学びの栞 (B) 


 8. 人間・自我・個性


 8-a  [44-k](凝縮した思考と集約された物質で人間は創造されてきた)

 最初の人間は、神々のある一団がいろいろな試みを繰り返して初めて誕生した。最初は男だけが創造されたが、それも目に見える形での性器を持っていなかった。それは体内にあり、自己複製(クローニング)というプロセスを用いて、自分で繁殖ができるのだった。最初の男性ばかりの化身たちは、皆一様に似たような姿をしていた。彼らは今日の皆の目から見れば、グロテスクと映るような下等な生き物だった。だが、当時の神々にとっては、彼らは美しかった。しかし脚があまり早くなかったために、いつもまわりの動物の餌食となった。そこで神々はいろいろ試し、長い時間をかけて手を加えて、やっと自分が完全に乗り移るに値するものをつくり上げたのだった。化身が完成すると、数多くの神々が、人生の探求という新しい冒険のために、大よろこびで化身に入っていった。
 神々が宿った化身は、きわめて危険な環境の中で生き、ほかの生き物と共存していくために、光の存在たちがいつも手を加えて改善してゆける力を持つようにつくられていた。神が感情という形で抱いた想念はすべて、一つひとつの細胞の中にパターンとして記憶され、自己複製のプロセスを経てもそのまま伝えられるように、この化身はつくられたのである。
 ずっと後になり、男をさらに完成させた形として「人間の子宮」、つまり女が創造されると、遺伝子の共有を通してこの化身に独自性を与え、それをさらに複雑化、高度化させることが可能になった。男はそれまでに得てきた叡智を自分の精子に持ち、女は卵子に持った。性行為を通じて両者の遺伝子パターンがひとつになり、親の学びや気づきを基盤とした、さらに偉大な存在が創造されるのであった。だが、そこで創造されるのは、さらに良い身体であって、精神ではなかった。
 神々が人間として生きることについての理解を深めるにつれて(生存がこのプロセスを必要とした)、原初の姿から身体をさらに完成させる働きは続き、それが「進化」と呼ばれるものとなり、皆の数え方で言うと、これが千五十万年以上続いたのだ。現在の皆の姿になるのに、それだけ長い時間がかかっているのである。
 あなたの身体はまだ若い。移動性の高い、立った姿勢の人間は、まだ千五十万年の年齢でしかないのだ。しかし、光の存在であるあなたは、いつのときにも存在していたのである。なぜなら、時間という概念がなかったというのに、思索する思考の始まりがいつだったのかを、いったいどうやって決めることができるのか? つまり、あなたはときの彼方からある古い存在なのだ。あなたがときを数えるのに使う用語でいうと、何十億年という間、あなたは電磁場の中での創造を続けていた。それから今度は、電磁場の波動を下げて物質にすることが、これまでと違う新たな冒険となった。
 こうして、何十億年という創造と探求を通じて、人間は、凝縮した思考と集約された物質でできた、生きて呼吸する生き物となったのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 133-135

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 8-b (人間がこの地上に千五十万年の間存在してきたという根拠は)

 ― あなたは人間がここに千五十万年の間、存在してきたと言いましたが、私の知る限り、科学者たちには、人間が約百万年、長くてもせいぜい二百万年くらいしか存在していないという証拠があると思うのですが……

 ひとつ理解しておいてください。皆の世界の考古学者たちには、発掘したものを放射線分析にかけ、それをもとに、年代を決める方法があります。発掘物に放射線活動を与えるのは太陽です。でも、太陽からの光は、科学者たちが考えているほど長い期間この地球上に直接当たってはいませんでした。この惑星は長い長い間水におおわれていたからです。水というのは現在の海のことですが、そのときはまだ大気中にあったのです。太陽からの光線が、成層圏にあった水に当たったとき、光線は分散されました。分散した光があらゆるところに注いでいたのです。ですから、今日のように放射線を浴びていたものはなかったのです。それなのに、直接の太陽光線が実際よりも長い間、地上に届いていたと信じて疑わない学者たちは、発掘物の放射線活動分析から、人間がいつ存在し始めていたかを推定しているのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 139

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 8-c [54-k] (地球では思考と物質の融合である人類が進化の頂点にある)

 種としての人類はすばらしい知性を持っている。自分自身の細胞構造に生命の息吹と生存のための本能的手段を与えただけでなく、神なる目的のために、自分の崇高なる知性をさらに高度化し、進化させるべく、それを化身という物質と融合させたのだ。進化の科学という創造物を通し、皆は自分を「ネアンデルタール人」と呼ばれるところから「ホモ・サピエンス」にまで進化させてきた。こうして人類は、この地上界で、気の遠くなるような時間と、数多くの試み、進化、そして辛苦を重ね、いま私の前に、直立歩行の存在となったのである。
 人は皆、「見る次元」と呼ばれる、生命レベルの高いこの場において、自分の創造的知性の力を示し、その結果を目にするために存在している。ここには、あなたの愛すべき父である思考が、光から物質の密度まで、すべてのレベル、あらゆる形態で現実に表出し、存在しているからである。
 知性はどこにでもあふれていることはおわかりだろうか。本当にそうなのだが、ここ地球と呼ばれる皆の次元では、思考と物質の融合である人類が、いまその進化の頂点にあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 142

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 8-d [44-m] (人間という形の神にならない限り神の絶対性は理解できない)

 人類として、皆は自分たちが未開の存在だと思っているのだろうか。目に見えない世界にいる者に比べて、自分たちが劣ると考えているだろうか。そんなことはない。いま皆は自分の永遠の思考プロセスをすべて理解するという、とてつもない冒険に足を踏み入れている。人間という形の神にならない限り、神の最終的な絶対性ともいうべきものを理解することは、けっしてできない。それは誰にも不可能なのである。なぜなら、神の王国は、光から電磁場へ、そして物質へ、形体へと拡張していく性質のものだからだ。つまり、神とは、思考の中の高い波動であるだけではなく、固体物質という、密度が最も高く、波動もいちばん低い思考の形でもあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 142-143

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 B8-e[44-n] (人類であることは一つの特権であり神なる生き方にほかならない)

 まだこれから神なる人間になる必要がある存在は、神としての完全な体験を持っていないそれに思いを馳せ、すべての生命から叡智、智慧を得ることができない。この次元に旅した者たち、この次元の目を見張るような世界の一部となるとともに、それを進化させた者たち、山々を動かし、色をつくり出し、荘厳なるモニュメントを創造した者たちだけが、愛やよろこびや創造の精妙さを理解できるのだ。この旅人たちだけが、あなたもその一員であるこの存在たちだけが、永遠を理解し、それを追い求める気持ちを理解したのである。彼らこそ、すべての生命のために永遠というものを創造した張本人だからだ。物質の次元がある限り、生命が無限の創造性へと途切れなく続いていくことを可能にしてくれるからなのだ。だからこそ、男であること、女であること、人類であることは、まさしくひとつの特権であり、誉れである。これはまさに神なる生き方にほかならない。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 143

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 8-f[44-o](人類は天使よりもずっと進化した存在である)

 皆が「天使」と呼ぶ言葉がある。このような神なる存在になりたいと願う者が皆の中にもたくさんいる。だが、天使でいることには大きな短所がある。彼らはまだ人間として生きていないために、理性のバランスというものがない。これから最終的には神の化身として人間になる存在ではあるが、いまだ単なるエネルギーの存在にすぎないのだ。それに、彼らには人類に対する情けや慈しみの念といったものがない。実際にあなたになってみるまでは、目に見えない世界に生きる存在に、どうしてあなたのことが完全にわかるであろうか。人類は天使よりもずっと進化した存在だ。天使たちには、人間という限界のある形で生きる神についての理解がない。このために、人間のよろこびや哀しみなど、人類についての理解に限りがあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 143-144

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 8-g [44-p] (人類の一員となることはそれだけで聖なる体験である)

 人類の一員となることは、それだけで聖なる体験である。なぜなら、人類になるとき、あなたは神のすべてを体験しているからだ。人間になってはじめて、天界の王国全体を網羅する領域へと旅したことになるのである。
 したがって、人間になることで、あなたは自分をおとしめたわけではない。これは絶対に理解しておく必要がある。もし、これまで人間になったことがなければ、完璧な形や天界に入ることはけっしてできないからだ。生命のレベルに降りたことがないのに、いったいどうして天界に昇華することなどできるのだ?
 あなたの内に燃える全能の神というこの火、それを理解するために人間になるのは、充分その価値があり、また賢い選択でもある。すべての生命はこの火でできているのだ。そして、人類と呼ばれるこの物質界での知性を通してそれを体験すれば、神とはいったい何なのかについて、完全な視野を与えてくれる。そして、神の何たるかをすべて完全に理解できたとき、内面、外面の宇宙や、物質、肉体、愛、よろこび、哀しみ、それらがすべて理解できたときに、あなたは父なる存在そのものになるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 144

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 8-h[54-zb] (人間の創造プロセスは思考、言葉、行為を経過する)

 あなたがたの(魂)―つまり超意識、イド(イデー)、霊魂、過去―は、かつて経験した(創造した)すべての感情の総和である。その一部で、意識のなかに浮かびあがってきたものを記憶と呼ぶ。それが、思い出す(re-member)ということだ。思い出すとは、かつて経験した感情を再びメンバーにする、部分を集め、並べかえるということだ。
 自分の部分を集めて並べかえると、真の自分が思い出される。
 創造のプロセスは思考から始まる。考え、概念、ヴィジョンだ。あなたが見ているものはすべて、かつて誰かの思考だった。すべて、最初は純粋な思考から始まっている。それ以外のものは存在しない。これは宇宙でも同じことだ。
 思考が創造の最初の段階。
 つぎに言葉がくる。あなたが言うことはすべて、考えたことの表れである。言葉は創造につながり、創造のエネルギーを宇宙に放出する。言葉は思考よりダイナミックだ(より創造的だと言っていい)。なぜなら、言葉と思考は波動のレベルが異なる。言葉は思考より大きな衝撃を与えて宇宙をゆるがす(変化させ、改め、影響を及ぼす)。
 言葉が創造の第二の段階。
 つぎに行為がくる。
 行為は動いている言葉である。言葉は考えたことの表れである。考えるとは思いをかたちづくること、思いとはエネルギーの集まりである。エネルギーは放出された力である。力は実在の要素である。要素は神の分子で、すべての成分であり、あらゆるものの実体である。
 はじまりは神で、終わりは行為である。行為は創造する神、あるいは体験された神である。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.102-103

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 8-i (「私」はすべての中にあり、すべては「私」の中にある)

 そうして、聖者の肉体に執着することなく、聖者から遠く離れたところに座っていた私は、いつの間にか自分自身に問いかけていました。「ほんとうの自分とはなんだろう?」と。
 「肉体が自分なのか。いや、違う。肉体は刻々と変化し、変わっていく。そのどこにも自分はいない」「記憶が自分なのか。記憶の総体が自分を作り上げているのか。いや、違う。記憶もまた、次々と蓄積され、書き加えられ、場合によっては都合よく修正されていく。そのどこにも自分はいない」
 「では心が自分なのか。いや、違う。心もまた刻々と移り行き、始終変わっていく。その転変する心の相のどこにも自分はいない」
 そうやって次々と否定していくと、肉体や記憶や心や、そのほかさまざまな複合物が、まるで自分であるかのように思っていたが、けっきょく、それも自分ではなかった。今まで自分だと思っていた「私」というものはどこにもなかった。心底そう気づけたのです。
 その瞬間、「それ」は思いがけずやってきました。すべては一つ。「私」はすべての中にあり、すべては「私」の中にあったのです。見えるものも、見えないものも、すべてが「私」であり、そこに座っているインド人も、向こうの西洋人も、子供も、老人も、木々も、イヌも、サルも、みんな「私」だったのです。
 その「私」というのは、もはや個人の私ではありません。それは、何かによって作られたものでもなければ、何かによって得られたものでもありません。作られたものは壊れ、得たものは失ってしまうからです。それは、すべての基盤となる「一」なるもので、過去もあったし、今もあるし、未来においても常にあり続けるものなのです。「なんだ、もともとその中にいたのに、今まで気づかなかっただけなんだ。みんなもそこにいるじゃないの」という感じでした。(中)

    矢作直樹・中健次郎『人は死なない。では、どうする』
     マキノ出版、2012、pp.114-115