学びの栞 (B) 


 1.  心配・不安 ・恐怖・怒り


 1-a (明日のことは思い煩うな)

 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことを思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことを思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるからである。
 空の鳥を見るがよい。まくことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それなのに、あなたがたの天の父は、彼らを養っていてくださる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことを思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなた方に言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたに、それ以上によくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。・・・・あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
 だから、明日のことを思いわずらうな。明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

   (マタイ伝6章25-34)

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 1-b (心配や不安を抱いてはならない)

 心配というのは、最悪の精神活動のひとつである。非常に自己破壊的な憎悪のつぎに悪い。心配は何の役にも立たないエネルギーの浪費である。それどころか、身体を傷つける生物化学的反応のもとで、消化不良から冠動脈血栓にいたるまで、さまざまな障害を引き起こす。心配するのをやめれば、すぐにでも健康状態はよくなる。心配するのは、神とのつながりを理解していないからである。
 そして、不安は、精神的、肉体的健康に悪影響を及ぼす。不安とは増幅された心配である。心配、憎悪、不安はすべて、これらから生まれる気がかり、苦々しさ,短気、貪欲、不親切、批判、非難などともに、細胞レベルで身体を攻撃する。そうなったら健康を保つことはできない。病気はすべて、まず精神のなかで創られるものなのである。そしてまた、不安や恐怖は、似たエネルギーを引き寄せる。感情というのは、動いているエネルギーである。だから、不安に思っていると、その不安のエネルギーが別の不安のエネルギーを引きつけ、不安が増大するのである。

  ウォルシュ『神との対話』(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.255-256
     (13章から。一部要約)

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 1-c[17-h] (怒り・貪欲・羨望などの破壊的感情は病気を作り出す)

 怒り、貪欲、羨望といった外面的かつ破壊的な感情は、魂の深いところに根ざした病気とははっきりと異なった、もっと単純な病気を作り出すというのは、興味深い事実です。例えば、自己憐憫はよく腰の痛みや腎臓病の原因になります。自己憐憫はまた肝臓病の原因にもなります。ただし、肝臓病は激しい感情の暴発によっていつでも誘発されるものであり、その結果、血液に毒が送り込まれることになります。
 恐れや心配といった感情は、長いあいだ続くと、同じような病気の原因となり、癌をもたらすことすらあります。一定数の癌の症例の原因を調べてみれば、深く根ざした恐怖感が緊張状態を誘発し、そのために、霊体がとざされ、その結果、霊のエネルギーの流れが停滞した結果であることがわかるでしょう。
 外面的な感情(怒り、貪欲、羨望など)ははっきりと何かの病気を引き起こす可能性があると申しあげました。人間は、自分の内面的な心をコントロールできない限り、こうした有害な感情の手綱を操れはしないということを覚えておかなければなりません。ここで再び、健康に関するかぎり、心の内面的な調和が非常に大切であるという事実に話が戻ってきます。そして、人間の心の調和は霊的な自我が目覚めているかどうかにかかっているのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.263-264

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 1-d (恐怖すればするほど価値のない結果が人生にくる)

 恐怖観念、詳しくいえば、病はもちろん、人事世事一切の出来事に対して、物を怖れるという気持ちくらい、価値のない結果を人生にもたらすものはない。
 ところが、今までのあなた方は、ちょっとでも体が悪いと、すぐ戦き、怖れている。わずかな運命に見舞われても、それが、とてもどえらい運命になってしまうように怖れてしまう。いいえ、毎日の人生一切の出来事に対して、この恐怖観念で応接しているという場合が多い。
 このくらい、人生というものを哀れな状態にするものはない。なぜかというと、恐怖すればするほど、価値のない結果が人生にくるからである。なぜ物事を恐怖すると、人生に良くない結果がくるかというと、ある因果律の法則というものをハッキリと理解している人は、正に、確かにそうだと肯かずにはいられないと思う。因果律の法則で、どうしても、そうなるように宇宙真理が出来ているのである。

  中村天風『運命を拓く』講談社、1994年、pp.244-245

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 1-e[15-k] (愛は人を癒しストレスは人を殺す)

 私達は愛と調和、平和と思いやり、許しと信頼などについて、学ぶ必要はありません。私達はいつだって、そうした存在なのです。
 私達のすべきことは、否定的で有害な感情や態度、私達の人生を苦しめ、自分や社会や世界に、これほどの悲惨をもたらしている思い込みや考えを取り除くことです。こうした否定的なくせを手放すと、私達は自分達の真の性質、肯定的で愛に満ちた自分自身を再発見します。それはふたをされ、輝きを失って、忘れ去られたまま、いつもそこにあったのです。
 汚れや泥、つまり否定的な思いや感情の厚い層を取り除き、ほこりを払ってみがきをかけると、もう一度、私達の真の姿であるダイヤモンドを見つけ出すことができます。私達は故郷へと帰りつつある、不滅の聖なる魂です。ずっと奥の方では、私達は常にダイヤモンドであったのです。
 怖れ、怒りなどの否定的な感情を手放すことは、魂の健康にとっても、体の健康にとっても大切です。精神的なストレス(怖れ、怒り、慢性的な不安、落ち込みなども含む)が病気や死の主要な原因の一つであることは、今では広く認められています。私達の体は心と密接に結びついており、私達の気分や感情はすぐに体の症状へと移し変えられます。愛は人を癒し、ストレスは人を殺します。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
       PHP研究所、2001年、p.128

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 1-f (与えれば与えるほどあなたに多くのものが戻って来る)

 私達の大きな欠点の一つは、結果を気にしすぎることです。私達は結果を心配し、この心配が不必要な不安、怖れ、不幸を生みだします。
 不安は私達の行為にまつわるものです。うまく行かなかったらどうしよう? 失敗したらどうしよう? 他の人はどう思うだろうか?自分自身をどんなにひどく批判するだろうか?
 怖れは、望んだゴールや目的を達成できないことに関係しています。失敗したら、自分は欲しいものを手に入れられないと、私達は思い込んでいます。私達は失敗者、負け犬になります。拒絶されます。自分自身を憎みます。
 特定の結果や結末を心配するかわりに、すべきことをすればいいのです。人のために手を差しのべなさい。最善を望みなさい。
 望むのはいいのですが、期待は困りものです。なぜならば、期待する時、必ず失望がそばにしのび寄っているからです。
 ある朝、瞑想をしていると、とてもはっきりしたメッセージが、私の心の中に急に、力強く現れました。
 「心の限りを尽して、お互いを愛しなさい。そして怖れてはなりません。ためらってはいけません。与えれば与えるほど、多くのものがあなたに戻って来るからです」

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.146-147

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 1-g (恐怖は個人の成長と精神を脅かす最大の障害である)

 これはわたしの個人的な信念ですが、わたしの仕事上最も重大な要素は、われわれを恐怖の感情へと駆り立てるその力を追い払うことにあると考えています。恐怖は錯覚であるばかりか個人の成長と人間の精神の潜在能力を脅かす最大の障害です。恐怖は人間を内面の葛藤に結びつけ、個人的自由の観念を奪い去ってしまいます。恐怖に怯えていれば、愛に生きることはできません。したがって、創造性と生産性に満ちた豊かなライフスタイルとは無縁になります。
 恐怖は一種の悪循環です。この循環にはまってしまうと、ますますその虜になり、恐怖を抱いている対象そのものが引き寄せられてきて、結局は恐怖がわたしたちの現実になってしまいます。言い換えれば、古い格言のとおり、“恐れればわが身に降りかかる”という事態になるのです。わたしたちの思考に創造性があることを忘れてはいけません。思考とは神のエネルギー、すなわち、創造力です。わたしたちには自由な意思があるのですからこのエネルギーを好きなように使えます。ただし、考えた結果に責任があることも自覚しておきましょう。ある方向性、たとえば、恐怖ばかりに偏った考えかたをしていると、その思考エネルギーがわたしたちの人生で具現化してしまいます。
 わたしは依頼人を前にしてリーディングを始めるとき、どのようにして恐怖が心に侵入するか、その恐怖が彼らの肉体や健康、生活全般にどのような影響をおよぼすか、まずその説明をします。この恐怖という敵を認識してもらい、恐怖を引き起こす固有の信念を改めるようになるべくわかりやすく指導します。うまく成功すれば、彼らは本来持っている膨大な量の潜在的創造性に近づくことができるのです。
 最初は非常に困難です。人間はそれほど簡単には変われません。特に、家族や社会や宗教の規制のもとで何十年にもおよぶ条件づけをされたあとではなおさらです。それでも、わたしには種をまいてそれらに光を注ぎ、自分たちの可能性に気づいてもらうことができます。思考の扉を新しく開くことで、彼らを愛に満ちた前向きな考えかたへと導くのです。
 最も恐ろしい恐怖のひとつに喪失の恐怖があります。この恐怖によって、どんな幸福も善良さも裕福な人生も何ひとつ認められなくなる人もいます。欲しかったものがすべて手に入った人びとは、自分が幸福に値しないとか、裕福な生活にはふさわしくないと、大なり小なり感じるかもしれません。充足感と歓喜にあふれた人生を想像すらできない人もいるでしょう。あまりに話がうますぎて本当のことには思えないからです。いずれはどこかがおかしくなるだろうと思い、たいていはそうなります。わたしたちが“光”からできていることを思いだしてください、とわたしはしばしば依頼人に話します。この“光”はあらゆるものを包み、つねに創造力に満ち、つねに豊かです。たとえ“光”が見えなくても、神(光)を通してどんなことも可能だと信じなければなりません。神はつねに「イエス」と言います。「ノウ!」と言うのはわたしたちなのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.193-195

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 1-h[2-v] (なぜ死によって存在が消えると人々は怖れるのか)

 この喪失の恐怖には死の恐怖が含まれます。(これはかつて学んだフロイト心理学につながるかもしれませんが)無意識のなかでは生きる欲求と本能が最も強いのだとわたしは確信しています。わたしたちの多くは元来、自我に根ざしていて、命の終わりを認めることすらいやなのです。そのために死を恐れます。死に対してわたしたちはまったくコントロール不能だという事実、そこからこの恐怖が生まれるのです。死とは絶対的な未知です。人間の感覚を超え、理性的論理的思考を超えています。予想がつかないためにわたしたちは未知なるものを恐れます。死を予期できないだけでなく、どこへ行くのか、そもそもどこか行く場所があるのか、かいもく見当もつきません。こうした恐ろしげな考えが、社会の未熟な死の通念にたえず肉づけされて、わたしたちの恐怖をいっそうあおりたてるために、残念ながら、死は究極のニュースとなります。
 死によって存在が消えるといまだに大勢の人びとが信じているのは不思議でなりません。このような固定観念を消し去り、五感を超えたものに対して人びとの心を開け放つためにも、わたしの仕事は重要だと感じています。霊のメッセージを愛する人に伝えた瞬間、人生が永遠に変わります。これまでの年月を振り返ってみて、わたしはこういった驚異の体験をヴィデオに録画しておけばよかったと思っています。人びとの反応を言葉で語るのはむずかしいものです― 至福に包まれた当人をまのあたりに見るようにはいきません。せめてこの本では、その感じを幾分かでもつかんでいただきたいと思っています。ふたつの世界―物質界と霊界―に交流の橋が架けられると、まさに奇跡的な再会が果たせるのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.195-196

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 1-i (神を疑えば不安と罪悪感をいだいて生きることになる)

 究極の結果が不確実だと思うから、あなたの最大の敵が生まれる。不安だ。結果に確信がもてないから、創造者を疑う。神を疑う。神を疑えば、不安と罪悪感をいだいて生きることになる。
 神の意図を疑い、究極の結果を生み出す神の力を疑っていたら、安らかでいられるはずがない。真の安らぎは感じられない。
 神は意図する結果を生むだけの力をもっている。それがあなたがたには信じられない(たとえ、神は全能だと主張している者でも)。だから、あなたは神に匹敵する力を想像のなかで創り出し、神の意志が曲げられる方法を探し出そうとする。そうやって、神話のなかで「悪」と呼ばれるものを創り出した。神が(あなたと同じ方法で問題を解決すると考えて)悪という存在と闘っていると想像した。
 そのうえ、あなたは神がこの闘いに負ける可能性があるとまで想像した。
 すべて、あなたがたが知っているはずの神と矛盾するが、それはどうでもいい。
 あなたは幻想のなかで生き、そのために不安を感じる。すべて、神を疑おうとしたことから生じているのだ。
 だったら、べつの決意をしたらどうか。そうしたら、どんな結果になるか。
 それを教えよう。あなたがたは仏陀のように生きるだろう。イエスのように生きるだろう。これまで偶像化されたすべての聖者のように生きるだろう。
 これらの聖者たちと同じように、あなたは理解されないだろう。あなたが感じる平穏や人生の喜びを、恍惚感を説明しようとしても、ひとはあなたの言葉だけを聞いて、内容は理解しないだろう。あなたの言葉をくり返そうとして、べつの内容をつけ加えるだろう。
 自分たちとは違う何をあなたは発見したのか、とひとは思うだろう。そして嫉妬をつのらせるだろう。やがて、嫉妬は怒りになり、怒りに燃えたひとたちは、神を理解していないのはあなたのほうだと言い負かそうとするだろう。
 それでもあなたの喜びを奪うことができなければ、怒りのあまり、あなたを傷つけようとするだろう。かまわない、たとえ死んでも喜びを消すことも、真実を変えることもできないと言えば、ひとはあなたを殺そうとするにちがいない。そして、あなたがおだやかに死を受け入れるのを見て、あなたを聖者と呼び、ふたたび愛するだろう。
 なぜなら、いちばん大切なものを愛し、つぎに破壊し、それからふたたび愛するのが、ひとというものだからだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.29-30

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 1-j[15-p](ひとの思考と行動はすべて愛か不安かを根拠としている)

 ひとの思考も行動もすべて、愛か不安か、どちらかを根拠としている。ほかの考えはすべて、この二つから派生したものだ。単なるヴァリエーションで、同じテーマが変化したものにすぎない。
 よく考えてみれば、これが真実だということがわかるだろう。これが、「支える思考」とわたしが呼ぶものだ。愛という考えか、不安という考え。そのどちらかが、すべての思考の陰にある。この二つは最初の思考、最初の力だ。人間の存在というエンジンを動かしている生のエネルギーだ。
 ひとが何度も何度も同じ体験をくり返す理由もここにある。ひとが愛し、つぎに破壊し、そしてまた愛するのはそのためだ。つねに、一方の感情から他方の感情へと揺れ動くからだ。愛は不安を支え、その不安は愛を支え、その愛がまた不安を支える……。
 ……原因は最初の誤りにある。神の真実に対する誤り、神を信頼しないという誤りだ。だから、神の愛を頼れない。神が条件つきであなたがたを受け入れると思う。究極の結果が不確かだと思う。神の愛がつねに存在すると信じられなくて、いったい誰の愛を信頼できるのか。あなたがたが正しく行動しなかったら、神は見捨て、手を引いてしまうとすれば、神ならぬ身の人間を頼れるはずがない。
 ……だから、あなたがたは最高の愛を誓った瞬間に、最大の不安にぶつかるのだ。
 「あなたを愛している」と口にした瞬間に、相手が同じことを言ってくれるかと心配になる。そして、相手の同じ言葉を聞いたとたんに、今度はその愛を失うのではないかと不安になる。そこで、あらゆる行動が「失う不安」に対する自衛反応になる。神を失う不安に対してすら、自衛しようとする。
 だが、自分が何者であるかを知っていれば悩みは消える。あなたがたは神が創造したなかでいちばんすばらしい、すぐれた存在であることを知っていれば、決して不安にならないはずだ。そんなすばらしい存在を誰が否定できるだろうか。神でさえ、そうした存在に欠陥を見いだすことはできない。
 なのに、あなたがたは自分が何者であるかを知らず、だめな存在だと考えている。では、どうして自分はだめなんだと思いこんだのか。そう思わせたのは、あなたがたが無条件で信じた唯一のひとたち、母親と父親だ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.31-32

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 1-k[15-q] (親はあなたにどうして偽りを教えるのか)

 親は、あなたをいちばん愛している。それなら、どうして偽りを教えるのだろう。
 ……思い出してみてほしい。親は、こうしてはいけない、こうしなくてはいけないと叱りはしなかっただろうか。子供はおとなしく言うことを聞いていればいい、うるさく口を出してはいけない、とは言わなかっただろうか。あなたが元気いっぱいなときに、たしなめはしなかったか。大胆な想像をめぐらしているときに、そんなことはやめなさいと言わなかったか。
 その言葉を聞いて、あなたは、それが神のメッセージの基準にあわず、神のメッセージではないにもかかわらず、そうだと思った。あなたにとっては宇宙の神々と思えるひとたちから送られたメッセージだったからだ。
 愛は条件つきだと教えたのは親だ。あなたはそれをたびたび感じとった。そしておとなになってから、その経験を愛するひととの関係にあてはめる。
 さらに、神との関係にもあてはめる。

 その経験をもとに、わたしについて考え、その枠組みにとらわれる。「神は愛に満ちあふれている」とあなたは言う。「だが、神の戒律を破れば、永遠に追放され、永久に罰せられるだろう」と。
 なぜって、親に突き放された経験があるから。親に罰せられた苦しみを知っているから。だから、わたしの場合も同じだと思うのではないか。
 あなたがたは、無条件に愛されるというのはどんなことかを忘れている。神の愛の体験を思い出せない。だから、世間で見いだす愛を基準にして、神の愛も同じようなものだと思う。
 あなたは「親」の役割を神に投影し、善いか悪いか判断して、褒美を与えたり罰したりする神を想像する。だが、それはあなたがたの神話にもとづく、単純すぎる見方だ。ほんとうのわたしとは何の関係もない。
 こうして神の真実ではなく、人間的な経験をもとに、あなたがたは神についての思想をこしらえた。そこから愛をめぐる現実のすべてが生まれた。それは不安のうえに築かれた現実で、復讐心をもった恐ろしい神という考え方に根ざしている。神が恐ろしいものだという考え方は間違っているが、それを否定すればあなたがたの宗教は崩れる。それに代わる新しい宗教こそ真の救済なのだが、あなたがたは受け入れられない。なぜなら、恐れる必要のない神、善悪を決めつけたり、罰を与えたりしない神は、あまりにすばらしすぎて、あなたがたが考える最も偉大な神にさえあてはまらないからだ。
 不安を秘めた愛という現実が、あなたがたの愛の経験を支配している。愛の経験を創り出していると言ってもいい。なぜなら、あなたがたは条件つきで愛されるだけでなく、自分も同じように、相手を条件つきで愛していることに気づくからだ。そして、相手から退いたり、自分のなかに引きこもったり、条件をつけたりしながらも、ほんとうの愛はそんなものではないとどこかで感じている。だが、自分には愛し方を変える力はないと思う。つらい思いをして愛し方を学んだのに、また無防備になったらきっとひどい目にあうと思う。ほんとうは、愛し方を変えないほうがひどい目にあうのだ。
 愛について(間違った)考え方をしているから、あなたがたは純粋な愛を体験できない。それに、真のわたしを知ることもできない。だが、それも、いつかは終わる。なぜなら、永遠にわたしを否定しつづけることはできず、やがては和解の時が訪れるからだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.33-34

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 1-l[15-r] (不安があれば物にしがみつき愛があればすべてを与える)

 人間の行動のすべては、愛か不安に根ざしている。人間関係だけではない。ビジネスや産業、政治、宗教、子供たちの教育、国家の社会問題、社会の経済的目標、戦争や平和、襲撃、防衛、攻撃、降伏に影響を及ぼす決断、欲しがったり与えたり、ためこんだり分けあったり、団結したり分裂したりという意思決定、自由な選択のすべてが、存在しうるただ二つの考えから発している。愛という考えか、不安という考えから。
 不安はちぢこまり、閉ざし、引きこもり、走り、隠れ、蓄え、傷つけるエネルギーである。
 愛は広がり、解放し、送り出し、とどまり、明るみに出し、分けあい、癒すエネルギーである。
 不安だから身体を衣服で包むのであって、愛があれば裸で立つことができる。不安があるから、もっているもののすべてにしがみつき、かじりつくが、愛があれば、もっているすべてを与えることができる。不安はしっかりと抱えこみ、愛は優しく抱きとる。不安はつかみ、愛は解放する。不安はいらだたせ、愛はなだめる。不安は攻撃し、愛は育む。
 人間の考え、言葉、行為のすべては、どちらかの感情がもとになっている。ほかに選択の余地はない。これ以外の選択肢はないからだ。だが、どちらを選ぶかは自由に決められる。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.34-35

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 1-m[15-s] (決断しようとすると不安が勝ってしまうのはなぜか)

 不安を抱えて生きるように教えられているからだ。あなたがたは適者生存、いちばん強い者が勝利を得る、いちばん利口な者が成功すると聞かされてきた。いちばん愛らしいものの栄光については、ごくわずかしか語られない。だから―いろいろな方法で―あなたがたは適者になろう、いちばん強くなろう、利口になろうと必死になり、どんな状況でも、少しでも劣っていれば負けてしまうという不安におびえる。子供のころからずっと、劣った者が負けると言い聞かされてきたためだ。
 あなたがたはもちろん、不安に支えられた行動を選択する。そう教えられてきたからだ。
 だが、教えてあげよう。愛に支えられた行動をとれば、生き延びるだけでなく、勝利するだけでなく、成功するだけでなく、それ以上のことができる。そのとき、自分はほんとうは何者か、そして何者になりえるのかという、栄光に包まれた経験ができるだろう。
 そのためには、善意ではあるが間違った教師たちの教えを退け、べつの種類の智恵をもったひとたちの教えに耳を傾けなければいけない。
 そういうすぐれた教師は、昔もいまもたくさんいる。わたしは、真実を教え、導き、思い出させるひとたちなしに、あなたがたを放っておきはしない。しかし、いちばん偉大な教師は外にいる者ではなく、あなたがたの心の声である。それが、わたしが使う第一の道具だ。
 あなたがたの心の声は、わたしのいちばん大きな声だ。なぜなら、あなたがたにいちばん身近な声だから。心の声は、すべてについて、あなたがたの言葉で言えば、真実か偽りか、正しいか間違っているか、良いか悪いかを教えてくれる。それに従う気になりさえすれば、針路を決めるレーダー、船の舵、旅の道案内となる。
 その声はたったいまも、あなたが読んでいるこの言葉が、愛の言葉か不安の言葉かを教えてくれるはずだ。この物差しを使えば、従うべき言葉か無視すべき言葉かわかるだろう。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.35-36

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 1-n[9-zzd] (不安は磁石のように対象を引き寄せる)

 同じ精神をもった人びとが力をあわせれば好ましい現実を創り出せるということを、あなたがたはそろそろ理解すべきだ。「二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもいるからです」というマタイによる福音書の言葉は、ずっと大きな意義をもつようになる。
 もちろん、社会全体がある考えをもつようになれば、しばしば驚くべきことが起こる。必ずしも、社会を構成する全員でなくてもいい。たとえば、不安と恐れのなかで暮らしている社会には―実際に、そして必ず―最も恐れられるかたちの恐怖が生まれる。
 同じように、大きな共同体や集団が考えをあわせることで(あるいは一部のひとたちが言うように、同じ言葉で祈ることで)しばしば奇跡が起こる。
 たとえ個人でも、その考えが―祈り、希望、願い、夢、不安が―驚くほど強ければ、奇跡的な結果を生み出す。イエスはたびたび、これを実践した。彼は、エネルギーと物質をどう扱うべきか、どう組み合わせなおし、配分しなおし、コントロールするかを理解していた。多くの〈マスター〉もそれを知っていた。いまでも知っているひとはおおぜいいる。
 あなたもそれを知ることができる。たったいま。
 それが、アダムとイヴが食べた善悪を知る智恵の実である。それを知るまでは、あなたがたのいまのような人生はありえなかった。アダムとイヴは―これは単に、最初の男と最初の女にあなたがたの神話が与えた名だが―人類の経験の父と母である。
 アダムの堕落と説明されているものは、じつは向上だった。人類の歴史で最も偉大な出来事だった。それがなければ、相対性の世界は存在しなかっただろう。アダムとイヴの行為は原罪ではなく、じつは最初の祝福だったのだ。あなたがたは、彼らがはじめて「間違った」選択をしてくれたことを心の底から感謝すべきだ。アダムとイヴは、選択を可能にしてくれたのだから。
 あなたがたの神話では、イヴが「悪者」にされている。善悪を知る智恵の木の実を食べ、巧みにアダムを誘惑して同じ罪を犯させたという。この神話によって、女性は男性を「堕落」させるということになり、性に対するかたよった見方や混乱は言うまでもなく、あらゆるゆがんだ現実を創り出してきた(どうしてそれほど悪いものが、そんなに快く感じられるのだろう)。
 あなたがたが最も不安に思い、恐れるものが、あなたがたをいちばん苦しめる。不安は磁石のように対象を引き寄せる。人類の聖なる書物のすべてが―人類が創り出したあらゆる宗教的説話や伝統のなかで―「恐れるなかれ」、とはっきりと諭している。これを偶然だと思うか?

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.79-80

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 1-o(前向きな生き方がまわりの霊的エネルギーを引き寄せる)

 あなたも今日から前向きの人間になり、絶対に後を振り向かないという決意をしようではないか。
 いつも楽観的に物事を考えよう。
 消極的な考えを積極的な考えと入れかえよう。
 取り越し苦労はもう止めよう。
 心配を信念と置きかえよう。
 絶望的になったり落胆したりすまい。
 一日一日を存分に生きよう。
 こうした生き方の中で周りの霊的エネルギーが引き寄せられるのである。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp. 152-153

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 1-p (明日のことを思い煩ってはならない)

 あなたの荷の三分の一は過去である。後悔、無念、悲しみ、罪悪感、等々。そんなものは今すぐ捨て去ることである。忘れることである。どう悔んだところで過去は変えられないのである。もう終わったのである。済んだことである。涙を拭って、もう後悔は止めよう。自分を責めるのはもうこれきりにしよう。
 いかがであろう。気持ちが軽くなったように思われないだろうか。当然である。荷を三分の一減らしたのだから。
 もう少し荷を点検してみよう。
 やはりあなたにも取り越し苦労という将来への重荷が三分の一ある。これから先どうなるだろうかという心配である。お金のこと、家族のことが心配でならない。不安で胸がいっぱいである。それもきれいさっぱり捨て去ることである。将来はまだ来ていないのである。来た時に処理すればよい。それまではアインシュタインの言葉に耳を傾けるとよい。
 曰く―「私は将来のことは決して考えないことにしている。なぜなら、そのうち必ずやってくるからである」と。これも先哲が繰り返し説いていることである。
 バイブルのマタイ伝にもこうある。「ゆえに明日のことを思い煩うなかれ。明日は明日自らが思い煩うであろう。今日の苦労は今日一日にて足れり」

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp. 154-155

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 1-q (明日のことは明日になってから考えればよい)

 私は、人間が一番案じていることは決してその通りにはならないと確信している。あなたは今夜寝ているうちに死ぬかもしれないのである。明日はないかもしれないのである。幸い明日も生きていれば、その日は希望と幸福と生き甲斐にあふれているかもしれない。
 だから、明日のことは明日になってから考えればよい。それまでは考えないことである。取り越し苦労、悩み、恐れ、こうしたものは捨て去ることである。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp. 155-156

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 1-r (死への恐怖は向こう側へ気安く飛ばないための安全弁)

 矢作 多くのかたにとって、死の恐怖というものは非常に強いものではないかと思います。死に対するとらわれというのは、人間にとって、大きな問題であることは確かでしょう。
 死に対する不安、恐怖、心配。それが私たちを苦しめます。しかし、私は考えようによっては、これはいいことではないかと考えているんです。
 中 それは、どういうことでしょうか。
 矢作 というのも、死が怖くなかったら、大変なことになります。人間のような未熟な意識の場合、もしも死んだ後、どうなるかということがはっきりわかってしまったら、浅薄な結論に飛びつく人が大量に出現するのではないでしょうか。
 例えば、善良に生きて死んだ後、だれでも天国へ行けるとわかったら、未熟な意識は、このめんどうな生にさっさと見切りをつけて、どんどんあの世へと行ってしまうおそれがあるんですね。
 中 確かにそうですね。いかにもありそうな話です。
 矢作  つまり、死への恐怖というのは、ある意味では、私たちが向こう側へ気安く飛ばないようにする安全弁のような働きをしていると思うんです。この肉体というものは、非常にうまくできている。人間の脳はすばらしいというけれど、しかし、脳も、また、もっと高い存在から見れば、非常に出来が悪いわけです。その出来の悪い脳のフィルターを通して、私たちはすべてを見ている。
 出来の悪いフィルターを通して見ているからこそ、何も見通すことができないし、死が怖くてジタバタする。私たちがすべてを見通すことができて、また、いつ死んでもいいと簡単に見切りをつけられるようになったら、生きている価値も下がってしまうに違いありません。
 このように手枷足枷をはめられた存在であるがゆえに、生きていける。見通せないがゆえに、悟りたいという願いも生じ、努力もする。
  矢作先生のおっしゃりたいことは大変よくわかります。わかりますが、それでも、なお死が怖い。怖いから、なんとかしたいとジタバタするのが人間なんですね。

  矢作直樹・中健次郎『人は死なない。では、どうする』マキノ出版、2012、pp.120-121