学びの栞 (B)
5. 霊・魂・肉体
5-a [54-d] (あなたの真の姿は風のごとく透明で目に見えないもの)
言ってみれば、あなたの身体はすはらしく高度な機械だが、それを使う存在がなければ、つまりあなたがいなければ、何の役にも立たない。あなたはあなたの化身ではなく、思考、あるいは感情や価値観の集まりが、ひとつの独立した人格=自己として己を表現しているものなのだ。自分の思考を見たことがはたしてあるだろうか。人格を見たことがあるだろうか。笑い声はどうだろう。自分の身体がなければ、それを聞くことはできるだろうか。自分が本当はいかにすごい存在であるか、あなたはまったくわかっていない。というのも、あなたの真の姿は、風のごとく透明で目に見えないものだからだ。私があなたにとって謎であるように、あなた自身も同じなのだ。あらゆるものの中で最大の謎なのだ。
虚飾なしの自分がどういうものか、あなたは知っているだろうか。仮面なしの自分は? 強がりという鎧がなくなった自分はどうだろう? 存在の内面にある核の部分では、あなたはまさに神そのものなのだ。人類最大の神秘である神は、あなたの内面以外の場所にあったことはない。あなたの目の奥に、衣服の下に、顔という幻影を超えたところに、神という思考の見えない美徳が確かに存在しているのだ。あなたをあなたたらしめている人格=自己がそこにはある。あなたの内にある神こそが、あなたに信を与え、そして創造するというとてつもない力を与えてくれる崇高なる知性なのだ。それは、あなたの生命を無限の時間の彼方まで、永遠に維持してくれるすばらしき生命の流れなのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.73
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5-b [9-q] (精神のうちに宿る魂があなたを創造性あふれる存在にしてくれた)
魂は精神の内に宿っているが、あなたを創造性あふれる存在にしてくれたのはこの魂だ。なぜなら、何かを創造するためには、ある思考の明確なイメージを記憶の中にしっかりと維持しておく能力が必要になるからだ。そうすることによって、その思考に思いをめぐらし、皆が現実と呼んでいる創造的な概念へと広げていくことができるのだ。
たとえば、これまでにないような新しい花を創造しようとすれば、その花についての想念を出現させなければならない。この花についての想念は、途切れることない思考の流れから取り出さねばならず、この流れとは、とりもなおさずあなたの存在の精神、あるいは光とまったくひとつのものなのである。この想念は、感情という形で、ひとつの像として魂の中にはっきりととらえられる。これであなたは、自分の欲求を通じて「花」という想念のイメージを思い出すことができ、それに思いをめぐらせて、どんな形、色、あるいは高さにでも自分の好きなように、それを広げていくことができるのである。いつでも、どんなユニークな花でも創造することができるのだ。想念を完璧に静止した状態で記憶にとどめることによって、その姿を完璧に描くことができるのである。
魂なしには、父なるものを創造物にまで広げられない。なぜなら、思いをめぐらせて、それを創造物へと広げるために想念を静止した状態にする、ということができないからだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 126-127
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5-c[61-k] (人間と霊との関係はどうなっているか)
人間界が霊界の終極点であるのと全く同じ理由で人間は霊の終極点である。また、人間の生命の継続と霊の増殖という両面で人間と霊が“協力関係”にある存在だということはいまふれたとおりだ。だから私は、ここでは、いままでこの手記の中で述べて来たことを簡単にまとめてみよう。
人間は物質界に属する肉体と霊界に属する霊からできている。そして肉体、物質界に属するものは、肉体自体をはじめとして眼や耳、鼻などの肉体的感覚などがある。だが、これらの働きを本当の一番深い所で支配し、生命そのものを肉体に与えているのは、霊界に属し、霊界の太陽の霊流を受けている霊なのだ。霊の働きが人間に自覚されることは普通はめったにないが、人々が時に話題にする自分でもなぜとはわからない不思議な霊感″とか霊的知覚″などというものは、霊の働きにやや近いものである。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、p.229
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5-d[61-l] (肉体の人間と霊はどっちが本質的なものか)
この問題に対する答えは、この手記をいままで読んできた人々には、もはや云う必要もないほど明らかであろう。肉体の人間に生命そのものを与え、これを支配している霊が主人公であることはいうまでもないからだ。そこで私は、角度を少しかえ例もまじえて人々にもっと解り易くこのことを説明してみることにする。
例は、人々にもっとも解り易い、さっき私のいった霊界とこの世の境界線上に起こるものを取上げよう。
あなたが、もし幽霊を見たとしよう。また親しい人の死の知らせを、珍らしい夢とか昼間の幻影のようなもので知ったとしよう。この瞬間あなたは、どこにいたのかといえば、あなた自身、私のいう境界線の上にいたのだ。あなたは、幽霊が、この世に現われたのだと思うかも知れない。また、死の知らせも、あなたの眼や耳といった肉体の感覚を通じて受け取ったものと思うかも知れない。
だが、このことは前にも少しふれたように全くあなたの思い違いに過ぎないのだ。あなたは幽霊を見た瞬間や死の知らせを受けた瞬間には肉体的には死んで、一瞬の間霊となっていたからこそ、その霊の眼によって幽霊が見えたり、死の知らせを受取ったりできたのだ。あなたは一瞬間霊の世界へ入ったということなのである。
では、この境界線を逆に霊の側から見てみよう。霊界から物質界、人間界に入るとき、霊はその境界線の上で霊的に死ぬだろうか? もし霊的に死ぬとすれば、霊は物質界の存在そのものに変わらねばならない。だが、こんなことはないのだ。霊にとっては境界線も何もなく、物質界に属する人間の肉体に宿るとしても、霊には、そこもまた霊界なのだ。境界線は単に人間が肉体の死という側面、あるいは同じことだが肉体の生という世界から見た場合に存在するものに過ぎず、霊や霊界の立場から見れば、そのようなものは全く存在しないし、存在することを考えることすらできないのである。
このことから人間にとってもまた、霊がその本質的な存在であり、肉体は非常に例外的なものに過ぎないのは誰にも明らかにわかるだろう。霊界とこの世を一つに含めた大きな一つの世界の中では、この世は一つの例外であり、霊界の一変種に過ぎないといってもよい。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.229-231
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5-e[61-m] (なぜ人間には霊のことがわからないのか〉
このことについては、私はこの手記の中でおりにふれ人間は物質界の中にあり、その考えも物質界的であるため霊のことが解らないのだといって来た。確かに、この言葉に間違いはないのだが、私は、ここでは、もう一歩つっ込んだ話を二つの立場からしよう。
どんなに遠く離れた所からも鳥は間違いなく自分の巣に帰ることができる。花は季節がくれば正確に花を咲かせ実を結ぶ。また、少しの知恵さえあると思われない蜂が人間も及ばない精巧な巣をつくり統制のとれた集団的生活を送る----。このことはよく考えてみれば大きな不思議である。ここには自然界の知恵が背後に働いていることを誰でも感じないわけには行かない。
人間が霊界や霊のことがよく解らないのも実は肉体的な存在としての人間が自然界の知恵に動かされているためだ。もし、人間が霊の存在、その永遠性を本当に確信をもって信じられるように全ての人々ができていたらどんなことになるか? おそらく多くの人々はその肉体的、自然的生命を全うすることなく自ら命を断って霊界へと入ってしまうに違いない。自然界は、その不思議な知恵によって人間に自然的生命を全うさせるため霊や霊界の存在と永遠性を、その死の瞬間まで人間の眼にふれさせないようにしているのである。
人間が霊のことを知らない理由はもう一つある。また、この理由は同時に霊が人間の存在を知らずにいることと表裏の関係にある。
人間は霊と肉体との二つの要素からできているが、もし人間がつねに自分の肉体に住む霊の存在を意識し、その霊に支配されているのだと思っていたらどんなことになるか? 自由を何よりも欲する人間は必ず、自分を支配しようとする霊と対抗し、ここに両者の闘争が起きる違いない。
また人間の中に住む霊は、そのことを全く知らない。彼らには自然界の存在である人間の肉体は見えない。そして、その結果霊は、人間そのものも自分だと思っているのだ。これは、人間が霊の存在に気づかず、自分の全体は全て自分のものと思っているのと同じなのだ。霊は人間の中に住んでいることに気付かず、全てが自分だと思いつつ、人間の肉体に生命を与え、その考えや思いを無意識のうちに支配しているのだ。ここには霊界と自然界の二つを一つに合わせた大きな世界の知恵が働いているのだ。なぜなら、霊の中には凶霊というものもあり、この霊は自分と関係のあるものの生命や思考に破壊を及ぼすことをつねに狙っている。もし、この霊が人間の肉体に住んだ場合に凶霊に、それが自分自身でなく、人間というものの肉体であることが解るとすれば直ちに、その肉体に害を及ぼすからだ。しかし、凶霊といえども、人間を自分そのものと思っている限りはやはり、それを自分として大切にしこの肉体に生命を与える働きをするのである。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.231-233
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5-f (魂は永遠に死ぬことのないあなたの一部である)
あなたの魂は、永遠に死ぬことのないあなたの一部である。すべての人間が魂をもっている。しかし、五感の知覚領域内にとどまりつづけているパーソナリティーは、それ自身の魂の存在に気づかず、それゆえに、その魂によるさまざまな影響を認識することができない。
パーソナリティーがそれ自身の魂を認識するには、五感の限界を打ち破り、多感覚的にならなくてはならない。そうなったときから、パーソナリティーは、自分の直観、ひらめき、フィーリングといったものを重要視するようになる。そしてそれは、自分自身、ほかの人々、および周囲の状況に関する、五感のみをもちいていたのでは入手できない情報を入手できるようになる、ということにほかならない。
そのときからパーソナリティーは、言葉や行為の背後にあるさまざまな意図を知覚できるようになり、ひいては他人の言葉や行為に対してよりも、その背後に存在する意図に対して反応するようになる。そのときからそれは、一見、荒々しく怒り狂っているかのような態度の背後にある温かい心や、いかにも親切でやさしそうな言葉の背後にある冷たい心を、明確に認識できるようになる。
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、p.26
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5-g (あなたの魂は確たる目的をもつ積極的な力である)
あなたの魂は、あなたの胸のなかの一空間を占有する受動的な存在、あるいはたんなる理論上の存在などでは、けっしてない。それは、あなたという人間の中心部に存在する、確たる目的をもつ積極的な力である。それは、あなたがかかわっているエネルギー力学の性質を理解するあなたの一部であり、万人を無条件に愛し、まったく裁くことなく受け入れることのできるあなたの一部である。
もしあなたが自分の魂について知りたいならば、最初のステップは、自分が魂をもっているということを認めることである。
そして次のステップは、このように考えることを自分に許すことである。
「もし私に魂があるのだとしたら、それはどんなものなのだろう? 魂は何をほしがっているのだろう? 魂と私はどんな関係にあるのだろう? 魂は、私の人生にどんな影響を及ぼしているのだろう?」
魂のエネルギーは、それがパーソナリティーによって知覚され、認識され、尊重されたときから、パーソナリティーの生命をふるい立たせはじめる。もしもパーソナリティーが、それ自身の魂のエネルギーに充分に奉仕できるようになったとしたら、そのときこそが、パーソナリティーにとって、真のパワーで満たされるときである。
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、pp.26-27
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5-h[76-d] (人間のみが個別の魂をもっているのである)
私たち人間は、それぞれがひとつの魂をもち、その魂のもつ本来の性質に向けた旅をつづけているが、この点で、人間は動物、野菜、鉱物などと大きく異なっている。人間のみが、個別の魂をもっているのである。人間の創造のパワーが偉大であることの理由が、ここにある。魂の進化のプロセスは、いくつもの認識のレベルを経て進んでいく。
動物は個別の魂をもっていない。彼らは集団で共有する魂、「グループ・ソウル」をもつのみである。個々の動物は、それぞれが特定のグループ・ソウルの一部である。それぞれの馬は、馬というグループ・ソウルの一部であり、それぞれの猫は、猫というグループ・ソウルの一部である。グループ・ソウルは集団で共有されている魂であり、個別の魂とは異なったものである。
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、p.190
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5-i[44-zs] (すべての魂が神から直接やってきている)
魂には始まりも終わりもない。しかし、古い魂と新しい魂は存在する。どちらも真実である。すべての魂が、神から直接やってきている。しかし、魂が個別に形づくられる過程は千差万別である。このどちらも真実である。あなたが魂を理解しようとしてパラドックスにぶちあたるのは、始まりという概念をもつ思考形態を採用しているときだけである。
「存在するすべて」は、それ自身を意識の個人的な一滴に形づくることができる。あなたは、「存在するすべて」の一部である。よって、これまでつねに存在してきた。しかし、あなたであるその個人的なエネルギーの流れが形づくられる瞬間があった。
海を神だと考えてみよう。それはこれまでつねに存在してきた。つづいて、カップを手に取り、それをその海の水に沈めてみる。するとその瞬間、カップのなかの水は個別の存在になる。しかしそれは、つねに存在してきた。そうではないだろうか? あなたはあるとき、カップのなかのエネルギーになった。しかしそのエネルギーはなおも、元からある不滅の存在の一部でありつづけてきた。
あなたはこれまで、つねに存在してきた。なぜならば、あなたは神、あるいは神の知性そのものであるからだ。ただし神は、それ自身のパワーを縮小して小さな粒子群に分散し、いくつもの個体としてその姿をあらわしている。
その個体、その粒子のパワーは、強度の面では大幅に規模が縮小してはいるものの、質的には全体のパワーと何ら変わるものではない。それはなおも全体のパワー同様に不滅であり、創造的であり、表現力豊かである。たんにエネルギーの強度が、ずっと小さな粒子にふさわしいものに下げられている、というだけのことである。
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、pp.202-203
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5-j (肉体は魂の楽器である)
肉体は魂の楽器である。もしも、あるピアノ奏者が病気だったとしたら、その人のピアノを修理することに、どんな意味があるだろう? 楽器がどんな音楽をつくり出すかは、その装置の状態のみならず、その奏者によっても変わってくる。もしも奏者が喜びであふれていたとしたら、その楽器は、そのとおりの音を発することになる。どんなに完璧に調律された、どんなに高価な楽器であっても、その奏者が悲しみを選択しているときには、けっして喜びに満ちた音は響かせない。
あなたの魂と肉体に関していうなら、その楽器もまた、奏者の状態をみごとに投影する音を響かせることになる。そして、もしもその奏者が悲しみに打ちひしがれていたり、怒りをたぎらせていたとしたら、その楽器は壊れてしまうことさえあるかもしれない。壊れた楽器は、ときには修理が可能である。しかしながら、いくらそれを修理したところで、それを壊すことになった原因を癒すことは不可能である。
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、p.206
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5-k[17-zi] (魂の健康なくして肉体の健康はありえない)
肉体的な健康、あるいは病気を示唆するどんな肉体症状の背後にも、つねに魂のエネルギーが存在する。魂の健康なくして、真の意味での肉体の健康はありえない。そもそも、人間として生きることの真の目的は、魂の健康を得ることなのである。そして、すべての出来事、すべての体験が、究極的には、その目的の達成に貢献する。
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、p.207
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5-l[80-s] (自分は魂をもっていることを知らなくてはならない)
心理学(サイコロジー)のそもそもの意味は、「魂に関する学問」である(サイコ=霊魂。ロジー=学間)。しかし、そうであったことは、これまでに一度もない。心理学はこれまで、パーソナリティーに関する学問でありつづけてきた。
心理学は、五感型パーソナリティーの知覚をベースとしているために、魂を認識することができないでいる。そしてそのために、パーソナリティーの価値観や行動の下に横たわる力学を理解できないでいる。
私たちの医学は、肉体的な健康や病気の背後に横たわる魂のエネルギーを無視して肉体を癒そうとしているために、根本的な癒しには到達できないでいる。同じように心理学も、パーソナリティーの体験の背後にある魂の力を無視してパーソナリティーを癒そうとしているために、もっとも深いレベルでの癒しにいたれないでいる。
自分の心と肉体を育み、発達させるためには、まず第一に、「自分は心と肉体をもっている」ということを知っていなくてはならない。同じように、もっとも深いレベル、すなわち魂レベルで癒されるためにも、「自分は魂をもっている」ということを知っていなくてはならない。
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、pp.210-211
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5-m (魂が肉体から抜ける段階がほんとうの死である)
現代の医学では、脳死ということで、「人間は、脳波が止まったときに死ぬ」と言われています(脳の全体的な、回復不可能な機能停止)。
肉体的には確かにそうかもしれませんが、実際には、人間は、肉体のなかに魂が宿っているかたちになっていて、魂が肉体から抜ける段階が、ほんとうの死なのです。魂が抜けないと、死とは言えません。魂が肉体のなかに入っているうちは、まだ、ちょうど、眠っている状態に近く、魂が肉体から抜けて初めて、ほんとうの意味の死になるのです。
魂が抜けるのに、通常、一日はかかります。
人が死ぬと、通夜というものをしますが、通夜をする理由は、魂が抜けるまでの時間を稼ぐことにあります。死んで、すぐに火葬場へ持っていき、焼いてしまうと、本人は、自分の死んだことが分からず、「自分はまだ生きている」と思っているため、大変なことになります。そのように、すぐ焼いてしまうと困るので、一晩、通夜をするのです。
そして、人々が、黒い服を着て集まり、涙を流したりしているのを見、自分の写真が飾ってあるのを見て、本人は、「もしかして、自分は死んだのかな」と思いはじめます。
そのような意識が出てくると、魂が、だんだん肉体から分かれてきます。魂が肉体から遊離したときが死です。
肉体と魂とのあいだには「霊子線」というものがあり、この霊子線の切れたときが、ほんとうの意味での死です。これが完全に切れていない場合は、まだ死んでいないのです。
霊子線が切れていないと、肉体の意識が魂に伝わります。これが切れると、肉体に何をされても、魂のほうは、まったく感じなくなるのですが、これが切れていないときに、肉体をいじられると、魂のほうは、それを感じます。死んだように見えていても、それを感じるのです。
したがって、脳の機能が止まったときに、肝臓や腎臓などを取られた場合、どうなるかというと、それは、「生きている人が、おなかにナイフを突っ込まれ、内臓を切り取られる」ということと同じになるのです。
大川隆法『永遠の生命の世界』
幸福の科学出版、2004、pp.130-132
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5-n(あの世へ行く時には苦しまなくてはならないのだろうか)
死後の世界があるということを確信していても、やはり、この世からあの世へ行くということには恐れが付きまとう。
死、それ自体が怖いわけではない。そうではなくて、移行のプロセスに恐れを感じるのである。
この世からあの世へ行くときに、苦しまなくてはならないのだろうか?
そのことが問題なのである。
しかも、誰一人として、その移行を免れることはできないだけに、この間題は重要性を増す。
地上においては、旅行をせずにいることは可能である。しかし、この最後の旅行だけは、貧乏人も、金持ちも、誰一人として免れることができないのである。
しかも、地位や財産があったとしても苦しみが減ずるわけではないらしいことも、気にかかる。
ある人々は静かに死んでいき、また、ある人々は、苦悶に満ちた恐ろしい死に方をするので、「いったい自分はどうなるのだろうか」と気になる。
だが、その点に関して教えてくれる人がいないのである。
魂と肉体が分離するときに起こることを、実際に描写してくれる人はいないのだろうか?
最後の瞬間に、どんなことを感じるのか、教えてくれる人はいないのだろうか?
この点に関しては、科学もキリスト教も沈黙を守るのみである。
だが、なぜそうなのか?
それは、科学もキリスト教も、霊と物質の関係について、何一つ知らないからである。
科学は霊について無知であるし、キリスト教は物質に関して無知だからである。
そして、霊実在論こそが、この両者を結びつける存在であるのだ。霊実在論だけが、実際に、その移行がどのように行われるかを言うことができる。
というのも、霊実在論は、魂に関して実証的な知識をたくさん持っているし、現実に肉体を離れた人々の体験談も、数多く収集しているからである。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.18-19
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5-o (魂と肉体をつなぐ霊子線こそが秘密を解く鍵である)
魂と肉体をつなぐ霊子線こそが、秘密を解く鍵なのである。
物質それ自体は、感じ取る能力を持っていない。これは実証可能な事実である。
喜びや苦しみを感じることのできるのは、魂だけなのである。一生のあいだ、肉体の状態は、常に魂に伝えられているのであって、喜んだり苦しんだりするのは、肉体ではなくて魂なのである。肉体は道具にすぎず、そこからの情報を受け取るのが魂である。
死が訪れると、肉体と魂は切り離されるが、肉体には感じ取る力がないので、問題はまったく生じない。
分離した魂は、肉体の崩壊からは何の影響も受けない。そして、物質とは別の源泉から刺激を受け取るようになるのである。
幽体は魂を包み込んでおり、幽体と魂は一体となっている。一方なしに他方は考えられない。
生きて地上にいるあいだは、幽体は、肉体の隅々にまで浸透しており、魂が肉体の反応を感じ取るために役立っている。同様に、魂が肉体に働きかけて動かすことができるのも、幽体のおかげである。
肉体の有機的な生命が終了すると、魂と肉体を結んでいた霊子線が切れる。
だが、この分離はただちに起こるわけではない。幽体が徐々に肉体から分離してゆき、肉体の細胞の中に幽体の構成要素がまったく存在しなくなるまでは、分離は完成されないのである。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.20-21
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5-p (死の瞬間に魂が感じる苦しみについて)
死の瞬間に魂が感じる苦しみは、肉体と幽体が、まだつながっているがゆえに感じられるのであり、分離に要する時間と、その困難さに応じて、苦しみの程度も決まる。
したがって、場合によっては、死ぬことに、ある程度の苦しみが伴うことは、認めておかなければならない。
さまざまな状況の違いに関しては、のちのち検証することになるだろう。
ここでは、まず、四種類の極端な場合を想定しておこう。それ以外のケースは、すべて、それらの四種間の変奏として捉えられるはずだからである。
@ 有機生命が消滅する瞬間に、幽体の分離が完全に行われれば、魂は、まったく苦しみを感じない。
A その瞬間に、幽体と肉体が、まだ完全に結びついている場合は、それらを引き裂くことになるので、魂は苦痛を感じることになる。
B 幽体と肉体の結びつきが、それほど強固でない場合は、分離は容易に行われ、苦痛は、さほど感じられない。
C有機生命が完全に消滅しても、なお、肉体と幽体が結びついている場合、霊子線が切れるまでは、肉体が解体するときの影響を、魂も受けることになる。
以上のことから、死に伴う苦しみは、肉体と幽体を結びつけている力の強さに関係していることが分かる。
したがって、この力が弱くて、分離が容易になればなるほど、死の苦痛もまた少なくなる。
要するに、幽体と肉体の分離が速やかに行われれば行われるほど、魂は苦痛を感じずに旅立つことが可能となるのである。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.20-21
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5-q (息を引き取る瞬間はそれほど苦しいものではない)
この世からあの世への旅立ちのプロセスで、もう一つ、忘れてはならない要素がある。それは、意識の混濁である。
死の瞬間に、魂は麻痺状態となり、その能力が一時的に停止されるため、少なくとも部分的に感じる力が働かなくなる。つまり、魂が一種の失神状態に陥るために、ほとんどの場合、息を引き取る瞬間のことが意識されないのである。
「ほとんどの場合」と言ったのは、なかには、その瞬間のことをはっきりと覚えているケースもあるからである。それについては、あとで見ることにしよう。
意識の混濁が死の瞬間に起こるのは自然なことなのである。
どれくらいのあいだ混濁するかは、それぞれ、人によって異なる。数時間で済む場合もあれば、数年間に及ぶ場合もある。混濁が解消すると、魂は、ちょうど、深い眠りから覚めたときの人間のような感じとなる。考えがまとまらず、ぼんやりとしており、まわりに霧がかかっているような感じである。視覚も徐々にもとに戻り、記憶もはっきりしてきて、意識が戻ってくる。
だが、この目覚めも、人によって、それぞれ違ったものとなる。ある場合には、目覚めは穏やかであり、気分はよい。また、ある場合には、目覚めは恐怖と不安に満ちており、悪夢からの目覚めにも匹敵する。
したがって、息を引き取る瞬間は、それほど苦しいものではない。というのも、だいたいの場合、魂は意識を失っているからである。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.22-23
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5-r (肉体と幽体の結びつきのあり方で苦しみの大きさも決まる)
だが、息を引き取る瞬間までのあいだは、魂は、肉体の苦しみを感じ取っている。そして、息を完全に引き取ると、今度は意識の混濁を原因とする苦しみを感じる。
しかし、すべての場合がそうなるというわけではない。苦しみが続く時間と苦しみの大きさは、肉体と幽体の結びつきいかんによって決まるからである。
結びつきが強ければ強いほど、その絆を断ち切るための時間は長くなり、苦痛も大きくなる。
だが、なかには、結びつきが非常に弱いために、分離のプロセスが、ごく自然に、何の苦痛もなく行われることがある。完熟した果物が自然に落ちるようなものであって、そういう場合には、死は極めて穏やかであり、霊界への目覚めもまた安らぎに満ちたものとなる。
主として、そのときの魂の状態によって、分離が容易に行われるかどうかが決まる。
肉体と幽体の親和力が高いと、霊の肉体への結びつきも強くなる。関心が、地上生活の物質的な快楽に集中している人の場合、幽体と肉体の結びつきの強さは最大になる。一方、主たる関心が霊性にあり、地上にありながら、すでに生活が非常に霊的になっている人の場合、幽体と肉体の結びつきは、ほとんどゼロに等しい。
分離の速度と難易度は、魂の浄化の度合い、脱物質化の度合いに左右されるので、分離が容易であるかつらいものになるか、快適か苦しいかは、各人の心境しだいということになるだろう。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.23-24
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5-s (安らかに霊界へ還ってゆく場合とそうでない場合と)
理論的にも、また、観察の結果としても、以上のことを明らかにしたので、あとに残っているのは、「死に方が、魂に、どのように影響するか」という問題である。
病気や老衰による自然死の場合、生命力は徐々に衰えるので、幽体と肉体の分離も徐々に進行する。
魂の浄化が進み、関心が地上の物質から完全に離れている人の場合、実際の死よりも前に分離が進行していることが多い。「肉体は、まだ有機的な生命を保っているが、魂が、すでに霊的生活に入り、肉体とは本当にかすかにつながれているだけ」という状態になっているので、心臓が停止すれば、ただちに霊子線が切れる。
こうした状況では、霊は、すでに明晰さを取り戻しているので、肉体生命が消えていく様子をつぶさに観察することができ、なおかつ、肉体から離れることができるのを喜ぶ。
そうした人の場合、意識の混濁は、ほとんど生じない。「ほんの一瞬、平和にまどろんで、目を覚ました」という感じであり、えもいわれぬ幸福感を感じつつ、希望に満たされて霊界に還ってゆくのである。
物質的で官能的な人間、つまり、霊的な生き方ではなく肉体的な生き方をした人間、霊的生活に何の意味も見出さなかった人間、精神生活に何のリアリティーも感じなかった人間の場合、魂と肉体の結びつきは非常に強固なものとなっている。
死が近づくと、分離が徐々に始まるが、多くの場合、困難を伴う。いまわの際に、痙攣が起こるが、これは、霊子線を切ろうとする霊に対する肉体の抵抗が大きいために起こるものである。また、ときには霊が肉体にしがみつくので、激しい力で、それを引き離さなければならず、そのために痙攣が起こる場合もある。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.25-26
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5-t (あの世の存在を知らないとそれだけ激しく肉体に執着する)
あの世の存在を知らないと、それだけ激しく肉体に執着する。いつまでも肉体に入った状態でいようとするのである。全力を振り絞って肉体の中にとどまりつづけようとするために、ときには、分離のための闘いが、数日、数週間、さらには数カ月かかることもある。
こういう状態では、霊の意識は混濁状態にあるものと思われる。死のはるか前に意識の混濁は始まるのだが、だからといって、楽になるわけではない。わけが分からず、死後にどうなるか見当もつかないので、それだけ苦悩が増すのである。「やっと死ねたと思ったら、それで終わりではなかった」というわけである。混乱は続く。
「自分は生きている」と思うのだが、物質界で生きているのか、霊界で生きているのか、はっきりしない。実際には、もう病気ではないのだが、それでも、まだ症状が続いているように感じられる。
脱物質化が進んで充分に浄化されている霊の場合、状況は、まったく異なる。肉体と霊を結ぶ霊子線は非常に弱くなっているので、何のショックもなしに切ることができる。
また、死後に自分が赴く場所については熟知しているので、彼にとって、病気による痛みは試練であり、死は解放でしかない。したがって、心は平静であり、諦念が苦悩を和らげる。
死の瞬間には、霊子線は一瞬で切れるので、苦痛はまったくない。彼にとって、死とは、自由への目覚めにほかならない。魂は、重い体から解放され、喜びに満たされ、はつらつとしている。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.26-27
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5-u (非業の死を遂げた場合の肉体と幽体の分離)
非業の死の場合、条件は同じではない。肉体と幽体との分離の準備が、あらかじめ、まったくなされていないからである。有機的生命が、力にあふれた状態で、突然、中断されるわけである。
したがって、幽体の分離は、肉体が死んだあとで開始されるのだが、それには多大な困難が伴う。霊は、あまりにも不意な出来事に庄倒されて、茫然自失の状態である。だが、考えることはできるので、「自分は、まだ生きているのだ」と思い込む。この錯覚は、状況を正しく把握するまで、ずっと続く。
肉体生活と霊的生活の、この中間状態は、たいへん興味深いものであり、詳しい研究に値する。というのも、こういったケースでは、霊は、自分がまとっている幽体を肉体であると錯覚しており、肉体を持っていたときの感覚をまだ失っていないからである。
霊の性格、知識、悟りの程度に応じて、この中間状態は、実に多くの様相を呈する。魂がすでに浄化されている人の場合、あらかじめ幽体と肉体の分離は進んでいるので、突然の死に見舞われたとはいえ、それは分離を早める結果にしかならない。また、浄化が充分でない魂の場合、分離するのに数年間もかかることがある。
もっとも、通常の死の場合においても、以上のことは、よく見られることであり、浄化の進んでいる魂にとっては、死は、何の苦しみももたらさないが、浄化が充分に進んでいない魂の場合、死が、とてつもない苦しみをもたらすことがある。
特に、自殺による死の場合、苦しみは大変なものとなる。肉体が、まだ完全に幽体と結びついているので、肉体の苦しみが、そのまま魂に伝わり、激烈な苦しみを味わうことになるのである。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.27-29
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5-v(肉体と幽体の分離が早いか遅いかは霊性に左右される)
死の瞬間の霊の状態は、だいたい次のようにまとめることができる。
幽体と肉体の分離が遅れれば遅れるほど、霊は、より長く苦しむこととなる。そして、分離が早いか遅いかは、霊の悟りの進み具合に左右される。脱物質化の進んでいる霊の場合、意識が浄化されているので、死というのは短い眠りのようなものにすぎず、まったく苦しみを伴わない。その短い眠りから覚めると、心地よさに満たされている。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、p.29
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5-w[7-d](死後の世界は理性的にも充分納得できなければならない)
魂の浄化を進め、悪しき傾向性をなくし、欲望に打ち勝つためには、そうすることによって、死後に、どのような利点があるかを知っておく必要があるだろう。
死後の生活に焦点を合わせ、それを目指し、地上の生活よりも、そちらを優先するためには、それを信じるだけでは充分ではなく、それが、いかなるものであるかを正確に知らなければならない。死後の世界は、理性的な観点からも、また、論理的な面からも、充分、納得できるものである必要があるし、良識、神の偉大さや善意、正義とも矛盾しないものでなければならない。
この点に関して、あらゆる哲学の中で、霊実在論こそが、その揺るぎない根拠によって、人々に影響を与えることができる。
真摯な霊実在主義者は、盲目的に信じるのではない。彼は、正確に理解したがゆえに信じるのである。しかも、彼は、みずからの判断力に基づいて理解したのである。
死後の世界は現実そのものであって、見ようと思えば常に見ることができる。彼は、絶えず、それを見、それに触れている。疑いをさしはさむ余地はまったくないので、霊界での生活、真実の生活を知ってしまうと、限定だらけの肉体生活などには何の魅力も感じられなくなる。
そうした観点からすると、地上での、こまごまとした出来事などは、どうでもよくなり、また、さまざまな不幸にしても、それが、なぜ、どのような目的で起こるのかが分かるので、諦念とともに潔く受け止めることができる。
目に見えない世界と直接かかわることができるので、魂は大きく飛躍する。
肉体と幽体を結びつける絆が弱まり、分離が始まるので、この世からあの世への移行が非常に楽になる。移行に伴う困難は、あっという間に終わる。
というのも、あの世に踏み込んだ時点で、すぐに自分を取り戻すことができるからである。そこには未知のものは何もなく、みずからの置かれた状況をただちに理解できるのである。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.29-31
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5-x(霊実在論によって霊的向上の必要性を正しく理解できる)
(承前) 「霊実在論を知らなければ、そうした結果を得ることはできず、霊実在論だけが、魂の救済を果たし得る」と主張したいわけではない。だが、霊実在論が提示する知識や感覚、霊実在論によって示される死後の霊の行方を知ることが、魂の救済をはるかに容易にするのは事実である。霊実在論によって、われわれは、霊的向上の必要性を正しく理解できるのである。
また、霊実在論によって、われわれは、「自分以外の人が亡くなる際に、祈りや招霊という手段を通じて、その人が地上のくびきから自由になるための手助けをすることが可能となる」ということも知ることができる。その結果、その人の苦しむ時間が短くなるのである。
真摯な祈りは、幽体に影響を与え、幽体と肉体の分離を容易にする。
また、慎重に、智慧をもって招霊を行い、さらに、思いやりに満ちた励ましの言葉をその人にかけることで、その人の霊が、混乱状態から抜け出し、自覚を取り戻せるよう、支援をすることができる。もし、その人が苦しんでいるようであれば、苦しみから抜け出す唯一の手段である悔い改めを促すことによって、その人を助けることも可能である。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、p.31
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5-y(肉体が破壊されたあとも霊は生きつづける)
人間は、肉体と霊からなる。霊とは、原理であり、理性的な存在、知的な存在である。肉体とは、霊が、地上において使命を果たし、みずからの向上に必要な仕事を遂行できるように、霊を一時的に包んでいる鞘にすぎない。
肉体が使い古され、破壊されたあとも、霊は生きつづける。肉体は、霊が入っていなければ動くことのできない単なる物体にすぎない。
肉体を失えば、霊がすべてとなる。生命と知性こそが霊の本質である。肉体を脱ぎ捨てた霊は、霊界に戻るが、やがて、再び、そこから地上に生まれ変わってくる。
したがって、肉体に宿った霊たちから構成される物質界と、肉体に宿らない霊たちから構成される霊界とが、同時に存在することになる。
物質界の存在たちは、肉体という鞘に入っているために、地球、ないしは、その他の惑星の表面に結びつけられて生活する。
霊界は、われわれの周囲、空間、あらゆる場所に広がっている。霊界には、いかなる限界もない。肉体に宿っていない霊たちは、地上を重々しく移動する必要がないので、思考と同じスピードで一瞬のうちに空間を移動することができる。
肉体の死とは、霊子線が切れて、霊と肉体が分離することを意味しているのである。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.299-300
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5-z (死んでも魂は永遠に生き続ける)
大切な人たちと死別をすると、多くの人は悲しみに暮れ、涙が滴れるまで泣き続けるでしょう。どうしてこんなにも早くに逝ってしまったのか、どうしてこんな不幸なかたちで死を迎えなければならないのかと。その気持ちは人間の感情としては自然なものです。
死の悲しみを辿っていけば、その根本にあるのは喪失感でしょう。今まで一緒にいた人間がいなくなってしまうと、部屋の中は空っぽになってしまうように感じられます。会いたいと思っても、二度と会うことは叶わないので、喪失感の中で人はもがき苦しむのです。そしてさらに、死は永遠の別れであるという思いこみが、喪失感を強くしているのです。でも、私の体験からすると、死とは永遠の別れではありません。魂は生き続けているのです。
死後の世界がどうなっているかを想像する時、私たちが生きているこの世界と死後の世界を一つの競技場だと考えてみてください。競技場の中では、たくさんの人たちが走っています。速く走る者もいれば、よたよたしながら走っている者もいる。一〇〇年も走り続ける人もいれば、ちょっと走っただけでリタイアしてしまう人もあります。つまりは、この競技場の中こそがこの世ということになるのです。
競技場と観客席の間には、大きなハーフミラーがあると想像してください。観客席に座っているのは、すでに亡くなって魂となった人たちです。観客席のほうから競技場の中は見ることができますが、競技場で走っている人間からは観客席は見えません。観客席には、我が子のことを一生懸命に応援する親たちもいれば、早くにリタイアして観客席にやって来た子が、まだ走り続けている両親を応援していることもあります。目には見えないけれど、その応援の声は時に競技場の人間に伝わったりするものです。そんな姿なき声に励まされながら、私たち生きている者は競技場の中で走っているのです。
そして母や臨死体験した人の話から言えば、どうやら観客席という場所は、素晴らしく居心地が好いところらしいのです。寂しさなどは微塵も感じないようです。
競技場にいた頃には、怪我や病気で苦しんでいたとしても、観客席に来れば、すべての苦から解放されるのです。競技場にいた時間が短い人であったとしても、そこに後悔などはありません。なぜなら観客席に来た途端に、それが自分に与えられていた時間であることを知るからです。そして、それぞれに与えられた時間は、目に見えない大きな力によって決められていることを理解するのです。
死というのは、ただ単に競技場から観客席に移ることに過ぎず、確かに肉体そのものはなくなるけれど、魂は永遠に生き続けているのです。そしていつの日にか、必ずまた魂同士は出会うことができるのです。
もちろん私はまだ競技場の中にいる人間ですから、観客席の様子はわかりません。でも、それが存在することは明らかだと信じています。
魂の存在を信じていれば、死がすべての終わりではないことを感じ取れます。そうすれば、死というものを静かに受け入れることができるのです。大切な人を亡くして悲しむ気持ち、それはいつの時代でも変わることはありません。しかし、死をすべての終わりと考えるか、それとも新たな魂の空と捉えるかによって、明らかに悲しみの質は変わってくるものです。
矢作直樹『死んだらどうなるのか?』PHP研究所、2013、pp.100-103
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5-za (真実の生命に気がつかないままでは人間としての価値を失う)
この身体という物質は、魂という人間の本当の生命を知るための道具に過ぎません。目には見ることの出来ないこの真実の生命に気がつかないままでは、いくら生きていたって、それはもう人間としての価値を失った単なる有機生物に過ぎません。
死というものは物質の肉体の機能の終了であって、本来の永遠なる生命すなわち魂は決して消滅しない。このことを知れば、人間の死に対する姿勢も当然変わるはずです。
近頃の私は、以前のように知人の計報に接しても、悲しんでうろたえるなどということはもう全くありません。これは、私が冷酷になったのでも何でもなく、魂の永遠の生存を確信したからのことです。
が、この世にはこの大事なことに気づこうともせず、ただ目先の価値観だけで生きてしまっているためにその生きざまも醜くなり、更に死に直面して初めてあわてふためくような人々が溢れています。
それだけではありません。死んでも死んだことがわからないでウロウロしています。子孫を知らず知らずのうちに苦しめて、なお自分の死に気づいていません。
こんな死者になりたくなかったら、生きているうちから自分の死を見つめながら生きることです。死後のことを勉強しておけばいいのです。
萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、1994、pp.114-115
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5-zb (永遠に生きる自分の魂という視点を忘れてはならない)
肉体というものはこの世でしか使えずこの世でしか必要でないものだけれども、魂の向上のために苦楽すべての体験を積んで行くという大切な道具でもあるわけです。ですから、永遠に生きる自分の魂という視点を忘れることなく、自分の身体にばかり中心を置いた生き方をしないようにしたいと思います。
言葉で表現しようとするとなかなか旨く言えませんが、つまり、肉体にとらわれた暮らしを続けていると、死んだ後に自分の死が自覚できなくなるということだけでも、今から胸に叩き込んでいただきたいのです。
これは常々私が申し上げている大自然界の法則・摂理と同様に、霊的世界においてもこれは絶対的な真理です。人間とはそういう霊的存在なのだといってもいいでしょう。
萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、1994、p.94
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5-zc (人間本来の本当の命を見出せば死はすなわち生である)
今病気で生死の境にある人があったなら、その本人にも家族の方々にも申し上げたいと思います。
病気である肉体にいつまでもとらわれた心を持ち続けていれば、快方に向かえば喜びであることと同じように、病状が悪化すればその不幸を嘆き悲しむだけのこととなります。
肉体がいつかは必ずその終末を迎えるのが大自然の法則である以上、病気や死をただ不幸な現象として必死に避けよう逃げようとしてもがいても無意味です。
生老病死というものは肉体上のことであって、魂にこの四苦はありません。肉体へのやみくもな執着から心をまず離してみて下さい。今日まで生かしてもらえたことを本当に幸福だったと心から感謝し、残された日々をすべてその生かして下さっていた御仏への感謝一途の心で生きようとして下さい。
もし、それが出来たならば、肉体はただ病気のなすがままになっているのではなく、御仏によって生かしていただける期間の間は、どんなことがあっても生かされるでしょう。
魂だけの人間に戻るまで、つまり肉体が死んでしまうまでに、まだこの世でなすべきことが残っていると御仏がお考えになれば、肉体は必ず快復します。
人がそれを単に不思議と言い奇跡と呼ぶだけのことなのです。死や病気をただ恐れて逃げ回るのではなく人間本来の本当の命を見出せば、死はすなわち生であり、死ぬことはすなわち生まれることであるのがよくわかるはずです。
私はこの地上界に在る間に二度の誕生を経験したのですから、それこそ幸福と感謝していますが、それだけにまた今この世にある人たちにも、すでに肉体を消滅している死者たちにも、その双方に真理を説いて行く大きな役目があるものと、一層心を引き締めている次第です。
萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、1994、pp.96-98
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