学びの栞 (B) 


 7. スピリチュアリズム



 7-a[2-m] (死んだのではなくどこか遠くに行ってしまったのでもなく)

 私が長い年月にわたって心霊主義の福音を広げようとしていたとき、私の主な関心事は愛する人を亡くした人々に慰めをもたらしたいということでした。同胞に対する人間的な暖かい愛に満ち満ちている一人の人間として、また愛する家族をもつ一人の人間として、私は後に残された人々に心から同情しました。
 そうして悲しんでいるかわいそうな人たちに、彼らが失った人々は死んだのでもなければ、どこか遠くに行ってしまったのでもなく、非常に近いところにいて、コミュニケーションをはかることすらできるのだということ、そして、彼らは安らぎと喜びの中で生活しているのだとわかってもらうこと、それが私の最大の関心事だったのです。当時の私にとっては、これは本当に大切な悟りともいうべきもので、これに比べれば、他のことはさほど重要ではなかったということがおわかりいただけるでしょうか。

  アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、p.245

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 7-b[21-c] (霊界での愛する人との再会は素晴らしいことに本当なのです)

 人はすべて、死後も生き続けるということを、真実の証拠に基づいて信じられるようになるまでは、私たち自身もかつてそうであったように、愛する者との避けることのできない別れを恐れていることでしょう。
 そのようなわけで、心霊主義を探求する人は、ふつうの場合、ひとえにこの理由のために、今は霊の世界にいる愛する人との接触、個人的な接触をはかることを願っています。愛する者との再会ほど喜びに満ち、心を慰めてくれるものがあるでしょうか。今は亡き、父親、母親、夫、妻、兄弟、姉妹、子供と、再びこの世とあの世の障壁を越えて心を通わせられるということを知るほど、心を慰めてくれるものがあるでしょうか。それは本当のことなのです。素晴らしいことに本当なのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、p.246

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 7-c (スピリチュアリズムは自ら霊的覚醒を得る機会を与えてくれる)

 スピリチュアリズムは人間が死後も生き続けていること、地上でする行為のすべてに責任があること、霊性においては人類はみな兄弟であること、そして愛と寛容と理解が互いを結びつけていることを教えている。
 が、教わるだけでは十分ではない。教わったものは二次的な知識である。やはり自らの努力で見出したものの方が価値がある。
 スピリチュアリズムの良い点は自ら見出す機会、それを蔭から援助してくれている背後霊との交信の機会、そして自ら霊的覚醒を得る機会を与えてくれることである。その覚醒が得られると、自分の考え、行為および思想をコントロールする能力が生まれ、同時にストレスを賢明に処理するコツを身につける。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、p. 167



 7-d(死後の世界は理性的にも充分納得できなければならない)

 魂の浄化を進め、悪しき傾向性をなくし、欲望に打ち勝つためには、そうすることによって、死後に、どのような利点があるかを知っておく必要があるだろう。
 死後の生活に焦点を合わせ、それを目指し、地上の生活よりも、そちらを優先するためには、それを信じるだけでは充分ではなく、それが、いかなるものであるかを正確に知らなければならない。死後の世界は、理性的な観点からも、また、論理的な面からも、充分、納得できるものである必要があるし、良識、神の偉大さや善意、正義とも矛盾しないものでなければならない。
 この点に関して、あらゆる哲学の中で、霊実在論こそが、その揺るぎない根拠によって、人々に影響を与えることができる。
 真摯な霊実在主義者は、盲目的に信じるのではない。彼は、正確に理解したがゆえに信じるのである。しかも、彼は、みずからの判断力に基づいて理解したのである。
 死後の世界は現実そのものであって、見ようと思えば常に見ることができる。彼は、絶えず、それを見、それに触れている。疑いをさしはさむ余地はまったくないので、霊界での生活、真実の生活を知ってしまうと、限定だらけの肉体生活などには何の魅力も感じられなくなる。
 そうした観点からすると、地上での、こまごまとした出来事などは、どうでもよくなり、また、さまざまな不幸にしても、それが、なぜ、どのような目的で起こるのかが分かるので、諦念とともに潔く受け止めることができる。
 目に見えない世界と直接かかわることができるので、魂は大きく飛躍する。
 肉体と幽体を結びつける絆が弱まり、分離が始まるので、この世からあの世への移行が非常に楽になる。移行に伴う困難は、あっという間に終わる。
 というのも、あの世に踏み込んだ時点で、すぐに自分を取り戻すことができるからである。そこには未知のものは何もなく、みずからの置かれた状況をただちに理解できるのである。

  アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
   幸福の科学出版、2006、pp.29-31

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 7-e (魂の救済をはるかに容易にする霊実在論)

 「霊実在論を知らなければ、そうした結果を得ることはできず、霊実在論だけが、魂の救済を果たし得る」と主張したいわけではない。だが、霊実在論が提示する知識や感覚、霊実在論によって示される死後の霊の行方を知ることが、魂の救済をはるかに容易にするのは事実である。霊実在論によって、われわれは、霊的向上の必要性を正しく理解できるのである。
 また、霊実在論によって、われわれは、「自分以外の人が亡くなる際に、祈りや招霊という手段を通じて、その人が地上のくびきから自由になるための手助けをすることが可能となる」ということも知ることができる。その結果、その人の苦しむ時間が短くなるのである。
 真摯な祈りは、幽体に影響を与え、幽体と肉体の分離を容易にする。
 また、慎重に、智慧をもって招霊を行い、さらに、思いやりに満ちた励ましの言葉をその人にかけることで、その人の霊が、混乱状態から抜け出し、自覚を取り戻せるよう、支援をすることができる。もし、その人が苦しんでいるようであれば、苦しみから抜け出す唯一の手段である悔い改めを促すことによって、その人を助けることも可能である。

    アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
      幸福の科学出版、2006、p.31

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 7-f  (スピリチュアリズムの八つの法則)

 1 霊魂の法則
 自分が霊的な存在であることを意識して生きること。人はそれぞれ課題を持ってこの世に生まれてくる。経験を積み、感動を得ることによってたましいを磨くことを目的としている。肉体の死は現世での修行の終了を意味するにすぎず、たましいはあの世に戻って永遠に生き続ける。

 2 階層の法則
 肉体の死後、たましいは現世でいかに成長したかによって、それに応じた階層へと向かう。肉体を捨て「幽体」となると、最初は現世と幽界の中間地点である「幽現界」へ向かい、そこから「幽界」へ進み、やがて幽体をも脱ぎ捨て光となって「霊界」へと上昇する。死後の世界は明るい天国のような層から暗い地獄のような層まで幾重にも分かれており、現世での成長に応じて移行する層が変わる。

 3 波長の法則
 一言で言えば「類は友を呼ぶ」。波長の高いたましいはポジティブな出会いを引き寄せ、波長の低いたましいはネガティブな出会いを引き寄せる。みずからのたましいを向上させることで波長を高めれば、志の高い仲間と出会うことができる。逆にたましいの錬磨を怠ると、周囲にやる気のない人間が集まってしまう。

 4 守護の法則
 自分を見守ってくれる守護霊の存在を信じて生きること。依存してはいけないが、守護霊はどんなに苦しい試練の中にある時も、大きな愛で見守ってくれている。守護霊は役割によって四つに分けられる。
 生前から死後まで見守る中心的存在の「主護霊」、職業や才能を指導する「指導霊」、数年先までをコーディネイトする「支配霊」、これらを手伝う「補助霊」がいる。

 5 類魂の法則
 どのたましいも、帰るべき故郷として類魂(グループ・ソウル)を持っている。類魂をコップの水にたとえるなら、それぞれのたましいは一滴の水。現世での修行を終えたたましいは霊界に戻り、グループ・ソウルに混じり合う。すべての経験が類魂全体の叡智となり、それぞれのたましいが純化することでコップ全体の透明度を上げることを目指している。

 6 因果の法則
 自分でまいた種は、自分で刈り取らなければならない。自分の行動は必ず自分に返ってくる。自分がネガティブな想念を持っていれば、やがてネガティブな結果がもたらされる。自分が誰かを嫌うと、相手もまた自分を嫌うという現象はこのため。逆に、人に親切にすればいつか自分に返ってくるという「正のカルマ」もある。

 7 運命の法則
 運命とは変えられないものではなく、自分の力で作り上げていくもの。たましいを磨く努力によって人生を切り拓くことができる。一方、国籍や性別など自分の力では変えられないのが宿命。ケーキにたとえるなら、宿命がスポンジで運命がクリーム。スポンジの特性に合わせてクリームでデコレーションするように、どんな宿命であろうと、自分の努力で運命を拓けば人生を輝かせることができる。

 8 幸福の法則
 これまで挙げた七つの法則を欠けることなく実践すれば、霊的真理に沿って幸せを得ることができる。お金や出世などの物質主義的な成功を求めるのではなく、試練を克服しながら愛を学び、たましいを向上させることにより、「失う恐怖」から自由になることができる。それこそが、スピリチュアリズムにおける真の幸せを意味する。

   江原啓之『江原啓之・本音発言』講談社、2007、pp.10-11

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 7-g (スピリチュアリズムという思想はどこから来たか)

 まずスピリチュアリズムという思想が、どこから来ているのかについて、説明しておきましょう。実は、スピリチュアリズムという思想はまだ新しく、百六十年ぐらいの歴史しかありません。一八四八年に、アメリカのニューヨーク州ハイズビュー村のある家でポルターガイストの事件が起きました。この事件は画期的な出来事でした。どのように画期的かというと、それまで霊的現象は非科学的なものとして捉えられていました。しかし、このポルターガイストの事件は、新聞に取り上げられ、騒動になったことで、初めて科学のメスが入ったのです。
 どういうポルターガイストが起きたかというと、家の中で叩く音がする、いわゆるラップ現象です。その家には幼い姉妹がいて、彼女たちが斬新なことを思いつきました。もしこれが霊だったら、会話してみようということになりました。
 「オバケさん、もしほんとうにいるならば、私が一回手を叩くから、同じ数だけ叩いてごらんなさい」と言って、手を叩くと「ビシッ」と音がする。そうしたラップ音で会話をしていきました。
 それからアルファベットの一覧表を使い、文字を指しながら、そこで音を立ててもらうことで、会話していくようになりました。出来上がった文章を読み上げたら、その霊はチャールズ・ロスナーという名前の行商人でした。行商に来た時に、この家の元の住人に殺されたと語ったのです。彼の遺体は、その家の地下に埋められているという。それを検証するために掘り起こしたら、人骨と、あと行商人のカバンが出てきました。
 そのことが、マスコミで話題になり、相当な注目を浴びました。面白いのはヨーロッパの人は、心霊現象を頭ごなしに否定するのではなくて、霊が存在しないのであれば、それを証明しなければならないと考えたことです。この事件を発端に、科学のメッカであったイギリスからのたくさんの学者によって、様々な検証が行なわれるようになりました。その中には、英国の作家コナン・ドイルもいました。ハイズビュー事件は、近代における心霊研究の第一歩となったのです。
 それ以前にも、エマニユエル・スウエデンボルグなど、霊的なことを本に書く人はたくさんいました。それらとハイズビュー村の出来事との大きな違いというのは、主観的心霊現象なのか客観的心霊現象なのかということ。つまり、主観的な心霊現象であれば、経験した人が語るだけですが、第三者によって確認された客観的心霊現象が起きたということが、歴史的な出来事だったわけです。
 その後も、不思議な現象は、イギリスでさらに研究されます。この時に初めて「霊媒」という言葉が出てきます。英語では「medium」。仲介という意味で、心霊実験に使われた霊能者を「medium」と言ったのです。彼らを利用して様々なことが行なわれました。霊を物質化してピアノを弾いてもらう、石膏の中に物質化した霊の手をいれてもらって、石膏が固まったら消えてもらう。他にも、素材の違う木材の輪をつなげてもらうとか、物理的にはありえないような実験を繰り返しました。
 ハイズビューで起きた出来事については、例えばラップ音も姉妹が自分たちの骨を鳴らしただけだったのではないかとか、いまだに否定的なことも言われていますが、今となっては検証もできません。
 しかし、科学者が行なう様々な実験を目の当たりにして、これは否定できないと考える人たちが出てきました。そうすると、この世の中は物質が全てであり、死んだら無になると考えていた哲学が百八十度変わらざるをえなくなる。生き方や今までの判断の仕方が全く変わってしまうことになった。霊的な世界を受け入れるのであれば、これまでの生き方を変えなければいけないのではないかと考え出す人たちがいました。彼らのことをスピリチュアリストと言います。彼らの考え方がスピリチュアリズムであり、これは哲学であり、思想でもあります。

    江原啓之『日本のオーラ ― 天国からの視点 ―』新潮社、2007、pp.8-10

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 7-h (厳然たる事実の観察に基づく死後の世界の実在)

 死後の刑罰に関する霊実在論の考え方は――もちろん、死後の刑罰に関する考え方だけに限ったわけではないが――、いっさいの固定観念から自由である。
 それは、単なる理論ではなくて、厳然たる事実の観察に基づいている。だからこそ、権威があるのだ。
 これまで、いったい誰が、死後の魂の行く先を知り得ただろうか。
 今日、われわれに、死後の生命の神秘を告げにやってきているのは、まさしく地上を去った魂たちなのである。彼らは、現在の幸福な境涯について、また、不幸な境涯について語り、肉体の死に際しての種々の印象、そして、その後の変容について語ってくれた。
 ひとことで言えば、キリストが充分語らなかった部分を補ってくれたのである。
 語ったのが単一の霊であったとすれば、その視点、観点に偏りがある可能性もある。その霊が、まだ地上時代の偏見から自由ではないということも考えられる。
 メッセージを受け取ったのが、たった一人の人間だったとすれば、その人間が情報を歪曲しているという可能性も考えられる。メッセージを受け取った人間が、恍惚状態にあったのだとしたら、その情報は、想像力によって誇張されている可能性もあるだろう。
 しかし、霊界から受け取ったメッセージは、実に多岐にわたっており、膨大な量にのぼっているのである。
 メッセージを送ってきたのは、最も低い境涯にいる霊から、最も高い境涯にいる霊まで、あらゆる種類の霊たちであった。また、それを受け取ったのも、世界中に散らばる、あらゆる種類の霊媒たちだったのである。
 メッセージは、一人の人間に独占されているわけではなく、一般に公開されているのだから、誰でも、直接、自分の目で見て、読んで、確かめることができる。

    アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
      幸福の科学出版、2006、pp.315-316

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 7-i  (スピリチュアリズムはどのようにして興ってきたか)

 ヨーロッパやアメリカなど、キリスト教圏においては、「スピリチュアル」という言葉は、軽々しい言葉ではない。「霊的な」「神聖な」という意味だが、霊魂の不滅や死後の世界などとのかかわりで、非常に崇高な意味を持つ。スピリチュアルには、神や霊魂の存在を信じるか、信じないかが大きく関係するからだ。
 もともとカトリックにおいては「ルルドの奇跡」などによって、霊魂の不滅、死後の世界の存在は信じられてきた。だが、プロテスタントにおいては、聖母マリアや聖人信仰を捨てた。そのため、聖母や聖人を媒介として「不滅の霊魂」や「死後の世界」が顕示されることはなくなる。ここから、プロテスタントの世界では、「霊魂観」が独得な形で発展することになる。これがスピリチュアリズム(Spiritualism)と呼ばれるものだ。
 その出発点は、一八四八(嘉永元)年三月三十一日とされている。このころの日本は第十二代将軍家慶の時代で、日本周辺に欧米の黒船がしきりと出現し始めていた。その黒船の一つ、アメリカでの出来事だ。ニューヨーク州に住むフォックス家のドアをしきりに叩く霊が現れた。この霊が、実は、以前そこで殺された行商人の霊であることが、この家の十四歳の娘ケイトによってつきとめられ、大騒動となった。そしてその後、アメリカ各地やイギリス、またヨーロッパ大陸諸国においても、同じような超自然的な現象が、霊媒を通じて起こることが確認されるようになる。こうして、この流れは、十九世紀後半から二十世紀にかけての、欧米精神史の中でも注目すべき現象となっていった。『ブリタニカ百科事典』の第十一版にも、このために約三ページ、四百数十行を使って述べているくらいだ。また、シャーロック=ホームズの物語で有名な著者のコナン=ドイル(Sir Arthur Conan Doyle,1850-1930)も、熱心なスピリチュアリストであったことが知られている。
 彼はその歴史について三百ページ以上もの大冊の本二巻を書いている。ドイルは、エジンバラ大学で医学を学び、開業もしたことのある科学者だ。自然科学についての知識も豊富で、合理的精神の持ち主だ。その彼が、自らの体験や観察、調査に基づいて、熱心なスピリチュアリストになった。ドイルは、当時のスピリチュアリズムの霊魂観について次のように明快に定義している。「個人たること(パーソナリティー)は死後も続いて存在し、死後もこの世の人たちと交信できる」と。
 これは何を意味しているのかといえば、「霊魂」だけではなく、死者もその姿を現すことができるといっていることになる。だがもちろん、その現れた姿は、この世の物ではないから現実の人間とは構成要素が違う。骨や皮、あるいは蛋白質や脂肪などで成り立っているわけではない。
 しかし、ドアや壁を叩いて音を出したり、テーブルを動かしたりといった、この世的な、いわゆる「物理的」な作用は行えると考えた。だから、物質的な存在ではないのに、「写真」に写ることはあり得る。
 スピリチュアリストは、ドイルだけではなく、ほかにも大勢いる。ダーウィンに先駆けて、独創的な自然選択説による進化論を唱えたイギリスの大博物学者、A=R=ウォレス(Alfred R. Wallace,1823-1913)もその一人だ。あの動物分布に関する「ウォレス線」の提唱者となるこの人も、種々の体験や実験から、スピリチュアリストになった。そして、死んだ母親の死後の写真撮影に成功したと書いている。
 さらに注目すべきなのは、天才的な化学者クルックス(Sir William Crookes,1832-1919)もスピリチュアリストの仲間入りをしたことだろう。彼は二十九歳の時にタリウム元素を発見し、その後、ウラニウムから活性ウラニウムの]を分離し、それが次第に崩壊していくことをつきとめた人物だ。真空放電の実験で有名なクルックス管を初めて用いた化学者でもあり、これらの業績によって、サーの称号を与えられた。英国化学学会会長、王立協会(ロイヤル・ソサイエティー)会長、英国学術協会会長などを務めた、文字通り第一級の自然科学者だ。その彼もスピリチュアリストだった。日本の自称スピリチュアリストたちも、そこまでの科学的、合理的精神をもって、スピリチュアルを名乗っているのかどうかはわからないが、とにかく、十九世紀半ばから第二次世界大戦のころまで、欧米ではスピリチュアリストたちが活躍していた。
 こういうエピソードもある。アメリカの大富豪スタンフォード夫妻が、息子をなくして悲観に暮れていた。それを知ったウォレスは、スピリチュアリストの立場から彼らを慰めた。そのことが、死んだ息子を記念するための大学設立の動機となる。
 現在のスタンフォード大学がそうで、この大学は自然科学の殿堂ともいわれるくらい卓越した大学となっている。大学設立の方向が、精神的な方向ではなく、科学的な方向へ向かうというのが面白いと思う。
 また、コナン=ドイルは第一次世界大戦中に、多くの心霊現象があったことを記録している。息子がフランス戦線で戦死したちょうどその時刻に、母親の枕元に息子の姿が現れたというような話だ。大戦中の日本にもよくあったようだが、このような心霊現象を信じることを、スピリチュアリズム (Spiritualism)、あるいはスピリティズム(Spiritism)といった。
 ただスピリチュアリズムという語は、従来哲学で、物質界よりも精神界を重んじる立場に用いられてきたため、ウォレスなどの心霊現象信仰に対しては「近代的」という形容詞をつけて、モダン・スピリチュアリズムという場合もある。が、最近では、スピリチュアリズムが一般的になっている。
 このような単語が文献上にいつから登場するかを調べてみると、スピリティズムが一八五六年、その信者を表すスピリチスト(Spiritist)が一八五八年。スピリチュアリズムが一八五三年で、その信者を表すスピリチュアリストが一八五二年となっている。
 いずれも一八五〇年代ということになる。ダーウィンの『種の起源』の出版が一八五九年、サムュエル=スマイルズ(Samuel  Smiles, 1812-1904)の『セルフ・ヘルプ(自助論)』も同じ一八五九年に出版されているが、この十九世紀中ごろは、ヴィクトリア王朝が栄えた時代で、イギリスの物質文明が世界を制覇していたといってもいい時代だ。一説によれば、このころのイギリスの工業生産は世界の半分以上を占めていたといわれている。このような繁栄の中で、進化論的な思想が空気のように、思想界を包み始めていた。
 近代への扉が開きつつあったまさにこのころ、カトリックの世界では、聖母マリアの無原罪懐胎が教義として打ち出され(一八五四年)、「ルルドの奇跡」が起こり始めた(一八五八年)。そしてプロテスタントの世界でも、アメリカのフォックス家への幽霊(心霊)現象が確認される(一八四八年)。

      渡部昇一『語源力』海竜社、2009年、pp。178-183

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 7-j (米国スピリチユアリスト連盟の綱領)

”ハイズビル事件”以後の世界的学者や知識人は、本格的な心霊研究の結果”心霊現象の実在は科学的に完全に立証された”として、それよりさらに一歩踏み込んで”霊界通信”の方に着目し、その中身から画期的な宇宙の摂理を学び取ることに努力しました。それがスピリチュアリズムの精神的な側面です。その教えを人生観の支えとしている人々を”スビリチユアリスト”と呼びますが、参考までに米国スピリチユアリスト連盟の綱領がスピリチュァリズムの本質をうまくまとめてありますので、次に紹介しておきましょう。

  米国スピリチユアリスト連盟の綱領

 一、われわれは無限なる叡知(神)の存在を信じる。
 一、われわれは物的・霊的の別を問わず大自然の現象はことごとく無限なる叡知の顕現したものであることを信じる。
 一、われわれはその大自然の現象を正しく理解しその摂理に忠実に生きることが真の宗教であると信じる。
 一、われわれは自分という個的存在が死と呼ばれる現象を超えて存続するものであることを確信する。
 一、われわれは、いわゆる死者との交信が科学的に証明ずみの事実″であることを信じる。
 一、われわれは人生最高の道徳律が「汝の欲するところを人に施せ」という黄金律に尽きることを信じる。
 一、われわれは、人間各個に道徳的責任があり、物心両面にわたる大自然の摂理に従うか否かによって自ら幸・不幸を招くものであることを信じる。
 一、われわれは、この世においても死後においても改心への道は常に開かれており、いかなる極悪人といえども例外ではないことを信じる。

    トニー・オーツセン編『シルバーバーチ 愛の摂理』(近藤千雄訳)
      コスモ・テン・パブリケーション、1989、pp.4-6

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 7-k (霊能者の霊能力とスピリチュアリズム)

(編集者) ― では、江原さんもいつか霊能力を失うことがあるのでしょうか。
 江原 あるかもしれません。
 ― 怖くないですか。
 江原  怖くはないです。霊能力がなくなっても、私にはスピリチュアリズムという真理がありますから。
 ― しかし、霊視のできない江原さんをテレビ局は起用しないと思います。
 江原 わかってないですね。先ほども言ったように、私がテレビに出るのは理由があるんです。それは個人的な理由ではなく、「スピリチュアリズムを広める」という大我なものです。だから、皆さんがスピリチュアリズムを理解してくれたなら、もはやテレビに出続ける理由もなくなるわけです。

      江原啓之『江原啓之 本音発言』講談社、2007、pp.76-77