学びの栞 (B) 

 10. 生き方・生き甲斐

 10-a (獄中で死を前にして人生の真意義を悟る)

 今月の15日は、私が家を離れて丁度3年になる。17日の我が家の紀念日は、一つ特に私のために祝ってほしいと思う。楊子にも指令を発してほしい。お前もさぞかし感慨の多いことであろう。僕が祝ってほしいと云うのは、この3年の流れ去った月日がこの僕にとってどんなに貴重な有難いものであったかを心から思うからである。この年月があったからこそ、今日僕は始めて人生の真意義を覚り、かくも静かにかつ楽しく日を送ることも出来るようなったのだ。もしもこの異常なる月日が無かったなら、僕は毎日ただ怱忙の裡にあくせくと日を送ってしまったことだろうと思う。僕の一生はもしも僕が別の道を行くならくば、恐らくは社会的には高名、栄位をかち得られたことであろう。しかし人間として今日僕の立っているごとき確乎たる足場に立つことは 遂に出来なかったことは明らかだ。
 僕は人生の意義を知り、生命の正当なあるがままの姿に徹し、社会と、親しきものへの愛情を限りなく深めるとともにまた純化することも出来た。そこにこそ我々3人のものの永遠に生きる道をも発見し得たのだと、僕はひそかに感じている。だから僕のために祝ってくれることは、実は我々3人のものの共通なよろこびであると私は確信しているのだ。今日このことをお前たちにほんとに分らせることは無理だと思う。すぺて冷暖自知あるのみだから。しかしおぼろげには分ってくれたものと思う。僕が決して無理をしたり頑張って、一人こんなことを云っているのでないということを。

 私注:尾崎秀実が1944年10月7日に獄中で書いた妻宛の手紙の一部。
    尾崎はこの一か月後、11月7日に東京拘置所の絞首台で44年の生涯を閉じた。


  尾崎秀実『愛情はふる星のごとく』岩波現代文庫、
   2003年、pp.371-372 より。


  【資料】

 尾崎秀実について(一部抜粋)
    松本慎一

 尾崎が金銭のために国家の機密を売ったものでないこと、彼をいわゆる「スパイ」に仕立てあげようとする一部の反動的デマゴーギーは根拠がないことは、かくて、明らかであろう。
 だが彼が金銭のためにではなく、その信念のゆえに、国家機密を外国人に洩したということは事実であろうか。
 ある人々はこのことをも否定する。彼等は尾崎・ゾルゲ事件をもって、もっぱら近衛内閣を打倒し対米戦争を開始するための軍閥の陰謀に外ならぬと主張する。尾崎が国家機密を洩したことがあるにせよ、それは過失のためであって、彼の故意にいでたのではない。尾崎は軍閥の陰謀の憐れむぺき犠牲者に過ぎない。彼は戦争を防止しようとはしていたが外国人と協力してそうしようとしていたわけではない。−−これらの善良な人々はこういう風に考え、それゆえに尾崎に尊敬と同情の念とを抱いている。
 彼等の見解は正しいであろうか。
 決して正しくない。尾崎・ゾルゲ事件は軍閥の陰謀ではない。なるほどそれは軍閥によって利用された。それは第三次近衛内閣打倒の陰謀に巧妙に使用された。この事件の裁判はたしかに、軍閥の干渉と圧迫下に行われた。このような大事件が、あのように短期間に終結せしめられたのはそのためである。だが事件は軍閥がでっちあげた虚構なのではない。尾崎が国内の政治・経済ないし軍事上の秘密をゾルゲに通報したことは事実なのである。それも過失によるのではない。明らかに彼はそうしようと思って、そうしたのである。思わずもゾルゲと深入して、ついずるずるにそういう結果になったのでは、決してない。
 尾崎は上海時代にゾルゲと知り合った。当時ゾルゲはコミンテルンの人物であった。後にゾルゲは日本に来朝したが、その時彼はナチス・ドイツの日本大使館員であった。彼はヒットラーの信頼を受け、在日ドイツ大使オットーの信任があつかったといわれる。ゾルゲは上海から帰って大阪朝日に勤務していた尾崎に連絡した。その連絡には、米国から帰国した共産主義者宮城[与徳]が当ったらしい。二人は奈良で久しぶりに会見した。
 ゾルゲは彼の特珠の任務に尾崎の協力を求めた。尾崎は承諾したが、その決意をするまでに彼は深刻に懊悩した。彼はゾルゲと協力することが正しい点については、毫も疑わなかった。それこそ真に国を愛するものの行くぺき途であることも、彼の少しも疑わぬところであった。だがその方向へ進んだ場合、死の危険があることは疑いがなかった。誰にしても命をかける決意が、そうたやすくできるはずはない。しかし彼を最も苦しめたのは、そのことではなかった。事実が発覚した場合、彼の愛する妻子がスパイの汚名を着せられるだろうことが、彼には何よりもの苦しみであった。多感で想像力の豊かな彼は、スパイの遺族という汚名の下に、肩身せまく世を送る我が児を想像して、身を切られるように苦悩したのである。しかしついに彼は一切を犠牲にすることを覚悟した。一切を犠牲にして、信念に殉ずることを決意した。それから数年間、彼は極めて精力的に、また極めて多面的に、政治活動を展開した。尾崎・ゾルゲ事件でその責任を問われたところの諸事実−−起訴状によれば彼は六十数ケ条の犯罪事実につき訴追されている−−は、彼のこのような政治活動の一部なのである。
 もしそうだとすれば、尾崎は祖国を売ったのではないか? もしそうだとすれば、われわれは彼に対して抱いている敬意と同情とを訂正しなければならないのではないか?そう考える人もあろう。このような人たちに対して、私はいわねばならない。もしも祖国という語が帝国主義日本、軍国日本を指しているとすれば、たしかに尾崎は祖国を売ったに相違ない。そのような日本が滅ぶことを尾崎は願っていたし、そのためにこそ行動したのだから。だがもしも祖国の語が日本国民の圧倒的大部分である勤労大衆そのものを指しているとすれば、尾崎は断じて祖国を売りはしなかった。それどころか、彼は祖国を救うために、祖国の繁栄のために、彼の命を賭けて行動したのである。もしもわれわれが真の祖国を愛しているとすれば、われわれは彼がその祖国のために捧げた犠牲を深い感謝をもって受けとらねばならぬのである、と。
 こんにちでも国民の中には、古い愛国主義の宣伝の悪影響から抜けきっていない人々がいる。だが過去の愛国主義の正体が何であったかは、すでに事実が明瞭に示している。日本が現在の窮境に陥ったのは、何故であるか。疑いもなく、好戦主義的軍閥官僚の愛国の宣伝に国民が欺かれ、彼等の指揮棒のままに踊らされたからである。
 愛国主義は一にぎりの大資本家、大地主、軍閥、官僚の利益のために、国民大衆のためには無益かつ有害の、侵略戦争に国民を駆りたてるための、熱病的な宣伝に外ならなかったのであるが、国民の大部分はそれを看破し得なかった。
 軍閥は帝国の国防は危機に陥ったがゆえに敢然蹴起する外ないと称して、満洲や支那大陸の侵略を開始した。実際は中国やソ連が外からの侵略に対し、徐々にまたは急速に、その国防を強化しつつあっただけの話で、日本が侵略を受ける心配は毛頭なかったのであるが、国民は軍閥に追随した。軍閥や官僚は日本経済は破滅の淵に瀕していると称して、大陸における強奪を開始した。日本の資本主義が窮状にあったことは事実であるが、それからの血路を戦争に求めることが、日本国民の利益に反することは、支那事変の経過を見ただけでも明らかである。この期間中に、なるほど、財閥や軍閥や、軍閥と結ぶ一部の官僚や浪人どもは、支那大陸で巨富を獲得した。アヘン成金という言葉が流行したほど、麻酔剤の密輸で儲けたものもあった。しかし国民生活は年と共に窮乏を加えたのみであった。それにもかかわらず、国民は軍閥に追随した。
 軍閥はまた米英両国が東亜の禍乱を助長しているがゆえに、これを撃破しなければならぬと唱えた。実際は東亜の禍乱の元凶は日本帝国主義のほかの何ものでもなかった。だが国民は軍閥の宣伝に追随した。国民は彼等の愛する祖国をこんにちのさんたんたる苦境に陥れるための戦争に、愛国の名において、一切を捧げた。彼等は家を焼き財を失い無数の生命をも犠牲にし、それが祖国を愛する所以であると考えていた。
 国民がいかに誤っていたかは、現在となっては、何人にも余りにも明瞭だが八・一五に至るまで国民の大部分は彼等の誤りに気づきさえしなかった。一部には、むろん、帝国主義戦争反対を唱え、軍閥官僚の専制打破を叫ぶものもあったが、国民が耳を傾けたのは彼等の説ではなくて、全く反対に、軍閥官僚と彼等の飼犬であるところのもろもろの日本主義者の戦争宣伝であったのである。
 このような事態にあって、真に国民の福祉を念願する真の愛国者は、何を為すぺきであったか。軍閥の戦争宣伝を粉砕し、国民に彼等の真の利益を守る途を指示し、大衆行動をもって戦争を防止することが、愛国者の常道的な進路であったろう。だがその途を歩んだ一切の進歩主義者、平和主義者が投獄せられ、全日本が軍閥官僚の専制の掌中に帰した後では、かかる進路を歩むことはできなかった。専制する軍閥官僚の支配体制そのものの内部に侵入し、これを内から突きくずすか、それとも巷に隠れ、反戦主義の影響を少しでも拡大することに満足して、時機の到来を待つか−−途は二つしかなかった。積極的で勇敢で有能なものだけが、その前者を選ぶことができた。尾崎は実にその最大の一人だったのである。

  尾崎秀実『愛情はふる星のごとく』岩波現代文庫、
   2003年、pp.410-414 より。 

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 10-b 正しい仕事をする心構え

 
競争の激しい、弱肉強食のビジネス社会にあって、私たちはすぐ目の前にある利益や目標を必死になって追い続ける姿勢になりがちです。それは毎日食べていかなければならないのだから当たり前でしょう。しかし、精いっぱいやるというのはもちろん大切なことですが、この仕事は何のためにやっているのかといつも自問自答して欲しいと思うのです。
 あなたの能力と時間を注ぎ込み、人生を華やしている仕事は人の役に立つのか。人を幸せにすることの一端を担っているのか。その仕事の原点に立ち返ることを忘れずに誠実な努力をして欲しい。私は今日まで多くの仕事人を見てきましたが、成功を収める企業人に必ず共通しているのは、「利他」の心をいつも内に秘めているということでした。私も、考え方、生き方の中心にこの「利他」の心を据えて働き続けてきたのです。
 「利他」の心とは、人を思いやる心。自分だけの利益を考えるのではなく、自己犠牲を払ってでも相手に尽くそうという、人間として最も尊く美しい心です。わが社にとってどうすれば利益になるかとか、私個人にとって何が良いかということではありません。それは、一つの企業とか個人の利筈得失を超えて、もっと広く高く、人間にとって、世の中にとって何が良いことなのかを考える生き方です。利益はそのあとからついてきます。
 そんな理想を言っても、と思うかもしれない。しかし私はこの考え方を京セラ創業以来、全社員に言い続けています。またDDI(現KDDI)を創業した際に強調したのもこの点です。ビジネスも人間の営みですから、人間の純粋な心の持ち方が共感をかちえ、仕事を成功へと導いていくのです。これは国や人種を超えていくことも、私は海外企業とのビジネスの成功で実感しました。「利他」の心は人を動かしていくものなのです。
 人生も世の中も絶えず変化し、また情報もあふれ返っています。その揺れは大きく激しく、一体自分はどこにいて、どちらに進んでいけばいいのか途方に暮れることもあるでしょう。
 私はどんな時も人を支えるのはその人なりの哲学、生きていく上での座標軸であると考えています。一度それについて真剣に考え作り上げ、あなたの生き方の中心にきちんと据えておく。自分の身に何が起きても、自信を持って判断できる生き方の基準、つまり哲学を持っていて欲しいと思います。
 例えば仏教では、「六波羅蜜」という六つの修行を説いています。人を思いやる「布施」、戒律を守る「持戒」、一生懸命努力を続ける「精進」、耐え忍ぶ心の「忍辱」、心静かに自分を見つめる「禅定」、そしてそれらが身について至る「智慧」。迷い、挫折し、先行きが見えないと思った時、今の自分はどうすれば良いか。こういう教えが力を貸してくれます。
 なぜ仕事に打ち込むのか。地位を上げ、お金を稼ぐことが本当にあなたの最終的な目標なのでしょうか。仕事に励んでいるすべての人に考えて欲しいのは、働くことにはそれ以上の目的があるということです。私は、「利他」の心を持ち仕事に打ち込んでいくなら、必ず素晴らしい人生を歩めると信じています。(談)

 稲森和夫「朝日新聞」2003.12.14.掲載のことばより。

   私注:稲森氏は、1932年生まれ。現在、京セラ(株)
       名誉会長、KDDI(株)最高顧問。


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 10-c (法律や教義や限定された信念などから自分を切り離せ)

 主よ、自分を愛しなさい。自己が語ることに、そしてそれが何を感じる必要があるのかに、耳を傾けるのです。心をこめてそれを追い求めることです。つまらなくなるまでそれを続けなさい。つまらなくなるのは、その体験から学ぶべきことはすべて学んだという、魂からのサインであり、もう別の冒険に進む時期が来ているのです。自分の内面にあるフィーリングだけに耳を傾けることができれば、この瞬間、あなたには自分がなりたいものになれる自由があるのです。そして、どんな法律にも、どんな教えにも、どんな存在にも申し開きなどする必要がないことを知りなさい。いまという瞬間、そしてそこから得られるフィーリングだけが、それだけがいまもこれからもたったひとつの大切なものなのです。
 主よ、無法になりなさい。それは、無軌道になるということではありません。あなたの首のまわりに縄を回していた人間がその縄を解き、あなたは呼吸できるようになるということなのです。法律や教義や、限定された信念などから自分を切り離せば、神そのものである自由と無限性になることも可能なのです。あなたは自分本来の姿である力そのものになり、自分自身をそして生命を創造し、再生します。そうすれば、あなたがここにいる理由は、誰かにした何かをとりつくろうためなどではなく、ただ生きたいから、になるのです。そして、新たな冒険が一瞬ごとに展開していくのです。
 幸せに生きなさい。父なる存在があなたにたったひとつだけ求めているのはそのことです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 198-199

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 10-d (心の持ち方が人生の一切を決める

 
一番最初に考えたことは、今、いった原理を考えてみると、人間は、日頃、人生に活きる刹那刹那、いかに心を運用することが適当なのだろうか、ということである。いい換えるならば、心の運用を良くしたり、悪くしたりすることによって、人間の人生は、良くもなり、悪くもなるのだ、ということだ。
 長い間、病に苦しめられて、どんなことをしても、助かり得なかった私は、結局、最後に、苦しみ悩み本当に、生命がけで取っ組み、ようやく考えついたことが、いつか、あなた方の幸せにもなる、ということである。つまり、人間の日々の人生に活きる刹那刹那、ちょっと笑うこと、冗談言うこと、その刹那にも、その心の思い方、考え方が、やがて、我々の生命を、完全になしあたうか、なしあたわざるかという事実が、産み出されるのである。
 もっと解りやすくいえば、我々の生命の中にある肉体はもちろん、精神生命も、一切の広い意味における人生の事柄を、心の運用いかんによって、決定することが出来る、という真理を、私は悟り得たのである。
 それを悟り得たばかりに、医者という医者が、片っ端から匙を投げた私の病が、本当に驚くような経過で治り、しかも、いまあるがごとき長い寿命を、堅固に活きているという幸せを味わっているわけである。もしも私が、あなた方のように、少しのことでも気にかけて、心の運用を誤っていたら、六十までも生きられなかったことは当然である。
 というような悟りは、こういうことから開けたのである。
 「人間の心で行なう思考は、人生の一切を創る」
 これが数十年来かかって考えて、苦心の末、ようやく悟り出した、人間の生命に絡まる宇宙真理であった。これは簡単なことで、さっきいった真理を、逆に考えればすぐ解ることである。
 人間の、思ったり考えたりする "心″の作用というものは、 "霊″の働きで動いているとすると、その霊という気は、宇宙を創っている創り主である宇宙本体が霊なのだから、やはりそれに通じている、ということである。
 電灯に抵抗の強いものを当てると、ショックはたちまち変圧器にきて、すぐヒューズが飛ぶ。それは結局、つながっているからである。そうすると、この宇宙霊という気の元が、一切の万物を創る力があるということである。この当然である連結関係を繰っていくと、人間の心で思ったり考えたりするということが、あだや疎かに出来ないのだということに、すぐ気が付くはずである。
 まことに、峻厳侵すべからざる宇宙真理である。だから、どんな場合があっても、消極的な方面から、物事を思ったり考えたりしてはいけないのである。
 この法則を厳として自覚し、常に、この法則を乱さないように活きるならば、人生は、期せずして、大きな調和のもとに満たされる。そして、無限の強さと、生命の無限の自由というものが、自然的に出てくる。これが、仏教でいう無碍自在である。
 だから、どんな場合にも、心の思考作用と、宇宙を司る宇宙本体の創造作用ーー物を産み出すカーーとは、別々に分れているのではなく、本質的に、一つのものであるということを忘れてはならない。

  中村天風『運命を拓く』講談社、1994、pp.37-39.

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 10-e (人生は自分がどのように世界を見ているかによって決まる)

   (シャーリー・マクレーンのことば)

  私たちの生きているこの世界はとても面白い時代にさしかかっています。特に天なる神と内なる神の光と愛に共鳴できる状態にいればなおのことです。
 私たちの人生に起きてくる悲劇的な事件でさえ、確かな理由があって起こっているのです。その確かな理由というのは、私たち一人ひとりの成長のために必要だからこそ起こっているということなのです。もし自分の人生は自分の内なる神を経験するためのものだと常に忘れないでいるならば、私たちの人生は輝きに満ち、一見悲劇に思えることも、実は悲劇ではないのだとわかるのです。
 今までに私が学んだ最も重要なことは、この世に現実などほんとうは存在しないということです。私たちが現実として見ているものはすべて、私たちがそれをどうとるかという認識の問題だとわかったのです。人生をどのように認識しているか、その認識のしかたこそがすべてなのです。いいかえれば、私たちの人生は私たちの見ている世界そのものによって決まるのではなく、自分がどのように世界を見ているかによって決まるのです。だからこそ、前向きで実り多き人生は、私たち個人一人ひとりの生き方にかかっているのです。自分こそが自分の人生の実現者なのです。また自分こそが自分の先生なのです。あなた自身が神であることに気づいてください。あなた自身が愛です。あなた自身が光なのです。そして私たちの自由意思こそが、自分の内なる神のすべてを発見していく、″学びの道″なのです。
 私たちは、内なる神の存在を生まれながらに知っているのです。その知識をどうぞくもらせないでください。自分を信じ、生まれながらに内に宿る愛と光を信じてください。そうすれば、あなたの人生そのものが愛と光になるでしょう。
 神の国はあなた自身の内にあります。先生は他の誰でもない、あなた自身なのです。他人を先生とあおぐのはやめましょう。他の人を崇拝する必要もありません。すべてはあなた自身です。あなたは今のままで完璧です。あなたと神はひとつなのです。
 私から皆さんに愛と光をお送りします。                   

   シャーリー・マクレーン『アウト・オン・ア・リム』
      (山川紘矢・亜希子訳)地湧社、1994、pp.2-3、
        「日本の読者の皆様へ」より。

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 10-f (正しいしい分別とはなにか)
 
 それに、いいかね!心を静めて神を想うことによって、正しい智識も、離欲の心も、信仰も、わがものにすることができるんだよ。世間のことばかりにかまけていると、心がだんだん低くなっていく。世間ではただ女と金のことしか考えないからね。
 世間は水。心は牛乳。水の中に入れてしまえば牛乳は水とまざってしまって、純粋の牛乳は探しようもなくなる。牛乳を固まらせてバターにすれば、たとえ水に落としても浮いている。だから静かなところで神を拝み、智恵と信仰という形のバターを手にいれることだ。そのバターほ世間の水に落ちても、まじってしまわずに浮いているからね。
 それといっしょに、正しい分別が大切だ。女と金は、はかないもんだよ。神様だけがたった一つの実体だ。金でいったい何が手に入ると思う? 米、豆、着物、それから住む場所が手に入る。これくらいのものさ。だが、金で神様は手に入らないよ。だから金が人生の目的になんか、なれっこない。これが正しい分別というものだ、わかるかい?

  大聖ラーマクルシュナ『不滅の言葉』(田中・奈良訳)
   中公文庫、1992 p.38

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 10-g (人間の心のあり方が人生を支配する法則の根本である)

 自分というものは、ひとりでいるのではない。常に宇宙霊というものに包まれていて、しかも宇宙霊は全智全能の力を持っている。それと結び付いている生命を自分が持っているのである。
 つまり自己というものを無限大に考えてよい。霊智によって作られ、宇宙の中に最も優れたものとして、自分は造られたのだという事実を、断固として信念しなければいけないのである。
 それだけのことが心の中にしっかり決められれば、何も大した努力をしなくても、恵まれた幸せな人生を造りあげることができる。大変難しいようだが、よく考えてみれば易しいことなのである。人間の心のあり方が、結局人生を支配する法則の根本である。

  中村天風『運命を拓く』講談社、1994年、p.79

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 10-h (いかなることがあっても喜びと感謝と笑いを感じる)

 私は毎晩の寝がけに、
 「今日一日、本当にありがとうございました。本当に嬉しく、ありがたく、これからやすませていただきます」
 鏡を前に置いて、顔を写して、じいっと顔を見て、
 「お前は信念が強くなる!」
 と一言いって、床の中に入る。
 そして、
 「今日一日、″怒らず、怖れず、悲しまず″を実行したかどうか」
 「“正直、親切、愉快”に人生の責務を果したかどうか」
 少しでも自ら省みるところがあったら、
 「明日は、今日よりも、もっと立派な人間として活きるぞ」
 ということを心に描く。
 そして、いかなることがあっても、喜びを感じ、感謝を感じ、笑いを感じ、雀躍して喜ぶ気持ちになって、その一刻を過ごすということが、何十年来の私の習慣である。
 そして、朝起きかと、まず、第一に、ニッコリと笑う。
 もう、くせがついているから、眼が覚めるとニッコリと笑う。わざわざニッコリと笑わなくても、ひとりでにニッコリと笑う。そして、
 「今日一日、この笑顔を壊すまいぞ」
 と自分自身に約束する。

  中村天風『運命を拓く』講談社、1994年、pp.159-160

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 10-i (いつも一切に対して苦を楽しむの境涯に活きる)

 どんな場合にも、たとえば身に病があろうが、なかろうが、運命が良かろうが、悪かろうが、その他の人生事情のいかんにかかわらず、いつも一切に対して、その心の力で、苦を楽しむの境涯に活きる活き方をすることにある。これが第一義的の活き方なのである。
 そして、そういう活き方をするには、どうしたらよいか。
 それには、何をおいてもまず第一に、人生に対する考え方を根本的に変えなければいけない。その根本的に変える考え方というのが、積極的だということ。そして積極的とは尊く、強く、正しく、清く、ということは、すでに何度もいった。
 自分の住む現在の人生環境や、また世界を、いやらしいとか、いとわしいとか思うような人、あるいは健康に快さを感じない人があったならば、その人くらい不幸を人生に感じている人はないといえる。反対に、現在の自分の住む世界や環境が、たとえ他人から見てそう大したものではないと思われるようなものでも、自分が心の底から本当に満足し、感謝して活きているとしたら、その人は終始一貫、幸福のるつぼの中で恵まれて活きている人である。
 私は少年のころに、あの熊沢蕃山という人の作った歌を見たときに、ああ人間これでなければいけないなあと思った。

  憂きことのなおこの上につもれかし
   限りある身の ちから ためさん

  中村天風『運命を拓く』講談社、1994年、pp.212-213

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 10-j[17-s] (自分自身を愛し他人の言うことを気にしてはならない)

 自分自身を愛しなさい。他の人の言うことを気にしてはいけません。もし、本当に人の申し出や義理を断りたかったら、はっきりと断りなさい。それをし損なうと、怒りがしのび寄って来ます。あなたはそれにかかわり合ったことに怒りを感じ、それを押しつけた人を恨むようになります。必要な時にはノーと言い、やりたい時にはイエスと言ったほうが良いのです。したくないことを断れずにいると、病気になることがよくあります。なぜなら、病気になるのは、より「受け入れやすい」ノーという方法だからです。なぜなら、自分の体が「ノー」とあなたの代わりに言っているのですから、断るしかなくなるのです。自分の気持ちをはっきり言う方が、ずっと健康的です。Tシャツに、これをおもしろおかしく一言で書いてあるのを、私は見たことがあります。
 「ストレスとは、心がノーと言っているのに、口が勝手に開いてイエスと言っている時のことです」(Stress is when your mind says no, but your mouth opens up and says yes.)

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.102-103

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 10-k[15-l] (愛は最も高く最も純粋なエネルギーである)

 大部分の人々は、自分達の霊的本質に気づいているとはいえない生活を送っています。自分達は魂も霊も特にない、単なる物体にすぎないかのように行動しています。そうでなければ、私達がずっとやり続けているような馬鹿げたことを、するはずがありません。私達の九〇パーセント以上は、神の存在、天国の存在、そして死ぬと私達は他の世界へ行くということを信じています。でも、私達の行動は、これを裏切っています。私達はお互いをひどく粗末に扱っています。未だに大虐殺を行ない、絶え間なく戦争をしています。人殺しや強姦もすれば、拷問も盗みも行ないます。私達は非常に粗野で利己的に振る舞い続けているのです。
 恐怖は、私達の真の霊的本質を理解することを、妨げます。私達のような霊的存在は、殺人や強盗ではなく、思いやりと慈悲を実行すべきです。
 もし、あなたが見返りと罰について考える必要があるなら、愛や思いやりの行為に対して、あなたはふんだんに見返りをもらうのだと考えて下さい。そして、憎しみや暴力的行為に対しては、必ず罰せられます。でも、私達はまだこのことを理解していないようです。むしろ、愛の表現の方を、ずっと怖れています。拒否される、馬鹿にされる、侮辱される、弱虫だと思われる、レッテルを貼られる、愚かであるといったことを、私達は怖れているのです。
 しかし、こうした怖れは誤っています。私達は常に愛され、常に守られているのです。そして、無数の霊的存在が住んでいる広大な海の中の、霊的存在です。他の霊的存在は、肉体を持つものもいますが、大部分は肉体を持っていません。
 愛はこの海の水です。
 愛は最も高く、最も純粋なエネルギーです。その最高の波動で、愛は知恵と意識の両方を持っています。そして、すべての存在を結びつけるエネルギーです。愛は絶対であり、決して終ることはありません。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
    PHP研究所、2001年、pp.196-197

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 10-l[15-m] (私達の才能や労働の成果は社会全体で分かち合うべきである)

 隣人に対する思いやりと協力と親切、それに私達の社会的責任は、経済とは無関係です。これは心の問題であり、自分の外から命令されたり課せられたりするものではありません。心の中から学ばねばならないことなのです。
 この意味では、国や社会がどのような経済的、政治的体制をとっているかは、重要ではありません。私達の才能や労働の成果は、社会全体で分かち合うべきです。そして、自分の家族のために必要なものを差し引いた後、他の人々への思いやりと愛の気持ちをこめて、分配されるべきです。特定の経済システムではなく、それぞれの個人の愛に満ちた心が、その労働の成果を分配するのです。
 私達は受け取り、そして与えます。お返しに、私達は他の人々から受け取ります。喜びは与えることと受け取ることのバランスの中に、存在しています。
 私達の社会が協力的で思いやりに満ちている時、みんなが責任を持ち、親切である時、私達は地上にほんの少し、天国を再現できるのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.203

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 10-m (いのちの目的を見出したいという決死の選択)

 生のどの時点にあっても、人は歩んで行くべき方向を示唆する手掛かりがつかめるものだ。それに気づかない人はへたな選択をして、みじめな人生に終わる。細心に注意を払う人はそこから教訓を学びとり、良き死をふくむ良き生をまっとうする。
 神が人間にあたえた最高の贈り物は自由意志だ。ありうるかぎり最高の選択をする人の両肩には、自由意志がどっしりと重い責任を乗せてくる。
 はじめてたったひとりで決死の選択をしたのは、小学校の六年生のときだった。学期末に、担任の先生から課題がでた。おとなになったらなにになりたいのかを作文に書くという、当時のスイスではことさらに重要な課題だった。生徒のその作文を参考にして将来の教育コースがきめられていたのである。職業教育を受けるか大学をめざして厳格な学業をつづけるか、道はふたつにひとつしかなかった。
 わたしは勇気を奮いおこしてペンと用紙をにぎりしめた。だが、運命を切りひらくのだといくら自分にいい聞かせてみても、現実はちがっていた。わたしには未来が残されていなかった。
 思いはどうしても前夜のできごとにもどっていった。夕食が終わるころ、自分の料理の皿を脇に片づけた父は、子どもたちの顔を順番にみすえると、ある重要な宣告をくだした。エルンスト・キューブラーはがっしりとした偉丈夫で、一徹な男だった。長男のエルンスト・ジュニアにはとくに厳しく接し、そのときも一流大学にすすむように命じた。つぎはわたしたち三つ子の姉妹の将来がきめられる番だった。
 わたしは固唾をのんでその宣告劇をみまもった。三つ子のなかでいちばん虚弱だったエリカには大学進学への道が命じられた。いちばん鷹揚なエヴアは家政教育を受けるように告げられた。ついに父の目がわたしに向けられた。どうか医者になるという夢をみとめてください、とわたしは祈った。
 父がその夢を知っていることはたしかだった。
 しかし、生涯忘れられない瞬間がやってきた。
 「エリザベス。おまえは父さんの会社で働くんだ」父はいった。「あたまがよくて、仕事ができる秘書が必要なんだ。おまえにちょうどいい」
 わたしは落胆した。見分けのつかない三つ子のひとりとして育ったわたしは、ものごころがついたときからアイデンティティーをもとめて苦闘していた。そしてこのときもまた、自己の思いや感情の独自性が否定されようとしていた。父の会社で働いている自分の姿を想像した。尼僧になったほうがまだましだった。一日中デスクに向かって数字を書きつける。グラフ用紙にひかれた直線のように硬直した日々にちがいない。
 それはわたしではなかった。ごく幼いころから、わたしはいのちの営みに強く惹かれていた。畏れと敬いのこころで世界をながめていた。カントリー・ドクターになるのが夢だった。できることなら、尊敬するアルベルト・シュヴァイツァーがアフリカでしたように、インドの貧しい人びとの村で開業したかった。なぜそう考えるようになったのかはわからないが、父の会社で働くことだけは断じてみとめられなかった。
 「いやよ!」わたしは素っ気なくいい返した。
 その時代、とくにわが家では、子どものそうした反抗的な態度はご法度だった。父の顔は怒りで紅潮した。こめかみの血管が怒張していた。怒号が降ってきた。「父さんの会社で働きたくないのなら、一生、メイドで終わるんだな」父はそういい捨てて、乱暴に書斎へ入っていった。
 「かまわないわ」わたしも負けずに応酬した。本気だった。たとえ父親であろうと、他人に簿記係や秘書の人生を送れと命じられるぐらいなら、メイドでも断食でもする気だった。わたしにとって、事務の仕事は牢獄にもひとしかった。
 翌朝、学校で作文を書きはじめたわたしは、前夜の記憶で心臓が破裂しそうになるのを感じながらペンを走らせていた。事務の仕事のことには一語もふれなかった。そのかわりに、シュヴァイツァーを慕って密林に入る夢や、いのちの多様なかたちを研究する夢を情熱的に書きつづった。
 「わたしはいのちの目的をみつけだしたいと思います」ではじまったその作文には、公然と父に逆らって、医者になるという夢が書きこまれていた。作文を父に読まれて、また叱責されてもかまわなかった。だれにも夢を奪わせるつもりはなかった。「いつかきっと、自分の力でそれをやりとげます」わたしは書きつづけた。「いちばん高い星をめざすべきだと思うのです」

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.21-23

     *****


 10-n[56-v] (霊界で自分が死ぬまでの一生を振り返る =1=)

 みなさんの世界にどれだけ挫折者が多いかという見本を、ひとつお目にかけよう。仮にある女性が、微妙な人間関係の分野の能力を発達させるという、特殊な目的のもとに生まれてきたとしよう。この人生の主たる目標が、人とのコミュニケーションだったとする。それにふさわしい背景はこのようなものかも知れない―過去生でこの人物は、他人に幻滅を感じるあまり自分の殻に閉じこもってしまい、自分の理想とする相手との交際も拒んだ。一見したところ社会でふつうに暮らしているようには見えても、彼女は世捨て人に近い人間となっていた……。
 この不幸な体験から、この人物は次の転生では一転して周囲の人との交際に力を注ぐよう促されるかもしれない。今ならさしずめマスコミ関係の会社のトップの地位につく、といった設定がおあつらえ向きだろう。ところで世間には通念―いわゆる「人生の真理」とされるような観念―というものが数多くあり、そのせいで人びとは往々にして、自分自身の内なる目的に到達する努力を思い止まりかねない。人生に立ちはだかる障害とは自分を強めてくれる手段であり、自分の能力を試すために必要な道具なのだということは、普通はあまり理解されていないものだ。ときにはそれが、何かをあきらめるときの言い訳に使われることもある。さきに想定した人物は、はじめに人との交流に励む決心をしたわけだが、いずれはこの決心を阻む障害に直面することがあるかもしれない。彼女が出会うかもしれない障害をあげてみよう。
 第一番のネックとなるのは金銭的な損失で、みなさんの文明のあらゆる階層にわたる多くの人びとが世俗の誤った通念のほうを信じ、内なる叡知に従うことを放棄している。つまり拝金主義が横行していると言ってもいいだろう。拝金主義に陥ったとき「神は死んだ」という言葉は真実となる―なぜなら金儲けは誰にとっても、最終目的とするにふさわしいものではないからだ。仕事のため、また必要なサービスや製品の供給のために金銭を得る必要があることはわたしも否定はしない。金銭は本来は悪いものではない。事実わたしたちの側から見ても、その重要性は明らかだ。金銭はエネルギーの一形態であり、建設的にも使えれば浪費することもできるのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.32-33

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 10-o[56-w] (霊界で自分が死ぬまでの一生を振り返る =2=)

 くだんの人物が直面する第一の難関は、金銭上の問題かもしれない。仮に運命の女神が彼女の決心を試すために、自分ひとり食べていくことすらおぼつかない薄給の仕事を続けざるを得ないような立場に、彼女を置いたとしよう。彼女には少なくとも次のような三つの選択肢がある。
 @ 自分や家族の生活を犠牲にしても仕事を続ける。
 A 仕事をやめ、もっと給料の高い仕事を捜す。
 B 現在の仕事の範囲内でもっと豊かになる。
 仕事の世界では、真に心を満たしてくれるもの、自分を表現するに値するものが何であるかを探求し、知ることが大切だ。金銭的な豊かさ自体が最終目的なのではない。豊かさは、霊的な意味で果たさねばならない仕事から生じた、副産物であるべきなのだ。
 ここでひとこと触れておかねばならないのは、こちら側からはこの種の決断を一心に見守っており、人びとがよりよい決断をくだせるようさかんに働きかけを行なっている、ということだ。くだんの友は孤立無縁ではなく、彼女がりっぱに自己実現を果たせるようにこちら側から送られる信号を、直観を通じてひんぱんに受信しているのだ。もっとも彼女はあなたがたの世界からも、実生活が貧しいことについてあれこれ言われることだろうが……。
 正しい決断がくだされたときには、こちらには応援団がいて、くだんの友がすばらしいバレーの演技を終えでもしたかのように大喜びで拍手喝采を送る。彼女は終始助けを受けた結果、自分が正しい決断をくだしたという確信を強める。彼女は物質面において犠牲を払ったり危険をおかしたりすることを要求されるかもしれないが、理性を働かせるだけでなく自分の心に従うことによって、物質的な要求も十分満たされることだろう。世間で言うところの豊かさではないかもしれないが、もっと普遍的な基準による豊かさを得るのだ。くだんの友にはなにひとつ不足はないことだろう。彼女は食物も住む家も、仲間も生きがいも手にするだろう。解決のための真の鍵とは、内なる声に忠実であることなのだ。
 この例によって説明したいのは、みなさんの人生の根底に横たわる構造であり、死の直後に明らかになることがらなのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.33-34

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 10-p[56-x] (霊界で自分が死ぬまでの一生を振り返る =3=)

 ではつぎの例に移ることにしよう。
 ある人物の場合は金銭的な問題がネックとなるかわりに、自分の才能が原因となって仕事がうまくいかないかもしれない。腕をみがくのは並大抵のことではなく、満足いく結果に到達するためには一心に勉強し、多大な努力を振り向けねばならないことを彼は思い知らされるだろう。これもまた、明らかな試練のひとつである。この場合もし十分にエネルギーを投入せず質の高い仕事をしなければ、彼はチャンスを逸することになる。典型的なケースとしては、会社をくびになったり、事業主の場合なら破産して事業を撤退せざるを得なくなったりするだろう。
 これらは多くの人びとが関わる可能性のある、ごく一般的な障害だ。では珍しいところで、首尾よくいきすぎる体験というのはどうだろうか? 皮肉なことだがこれもまた、人びとが自分の価値観にこだわるために直面する困難のひとつである。金儲けに成功したり有名になったりすることも、やはり試練となりうるもので、最終目標に到達することを阻むものなのである。不幸なことにみなさんの世界では、一般に巨万の富や名声を手に入れることはたいそう名誉なことだと思われている。だが魂の成長という基本原則からすれば、これは事実ではない。成功によって権勢を帯びることも、単に試練にすぎないのだ。もちろん、名声が真の功績や人を助けた結果生じることは少なくない。だが狡猾な商法や資源の誤用、私利私欲のための資源の濫用などの結果、富や権力がもたらされることもまた多いのだ。もし仕事に成功し、その成功をさらに大きな善行やより高い理想を成就するために利用できるなら、その人生の目的は本当に果たされたことになる。
 要するに新たに「死んだ」人の魂は、こちらに到着するとまもなく、さきほどお話ししたような具合に自分の人生を評価し、及第したかどうか判定しなければならない。もし合格点に達していなければ、どのような態度が妨げとなったのかを調べて誤りを正すために真剣に検討に取りかかるのである。
 援助の手は絶えず差し伸べられる。くだんの旅行者があたりを見まわすと、そこにあるのはまったくの見知らぬ世界ではないにしろ、これまで期待していたような神々しい天国とは全然違う世界である。半分人間で半分鳥の姿をした羽のはえた天使などというものは存在しない―もっとも、天使のイメージは、もはや重力や肉体的な限界に妨げられることのない魂をあらわすのにふさわしい象徴ではあるが。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.34-35

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 10-q[56-y] (霊界で自分が死ぬまでの一生を振り返る =4=)

 これまでの話からおわかりのように、この世の人生全体だけでなく魂の領域での生活においても、魂を成長させ、理解を深め、目的を達成する、ということが基本なのである。どの魂も、さらに知識を深めたいと切望している。一歩前進するごとに報いがあり、さらに成長するための努力目標ができる。こちらの領域でもみなさんの領域でも、進歩を達成したからといってそれに甘んじて歩みを止めることは決してない。どの段階においても、それを越えればまたつぎの目標があらわれて、前方へと手招きするのである。
 というわけで、新たに死んだ人物は自分の一生を回顧し、所業を判断したり失敗を評定したのちに、成長の助けとなるつぎの体験に引き寄せられていく。望めば思いどおりに先生や教室―ただし霊界版の先生や教室だが―も見つかるだろう。似たような体験をした人や同程度の発達をとげた人びとの仲間に入るよう、導かれるかもしれない。そうすれば互いに助けあうことができるからだ。もし大きな過ちを過去に犯したことがあったり、プライドが高くて仲間に入れない場合は、みずから心貧しい状況を作りだし、しばらくのあいだ心の狭さのために自縄自縛の状態に置かれるかもしれない。この境遇はじつにみじめに思えるかも知れないが、心を改めて援助を受け入れられるようにならないかぎり、状況を克服することも改善することもできないだろう。こちら側にいるわたしたちの眼から見ればそのような魂の貧しさは一目瞭然なので、彼らが自尊心が高すぎて助けを求められないでいるのがいかにも皮肉なことに思われる。彼らがいくら同情やあわれみを誘っても、求めがなければ救いの手を差し伸べることができないのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、p.36

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 10-r[54-zc] (あなた方は神の子としての自分自身を受け入れること)

 いますぐに、自分自身を受け入れ、それを実証すること。
 イエスはそれをした。それがブツダの道であり、クリシュナの道、地球上に現れたすべての〈マスター〉の道だ。
 そして、すべての〈マスター〉は同じメッセージを送ってきた。あなたもわたしと同じだ。わたしにできることは、あなたにもできる。それ以上のことができる、と。
 なのに、あなたがたは耳をかさない。もっとむずかしい道、自分は悪魔だと考える道、自分は悪魔だと想像する道を選んだ。
 あなたがたは、キリストの道を歩くのはむずかしい、ブツダの教えに従うのはむずかしい、クリシュナの明かりを掲げるのはむずかしい、〈マスター〉になるのはむずかしいと言う。ところが、真の自分を受け入れるよりも否定するほうが、はるかにむずかしいのだよ。
 あなたがたは善であり、慈悲であり、同情であり、理解だ。あなたがたは平和であり、喜びであり、光だ。あなたがたは赦しであり、忍耐であり、力であり、勇気であり、苦しいときの援助者であり、悲しいときの慰め手であり、傷ついたときの癒し手であり、迷ったときの教師だ。あなたがたは最も深い智恵と真実、最も偉大な平和と愛だ。あなたがたはそういう者なのだ。そして、たまには、自分がそういう者だと気づくことがあった。
 これからは、いつも、自分はそういう者だと理解していなさい。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.117-118

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 10-s[56-zf] (毎日あなた方は自分を創造するために生きている)

 人生は創造であって、発見ではない。あなたがたは、人生に何が用意されているかを発見するために毎日を生きているのではなく、創造するために生きている。自分ではわかっていないだろうが、あなたがたは、一瞬一瞬、自分の現実を創造している。私はくり返し、そう話してきた。
 どうしてそうなるのか、どんなふうに創造しているのかをまとめてみよう。

@わたしは神の姿をかたどり、神に似せて、あなたがたを創造した。
A神は創造者だ。
Bあなたがたは三つが一体になった存在だ。その三つをどう呼んでもいい。父と子と聖霊でもいいし、精神と身体と霊でもいいし、超意識と意識と無意識でもいい。
C創造とはその三つの部分から生ずるプロセスである。言い換えれば、あなたがたの創造には三つの段階がある。創造の道具は思考、言葉、行為だ。
Dすべての創造は思考から始まる(「父から生じる」)。すべての創造はつぎに言葉になる(「求めなさい、そうすれば与えられるだろう。話しなさい、そうすれば成就するだろう」)。すべての創造は行為によって成就される(「言葉はひととなって、わたしたちの間に住まわれた」)。
Eあなたが考えるだけで言葉に出さなくても、ひとつの段階での創造だ。考えて言葉にすれば、もうひとつの段階での創造になる。あなたが考え、語り、行動すると、具体的な現実になる。
Fほんとうは信じていないことを考えたり、語ったり、行動したりすることはできない。だから、創造のプロセスには信念、つまり知るということが含まれる。絶対的信頼だ。願うだけでなく、確実にそうなると知っていなければならない(「あなたは信仰によって癒される」)。したがって、創造行為には、つねに知識が含まれる。何かを身体で理解し、まるごと確信する、「完全に受容する」ということだ。
Gそこまでわかっていれば、強い感謝の気持ちが生まれる。感謝せずにはいられない。それがたぶん、創造の最大の鍵だ。創造が具体化する前に、創造に感謝することだ。願いは当然かなえられると信じることだ。そう信じてもいいどころか、信じたほうがいいのだ。それこそが悟りの確実なしるしだ。すべての〈マスター〉はあらかじめ、ことが成就すると知っていた。
Hあなたが創造するすべて、創造したすべてを祝福し、楽しみなさい。一部でも否定すれば、自分の一部を否定することになる。あなたの創造の一部としてどんなものが現れようとも、それを自分のものとし、祝福し、感謝しなさい。非難しないように努めなさい(「非難するなんて、とんでもないことだ」)。非難するのは、自分を非難することだからだ。
I自分が創造したなかで、楽しめず、祝福できないものがあったら、選びなおしなさい。新しい現実を呼び出しなさい。新しいことを考え、新しい言葉を口にし、新しいことをしなさい。立派にやり直せば、世界はあなたについてくるだろう。「わたしが生命であり、道だ。ついてきなさい」と言いなさい。

 これが神の意志を「天国と同じく、地上にも」実現させる方法だ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.124-125

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 10-t (まず人生についての考えを明確にしなければならない)

 人生を「上向かせる」には、まず人生についての考えを明確にしなければならない。どうなりたいのか、何をしたいか、何が欲しいのか、よく考えなさい。はっきりするまで、考えなさい。そして、はっきりしたら、今度はほかのことは考えず、ほかの可能性を想像しないことだ。
 否定的な考えは頭から追い出しなさい。悲観主義をー掃しなさい。疑いを捨てなさい。不安を拒否しなさい。最初の創造的な考えをしっかりつかんで放さないように心を鍛えなさい。
 あなたの考えがはっきりした確かなものになったら、それを真実として語りなさい。はっきりと声に出しなさい。創造の力を呼び出す偉大な号令を使いなさい。「これがわたしである」という号令を。
 ほかのひとに、「これがわたしである」と宣言しなさい。「これがわたしである」というのは、宇宙で最も力強い宣言だ。あなたが何を考え、何を語るにしても、「これがわたしである」という言葉をきっかけにものごとが動き、体験できるようになる
 宇宙が動く仕組みはそれだけだ。ほかに道はない。宇宙は「これがわたしである」という言葉に応える。瓶から現れる魔法使いが指示に従うように。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.126

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 10-u (あなたがたは神への道をたどっていることを知るだろう)

 あなたがたは神への道をたどっていることを知るだろう。そして、神を見いだしていることを知るだろう。なぜならつぎのようなしるし、兆し、変化があなたがたのなかに起こるからである。

 @あなたがたは心のすべて、精神のすべて、魂のすべてをあげて神を愛する。わたしをおいて、わたしのほかに神はない。あなたがたはもはや人間の愛も、成功も、金も、力も、いかなるシンボルも崇拝しない。あなたがたは、子供が玩具をわきへ押しやるように、それらを押しのける。それらに価値がないからではなく、あなたがたが成長して、それらを「卒業した」からだ。
 そして、あなたがたは神への道をたどってきたことを知る。なぜなら、
 Aあなたがたはみだりに神の名を使わない。また、つまらないことで、わたしを呼ばない。あなたがたは言葉の力、考えの力を理解する。神にふさわしくない方法で神の名を口にしようとは考えない。なぜなら、そんなことはできないからである。わたしの名―「これがわたしである」という偉大な言葉―は、決してみだりには使われない(したがって、使われれば必ず影響がある)し、みだりに使われることはありえない。神を見いだしたとき、あなたがたはこのことを悟る。あなたがたには、ほかのしるしも与えよう。
 Bあなたがたは一日をわたしのためにとっておき、この日を聖なる日と呼ぶ。そうすれば、その日には自分の幻想から醒めて、自分が何者であるかを思い出すことができるから。そして、まもなくすべての日を安息日と呼ぶようになり、どの瞬間も聖なるものとなる。
 Cあなたは母と父を敬愛する。そして、言うこと、為すこと、考えることのすべてにおいて父/母なる神を敬愛するとき、自分が神の息子であることを知る。そして、母/父なる神を敬愛し、地上の父と母を敬愛すれば(あなたは生命をもらったのだから)、すべてのひとを敬愛するようになる。
 D殺生を(理由もなく、意図的に)しないとき、あなたがたは神を見いだしたことを知る。どのような場合においても、他の生命を奪えない(すべての生命は永遠である)ことを理解するとともに、神聖で正当な理由がなければ、輪廻の一時期にある生命を壊しはせず、生命エネルギーの形態を変化させもしない。あらためて生命を尊敬するようになれば、植物、動物を含むあらゆるかたちの生命を敬愛し、最高の目的にかなっているときだけ、生命体に影響を及ぼすようになる。
 さらに、あなたがたが神への道をたどっていると知ることができるよう、つぎのようなべつのしるしもあなたがたに送ろう。
 Eあなたがたは不誠実や欺瞞によって愛の純粋さをけがさない。それは不義だから。神を見いだしたとき、あなたがたはそのような不義を犯さないと、わたしは約束する。
 Fあなたがたは自分の所有物でないものはとらず、何ものにせよ所有するためにだましたりせず、見て見ぬふりをせず、他者を傷つけない。それは盗みだからである。神を見いだしたとき、あなたがたが盗みをしないことを、わたしは約束する。
 さらに、あなたがたは……、
 G真実でないことを口にせず、したがって偽りの証言をしない。
 H隣人の配偶者を欲しない。他者はすべて自分の配偶者であることを知っているとき、なぜ隣人の配偶者を欲しなければならないのか?
 O隣人の財物を欲しない。すべての財物は自分のものとなりえること、あなたのすべての財物は世界のものであることを知っているとき、なぜ隣人の財物を欲しなければならないのか?
 これらのしるしが生じたとき、あなたがたは神への道を見いだしたことを知るだろう。まじめに一生懸命に神を求める者なら、ここで否定されていることをしないと、わたしが約束するからだ。そうしたふるまいを続けることは不可能になるはずである。
 これは制約ではなく、あなたがたの「自由」だ。これは、わたしの戒律ではなく、わたしの「言質」である。神は、神が創り出したものに対して命令をすることはない。神は神の子に語りかけるだけだ。それによって、あなたがたはわが家へ帰ろうとしていることを知るだろう。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.130-132

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 10-v[16-n] (天国へ行くのではなくすでに天国にいると気づくこと)

 それでは、わたしは天国へ行くために、十戒をまもる必要はないんですね。

 「天国へ行く」のではない。自分がすでに天国にいると気づくだけだ。受容と理解があるだけで、そのための努力や闘いがあるのではない。
 あなたは、すでにいる場所に行くことはできない。そのためには、いまいるところを離れなければならないし、そんな旅は無意味だ。
 皮肉なことに、ほとんどのひとは、行きたいところへ行くためには自分がいるところを離れなければならないと考えている。そこで、彼らは天国に行くために天国を離れる―そして、地獄を通る。
 悟りとは、行くべきところもすべきこともないし、いまの自分以外の何者にもなる必要もないと理解することである。
 あなたがたはどこかへ向かう旅をしているのではない。
 あなたが言うような天国はどこにもない。どこにもないという意味のnowherewhのあいだをあけてみよう。そうすれば、あなたがたは天国をいま(now)……ここ(here)に見るだろう。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.133

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 10-w (情熱や欲望を理解し自分のためにならない情熱を遠ざける)

 ほんとうの精神生活では、欲望や自我を捨てなければならないのですか?

 そのとおり。なぜなら、つきつめればあらゆる魂は真実でないものを捨てるし、あなたが送っている人生での真実とは、わたしとの関係だけだから。しかし、昔から言われてきたような自己否定が求められているわけではない。
 〈真のマスター〉は何かを「あきらめ」たりしない。無用なものを遠ざけるだけだ。
 欲望を克服しなければならないと教えるひとがいる。だが、わたしは、ただ欲望を変えなさいと言う。はじめて実行するときは厳しい修行だと感じるかもしれないが、二度めは楽しい実践になるだろう。神を知るためには、あらゆる現世的な情熱を克服しなければならないと教えるひとがいる。だが、そうではない。現世的な情熱を理解し、受け入れるだけで充分だ。抵抗すれば、相手はかえって強くなる。見つめれば、相手は消える。
 現世的な情熱を真剣に克服しようとする者は、一生懸命に努力するあまりに、その努力自体が情熱になってしまう。彼らは「神を求める情熱」をいだくようになる。神を知ろうとする情熱だ。しかし、情熱にはちがいない。ひとつの情熱をべつの情熱にかえても、克服したことにはならない。
 だから、自分が情熱を感じるものを批判しないこと。ただ、それに気づき、どんな自分になりたいかを考えたとき、なりたい自分になるのに役立つかどうかを見きわめなさい。
 覚えておかなければならないのは、あなたがつねに自分を創造しつづけている存在であることだ。それは主として、自分が情熱を感じるひとやものに関する選択を通じて行われる。
 精神的な道を歩んでいるひとは、現世的な情熱、人間的な欲望をすべて捨てているように見える。じつはそうではなく、情熱や欲望を理解し、幻想を見きわめ、自分のためにならない情熱を遠ざけているのだ。そのいっぽうでは幻想を愛してもいる。幻想は完全に自由になるチャンスでもあるからだ。情熱とは、「こう在る」ということから「行為」への転換を愛することである。情熱は創造というエンジンの燃料である。情熱は思いを経験に変える。
 情熱はほんとうのわたしたちを表現したいという思いを駆りたてる火である。決して情熱を否定してはいけない。否定すればあなたが何者であるか、ほんとうは何者になりたいかを否定することになる。
 悟りとは情熱を否定することではない。結果への執着を否定することだ。情熱は行為への愛である。
 行為は「ある在り方」を経験することだ。それで、行為の一環として何が生まれるか? 期待だ。
 期待なしに人生を生きること―具体的な結果を必要とせずに生きること―これが自由である。これが神性である。これが、わたしの生き方である。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.136-137

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 10-x (情熱は自己実現への道であり神への道である)

 「情熱とは、『こう在る』ということから行為への転換を愛することである」という言葉を、もう少し説明していただけますか?

 在るというのは、存在の最高の状態である。純粋なエッセンスである。それは「現在であって/現在でない」「すべてであって/すべてでない」「常在であって/無である」という神の側面である。
 純粋に「在る」とは、純粋に神であることだ。
 だが、わたしたちは単に在るだけでは決して満足できない。つねに、経験を求める。自分が何であるかを経験したい。それには神性のまったくべつの状態が必要となる。行為だ。
 あなたがたの核心は愛と呼ばれる神性の状態である(ちなみに、これがあなたがたの真実である)。
 ところが、愛であることと、愛することとはまったくべつのことがらである。魂は経験によって自分を知るために、何かをしたいと願う。魂は行為を通じて最高の考えを実現しようとする。
 何かをしたいという衝動は情熱と呼ばれる。情熱を殺せば、神を殺すことになる。情熱とは「やあ、こんにちは」と言いたがっている神である。
 だが、神が(あるいはあなたがたのなかの神が)愛すれば、神自身はそれで実現されるから、それ以上は何も必要がない。それはわかるだろう。
 いっぽう、人間は投資には見返りが必要だと感じる。誰かを愛するのはいいのだが、相手からも愛が返ってきてほしいと思う。そう考える。
 これは「情熱」ではない。「期待」である。
 悟りとは、東洋の神秘主義者がサマディ(三昧)と呼ぶ体験を通じて、この違いを克服しようとすることである。つまり、心を開いて神と一体になること、神性と融合し、神性のなかに溶けこむことだ。したがって悟りとは結果を放棄することである。決して情熱を放棄することではない。それどころか〈マスター〉は直感的に、情熱こそ神への道であることを知っている。情熱は自己実現への道である。現世的な意味でも、まったく情熱をもっていなければ、生きているとは言えないだろう。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.138-139



 10-y[19-o] (意識的に生きるというのはどういうことか)

 他人からどう感じるべきかを指示され、それが自分のほんとうの気持ちとは違うと、深い心理的な葛藤を経験する。あなたがたの奥深くにある何かが、他者が言うことは自分の思いとは違うと語りかける。それではどこへ行けばいいか? どうすればいいか?
 あなたがたがまず行くのは宗教者のところだ。そもそも、そうした立場にあなたがたを追いこんだひとたちのところだ。あなたがたは僧侶やラビ、牧師、教師のもとへおもむく。彼らは、自分の心のなかの声に耳を傾けてはいけないと言う。いちばんひどいひとたちは、あなたがたをおどし、おびえさせて、直感的に知ったことを捨てさせようとする。
 彼らは悪について、悪魔について、魔物について、悪霊について、地獄について、呪いについて、考えつくかぎりのあらゆる恐ろしいことを語る。そしてあなたがたが直感的に知ったことは間違っている、慰めを見いだすべき唯一の場所は彼らの思想、考え、教義であり、彼らが定義する正邪であり、彼らが考えるあなたがたの姿であると説得する。
 あなたがたはハイと言えば、すぐに自分を認めてもらえるという誘惑にかられる。彼らは受け入れるどころか、歌ったり叫んだり踊ったり腕を振りまわして、ハレルヤと叫んだりしてくれるだろう! これには抵抗しにくい。あなたは光を見いだした、救われた、と認めてもらえ、喜んでもらえるのだから!
 認められ、大げさに騒がれることはたいてい心から納得して決めたことではない。個人の誠実な選択がそんなふうに祝福されることはほとんどない。それどころか、嘲笑されるかもしれない。なんだって? 自分自身で考えるんだって? 自分自身で決定するんだって? 自分の物差しで、自分の判断で、自分の価値観で決めるんだって? いったい何様のつもりなんだ?
 そう、おまえは何者か、という問いにあなたは答えることになる
 その仕事はたったひとりでしなければならない。報償もなく、認められもしない。気づいてももらえないかもしれない。
 あなたは良いことをたずねた。そんな目にあって、どうして続けなければならないのか? どうしてそんな道へ歩み出さなければならないのか? 自己探求と創造の旅に出ることで、何が得られるのか? どこにそんなことをする動機があるのか? どんな理由でするのか?
 その理由はばかばかしいほど簡単だ。
 「ほかにはどうしょうもないから」

 それは、どういう意味ですか?

 つまり、そのゲームしか行われていないからだ。ほかには何もない。あなたにできることはほかには何もない。あなたは残る生涯もずっと、いましていることを続ける。生まれてからずっとしてきたように。問題は、それを意識的にするか、無意識のうちにするかということだけだ。
 この旅をやめることはできない。あなたは生まれる前に旅を始めた。あなたの誕生は、旅のはじまりを告げる合図にほかならない。
 そこで、問題はなぜそんな道へ歩み出すのか、ではない。すでに踏み出しているのだから。問題は、この道を意識的に歩くか、それとも無意識のまま歩くかということだ。はっきりと目を見開いて進むか、目覚めないままでいるか? 自分の経験の原因となるか、それとも、結果となるか?
 これまであなたは、経験の結果としての人生を生きてきた。いま、経験の原因になってみてはどうかと誘われている。それが、意識的に生きるということ、目を見開いて進むということだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.208-211

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 10-z (思いやりを欠いた行為は自分の肉体にダメージを与える)

 思いやりは一方通行ではない。肉体は、そのハートのエネルギーによって癒され、活気づけられる。それはまた、怒りや恐れ、凶暴さといった低い振動数のエネルギーによって引き裂かれることもある。あなたが他人を邪険に扱い、自分自身を自分のハートから遠ざけたとしたら、そのときには他人のみならず、あなたも同じように傷つくことになる。また、もしあなたが誰かに思いやりをもって接したとしたら、そのときあなたは、自分自身にも思いやりをもって接したことになる。
 あなたは、意識が拡大し、自分が感じていることを明確に認識できるようになると、思いやりと、思いやりの欠如の双方が生み出す効果に気づくようになる。そのときあなたは、思いやりを欠いたフィーリングを抱いたり、思いやりを欠いた行いをすることは、自分の肉体にダメージを与えることでもある、ということに気づくだろう。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、pp.268-269

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 10-za (怠けていては絶対に幸福感は味わえない)

 アイデアマンはどしどし公表するがよい。画家は描き、作家は書き、演奏家は演奏し、作曲家は作曲し、歌手は歌うことである。あなたは何をなさる人か知らないが、とにかくその仕事に励むことである。ものうさ、不精、怠惰は進歩の軽視であり、成就の拒否であり、自分自身の幸福の敵である。
 どこか南の島にでも行ってのんびりと暮らすのが理想だと考えている人は愚か者である。もしも本当にそんな生活をしたら、いつかは目が覚めて、勿体ないことをしてしまったことに気づくであろう。そして死後地上生活を振り返った時に、痛恨の反省を迫られることになろう。
 怠けていては絶対に幸福感は味わえない。不満と空虚さと無益性を味わわされるだけである。

   M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、p. 130


 10-zb(与えられるためには受け入れる用意がなくてはならない)

 “求めよ、さらば与えられん” という言葉がある。これは真実である。が、与えられるためには受け入れる用意がなくてはならない。そのための第一条件が最善を尽くすということである。
 何であれ、為すべきことは可能なかぎり自力で立派に行うのである。自分の二 本の足で立って一心に取り組むのである。その時に、その時にのみ、他からの援助を求めてもよい。なぜなら、その時こそ援助を受ける立場に自分を置いたことになるからである。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp. 146-147

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 10-zc (充実した長生きの人生には働くことが不可欠である)

 社会のあらゆる階層を蝕んでいる精神的な病の顕著な症状が一つある。それは、働くことを嫌がる風潮である。働かないで国家の補助を得たがる人が増えている。
 退職の定年を早めることを要求している労働組合がある。朝起きても仕事へ行くのを嫌う人間が増えている。不健全この上ない風潮である。
 働くということは健康上好ましいことなのである。早く退職すると早死にする。これは理屈をうんぬんするよりも統計が歴然と示している。
 怠惰な生活をしていては男性も女性も生き甲斐のある幸せな人生は望めない。不可能なのである。働かないとダメである。やり甲斐を感じ、お金にもなる仕事に思い切り取り組む必要がある。充実した長生きの人生には働くことが不可欠の要素である。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、p. 147

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 10-zd (嫌々ながらする仕事は健康上も良くない)

 もしもあなたが嫌々ながら仕事をしているとしたら、それは健康上も良くないことである。そういう場合は心の姿勢を変えるか、さもなくば仕事を変えることである。
 それは容易にはできないことかもしれない。が、容易であろうはずがないのである。何事にせよ、ラクにできるものは、する価値はないものである。
 新しい仕事は前の仕事より収入は少ないかもしれない。が、それにこだわってはいけない。好きな仕事、やり甲斐のある仕事を見つけることが第一である。そうすればお金には代えられない報酬が得られることは請け合いである。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp. 147-148

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 10-ze(いつ死んでも悔いの残らない生き方を心掛けねばならない)

 あなたも人生の途中で足を止め、自分の生き方を振り返って反省と修正をすることができるのである。何も死ぬまで待つことはないのである。現実から数歩離れて、自分の生きている姿を厳しく批評してみてはどうだろう。
 生き甲斐ある人生の絵画を彩る要素は、すでに多くの思想家や宗教家によって説かれている。利他心、奉仕の心、愛、慈悲心、正直さ、そして魂の不滅性の理解である。
 芸術の世界では評論家はあくまで評論家であればよい。絵はうまくなくてもよい。それでも美術評論の大家になれる。
 が人生ではそれが許されない。各自が自分の人生を描いている。立派に描けないといけない。あとで批評されるのであるから。
 その評価の基準がどこにあるかは、あなたはもうご存知である。ご存知ないのは人生がいつ終わるかということである。もしかしたら明日かもしれない。もうあと二、三十年先かもしれない。であるから、いつ批評されてもよいように生きるべきである。
 言い換えれば、いつ死んでも悔いの残らない生き方を心掛けねばならない。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp. 173-174

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 10-zf (可能なかぎり立派に生きることは誰にでもできる)

 どうだろう、あなたの死期が迫った時、それまでの人生を情愛をもって振り返ることができるだろうか。自分がこの世に存在したことによって、世の中が少しでも良くなったと思えるだろうか。広いカンバスの上に描かれた自分の絵を見て、やるだけのことはやったという気持ちになれるだろうか。
 多分、大方の人はあれやこれやと心残りがあることであろう。“もう少し生き長らえたい。そしてカンバスの上の絵の具を全部きれいに削ぎ落して、初めから描き直したい。今度こそ、もう少しは良いものにしてみせるのだが……”そう思うものである。
 が、もうカンバスの上の絵の具は固くなっている。パレットには何も残っていない。絵筆はもう片づけてしまった。絵の具で汚れたヨレヨレのスモックもどこかへ捨ててしまった。
 傑作が描ける者は少ない。が、持てる才能で可能なかぎり立派な健全な作品を描くのは誰にでもできる。
 果たしてあなたはそれにどう応えることができるだろうか。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp. 174-175