学びの栞 (B) 


 3. 許し


 3-a (イエス・キリストの許し)

 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。
     (マタイ6章14-15 )

 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七度までですか」。イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい」。
    (マタイ18章21-22 )

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 3-b (あなたの愛と思いやりを表現するのに遅すぎることはない)

 過去を許しなさい。もう終ったことです。そこから学び、そして手放すのです。人は絶え間なく変化し成長しています。過去のその人の偏狭でネガティブなイメージにしがみついていてはいけません。今のその人を見なさい。あなたの人間関係は常に生きていて、変化しているのです。
 今すぐ、相手を愛し始めなさい。これまで愛さなかったことを、悲しんだり後悔したりしてはいけません。過去はもう終りました。今すぐに始めるのです。あなたの愛と思いやりを表現するのに、遅すぎることはありません。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.115-116

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 3-c (真のパワーに満ちた人間は許す人間である)

 真のパワーに満ちた人間は、許す人間である。許しはたんなる道徳的な行為ではない。それは、ひとつのエネルギー力学である。ほとんどの人たちは、誰かを許したとき、自分が許したということを、その人に忘れてほしくない、と考えている。しかし、その種の許しは、許された人間を不正に操ろうとする行為である。それは許しではない。それは、他人を操るためのパワー、外側のパワーを獲得する手段にほかならない。
 許すということは、過ぎ去った体験をもはやもち運ばない、ということである。あなたが許さないことを選ぶと、あなたにとっての許しがたい体験が、えんえんとあなたにまとわりつきつづけることになる。あなたにとって、許さないことを選択するということは、すべてをゆがんで見せる黒く陰鬱なサングラスをかけることにほかならない。以後あなたは、万物をその汚染されたレンズを通して眺めつづけなくてはならなくなる。
 許すということは、自分の体験の責任を他人に負わせない、ということである。自分が体験したことの責任は自分にあるという自覚をもっていない人間にとっては、不愉快な出来事はすべて他人の責任である。そして、それを表明するためによくもちいられる手段が不平である。不平を言うことは、まさしく、自分が体験したことの責任を他人に負わせ、それによって自分の立場を守ろうとする行為である。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、pp.250-251

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 3-d[42-n] (「右の頬をぶたれたら左の頬を出せ」は医学的にも賢明)

 さて古来“聖賢の戒め”の中には今日の精神科医が言っていることと驚くほど一致するものが多い。たとえばこの“怒り”がそうである。
 医学的にみても、腹を立てると生理的にロクなことは生じない。血圧が上がる。脈拍が増え動惇が激しくなる。血中の凝血因子が増える。アドレナリンという物質が血液中に送り込まれて、全身の新陳代謝に緊急事態が生じるのである。
 怒りがおさまると、それが正常に戻る。が、その間にどれだけの危険が発生していることか。高血圧がまず危険である。動脈の圧が上がるのは危険である。それをくり返していると死にもつながりかねない。
 また凝血因子がくり返し血中に送り込まれていると、いわゆる血栓症となる。右の頬をぶたれたら左の頬を出せ、というのは、倫理上からだけでなく医学的にも賢明なのである。

   M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
       潮文社、1988、p. 121