の姿を見つめるようになっていただきたいのです。まだ自分というものを肉体だけの存在、あるいは、せいぜい霊を具えた肉体だと思い込んでいる人が多すぎます。本当は肉体を具えた霊的存在なのです。それとこれとでは大違いです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.203-204


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 5-f (肉体に関連した法則にあまり言及していない理由)

 おっしゃる通り、あまり申し上げておりません。それは、肉体に関して必要なことはすでに十分な注意が払われているからです。私が見るかぎり地上の大多数の人間は自分自身の永遠なる部分すなわち霊的自我について事実上何も知らずにおります。生活のすべてを肉体に関連したことばかりに費しております。霊的能力の開発に費している人はほとんど---もちろんおしなべての話ですが---いません。第一、人間に霊的能力が潜在していることを知っている人がきわめて少ないのです。そこで私は、正しい人生観をもっていただくためには、そうした霊的原理について教えてあげることが大切であると考えるわけです。
 私はけっして現実の生活の場である地上社会への義務を無視してよいとは説いておりません。霊的真理の重大性を認識すれば、自分が広い宇宙の中のこの小さな地球上に置かれていることの意味を理解していちだんと義務を自覚するはずです。自国だけでなく広い世界にとってのより良き住民となるはずです。人生の裏側に大きな計画があることを理解しはじめ、その大機構の中での自分の役割を自覚しはじめ、そして、もしその人が賢明であれば、その自覚に忠実に生きようとしはじめます。
 肉体は霊の宿である以上、それなりに果たすべき義務があります。地上にいるかぎり霊はその肉体によって機能するのですから、大切にしないといけません。が、そうした地上の人間としての義務をおろそかにするのが間違っているのと同じく、霊的実在を無視しているのも間違いであると申し上げているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.202-203

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 5-g (誕生の瞬間から死へ向かう肉体)

 誕生の瞬間から肉体は死へ向かいます。この現象は誰にも変えられません。もともと肉体は不老不死を目指すようには意図されていないのです。本性そのものが儚い存在であることを自覚しております。従わねばならないサイクルというものがあるのです。まず、ゆっくりと機能的成熟を目指します。成熟すると同時に、やはりゆっくりと、全機能が衰えはじめます。そして、リンゴが熟すると自然に木から落ちるように、肉体も与えられた寿命をまっとうして死を迎えます。何度も申し上げているように、人間は本来そうなるようにできているのです。
 私たち霊界の者も完全ではありません。まだ霊的進化の頂点を究めたわけではありません。まだまだ延々と先が続いております。しかし地上での仕事を困難にする物的条件に直面したときは、私たちにできるかぎりのエネルギーを活用して、その克服につとめます。
 いつも申し上げ、これからも繰り返し申し上げることでしょうが、私たちといえども全ての知識を手にしているわけではありません。無限に存在するからです。が、地上のあなた方は私たちにない肉体的条件によって制約を受けていますから、手にすることのできる知識はきわめで限られております。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 49-50

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 5-h (霊と魂はどのように違うのか)

 ―霊≠ニ魂≠フ違いについて教えていただけませんか。スピリチュアリズムの七つの綱領の中で私たちは死後の個性の存続をうたっておりますが、次に生まれ変わる時、実際に再生するのは最初の霊の個性とは別のものでしょうか。

 これはまた厄介な質問をしてくださいました。問題は用語にあります。言語を超えたものを説明するための用語を見つけなければならないので厄介なのです。
 魂と霊の違いがその好例です。使用する際にはどういう意味で使用するかを明確にしないといけません。ここでは単純に、魂とは無限なる宇宙の大霊から出た分子、粒子、神性ということにしましょう。そして霊とはその魂の媒質(※)です。
 それが肉体から分離すると地上時代よりはるかに自由自在に機能を発揮するようになります。肉体は物質でできています。それが霊の表現を制約しているのです。
 (※現象界においてはこの二者が一体となってはじめて存在できるもので、切り離すことができない。日本語の霊魂≠ニいう言い方はその意味で当を得ているが、問題はその理解である。しかし厳密に言えば違いはあっても、実際にはシルバー・バーチも置きかえて使用することが多い。次元が異なるので止むを得ないことであろう。それはちょうど太陽は厳密にいえば東から昇ってもいないし西に沈んでもいないが、地上から見るかぎりはそう表現するよりほかに方法がないのと同じであろう。第二巻霊≠ニ魂〃についての解説参照−訳者)
 それゆえ、あなた方は霊をたずさえた魂であり、それが肉体を通して自我を表現しているのです。パーソナリティというのはその肉体をたずさえた地上生活において表現されている側面のことでしかありません。それは本当の自我であるインディビジュアリティのごく小さな一部にすぎません。肉体に包まれているために存分に自我を発揮できないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 119-120

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 5-i (人間は死ぬまでは本当の意味で生きているとはいえない)

 物質界の条件が、大きい方の意識で行われていることを小さい方の意識で思い出せなくしているのです。人間は死ぬまでは本当の意味で生きているとは言えないほどです。が、時として霊が物質の次元から離れて霊界からのインスビレーションに触れることがあります。その時、ホンの一瞬ですが言語を絶した無上の法悦に浸ることになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.51

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 5-j (人間のすべてに大霊が宿っている)

 人間のすべてに大霊が宿っております。確かに人間はありとあらゆる形態を通して進化して来て動物時代の名残りも宿しておりますが、それよりもはるかに高尚な神性が宿されており、それを機能させ発揮させることができれば、あたかも神々が地上を闊歩するかのごとくになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.81

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 5-k (魂は平穏・静寂・平静・受容性・調和の中でもっとも活発になる)

 魂は平穏・静寂・平静・受容性・調和の中でもっとも活発になります。皆さんは目覚めている時よりもむしろ睡眠中に霊的活動を活発に行っていることがよくあります。その時、力と導きを得ておられるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 145-146

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 5-l[75-g] (肉体を含めて物質は一種の障害物であるという見方もできる)

 物質は一種の障害物であるという見方もできます。鈍重で、もどかしくて、活気がありません。それにひきかえ霊は軽快で、繊細で、鋭敏です。が、その霊も地上で自我を表現するには五つの物的感覚を使用しなければならないのです。たとえてみれば巨匠が粗末なバイオリンを使って演奏するようなものです。巨匠の魂には音楽的インスピレーションが湧き出ていても、バイオリンが粗末であるために、その織細な響きが出せません。人体はまさに土の塊りです。しかし、地上で生活するにはそうした器官に宿るしかないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 148-149

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 5-m (魂は無限の広がりをもち全宇宙に遍在する)

 本当を言うと魂は内部にあるとか外部にあるとかは言えません。魂とは全宇宙に遍在するものです。意識″です。一個の身体によって束縛されるものではなく、無限の広がりをもつものです。一瞬の間に地球を一周できます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.195

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 5-n (身体はあなたが住む家であると考えればよい)

 身体はあなたが住む家であると考えればよろしい。家であってあなた自身ではないということです。家である以上は住み心地を良くしないといけません。手入れがいるわけです。しかし、あくまでも住居であり住人ではないことを忘れてはなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.196

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 5-o (誕生の時に宿った霊が大切で肉体は用事がすめば崩壊する)

 肉体は霊がその機能を行使できるように出来あがっております。その形体としての存在はホンの一時的なものです。用事が済めば崩壊してしまいます。が、その誕生の時に宿った霊、これが大事なのです。その辺の理解ができた時こそあなたの神性が目を覚ましたことになります。肉体的束縛を突き破ったのです。魂の芽が出はじめたのです。ようやく暗闇の世界から光明の世界へと出てきたのです。あとは、あなたの手入れ次第で美しさと豊かさを増していくことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.197

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 5-p (霊は生命そのものであり霊のないところに生命はない)

 霊は生命そのものであり、生命は霊そのものです。霊のないところに生命はありません。物質は殻にすぎません。霊という実在によって投影されたカゲにすぎません。物質それ自体には存在はないのです。あなたが存在し、呼吸し、動き、考え、判断し、反省し、要約し、決断し、熟考することができるのは、あなたが霊であるからこそです。霊があなたの身体を動かしているのです。霊が離れたら最後、その身体は崩壊して元の土くれに戻ってしまいます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.198-199

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 5-q[51-i] (人間の生命力は動植物が顕現している生命力と同じ)

 人間という形態を通して顕現している生命力は、小鳥・動物・魚類・樹木・草花・果実・野菜などを通して顕現しているものと同じ生命力なのです。いかなる形態にせよ生命のあるところには必ず霊が働いております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.199

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 5-r (人間生活には霊と精神と肉体の三つの側面がある)

 人間生活には三つの側面があります。まず第一に霊であり、次に精神であり、そして肉体です。人間としての個性を存分に発揮するようになるのはこの三つの側面の存在を認識し、うまく調和させるようになった時です。物的世界にのみ意識を奪われ、物的感覚にしか反応を示さぬ人間は、精神的ならびに霊的な面においてのみ獲得される、より大きい、より深い、より美しい喜びを味わうことはできません。反対に精神的なもの、霊的なものばかりの瞑想的生活から生まれる内的満足のみを求め、この世の人間としての責務をおろそかにする人間は、一種の利己主義者です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 210-211

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 5-s (見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っている)

 あなたはその二つの眼で見ているのではありませんよ。またその二つの耳で聞いているのではないのですよ。見たり聞いたりは脳を経由して精神で行っているのです。もしも脳が働かず精神に反応が生じなければ、その肉眼に映る光線は何の意味もありませんし、その肉耳に届けられる波動もまったく無意味なのです。脳がレシーバーとしての働きをしてくれたあとは、その情報を理解するのは精神なのです。肉眼そのものには“見る”能力はないのです。ただ光線を感知するための媒体にすぎないのです。カメラのレンズと同じです。自分ではどういう役目をしているのか知らないまま自動的に機能しているのです。“見えた”という認識は、精神がその印象を脳から受け取った時に生じるのです。脳を傷めるとその認識が生じませんから、肉眼だけでは何も見えないことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 228

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 5-t (魂はなぜ肉体に閉じ込められているのか)

 種子が暗い土の中に埋められ、そこから勢いよく成長するための養分を摂取するのと同じです。人間の生命の種子も霊的生命を勢いよく成長させるための体験を得るために、肉体という暗い身体に閉じ込められるのです。
 人生体験も大きな生命機構の中の一環なのです。およそ有り難いとは思えない体験――悲しみ、辛い思い、嘆き、失望、苦しみ、痛み――こうしたものは魂にとっては貴重なのです。
 しかし、それを体験している最中にはそうは思えません。こちらに来て地上生活を振り返り、部分的にではなく全体として眺めた時にはじめて、人生の価値が鮮明に理解できるのです。逆境の中にあってこそ性格が鍛えられるのです。悲哀を体験してこそ魂が強化されるのです。
 わたしたちは人生を物質の目ではなく霊的生命の知識に照らして眺めます。その次元では完全な公正が行なわれるようになっているからです。ですから、賢明な人とは、すべての体験を魂の成長にとって有益となるように受け止める人、試練にしりごみせず、誘惑に負けることなく、困難に正面から立ち向かう人です。そういう心構えの中においてこそ人格が成長し強化されるからです。何でもない簡単な真理なのです。あまりに単純すぎるために地上の知識人″から小バカにされてしまうのです。

  トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
     コスモ・テン・パブリケーション、1989、pp.111-112

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 5-u (魂は比較対照の中でこそ本当の意味で生き始める)

 人生は日向と日蔭、静寂と嵐というふうに二面性から成リ立っています。一本調子にはできておりません。幸せと喜びの生活にも時には悲しい出来事が生じます。その極端な差異を味わってこそ性格が伸びるのです。かくして悲しみからも、人生の嵐からも、苦痛からも教訓を学び取ることができます。その必要性が理解できない人は神に不平を言いますが、日蔭の生活を味わってこそ日向の生活の有リ難さがわかるのです。
 魂は比較対照の中にあってこそ本当の意味で生きることを始めます。もしもあなたの体験が良いこと、楽しいこと、美しいことばかりだったら、その人生は空虚なものとなることでしょう。そこには深みというものが無いからです。
 賢い人間は自分を待ちうける体験のすべてが大霊へ近づく無限の道において手引きとなる叡知を教えてくれるとの覚悟で一日一日を迎えます。

  トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
   コスモ・テン・パブリケーション、1989、p. 209










  6.宗教・信仰

  6-a (人のために自分を役立てることが宗教)

  =教会中心の信仰者に対しては=

 まず私は教会というところが本来宗教についての真実を学ぷために存在するものであることを説きます。目に見えない高い世界の影響力に集団で波長を合わせるための場です。暫しのあいだ俗世的心配ごとやストレスから離れ、雑念や悩みごとを忘れて霊的実在に目を向ける場です。私はまた人のために自分を役立てることこそ真の宗教であると説きます。礼拝に出席したら、欠席した人より立派になるというわけではありません。肌の色が白いから、茶色や黒い肌の人より優れているわけではありません。大切なのは霊の進化、魂の成長です。教会はそのための永遠の旅に備える場であるべきです。いかにして霊を修練するかを教える場であるべきです。聖典の言葉や説教、儀式、信条のことで惑わされてはいけません。建物を必要以上に有り難がってはいけません。
 宇宙の大霊は無限の存在です。いかに神聖に思える建物でも、その大霊を閉じ込めることはできません。四つの壁では "永遠なるもの″は包めません。書物も、その言葉がいかに美しくても、いかに内容が立派でも、いかに霊的でも、それ一冊に無限なる霊すなわち神に関する真理のすべてが記されるわけがありません。いかなる人間でも、たとえ地上で最高の聖職にある人でも、あなたと神との関係に干渉することは許されません。あなた方の存在にとって必要なものは、あなた方自身が無限の啓示の宝庫から引き出すことができるのです。あなた方が神と呼ぶところのもの、私が大霊と呼ぷところのもの、すなわち全生命の背後の普遍的摂理は、永遠にあなた方と切っても切れない絆で結ばれております。
 内部に宿された神性を発揮しさえすれば---高級界から受ける霊力とインスピレーションを活用する霊的法則さえ身につければ、神が意図された通りの生き方ができるようになります。自己を棄て、世間に目を向け、からだの不自由な人を癒し、苦しむ人に手を差しのべ、飢えた人に食を与え、渇えた人に水を与え、道を見失える人に勇気と指示を与え、優しさと思いやりと愛情を、それを必要とする人の全てに与えてあげるようになるでしょう。そうなった時こそ自分を役立てていることになります。それが唯一の宗教なのです。それ以外の宗教を私は知りません。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1986、pp.79-80.

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  6-b (宗教とは自分の霊性を高める行為をすること)

 あなた方がスピリチュアリズムと呼んでいるものは大自然の一部---その作用、その意義に対して付けられた名称にすぎません。私にとって宗教とは自分なりの人生を生きることであり、特定の宗派の信仰を受け入れることではありません。人生を支配している摂理は普遍的なものです。ということは、普遍的な理解カが世界中に行きわたれば、お互いが扶け合うことが普遍的な宗教ということになります。それをスピリチュアリズムと呼ぶかどうかはどうでもよいことです。大切なのは真理が普及し、無知の壁が崩れ、迷信が人間の精神から一掃されて、霊的叡智が花開くことです。ラベルには用心しなければなりません。なぜかと言えば、そのうちそのラベルに象徴されていた中身に代ってそのラベルそのものが大切にされるようになり、ついにはラベルだけを崇拝して真理を忘れてしまうからです。大切なのは真理です。ラベルはどうでもよろしい。
 皆さんはある現象が話題になるとそれをスピリチュアリズムだと言います。が、すべては自然法則の働きで起きているのであって、それをどう呼ぶかは重要ではありません。同じ意味で"宗教″という用語もその本来の意義を失ってしまいました。今では宗教といえば"神聖″のラベルをはられた特殊の行事や慣習、儀式、祭礼などのことを連想します。しかし教会や礼拝堂がふつうの建物に比べていささかも神聖であるわけではありません。石はあくまでも石です。ふつうの家の一部となろうと大聖堂の一部となろうと石は石でしかありません。神を崇拝する場として作られた建物はたしかに美しいかも知れませんが、その美しさが神聖さを生むわけではありません。美しいと思うのは美意識の反応にすぎません。
 宗教そのものは教会とは何の関係もありません。霊感のある人---本当の意味での聖職者、つまり霊的能力を具えた人が民衆の要請に応えて神との取り次ぎをしてあげることと言ってもよいでしょう。勿体ぶった神学的言説に基づく行事をしたり信仰を告白したりすることではありません。教会でワインを飲んだからといって、他の場所でワインを飲むよりも"宗教的"であるわけではありません。宗教的であることは宇宙の大霊の一部である自分を少しでもその大霊の御心に近づけることです。内部の神性を発揮する上でプラスになることをすることが宗教です。その神性は人のために役立つ行為、愛他心、親切心、日々新たになろうとする心がけ---どこにいても倒れている人を起こしてあげ、弱った人を元気づけ、無力な人の力になってあげ、病いの人を癒し、真理と叡智を広め、不正を無くする行為となって表われます。それが宗教です。人間にはその人なりの宗教を実践する上で必要なものはすべて授かっております。そのためにはまず、宗教とは名僧知識が説くことを体系的にまとめることであるかのように考える、その誤った概念を捨て去ることです。
 私どもは、どこかの礼拝のための建造物に出席することが神への義務を果たすことになるとは決して申しません。出席される方は真面目な気持でそうされているかも知れませんが、真の宗教心はその人の生きざまの中でしか発揮されないのです。各自の現に内在する崇高なる霊性の働きと切り離されたところに宗教は存在しません。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1986、pp.80-83

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 6-c (宗教の定義について)

 宗教とは同胞に奉仕することによって互いの親である神に奉仕することです。本来の宗教は地上の世俗的概念とはほとんど何の関係もありません。人間の魂に内在する神性を地上生活において発揮させるものでなければなりません。自分と神とのつながり、そして自分と同胞とのつながりを大きくするものでなければなりません。自分一人の世界に閉じ込もらずに広く同胞のために自分を役立てるように導くものでなければなりません。宗教とは人のために自分を役立てることであり、自分を役立てることがすなわち宗教です。
 そのほかのこととは何の関わりもありません。肉体が朽ちてしまえば、それまで永いあいだ後生大事にしていたもの、そのために争うことまでした教義のすべてが空虚で無価値で無意味で無目的なものであったことを知ります。魂の成長を微塵も助長していないからです。魂の成長は自分を役立てることによってのみ促進されるものです。他人のために自分を忘れているうちに魂がその大きさと力を増すものだからです。
 地上にはこれまであまりに永いあいだ、あまりに多くの世俗的宗教が存在し、それぞれに異なった教えを説いております。しかしその宗教がもっとも大事にしてきたものは実質的には何の価値もありません。過去において流血、虐待、手足の切断、火刑といった狂気の沙汰まで生んだ教義・信条への忠誠心は、人間の霊性を1インチたりとも増しておりません。逆に、いたずらに人類を分裂させ、障壁をこしらえ、国家間、はては家族間にも無用の対立関係を生みました。論争の原因ともなっております。分裂と不和を助長することばかりを行ってきました。神の子等を一つに結びつけることに失敗しております。私が宗教的建造物や俗にいう宗教に価値を認めない理由はそこにあります。主義・主張はどうでもよいのです。大切なのは何を為すかです。

  『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.216-217


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  6-d  (宗教とは自分を人のために役立てること)

 宗教とは何かと問われれば私は躊躇なく申し上げます---いつどこにいても人のために自分を役立てることです、と。神学などはどうでもよろしい。教義、儀式、祭礼、教典などは関係ありません。祭壇に何の意味がありましょう。尖塔に何の意味がありましょう。ステンドグラスの窓にしたからどうなるというのでしょう。法衣をまとったからといってどう違うというのでしょう。そうしたものに惑わされてはいけません。何の意味もないのです。
 自分を人のために役立てること、それが宗教です。あなたの住むその世界のために役立てるのです。世の中を明るくするために役立てるのです。人の心を思いやり、やさしくいたわり、気持を察してあげなさい。しかし同時に、邪悪なものに対しては敢然と闘ってください。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.57


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 6-e (霊の力がいちばん見られなくなっている宗教界)

 いま霊の力がいちばん見られなくなっている場所は、皮肉にも、本来そこにこそ存在しなければならないはずの宗教界です。最高の位階に到達した者ですら、宗教の本来の起源であり基盤であるべき霊力に背を向け、われわれには不可解きわまる理由から、生きた霊的真理よりもただの形骸の方を後生大事にしています。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、p.112


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 6-f (霊性のないところに宗教はない =1=)

 この地上世界の危急存亡の時代に、真理の守衛であるべき者たちが霊の威信をもって語ることが出来ないというのは悲しむべきことです。それは、霊力というものが(イエスの時代だけでなく)今の時代にも顕現できるという事実にまったく気づかないからです。彼らは霊的真理と完全に疎遠になっているばかりでなく、愚かしい信仰がこびりついているために、それが頑固な壁となって霊的な真理、霊的な叡智、霊的な力を受けつけなくなっているのです。
 そうした偏狭で不毛の儀式とドグマと信条で固まった世界に霊力の入る余地があるわけがありません。現代の教会には霊の力は一かけらもありません。あるのは、またしても白塗りの墓(ロに説くことと腹の中とが違う偽善的宗教家)、干からびた骨(真理の豊かさを身につけていない、精神のやせこけた宗教家)、豪華な建造物です。見た目には華麗でも霊の照明がないために死のごとく冷ややかで不毛で荒涼としております。さらにいけないのは、そうした本来の宗教とは無縁の、干からびた神学的教義の収納所となってしまった教会内に霊が働きかけようとしても、それをまったく受けつけようとしなくなっていることです。
 いささか辛らつすぎたかも知れませんが、しかし何が悲しいといって、本来は先頭に立って指導すべき立場にある者が、こうした大切な霊的真理のこととなると、しんがりに回っているということほど情けない話はありません。みんな善人ばかりです。罪なき人生を送ろうと心掛けている真面目な人たちです。が、宗教のすべてが基盤とすべき霊的なものに完全に無感覚になっているのです。霊性のないところに宗教はありません。“文字は殺し霊は生かす”(コリント)のです。霊のないところに生命は存在しないのです。
 もしも教会がそれ本来の目的を果たしていれば、言いかえれば、もしも神学的教義・儀式・慣習というわき道へそれることがなかったならば、こうして私のような者がわざわざ戻ってきて、神の計画の中での地球の本来の位置を維持する上で不可欠の霊的連絡関係を回復するための努力をする必要もなかったことでしょう。
 神に仕える者と自認する聖職者たちも、今では神について、神の働きについて、あるいはこの巨大な宇宙を支配している大自然の摂理について何も知りません。しかも、霊界からの働きかけに抵抗し反抗しようとするのですから、愚かとしか言いようがないのです。
 こうした聖職者たちは何世紀も昔の霊の働きかけの物語は信じながら、同じ霊が今日でも顕現できるということを信じようとしないのは、いったいなぜなのでしょう。彼らが説いていることは実はイエスとは何の関係もないことばかりです。
 その点あなた方は他の世界各地の方と同様、イエスみずから言った通りにイエス以上の仕事をすることができる、恵まれた方たちなのですが、そういうあなた方は、彼らからすれば邪教の徒なのです。キリストの名にちなんで出来たキリスト教会が相も変らずキリストそのものを裏切り続けている事態を見て、キリストご自身がどれほど悲しい思いをされているか、一度その人たちに見ていただきたい気持ちです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.112-114


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 6-g (霊性のないところに宗教はない =2=)

 霊力は一つの計画のもとに働きます。幾世紀にもわたってその時代の宗教を通して顕現しようとして来ました。それを受け入れる霊能者や霊媒は必ずどこかにおりました。その人たちが行ったことを無知な人は“奇跡”だと思いましたが、それこそが霊的法則の生々しい顕現のしるしだったのです。それは今日有能な霊媒による交霊会で見る現象や治療家による奇跡的な治療と同じで、人間を通して霊力が働いたその結果なのです。不変・不滅の大霊から出る同じ霊力なのです。簡単なことなのです。
 そうした霊力の激発のたびに、既得権力の座にある教会関係者すなわち教義作成者、神学者、学識者が集まって詭弁を弄しました。そして神からのインスピレーションを自分たちがこしらえた決まり文句と置きかえました。しかし、いかに頭のいい人がこしらえたものでも、所詮は人間の頭脳から出たものにすぎませんから、それはいつかは力を失う運命にありました。霊が生命を与えるのです。神学は本質そのものが不毛なのです。
 測り知れない努力の繰り返しの末に、霊界の上層部において、もはや地上への流入は既成の宗教界を通じては無理との判断のもとに、宗教界とは無縁の者を通じて行うとの決断が下されました。そして、ここにお出の皆さんのように何の宗教的肩書きも持ち合わせない普通の人々が霊力の受け皿として養成され、各自がイエスと同じように霊の威力を実際に見せ、また同じような現象を演出してみせることになったのです。
 教会、寺院、チャペル(キリスト教の礼拝堂)、シナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)を通して支配力を行使している者たちが何とわめこうと、霊力はすでに根づいております。もはや、いかなる力をもってしてもこれを消すことはできません。挫折させることもできません。ますます勢いを増しながら地上世界を元気づけていくことでしょう。ぜひともそうあらねばなりません。何ものによっても阻止されることはありません。
 このように、私は霊的真理と霊的実在についての知識の普及に全面的に賛成ですが、施設や建造物にはまったく関心がありません。私の関心の対象は大霊の子としての人間そのものです。私はその大霊の子等が其の自我を見出し、霊的遺産を理解し、天命を全うするところに、物的宇宙創造の目的があると理解しております。われわれの仕事は、可能なかぎりの手段を尽くして人間をいちばん望ましい方法で指導し、一刻も早く霊的な受け入れ態勢を整えさせてあげることです。その段階から種子が芽を出しはじめるのです。
 一方には宗教界の指導者の感化を仕事としている霊団もいます。個人的に指導しているのです。何とかして本当の自分自身と、自分に存在を与えている力、存在の意味、そして聖職者として為すべきことについて、地上生活が終わらないうちに理解させる必要があるのです。
 これまで地上には数々の帝国が生まれましたが、いつしか滅んでいきました。独裁者が出現しましたが、やがて消えていきました。宗教が権力をふるったことがありましたが、必ず没落していきました。大霊は歩みを止めることがありません。この霊力はこれからも顕現し続けます。悲観する余地はどこにもありません。
 既成宗教がこのまま真理の光を見出せないままでいると、精彩を失い暗闇に包まれて行きます。ですから、霊的真理を広めることが大切なのです。ですが、私に啓示された知識のかぎりで言えば---そのかぎりでしか言いようがないのですが---いちばん大切なことは(そうした組織ではなく)個人に目を向け、霊力の顕現の窓口となる霊的資質の開発を通じて、一人一人を霊的に甦らせることです。いささかなりとも神の使節としての仕事ができるわれわれは、実に光栄この上ないことです。この光栄はもはや既成の宗教団体では浴せません。心の奥では自分でも信じられなくなっている古びた決まり文句を平気で口にします。とっくの昔に意義を失っている型どおりの文句と使い古した儀式と慣例を繰り返すのみです。
 そうした教会や大聖堂や寺院は、そこに霊力が機能しなくなったために不毛で荒涼とし死物と化しております。生命を与えるのは霊なのです。彼らはその霊、彼らのいう聖霊を否定するようなことばかり繰り返しているのです。そこでその聖霊の方が彼らに見切りをつけ、われわれのように別に風変りな式服をまとわず、説教壇に立つこともせず、ただ霊力の通路として一身を提供する者を活用して、神の計画の中においては誰一人として無視されたり見落とされたりすることがないことを証明せんとしているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.114-117


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 6-h[12-zb] (宗教にとってセレモニーや慣例行事は必要か =1=)

 質問: スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して“最後の晩餐”の儀式を行うべきでしょうか。

 そういう儀式を催すことによって身体的に、精神的に、あるいは霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれは最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、私自身にはそういうセレモニーに参加したいという気持は毛頭ありません。そんなことをしたからといってイエスは少しも有難いとは思われません。私にとっても何の益にもなりません。否、霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。
 イエスに対する最大の貢献はイエスを模範と仰ぐ人々がその教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、懐疑と当惑の念に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人すべてに手を差しのべてあげることです。
 儀式よりも生活の方が大切です。宗教とは儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。“聖なる書”と呼ばれている書物から活字のすべてを抹消してもかまいません。賛美歌の本から“聖なる歌”をぜんぶ削除してもかまいません。儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に“宗教的”で有りうるのです。そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されるからです。
 私は皆さんの関心を儀式へ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく生活そのものです。生活の中で何をなすかです。どういう行いをするかです。“最後の晩餐”の儀式がイエスの時代よりもさらにさかのぼる太古にも先例のある由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.147-148


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  6-i [12-zc] (宗教にとってセレモニーや慣例行事は必要か =2=)

 他人のためになることをする---これがいちばん大切です。私の意見は単純明快です。宗教には“古い”ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関係もないものばかりだということです。
 私にとって宗教とは崇拝することではありません。祈ることでもありません。審議会において人間の頭脳が考え出した形式的セレモニーでもありません。私はセレモニーには興味はありません。それ自体は無くてはならないものではないからです。しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、無理してそれを止めさせる理由はありません。
 私自身としては、幼児期を過ぎれば誰しも幼稚な遊び道具はかたづけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係---これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えと何の関係もありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.148-149


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 6-j [59-p] (なぜ宗教の捉え方が違ってきたか)

 私ども霊界の者がこうして地上へ戻ってくる目的の真意が、ほかならぬ宗教問題で指導者であるべき人たちから曲解されております。いつの時代にも宗教とは基本的に霊カとの関わり合いでした。それはまず地上の人間の霊的向上を指向し規制する摂理を教える使命を帯びた者が地上へ舞い戻ってくるという事実から始まります。つまり宗教の本来の目的は人間の霊性に関わっているのです。そこから出発し、ではその霊性を正しく発達させる上で霊界から指導を受けるにはどうすべきかを説くのが宗教の次の仕事です。霊的摂理は広範囲に亘っています。ところが不幸にしてそれが誤って解釈され、その上、それとは別の意図をもった聖職者が割り込んで来たために混乱が生じたのです。
 人間も根本的には霊であり、それが肉体を使用しているのであって、付属品として霊を宿した肉体的存在ではないわけです。肉体は霊に従属しているものです。地上生活の全目的はその内在する霊に修行の場を与え、さまざまな体験を通じてそれを育み、死によってもたらされる肉体からの解放の時に備えて身仕度させることです。それから本当の意味での生活が始まるのです。従って宗教とは霊が霊として本来の生活ができるように指導するための処生訓であり道徳律であると言えます。ところが不幸なことに、古い時代に霊の道具である霊媒と聖職者との間に衝突が生じたのです。聖職者の本来の仕事は聖堂や教会等、宗教的行事の取り行われる建造物の管理でした。原初形態においては両者の関係はうまく行っておりました。が、ある時代から聖職者の方が神示を受ける霊媒にばかり関心が向けられることを不愉快に思いはじめました。そしてそれまでに入手した神示を資料として、信条、儀式、祭礼、ドグマ、教説等を分類して綱領を作るという、いわゆる神学的操作を始めたのです。今日そのどれ一つとして霊の資質や生活や発達と実質的に関わりのあるものはありません。
 かくして真の宗教の観念が今日では曖昧となってしまいました。宗教というと何かお決まりの儀式のことを思い浮かべ、"聖典″と呼ばれるものを読み上げることと考え、讃美歌を歌い、特別な衣装を着ることだと考えるようになりました。何やら難しい言説を有難く信奉し、理性的に考えれば絶対におかしいと思いつつもなおそれにしがみつきます。私たちはいかなる神学、いかなる教義、いかなる信仰告白文にも関心はありません。私たちが関心をもつのは人間の霊性であり、私たちの説くこともすべて、絶対的に従わねはならないところの霊的自然法則に向けられています。人間のこしらえたものを崇めるわけにはいきません。宇宙の大霊によって作られたもののみを実在として信じます。そこに宗教の捉え方の違いの核心があります。
 人のために役立つ行為、霊性に動かされた行為、無私と利他的行為、自分より恵まれない人へ手を差しのべること、弱き者へカを貸してあげること、多くの重荷に喘ぐ人の荷を一つでも持ってあげること---これが私たちの説く宗教です。
 "神とイエスと聖霊は三にして一、一にして三である″などと説くことが宗教ではありませんし、宗教的であるとも言えません。それを口にしたからといって霊性はみじんも成長しません。朝から晩まで讃美歌を口にしたからといって霊性が増えるわけではありません。バイブル(キリスト教)を読んでも、クルムード(ユダヤ教)を読んでも、コーラン(イスラム教)を読んでも、バガバッド・ギーター(ヒンズー教)を読んでも、その他いかなる聖なる書と呼ばれるものを目が疲れるほど読んでも、それだけで霊性が成長するわけではありません。"宗教的″と見なされている行事をすべて行っても、それによって一層価値ある人生へ魂を鼓舞しなければ、言いかえれば内部の霊性を少しでも多く顕現させることにならなければ、私たちが考えている意味での宗教的人間になるわけではありません。
  ラベルはどうでもよいのです。形式はどうでもよいのです。口先だけの文句はどうでもよいのです。大切なのは "行い″です。"行為″です。つまり各人の毎日の"生活″そのものです。私たちは因果律という絶対的な摂理を説きます。つまり誰一人としてその神の摂理のウラをかくことはできません。ごまかすことはできません。自分が自分の救い主であり、購い主であり、自分の過ちには自分が罰を受け、善行に対する報酬も自分が受けると説くのです。また、神の摂理は機械的に機能し、自動的に作用すると説きます。すなわち親切、寛容、同情、奉仕の行為が自動的にそれ相応の結果をもたらして霊性を高め、反対に利己主義、罪悪、不寛容の精神は自動的に霊性を下げます。この法則は変えようにも変えられないのです。みっともない執行猶予も安価な赦免もありません。神の公正が全宇宙に行きわたっております。霊的な小人が巨人のふりをしてもごまかせません。死の床での悔い改めも通用しません。
 広大なる宇宙で生じるもの全てに責任をもつ大霊(神)の不変にして絶対的威力を有する摂理に目を向けましょう。私たちは常にその摂理を念頭に置いています。なぜなら私たちの説く神は人間的弱点や人間的激情、人間的憤怒に動かされたり、好きな人間と嫌いな人間とを選り分けたりするような、そんな人間的存在ではないからです。私たちの観る宇宙は法則によって支配されています。すみずみまで行きわたり、これからも常に存在し続ける法則です。地上の人間がこれまであまりに永いあいだ振り回され隷属させられてきた誤った観念と虚偽、偏見と無知を無くしていくには、地上の生命現象と生活現象のすべてがその絶対的法則によって支配されていることを教える以外にはありません。その知識が少しでも増えれば、それだけ理解力も豊かになることでしょう。真の美しさを遮っていたべ一ルが取り除かれ、有限の地上的存在の視野を超えたところに存在する、より大きな生活を少しでも垣間見ることになるでしょう。
 かくして私どもは常に神の永遠の自然法則、絶対に狂うこともなく、過ることもない法則、地位の高い低いに関係なくすべての存在に等しく働く法則に忠誠と感謝の念を捧げる者です。誰一人おろそかにされることはありません。誰一人見落されることはありません。誰一人忘れ去られることはありません。誰一人として一人ぽっちの者はいません。法則や働きの及ばない人、範囲からはみ出る人など一人もいません。あなたがこの世に存在しているという事実そのものが神の摂理の証です。人間の法律は機能しないことがあります。改められることもあります。人間の成長と発展に伴って視野が広がり、知識が無知を無くし、環境の変化に伴って新たな法令が要請されたりすると、従来の法律が廃止されたり別の法律と置きかえられたりすることもあります。しかし神の法則には新しい法則が付け加えられることは絶対にありません。改正もありません。解釈上の変化も生じません。いま機能している法則はこれまでずっと機能してきた法則であり、これからも変わることなく機能していきます。一瞬の休みもなく機能し、そして不変です。

    『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.69-73

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 6-k (霊的に目覚めた宗教界の指導者はそれまでの宗教観を棄てるべきか =1=)

 ― (別の日の交霊会でサークルのメンバーが質問した)こうした霊的真理に目覚めた宗教界の指導者は、それまでに抱いてきた宗教観を棄てるべきでしょうか。

 各人各個の責任ということが絶対的原理の一つです。各自が自分の行為に責任をもつということです。真理をごまかすことはできません。理解の芽生えとともに良心の声が次に取るべき行為を指示します。その指示を素直に受け止め、なるほどと納得がいったら、何をおいてもその指示に従わなければなりません。それが原理です。その原理を無視している人たちを個人的に私が批難することは控えたいと思います。私がそのようなことをするのは適当でないからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 102-103

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 6-l (霊的に目覚めた宗教界の指導者はそれまでの宗教観を棄てるべきか =2=)

 ― 批難するのは間違いですが、取るべき態度を説くのは許されるのではないでしょうか。

 あなた方のなすべきことは、いつどこにおいても真理を説くということです。人との出会いがそれを目的としている(背後霊によって導かれている)場合があります。あなたも、あなたにとって最も必要な時にそうした出会いによって救われたのです。そこに摂理の働きがあり、真理はそういう形で広められていくものなのです。
 それからあとのことは、もうあなたの責任ではありません。地上の人間は一人一人がみな異なった進化と発達の段階を歩んでいるのです。すべての者にアピールするたった一つの真理というものは無いのです。したがって、こと霊的な問題に関するかぎり“集団回心”ということは有りえないのです。
 “風は思いのままに吹く”(ヨハネ3・8)と申します。霊力はそれを受け入れてくれるところへ浸透していきます。パン種が絶え間なく働いているのです。各自が各自の成長と進化の段階に応じてその真理の意味するところを理解し、そしてそこから次の段階へと進むほかありません。
 大切なのは真理がその人の自我に居場所を見出すということです。前にも申した通り、霊的なつながりは、いったん出来あがったら二度と切れることはありません。それをこしらえることが、霊力が地上へ顕現していくためのチャンネル、つまり通路をこしらえることになるのです。
 自分が理解したかぎりの真理― あなた方はもとより私自身もまだそのすべてを理解したわけではありません― に照らして行動する以外に生きる道はありません。それ以上のこともそれ以下のことも求められることはありません。何度も申しておりますように、自分としてのベストを尽くすことです。それ以上のことができるわけがありませんし、又それ以下のことをすべきではありません。
 あなた方が真理を広め、間違いと迷信と無知とを駆逐するために行う努力の一つ一つに、霊界からの祝福と援助があります。私たちがこうして地上世界へ戻ってきた目的もそこにあります。
 それにつけても情なく思うのは、本来ならば霊的な問題について最も多く知っていなければならないはずの聖職者が、いちばん無知であることです。現在の地上世界の既成宗教のすべてが萎縮し、霊的啓示の根源からあまりに遠ざかりすぎて、それを最初に受け止めた霊覚者の教えと、その後継者たちによって歪められた教説との間の見分けがほとんどつけられなくなっている現実は、大いに反省すべきであると思います。
 私のような者がこうして地上へ戻ってきて、霊的な教訓、霊的な哲理、霊的な倫理を説き、宗教がその基盤とすべき真実の原理を述べるよう要請されることになったのも、地上の既成宗教がその本来の機能を失い、道を求めて訪れる人に其の導きを与えることができなくなってしまったことが大きな理由の一つなのです。
 そもそもそうした宗教の誕生の基盤となったのが霊力であったのに、選りによってその宗教が作り上げた建造物の中がいちばん霊力がお留守になっているというのは、何とも皮肉なことです。しかも、その組織のリーダーたちは、他の面(社会奉仕等のこと。第三巻六章参照−訳者)では殊勝な心掛けの人たちかも知れませんが、肝心の霊力に対する受容力に欠け、それを見る目も聞く耳も語る口も持ち合わせなくなっております。その無知ゆえに今の時代でも聖霊の働きかけがあることを認めようとしません。歴史に語られている大きな事象を起こしたのと同じ霊力が今日でも働きかけているのです。
 その点あなた方は光栄にもその強大な霊力の保管者であり頒布者でいらっしゃいます。為政者の無知と盲目ゆえに危機に陥り、今なおその危機から脱しきれずにいる地上世界のために大切な貢献をしていらっしゃいます。
 あなた方のように真理に目覚めた方は世界中に大勢いますが、そういう人のなすべきことは、自分が受けた影響力をさらに他の人々へ広げていくことです。それによってさらに大勢の人が自分とはいったい誰なのか、何者なのか、なぜこの地上に存在しているのかを知り、その目的を成就するには何をなすべきかを理解していくことでしょう。
 悲しいことですが今の地上世界には、まるで暗い土中に住むモグラのように、人生について、生きる力の始源について、その目的について何一つ理解せず、生命のもつ物的・精神的・霊的な喜びを味わうすべを知らない人が無数に存在します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 103-106

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 6-m [72-j] (子供には宗教をどのように教えていけばよいか)

 ―(質問者かわる)妻と私の間に子供ができた場合、宗教問題についてその子にどう教えたらよろしいでしょうか。とくに私の場合はキリスト教信仰に全面的には納得していませんし、スピリチュアリズムの真実性を理解しております。

 思っていらっしゃるほど難しい問題ではありません。親としてのあなたの責任は、その子が自然な成長をとげるようにしてあげることです。幼少時は精神が柔軟なために、教え込まれたものは思慮分別なしに吸収してしまいます。そういう時期に間違ったことを教えないように、正しい宗教的知識の中で個性を発揮させることが大切です。
 ご承知のように、幼少時に受け入れたものは潜在意識の中に固着し蓄積して、その後の真理の受け入れの障害となります。私たちが人間に真理を教え込もうとする際に一ばん困るのは、幼少時に受けた間違った教育が無意識のうちに抵抗させる働きをすることです。すっかり根づいてしまっているために、それを排除するのに大へんな時間が掛かります。
 また時おりあるのが一種のカタルシス的反応です。つまり、成人してから、それまでに蓄積したものを良いものも悪いものも一切投げ棄てて、世の中のすべてのものへ反抗することに快感を覚えるようになります。
 親としてのあなたの責任は、子供の心に間違った教えを植えつけないようにすることです。どうか子供にはすべての宗教の基本となっている真理、共通した真理を教え、大きくなって神学的教義を教えられても魅力を感じず、単純・素朴な真理を求めるようになる、そういう素地をこしらえてあげてください。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 118-119

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 6-n (既成の宗教が真理の理解を妨げている時の方策について)

 ―すでに何らかの宗教を教え込まれて育っている人がいます。その教えがもし新しいものの理解を妨げている時は、それをぶち壊すべきでしょうか。

 それは難しいでしょう。不幸なことに、そういう人はすでに子供時代にいわゆる洗脳をされています。これこそ宗教的であると信じられている概念を― 実はそうではなく、ただの神学的上の概念にすぎないのですが― 疑うことを知らない、したがってまったく無抵抗の柔軟な精神に植えつけられております。その柔軟な精神が、成人していくにつれて固くなっていきます。やがてその概念はただの概念として所有されている状態から、逆にその人間をがんじがらめに縛りつけるようになります。
 だから厄介なのです。といって、その人が後生大事にしているものをいきなりぶち壊すようなことはしてはなりません。それ以外にもいろんな宗教的概念があることを教えてあげることです。宗教の起源について読むべき本が沢山あります。キリスト教徒も、ユダヤ教徒も、仏教徒も、あるいはイスラム教徒も、生まれる国が違っていたら別の宗教の信徒になっていた可能性があることを教えてあげることです。
 地上には数え切れないほどの宗教があります。しかし神は一つ、大霊は一つなのです。その神はクリスチャンでもなければユダヤ教徒でもありません。スピリチュアリストでもありません。
 真の意味で宗教的であるということは、同胞に対してだけでなく動物に対しても思いやりの心を持つことです。他の存在を思いやる心がないようでは霊性を欠くことになります。
 霊能者や心霊治療家が人生の辛酸をなめさせられることが多いその理由の一つは、みずから苦しんではじめて他人への思いやりの心が芽生えるからです。神の道具としての道が常に酷しく、ラクをさせてもらえないのは、そこに理由があります。

 ― 政治をあずかる人も同じですね。

 でも神の道具の方が酷しいでしょう。為政者というのは、たとえば他国へ戦争をしかけておいて、実際に前線で戦うのは一等兵、二等兵ばかりです。物質偏重思想との戦いにおいても、その最前線で酷しい目にあっているのは為政者ではなくて神の道具なのです。
 他人へは哀れみをもって接し、信仰が間違っているからといってそれをぶち壊すのではなく、ほかにもいろいろな信仰があることを教えてあげることです。ハンマーを振り回すのではなく、ほかにも素晴らしい教えがあることをそれとなく気づかせる手段を考えてください。
 魂に受け入れる用意ができていれば、それが効を奏するでしょう。用意ができていなければ、残念ながらその人は霊的にも精神的にも地上では暗闇の中を歩む運命であり、霊界へ来てからも当分は同じ状態が続くことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 120-122

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 6-o (世界の宗教を統一しようとする運動は混乱を重ねるだけ)

 ― 世界の宗教を統一しようとする運動をどう思われますか。

 そうやってまた混乱に混乱を重ねていくのです。一体それがそんなに大事なことなのでしょうか。当事者は自分たちのことを大そう重要な人物であると考えているのかも知れませんが、霊の力も光も発揮されないただの建造物では、イエスの言った通り、それは“白塗りの墓”でしかありません。
 私は、儀式や教義が違うからというだけで共通の場がもてずにいる人たちのことは、あまり構う必要はないと思います。霊は常に一体化の方向へ働きます。仲違いをさせているのは人間の勝手な思想です。霊は、チャンスさえ与えられれば、その統合的意志を働かせるものです。
 本来ならば一つの大きな流れであるべきはずのそうした宗教を誕生させた、そもそもの起源が霊力であったことは歴史的事実です。が、それが何世紀も前から支流に分かれてしまいました。もう、そのまま好きな方向へ進むにまかせておけばよろしい。
 私たちは霊力そのものに全幅の信頼を置き、それを唯一の拠り所としております。それが善意の人々を鼓舞し、授かっている才能を駆使して同胞のために役立たせるよう導きます。又、人類に自己革新の道を教えることによって、各自が自分のみならず地上世界そのものを救っていくことになるでしょう。
 霊力は建造物を通して流れるのではありません。一般の大衆が、無限の叡智を具えた神から授かった才能を発揮することによって流入するのです。真の魂の自由をもたらし、本当の生き方を教えてくれるのは、その才能の活用以外にはありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 122-123

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 6-p (宇宙は自然法則によって支配されているというのは独断か)

 ―(質問者がかわる)あなたのおっしゃる“宗教的寛容”とはどういうものでしょうか。と申しますのは、私は“シルバーバーチの訓え”といっても基本的には他の宗教で説かれているものと同じだと信じます。が、それすら独断的で非寛容的であると見なされる可能性があるのではないかと思うのです。たとえば宇宙は自然法則によって支配されていて、それは完全であり不可変である、といったことです。

 私はそれまで一度たりとも不可謬性(絶対に間違ったことを言わないこと)を主張したことはございません。私もあなた方と同じく1個の人間的存在です。ただ、あなた方の理性に訴えるべき真理を説いているだけです。私がこうだと申し上げても、その裏にはそれを拒否したら罰が当りますという含みはみじんもありません。
 これが私が真理だと信じているものです、ということしか言えません。それを皆さんに検討していただくために提供しているだけです。仮にそれを押しつけて何が何でも受け入れさせようとしても、私たちにはその手だてがないのです。
 いかなる霊媒であろうと、その霊媒を通して語られたことにあなたの理性が反感を覚えたら、それには構わぬがよろしい。神はあなた方に理性と良識というものを与えておられます。それを使用すべきです。ドグマというのは理性的判断なしに受け入れるべきもののことです。
 私は、霊的な教えは知性でもって厳しく是非を判断すべきであると申し上げております。その厳しい詮策に耐えられるものは受け入れられるがよろしい。耐えられなければ拒否なさるがよろしい。それ以外に何か良い方法があるでしょうか。ご利益でしょうか、それとも罰でしょうか。
 それはいけません。私たちは愛と良識によって共通の場で交われることを確認することによって、皆さんの協力を得なければなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 123-125

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 6-q [72-k] (霊的実在に無知な宗教指導者の教義は何の益もない)

 ― 宗教の教義の問題が取りあげられ、それがただの人間的産物であり人間性の霊的向上にとって何の益もないのに、そのツケは結局霊界へ回されてくる事実を指摘して ―

 地上の大半の人間が生命とは目に見え手に触れるものにあると考えております。その当然の結果として、人生には深い目的などはないと信じています。
 それに加えて不幸なことに、肝心の霊的・精神的指導者たるべき人たちが、これ又、霊的実在について無知なのです。その証しを見たことも聞いたこともなく、したがって人に説くこともできないのです。今日では宗教とは教義のことであると思われており、それが後生大事にされているために、肝心の霊力の働く余地がないのです。
 教義というのは人間の考えによって作りあげられたものです。霊力は大霊から発せられますから、神性を帯びております。ですから本来は霊力による啓示の方が教義に優先されるべきなのです。
 現代の地上世界には義務教育を行う国がたくさんあります。子供たちは一つの目的つまり学校を出たあとの社会生活に適応できるような教育を実施するためのカリキュラムの中で学習するために学校へ通います。それを首尾よく学んだ子は、大人になって必ず直面する問題を、ある程度の理解をもって迎えることができます。きちんと学ばなかった子は卒業後の人生に備えができていません。
 あなたの地上生活は霊の幼稚園のようなものと思えばよろしい。真の自我である霊が私たちの世界つまり霊界での生活に備えるために、この地上で学習をするのです。
 しかし現実には、あまりに多くの人間が何の備えもなくやってまいります。そのため、こちらで改めて教育しなければなりません。地上でも、学校へ行かなかった大人に基本から教え直すのは難しいものですが、こちらへ来た人間に基本的な霊的教育をするのは、それよりはるかに困難となります。
 死後にも生活があり、そこでは地上生活の言動の一つ一つについて責任を問われるということを知れば、それからの人生観は一変するに違いありません。いえ、一変すべきなのです。
 聖書には“大地とそこに満つるものは主のものなり”(コリント@10・26)という言葉があります。一度手にしたら、霊的知識はいくら人にあげても減ることはありませんが、地上の富は、人にあげればそれだけ減ります。そこに霊的財産と物的財産の違いがあります。
 物的財産はいくら貯めても、それを永久に所持することはできません。地上に生きている間だけの管理人であり預り人であるにすぎません。失うことがあります。盗まれることがあります。価値が下がることがあります。色あせてきます。美しさを失います。いずれにしても、いつまでも自分のものではあり得ないのです。
 それに引きかえ霊的財産は、いったん手にしたら永遠に失うことはありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 126-128

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 6-r [61-w] (一人ひとりの成長と発達と進化の程度は同じではない =1=)

 ―(若い女性のゲスト)あなたのおっしゃる通り私たちは生命を唯一の生命力すなわち神から受けていますから、みんなして愛と奉仕を目的とすれば、すべてがうまく収まると思うのです。そこでお聞きするのですが、平均的な一般人もこうした深い霊的な教えを理解する必要があると思われますか。一般の人には私たちが同じ神から生命力を受けているという一つの事実を理解させ、それを生活の基盤として、さらに大霊についてより多くを知るようにもって行けば、スピリチュアリズムだのキリスト教だのという形で理解するよりも、非常に多くの人が理解できるのではないかと思うのです。

 おっしゃることは本質的には結構なことですし、異議を唱える人は誰一人いないでしょう。ですが、人間は一人ひとり成長と開発と発達と進化の程度が異なるものです。ある人にとってすぐに受け入れられることが、別の人からは拒絶されることもあります。もしも全員が画一的なレベルにあるのであれば画一的なメッセージで済むでしょうけど……
 たとえば、ある人に大霊とは愛と叡智の極致であると説いて、それがすんなりと受け入れられても、神の存在を頭から信じない人は即座に否定するでしょう。ですから、メッセージを与える場合は、内容をその人の受容力に応じたものにしないといけません。
 あなたが説くことの単純な素朴さがアピールする人もいるでしょうし、しない人もいるでしょう。人によっては世の中の不公平、さまざまな矛盾、一見無実と思える人の受難、利己的な人間がうまく罰を免れている現実を指摘して、それは一体どうなるのだと言うかも知れません。そこであなたは、延々と骨の折れる議論に巻き込まれてしまいます。
 そういうタイプの人には霊的実在の動かしがたい証拠、たとえは“不治”の宣言を受けた病気が治った人の例を持ち出すにかぎります。そうすれば常識的な言葉では説明できなくても、実際に慈悲または愛の働きを見せた非物質的エネルギーの存在だけは認めざるをえないでしょう。
 もう一つ大切なことがあります。知識と叡智と真理は無限に存在しますから、人間が手にすることのできる分量にも限界はないということです。うわべだけを見るかぎりでは普遍的な愛のテーマは単純に思えるかも知れませんが、その内側はとても複雑です。その複雑な裏面の理解の必要性を痛感するようになるのは、それだけの理解力が具わってからのことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 142-144

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 6-s [61-x] (一人ひとりの成長と発達と進化の程度は同じではない =2=)

 ―言い替えれば、あらゆる学派や宗派はそれなりの存在価値があるということですね。それぞれが、あるー定水準に達した者に何かを与えるようになっている― 他の者には満足できない宗教でもその人には満足できるということなのでしょう。

 無限なる霊は無限の表現形態を取ります。生命全体が段階的になっているのです。あなたは休みなく進化しつつあります。一段上がるごとに、その上にもう一段あることを知ります。山頂を一つ征服してみたら、その向こうにもっと高い山頂が見えてくる、と言ってもよいでしょう。
 人類は異なる成長段階にある者で構成されています。したがって、すべての者にアピールする一つの教えというものは提供できないのです。相手がどの程度のものを受け入れる用意ができているかを見きわめる必要があります。あなたの説く思想がそれである人もいるでしょう。別の論拠を持ち出してそれを論ばくする人がいるかも知れません。そういう人には五感に訴えるもの― 何か常識を超えたもので、根源は霊的でも顕現の仕方が物質的なものを持ち出さないといけません。(奇跡的な病気治療など―訳者)
 しかし、いかなる能力を駆使するにせよ、要はその人に成長の機会を与えることになれば、それが一ばん大切なことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 144-145

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 6-t (宗教の教義を信じた者が悩みから解放されるわけではない)

 正しい知識を地上に普及させる―これが私たち霊団の使命の一環です。一環とはいえ大変な仕事です。霊的実在に関する地上世界のあまりの無知に、このまま放置していては大変なことになるとの認識がこちらの世界で広まりました。その無知による弊害があらゆる面で顕著になってきたからです。地上世界だけではありません。霊界側にもそれが反映されはじめたのです。どの宗教も自分のところの教義を信じた者は死後たちまち光輝あふれる霊となって、悩みや労苦から解放されるかに説いておりますが、事実はそうではありません。これほど真実からかけ離れた教えはありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.28

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 6-u (犯した過ちのすべてに責任を取らねばならない日がやってくる)

 既成宗教に籍を置く者はいずれ、これまでに犯した過ちのすべてに責任を取らねばならない日がやってまいります。摂理を免れる方法はありません。神の目はごまかせないのです。とくに霊の声を聞いた者(心の奥では気づいている人)はその反動は大きくなります。その声に素直にしたがえない者は、何も知らずに信じている者より大きな報いを受けます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.60

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 6-v[19-g] (伝統的宗教によって罪でもないことが罪とされていることがある)

 ある国で不道徳とされているものが他の国では不道徳でないことがあります。たとえば伝統的宗教によって、罪でもないことが罪とされていることがあります。その宗教が勝手にかかげている教義に違反した者に対する、その宗教の内部だけの見解であり行為にすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 100

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 6-w[52-j] (霊的な教訓が地上に広まれば各宗教の区別もなくなっていく)

 霊的な教訓が地上に広まるということは、人種間の隔絶性に終止符が打たれることを意味します。国家間の障壁が取り除かれることを意味します。民族的差別、階級的差別、肌色による差別の撤廃を意味します。さらには、チャーチ、チャペル、テンプル、モスク、シナゴークといった各宗教の礼拝・儀式の場の区別も無くなります。なぜなら霊的に見ればいずれの宗教も大霊の真理の一部を包蔵しており、自分たちにとってこの上なく貴重に思えるものも他の宗教が大切にしている真理と少しも矛盾対立するものでないことを理解するようになるからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 102

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 6-x [68-x](真の宗教とは同胞に奉仕することによって神に奉仕すること)

 地上では宗教に帰れ″という呼びかけがあるそうですが、真の宗教とは同胞に奉仕することによって大霊すなわち神に奉仕することです。そのためには殿堂も牧師も僧侶も聖典もいりません。そうしたものは奉仕の精神を植えつけ同胞への愛の心を強めることにならないかぎり何の意味もありません。いつどこにいても人のために役立つことをなさい。同胞の重荷を軽くしてあげることをなさい。それが宗教です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 130

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 6-y[68-z](人間は同胞に奉仕すること以外に大霊への協力の道はない)

 しょせん人間は同胞に奉仕することによって大霊に奉仕する以外に、大霊への協力の道はないのです。地上には政治学、経済学、社会学といった立派そうな名称やラベルをつけた分野があり、それが勿体つけて説かれておりますが、どれもこれも、しょせんは言葉の遊戯にすぎません。私に言わせれば service(サービス)の一語ですべてが片付くのです。人のために役立つことをする―それが宗教です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 130-131

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 6-z[68-zd] (宗教の本質と生命の本能的欲求はサービスの一語に尽きる)

 宗教界の学者は宗教というものを不可解きわまる一大神秘―難解な用語と教義による上部構造を築き上げ、それが難問と困惑と混乱を生んでおります。しかし宗教の本質、生命の本能的欲求はサービスの一語に尽きます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 133

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 6-za (人間は宗教の教義を守れば立派になるのではない)

 いかなる教義も魂を拘束します。教義を守るから立派になるのではありません。教義を守らなくても立派になれるのです。人間は教義の名のもとに戦争をしかけ、教義の名のもとに異教徒を焼き殺してきました。魂を束縛するもの、精神の手かせ足かせとなるもの、霊性の自由な発現を妨げるものは、いかなるものであっても取り除かねばなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 135

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 6-zb (宗教とは霊性に係わることであり教条とは関係がない)

 教義・ドグマ・教条・儀式・ステンドグラス・祭壇・法冠・コープ(儀式用マント)―こうしたものが宗教とどういう関係があるというのでしょうか。宗教とは霊性に係わることです。全存在に内在する霊性です。それが千変万化の律動と形態の中で顕現しています。大自然の営みにも、理想に燃えた指導者や社会革命家の努力にも、それが顕現しているのです。それが教条とどういう関係があるというのでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 136

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 6-zc (教義による束縛は疾病よりも大きな害悪をもたらす)

 教義による束縛は地上世界の病苦の一つです。疾病よりも大きな害悪をもたらします。身体上の病気による苦痛など物のかずではありません。なぜなら、それは魂の病気だからです。霊に目隠し″をしてしまうのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 136-137

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 6-zd (人間はなぜか神の叡智を見えなくする教義にしがみつく)

 人間はなぜか、神の叡智を見えなくする教義に好んでしがみつきます。不思議なことに、牢の中に閉じ込められている方が幸せと思う人がいます。自由とは、自由の有難さが分かった者だけが手にできるものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 137

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 6-ze[58-zt] (宇宙でもっとも大切な神の摂理にだけ従うべきである)

 私は教義も儀式も作法も説きません。神の愛が子らを通して顕現しようとしている事実だけを説きます。いかなる書物や巻き物、ドグマ、特定の指導者や権威、あるいは学識さえも絶対と思ってはなりません。聖遣物を信仰の対象としてはなりません。神の摂理に従うことだけを心掛ければよいのです。それが宇宙でもっとも大切なものだからです。それが唯一絶対の権威なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 137

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 6-zf (神はいかなる宗教的建造物の中にも閉じ込められることはない)

 宗教的建造物には過去の無知な時代の産物に過ぎないものがたくさんあります。神はいかなる建造物の中にも閉じ込められません。神はどこにでも遍く存在しているのです。石を積み重ね、高い尖塔を立て、ステンドグラスの窓を取り付ければ神が喜ばれると思っているようですが、そんなものよりも、太陽の恵みが子らの心を明るく照らし、雨が作物を実らせることの方が、神はよほど喜ばれます。ところが、そうした恵みと子らとの間にとかく宗教家と政治家と商売人が介在します。こうしたものこそ取り除かねばなりません。今それが次々と取り除かれつつあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 137-138

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 6-zg[13-zzf] (宗教とは無縁の人の方が霊格が高いことがいくらもある)

 宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが、人間を永いあいだ迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それがすべてのカギです。祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い選はれし者″の一人になったと信じている人よりも、唯物論者や無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格がたかいというケースがいくらもあるのです。問題は何を信じるかではなく、これまで何を為してきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.209-210

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 6-zh (宗教を無味乾燥で不毛の神学論争から救い出す)

 われわれの目的は言わば“宗教のリハビリテーション”です。宗教を無味乾燥で不毛の神学論争から救い出すことです。宗教間のいがみ合いから救い出し、教理上の論争を超越して実証的事実の基盤の上に其の宗教を確立し、霊界からの啓示を現在ますます増えつつある霊媒を通して地上に普及させ、あらゆる地域の人類に神が今なお働いていること、その恩寵はけっして過去の一時期に限られたものではなく、今日でも、いずこにいようと誰であろうと、同じ恩寵に浴することができることを知らしめる、そういう計画があるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 215

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 6-zi (一日のすべてを実践の時とする宗教が理想である)

 私の説く宗教は実践の宗教です。一日一日の宗教--- 一日二四時間、一時間六十分、一分間六十秒、そのすべてを実践の時とする宗教です。それが私の評価の基準です。それが目標とする理想です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 219

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 6-zj[12-zzf] (真の宗教には儀式も祭礼も豪華な衣装も不要である)

 キリスト教界にも奇特な行いをしている真摯な人材は確かに存在します。私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、ぜひとも取り除かねばならないからです。真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。同胞のために自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまでそれを何度申し上げてきたことでしょう。しかるに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と洗血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし、新しい霊的真理はすでに根づいております。もはやその流れをせき止めることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 221-222

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 6-zk (信仰だけではいけない、信仰に知識を加えよ)

 地上のいかなる賢人も、問題のすべてに対する回答を手にすることはできません。三次元の世界に閉じ込められている以上、叡知のすべてを手にすることは不可能なのです。その三次元の殻を破らないことには悟れないことがあるのです。そこに信じる″ことの必要性が生じるわけです。私は信仰だけではいけません。信仰に知識を加えなさい″と申し上げていることは事実ですが、その段階をさらに進むと、その知識にも三次元ゆえの限界があるために信じる≠オかない段階に至ります。すべてを理性で片づけるわけにはいかなくなった時、直感的洞察力の必要性が生じます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12』(近藤千雄訳編)
       潮文社、1988、p. 152











 7. スピリチュアリズム


 7-a (スピリチュアリズムが社会に貢献できる最大のもの)

 最大の貢献は神の子等にいろんな意味での自由をもたらすことです。これまで隷属させられてきた束縛から解放してくれます。知識の扉は誰にでも分け隔てなく開かれていることを教えてあげることによって、無知の牢獄から解放します。日蔭でなく日向で生きることを可能にします。
 あらゆる迷信と宗教家の策謀から解放します。真理を求める戦いにおいて勇猛果敢であらしめます。内部に宿る神性を自覚せしめます。地上の他のいかなる人間にも霊の絆が宿ることを認識せしめます。
 憎み合いもなく、肌の色や民族の差別もない世界、自分をより多く役立てた人だけが偉い人と呼ばれる新しい世界を築くにはいかにしたらよいかを教えます。知識を豊かにします。精神を培い霊性を強固にし、生得の神性に恥じることのない生き方を教えます。こうしたことがスピリチュアリズムにできる大きな貢献です。
 人間は自由であるべく生まれてくるのです。自由の中で生きるべく意図されているのです。奴隷のごとく他のものによって縛られ足枷をされて生きるべきものではありません。その人生は豊かでなければなりません。精神的にも身体的にも霊的にも豊かでなければいけません。あらゆる知識---真理も叡智も霊的啓示も、すべてが広く開放されるべきです。生得の霊的遺産を差し押さえ天命の全うを妨げる宗教的制約によって肩身の狭い思い、いらだち、悔しい思いをさせられることなく、霊の荘厳さの中で生きるべきです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1987、pp.174-175


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 7-b (スピリチュアリズムは信仰形体として組織をもつべきか)

 私はスピリチュアリズムが信仰だとは思いません。知識です。その影響力の息吹きは止めようにも止められるものではありません。真理の普及は抑えられるものではありません。みずからの力で発展してまいります。外部の力で規制できるものではありません。あなた方が寄与できるのは、それがより多くの人々に行きわたるように、その伝達手段となることです。それがどれだけの影響をもたらすかは前もって推し量ることはできません。そのためのルールをこしらえたり、細かく方針を立てたりすることは出来ません。
 あなた方に出来るのは一個の人間としての責任に忠実であるということ、それしかないのです。自分の理解力の光に照らして義務を遂行する---人のために役立つことをし、自分が手に入れたものを次の人に分け与える---かくして霊の芳香が自然に広がるようになるということです。一種の酵素のようなものです。じっくりと人間生活の全分野に浸透しながら熟成してまいります。みなさんはご自分で最善と思われることに精を出し、これでよいと思われる方法で真理を普及なさることです。

     『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.175-176


     *****


 7-c (霊的知識の普及に理解をもつ一人の若い女性に対して)

  新参の方にいつも申し上げていることですが、私の教えを(新聞・雑誌で)世間へ公表してくださる際に、私のことをあたかも全知全能であるかに紹介してくださっているために、私もそれに恥じないように努力しなければなりません。しかし実際は私は永遠の真理のいくばくかを学んだだけでして、それを、受け入れる用意のできた地上の人たちにお分けしようとしているところです。
 そこが大切な点です。受け入れる用意ができていないとだめなのです。真理は心を固く閉ざした人の中には入れません。受け入れる能力のあるところにのみ居場所を見出すのです。真理は宇宙の大霊と同じく無限です。あなたが受け取る分量はあなたの理解力の一つにかかっています。理解力が増せばさらに多くの真理を受け取ることができます。しかも、この宇宙についてすべてを知り尽くしたという段階には、いつまでたっても到達できません。
 前口上が長くなりましたが、私はあなたのようにお若い方にはいつも、その若さでこうした霊的真理を授かることができたことは、この上なく幸運なことであることを申し上げるのです。これから開けゆく人生でそれが何よりの力となってくれるからです。それにひきかえ、今の時代においてすら若い時から間違ったことを教え込まれ、精神構造が宗教の名のもとに滑稽ともいうべき思想でぎゅうぎゅう詰めにされている若者が少なくないのは、何という悲しいことでしょう。何の価値もないばかりか、霊的進化を促進するどころかむしろ障害となっているのです。
 神の教えではなく、人間が勝手にこしらえた教説が無抵抗の未熟な精神に植えつけられます。それが成人後オオムのごとく繰り返されていくうちに潜在意識の組織の一部となってしまうケースが余りにも多いのです。それが本当は測り知れない恩恵をもたらすはずの霊的真理を受け入れ難くしております。
 地上生活にとって呪いともいうべきものの一つは、無意味な神学的教説が着々と広まったことだったと断言して、けっして間違っていないと私は考えます。それが統一ではなく分裂の原因となり、お互いの霊的本性の共通性の認識のもとに一体ならしめる基盤とならずに、流血と暴力と抗争と戦争そして分裂へと導いていきました。
 それゆえにこそ私は、あなたがこうして霊的真理を手にされたことは実に恵まれていらっしゃると申し上げるのです。あなたは人生の目的を理解し、無限の愛と叡智から生み出された雄大な構想の中に自分も入っているのだという認識をもって、人生の大冒険に立ち向かうことができます。それは何ものにも替えがたい貴重な財産です。霊的兵器を備えられたのです。
 あなたは人生での闘いに臆することなく立ち向かい、いかなる事態に置かれても、自分には困難を克服し障害を乗り越え、霊的品格と美質と強靭さを身につけていく力が秘められているとの自信をもつことができます。それであなたも宇宙の大霊に貢献していることになります。
 大霊は無限の多様性をもった統一体です。人間一人ひとり異なっていながら根源においては同じです。同じ大霊によって生命を賦与されているからです。が、顕現の仕方は多岐にわたり、まったく同じ個性は二つと存在しません。しかも、いずれも神の遺産として、発達させれば自分より恵まれない者を救うことのできる能力が賦与されているのです。
 あなたも例外ではありません。その能力を発達させるのがあなたの義務なのです。必ずしも霊的能力にかぎりません。他にもすべての人間が所有し世の中を豊かにする手だてとすることのできる才能がたくさんあります。地上の人間のすべてがそれぞれに授かっている才能や技能を発揮するようになれば、どんなにか世の中が明るくなることでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.171-173


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 7-d (大英心霊協会事務長として霊的知識の普及に献身する)

   =S・A・G・B (the Spiritualist Association of Great Britain)の事務長のロシター氏(Ralph Rossiter)は、度重なる病気と闘いながら霊的真理の普及に献身している。そのロシター氏が奥さん同伴で交霊会に招待された時のシルバー・バーチのことば=

 あなたや奥さんのような方が私との対話を希望してくださることは私にとって大きな喜びの源泉です。お二人は知識も経験も豊富でいらっしゃるので、私から改めて申し上げることはほとんどありません。ただ、時には別の通路をへて届けられる言葉に耳を傾けるのも、お二人がご自分で思っていらっしゃるよりはるかに霊の力が身近かな存在であることを確認し自覚なさる上で助けになりましょう。
 日夜スピリチュアリズムの普及のために働いておられる方は、霊的真理があまりに身近かな存在であるために木を見て森を見ず≠フ弊害に陥ることがあります。時には一服して、自分がどういう位置にあるかを確かめるのも良いことです。残念ながら地上には成果を記録する装置がありませんから、自分たちの努力によってどういうことが成就されつつあるかを正確に推し測ることが出来ないのです。
 あなたの協会には大勢の人が訪れ、そして帰って行きます。ある者は病気が癒えて、ある者は元気づけられて、ある者は啓発されて、逆にある者はがっかりして、ある者は何の反応もなしに帰って行きます。魂にその準備ができていなかったのですから止むを得ません。が、そうしたことが絶え間なく繰り返されると、つい肝心な基本、すなわち魂に訴えるという目的を忘れてしまいがちです。大切なのは魂の内部に宿る神の火花を燃え立たせ、其の自我に目覚めさせることです。
 地上の悲劇は、霊的真理にまったく無知な人間が無数にいるというところにあります。みずから信心深いと思い込み、せっせと礼拝の場へ通っている人でも、霊的実在と何の関わりも持っていない人が大勢います。と言うことは、真の豊かさと美しさ、物質という次元を超えた生き方がもたらしてくれる歓喜というものに、まったく無縁ということになります。
 そういう人たちは地上生活の目的が分かっておりません。地上を去るまでにしておかねばならないことについて何の予備知識も持ち合わせません。人生の価値観が間違っておりますから、優先させるものが間違っております。視野のピントがずれております。物事の判断基準が狂っております。生活は不毛で味気なく、自我の開発などとうてい覚束なく、生きる目的というものがありません。いつも迷路の中に生きており、出口が見出せずにいます。
 あなた方の仕事はそうした地上世界にあって一つの灯台となることです。ぐるぐると絶え間なく光線を放射し、それが闇を貫き、受け入れる用意のできた人に真理の在りかを教えてあげるのです。いつも申し上げていることですが、地上生活の終点に来た時に、たった一人の魂にでも真の自我を見出させてあげることができていたら、それでその人生は十分に生き甲斐があったことになります。
 これまで、たった二人どころでなく数え切れない人々が、あなた方のおかげで生命の秘密を発見し、人生を十分に楽しみ、恐れることなく死後の生活に備えることが出来ていることを思えば、本当にしあわせな方であると言えます。
 叶えられることなら、あなたや同僚の方、それに、さんざん悪しざまに言われている霊媒が行っている仕事の偉大さが実感としてお解りいただければいいのですが……。あらゆる困難、さまざまな問題、幾多の辛苦、それに費用の問題を抱えながらも、あなたはよくぞそれらを切り抜けてこられました。これからもきっとやり抜かれることでしょう。
 莫大な霊力と、それを使用して活動している大勢の進化せる霊の存在を知りさえすれば、それが得心していただけます。地上で為し得る最も偉大な仕事なのです。容易でないことは私もよく承知しております。しかし、何事も価値あるものは困難がつきものなのです。
 悲しいかな、数だけは沢山ある現代の教会にも、それはなし得ません。魂に感動を与えることはできません。内部の神性にカツを入れることはできません。が、神の使者には、たった一人でもそれができます。生まれつき霊的能力を授かっているからです。霊覚を持ち合わせない宗教家は、ありきたりの説教と信条の繰り返しに頼るしかなく、便宜主義へと堕落します。霊的淵源からのインスピレーションとも啓示とも無縁なのです。
 肝心なことは、魂が其の自我を見出し全存在の源に触れることです。神が遠く離れた近づき難い存在ではなく自分の内部にあること、したがって困難や危機に遭遇した時に使用できる霊的な武器、力、貯え、潜在力がちゃんと備わっていることを知るべきです。
 それだけではありません。内部の莫大な潜在力とは別に、外部の無限の霊力の恩恵を受けることもできるのです。進化の階段を一つ一つ昇りながら、その一段ごとにその霊格に似合った霊が待機して援助の手を差しのべてくれるのです。これは大切な事実です。
 これまであなたがたがたどって来られた人生はラクではありませんでした。これからも決してラクではないでしょう。もしも私がラクな人生をお約束したら、それはウソを言うことになります。が、あなたはこの仕事をするために生まれて来られたのです。支払わねばならない負債を背負って来られたのです。その栄光ある仕事の松明が今あなたに手渡されています。何としてもその明かりを灯し続けて、後を引き継ぐ人に手渡す時には一段と輝きを増しているようにして下さい。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.79-83


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 7-e (組織よりも自分の能力に応じて真理を追究することが大切)

 質問:正直言って現在のスピリチュアリズム運動と霊媒現象は程度が低く・・・・

 ちょっとお待ちなさい。私たちは今あなたがおっしゃったスピリチュアリズム運動というものには関心はありません。私たちが関心を向けているのは霊的資質の開発準備が整っている人たちで、スピリチュアリストの組織の中の人であるか外の人であるかにはこだわりません。組織には組織としての目的があり、それはその組織の者が遂行すればよろしい。私たちの責務はいつどこにいても自分を役立てることを望んでいる人を支援することです。
 私は名称というものにはこだわりません。スピリチュアリスト、セオソフィスト(神智学会員)、ロゼクルーシャン(バラ十字会員)、こうしたものはただのラベルにすぎません。大切なのは一人一人が自分の能力に応じて真理を追求することです。霊媒能力が大切なのは、地上でもっとも大きな貢献の手段となりうる能力を授かった人間がそこにいるということを意味するからです。それは大へんな責任を伴う仕事であり、その人は神聖な信託を受けているのです。と言うよりは、そう自覚すべきなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、p.124


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 7-f(夫の信仰よりも子供たちのスピリチュアリズムを優先すべきか)

 (霊的なことにまったく理解を示してくれない夫が重病の床にあって悩んでいる熱心なスピリチュアリストの夫人から)― 子供たちもこの逆境によく耐えてくれておりますが、それとは別の問題があるのです。末の子がスピリチュアリズムや心霊的なことにとても興味を抱いているのですが、夫はまったく理解がなく、私がその子にそれを止めさせようとしないことを咎めるのです。夫にしてみれば自分の信仰とことごとく対立することばかりなので、そのことで心を傷めております。私はどちらの気持ちを優先させるべきかが分からず悩んでいるところです。

 私は年輩の者の信仰よりも若者にとっての必要性の方が大切であると考えます。
 一方は地上生活のコースをほとんど終えた段階にあります。他方はこれからという段階であり、全コースが前途に横たわっております。これまでと同じように、あなたの才覚と臨機応変の知恵を探ってください。ただし、あなたの信じる霊的原理から外れたことは絶対にしてはなりません。
 自然に具わっている心霊的能力を押えつけることが望ましいことでないことは、あなたも理解しておられるはずです。万一押えつけるようなことをすれば、お子さんの全人的構造に歪みを生じさせることになります。自然に具わっているものを出させないようにするよりも、全人的健全さを身につけさせる方が好ましいことは言うまでもありません。是非そこのところは、あなたなりの才覚と知恵によって、これまでと同じように、ご主人のためにもなるように工夫してみて下さい。

   『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1988、pp. 113-114

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 7-g (スピリチュアリストは既成宗教に所属してはならないのか)

 ― 私がこれまで会った人の中には、自分はスピリチュアリストであると言いながら相変わらず何かの既成宗教に属している人がいます。スピリチュアリズムを信じるようになったら、それまでの宗教は捨てるべきではないでしょうか。

 私はそうした名称には煩わされません。実はこの私自身が果たしてスピリチュアリストなのかどうか定かでないのです。スピリチュアリストであるとの認証を頂いたわけではないからです。ご自分のことをどうお呼びになるかは問題ではありません。大切なのは毎日をどう生きるかです。
 いったい宗教とは何なのでしょう。教会や礼拝堂や寺院へ通うことでしょうか。人間のこしらえた教義を受け入れることでしょうか。私はローマカトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですと名のることでしょうか。
 宗教とは宇宙の大霊すなわち神の御心に一歩でも近づくことになるような生き方をすることです。あなたの行為の中に神の御心が表現されることです。要するに宗教とは人のためになる行いをすることです。
 もしも霊界との交信の事実を信じてその恩恵を受けている人が相変わらず従来の神学的教義にこだわり続けている時は、その人のことを気の毒に思ってあげることです。密かに祈りの気特を送ってあげることです。その人はまだ梯子段の下の方、せいぜい中途までしか上がっていないからです。
 精神が従順で感化されやすく、与えられたものは何でも吸収していく幼少時に教え込まれた教義を棄てることは容易ではありません。それがいつしか潜在意識のタテ糸となりヨコ糸となって、その深層を形成します。そうなると、みずからその誤りに気づいて取り除くということは、ほとんど不可能に近いと思わないといけません。
 ですから、我慢してあげることです。われわれだって、かつては間違った考えを抱いていたのを、その後の叡智の発達のおかげで棄て去ったことがあるではありませんか。所詮人間の誰一人として完全の極致まで到達した人はいないのです。それには永遠の時を必要とするのです。
 我慢してあげるのです。手助けをしてあげるのです。議論し合ってはいけません。議論からは何も生まれません。詩人(※)が言っております―“議論をしても、入って来たのと同じドアから出て行くだけである”と。(※英国の詩人フィッツジェラルドEdward Fitzgerald)
 自分の宗教の教義より先が見えない人のことは辛抱強く見守ってあげなさい。時が立てば、あなたの場合もそうであったように、きっと機が熟します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 174-176

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 7-h (霊的に正しければ物的な面はおのずから整う =1=)

 ― スピリチュアリズムの組織には事務的なことや物的な問題が多すぎるのはなぜでしょうか。その種のことは(霊的知識のない)事務員を雇うことで処理できることなのですが、肝心の霊的指導者はどうやって探せばよいのでしょうか。霊的な飢餓というものもあることを痛感しております。

 聖書の言葉をご存知ですか。よくご存知のはずの言葉を引用してみましょう。“まず神の国とその義を求めよ。しからば他のものもすべて添えて与えられん”(マタイ6・33) これはどういう意味だと思われますか。

 ― まず第一に霊的なものを求めなければいけないということだと思います。たぶん私たちは方向を間違えているのだと思います。

 霊が王様で物質は従者です。霊は物質に先んじるものです。霊的に正しければ物的な面もおのずと整います。要はどちらを優先させるかの問題です。お金が不足したからといって大義が台なしになることはありません。霊性が発揮されるにはまずお金がなくてはいけない、という発想から金儲けを優先させても、事はそうは運びません。
 私たちは物的エネルギーを操りながら皆さんのもとへやってまいります。私たちのバイブレーションは速くてデリケートなので、この遅鈍で緩慢なエネルギーを操る要領を会得しなければなりません。このサークルの方なら、必要とあらば私たちが物質を操ることができることをご存知です。(訳者注―シルバーバーチの交霊会でも初期の頃は“霊の威力”を見せるために物理的心霊現象を演出していた。とくにテ−ブルを動かす程度のことは末期に至るまでひんぱんに行っていた。)
 もう一つ聖書の言葉を引用しましょう。“大地とそこに満つるものは主のものなり”― 物的なものは一つとしてあなたのものではないということです。本当の意味で自分のものとすることはできないのです。たとえ手に入れてもあなたのものではありません。あなたは地上生活中はただの財産管理人にすぎません。すべては大霊のものなのです。
 心から人のためという気持ちになれば、必要なものはそのうち必ず揃うものです。霊的なものを優先した仕事をする人は必ず私たちが援助の手を差しのべていることを知ってくださるはずです。自然の摂理として、誰一人見落とされるようなことも忘れ去られることもないようになっているのです。その神の力を信じて、その意志が働く通路を神に提供してあげてください。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 131-132

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 7-i(霊的に正しければ物的な面はおのずから整う =2=)

 ― ずいぶん簡単なことのようにおっしゃいますが……

 事実、簡単なのです。地上にはややこしく考えるのがお上手で、分かったような分からないような結論を出されるご仁が多すぎます。そこで、幼な子のごとき素直さでもって問題の核心に一直線に突き進む態度が要請されることになるのです。“幼な子のごとくあらずんば……”(マタイ18・3)というわけです。
 私たち霊界の者は人のために役立つことをしている人の努力を無駄に終わらせたことは一度もありません。必要なものは必ず手に入ります。それは私たちがこれまでに数知れず試されてきていることです。霊的なものも物的なものも、必要なものは必ず手に入れてさしあげます。あなた方はあなた方の役割を果たしておればよろしい。私たちは私たちの役割を果たします。

 (訳者注― ここでいう“私たち霊界の者”とは各自の背後霊のことと考えればよい。つまり守護霊を中心として、同じ霊系や地上的縁でつながった霊の集まりがあって、その霊たちが本人の地上での天命を全うさせるために、いろいろと世話を焼いてくれている。そのことだけを考えると万事がうまく行ってもよさそうに思えるが、地上界と霊界との関係には二つの絶対的条件があり、それが事を厄介にしている。一つは自由意志の要素であり、もう一つは波長の原理である。
 守護霊といえども本人がどうしてもやりたいと思うことを止めさせることはできないし、やりたくないと思うことを無理やりやらせることもできない。守護霊も摂理を無視したことは許されないのである。
 もう一つの波長の原理というのは、さきほどのシルバーバーチの“心から人のためにという気持になれば必要なものはそのうち必ず揃うものです”という言葉に暗示されている。そこには“正しい心掛け”というものが要請されているわけである。それが波長を整える作用をするのである。シルバーバーチが“心配の念を抱いてはいけません”と口を酸っぱくして言っているのも同じ原理を言っている。
 そのこととは別に、シルバーバーチが言及していないことで私から注意を促しておきたいことがある。それは、金銭上の問題は高級霊ほどニガ手なので、守護霊は直接には関与せずに配下の霊、それもどちらかというと地上臭の抜け切っていない霊に任せるということで、その意味でもわれわれは霊のことを高級・低級のみで安直に区別してはならない。それぞれに得手不得手があり、それぞれに“役に立つこと”をしているのであるから。
 もとよりこうしたことは原則として守護霊の管理下で行われていることであるから、その通りに行っていれば問題はないが、本人の方が欲の皮がつっぱり見栄や慢心が出はじめたら、波長の原理でもはや守護霊の管理下から離れ、同じ波長をもつ低級霊、それも邪心をもった悪霊に操られることになる。
 必要以上の金が儲かったり、思わぬ大金がころがり込んだり、預金が面白いほど増えはじめたら危険と思わねばならない。それは言わば欲望の肥満体になることであり、魂は活力を失い、霊的病いが出はじめる。悪霊の思うツボにはまったのである。
 シルバーバーチが“人のために役立つ”という心掛けを説く裏にはそういう意味あいも含まれていると理解されたい)


    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 133-135

     *****


 7-j (スピリチュアリストとして人々に尽くすために =1=)

 ― たしかに私はあなたから大きな援助と叡智のお言葉をいただいて感謝いたしております。

 あなたには霊視能力があります。願わくはそのお能力がもう少し広がって、神の計画の推進に当たっている神庁の組織、高級神霊の働きの一端をかい間見ることがお出来になればよろしいのですが… そうすれば一瞬たりともうろたえたり、ひとかけらの心配の念を宿すことがなくなるはずです。それを私はこの目で見ているのです。そして、これまでの実際の成果を逐一知っているのです。
 私はここで満身の力をこめて断言いたします。真理普及という大義に身を捧げておられる皆さん方は、宇宙最大の力、生命力そのものの援助にあずかることができるのです。それはもはや義務ともいうべきものと心得るべきです。
 すなわち、それを賢明に、有意義に使うのです。あなたの生活の範囲内で触れ合う人たちのすべてに導きの手を差しのべるのです。もしもその手が拒絶されれば、それはそれでよろしい。その人の思う道を進ませてあげればよろしい。その辺の判断はあなた方自身の叡智の光と良識に照らしてなさるがよろしい。動機がすべてを決します。動機が正しければ、いかなる事態が生じようと最後は必ず勝利します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 135-136

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 7-k (スピリチュアリストとして人々に尽くすために =2=)

 人生には二つの大切な要素があります。一つは知識であり、もう一つは信仰(信念)です。知識の裏付けのない信仰は“折れた葦”(マタイ12・20その他)のようなもので、いざという時に頼りになりません。が、知識に信仰を上のせする― これが最高の組合わせです。
 あなたは人生とその意義についての理解をもたらしてくれた知識はすでにお持ちです。が、それとて、これから先あなたが入手していくべき知識に比べれば、ほんのひとかけらにすぎません。そこでその不足を補うための信仰というものが必要となります。
 しかしそれも、あくまで事実に即した知識を根拠とした信仰です。軽々しい信仰、理不尽な信仰、知性を侮辱するような信仰ではなく、事実を根拠とした信仰、つまり、かくかくしかじかの事実がある以上はそう信じてもよいはずだという論拠をもった信仰です。それはあなたにとって大切なものです。
 本日お集まりの方の中には、このことを耳にタコができるほど聞いておられる方がいらっしゃいます。さぞかしうんざりされることでしょうが、でもやはり真実です。平凡な真理は、たとえ何度くり返しても真理です。くり返すことによって真実性が減じることはありません。
 私から申し上げたいのは、皆さんは有限の世界で生活する有限の存在だということです。無限の知識から手にすることのできる分量は、皆さんが霊的・精神的に到達した発達段階によって制限されます。これまでに受け入れられた知識はしっかりと吟味した上で真実であると確信されたものです。その知識の上に、まだ啓示されずにいるものに対する信仰心(信念)を築くのです。それは理不尽なものではありません。立証可能な事実を土台としています。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 136-137

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 7-l (スピリチュアリストとして人々に尽くすために =3=)

 地上の人間の態度をみていてどうも理屈に合わないと思うことの一つは、物的な惰眠から目覚めるまでにはさんざん時間が掛かっているのに、いったん目覚めると、こんどは急にせっかちになることです。どんどん事が運ぶことを期待するのですが、そうはまいりません。霊的な進歩は着実でないといけません。近道というものはないのです。一歩一歩をしっかりと足固めしながら進まないといけません。一歩進むごとに次に進むべき方角が開けます。
 これまでに啓示していただいたものを基盤にして、ひとまずそれに甘んじるのです。そしてもしも疑問が生じたら―きっと生じるものです、あるいはもしも疑念が湧いたら―必ず湧くものです、そしてもしも困難が厄介な頭をもたげはじめたら、慌てず我慢するのです。霊の力は物質に勝ることを忘れないことです。霊界から働きかけやすい条件さえ提供してくれれば、いかなる障害も、いかなる困難も、いかなるハンディキャップも、霊の力で克服できないものはありません。
 そもそも教会というものが存在するようになったのは、霊力がさまざまな形で顕現したからです。奇跡と思われた現象も、霊力によって演出されていたのです。が、今日の教会にはそれが見られません。かつて“聖地”と呼ばれたところも、今では霊的砂漠となり、オアシス一つ見当たらない不毛の土地となっております。
 しかし神の摂理は少しも変わっておりません。そこが“聖い所”とされたのは霊力が崇高な形で顕現したことによって神聖祝されたからです。それと同じ霊力が今あなたを通して顕現し、大きな恩恵をもたらしつつあるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 137-139

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 7-m (スピリチュアリストとして人々に尽くすために =4=)

 私はそれぞれの宗教界において真面目に勤しんでいる人たちを非難しようとは思いません。が、その人たちは、苦しんでいる世の中の人のために役立つことは何もしておりません。教義は無味乾燥です。ドグマは不毛です。視野は旧態依然としており、新しい流れがどんどん通り過ぎていきつつあることに気づきません。
 われわれは地上の多くの場所で悪性のガンを生み出している貪欲、強欲、私利私欲が一掃された新しい世界の到来を告げる使者なのです。あらゆる宗教的行為の中の最高の行為として“人のために自分を役立てること”を掲げ、互いに扶助し合い、寛容し合い、人間と動物の区別なしにすべてに哀れみの心をもつべきであると説きます。本当にその気になれば地上天国は叶えられるのです。
 それが今私たちが皆さんの協力のもとにたずさわっている仕事です。俗世の悩みに襲われ、暗闇に閉ざされて気が滅入り、疲れ果てあるいは塞ぎ込みそうになった時は、霊的知識を手にした皆さんは、このまま野放しにしたら地上を破滅状態に陥れかねない物質第一主義の風潮に挑む、戦いの中の戦いに選ばれた霊の大軍の一員であることを思い出して、奮い立たないといけません。
 いつまでも絶望感に浸っていてはいけません。私たちは決して見殺しにはしません。援助を届ける通路さえあれば、奇特な心がけを無為に終わらせることはいたしません。必要とあらば、いかなる援助でもいたします。このインフレの時代にも皆さんに不足の思いをさせないように配慮しております。
 われわれは大事な仕事にたずさわっているのです。すでに何度も申し上げていることですが、大義に身を捧げることは気高いことであることを今こそ肝に銘ずべきです。人間の気高さは人のために役立つことをすることから生まれるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 139-140

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 7-n (スピリチュアリストとして人々に尽くすために =5=)

 地上の人間は自己改善によってみずからを救済するようにならないといけません。また地上生活ならではの恩恵のすべてが味わえるようになるのは、協調と互助という霊的原理を実行するしかないことを理解しなければなりません。物的恩恵だけのことを言っているのではありません。精神的ならびに霊的恩恵も味わえます。
 人間は精神的にも身体的にも霊的にも自由であらねばなりません。私たちはいかなる形であっても“隷属”というものを許しません。人間はみずからの束縛状態をみずからの力で解かないといけません。そのためにはまず自分を生かしめている力が地上世界の他のすべての存在、生きとし生けるものすべてを生かしめている霊力と同じであることを、しっかりと認識しないといけません。霊力がそれらすべてを取り巻き、すべてを一体とさせ、その存在の究極の責任者である宇宙の大霊すなわち神の前において一つにしているのです。
 私たちが生命の実在について霊的な実感をもたらしてあげるために行っている仕事の背景には、そうした事実があるのです。その目的はそうたやすくは達成されません。なぜなら、こうした教訓は困難・危機・病気・死別等を体験してはじめて学べるものだからです。絶望の底にたたき落とすような苦悩でありながら、実は真実の自我を見出すための手段なのです。
 ですから、皆さんにはぜひともやっていただかねばならない役目があります。が、それにはたっぷりと時間を掛けないといけません。われわれの背後には宇宙最大の力、大霊の霊力が控えております。後退させられることはあります。潮は満ちるだけではありません。かならず引きます。それと同じです。が、霊力の働きが止まってしまうことはありません。常に働きかけております。
 生命のあるものには霊があります。停滞と不活発はわれわれの敵です。なぜなら、そういう条件下では霊力は流入しないからです。あなた方は私たちに通路を提供し、その通路を通って霊力が流入するのです。私たちが欲しいのは献身的な協力者です。操り人形ではなく、私たちが協力するように私たちに協力してくれる、自発的参加者です。
 奉仕は霊の通貨です。宗教とは自分を役立てる行為であり、またそうであるべきです。そうでなかったら宗教には何の意義もありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 140-142

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 7-o (私たちを非難する人たちはイエスを非難した者たちと同列)

 私たちのことを悪魔の福音を説く者と非難する人たちは、二千年前にイエスに対して同じ非難を浴びせた者たちと同列です。私たちはイエスを通して働きかけた大霊の霊力と同じものを携え、同じ霊現象を演出し、そして同じメッセージを説く者です。すなわち喪の悲しみにある人を慰め、病いの人を癒やし、暗闇の中にいる人に光明をもたらし、人生に疲れた人には生きる意欲をもたせ、無知の中で模索している人に知識を授けてあげましょう、ということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 138-139

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 7-p (現代人の死についての嘆かわしいほどの無知)

 死者にまつわる過剰な悲しみや嘆き、動転は感情的な障壁をこしらえて、こちらから何をしてあげようにも、まずそれを取り除かねばならなくなります。
 ですが、現代人の嘆かわしいほどの無知を考えれば、それも止むを得ないことです。すでに役目を終えた肉体の死を大げさに嘆き悲しみ、その肉体から脱け出て元気はつらつとした霊の存在については、毛の先ほどの知識も持ち合わせない――残念ながらそれが地上界の現実です。
 それは、しかし、みなさん(霊能者)の努力によって成就しなければならない仕事がたくさんあるということでもあります。ところが、本来ならその職責上みんなの先頭に立って霊的知識を擁護しなければならない聖職者たちが、まるきり霊的知識を持ち合わせないというのですから、情けない話です。
 しかし、そんなことにはお構いなく、霊的真理は必ずや広がります。それを完全に阻止できる力は地上には存在しないのです。が、そうした事実を知ることによって、これから啓発していかねばならない分野についての理解が得られるのではないでしょうか。

   トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』
     (近藤千雄訳)ハート出版、2003、p.108

 







 8. 人間・自我・個性


 8-a (人間一人一人の個性を決定づける要因は何か)

 これは大変な問題ですね。まず物質と霊、物質と精神とを混同なさらないでください。人間は宇宙の自然法則にしたがって生きている三位一体の存在です。肉体は物的法則にしたがい、精神は精神的法則にしたがい、霊は霊的法則にしたがっており、この三者が互いに協調し合っております。かくして法則の内側に法則があることになり、時には、見た目に矛盾しているかに思えても、その謎を解くカギさえ手にすれば本質的には何の矛盾もないことが分かります。法則のウラ側に法則があると同時に、一個の人間のさまざまな側面が交錯し融合し合って、常に精神的・霊的・物的の三種のエネルギーの相互作用が営まれております。そこには三者の明確な区別はなくなっております。肉体は遺伝的な生理的法則にしたがっておりますし、精神は霊の表象ですが、肉体の脳と五官によって規制されております。つまり霊の物質界での表現は、それを表現する物質によって制約を受けるということです。かくしてそこに無数の変化と組み合わせが生じます。霊は肉体に影響を及ぼし、肉体もまた霊に影響を及ぼすからです。

    『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.92-93

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 8-b (霊的自我を表現する身体にも様々の種類があるのか)

 そういうことです。法則は完全です。しかしあなたは不完全であり、従って完全な法則があなたを通して働けないから、あなたを通して顕現している法則が完全でないということになります。あなたが完全へ近づけば近づくほど、完全な法則がより多くあなたを通して顕現することになります。
 こう考えてみてください。光と鏡があって、鏡が光を反射している。鏡がお粗末なものであれば光のすべてを反射させることができない。その鏡を磨いてより立派なものにすれば、より多くの光を反射するようになります。
 要するに、すべての存在がより一層の顕現を求めて絶え間なく努力しているのです。前に私は、原石を砕きながらコツコツと宝石を磨いているのが人生だと申し上げたつもりです。原石はいらない、宝石だけくれ、というムシのいい話は許されません。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.148

     *****


 8-c [54-h]  (あなたの生活そのものがあなたという実在を形成していく)

 あなたの行為、あなたの活動、あなたの思念、要するにあなたの生活そのものがあなたという実在を形成していくのです。その実在は肉眼では見えませんが、“死”の過程をへて肉体と永遠に訣別した瞬間から、それがまる裸にされます。それ以上に立派に見せることもできませんし、それ以下に惨めに見られることもありません。地上生活によって形成された性格をそっくりたずさえて行くのです。平凡な日常生活の中で培われた霊的資質こそあなたの永遠の財産となるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.33-34

     *****


 8-d (人間は物的身体という牢の中で生活している)

 人間は物的身体という牢の中で生活しています。その牢には小さな隙き間が五つあるだけです。それが五感です。みなさんはその身体のまわりで無数の現象が起きていても、その目に見え、その耳に聞こえ、その肌に触れ、その舌で味わい、その鼻で嗅いだもの以外の存在は確認できません。ですが実際にはその身体のまわりで無数の生命活動が営まれているのです。見えないから存在しないと思ってはいけません。人間の五感では感知できないというに過ぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.35


 8-e[2-zh](霊的に覚醒するまでは地上の個性はそのまま残る)

 死んで間もない段階では地上にいた時と少しも変わりません。肉体を捨てたというだけのことです。個性は同じです。性格も変わっておりません。習性も特徴も性癖もそっくりそのままです。利己的な人は相変わらず利己的です。欲深い人間は相変わらず欲深です。無知な人は相変わらず無知のままです。落ち込んでいた人は相変わらず落ち込んだままです。しかし、そのうち霊的覚醒の過程が始まります。いわゆる復活″です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.36

     *****


 8-f (パーソナリティとインディビジュアリティは同じではない)

 パーソナリティとインディビジュアリティは違います。マスクを意味するパーソナ≠語原とするパーソナリティは物的身体との関係で派生する地上だけの人物像です。つまり本来の自我であるインディビジュアリティが五感を通して地上で自我を表現しょうとしている側面であり、自我の全体を氷山にたとえれば、海面上に出ているホンの一部にすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.40

     *****


 8-g (インディビジュアリティは肉体の死後も生き続ける)

 インディビジュアリティはパーソナリティよりはるかに大きな存在です。肉体の死後に生き続けるのはパーソナリティではありません。インディビジュアリティを太陽にたとえれば、パーソナリティはその太陽が作り出した影ほどの存在です。死後、インディビジュアリティは地上では表現できなかった潜在的資質を徐々に発揮していきます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.40

     *****


 8-h(人間は弱いからこそ強いということはどういうことかが分かる)

 あなたは人間です。か弱い存在です。しかし、弱いからこそ強いということはどういうことかが分かるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 144

     *****


 8-i[65-n](人間が人間であることの証は欠点をもっていること)

 あなたは人間です。過ちを犯します。判断を誤り、しくじることがあります。人間性は頑強に出来あがっていない故に、人間は常に弱みを背負って生きています。人間が人間であることの証は、欠点をもっているということです。だからこそ今あなたは地上へ来ているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.186

     *****


 8-j (何かを成就するためにはまず自我を鍛えなければならない)

 あなたが人間であり、それゆえに転ぶこともあることは私も知っております。ですが、悩みごとが次第に大きく感じられてきた時、そこでしっかりと踏みとどまり、いかなる悩みごとも、実在である霊の光を曇らせることはできないのだという認識を新たにすることができれば、心晴れやかとなり絶対に克服してみせるとの信念が湧いてまいります。これは実に厳しい教訓ではあります。が、もしらくに達成できるものであれば、求める価値はないことになります。両手に花とはまいりません。何かを成就せんとすればまず自我を鍛えないといけません。鍛錬の必要のないほどのものであれば、自我の開発にはつながりません。

   『シルバー・バーチの霊訓 (12』(近藤千雄訳編)
      潮文社、1988、p.147








 9. 思念・ことば

 9-a (思念には本当に実態はあるのか)

 これはとても興味ぶかい問題です。思念にも影響力がある---このことには異論はないでしょう。思念は生命の創造作用の一つだからです。ですから、思念の世界においては実在なのです。が、それが使用される界層(次元)の環境条件によって作用の仕方が制約を受けます。
 いま地上人類は五感を通して感識する条件下の世界に住んでいます。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信し合える段階までは進化していないということです。まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。その条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形体をとるまでは存在に気づかないからです。
 思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が感識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。
 勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野で捉らえなければいけません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.179-180


     *****


 9-b [41-o] (愛の念や心に思うことはすべて力になるのか)
         - 夫を事故で亡くしたある婦人へのことば(続) -

 なります。ご主人は頼りになるものをあなたに求めておられるからです。ご主人はまだ地上の雰囲気の中にいること、これからも当分いまの状態が続くこと、したがって私たち霊よりもあなたの方が近づきやすいという事実を理解しなければなりません。ご主人はあなたが動揺したり躊躇したり疑ったりしない人間であってほしいのです。ですから、あなたが岩のように堅固であれば、そのことがご主人に安心感を与えます。愛と援助の念を送ってあげれば、それがご主人を安心≠フ衣で包んであげることになり、それが何よりの援助となりましょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (2)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1985、p.45


     *****


  9-c[46-z] (人間が他界した直後には言語上の問題があるか)

 あります。いわゆる "幽界"、つまり地球にもっとも近い界層においてはあります。そこには霊的自覚がほとんど芽生えていない者が住んでおります。まだ言葉が必要だと思い込んでいるので言葉を用いております。

 ----さらに、「一方が英語で話し相手がフランス語で話しても、実際は思念で通じ合っているわけでしょうか」という質問に対して----

 もちろんです。もともと思念には言語はないのです。言語というのは思念を単語に移しかえるための道具にすぎません。私たちの世界では思念に実体があり、物質は影のようにしか見えないことをよく理解してくださらないといけません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 85-86


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 9-d (霊界では思念が霊的実在として具現化する)

 あなたは自分が思考していることを自覚していらっしゃる。が、思念は見えることも聞くことも、重さや大きさを計ることもできない。物理的な計量方法がないわけです。なのにあなたの行為のすべてに思念が責任を負っています。思念の方が行為に先行しているからです。思念なくして行為は生まれません。
 あなた方の世界では考えたことが行為として具体化します。私たちの世界では考えたことが霊的実在として具現化し、それには、あなた方にとって物質の世界が実感があるように、私たちにとって実感があります。要は相対上の問題です。あなた方にとって物質に実感があるように、私たちにとっては思念に実感があるということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 88


     *****


 9-e (各自の思考とは別に霊界にも客観的存在物はあるか)

 ----この質問にゲストの一人が「私たちは今この部屋に座っていいます。そして、そのことをみんな同じように認識しています」と口添えすると----

 でも、その認識の仕方は一人ひとり違います。私たちの世界の生活にはさまざまな存在のレベルがあります。といってそれが一つひとつ孤立しているのではなくて、お互いに融合しております。各レベルにおいてあなたのおっしゃる客観的存在物がそこに住む人にとって同じように映ります。丘があり川があり、小鳥がさえずり、花が咲き、樹木が茂っております。そのすべてに実感があります。
 それとは別に、思念によって実在物を作り出す力も各自に具わっております。成形力のある思念性の素材によって、自分に必要なものをこしらえることができます。それが、程度問題ですが、それなりの固体性のある実体を具えているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987p. 89


 9-f [46-zf] (霊界の生活にも地上と同じ朝・昼・夜の変化があるのか)

 こちらへ来て間もない初期の段階ではそういうことがあります。まだ新しい霊的環境に順応していないためです。霊界の低い界層、いわゆる幽界の環境は地上とそっくりです。これは新参者が感覚を馴らしていくための神の配慮です。
 そうしないと新参者は戸惑うのです。そうしたことから、今おっしゃった人のように、霊界へ来てからも朝と昼と夜の生活があるように思っている霊がいることになります。そう思うからそうなるのです。私たちの世界は思念が実在となる世界です。悟りが芽生えるまではその過渡的な状態がつづきます。それとは別に、あとに残した人の援助がしたくて、あえて霊的向上を望まないというケースもあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.114-115

     *****


 9-g[24-n] (地上の物的財産が無くなれば霊界では貪欲も無くなるか)

 いわゆる幽界でも低級な境涯にはまだ貪欲とか権力欲とかが存在します。忘れてならないのは、死んだ人間は霊的には死ぬ前とまったく同じであることです。地上と違って霊界は思念が実在の世界です。心に思うことに実体が伴い実感があるのです。
 私たちから皆さんを見ると、身体は影のように見え、皆さんが心に思っておられることの方が実体があります。このことはなかなか説明が難しいのですが、たとえば皆さんが夢を見ているのと同じだと思えばよろしい。夢の中に現れるものは夢を見ている間は実在です。もしも永遠に目覚めなかったら夢の世界がその人にとって実在の世界となります。乗る船も飛行機も、訪れる国も、夢の中ではみな実在です。
 こちらの世界では思念がすべてのものをこしらえる素材です。ですから心に思うことがみな存在するわけです。食欲と権力欲をもったままこちらへやって来れば、それがこちらでは無用のものであることに気づくまで、それを持ち続けます。そうした地縛的状態から解放される段階まで成長すると、ようやく救われることになります。(これが本当の意味での“成仏する”ということ― 訳者)
 困ったことに、権力欲や強欲は霊を地上へしばりつけます。身体的に死んでいますが、同時に霊的にも死んだも同然の状態です。波長が私たちより人間の方に近い状態です。そこで同じ欲に燃えた地上の人間と感応し合って、その欲望を増幅してまいります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.71-72

     *****


 9-h (あなたの言うことも思うことも生活の一部である)

 生活は行い″だけで成り立っているのではありません。言うこと″も思うこと″も生活の一部です。行為だけが大事と思ってはいけません。もちろん行為が一ばん大事です。が、口にする言葉も心に思うことも、あなたの一部です。その思念がコントロールできずに、それに振り回されている人間が多いのは悲しいことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)

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 9-i (地上では思念が物的形態をとるまで存在に気づかれない)

 いま地上人類は五感を通して感識する条件下に住んでおります。その五つの物的感覚で自我を表現できる段階にやっと到達したところです。まだテレパシーによって交信し合える段階までは進化していないということです。まだまだ開発しなければならないものがあります。地上人類は物的手段によって自我を表現せざるを得ない条件下に置かれた霊的存在ということです。この条件がおのずと思念の作用に限界を生じさせます。なぜなら、地上では思念が物的形態をとるまでは存在に気づかれないからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 227

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 9-j (思念は思念の世界においては実在そのものである)

 思念は思念の世界においては実在そのものです。が、地上においてはそれを物質でくるまないと存在が認識されないのです。肉体による束縛をまったく受けない私の世界では、思念は物質よりはるかに実感があります。思念の世界だからです。私の世界では霊の表現、または精神の表現が実在の基準になります。思念はその基本的表現の一つなのです。勘違いなさらないでいただきたいのは、地上にあるかぎりは思念は仕事や労力や活動の代用とはならないということです。強力な補助とはなっても代用とはなりません。やはり地上の仕事は五感を使って成就していくべきです。労力を使わずに思念だけで片付けようとするのは邪道です。これも正しい視野で捉らえないといけません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 227














 10. 生きがい・生き方


 10-a (上を向いて歩こう、意気消沈することはない)

 常に上を向いて歩んで下さい。下を向いてはいけません。太陽の光は上から差します。下からは照らしません。太陽は永遠の輝きの象徴です。霊的太陽は啓蒙と活力の源泉です。内在する霊に刺激を与えます。自分が本質において永遠なる存在であり何事も修行であることを忘れぬかぎり、何が起きようと意気消沈することはありません。霊性は書物からは得られません。先生が授けるものでもありません。自分自身の生活の中で、実際の行為によって体得しなければなりません。それは個性の内部における神性の発芽現象なのです。
 神性こそ、その無限の愛の抱擁カによって私たちを支えている力であり、その尊い遺産を発揮し宿命を成就するよう導いてくれる力です。宇宙における最大の力であり、極大極小の別なく全ての現象を根本において操っております。魂のそれぞれの必要性を察知し、いかにしてそれを身につけるかを知らしめんと取り計らってくれます。自分とはいったい何なのか、いかなる存在なのか、いかなる可能性をもつかを徐々に悟らせる方向へと導いてくれます。ですから、私たちは愛をもって導いてくれるこの力に安心して身を任せようではありませんか。その愛の導きに身を委ね、いついかなる時も神の御手の中にあることを自覚しようではありませんか。
 完全なる愛は恐怖心を駆逐します。知識も恐怖心を駆逐します。恐怖は無知から生まれるものだからです。愛と信頼と知識のあるところに恐怖心は入り込めません。進歩した霊はいついかなる時も恐れることがありません。なんとなれば、自分に神が宿る以上は人生のいかなる局面に遭っても克服できぬものはないとの信念があるからです。これまであなたを包んできた愛が今になって見放すわけがありません。それは宇宙の大霊から放たれる無限なる愛であり、無数の回路を通して光輝を放ちつつ地上に至り、人のために役立たんと志す人々の力となります。気力喪失の時にはカを与え、悲しみの淵にある時は慰めを与えてくれます。あなたのまわりに張りめぐらされた防御帯であり、決して破られることはありません。神の力だからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)潮文社、
     1988、pp.148-149

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 10-b  (常に上を見上げよ、うなだれる必要はない)

 基本的真理にしがみつくのです。迷いの念の侵入を許してはなりません。これだけは間違いないと確信するものにしがみつき、謎だらけに思えてきた時は、ムキにならずに神の安らぎと力とが宿る魂の奥の間に引き込もることです。そこに漂う静寂と沈黙の中にその時のあなたにとって必要なものを見出されることでしょう。
 常に上を見あげるのです。うつ向いてはなりません。うなだれる必要はどこにもありません。あなたの歩む道に生じることの一つ一つがあなたという存在を構成していくタテ糸でありヨコ糸なのです。これまでにあなたの本性の中に織り込まれたものはすべて神の用意された図案にしたがって綴られていることを確信なさることです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.186


     
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 10-c (人々の辿る道はすべて同じ目的地に通じているのか)

 「目的地」という用語がやっかいです。私なりに言わせていただければ、すべての道は造化の霊的大始源に通じております。宇宙の大霊、あなた方のいう神は無限なる存在です。となると、完全なる愛と叡智の権化であるその大霊に通じる道もまた無限に存在することになります。大霊とは生命であり、生命とは大霊です。生命ある存在は誕生によっていただく遺産として神性を宿しております。そして地球という惑星上の全生命は究極において唯一の霊的ゴールに通じる道をたどりつつ永遠の巡礼の旅を続けております。どの道をたどるかは問題ではありません。巡礼者の一人ひとりが真摯に自我の向上を求め、責任を遂行し、与えられた才能を開発して、その人が存在したことによって他の人が霊的な豊かさを得ることができるようにという、誠実な動機をもって生きればそれでよいのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.33-34

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 10- d(地上の人生とは体験学校のようなもの)

 人生を達観することが大切です。あなたが生まれるずっと以前から質実剛健な先輩がいて道を切り開いてくれていたこと、その人たちもその仕事の大変さを痛感して、自分たちの地上生活が終わったあとはどうなるのだろうと案じていたことを知らなくてはいけません。しかし、その人たちが巨木や巨石を取り除いてくれていたからこそ、その道をあなた方はその人たちよりラクに通れるのです。そこであなたがさらに幾つかを取り除けば、それがあなたとしての貢献をしたことになります。あなたのあとにさらに次の人材が用意されることでしょう。そしてその人たちがさらに多くのものを取り除いていけば、やがてきれいな道ができあがります。
 地上は体験学校のようなものです。その地上世界は完全ではありません。あなた自身も完全ではありません。あなたはその不完全な世界で少しでも多くの完全性を発揮しょうとしている不完全な存在です。ですから、自分なりの最善を尽くしておれば、それでいいのです。それ以上のものは要求されません。
 縁あってあなたのもとを訪れた人にその自分というものに目覚めるきっかけを与えてあげることは重大な意味のあることです。つまり人間が神に似せて作られていること、言い変えれば神と本質的に同じものが内在していること、その資質を発揮することによって生活に美と愛と光輝をもたらすことができ、それがすべての体験を価値あるものにするということを理解させてあげることです。
 ですから、仕事上の厄介なできごとを、神が与えてくれた挑戦のチャンスとして感謝して受け止めることです。それを処理していくことで結果的にあなたがそれだけ霊的に成長するのです。もしも仕事仲間の中にあなたの信念についていけないという人がいたら、もしもその人の信念に迷いが見えはじめたら、その時は構わず見棄てることです。果たすべき大目的についての壮厳な洞察力を抱き続けている人とのみ仕事をなさることです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 59-60


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 10-e [2-q](死後の生命を知っても死後に備えた生き方は容易ではない)

 その間題は結局は悟りの問題に帰着します。あなたが肉体をたずさえた霊的存在であること、地上はいつまでも住み続ける場ではないこと、物的なものは儚い存在であることを悟れば……もしもあなたが、死後、霊としてのあなた、不滅のあなた、神性を宿したあなたが蘇って永遠の進化の旅を続けることの意味を悟ることができれば…もしもあなたがそうした悟りに到達すれば、そしてそこで叡智の導きに素直にしたがうことができれば、あなたは自然に死後の生活に備えた生き方をするようになります。あなたの行為はすべてあなたが到達した霊的自覚の程度によって支配されるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp. 69-70


     
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 10-f (やり直すチャンスは誰にも与えられる)

 
(すべての人間に)やり直しのチャンスが与えられないとしたら、宇宙が愛と公正とによって支配されていないことになります。墓に埋められて万事が終るとしたら、この世は正に不公平だらけで、生きてきた不満の多い人生の埋め合わせもやり直しも出来ないことになります。私どもが地上の人々にもたらすことの出来る最高の霊的知識は、人生は死でもって終了するのではないということ、従って苦しい人生を送った人も、失敗の人生を送った人も、屈辱の人生を送った人も、皆もう一度やり直すことが出来るということ、言いかえれば悔し涙を拭うチャンスが必ず与えられるということです。人生は死後もなお続くのです。永遠に続くのです。その永遠の旅路の中で人は内蔵している能力、地上で発揮し得なかった才能を発揮するチャンスを与えられ、同時に又、愚かにも神の法則を無視し、人の迷惑も考えずに横柄に生きた人間は、その悪業の償いをするためのチャンスが与えられます。神の公正は完全です。騙すことも、ごまかすことも出来ません。すべては神の眼下にあるのです。神は全てをお見通しです。そうと知れば、真面目に正直に生きている人間が何を恐れることがありましょう。恐れることを必要とするのは利己主義者だけです。

    近藤千雄訳編『古代霊は語る』
       潮文社、1986、p.118


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 10-g [48-e][50-h] (取り返しのつかない過ちというものはない)

 一人一人の人間が、自分の行為に自分で責任を取ります。それが自然の摂理なのです。いかに愛する人とはいえ、その人に代わってあなたが責任を取るわけにはまいりません。その人の行為の結果をあなたが背負うことはできません。それを因果律というのです。過ちを犯したら、過ちを犯した当人がその償いをする---霊的法則がそうなっているのです。
 地上世界には不正、不公平、不平等がよく見られます。不完全な世界である以上、それはやむを得ないことです。しかし霊的法則は完全です。絶対に片手落ちということがありません。一つの原因があれば、数学的正確さをもってそれ相応の結果が生じます。原因と結果とを切り離すことはできません。結果は原因が生み出すものであり、その結果がまた原因となって次の結果を生み出していきます。
 その関係が終わりもなく続くのです。もしもその因果関係が人為的に変えられ、利己主義者が博愛主義者と同じように霊的に成長することが可能であるとしたら、それは神の公正を根底から愚弄することになります。自分が蒔いたタネは自分で刈り取る---そうあらねばならないのです。
 あなたはあなた自身の行為に責任を取るのです。その行為の結果を自分が引き受けるのです。これからもあなたは過ちを犯します。そしてそれに対する償いをすることになります。そうした営みの中で叡智を学んでいくべきなのです。過ちを犯すために地上へ来たようなものです。もしも絶対に過ちを犯さない完全な人間だったら、今この地上にいらっしゃらないはずです。
 過ちも失敗もあなたが不完全であることから生じます。しかし、転んでも起き上がることができます。取り返しのつかない過ちというものはありません。新しい希望と新しい可能性を秘めた新しい一日、新しい夜明けが必ず訪れます。
 うちの宗教の教えを信ずれは罪も赦されるかに説いている宗教がいくつかあるようですが、そういうことは有り得ません。罪をあがなうのはその罪を犯した当人のみです。神聖″とされる文句や言葉をいくら繰り返しとなえても、原因から生じる結果を赦免したり消去したりすることはできません。
 ですから、いくら愛しい人であっても、その人の行為にあなたが責任を取るわけにはまいりません。その人みずから学び、学ぶことによって成長し進化していくのです。それが生命の法則なのです。生命は静止することがありません。絶えず向上を目指して動いております。動くということが永遠の進化のための一つの要素なのです。完全へ向けての向上に終止符を打つことはできません。無限の時をかけて完全へ近づくことの連続であり、これでおしまいということがないのです。完全性の達成は無限の過程です。完全なのは大霊のみです。
 思い煩ってはなりません。心配の念はせっかくの援助の通路を塞いでしまいます。私はいつも取り越し苦労はおやめなさいと申し上げております。心配の念は有毒です。悪気を生み出し、それがあたりを取り囲みます。陰湿な雰囲気で包まれてしまいます。その状態になると霊の力も突き通せなくなります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.63-65


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 10-h[44-u] (生きがいある人生を送るには=1= 神を知る)

 われわれ一同は神の道具です。神の道具として役立つということは光栄なことです。人のために役立つことをすることほど立派な宗教的行為はありません。それこそが霊の正貨(コイン)です。人のために自分を役立てることは崇高なことです。
 それは人の生活を豊かにすると同時に自分の生活をも豊かにします。また、この世には自分のことを思ってくれる者はいないと思い込んでいる人々に慰めをもたらします。
 人のために役立っていると思う時、私たちは心の奥に安らぎと静けさと満足感を覚えます。宇宙の絶対的な支配力への全幅の信頼、神へ向けて一歩また一歩と近づかんとする努力の支えとなる堅忍不抜さは、人のために尽くしている中でこそ得られるのです。
 目標の頂点は宇宙の大霊すなわち神です。われわれが生活するこの果てしない宇宙を創造し、ありとあらゆる存在に配剤するための摂理を考案した無限の愛と叡智の粋です。
 大霊と離れて何ものも存在しません。大霊がすべてなのです。大なるもの、小なるもの、複雑なもの、単純なもの、生命現象のありとあらゆる側面に対して神の配剤があるのです。霊の働きがあってこそ、すべてが存在できているのです。神の霊がすべてに潜在している以上、神との縁は切ろうにも切ることができないのです。人間がいかなる説を立てようと、神がすべてに宿り給い、したがって神はすべてであり、すべてが神であるという事実は変えることはできません。
 無限なる創造主であり、その愛と叡智によって壮大な宇宙を経綸し、その完全なる知性によって摂理を考案して、壮大といえるほど大きいものから顕微鏡的に小さいものまでの、ありとあらゆる存在を包摂し、その一つ一つに必要な配剤をしてくださっている大霊を超えた存在は、誰一人、何一つありません。その摂理の作用は完全無欠であり、その支配の外に出られるものはありません。
 小さすぎるからということで無視されたり、見落とされたり、忘れ去られたりすることはありません。それは大霊の一部が生きとし生けるものすべてに宿っているからです。言いかえれば神がその霊性の一部を各自に吹き込んだからこそ存在しているのであり、その霊性が神とわれわれとを結びつけ、また、われわれお互いをつないでいるのです。
 その絆を断ち切ることのできる力は地上にも死後の世界にも存在しません。その絆があるからこそ、叡智と真理と啓示の無限の貯蔵所を利用することも可能なのです。
 生命力すなわち霊がすべての存在、すべての人間に宿っているのです。その最高の形がほかならぬ人類という存在に見られます。人類の一人一人の中に、永遠に神と結びつけ、また人間同士を結びつけている霊性が宿っているのです。その絆こそ万全の宇宙的ネットワークの一環なのです。
 皆さんより永い経験をもつ私たち霊団の者も、この果てしない大機構を生み出された神の叡智の美事さに感嘆せずにはいられないことばかりです。
 また私たちの心の視野を常に広げ、自分が何者であり、いかなる存在であるかについての認識を増やし続けてくれる真理と叡智とインスピレーションの絶え間ない流れ、私たちの一人一人に宿る霊の力、わがものとすることができるにもかかわらず、霊の豊かさと神と同胞とのつながりについて何も知らずにいる地上の人たちのために活用すべき才能を授かっていることに、私たち霊団の者は改めて感謝の意を表明せずにはいられません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 26-28

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 10-i [62-g] (生きがいある人生を送るには=2= 人に尽くす使命)

 大自然の法則は、われわれの一人一人に生命を吹き込んでくださった創造神と常に一体関係にあるように、そして地上世界はおろか霊の世界のいかなる力によってもその絆が断ち切られることがないように配慮してあるのです。
 さらにその霊の機構を愛の力が導き管理し常に調和を維持して、受け入れる用意のある者が霊力と叡智と真理とインスピレーションとを授かるための手段を用意しております。
 その上われわれみずからが道具となって、地上の人間生活を豊かにし、病める者を癒やし、喪に服する者を慰め、人生に疲れた者に力を与え、道を見失える者に導きを与える、全存在の始源からの崇高な霊力の恩恵をもたらすことができるのです。
 われわれはそのための才能を授かっているのです。それを発達させることによって、われわれが手にした掛けがえのない知識の恩恵にあずかれずにいる不幸な人たちのために活用することができます。要するに、この荘厳な霊力の流れる通路としていっそう磨きをかけ、受け入れる用意のできた人々に惜しみなく恩恵をもたらしてあげられるようになることが、われわれの大切な務めなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 28-29

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 10-j [18-v] (生きがいある人生を送るには=3= 苦難は挑戦課題)

 さて、ここで人生体験が霊的に見てどのような意味をもっているかをご説明しましょう。地上の人間は、なぜ苦しみがあるのか、病気には何の目的があるのか、なぜ危機、困難、障害といったものに遭遇しなければならないかといった疑問を抱きますが、これらはみなそれに遭遇することによってまずカタルシス(※)を起こさせ、続いてカタリスト(※※)として霊的真理を学ばせる機会を提供してくれる、魂がぜひとも体験しなければならない挑戦課題なのです。(※語源的には“浄化する”ということで、それが精神医学において、無意識の精神的抑圧を洗い流す作用を意味する。※※精神的革命の触媒となるもの―訳者)
 魂は低く落ち込むことが可能であるだけ、それだけ高く向上することもできます。それが両極の原理です。すなわち作用と反作用は相等しいものであると同時に正反対のものであるという法則です。憎しみと愛、光と闇、嵐と静けさ、こうした“対”は同じコインの表と裏の関係にあるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 29-30

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 10-k[14-b] (生きがいある人生を送るには=4= 信仰を加味する)

 私の好きな諺がバイブルの中にあります。“信仰に知識を加えよ”というのですが、私はこれを“知識を得たら、それに信仰を加味せよ”と言い変えたいところです。所詮すべての知識を手にすることはできません。あなた方は人の子であり、能力に限界があるからです。人生の嵐に抵抗し、何が起きようと磐石不動であるためには、その土台として霊的知識を必要としますが、限られた知識ではすべてを網羅することはできません。その足らざる部分は信仰心で補いなさいと私は言うのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 30

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 10-l [70-e] (生きがいある人生を送るには=5= 理性の納得)

 本来の住処である霊界から地上へこうして戻ってきて皆さんの賛同を得るのに私たち霊団が愛と理性に訴えていることを、私は誇りに思っております。有無を言わせず命令することはしません。ああしてほしいとか、こうしてくれとかの要求もいたしません(※)。あなた方の判断によって自由におやりになられるがよろしい。そして霊の世界から申し上げることがあなた方の理性を納得させることができず反発を覚えさせる時、知性が侮蔑される思いをなさる時は、遠慮なく拒絶なさるがよろしい。

 (※この姿勢は頭初からの方針として徹底しており、例えば霊言を公表すべきか否かについてさえ、バーバネルとスワッハーとの間で意見が対立し激論を闘わせたこともあったのに、シルバー・バーチはそのことに一言も口をはさんでいない。これは霊界の計画だから早く公表するように、といった助言があってもよさそうに思えるのであるが、それすらなく、実際にサイキックニューズ紙に連載され、やがて霊言集として出版されるまでに十数年の歳月が流れている―訳者)

 私たちとしては皆さんが自発的に望まれた上で協力と忠誠を捧げてくださるように、皆さんの内部の卑俗なものではなく最高の判断力に訴えなければならないのです。と言って私たちの方からは何もしないというのではありません。それぞれの活動の分野、日常の仕事において援助を受けていらっしゃることに気づかれるはずです。そしてそれとは別の分野において、人のために役立つことをするように導かれているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 30-31

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 10-m [63-l] (生きがいある人生を送るには=6=  霊こそ実在)

 私も私なりに皆さんのお役に立ちたいと願っております。気づいていらっしゃらないかも知れませんが、これまでに味わったことのない精神的ないし霊的な豊かさをきっと手にされることになる生き方にそって導かれていらっしゃいます。そうした中にあってさえ皆さんの心の中には次々と悩みが生じ疑問を抱かれるのも、地上の人間としては止むを得ないこととして私は理解しております。がしかし、どう理屈をこねたところで、全宇宙の中にあって唯一の実在は“霊”であることを改めて申し上げます。
 物質はその本性そのものが束の間の存在であり移ろいやすいものです。物的に顕現している形態そのものには永続性はありません。それが存在を保っているのは霊によって生命を与えられているからです。原動力は霊なのです。霊こそがあなたを、そして他のすべての人を地上に生かしめているのです。霊が引っ込めば物質は崩壊します。あなたの身体は元のチリに戻りますが、本当のあなたである霊は永遠の進化の旅を続けます。
 あなた方は霊をたずさえた身体ではありません。身体をたずさえた霊なのです。本当のあなたは鏡に映る容姿ではありません。それは霊が地上で自我を表現するための物的な道具、複雑な機械にすぎません。霊は物質に勝ります。霊が王様であり、物質は召使いです。
 こうした事実を追求していくうちに、あなたの視野と焦点の置きどころが変っていくことに気づかれます。自分がなぜ地上にいるのか、真の自我を発揮するにはどうすべきか、そうしたことを理解しはじめます。どういう種類のことであっても結構です。自分の能力を伸ばして他人への援助と啓発のために活用する―それがあなた方のなすべきことです。
 忘れないでいただきたいのは、皆さんは不完全な世界に生きている不完全な存在だということです。もしも完全であれば神はあなた方を地上へ送らなかったでしょう。その不完全な世界においてあなた方は、持てる才能をいかに活用するかについて、自由な選択権が与えられております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 31-33

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 10-n [24-m] (生きがいある人生を送るには=7=  霊界と地上の違い)

 地上世界の特異性は対照性、ないしは両極性にあります。美点と徳性を具えたものと、それらを欠いたものとが同じ地上に存在していることです。これは霊界では有り得ないことです。各界が同じ性質の霊で構成されていて、対照的なものが存在しません。
 地上生活の目的は善悪さまざまな体験を通じて魂が潜在的霊性を発揮して、強くたくましく成長するチャンスを提供することです。それで悪事があり、罪があり、暴力があるわけです。進化は一直線に進むものではありません。スパイラルを描きながら進みます。表面的には美しく見えても、その底はあまり美しくないものがあります。
 私が霊界の界層の話をする時、それは必ずしも丸い天体のことを言っているのではありません(※)。さまざまな発達段階の存在の場のことを指しており、それらが地理的に平面上で仕切られているのではなくて、低いレベルから高いレベルへと、段階的につながっているのです。

 (※必ずしも≠ニ言っていることから察せられるように、地球と同じ丸い形をした界層も存在する。それが取りもなおさず地縛霊の世界で、地球圏の範囲から抜け出られないまま地上と同じような生活の場を形成している。同じことが各天体について言えると考えてよい―訳者)

 それが無限につながっており、これでおしまいという頂上がないのです。霊性が開発されるにつれて、さらに開発すべきものがあることに気づきます。知識と同じです。知れば知るほど、その先にもっと知るべきものが存在することに気づきます。
 各界層にはほぼ同等の霊的発達段階にある者が集まっております。それより高い界層へ進むにはそれにふさわしい霊格を身につけなければなりません。それより低い界層へはいつでも行くことができます。現に私たちは今こうして低い界層の人々を啓発する使命を担って地上へ下りて来ております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 33-34

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 10-o[13-r] (生きがいある人生を送るには=8=  魂の向上)

 向上とは不完全さを洗い落とし、完全へ向けて絶え間なく努力して成長していくことです。それには今日一日を大切に生きるということだけでよいのです。毎朝の訪れを性格形成のための無限の可能性を告げるものとして迎えることです。それが自我を開発させ、人生に目的性をもたせることになります。残念ながら今の地上のあまりに大勢の人たちが人生に対する目的意識を忘れております。
 神の心をわが心とするように心掛けることです。霊力と一体となるように心がけることです。皆さんの一人一人が神の愛の御手が触れるのを感じ取り、常に守られていることを知り、明日が何をもたらすかを恐れないようにならないといけません。そして人のために自分を役立てる機会をいただいたことを喜ぶことです。
 私たちは大きな闘いに参加しております。小競り合い、大規模な戦争がいくつもありました。が、本当に闘っている相手は貪欲、怨念、利己主義という、地上を蝕んでいる物質中心主義の副産物です。
 そこで私たちは全存在の始源は、無限の創造主から発せられる聖なる霊力であることを実証し、死が言語に絶する素晴らしい霊の世界への扉にすぎないことをお教えするのです。
 それがあなた方も参加しておられる闘いです。その将校や指揮官は、戦闘のあまりの激しさに退却することがないよう、厳しい試練を受けねばなりません。
 あなた方の進むべき道は、霊界からあなた方を愛している大勢の霊が必ず示してくれます。それは地上で血縁関係にあった者だけではありません。霊的な近親関係にある者もいます。その霊たちがあなた方を使って恵まれない人々のために影響力を行使するのです。
 われわれはみな同じ霊的巡礼の旅を続ける仲間です。神への巡礼の道は無数に存在します。いかなる知識も、それがわれわれの視野の地平線を少しでも広げ、この宇宙についての理解を深める上で役立っていることを感謝いたしましょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 34-35

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 10-p [47-l] (生きがいある人生を送るには=9=  霊界からの導き)

 知識には責任が伴います。それなりの代価を支払わねばなりません。知識を手にしたということは、それを手にしていない人よりも責任が大きいということです。しかし私たち霊界の者は、私たちの道具として協力してくださる地上の人々を見捨てるようなことは決していたしません。本当ならここで、あなた方地上の人たちも決して私たちを見捨てませんというセリフをお聞きしたいところですが、残念ながらそれは有り得ないことのようです。
 皆さんはご自分で気づいていらっしゃる以上に霊界からいろいろと援助を受けておられます。いずれ地上を去ってこちらへお出でになり、地上でなさったことを総合的に査定なされば、きっと驚かれることでしょう。私たちは魂の成長に関わったことで援助しているのです。それが一ばん大切だからです。
 それに引きかえ、地上の各分野での混乱ぶりはどうでしょうか。宗教は本来の目的を果たせなくなっております。科学者は自分たちの発明・発見が及ぼす被害の大きさを十分に認識しておりません。唯物思想の袋小路に入り込んでしまった思想家たちは、誰一人救えないどころか自分自身すら救えなくなっております。その点われわれは光栄にも神の道具として大切な仕事を仰せつかり、一人ひとりに託された信頼を自覚しております。
 私たち霊界の者は、縁あって皆さんのもとを訪れる人たちに霊と精神と身体に真実の自由をもたらす崇高な真理を理解させ真の自我を見出させてあげるべく、皆さんを導き、勇気づけ、元気づけ、鼓舞する用意ができております。本当の自分を見出すこと、それが人生の究極の目的だからです。
 地上には霊的進歩を計るものさしがありませんから、そうした協力関係の中で皆さんがどれほどの貢献をなさっているかがお分かりになりません。しかし、たった一人の人の悲しみを慰め、たった一人の人の病気を治し、たった一人の人に其の自我に目覚めさせてあげることができたら、それだけあなたの全人生が無駄でなかったことになります。私たちはひたすら“人のために役立つこと”を心掛けております。
 不安を抱いたり動転するようなことがあってはなりません。不安は無知の産物です。知識を授かった人は、それによって不安を追い払えるようでなくてはなりません。皆さんは宇宙最大のエネルギー源とのつながりが持てるのです。これまでに知られた物的世界のいかなるエネルギーよりも壮大です。崇高なエネルギーです。それをあなた方を通して流入させ、恵み深い仕事を遂行することができるのです。
 落胆したり悲観的になったりしてはなりません。幸いにして不変の基本的な霊的真理を手にした者は、いかなる事態にあっても霊は物質に勝るとの信念を忘れてはなりません。解決策はきっと見つかります。ただ、必ずしもすぐにとはいきません。しばらく待たされることがあります。(別のところで、忍耐力と信念を試すためにわざとギリギリのところまで待たせることもする、と述べている−訳者)

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 35-38

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 10-q [63-m] (生きがいある人生を送るには=10= 霊力の恩恵)

 自分より恵まれない人のための仕事に従事することは光栄この上ないことです。われわれが人のために尽くしている時、われわれみずからも、より高い、進化せる存在による働きかけの恩恵を受けているのです。自分のことは何一つ望まず、ただひたすらわれわれを鼓舞して、暗闇のあるところには光を、無知のはびこっているところには真理を、窮地に陥っている人には援助をもたらすことに精励しているのです。
 そうした強大な霊団― 生きがいのある人生を模索している人のために、われわれを道具として尽力している高級霊― の存在をますます身近に感じることができるように努力いたしましょう。
 その崇高なる霊力がますます多くの人間を通じて地上へ注がれ、恩恵を広め、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、道に迷いもはや解決の手段は無いものと思い込んでいる人々に導きを与えることができているということは、本当に有難いことです。
 霊力がどこかで効を奏すると、そこに橋頭堡が敷設され強化されます。続いて新たな橋頭堡の敷設と強化を求めます。かくして次第に霊力が地球を取り囲み、ますます多くの人々がその莫大な恩恵にあずかることになります。
 われわれはこれまでに存在の始源から勿体ないほど多くの恩恵を授かってまいりました。それによって同志の多くが霊的に豊かになりました。なればこそ、われわれより恵まれない人たちが同じ豊かさと美と栄光を分かち合えるように、われわれの奉仕的精神を一段と堅固に、そして強力にすることができるよう神に祈りたいと思います。
 知識がもたらすところの責任も片時も忘れないようにいたしましょう。われわれはもはや、知らなかったでは済まされません。精神的自由と霊的解放をもたらす真理を手にしているからです。人間の一人一人に神性の一部を植えつけてくださった宇宙の大霊とのより一層の調和を求めて、人のために自分を役立てる機会をますます多く与えてくださるように祈ろうではありませんか。
 そうした生き方の中においてこそ、すべて神が良きに計らってくださるという内的な安らぎ、静寂、悟り、落着きを得ることができます。そして無限の創造活動を促進する上でわれわれも役目を担っていることになるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 38-39

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 10-r (自分で選んだ人生に責任を負う才能がない場合はどうするか)

 ― 最後に責任を負うのは私であるとしても、それは生まれる時に思い通りの才能を選ばせてくれていたならば、の話です。私には選択の余地がありませんでした。

 そう言い切れる根拠はどこにありますか。

 ― 自分でそう自覚しているのですが……

 その自覚は本来の自覚の一かけらにすぎません。あなたはこの地上へ誕生するに際して今の意識よりはるかに大きな意識によって、そう決断なさったのです。(※) ですから、それを最大限に活用しないといけません。
 
 (※別のところで、このことは大半の人間について言えることだが、それは人間にはなかなか得心のいかないことでしょう、とも言っている。インペレーターもそれは高級霊でも同じであると言い、唯一その自覚を取り戻せたのはイエスだけだと言っているー訳者)

 ― その小さな意識を活用しろということでしょうか。

 いえ、あなたが選んだ地上人生を、です。でも、あなたは幸せな方です。一ばん必要とする時に霊的な啓示を受けられたのですから。人生における最大の危機にもしも霊があなたの進むべき道を指示してくれなかったら、現在のあなたはどうなっていたか分かりません。
 あなたは地上のどこのマーケットでも買うことのできない知識を手にされた、本当に恵まれた方です。霊的実在についての知識を手にされたのです。ハイブルにも“汝の信仰に知識を加えよ”とありますが、私は反対に“汝の知識に信仰を加えよ”と申し上げておきます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 85-86

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 10-s (賢い人間は体験のすべてを魂にとって益になる方向へ転換する)

 賢い人間とは体験のすべてを魂にとって益になる方向へ転換しようとする人、試練や誘惑から逃げようとせず、内部の力の限りを尽くして困難の克服に当たる人です。その意気込みの中でこそ霊性が進化し強化されるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 79

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 10-t[42-t] (霊的知識を持ちながらそれを日常生活に生かしていない人の罪)

 霊的知識を手にしながら、その意義を日常生活に生かしていない人のことを気の毒に思ってあげないといけません。かくあるべきと承知していながら、その摂理にのっとった生き方ができない人は、霊的知識を知らない人よりも霊的に大きな罪を犯していることになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 99

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 10-u[42-u] (霊的真理を知っている人でも利己的になることがある)

 霊的実在に目覚めた人ならば慈悲・寛容・哀れみ・奉仕・協力の実践が大切であること、言い変えれば、単に霊的実在の美しさや豊かさに感心しているだけではいけないことを承知のはずです。霊的真理を知っている人でも利己的人間になることがありうるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 99

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 10-v (だれの人生にも道しるべが用意されている)

 だれの人生にも道しるべが用意されております。もしも霧(心の迷い)によってそれがぼやけて、よく見えなくなった時は、いったん足を止めることです。ただの霧ですから、そのうち晴れてまた辿るべき道が見えてきます。雲にさえぎられている時でも太陽は照り輝いているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 144

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 10-w(生命には常に動きがなくてはならない)

 生命は一本調子のものではありません。不活性のものでもありません。自然は真空を嫌います。生命とは活動であり、発散であり、振動です。常に動きがなくてはなりません。大ていは前向きのもので、時として後退することもありますが、一ばんいけないのは動きを止めてしまうことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 145

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 10-x(時には俗世の喧騒から身を引くことも大切である)

 後退のやむなきに至ることはあります。が、後退するということは、そのあとの一段と大きい前進の喜びを教えてくれることでもあります。時には俗世の喧騒から身を引くことも大切です。そして内的自我に静寂をもたらすことができるようでないといけません。

     『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 145

     
*****


 10-y (内部の霊性さえ発揮させれば前進を阻むものは何もない)

 地上での生活は一日一日が挑戦課題であり、いかなる次元の問題であれ、みずから克服すべきものとして受け入れるべきです。内部の霊性さえ発揮させれば、前進を阻むものは何一つありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 147

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 10-z (毎朝はより高い霊性の可能性を秘めた一日の到来である)

 私が摂理をこしらえているのではありません。私に許されているのは摂理がこうなっていますと申し上げることだけです。毎朝の到来はより高い霊性の宝の可能性を秘めた一日の到来を意味します。その一日が終わった時に少しでも霊性が高まり、人間的に大きくなり、明日がもたらすものを受け入れるのにより相応わしくなっている― そういう一日とする気迫で毎朝を迎えましょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 147-148

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 10-za[61-ze] (霊的原理と調和して生きるように心掛けよ)
 
 生命の基盤である永遠の霊的原理を片時も忘れずに、それと調和して生きるように心掛けなさい。それが、存在″のより高い次元と調和して生きる者にかならず訪れる冷静さと憩いと落着きと安らぎと内的静寂を確保する道です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.157

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 10-zb[63-w] (どんな病気でも治しどんな困難をも克服する力を持つ人間)

 人間の一人ひとりに、いかなる病気でも治し、いかなる困難をも克服する力が宿されていることが、まだ理解されていないようです。窮地において引き出すことのできるエネルギーの貯蔵庫をそなえているのです。神の王国は各自の魂の中にあるのです。この事実がなんと理解されていないことでしょう。その深い自我に触れる方法は神の摂理にのっとった生き方に徹することです。しかし、どれほどの人がそういう生き方を心掛けていることでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.165

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 10-zc[75-i] (正しい生き方が身につけば霊力の無限の恩恵がもたらされる)

 物質それ自体に存在はありません。霊によって活力を与えられてはじめて存在を得ているのです。霊こそ生命であり、あなたが受けておられるエネルギーも宇宙の生命力とまったく同じものです。その意味であなたも創造活動に参加しているのです。正しい生き方、正しい考え方が身につけば、霊力がもたらしてくれる無限の恩恵に浴することができるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.168

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 10-zd[47-w] (思念が霊的摂理に順応すれば必要なものは必ず手に入る)

 正しい生き方、すなわち霊的知識に順応した日常生活を送れば、自動的にあなたは霊的に、精神的に、物質的に必須のものを思い通りに手にすることができるようになります。物的なものを最優先させようとする考え方がそもそも間違いなのです。物的世界に置かれている人間としての義務、あるいは自我の表現器官としてのその身体にとって大事なものも無視しなさいと言っているのではありません。心に宿す思念が霊的摂理に順応したものであれば、霊と精神と身体とが調和し一体となって働くので、必要なものは必ず手に入るようになると言っているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.168-169

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 10-ze[56-s] (自然の摂理と調和すれば霊的自覚はさらに大きくなる)

 霊と精神と身体を支配している自然の摂理と調和した生活を送っていれば、健康が維持されるのみならず、進むべき道をしっかりと踏みしめているとの確信を覚えるようになります。その霊的自覚はますます大きくそして強くなってまいります。それが存在というものの、そもそもの目的なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.171

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 10-zf[45-g」 (平然として死を迎えることができるようになるために)

 世間でいうところの成功者″になるかならないかは、どうでもよいことです。この世的な成功によって手に入れたものは、そのうちあっさりと価値を失ってしまいます。大切なのは自分の霊性の最高のものに対して誠実であること、自分でこれこそ真実であると確信するものに目をつぶることなく、本当の自分自身に忠実であること、良心の命令に素直に従えることです。それさえできれは、世間があなたをどう見ようと、自分は自分として最善を尽くしたのだという信念が湧いてきます。そして、いよいよ地上生活に別れを告げる時が来たとき、死後に待ちうける生活への備えが十分にできているという自信をもって、平然として死を迎えることができます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 225-226

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 10-zg (物的なことと霊的なこととの区別がつかない人は気の毒)

 物的なことと霊的なこととの区別がつかない人は気の毒です。日常生活で悪戦苦闘していても、霊的な平静さと安らぎを忘れないでいることは可能です。地上のいかなる困難の中にあっても、自分が本来は霊であることを忘れず、その聖域を守ることができれば、いつでも内的な安らぎを得ることができます。安らぎは外から得るものではありません。内部から湧き出てくるものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 231

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 10-zh (愚かな人間による抵抗に惑わされてはならない)

 図太さを失ってはなりません。愚かな人間による抵抗に惑わされてはなりません。むしろ哀れに思い、せっかくのチャンスを失ったことを気の毒に思ってあげなさい。そういう人たちは自らを傷つけ、さらには彼らが生き甲斐としているものまで台なしにしているのです。が、根気よく、そして図太く生きておれば、そのうちそれも排除されてまいります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 234















 11. 霊と大霊


 11-a 
(物質界へ下降した人間が無限の存在と再融合する過程)

 これもまた大きな問題ですね。でも、これは説明が困難です。霊的生命の究極の問題を物的問題の理解のための言語で説明することはとてもできません。霊的生命の無辺性を完全に説き明かせる言語は存在しません。ただ単的に、人間は霊である、但し大霊は人間ではない、という表現しかできません。
 大霊とは全存在の究極の始源です。万物の大原因であり、大建築家であり、王の中の王です。霊とは生命であり、生命とは霊です。霊として人間は始めも終りもなく存在しています。それが個体としての存在を得るのは、地上にかぎって言えば、母胎に宿っていた時です。物的身体は霊に個体としての存在を与えるための道具であり、地上生活の目的はその個性を発現させることにあります。
 霊の世界への誕生である死は、その個性をもつ霊が巡礼の旅の第二段階を迎えるための門出です。つまり霊の内部に宿る全資質を発達、促進、開発させ、完成させ、全存在の始源により一層近づくということです。人間は霊である以上、潜在的には神と同じく完全です。しかし私は人間は神の生命の中に吸収されてしまうという意味での再融合の時期が到来するとは考えません。神が無限であるごとく(生命の旅も)発達と完全へ向けての無限の過程であると主張する者です。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.93-94


     *****


 11-b [44-q] (大霊である神を全能で慈悲ある存在とする形容について)

 なんら差し支えありません。大霊は全能です。なぜならその力は宇宙およびそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。大霊より高いもの大霊より偉大なもの、大霊より強大なものは存在しません。宇宙は誤ることのない叡智と慈悲ぶかき目的をもった法則によって統括されています。その証拠に、あらゆる生命が暗黒から光明へ、低きものから高きものへ、不完全から完全へ向けて進化していることは間違いない事実です。
 このことは慈悲の要素が神の摂理の中に目論まれていることを意味します。ただ、その慈悲性に富む摂理にも機械性があることを忘れてはなりません。いかなる力をもってしても、因果律の働きに干渉することはできないという意味での機械性です。
 いかに霊格の高い霊といえども、一つの原因が数学的正確さをもって結果を生んでいく過程を阻止することはできません。そこに摂理の機械性があります。機械性という用語しかないのでそう言ったのですが、この用語ではその背後に知的で、目的意識をもったダイナミックなエネルギーが控えている感じが出ません。
 私がお伝えしようとしている概念は全能にして慈悲にあふれ、完全で無限なる神であると同時に、地上の人間がとかく想像しがちな人間神″的な要素のない神です。しかし神は無限なる大霊である以上その顕現の仕方も無限です。あなた方お一人お一人がミニチュアの神なのです。お一人お一人の中に神という完全性の火花、全生命のエッセンスである大霊の一部を宿しているということです。その火花を宿していればこそ存在できるのです。しかしそれが地上的人間性という形で顕現している現段階においては、みなさんは不完全な状態にあるということです。
 神の火花は完全です。一方それがあなた方の肉体を通して顕現している側面はきわめて不完全です。死後あなた方はエーテル体、幽体、または霊的身体---どう呼ばれても結構です。要するに死後に使用する身体であると理解すればよろしい---で自我を表現することになりますが、そのときは現在よりは不完全さが減ります。霊界の界層を一段また一段と上がっていくごとに不完全さが減少していき、それだけ内部の神性が表に出るようになります。ですから完全といい不完全といい、程度の問題です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.176-187


     *****


 11-c [44-r] (大霊は宇宙の霊的意識の集合体と考えてよいか)

 結構です。ただその意識にも次元の異なる側面が無限にあるということを忘れないでください。いかなる生命現象も、活動も、大霊の管轄外で起きることはありません。摂理---大自然の法則---は、自動的に宇宙問のすべての存在を包含するからです。たった一つの動き、たった一つのバイブレーション、動物の世界であろうと、鳥類の世界であろうと、植物の世界であろうと、昆虫の世界であろうと、根菜の世界であろうと、花の世界であろうと、海の世界であろうと、人間の世界であろうと、霊の世界であろうと、その法則によって規制されていないものは何一つ存在しないのです。宇宙は慢然と存在しているのではありません。莫大なスケールをもった一つの調和体なのです。
 それを解くカギさえつかめば、悟りへのカギさえ手にすれば、いたって簡単なことなのです。つまり宇宙は法則によって支配されており、その法則は神の意志が顕現したものだということです。法則が神であり、神は法則であるということです。
 その神は、人間を大きくしたようなものではないという意味では非人格的存在ですが、その法則が霊的・精神的・物質的の全活動を支配しているという意味では人間的であると言えます。要するにあなた方は人類として宇宙の大霊の枠組みの中に存在し、その枠組みの中の不可欠の存在として寄与しているということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.189-190


     *****


 11-d (光り輝く存在″も自我を表現する能力をもっているのか)

 みな個性的存在です。意識をもった存在です。自動人形ではありません。光り輝いております。指導者的霊格を具えた高級霊です。大天使団、神の使節です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 99


     *****


 11-e (霊には始まりも終わりもないのか)

 霊には始まりも終わりもありません。霊は無窮の過去から存在し無窮の未来まで存在し続けます。バイブルを播いてごらんなさい。イエスもこう言っております---アブラハムが生まれる前から私は存在している″

 (ヨハネ伝8・58。イエスがユダヤ教のリーダーたちと論争した時の最後のセリフで、アブラハムはユダヤ人の祖とされている人物なので、それより前から存在していたと聞かされてその本当の意味が分からず、生意気なことを言う奴だと石を投げつけるが、イエスは身を隠して逃れた---訳者)

     『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 101


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 11-f (真の自我は肉体でもなく幽体でもなくて何なのか)

 どう呼んでみたところで所詮は用語にすぎません。言葉は三次元世界のものですから、言葉を超えたものを完全に表現することはできません。したがって霊とは何かということを正しく表現できる用語がないのです。
 霊は物質的なものではありません。三次元的なものではありません。どこそこという存在場所をもつものではありません。身体のように空間を占めているのではないのです。あなた方の物的な感覚によっては、見ることも聞くことも触ってみることもできません。その霊こそ実在なのです。霊とは生命力です。霊とは動力です。霊とは宇宙の大霊の一部なのです。
 ですから、あなたがた人間は三位一体の存在ということになります。物的身体があり、霊的身体があり、そして魂(霊)があります。それらをぜんぶ別の用語に置きかえたければそうなさるがよろしい。が、何の意味もありません。用語をいじくり回すにすぎません。魂とは神性の火花です。内部に宿る大霊の一部です。
 あなたはその身体ではありません。その身体はあなたではありません。霊的身体はその物的身体が崩壊して大地に戻ったあと、引き続き自我を表現するために使用する媒体です。本当の自我は外側、表面、殻などには存在しません。内部の核、仁、中枢、魂、生命、つまりはあなたに潜在する神″です。霊は無限の存在であるがゆえに無限の顕現と段階的変化をたどります。一連の身体があり、それをアストラルだのエーテルだのと呼んでおられますが、それも一個の霊が顕現したものなのです。用語に惑わされてはいけません。言葉はただの道具にすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 105-106


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 11-g (肉体と幽体は似ているのか。胃液、筋肉などが役に立つのか)

 何の役にも立ちません。あなた方がその肉体器官を機能させる時それぞれの器官とそっくりの幽質の身体を使用しています(これを複体と呼ぶことがある−訳者)が、それには筋肉も胃液も聴覚もありません。霊が肉体を通して顕現し機能するための外皮のようなもので、死が訪れると地上での役目が終わったことになりますから、その時点で脱ぎ棄てられて別の身体が用意されます。こうして霊が浄化していくのに伴って、その段階にふさわしい表現機関として次々と新しい身体を必要とします。霊的身体はたくさんあるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 106


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 11-h [13-n] (霊界でも私たちは死を繰り返し、新しい身体をまとう)

 (霊界でも死を繰り返します)。ただし霊が死ぬのではありません。表現の媒体が変わるということです。が、それは有難いことなのですよ。進歩していることを意味するからです。
 ・・・・・人生そのものの根本の目標が進化であり発展であり成長であり学習なのです。進化するごとに、それまで役目を果たしてきた身体が自動的に脱け落ちて、その進化した段階にふさわしい身体をまとうのです。
 (あなたの身体も)全身が七年ごとに(細胞が入れ替って)新しい身体となっております。が、あなたという霊は決して無くなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 107-108

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 11-i [24-t] (地上の人間より霊界の霊の方が大霊と密接な関係があるのか)

 ― あなたたち霊の方が私たち人間より大霊と密接な関係にあるとお考えですか。

 あなた方も同じように大霊と密接な関係にあります。なぜなら大霊はあなた方の内部に存在するからです。大霊の火花が一人ひとりに宿って生命を与えているからこそ生きていられるのです。
 それとも、“密接”とおっしゃったのは大霊とのより大きな調和、より強い一体関係が得やすいという意味でしょうか。それならば “イエス”です。なぜなら霊には無限の可能性と完全性が秘められていて、こちらの方がそれを発揮しやすいからです。しかし地上においても霊界においても、その完全性をすべて発揮できる段階は来ません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.78-79

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 11-j (霊が秘める完全性と因果関係を律している総合的摂理)

 ―完全性は永遠に達成できない― 完全を目指しての絶え間ない努力の連続であるとおっしゃるのですが、それは完全性が二重性の一面だからでしょうか。二重性の原理を超えたところに別の意識の界層ないし状態があるのでしょうか。もしあるとすれば、それは理解を超えたものであるに相違ありません。

 “完全”というものは、その本質ゆえに達成できません。“これで完全です”という段階、もうこれ以上目指すものがないという段階があるとしたら、ではその先はどうなるのかという問題が生じます。
 完全とは無限に続く過程です。霊の純金を磨き出すために絶え間なく不純なものを取り除いていく過程です。知識と同じです。知れば知るほど、また先に知るべきものが存在することを知ります。全知識の頂上に到達することはできません。意識には無限の次元、レベル、界層があるのです。それが霊の属性の一つであり、無限であるが故に絶え間なく発展して行くことを意味します。
 ところで、あなたは“二重性”という言葉を用いておられますが、どういう意味ですか。

 ― “対照性の原理”のことです。

 私のいう“両極性”のことですね。無限の知性と叡智によって案出され、ありとあらゆる可能性に配剤した自然法則があります。これには改正とか破棄とかの必要性は絶対に生じません。本質そのものが無限の知性の働きの証なのです。もうこれでおしまいという限界がない― どこまで行ってもまだその先があるというのは、これは素晴らしいことです。いわゆるニルバーナ ― 霊的進化のゴールとしての至福の境涯はないということです。

 ― いわゆる因果律の次元を超えて、現在のわれわれに理解できない別の次元の摂理が存在しますか。

 摂理は無限に存在します。が、いかなる摂理も因果関係を律している総合的摂理の一部です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.79-81

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 11-k  (いかなる霊も二度と甦れないほど堕落することはない)

 いかなる極悪人といえども存在″そのものを失ってしまうことはありません。神性の火花が衰えて微かに明滅する程度になることはあっても、完全に消滅してしまうことはありません。なぜなら、大霊と結びつけている神性の絆は永遠不滅のものだからです。いかなる霊も二度と甦れないほど堕落することはありません。又いかに高級な霊といえども、その堕落した霊に救いの手を差しのべるために身を低くすることはできるものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.50-51

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 11-l [13-zm] (人間が不完全である故に霊の顕現の仕方も不完全になる)

 霊それ自体はもともと完全です。宇宙を構成している根源的素材です。生命の息吹きです。それがあなた方を通して顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されてまいります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 110-111

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 11-m (自分の中にも大霊が宿っておりそれが自分を通じて働く)

 俗世のことは無視しなさいと言っているのではありません。物的世界で自我を顕現させている以上は、その世界での義務というものがあります。ただ、自分の中にも大霊が宿っておりそれが自分を通じて働くのだという、この事実を忘れてはいけません。その力は物的世界のいかなる悩みごとをも克服します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.159-160

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 11-n (あなたに宿る大霊の力はあらゆる邪悪や病気に打ち勝つ)

 あなたに宿る大霊の力は、それを正しく認識することによってあらゆる邪悪、あらゆる病気、あらゆる障害に打ち勝ちます。そのことはすでに二千年前にイエスが説いております。曰く―“神の御国はあなたの心の中にある”と。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.160

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 11-o[54-m] (一人一人が大霊であり大霊の無限の霊力が潜在している)

 地上はいがみ合い、恨み合いといった不和にあふれております。悲哀と悲劇と流血の連続です。それでいながらお互いにわれらに平和を与え給え≠ニ祈ります。私は皆さんに、内部に秘められている神性を自覚しなさいと申し上げたいのです。あなた方のお一人お一人が大霊なのです。大霊の無限の霊力が潜在しているのです。それを開拓し表面に出す努力をすれば、有限であるがゆえの束縛を克服できるはずです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 174

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 11-p (その労苦の中に大きな喜びがあることを知ってください)

 皆さんも神の僕です。皆さんの労苦を通して大霊の御心が地上に行きわたるのです。その労苦の中に大きな喜びがあることを知ってください。なぜなら、多くの人々の生活の中にかつては思いも寄らなかった新たな希望をもたらしてあげているからです。皆さんは霊の力が地上へ降下するお手伝いをなさっているのであり、それは神の摂理が正しく地上で作用するお手伝いをしていることにほかなりません。それが物的世界の苦しみや悲しみを取り除くことにもなるのです。

  『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.180

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 11-q[55-m] (地上世界には霊的新生が大いに必要である)

 地上世界には霊的新生が大いに必要です。しかし今や大霊の造化の目的のために自分を役立てたいと願う者が増え、物欲による横暴が駆逐されるにつれて、大霊の意志が徐々にではありますが行きわたりつつあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.188

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 11-r[54-n](あなたは霊だからこそ永遠に生き続けるのである)

 あなたは霊″だからこそ生きているのです。霊だからこそ墓場を超えて生き続けるのです。霊だからこそ永遠に生き続けるのです。それには教祖さま″は何の関係もありません。生得の権利であり神からの遺産の一つなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.194

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 11-s (あなたと大霊との間に仲介役というものは要らない)

 日常生活において霊性を発揮すればするほど大霊に近づきます。あなた方一人ひとりが大霊の一部であり、したがってあなたと大霊との間に仲介役″というものは要りません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.195

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 11-t[63-zb] (霊はあらゆる生命現象が生み出されるエネルギー源)

 霊はこしらえるものではありません。過去も未来もなく常に存在しております。霊としては、あなたは無始無終に存在しているのです。霊を新たにこしらえなければならなくなったことは一度もありません。無が有になる段階というものは、これまで一度もありません。生命の原動力、精髄、活力そのものである霊は、過去も未来もなく常に存在しております。霊はあらゆる生命現象が生み出されるエネルギー源です。植物も小鳥も樹木も動物も人間も、すべてそうです。霊は存在の大原動力です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 229

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 11-u[63-zc] (母胎に宿された子は永遠の霊の一部である)

 母胎に子供が宿された時、それは新しい霊でも新しい魂でもありません。無始無終に存在している永遠の霊の一部です。それが人体に宿って個別性を獲得し、その個体がしばしの間地上で機能するわけです。しかし霊はさまざまな側面をもつことができます。そのいくつかが地上に再生して本霊であるダイヤモンドに新たな光沢を加えることはありえます。その意味では年輩の霊″若い霊″と呼べる霊は存在します。しかし新しい霊″というものはこしらえられません。地上での自我の表現機関として新しい身体が提供されるだけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 229-230

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 11-v[63-zd] (人間は内部に霊的な武器を備えていることを実感する)

 地上の人間が内部に霊的な武器を備えていることを実感することができれば、どんなにか充実した生活が送れることでしょうに。それを活用することによって、時には地上的喧騒から身を引いて、冷静さ・落着き・平穏・安らぎに浸ることができるのです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 231







 12. イエス・キリストとキリスト教


 12-a (キリスト教はイエスの教えを伝えていない)

 その昔、一人の予言者、真理の象徴ともいうべき人物、霊性を最高に顕現した神の使者がこの物質界にやってまいりました。その彼も、当時の宗教会の大御所から好ましく思われず、その言葉によろこんで耳を傾けたのは平凡な民衆だけでした。教えを説く時の彼の態度には冒し難い威厳がありました。が、その威厳は高い地位や身分から出ていたのではありません。生まれは当時の貧民階級の中でも最も貧しい家柄---名もない大工とその妻との間に生まれたのでした。しかしその肉体に宿った霊(※)は人類のすべてが模範とすべき人生を率先垂範すべく彼を鼓舞したのです。(※モーゼスの『続・霊訓』によるとイエスの本来の所属界は地球神界で、その背後霊団はその神界におけるイエスの配下の天使団、日本でいう自然霊だったというー訳者)
 彼を通じて霊力がほとばしり出ました。病の人を癒し、悲しみの人を慰め、愛と寛容と慈悲の心を説きました。が、当時の宗教界からは歓迎されませんでした。そして最後にどうなったかは皆さんもよくご存知の通りです。いつの時代にも既成宗教や国家権力から "反逆者"と睨まれた者がたどる道は同じです。イエスも同じ名目のもとに苦しい死を遂げさせられました。しかしイエスの説いた真理は死にませんでした。真理に死はあり得ないのです。無限であり、神から与えられるものであり、それ故に不滅なのです。その霊力---病を癒し、慰めを説き、当時の民衆からぬきんでた存在たらしめた力そのものが、死後すぐさまその姿を弟子たちに見せ、教えが間違っていないこと、霊は物質に優ること、死に生命を終らせる力はないことの証を与えさせたのです。その復活がいわゆるキリスト教を生む端緒となったのです。
 あと二、三日もすれば(この日は復活祭の直前だった)、キリスト教界あげてその復活をイエスが神の御子であったことの最高の証として祝います。「もしキリストが復活しなければわれらの教えは無益となり、諸君の信仰もまた無益に終る」とパウロは言いました。イエスの説いたのと同じ真理、イエスが見せたのと同じ霊的能力があなた方の時代に再び説かれ顕現されているのです。そして、またもや宗教界とそのお偉方、あるいは宮殿のごとき豪邸に住み高き地位に安住している特権階級の人々の怒りを買っております。
 「真理を説きにいく者は財布を携える勿れ」と説いたイエスの信奉者でいるつもりの現今のキリスト教徒は、実はイエスを十字架にかけた当時の迫害者たちの直系とも言うべき人種であり、その彼らが今イエスと同じ真理を説いているスピリチュアリストたちを迫害しようとしております。しかし霊の力は彼らより偉大です。今となっては時すでに遅しです。真理はかならず広まり、何も知らぬ大衆をいかに煽動しても真理の道を歩もうとする者を引き返させることはできません。私は反駁を覚悟の上で断言しますが、こうした形での今日の霊の働きかけの背後には、二千年前に地上に生をうけた、あのイエスその人が控え、同じように地上の病いの人を癒し、悲しみの人を慰め、霊的な基本的真理を地上に確立せんと奮闘しております。その真理には教会も大主教も牧師も聖典もいりません。愛に満ちた心と善意と素朴な心さえあれば良いのです。
 真理を抑圧することは出来ません。鐘や文句やローソクで真理を破門にすることはできません。(カトリック教では信者を破門にする時まず鐘を鳴らし破門文を読み上げローソクを消すという儀式になぞらえて述べている−訳者) キリスト教の名のもとに維持されてきた誤りが瓦壊しすっかり忘れ去られた時には、霊の力に裏打ちされた真理が優位に立ち、世界中いたるところの人間の心の中に王座を占めることになりましょう。たとえば復活の現象は決して奇跡ではなく、自然の法則の一つに過ぎません。一個の人間が"死″と呼ばれる変化を通過するごとに復活が行われているのです。あなた方も死を通過してより充実した生命の世界へ復活するのです。二千年前のたった一人の人間のみに起きた特殊な出来ごとではないのです。そういう法則になっているのです。いつの時代にも変わることのない摂理なのです。不変の自然法則であり、大主教も職工も、王様も平民も、聖人も罪人も、哲学者も愚鈍者もありません。すべての人間、神の子のすべてに等しく起きるのです。キリストの復活は霊的自然法則に従って生じたのです。奇跡ではありません。数多くの死者が実験会で姿を見せているのとまったく同じ心霊法則によってその姿を見せたのです。

  『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.87-90

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 12-b (イエス・キリストとスピリチュアリズム)

 この問題の取り扱いには私もいささか慎重にならざるを得ません。なるべくなら人の心を傷つけたり気を悪くさせたくはないからです。が、私の知るかぎりを、そして又、私が代表している霊団が理解しているかぎりの真実を有りのままを述べましょう。それにはまずイエスにまつわる数多くの間違った伝説を排除しなければなりません。それがあまりに永いあいだ事実とごたまぜにされてきたために、真実と虚偽の見分けがつかなくなっているのです。
 まず歴史的事実から申しましょう。インスピレーションというものはいつの時代にも変わらぬ顕と幽とをつなぐ通路です。人類の自我意識が芽生え成長しはじめた頭初から、人類の宿命の成就へ向けて大衆を指導する者へインスピレーションの形で指導と援助が届けられて来ました。地上の歴史には予言者、聖人、指導者、先駆者、改革者、夢想家、賢者等々と呼ばれる大人物が数多く存在しますが、そのすべてが、内在する霊的な天賦の才能を活用していたのです。それによってそれぞれの時代に不滅の光輝を付加してきました。霊の威力に反応して精神的高揚を体験し、その人を通じて無限の宝庫からの叡知が地上へ注がれたのです。
 その一連の系譜の中の最後を飾ったのがイエスと呼ばれた人物です。(第一巻の解説"霊的啓示の系譜″参照)ユダヤ人を両親として生まれ、天賦の霊能に素朴な弁舌を兼ね具え、ユダヤの大衆の中で使命を成就することによって人類の永い歴史に不減の金字塔を残しました。地上の人間はイエスの真実の使命についてはほとんど知りません。わずかながら伝えられている記録も汚染されています。数々の出来事も、ありのままに記述されておりません。増え続けるイエスの信奉者を権力者の都合のよい方へ誘導するために、教会や国家の政策上の必要性に合わせた捏造と改ざんが施され、神話と民話を適当に取り入れることをしました。イエスは(神ではなく)人間でした。物理的心霊現象を支配している霊的法則に精通した大霊能者でした。今日でいう精神的心霊現象にも精通していました。イエスには使命がありました。それは当時の民衆が陥っていた物質中心の生き方の間違いを説き、真理と悟りを求める生活へ立ち戻らせ、霊的法則の存在を教え、自己に内在する永遠の霊的資質についての理解を深めさせることでした。
 では "バイブルの記録はどの程度まで真実なのか″とお聞きになることでしょう。福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四書)の中には真実の記述もあるにはあります。たとえばイエスがパレスチナで生活したのは本当です。低い階級の家に生まれた名もなき青年が聖霊の力ゆえに威厳をもって訓えを説いたことも事実です。病人を霊的に治癒したことも事実です。心の邪な人間に取りついていた憑依霊を追い出した話も本当です。しかし同時に、そうしたことがすべて霊的自然法則に従って行われたものであることも事実です。自然法則を無視して発生したものは一つもありません。なんびといえども自然法則から逸脱することは絶対にできないからです。イエスは当時の聖職者階級から自分たちと取って代ることを企む者、職権を犯す者、社会の権威をないがしろにし、悪魔の声としか思えない教説を説く者として敵視される身となりました。そして彼らの奸計によってご存知の通りの最期を遂げ、天界へ帰ったあとすぐに物質化して姿を現わし、伝道中から見せていたのと同じ霊的法則を証明してみせました。臆病にして小胆な弟子たちは、ついに死んでしまったと思っていた師の蘇りを見て勇気を新たにしました。そのあとはご承知の通りです。一時はイエスの説いた真理が広がり始めますが、またぞろ聖職権を振り回す者たちによってその真理が虚偽の下敷きとなって埋もれてしまいました。
 その後、霊の威力は散発的に顕現するだけとなりました。イエスの説いた真理はほぼ完全に埋もれてしまい、古い神話と民話が混入し、その中から、のちに二千年近くにわたって説かれる新しいキリスト教が生まれました。それはもはやイエスの教えではありません。その背後にはイエスが伝道中に見せた霊の威力はありません。主教たちは病気治療をしません。肉親を失った者を慰める言葉を知りません。憑依霊を除霊する霊能を持ち合わせません。彼らはもはや霊の道具ではないのです。
 さて、以上、いたって大ざっぱながら、キリスト教誕生の経緯を述べたのは、イエス・キリストを私がどう位置づけるかというご質問にお答えする上で必要だったからです。ある人は神と同じ位に置き、神とはすなわちイエス・キリストであると主張します。それは宇宙の創造主、大自然を生んだ人間の想像を絶するエネルギーと、二千年前にパレスチナで三十年ばかりの短い生涯を送った一人の人間とを区別しないことになり、これは明らかに間違いです。相も変わらず古い民話や太古からの神話を御生大事にしている人の考えです。
 ではイエスをどう評価すべきか。人間としての生き方の偉大な模範、偉大な師、人間でありながら神の如き存在、ということです。霊の威力を見せつけると同時に人生の大原則---愛と親切と奉仕という基本原則を強調しました。それはいつの時代にも神の使徒によって強調されてきていることです。もしもイエスを神に祭り上げ、近づき難き存在とし、イエスの為せる業は実は人間ではなく神がやったのだということにしてしまえば、それはイエスの使命そのものを全面的に否定することであり、結局はイエス自身への不忠を働くことになります。イエスの遺した偉大な徳、偉大な教訓は、人間としての模範的な生きざまです。
 私たち霊界の者から見ればイエスは、地上人類の指導者のながい霊的系譜の最後を飾る人物---それまでのどの霊覚者にもまして大きな霊の威力を顕現させた人物です。だからと言って私どもはイエスという人物を崇拝の対称とするつもりはありません。イエスが地上に遺した功績を誇りに思うだけです。イエスはその後も私たちの世界に存在し続けております。イエス直じきの激励にあずかることもあります。ナザレのイエスが手がけた仕事の延長ともいうべきこの(ズピリチュアリズムの名のもとの)大事業の総指揮に当っておられるのが他ならぬイエスであることも知っております。そして当時のイエスと同じように、同種の精神構造の人間からの敵対行為に遭遇しております。しかしスピリチュアリズムは証明可能な真理に立脚している以上、きっと成功するでしょうし、またぜひとも成功させなければなりません。イエス・キリストを真実の視点で捉えなくてはいけません。すなわちイエスも一人間であり、霊の道具であり、神の僕であったということです。あなた方もイエスの為せる業のすべてを、あるいはそれ以上のことを、為そうと思えば為せるのです。そうすることによって真理の光と悟りの道へ人類を導いて来た幾多の霊格者と同じ霊力を発揮することになるのです。


   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.100-105

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 12-c (イエス・キリストと聖書)

  =聖書の中で明らかに間違っている事例=
 
 たとえばイエスが処刑された時に起きたと言われる超自然的な出来ごとがそれです。大変動が起き、墓地という墓地の死体がことごとく消えたという話---あれは事実ではありません。

  =イエスの誕生にまつわる星と三人の賢者の話(マタイ2)=

 どれ一つ真実ではありません。イエスは普通の子と同じように誕生しました。その話はすべて作り話です。

  =三人の賢者がその後聖書に出てこないのは=

 カルデア、アッシリヤ、バピロニア、インド等の伝説からその話を借用したまでのことで、それだけで用事は終ったのです。そのあと続けて出てくる必要がなかったということです。よく銘記しておかねばならないことは、イエスを神の座に祭り上げるためには、まわりを畏れ多い話や超自然的な出来ごとで固めねばならなかったということです。当時の民衆はふつうの平凡な話では感動しなかったのです。神も(普遍的なものでなく)一個の特別な神であらねばならず、その神に相応わしいセット(舞台装置)をしつらえるために、世界のあらゆる神話や伝説の類いが掻き集められたのです。

  =霊能者としてのイエス=

 イエスはけっして自分の霊能を辱めるような行為はしませんでした。いかなる時も自分の利益のために使用することをしませんでした。霊的法則を完璧に理解しておりました。そこが単に偉大な霊能者であったこと以上に強調されるべき点です。歴史上には数多くの優れた霊能者が輩出しております。しかし完璧な理解と知識とをもって霊的法則をマスターするということは、これはまったく別の次元の問題です。

 もう、イエスのような人物が出現する必要はありません。たとえあのナザレのイエスが今この地上に戻って来たとしても、たぶん地上でもっとも評判の悪い人間となるでしょう。とくにイエスを信奉し師と崇めるキリスト教徒から一ばん嫌われることでしょう。

  =14歳から30歳までの間イエスは何をしていたか=

 その間の年月は勉学に費やされました。イエスの教育に当った人たちによって、真の賢者のみが理解する霊の法則を学ばせるために各地の学問の施設へ連れて行かれました。心霊的能力の養成を受けると同時に、その背後の意味の理解を得ました。要するにその時期は知識の収得と才能の開発に費されたわけです。
 (その教育施設の)幾つかはインドに、幾つかはエジプトにありました。最も重要な教育を受けた学校はアレクサソドリアにありました。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.105-109 より

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 12-d (霊的に盲目である聖職者たち)

 私たちは今、神の子の指導者であるべき人たちから軽蔑されております。神とその愛の旗印のもとに訪れるのですから歓迎されてよいはずなのに、彼らは私たちを受け入れようとしません。地上の人たちに何とかしてあげたいという願望に駆られて、みずからの力でみずからを救うための霊的理法と霊力の存在を明かそうと努力しているのですが・・・・・。 ですが、霊的盲目による無知の中に浸りきり、祭礼や儀式に取り囲まれ、しかも今の時代に聖霊による地上への働きかけがあることを認めようとしない聖職者は、いずれその代償を払わされることになります。私たちは人のためになることをしようとする人なら、いかなる分野の人でも味方として歓迎します。私たちにとっての敵は破壊的態度に出る人たちだけです。私たちは愛と奉仕の翼にのって、援助の手を差しのべられるところならどこへでも参ります。それが私たちに課せられた大切な使命なのです。
 むろんその過程において数々の困難や障害に遭遇することは承知しております。それを何とか克服していかねばなりません。汐は満ちたり引いたりします。が、確実に勝利に向かっております。私たちだけでは仕事らしい仕事はできません。あなたがた地上の同志と手を握り合えばいくばくかの仕事はできます。たった一個の魂でも目覚めさせれば、たった一人でも暗闇から光明へ導くことができれば、たった一人でも弱った人に元気を与え、悩める人に慰めを与えることができれば、それだけで私たちは立派な仕事を成し遂げたことになります。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.35-36

     *****


 12-e (悪魔はキリスト教が生み出したものか)

 そうです。自分たちからみて悪と思えるものを何とか片付けるためにはそういうものを発明しなければならなかったのです。悪も進化の過程の一翼を担っておりまず。改善と成長-----絶え間なく向上せんとする過程の一つなのです。人間にとって悪に思え苦痛に思えるものも進化の計画に組み込まれた要素なのです。痛みがなければ健康に注意させる警告がないことになります。暗闇がなければ光もありません。悪がなければ善もありません。地上にもし悪が存在しなけれは、何を基準に善を判断するのでしょうか。改めるべき間違い、闘うべき不正が存在しなければ、人間の霊はどうやって成長するのでしょう。

 『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, p.154

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 12-f (いまイエスは霊媒を通して話すことがでるか)
      ー 2人の幼児、ルースとポールに答えて ー

 いいえ。イエスさまは王様が家来の者を使うように私たちを使っていらっしゃいます。私たちはイエスさまの使節団なのです。イエスさまのお考えを地上の人たちに伝え、地上の人たちの考えをイエスさまにお伝えするのです。でも、イエスさまの霊はいつも私たちとともにあります。けっして遠くにいらっしゃるのではありません。前にもお話したことがありますが、私がイエスさまのところに行く時は---もうすぐ参りますが---ルースとポールという名前の二人の良い子の考えと言葉と愛とをたずさえて参ります。ご存知のようにイエスさまは子供が大好きなのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, p.164


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 12-g (改訳聖書と欽定訳聖書とを比べてどちらがいいか)
        ー牧師の質問に答えてー

 文字はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。神の真理は聖書だけでなく他のいろんな本に書かれています。それから、人のために尽くそうとする人々の心には、どんな地位の人であろうと、誰であろうと、どこの国の人であろうと、立派に神が宿っているのです。それこそが一ばん立派な聖書です。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.176-177

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  12-h (キリストへの信仰をどう思うか)

 主よ、主よ、と何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心に叶った行いです。それがすべてです。口にする言葉や心に信じることではありません。頭で考えることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰というものを持っていなくても、落ちこんでいる人の心を元気づけ、飢える人にパンを与え、暗闇にいる人の心に光を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の心に叶った人です。
 ・・・・イエスは地上に降りた偉大なる霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、ついに十字架にかけました。いや、今なお十字架にかけ続けております。イエスだけでなく、すべての人間に神の分霊が宿っております。ただその分霊が多いか少ないかの違いがあるだけです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.179-180

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 12-i (聖書の原典はどこにあるか)

 聖書の原典はご存知のあのバチカン宮殿に仕舞い込まれて以来一度も外に出されたことがないのです。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典の写しの写しの、そのまた写しなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しなかったのです。ところが、いつになっても再臨しないので、ついにあきらめて記憶をたどりながら書きました。イエス曰く・・・・と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは書いた本人も確かでなかったのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.184

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 12-j (イエスが関心をもっていたこと)

 イエスの関心は自分がどんなことを述べたかといったことではありません。地上のすべての人間が神の摂理を実行してくれることです。人間は教説のことで騒ぎ立て、行いの方をおろそかにしています。″福音書″なるものを講義する場に集まるのは真理に飢えた人たちばかりです。イエスが何と言ったかはどうでもよいことです。大切なのは自分自身の人生で何を実践するかです。
 地上世界は教説では救えません。いくら長い説教をしても、それだけでは救えません。神の子が神の御心を鎧として暗黒と弾圧の勢力、魂を束縛するものすべてに立ち向かうことによって初めて救われるのです。その方が記録に残っていないイエスのことばより大切です。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.185-186


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 12-k (実践をおろそかにして後悔する牧師)
       =キリスト教の牧師に対して=

  私はこちらの世界で後悔しいる牧師にたくさん会っております。みなさん地上での人生を振り返って自分が本当の霊のメッセージを説かなかったこと、聖書や用語や教説にばかりこだわって実践をおろそかにしたことを自覚するのです。そうして、できればもう一度地上へ戻りたいと望みます。そこで私はあなたのような(目覚めかけている)牧師に働きかけて、新しい時代の真理を地上にもたらす方法をお教えするのです。
 あなたは今まさに崩壊の一途をたどっている世界にいらっしゃることを理解しなくてはいけません。新しい秩序の誕生---真の意味の天国が到来する時代の幕開けを見ていらっしゃるのです。生みの痛みと苦しみと涙が少なからず伴うことでしょう。しかし最後は神の摂理が支配します。あなた方一人ひとりがその新しい世界を招来する手助けができるのです。なぜなら、人間のすべてが神の分霊であり、その意味で神の仕事の一翼を担うことができるからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.189


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 12- l (地上の人間が完璧な生活を送ることは可能か)

 それは不可能なことです。が、そう努力することはできます。努力することそのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれてくるのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからも同じです。
 (イエスが「天の父の完全である如く汝らも完全であれ」といっているのは)完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活で目指すべき最高の理想なのです。すなわち、内部に宿る神性を開発することです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.191

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 12-m(イエスも腹を立てたことがあった)

 (イエスが両替商人を教会堂から追い出した話を持ち出して)私が言いたかったのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチをもって追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別の問題です。イエスは怒ったのです。怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情をそなえていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐとき、イエスもまた一個の人間であった----ただ普通の人間より神の心をより多く体現した人だった、というふうに考えることが大切です。
 ・・・・・ 誰の手も届かないところに祭りあげたらイエスさまがよろこばれると思うのは大間違いです。イエスもやはりわれわれと同じ人の子だったと見る方がよほどよろこばれるはずです。自分だけ超然とした位置に留まることはイエスはよろこばれません。人類とともによろこび、ともに苦しむことを望まれます。一つの生き方の手本を示しておられるのです。イエスが行ったことは誰にでもできることばかりなのです。誰もついていけないような人物だったら、せっかく地上へ降りたことが無駄だったことになります。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.193-194

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 12-n (キリスト教の「回心の教義」をどう思うか)
          = キリスト教の牧師の質問に応えて=

 よくご存知のはずの文句をあなた方の本から引用しましょう。〃たとえ全世界を得ようと己れの魂を失わば何の益かあらん〃 (マルコ8-36) 〃まず神の国とその義を求めよ。しからばこれらのものすべて汝らのものとならん″(マタイ6-33)この文句はあなた方はよくご存知ですが、はたして理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。〃神を侮るべからず。己れの蒔きしものは己れが刈り取るべし″(ガラテア6-7)これもよくご存知でしょう。
 神の摂理は絶対にごまかせません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の改心でいっぺんに立派な霊になれるとお思いですか。魂の奥深くまで染み込んだ汚れが、それくらいのことで一度に洗い落せると思われますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切おろそかにしてきた人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。〃すみませんでした″の一言ですべてが赦されるとしたら、はたして神は公正であるといえるでしょうか。

     『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.199

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 12-o (キリストの赦しを受け容れることが愛の施しにはならないか)
       = キリスト教の牧師に対して =

 神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなた方もぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する----それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変りません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。
 前にも言ったことですが、聖書に書かれている言葉を全部イエスが実際に言ったとはかぎらないのです。そのうちの多くはのちの人が書き加えたものなのです。イエスがこうおっしゃったとあなた方が言う時、それは ″そう言ったと思う″という程度のものでしかありません。そんないい加減なことをするよりも、あの二千年前のイエスを導いてあれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今の世にも働いていることを知ってほしいのです。
 あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡智、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けている。なにも、神を求めて二千年前まも遡ることはないのです。今ここに在しますのです。二千年前とまったく同じ神が今ここに在しますのです。その神の真理とエネルギーの通路となるべき人物(霊媒・霊能者)は今もけっして多くはありません。しかし何ゆえにあなた方キリスト者は二千年前のたった一人の霊能者にばかりすがろうとなさるのです。なぜそんな昔のインスピレーションだけを大切になさるのです。なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです。

     『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.203-204

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 12-p (キリストは私の中にいて業をなしているのではないのか)
       = キリスト教の牧師の質問に対して =

 何ゆえにあなた方は全智全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです。宇宙の大霊が一個の人間あるいは一冊の書物で全部表現できるとでもお考えですか。私はクリスチャンではありません。イエスよりずっと前に地上に生をうけました。すると神は私には神の恩恵に浴することを許してくださらなかったということですか。
 神のすべてが一冊の書物の中のわずかなページで表現できるとお思いですか。その一冊が書き終えられた時を最後に神は、それ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとお考えですか。聖書の最後の一べ−ジを読み終った時、神の真理のすべてを読み終えたことになるというのでしょうか。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.204-205


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 12-q  (キリスト暦「西暦」が今日残っている唯一のカレンダー?)
        = キリスト教の牧師の質問に対して =

 誰がそんなことを言ったのでしょうか。ユダヤ人が独自のカレンダーを使用していることをお聞きになったことはないでしょうか。多くの国が今なおその国の宗教の発生とともにできたカレンダーを使用しております。私はけっしてイエスを過小評価するつもりはありません。私は現在のイエスがなさっておられる仕事を知っておりますし、ご自身は神として崇められることを望んでいらっしゃらないこともよく知っております。イエスの生涯の価値は人間が模範とすべきその生き方にあります。イエスという一個の人間を崇拝することをやめないかぎり、キリスト教はインスピレーションにはあまり恵まれないでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、p.206


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 12-r (キリスト教国として恥ずべき事態)
   = 「キリストの誕生日を西洋暦の始まりと決めたのはいつか」
     と聞かれて = 

 (そんなことよりも)私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランドの)北部の町ダーラムへ行き、大ぜいの神の子とともに過ごしました。高い地位の人たちではありません。肉体労働で暮らしている人たちで、仕事が与えられると---大てい道路を掘り起こす仕事ですが---一生けんめい働き、終わるとわずかばかりの賃金をもらっている人たちです。その人たちが住んでいるのはいわゆる貧民収容施設です。これはキリスト教文明の恥辱ともいうべき産物です。
 ところが同じ町にあなた方が "神の館" と呼ぶ大聖堂があります。高く聳えていますから太陽が照るとまわりの家はその陰になります。そんなものが無かった時よりも暗くなっています。これでよいと思われますか。
 ・・・・・あのようなことでイエスがおよろこびになると思われますか。一方にはあのような施設、あのような労働を強いられる人々、わずかな賃金しかもらえない人々が存在し、他方にはお金のことには無とん着でいられる人が存在していて、それでもイエスはカレンダーのことなどに関わっていられると思われますか。
 あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、大聖堂のための資金のことやカレンダーのことや聖書のことなどにイエスが関わられると思いますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と名乗るこの国にそんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、いったいあなた方は何と心得ていらっしゃるのですか。
 あなたは教典のことで(改訳聖書と欽定訳聖書とどっちがいいかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりもっと大切な、そしてもっと大きな仕事があるはずです。神はその恩寵をすべての子に分け与えたいと望んでおられることが分かりませんか。飢え求めている人がいる生活物資を、世界のどこかでは捨て放題の暮らしをしている人たちがいます。ほかならぬキリスト者が同じことをしていて、はたしてキリスト教を語る資格があるでしょうか。
 私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主の目に涙を見たことがあります。キリスト者をもって任ずる者が、聖職にある者の多くが、その教会の陰で進行している恥ずべき事態に目を瞑っているのをご覧になるからです。その日の糧すら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館のつもりで建立した教会を宝石やステンドグラスで飾り、その大きさを誇っているのを見て一体だれが涼しい顔をしていられましょう。
 その人たちの多くは一日の糧も満足に買えないほどのわずかな賃金を得るために一日中働き続け、時には夜ふかしまでして、しかも気の毒にその疲れた身体を横たえるまともな場所もない有様なのです。あなたを非難しているのではありません。私はあなたに大きな愛着を覚えております。お役に立つことならどんなことでもしてあげたいと思っております。が、私は霊界の人間です。そしてあなたのように、社会へ足を踏み入れて間違いを改めていくための一石を投じてくれるような人物とこうして語るチャンスが非常に少ないのです。
 あなたに理解していただきたいことは、聖書のテキストのことをうんぬんするよりも、もっと大切なことがあるということです。主よ、主よ、と叫ぶ者がみな敬虔なのではありません。神の意志を実践する者こそ敬虔なのです。それをイエスは二千年前に述べているのです。なのに今日なおあなた方は、それが一ばん大切であることをなぜ信者に説けないのでしょうか。
 戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業、こうした現実に知らぬふりをしているかぎりキリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。

  『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.207-210

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 12-s (慈善事業などと教会もよくやっているのではないか)

 あなたが心掛けの立流な方であることは私も認めております。そうでなかったら二度もあなたと話をしに戻ってくるようなことはしません。あなたが役に立つ人材であることを見て取っております。あなたの教会へ足を運ぶ人の数はたしかに知れています。しかしイエスは社会のすみずみにまで足を運べと言っていないでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなたの方から足を運ばなければならないのです。
 教会を光明の中心となし、飢えた魂だけでなく飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡智の言葉だけでなくパンと日常の必需品を与えてあげられるようでないといけません。魂と肉体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働くための身体も救ってあげないといけません。教会がこぞってそのことに努力しなければ、養うものを得られない身体は死んでしまいます。

  『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
   潮文社、1986、pp.210-211


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 12-t (イエスは私たちのために苦しみを受けたか)

 バイブルには事実でないことが沢山のべられています。いかなる人間も自分以外の者のために代って苦しみを受けることはできません。自分の成長を管理するのは自分一人しかいない---他人の成長は管理できないというのが摂理だからです。贖罪説は神学者が時代の要請にしたがってでっち上げた教説の一つです。自分が過ちを犯したら、その荷は自分で背負ってそれ相当の苦しみを味わわなくてはなりません。そうやって教訓を学ぶのです。もしも誰かほかの者が背負ってあげることができるとしたら、過ちを犯した本人は何の教訓も学べないことになります。
 苦と楽、悲しみと喜び、平静さと怒り、嵐と晴天、こうしたものがみな魂の成長の糧となるのです。そうしたものを体験し教訓を学んではじめて成長するのです。その時はじめて宇宙が無限なる愛によって支配され、その愛から生み出された摂理に間違いはないとの自覚を得ることができるのです。”まず神の国と義を求めよ。さらばそれらのものもすべて汝のものとならん”(マタイ6・33)というのは真実です。その心掛けになり切れば、つまり宇宙の摂理に不動の、そして全幅の信頼を置くことができるようになれば、人生で挫折することはありません。なぜならばその信念が内部の霊力を湧き出させ、何ごとも成就させずにはおかないからです。
 その霊力を枯渇させマヒさせる最たるものは “心配” の念です。全幅の信頼心---盲目的な信仰ではなく知識を土台とした完全なる信念は、人生のあらゆる体験に心配も迷いも不安もなく立ち向かわせます。神の子である以上は自分の魂にも至聖所があり、そこに憩うことを忘れないかぎり、自分を焼きつくす火も吹き倒す嵐も絶対にないとの確信があるからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1986、pp.196-197


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 12-u (人間イエスとイエス・キリストはどこがどう違うのか)

 質問: イエス・キリストを宇宙機構の中でどう位置づけているのでしょうか。また「人間イエス」と「イエス・キリスト」とはどこがどう違うのでしょうか。

 ナザレのイエスは地上へ降誕した一連の予言者ないし霊的指導者の系譜の最後を飾る人物でした。そのイエスにおいて霊の力が空前絶後の顕現をしたのでした。
 イエスの誕生には何のミステリーもありません。その死にも何のミステリーもありません。他のすべての人間と変らぬ一人の人間であり、大自然の法則にしたがってこの物質の世界にやって来て、そして去って行きました。が、イエスの時代ほど霊界からのインスピレーションが地上に流入したことは前にも後にもありません。イエスには使命がありました。それは、当時のユダヤ教の教義や儀式や慣習、あるいは神話や伝説の瓦れきの下敷きとなっていた基本的な真理のいくつかを掘り起こすことでした。
 そのために彼はまず自分へ注目を惹くことをしました。片腕となってくれる一団の弟子を選んだあと、持ちまえの霊的能力を駆使して心霊現象を起こしてみせました。イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。彼は一度たりともそれを邪なことに使ったことはありませんでした。
 またその心霊能力は法則どおりに活用されました。奇跡も、法則の停止も廃止も干渉もありませんでした。心霊法則にのっとって演出されていたのです。そうした現象が人々の関心を惹くようになりました。そこでイエスは、人間が地球という惑星上で生きてきた全世紀を通じて数々の霊覚者が説いてきたのと同じ、単純で永遠に不変で基本的な霊の真理を説くことを始めたのです。
 それから後のことはよく知られている通りです。世襲と伝統を守ろうとする一派の憤怒と不快を買うことになりました。が、ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する乏しい記録に大へんな改ざんがなされていることです。ずいぶん多くのことが書き加えられています。ですから聖書に書かれていることにはマユツバものが多いということです。出来すぎた話はぜんぶ割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから。
 もう一つのご質問のことですが、ナザレのイエスと同じ霊、同じ存在が今なお地上に働きかけているのです。死後いっそう開発された霊力を駆使して、愛する人類のために働いておられるのです。イエスは神ではありません。全生命を創造し人類にその神性を賦与した宇宙の大霊そのものではありません。
 いくら立派な位であっても、本来まったく関係のない位にイエスを祭り上げることは、イエスに忠義を尽くすゆえんではありません。父なる神の右に座しているとか、“イエス”と“大霊”とは同一義であって置きかえられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜こばれません。
 イエスを信仰の対象とする必要はないのです。イエスの前にヒザを折り平身低頭して仕える必要はないのです。それよりもイエスの生涯を人間の生き方の手本として、さらにそれ以上のことをするように努力することです。
 以上、大へん大きな問題についてほんの概略を申し上げました。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.138-140


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 12-v (“キリストの霊”Christ Spiritとは何か)

 これもただの用語にすぎません。その昔、特殊な人間が他の人間より優秀であることを示すために聖油を注がれた時代がありました。それは大てい王家の生まれの者でした。キリストという言葉は“聖油を注がれた”という意味です。それだけのことです。(ユダヤでそれに相応しい人物はナザレのイエスJesusだという信仰が生まれ、それでJesus Christと呼ぶようになり、やがてそれが固有名詞化していった---訳者)

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.140-141


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 12-w (イエスの生活が完全であったわけではない)

 質問: イエスが霊的指導者の中で最高の人物で、模範的な人生を送ったとおっしゃるのが私にはどうしても理解できません。

 私は決してイエスが完全な生活を送ったとは言っておりません。私が申し上げたのは地上を訪れた指導者の中では最大の霊力を発揮したこと、つまりイエスの生涯の中に空前絶後の強力な神威の発現が見られるということ、永い霊覚者の系譜の中でイエスにおいて霊力の顕現が最高潮に達したということです。イエスの生活が完全であったとは一度も言っておりません。それは有り得ないことです。なぜなら彼の生活も当時のユダヤ民族の生活習慣に合わせざるを得なかったからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、p.141


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 12-x  (イエスの教えは最高であると思うか)

 不幸にしてイエスの教えはその多くが汚されてしまいました。私はイエスの教えが最高であるとは言っておりません。私が言いたいのは、説かれた教訓の精髄は他の指導者と同じものですが、たった一人の人間があれほど心霊的法則を使いこなした例は地上では空前絶後であるということです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、p.142


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 12-y  (イエスは時代に先行しすぎた人間であった)

 質問: イエスの教えがその時代の人間にとっては進み過ぎていた---だから理解できなかった、という観方は正しいでしょうか。

 そうです。おっしゃる通りです。ランズベリーやディック・シェパードの場合と同じで(※)、時代に先行しすぎた人間でした。時代というものに彼らを受け入れる用意ができていなかったのです。それで結局は彼らにとって成功であることが時代的に見れば失敗であり、逆に彼らにとって失敗だったことが時代的には成功ということになったのです。

 ※  George Lansbury は一九三一年〜三五年の英国労働党の党首で、その平和主義政策が純粋すぎたために挫折した。第二次世界大戦勃発直前の一九三七年にはヨーロッパの雲行きを案じてヒトラーとムッソリーニの両巨頭のもとを訪れるなどして戦争阻止の努力をしたが、効を奏さなかった。Dick Sheppard についてはアメリカーナ、ブリタニカの両百科全書、その他の人名辞典にも見当たらない---訳者)

   『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.142-143


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 12-z (イエスは心霊的法則を理解し自在に使いこなすことができた)

 質問: イエスが持っていた霊的資質を総合したものが、これまで啓示されてきた霊力の大根源であると考えてよろしいでしょうか。

 いえ、それは違います。あれだけの威力が発揮できたのは霊格の高さのせいよりも、むしろ心霊的法則を理解し自在に使いこなすことができたからです。皆さんにぜひとも理解していただきたいのは、その後の出来事、つまりイエスの教えに対する人間の余計な干渉、改ざん、あるいはイエスの名のもとに行われてきた間違いが多かったにもかかわらず、あれほどの短い期間に全世界に広まりそして今日まで生き延びて来たのは、イエスが常に霊力と調和していたからだということです。 (訳者注---霊力との調和というのは、ここでは背後霊団との連絡がよく取れていたという意味である。『霊訓』のインペレーターによると、イエスの背後霊団は一度も物質界に誕生したことのない天使団、いわゆる高級自然霊の集団で、しかも地上への降誕前のイエスはその天使団の中でも最高の位にあった。地上生活中のイエスは早くからそのことに気づいていて、一人になるといつも瞑想状態に入って幽体離脱し、その背後霊団と直接交わって連絡を取り合っていたという)

   『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.143-144


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 12-za (イエスの教えと間違いを犯している信奉者を混同してはならない)

  質問:(かつてのメソジスト派の牧師) いっそのこと世界中に広がらなかった方がよかったという考え方もできます。

 愛を最高のものとした教えは立派です。それに異議を唱える人間はおりません。愛を最高のものとして位置づけ、ゆえに愛はかならず勝つと説いたイエスは、今日の指導者が説いている霊的真理と同じことを説いていたことになります。教えそのものと、その教えを取り違えしかもその熱烈信仰によってかえってイエスを何度もはりつけにするような間違いを犯している信奉者とを混同しないようにしなければなりません。
 イエスの生涯をみて私はそこに、物質界の人間として最高の人生を送ったという意味での完全な人間ではなくて、霊力との調和が完全で、かりそめにも利己的な目的のためにそれを利用することがなかった---自分を地上に派遣した神の意志に背くようなことは絶対にしなかった、という意味での完全な人間を見るのです。イエスは一度たりとも自ら課した使命を汚すようなことはしませんでした。強力な霊力を利己的な目的に使用しようとしたことは一度もありませんでした。霊的摂理に完全にのっとった生涯を送りました。
 どうもうまく説明できないのですが、イエスも生を受けた時代とその環境に合わせた生活を送らねばならなかったのです。その意味で完全では有り得なかったと言っているのです。そうでなかったら、自分よりもっと立派なそして大きな仕事ができる時代が来ると述べた意味がなくなります。
 イエスという人物を指さして“ごらんなさい。霊力が豊かに発現した時はあれほどのことが出来るのですよ”と言える、そういう人間だったと考えればいいのです。信奉者の誰もが見習うことのできる手本なのです。しかもそのイエスは私たちの世界においても、私の知るかぎりでの最高の霊格を具えた霊であり、自分を映す鏡としてイエスに代わる者はいないと私は考えております。
 私がこうしてイエスについて語る時、私はいつも“イエス崇拝”を煽ることにならなければよいがという思いがあります。それは私が“指導霊崇拝”に警告を発しているのと同じ理由からです(八巻P18参照)。あなたは為すべき用事があってこの地上にいるのです。みんな永遠の行進を続ける永遠の巡礼者です。その巡礼に必要な身支度は理性と常識と知性をもって行わないといけません。書物からも得られますし、伝記からでも学べます。ですから、他人が良いと言ったから、賢明だと言ったから、あるいは聖なる教えだからということではなく、自分の旅にとって有益であると自分で判断したものを選ぶべきなのです。それがあなたにとって唯一採用すべき判断基準です。
 たとえその後一段と明るい知識に照らし出された時にあっさり打ち棄てられるかも知れなくても、今の時点でこれだと思うものを採用すべきです。たった一冊の本、一人の師、一人の指導霊ないしは支配霊に盲従すべきではありません。
 私とて決して無限の叡智の所有者ではありません。霊の世界のことを私が一手販売しているわけではありません。地上世界のために仕事をしている他の大勢の霊の一人にすぎません。私は完全であるとか絶対に間違ったことは言わないなどとは申しません。あなた方と同様、私もいたって人間的な存在です。私はただ皆さんより人生の道のほんの二、三歩先を歩んでいるというだけのことです。その二、三歩が私に少しばかり広い視野を与えてくれたので、こうして後戻りしてきて、もしも私の言うことを聞く意志がおありなら、その新しい地平線を私といっしょに眺めませんかとお誘いしているわけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.144-147


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 12-zb [6-h] (宗教にとってセレモニーや慣例行事は必要か =1=)

 質問: スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して“最後の晩餐”の儀式を行うべきでしょうか。

 そういう儀式を催すことによって身体的に、精神的に、あるいは霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれは最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、私自身にはそういうセレモニーに参加したいという気持は毛頭ありません。そんなことをしたからといってイエスは少しも有難いとは思われません。私にとっても何の益にもなりません。否、霊的知識の理解によってそういう教義上の呪縛から解放された数知れない人々にとっても、それは何の益も価値もありません。
 イエスに対する最大の貢献はイエスを模範と仰ぐ人々がその教えの通りに生きることです。他人のために自分ができるだけ役に立つような生活を送ることです。内在する霊的能力を開発して、悲しむ人々を慰め、病の人を癒やし、懐疑と当惑の念に苦しめられている人々に確信を与え、助けを必要としている人すべてに手を差しのべてあげることです。
 儀式よりも生活の方が大切です。宗教とは儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。“聖なる書”と呼ばれている書物から活字のすべてを抹消してもかまいません。賛美歌の本から“聖なる歌”をぜんぶ削除してもかまいません。儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。それでもなおあなたは、気高い奉仕の生活を送れば立派に“宗教的”で有りうるのです。そういう生活でこそ内部の霊性が正しく発揮されるからです。
 私は皆さんの関心を儀式へ向けさせたくはありません。大切なのは形式ではなく生活そのものです。生活の中で何をなすかです。どういう行いをするかです。“最後の晩餐”の儀式がイエスの時代よりもさらにさかのぼる太古にも先例のある由緒ある儀式であるという事実も、それとはまったく無関係です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.147-148


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 12-zc [6-i] (宗教にとってセレモニーや慣例行事は必要か =2=)

 他人のためになることをする---これがいちばん大切です。私の意見は単純明快です。宗教には“古い”ということだけで引き継がれてきたものが多すぎます。その大半が宗教の本質とは何の関係もないものばかりだということです。
 私にとって宗教とは崇拝することではありません。祈ることでもありません。審議会において人間の頭脳が考え出した形式的セレモニーでもありません。私はセレモニーには興味はありません。それ自体は無くてはならないものではないからです。しかし、いつも言っておりますように、もしもセレモニーとか慣例行事を無くてはならぬものと真剣に思い込んでいる人がいれば、無理してそれを止めさせる理由はありません。
 私自身としては、幼児期を過ぎれば誰しも幼稚な遊び道具はかたづけるものだという考えです。形式を超えた霊と霊との直接の交渉、地上的障害を超越して次元を異にする二つの魂が波長を合わせることによって得られる交霊関係---これが最高の交霊現象です。儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えと何の関係もありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.148-149


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 12-zd (キリスト教を簡単に捨てさせることは出来ない)

 質問: キリスト教の教えも無数の人々の人生を変え、親切心や寛容心を培ってきていると思うのです。そういう教えを簡単に捨てさせることが出来るものでしょうか。

 私は何々の教えという名称には関心がありません。私が関心をもつのは真理のみです。間違った教えでもそれが何らかの救いになった人がいるのだからとか、あえてその間違いを指摘することは混乱を巻き起こすからとかの理由で存続させるべきであるとおっしゃっても、私には聞こえません。一方にはその間違った教えによって傷ついた人、無知の牢に閉じ込められている人、永遠の苦悶と断罪の脅迫によって悲惨な生活を強いられている人が無数にいるからです。
 わずかばかり立派そうに見えるところだけを抜き出して“ごらんなさい。まんざらでもないじゃありませんか”と言ってそれを全体の見本のように見せびらかすのは、公正とは言えません。
 霊的摂理についてこれだけは真実だと確信したもの、および、それがどのように働くかについての知識を広めることが私の関心事なのです。あなたのような賢明な方たちがその知識をもとにして生き方を工夫していただきたいのです。そうすることが、個人的にも国家的にも国際的にも、永続性のある生活機構を築くゆえんとなりましょう。
 私は過去というものをただ単に古いものだからとか、威光に包まれているからというだけの理由で崇拝することはいたしません。あなたは過去からあなたにとって筋が通っていると思えるもの、真実と思えるもの、役に立つと思えるもの、心を鼓舞し満足を与えてくれるものを選び出す権利があります。と同時に、非道徳的で不公正で不合理でしっくりこず、役に立ちそうにないものを拒否する権利もあります。ただしその際に、子供のように純心になり切って、単純な真理を素直に見て素直に受け入れられるようでないといけません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.150-151


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 12-ze (信者の身体に十字架の聖痕 “スチグマ”が現れることは可能か)

 人間の精神には強力な潜在能力が宿されており、ある一定の信仰や精神状態が維持されると、身体にその反応が出ることがあります。精神は物質より強力です。そもそも物質は精神の低級な表現形態だからです。精神の働きによって物質が自我の表現器官として形成されたのです。精神の方が支配者なのです。精神は王様であり支配者です。ですから、もしもあなたがキリストのはりつけの物語に精神を集中し、それを長期間にわたって強力に持続したら、あなたの身体に十字架のスチグマが現れることも十分可能です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.151-152

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 12-zf (地球浄化の大事業をいまも続けているイエス)

 (シルバーバーチがイエスの偉大さを述べ、地上において開始した地球浄化の大事業を死後もずっと続けており、シルバーバーチ自身もイエスの指揮のもとで働いていることを述べると) ― イエスの名のもとに行われた数々の歴史上の行為を見るのは、イエスにとって心の痛む思いだったに相違ありません。

 おっしゃる通りです。何度涙を流されたか知れません。もとよりそれはイエスの責任ではありません。スピリチュアリズムの七つの綱領の中には、各自が各自の行為に責任をもつとうたった条文があるのをご存知でしょう。

 ― イエスはどういうお顔の方だったのでしょうか。

 地上の画家が描いている肖像とは似ていません。伝道時代に行動を共にした人たちとよく似ておりました。もし似ていなかったら使命は果たせなかったでしょう。

 (訳者注―原文から受けるニュアンスとしてはズバリ容貌を述べるのを避けているふしが窺える。それは多分、とかくイエスが神格化され、神々しくて近づき難い存在だったように想像されがちなので、実際はいたって人間味を具えた、その意味で平凡なユダヤ人だったと言いたいのであろう)

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 180-181

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 12-zg (宇宙的キリストと人間としてのキリストの二つの言い方について)

 ― 霊界通信によっては、宇宙的キリストと人間としてのキリストの二つの言い方をしているのがあります。同じ存在の二つの側面を言っているのでしょうか。

 あなたは名称に惑わされています。まずイエスという人物がいました。その人物の姓はキリストではありません。一方、キリスト的生命力、つまり霊力が存在します。人間イエスと、そのイエスを動かした霊力とを区別してお考えになれはすべてがすっきりします。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 181

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 12-zh (イエスが述べた正確な言葉を自動書記か何かで入手することは可能か)

 何とも申せません。問題は当時イエスの言葉を記録した人物が一人もいなかったことです。ですから、それを伝えるには記憶に頼らねばならないわけです。がしかし、イエスの教えの肝心かなめは愛≠ナす。おのれを愛するごとく隣人を愛せよ。汝に敵対する者にも優しくすべし≠ナす。愛とは摂理(神の心)の通りに行うことです。人類の救済にとってこれ以上に必要なものがあるでしょうか。愛は霊性の最高の表現です。大霊から下さるものです。それを私たちがあなた方にお届けしているのです。
 イエスの使命は霊的実在を証明してみせることでした。もしも今の時代にイエスが出現して二千年前と同じことを説いたら、果たして耳を傾ける人がいるかどうか、私はきわめて疑問に思います。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 182

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 12-zi (イエスを信じることによって永遠の生命を授かるのか)

 ― 間違った教えをたずさえて霊界入りする者が多すぎるとおっしゃいましたが、ヨハネの福音書にはイエスを信じることによって永遠の生命を授かると述べられています。

 それは間違いです。人間は一人の例外もなく死後も生き続けるのです。何かの教義や信条、あるいはドグマを信じることによって永遠の生命を授かるのではなく、不変の自然法則によって生き続けるのです。それ自体は宗教とは何の関係もありません。因果律と同じ一つの法則なのです。
 いま引用なさった文句は地上に大きな混乱のタネを蒔き人類を分裂させてきた言葉の一つです。一冊の書物、それも宗教の書、聖なる書が、普通の書が起こそうにも起こせないほどの流血の原因となってきたということは、何という酷い矛盾でしょうか。宗教の目的は人類を不変の霊的関係による同胞性において一体ならしめることにあるはずです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 182-183

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 12-zj (イエスは本当に十字架にかけられたのか)

 ― イエスは本当にはりつけにされたのでしょうか。

 そんなことについて私の意見をご所望ですか。どうでもいいことではないでしょうか。大切なのはイエスが何を説いたかです。はりつけにされた時にどういうことが起きたかは、いくら議論してもラチは明かないでしょう。私にもその立証はできません。ですから、そのことについてはお答えしません。無意味に人を断罪するのは私の趣味ではないからです。それは私の使命ではありません。
 (訳者注―イエスの処刑についてはいろんな説がある。一般には聖書の通りにその場で死亡して何日か後に蘇ったことになっているが、実は処刑されたのはイスキリという名の弟だったとか、完全に死んだと思って埋葬したが本当は死んでいなくて、生き返って国外へ逃げたとかの説があり、それぞれにもっともらしい論拠を揃えている。国外へ逃亡したとする説にも、ローマへ行ったという説と日本へ来たという説、そして最近ではインドへ行ったという説があり、いずれの場合もかなりの高齢で他界したことになっている。
 無論シルバーバーチはそのことについての真実を知っているはずであるが、人間がとかくこだわる証拠≠ニなると何も提示できないからと言って返答を断っている。無論これは言い訳であって、本心はやはり最後で述べている通り、自分が述べることによって右の諸説のどれかを、あるいは全部を否定することになるのを避けたのであろう。どうでもよいことだからである。シルバーバーチはイエスの出生についても死についても途中の事蹟についても、あまり深入りしたことを言っていない。使命ではないからであろう)

 私の使命は人生の基本である霊的原理に関心を向けさせることです。人間はどうでもよいことにこだわり過ぎるように思います。イエスが本当に処刑されたかどうかは、あなたの魂の進化にとって何の関係もありません。
 肝心なことに関心を向けなさい。あなたは今あなたなりの役割―人を助け霊性を開発し悟りを深めるためのチャンスを提供してくれる、この地上という生活の場に来ていらっしゃるのです。火星にも人間のような存在がいるのだろうかとか、一千年後に間違いなく復活するだろうかとか、そんなことを心配してはいけません。
 大切なのは日常生活での身の処し方です。あなたなりの最善を尽くせばよいのです。それによって大霊とのより大きい調和が得られます。それは晴れやかさ、静けさ、安らぎ、自信という形をとります。神の心をわが心としようと心掛ける者すべてに必ず訪れるものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 183-184

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 12-zk (いまのキリスト教の教えの多くはイエスが説いたものではない)

 ― 聖公会の牧師が初めて交霊会に出席した時にシルバーバーチが語った言葉

 今もしナザレのイエスが地上へ戻ってきて自分の名のもとに説かれている教えを聞いたら、いったい何のことだか理解できないでしょう。その多くはイエスが説いたものではないからです。後世の聖職者たちがでっち上げたものだからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 84

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 12-zl (キリスト教会内に留まって改革の仕事をすべきか =1=)

 ―(聖公会の牧師が質問する)あなたの霊訓によってずいぶん教えられております。私は牧師ですが、ドグマと組織化された宗教というものに幻滅を感じております。でも私はキリスト教にもある種の良さを見出しております。そこで、果たして教会内に留まって改革の仕事をすべきか、それとも教会を脱退して外部から仕事をすべきかで迷っております。

 話を教会そのものの起源から始めましょう。他の宗教の教会に相当するもの、つまり寺院、教会堂、礼拝堂と同じく、キリスト教の教会も、その昔、霊力が地上に降りたということがその起源となっております。それには聖書にいう“しるしと驚異”もしくは“奇跡”と呼ばれるものが伴っております。
 霊力というものはその時代の古びた信仰、間違った教義やドグマへの挑戦という形で届けられました。それが霊的起源であることの証拠は、病人を癒やすこと、迷える者に導きの光をさずけること、物質は殻であり霊こそ実在であるという基本的原理を教えるということで示されたのでした。しかし残念ながら歴史をごらんになれば分かるように、そうした霊力のほとばしりも、ほんの短い期間しか続きませんでした。
 そうした中で神学者というのが次第に勢力を持ちはじめ、勝手な教義をでっち上げ、それが純粋な霊性を具えていた啓示と置き代えられていきました。不毛の人間的産物が神の声を押しのけてしまったのです。その後も“しるしと驚異”あるいは“奇跡”と信じられるものを伴った霊力のほとばしりがあり、それがまたもや人間的産物によって置き代えられるということが何度となく繰り返されました。
 そうしたことばかりしている教会をイエスは“白塗りの墓”と表現しました。霊力がすっかり抜き取られているからです。繰り返される作業によって築き上げられた壁のあまりの頑強さに、崇高なる霊の力も突き通すことができないのです。そのことをまず率直に申し上げねばなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 84-85

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 12-zm (キリスト教会内に留まって改革の仕事をすべきか =2=)

 さて、あなたがいちばん良い例ですが、それまで信じてきた伝統的な信仰と真っ向から対立する霊的真理に真実性を自覚しはじめた時に問題が生じます。板ばさみの状態の中でどう身を処すべきかということになるのですが、あなたに限って言えば、現在の立場に留まって、その世界の中であなたに耳を傾ける人を啓発していきなさいと申し上げます。スピリチュアリズムという用語を用いる必要はありません。これは単なるラベルにすぎません。私たちはラベルにはこだわりません。私たちの関心は魂を解放すること、大霊の意図される生き方を可能にしてくれる自由を与えてあげることです。
 地上世界の問題の大半が物質中心の考え方に起因しております。物的欲望は地上界を毒する悪性のガンです。これはぜひとも人生の基盤が霊であり物質ではないという知識、理解、悟りによって駆逐しないといけません。
 それなら教会内でもできるはずです。導きを求めてあなたのもとを訪れる人に教えてあげることができます。あなたの今の実力をもってすれば、其の自我を見出す手引きをしてあげられる立場にいらっしゃいます。人間はいつかは必ず自己革新の過程を経なければならないものです。自分を救うのは自分でしかないのです。誰も救ってはくれないのです。その手引きをしてあげる方法は教会においても見出せることにお気づきになられます。
 教会を去ってしまえば霊媒その他、スピリチュアリズム関係の人たちとの接触に限られてしまいます。ということは、スピリチュアリズムの啓蒙活動の側からいえは、同志が一人増えただけということになります。その点キリスト教界に留まっていれば、伝道の使命を帯びた正式の牧師として、あなたの教会に精神的指導を求めてくる人々に手を差しのべてあげることができます。
 ナザレのイエスは今なおわれわれのこうした仕事の背後の中心的指導者として活躍しておられます。そのほかにもかつて地上であなたと同じように牧師の聖衣をまとっていた人が大勢参加しております。他界後に身につけた知識と霊力とをたずさえて、地上の人類に幅広く援助の手を差しのべるための道具を求めております。使命感は死とともに終わるものではないのです。
 神は人間に“疑う心”を植えつけております。真実性を確かめるための批判的精神です。正直な批判は少しも悪いものではありません。真実を知りたいがために疑ってかかる人を私たちは大いに歓迎します。ですが、口先だけの議論や用語のせんさくばかりする人はご免こうむります。
 私はいつでもどこでも援助します。悲しみや苦しみが触媒となって霊性が目覚めはじめた魂を見つけしだい援助します。受け入れる用意ができたからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 86-87

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 12-zn (霊的真理を自分の信仰の型にはめ込むことはできない)

 ― 新約聖書の中(マタイ9・17)でイエスは、古い皮袋に新しいぶどう酒は入れられないと述べております。これとあなたが説いておられることとはどう結びつけたらよろしいでしょうか。

 古い皮袋に新しいぶどう酒を入れることはできません。古いぶどう酒を新しい皮袋に入れるのです。霊力というものを人間が勝手にこしらえた信仰に合わせて働かせることはできません。霊的真理を自分の信仰の型にはめ込むことはできません。いかなる信仰も、いかなる教義も、いかなる名句も、自分がこれは真実ではありえないと確信したものは、いかに古くから伝えられているものであっても、即座に拒絶なさらないといけません。
 イエスはよく寓話を用いました。が、言わんとしていることはきわめて明瞭です。もしもあなたが霊力の存在を自覚していらっしゃるのなら、もしも霊的真理を確信していらっしゃるのなら、それと食い違う教説はいっさい説いてはなりません。ただそれだけのことです。
 たとえば、先ほど大霊についての質問がありましたが、大霊とは、どこかで説かれているような三位一体などというものではありません。大霊はすべてであり、いずこにでも存在します。宇宙の全生命を包摂しております。もしも神とは三つの部分に分けられるものと信じているとしたら、その信仰は間違いです。それに、そう信じたからといって一体どうなるというのでしょう。神とは一にして三、三にして一であると信じたら、何か霊的に救われることでもあるのでしょうか。

 ―(最初に質問した牧師) 私には何のことだか、わけが分かりませんでした。

 私にも分かりません。あなたはあなたに啓示された真理に忠誠を尽くすことです。信じられるはずもないものを信じようとするのは、あなたの知性の信用に関わります。また、あなたの魂の成長にとってもプラスになりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 91-93

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 12-zo (教会はなぜ冷たく生命力に欠けた不毛の場と化したか)

 ― 別の日の交霊会に同じく “国教会の不満分子”の一人が夫人とともに招待され“妻とともに生涯忘れ難い夕べ” を体験した。まずシルバーバーチが歓迎の言葉を述べる。

 あなたが私の説く真理の幾つかをご存知であることはよく承知しております。あなたなりの厳しい自己批判と精神的苦悶の末に、過去の教条と教説に背を向けられ、これこそ人生に光明をもたらしてくれると信じる霊的真理を手にされました。
 本当を言えばあなたと同じ立場にある他の聖職者たちも、あなたと同じように霊の力とその崇高な真理を手にしてほしいのですが、それが思うにまかせないのが残念です。本来ならばその霊力の守衛であり、大霊の大使であり特使であるべき人たちが石の壁を張りめぐらして、霊力も真理も突き通せなくしてしまっている光景は、見るも悲しいことです。
 当然の結果として教会は冷たく荒涼として、生命力に欠けた不毛の場と化しております。生気あふれる霊力の顕現がそこにないからです。その点あなたは、悲痛な思いを経た上でのことではありましたが、真理の道を見出されたことを喜ぶべきです。自分をそこまで導いてくれた光明の存在を知ることになりました。それはこれからも引き続き光輝あふれる光を放ち、あなたの辿るべき道を照らしてくれることでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 93-94

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 12-zp (イエスは今も霊的真理の普及にたずさわっている)

 ― あなたは霊界でイエスにお会いになったことがありますか。

  あります。何度もお会いしております。このことはこのサークルの皆さんにはすでにお話してあります。定期的にクリスマス(冬至)とイースター(夏至)の二度、この地上から引き上げて、そのイエスが主催される大集会に参列する際に拝謁しております。今イエスは二千年前にご自身が身をもって示しながら、その信奉者をもって任ずる人々によって台なしにされてしまった霊的真理の普及にたずさわっておられます。
 その働きによって、二千年前にイエスを通じて顕現したのと同じ霊力による現象(心霊現象および病気治療)を伴って、その霊的真理が地上に蘇りつつあります。イエスにとって、又その輩下の神霊にとって、地上の宗教界の指導的立場にある者が基本的な真理について救いようのないほど無知である様子を見ることほど嘆かわしい思いをさせられるものはありません。
 あなたは光明を見出されました。そのことを大いに喜ぶべきです。そして、ここまであなたを導き、間違いない道標を提供してくれた霊力と同じものが、これからも引き続き導いてくれることを信じてください。これまでも決してラクな道ではありませんでしたが、使命を担った者にラクな道はないのです。
 もしも使命を担った者が降りかかる困難を克服できないとしたら、地上の寄生虫的営利第一主義に対抗して霊界から挑んでいるこの霊的大戦の将校としては失格であることになります。
 皆さんの心に温もりと愛とをもたらしてくれた真理、そして又、失ったと思っていたのが再び見つかり、さらにここまで導いてくれた愛を、神に感謝しなくてはなりません。
 喜んでください。皆さんはバイブル(マタイ6・19)に言う“虫が食いサビがつく”ことのない宝を手にされたのです。清澄で光輝にあふれ、永久に曇ることがなく、決してあなた方の手から離れることはありません。なぜなら、苦難の末に手にされたものだからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 96-97

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 12-zq (霊的真理を伝えることの出来る牧師はアメリカにも少ない =1=)

 ― 米国から訪れた二人の聖職者(うち一人は功績のあった牧師に贈られる名誉称号「キャノン」をもっている)に対してシルバー・バーチが次のような歓迎の言葉を述べた ―

 お二人は立派なお仕事をなさっておられます。容易なことではありませんが、今日の米国を広く支配している暗黒を霊の光によって駆逐し、黄金の仔牛(富の象徴)に代わって霊的真理を崇拝の対象とするように導くことが是非とも必要です。
 なぜ必要か。それは、無数の魂がいずこへ向かうべきかも分からずに絶望の淵をさ迷っているからです。
 言いにくいことを敢えて言わせていただきますが、残念ながら今の米国には、そうした危機的状態にある人たちの力となり霊的・精神的・物的自由をもたらしてあげられる牧師は何百人、たぶん何千人もいないのではないでしょうか。
 お二人は今その仕事にたずさわっておられるわけです。もともと霊的真理の啓示の場として建立された教会が、人間のこしらえた障害物(教義・教典)のために霊力の働かない場所となってしまっているのは悲しいことです。
 又、もともと霊的問題の指導者、教師、人間の模範であるべき牧師が肝心の霊的基本真理について何一つ知らず、あまつさえ今の時代でも手にすることのできる神のインスピレーションよりも人間の勝手な産物である教義の方を後生大事にしているのも情けないことです。
 こんな手厳しいことを私は決して非難するつもりで申し上げているのではありません。あるがままの事実を申し上げ、それが残念なことであることを指摘しているまでです。
 しかし、霊的光明はそうした障害を突破して、今や地上に根づいております。これ以後もますます増えていく人間的チャンネル(霊媒・霊能者・心霊治療家)を通じて霊力が流入し続けることでしょう。神の証人は今の時代にも大勢いること、すべての人間が神の恩恵に浴することができることを立証していくことでしょう。
 そのためには先ず日常生活を、それを受けるにふさわしいものに整えなければならないことも思い知らされていくことでしょう。困難、死別、病苦を体験してはじめて、魂にその素地ができあがるのです。
 神学上の教義やドグマの解釈について討論し合うことに生き甲斐を覚えるような人種を相手に、あなたの貴重な時間を浪費してはいけません。何の価値もないことですし、霊性をひとかけらたりとも伸ばすことにはなりません。不毛で無意味です。
 そういう人たちよりも、すでに受ける用意のできた人との出会いを待つことです。そして、そういう人をいつでも受け入れてあげられる準備をしておくことです。いつでもどこでも、真理を説く用意をしておくことが大切です。その上で、もしも拒絶されたら、せっかくのチャンスを目の前にしながらそれを手にすることのできなかった人を気の毒に思ってあげるがよろしい。
 神の摂理は完ぺきですから、地上の人間が一人の例外もなく、生涯に一度は必ず其の自分を見出すチャンスにめぐり会えるように配慮されております。魂が揺さぶられて神性の火花が炎と燃え上がり、内在する霊の豊かさ、威厳、美しさ、壮大さ、高貴さ、崇高さをいくらでも発揮することができます。そのチャンスはすべての人に訪れます。そういう人のうちのたった一人でもあなたが手助けしてあげることになれば、それは掛けがえのない価値をもつことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 98-100

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 12-zr (霊的真理を伝えることの出来る牧師はアメリカにも少ない =2=)

 霊界には地上のさまざまな状態― 動乱・混沌・暴力・破壊・強欲・大欲・嫉妬、要するに人類全体にはびこっている物欲優先の産物の処理に深く関わっている高級霊団が存在します。宇宙の大経綸組織の一部を担っている霊団です。
 人間が其の自我に目覚め、自分とは何なのか、なぜこの地上に存在しているのか、この地上を天国のような住処にする上で人間は何をなしうるかを自覚するには、先ずそうした物欲優先の産物を根絶しなければなりません。すべての人間が霊的光明のもとで生きるようになれば、必ずや地上天国が実現するように意図されているのです。
 お二人はそれを実現するという壮大な目的のために貢献する、測り知れない光栄に浴しておられます。そこまで導かれてきたわけです。どんなに辛い思いをしている時でも、どんなにうんざりする思いをさせられている時でも、決して孤独ではないということを忘れてはなりません。霊の光が常にあなた方の足もとを照らし、霊の愛がいついかなる時もあなた方を包み込んでおります。
 何度も申し上げていることですが、人のために役立つことをすることは気高いことです。同胞のために尽くすことによって、共通の親である大霊の役に立つということほど気高い貢献はありません。これに勝る宗教はありません。
 形式を守り教義に盲従するというだけの宗教では何の価値もありません。真の宗教とはみずから世に出て、少しでも住み良い環境にするような行為を心掛けることです。
 自分を取り囲む事情が険しくなってきた時― 暗黒が低く垂れこめ、稲光が走り、雷鳴が轟きはじめた時は、心を静かにして、これまで自分を導いてきた力はきっとこれからも導き続けて、次に進むべき道を示してくれるはずだという確信をもつことです。
 力強く前進なさい。最善を尽くすことです。それ以上のものは人間に求められていません。しくじった時は立ち直ればよろしい。しくじるということは立ち直れることを意味します。皆さんは不完全な世の中の不完全な存在である以上、かならず失敗を犯します。完全へ向けての巡礼の旅は永遠に続くのです。これまでに啓示された真理に感謝しなくてはいけません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 100-102

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 12-zs (イエスは何回も再生を繰り返して進化した一個の人間であったか)

 ― イエスは何回も再生を繰り返しながら進化した一個の人間だったのでしょうか、それとも地球の創造以前から存在していたのでしょうか。

 私に言えることは、イエスを通して発現した霊力は、今日の地上のすべての人間を通して発現している霊力と本質においてまったく同じものだということだけです。程度の差、霊的進化の違いはあっても、霊の本質において何の違いもありません。霊はすべて同じです。それが永い年月に多くの個的存在を通してさまざまな形で再生を繰り返すことは有りうることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 111-112

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 12-zt (聖書は神の真理と人間の作り話の混ぜものである)

 ― 聖書には多くの真理が語られているのでしょうか。

 神の真理と人間の作り話の混ぜ物です。

 ― 宗教心をもった人に死後の生命の話を持ち出すと、すぐに聖書から“死者と語ってはならない”という文章を引用します。このことをどう思われますか。

 二つの要素が重なっております。聖書は永い間にずいぶんいじくり回されてきました。誤訳があり、脱落があり、それに元来がコピーのコピーのそのまたコピーであるということです。誰れ一人として、原典を持ち出して “これが聖書の始まりです”と言える人はいません。(第五巻一八四頁参照)
 聖書の中には “この言葉は本物です”といえるものは一つもありません。聖書に述べられていることが神の認可を得たものであるという証拠はどこにもないのです。身の毛もよだつような話があります。とくに旧約聖書がそうです。ぺてん、極悪非道、殺人、暴力等、誰が考えてもおよそ神の啓示とは思えない話がたくさんあります。
 旧約聖書がもし本当のことを述べているとすると、神、私のいう大霊は、地上の悪の権化のような暴君でもしそうにない振舞いをすることがあることになります。ですから、聖書に述べられているからといって、それだけで正しいということにはならないのです。もしも正しいと主張するのなら、一点の疑問の余地もないまでそれを証明しないといけません。
 聖書を絶対とする信仰家に申し上げたいのは、もしも本当に死者と語ってはならないというのであれば、ではなぜイエスと三人の弟子が山頂で行った交霊の場に、モーゼとエリヤが出現して語りかけたかということです。モーゼとエリヤはとっくの昔に死んでいるのです。そのうちのモーゼが“死者と語るべからず”と述べたというのですが、そのモーゼ自身が死者であり、それが地上に戻ってきて語っているではありませんか。これは信仰厚き方には困ったことであるに相違ありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 117-118

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 12-zu (復活は誰にでも起こる生命の法則の一つである)

 “復活”は生命の法則の一つです。死の訪れとともに物的身体から離れた魂はすべて復活したことになるのです。キリスト一人の話ではありません。大霊の子のすべてに復活があるのです。死の開門を通過すると、物的身体を後にして今度は霊的身体に宿って霊の世界で新しい生活を始めるのです。地上生活はすべてそのための準備なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.49-50

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 12-zv  (洗礼によって魂は少しも影響を受けることはない)

 洗礼によって魂は少しも影響を受けません。他人が代わって魂を成長させることはできないのです。地上生活を生きていく、その生き方によって自分で成長させなくてはいけません。間違った行為による報いは他人によって取り払ってもらうわけにはまいりません。それを償うに足る行為と、その過ちがもたらす苦しみに耐えることによって、みずから処理していくほかはありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.62

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 12-zw [52-g] (大人の愚かしい浅知恵を棄てて幼な子の純心さを取り戻せ)

 その昔、幼な子が彼らを導くことになろう″(イザヤ書)という教えが説かれました。下らぬ常識で頭でっかちになった大人の愚かしい浅知恵を棄てて幼な子の純心さを取り戻さないかぎり、地上にあっても霊界にあっても大きな進歩は望めません。地上では太陽光線の作用の結果にすぎない肌の色でいろいろと差別が行われております。表面の肌の色だけを見て、その奥の霊性においてはみな同じであることを忘れております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 101

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 12-zx (真理普及の場で肝心の霊的真理を説こうとしないキリスト教)

 私がキリスト教に我慢ならないのは、みずから用意した真理普及の場(教会・礼拝堂等)において、すでに地上に啓示されている肝心の霊的真理を説こうとしないからです。言いかえればキリスト教と銘うちながら肝心のキリストを裏切るようなことばかりしているからです。神の座に祭り上げてしまって、人類が模範としようにも、もはや手の届かない、はるか彼方の天国へ連れて行ってしまっております。それが我慢ならないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 135

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 12-zy (無意味な教義を大切にして霊力発揮の場を無くしている体制)

 私は牧師になって神に奉仕しようと心掛ける多くの殊勝な人たちを批難しているのではありません。その中には偉大な魂の持ち主が大勢います。私が批難するのは真理にとって為にならない組織、使い古された意味のない教義を相変わらず後生大事にして、生き生きとした霊力の発揮される場を無くしている、その体制です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 135

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 12-zz (いかなる聖職者も法則と違ったことを生じさせる力はない)

 いかなる聖職者も魔法の力は持ち合わせません。水を他の何ものにも変えることはできません。司祭が赤子の顔に水を二、三滴たらしたからといって、それでその子の地上生活に、あるいは死後の生活に、いささかも変化は生じません。その二、三滴の水は、たらす前も、たらした後も、あい変わらずただの水にすぎません。その水の化学的成分を変え法則と違ったことを生じさせる力は、司祭にはありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.182

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 12-zza[62-n] (聖職者の義務を知っていても自分の栄達を優先させる者)

 真理を知らずに間違ったことをしているのであれば、まだ弁護の余地はありますが、聖職者としての義務を知っていながら自分の栄達の方を優先させている者は一体どう弁解するりつもりでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.184-185

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 12-zzb[4-zzf] (イースターは真実の生き方に目覚めることを祈る時)

 イースターは全生命の復活を祝う時です。それは太陽系の全天体が一丸となって、地上世界が悲劇と苦痛と災厄から復活して、より意義ある人生、真実の生き方に目覚めるようにと祈る、その祈りのシンボルなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.188

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 12-zzc (洗礼の儀式は少しも魂を清めることにはならない)

 洗礼の儀式は少しも魂を聖めることにはなりません。地上生活にあって少しでも完全に近づくように、日常生活の中で内なる神すなわち霊性を一つでも多く発揮するように努力することから、本当の聖らかさが生まれるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.190

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 12-zzd (イエスの本当の生き方を見習わなければならない)

 クリスチャンがイエスの本当の生きざまを見習いはじめた時、歴史に画期的な新時代が始まったことになります。が、今のところはまだ始まったとは言えません。私の目にはその兆しが見えないのです。イエスの名を口にするだけではイエスに忠誠を尽くすことにはなりません。その生き方を見習わないといけません。それができないでいてこの私にクリスチャン″という言葉を用いないでください。イエスも言っているではありませんか----“私に向かって主よ主よと言ってくれる者すべてが天国へ召されるわけではない。天なる父の御意志を実行する者こそが召されるのである”と。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.191

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 12-zze (もうイエスのような大人物が出現する必要はない)

 もうイエスのような大人物が出現する必要はありません。たとえあのナザレのイエスが今この地上に戻ってきたとしても、たぶん地上でもっとも評判の悪い人間となることでしょう。とくにイエスを信奉し師と崇めているキリスト教徒からいちばん嫌われることでしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 220

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 12-zzf[6-zj] (真の宗教には儀式も祭礼も豪華な衣装も不要である)

 キリスト教界にも奇特な行いをしている真摯な人材は確かに存在します。私が非難しているのはその組織です。それが障害となっており、ぜひとも取り除かねばならないからです。真の宗教には儀式も祭礼も、美しい歌唱も詠唱も、きらびやかな装飾も豪華な衣装も式服も不要です。宗教とは自分を役立てることです。同胞のために自分を役立てることによって神に奉仕することです。私はこれまでそれを何度申し上げてきたことでしょう。しかるに教会は人類を分裂させ、国家と階級を差別し、戦争と残虐行為、怨恨と洗血、拷問と糾弾の悲劇を生み続けてまいりました。人類の知識と発明と科学と発見の前進に抵抗してきました。新しい波に呑み込まれるのを恐れて、既得の権利の確保に汲々としてきました。しかし、新しい霊的真理はすでに根づいております。もはやその流れをせき止めることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 221-222

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 12-zzg[58-zx] (罪は神の理法でその歪みを正さなければならない)

 神は人間に理性という神性の一部を植えつけられました。あなた方(クリスチャン)もぜひその理性を使用していただきたいのです。大きな過ちを犯しそれを神妙に告白する----それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は相変わらず罪として残っております。いいですか、それが神の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を聖書からいくら引用しても、その摂理は絶対に変えることはできないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 222

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 12-zzh (聖書のテクストより重要なのは神の意志を実践すること)

 あなた(キリスト教の牧師)に理解していただきたいことは、聖書のテクストのことをうんぬんするよりも、もっともっと大切なことがあるということです。主よ、主よと叫ぶ者がみな敬虔なのではありません。神の意志を実践する者こそ敬虔なのです。それをイエスは二千年前に述べているのです。なのに今日なおあなた方は、それがいちばん大切であることをなぜ信者に説けないのでしょうか。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 222-223

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 12-zzi (イエスが行なったことはすべてあなたにもできる)

 イエスが行なったことはすべてあなたにもできるのです。あなたたちもこれ以上のことをする時が来るであろう……″見よ、私は救い主、すなわち真理の霊を送り届けるであろう……″――こうした言葉が今あなたにとって真実となっているのです。このわたしが救い主″だと言っているのではありません。わたしが真理の霊″だという意味ではありません。地上人類に文明の汚点である信仰上の誤りを理解させそれを取り除かせるために、大霊に源を発する霊力の一部として、わたしもイエスの指揮のもとに参加しているということです。

    トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
       コスモ・テン・パブリケーション、1989、p.89

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 12-zzj (私は霊界でイエスと何度も会っている)

 (「あなたがご存知のイエスについてお聞かせください」という質問に対して)

 わたしは何度となくお会いしております。イエスは父″の右に座っておられるのではありません。その父″も黄金の玉座に座っておられるのではありません。イエスは進化せる高級霊の一人です。地上人類の手の届かないほど誇張され神格化された、縁遠い存在ではありません。すぐに手の届くところで、あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられるこの真理――わたしたちにとってはただの自然法則の働きにすぎませんが――その普及の指揮をなさっておられるのです。
 交霊会をはじめとするさまざまな仕事を指示しておられるのが、ほかならぬイエスその人なのです。病める者を癒やし、悲しむ者を慰め、無知なる者に真理の光をもたらし、いずこへ向かうべきかもわからずに迷っている者に道を教え、家もなくさ迷える者に宿りの場を与え、人生に身も心も疲れ果てた者に生きる勇気をあたえるために世界中で献身している人たちを鼓舞しておられるのです。
 わたしたちが実際にお会いし、そして激励の言葉をいただいているのが、実在の高級霊、かつて地上でナザレ人イエス″と呼ばれていた方なのです・・・・・・
 イエスをあなたと同じ存在とお考えになることです。はるかに進化はしていても、決して手の届かない無縁の存在ではありません。なぜなら、イエスがたどった道をあなたも今たどりつつあるのであり、イエスが発揮したのと同じ霊的能力をあなたも発揮できるのですから・・・・・。

    トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』
     (近藤千雄訳)コスモ・テン・パブリケーション、1989、pp.87-88









 13. 魂の成長・霊性の開発


 13-a (魂の成長と開発と発達はあくまでも個人の責任)

 みなさんも人間である以上各自に歩調というものがあります。進化とは絶え間ない成長過程です。成長は永遠に続くものであり、しかもみんなが同時に同じ段階に到達するとはかぎりません。各自が自分の魂の宿命を自分で成就しなければなりません。それまでに手にした光明(悟り・理解力)と、直面する困難を媒体として、その人独自の教訓を学んでいかねばなりません。それを自分でやらねばならないのです。他人からいくら知恵の援助をうけることができても、魂の成長と開発と発達はあくまで当人が自分の力で成就しなければならない個人的問題なのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp. 190-191


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 13-b (永遠に続いていく魂の成長)

 真理は永遠不滅です。しかも無限の側面があります。なのに人間は自分が手にした一側面をもって真理の全体であると思い込みます。そこから誤りが始まります。全体などではありません。進化するにつれて理解力が増し、他の側面を受け入れる用意ができるのです。生命活動とは断え間なく広がりゆく永遠の開発過程のことです。真理の探求は無限に続きます。あなた方はそちらの地上において、私はこちらの世界において、真理の公道を旅する巡礼の仲間であり、他の者より少し先を歩んでいる者もいますが、究極のゴールにたどり着いた者は一人もいません。
 不完全さが減少するにつれて霊的資質が増し、当然の結果として、それまで手にすることのできなかった高度の真理を受け入れることができるようになります。人類のすべてが一様に従うべき一個のパターンというものはありません。神の顕現が無限であるからには神の真理に近づく道にもまた無限のバリエーションがあることになります。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.191


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 13-c (苦しみの大きさは魂の進化と相関関係にある)

 (誰かの行為によって災難に遭っても)それを災難と受け取る段階を超えて進化すれば苦しい思いをしなくなります。苦は進化と相関関係にあります。楽しみと苦しみは両極です。同じ棒の両端です。愛と憎しみも同じ力の二つの表現です。愛する力が憎しみとなり得ますし、その逆もあり得ます。同じく、苦しいと思わせる力が楽しいと思わせることもできます。あなたの体験の “質” を決定づけるのはあなたの進化の ”程度” です。ある段階以上に進化すると憎しみを抱かなくなります。愛のみを抱くようになります。苦を感じず幸せばかりを感じるようになります。難しいことですが、しかし真実です。苦しみを何とも思わない段階まで到達すると、いかなる環境にも影響されなくなります。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.191-194


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 13-d (他人の苦しみを自分の苦しみとすることもあるのでは)

 円熟した魂とは人生の有為転変のすべてを体験しつくした魂のことです。苦しみの淵を味わわずして魂の修練は得られません。底まで下りずして頂上へはあがれません。それ以外に霊的修練の道はないのです。あなたみずから苦しみ、あなたみずから艱難辛苦を味わい、人生の暗黒面に属することのすべてに通じてはじめて進化が得られるのです。進化とは低いものから高いものへの成長過程にほかならないからです。さて、苦しみとは一体なんでしょうか。苦しみとは自分自身または他人が受けた打撃または邪悪なことが原因で精神または魂が苦痛を覚えた時の状態を言います。が、もしその人が宇宙の摂理に通じ、その摂理には神の絶対的公正が宿っていることを理解していれば、少しも苦しみは覚えません。なぜなら各人が置かれる環境はその時点において関係している人々の進化の程度が生み出す結果であると得心しているからです。進化した魂は同情、思いやり、慈悲心、哀れみを覚えますが、苦痛は覚えません。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1986、pp.194-195


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 13-e (魂の成長の度合はあなた自身が決定する)

 ナザレのイエスが“神の御国は汝自身の中にある” と述べたのは寓話ではなく事実を述べたのです。神は全生命の中心です。宇宙は神が内在するがゆえに存在しているのです。地上のあらゆる存在物も神が内在するからこそ存在しているのです。あなた方もミニチュアの神なのです。あなた方の心がけ次第でその内部の力が成長し、発展し、開花するのです。その成長の度合を決定づけるのはあなた方自身です。他の誰も代ってあげることはできません。それが地上生活の目的なのです。
 自分も神であることを自覚なさることです。そうすれば神の御国(摂理)はほかならぬ自分の魂の中にあることを悟られるはずです。それは絶対に裏切ることがありません。無限の補給源である神の摂理に調和した生き方をしているかぎり、何一つ不自由な思いも空腹も渇きも感じなくなります。といって必要以上のものはいただけません。魂の成長の度合にふさわしいだけのものが与えられ、それより多くも、それより少なくも、それより程度の高いものも低いものも受けません。それ以外にありようがないのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1986、p.198


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 13-f (霊性を高めることが地上生活の目的)

 霊は物質の限界によって牛耳られてばかりはいません。全生命の原動力であり全存在の大始源である霊は、あなたの地上生活において必要なものをすべて供給してくれます。その地上生活の目的はきわめて簡単なことです。死後に待ちうける次の生活に備えて、本来のあなたであるところの霊性を強固にするのです。身支度を整えるのです。開発するのです。となれば、良いことも悪いことも、明るいことも暗いことも、長所も短所も、愛も憎しみも、健康も病気も、その他ありとあらゆることがあなたの霊性の成長の糧となるのです。
 その一つ一つが神の計画の中でそれなりの存在価値を有しているのです。いかに暗い体験も---暗く感じられるのは気に食わないからにすぎないのですが---克服できないほど強烈なものはありません。あなたに耐えられないほどの試練や危機に直面させられることはありません。その事実を何らかの形で私とご縁のできた人に知っていただくだけでなく、実感し実践していただくことができれば、その人は神と一体となり、神の摂理と調和し、日々、時々刻々、要請されるものにきちんと対応できるはずなのです。
 ところが、残念ながら敵があります---取越苦労、心配、不安という大敵です。それが波長を乱し、せっかくの霊的援助を妨げるのです。霊は平静さと自信と受容力の中ではじめて伸び伸びと成長します。日々の生活に要請されるものすべてが供給されます。物的必需品のすべてが揃います。

    『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1986、pp.201-202


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 13-g (一人ひとり進化の程度が違うので理解の仕方も違う)

 ですから、私が申し上げていることに賛成してくださらなくても、あるいは私が間違っている、とんでもないことを言うヤツだと思われても一向にかまわないのです。私は私が見たままの真理を申し上げているだけです。永い永い進化の過程をへたのちに学んだままをお届けしているのです。それがキリスト教やヒンズー教、その他、聞いてくださる方の宗教を混乱させることになっても、それは私には関わりのないことです。私はそうした名称や教義、いかなる宗教の概念にもまったく関心がないのです。私は私がこれまで学んできた真理しか眼中にありません。それが私の唯一の判断基準です。
 私の申し上げることがしっくりこないという方に押しつける気持は毛頭ありません。私は私の知り得たものを精いっぱい謙虚に、精いっぱい真摯に、精いっぱい敬虔な気持で披瀝するだけです。私の全知識、私が獲得した全叡智を、受け入れてくださる方の足もとに置いてさしあげるだけです。これは受け取れませんとおっしゃれば、それはその方の責任であって、私の責任ではありません。

     『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.80-81


     *****


 13-h(進化している地球になぜ霊の浄化のための苦難があるのか)

 なぜなら人間が無限の存在だからです。一瞬の間の変化というものはありません。永い永い進化の旅が続きます。その間には上昇もあれは下降もあり、前進もあれば後退もあります。が、そのたびに少しずつ進化してまいります。
 霊の世界では、次の段階への準備が整うと新しい身体への脱皮のようなものが生じます。しかしその界層を境界線で仕切られた固定した平地のように想像してはなりません。次元の異なる生活の場が段階的にいくつかあって、お互いに重なり合い融合し合っております。地上世界においても、一応みなさんは地表という同じ物質的レベルで生活なさっていますが、霊的には一人ひとり異なったレベルにあり、その意味では別の世界に住んでいると言えるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.193-194

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 13-i [56-g] (自我の開発が人間として最も大切な目的)

 自我の開発---これが人間としてもっとも大切な目的です。それがこうして私たちが霊界から地上へ戻ってくる目的でもあるのです。すなわち人間に自己開発の方法、言いかえれば霊的革新の方法をお教えすることです。内在する神の恩寵を味わい、平和と調和と協調と友愛の中で生きるにはそれしかないからです。今の地上にはそれとは逆の内紛″が多すぎます。
 数からすれば私たちの霊団は比較的少数ですが、計画は発展の一途をたどって おります。着実に進歩しております。確実な大道を見出す巡礼者の数がますます増えております。まことによろこばしいことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.21-22


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 13-j (性急と短気は霊的成長の障害)

 せっかちと短気はいけません。せっかくの目的をだいなしにします。内部から援助してくれる力は静穏な環境を必要とします。物事には一つの枠、つまりパターン(型)があり、そのパターンに沿って摂理が働きます。宇宙の大霊も、自ら定めた摂理の枠から外れて働くことはできないのです。指導と援助を求める時はそれなりの条件を整えなくてはいけません。そのためには、それまでの経験を活用しなくてはいけません。それが魂にとっての唯一の財産なのです。そして自分に生命を賦与してくれた力がきっと支えてくれるという自信をもつことです。あなたはその力の一部なのであり、あなたの魂に内在しているのです。正しい条件さえ整えば、その神性は、神からの遺産として、あなたに人生の闘いを生き抜くあらゆる武器を用意してくれます。せっかちと短気はその自由闊達な神性のほとばしりの障害となるのです。
 故にあなた方は常にリラックスし、受身的で穏やかで平静で、しかも奥に自信を秘めた状態であらねばなりません。その状態にあるかぎり万事がうまくいき、必要とするもの全てが施されるとの確信をもたなければいけません。安易な人生からは価値あるものは得られません。困難な人生からのみ得られるのです。神は決してあなた方を見捨てません。見捨てるのはあなた方の方です。あなた方が神を見捨てているのです。困難に直面した時、その神の遺産を結集し、必ず道は開けるのだという自信をもつことです。不動の信念をもてば道は必ず開かれます。これはすでに私が何年にもわたって説いてきたことです。真実だからです。実践してみればそのとおりであることを知ります。物質は霊の僕です。霊は物質の僕ではないのです。身体がひとりで呼吸し動いているのではありません。霊がいなかったら身体は生きておれません。現に、霊が去れば身体は朽ち果てるのみです。
 霊性を悟ることは容易なことではありません。もし容易であれば価値はありません。その道に近道はありません。王道はないのです。各自が自分で努力し自分で苦労しなくてはなりません。しかし同時にそれは登るにつれて喜びの増す、素晴らしい霊的冒険でもあるのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.47-49


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 13-k (一個の霊があらゆる生命形態を通して人間に進化していくのか)

 あらゆる生命体というのであれば、それは私が Individuality (霊的統一体)と呼んでいる場合の個霊としてとはかぎりません。犬とか猫に生命を与えている霊はそれぞれに個別性がありますが、花に生命を与えている霊の個別性とはまた別です。生命あるものには必ず霊があります。霊は生命であり生命は霊です。霊としてのあなたは無始無終に存在しております。それが現段階において受胎の瞬間から個性ある霊となったわけです。
 個霊としてのあなたの進化は今後さまざまな身体を通して続けられます。そして進化すればするほど個性が発現されます。が、その場合の個性は地上で見せていた人物像とは意味が違います。これはとても理解の難しい問題です。進化の目的は完全性を成就することです。が、その成就の過程は無限に続くのです。進化して不完全なところを一つ取り除くごとに、また新たに取り除かねばならない不完全さに気づき、かくしてこの過程が永遠に続けられるのです。
 ここで是非とも認識していただかねばならないのは、パーソナリティとインディビジュアリティとは大きな違いがあるということです。パーソナリティとはインディビジュアリティが物的身体を通して表現している小さな側面のことです。インディビジュアリティがその個性を発揮するために使用するかずかずの側面のうちの一つで、地上にいる間に見せる人物像です。
 インディビジュアリティの側面は地上で見せる人物像だけとはかぎらず、他にもたくさんあります。それを、地上を去ってより高い存在の場で進化しながら顕現しつづけていくのです。個性が発現すればするほど地上で見せた人物像は消えていきます。霊格が高くなればなるほど、あなた方が容姿から連想して画くところの人物像が消えていくのです。とても説明が困難です。その真相をうまく表現する用語が見当たらないのです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1987、pp. 93-94


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 13-l (地上から次々と霊界へ送り込まれてくる無知な霊)

  こちらの世界はそちらからやってくる人たちによって構成されております。そちらから未発達霊を送り込んでこなければ何一つ問題は起きないのですが、現実には何の準備もできていない、適合性に欠ける無知な霊を次々と送り込んでおります。小学校で学ぶべきだったことを大人になって教えるのは、なかなか難しいものです。(いつまでたっても物分かりの悪い霊がいるその結果として)あなた方地上の人間は最低から最高にいたる、ありとあらゆる霊的影響力にさらされることになります。が、実際に引寄せるのは自分と同じ霊格をもった霊だけです。邪悪な人間は邪悪な霊を引き寄せ、心清き人は心清き霊のみを引き寄せます。それが自然の摂理なのです。
 自分の肉体が無くなったことに気づかず、霊的には死者同然のような霊が無数にいることを私たちの責任であるかに思っていただいては困ります。それはあなた方が地上でやるべき仕事です。つまり肉体の死後にかならず訪れる次の生活に備えさせるように指導することです。
 霊の世界は地理的なものではありません。霊界は七つの界に分かれているなどと、まるで地図でも見るような言い方をする人がいますが、そのようなものではなく、すべてが融合し合っているのです。不完全性を取り除くにつれて、その霊格に似合った境涯へ向上していくのです。
 そうして発達を続けていくうちに霊的真理の実相を悟って、もはやその理解のために比較対照というものを必要としなくなる段階に至ります。それは地上においても達成できるものです。つまり知的な思考による理解を超えた悟り″を地上生活中に得ることができます。それは私たちの世界へ来てから比較対照が無くても実在が理解できるようになるのと同じ段階です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 94-95


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 13-m (人類浄化の計画は霊界でどのように作成されているのか)

 連帯関係にある霊団がいくつもあり、各霊団に一人のリーダーがいます。その全体の総指揮に当たっているのが、かのナザレのイエスで、今なお地上世界の発展のための事業に関わっております。そのイエスのもとで地上ならさしずめ首脳会議″にあたるものが開かれます。ご存知のように時おり私もその会議に出席するために一時的に上層界へ引き返し、それまでの計画の進展具合を点検し、連帯関係を確認いたします。審議会のようなものです。
 マスタープラン(総合的基本計画)というものがあり、私たちに役割分担が当てがわれております。霊格の高さゆえに地上の事業に関与できる光り輝く存在″を一目ご覧に入れたいと思うのですが、残念ながらそれができません。そうした霊団のほかにも、他の形態の生命に関与している霊団もありますが、私が関与しているのは地上人類のための事業です。
 計画は完壁です。なぜなら、その立案にあたって完壁な叡智が働いているからです。しかし、それを実現させるにはさまざまな要素を考慮しなければなりませんから、当然の成り行きとして、その進展は遅々としたものにならざるを得ません。自由意志、カルマ、運勢、好み---こうしたものが全て考慮されるのです。進歩を確実なものにするためには全体への配慮を必要とするのです。その進歩は必ずしも直線的なものではありません。それは有り得ないことなのです。いずれにせよ、こうした中であなた方も神意の成就へ向けての無限の創造過程にいくばくかの貢献をなさっていることを自覚なさるべきです。
 雄大な構想のもとにそのマスタープランを推し進めていく事業に参加できることは、この上なく光栄なことです。だからこそ私は皆さんに、明日のことを思い煩うことはおやめなさいと申し上げるのです。いかなる困難、いかなる障害、いかなるハンディキャップ、いかなる反抗に遭遇しても、又、いかなる愚かさ、いかなる無知、いかなる迷信が立ちはだかっても、霊の力によって、万事、かならずうまくいきます。真理はつねに行進しており、その目的成就を妨げることの出来る者は一人もいません。ですから皆さんは堂々と胸を張り、背後に控える霊力は地上で遭遇するいかなる勢力よりも強大であることを、しっかりと認識なさることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 96-97


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 13-n [11-h] (霊界でも私たちは死を繰り返し、新しい身体をまとう)

 (霊界でも死を繰り返します)。ただし霊が死ぬのではありません。表現の媒体が変わるということです。が、それは有難いことなのですよ。進歩していることを意味するからです。
 ・・・・・人生そのものの根本の目標が進化であり発展であり成長であり学習なのです。進化するごとに、それまで役目を果たしてきた身体が自動的に脱け落ちて、その進化した段階にふさわしい身体をまとうのです。
 (あなたの身体も)全身が七年ごとに(細胞が入れ替って)新しい身体となっております。が、あなたという霊は決して無くなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 107-108


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 13-o (豊かな霊性は受け入れる用意が整った時に与えられる)

 あなたに受け入れる用意が整った時、いったん獲得したら決して色あせることもなく失われることもない、豊かな霊性が賦与されます。それはあなたみずからの努力によって勝ち取るべき褒賞です。みずからの魂の発達であり、みずからの性格の強化です。そうやってあなたは、その段階での光明の中に生きるにふさわしい存在となっていくのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、p.135



 13-p [56-e] (余暇の正しい使い方について)

 余暇は神と霊の開発・陶冶に当てるべきです。これはぜひとも必要なことです。なぜかと言えば、身体に関係したことはすでに十分な時間が費されているからです。人間は誰しも健康を維持し増進するための食生活には大変な関心を示します。もっとも必ずしも健康の法則に適っておりませんが・・・・・しかし精神と霊も発育が必要であることをご存知の方はほとんどいません。そういう人たちは霊的にみると一生を耳を塞ぎ口をつぐみ目を閉じたまま生きているようなものです。自分の奥に汲めども尽きぬ霊的な宝の泉があることを知りません。精神と霊が満喫できるはずの美しさを垣間見たことすらありません。誰にも霊的才覚が宿されていることを知らずにおります。それの開発は内的安らぎを生み、人生のより大きい側面のすばらしさを知らしめます。
 となれば霊位そのものの開発が何よりも大切であることは明らかでしょう。これは個々の人間のプライべ−トな静寂の中において為されるものです。その静寂の中で、まわりに瀰漫する霊力と一体となるのです。すると、より大きな世界の偉大な存在と波長が合い、イソスピレーションと叡智、知識と真理、要するに神の無限の宝庫からありとあらゆるものを摂取することができます。その宝は使われるのを待ち受けているのです。

   『シルバーバーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.211-212


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 13-q [56-k] (何のために生まれてくるのか=3= 霊性の開発)

 地上というところは、バイブレーションが重く鈍く不活発で、退屈な世界です。それに引きかえ霊の世界は精妙で繊細で鋭敏です。その霊妙なエネルギーを地上に顕現させるには、各自に触媒となる体験が必要です。
 太陽がさんさんと輝いている時、つまり富と財産に囲まれた生活を送っているようでは霊的真理は見出せません。何一つ難問が無いようでは霊的真理は理解できません。困苦の真っ只中に置かれてはじめて触媒が働くのです。
 霊性の開発には青天よりも嵐の方がためになることがあるものです。鋼(はがね)が鍛えられるのは火の中においてこそです。黄金が磨かれてそのまばゆいばかりの輝きを見せるようになるのは、破砕の過程を経てこそです。人間の霊性も同じです。何度も何度も鍛えられてはじめて、かつて発揮されたことのない、より大きな霊性が発現するのです。
 黄金はそこに存在しているのです。しかしその純金が姿を見せるには原鉱を破砕して磨かねばなりません。鋼は溶鉱炉の中で焼き上げねばなりません。同じことが皆さん方すべてに言えるのです。
 霊に関わるもの、あなたの永遠の財産であり、唯一の不変の実在である霊に関わるものに興味を抱くようになるには、それを受け入れるだけの用意ができなくてはなりません。そこで鋼と同じように試練を受けることが必要となるのです。
 苦を味わわねばならないということです。不自由を忍ばねばなりません。それは病気である場合もあり、何らかの危機である場合もあります。それがあなたの魂、神の火花に点火し、美しい炎と燃え上がりはじめます。それ以外に方法はありません。光を見出すのは闇の中においてこそです。知識を有難く思うのは無知の不自由を味わってこそです。人生は両極です。相対性といってもよろしい。要するに作用と反作用とが同等であると同時に正反対である状態のことです。
 魂はその琴線に触れる体験を経るまでは目覚めないものです。その体験の中にあっては、あたかもこの世から希望が消え失せ、光明も導きも無くなったかに思えるものです。絶望の淵にいる思いがします。ドン底に突き落とされ、もはや這い上がる可能性がないかに思える恐怖を味わいます。そこに至ってはじめて魂が目を覚ますのです。
 ですから、私たち霊界の者は魂にその受け入れ準備ができるまで根気よく待つほかないのです。馬を水辺へ連れて行くことはできても水を飲ませることはできない、という諺があります。本人がその気にならなければどうしようもないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 21-23

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 13-r [10-o] (生きがいある人生を送るには=8=  魂の向上)

 向上とは不完全さを洗い落とし、完全へ向けて絶え間なく努力して成長していくことです。それには今日一日を大切に生きるということだけでよいのです。毎朝の訪れを性格形成のための無限の可能性を告げるものとして迎えることです。それが自我を開発させ、人生に目的性をもたせることになります。残念ながら今の地上のあまりに大勢の人たちが人生に対する目的意識を忘れております。
 神の心をわが心とするように心掛けることです。霊力と一体となるように心がけることです。皆さんの一人一人が神の愛の御手が触れるのを感じ取り、常に守られていることを知り、明日が何をもたらすかを恐れないようにならないといけません。そして人のために自分を役立てる機会をいただいたことを喜ぶことです。
 私たちは大きな闘いに参加しております。小競り合い、大規模な戦争がいくつもありました。が、本当に闘っている相手は貪欲、怨念、利己主義という、地上を蝕んでいる物質中心主義の副産物です。
 そこで私たちは全存在の始源は、無限の創造主から発せられる聖なる霊力であることを実証し、死が言語に絶する素晴らしい霊の世界への扉にすぎないことをお教えするのです。
 それがあなた方も参加しておられる闘いです。その将校や指揮官は、戦闘のあまりの激しさに退却することがないよう、厳しい試練を受けねばなりません。
 あなた方の進むべき道は、霊界からあなた方を愛している大勢の霊が必ず示してくれます。それは地上で血縁関係にあった者だけではありません。霊的な近親関係にある者もいます。その霊たちがあなた方を使って恵まれない人々のために影響力を行使するのです。
 われわれはみな同じ霊的巡礼の旅を続ける仲間です。神への巡礼の道は無数に存在します。いかなる知識も、それがわれわれの視野の地平線を少しでも広げ、この宇宙についての理解を深める上で役立っていることを感謝いたしましょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 34-35

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 13-s [44-za] (魂が目覚めるには霊的な絶望の淵を体験する必要がある)

 ― 神は地上世界の人間にはほとほと手を焼いておられることでしょう。

 それは今に始まった話ではありません。太古からずっとそうです。しかし、我慢の大切さを説いている私たちは、それをみずから実行しなければなりません。もしも皆さんに対する愛がなければ、わざわざこれほど暗い世界へ戻ってくるようなことはいたしません。
 同時に又、地上に救いの手を差しのべるべき時機が到来したからこそでもあります。つまり私たちの援助を受け入れる準備ができた人がいるということです。ただ悲しいかな、魂が目を覚まし真の活動を開始するようになるまでには、霊的な絶望の淵を体験しなければならないことがよくあるものです。
 霊の光は、これからも媒体のあるところならどこでも照らし続けます。場所によってはほのかな明かり程度にすぎないこともあります。が、神性を帯びたものであるからには完全に消えてしまうようなことは絶対にありません。自然の摂理はあなた方の地球だけでなく、あるいは銀河系宇宙だけでなく、全大宇宙を支配し経綸しております。神はその無限の叡智をもって全大宇宙のすみずみまで配剤してくださっています。心配してはいけません。心配は何の役にも立ちません。そして、少しも事態を改善することにはなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 110-111

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 13-t (発達には精神に係わるものと霊に係わるものとの二種類がある)

 発達にも二種頼あることを知らないといけません。精神に係わるものと霊に係わるものです。前者は心霊的能力の発達にすぎませんが、後者は魂の成長そのものです。心霊能力が発揮されても魂の成長が伴わなければ、低いバイブレーションの仕事しかできません。両者がうまく組み合わさった時は、優れた霊能者であると同時に偉大な人格をそなえた人物となります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.41

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 13-u (魂が開発されると大きなエネルギーと接触できるようになる)

 魂が開発され霊的波長が高度なものになるにつれて、それだけ高度なエネルギー、大きなエネルギーと接触できるようになります。それは見えるものでもなく聞こえるものでもなく、永遠の霊的実在そのものです。それが生命の実在なのです。人間は生涯の大部分を影を追い求め、幻を捕えようとし、儚いものを後生大事にしながら生きております。本当は静寂の中において、調和の中において、愛の中においてこそ、あなたの魂は着実に開発するのです。ゆっくりではあっても確実であり、間違いがありません。

   『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.51

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 13-v (霊性の高さは人生をいかに生きてきたかによって決まる)

 あなたの霊性の高さは人生をいかに生きてきたかによって決まります。この摂理はすべての人間に例外なく当てはまることであり、どう繕ってみてもごまかしは効きません。私が“摂理”という時それは大自然の法則のことを意味し、根本的には原因と結果の法則、すなわち因果律のことです。自己中心の生活を送れば、その結果としていじけた性格ができ上がります。なぜなら、利己的になることは霊性がいじけていることを意味するからです。他人を思いやる生活を送れば、それはあなた自身のことも思いやることになります。霊性が高まるからです。この法則に例外はありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.58

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 13-w(霊界では地上で内部の霊性をどれだけ発揮したかが評価される)

 クリスチャンになったからといって、それで“地の塩”(地上の人間としての理想像)になったわけではありません。どこかの教会に所属したからといって“地の塩”になるわけでもありません。こちらの世界へ来ると、地上でどういう肩書きをしていたかは問題にされません。特定の教義を擁護しても何にもなりません。評価されるのはただ一つ---地上生活において内部の霊性をどれだけ発揮したかです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.61

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 13-x [58-zg] (あなたは魂の進化を促進するためにこの物質界へ来ている)

 あなたは個性を築き魂の進化を促進するためにこの物質界へ来ているのです。利己主義の道を選べば、それなりの代償を払わないといけません。人道主義の道を選べば、人間的成長という形での報いがあります。そうしたことはすべて摂理のもとに規制されており、いかに立派な教祖さまでもその働きを変えることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.63

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 13-y (地上の大変動の背後には進化への大きなエネルギーの働きがある)

 これからも地上にはいくつもの大変動が生じます。崩壊もあれば隆盛もあります。みなさんには暗黒と苦難の時代の到来のように思えるかも知れません。“大変な時代になった……”そうおっしゃるかも知れません。しかし、そうした変動の背後には地上世界の進化へ向けての大きなエネルギーの働きがあるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 72

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 13-z (あなたは完全性へ向けての無限の進化の道を歩みつつある)

 宇宙には進化という目的があります。常に進化しつつあるのです。完成されたものというのはどこにも存在しません。完成は無限の営みです。不純なところを一つ無くしていくごとに、その奥にさらに不純なものを見出します。あなたは永遠に達成されることのない完全性へ向けての無限の進化の道を歩みつつあるのです。したがって当然、その時点においては何らかの不公平というものが存在することは避けられません。どこかに荒けずりのところがあり、問題があり、困難が伴います。が、それもすべて進化の法則が運用されていくその副産物として生じていることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 72

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 13-za (他人への寛容と慈悲の心を持つことが進化しつつある霊の証)

 まじめに、あなたなりの最善を尽くすことです。そして他人に対して寛容と慈悲の心を向けてあげることです。それができるということが進化しつつある霊の証です。人間は誰一人として完全な者はいません。煩悩をそなえた存在であり未熟であるが故に、時には的はずれのことを考えて間違いを犯すものです。だからこそお互いに寛容と慈悲と受容性と愛が大切となるわけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 72-73

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 13-zb (霊的成長は困難に堂々と対処し克服していく中で得られる)

 面倒なことが生じないでほしいという願望は人間的煩悩の一つであり、それ自体を非難するつもりはありませんが、面倒なことを毛嫌いし逃避していては、霊的な成長は望めません。成長は困難に堂々と対処し、挑戦を正面から受け止め、そして克服していく中で得られるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 73

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 13-zc (人生の過酷な体験は魂を目覚めさせるために必要な触媒)

 地上生活のどこかの段階でその人なりの真理の受け入れ態勢が整う時機がきます。それは神が一人ひとりに用意してくださる絶好機です。それが時として病気、死別、危機という過酷な体験を通して届けられることがあります。しかしそれが魂を目覚めさせるために必要な触媒なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 74

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 13-zd (人生の様々な苦難も魂の成長を促すための手段である)

 光と闇、日向と日陰は一つのものの二つの側面です。闇がなくては光の存在がわからず、日陰がなくては日向のありがたさもわかりません。人生の苦難も魂の成長を促すための手段なのです。困難・障害・不利な条件、こうしたものはみな魂の試練です。それを一つ一つ克服するごとに魂は一段と強さを増し、一段と清さを増し、一段と深みを増し、一段と霊格を高めるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 75

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 13-ze[18-zl] (試練も痛みも苦しみもない生活のなかでは堕落あるのみ)

 地上生活での体験を素直に受け止め素直に理解すれば、どれ一つとして魂を向上させないものはありません。いったい困難のない世界、試練も痛みも苦しみもない生活が想像できるでしょぅか。そこには克服すべきものが一つもなく、したがって進歩もなく、ただ堕落あるのみです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 75

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 13-zf (知識にも真理にも叡智にも成長にも限界というものはない)

 知識にも真理にも叡智にも成長にも限界というものがないと悟った時、あなたは真に自由の身になります。心の奥では間違いであることに気づいていること、理性が拒否していることを思い切ってかなぐり棄てることができた時、あなたは真の自由を獲得します。新たな真理の光に照らして誤りであることに気づいたものを恐れずに棄て去ることができた時、あなたは自由の身となるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 76-77

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 13-zg (より進化した霊にはより大きな調和の世界が待ちうけている)

 永遠の生命の営みには限界というものがありません。美しさにも限りがありません。音楽の壮麗さにも限りがありません。魂が進化の階梯を登れば登るほど、美と調和の世界が自分のものとなってまいります。より進化せる霊にはより大きな調和の世界が待ちうけております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 77

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 13-zh (霊性を自覚するようになった魂は一層の進化を促す道を選択する)

 あなたのこれまでの成長の度合によってこれから先の成長の度合が決まります。もっともその成長を遅らせることはできますが、いずれにせよあなたがこれから選択する行為は、さまざまな次元の摂理の絡み合いによって自動的に決まってきます。その一つ一つが自動的に働くからです。自由意志によって選択しているようで、実はそれまでに到達した進化の段階におけるあなたの意識の反応の仕方によって決定づけられているのです。霊性を自覚するようになった魂は(目先の損得・気楽さを超えて)いっそうの進化を促す道を選択するものです。

  『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 78

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 13-zi (霊性の進化に伴って自然の摂理を悟っていくようになる)

 霊性の進化に伴って自然の摂理を悟ってまいります。その第一の反応として、誤った知識、理性が納得できないもの、全知全能なる神の愛と叡智にそぐわないと直感したものは、恐れることなく捨てることができるようになります。容器に新しいものを入れるには、その前に古いものを取り出さないといけないのが道理です。自然な物の考え方を妨げるものは容赦なく捨て去らないといけません。かくしてあなたの霊性、あなたの魂が進化し、より高い叡智を受け入れる用意が整います。

  『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 78-79

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 13-zj (霊性というのは磨けば磨くほど、まだ磨くべきことに気づくもの)

 進化の頂点を極め完全≠ニ融合してしまったという霊を私はまだ一人も知りません。霊性というのは磨けば磨くほど、まだまだ磨くべきものが残っていることに気づくものです。それは意識の領域がますます広がっていくことを意味します。あなたの意識も大霊の一部なのですから、無限の奥行きがあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 81

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 13-zk [42-o] (悪とは何かということを見きわめる必要がある)

悪″とは何かということを見きわめておく必要があります。地上生活の究極の目的は死″と呼ばれている現象のあとに待ちかまえている次の生活舞台にそなえて、内部の霊性を開発することにあります。開発するほど洞察力が深まります。霊性が開発され進歩するにつれて自動的に他人に対して寛大になり憐みを覚えるようになります。これは、悪や残忍さや不正に対して寛大であれという意味ではありません。相手は自分より知らないのだという認識から生まれる一種の我慢″です。人間は往々にして自分のしていることの意味が分からずに、まったくの無知から行為に出ていることがあるものです。そこがあなたの我慢のしどころです。それは悪を放任し黙認してしまうことではありません。それは我慢ではなく目の前の現実に目をつむることです。其の意味の寛大さには洞察力が伴います。そして、いつでも援助の手を差しのべる用意ができていなければなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 96

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 13-zl[44-zh] (人間も魂を開発して神と直接の交わりをもつことができる)

 宇宙は神の反映です。神が宇宙組織となって顕現しているのです。ハエに世の中のことが分かるでしょうか。魚に鳥の生活が理解できるでしょうか。犬に人間のような理性的思考ができるでしょうか。星に虚空が理解できるでしょうか。すべての存在を超えた神という存在をあなたがた人間が理解できないのは当然です。しかし人間も、魂を開発することによって、一言も語らずとも魂の静寂の中にあってその神と直接の交わりをもつことができるのです。その時は神とあなたとが一体であることを悟られます。それは言葉では言い表せない体験です。あなたの、そして宇宙のすべての魂の静寂の中においてのみ味わえるものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 110

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 13-zm[11-l] (人間が不完全である故に霊の顕現の仕方も不完全になる)

 霊それ自体はもともと完全です。宇宙を構成している根源的素材です。生命の息吹きです。それがあなた方を通して顕現しようとしているのですが、あなた方が不完全であるために顕現の仕方も不完全なのです。あなた方が進化するにつれて完全性がより多く顕現されてまいります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 110-111

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 13-zn (人間が完全へ近づくほど完全な法則がより多く顕現する)

 法則は完全です。しかしあなたは不完全であり、したがって完全な法則があなたを通して働けないから、あなたを通して顕現している法則が完全でないということになります。あなたが完全へ近づけば近づくほど、完全な法則がより多くあなたを通して顕現することになります。こう考えるとよろしい。光と鏡があって、鏡が光を反射している。鏡が粗末であれば光のすべてを反射することができない。その鏡を磨いて立派なものにすれば、それだけ多くの光を反射するようになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
      潮文社、1988、p. 111

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 13-zo[42-w](地上の悪は不完全な段階で神を表現している不完全さである)

 私は原初のことは何も知りません。終末についても何も知りません。知っているのは神は常に存在し、これからも永遠に存在し続けるということだけです。神の法則は完ぺきに機能しております。あなたはもともと完全な光をお持ちです。が、それを磨きの悪い鏡に反射させれば完全な光は返ってきません。それを、光が不完全だ、光は悪だとは言えないでしょう。まだ内部の完全性を発揮するまでに進化していないというに過ぎません。地上で悪″と呼んでいるものは不完全な段階で神を表現している不完全さ″を意味するに過ぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 111

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 13-zp[42-y](愛と憎しみは表裏一体で同じエネルギーの表現である)

 神とは法則です。全生命を支配する法則なのです。その法則を離れては何も存在できません。あなた方が憎しみと呼んでいるものは未熟な魂の表現にすぎません。その魂も完全な法則の中に存在しておりますが、現段階においては判断が歪み、正しく使用すれば愛となるべき性質を最低の形で表現しているまでのことです。愛と憎しみは表裏一体です。愛という形で表現できるエネルギーは、憎しみを表現する時に使用するエネルギーと同じものなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 112



 13-zq[4-zq] (祈りがその波長の感応する界層の霊を即座に呼び寄せる)

 霊の側では人間側がどういう祈りをするかを待つ必要はありません。なぜならば祈りの本質そのものが、その波長の感応する界層の単数または複数の霊を即座に呼び寄せるからです。それも魂の進化の程度によって自然に決まることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 122

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 13-zr (神の存在を信じ礼拝してもそれだけで霊性が伸びるわけではない)

 神の存在を信じ、神を讃美する教説を朗読し讃美歌をうたい、日曜日にはきちんと礼拝に出席しているからといって、それだけで霊性が一ミリたりとも伸びるわけではありません。それは他人への思いやりの心を鼓舞して、暗闇の生活から光明の生活へと導いてあげる行為を実践させる、その手段と考えるべきです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 134

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 13-zs (人間にとって完全性の成就は永遠に続く道程である)

 私たちはお互いに欠点をそなえた人間的存在です。もしも完全であれは今こうして集い合っていることもないでしょう。完全性の成就は永遠に続く道程です。知識のすべてを手にすることは不可能なのです。今あなたが置かれている生活条件そのものが、あなたが獲得し吸収していくものに制約を加えるからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 154

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 13-zt (霊的覚醒に到達したら高次元の界層と磁気的につながる)

 いったん霊的覚醒に到達したら、高次元の界層およびそこの生活者との間に磁気的なつながりができます。その時からあなたは常に彼らの保護下に置かれます。もたらされた啓示にしがみつき、それを全生活の基盤となさることです。その基盤を揺るがせる力は物質の世界には存在しません。これから訪れる日々もその基盤の上で迎え、不敵の信念で生きることです。地上には何一つ恐れるものはないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.157

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 13-zu (人のために役立つよう努力することで霊性が高められる)

 自分の内部に宿る威力を認識し、それを活用しさえすれば、克服できない困難というものはありません。それをいかにすれば活用できるかとなると、まずその能力を開発しなければなりませんが、ただ開発しただけではだめです。高い波長に感応できるものでなければなりません。ではどうすればよいのか。それは日常生活の中身を人のために役立つもので満たしていくことです。そう努力することで霊性を高めるのです。自己中心的で俗世的すぎると、波長は低いものにしか感応しません。自我を減却して利他的なことに無心に精励するほど、高い波長のものに感応するようになります。そのとき内部の神性が発揮されるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.160

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 13-zv (大霊から授かっている神性の炎を大きく燃え上がらせる)

 大切なことは魂に感動を覚えさせてあげることです。人間は大ていの場合、大霊から授かっている神性の炎が小さく弱くなっております。それを大きく燃え上がらせてあげるのです。その体験の中から新たな悟りが生まれます。そういう体験をさせてあげるために特別製の聖衣がいるわけではありません。特殊な養成所に通う必要もありません。ひたすらに人の幸せを願い、少しでも霊的資質を発揮する生活を心掛け、いつでも霊力の通路として使用してもらえる態勢を整えておけば、それでよいのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.183

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 13-zx[65-l] (人のために役立ち自我の開発をするには)

 私たち霊団の者は地上的環境というままならぬ条件のもとで精いっぱい努力しております。そこで、皆さん方に要求するのは協力″の二文字だけです。私たちが提供するのも協力≠ナす。命令的な指図はしたくありません。強制しようとは思いません。人のために役立ち自我の開発にも役立つことをするには人間はどうすればよいかをお教えすることによって、皆さんの愛と理性に発する協力を獲得したいのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.185

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 13-zy (自己の存在意義に目覚めるための前提条件)

 人生のどこかの段階で神は子等に其の自我の発見とその存在意義に目覚めるための機会を提供します。そのための前提条件として、魂の琴線に触れる体験が必要です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.185

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 13-zz[65-o] (人間の完全性は地上で成就できるものではない)

 完全性など、とても地上で成就できるものではありません。ですが、いずれお出でになるこちらの世界のための霊的な準備となる教訓を学ぶことはできます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.186

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 13-zza (霊能養成のための時間が無駄に終わることはない)

 霊能養成のために費す時間が無駄に終わることは決してありません。何の反応もなくて焦れったい思いをなさる気持ちは私にもよく分かります。が、そうした状態のもとで着実に進歩していることを知っていただきたいのです。背後霊との絆が強化され、霊的感覚が鋭敏さを増しております。成長と開発と進化が一刻の休みもなく続いております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.192

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 13-zzb(永遠の生命の証拠を手にすることと魂の成長とは何の関係もない)

 証拠、証拠とおっしゃいますが、証拠を手にすることと魂の成長とは何の関係もありません。真理を受け入れる能力は、あなたの魂が霊界のどの次元まで突入できるかによって決まります。つまり真理を悟る能力がどこまで進化したかに掛かっております。それを証拠の入手と混同してはなりません。両者は必ずしも並行して進むものではありません。死後にも生命があることを立証する立派な証拠を手にしていながら、霊的には一向に目覚めていない人がいるものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.194

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 13-zzc[18-zzd] (霊的進化は先へ進めは進むほど孤独で寂しいもの)

 霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値はないことになります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利といえるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したら、それが征服といえるでしょうか。霊的進化というものは先へ進めは進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きつつ後の者のために道しるべを残していくことだからです。そこに霊的進化の真髄があります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.196-197

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 13-zzd[18-zze] (気楽な人生を送っていては魂の力は発揮されない)

 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益〃と言わねばなりません。何もかもうまく行き、日向ばかりを歩み、何一つ思い煩うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫を開き神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.201

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 13-zze[68-zn] (実際に行う無私の施しがあなたの進化を決定づける)

 霊媒現象ばかりが霊力のはけ口ではありません。芸術家を通して、哲学者を通して、あるいは科学者を通しても発現することができます。要するにあなた方自身の霊的自覚を深める行為、あなた方より恵まれない人々の役に立つ仕事にたずさわることです。看板は何であってもかまいません。係わる宗教、政治、芸術、経済がいかなる主義・主張を掲げようと問題ではありません。実際に行う無私の施しが進化を決定づけるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.204

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 13-zzf[6-zg] (宗教とは無縁の人の方が霊格が高いことがいくらもある)

 宗教家とか信心深い人は霊的に程度が高いという考えが、人間を永いあいだ迷わせてきたようです。実際は必ずしもそうとは言えないのです。ある宗教の熱烈な信者になったからといって、それだけで霊的に向上するわけではありません。大切なのは日常生活です。あなたの現在の人間性、それがすべてのカギです。祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い選はれし者″の一人になったと信じている人よりも、唯物論者や無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格がたかいというケースがいくらもあるのです。問題は何を信じるかではなく、これまで何を為してきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.209-210

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 13-zzg[50-t] (因果律は地上生活中に成就されるとは限らない)

 いわゆる因果律というのは必ずしも地上生活中に成就されるとは限りません。しかしいつかは成就されます。必ず成就されます。原因があれば結果があり、両者を切り離すことはできないのです。しかし、いつ成就されるかという時期の問題になると、それは原因の性質いかんに係わってきます。すぐに結果の出るものもあれば、地上生活中には出ないものもあります。その作用には情状酌量といったお情けはなく、機械的に作動します。罪を犯すとその罪がその人の霊に記録され、それ相当の結果を生み、それだけ苦しい思いをさせられます。それが地上生活中に出るか否かは私にも分かりません。それはさまざまな事情の絡んだ複雑な機構の中で行われるのですが、因果律の根本の目的が永遠の生命である霊の進化″にあることだけは確かです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 210

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 13-zzh[18-zzg] (試練と困難の影響は各自の霊的進化の程度による)

 いかなる人間にもかならず試練と困難、いわゆる人生の悩みが訪れます。いつも日向ばかりを歩いて蔭を知らないという人は一人もいません。ただその人生の難問がどの程度の影響を及ぼすかは、各自の霊的進化の程度に掛かっております。ある人には何でもないことが、あなたには大変に思える場合があります。反対に、ある人には大変に思えることが、あなたには些細なことに思えることもあります。各自が自分なりの運命を切り開いて行くのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 213

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 13-zzi[68-zo] (心霊的能力は必ずしも霊的進化の指標とはならない)

 ヒトは身体的にはすでに進化の頂点に達しております。次は精神的進化と霊的進化です。長い年月をかけて徐々に全人類が自己の心霊的能力に目覚めていくことでしょう。が、ここで但し書き″が必要です。心霊的能力を発揮するようになることが必ずしも霊的進化の程度の指標とはならないということです。霊的身体の有する能力を全部発揮しても、魂そのものは少しも進化していないということもありえます。本当の意味で霊的に進化しはじめるのは、人のために役立つ仕事を目的として霊界のスピリットの協力を得ながら心霊能力を開発した時です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 214

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 13-zzj (一度だけの地上生活で欠点を取り除くことはできない)

 地上の同志の方々にいつも申し上げているのは、私たち霊団側としては皆さんが誠心誠意、精いっぱいの努力をすること以上のことは要求しないということです。あなた方は欠点をそなえた人間的存在であり、その欠点を一つ一つ取り除いていかねばなりません。しかしそれは大へんな時間を要する作業であり、たった一度の地上生活では成就できません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 233

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 13-zzk (難問を真正面から受け止めることによって霊性が一段と磨かれる)

 人生の難問の一つ一つを、あなたが解決を迫られている課題として受け止めなさい。それに挑戦していく過程の中で霊性が磨かれ、発達し、潜在的神性が表面に出てくるのです。順風満帆に事が運んでいる時に感謝する必要はありません。難問が生じた時こそ感謝すべきです。あなたにとっての挑戦課題が突きつけられたのであり、それを真正面から受け止めることによってあなたの霊性が一段と磨かれる、その絶好のチャンスだからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
      潮文社、1988、p.68

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 13-zzl (困難な出来事は魂を成長させるための手段である)

 魂が完全に打ちのめされるほどの出来事は決して生じません。一つ一つの出来事は、いかに困難をきわめるものであっても、魂をいっそう成長させるための手段と心得てください。現実に数多くの問題と困難に取り囲まれているあなたにとっては、そういう受け止め方は決して容易なことではないでしょう。が、その場かぎりの捉え方ではなく、永遠の価値をもつ尺度があること忘れてはいけません。それが霊的真理です。疑念に襲われた時はその真理にしがみつくことです。人間である以上は煩悩を完全に閉め出すことはできません。が、だからと言ってその煩悩を怠慢の言い訳にしてはなりません。心構え一つで煩悩を力に変えることができるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12』(近藤千雄訳)
        潮文社、1988、p.74

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 13-zzm (いかなる人間にも永遠の向上進化の道が開かれている)

 「生命は、霊的であるがゆえに永遠なのです。誰であろうと、何であろうと、どこにいようと、あるいは、現在すでに到達した進化の段階がどの程度であろうと、これから先にも、永遠へ向けての無限の階段が続いているのです。不完全さを無くすためには永遠の時が必要です。完全というのは、どこまで行っても達成されません。どこまで行っても、その先にもまだ達成すべき進化の段階があることを認識することの連続です。無限に続くのです。

  トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』
    (近藤千雄訳)ハート出版、2003、pp.17-18









 14. 信仰 

 14-a (信仰の告白だけでは宗教に帰依したことにはならない)

 宗教の世界では”帰依” ということを言います。おきまりの宣誓文句を受け入れ、信仰を告白する---それでその宗教へ帰依したことになるとうのですが、本当の帰依というのは霊的真理に得心がいって、それがあなたという存在の中にしっくりと納まることをいうのです。
 その時からその人は新しい眼をして、新しい確信と新しい理解とをもって人生を見つめます。生きる目的が具体的にわかるようになります。神が全存在のために用意された計画の一端がわかりはじめるからです。
 ある人は政治の分野において生活の苦しい人々、社会の犠牲となっている人々、社会に裏切られた人々、よるべなき人々のためにその霊的知識を生かそうと奮い立ちます。ある人は宗教の世界へ足を蹄み入れて、死に瀕している古い教義に新しい生命を吹き込もうとします。ある者は科学の実験室に入り、残念ながらすっかり迷路にはまってしまった科学者の頭脳に霊的なアイディアを吹き込もうと意気込みます。また苔術の世界へ入っていく者もいることでしょう。
 要するに霊的真理は人生のすべての分野に関わるものだということです。それは当然のことです。なぜなら生命とは霊であり、霊がすなわち生命だからです。霊が目を覚まして真の自分を知ったとき、すなわち霊的意識が目覚めたとき、その時こそ自分とは何者なのか、いかなる存在なのか、なぜ存在しているのかということに得心がいきます。それからの人生はその後に宿命的に待ちうける、より豊かでより大きな生命の世界への身仕度のために、”人のために自分を役立てる” ことをモットーとして生きるべきです。
 どうぞこれからも真理探求の旅をお続けください。求めつづけるのです。きっと与えられます。要求が拒絶されることはけっしてありません。ただし、解答はかならずしもあなたが期待したとおりのものであるとはかぎりません。あなたの成長にとって最善のものが与えられます。

    『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.33-34



 14-b [10-k] (生きがいある人生を送るには=4= 信仰を加味する)

 私の好きな諺がバイブルの中にあります。“信仰に知識を加えよ”というのですが、私はこれを“知識を得たら、それに信仰を加味せよ”と言い変えたいところです。所詮すべての知識を手にすることはできません。あなた方は人の子であり、能力に限界があるからです。人生の嵐に抵抗し、何が起きようと磐石不動であるためには、その土台として霊的知識を必要としますが、限られた知識ではすべてを網羅することはできません。その足らざる部分は信仰心で補いなさいと私は言うのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 30

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 14-c (物質の世界に存在するものを信仰の対象としてはならない)

 物質の世界に存在するもの― それが物であろうと人間であろうと、又その人がいかに高い地位にあろうと、それを信仰の対象としてはなりません。物質の世界の彼方にあるものへ目を向けなさい。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 139

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 14-d(65-h) (地上では教えを説く人物に関心を向けすぎてきた)

 私という一個の霊、ただのメッセンジャーにすぎない者にあまり関心を寄せてくださるのは困ります。私の用事はただメッセージをお届けすることでしかないのです。地上の人間はこれまで余りにも永いこと教えそのものよりも教えを説く人物に関心を向けすぎております。そしてその人物を誇大に評価し、祭るべきでない地位に祭り上げ、肝心の教えそのものを忘れております。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 139

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 14-e (地上の知識には三次元の限界があるために信じることが必要)

 地上のいかなる賢人も、問題のすべてに対する回答を手にすることはできません。三次元の世界に閉じ込められている以上、叡知のすべてを手にすることは不可能なのです。その三次元の殻を破らないことには悟れないことがあるのです。そこに信じる″ことの必要性が生じるわけです。私は信仰だけではいけません。信仰に知識を加えなさい″と申し上げていることは事実ですが、その段階をさらに進むと、その知識にも三次元ゆえの限界があるために信じる≠オかない段階に至ります。すべてを理性で片づけるわけにはいかなくなった時、直感的洞察力の必要性が生じます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 152

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 14-f (霊的実在について疑い抜いた末に生まれる信仰)

 私が信仰≠ニいう用語を用いる時、それは何の根拠も論理的背景もなしに、好きなように信じるという意味ではありません。知識という基盤をもち、霊的実在について疑い抜いた末に生まれる確実な根拠の上に築くものであらねばなりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 152













 15. 愛

 15-a (愛とはなにか)

 気が合うというだけの友情、趣味が同じということから生まれる友愛から、人のために尽くそうとする崇高な奉仕的精神に至るまで、愛は数多くの形態を取ります。地上では愛 Loveという言葉が誤って用いられております。愛とはいえないものまで愛だ愛だとさかんに用いる人がいます。ある種の本能の満足でしかないものを愛だと錯覚している人もいます。が、私が理解しているかぎりで言えば、愛とは魂の内奥でうごめく霊性の一部で、創造主たる神とのつながりを悟った時におのずから湧き出てくる魂の欲求です。最高の愛には一かけらの利己性もありません。すなわち、その欲求を満たそうとする活動に何一つ自分のためにという要素がありません。それが最高の人間的な愛です。それが人類の啓発を志す人々、困窮する者への救済を志す人々、弱き者への扶助を願う人々、そして人生の喜びを踏みにじる既得権力との闘いを挑む人々の魂を鼓舞してきました。
 母国において、あるいは他国へ赴いて、そうした愛他的動機から人類の向上のために、言いかえれば内部に秘めた無限の可能性を悟らせるために尽力する人は、愛を最高の形で表現している人です。その表現形態にもさまざまな段階があります。愛の対象に対する働きかけという点では同じであっても、おのずから程度の差があります。最も程度の低い愛、狭隘で、好意を覚える者だけを庇い、そして援助し、見知らぬ者には一かけらの哀れみも同情も慈悲も感じない者もいます。しかし宇宙には神の愛が行きわたっております。その愛が天体の運行を定め、その愛が進化を規制し、その愛が恵みを与え、その愛が高級霊の魂を鼓舞し、それまでに成就したもの全部をお預けにして、この冷く薄暗い、魅力に乏しい地上へ戻って人類の救済に当らせているのです。


       『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1986,  pp.200-201


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 15-b (家族愛を超えた最高の愛)

 人生とは生命そのものの活動であり、霊的であるが故に死後も永遠に続くことは立証可能な事実です。かくして人間は地上にあっても霊的存在であり物質的存在ではないこと、すなわち身体を具えた霊であって、霊を具えた身体ではないということを自覚することができます。物質界への誕生は測り知れない価値ある遺産の一部を享けることです。霊であるからこそ物質と結合し、活動と生命を賦与することができるのです。その霊は宇宙の大霊の一部であり、本質的には神性を具え、性質的には同種のものであり、ただ程度において異なるのみです。
 我欲を捨て他人のために自分を犠牲にすればするほど内部の神性がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就しはじめることになります。家族的情愛や恋愛が間違っていると言っているのではありません。外へ向けてのより広い愛の方が上だと言っているのです。排他性の内向的愛よりも発展性の外向的愛の方が上です。いかなる資質にも上等のものと下等のもの、明るい面と暗い面とがあるものです。
 家族的な愛は往々にして排他性を帯びます。いわゆる血のつながりによる結びつきです。それは進化の過程における動物的段階の名残りである防衛本能によって支配されていることがよくあります。が、愛の最高の表現は己れを思わず、報酬を求めず、温かさすら伴わずに、全てのものを愛することができることです。その段階に至った時は紳の働きと同じです。なぜなら自我を完全に滅却しているからです。愛は人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表われます。
 霊の世界へ来た者がなぜ地上へ舞い戻って来るかご存知ですか。大多数の人間にとって死は有難いことであり、自由になることであり、牢からの解放であるのに、なぜ戻って来るのでしょうか。霊の世界の恩寵に存分に浸っておればよいはずです。地上の住民を脅やかす老いと病いと数々の煩悩に別れを告げたのです。なのに、地上との問に横たわる測り知れない困難を克服してまで自ら志願して帰って来るのは、あなた方への愛があるからです。彼らは愛の赴くところへ赴くのです。愛のあるところに存在するのです。愛あればこそ役に立ちたいと思うのです。霊界において如何なる敵対行為が私たちへ向けられても、妨げんとする邪霊集団の勢力がいかに強力であろうと、それが最後には効を奏することができないのは、そうした愛に燃えた霊たちの働きがあればこそです。

       『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1988,  pp.145-146

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 15-c (善意と祝福を届けてくれる見知らぬ人々への訪問)

 私に対して愛念と思念と善意と祝福をお届けくださる大ぜいの見知らぬ方々に対して、私は喜びと感謝の気持をお伝えしたく思います。私は自分がそういう情愛の運び役であることを誇りに思っております。それは私がその方たちにとって何らかのお役に立っているからこそであると信じるからであり、たとえ私の姿をご覧になることはなくても、私はその方たちのご家庭へお邪魔していることをご承知ください。実際にお伺いしてお会いしているのです。
 私にとっては愛こそが生活であり、人のために自分を役立てることが宗教であるからです。そうした私の考えにご賛同くださり、同じ生活信条を宗とされる方すべてを心から歓迎するものです。

   『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.20-21


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 15-d (家族への愛よりも他人に対する愛の方がはるかに尊い)

 私は、同じ愛でも、家族的な絆に根ざした愛よりも、奉仕的精神に根ざした愛の方がはるかに尊いと信じている者の一人です。奉仕的精神から発動した愛の方がはるかに偉大です。自分という一個≠フ存在の心と知性と魂を多数≠フ人間の運命の改善に役立てようとするとき、そこにはその見返りとしての己れの栄光をひとかけらも望まない ”光り輝く存在” を引き寄せます。生きる喜びをひとかけらも味わうことを許されない無数の魂の存在を地上に見ているからです。
 もしも皆さんが霊の目をもって見ることができれば、宇宙の全次元の存在の場をつないでいる絆をごらんになることができるのですが、それがごらんいただけないのが残念です。それをごらんになれば、地上の誰一人として見棄てられたり取り残されたり無視されたり見落されたりすることがないこと、霊的なつながりが人間に知りうるかぎりの最低界から人間が想像しうるかぎりの最高界まで連綿として続いていることを理解されることでしょう。

     『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.110


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 15-e (愛と寛容が人類をさらに高揚させると思うが)

 同感です。バイブルにも愛とは摂理を成就することである、とあります。愛とは摂理のことです。神の御心です。なぜなら、神そのものがすなわち愛だからです。したがって神の御心に適った生き方をしていれば、それは愛を表現していることになります。私のいう愛″とは慈悲の心、奉仕の精神、犠牲的精神、要するに自分より恵まれない者のために自分の能力の範囲内で精いっぱい援助しようとする心を言います。自分のことをかえりみず、助けを必要とする人のために出来るかぎりのことをしてあげようとする心、それが愛なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 126-127


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 15-f (“大霊の愛”と“隣人愛”という言葉の解釈について)

 私だったら二つとも簡明にこう解釈します。すなわち自分を忘れて奉仕の生活に徹し、転んだ人を起こしてあげ、不正を駆逐し、みずからの生活ぶりによって神性を受け継ぐ者としてふさわしい人物であることを証明すべく努力する、ということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、p.152


 15-g[79-k][20-c](人間は自由意志を与えられていても選択を誤ることがある)

 ― 感情についてお聞きしたいことがあります。私たちが立派と思っている愛国心その他の愛でも、実際は一種の利己主義であることがあります。

 何ごとも動機が大切です。愛国心でも、自分の国家と国民のことだけを考えて、よその国のことは一切眼中にないようでは、それは一種の利己主義です。
 最高の指針となるのは人のために役立つこと、思いやり、謙虚さ、寛容心、協調性といった形で表現される愛です。愛は宇宙最大の力です。
 あなた方は人間です。完全ではありません。完全は地上では絶対に達成されません。こちらの世界でも達成されません。絶えず発達し進化し伸びていく存在です。内部には神性を帯びた潜在力が秘められています。また、一定限度内での自由意志も授けられています。
 したがってあなたは神の意図された通りのイメージにしたがって行動して内部の神性を発揮することもできますし、低級な感情と欲望のおもむくままに生き、永遠の持ちものとはならない俗物を求めるだけの人生で終わることも許されます。それは神が地上の人間のすべてに与えられた自由選択の権利です。
 しかし人間である以上はその選択を誤ることがあります。そして途中で挫折してしまいます。そこで私たちは、善悪の判断に際して“動機”を重要視します。神は一人一人に良心という絶対に狂うことのない監視装置を用意してくださっております。それがあなたの行為が正しいか間違っているかを正確に教えてくれます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 74-75

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 15-h (愛は霊力と同じく宇宙でもっとも大切なエネルギーの一つ)

 あなたの愛する人たち、それからあなたを愛してくれている人たちは、死″を境にして物質的には別れ別れになっても、霊的には今まで通りにつながっております。愛は死よりも強いのです。愛は霊力と同じく宇宙でもっとも大切なエネルギーの一つです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.155

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 15-i (愛する者はいつも私たちといっしょにいてくれている)

  ―「あなたは、愛する者がいつも私たちといっしょにいてくれているとおっしゃいましたが、その時、彼らは本来の自我の一部ではないかと思いますが…」という質問に対して

 そうです。愛する霊は地上の者を見守りつつ、同時に霊界での生活を営むことができるのです。皆さんのように一個の身体に縛られていないからです。こちらの世界では、意識というものに地上のような制約がありません。皆さんは英国と南アフリカに同時にいることはできませんが、わたしたちにはそれが可能なのです。距離とか行程とかの問題がないからです。
 愛する者にとっては、皆さんのもとに来るのは決して辛いことではありません。愛がなければいっしょにいる気にはなれません。愛があればこそ、歩調を合わせて見守る気にもなるわけです。

  トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の絆』(近藤千雄訳)
    コスモ・テン・パブリケーション、1989、p.41

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 15-j (愛はすべての障害を打ち砕く)

 自ら死を体験したのち三千年の霊界生活を体験してきたこのわたしから是非とも申し上げたいのは、死は愛する者どうしを裂くことは絶対にできないということです。愛はすべての障害を打ち砕きます。愛は必ずやその愛する相手を見つけ出すということです。
 愛する人がこの残虐と誤解と無知の世界から、内部の神性がより豊かに発見される世界へと連れて行かれたことを泣いて悲しむのはお止めなさい。神があなたの庭から一本の花を抜き取って神の庭へ植え代えられたことを悲しんではなりません。その庭で、あらゆる制約と束縛とから解放されて、内在する香りをより多く放つことになるのです。
 死も生命の法則の一環であることを理解してください。生と死はともに大霊のものであり、ともに大霊の摂理を教えるために使用されているのです。涙をお拭きなさい。悲しむのは間違いです。なぜなら、愛する人は今もなおあなたの身近かにいらっしゃるのです。死は愛を滅ぼすことはできないのです。大霊が永遠であるごとく愛も永遠なのです。

   トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
      コスモ・テン・パブリケーション、1989、pp. 170-171








 

 16. 心霊治療

 16-a (心霊治療の意義と治療者の心構え)

 病気治療も、霊的交信を通じての慰めも、さまざまな霊的現象も、究極的には人間が例外なく神の分霊であること、すなわち霊的存在であるというメッセージに目を向けさせてはじめて意義があり、神から授かった霊的遺産を我がものとし宿命を成就するためには、ぜひその理解が必要です。
 それが困難な仕事であることは私もよく承知しております。が、偉大な仕事ほど困難が伴うものなのです。霊的な悟りを得ることは容易ではありません。とても孤独な道です。それは当然のことでしょう。もしも人類の登るべき高所がいとも簡単にたどりつくことができるとしたら、それは登ってみるほどの価値はないことになります。安易さ、呑ん気さ、怠惰の中では魂は目を開きません。刻苦と奮闘と難儀の中にあってはじめて目を覚まします。これまで、魂の成長が安易に得られるように配慮されたことは一度たりともありません。
 あなた方が治療なさる様子を見ていとも簡単に行っているように思う人は、表面しか見ていない人です。今日の頂上に到達するまでには、その背景に永年の努カの積み重ねがあったことを知りません。治療を受ける者が満足しても、あなた方は満足してはなりません。一つの山頂を極めたら、その先にまた別の山頂がそびえていることを自覚しなくてはいけません。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1986, pp.13-14

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 16-b (未発達の魂は心霊治療でも治らない)

 私が言わんとしているのは、まさにそのことです。ただ、未発達という用語は解釈の難しいことばです。私が摂理の存在を口にする時、私はたった一つの摂理のことを言っているのではありません。宇宙のあらゆる自然法則を包含した摂理のことを言います。それが完璧な型にはめられております。ただし法則の裏側にまた別の次元の法則があるというふうに、幾重にもなっております。しかるに宇宙は無限です。誰にもその果てを見ることはできません。それを支配する大霊(神)と同じく無窮なのです。すると神の法則も無限であり、永遠に進化が続くということになります。
 物質界の人間は肉体に宿った魂です。各自の魂は進化の一つの段階にあります。その魂には過去があります。それを切り捨てて考えてはいけません。それとの関連性を考慮しなくてはなりません。肉体は精神の表現器官であり、精神は霊の表現器官です。肉体は霊が到達した発達段階を表現しております。もしもその霊にとって次の発達段階に備える上での浄化の過程としてその肉体的苦痛が不可欠の要素である場合には、あなた方治療家を通じていかなる治癒エネルギーが働きかけても治りません。いかなる治療家も治すことはできないということです。
 苦痛も大自然の過程の一つなのです。摂理の一部に組み込まれているのです。痛み、悲しみ、苦しみ、こうしたものはすべて摂理の中に組み込まれているのです。話はまた私がいつも述べていることに戻ってきました。日向と日蔭、平穏と嵐、光と闇、愛と憎しみ、こうした相対関係は神の摂理なのです。一方なくしては他方も存在し得ません。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986, pp.19-20

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 16-c (心霊治療の役目は患者の生得の機能を活かすことか)

 そうとも言えますが、それだけではありません。というのは、患者は肉体をまとっている以上とうぜん波長が低くなっています。それで霊界からの高い波長の霊波を注ぐにはいったん治療家というコンデンサーにその霊波を送って、患者に合った程度まで波長を下げる必要があります。そういう過程をへた霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治癒効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇跡のようなことが起きるわけですが、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢ができていない時は何の効果も生じません。たとえば曲がっていた脚を真っすぐにするのはあなた方ではありません。患者自身の魂の発達程度です。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986, p.26

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 16-d (神を信じない人でも治ることはある) 

 神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がいます。霊格の高さは信仰心の多寡で測れるものではありません。行為によって測るべきです。いいですか、あなた方(心霊治療家)は治るべき条件の整った人を治しているだけです。ですが、喜んでください。あなた方を通じて知識と理解と光明へ導かれる人は大勢います。みながみな治せなくても、そこには厳とした法則があってのことですから、気になさらないことです。と言って、それで満足して努力することを止めてしまわれては困ります。いつも言っているように、神の意志は愛の中だけでなく憎しみの中にも表現されています。晴天の日だけが神の日ではありません。嵐の日にも神の法則が働いております。成功にも失敗にもそれなりの価値があります。失敗なくしては成功もありません。

『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986, p.27

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 16-e (治る見込みがない場合の安楽死の是非)

 あなた方の辛い立場はよく分かります。私としても好んで冷たい態度をとるわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備ができた時に来るべきです。それはちょうど柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ってはいけません。私はあくまでも自然法則の範囲内で講ずべき手段を指摘しております。たとえば薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体はもともとそんな状態になるようには意図されておりません。そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。そういう観点から考えていけば、どうすれは良いかはおのずと決まってくると思います。何ごとも自然の摂理の範囲内で処置すべきです。本人も医者も、あるいは他の誰によってもその摂理に干渉すべきではありません。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てばそれなりの結果が生じます。ですが、それが本当に良いことか悪いことかは霊的法則にどの程度まで適っているかによって決まることです。つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば肉体にとっても最善であるに違いありません。

 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986, pp.31-32

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 16-f (病気を縁に魂を目覚めさせる)

 霊力の真の目的は(病気が縁となって)あなた方(心霊治療家)のもとを訪れる人の魂を目覚めさせることです。自分が本来霊的な存在であり、物的身体は自分ではないことに気づかないかぎり、その人は実在に対してまったく関心を向けないまま地上生活を送っていることになります。言わば影の中で幻を追いかけながら生きていることになります。実在に直面するのは真の自我、すなわち霊的本性に目覚めた時です。地上生活の目的は、帰するところ自我を見出すことです。なぜなら、いったん自我を見出せば、それからというものは(分別のある人であれば)内部に宿る神性をすすんで開発しようとするからです。残念ながら地上の人間の大半は真の自分というものを知らず、したがって不幸や悲劇に遭うまで自分の霊的本性に気づかないのが実情です。光明の存在に気づくのは人生の闇の中でしかないのです。

 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986, pp.32-33

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 16-g (魂の治療では地上の役割は霊界より小さいか)

 小さいとも言えますし大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きく分けて治療には二通りの方法があります。一つは治癒エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家自身に送ります。それを再度治癒エネルギーに還元してあなた方が使用します。もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的に具わっている治癒力を刺激して、魂の不調和すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう。
 ・・・・では説明を変えてみましょう。まず、そもそも生命とは何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかというと、生命とは本質において物質とは異なるものであり、いわゆる理化学的研究の対象とはなり得ないものだからです。で、私はよく生命とは宇宙の大霊のことであり、神とはすなわち大生命のことだと言うのですが、その意味は、人間が意識をもち、呼吸し、歩き、考えるその力、また樹木が若葉をまとい、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後に潜む力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。同じ霊力の一部であり一つの表現なのです。
 あなた方が今そこに生きておられる事実そのものが、あなた方も霊であることを意味します。ですから同じく霊である患者の霊的進化の程度に応じたさまざまな段階で、その霊力を注入するというのが心霊治療の本質です。ご承知のとおり病気には魂に起因するものと純粋に肉体的なものとがあります。肉体的なものは治療家が直接触れる必要がありますが、霊的な場合は今のべた生命力を活用します。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986, pp.35-36

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 16-h (心霊治療は霊界からの方がやり易くはないか)

 そうも言えますが、逆の場合の方が多いようです。と言うのは、死んでこちらへ来た人間でさえ霊的波長よりは物的波長の中で暮らしている(地縛の)霊が多いという事実からもお分かりのとおり、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、たいていは物的な波長にしか反応を示さず、私たちが送る波長にはまったく感応しないものです。そこであなた方地上の治療家の存在が必要となってくるわけです。霊的波長にも物的波長にも感応する連結器というわけです。治療家にかぎらず霊能者と言われている人がつねに心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。霊的に向上すればそれだけ仕事の範囲が広がって、より多くの価値ある仕事ができます。そのように法則ができあがっているのです。ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は必然的に孤独な旅を強いられます。ただ一人、前人未踏の地を歩みながら、後の者のための道しるべを立てていくことになります。あなたにはこの意味がお分かりでしょう。すぐれた特別の才能にはそれ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986, p.38

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 16-i (霊界からの治療法は患者によって異なる)
                                                     とにかく私たちのやる治療法には決まった型というものが無いということです。患者によってみな治療法が異なります。また霊界から次々と新しい医学者が協力にまいります。そして新しい患者は新しい実験台として臨み、どの放射線を使用したらどういう反応が得られたかを細かく検討します。なかなか捗らなかった患者が急に快方へ向かいはじめることがあるのは、そうした霊医の研究成果の表れです。また治療家のところへ行く途中、治ってしまったりすることがあるのも同じ理由によります。実質的な治療というのは、あなた方が直接患者と接触する以前にすでに霊界側において大部分が済んでいると思って差支えありません。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986, pp.40-41

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 16-j (奉仕には克服できない障害はない)

 (無料の心霊治療を続けてきたあなた方は)これまで幾つもの困難に遭遇し、これからも行く手に数々の困難が立ちはだかることでしょうが、奉仕の精神に徹しているかぎり、克服できない障害はありません。すべてが克販され、奉仕の道はますます広がっていくことでしょう。あなたがたのお仕事は人々に苦痛の除去、軽減、解放をもたらすだけではありません。あなたがたの尊い献身ぶりを見てそれを見習おうとする心を人々に植え付けています。そしてそれがあなたがたをさらに向上の道へと鼓舞することになります。私たちはまだまだ霊的進化の頂上を極めたわけではありません。まだまだ、先ははるかです。なぜなら、霊の力は神と同じく無限の可能性を秘めているのです。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, p.44

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 16-k(信仰があっても治らぬ人と信仰がなくても治る人)

 その線引きは魂の霊格によって決まります。人間の観察はとかく表面的で内面的でないことを忘れてはなりません。魂そのものが見えないために、その人がそれまでにどんなことをして来たかが判断できません。治療の結果を左右するのはあくまでも魂です。ご承知のとおり私も何千年か前に地上でいくばくかの人間生活を送ったことがあります。そして死後こちらでそれよりはるかに永い霊界生活を送ってきましたが、その間、私が何にもまして強く感じていることは、大自然の摂理の正確無比なことです。知れば知るほどその正確さ、その周到さに驚異と感嘆の念を強くするばかりなのです。一分の狂いも不公平もありません。地上だけではありません。私どもの世界でも同じです。差引勘定をしてみれば、きちんと答えが合います。
 何ごとも憂えず、ただひたすら心に喜びを抱いて、奉仕の精神に徹して仕事をなさることです。そして、あとのことは神にお任せすることです。それから先のことは人間の力の及ぶことはないのです。あなたがたは所詮、私たちスピリットの道具にすぎません。そして私たちも又、さらに高い神霊界のスピリットの道具にすぎません。自分より偉大なる力がすべてを佳きに計らってくれているのだと信じて、すべてをお任せすることです。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.48-49

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 16-l (不治の病というものはない)

 不治の病というものはありません。すべての病気にそれなりの治療法があります。宇宙は単純にして複雑です。深い奥行きがあるのです。法則の奥にまた法則があるのです。知識は新しい知識へ導き、その知識がさらに次の知識へと導きます。理解には際限がありません。叡智は無限です。こう申し上げるのは、いかなる質問にも簡単な答えは出せないということを知っていただきたいからです。すべては魂の本質、その構造、その進化、その宿命にかかわることだからです。
 地上の治療家からよくこういう言い分を聞かされます--- "この人が治ったのになぜあの人は治らないのですか。愛と、治してあげたいという気持がこれだけあるのに治らなくて、愛も感じない、見ず知らずの人が簡単に治ってしまうことがあるのはなぜですか" と。そうしたことはすべて法則によって支配されているのです。それを決定づける法則は魂の進化と関係しており、魂の進化は現在の地上生活によって定まるだけでなく、しばしば前生での所業がかかわっていることがあります。霊的な問題は地上的な尺度では計れません。人生のすべてを物質的な尺度で片付けようとすると誤ります。しかし残念ながら、物質の中に閉じ込められているあなた方は、とかく霊の目をもって判断することができず、そこで、一見したところ不正と不公平ばかりが目につくことになります。
 神は完全なる公正です。神の叡智は完全です。なぜなら完全なる摂理として作用しているからです。あなた方の理解力が一定の尺度に限られている以上、宇宙の全知識を極めることは不可能です。どうか "不治の病" という観念はお持ちにならないでください。そういうものは存在しません。治らないのは往々にしてその人の魂がまだそうした治療による苦しみの緩和、軽減、安堵、ないしは完治を手にする資格を身につけていないからであり、そこに宿業の法則が働いているということです。こんなことを申し上げるのは、あきらめの観念を吹聴するためではありません。たとえ目に見えなくても、何ごとにも摂理というものが働いているという原則を指摘しているのです。

  『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.50-51


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 16-m (魂に受け入れ準備ができていれば心霊治療は奏効する)

 心霊治療の本質は魂″に関わることであり、身体に関わるものではありません。魂に受け入れ準備ができていれば、治療は難なく奏効します。摂理として当然そうなるようになっているのであり、それ以外にありようがないのです。霊的治療は物的身体に宿る魂という容器に霊的生命力を注入する作業です。その生命力は肉体の中の生命の中枢へ向けて仕掛けられる霊的刺激剤であり、回復力であり、再活性力です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、p.86


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 16-n (物質の世界には霊の力をしのぐものは何一つ存在しない)

  =中央アフリカおよびインドを中心に治療活動を続けている二人の心霊治療家が招かれた。二人は商業関係の仕事を止めて本格的に治療活動に専念している。奉仕的精神から治療費をいっさい取らないのであるが、その日常生活は絶対に裏切らない神の供給源″の存在を見事に実証している。
 来る日も来る日も治療のための旅を続けていると、時には生活費が底をつき、空腹のためにベルトをさらに締めなければならなくなることもある。にもかかわらず必要なものだけは、お願いしなくても、必ず届けられる。その届けられる経路は驚異としか言いようのないほど思いがけないことがしばしばであるという。
 南アフリカから英国に立ち寄った時に永年の夢が叶ってシルバーバーチの交霊会に出席することができた。二人はシルバーバーチの霊言を生活の指針としてきている。そのシルバーバーチが二人にこう語った=


 私たちにとって霊の道具として活躍しておられる方のお役に立つことほど大きな喜びはありません。他人のために倦まず弛まず尽力しておられる方が私の述べる言葉を少しでも役に立つと思ってくだされば、私を地上へ派遣した霊団のマウスピースであることを光栄に存じます。
 われわれはお互い同じ使命にたずさわっております。病める地上世界がみずからを癒やす事業を援助し、無謀な愚行に走るのを食い止め、無数の人間の悲劇の根源となっている自己中心主義と貪欲の行為を止めさせ、霊がその本来の輝きと美質を発揮するように導くという責務を負っております。
 この道がラクでないことは今さら私から申し上げる必要はありません。バラの花に飾られた優雅な道でないことは申し上げるまでもありません。苦難は進化を促し、魂を調整するための不可欠の要素なのです。魂が其の自我に目覚めるのは苦難の中にあってこそです。人生のうわベだけを生きている人間には、魂が自己開発する機会がありません。地上的方策が尽き果て、八方塞がりの状態となったかに思える時こそ、魂が目覚めるものなのです。
 言いかえれば、物質が行き詰まった時に霊が目覚め、小さな神性のタネが芽を出し、花を咲かせ、内部の美質を徐々に発揮しはじめるのです。苦難はコインの裏側と思えばよろしい。闇なくしては光もなく、嵐なくしては青天もありません。このことはお二人はすでによく理解しておいでです。
 あなた方は豊かな恩寵に浴していらっしゃいます。奉仕活動に手を染め、すべてを天命にまかせる覚悟をされて以来、お二人は一度たりとも見落とされたり忘れられたり無視されたり、あるいはやりたいように放ったらかされたことはありません。
 この道は、他にその恩恵を知る縁のない人々に霊力と光明と癒やしをもたらせることになる、雄大な霊的冒険です。宇宙最大の力の道具として働くことは大へん光栄なことです。大霊より強大な力はこの宇宙には存在しません。その大霊がお二人に要求しているものは忠誠心であり、協調的精神であり、一途さであり、信頼心であり、そして知識が生み出す信仰心を土台とした絶対的な自信です。
 私から申し上げるまでもないことかも知れませんが、お二人は地上に生を受けるずっと以前からこの仕事を志願していらっしゃいました。またこれも改めて申し上げる必要はないと思いますが、実はそれもこれもまだまだ序の口にすぎません。地上生活は霊としての存在意識を全うするという大目的のために学び鍛える、そのトレーニングの場にほかなりません。
 挫けてはなりません。いかなる事態にあっても、不安の念をカケラほどでも心に宿すようなことがあってはなりません。今日まで支えてきた力は、これからも決して見棄てるようなことはいたしません。絶対に裏切ることはありません。もしあるとしたら、この宇宙そのものが存在しなくなります。その根源的なエネルギー、存在の支えそのものが不在となることがあることになるからです。
 お二人は霊力という最大の武具を備えていらっしゃいます。それを、ある時は支えとし、ある時は安息所とし、ある時は避難所とし、ある時は至聖所とし、そしていつも変らぬインスピレーションの泉となさることです。道を過らせるようなことは絶対にしません。縁あってあなたのもとを訪れる人に最大限の援助をしてあげられるよう導くことに専念してくれることでしょう。
 物的な必需品はかならず授かるものだということをお二人は体験によってご存知です。飢えに苦しむようなことにはなりません。渇きに苦しむようなことにもなりません。身を包み保護するだけの衣類はかならず手に入ります。ぜいたくなほどにはならないでしょう。が、進化せる霊はぜいたくへの願望は持ち合わせないものです。
 物的身体にはそれなりに最低限の必需品があります。神はその分霊の物質界での顕現の手段として創造された身体にどんなものが必要かはちゃんとご存知です。迷わずに前進なさることです。今日は今日一日のために生きるのです。そして、過去が霊の導きを証明しているように、未来も間違いなくあなたが志願された使命を全うさせてくれるものと信じることです。
 これまで通りに仕事をお続けになることです。病の人を癒やしてあげるその力が、ほかならぬ霊の力であることを理解させてあげるのです。その結果その人が魂に感動を覚えることになれば、それはあなたが霊的な勝利を収めたことになるのです。
 霊が正常で精神も正常であれば、身体も正常です。摂理として当然そうなるのです。身体は召使いで霊が主人です。身体が従臣で霊が王様です。愚かな人間は身体を主人と思い王様と勘違いしております。そういう人の霊は支配する″という本来の立場を知ることがありません。
 勇気をもって前進なさい。もしも私の申し上げることが勇気づけとなれば、その勇気づけの道具となったことを私は光栄に思います。お二人の背後には私たちの世界でもきわめて霊格の高い霊が控えています。大へんな霊力と叡智を身につけられたお方で、その悟りの深さがまた深遠です。その方との協調関係を出来うるかぎり緊密にするよう、修養を怠らないでください。
 背負った重荷も、知識から生まれた信仰があれば軽く感じられ、重さが消えてしまうものです。行く手をさえぎる苦難や困難には堂々と立ち向かい、そして克服していくべき挑戦だと思うべきです。きっと克服し、万事がうまく運ぶはずです。
 見た目にいかに大きくても、物的な事態によって圧倒されるようなことがあってはなりません。この物質の世界には、その生みの親である霊の力をしのぐものは何一つ存在しないのです。何ごともきっと克服できます。そして心が明るく弾むことでしょう。万事が落着くべきところに落着きます。時間は永遠なのです。人間はその永遠の時の流れの中にあって、今という時間、その一瞬を大切に生きていけばよいのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.86-91


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 16-o (霊的治療が効を奏した時の病気は決してぶり返さない)

 本当の霊的治療が効を奏した時はけっしてぶり返しません。法則は不変です。摂理は完全です。もとより私は霊の美質である慈悲心や哀れみの情、親切心、寛容の心を一瞬たりとも失いたくないと思っております。が、摂理は公平無私であり、自動的であり、不可変であり、神によって定められているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.91-92


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 16-p (霊力はその通路に受け入れる用意ができた時に流入する)

   =Rose Baston女史も人生半ばにして霊的治病能力を発揮しはじめた庶民的な家庭婦人である。三十年以上にわたってハンネン・スワッハー氏との付き合いがあり、その縁で、かつてスワッハー氏が住んでいたロンドンの邸宅に治療所を開設した。つい二、三年前のことで(本書の出版は1969年)、その開所式にはシルバーバーチも招かれてお祝いの言葉を述べている。久しぶりで面会したバストン女史にシルバーバーチは次のような励ましの言葉を述べた=

 あなたの治療所の開所式へお招きを受けて祝辞を述べて以来この方、あなたと霊団とのつながりが緊密の度を増しております。治療所は不幸な人々、苦しむ人々を救う目的のために存在しているのです。あなたの人生が常に霊団の導きを受けていることは私から改めて申し上げる必要はないと思います。
 あなたはこの仕事のために生まれて来られたのです。その目的地にたどり着くためにあなたは数々の困難と苦難によって鍛えられ、いばらの道を歩まされました。この仕事にふさわしい人間となるための試練と鍛練を積まねばなりませんでした。
 さて、これまでを振り返ってごらんになれば、いろいろとあった出来ごとも、みなモザイクの一部であることがお分かりになります。人生には基本的なパターンがあるのです。最初のうちはそれが見分けられませんが、次第に何もかもがそのパターンにそって落着くべきところに落着いていることが分かってきます。
 あなたも今や霊の道具として身体だけでなく、もっと大切なこととして、精神と霊とに慰安と軽減をもたらす仕事にたずさわって、地上生活の目的を成就しつつあることをこの上なく幸せなことと思うべきです。
 これまでと同じく、これからの人生も計画どおりに進展するにまかせることです。決してラクではありません。私が思うに、これまでの人生がもっとラクだったら、あなたはそれを不満に思っていたはずです。試練の末に勝ち取るほうが、何の苦労もなしに手に入れ、したがって潜在する力に気づかないままで終わるよりもいいのです。
 なのに人間は努力もしないでいて自分にない才能を欲しがり、そのために、せっかく手にしてもそれを有難く思わないのです。その点あなたは永い間ご自分の治病能力に気づかれませんでした。はじめてそのことを聞かされた時はびっくりなさいました。
 病状を診察する能力はさして大切なものではありません。診察は往々にして身体的なことだけになりがちです。が、根本的な原因は身体よりも精神と霊とにあります。早く治そうと思ってはいけません。忍耐が大切です。あなたのほうから霊力を強要しても無駄です。霊力というものはその通路に受け入れる用意ができた時にはじめて流入するのです。しかも病状に応じて調節しなければなりません。それはそれは微妙なプロセスなのです。強制的に扱おうとしても無駄です。
 万が一やる気を無くするようなことがあったら---人間なら時には意気消沈することがあるものです---その時はいったん歩みを止めることです。そしてそれまで奇跡ともいえる形で成し遂げられてきたことを振り返って、これだけのことが成就されてきたのなら、これから先もきっとうまく行くはずだという認識をもつことです。あなたに要求されることは、そこまであなたを導いてきた霊力に対する絶対的な忠誠心と自信とをもってあなたの責務を全うすること、それだけです。
 あなたなりのベストを尽くすことです。あなたの力の範囲内で出来るかぎりの努力をなさることです。恐れるものは何一つありません。困難はあります。が、それもきっと克服されます。毎朝が新しい霊的冒険の好機なのです。
 これはとても大切なことです。そういう覚悟で仕事に当たっておれば、邪魔が入ることは決してありません。容易でないことは私もよく承知しております。が、忠実な僕がたどる道がラクであることは有り得ないことです。お名前はローズ(バラ)でも、バラの花壇(※)とはまいりません。魂というものは何かの挑戦を受けてはじめて自我に目覚めるものなのです。その時、居眠りをしていた潜在的な力が表面に出て来て発揮されはじめるのです。(※ a bed of roses安楽な身分、ぜいたくな生活のこと =訳者)
 が、あなたはこれまで啓示された光に忠実に従ってこられました。ただの一度もあなたに託された信頼を裏切ることがありませんでした。私をはじめ、あなたの霊団の者はみんな、あなたのことを誇りに思っておられます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.92-95


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 16-q (霊の富はそれを手にするにふさわしくなった時に与えられる)

 霊の褒賞は奮闘努力の末に手に入るものです。宝くじのような具合に手に入れることはできません。霊の富はそれを手にするにふさわしくなった時に与えられるのです。霊的開発が進むにつれて自動的に、それまでより少しだけ多くのものを身につけていくのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、p.95


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 16-r (病気は霊的理解力をもたらすための手段の一つである)

   =心霊治療家のGordon Turner氏は病気治療だけでなく、英国心霊治療家連盟の推進者としても有名である。助手のJo Prince(女性)を伴ってはじめてシルバー・バーチを訪れた時の感動はひと通りでなかった。シルバー・バーチが二人にこう語りかけた=

 私が永いあいだ地上世界の仕事にたずさわってきて何よりもうれしいのは、霊の僕として働いている同志をここへお招きすることです。あなた方がどうしてもたどらねばならない地上生活のパターンというものがあることは私はよく承知しております。外部の世界とは無縁の心の痛み、苦難、苦痛、その他もろもろの複雑な感情があることもよく存じております。支払わねばならない代償があることも存じております。それが時には精神的ならびに霊的に十字架を背負わされることになることがあります。
 しかし、それが霊的進化の道なのです。その道での褒賞を得るには奮闘努力しかなく、近道はなく、真の向上の一歩一歩が絶対に後戻りを許されない確固たるものでなければならないのです。もしも気楽な人生を望まれるなら、もはやその人生では他人のために自分を役立てることはできません。魂が自我に目覚め、意図された通りに霊的資質を開発し、縁あってあなたのもとを訪れる人々がその天賦の才能によって恩恵を受けるようになるには、刻苦と苦難と修養と節制の生活しかないのです。
 しかし人生にはかならず両面があります。陰気で重苦しい、救い難い闇ばかりではありません。光があれば影があり、寒さがあれば温かさがあり、嵐があれば日和があります。そうでないと進歩は得られません。魂が目覚め、霊の隠れた能力と内的な美質が発揮されればされるほど、それだけ神との調和が緊密となってまいります。
 因果律による当然の結果としての報酬があるということです。それは、いかに石ころだらけで障害が大きく思えても、その道は間違いなく自分に約束された道であり必ずや成就されるという、内的な確信です。
 あなた方は自分が成就しつつあることを測定することが出来ません。地上には魂の成長と霊的成就の結果を測定する器具も装置もありません。しかし、あなた方は暗闇にいる魂に光をもたらしておられます。飢えと渇きに苦しむ魂に霊的な食べものと飲みものを用意してあげておられます。真の健康を見出す好機を用意された身体と精神と霊に神の力、すなわち生命力そのものを授けておられます。すばらしい仕事です。しかし同時に大へん責任のある仕事でもあります。霊的才能はそう簡単に人間に授けられているのではありません。神からの才能の保管者であるということは、それだけ責任が重いということでもあるのです。
 悲しいかな、あなたが関わっておられるのは人間という気まぐれな存在の集まりです。時には最も緊密な味方であるべき人が最大の敵にまわったりすることがあります。同じ目的、同じ大義によって団結すべき人たちの中にあってすら、摩擦と誤解の犠牲となることがあります。が、たとえすべての人間が同じ仕事に従事していても、たった一つの視点から眺めるということは、所詮、無理なのです。
 他人がどう言っているか、どう考えているか、どうしようとしているか、それはあなたには関係ないことです。大切なのはあなた自身が何を述べ、何を考え、何をするかです。神はあなたに他人の行為や言葉や思想にまで責任は取らせません。あなたの責任は、あなたに啓示されたものに照らして生きることです。光が大きければ、それだけ責任も大きくなります。この神の規約には免除条項というものはありません。
 病気の人があなたのもとを訪れた時、その人は霊的に重大局面を迎えていると考えてください。その人はぎりぎりの決断を迫られているのです。転換期に来ているのです。霊的存在としての本来の生き方を開始するチャンスを目の前にしているのです。病気というのは霊的理解力をもたらすための手段の一つなのです。そこでもしもあなたが身体の病気は治せても霊的自覚を促すことができなかったら、あなたの責任ではないにしても、その治療は失敗だったことになります。が、もしも魂に感動を覚えさせることができたら、もしも霊的意識に目覚めさせることに成功したら、あなたは医師にも牧師にも科学者にも哲学者にもできないことをなさったことになります。
 内部の神性のタネが芽を出す、そのきっかけを与えたことになります。神性が芽を出せば、魂が霊力の援助を得て顕現を開始し、其の自我を成就してまいります。訪れる人のすべてを救ってあげられないからといって落胆なさってはいけません。あなたのもとを訪れたということは、その人にとっての好機が訪れたということです。あなたはあなたなりにご自分を役立てることに専念なさっておればよろしい。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.96-99


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 16-s (治癒エネルギーはいつでも流入させることが出来る)

 治療家と患者とがそうした方がよいと思うのであれば、時間を定めて遠隔治療を行うことは可能です。しかし、治療能力が発達して一段と高い次元に到達すれば、それも不要となります。治療霊団との連絡がしっかりと出来あがります。そうなると、いつでも精神を統一して自我を引っこめ、代って治癒エネルギーを流入させることが出来ます。その考えに反対するわけではありませんが、たとえば十時なら十時にしか治癒エネルギーが届けられないとすると、一つの制約を設けることになるのです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.99-100


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 16-t (外科的な心霊手術が成功しても霊的には失敗の場合もある)

 =Kenneth Bannister氏はメキシコで心霊治療とスピリチュアリズムの普及活動に献身している有能なスピリチュアリストである。そのバニスター氏がブラジルとフィリッピンで盛んに行われている“心霊手術”について一連の質問をした。その問答の様子を紹介する=

 質問:心霊治療がどこまで効を奏するかは患者の霊的発達程度、カルマ、その他もろもろの要素がからんでおりますが、ブラジルとフィリッピンで行われている外科的な“手術”の場合はどうなのでしょうか。

 それもすべて自然の摂理としての因果律の規制を受けます。魂に受け入れ準備が整えばその人は治療してくれる人との縁ができるように導かれていきます。そこでもしも治るべき段階に来ていれば治療は速効的に成功します。しかし、どういう形での治療であろうと、たとえば腫瘍が取れてラクになったとしても、それだけで自動的に霊性が目覚めることになるわけではありません。霊的にその治療を受け入れる段階にまで到達したというまでのことです。それは同時に内部の神性の火花が大きな炎と燃えあがる、その点火の絶好機でもあるということです。
 ですから、心霊治療には二つの大切な要素が働いております。一つは、患者が霊的治療を受け入れる準備が整ったということ。それで治療を施す人のところへ導かれて来たわけです。もう一つは、奇跡的な治癒体験によって霊的自我が目を覚まし、霊的意識の光の中で生きるようになる、その絶好機が訪れているということです。もしも霊的自我が目を覚まさなかったら、身体的な治癒は成功しても霊的には失敗だったことになります。

   『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.100-101


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 16-u (心霊手術によって治癒が行われるのは好ましいことか)

 質問:その治癒がいわゆる心霊手術によって行われるのは好ましいことでしょうか。

 “その果によりて樹を知るべし”(マタイ)です。霊力の発現は“時”と“場所”による制約を受けます。霊媒現象の演出と霊力の顕現はすべて一つの計画に基づく協力態勢での働きかけの一環なのです。
 それは基本的にはそれが適用される民族の身体的、精神的、ならびに霊的必要性に合わせて行われます。気候、教育程度、社会環境、理解力を考慮して、最も適切な形を取らねばなりません。

   『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.101-102


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 16-v (心霊手術がイギリスで行われないのはなぜか)

 質問:心霊手術がブラジルとフィリッピンだけで行われて、イギリスで行われないのはなぜでしょうか。

 霊的風土が異なるからです。精神的環境が異なるからです。繊細な霊的影響力に反応しない精神構造には、見た目にハデにつくやり方が要求されるのです。そのことはこのイギリスでも百年ばかり前は霊的なことの理解に物理的心霊現象を必要としたのと似ています。
 今のイギリスにはもう必要ではありません。が、教育水準、文化の程度、価値基準が大きく異なる国においては今でも必要です。そこに住む人間の程度に合わさなくてはならないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.102-103


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 16-w (心霊手術が行われるのには風土・気候も関係してくるのか)

 質問:でも、イギリスにもこのタイプの手術をしてもらいたがっていながらそれが叶えられずにいる人が非常にたくさんおります。気候というのはそんなに大切な要素なのでしょうか。

 イギリスの大気よりも伝導性が高いという点において、気候が関係していると言えます。が、それが全てではありません。イギリス人には根本的に合わないという点から言えば、霊的なものも関係しております。問題はその人がどうしてもらいたいかではなく、その人にとって何が最も適切かということです。せっかく高い霊的要素を備えていながら、低俗な物的レベルのものばかり求める人が多すぎます。これは進歩、あるいは進化の道ではありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、p.103


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 16-x (霊媒の純粋性が高いほど多くの治療エネルギーが流れるのか)

 質問:霊媒の純粋性が高ければ高いほど、その霊媒を通してより多くの治癒エネルギーが流れます。このことは心霊手術についても言えることでしょうか。

 今の表現は正確でありません。純粋性が高いほど多くの治癒エネルギーが流れるわけではありません。純粋でない霊媒でも治癒エネルギーは流入します。純粋性が影響するのはそのエネルギーの“質”です。霊力は宇宙の創造主である大霊と同じく無限です。無限であるが故に無数の等級・変異・組み合わせがあります。
 個々の治療家は霊的に受け入れられる段階のものと波長が合います。それより高いものとは合いません。受け入れられないからです。ということは、本来ならばそれより低いものも求めようとしないものなのです。
 治療家が到達した発達段階、霊格によって規制されるのはエネルギーの“質”であって“量”ではありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.103-104


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 16-y (全ての治療家が手術できるようになるのが望ましいことか)

 質問: もし可能ならば全ての治療家が手術を施せるようになることは望ましいことでしょうか。

 いえ、霊の道具のすべてにたった一つの道が用意されているわけではありません。望ましいのは画一性ではなく、逆に、万能性であり多様性です。霊は無限です。したがって顕現の仕方も無限の可能性を秘めています。その決定的要素となるのは治療家の受容性です。その意味では治療家の気質、育ち、教育、遺伝、環境、さらには前世までも関わっていることになります。
 そうした要素のすべてがからみ合って、治療家を通して注がれる霊力の種類と量を規制するのです。治療家ぜんぶが同じ道を行くようにはなっていません。バイブルにもこういう言葉があります。“霊の賜物は種々あるが、霊そのものは一つである”(コリント)。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.104-105


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 16-z (心霊治療は霊と精神と身体が調和して機能することを目指す)

 質問: 心霊手術を要求されてそれが施してあげられない時はどうしてあげたらいいのでしょうか。

 心霊治療というものを身体上の結果を見せるという点からばかり考えてはなりません。心霊治療は根本的には霊(魂)に関わることです。目的は患者の魂の琴線に触れることです。その魂の受け入れる機が熟していれば、精神も正常となり身体も正常となります。本当の心霊治療は霊と精神と身体とが調和して機能するように正しい連繋関係にもっていってあげることです。それが健康であるということの本来の意味であり、健全な状態、融和した状態ということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、p.105


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 16-za (しつこく残っている利己性がなくなるまで霊的進歩は望めない)

 腫瘍を取り除くことが目的ではありません。本来の目的は魂の琴線に触れることです。その意味で霊のガン患者もいるわけです。そういう人は利己性その他の悪性の腫瘍がしつこく残っていて、それが取り除かれるまでは其の霊的進歩は望めません。地上生活で最も大切なのは霊に関わることです。霊が主導権を握るようになるまでは調和も健康も幸福も生き甲斐も得られません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、p.106


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 16-zb (学内での心霊治療を認めたイギリスの医学専門学校)

  訳者注: 本章を翻訳している最中に届いたサイキックニューズ紙(1987.6.13)の一面トップに“医学校、心霊治療に門戸を開く”という見出しがあった。イギリスのある医学専門学校が心霊治療家グループに学校内での治療活動を認めたという画期的なニュースである。参考までに大要を紹介しておく。

 意外な展開の中でミドルセックス医学専門学校が心霊治療家グループに一室を開放して治療活動を許す決定をした。
 またクリーブランドの心霊治療家グループは週一回だけロンドン西部のクリーブランド通りの一室を無料で使用してよいことになった。
 こうした展開の決定的要因となったのは一般開業医連盟と、当医学専門学校講師のコーエン博士の支持があったことである。そのコーエン博士がこう語っている。
 「私がはじめて心霊治療家グループと接触したのはそのメンバーの一人であるルース・グリーン女史を通してのことでした。私は条件として医学的治療と抵触する行為はいかなるものも行わないことを確認しました」
 博士はまた心霊治療家が魔術や空中浮揚のような手品、要するに“治す”という信念以外のものは絶対に持ち込まないことを確約させているという。
 「私が理解したかぎりでは、心霊治療家に私の学校を使用していただくのは理に適っているように思えました。心霊治療はとても大切です。分別と知性を具えた医師の一人として私は、医師は最大限の広い意味での治療を提供すべきだと考えるわけです。多くの患者が心霊治療で助かっているのですから」
 コーエン博士は心霊治療の本質を理解するために治療家グループのミーティングに出席させてもらっている。
 「そのミーティングに出席して私は非常な感動を覚えました。孤独感に沈んだ人や世の中から見捨てられた思いをしている人たちに何かしら特殊なものを提供していたからです。また身体的に不自由な人たちも確かに治していると確信します」
 博士もはじめのうちは金儲けが目的ではないかと思っていたという。ところがそこでは治療代を請求していないことが分かり、それがかえって治療を誠心誠意にさせていることを知ったという。
 「治療家グループの感性の良さと看護ぶりに深い感銘を受けました。ほんとうに人のために尽くしておられ、それで我々も負けずに人のために尽くさねばと決心したわけです。
 正直言って医学校の関係者は当初どうしたものかと迷っておりましたが、心霊治療家にひさしを貸して母星を取られることがないことを確認した上で、この私が全責任を負うということで踏み切ったわけです」
 現在までのところ毎週一回水曜日の夕方に治療が行われている。コーエン博士によれば、これまで医師の間から何ら不平不満の声は聞かされていないという。博士は言う。
 「心霊治療を勉強することは医学者にもプラスになるのです。うちの学校がこうした大らかな態度を取ったのは良かったと思っています。
 いずれ将来は治療の成果について検証がなされるかも知れません。患者を治療前と治療後に診断をすればよいわけです」
 それについてクリーブランド治療家グループのチーフであるグリーン女史は「私たちはいかなるテストにもよろこんで応じる用意があります」と述べ、さらに言う。
 「ただ私たちは過激なまでに反対している学生には抗議したい気持です。彼らの感情的態度が良からぬ雰囲気を生み、治療に悪影響を及ぼすことが考えられるからです。
 別に心霊治療を信じてくれなくてもいいのです。開かれた心をもってくださればいいのです。医学生がテストに参加してくれれば、こんな素晴らしいアイディアはありません。学生に心霊治療の実際を理解していただくチャンスになると思うのです。コーエン博士も学生が見学することを希望していらっしゃいます」
 現在のところ治療家グループは四人のレギュラーで構成されており、すべて英国心霊治療家連盟の会員で、これに時おり他の治療家が参加する程度ということである。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.106-109


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 16-zc (麻薬に走る多くの若者には霊の力を与えることが出来る)

 質問: 最近とくに若者の間で急激に増えている麻薬中毒は何が原因なのでしょうか。僕らにも力になってあげられることがあるのでしょうか。

 あります。心霊治療、すなわち霊の力を与えることができます。麻薬性のある危険な薬を常用している気の毒な人たちの霊ないし魂の改善を目標として行われるものです。霊力とは宇宙の大霊すなわち神の力であり、生命力そのものであることを理解しなければなりません。
 それはあらゆる存在の活力であり、動力であり、根源的推進力です。霊のないところに生命は存在しません。人間が動き、呼吸し、思考するのは、霊であるからこそです。心霊治療においてはその生命力が、麻薬によって身体と精神と霊との調和が乱されている患者の衰弱した活力を回復するのに使用されるのです。麻薬によって不調和状態となり、そこに、本来ならばふんだんにそして調和よく生命力が流れているはずの通路に、それを阻止する障害物ができているのです。
 もしあなたが治病能力をお持ちなら、ちょうど消耗したバッテリーに充電するようにカツを入れ、生命力が再び流入するようにその健康を阻害している障害物を取り除いてあげる、その通路となることが出来ます。それは薬害を取り除くためにさらに別の薬を使用するというやり方よりも、はるかに健全です。
 なぜ多くの若者が麻薬に走るかということですが、その答えは簡単です。彼らは希望を失っているのです。欲求不満があるのです。悲観的になり、自分の力では何の希望も見出せずにいるのです。実在との接触が欠けているのです。霊的な道を見失い、といって物質万能主義に何一つ心の支えになるものを見出せないのです。そこで彼らは刺激を求めて麻薬に手を出すのですが、これは本来の道ではありません。さきほども言いましたように、大自然は一歩一歩の進化によって営まれているのであって、急激な変革ではだめなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.124-126

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 16-zd (苦しみの中で霊性が目を覚まし治病能力が開発される)

 無限なる叡智と愛を具えた大霊は、医学によって“不治”の宣告を受けた人たちにもう一度チャンスを用意してくださっております。
 大切なのは魂の琴線に触れることです。そのとき霊の力が、それまで有るか無いかの状態で明滅していた神性の火花を美しい大きな炎と燃え上がらせ、潜在する霊的エネルギーを活気づけ、それが身体の病いを治し、精神に教訓を学ばせ、霊的本性を開発させるのです。それが首尾よく行われた時は、治療家はその貢献の栄誉をさずかったことを大霊に感謝すべきです。
 もしも身体は治っても魂を目覚めさせるまでに至らなかった時は、それは残念この上ないことです。その患者は霊的真理に目覚めるチャンスを目の前にしながら、それを手にすることができなかったことを意味するからです。いずれにせよ治療家は精一杯の努力をして、霊力が存分に流入し神の意志が届けられるようにすることです。
 すべての魂が受け入れる用意ができているとはかぎりません。それは有りえないことです。治療家のもとを訪れる患者のすべてが治せるわけではありません。が、もしも絶望視されていた患者に何らかの改善が見られたら、それは、いやしくも思考力と理性とを具えた人間にとって、物質よりはるかに勝る力が働いたことを示す明確な証拠というべきです。
 起源においても本質においても霊的であるその治癒力は、今日の地上界へ流入している大切なエネルギーの一つです。地上界は今とても病んでおります。あまりに多くの人が調和の乱れた生活環境が生み出すストレスと不自然さによって病気になっております。みずから“文明”と呼んで誇っているものが実は、本来ならエネルギーを供給してくれる大自然から人間を絶縁させているのです。
 そのために人間のバッテリーである魂が枯渇しており、それを霊の力によって再充電してあげなくてはならないわけです。それが効を奏してバッテリーが働きはじめると、身体と精神と霊との間に調和がもどります。それが健康です。神はその無限の叡智によって、人体の骨格およびその関連器官を、霊の自然治癒力が働くようにこしらえてあるのです。
 その身体と精神と霊という三位一体の関係が乱れた時に病気になるのです。健康とは全体の調和状態のことです。
 では治療家がその治癒エネルギーの通路となると、どういうことが起きるのか。生命力、すなわち霊の力が治療家を通って患者に流入し、その魂と接触をとり、さきほど述べたバッテリーを補給し、原因はともあれ、乱れてしまった調和を取り戻させるのです。
 心霊治療の肝要な点は、治療家自身が苦痛を体験していて、訪れる人々に対する思いやりの心が培われていることです。それが摂理の働く唯一の道なのです。ここにお集まりの方のどなたよりも永い人生を生きてきた私は、今なお、全存在を包摂する宇宙的摂理を考案した大霊の無限の叡智に感嘆させられることばかりなのです。
 平穏の有難さが分かるのは嵐の中においてこそです。晴天の気持よさが分かるのは雨の日があるからです。このようにすべてが両極の原理で成り立っているのです。もしも全体が光ばかりだったら、光の有難さは分かりません。そうした違いが分かり自然の摂理のすばらしさが分かるのは、そのコントラスト、比較対照の原理のお陰です。
 そこで苦しみがあるのです。苦しみの中において霊性が目を覚まし、その結果として治病能力が開発され、自分のもとを訪れる人の苦しみも分かるのです。
 このサークルへご招待する“霊の道具”(心霊治療家)のすべての方に申し上げていることは、明日のことを思い煩ってはいけないということです。治すべき患者はちゃんと導かれてまいります。自分から出歩いて“私は治療家です。どなたか治してほしい方はいませんか”などと触れて回る必要はありません。霊界からの働きかけはそういう方法は取りません。
 治療してあげて、取りあえず身体上の痛みや症状が消えれば、それはそれなりに結構なことです。が、それよりさらに一歩踏み込んで、そうした変化が何を意味しているかを患者が理解してくれれば、なお結構なことです。
 その段階から患者の霊性が目を覚まし、其の自我を知り、地上に生まれてきた目的を成就しはじめることになります。そこが大切な点です。症状が取れれば、それはそれなりに結構です。が、霊的実在に目覚めることになれば、なおいっそう結構なことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 62-65

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 16-ze (治る患者と治らない患者とがあるのはなぜか)

 ― 治る患者と治らない患者とがあるのはなぜでしょうか。

 霊的に治る段階まできている人とそうでない人とがいるからです。しかし、治りさえすればよいのではありません。心霊治療の試金石は魂を目覚めさせるか否かです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 65

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 16-zf (魂というものはいつかは必ず目覚める可能性をもっている)

 ― 明らかに摂理に背いているために病気になっているケースがあります。一応治療は施してあげるのですが、あい変わらず心掛けが間違っているためにぶり返して、また治療を受けにやってまいります。お聞きしたいのは、そうやって何度も治療をくり返すというのも計画の中に組み込まれているのでしょうか。

 私たちが取るべき態度として一ばん大切なことは、訪れる患者がどんな人であろうと分け隔てなく援助の手を差しのべることです。それからあとのことは、その患者自身の責任に帰すべきことです。身体上の病いだけが良くなった場合は、心霊治療としては失敗だったことになります。本当は魂が目を覚まして活動を開始するようにならないといけません。
 つまり治療を受けた結果その患者がそれまでの生活を反省して本来の生き方を学ぶところまで行かなければ、その治療は失敗と見なさねばなりません。治療家を通じて働いている力は身体上の症状を癒やすだけでなく精神も癒やして、人生とはいったい何なのかを理解させることを目的としていることを得心なさるべきです。時間が掛かるのです。

 ― ということは、同じことを必要なかぎり何度でも繰り返すべきだということでしょうか。

 治療家は患者を断わるような態度を取ってはなりません。患者は治療を求めてやって来ます。そのとき治療家は、その患者について勝手な判断を下してはなりません。治療家の仕事は治療を施すことです。それによって患者の魂が目を覚ませば、そこから啓発が始まります。たとえ霊的に何の反応も生じなくても、少なくとも身体だけは、短期間とはいえ、前よりは良くしてあげたわけです。
 いかなる患者に対しても、できるだけのことをしてあげ、決して断わってはいけません。治療家はいつでも患者を迎えてあげる用意ができていないといけません。仮に治療のあと間違った生活をして、さらに厄介なことになっても、それはその患者自身の責任です。
 魂というものはいつかは必ず目覚める可能性をもっております。なぜならば魂とは大霊の一部であり、各自の内部に宿る神性だからです。それは無限なるものですから無限に発達する可能性を秘めております。それが基本の論理です。
 “治る段階”とは何かと問われれば、それは金塊が精練の過程をへて不純物が取り除かれたあとに見せる純金の姿と同じだと申し上げます。
 もしも人生が一本調子のものだったら、もしも光だけで闇がなかったら、もしも楽しいことばかりで苦しいことがなかったら、食べるものに事欠かず空腹というものを知らなかったら、その光も、楽しいことも、食べられることの有難さも分からないはずです。人生の目的と可能性についての理解をもたらしてくれるのは、その両極性です。愛と憎しみは正反対であると同時に相等しいものです。愛を憎しみに変えることができるように、憎しみを愛に変えることもできます。鋼が溶鉱炉から取り出されて鍛えられるように、金塊が製錬されてはじめて純金となるように、ダイヤモンドが磨かれてはじめて輝きを見せるように、魂も辛酸をなめてはじめて其の自我に目覚めるのです。それ以外に、地上で魂が目覚めそして活動を開始するための手段はありません。
 苦痛や困難は不幸なことのように思われがちですが、本当はそうではありません。各自の霊的進化にとってそれなりの役割があるのです。
 あなたのなすべきことは、あなたのもとに導かれてくる人にあなたなりの援助をしてあげることです。もしその人が“大人の霊”であれば、死後の生命の実在についての証拠を提供することによって、愛が生命と同じく不滅であることを教えて慰めておあげなさい。
 もしも病弱の人であれば、心霊治療とは物的なはかりでは測れない力が働いていることを実演してみせるものであることを教えておあげなさい。
 あなたに望めるのはそのための触媒を提供するかけ橋となることです。もしうまく効を奏すればその人が自我を見出す手助けをしてあげたことになります。それによってあなたは心に大いなる喜びを感じられるはずです。たとえ失敗しても、それはあなたが悪いのではありません。その人は絶好のチャンスを目の前にしながら、まだそれを生かす用意ができていなかったことを意味するのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 65-68

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 16-zg [50-l] (前世から持ち越したカルマによって病気になる人もいる)

 ― 特殊な理由から治してほしいと思わない、だから治らない(と私は考えるのですが)、そういう人は別として、カルマというのはどのように働くのでしょうか。治りたい一心で治療を受けていながら一向に良くならない人がいます。これはカルマのせいでしょうか、それとも治療家の力不足でしょうか。

 これは難しい問題です。なぜかと言いますと、治療行為が行われている時にその背後でどのようなことがなされているかは、ひと口では説明できないからです。
 ご承知の通り心霊治療の本来の目的は魂の琴線に触れることです。あなたはさきの質問で心掛けに問題のある患者のことを持ち出されました。いわゆる“心身症”です。身体上の病いも大半は内部の不調和が外部に現われているにすぎないものです。
 今の地上には過度の緊張やストレス、欲求不満から生じている病気や異常が増えております。純粋に身体に起因している病気はほとんどありません。
 霊的治療においては造化の根源から発している霊的なエネルギーを使用します。そのエネルギーの質、量、種類は、それが通過する治療家の霊的発達の程度によって決まります。次にその病気の原因となっている根本的な事情(カルマその他)によって支配されます。さらにはその時点における治療家と患者双方の精神的ならびに身体的状態によっても影響を受けます。
 治療が成功したと言えるのは、患者が霊的な受け入れ準備ができていて魂が感動を覚えた時のみです。その時はじめて霊的覚醒がもたらされるのです。それ以外は単なる身体上の反応にすぎません。それが一時的な場合もあれば、それきり全治してしまうこともありますが、肝心なのは患者の霊性への影響です。
 地上生活のそもそもの目的は人類および動物その他、ありとあらゆる生命体に宿る霊的要素が、ほんの火花にすぎなかった状態からゆらめく炎となり、ついには美事な火焔となるための条件を提供することです。そこで魂が真の自我を見出し、人生が提供する物的な側面だけでなく、さらに大切な霊的側面をも味わうようになります。
 さてあなたはカルマの問題を出されました。因果律、タネ蒔きと刈り取りの原理のことで、あらゆる生活の場でいっときの休みもなく働いております。患者の中には前世から持ち越したカルマ的状態によって病いを得ている人がいます。その因果関係が完全に解消されていない場合は、治療が表向きは失敗したような結果となります。もしも完全に解消されていてそれ以上カルマが出なくなっていれば、治療が効を奏するわけです。それが“魂に受け入れの用意ができている”ということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 69-70

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 16-zh[50-m] (霊能者にも体調不良があったりするのをどう考えるか)

 ― あなたはよく“心が正常であれば身体も正常です”とおっしゃっていますが、霊能者も大ていどこか調子が悪かったり異常をかかえていたりするようです。霊能者であるからにはその心はきっと“正常”であろうと思うのです。もしもこの世での苦がカルマのせいであるとすれば、それとこれとはどう結びつけたらよいのでしょうか。

 霊能者といえども自然の摂理から逃れることはできません。摂理はすべての存在を包摂し、そこには例外も逸脱もありません。病気が生じるのは二つの理由があります。
 一つは霊と精神(心)と身体の調和によって健康が維持されている、その調和が崩れていることです。もう一つの可能性はいわゆるカルマです。地上でしか償えない前世での出来事があって、それがまだ解消されていないということです。
 理想的な世の中であれば霊能者も理想的な人物なのでしょうが、あなたが住んでおられるのは理想的な世の中ではありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 71


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 16-zi (赤ん坊や動物への心霊治療でも魂の琴線に触れる必要がある)

 ― 心霊治療の目的は患者の魂の琴線に触れることで、霊と精神とが正常であれば効を奏するとおっしゃっていますが、赤ん坊や動物の場合はどうなるのでしょうか。

 やはり同じです。調和を取り戻すには霊が正常であらねばなりません。赤ん坊の場合でも魂の琴線に触れる必要がありますし、動物の場合でも同じです。私には別に問題は見当たりません。
 私がさきほど申し上げたのは、永いあいだ患った末に霊的な治療を求めてくる人々についての一般的な話です。心霊治療というのは複雑な問題です。その最も純粋な形においては霊から霊を通じて霊へ向けて行われます。つまり大霊から出たものが治療家の霊を通して患者の霊へ届けられるものです。
 さて、これが赤ん坊や動物の病気となりますと、そこに絡んでくる要素が違います。正すべき要素は大てい霊的状態だけです。それも霊的方法で行うしかありません。直接身体的に行うわけにはいきません(※)。健康を取り戻す唯一の手段である霊と精神と身体の調和を妨げている障害物を取り除くために、魂そのものに充電してやらねばなりません。赤ん坊の場合はカルマの要素が絡んでいることがよくあります。が、この問題はここでは深入りしないでおきます。

 (※これはすぐ前のところで“永いあいだ患った末に霊的治療を求めてくる人についての一般的な話です”と述べているものと関連したことで、大人の場合はそうした苦しい体験があるので症状が取れるという身体上のことだけでも魂が感動を覚えるが、赤ん坊や動物の場合はそれが期待できないという意味。なおこの問題は再生の問題と深く関わっているので、詳しくは第四巻三章を参照されたい― 訳者)

『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 71-73

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 16-zj (純粋の霊的治療は大霊から発する霊力の伝導による)

 ― 内在する神性を呼び覚ますことによって治癒されると理解しておりますが、今あなたは霊的治療は霊から霊を通して霊へ向けられ、それによって魂が充電されるとおっしゃいました。それが大霊から届けられるとなると、それは外部からの影響であるように思えるのですが゙・・・・・・

 治療家自身に具わっているものを使用するのであれば、それは本来の霊的治療ではありません。それは磁気療法(マグネチックヒーリング)とでも言うべき範疇に属します。純粋の霊的治療は大霊から発する霊力の伝導によって行われます。大霊が始源です。発電所です。水源池です。貯蔵庫です。それをスピリチュアル・ヒーリングというのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 73

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 16-zk (セルフヒーリングには精神統一と受容性が必要である)

 ― 私たちはみな大霊の一部であり神性を宿しているのですね?

 そうです。皆さんもミニチュアの大霊です。それは間違いない事実です。が、皆さんの内部に宿る潜在力は、大霊から届けられる無限の霊力にくらべれば、ごくごく小さなものです。自分で自分を治癒するセルフヒーリングには精神統一と受容性、つまり内在する力を働かせると同時に大霊から送られてくる力を受け入れるという、内と外とのコンビネーションが必要です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 73-74

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 16-zl (セルフヒーリングを広めるための開発促進は必要か)

 ― セルフヒーリングが広まれば治療家のお世話にならなくて済むので、これを開発促進すべきでしょうか。

 これは簡単にはお答えしにくい質問です。霊的覚醒に関わることだからです。治療家としてのあなたの機能は、治癒エネルギーの通路となることです。患者が霊的に治る段階に来ておれば効を奏します。魂が感動し覚醒することによって治ることもあります。身体上の症状が取れただけではまだ目標は達成されていません。目標は霊的覚醒にあるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 74

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 16-zm (うつ病患者に心霊治療家がしてあげられること)

 ― うつ病患者が多いのですが、私たちにはどういうことがしてあげられるでしょうか。

 人生の視野を変え、知識を基盤とした信念をもつように指導してあげないといけません。何の根拠もない信念は砂上の楼閣のように、あっさりと崩れてしまいます。知識の上に築いてこそ永続きするのです。
 その点、皆さんは霊力の証しをご覧になっておられる光栄な方たちです。無限なる力によって案出された崇高な知的計画があることを実感をもってご存知です。その計画はあなた方一人一人を包摂しております。そうした知識をお持ちである以上、常に前途に希望を抱き、楽観して、憂うつや恐れという暗闇を近づかせないようにすべきです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 76

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 16-zn (霊体への心霊治療は実際にありうることか)

 ―では最後に、霊体への心霊治療についてお伺いします。医学では物的身体しか治しませんが、最近エーテル体(※)の治療を熱心に行っているところがあります。それは可能なこと、実際にありうることでしょうか。

 (※霊的身体にも幾つかあるが、セオソフィーなどではその一つをエーテル体と呼んでいる。一方、英米の心霊家には肉体以外の身体を総合してエーテル体と呼んでいる人が多い。が、ここでは“複体”という肉体と幽体との接着剤にあたる半物質体のことを言っている。チャプマン氏の“霊体手術”も実際にはこの複体を手術している)


 本当の霊的治療の仕組みはいたって単純です。人間は肉体をたずさえた霊であり、霊をたずさえた肉体ではありません。その肉体が健康を損ねる、つまり病的状態となって、その結果苦痛を覚えるようになったら、それは健康を保たせている調和あるいは円満性が崩れているという単純な事実の表われです。また人間には霊と肉体だけでなく精神もあります。霊が自我を表現し肉体を機能させるための機関です。(別のところでは“コントロールルーム”のようなものと言っている)
 さて霊的治療においては大始源から発せられる霊的エネルギーが霊的な治癒能力をもつ治療家に送られ、それが治療家を通してこんどは患者の霊へ向けて放射されます。その仕組みは“霊から霊を通して霊へ”というふうに、いたって単純に表現することができます。すべての操作が霊的なものなのです。
 霊は生命力ですから、不調和状態― 調和を阻害している何か、障害となっている何かがあって精神と霊と肉体という三つの側面が有効に機能していない状態 ―を改善して調和状態を取り戻させようとします。それが効を奏すると、一体性つまり健康が患者に戻ります。
 それをエーテル体(複体)を通して行うか整体を通して行うか幽体を通して行うかは、単なる技術上の問題にすぎません。肝心なことは霊力が患者の霊を再充電して、本来の能力を取り戻させ調和を回復させることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 213-214

     *****


 16-zo (病気で訪れてくる人の魂を目覚めさせることが治療家の仕事)

 治療家が苦痛を取り除いてあげることが許されるのは、それが霊的自我の目覚めへつながるからこそです。病気を治してあげることが立派な仕事であることは違いないのですが、治療家にはそれよりもっと大切な仕事があります。その病気が縁で訪れてくる人の魂を目覚めさせ、其の自我を発見させてあげることです。それに比べれば、症状がとれるというだけの治療は大して重要ではありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.183

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 16-zp (魂が感動を覚えないうちは霊力は働かない)

 魂が感動を覚えないうちは、霊力は働きません。ですから、たとえば病気そのものは治っても、その体験によって魂が何らかの感動を覚えるまでに至らなかったら、その治療は本来の目的を成就できなかったことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.186

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 16-zq (患者の魂が目覚めて真実の自分を発見することが大切)

 患者に手を当てがうということは、言ってみればオモチャで遊ぶ程度のことです。大切なのは患者の魂が目を覚まして真実の自分を発見することです。私にはこれ以上にうまい表現が思いつきません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.193

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 16-zr (心霊治療は神性の火花を大きく燃え上がらせる仕事)

 霊とは内部の神性の火花です。心霊治療はその火花を大きな炎と燃え上がらせる仕事です。それが心霊治療の本来の目的です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.193

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 16-zs (治療を通して霊的真理に目覚めさせるのが心霊治療家)

 治療家としてこの世に生をうけたのは、その仕事を通じて神の計画の遂行に参加し、自分が何であるかも自覚せず、何のために地上に生まれてきたのかも知らず、従って何を為すべきかも知らずに迷っている神の子等に永遠の真理、不変の実在を教えてあげるためです。これは何にも勝る偉大な仕事です。たった一人でもよろしい。治療を通して霊的真理に目覚めさせることができたら、あなたの地上生活は無駄でなかったことになります。一人でいいのです。それであなたの存在意義があったことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.207

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 16-zt (不治の病が心霊治療で治れば霊的法則が働いた証)

 あなたがた人間は物的身体を通して自我を表現している霊魂です。霊魂に霊的法則があるように、身体には生理的法則があります。その法則の働きによって身体に何らかの影響が表れたとすれば、それも原因と結果の法則が働いたことを意味します。私たちは霊力によって手助けすることはできても、その法則の働きによる結果に対しては干渉できません。要するに奇跡は起こせないということです。大自然の因果律は変えられないということです。神は摂理として、その霊力によって創造した宇宙で一瞬の休みもなく働いております。すべてを包摂しており、木の葉一枚落ちるのにも摂理の働きがあります。ありとあらゆる治療法を試みてなお治らなかった患者が、もし心霊治療によって見事に治ったとしたら、それは奇跡ではなく霊的法則が働いた証と考えるべきです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.208-209

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 16-zu [18-zzf] (魂が目覚めるまではしばしば悲しみや病気が伴う)

 心霊治療家になしうることは、病気の期間を縮めるか、治してしまうか、あるいは、もっと大切なこととして、真理に目覚める用意のできた魂に感動的な体験を与えることです。悪事とか懲罰の問題を超えたものがそこにあります。魂そのものの成長に関わる問題です。魂が目覚めるまでは往々にして悲しみや病気がお伴をすることになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 211

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 16-zv[63-za] (霊的なものは物的な尺度では判断できない)

 期間の問題ではなく霊≠サのものに係わる問題です。霊は、何日も何週間もかかって体験するものをわずか二、三秒で体験することができます。霊的なものを物的な尺度で判断することはできません。霊的なものは霊的に判断しなければなりません。霊的なことが原因で発生した現象を地上的な期間を尺度として価値判断することはできません。さらに、理屈はどうであれ、治療家が痛みを軽減したり、らくにしてあげたり、治してしまうことができるという現実は、そこに何らかの法則が働いていることの証拠であり、同時にそれは、その患者の魂がその救いを得る段階まで来ていたことを意味します。偶然とかまぐれとかで起きているのではありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 212

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 16-zw (治療で治せず患者が死んだ場合をどう考えるか)

 それが果たして痛ましいことなのでしょうか。このわたしも死んでいる″のですよ。少しも痛ましくはありません。あなたは物的な面ばかりを考えていらっしゃいます。地上というところは実にこっけいな世界です。生命にとって最も重大な体験である死″をみんな怖がります。牢から解き放されることを怖がります。自由の身となることを怖がります。小鳥はカゴから出るのを怖がるでしょうか。なぜ人間はその肉体というカゴから出るのを怖がるのでしょうか。

   『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
    コスモ・テン・パブリケーション、1989、p.159








 17. 病気と健康


  17-a (自然界の法則と人間の健康)

 自然界の法則はいわば神の定めた法律です。およそ人間界の法律といわれるものには変化(改正)がつきものです。不完全であり、全てを尽くすことができないからですが、神の法律は全てを尽くし、至らざるところはありません。偶然とか偶発というものは絶対にあり得ません。すべてが規制され、すべてが計算されているのです。
 あなたがたは肉体を具えていますが、これは一種の機械です。つまり肉体という機械をあやつりながら自己を表現しているわけです。かりに悩みを抱いたとしますと、それは水門を閉ざすのと同じで、生気の通るチャンネルを失うことになります。つまりエネルギーの供給がカットされ、不健康の要因ができあがります。あなたがたがそのことに気づくまで、肉体は悩みと病気の悪循環を繰り返します。
 また悩みは肉体の霊的大気ともいえるオーラにも悪影響を及ぽし、それが心霊的バイブレーションを乱します。悩みを取り除かないかぎり、心霊的エネルギーは流れを阻害され病気の要因となります。悩みや恐怖心を超越するーー言いかえると自我のコントロールが出来るようになるには、長い年月と厳しい修養がいります。
 それも実は神の無限の愛と叡智から出た法則なのです。その悩みに費されるエネルギーを建設的な思考に切りかえれば、決して病いは生じません。神の法則は完璧です。そして、あなたがたはその中の無くてはならない存在なのです。向上進化という至上目的のために必要な勉強のチャンスは、日常生活の中にいくらでも見出せるのです。
 私が法則を変えるわけにはいきません。原因と結果の法則は絶対であり、私がその間に入ってどうこうするということは許されないのです。ただ、そういう法則の存在を教え、そんな心構えでいては病気になりますョ という警告をしてあげることは出来ます。肉体は機械ですから、それなりの手入れが必要です。手入れを怠ると働きが悪くなります。ですから時には休息させて回復のチャンスを与え、その本来の働きを取り戻すように配慮してやらなくてはいけません。神の法則はごまかしがきかないのです。
 人間は肉体という機械を通して自分を表現しています。その機械にもエネルギーの限界があり、バッテリーに充電してやらなくてはならない時期が来ます。それを知ってそれなりの手段を講じるのほあなた自身の責任であり義務なのです。なぜなら地上生活を生きる上で欠かすことのできない大切な道具だからです。
 私がいかにあなた方のしあわせを願っているとはいえ、あなた方に代ってその責任と義務を遂行してあげるわけにはいかないのです。心に思うこと、口に出す言葉、そして実際の行動、このいずれにも責任をとらされます。あくまで自分が責任を負うのです。が、そのいずれも地上生活においては結局肉体という機械を通じて表現するわけですから、その機械が正常に働いてくれるように、ふだんから健康管理に気を配らなくてはいけません。肉体ほ実に驚嘆に値するすばらしい器官です。地上でこれ以上の入り組んだ器官をこしらえることはまずできないでしょう。正に驚異といってよいものですが、やはりそれなりの手入れは必要なのです。
 もちろん法則と調和した生活を送っておれば病気も不快も苦痛も生じないでしょう。病気とか不快とか苦痛とかは自然法則との不調和の信号にほかならないからです。法を犯してその代償を払うか、法を守って健康を維持するか、そのいずれかになるわけです。

  近藤千雄訳編『古代霊は語る』潮文社、1986、pp.58-60


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17-b (魂が健全であれば身体も健全である)

 苦しみには苦しみの意味があり、悲しみには悲しみの意味があります。暗闇があるからこそ光の存在があるのと同じです。その苦しみや悲しみを体験することによって真の自我が目覚めるのです。その時こそ神の意図された素晴らしい霊的冒険の始まりでもあるのです。魂の奥に宿れる叡智と美と尊厳と崇高さと無限の宝を引き出すための果てしない旅への出発なのです。地上生活はその人生の旅の一つの宿場としての意味があるのです。ところが現実はどうでしょうか。唯物主義がはびこり、利己主義が支配し、どん欲がわがもの顔に横行し、他人への思いやりや協調心や向上心は見当りません。
 医学の世界もご多分にもれません。人間が自分たちの健康のために他の生命を犠牲にするということは、神の計画の中に組み込まれていません。すべての病気にはそれなりの自然な治療法がちゃんと用意されております。それを求めようとせずに、いたずらに動物実験によって治療法を探っても、決して健康も幸福も見出せません。
 真の健康とは精神と肉体と霊とが三位一体となって調和よく働いている状態のことです。それを、かよわい動物を苦しめたり、その体内から或る種の物質を抽出することによって獲得しようとするのは間違いです。神はそのような計画はされておりません。神は、人間が宇宙の自然法則と調和して生きていくことによって健康が保たれるよう意図されているのです。もしも人間が本当に自然に生きることが出来れば、みんな老衰による死を遂げ、病気で死ぬようなことはありません。
 肉体に何らかの異常が生じるということは、まだ精神も霊も本来の姿になっていないということです。もし霊が健全で精神も健全であれば、肉体も健全であるはずです。精神と霊に生じたことがみな肉体に反映するのです。それを医学では心身相関医学などと呼ぶのだそうですが、名称などどうでもよろしい。大切なのは永遠の真理です。魂が健全であれば、身体も健全であり、魂が病めば身体も病みます。心霊治療は肉体そのものでなく病める魂を癒すことが最大の目的なのです。

  近藤千雄訳編『古代霊は語る』潮文社、
    1986、pp.215-21

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   17-c (病気はすべて治せる)

 病気はすべて治せます。さらに言えば、正しい生き方をしておれば病気にはなりません。病気とは根源からいえば不調和、不協和音、つまり神の摂理に適った生活をしていないことから生じています。が、人類にはさまざまなタイプがあることを考えれば、病気にもさまざまなタイプがあるわけであり、それがさらに細かく変化していきつつあります。したがって治療に使う霊力もそれぞれのタイプに合わせていく必要があります。あらゆるタイプの病気に効くたった一つのバイブレーションというものはありません。治療が成功するか否かは、それぞれの病気に合ったパイブレーションの霊力を見出せるか否かに掛かっております。

     『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, p.191

     *****


  17-d (霊界からガンは治せるか)

 あらゆる種類のガンが治せるという意味での特殊な治療法はありません。全部が同じ原因から発生しているのではないからです。身体的なものに由来するものもあれば精神的なものもあり、また霊的なものもあります。その全てを同じ方法で治すことはできません。私たち霊界の者が地上の問題にかかわるにはそれなりの制約があることを理解して下さい。人間から頼まれて " ああ、その問題ですか。じゃあ、こうしなさい" といった調子で受け合うわけには参りません。地上の人間は地上の人間なりの努力をして解決していかねばなりません。ただし人生観が誤っていたり、動物に苦痛を与える実験をしたり、要するに援助を受けるべき資格のない状態でいくら努力をしても、治療法は見つかりません。
 霊界からの援助は二重に行われます。真摯で献身的な治療家が正しい霊的法則に則って治療に当っている時、霊界からそのチャンスをうかがっているその道の専門家が自動的に引き寄せられます。次にその患者に受け入れる用意が出来ている時、霊的治癒エネルギーがふんだんに注ぎ込まれます。霊界からの治療は全てこの霊力によってなされます。決して魔法の杖を使うわけではありません。霊力は患者の魂によって引き寄せられます。ですから、その魂が霊力を受け入れないかぎり反応は生じません。魂が窓を開けてくれないかぎり、霊力と魂とを繋ぐものがないのです。閉め切った魂とは接触は得られません。この他にも幾つかの要素があります。ガンの直接の(物的)原因にもよりますし、この度の地上への誕生の目的にかかわる問題もありますし、誕生以前に地上人類以外のなんらかの身体での生活の体験があるかどうかもかかわってきます。 決して単純な問題ではないのです。

     『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.171-173

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  17-e (幼児が不治の病に苦しむことがあるのはなぜか)

 本来霊的な問題を物的尺度で解決することはできません。地上生活という極めて短い期間の体験でもって永遠を判断することはできません。神の公正は無限の摂理によって支配されており、その全てを小さいひとかけらだけでもって理解することはできません。小さなものが自分より大きいものを理解できるでしょうか。一滴の水が大海を語れるでしょうか。部分が全体を理解できるでしょうか。
 宇宙はただただ感嘆するばかりの見事な法則によって支配されております。完璧な叡智によって創造されているからです。法則が狂うということは絶対にありません。時に不公平のように思えることがあるのは全体の一部だけを見ているからです。全体が見えるようになれば考えが変ります。地上にいるかぎり、その短い期間で無限を理解することはできません。
 埋め合わせ、あるいは応報の原理は人間には理解できません。霊の世界の豊かさ、美しさ、見事さは、それを譬えるべきものが地上に無いのですから、人間には理解する手掛かりがないわけです。宿命的に判断力が制限され、視野が狭められている人間にどうして地上の裏側の世界が理解できましょう。
 子供の身体は両親の血と肉とでこしらえられる以上、両親の肉体的要素が全部その子に受け継がれていくに決まっています。ですから、子供は両親の身体的欠陥まで頂戴することになります。
 しかし、子供は誕生という行為によって宇宙の大霊の一部となるのです。神の遺産、あらゆる物的障害に負けない潜在的神性を宿しております。物質は霊を凌ぐことはできません。物質はあくまでも従者です。霊が主人です。霊的成長はゆっくりとして着実な道程です。霊的感覚と理解力は魂にその用意が出来た時に初めて得られるものです。私たちの説く真理が馬の耳に念仏である人もいます。が、それになんらかの感動を覚えた時、その人はその後に待ち受ける数々の真理を理解していく用意が出来たことを意味します。あたかも神の立場に立って判決を下すようなことをしてはいけません。

        『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp.181-182


     *****


 17-f (病気とカルマ的負債)  =心霊治療家に対して=

 病気というのはその大半は主として精神と肉体と魂との間の連絡が正しく行われていないことに起因しています。正しく行われていれば、つまり完全な一体関係にあれば完全な健康と安定性と落着きと機敏性を具えています。もっとも、そういう人物は地上では滅多にお目にかかれません。
 さて、あなたのもとを訪れる患者はその人なりの霊的成長段階にあります。人生という梯子の一つの段の上に立っているわけです。それがどの段であるかが、その人に注がれる治癒力の分量を決します。それが私のいうカルマ的負債です。
 (その負債があまりに大きくて)あなたにも手の施しようのない人がいます。肉体を犠牲にする、つまり死ぬこと以外に返済の方法がない人もいます。もう一度チャンスが与えられる人もいます。そんな人があなたとの縁で完治するということになる場合もあります。精神的要素のために治らない人もいます。そんな場合は一時的に快方に向かっても、また別の症状となってぶり返すでしょう。

   『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1985、pp.193-194


     *****


 17-g (病気の治療とカルマ)

  「カルマ的負債の方がその人に注がれる治癒力よりも大きい場合がある」
 おっしゃるとおりです。私はぜひその点を強調したいのです。それが当人に賦課された税金であり、自分で綴っている物語であり、その筋書きは他の何ものによっても書き変えることはできないということです。初めに私は全ては法則のワクの中に存在すると申し上げました。何事もそれを前提として働きます。人間のいう奇跡は生じません。自然法則の停止も変更も廃止もありません。全てが原因と結果から成り立っております。そこに自由への制約があります。もしも因果関係がキャンセルできるとしたら、神の公正が崩れます。治療家にできることは魂を開放し、精神に自由を与えてあげることです。その結果が自然に身体に現れます。

    『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1985、pp.194-195

     *****


 17-h (病気は自分で治せるか)

 治せるだけでなく、げんに治しております。魂の優位を主張し、肉体という下等なものによって束縛され抑えられることを拒否することによって病気を追い払うのです。身体を従者にするのです。主人にしてはなりません。誰にでも出来ることです。ですが、大部分の人間は頭から出来ないものと思い込んでいます。だから出来ないのです。
 肉体は精神の従僕です。精神は肉体に隷属しているのではありません。肉体は束の間の存在であり精神は永遠の存在です。肉体はいずれ朽ち果てます。精神が宿っている間だけ現在の形体を維持している一時的な存在です。それがその人ではありません。その人の表現体であり、道具であり、地上で認識してもらうための手段です。その肉体が精神によって歩きまわることを教わり、筋肉を動かすことを教わり、血液を循環させることを教わり、心臓を鼓動させることを教わり、内臓のすべての機能を働かせることを教わったごとくに、こんどはその(リズムを狂わせている)機能に本来のリズムを取り戻させることによって病気や疾患や異常を無くしてしまうことができるはずなのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986、pp.122-123

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 17-i (治病能力のある人間になぜ心霊治療家が必要か)

 神の摂理を知らない人が多すぎるからです。みんなそんな摂理なんかあるわけがないと思い込み、健康を回復する法則を実践できる段階まで意識を高めることができないと決めてかかっているからです。神の摂理に従って生きれば病気も異常も生じません。肉体に異常が生じるのは摂理に反した生き方をしているからです。(霊と精神と肉体の)調和が乱れると病気になり、自分自身の努力、または霊界からの治癒エネルギーによって調和を取り戻すまでその状態が続きます。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.125

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 17-j (心配はどんな場合でもいけないのか)

 いいとかいけないとかの問題ではありません。その念が連絡の通路を塞いでしまうのです。治癒エネルギーの流れを妨げ、近づけなくしてしまうのです。心配の念を抱くとそれが大気に響いて、その人のまわりにわれわれの進入を妨げる雰囲気をこしらえてしまいます。冷静で受容的雰囲気でいてくれれば容易に接近できます。確信を抱いている時、完全な信頼心を抱いてくれている時は接触が容易です。信念が完全に近づけば近づくほど、自信が深まれば深まるほど、それだけわれわれとの接触が緊密になります。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.128

     *****


 17-k (心霊治療は法律では規制できない)

 神の業であるからには心霊治療はそうしたものを乗り超えて存在しますし、また存続させねばなりません。私たちが啓示している自然法則は人間の精神によって成立するものではありませんし、その普及が妨げられるものでもありません。私どもは誤ることを避けがたい人間がこしらえた法律にはまったく関心がありません。神の法則、不変、不易にして不可変、全知全能の摂理、無始の過去より存在し無窮の未来まで存続しつづける摂理を説いているのです。人間がわれわれのこと並びにわれわれの説く真理のことにどうケチをつけようと一向にかまいません。
 かつて地上世界の改革に努力した人々、理想に燃えて同胞のために献身した人々は、人類の最先端を歩んでいたために、進化の階梯において一歩先んじていたために、侮りと蔑みと嘲りに耐え忍ばねばなりませんでした。そして使命を終えてこちらへ来ると、後世の人間は彼らのことを人類の模範として崇拝し、そうしながら一方では同時代の超能力者をはりつけにして葬りました。真理というものは確立されるまでには数々の闘いに打ち勝たねばならないものなのです。
 恐れてはなりません。われわれのすべてに存在を与えてくれている力、地上のために私たちを地上へ派遣してくださっている力、あなた方にみずから体現させてあげたいと私たちが望んでいるところの力は、宇宙の全生命を創造した力と同じものなのです。それはあなた方の方から見捨てないかぎりあなた方を見捨てることはありません。
 地球はこれからもずっと地軸を中心に回転し続けます。太陽はこれからもずっと輝き続けます。すべての天体が定められたコースを運行し続けます。潮は満ち引きを繰りかえし、春のあとには夏が、夏のあとには秋が、秋のあとには冬がめぐつてきます。それはその背後で支える力が無限であり誤ることがないからです。これだけの大自然の見事なスペクタクル(壮観・美観)を目の前にしながらあなた方は、それと同じ霊力が地上世界のことでしくじりを犯すことがあり得ると思われますか。
 その霊力を顕現させる道具が存在するかぎり、人のために役立ちたいと願う男性あるいは女性がいてくださるかぎり、私たちは病気に苦しむ人を癒し、生命が墓地の向こうにも存在することを証明し、永遠の霊的実在の証しを提供し続けます。そうすることが物質万能主義を永遠に駆逐し、霊の働きかけの実在を暖妹なものにしてきた教条主義の暗闇を排除し、奉仕を基調とする真の宗教を確立することになるからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.129-131

     *****


 17-l (物的な病気の原因と霊的な病気の原因)

 (霊的な病気の原因になるものは)利己主義、強欲、金銭欲。イエスが、治療した患者に "汝の罪は赦されたり" と述べたことはご存知でしょう。病気の原因には物的なものと霊的なものの二種類があることを知らねばなりません。どちらの場合でも同じ方法で治すことも不可能ではありませんが、物的な治療法の方が効果が大きい病気があります。病気の影響が霊的身体にまで及んでいる場合があり、あるいは霊的身体にそもそもの原因がある場合もありますが、霊的身体そのものが病気になることはありません。物的身体との相互関係の異常にすぎません。その異常がバイブレーションを乱し、物的身体との関係を乱し、それが病気となって現れます。
 怒りが脾臓を傷めることがあります。嫉妬心が肝臓を傷めることがあります。そうした悪感情が異常の原因となり、バランスが崩れ、調和が乱れます。病気が進行して、バランスが完全に崩れてしまうと霊的身体が脱出のやむなきに至ります。それが死です。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.133

     *****


 17-m (遺伝的疾患は神の公正とどう結びつくのか)

 地上へ生を享けるときは因果律によってその霊が当然宿るべき身体に宿ります。前世で身につけたものを携えて現世をスタートいたします。前世を終えた時点でふさわしいものを携えて再生するのです。遺伝的疾患も少しも不公平ではありません。(前世に照らして)これからの進化にとって必要なものを成就するのにふさわしい身体を与えられるのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、p.135

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 17-n (同じ病気でもなぜ治る人と治らない人がいるのか)

 そもそも心霊治療家のところへ足を運ぶということ自体、偶然のことと思われますか。偶然ではありません。偶然というものはあなたの世界にも私の世界にも存在しないのです。断言します---神の摂理は完璧です。いずれあなたもその働きを理解し、その完璧な摂理をこしらえた完全なる愛の存在を知って、私と同じように、まるで鉄槌を食らわされたような思いをなさる日が来るでしょう。
 私たちはすべて---私も同じなのです---暗闇の中で手探りで進みながら時おり光明の閃きを見つけ、摂理への洞察力を手にします。そこで感嘆します。しかし暗闇の中にいるかぎり摂理の全貌が見えませんから、私たちはそれをとかく偶然のせいにし、運よくそうなったのだと考えます。しかし、断言しますが、偶然というものは存在しません。
 そう言うと皆さんはきっと "では自由意志の問題はどうなるのか" と聞かれるでしょう。確かに人間には自由意志が与えられております。が、その自由意志の範囲は魂の進化の程度によって規制されると申し上げたはずです。自由は自由です。が、その自由にも程度があるということです。自由は自由です。が、それも宇宙の法則、すべてを経綸している法則の中における自由だということです。宇宙最大の組織であろうと極小の生命体であろうと、その法則から逃れることはできません。何ものも神の摂理から逃れることはできません。完璧なのです。

   『シルバー・バーチの霊訓(5)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.136-137

     *****


 17-o(機械である肉体に限度を超えたことを要求してはならない)

 休息が不足すると身体がその代償を支払うことになります。その代償の度合が大きすぎると、完全な休息を要求されて、あなたは床につかねはならなくなります。各人各個の責務という教理を説きながら、その働きに例外があるかのようなことを申し上げるわけにはまいりません。無理して一度に多くのことをなさってはいけません。肉体は所詮は機械です。その限度を超えたことを要求してはなりません。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 50

     *****


 17-p(肉体は自分のものだからその健康管理は自分の責任である)

 −「自分より気の毒な状態にあるのを見ていながら自分だけ休むわけにはいきません」と言う人に答えて−

 自然の摂理の働きは変えようにも変えられません。私には皆さんに対する愛があります。もし無かったら今こうしてここにいることもないでしょう。私たちにとって地上という世界は何一つ魅力はありません。なのにこうして戻ってきて皆さんの中に混って皆さんとともに仕事をするのは、皆さんに対する愛があるからです。そうすることで何の利益を受けるわけでもありません。私たちの多くにはこれまでに身につけたものを惜しげもなく犠牲にして皆さんのお役に立ちたいという願いがあるのです。
 私たちは情愛に満ちた心で皆さんを愛しております。しかし、だからといって皆さんの都合のよいように摂理を変えてあげるわけにはまいりません。皆さんは肉体という機械をお持ちです。どんなに優秀な機械でも休息が与えられます。皆さんの肉体のように片時も休むことがないという機械は他にありません。機械は休ませないと故障します。
 肉体はあなたのものですから、その健康管理はあなたの責任です。神はそのための能力として知性と理性とを与えてくださっております。宇宙の摂理について知り得たかぎりの真実をありのままに述べている私を責めてもはじまりません。私は、私が間違いない真理だと信じたものを欺くようなことは申せません。目的とすべき理想、霊的真実に基いた処世訓、それを忠実に人生に応用すれば、霊としての当然の遺産であるべき豊かさをもたらしてくれるもの、それをお教えするだけです。
 最終的にどう決めるかはあなたご自身です。私もできるかぎりの援助はいたします。が、時として私たちにも如何ともしがたい情況というものが生じます。あなたの自由意志を無視するわけにはまいりません。側に立ってあなたがなさることを見つめるしかないことがあります。あなたの霊的進化にとってはあなた自身による決断が重大な要素となるからです。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 51-53

     *****


 17-q(神は肉体を休息させ活力を取り戻すために睡眠を用意した)

 (事態を収拾するためにさまざまな法則を集中的に動員することが)あります。絶望的窮地に陥ったときに救ってさしあげた方が皆さんの中に何人かいらっしゃいます。私たちが干渉できないのは原因と結果の関係です。また、いわゆるお情けというものも一切ありません。私は指導霊としての立場から、あなたの身体が機械であることを指摘しているのです。休ませてやらねばならないことがあることを申し上げているのです。疲労が度を過すと機能が停止します。停止すると再び機能を回復するまで床についていなければならなくなります。
 私がつくづく思うのは、これまでに啓示していただいた真理のすはらしさをみて、われわれ一同はほんとうに恵まれた者たちだということです。それに加えてわれわれは又、霊力のすばらしさを見ることができました。事態を一変させ、進むべき道を指し示し、導きを与え、各自が天命をまっとうするための理想の生き方を教えてあげることができることを知りました。これは、ただごとではない大切なことです。
 肉体は霊が自我を表現するための道具です。存分に発揮したいと思われれば、十分な手入れをしなくてはなりません。疲労が重なると本来の機能が発揮できなくなります。そこで神は、その無限の叡智によって、肉体を休息させ、活力を取り戻させるための睡眠″を用意したのです。
 地上の四季の移り変わりをよくご覧なさい。秋になると大自然は冬の眠りのための準備をし、春になると再び目醒め、夏にその壮観を披露します。人体も同じです。休息によって元気を回復しなければなりません。休息はぜひとも必要です。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 54-55

     *****


 17-r (過労によって健康を害している二人の交霊会メンバーに)

 無理をしていることを知りつつも無理を重ねて、けっきょく中途で倒れる人がいるものです。倒れたら休息するほかはありません。私たちはあなた方に自助の心構えを説き、霊と精神にかかわる摂理だけでなく、その肉体を支配している生理的法則にも絶対的に従わねばならないことをお教えしています。それを忠実に守り、霊と精神と肉体が調和状態にあるかぎり、あなた方は健康であり健全です。

   『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p. 56


     *****


 17-s  (脳障害で植物同然となっている人にどう対応すべきか)

 --- 「そうやって生きながらえさせることは神の摂理にもとるのではないでしょうか。その人たちの霊はどうなっているのでしょうか。肉体につながれたままなのでしょうか。睡眠と同じ状態なのでしょうか。解放してやるべきなのでしょうか。」という質問に対して---

 地上生活の目的は霊が死後に迎えるより大きな生活に備えることです。自然の摂理と調和した生活を送っていればその目的は成就され、時が熟し肉体がその目的を果たし終えれば、霊はその肉体から離れます。たびたび申し上げておりますように、リンゴは熟すと自然に木から落ちます。それと同じように、霊もその時を得て肉体を離れるべきです。
 あなたのおっしゃる脳に障害のある人のケースですが、それは、患者の生命を維持させようとしてあらゆる手段を講じる医師の動機にかかわることです。昔の医師はそれが自分の全職務の究極の目的であるという趣旨の宣誓をしたものです。今でも、地上のいかなる人間といえども、霊は時が熟してから身体を離れるべきであるという摂理に干渉することは、霊的な意味において許されません。特殊な事情があって医師がその過程を早めることをする場合がありますが、動機さえ純粋であればその医師を咎めることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp. 132-133


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 17-t (脳に障害があっても霊的には何の障害も受けていない)

 脳に障害を受けた患者は、たとえば動力源が故障したために受信・送信が不能になった機械のようなものです。正常の機能のほんの一部が働いているだけです。脳が障害を受けたために霊の脳″ともいうべき精神が本来の表現ができなくなっているわけです。脳に障害があるからといって精神に障害があるわけではありません。タイプライターを打っていてキーが故障した場合、それは使えなくなったというだけであって、タイピスト自身はどこも異状はありません。それと同じです。
 要するに精神が大きなハンディキャップを背負っているわけです。正常な生活を送れば得られたはずの成長をその分だけ欠くことになります。その結果こちらへ来てみると魂はその欠けた分の埋め合わせをしなくてはならない状態にあります。言ってみれば小児のような状態です。しかし個霊としては霊的に何の障害も受けておりません。
 霊が身体を生かしめているかぎり、両者のつながりは維持されます。霊と身体とをつないでいる玉の緒″---胎児と母胎とをつないでいるへその緒″と同じです---が切れると、霊は身体から解放されます。身体の死を迎えた人にとっては霊的生活の始まりであり、地上へ誕生してきた霊にとっては物的生活の始まりです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p.134


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 17-u (瀕死の重態で機械によって生き続ける例をどう見るか)

 霊が身体から離れるべき時期がくれは、地上のいかなる機械をもってしても、それ以上つなぎとめることはできません。いったんコードが切れたら地上のいかなる人物も、霊をもう一度つなぎとめる力は持ち合わせません。その時点で肉体の死が生じたのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、p.135


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 17-v(交通事故で植物状態になってもなぜ安楽死は許されないのか)

 バイブルのどこかにこんな言葉があります。”神が与え、神が奪われる。ありがたきかな神の御名”(ヨブ記1・21。バイブルでは奪われた″とあるが引用文は現在形になっている---訳者)
 私がこの文句を引用したのは真実そのとおりだからです。人間は生命を創造することはできませんし滅ぼすこともできません。生命が機能するための機関を提供することはできます。その機関を破壊することもできます。しかし生命は神からの贈りものであり、人間のものではありません。生命は神が人間に託した責務です。
 なぜ? というご質問ですが、それについては、物的尺度だけで判断を下さないように注意しないといけません。霊の問題は物的尺度では計れないのです。植物同然となってしまった一個の人間をご覧になれば、自然の情として哀れ、同情、慈悲、憐憫をさそわれるのも無理はありません。しかし植物にも生命があり、地上で果たすべき役目があります。そうでなければ存在しないはずです。
 一人の人間が事故で負傷する。機能の損傷がひどくて霊が自我を表現できなくなった。この間題をあなたは身体上の問題とみますか、それとも霊的な問題とみますか。霊的にはそこに果たすべき目的があり、学ぶべき教訓かあり、忍ぶべき体験があるのです。たしかに見たところ身体的にはまったく動きが止まっています。しかし霊的な目をもって見ることができるようになるまでは、つまり永遠の価値基準を理解できるようにならないかぎり、あなたの判断はどうしても誤りに基づいたものとなります。
 私はいわゆる植物人間を安楽死させることには全面的に、そして文句なしに反対です。ただし、そこにやむを得ない動機がありうることは認めます。しかしそれは問題を解決したことにはなりません。あなたがもし安楽死を実行する時期の決断を誰かに任せたら、それは本来その人が持つべきことの出来ない権利を与えたことになります。その人にはそういう決断を下す義務も与えるべきではないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
      潮文社、1987、pp.135-137


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 17-w (不治の重病人を苦しまないようにしてあげる義務はないのか)

 病気とか異状あるいは虚弱といった身体上のことをおっしゃっているのであれは、現代医学で治すことも改善することもできないものがあることは認めます。しかし、すばらしい効果のある、そして現に成果をあげている治療方法がほかにもいろいろあります。医学的診断のみを判定基準にしてはいけません。そのことをしっかりと認識しなくてはいけません。医師が不治″と診断したものが心霊治療によって完治、または改善されたケースがたくさんあることを皆さんはよくご存知なのですから。
 苦しみにはそれ相当の目的があります。苦しみは無くてはならない大切なものなのです。なぜなら、それを通じて魂が目が開かされ、隠れた力を呼び覚まされ、その結果として霊的に、時には身体的に、いっそう強力になってまいります。そうなるべきものなのです。多くの人にとって苦しみは、全人生をまったく別の視点から見つめさせる大きな触媒となっています。
 いかなる症状の患者であっても、簡単に不治″と片付けてはいけません。その態度は間違っています。地上の格言にも生命あるかぎりは希望がある″というのがありますが、これは真実です。霊が宿っているかぎり元気を回復させ、再充電し、ある程度まで機能を回復させることができます。摂理が自然に働くようにしさえすれば、身体は死すべき時機がくれは自然に死にます。霊に身体から離れる準備ができたからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.137-138


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 17-x (痛みを覚え始めているガン患者にどうすることも出来ない)

 でも痛みを和らげることは可能です。医学的にも手段はあります。ですから痛みだけを問題にするのであれば、それはなんとかなります。そして、たとえ症状が耐えきれない段階に達しても、私たちから見るかぎり、それをもって最終的な宜告を下してはならないと私は主張いたします。精神構造が限られた分野の教育しか受けていない者(医師・医学者)による宣告が最終的なものであると私がもし申し上げたら、それはこれまで私が説いてきたすべての教説を裏切ることになりましょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.138-139


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 17-y (医師が安楽死させる権利を与えられても患者は死を望むか)

 安楽死の決定権はもともと医師などに与えるべきものではないのです。現実の事実を直視してみてください。大半の医師の物の観方は唯物的です。その医学的知識は人間が身体のほかに精神と霊とから成っていることを認識していない唯物思想を基礎としています。少なくとも医学界においては人間は脳を中枢とする身体、それに多分ある種の精神的なものをも具えた物的存在であり、霊というものについての認識はゼロに等しいのです。そうした、人生でもっとも大切なことについてまったく無知な人たちに、そのような生死にかかわる決定権がどうして預けられましょうか。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、p.142


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 17-z (麻薬LSDを使用している若者は邪霊に取り憑かれているのか)

 困ったことに、その種の麻薬は地上と接した幽界の最下層の波長に合った心霊中枢を開かせるのです。それに感応してやってくる霊はその若者と同程度のもの、往々にして地上で麻薬中毒あるいはアルコール中毒だった者で、その状態から一歩も脱出できずに、相変わらずその種の満足を求めているのです。地縛状態から解放されていないのです。
 霊的治癒能力は触媒です。身体と霊と幽体との関係が混乱して生じている複雑な状態を解きほぐします。霊と精神と身体の三者が調和すれば健康に向かいはじめます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.175-176


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 17-za [58-t](生命の帳簿は常に帳尻が合っておりきちんと清算されている)

 みなさんがスピリチュアリズムと呼んでおられるものは大自然の法則のことです。神はこの宇宙を不変の法則によって支配し顕現していくように定めました。宇宙のあらゆる側面が法則によって治められているのです。みなさんが親しんでいる物的地上界であろうと、人間に感知できない、それよりはるかに大きな霊界であろうと、法則が行き届かないというところはどこにもありません。
 この法則を通して神の意志が働いているのです。人間の法律には変更と修正がつきものです。不完全であり、あらゆる情況を考慮に入れていないからです。が、神の法則は、起こりうるあらゆる事態に備えてあります。すべてが規制され、すべてが管理され、神の配剤がすべてに行きわたっております。
 人間には一種の機械としての物的身体が与えられています。あなたはその身体を通して自我を表現している一個の霊なのです。あなたが悩みを抱くと、霊と身体との間の水門が閉ざされ、身体は生命力の補給路を失うことになります。補給源とのつながりを断たれることになります。そのことに気づいて心構えを改めないかぎり、あなたの身体はその不健康な作用と反作用の法則に従いつづけることになります。
 心配の念はあなたの霊的大気であるオーラの働きを阻害し、その心霊的波長を乱します。(オーラには磁気性と電気性の二種類がある。詳しくは『母と子の心霊教室』を参照−訳者)その障害を取り除くまでは生命力が流れ込みません。泰然自若の境地に至るには長く厳しい修行、過酷な試練、そして心配の念の侵入を許すまいとする不断の努力が要請されます。
 無限の愛と叡智を有する神がこの摂理を創案したのです。完璧に出来あがっており、必ずその通りに作用します。心配することに費やしているエネルギーを建設的な思念へ転換すれば、健康上の問題は生じなくなります。神の計画は完全であり、あなたもその計画の中に組み込まれているのです。あなたも自分自身を完成しなくてはいけません。そのための機会は日常生活の中にいくらでも用意されております。
 私には自然法則を変える力はありません。因果律という不変の法則に私が干渉することは許されません。たとえばあなたの身体が衰弱している兆候を見つければ、大切にするよう警告してあげることしかできません。身体は一種の機械です。したがってそれなりの手入れがいります。手入れを怠れば故障するにきまっています。すると休息と修理によって機能を回復させるほかはありません。法則はごまかせないのです。
 あなたはその身体を通して自我を表現しているのです。その身体のすることにも限界があり、それを超えてしまえばバッテリーを補充しなければなりません。それはあなたの責任です。あなたの身体だからです。
 いくら愛があるとはいえ、あなたの行為、あなたの言葉、あなたの思念の責任を私が肩代わりしてあげるわけにはまいりません、行為の一つひとつ、言葉の一つひとつ、思念の一つひとつについて、あなた自身が責任を取るのです。身体はその責任ある自己表現の媒体なのですから、その遂行において支障がないように十分な手入れをしておく必要があります。人体は地上のいかなる機械よりもはるかに入り組んだ、すばらしい組織体です。まさしく驚異というにふさわしい道具です。が、それにも手入れがいります。
 自然の摂理と調和した生き方をしていれば病気も異状も不快感もありません。こうしたものは不調和から生じるのです。摂理に反することをすれば、その代償を払うことになります。摂理の範囲内で生活していれば恩恵を受けます。
 何よりも動機が優先されます。が、摂理に達反したことをすれば、それに対してペナルティが科せられます。自分の気持を満足させようとして身体を傷めるところまで行ってしまうか否かは、一人ひとりがその霊的進化の程度にしたがって判断することです。地上生活にも神の計画の中でのそれなりの役割があります。無理を重ねて次の段階の生活への準備が十分に整わないうちに地上を去るようなことになってはいけません。
 たとえば、ここに人類の福祉に献身している高潔な人物がいるとしましょう。その人がもしもその道での超人的活動で健康を損ねた場合、それは立派と言えるでしょうか。それも本人自身が判断すべきことです。ただ残念なことに、そうした決断を下すに当たって必ずしも自分自身に真っ正直になり切っていないということです。どこかに自惚れの要素---オレ以外に出来るヤツはいないのだという考えが潜んでいるものです。
 法則にも、次元の違いによっていろいろあります。物的次元のもの、精神的次元のもの、霊的次元のもの、さらにはそれらが入り組んで作用する場合もあります。悲しいかな、人間は物的次元のことがギリギリの絶望的段階に至るまで、霊的次元の真理が理解できません。それは実在を無視した生活に終始しているからです。物的なものだけが大切と思い込んでいるからです。
 しかし魂はいつかは真の自我に目覚めなくてはなりません。その時から内在する神性が発現しはじめるのです。それも神が定めた埋め合わせの法則の一環なのです。苦難が大きいだけ、そこから得られる悟りもそれだけ大きいものとなります。
 神は宇宙の会計士のようなものです。生命の帳簿は常に帳尻が合っており、すべてがきちんと清算されております。霊的機構は整然と規制されておりますから、あなたが霊的に受けるものはあなたに相応しい分だけであり、多すぎることもなければ少なすぎることもありません。その計算はあなたがそれまでの努力によって到達した霊的進化の程度を基準にして行われます。霊的なことは常に完全な清算が行き届いており、ごまかしも見せかけも通用しません。
 法則は無限なる愛と叡智の働きによって完壁に機能しています。各自が受け取るのはそれまでの努力にふさわしい分だけです。私がそのように定めたのではありません。そのようになっていることを私が知ったというだけです。それを因果律といいます。原因と結果の間にはいかなる者も干渉できません。偶発事故とか不測の事態というものは起きません。すべては自然の摂理でそうなっているのです。
 その摂理が廃止されたり一時停止されたり、妨害されたりすることは絶対にありません。自然の摂理は絶え間なく作用しており、変わることもなければ修正することもできません。その摂理と調和して生きることです。すると良い結果が得られます。摂理にひっかからないように上手にすり抜ける方法はありません。その作用は絶対です。宇宙の大霊は摂理の精髄であり、権化であり、哀願も弁解も通用しません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.48-53


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 17-zb (霊的観点から見て心臓移植をどのように考えるか)

 何ごとも動機が大切です。移植が純粋に生命を永らえさせるためである場合が確かにあります。が、実験を重ねていくうちに実験そのものの興味が先行して肝心の目的を忘れている場合があります。興味本位で無抵抗の動物を残酷な実験に使用することは、霊的観点から言うと褒められた行為ではありません。人間の健康は残酷な行為からは得られません。これまでナゾとされている大自然の秘密は、そういう一方的な搾取行為では解明できません。
 私は臓器の移植には賛成できません。また輸血も賛成できません。私の考えでは---私はあくまで私の個人的見解を述べるだけですが---肉体的生命の維持ということが唯一の目的であってはならないと思います。心に宿す考えが正しければ行為も正しく、したがって肉体も正常となります。
 問題の解決は臓器の移植ではありません。本当の解決は各自が神の意図(摂理)にのっとった生き方をすることです。人間は他の人間への思いやりと同時に、同じ惑星上に住んでいる他の生命のすべてに対して思いやりを持たねはなりません。神は人間の寿命を引き延ばすための実験材料として動物を用意したのではありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.127-128


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 17-zc (現段階では心臓移植は失敗に終わると考えてよいか)

 実験そのものは成功するケースもあると思います。ただ私が気がかりなのは、実験そのものが霊的にみて間違った方向へ進みつつあることです。その方向は人間の幸福のために献身すべき人が選ぶべき道ではないということです。現段階のやり方では健康は得られません。健康とは調和状態のことです。今の医学者のやっていることは一時的な部分品の継ぎ合わせにすぎません。
 いたって簡単で、しかも肝心なことをぜひ理解してください。人間という存在は身体と精神と霊の三位一体として創造されているのです。その三つは不可分のものです。置きかえはきかないのです。あなたはそれらが一体となって一つの個性をこしらえている存在です。健康というのはその三つの要素の間の協調関係であり、規則的リズムであり、一体関係です。健康を得る方法はそれ以外にはありません。クスリでもなく医学でもありません。それは一時しのぎの手段にすぎません。
 地上は無知だらけです。死を恐ろしい怪物のように思って避けようとしています。死を恐怖心をもって迎えていますが、死も自然の摂理の一環にすぎません。地上はトレーニングセンターです。間違いなく訪れる次の、より大きな生活の場に備えて教訓を学ぶための学校なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp.128-129


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 17-zd (病気は教訓として与えられるといわれるのは本当か)

 ― 病気は教訓として与えられるのだとか人間性を築くためだとか言う人がおりますが、本当でしょうか。

 言っていること自体は正しいのですが、“与えられる”という言い方は適切でありません。私たちと同じくあなた方も法則の中で生きております。そして病気というのはその法則との調和が乱れた結果として生じるのです。言ってみれば霊として未熟であることの代償として支払わされるのです。しかしその支払いとはまた別の“補償”の法則もあります。物事には得があれば損があり、損があれば必ず得があるのです。物質的な観念からすれば得と思えることも、霊的な観点からすれば大きな損失であることがあります。すべては進化を促すための神の配慮なのです。
 教訓を学ぶ道はいろいろありますが、最高の教訓の中には痛みと苦しみと困難の中でしか得られないものがあります。それが病気という形で現れることもあるわけです。人生は光と陰のくり返しです。片方だけの単調なものではありません。喜びと悲しみ、健康と病気、晴天と嵐、調和と混乱、こうした対照的な体験の中でこそ進歩が得られるのです。
 ということは双方に神の意志が宿っているということです。良いことにだけ神が宿っていると思ってはいけません。辛いこと、悲しいこと、苦しいことにも神が宿っていることを知ってください。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp. 213-214

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 17-ze (人体の臓器移植をどう考えるか)

 ― 臓器移植の技術的進歩によって新たな問題が生じております。医師たちは死者の心臓とか腎臓を取り出すために死の瞬間を待ちうけております。問題は“はたして本当に死んだと言えるか―もう臓器を取り出してもよいか”という点です。

 臓器移植についてはよく存じております。そして又、その動機が立派な場合があることも承知しております。しかし私としては人体のいかなる部分も他人に移植することに反対であると申し上げます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 51

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 17-zf (過労にならないように休息をとるのは各自の責任)

 ― サークルのメンバーの中に過労から病気がちになっている人が何人かいることについてシルバーバーチが忠告する ―

 危険信号が見えた時はいつも注意してあげているのですが、それが無視されて倒れられる方がいるのは残念です。が、すべては各自の責任に帰されるというのが私たちの教えの絶対的な基本です。
 許されることなら代って荷を背負ってあげたであろうと思われることが何度あったか知れません。が、霊的向上の道は自分の力で切り開かないといけない以上、それは私には許されないと理解しております。
 (女性のメンバーに向かって)あなたの場合この季節(冬)はとくに身体を大切にし、酷使しないように注意しないといけません。休息は大切です。今のあなたにとって必要なのは休息です。それを欠くと霊が地上で機能するための道具を台なしにしてしまいます。
 別に咎めているわけではありません。人生の基盤である不変の摂理の存在を指摘しているだけです。それを怠ると私の義務を果たしていないことになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 76-77

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 17-zg (地上にいる間はその身体を大切に維持・管理する責任がある)

 ― (17-zf の彼女を古くから知っている人が弁護して)翻訳の仕事が多くて原稿の締切期限に間に合わせようとして過労になったようです。

 この私に締切期限の話を持ち出されるとは愉快ですね。私が今の世の中をこしらえたわけではありませんし、そこで生活する人の身体も私がこしらえたわけではありません。ただ、できあがった身体を見てみると実に複雑でありながら美事にまとまった機械であることが分かります。地上のいかに腕のいい技術者も到底これほどのものはこしらえられないでしょう。
 幾億もの細胞が集まって血液、腱、筋肉、その他もろもろの組織をこしらえ、さらに各種のミネラルが昼となく夜となく働いて、霊が効果的に表現されるようにしております。
 私が思うに、地上に存在する機械で、瞬時の休みもなく働きオーバーホール(修理・点検のための解体)されることもないのは人間の身体だけでしょう。その度が過ぎると、使い過ぎによる欠陥が生じて使用中止の命令を下さねばならなくなります。
 大霊がもしも人間に完全であることを望むならば、完全な身体を用意されたはずです。が、地上というところは永遠の進化のための無数の生活の場の一つに過ぎません。今この地上にあるかぎりは、その身体を大切に維持・管理する責任があります。使い過ぎると本来の機能が果たせなくなります。
 もう一人の方にも同じことを申し上げたいと思います。悩みや困難に追いまくられるとおっしゃいます。が、私はいつも申し上げております ― “それは百も承知しております。もしも悩みも困難もなかったら、あなたはこの世にはいらっしゃらないでしょう。なぜなら、それを処理するために地上へ来ていらっしゃるのですから”と。
 遭遇しなければならない困難というものが必ずあります。それに挑戦することによって内部の貯え、潜在する霊的資質、神的属性の幾つかが呼び覚まされるのです。ですが、度を過してはなりません。からだが“疲れました。もうこれ以上はムリです”と訴えはじめたら、休息を与えてあげてください。
 皆さんへの愛の気持ちはあっても代って生きてあげるわけにはまいりません。手引きはしてあげます。援助はします。支えにもなってあげます。道を教えてあげることはできます。しかし皆さんがみずから背負うべき責任を私が肩代りしてあげるわけにはまいりません。
 私たちの力の限りを尽くして、ぜひとも必要な守護は受けられるようにしてあげましょう。が、自分のすることには自分で責任を取るのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 77-79

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 17-zh[50-n] (臓器の移植手術も時にはカルマの観点から考える必要がある)

 ― 角膜移植には反対ですか。霊的には何ら問題はないように思えますが……

 私は原則として臓器の移植手術には反対です。他人のために自分の臓器を提供する方の誠意を疑うわけではありません。
 神は霊が地上で自我を表現するための道具として物的身体をお与えになりました。そこに身体と霊との緊密な関係があるわけです。もしも臓器移植が不可欠のものであったら、心臓や腎臓の移植手術に失敗は有りえないはずです。
 角膜の問題はとても厄介です。人間の苦痛に対して冷淡であるかに思われたくないのですが、時として失明の原因がカルマにあることがあります。何もかもカルマのせいにしてしまうのは卑怯だと思われかねないことは私も承知しておりますが、地上でも、あるいは霊界でも、偶然にそうなったというものは一つもありません。因果律は絶対であり、ありとあらゆる出来事を規制しております。
 目が見えないということも因果律の結果です。目の見えない人が角膜を移植してもらって見えるようになるということが、霊的にみて果たしてその人にとって良いことであるか否かは、一概に片づけられる問題ではなく、議論したら延々と続くことです。
 身体的には良いことかも知れません。が、霊的には必ずしも良いこととは言えません。皆さんより永い人生体験をもつ霊界の存在という有利な立場から申し上げれば、もっとも大切なのは霊的にみて良いことかということです。

 ― それは病気全般について言えることでしょうか。

 カルマが絡んでいるものに限っての話であれば、そうです。その場合は霊的治療も奏効しません。したがって角膜移植をしても視力は戻りません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 79-81

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 17-zi[79-l] (臓器移植が許されないとすれば手術はできなくなるのでは)

 ― しかし、もしも臓器移植が許されないとすれば、手術はできなくなります。

 人間には自由意志があります。操り人形ではありません。十字路で右へ曲がるか左へ曲がるかは自分で決められます。選択は自由です。もしも神が人間を操り人形にした方がよいとお考えになっていれば、皆さんは操り人形になっていたはずです。
 しかし皆さんも私が“無限の創造活動”と呼んでいるものに参加するだけの力を秘めているのです。が同時にそれを邪魔し、妨害し、遅らせることもできます。ただし、変更させることはできません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 81

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 17-zj (外科医の仕事そのものに反対ではない。皮膚の移植には反対しない)

 ― 医術の発達はよいとしても、肉体をつぎはぎ細工のようにいじくりまわすのは霊的な間違いを犯すことになる可能性があるということですね。各自に霊的な存在意義があるわけですから。

 私たちがお教えしたいと思っているのは、まさしくそのことです。身体は霊の宮であるからこそ大切なのです。いかなる形にせよその根本的な摂理を犯せば病気が発生します。その代償を支払わねばならないということです。それだけは避けられません。
 私は外科医の仕事そのものに反対しているわけではありません。皮膚の移植には反対しません。人を喜ばせてあげたいという誠意には反対しません。ただ私が置かれている立場上、すべての問題をその根底にある霊的な意義という観点から申し上げるしかないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 81-82

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 17-zk[76-zp] (動物実験を続ける限り人間の真の健康と福祉は促進されない)

 人間の健康を動物の犠牲のもとに獲得することは神の計画の中にはありません。すべての病気にはそれなりの治療法が用意されております。その神の用意された自然な方法を無視して動物実験を続けるかぎり、人間の真の健康と福祉は促進されません。動物はそんな目的のために地上に生をうけているのではありません。真の健康は調和です。精神と霊と肉体の正しい連係関係です。三つの機能が一体となって働くということです。これは動物を苦しめたり体内から特殊成分を抽出したりすることによって得られるのではありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.208

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 17-zl (身体の治療より魂の治療のほうが大切である)

 身体が病むということは、精神か霊のいずれかに不自然なところがあることを意味します。霊が正常で精神も正常であれば、身体も正常であるはずです。身体に出る症状はすべて霊と精神の反映です。これを医学では心身相関医学などと呼ぶようですが、名称はどうでもよろしい。大切なのはいつの時代にも変わらぬ真理です。魂が病めば身体も病みます。魂が健康であれは身体も当然健康です。身体の治療、これは大切ではありません。魂の治療、これが大切なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.208


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 17-zm (病人のすべてが心霊治療で治るとはかぎらない)

 もう一つ理解しなくてはならないのは、病人のすべてが心霊治療で治るとはかぎらないということです。そこには法則というものが働いており、治療家にも治せない病気というのが出てきます。
 病気は治るべき機が熟して治るもので、たまたま治っているのではありません。それは魂が地上的体験を卒業して新しい体験を必要とする機が熟すると死の関門を通過していくのと同じです。不意に死期が訪れるのではありません。すべては法則の働きで決まることなのです。が、その法則の働きの中にはあなたの役割も入っています。あなたも大霊の一部だからです。

   トニー・オーツセン『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
   コスモ・テン・パブリケーション、1989、p. 154














 18. 苦労の意味 (苦難と悲しみ)

  18-a (背負えない重荷を与えられることはない)

 地上生活は内部の完全性が不完全な環境の中で表現を求めようとする一種の闘争の場です。金塊が不純物を払い落としていく試練の場です。霊的開発と成就への道においては困難と苦痛と障害とハンディが必須不可欠の要素です。もしも霊的な宝が容易に手に入るものであれば、それはもはや手に入れるほどの価値はないことになります。自己鍛錬、自己制御、自己開発、これを成就するのが人生の目的です。これは容易にできるものではありません。王道はないのです。
 悪戦苦闘すること、暗闇の中に光を見出さんと努力すること、嵐との戦いの末に再び太陽の光を見てその有難さをしみじみと味わうことーー魂はこうした体験を通して初めて成長するのです。低く身を沈めただけ、それだけ高く飛躍することができるのです。 "ゲッセマネの園" を通らずして "変容の丘" へ辿り着くことはできません。ナザレ人イエスの生涯は地上の人間の全てが体験するものと本質において同じものです。敗北も勝利もともに必要です。敗北の味を知らずして勝利の味が分かるでしょうか。
  私は日常生活で是非とも活用すべき教訓をできるだけ簡潔に述べようと苦労しているのです。決して難解な哲学ではありません。いたって実用的な霊的教訓なのです。それが人生から然るべきものを体得する方法を教えてくれます。魂の真の満足は内的な静寂と輝きとなって表われます。すなわち真の自我を見出したことから生まれる魂の平安と自信です。魂がその状態になった時を "悟った"というのであり "神を見出した" と言うのです。そうなれば人生のいかなる苦しみにも悲しみにも負けることはありません。なぜなら悟りを開いたあなたは、いついかなる時でも神の兵器庫の扉を開けることができるからです。また、あなたに解決できないほど大きな問題、背負えないほど重い荷を与えられることはありません。それが与えられたのは、それだけのものに耐え得る力があなたにあるからです。

  『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp.188-190.


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  18-b (困難や苦しみの克服が霊的進化をもたらす)

 地上の人類はまだ痛みと苦しみ、困難と苦難の意義を理解しておりません。が、そうしたものすべてが霊的進化の道程で大切な役割を果たしているのです。過去を振り返ってごらんなさい。往々にして最大の危機に直面した時、最大の疑問に遭遇した時、人生でもっとも暗かった時期がより大きな悟りへの踏み台になっていることを発見されるはずです。いつも日向で暮らし、不幸も心配も悩みもなく、困難が生じても自動的に解決されてあなたに何の影響も及ぼさず、通る道に石ころ一つ転がっておらず、征服すべきものが何一つないようでは、あなたは少しも進歩しません。向上進化は困難と正面から取り組み、それを一つひとつ克服していく中にこそ得られるのです。

  『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, p.41


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  18-c (解決できない難問に直面させられることはない)

 霊的な宝はいかなる地上の宝にも優ります。それは一たん身についたらお金を落とすような具合に失くしてしまうことは絶対にありません。苦難から何かを学び取るように努めることです。耐え切れないほどの苦難を背負わされるようなことは決してありません。解決できないほどの難問に直面させられることは絶対にありません。何らかの荷を背負い、困難と取り組むということが、旅する魂の当然の姿なのです。
 それはもちろんラクなことではありません。しかし魂の宝はそう易々と手に入るものではありません。もしラクに手に入るものであれば、何も苦労する必要などありますまい。痛みと苦しみの最中にある時はなかなかその得心がいかないものですが、必死に努力し苦しんでいる時こそ、魂にとって一ばんの薬なのです。
 私どもは、いくらあなた方のことを思ってはいても、あなた方が重荷を背負い悩み苦しむ姿を、あえて手をこまねいて傍観するほかない場合がよくあります。そこからある教訓を学び取り、霊的に成長してもらいたいと願い祈りながら、です。知識にはかならず責任が伴うものです。その責任をとってもらうわけです。霊は一たん視野が開ければ、悲しみは悲しみとして冷静に受け止め、決してそれを悔やむことはないはずです。さんさんと太陽の輝く穏やかな日和には人生の教訓は身にしみません。魂が目を覚ましそれまで気づかなかった自分の可能性を知るのは時として暗雲たれこめる暗い日や、嵐の吹きまくる厳しい日でなければならないのです。
 地上の人生は所詮は一つの長い闘いであり試練なのです。魂に秘められた可能性を試される戦場に身を置いていると言ってもいいでしょう。魂にはありとあらゆる種類の長所と弱点が秘められております。即ち動物的進化の名残りである下等な欲望や感情もあれば、あなたの個的存在の源である神的属性も秘められているのです。そのどちらが勝つか、その闘いが人生です。地上に生まれてくるのはその試練に身をさらすためなのです。人間は完全なる神の分霊を享けて生まれてはいますが、それは魂の奥に潜在しているのであって、それを引き出して磨きをかけるためには是非とも厳しい試練が必要なのです。
 運命の十字路にさしかかる度毎に、右か左かの選択を迫られます。つまり苦難に厳然として立ち向うか、それとも回避するかの選択を迫られますが、その判断はあなたの自由意志にまかされています。もっとも、自由といっても完全なる自由ではありません。その時点において取り巻かれている環境により制約があり、これに反応する個性と気質の違いによっても違ってくるでしょう。地上生活という巡礼の旅において、内在する神性を開発するためのチャンスはあらかじめ用意されているのです。そのチャンスを前にして、積極姿勢をとるか消極姿勢をとるか、滅私の態度にでるか利己主義に走るかは、あなた自身の判断によってきまります。
 地上生活はその選択の連続といってよいでしょう。選択とその結果、つまり作用と反作用が人生を織りなしていくのであり、同時に又、寿命つきて霊界に来た時に霊界で待ち受けている新しい生活、新しい仕事に対する準備が十分できているか否か、能力的に適当か不適当か、霊的に成熟しているか否か、といったこともそれによって決まるのです。単純なようで実に複雑です。

  近藤千雄訳編『古代霊は語る』潮文社、1986、
    pp.107-109


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  18-d (神が用意された苦労と悲しみと痛み)

 太陽がさんさんと輝いて、全てが順調で、銀行にたっぷり預金もあるような時に、神に感謝するのは容易でしょう。しかし真の意味で神に感謝すべき時は辺りが真っ暗闇の時であり、その時こそ内なる力を発揮すべき絶好のチャンスなのです。しかるべき教訓を学び、魂が成長し、意識が広まりかつ高まる時であり、その時こそ神に感謝すべき時です。霊的マストに帆をかかげる時です。
 霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけでは理解したことにはなりません。実生活の場で真剣に体験してはじめて、それを理解するための魂の準備が出来あがるのです。その点がどうもよくわかっていただけないようです。タネを蒔きさえすれば芽が出るというものではないでしょう。芽を出させるだけの養分が揃わなくてはなりますまい。養分が揃っていても太陽と水がなくてはなりますまい。そうした条件が全部うまく揃った時にようやくタネが芽を出し、成長し、そして花を咲かせるのです。
 人間にとってその条件とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇です。何もかもうまく行き、鼻歌まじりの呑気な暮らしの連続では、神性の開発は望むべくもありません。そこで神は苦労を、悲しみを、そして痛みを用意されるのです。そうしたものを体験してはじめて、霊的知識を理解する素地が出来あがるのです。そして一たん霊的知識に目覚めると、その時からあなたはこの宇宙を支配する神と一体となり、その美しさ、その輝き、その気高さ、その厳しさを発揮しはじめることになるのです。そして一たん身につけたら、もう二度と失うことはありません。それを機に霊界との磁気にも似た強力なつながりが生じ、必要に応じて霊界から力なり影響なり、インスピレーションなり真理なり美なりを引き出せるようになるのです。魂が進化した分だけ、その分だけ自由意志が与えられるのです。
 霊的進化の階段を一段上がるごとに、その分だけ多くの自由意志を行使することを許されます。あなたは所詮、現在のあなたを超えることは出来ません。そこがあなたの限界といえます。が同時にあなたは神の一部であることを忘れてはなりません。いかなる困難、いかなる障害も、かならず克服するだけの力を秘めているのです。霊は物質にまさります。霊は何ものにもまさります。霊こそ全てを造り出すエッセンスです。なぜなら、霊は生命そのものであり、生命は霊そのものだからです。

   近藤千雄訳編『古代霊は語る』潮文社、
    1986、pp.116-117

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  18-e (試練と困難の意味)

 いかなる人間にもかならず試練と困難、すなわち人生の悩みが訪れます。いつも日向ばかりを歩いて蔭を知らないという人は一人もいません。その人生の難問がどの程度まであなたに影響を及ぽすかは、あなたの霊的進化の程度に掛かっています。ある人には何でもないことのように思えることが、あなたには大変なことである場合があります。反対に、ある人には大変な問題に思えることが、あなたには些細なことに思えることもあります。各自が自分なりの運命を築いていくのです。

 あなたに一個の荷が背負わされる。それをどう扱うかはあなた次第です。 "よし、担ぎ通してみせるぞ。これは自分の荷物なのだから" という気持になれば軽く感じられるものです。それだけ魂が成長するからであり、その成長の過程において内部のある力が魂を癒してくれます。困難に際してまっ正直さと勇気とをもって臨んで、霊的に損をする人は絶対にいません。何一つ怖がるものはないのです。

  『シルバー・バーチの霊訓(2)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1985, pp.71-72


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 18-f (悲しみと苦しみには意味がある)

 真の信仰を身につける好機はすベてのことが順調に行っている時でほありません。そんな時に信仰を口にするのは誰にでもできることです。暗黒の時に身につけたものこそ本当の信念と言えます。太陽がさんさんと輝き、何の苦労もなく、前途に何の心配もない生活を送っている時に私は神を信じますと言うのは容易なことです。しかし、そんな呑気な生活の中での信仰の告白には何の価値もありません。
 困難の中にあって怖じけず、いかなる緊張の中にあっても動ぜずに次のように宣言できる人の信念にこそ本当の価値がありますーー風が吹こうが嵐が狂おうが、世界がいかに混乱し全てが暗黒に包まれ絶望的になろうと、宇宙の全生命を創造し神性を賦与した力は決して自分をお見捨てにならないと信じる。知識と経験による不動の基盤の上に築いた完璧な信念に安住して、私は絶対に動じない、と。
 宇宙の大霊すなわち神の力ほあなた方人問を通して流れるのです。もし人間が確固たる不動の冷静さを保ち得ずに怖じけづいてしまえば、その力は発揮されません。あなた方一人ひとりが神なのです。神はあなた方から切り離された何か別の存在ではないのです。宇宙の大霊というのは何か形のない、遠い宇宙の果てにふわふわと浮いている靄のような存在ではありません。人間の内奥に宿された霊的な資質を発揮すればするほど、それだけ宇宙の大霊をこの世に顕現させていることになります。これはぜひ学んでいただきたい教訓です。霊が進化するということはそのことを言うのです。そうやって個性が築かれていくのです。成長するというのはそういうことなのです。
 まだまだ地上の人類は悲しみ、苦しみの、艱難、辛苦が存在することの理由を理解しておりません。その一つひとつが霊的進化の上で大切な機能を果たしているのです。ご自分の人生を握り返ってごらんなさい。最大の危機、最大の困難、お先まっ暗の時期が、より大きな悟りを開く踏み台になっていることを知るはずです。日向でのんびりとくつろぎ、何の心配も何の気苦労も何の不安もなく、面倒なことが持ち上がりそうになっても自動的に解消されてあなたに何の影響も及ぼさず、足もとに石ころ一つなく、自分でやらねばならないことが何一つ無いような人生を送っていては、向上進化は少しも得られません。困難に遭遇し、それに正面から立ち向かって自らの力で克服していく中でこそ成長が得られるのです。知識を広める必要があるのは無知という名の暗闇が生み出す無意味な残虐行為、無駄な苦労を一掃するためです。自然の摂理に反することをしでかしておいて、それが生み出す結果への対処に無駄なエネルギーを費すという愚かさを無くすために霊的真理の普及が必要なのです。
 同じ苦しみにも無くもがなの苦しみがあります。困難にも無くもがなの困難があります。が、それも霊的な成長と進化、光明へ向けての歩みにとっての糧とすることができます。失敗も災難もみな薬です。何かを教えてくれます。結局人間は宇宙という大きな学校の生徒というわけです。これでよいという段階はけっして来ません。成長すればするほど、まだまだ開発し磨いていかねばならないものがあることに気づくものだからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(3)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.32-34

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 18-g (克服できない困難は絶対にふりかからない)

  =交霊会のメンバーに対して=

 ここにお集まりの皆さんは完璧な信仰を持っていなければなりません。なぜならば皆さんは死後に関する具体的な知識をお持ちだからです。霊カの証を手にしておられるからです。そこまでくれば、さらに、今度は万事が良きに計らわれていること、神の摂理に調和しさえすれば幸せな結果がもたらされるとの信念を持たれてしかるべきです。無明から生まれるもの---あなた方のいう"悪″の要素によって迷わされることは絶対にないとの信念に生きなくてはいけません。自分は神の摂理による保護のもとに生き、活動しているのだという信念です。
 心に邪なものさえなければ善なるものしか近づきません。善性の支配するところには善なるものしか存在し得ないからです。こちらの世界からも神の使徒しか近づきません。あなた方には何一つ恐れるものはありません。あなた方を包み、あなた方を支え、あなた方に霊感を吹きこまんとする力は、宇宙の大霊からくる力にほかならないのです。
 その力はいかなる試練においても、いかなる苦難においても、あなた方の支えとなります。心の嵐を鎮め、絶望の暗闇から知識の光明へと導いてくれます。あなた方は進歩の大道にしっかりと足を置いておられます。何一つ恐れるものはありません。
 完き信念は恐れを払います。知識は恐れを駆逐します。恐れは無知から生まれるものだからです。進化せる魂はいついかなる時も恐れることを知りません。なぜならば自分に神が宿るからには人生のいかなる出来ごとも克服できないものは有りえないことを悟っているからです。
 恐怖心はみずから魂の牢獄をこしらえます。皆さんはその恐怖心を達観しそのバイブレーションによって心を乱されることなく、完璧な信仰と確信と信頼を抱き、独立独歩め気構えでこう宣言できるようでなければなりません---自分は神なのだ。足もとの事情などには迷わされない。いかなる困難も内部の無限の霊力できっと克服してみせる、と。その通り、人間はあらゆる環境を支配する力を所有しているのです。それを何を好んで(恐怖心などで)縮こませるのでしょう。
 神は物的なものも霊的なものも支配しております。神の目からすれば両者に区別はありません。ですから物の生命を霊の生命から切り離して考えてはなりません。決して水と油のように分離したものではありません。両者とも一大生命体を構成する不可分の要素であり、物的なものは霊的なものに働きかけ、霊的なものは物的なものに働きかけております。
 ですから、あなた方のように霊カの恵みを受けておられる方にとっては、いついかなる場においても神の存在を意識した生き方をしているかぎり、克脱できない困難は絶対にふりかからないという信念に燃えなくてはなりません。
 世の中のいかなる障害も、神の目から見てそれが取り除かれるべきものであれば、きっと取り除かれます。万が一にもあなたの苦難があまりに大きくて耐え切れそうになく思えた時はこう理解してください---私の方でも向上進化の足を止めて 精一杯のことをして差し上げますが、今はじっとその苦労に耐え、それがもたらす教訓を学び取るように心掛ける方が賢明である場合がある、ということです。


   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.17-19


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 18-h (克服できない困難は絶対にふりかからない)=続=

 人間が地上にあるのは人格を形成するためです。ふりかかる問題をどう処理していくかがその人の性格を決定づけます。が、いかなる問題も地上的なものであり、物的なものであり、一方あなたという存在は大霊の一部であり、神性を宿しているからには、あなたにとって克服できないほど大きな問題は絶対に生じません。
 心の平和は一つしかありません。神と一体となった者にのみ訪れる平和、神の御心と一つになり、神の大いなる意志と一つになった人に訪れる平和、魂も精神も心も神と一体となった者にのみ訪れる平和です。そうなった時の安らぎこそ真の平和です。神の摂理と調和するからです。それ以外には平和はありません。
 私にできることは摂理をお教えするだけです。その昔、神の御国は自分の心の中にあると説いた人がいました。外にあるのではないのです。有為転変の物質の世界に神の国があるはずはありません。魂の中に存在するのです。
 神の摂理は精細をきわめ完璧ですから、一切のごまかしが利きません。悪の報いを免れることは絶対にできませんし、善が報われずに終ることもありません。ただ、永遠の摂理を物質という束の間の存在の目で判断してはいけません。より大きなものをご覧にならずに小さいものを判断してはいけません。
 地上の束の間のよろこびを永遠なる霊的なものと混同してはなりません。地上のよろこびは安ピカであり気まぐれです。あなた方は地上の感覚で物事を考え、私どもは霊の目で見ます。摂理を曲げてまで人間のよろこびそうなことを説くのは私にはとてもできません。
 私どもの世界から戻ってくる霊にお聞きになれば、みな口を揃えて摂理の完璧さを口にするはずです。そのスピリットたちは二度と物質の世界へ誕生したいとは思いません。ところが人間はその面白くない物質の世界に安らぎを求めようとします。そこで私が、永遠の安らぎは魂の中にあることをお教えしようとしているのです。最大の財産は霊の財産だからです。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.20-21
 
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 18-i (人生の困難は魂の向上のための階段)

 一つひとつの体験があなたの人生模様を織りなしています。あなた方はとかく一時の出来ごとでもって永遠を裁こうとされます。つまり目先の矛盾撞着にとらわれ、人生全体を通して神の叡智の糸が織りなされていることを理解しません。
 調和を基調とするこの大宇宙の中であなた方一人ひとりが神の計画の推進に貢献しております。人生でのできごと---時には辛く絶望的であり、時にほ苦しく悲劇的であったりしますが---その一つひとつがこれから辿りゆく道のために魂を鍛える役割を果たしているのです。
 光と闇、日向と陰、こうしたものは唯一絶対の実在の反映にすぎません。陰なくして光はなく、光なくして陰はありません。人生の困難は魂が向上していくための階段です。
 困難、障害、不利な条件---これらはみな魂の試練なのです。それを一つ克服した時、魂はいっそう充実し向上して、一段と強くそして純粋になってまいります。
 いったい無限の可能性を秘めた魂の潜在力が困難も苦痛もなく、陰もなく悲しみもなく、苦難も悲劇も体験せずに発揮されると思われますか。もちろん思われないでしょう。
 人生のよろこび、楽しい笑いの味は、人生の辛酸をなめつくして始めて分かります。なぜなら、深く沈んだだけ、それだけ高く上がれるからです。地上生活の陰を体験するほど、それだけ日向のよろこびを味わうことができます。
 体験のすべてが霊的進化の肥やしです。そのうちあなた方も肉体の束縛から開放されて曇りのない目で地上生活を振り返る時がまいります。そうすれば紆余曲折した一見とりとめのない出来事の絡み合いの中で、一つひとつがちゃんとした意味をもち、あなたの魂を目覚めさせ、その可能性を引き出す上で意義があったことを、つぶさに理解されるはずです。
 地上のいかなる体験も、それに正しく対処し正しく理解すれば、人間の魂にとって必ずやプラスになるものをもっております。いったい何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、何の苦痛も、何の悩み悼みもない世界を想像できるでしょうか。そこにはもはや向上進化の可能性がないことになります。克服すべきものが何もないことになります。ただ朽ち果てるのみです。

   『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986, pp.41-43

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 18-j  (この世に克服できない困難は何一つない)

 私たちとしては、あなた方人間に理想を披歴するしかありません。言葉をいい加減に繕うことは許されません。あなたがもし魂の内部に完全な平静を保つことができれば、外部にも完全な平静が訪れます。物的世界には自分を傷つけるもの、自分に影響を及ぼすものは何一つ存在しないことを魂が悟れば、真実、この世に克服できない困難は何一つありません.かくして訪れる一日一日が新しい幸せをもたらしてくれることになります。いかに優れた魂にとっても、そこまでは容易に至れるものではないでしょう。
 しかし人間は苦しい状態に陥ると、それまでに獲得した知識、入手した証拠をあらためて吟味しなおすものです。本当に真実なのだろうか、本当にこれでいいのだろうか、と自問します。しかし、これまで何度も申し上げてきたことですが、ここでまた言わせていただきます。万事がうまく行っている時に信念をもつことは容易です。が、信念が信念としての価値をもつのは暗闇が太陽をさえぎった時です。が、それはあくまでも雲にすぎません。永遠にさえぎり続けるものではありません。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.144-145


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 18-k (困難も試練もないのであれば何の進歩も得られない)

 もしも人生が初めから終わりまでラクに行ったら、もしも乗り切るべき困難もなく耐え忍ぶべき試練もなく、克服すべき障害もないとしたら、そこには何の進歩も得られないことになります。レースは競い合うからこそ価値があるのです。賞はラクには貰えず一生けんめい頑張ったあとにいただくから価値があるのです。そういう価値ある人間になるように努力なさい。この世に克服できない悩みはありません。ですから、悩んではいけないのです。征服できない困難はないのです。力の及ばないほど大きな出来ごとは何一つ起きないのです。
 一つ一つの経験から教訓を学ぶことです。難しいと思ったときは、怯まず自分にムチ打つのです。そうすればそれだけ前より強い人間となります。自分が霊であること、それが肉体を通して表現しているのだということ、そして自分という永遠の霊に傷を負わせたり害を及ぼしたりするものは決して生じないということを忘れないことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p.155


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 18-l (悲しみ、病気などは学びのための大切な手段である)

  悲しみは魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも特に深甚なる意味をもつものです。悲しみはそれが魂の琴線にふれた時、いちばんよく魂の目を覚まさせるものです。魂は肉体の奥深く埋もれているために、それを目覚めさせるためにはよほどの体験を必要とします。悲しみ、無念、病気、不幸等は地上の人間にとって教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその教訓が簡単に学べるものであれば、それはたいした価値のないものということになります。悲しみの極み、苦しみの極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学ぷだけの準備の出来ていた魂にとって深甚なる価値があると言えるのです。

  『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)潮文社、
     1988、p.55.


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 18-m (苦難を乗り切る時にこそ魂の偉大さは発揮される)

 魂の偉大さは苦難を乗り切る時にこそ発揮されます。失意も落胆も魂のこやしです。魂がその秘められたカを発揮するにはいかなるこやしを摂取すればよいかを知る必要があります。それが地上生活の目的なのです。失意のどん底にある時は、もう全てが終ったかの感じを抱くものですが、実はそこから始まるのです。あなた方にはまだまだ発揮されていない力ーーそれまで発揮されたものより遥かに大きな力が宿されているのです。それは楽な人生の中では決して発揮されません。苦痛と困難の中にあってこそ発揮されるのです。金塊もハンマーで砕かないと、その純金の姿を拝むことができないように、魂という純金も、悲しみや苦しみの試練を経ないと出てこないのです。それ以外に方法がないのです。ほかにもあると言う人がもしいるとしても、私は知りません。
 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意妹でのご利益と言わねばなりません。何もかもがうまくいき、日なたばかりを歩み、何一つ思い患うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫の戻を開き、神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。
 困難にグチをこぼしてはいけません。困難こそ魂のこやしです。むろん困難の最中にある時はそれを有難いと思うわけにはいかないでしょう。辛いのですから。しかし、あとでその時を振り返った時、それがあなたの魂の目を開かせるこのうえない肥やしであったことを知って神に感謝するに相違ありません。この世に生まれくる霊魂がみな楽な暮しを送っていては、そこには進歩も開発も個性も成就もありません。これは酷しい辛い教訓ではありますが、何事も価値あるものほど、その成就には困難がつきまとうのです。魂の懸賞はそうやすやすと手に入るものではありません。

   『シルバー・バーチの霊訓(1)』(近藤千雄訳)潮文社、
       1988、pp.56-57.

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 18-n (克服できない困難というものは絶対に生じない)

 私たちが闘わなければならない本当の敵は無用の心配です。それがあまりに多くの人間の心に巣くっているのです。単なる観念上の産物、本当は実在しない心配ごとで悩んでいる人が多すぎるのです。そこで私は、取趣苦労はおやめなさいと、繰り返し申し上げることになるのです。自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物というものは決して与えられません。しかも、あふれんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれるあらゆる力を引き寄せることになるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓(7)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.30-31


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 18-o ( 地震の災害などで無一文になった人はどのような運命か)

 地上生活にまつわる幸とか不幸のあらゆる体験から逃れることはできません。明るい側面と同時に暗い側面も体験しなくてはなりません。”蓮の台”の生活では魂は成長しません。困難と闘争と危機の時にこそ魂は自我を発揮するのです。あなたにそれが得心できないお気持ちは分かります。地上的感覚でお考えになっているからです。しかし永遠の観点から見れば、恵まれた条件よりも困難な事態の方が有難いことなのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、p. 72


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 18-p (苦難が人間性を磨くことにならない場合もあるのでは)

 私は、苦しみさえすれば自動的に人間性が磨かれるとは決して申しておりません。苦難は地上にいるかぎり耐え忍ばねばならない、避けようにも避けられない貴重な体験の一つで、それが人間性を磨くことになると言っているのです。たびたび申し上げておりますように、青天の日もあれは雨天の日もあり、嵐の日もあれは穏やかな日もあるというふうに、一方があれば必ずもう一方があるようになっているのです。もしも地上生活が初めから終わりまで何一つ苦労のない幸せばかりであれば、それはもはや幸せとは言えません。幸せであることがどういうことであるかが分からないからです。悲しみを味わってこそ幸せの味も分かるのです。苦難が人生とは何かを分からせる手段となることがよくあります。苦難、悲哀、病気、危機、死別、こうしたものを体験してはじめて霊的な目が開くのです。それが永遠の実在の理解に到達するための手段となっているケースがたくさんあります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.140-141


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 18-q (苦難に遭うと不幸だと思い卑屈になる人が多いが)

 それは結局のところその人の人生に確固とした土台がないからです。人生観、宗教観、それに物の観方が確固とした知識を基盤としておれば、いかなる逆境の嵐が吹きまくっても動じることはないはずです。これも人生の一こまだ、すべてではなくホンの一部にすぎないのだという認識ができるからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、p.141


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 18-r (苦難はその意義が理解できる人だけが受ければよいということか)

 そのようなことは神と相談なさってください。この私に言えることは、これまで幾つもの存在の場で生活してきて、自然の摂理は厳格な正確さをもって働いており、絶対に誤ることはないことを知ったということ、それだけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
        潮文社、1987、pp.141-142


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  18-s[78-h](耐え切れない苦しみだから自殺するのではないのか)

 別の日の交霊界では、親戚の者が自殺をしてしまったという人からの投書が読み上げられた。その最後に「自殺行為は霊的進歩の妨げになるのでしょうか」という質問があった。これに対してシルバーバーチが「もちろんです」と答えると、神は耐え切れないほどの苦しみは与えないとおっしゃったことがありますが、自殺に追いやられる人は、やはり耐え切れない苦しみを受けるからではないでしょうか、と質問が続いた。

 それは違います。説明の順序として、これには例外があることから申し上げましょう。いわゆる精神異常者、あるいは霊に憑依されている場合もあります。が、この問題は今はわきへ置いておきましょう。いずれにせよ、このケースはごく少数です。大多数は私に言わせれば臆病者の逃避行為であると言ってよいと思います。果たすべき義務に真正面から取り組むことができず、いま自分が考えていること、つまり死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れるいちばんラクな方法だと考えるわけです。ところが、死んだつもりなのに相変わらず自分がいる。そして逃れたはずの責任と義務の観念が相変わらず自分につきまとう。その精神的錯乱が暗黒のオーラを生み、それが外界との接触を遮断します。その状態から抜け出られないまま何十年も何百年も苦しむ者がいます。
 しかし、私がいつも言っているように、いちばん大切なのは動機です。何が動機で自殺したかということです。ままならぬ事情から逃れるための自殺は、今述べた通り、そう思惑どおりには行きません。が一方、時たまあるケースとして、動機が利己主義でなく利他主義に発している時、つまり自分がいなくなることが人のためになるという考えに発している時は、たとえそれが思い過しであったとしても、さきの臆病心から出た自殺とはまったく違ってきます。
 いずれにせよ、あなたの魂はあなた自身の行為によって処罰を受けます。みんな自分の手で自分の人生を書き綴っているのです。いったん書き記したものは二度と書き変えるわけにはいきません。ごまかしはきかないのです。自分で自分を処罰するのです。その法則は絶対であり不変です。
 だからこそ私は、あくまで自分に忠実でありなさいと言うのです。いかなる事態も本人が思っているほど暗いものではありません。その気になれは必ず光が見えてきます。魂の奥に潜む勇気が湧き出てきます。責任を全うしようとしたことが評価されて、その分だけ霊界からの援助のチャンスも増えます。背負い切れないほどの荷はけっして負わされません。なぜなら、その荷はみずからの悪業がこしらえたものだからです。けっして神が“この人間にはこれだけのものを負わせてやろう”と考えて当てがうような、そんないい加減なものではありません。
 宇宙の絶対的な法則の働きによって、その人間がその時までに犯した法則違反に応じて、きっちりとその重さと同じ重さの荷を背負うことになるのです。となれば、それだけの荷をこしらえることが出来たのだから、それを取り除くことも出来るのが道理のはずです。つまり悪いこと、あるいは間違ったことをした時のエネルギーを正しく使えは、それを元通りにすることが出来るはずです。

 ― 因果律の働きですね。

 そうです。それが全てです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (9)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1987、pp. 208-211


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 18-t [56-i] (何のために生まれてくるのか=1= 苦難の意味)

 地上生活の目的は人間の霊性の発現を促すことです。
 地球という天体上に住む人間の一人一人に生きる目的があります。なのに大半の人間がその生活の基盤となっている霊的実在に気づいていないのは悲しいことです。まるで穴居人のように、ガランとした暗がりの中で暮らしております。視角がズレているのです。焦点が狂っているのです。ビジョンが間違っているのです。人生がもたらしてくれる莫大な豊かさをまったく知らずにいます。霊的真理に気がつけば自分がいま何をしなければならないかを自覚して、そこに人間革命が生じます。
 われわれはみんな人間的存在です。ということは、内部に不完全であるが故の欠点を宿しているということです。もしも完全であれば、あなた方は地上に存在せず私は霊界に存在しないでしょう。宇宙における唯一の完全な存在である大霊に帰一してしまっていることでしょう。
 私には皆さんの人間であるが故の弱点がよく理解できます。しかし、一つ一つの問題を自分への挑戦として平然と受け止めると同時に、内部の霊性を強化し、開発し、発展させて霊性を高めるための触媒として、それを克服していかねはなりません。
 地上的環境の中に置かれている以上あなた方は、地上ならではのさまざまな条件が生み出す幸福の絶頂と不幸のドン底、いわゆる人生の浮き沈みというものに直面しないわけにはまいりません。
 しかし、そこにこそ皆さんが地上に生を受けた意味があるのです。つまりそうしたさまざまな浮き沈みの体験が皆さんの霊、真実の自我に潜在する資質を顕現させることになるのです。困難と逆境とに遭遇してはじめて発揮されるものなのです。
 魂が真の自我に目覚めるのは太陽が光り輝いている時ではありません。バラ色の人生の中では霊性は発揮されません。危機、挑戦、困難、障害、妨害の中にあってこそ発揮されるのです。それが魂に潜在する神性を自覚する唯一の触媒を提供してくれるのです。
 これは、霊的叡智を求める求道者のすべてに言えることです。断腸の思い、悲痛、苦痛を体験しないことには、そのあとに訪れる恩寵の有難さが十分に理解できません。人のために役立とうとする人間は試練を覚悟しなければなりません。時には力の限界までしごかれることもあります。
 人間の一人一人に神の計画があるのです。偶然の事故、偶然のチャンス、偶然の一致というものはありません。すべてが大自然の摂理によって動いており、そこには奇跡も摂理への干渉も有り得ません。摂理そのものが完璧にできあがっているのです。なぜなら完全な叡智によって生み出されているからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 18-19


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 18-u[56-l](何のために生まれてくるのか=4= 解決できない問題はない)

 私には皆さんのどなたよりも長い経験があります。そのおかげで、われわれのすべてを包摂し全存在に配剤した自然法則の完璧さについて、皆さんよりも深く理解しております。
 時おり私は地上の同志のもとを訪ねてみることがありますが、霊的知識をたずさえているはずの人が悩み、そして心配しているのを見て、不可解でならないことがあります。霊的知識は、永遠の霊にはいかなる危害も及ばないことを保証する基盤であるはずです。霊的知識を手にした者は常に光の中に生き、明日を思い煩うことがあってはなりません。
 地上には人間が思い煩う必要のあることは何一つありません。あなたの内部には霊的兵器― 非常事態や危機に際して活用できる霊的資質が宿されているのです。その潜在力を呼び起こし、待機している霊に訴えれば、解決できない問題は何一つありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 23-24


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 18-v [10-j] (生きがいある人生を送るには=3= 苦難の意味)

 さて、ここで人生体験が霊的に見てどのような意味をもっているかをご説明しましょう。地上の人間は、なぜ苦しみがあるのか、病気には何の目的があるのか、なぜ危機、困難、障害といったものに遭遇しなければならないかといった疑問を抱きますが、これらはみなそれに遭遇することによってまずカタルシス(※)を起こさせ、続いてカタリスト(※※)として霊的真理を学ばせる機会を提供してくれる、魂がぜひとも体験しなければならない挑戦課題なのです。(※語源的には“浄化する”ということで、それが精神医学において、無意識の精神的抑圧を洗い流す作用を意味する。※※精神的革命の触媒となるもの―訳者)
 魂は低く落ち込むことが可能であるだけ、それだけ高く向上することもできます。それが両極の原理です。すなわち作用と反作用は相等しいものであると同時に正反対のものであるという法則です。憎しみと愛、光と闇、嵐と静けさ、こうした“対”は同じコインの表と裏の関係にあるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 29-30

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 18-w (しくじるということの効用はやり直しがきくということ)

 苦々しい体験ほど薬になるのです。楽な体験は往々にして毒になるものです。サークルのメンバーの方なら私が何度も申し上げているのでよくご存知でしょうが、しくじるということの効用は、やり直しがきくということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、p. 177

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 18-x [24-u] (地上生活は霊界の生活と違って両極性から成っている)

 ― 時おり味わう精神的な苦悩は外部から来るのではなく内部から湧いてくるのでしょうか。

 どちらからでもあります。よく理解していただきたいのは、地上生活は霊界の生活と違って両極性(相対性)から成っていることです。霊界では同じ発達段階の者が同じ界層で生活しておりますが、地上ではさまざまな発達段階の者が混ざり合って生活しております。ということは、対照的なものを見たり体験したりする機会が得られるということです。かくして光があれば闇があり、温かさがあれば冷たさがあることになります。そこに地上生活の存在理由があるのです。そうした両極の体験を通じて魂が真の自我に目覚めていくのです。
 言いかえれば地上は学校です。そこでいろいろと学ぶことによって、いつかは住むことになる霊の世界での生活での必要な教訓を身につけるのです。苦悩を味わうということは、その反対である喜びを味わえるということです。
 たびたび申し上げておりますように、地上での出来事は正反対であると同時に相等しいということがあります。つまり同じコインの表と裏の関係です。魂が自我に目覚めるのはさまざまな体験の中においてこそです。それは鋼(はがね)を鍛える過程、あるいは原鉱を砕いて黄金を磨き出す工程と同じです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (10)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 187-188

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 18-y[29-s] (霊的指導者は過酷な試練を体験しなければならない)

 ― 初めて交霊会に出席したある女性霊媒に温かい歓迎の挨拶をしてから、こう述べた ―

 あなたのために私が何かのお役に立てば、あなたが神から授かった霊的能力を使って天命を全うしておられるように、私も私の天命を全うしていることになります。

 ― 私はとても幸せ者だと思っております。

 そうです。私たちはみんな幸せ者です。自分を豊かな存在としてくれている霊的知識の所有者だからです。ことにあなたのような、霊の道具として働いておられる方にお会いすると、私は大へん幸せな気持になります。なぜなら、私にはその仕事の大変さ、遭遇する困難の厳しさがよく分かるからです。懐疑と困難と絶望から、知識と確信と啓発への巡礼の旅をしてこられた、その大変さを私はよく理解しております。
 霊的指導者の人生はすべて同じパターンをたどります。むごい仕打ちを受ける試練の時期があります。基盤としていたものがすべて瓦壊したかに見えて、悲哀が身に染み煩悶する危機的な時期もあります。もはや導きと理解を求めるところはいずこにも無いかに思うことがあるものです。
 いやしくも人のために生涯を捧げる使命をもつ者は、過酷な試練を体験しなければならないのです。もはやこれ以上は耐え切れないと思うギリギリの淵まで追いつめられ試されなければならないのです。地上のいかなる者からも救いの手は差しのべてもらえないと思える深淵まで落ちてみなければならないのです。
 そこに至ってはじめて魂が目を覚まし、霊界から届けられる豊かさと力と導きと叡智と愛とを受け入れる用意が整うのです。過酷な体験の目的は慈悲の心を芽生えさせることにあるのです。なぜかと言えは、慈悲の心なくしては霊覚者も治療家も其の意味で人を救う仕事はできないからです。
 それしか方法はないのです。太陽がさんさんと輝き、何不自由ない安楽な生活の中で、はたして自我の開発が望めるものでしょうか。試練を経ずして魂の崇高性が発揮されるでしょうか。何一つ学ぶことのない生活を送っていて、一体どういう精神的発達が望めるのでしょうか。
 そのうちあなたも地上生活を振り返って“厄介な問題こそ有難かったのだ。あの苦労があったからこそ人生の目的を悟り自我の開発の道が見出せたのだ”と思われる日が来ることでしょう。
 人生の出来事の一つ一つに償いがあり、差引き勘定がきちんと行われるようになっております。神には絶対に手違いというものがありません。過去を振り返ってごらんになれば、この道にたずさわる他のすべての同志と同じく、あなたの人生も間違いなく霊の導きにあずかっていることがお分かりになります。
 他に類のない地上最強のエネルギーの通路となっておられることは名誉なことです。あなたを通じてそのエネルギーが流れるのです。あなたを鼓舞するのです。そのお蔭で、寄るべない身の上をかこつ人々を元気づけてあげることができるのです。あなた自身もかつてその援助にあずかったのです。それは牧師にも科学者にも思想家にもできないことです。なぜなら彼らには、悲しいかな、霊の働きかける余地がないからです。
 あなたがたった一人の人間に自我を見出させてあげることができたら、たった一人の人間を喪の悲しみから救い出してあげることができたら、たった一人でも病の人を癒やしてあげることができたら、それだけであなたの人生は価値をもつことになるのです。
 それを可能にさせる力があなたの身のまわりに存在し、あなたを包み、守り、指示を与え、あなたの大切な財産である神性と霊的能力の開発を続けさせてくれていることを認識しておられるあなたは、何と恵まれた方でしょう。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.34-37

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 18-z[29-t] (苦労なしには魂は自我を見出すチャンスがない)

 ― すぐれた霊媒になるためには苦しまねばならないのでしょうか。苦労の連続で生涯を終えている霊媒を数多く知っております。私はスピリチュアリストとしての生活を心掛けてきましたが、霊媒になりたいとは思いませんでした。それが子供を失ってからその気になりはじめました。

 光を見出すのは暗闇の中にあってこそです。人生はすべて両極性です。苦労なしには魂は自我を見出すチャンスがありません。苦難がその触媒となるのです。霊的に向上し、霊的資質をより多く具え、喜んで人のために自分を犠牲にする覚悟ができるようになる、その手段として用意されるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp.37-38

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 18-za (人生の難問が生じた時こそそれに感謝すべきである)

 人生の難問の一つ一つを、あなたが解決を迫られている課題として受け止めなさい。それに挑戦していく過程の中で霊性が磨かれ、発達し、潜在的神性が表面に出てくるのです。順風満帆に事が運んでいる時に感謝する必要はありません。難問が生じた時こそ感謝すべきです。あなたにとっての挑戦課題が突きつけられたのであり、それを真正面から受け止めることによってあなたの霊性が一段と磨かれる、その絶好のチャンスだからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.68

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 18-zb (人生の嵐の中で悪戦苦闘することに意味がある)

 あなたが人生の嵐に遭遇するのを私たちが阻止してあげるわけにはいきません。又その嵐の中で悪戦苦闘するのを私たちが防いであげることもできません。そうした試練にあなたがどう対処し、そこから教訓を学ぶために持てる才覚をどう働かせるかを、側からじっと見守らねばならないこともあるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.68

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 18-zc (人生は矛盾しているかに思える両極性で成り立っている)

 光を見出せるのは闇の中においてこそです。嵐の中にあってはじめて平穏無事のありがたさが分かります。悲しみを味わってはじめて喜びを知るのです。人生は一見すると矛盾しているかに思える両極性で成り立っているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.68-69

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 18-zd (苦難は自分が霊であることを悟るために神が用意した触媒である)

 健康を損うまでは健康のありがたさは分かりません。雨の日の鬱陶しさを耐え忍んではじめて晴天のありがたさが分かります。それと同じく、苦難は肉体が自分ではなくそれを操っている霊こそ自分であることを悟るために神が用意した、一種の触媒です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 69

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 18-ze (地上生活の本質そのものが絶えず問題と取り組むようにできている)

 地上生活の問題は人間みずからの努力で解決していかねばなりません。問題が生じないように私が処置を施してあげるわけにはいきません。地上生活の本質そのものが絶えず問題と取り組むようにできているのです。それと正面から取り組むのです。内部に潜む霊力を引き出して精いっぱい頑張るのです。そして、それでもなお十分でない時にはじめて、もう一歩踏み込んで、無限の宝庫からの援助を求めて祈るのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 69

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 18-zf (何の困難も体験しないようでは哀れなロボットと同じ)

 何の問題も生じないようでは、それは哀れなロボットと同じです。血の通わない操り人形です。あなたの内部には地上で開発すべき可能性が無限に秘められているのです。それは日向ぼっこをしているような呑ん気な生活、何一つ不自由のない生活の中では開発されません。嵐の中で必死に舵取りをしている中においてこそ内部の霊力が呼び覚まされ発達するのです。私にはこんな厳しい説教しかできなくて申し訳ありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 69-70

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 18-zg (困難こそ真実の自我を見出す最良の手段である)

 私はその場かぎりの、ただ有難がられるだけの説教はしたくありません。人間はかくあらねばならないという、あるがままの真実をお教えする絶好のチャンスだと思って説いているのです。困難こそありがたいのです。真実の自我を見出す最良の手段なのです。ですから、言いにくいことを申すようですが、困難に遭遇したら、よくぞお出で下さいましたと歓迎することです。それは困難のマスクをかぶった友″なのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 70

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 18-zh (人間の魂が居眠りから目覚めるために)

 大半の人間の魂は居眠りをしております。小さな神性の火花が休眠状態にあります。それを煽って大きく燃え上がらせる必要があります。その触媒となるのが困難であり危機であり悲しみであり別れであり病気です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 71

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 18-zi (魂が霊的真理の光に照らし出される用意が整えられるとき)

 神は地上の人生を、人間であるがゆえの弱さの限界に到達したかに思う段階で強さを見出すように配剤しております。もはや地上のどこにも頼るべきものが見出せず万事休すと思えた時こそ、魂が霊的真理の光に照らし出される用意が整ったのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 71

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 18-zj (困難こそ霊的な力と成長を身につけさせてくれる)

 地上生活の悩みごとから逃れることはできません。必ず生じるものです。それなしには目的地にたどり着けない、踏み石のようなものです。人生の嵐を一つ一つ切り抜けていくうちに霊性が強化され、性格が高尚さを増してまいります。困難こそ霊的な力と成長を身につけさせてくれるのです。ですから、困難にしりごみしてはなりません。内部から引き出す力と、外部から引き寄せる力とによって克服していくべき挑戦課題として、堂々と受け入れていくことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 71

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 18-zk [61-za] (魂が完全に打ちのめされるほどの出来事は決して生じない)

 魂が完全に打ちのめされるほどの出来事は決して生じません。一つ一つの出来事は、いかに困難をきわめるものであっても、魂をいっそう成長させるための手段と心得てください。現実に数多くの問題と困難に取り囲まれているあなたにとっては、そういう受け止め方は決して容易なことではないでしょう。が、その場かぎりの捉え方ではなく、永遠の価値をもつ尺度があることを忘れてはいけません。それが霊的真理です。疑念に襲われた時はその真理にしがみつくことです。人間である以上は煩悩を完全に閉め出すことはできません。が、だからと言ってその煩悩を怠慢の言い訳にしてはなりません。心構え一つで煩悩を力に変えることができるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 74

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 18-zl [13-zl] (試練も痛みも苦しみもない生活のなかでは堕落あるのみ)

 地上生活での体験を素直に受け止め素直に理解すれば、どれ一つとして魂を向上させないものはありません。いったい困難のない世界、試練も痛みも苦しみもない生活が想像できるでしょぅか。そこには克服すべきものが一つもなく、したがって進歩もなく、ただ堕落あるのみです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 75

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 18-zm(仕事が困難であればあるほど成就されるものも大きい)

 困難な仕事は頑健な人間に当てがわれます。タフな人間にやさしい仕事を与えるのは無駄というものです。厳しい使命が与えられるということは、その人が霊的に有能であることの指標です。無知と迷信との闘いに臨む将軍は厳しい教練によって鍛えられていなければなりません。さもないとその任に耐えられません。ですから、矛盾しているように思えるかも知れませんが、仕事が困難であればあるほど、それだけ成就されるものも大きいということになります。

     『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 146

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 18-zn(この世的な悩みごとは影にすぎず実在ではない)

 霊的知識を手にした者にとって大切なことは、二度とこの世的な悩みごとのために塞ぎ込むようなことがあってはならないことです。悩みごとは影にすぎません。実在ではないのです。実在は霊です。霊とは内部の神性です。それがあなたに生命を与えているのです。内にも外にも霊にまさる潜在力は存在しません。

     『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 146

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 18-zo(いかなる悩みごとも霊の光を曇らせることはできない)

 あなたが人間であり、それゆえに転ぶこともあることは私も知っております。ですが、悩みごとが次第に大きく感じられてきた時、そこでしっかりと踏みとどまり、いかなる悩みごとも、実在である霊の光を曇らせることはできないのだという認識を新たにすることができれば、心晴れやかとなり絶対に克服してみせるとの信念が湧いてまいります。これは実に厳しい教訓ではあります。が、もしらくに達成できるものであれば、求める価値はないことになります。両手に花とはまいりません。何かを成就せんとすればまず自我を鍛えないといけません。鍛練の必要のないほどのものであれば、自我の開発にはつながりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 147

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 18-zp (いかなる問題が生じても霊的存在としての生き方に徹すること)

 日々の生活でいかなる問題が生じようと、それによって気が滅入るようなことがあってはなりません。私はバラ色の人生、何の苦労もないらくな人生をお約束することはできません。お約束ができるのは、霊的存在としての本来の生き方に徹していれば、必ずや霊的向上が得られるということです。そうなって初めて物質の世界へ誕生してきた甲斐があったことになるのです。

    シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 148

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 18-zq (逆境や悲哀の中にあってこそ人間性が鍛えられていく)

 人生体験のすべてがそれぞれに大きな生命機構の一部としての意義をもっております。およそ歓迎したくない体験― 悲しいこと、辛いこと、嘆き、落胆、苦悩、痛み等々も魂にとって掛けがえのない価値をもっております。その有難さは地上にいる間は実感できません。地上人生の価値の明確な全体像が理解できるようになるのは、肉体を離れて煩悩から解放され、局部にとらわれずに全体を眺めることができるようになった時です。悲哀の中にあってこそ魂が強化されていることが分かります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 150

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 18-zr (人間は地上で何度か暗い陰の時代を送ることになっている)

 人間は地上生活の間に何度か暗い陰の時代を送らねばならないようになっているのです。その陰の中に入ったら、それは人生の一部であって全部ではないことを自分に言い聞かせなさい。陰は太陽の光があるからこそできるのです。あなたの目には見えなくても太陽は輝いているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.167

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 18-zs (陰は束の間の存在で永久に続くものではない)

 陰は束の間の存在です。永久に続くものではありません。そのうち消えて、また光があなたの存在を照らします。手にした霊的知識、不変の基本的真理にしがみつき、地上生活で絶対に避けられないさまざまな問題に真正面から対処しなさい。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.167

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 18-zt (困難も厄介なことも生じないような人生はありえない)

 問題も困難も厄介なことも生じないような人生はありえません。地上がそういうところだからこそ、あなたもこうして生まれて来ているのです。大切なのはそれへの対処の仕方です。内在する神性を呼び覚まして解決策を見出し正しい方向を選択する、そういう対処の仕方が大切です。そのことはよくご存知のはずです。なのにそれが実行できずにいます。難問や心配事に足を取られて身動きができなくなり、実在ではないただの影をやたらに大ゲサなものに考えてしまっています。物的なものはことごとく霊的実在のおぼろな反影であり、幻にすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.167-168

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 18-zu[56-r] (霊的価値の高いものが簡単に達成されることはない)

 そもそもあなたがこの地上へ生まれて来たのは、陰性のもの、邪悪なものを克服して霊的に一段と強くなるためです。それが容易に達成されるとは申しておりません。大へん難しいことです。しかし霊的価値の高いものがそう簡単に達成されるはずがありません。なぜなら、それには霊的視野と焦点を常に誤らないようにするための強烈な精神的鍛練を要するからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.169

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 18-zv[63-x] (いかなる困難も内部の霊力で必ず克服できる)

 純粋に物的な弱みがバランスの取れた生き方を困難にさせる時期があることは確かです。が、それも内部の霊力を駆使することによって必ずや克服できます。その内部の兵器庫にはマイナスに作用するものとの葛藤に必要な武器のすべてが揃っており、これに勝るものはありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.169

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 18-zw (霊的褒賞は気楽な道を求める者にはもたらされない)

 気楽な道は前途に霊的な目標をもたない人に任せればよろしい。霊的な鍛練とそれに伴ってもたらされる霊的な豊かさを求める者には、厳しい道が用意されます。霊的褒賞は気楽な道を求める者にはもたらされません。もしそうでなかったら、その褒賞は敢えて求めるほどの価値はないことになります。闘いを挑み苦しみ抜いた末に勝利を得る方が、何の挑戦課題もなく呑ん気に生きているよりはるかに上です。魂が自我に目覚め内在する神性が表現の機会を得るのは、必死に努力するその最中においてです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.170

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 18-zx (永遠の魂を傷つけるほどの事態は決して起こり得ない)

 いかなる事態に立ち至ろうと、それはあなたにとっての挑戦課題として受け止めなさい。魂はその根源において神性を帯びているがゆえに、その挑戦を真正面から受け止め克服し一段と強力になって行くだけの力を秘めております。いかなる事態も歓迎し、決して悲観的になったりグチをこぼしたりしてはいけません。あなたほどの霊的知識をそなえた方ならば、毎朝の訪れを内的な喜びをもって迎えることができてしかるべきです。永遠の魂を傷つけるほどの事態は決して起こり得ないからです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.170

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 18-zy (魂の偉大さは試練と洗練の過程をへずしては達成されない)

 偉大な霊ほど困難な地上生活を耐え忍ばねばなりません。魂の偉大さは試練と洗練の過程をへずしては達成されません。つまり霊性の強度が見せかけのものでないことを、その美と光輝と雄大さの中で示せるようでないといけないのです。困難は魂にとって薬です。身体にとっても薬になることがあります。内部の潜在力を表面に呼び出すための挑戦課題です。かくしてその人は成長し発達し開眼して神性が発揮されるようになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.170-171

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 18-zz (挫折もまた人生の一コマでそれはそれで意義がある)

 挫折もまた人生の一コマです。抑止と照合の作用を抜きにした人生はありえません。思いきり前進できる時期があるかと思えば、進もうにも進めない時期があります。それはそれで意義があるのです。摂理は完ぺきで、必ず作用し、各自がそれ相当のものを受けるようになっているのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.172

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 18-zza (暴風が荒れ狂ったあとには必ず春の新しい生命が誕生する)

 暴風が荒れ狂ったあとに必ず春の新しい生命が誕生します。見渡すかぎり雪に被われ荒涼としている時は、春の新鮮さを窺い知ることはできません。しかし、春はかならず訪れます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 174

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 18-zzb[56-u] (問題を一つ一つ片づけていく中で新たな力を獲得していく)

 悩みの種が尽きることはありません。だからこそ地上に来ているのです。すなわち問題を一つ一つ片づけていく中で、新たな力、より大きな発展を獲得していくのです。次から次へと生じる問題を挑戦課題として受け止め、一つ一つ処理していくことです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.182

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 18-zzc (困難を克服していく中で未開発の能力が引き出される)

 人生でもっとも貴重なものは入手がもっとも困難なものです。困難でなかったら貴重とは言えません。もしも霊の褒賞が安易に手に入るものであれば価値はないことになります。ですから、困難を歓迎するのです。しり込みしてはなりません。それを逆手にとって支配下におさめ、それを克服していく努力の中で、あなたの未開発の能力が引き出されるのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.184

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 18-zzd[65-k] (時には思い切り涙を流すことも大切である)

 時には思い切り涙を流すことも大切です。感情を発散させることになり、すっきりとして気分が和らぎます。意地を張って感情を押し込めたままにしておくよりも、涙とともにその感情を流し出した方がよいことがあるものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.184

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 18-zzc[1-y] (解決できない問題というのは絶対に生じない)

 暗黒の勢力と既得権にあぐらをかいている宗教界との戦いのほかに、もう一つ、人間の心“心配の念”という敵との戦いもあります。無知から生じる無用の心配の念が無数の人間の心に巣くっております。心配というのは想像の世界にしか存在しないものです。実在しないということです。それで私は心配の念を棄てなさいと繰り返し申し上げるのです。解決できない問題というのは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷は与えられません。常に明るく確信に満ちた雰囲気の中で生活していれば、必ずや援助し導いてくれる勢力を呼び寄せます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.190

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 18-zzd[13-zzc] (霊的進化は先へ進めは進むほど孤独で寂しいもの)

 霊の宝は楽々と手に入るものではありません。もしそうであったら価値はないことになります。何の努力もせずに勝利を得たとしたら、その勝利は本当の勝利といえるでしょうか。何の苦労もせずに頂上を征服したら、それが征服といえるでしょうか。霊的進化というものは先へ進めは進むほど孤独で寂しいものとなっていくものです。なぜなら、それは前人未踏の地を行きつつ後の者のために道しるべを残していくことだからです。そこに霊的進化の真髄があります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.196-197

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 18-zze[13-zzd] (気楽な人生を送っていては魂の力は発揮されない)

 人間の生活に過ちはつきものです。その過ちを改めることによって魂が成長するのです。苦難や障害に立ち向かった者が、気楽な人生を送っている者よりも大きく力強く成長していくということは、それこそ真の意味でのご利益〃と言わねばなりません。何もかもうまく行き、日向ばかりを歩み、何一つ思い煩うことのない人生を送っていては、魂の力は発揮されません。何かに挑戦し、苦しみ、神の全計画の一部であるところの地上という名の戦場において、魂の兵器庫を開き神の武器を持ち出すこと、それが悟りを開くということです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.201

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 18-zzf[16-zu] (魂が目覚めるまではしばしば悲しみや病気が伴う)

 心霊治療家になしうることは、病気の期間を縮めるか、治してしまうか、あるいは、もっと大切なこととして、真理に目覚める用意のできた魂に感動的な体験を与えることです。悪事とか懲罰の問題を超えたものがそこにあります。魂そのものの成長に関わる問題です。魂が目覚めるまでは往々にして悲しみや病気がお伴をすることになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 211

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 18-zzg[13-zzh] (試練と困難の影響は各自の霊的進化の程度による)

 いかなる人間にもかならず試練と困難、いわゆる人生の悩みが訪れます。いつも日向ばかりを歩いて蔭を知らないという人は一人もいません。ただその人生の難問がどの程度の影響を及ぼすかは、各自の霊的進化の程度に掛かっております。ある人には何でもないことが、あなたには大変に思える場合があります。反対に、ある人には大変に思えることが、あなたには些細なことに思えることもあります。各自が自分なりの運命を切り開いて行くのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 213

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 18-zzh (悲哀と苦痛は人類の永年の伴侶である)

 人間は無数のことに苦しみ、悲哀と苦痛を味わわねばなりません。これは人類の永年の伴侶なのです。遠い昔、どうみても何一つ苦労はなかったであろうと思われる昔からです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 213-214

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 18-zzi (何の困難もなければ向上進化の可能性もないことになる)

 こちら側にいるわたしたちにとって耐え忍ばねばならない最大の試練は、愛情の絆で結ばれている地上の人間が苦難と闘っているのを目のあたりにしながら、それがその人の魂にとって是非とも必要であるとの認識のもとに手をこまねいて見ていなければならない時です。
 地上のいかなる体験も、それに正しく対処し正しく理解すれば、必ずや人間にとってプラスになるものを有っております。いったい何の困難も、何の試練も、何のトラブルも、何も苦痛も、何の悩みもない世界が想像できるでしょうか。そこにはもはや向上進化の可能性がないことになります。克服すべきものが何もないことになります。ただ朽ち果てるのみです。

   トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
     コスモ・テン・パブリケーション、1989、p.153

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 18-zzj (あなたには遭遇する問題をすべて克服できる資質がある)

 遭遇する問題の一つひとつを、あなたへの挑戦と受け止めないといけません。障害の一つひとつが挑戦なのです。ハンディキャップの一つひとつが挑戦なのです。地上生活では挑戦すべき課題が次から次へと絶え間なく生じます。しかし、いかに強烈でも、いかに強大でも、あなたの進化を妨げるほどのものは絶対に生じません。大切なのは、それにどう対処するか――その心の姿勢です。
 自分の霊性の発達にとって、どういう体験が大切であるかの判断は、あなた方自身にはできません。大きな全体像の中のごく限られた一部しか目に入らないために、あなた方自身が下す判断はどうしても歪められたものとなります。
 ですから、体験の価値をうんぬんしていないで、とにかくそれを克服していくのです。きっと克服できます。克服するごとに霊性が強化されていきます。身体は不完全であり、弱さをもっております。あまりのストレスに負けて、体調を崩すことがあるかも知れません。
 しかし、あなた方に宿る霊性は大霊の一部なのです。霊は、潜在的には完ぺきです。すべてを克服していく資質を秘めております。その認識のもとに対処すれば、きっと克服できます。このことを語気を強めて申し上げるのは、それが私たちの教えの中枢だからです。

   トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』(近藤千雄訳)
     ハート出版、2003、p.75

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 18-zzk (霊の進化が苦難と葛藤を通して得られるなら魂に平安はないのではないか)

 そういう疑問は、世俗的な表面と霊的な内面との違いが理解できていないことから生じます。日常生活では葛藤と困難と闘争に明け暮れていながら、内面的には平安と安らぎの中に安住することができます。俗世では疾風怒涛の中にあっても、霊的な悟りは平静そのものであり得るのです。
 安らぎは内面から出てくるものです。外部からやってくるものではありません。地上の人間が物的身体の奥に秘められた霊的な自我を開発しさえすれば、泉のごとく霊力が湧いて出て、静寂、沈着、平穏、安らぎといったものがもたらされます。
 これまでに多くの偉大なる霊が地上へ降誕し、さまざまな分野で先駆的な仕事と改革をもたらしましたが、みな、過酷な現実の中で悪戦苦闘しながらも、霊的な自我は静かな悟りの世界にありました。物的な有為転変と霊的原理とを同等に見てはいけません。霊が主人であり、物質は従者です。つねに霊が主導権を握るようでなくてはなりません。

    トニー・オーツセン編『シルバーバーチの新たな啓示』(近藤千雄訳)
        ハート出版、2003、pp.129-130








 19. 価値判断視点の相違

 19-a (霊界の価値判断の基準は地上とは異なる)

 私たちの価値判断の基準は地上とは異なります。私たちは、出来ては消えゆく泡末のような日々の出来ごとを、物質の目でなく魂の知識で見つめます。その意味で私たちは、悲しみの涙を霊的知識によって平静と慰めに置きかえてあげる仕事にたずさわっている人に心から拍手喝采を送るものです。地上の大方の人間があくせくとして求めているこの世的財産を手に入れることより、たった一人の人間の魂に生き甲斐を見出させてあげることの方がよほど大切です。
 有為転変きわまりない人生の最盛期において、あなたはその肩に悲しみの荷を背負い、暗い谷間を歩まねばならないことがありましたが、それもすべては、魂が真実なるものに触れてはじめて見出せる真理を直接に学ぶためのものでした。大半の人間がとかく感傷的心情から、あるいはさまざまな魂胆から大切にしたがる物的なものに、必要以上の価値を置いてはいけません。そうまでして求めるほどのものではないのです。いかなる魂をも裏切ることのない中心的大原理すなわち霊の原理にしがみつかれることです。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
     潮文社、1986、pp.142-143


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 19-b (しばしば食い違う霊的視点と地上的視点)

 私は何一つ命令的なことを述べたこともなければ、無理やりに押しつけようとしたこともありません。私は霊的にみて一ばん良い結果をもたらすと確信したガイドライン(これはなかなか良い言葉です)をお教えしているのです。霊的にみてです。物的な結果と混同してはいけません。時にはあなた方人間にとって大へんな不幸に思えることが霊的には大へんな利益をもたらすことがあるのです。
 人間は問題をことごとく地上的な視点から眺めます。私たちは同じ問題を霊的な視点から眺めます。しかも両者は往々にして食い違うものなのです。たとえは他界する″ということは地上では悲しいこと″ですが、霊の世界ではめでたいこと″なのです。
 人間の限られた能力では一つ一つの事態の意義が判断できません。ですから、前にも申し上げたように、判断できないところは、それまでに得た知識を土台として(すべては佳きに計らわれているのだという)信念で補うしかありません。しかし、所詮、そこから先のことは各自の自由意志の問題です。自分の生き方は自分の責任であり、ほかの誰の責任でもありません。他人の人生は、たとえ肉親といえども代わりに生きてあげるわけにはいかないのです。その人がしたことはその人の責任であって、あなたの責任ではありません。もしそうでなかったら神の判断基準は地上の人間の公正な観念よりお粗末であることになります。
 自分が努力した分だけを霊的な報酬として受け、努力を怠った分だけを霊的な代償として支払わされます。それが摂理であり、その作用は完璧です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.18-19

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 19-c (“苦しみ”という観点からのみその人のことを考えるな)

 物的身体に宿っているあなたは地上生活を尺度として物事を受け止めます。地上を去った私たちは地上生活を無限の生命の中のホンの一瞬として位置づけます。みなさんは何事につけ焦点を間違えております。苦しんでいる人を見て同情し、その痛みを一刻も早く取り除いてあげたいと思う気持ちはごく自然な情として私も咎める気持ちは毛頭ありません。しかし、その時のあなたは“苦しみ”という観点からのみその人のことを考え、苦しみの中で過す時間は、その苦しみの償いとして得られる霊的な喜びにくらべれば、実に些細なものに過ぎないことにお気づきになりません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 75-76

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 19-d [26-f] (あなた方の道徳は私たちの非道徳である場合がある)

 あなた方が道徳的だと考えていることが私たちからみると非道徳的である場合があります。そこに物の見方の問題があります。私にとって道徳とは、その人がそれまでに悟った最高の原理に忠実に行動しようという考えを抱かせる、努力目標のことです。それは親切であろうとすることであり、手助けをしようということであり、人の心を思いやることです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 95

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 19-e [42-n] (悪人のエネルギーは成長と改善のためにも使用できる)

 私は悪″とは同じエネルギーの用途を誤っていることだから許すべきではないという考え方をとります。あなたが悪い奴ら″と思っている人間は未熟な人間ということです。その人たちが表現しているエネルギーは成長と改善のためにも使用できるのです。自分から悪人になってやろう″利己主義者になってやろう″と思って悪人や利己主義者になる人はめったにいるものではありません。悪い人間というのは霊的成長における幼児なのです。聞き分けのない子供みたいなものです。目に見え手に触れるものだけがすべてだと考え、したがって物的世界が提供するものをすべて所有することによってしか自分の存在を主張できない哀れな人間なのです。利己主義とは利他主義が方角を間違えたにすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp. 95-96

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 19-f [42-p] (人間が作った教義を無視しても必ずしも罪にはならない)

 霊的摂理に反した行為が罪であって、人間がこしらえた教義を無視したからといって必ずしも罪にはなりません。結婚生活においても霊的な伴侶とはいえない夫婦がいます。もしもその夫婦が霊的に傷つけ合えば罪になることもあります。問題は視点をどこに置くかによって違ってきます。つねに霊的真理を基準にして判断すれば、答えは簡単に出るものです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 97

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 19-g [6-v] (伝統的宗教によって罪でもないことが罪とされていることがある)

 ある国で不道徳とされているものが他の国では不道徳でないことがあります。たとえば伝統的宗教によって、罪でもないことが罪とされていることがあります。その宗教が勝手にかかげている教義に違反した者に対する、その宗教の内部だけの見解であり行為にすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 100

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 19-h (物の見方・考え方には常に柔軟性が必要である)

 物の見方・考え方には常に柔軟性がなくてはなりません。柔軟性こそ霊的問題に処していく上での絶対的要件です。独断主義は不毛・沈滞に堕していきます。常に自由な精神を維持していなければなりません。霊力は無限です。これでおしまいという限界がないのです。あなた方が地上で手にする知識は死後に待ちうけている膨大な知識の宝にくらべれば、そのホンの上っつらを引っかいた程度にすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.163

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 19-i[48-g] (あなたは神に向かって不平を言う資格があるのか)

 同じこの地球上に身を横たえる場所もなく、星空の下で寝なければならない人が大勢いるのです。風雨にさらされている人が大勢いるのです。その日の食べ物にすら事欠いている人がいるのです。そういう現実のもとで、あなたは今の自分の身の上について神に向かって不平を言う資格があると思われますか。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.166

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 19-j[65-p] (人生は硬貨の両面のように両極性から成っている)

 人生は両極性から成っています。作用と反作用、同等と正反対といった具合ですが、それは同じ硬貨の両面です。ですから憎しみが愛に変わることがあると同時に、不幸にして愛が憎しみに変わることもあるわけです。両者は同じ力なのです。問題はその力をどう働かせるかです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p.187

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 19-k[48-i ] (世の中は不公平と思うのは誤った判断である)

 神は一瞬の休みもなく働き、全存在のすみずみまで完全に通暁しております。神は法則として働いているのであり、晴天の日も嵐の日もともに神の働きです。有限なる人間に神を裁く資格はありません。宇宙を裁く資格もありません。地球を裁く資格もありません。あなたがた自身さえも裁く資格はありません。物的尺度があまりに小さすぎるのです。物的尺度で見るかぎり世の中は不公平と不正と邪道と力の支配と真理の敗北しかないかに思えるでしょう。当然かも知れません。しかし、それはきわめて偏った、誤った判断です。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.201-202

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 19-l[65-s] (宗教家の悟りも霊界から見れば実在のかすかな影を見ただけ)

 宗教家が豁然大悟したといい、芸術家が最高のインスピレーションに触れたといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかな影を見たにすぎません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 221

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 19-m (すべての者に当てはめられる物的なものさしはない)

 地上には幾十億と知れぬ人間がおり、みな成長段階も違えば進歩の速度も違い、進化の程度も違います。したがって全ての者に一様に当てはめられる型にはまった法則、物的なものさし、といったものは存在しません。固定した尺度を用いれば、ある者には厳しすぎ、あるものには厳しさが足りないということになるからです。殺人者に適用すべき法律は、およそ犯罪とは縁のない人間には何の係わりもありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 223

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 19-o (仕事が困難であればそれだけ成就されるものも大きい)

 困難な仕事は頑健な人間に当てがわれます。タフな人間にやさしい仕事を与えるのは無駄というものです。厳しい使命が与えられるということは、その人が霊的に有能であることの指標です。無知と迷信との闘いに臨む将軍は厳しい教練によって鍛えられていなければなりません。さもないとその任に耐えられません。ですから、矛盾しているように思えるかも知れませんが、仕事が困難であればあるほど、それだけ成就されるものも大きいということになります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12』(近藤千雄訳)
       潮文社、1988、p.146









 20. 良心



 20-a (偏見や欲望によって歪められる良心)

 地上においても霊界においても、道徳的、精神的ないし霊的問題に関連してある決断を迫られる事態に直面した時、正常な人間であれば “良心” が進むべき道について適確な指示を与えるる、というのが私の考えです。神によって植えつけられた霊性の一部である良心が瞬間的に前面に出て、進むべきコースを指示します。
 問題は、その指示が出たあとから、それとは別の側面が出しゃばりはじめることです。偏見がそれであり、欲望がそれです。良心の命令を気に食わなく思う人間性があれこれと理屈を言い始め、何かほかによい解決法があるはずだと言い訳を始め、しばしばそれを “正当化” してしまいます。しかし、いかに弁明し、いかに知らぬふりをしてみても、良心の声がすでに最も正しい道を指示しております。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986p.161


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 20-b (自分の良心の持ち方は背後霊の影響を受けているのか)

 あなたがた人間は受信局と送信局とを兼ねたような存在です。純粋に自分自身の考えを生み出すことはきわめて稀です。地上のラジオやテレビにチャンネルとかバイブレーション(振動)---フリークェンシー(周波数)が適切でしょう---があるように、人間にもそれぞれのフリークェンシーがあって、その波長に合った思想、観念、示唆、インスピレーション、指導等を受信し、こんどはそれに自分の性格で着色して送信しています。それをまた他の人が受信するわけです。
 その波長を決定するのは各自の進化の程度です。霊的に高ければ高いほど、それだけ感応する思念も程度が高くなります。ということは、発信する思念による影響も高度なものとなるわけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.38-39

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 20-c[15-g][79-k](人間は自由意志を与えられていても選択を誤ることがある)

 ― 感情についてお聞きしたいことがあります。私たちが立派と思っている愛国心その他の愛でも、実際は一種の利己主義であることがあります。

 何ごとも動機が大切です。愛国心でも、自分の国家と国民のことだけを考えて、よその国のことは一切眼中にないようでは、それは一種の利己主義です。
 最高の指針となるのは人のために役立つこと、思いやり、謙虚さ、寛容心、協調性といった形で表現される愛です。愛は宇宙最大の力です。
 あなた方は人間です。完全ではありません。完全は地上では絶対に達成されません。こちらの世界でも達成されません。絶えず発達し進化し伸びていく存在です。内部には神性を帯びた潜在力が秘められています。また、一定限度内での自由意志も授けられています。
 したがってあなたは神の意図された通りのイメージにしたがって行動して内部の神性を発揮することもできますし、低級な感情と欲望のおもむくままに生き、永遠の持ちものとはならない俗物を求めるだけの人生で終わることも許されます。それは神が地上の人間のすべてに与えられた自由選択の権利です。
 しかし人間である以上はその選択を誤ることがあります。そして途中で挫折してしまいます。そこで私たちは、善悪の判断に際して“動機”を重要視します。神は一人一人に良心という絶対に狂うことのない監視装置を用意してくださっております。それがあなたの行為が正しいか間違っているかを正確に教えてくれます。

    『シルバー・バーチの霊訓 (11)』(近藤千雄訳)
         潮文社、1988、pp. 74-75

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 20-d (大切なのは各自の良心に恥じない生き方をするということ)

 大切なのは各自の良心に恥じない生き方をするかどうかということです。赤ん坊のからだに水を二、三滴ふりかけたからといって摂理がごまかされるものではありません。原因があって結果が生じる― この法則は変えられないのです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、pp.61-62


 20-e [26-c] (偏見や欲望によって歪められる良心)

 地上においても霊界においても、道徳的、精神的ないし霊的問題に関連してある決断を迫られる事態に直面した時、正常な人間であれば “良心” が進むべき道について適確な指示を与えるる、というのが私の考えです。神によって植えつけられた霊性の一部である良心が瞬間的に前面に出て、進むべきコースを指示します。
 問題は、その指示が出たあとから、それとは別の側面が出しゃばりはじめることです。偏見がそれであり、欲望がそれです。良心の命令を気に食わなく思う人間性があれこれと理屈を言い始め、何かほかによい解決法があるはずだと言い訳を始め、しばしばそれを “正当化” してしまいます。しかし、いかに弁明し、いかに知らぬふりをしてみても、良心の声がすでに最も正しい道を指示しております。

   『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳)
    潮文社、1986p.161

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 20-f [26-d] (自分の良心の持ち方は背後霊の影響を受けているのか)

 あなたがた人間は受信局と送信局とを兼ねたような存在です。純粋に自分自身の考えを生み出すことはきわめて稀です。地上のラジオやテレビにチャンネルとかバイブレーション(振動)---フリークェンシー(周波数)が適切でしょう---があるように、人間にもそれぞれのフリークェンシーがあって、その波長に合った思想、観念、示唆、インスピレーション、指導等を受信し、こんどはそれに自分の性格で着色して送信しています。それをまた他の人が受信するわけです。
 その波長を決定するのは各自の進化の程度です。霊的に高ければ高いほど、それだけ感応する思念も程度が高くなります。ということは、発信する思念による影響も高度なものとなるわけです。

    『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳)
       潮文社、1987、pp.38-39

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 20-g (自分の良心が指図することを忠実に実行しないといけない)

 自分で正しいと思うこと、良心が指図することを忠実に実行しないといけません。最後は自分が自分の裁判官となります。振り返ってみると正しかったこともあれば間違ったことをしていることもあります。しかし、動機が人のためということであれば、たとえ間違っていても咎められることはありません。動機が何よりも考慮の対象となります。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 94

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 20-h [42-q] (故意に悪いことをするより無知から犯す間違いの方が多い)

 故意に悪いことをするよりも無知から犯す間違いの方が多いものです。全体からすれば悪人″といえるほどの人間はごく少数派に属します。些細なしくじりを裁くために大ナタをふるうようなことは慎まねばなりません。そういう人を憎むということは、それも罪を犯していることになります。良心が咎めることをするのは全て霊的摂理に反します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 97

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 20-i (良心こそ神の声であり善悪を選り分けて進むべき道を指し示す)

 世間がどう言おうと、まわりの人が何と言おうと、自分で正しいと思うことをしなさい。その方が都合が良いとか得策だからではなく、心の奥でかくあるべきと確信したこと、良心がそう命じていることを実行すればよいのです。いたって簡単なのです。ところが人間はなぜか複雑なこと、ややこしいことを好みます。もう当たり前になってしまった単純素朴なことは毛嫌いします。私はあくまでも良心の命じるままに従いなさいと申し上げます。良心こそ神の声であり、善と悪とを選り分け、進むべき道を指示します。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 98

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 20-j (たとえ苦難に遭遇することが分かっていても迷わずに良心に従え)

 良心が命じていることは、たとえその方向へ進むと苦難に遭遇することが分かっていても、迷わず従いなさい。最後にきっといいようになります。難しく考えることはないのです。これ以上簡単な話はありません。

    『シルバー・バーチの霊訓 (12)』(近藤千雄訳編)
         潮文社、1988、p. 98