学びの栞 (B) 


 4. 祈り瞑想


 4-a (キリスト教における祈り)

 イエス・キリストは、「あなた方の父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイ6:8)と言っている。そしてイエスは、だから、こう祈りなさい、と祈り方をも教えている。聖書のなかで、イエスが祈り方を具体的に述べているのは、つぎのマタイ(6:9−13)だけである。

 天にいますわれらの父よ、
 御名があがめられますように。
 御国がきますように。
 みこころが天に行われるとおり、
 地にも行われますように。
 わたしたちの日ごとの食物を、
 きょうもお与えください。
 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、
 わたしたちの負債をもおゆるしください。
 わたしたちを試みに会わせないで、
 悪しき者からお救いください。

 しかし、さまざまな人生において、われわれが切実にこころから祈っても、それがすべて叶うわけではないのも事実であろう。われわれは、あまりにも迷いの多い存在である。「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道はあなたがたの道よりも高く、わが思いはあなたがたの思いよりも高い」と、イザヤ書(55:8−9)にも記されているとおりである。この大きなギャップをどのように乗り越えていけばよいのであろうか。
 例えば、内村鑑三もかつて、愛する家族の死に直面して、信仰にさえ迷いを来したことがあった。内村は必死に神に祈り、そしてその祈りは遂に聞き入れられずに、家族は苦しみながら死んでいったのである。彼は、愛する者を失って以来数か月間、祈ることさえもやめてしまった。内村は、神はなぜ自分の祈りを聴かれなかったのか、なぜ愛する者の命を奪ったのか、という深刻な疑問に悩み苦しむのである。彼はそれをつぎのように述べている。

  しかれども彼は死せざるものにして余は何時か彼と相会することを得るといえども彼の死は余にとって最大不幸なりしに相違なし、神もし神なれば何故に余の祈祷を聴かざりしや、神は自然の法則に勝つ能わざるか、或は祈祷は無為なるものなるか、或は余の祈祷に熱心足らざりしか、或は余の罪深きが故に聴かれざりしか、或は余を罰せんがためにこの不幸を余に降せしか、これ余の聞かんと欲せし所なり。(内村鑑三『基督教徒のなぐさめ』岩波文庫、1983、p.19)

 苦しみ悩み、理解し、そしてまた懐疑にぶつかる。例えば、キリスト教には数々の奇跡があったはずである。熱心な祈りによって不治の病が治った例も決して少なくはない。それならば、彼が彼の愛する者を死に至らしめたのは、彼の祈りが熱心さに欠けていたからか。もしそうなら、彼は彼の愛する者を彼の不熱心の故に見殺しにしてしまったことにさえなる。しかし、彼は必死に祈ったのである。熱心のあらん限り、祈りに祈ったのである。そして、その祈りは遂に聞き届けられなかった。これをどう考えるか。内村は次のように信じた。

  ああ神よ、爾は我らの有せざるものを請求せざるなり。余は余の有するだけの熱心を以て祈れり、しかして爾は余の愛する者を取り去れり。父よ、余は信ず、我らの願うことを聴かれしに依て爾を信ずるは易し、聴かれざるに依てなお一層爾に近づくは難し、後者は前者に勝りて爾より特別の恩恵を受けしものなるを、もし我の熱心にして爾の聴かざるが故に挫けんものならば爾必ず我の祈棒を聴かれしならん。(内村鑑三、前掲書、p.22)

   武本昌三「論文集」]-(3) より。 [ H.P.目録に記載]

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 4-b (念ずれば花ひらく)

 わたしの詩に「念ずれば花ひらく」というのがあるが、この八字十音のありがたさが、本当にわかるようになるまでは、わたしも幾多の試練を受けねばならなかった。
 かつてない大きな戦争、かつてない敗戦、その間、三人の男の子は三人とも赤い召集令状をもらって、死を覚悟して出て行った。そうしたわたしたちが三人とも無事に帰ることができたのは、母の念力だったと思う。母は眠れない夜々を、愛用の手風琴を弾いて祈ったということであった。
 如来の美しさは、大悲の故だと思う。
 菩薩の若さは、大願の為だと思う。
 苦難苦闘の連続だった母であったが、阿蘇の火柱を見ながら大きくなった故か、いつも燃えるような愛情と、尽きない夢とを持っていられた。老いても精神の衰弱を見せない母であった。 

  念ずれば
  花ひらく
 苦しいとき
 母がいつも口にしていた
 このことばを
 わたしもいつのころからか
 となえるようになった
 そうしてそのたび
 わたしの花がふしぎと
 ひとつひとつ
 ひらいていった

  坂村真民『念ずれば花ひらく』柏樹社、1993、pp.10-11.

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 4-c (横になっても椅子に座っても歩いていても瞑想はできる)

 私達の心は、幸福と心の平和への道を知っています。瞑想や祈りは、私達がすでに知っていることを思い出すために、役に立ちます。心のメッセージを忘れ、毎日の決まりきった生活に落ち込むと、私達は充実感を失い、不幸に感じます。そして落ち込み、不安になります。物事の展望がぼんやりし、全体像を見失い、道に迷ってしまいます。
 これを治すのは簡単です。自分の神性と霊的本質を思い出すための時間を作ればいいのです。ここにいる理由を思い出して下さい。瞑想は、あなたの記憶を呼び起こす一つの方法です。
 瞑想は、いつも私達の意識を占領している絶え間ないおしゃべりを止めて、心を静めるための方法です。静まった心の静寂の中で、瞑想者は観察者となり、囚われのないレベルに達し、さらに、高次の意識に気づき始めさえします。
 日常の意識から私達を引っ張り出すことによって、瞑想は私達が学んだ、より高い霊的な価値観を思い出すために役立ちます。いつも瞑想をするということは、いつも思い出すということです。物事の全体像と、人生で大切なことと大切ではないことを、はっきりと思い出すのです。
 心の中から何千という日常の思考を取り除くためには、練習と規律が必要です。深い意識に到達するまでに、私は三カ月間、毎日瞑想しなければなりませんでした。忍耐とあせらないことが大切です。瞑想での成功は、一夜では起こらないのです。
 瞑想するためには、蓮華座を組む必要はありません。横になっても、いすにすわっても、または歩いていても、瞑想はできます。目的は考えるのをやめること、観ること、囚われをなくすこと、意識を探め気づくことなのです。
 瞑想を自分で学ぶには、ビジュアライゼーションや催眠術を試してみるのも、役に立つかもしれません。この二つのテクニックでは、あなたは誘導する人の声に耳を傾けます。それによって、集中しやすくなるのです。
 瞑想もビジュアライゼーションも、または催眠状態でも、あなたは他の人にコントロールをゆだねてしまうわけではありません。あなたの体や心を何かの「力」が乗っ取るわけでもなければ、タイムマシンに入ったわけでもありません。ただ、非常に深く集中しているだけですから、何一つ、危険はありません。こうした状態では、あなたは直観が鋭くなり、高次の意識に触れ、自分の神性に目覚めることができます。こうしたやり方は、悟りへの道なのです。
 ここに瞑想の本質があります。あなたが歩む一歩一歩すべてが神聖です。あなたが吸う息はすべて神聖です。この言葉を理解し、練習すれば、あなたの意識は鋭くなり、日常的なものから、もう一つの認識へと変わってゆきます。観察力が増し、囚われがなくなり、物事をありのままに見られるようになります。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.304-306

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 4-d (誰にでもできる簡単な泡の瞑想法)

 私のワークショップでは、たった二分間でできる筒単な瞑想法を教えています。
 最初の一分間、まず私はグループに目を閉じて、二、三回深呼吸をし、リラックスするように指示します。次に四十五秒間、心を完全に静かにし、何も考えないようにしなさいと言います。勿論、これはほとんどの人にはとても難しいことです。私達の心は空っぽになるのを怖がります。そこで、私達はいろいろな日常的な思いで、心を一杯にします。
 「背中が痛いなあ」
 「あの人が咳をしている」
 「あれを朝食に食べたのがまずかったな」
 こうしたことは、宇宙からのインスピレーションではありません。心を静かにして、囚われをなくし、深い意識状態になりたい時は、こうした思いは必要ありません。
 次の一分の間、自分達が美しい池の底にいると想像しなさいと、グループに指示します。そこではまったく普通に呼吸ができます。「何か思いが浮かんで来たら、」と私はみんなに言います。「その思いを泡の中に入れて、その泡が池の表面へと浮かび上がって消えてゆく様子を、観察して下さい。それから、あなたの心を静かにします。また別の思いがやって来たら、また、泡の中に入れて、浮かび上がらせ、消えさせます。このプロセスをくり返して下さい」
 水が怖い人には、美しい野原にすわっている自分を想像し、泡のかわりにヘリウム入りの風船を使うように言います。
 次の一分間は、この泡や風船を使います。
 彼らは瞑想し始めたのです。
 これは泡の瞑想と呼ばれていますが、泡のかわりに言葉を使うこともできます。その言葉に心を集中させるのです。心がさまよい始めたら、とがめずにやさしく、注意をその言葉に戻せばいいのです。
 言葉を選ぶ時は、例えば数字の「一」といった、特別の意味がないものでもいいでしょう。または、マントラと呼ばれている、サンスクリットの言葉でもいいのです。さらに、「愛」などの、感情のこもっている言葉でも大丈夫です。その言葉がどんな感情を引き起こすか、注意してみて下さい。
 または、ろうそくや花などの、目に見えるものを使うこともできます。または、自分の呼吸に集中し、吸う息と吐く息を数えるという、古くからある方法を使ってもいいでしょう。
 泡の瞑想を試してみて下さい。きっとその効果にびっくりするでしょう。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.306-308

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 4-e (「顔」と呼ばれる瞑想実習で起こった奇跡 =1=)

 私はワークショップで、「顔」と呼ばれる実習をよく行ないます。真っ暗にならない程度まで暗くした部屋で、二人一組になってすわってもらいます。全員をリラックスした瞑想状態に導いてから、お互いにじっと相手の顔を見つめるように言います。これを五分から十分、続けます。すると相手の顔つきが変わってゆくように見えます。年齢、人種、性別が変わってゆくのが見えるのです。時には、動物や他のものが見えることもあります。この実習をした人の多くは、相手に関する霊的、または直観的な情報を受け取っています。びっくりするようなことも起こります。結果は視覚の歪み以上のものです。真実の情報を受け取っているのです。
 ボストンで、私はワークショップの参加者に、「顔」の実習を指導していました。ボストンの女性とミルウォーキーから来た女性が一組になりました。二人はその時まで会ったことがなく、七百人の参加者の中から「偶然」、パートナーになったのでした。
 二人は前の方にすわっていたので、暗さに日が慣れてくると、私は二人の顔を見ることができました。ボストンの女性の目から、うっすらと涙がにじみ出ていました。
 実習が終り、二、三人の小さなグループで十分にその体験を分析し、それぞれが観察したことや感じたことを話し合ったあとで、私はその女性に、この実習で彼女が体験したことを人々の前で話すように頼みました。彼女は承諾しました。
 「私の涙は喜びの涙でした」と彼女は説明しました。「私は兄の顔を見ました。最後に兄を見てから、本当に久し振りでした」
 彼女の兄は第二次世界大戦の兵隊で、十九歳半の時にフランスで戦死しました。
 次に彼女のパートナーがマイクロフォンを持ちました。
 「昨日、グループ退行で、私達みんなを過去生に連れて行って下さった時、私は十九歳半の男の兵隊で、第二次大戦下のフランスで殺された体験をしました」
 彼女はそれから、死んだ時のことを詳しく報告し、また、パートナーの女性の兄を、正確に説明し始めました。
 多くの人が、この一瞬、鳥肌立ちました。
 そのあとで、ミルウォーキーから来た女性は、その兵隊がフランスで殺されたその日に生まれた、ということがわかりました。
 本当に、偶然はないものです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.308-310

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 4-f (「顔」と呼ばれる瞑想実習で起こった奇跡 =2=)

 ニューヨークで行なった「顔」の実習で、インド出身の男性が幸せのあまり、すすり泣きし始めました。彼はパートナーの顔に、女性の仏陀の顔を見たのでした。パートナーはニューイングランドの若い女性で、十分前にパートナーになるまで、彼が会ったことのない人でした。
 「女性の仏陀はめったにいません!」と彼は叫びました。すると彼のパートナーが私達に言いました。彼女は何年も、女性の仏陀を崇拝する小さな仏教団体のメンバーなのでした。
 このような意味のある「偶然の一致」は、私達の道の方向を修正するために、とても役に立ちます。そしてその道は、生まれる前に私達が選んで来たものなのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.310

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 4-g (「顔」と呼ばれる瞑想実習で起こった奇跡 =3=)

  プエルトリコで行なうワークショップが、なぜいつもとても不思議で、しかも沢山の神秘体験に溢れているのか、私はよくわかりません。おそらく、人々の熱心さ、心の広さ、そして霊性の高さのせいだと思われます。一九九八年三月、サンファンのコンダードプラザホテルにある満員の講堂で、また、奇跡が起こりつつありました。
 私はまったく知りませんでしたが、ワークショップの二日前、蝶のペンダントのついた細い金鎖をいつも首にかけている中年の女性が、数カ月前に亡くなった息子に祈っていました。
 「私にしるしか、メッセージを頂戴」と悲嘆に暮れた母は祈りました。「蝶のしるしをくれれば、あなたからだとわかります」
 「顔」の実習を始める前に、私は参加者に向って蝶にまつわる感動的な物語を話しました。蝶は霊魂の象徴であり、死にかけている子供や、自分の死が近いことを知っている子供達がよく絵に描きます。例えば、ホロコーストの強制収容所で死んだ子供達は、沢山の蝶を描いています。また、葬式で人々の上を蝶が飛び廻ることもあります。私はこうした話をする予定ではありませんでした。蝶について語ろうという思いが急に頭の中に浮かんで来たので、蝶について話し始めたのでした。
 悲しみに暮れていた母親はにっこりしました。息子が母にメッセージを届けたのです。でも、一番すばらしいことはまだ先にありました。
 暗くした部屋で、私は「顔」の実習を始めました。これまで一度も会ったことのない人をパートナーに選ぶよう、私はみんなに指示しました。悲しみに沈んだ母親の相手になった中年の女性は、自分が霊能力を持っているとは、夢にも思っていませんでした。でも、彼女は若い男性の霊が、母親の背後に立っていることに気づきました。その若い男性の姿を母親に説明し、さらに彼の人生、性格、友人などについて、詳しく話しました。
 彼の母親はショックを受け、興奮し、恍惚状態になりました。
 「彼女が言ったことは全部、完全に合っていました。息子をそのまま、言い表していたのです」と母親は感激して言いました。
 彼女の顔は輝いていました。そして呼吸は変わり、悲しみという大きな荷物がそっと背中から取り除かれたかのように、彼女の肩が軽くなったのが、見てとれました。
 それぞれの霊的能力や直観力を開くために、「顔」の実習やその他の方法を教えているうちに、部屋中いたる所で、驚くべき体験がどんどん起こり始めました。部屋の一方の隅にいた小グループの人々が、反対側の隅にいた他のグループが体験していることを感じ、わかるようになりました。それぞれ離れた所に陣取っているいくつかのグループの間で、信じられないような「偶然の一致」や共時的な出来事が一斉に起こりました。それまで霊的な能力を持っていることに気がつかなかった人々が、まったく知らない人の病歴を正確に言い当てました。その瞬間まで、一度も会ったことがない人々が、普通の意識状態でよりもずっと沢山のことを、お互いに知ることができたのです。
 こうした不思議な交流を見守りながら、私達の心は自分で思っているよりも、ずっと強力で敏感で、深い意識を持っているという事実に、私はひたすら感心していました。
 超能力者や霊媒やグルは、私達にとって大切な場合もありますが、それもほんのしばらくの間だけです。私達が普段、気づいているよりもずっと多くのことがこの人生にはある、ということに気づくために、彼らは私達を助けてくれます。プエルトリコで私が目撃したように、私達は誰でもみな、超能力者、霊媒、そしてグルなのです。学ぶにつれて私達は自分自身の直観能力を開き、強化して、知恵を得るようになるのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.310-313

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 4-h (欲しいものを求めたり祈ることはできないのか)

 それは太古から問われてきた、そして問われるたびに答えが与えられてきた質問だ。だが、あなたがたは答えを聞こうとしなかったし、信じようとしなかった。
 その質問にふたたび、現在の用語、言葉で答えるとこうなる。
 あなたは求めるものを手に入れられないし、欲するものを得ることもできない。求めるというのは、自分にはないと言いきることであり、欲すると言えば、まさにそのこと―欲すること―を現実に体験することになる。
 したがって、正しい祈りとは、求めたりすがったりすることでは決してなく、感謝である。

 現実に体験したいと考えることを前もって神に感謝するというのは、願いはかなうと認めることだ……。感謝とは神を信頼することだ。求めるより前に神が応えてくれると認めることだから。
 決して求めたりすがったりせず、感謝しなさい。
 
 でも、何かについて前もって神に感謝したのに、それが実現しなかったら? きっと幻滅し、腹が立ちますよ。

 感謝は神をあやつる手段ではない。宇宙をごまかす仕掛けではない。自分に嘘をつくことはできない。自分の心はごまかせない。口では「これこれについて、神さまに感謝します」と言いながら、内心、願いが満たされていないと信じていたら、神はもちろんあなたが信じるとおりにする。
 神はあなたの知っていることを知っている。あなたの知っていることは、あなたの現実になる。

 だが、どうして、そこにないとわかっていることに心から感謝できるのですか?

 信念だ。けし粒ほどの信念があれば、山を動かすことができる。わたしがあると言えばあることがわかるだろう。あなたが求めもしないうちに応えてあげるとわたしは言っている。あなたが選ぶこと、わたしの名で選ぶことはかなえてあげると、わたしはあなたがたずねるより前に、あらゆる方法で、あらゆる教師を通じて、言ってきた。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.25-26

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 4-i (祈りが叶えられなかったというひとに対して)

 どんな祈りでもかなえられる。祈りとは、これが現実ですと認めることだから。そして、どんな祈りも、どんな考えや思い、感情も、創造につながる。
 祈りがかなえられないというときは、じつは、最も強く信じている思考や言葉、感情が作用している。
 あなたが知っておかなければならない大切な秘密は、思考の陰にはつねにもうひとつの思考、「思考を支える思考」とでも言うべきものがあって、それが、思考をコントロールしているということだ。つまり、何かを求めたり、願ったりしたら、望んだことがかなう可能性は非常に小さい。なぜなら、「欲求を陰で支えている思考」というのは、「望みはかなっていない」という思いだから。そちらのほうが現実になるのだ。
 支えとなる思考のなかで、「望みがかなっていない」という思いよりももっと力強いのは、「神は必ず求めるものを与えてくれる」という信念、それだけだ。その信念をもっているひともいるが、非常に少ない。
 神があらゆる求めに応じてくれると信じるのはむずかしいが、そもそも求める必要はないのだと直感的にわかっていれば、祈ることはずっとやさしくなる。そのとき、祈りは感謝の祈りになる。求めるのではなく、望みがかなっていることをすなおに感謝するようになる。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.26-27

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 4-j (神はあなたが期待しているような助け方はしない)

 神が全能の存在で、すべての祈りを聞いて、一部には「イエス」、一部には「ノー」、一部には「そのうちいつか」などと答えると思っているなら、それは間違いだ。神は恣意的な基準に従って、決定したりはしない。
 神があなたがたの人生すべての創造者であり、決定者であると信じているなら、それは誤解だ。神は観察者であって、創造者ではない。神はあなたがたの人生を助けるが、あなたが期待しているような助け方はしない。
 人生の環境や条件を創造したり、しなかったりすることは、神の働きではない。神は神の姿をかたどり、神に似せてあなたがたを創造した。残りは、神が与えた力によってあなたがたが創造したのだ。
 神は人生というプロセスと生命そのものを創造した。だが、神はあなたがたが自由に選べる選択肢を、人生を好きなように生きる力を与えた。
 その意味では、あなたがたの意志は、あなたがたに対する神の意志でもある。
 あなたの生き方はあなたの生き方であって、わたしはそれを、良いだの悪いだのと判断したりしない。そのことで、あなたは大きな幻想をいだいている。あなたの行動に、神が関心を寄せていると思っている。
 あなたが何をしようが、わたしには関心がない。そう聞くとつらいかもしれない。
 だが、遊びに出た子供たちが何をするかに、あなたは興味があるだろうか。子供たちが鬼ごっこをするか、かくれんぼをするか、ままごと遊びをするかと気にするだろうか。気にしないはずだ。なぜなら、子供たちが安全だということを知っているから。安心で楽しく遊べる環境に子供たちを置いているから。
 もちろん、子供たちがけがをしないようにとは思っているだろう。もしけがをしたら、助けに行き、傷をなおしてやり、安心させてやり、幸せにしてやり、翌日はまた遊びにいけるようにしてやるだろう。それでも、子供たちが翌日、かくれんぼをしようと、ままごと遊びをしようと、どうでもいいはずだ。
 もちろん、危険な遊びは教えておくだろう。だが、子供たちが危ない遊びをするのを止めることはできない。いつも、いつまでも、死ぬまで危険からまもってやることはできないのだ。
 賢い親ならそれを承知している。だが、結果についての親の心配は決して消えない。この二分法―プロセスについてはあまり気にせず、結果について深く懸念するということ―これが、神の二分法に近い。
 もっとも、ある意味では、神は結果についても気にしてはいない。究極の結果については懸念していない。究極の結果は確実に決まっているからだ。
 そこが、人間の第二の大いなる幻想だ。人生の結果が不確かだと思っている。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.27-29

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 4-k[44-zr] (なぜ神の声は聞くことができないと考えるのか)

 どうして、神と対話できることが狂気のさただと思うのか? 祈りを信じてはいないのか?

 信じています。でも、それとこれとは違う。わたしにとって、祈りはいつも一方通行でした。わたしが神にお願いする、神は黙っている、というように。

 神は一度も祈りに答えなかったか?

 少なくとも、言葉によっては答えてくれませんでした。そうでしょう? 人生には、これはきっと祈りへの答えだと思うようなことがいろいろありました。でも、神は一度もわたしに話しかけはしなかった。

 そうか。それでは、あなたが信じている神―何でもできる神―は、話すことはできないわけだ。

 もちろん神は話せます。神が望めば。ただ、神がわたしなんかに話そうと望まれるとは思えません。

 あなたが人生でぶつかるすべての問題の根はそこにある。あなたは、自分が神に話しかけられるほどの価値があるとは思っていない。
 だが、神が話しかけてくるほどの価値はないと信じていたら、神の声を聞こうとか、聞きたいとかも考えられないではないか。よいか、わたしはいま奇跡を行っている。あなたに話しているだけでなく、この本を手にとり、これらの言葉を読むひとすべてに話しかけている。
 そのひとりひとりにわたしは話している。そのひとりひとりが誰だか、わたしは知っている。誰がこれらの言葉への道を見つけるかも知っているし―(わたしのほかのコミュニケーションと同様に)聞いて理解することができるひとも、聞くだけで何もわからないひとがいることも知っている。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.95-96

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 4-l  (あなたが真のパワーで満ちるためには祈りが不可欠である)

 自分に祈る許可を与えることだ。他人から被った痛みがあまりにもひどく、自分自身のパワーのみでは許すことができないような状況においても、優雅さ、理解、悟りを求めて祈ることで、私たちは容易に許すことができるようになる。
 あなたが真のパワーで満ちるためには、祈りが不可欠である。願望する、意図する、あるいは瞑想するだけでは不充分である。あなたは祈らなくてはならない。語りかけなくてはならない。願い出なくてはならない。信じなくてはならない。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、pp.264-265

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 4-m (祈りは神聖な知性との個人的な接触にほかならない)

 あなたの意図と瞑想を、祈りとリンクさせることだ。意図を表明する際にも、瞑想を行う際にも、最後には必ず導きと支援を求め、それがもたらされることを期待することだ。そう、それを期待するのである。祈りには、あなたのもとに優雅さを引き寄せる効果がある。祈りは、神聖な知性との個人的な接触にほかならない。
 パワーのない祈りを唱えることは不可能である。思考を秘密裏にめぐらすことは不可能である。なぜならば、すべてのエネルギーが知覚されてしまうからだ。
 あなたは祈ることで、優雅さを自分に引き寄せる。優雅さは、汚染されていない意識の光である。それは神性である。祈りは優雅さを引き寄せ、優雅さはあなたを穏やかにする。優雅さは魂の鎮静剤である。優雅さを手にしているとき、あなたは、自分が体験することはすべて必要なことだということを知っている。優雅さは、あなたにもたらす、その「知っている」感覚を通じて、あなたを穏やかにする。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、pp.265-266

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 4-n (聖フランチェスコの祈り)

 患者に請求しないでも差し当たって生活していけるだけのものを別の形で授かっていることを私は有難いと思っている。治療家としての仕事を果たすことができるということ自体が私にとっての報酬なのである。聖フランチェスコのもう一つの祈りにこんなのがある。これが私の考えをよく言い表わしている。

主よ、願わくば慰められるより慰める者であらしめ給え。
理解されるより理解する者であらしめ給え。
愛されるより愛する者であらしめ給え。
なぜならば、
施す者こそ授かるものだからです。
己れを忘れる者こそ己れを見出すものだからです。
赦す者こそ赦されるものだからです。
死ぬことによってはじめて永遠の生命へ目覚めるものだからです。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』近藤千雄訳、(潮文社、1988)p.30

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 4-o[9-zzh] (亡くなった母親に通じていた祈りのことば)

 私は母親が死んだ後、ずっと申し訳ないという気持ちを持っていました。念仏というのとは違いますが、寝る前に「本当に申し訳ない」とずっと念じていました。正直言うとそれまではそういう習慣がなかったのですが、その時に初めて心から申し訳ないと母に詫び、毎日手を合わせるようになりました。
 母親の死から二年くらい経ったある日、友人が霊媒役をしてくれて母親と対面することが実現したのですが、その時に初めて、衝撃と同時に理解したことがありました。
 それは自分が何かを思うと、向こう側に直で通じているという事実でした。
 亡くなった母親に私の思いは即伝わるらしく、彼女は私が申し訳ないと悔やみ続けていることを、とても心配していたそうです。そんなことないから、大丈夫よという言葉を、ずっと言いたかったのだそうです。
 事故現場に花を手向けるといつまでも死者がその場所に張りついて成仏できないという話を耳にしますが、あれと同じで、亡くなった人に対していつまでも後ろ向きな思いでいると、向こうにいる相手にも心配をかけてしまうというわけです。
 スピリチュアリズムに関する書籍を片っ端から読めば、そういう知識や雑学はいくらでも書いてあります。けれどもそれまでは、それが実感として理解できませんでした。「思いっていうのは強いんだろうな」くらいに、漠然と考える程度でした。
 その事実を、亡くなった実の母親から直接聞かされた時の衝撃は、今でも忘れません。体感するというのはまったく別次元の話でした。
 それ以降、念や思いの強さを本当の意味で認識しましたし、今では常に感じています。(矢作直樹)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.192-193)