学びの栞 (B) 


 6. 宗教・信仰


 6-a (人間は同胞たちを支配するために神のイメージを造り出した)

 あなたに偉大なる真実を教えましょう。人間は自分の同胞たちを支配するために、神のイメージをつくり出したのです。宗教というのは、軍隊が民族や国家を支配するのに失敗したときのためにつくられたのであり、それを使って人々を抑えつけるのに恐怖という手段が用いられたのです。どんな人間だろうと、その人から神なるものを奪ってしまえば、神を奪ってしまえば、その人間を支配しコントロールするのはわけないのです。
 神が地獄や悪魔をつくり出したのではありません。それは人間が自分の兄弟たちを苦しめるための恐ろしい創造なのです。大衆を恐れさせ、支配可能な集団とする目的で、宗教がそのドグマを通してつくり出したものなのです。それが偉大なる真理です。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所1996p.61

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 6-b [12-a] (キリスト教は何百年にもわたってほかの文明を抹殺してきた)

 車椅子の年老いた女性に―

 ひとつわかってほしいことがあります。あなたの宗教、そしてあなたの信念は、すでに何百年にもわたってほかの文明を抹殺してきたということです。マヤ人やアステカ人は、教会と同じことを信じていなかったために、教会による支配を通じて抹殺され殺戮されていったのです。人間の歴史の中で暗黒時代と呼ばれる中世の時代の聖戦は、すべて宗教上の信念を広めるために戦われました。フランスと呼ばれる国では、教会の言うとおりに信仰しないという理由だけで、母親の手から赤ん坊を連れ去ったのです。そして多くの女性が赤熱した鉄の棒で眼を焼かれ、胸に烙印を押され、あたりは血であふれました。それもすべて、たかが宗教上の信念のためにです!
 そして今度は新教徒(プロテスタント)たちが現れて、地獄に燃えさかる炎や悪魔といった概念で子どもたちの心に恐怖を生み出し、教会の言うことに従い、その規則や戒律を守らないと永遠に地獄で焼きつくされるぞと言って、教会組織をしっかり維持していこうとしました。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.62-63

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 6-c (供養のあり方について)

 この世の者が今ある肉体を使って、死者の思いを気が済むように果たしてあげれば、死者の心はどんなに安らかになれるでしょう。いつまでも真っ暗な不安定な苦しい所に、変則的な形で生きているつもりにさせておいたのでは可哀想ではありませんか。
 そのことを子孫たる者まずよく理解してあげて下さい。
 そして、死者自身にも自分の現状をよくわかってもらうことです。
 子孫の思いやりの心が下地となって死者を説得し、そして自らの死を間違えずに正しく納得してもらう、これが供養というものの神髄です。
 私の寺における供養とはまさにこのことの実践にあります。
 かりにも先祖の死者たちを悪霊などと思っているうちは、どんなに形を調えて供養をしようが、生者と死者との間に魂の通い合いは絶対に望めません。
 自分が今生きているから、生かされているから供養が出来るのだと、たったそれだけの素直さがあればいいのです。そのことで魂が少しずつ磨かれて行ってこそ、死者たちは納得し、喜び、安らかになつて成仏して行きます。この世での悪霊の仕業など、もうどこを探したって見当たらないのです。
 生まれてから今日までの間、何一つ苦しみ悲しみの無かった人は、こんな大事なことを全然学んでいません。これは不幸です。気の毒です。生きている問のこれから後の時間も、死んでしまってから後の長い魂としての時間も、どれほどつらいものになってしまうか考えただけでも身が震えます。
 苦労から逃げるための供養ではなく、するのが当たり前の供養を、これからも淡々と続けて行って下さい。

   萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、
     1994、pp.235-236.


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 6-d (お経は霊を慰め浄めることになるか)

  誦経は霊魂をなぐさめ、浄めることになる。しかし経文は仏の言葉であり、その言葉には人を悟りの道につかせる高い光が宿っているが、お経をあげるその人の心の持ち方が、お経の効果を高めもし、低めもするのである。
 お経のもつ高い光は、勿論あるのだから、そのひびきは、業因縁を超えて、幽界にとどくわけなのだが、誦む人の心に、愛もなく、信もなく、ただ習慣的に誦んだり、周囲の関係で、しかたなく誦んだりしたのでは、その人の心の波と、お経のもつ高い波とが、合致せず、そのひびきは、幽界の霊魂にとどかぬので、効果がないということになるのである。
 お経を誦む時は、やはり、その経文に心を集中してあげることが第一で、そうすれば心が空に近くなるので、その空に、お経の光が充満し、その人と因縁のある霊魂にひびいてゆき、霊魂の因縁を浄めることになる。
 僧侶に誦経してもらう時は、その僧侶の人格の高さ、悟りの程度と、施者の愛念の深さによって、そのお経の功徳の現われ方が違うのである。のりともこれと等しい。

   五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
    1988、pp.85-86

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 6-e (信仰と宗教とは同じではない)

 そもそも信仰と宗教とは文字が異なるが如くその意味は全く違うものなのだ。信仰とは神仏を拝み尊ぶが如く、己れの心を清く美しく磨き、神仏の御心と同じが如く、自分自身を自分で信じ尊ぶ事が出来る程に己れを向上させる事を云うのである。神と自分の直接取引、つまり産地から消費者へ直売と云う形である。そしてその間に入って、こう云う拝み方もあります、ああ云う拝み方もグッズもありますとノウハウを教えて利ザヤを稼ぐ問屋、即ち流通機構が宗教である。悩み多い世間を、いかに発想の転換をはかり楽に生きて行くかと云う事を教えるのが経典であり、ハウツーものの本である。であるからして宗教とは企業に過ぎぬ。三井、住友、丸紅辺りの商事会社と全く同じなのである。教祖や法皇や教え主なぞと仰々しい呼び方を押しつけているがそれは会長とか社長とかと呼ぶべきなのだ。権大僧正だの大司教だのとずらずらと階位をつけているが、それは只の専務だの部長だの課長だのと同じものに過ぎない。教会の神父や牧師や寺の住職や神社の神主は単なる支店長なのであり、折伏や教化に廻る人々は営業部員なのである。故に神秘的なものでも不可思議なものでも犯すべからざるものでもないのである。
 最近はオカルトブームとやらで、何かと煩雑な社会機構の中で疲労困憊した人々が神秘のカによって救けて貰おうと様々な宗教団体に入って問題を起しているが、それも道理である。宗教とは企業であるからして、それは早い話が、三井や伊藤忠といった商事会社の玄関に入って行って、「どうか私の悩みをお救い下さい」と拝み込んでいるのと同じ事だからである。又、もっと非道い話が、その神父にしろ牧師にしろ僧侶にしろ、「そんな霊なんて迷信です」と云ってとんと信じていない不思議な者達がいる事である。では貴方達は何で商売をしているのかと云い度い。神や仏や先祖供養なぞと云う霊を拝む事で商いをしているのではないか。その霊を否定するとは何事ぞ。己れが信じても居ないもので商売をしているのは、詐欺師くらいなものである。その詐欺師に魂の救いを求めた所でそれはとても叶わぬ事は自明の理であろう。

  美輪明宏「霊を受け入れる柔和質直な心」による。
    佐藤愛子『こんなふうに死にたい』新潮文庫、1987、
       pp.155-157 に所収。

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 6-f[12-f] (どんな魂にでも必ず神の光にめざめるときは訪れる)

 キリスト教は、純粋な真実の種を包含しているがゆえに、もっとも純粋な宗教であったと私は述べました。この言葉の意味を説明したいと思います。キリスト教の“身代わりの腰罪”そして、「私が道であり、真実であり、生命である。私によらず天の父のもとに至る者はいない」という言葉に関して、異議を唱える人がいることでしょう。悲しいことに、これはいまだに、多くの人々にとっての障害となっています。私自身も今にしてわかったことなのですが、これらの言葉の背後にある霊的な意味を理解していないからです。
 身代わりの贖罪という福音を、私たちは教えません。人は自分が蒔いた種を刈り取らなければならず、人の邪悪な考えや行動の責任を、その人から取ってやることのできる人はいないということを私たちははっきりと理解しています。
 しかしながら、人間がどんなに深い奈落にまで沈んでいたとしても、その魂がキリストの力と愛とによって創造された真実の光で照らし出されたとき、その人は再び生まれ変わり、それまでの自我は死ぬことになります。このようにして、キリストだけが人間を無知と、罪と奈落から救い出すことができるのであり、人間を永遠の生命へと導くことができるのです。
 心霊主義者であれ、伝統的なキリスト教信者であれ、仏教徒であれ、無心論者であれ、どんな魂にでも、神の光にめざめるときは訪れます。別な言葉でいえば、キリストの光に目覚めるときがやってきます。すべての魂は、どのような名前がついていようが、どんなにキリストを否定しようが、慈悲深いキリストのはかり知れない愛と完全な叡智とによって、いつの日か、天国の“狭き門”を通らなければなりません。
 この前、仏教徒の考えについてお話しました。これについても、もう少し説明が必要だと思います。今日の仏教徒は、人間存在の究極にして最も崇高な目標は“ねはん”として知られている生命の局面に入ることであると信じています。従って、仏教徒は数多くの人生を急いで体験して、輪廻転生から自由になるために、できるだけ早く肉体をもって生まれ変わりたいという願望をもっています。ねはんに辿り着けば、永遠の輪廻から解放されると信じているわけです。
 ねはんの境地に達したとき、欲望から解放され、無の境地の中で安らぎを見出すであろうことは確かです。仏教徒の間違いは、釈迦の教えを間違って解釈しているところにあります。これと同じように、キリストの教えも二〇〇〇年前に使徒に与えられたものとは非常に異なったかたちで伝えられています。
 釈迦は、人間ひとりひとりの魂が最終的に身を任せなければならない道を指し示すためにやってきたのです。その道とは、崇高な存在に身をゆだねるという道です。自分自身の体験によって、幼子のような素朴さと、信頼の気持ちがあって初めて人間は天国に入れることを証明されたのです。釈迦はこれを教えられたのです。
 もう一つ述べておきたいと思います。もしも、皆さんが霊の真実のヴィジョンに従うならば、洋の東西を問わず、すべての宗教の源である、古代の叡智の中に、この真実を見出だされることでしょう。そのなかに、心静まらない霊がいる場所、それよりも高いアストラル界、精神界、天界、宇宙界のことが説明されているはずです。
 これまでの長い歴史を通して、さまざまなマスターがほぼ同じような教えをもって地上に戻ってきては、その教えを残していきました。人間と神のために自我を放棄し、欲望を放棄する覚悟のある人には、なんという光輝に満ちた運命が開かれることでしょうか。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.249-251

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 6-g[15-j] (ただ一つ存在する真実の宗教とは愛である)

 ただ一つの真実の宗教が存在します。あらゆる形、信念、宗派、信条、儀式の背後に、ただ一つの絶対的な現実があります。
 これは宇宙的な宗教で、国境や、慣習、偏見によって束縛されることも限定されることもありません。名前はただ一つ。その名前は、すべての存在が理解できるものです。白人、黒人、黄色人種、女性、子供、動物、鳥、花、生きとし生けるものすべてが理解できるものです。真の同胞愛の宗教の意味はただ一つ、名前もただ一つ、それは愛です。
 この愛は必ず実現するでしょう。愛は人間に、さまざまな形や儀式や信条や教条は、そこに生き生きとした魂がなければなんの役にも立たないことを教えてくれるでしょう。すべての生きとし生けるものは霊の力を証明するものであり、霊の力にこたえることができるのです。
 人間にはさまざまな人種的な違いがあり、また多様な考えがあります。人種や考えがなんであれ、一人一人をそれぞれ公平に扱ってあげるべきです。しかし、すべての人間は最終的には、創造者の無限の愛を認め、それに敬意を払ってお辞儀しなければならないのです。そのとき、ついに人間は、すべての人間のために働く人は神のために働いているのだ、ということを理解するのです。
 この素晴らしい日が訪れるまで、地球は死から完全に解放されることはないでしょう。すべての人が、仲よく調和に満ちて、自己の意思を曲げて、宇宙の崇高な法則を崇拝するとき、死は勝利のなかに飲み込まれて消滅するでしょう。
 そのとき、人間の肉体はもはや死の横暴に屈することはなくなるでしょう。なぜなら、人間の肉体は死ぬのではなく、転換することになるのですから。罪は、その本質において死そのものです。死は罪の結果なのです。これは文字通りの意味です。罪は必ずなんらかの形による死をもたらします。しかし、叡智に満ちた、純粋で真実の愛は、永遠の生命を与えてくれるでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.284-285

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 6-h (私たちは神聖な存在であることを忘れてしまっている)

 最も信仰の深い人々は、実は同じことを心の奥では信じているのに、私達は宗教の名において、お互いに殺し合ってきたのです。
 重要な宗教はどれも同じことを強調しています。それは、霊的な生活を送ること、すべての生命とすべての物に宿り、しかもそれを超えた神聖なる存在を理解すること、良き行ないと奉仕、愛、思いやり、慈悲、希望、信仰などの大切さです。どの宗教も、死後の生活と魂の不滅を説いています。そして、親切、許し、平和を強調しています。
 私が宗教と言う時、人間が作った教義や戒律ではなく、気高く霊的な知恵と伝統を意味しています。政治的な理由のために広められ、人々を分離しょうとする人間が作った教義や戒律のことを言っているわけではありません。霊的な真理と、政治的野心に基づく規則を、私達は注意深く区別しなければなりません。そのような規則は私達を恐怖に陥れ、バラバラにする壁なのです。
 今、私達は、神はあらゆる所に存在するということや、魂の不滅、つまり、肉体が死んだ後も魂は存在し続けるということを直観で信じるだけでなく、客観的データに基づくものとして、受け入れ始めているのです。
 それなのに、私達はなぜこんなにも、友人や隣人の宗教は言うに及ばず、自分自身の宗教の真髄に無知なのでしょうか? なぜ、沢山の共通点があるのに、お互いの違いばかりを見ようとするのでしょうか? なぜ、偉大な先達が思いを込めて提示した教えや教訓、規則、指針などを無視するのでしょうか?
 やはり、私達は自分がもともと知っていたことを、忘れたのだと思います。決まりきった日常の生活に囚われて、私達は不安や心配で疲れ、自分の地位や外見、他人にどう思われるかを気にしてばかりいて、霊的な自分を忘れているのです。そして、自分の本質を忘れたばかりに、死を怖れています。自分の評判や立場、損得のために、他人にうまく利用されるのではないか、と心配ばかりし、愚かに見えはしないかと怖がって、霊的に生きる勇気を失ってしまったのです。
 しかし、長い間、正反対のものと考えられていた科学と霊性が、一つになりつつあります。物理学者と精神科医は、現代の新たなる神秘主義者になっています。私達は、これまで神秘主義者が直観的に知ったことを、証明しつつあります。私達はみな神聖な存在です。私達はこのことを何千年もずっと知っていたのに、忘れてしまったのです。そして故郷に帰るためには、その道を思い出さなければなりません。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.328-330

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 6-i (重要な宗教が示すすべての道は神性と悟りへと続いている)

 もし、愛という唯一の神、唯一の宗教しかないとすれば、なぜ、私達は自分が生まれた所の宗教を信奉したり、特定の一つの信仰を選んだりするのでしょうか?
 結局は、何かに出席したいのであれば、どんな種類の教会や寺に行こうと構わないのです。自転車の車輪のスポークのように、重要な宗教によって示されたすべての道は、同じ中心へ、神性と悟りへと続いているのです。一つの道が他の道よりすぐれているわけでも、劣っているわけでもありません。みんな平等で同じなのです。
 しかし、子供時代から馴染んできた自分の宗教の知恵や真理を知っていると、幸先の良いスタートを切ることができます。すでに、多くの知識や体験を蓄積しているからです。それだけでなく、快い親しみも感じるでしょう。親しみは平和な感覚をもたらします。あなたの心はリラックスし、意識して努力しなくても、深い瞑想状態に入ることができます。親しみと快さは、他のことに気を散らさずに心を集中させ、ずっと楽に深いレベルの瞑想や祈りや黙想に入り込むために役に立ちます。この深いレベルで、あなたは超越的な意識レベルを体験できるのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.330-331

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 6-j (すぐれた宗教には真理と美と知恵が隠されている)

 すべてのすぐれた宗教には、すばらしい真理や美しさや知恵が隠されています。私達はそのすべてを、学生のように試してみるべきです。霊的な観点を変えることによってもたらされる気づきは、私達の霊的な成長を促進するからです。そして、あなたの宗教的伝統を捨てる必要もありません。結局、バラを好きな人もいれば、ランや百合や野の花やひまわりが好きな人もいるのです。でも、どれもみな、それぞれに美しく、神はどの花にも同じ太陽の光を降り注ぎ、同じ雨を降らせて慈しんでいます。みな、それぞれに違いながら、みな特別なのです。
 あらゆる霊的伝統に共通する教えをわかりやすく言い換えれば、雨は花の上と同じように雑草の上にも降り注ぎ、太陽は教会の上と同じように、刑務所の上にも輝いているのです。
 神の光は一切、差別しません。そして、私達の光も差別すべきではありません。
 唯一の道、唯一の方法、唯一の教会、唯一の思想だけがあるわけではありません。
 ただ一つの光があるだけです。
 壁が崩れ落ちた時、これ以上にないほどすばらしい地上の楽園に、すべての花が一斉に花開くことができるのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.331

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 6-k[61-0] (すべての世界的な宗教には真理が含まれている)

 何世紀にもわたって、キリスト教や他の諸宗教の真の教えといっしょに混乱した教義までが受け入れられるようになってしまったのは嘆かわしいことだ。だが特に申し上げておきたいことは、すべての世界的な宗教には真理が含まれている、ということである。それらのうちひとつとして他の宗教から抜きん出て真実度の高いものはない。本書でわたしたちが関心を持っているのは、個々の人びとに手を差し伸べ、内なる声に耳をかたむけるよう告げることなのだ。真理はあなた自身の心の中にある。あなたの心の奥深くからやってくる直観が、物質界で知りうるもっとも偉大な真理へとあなたを導いてくれる。誰にでも、このように深遠な真理を自分のものとする道は開かれているのだ。人にはそれぞれ魂があり、この魂が宇宙の叡知を伝えてくれる。耳をすませて聞いてほしい― ただそうするだけでいいのだ。
 とはいえ耳を傾けること自体にも、ある程度の訓練と理解が必要だ。まず最初に、真理があなた自身の心の中にあることを認めなくてはならない。つぎに、さしせまった日常の雑事に関するとめどないイメージだとか独り言などの雑念を一掃する努力をしなければならない。こうした雑念を断ち、心の内から聞こえてくる声に耳をかたむけてみよう。答えは必ず得られるはずだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.56

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 6-l (彼の祈りはなぜ聞き届けられなかったのか)

 キリスト教には数々の奇跡があったはずである。熱心な祈りによって不治の病が治った例は決して少なくはたい。それならば、彼が彼の愛する者を死に至らしめたのは、彼の祈祷が熱心さに欠けていたからか。もしそうなら、彼は彼の愛する者を彼の不熱心の故に見殺しにしてしまったことにさえなる。しかし、彼は必死に祈ったのである。熱心のあらん限り、祈りに祈ったのである。そして、その祈りは聞き届けられなかった。これをどう考えるか。内村は次のように信じた。

 ああ神よ、爾は我らの有せざるものを請求せざるなり、余は余の有するだけの熱心を以て祈れり、しかして爾は余の愛する者を取り去れり、父よ、余は信ず、我等の願うことを聴かれしに依て爾を信ずるは易し、聴かれざるに依てなお一層爾に近づくは難し、後者は前者に勝りて爾より特別の恩恵を受けしものなるを、もし我の熱心にして爾の聴かざるが故に挫けんものならば爾必ず我の祈繭を聴かれしならん。(内村鑑三『基督教徒のなぐさめ』岩波文庫、1983、22頁) 

  ここまで信仰が深められれば、あとは、感謝と喜びがあるだけである。神は決して、罰として艱難を下すことはない。このような大試練に彼が耐え得ることを知っているがゆえに、神は彼の願いを聞き届けなかったのである。彼の祈りが不熟心であったからではたく、むしろ十分に熱心であったが故に、神はこの苦痛を彼に与えた。彼はそれを神に感謝するのである。そして、最後に残された「忍ぶべからざる一事」は、彼の愛する者が何ゆえに不幸にして短命であったか、という問題だけであった。

  武本昌三「信仰と救済」−9(『論文集』[T]より)

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 6-m (愛する者の失せしによりても万を得て一つを失わず)

 余は余の愛するものの失せしによりて国も宇宙も― 時にはほとんど神をも― 失いたり、しかれども再びこれを回復するや、国は一層愛を増し、宇宙は一層美と壮宏とを加え、神には一層近きを覚えたり、余の愛するものの肉体は失せて彼の心は余の心と合せり、何ぞ思きや真正の配合はかえって彼が失せし後にありしとは。
 然り余は万を得て一つを失わず、神も存せり、彼も存せり、国も存せり、自然も存せり、万有は余に取りては彼の失せしが故に改造せられたり。
 余の得し所これに止まらず、余は天国と縁を結べり、余は天国ちょう親戚を得たり、余もまた何時かこの涙の里を去り、余の勤務を終えてのち永き眠りに就かん時、余は無知の異郷に赴くにあらざれば、彼がかつてこの世に存せし時彼に会して余の労苦を語り終日の疲労を忘れんと、業務もその苦と辛とを失い、喜悦をもって家に急ぎしごとく、残余のこの世の戦いも相見ん時を楽みによく戦い終えしのち心嬉しく逝かんのみ。

  内村鑑三『基督教徒のなぐさめ』(岩波文庫、1983、27-28頁)

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 6-n  (仏教では「神」の存在を考えていない)

 世界には様々な宗教がありますが、その最も根源的な分類は「普遍的な教義を持っているか否か」でしょう。いわゆる「民族宗教」と「世界宗教」の違いです。
 「民族宗教」とは、その土地の伝統や文化が混ざり合って自然に形成された宗教のことです。いつ誰が始めたというわけではなく、土地に古くから伝わる神様をそのまま信じていたり、生活と宗教が一体化されていたりするものが多いのが特徴です。
 たとえばヒンドゥー教はこの典型例でしょう。竜神、暴風神など様々な民間信仰や地元の神話が合体し、さらにインドの社会システムを組み込みながら自然にできあがった宗教です。インドの文化や社会構造がそのまま宗教のシステムに投影されているため、ヒンドゥー教が他の国で成立することはありえません。
 このように民族宗教は、普遍的な教義を持たないため他の民族に広がりにくいことが特徴です。
 一方、「世界宗教」とは、その教えが教義という形で明確に示されている宗教のことです。明文化されていることで、固有の文化や地域にしぼられず、誰もがその宗教を信仰することができます。キリスト教やイスラム教、そして仏教もこの中に入ります。
 ただし、これらを大きく二分するのが、「神の存在を信じるか否か」という非常に大きな問題です。
 「神」とひとくちに言っても解釈は様々でしょうが、世界を創造し支配する絶対的な存在だというのが共通の要素でしょう。たとえば、キリスト教やイスラム教などは、唯一絶対の創造主の存在を信仰する一神教です。
 この類の宗教は、何をおいてもまず「神への信仰」が中心にあり、そこから全てが説明されます。「神」は絶対的な存在ですから、その存在を疑ったり、反抗したりしてはいけません。
 それでは仏教はどうでしょうか。
 実は仏教は「神」の存在を認めていないのです。いわゆる「無神教」という類です。
 仏教の開祖として尊敬を集めている釈尊(釈迦、ゴータマ・シツダールタ)も、決して神様ではありません。また、「仏」は悟りの境地に至った人のことを指す言葉ですから、誰にでもなれる可能性があり、「神」とはまるで違うものです。
 「神」がいればそれに従えばいいわけですが、仏教にはそういう存在がない。幸せとは何か、真実とはなにか、その答えは経典を学んだり修行したりしながら、自分で見つけなくてはならないのです。
 仏教がきわめて哲学的であるといったのはこのためなのです。
 実際に釈尊も「私の教えをあなた自身で疑い確かめなさい。疑問を抱いたりおかしいと思ったりするのであれば、私に従う必要はありません」と説いています。
 また、チベット仏教に古くから伝えられている有名な教えにも、「場所が変われば違った先生がいる。先生が違えば教えも違う」というものがあります。弟子は一人の先生の教えだけを盲信せずに、仏教の教えを広く全般的に学ばなくてはいけないし、先生も他の宗派に目を向けなくてはいけないという教えです。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.25-28

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 6-o (全てに実体はなく、その本質は空である)

 あらゆるものごとに「実体はない」というこの本質を、仏教では「空」と表現します。
 ただし大切なのは、「空」は「存在していない」という意味ではないということです。「存在していない」と「実体がない」は全く別物なのです。簡単に言えば、「そのものの有無」が存在であり、「確かな姿」というのが実体です。
 どうしてもこれを混同してしまう人がいます。たとえば「すべての本質は空である」と聞くと、「私もこの世界も何もかも存在しないのだったら、何をしたって意味が無い、何をしたって無駄だ」などといった「虚無論」を唱える人がいる。
 「空」の理論を大成したインド仏教の僧侶・ナーガールジュナの論書『中論』にも、同じような人が登場します。ナーガールジュナが「あらゆるものに実体はない」と「空の本質」を説くと、反対意見を唱える人々から「あなたの見解は間違っている。あなたの言うとおりなら、全てのものは一切存在していないということじゃないか。そんなはずがない」と、議論をふっかけられる場面があるのです。それに対し、ナーガールジュナは「あなた方は『全く存在していない』ことと『実体がない』ということを混同しているのだ」と答えています。
 仮にあらゆる物事の存在を否定した場合、この世界には自分も含めて何もないということになります。でも自分が存在していないのなら、今この間題を考えている私たちは一体なんなのでしょうか。手を伸ばせば自分の体に触れることができるのに、それも存在していないというのなら、私たちは何を触っているのでしょうか。そしていま目に見えているあらゆるものは、全く存在すらしていないというのでしょうか。
 そこで、簡単な例で説明しましょう。たとえば先ほど私たちは昼ごはんを食べましたね。食事を食べたからこそ美味しいと感じたし、空腹も満たされました。もしごはんそのものが存在していなかったら、そのような感覚や作用はなかったはずです。私たちは全くの空想の中で夢幻を食べたわけではありません。
 つまり、ごはんは確かに存在したのです。ただし、それぞれ自分の味覚で味わい、自分の知覚で認識したに過ぎません。昼ごほんのいわゆる実体、確固たるありようというものは誰も捉えることができないのです。
 このように究極的なレベルまで追究すると、あらゆるものは単なる個人の概念や世俗的な通念に過ぎないことがわかります。だからといって、存在や現象そのものが否定されることにはならない。
 むしろ概念が生じるのは、その存在があるからなのです。存在すらなければ、それを表す概念も生まれません。何らかの認識が生まれたり、それについて語られたりしているということは、概念がどんなにめちゃくちゃだったとしても、存在しているということなのです。
 「空」は存在があって初めて成り立つ概念です。物事は存在があって初めて認識されるけれども、どんな認識も単なる概念に過ぎないので、だからあらゆる実体は「空」である。こういうわけです。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.67-70

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 6-p (愛や慈悲や利他などは何の得にもならないか) 

 欲望の肥大化は、人間を利己的で短絡的にもします。
 多くのものを手に入れれば幸せで、手に入れられなければ不幸になるというしくみである以上、限りある富を周囲と争い、他人から少しでも多く奪わなくてはなりません。他人に優しくしたり何かしてあげたりするのは自分の損につながります。そうしていつも誰かと争った結果、途方もなく疲弊してしまうのです。
 また、「幸せ」が外的な刺激による反応に過ぎないということは、それ自体がとても不安定で危ういものだということです。自ずと目先の欲求や利益に踊らされることとなり、短絡的な考えしか持てなくなります。
 この最たる例が環境間邁でしょう。冷静に考えれば、地球は、自分たちの代だけでなく次の代もその先もずっと住み続ける場所です。替えが利きません。自分たちの瞬間的な都合や利益を優先して、未来にまで残るダメージを負わせていいはずがないのです。
 それでも、今の自分たちには関係がないからと「まあいいや」と思ってしまう。その短絡的な考え方が私はとても恐ろしいと思います。
 そして、行き過ぎた欲望とエゴが極限まで達すると「戦争」が起こるのです。
 特に二十世紀は「暴力と流血の世紀」だったと言ってもいい。人類の歴史を振り返っても、これほどまでに自分たちの欲望を主張し、暴力が横行した世紀はなかったでしょう。その結果、凄まじい数の人間の尊い命が失われました。第二次世界大戦だけでも数千万人が亡くなったと言われています。
 特に日本の広島と長崎に落とされた原爆は、一発で多くの人を死なせただけでなく、街そのものを吹き飛ばしてしまいました。科学技術の進歩が街を豊かにしたはずなのに、その科学技術で街が破壊されてしまったのです。
 もう私たちはわかったはずです。
 いくら欲望が満たされても本当の「幸せ」にはたどり着けない。それはもう二十世紀の歴史が証明してくれました。
 欲望を追求し、人と争い、挙句の果てに戦争まで起こしても、私たちは幸せになるどころかますます苦しくなり、世界は最も悲惨な姿になってしまった。欲望を追求した先は、幸せどころか自滅と崩壊の道につながっていたのです。
 二十一世紀を生きる私たちは、この失敗を認め、誤った認識を正していかなくてはいけません。これまで当たり前だと思っていた価値観を見直し、平和な世界を築く必要があります。それはこの地球に住む全ての人間の責任なのです。
 特に今は人口がどんどん増え、すでに七十億人に達しています。これだけ人間がいるのですから、それぞれが欲望のままに行動すれば、たちまち世界中が争いの場となるでしょう。
 こんな私たちですが、それでもやはり今も昔も「幸せになりたい」という願いは変わらないのです。それでは一体、本当に「幸せ」になるにはどうしたらいいのでしょうか。
 そのためには、これまでの固定観念を大きく転換させ、正反対の道筋をたどってみることです。正反対の道筋とは、欲望やエゴの放棄です。
 欲望やエゴは、これまではむしろ「幸せ」を追求するモチベーションともなっていました。それをあえて捨ててしまいます。そして、他人への「愛」や「慈悲」、「利他的な考え」といった正反対の観念を取りいれるのです。
 とはいえ、愛や慈悲や利他などというと、自分には何の得にもならない、むしろ損してしまう、そう思う人がいるかもしれません。
 しかし考えてみてください。欲望やエゴがあるからこそ人はいつも渇きを感じ、他人と争わざるをえません。争いに勝つためには、嘘をついたり、人を騙したり、貶めたりもします。他人からも同じことをされるのではと怯え、自分の財が失われる恐怖にも駆り立てられます。
 結局、欲望やエゴは自分の得になるどころか、自らを苦しめ悪い結果を生み出すものなのです。

    ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.39-43

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 6-q (あらゆる苦はすべて自らの楽を望むことから生ずる)

 他人に思いやりを持ち、広い視野で物事を見つめる。利他的な行動をとり、自分が今持っているもので満足する。人を信頼して正直に生き、他人への思いやりや優しさを人間関係の基本にする――。
 そうすれば渇きや争いから解放され、心が平穏になることを感じるでしょう。他人への恐れや後ろめたい感情は消え、自分のことを自分で信じられるようになるはずです。
 このとき心の中には、これまでと別の種類の幸福感が生まれてくるはずです。刺激による心の高まりとは違う、静かで穏やかな「心の平和」です。これこそが私たちが追い求めてきた「幸せ」の本当のありようだったのです。
 これまで言及してきた「幸せ」は、全て肉体的・外因的な幸福感でした。外的な刺激に感覚器官が反応し、快感を覚えるというものです。だからこそ、外部の世界にそれを求めて、どんどん欲望が肥大化していきました。
 しかし、「心の平和」は、精神的な幸福感です。あくまで自分の内部に生じるもの。外部に快楽の種を求めるのではなく、自分で「幸せ」を生み出すものなのです。外的条件に左右されることもなければ、誰かと争う必要もありません。
 また、刺激による反応に過ぎなかった肉体的幸福感は、とても不安定で刹那的なものですが、精神的な幸福感は自分の力で深めることも長く維持することもできます。純粋な精神活動による自律した「幸せ」なのです。これは肉体的な幸福感よりずっと確かなものだといえるでしょう。
 こうして一人一人に確かな「心の平和」が確立すれば、それはやがて全体の平和にもつながっていくでしょう。個人の幸せが家庭の幸せを生み、家庭の幸せが社会、国家、そして世界の平和にもつながっていくのです。
 一人一人の心の中に平和があってこそ、グローバルなレベルでの平和が達成できるのです。人々が互いに「幸せ」を求めて争い、欲望に駆られ、自分のことしか考えていなければ、いつまでも世界が平和になるわけがないのです。戦争や紛争の根絶はまさにここから始まるのだと思います。
 ただし「心の平和」を確立することは、物質的な快楽を得るよりずっと難しいことです。
 食べ物を食べる、欲しいものを買う、そんな単純なことで快楽はすぐに得ることができるのですが、精神的な「幸せ」はそういうわけにはいきません。自分の心を訓練し、常に努力をしなければ、すぐに欲望に流されてしまいます。
 そんなことは面倒だ、欲望のままに生きたい、そう思う人もいるでしょう。
 でも欲望やエゴで幸福を実現しようとすれば、必ず破綻するということを忘れてはいけません。安易な方法で得た幸福は、やはり安易に崩れ去るものです。欲望やエゴを切り捨て「心の平和」を育ててこそ、本当の「幸せ」が生まれるのです。
 仏典(仏教の経典)にもこんな言葉があります。
 「この世のあらゆる楽、それらはすべて他者の楽を望むことから生ずる。
  この世のあらゆる苦、それらはすべて自らの楽を望むことから生ずる」
 『入菩薩行論』をまとめ、チベットで最も尊敬されている高僧・シャーンティデーヴァ(寂天)の言葉です。これが書かれたのは八世紀ですが、二十一世紀の私たちもこの言葉の意味を深く考えなくてはいけません。
 とはいえ、欲望やエゴをすぐに捨てられるかといったら、やはり大変難しいことです。他人への思いやりはどうやったら生まれるのか、と私に質問した方もいました。
 しかし、命あるものは多かれ少なかれ、他人への思いやりや愛情を必ず持っている。私はそう確信しています。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.43-47

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 6-r (他者への愛情や思いやりを深めるための二つの思考法)

 実際に他者への愛情や思いやりを深めるには、どのようなことをしたらよいのでしょうか。
 仏教では具体的な方法論を二つ教えています。
 まず一つは、自分の視点と他者の視点を置き換えてみること。
 ともすると人は自分だけ良ければいい、自分さえ幸せになればいいと考えてしまいがちです。しかし、一旦その視点を捨てて他人の視点と入れ替わってみるのです。
 そうすると、他人の目から自分を見ることができる。自分がいかにたくさんの他者と共に生きている存在なのか、自分の考えがいかに狭く悲しいものだったのかが自ずとわかってくるでしょう。
 もう一つは、どんな事象も全て自分につながっていると考えることです。
 仏教では、あらゆる事象は全て関係しあっていると考えます。どんな生き物も過去に死んだおびただしい数の生命も、一つとして独立しているものはありません。偶然生まれたかのように思われる命も、他の生き物との関係性の中から必然的に生まれてきたのです。
 それはあなたの存在も、あなたに起こる全ての出来事も同じです。他の人の存在や影響があったからこそ生まれ、そしてあなた自身も他人に影響を与えているのです。
 こう考えれば、相手に起こることは自分に起こることと同じだとわかるでしょう。自分の幸せを願うことは、他人の幸せを願うことと同じ。そして他人を疎かにすることは、自分を不幸にすることと同じです。
 相手を自分と同じように捉えることができれば、自然と慈しむことができるでしょう。そして、だんだんと利己的な感情が消え、純粋に他者を思うようになります。
 やがて全ての他者、あらゆる命を愛するところまで慈悲の心が大きくなる。そして、ただ思いやったり共感したりするだけでなく、その人が幸せになれるように自分が何かしよう、苦しみを取り除いてあげようという段階になります。
 もちろん、これほど大きな慈悲の心に近づこうというのであれば、それなりの修行が必要です。私もその段階になれるよう常に鍛錬していますが、いまだに修行中なのです。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.51-53

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 6-s (仏教には「二諦」といわれる二つの真理がある)

 私たちの認識が実体ではないからといって、全くのデタラメかというと、決してそうではありません。
 あくまでその事象の構成要素に基づいて認識を生み出しています。さまざまな要素から一部を切り取ったり、並べて意味付けたりしながら、自分の中の鏡に像を映し出しているようなものです。
 それでは人間を認識するための構成要素とは何でしょうか。
 仏教ではこれを「五蘊」という五つの要素に分けています。
 一つは、姿、形、声や匂いなどの要素、すなわち「肉体(色蘊)」です。これに対して精神的な要素については、一くくりではなく四つの要素に分けて整理しています。それが知覚(受蘊)・感情(想蘊)・意志(行蘊)・思考(識蘊)の四つで、それぞれが精神を構成している一つの要素なのです。
 仏教は、この五つの要素でもつて人間が構成されていると考えています。そして人が人を認識するときは、この五蘊を組み合わせたり、一部を取り出したりしながら、その人の概念を勝手に作り出しているのです。つまり自分や他人の「自我」は、五蘊によって生み出された仮の姿なのです。
 五蘊という構成要素がある以上、私たちの作り出す概念には一定の妥当性があります。実際、私たちは常に色々な物事を認識し、その概念でもって物事を考えたり生活したりしています。姿も見えるし、言葉も聞こえる。もちろんそこから生まれた概念に実体はないのですが、ある程度それは共有され、共通の認識としてはたらいているのも事実です。
 たとえ究極的に実体がないとしても、普通の世界では「真実」である。これは認めざるをえません。つまり重要なのは、世俗的なレベルと究極的なレベルを分けて物事を整理することだったのです。
 私たちは普段、世俗で生活をし、世俗的なレベルで物事を考えています。この段階では、私もあなたもこの場所にいて、お互いをはっきり認識しあっています。それはこの世俗的なレベルでは真実です。
 一方で、その概念を突き詰めて考えた時、何の実体もなく、ただ存在だけしか明らかでない。人も五蘊も、物も現象も、全ては「空」である・・・・・・。このこともまた究極的なレベルにおける真実なのです。
 このように、世俗のレベルと究極のレベルを分けて考え、それぞれ別の真理があるという考え方を、「二つの真理」という意味で「二諦」と呼びます。世俗的なレベルの真理を「俗諦(世俗諦)」、究極のレベルの真理を「真諦(勝義諦)」とし、それぞれ別の真理を認めているのです。
 ただし、私たちは世俗的な観念の方に縛られているので、なかなか二つのレベルに分けて物事を実感するのは難しいものです。
 チベットにも、なんとかこれを理解しようと瞑想している僧侶がたくさんいます。
 実際にこの二諦を実感した人によれば、全ての物事の意味が消え、この世界が空っぽのような状態を感じながらも、同時に自分の肉体に触れてその存在を実感したそうです。つまり、究極的なレベルでは空であると悟りながらも、世俗的なレベルでは肉体の存在を知覚し、自分がここにいると捉えている。この二つのレベルの真理を実感したのだそうです。

    ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.70-73

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 6-t (『般若心経』には「空」の真髄が書かれている)

 この「空」の概念が説かれた有名な経典が『般若心経』です。
 「空」を説いた般若経は多様かつ膨大にありますが、『般若心経』はその思想の真髄を短い形に圧縮したもので、まさに「空」の真髄が書かれていると言えます。
 よく唱えられる機会が多いので、日本のみなさんにも馴染みが深いものでしょう。もともとはサンスクリット語で書かれていたものですが、普段みなさんが唱えているのは漢訳されたものです。日本のみなさんはこれを日本語ではなく漢文のままで唱えていますが、わたしたちチベット仏教徒はチベット語訳の『般若心経』を唱え、それを勉強しています。
 それでは、これまで説明した「空」の概念をこの『般若心経』で見てみましょう。
 この経典は、王舎城(古代インドのマガダ国の首都)の霊鷺山で、釈尊とたくさんの弟子たちが集まっている場面を説いています。このとき、その場にいた観自在菩薩が「空」の本質を悟るのです。
 これが冒頭の「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空」という部分です。
 「観自在菩薩が、般若波羅蜜多(悟りを得るための修行)を行なっていたとき、五蘊はみな空である″と見極めた」という意味です。
 前に紹介したとおり五蘊は人間を構成する五つの要素です。この五蘊に究極的に実体がないということを観自在菩薩は見極めたのです。
 そこで、その場にいた舎利子(シャーリプトラ)という弟子が「他の人も悟りを得るためには、どのように修行したらいいか」と尋ねると、「修行をする者はみな、五蘊が本質的に空であることを見極めなくてはならない」と答えます。
 さらに「色即是空 空即是色」と観自在菩薩は続けます。この「色」とは物質的なものを意味する言葉で、そのまま訳すと「物はすなわち空である、空はすなわち物である」となります。これは「物質的なものは空である。空であることは物質的である」という意味です。
 前半の「物質的なものは空である」は、肉体や物質はこの世に現れた現象に過ぎず、究極的には「空」なるものだということ。
 後半の「空であることは物質的である」は少しわかりにくいかもしれません。これは、物事が存在していなければ「空」の性質は成立しない、物事が存在しているからこそそれが「空」なるものだといえる、という意味です。先ほど説明したことが、まさにこの短い一行で説明されているのです。
 ちなみに、日本でよく用いられる『般若心経』は、「小本」というバージョンを漢訳したものです。サンスクリット語の原典には「小本」と「大本」があり、「小本」は教義のみが書かれているのに対し、「大本」には細かな設定や説明が書かれています。より詳しく正確に内容を理解するのであれば、ぜひ「大本」にも触れるとよいでしょう。
 たとえば「五蘊もまた」はそのいい例です。冒頭の「照見五蘊皆空」をそのまま日本語に訳すと「“五蘊はみな空である”と見極めた」ですが、「大本」には「“五蘊もまた、みな空である”と見極めた」と書かれているのです。この「もまた」という追加の意味の言葉があることで、人を構成する五蘊だけでなく、あらゆる事象も「空」であるということが示されているのです。
 このように、『般若心経』は、その短い経典の一言一言に「空」の本質が説かれ、意味が隠されているといえます。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.73-77

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 6-u (なぜ「空」の本質を理解する必要があるのか) 

 さて、ここまで「空」の本質を説明してきました。なぜこれを理解する必要があったのでしょうか。
 それは、私たちがいつもおおよそ実体のない感情や思い込みにとらわれて、真実を見誤ったり、幻想に苦しめられたりしているからです。「空」を知ることで、このとらわれから自分を自由にすることができるのです。
 たとえば、あなたの近くにいる「嫌な人」を思い浮かべてください。特に、その人に怒りを覚えたり、憎しみを感じたりしたときのことを思い出してみてください。きっとその瞬間、あなたは相手の全てを憎み、本当に「嫌な人」だと思ったことでしょう。相手の言葉も振る舞いも何もかもが嫌だと思ったはずです。
 でも冷静に分析すると、その時相手がたまたまとった行動や、自分に向けられた言葉だけで、相手の全てを判断していたことがわかります。それだけの、ほんの偶然の要素で人間そのものを判断し、「嫌な人間」だと決めつけ、それが相手の「実体」だと思ってしまうのです。
 その相手にだって、仲のいい友人もいれば、その人のことを好きな人もいるでしょう。ひょっとすると、あなた以外のほとんどがその人を好きだということだってありうる。
 つまり、「嫌な人間」というのはその人の実体ではなく、あなたが生み出した概念に過ぎません。むしろ自分自身の感情や観念の反映なのです。
 知人の科学者からも、こうした人間心理は科学的にも証明されていると聞きました。人は誰かに怒りを抱いた時、関係のない性質も含めて全てが嫌な人だと感じてしまうのだそうです。その人の全人格を否定し、人間そのものが怒りの対象になってしまうのです。
 これは決してマイナスの感情にだけ言えるのではありません。愛情や好意といったプラスの感情にも言えることです。別に愛情を否定しているわけではありませんが、愛しい人はつい完璧で素晴らしい人に見えてしまい、どうしても執着してしまう。でもこれもまた、その人の絶対的な価値ではなく、あなたの「好き」という感情の反映にすぎないのです。
 つまり同じ対象でも、見る人やその時の条件によって、評価や解釈は大きく変わってしまうということです。ある人にとっては素敵な人に見えても、別の人にとってはすごく嫌な人間に思えるかもしれない。見る人それぞれの視点や感情が、「幻」のような人のありようを作り上げているのです。
 でも、絶対的な実体はない。絶対的に嫌な人も、絶対的にいい人もいないのです。
 それなのに、なんの実体もない「空」の概念に、私たちは常に囚われてしまう。これが一番の問題です。それでも、この真理を自覚することによって、憎悪や執着の感情を幾分か減らすことができるでしょう。
 こういった自らを苦しめる感情が減れば、心の平和につながるはずです。これこそが「空」を理解しなくてはいけない理由なのです。

  ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.78-81

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 6-v (自分の苦しみや憎しみには実体がないことを自覚する)

 そこで、苦悩を生み出している自分の心を見つめてみましょう。そして自分の苦しみがどのようなものかを考えてみます。
 ところが考えれば考えるほど、わからなくなってくるはずです。
 確かに苦しみや悲しみを感じているのに、それがどのようなものか言い表せない。押しつぶされそうなほど深く大きなものだと思われたのに、どこにあるのか見つからないでしょう。どこにあるのか、どんなものかわからない。苦しみとはそれほどまでにあやふやな概念なのです。
 「苦しんでいる自分」というイメージも同じです。「私はいま苦しんでいる」「私は不幸だ」というのは、そう自分で認識しているに過ぎません。そのような自分がどこかにいるわけでも、誰かが規定したわけでもない。
 つまり、苦しみにもまた実体がないのです。あなたの苦しみも、苦しみを感じているあなた自身も、その実体はありません。すべてあなたの観念に過ぎず、あなたがそう認識しているだけなのです。
 もちろん、それが全くのまやかしであるという意味ではありません。あなたが苦しみを感じているという現象は、確かにあるからです。
 しかし、苦しみの実体がないために、自分が意識すればするほど大きなものに感じられ、強固なものに思えてしまうのです。もはや自分自身で苦しみを増幅し、誇張してしまっている人が多いのではないでしょうか。
 苦しみだけではありません。恐怖、猜疑、憎悪、絶望……。あらゆるマイナスの感情は、どれも自分で生み出し、自分でそれを強め、そしてそれに自分が苦しめられている悪循環に陥っています。
 もしあなたが誰かに怒りや憎しみを抱いたとします。そんなときは少しだけ立ち止まって考えてみてください。私はどうしてこんなに怒っているのか、本当に相手は憎むべき人間なのか、と。
 すると、相手自身に実体はまるでないのに、自分が勝手にマイナスの解釈を膨らましていることに気づくはずです。ちょっとした言動で「この人は敵だ」と思い込んでしまっていただけなのです。
 ずっと説明してきたとおり、この世界の事象に実体はないのです。「嫌な人の存在」「怒りを覚える言動」はときに絶対的な実体に思えますが、論理的に考えていくと結局は実体が見つからず、「空の本質」に突き当たってしまうでしょう。
 このマイナスの感情から抜け出すためにも、物事の本質は全て「空」であるということを改めて見直しましよう。自分を支配している苦しみや憎しみには実体がないことをはっきりと自覚するのです。そして自らの知性でそれを良い方向へと転換させましよう。
 また、相手の言動に怒りを覚えたり、思い通りにいかないと悩んだりするときには、その裏に利己的な考えがあることにも気づかなくてはいけません。自分さえ良ければいいというエゴが膨れ上がり、それが裏切られたために心が乱れているのです。
 もちろん、ことはそんなに簡単ではありません。実践していくには難しいことも多いでしょう。しかし、この習慣を常に意識化し、少しずつ心を訓練していくのです。
 そう考えることで、感情に振り回されず、冷静に対処することができるようになります。
 理由のないまま感情が膨れ上がることは減り、その感情の強さは徐々に和らいでいくでしょう。すぐに苦しみが消えるわけではありませんが、やがてはそれをコントロールできるようになると思います。

   ダライ・ラマ14世『傷ついた日本人へ』新潮新書、2012、pp.93-96