学びの栞 (B) 


 11. ものの見方


 11-a[19-c] (自分の受け取る想念に価値判断を下してはならない)

 自分自身と自分の人生を「在るということ」の目から見るのを学ぶことだ。花を手にするとき、それが醜いとか美しいとか言わない。それは価値判断であり、その花の想念を変質させてしまうのである。純粋なのは、「花」という想念だ。花を見てそれを「花、光、生、ただ在るもの」として見るならば、それはあなたの体中に波動の高い電質を送る。そうすると、あなたはキリストと同じように考えている。すべてのものを等質のもの、ただ在るものとして見ているからである。自分の体験を限定したり価値判断を下したりしなければ、そのたびにあなたは、日常の存在を越えた限りない想念を受け取る脳の活動を認めているのである。
 自分の受け取る想念に価値判断を下してはならない。何かがプラスであるとも考えないことだ。マイナスも存在すると言わずに、それがどうしてプラスであり得ようか。もしあなたが「これはいいことだ」と言ったら、それは、悪いものもあるということを意味する。自分にやさしく、自分を愛するとき、自分は美しいとは言わず、自分は神である、と言うことだ。近所の人と一緒に何かをするとき、これはいいとは言わず、これは神だと言おう。それは、そのことがただ在ることを意味する。それは、単に生における純粋で貴重な体験であるということなのだ。
 ほかの存在がそれぞれの生で自己を表現しているのを見るとき、ただ在るもの、という以外の見方をけっしてしてはならない。その表現をいいとか悪いとか、プラスやマイナスとして見ると、自分の内に変質した見方をつくり出すことになる。そして、自分の知覚したものは、自分がそうなるものでもあるのだ。その想念は、自分の存在の内にフィーリングとして刻まれるからである。つまり、あなたは自分自身を犠牲にすることになるのだ。なぜなら、あなたの価値判断の影響を体験するのは相手ではなく、あなた自身だからである。そして、魂に記録されたそのフィーリングは、それから先の自分の行動と、自分自身の存在そのものを判断する前例をつくってしまうのである。
 誰かを責めるとき、それはその人の内に見える自分のある側面を責めているにすぎない。そういう面があれほど簡単に自分に見えるのは、このためなのだ。あなたの意識がそういう側面に向いてしまうもこのためなのである。その他人は、あなた自身の内なる価値判断を映す鏡として機能したにすぎず、あなたがほかの人間から受容してきた自分自身に対する価値判断を、しっかりと見直すための道具としてそこにあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 289-290

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 11-b[19-d] (自分の思考過程から価値判断を取り除く方法とは)

 人を見るとき、彼らをただ在る存在として、また「公平」という見方で見ることだ。もしある人間がほかに対して残虐であったり、憎しみをもっているなら、その人が残虐であり、憎しみをもっているということは真実だ。なぜなら、まさに彼らはそういう形で自己を表現しているからである。その表現方法が悪い、間違っている、邪悪であるというと、それはひとつの価値判断となる。そしてそれは、百パーセントあなたの体験となり、内に変質をもたらすのだ。
 誰も価値判断を下すに値する人はいない。肌の色、行為、どんなことであろうと、そのために自分を神なる状態、ただ在るという状態から変質させる価値はないのである。それが誰であっても、どんな形で自己表現をしていたとしても、そういう表現を許している神が内にいる彼らを愛するのだ。ただ存在しているという、そのことだけで、人は愛されるべきなのである。存在しているというその事実だけでも、これから先その人がするどんな行為よりも偉大なことなのだ。彼らのその存在を愛するのだ。彼らが存在する限り、あなたもまた必ず存在していく。どんな人間であろうと関係なくその人を愛するならば、そしてその愛を在るがままで存在させるならば、あなたはいつも純粋な存在でいられるだろう。
 さて、自分の思考過程から価値判断を取り除くいちばん手っ取り早い方法は何だろうか。それは、もともとそういうものを生み出した自分のフィーリングや想念をまず意識することによってである。この気づきを通して、あなたは思考をより純粋にすることを自分に教えられる。
 幸せでないとか、悲しい、あるいは怒りや恐れ、焦り、あるいはとにかく自分が好まない感情を感じたときには、自分の思考を調べてみることだ。やがてあなたは、自分や他の人間に判断を下したり、生というものを分断された側面や部分で見るような「変性思考」と、自分の不快な感情との関係が見えてくるだろう。そして、もうこういうフィーリングにうんざりしてくると、あなたは自分と生との間を分断している価値判断を取り除き、思考を浄化し始めるのである。それにともなって、また自分の存在が限りない思考をさらに体験していくにしたがって、あなたには自分の限りない思考と、平和、よろこび、調和、そして身体の動きの軽さなどとの間にある関係も見え始める。
 それともうひとつ、自分が価値判断を下してしまうことについても価値判断を下してはならない。自分に慈しみの心を持ち、ただ自分の思考やフィーリングへの気づきが自分に教えるままにしておくことだ。それは必ず教えてくれる。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 290-292

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 11-c[19-e] (何であろうと自分に在るがままでいるのを許すこと)

 これまでつくり出されたすべての言葉の中で、この教えにいちばんぴったりするものがある。それは「在る」という言葉だ。どういう意味なのだろうか。それは、何であろうと自分に在るがままでいるのを許すこと、そして、そういう自分を完全に愛するということだ。何でもいま感じているものを感じ、その感情を生きることなのだ。「在る」とは、完全にその瞬間に生きることだ。いまという瞬間しか存在しないことを知っているからである。それは自分のしたいことをするということであり、それを追い求めていくよう魂が自分に強く望む冒険を生きていくことなのである。
 そういう生き方をすると、自分やほかの人間、あるいは自分に生まれてくる思考に対して価値判断を下すことはなくなる。すると、善−悪、可能−不可能、完全−不完全、ポジティブ−ネガティブといったものもなくなる。この瞬間の美を感じ、味わうことを許さない時間という幻影がもはやなくなってしまう。ただ在る状態でいるとき、そこには生の「在るということ」、それにいまという瞬間の途切れなき継続性だけがあるのだ。
 ただ在る状態では、思考は過去や未来をもてあそぶことはやめ、罪悪感や悔恨の情、あるいは、「しなければ」や「するべき」などにとらわれなくなる。在るという状態では、特定の真実を固守することなく、あらゆる真実を吟味するようになる。すべての真実を在るがままの存在として見て、自分の在るという状態の中でうまくはたらくものかどうかを決めるため、それぞれについて詳しく探求することを認めるのである。そういうふうに生きると、自分のもとにやってくるすべての思考は熟慮され、脳を通じて身体の中でフィーリングとして理解される。これがさらに多くの想念、知識、そして在るがままのものを招き入れるのだ。
 ただ在る状態でいるとき、あなたはすべてのものの「在るということ」と同じ線上にある。その関係を通して、何でも好きなものを手に入れられるのだ。そのためにすることといえば、ただ在ること以外、何もないのである。あなたの存在の神が、自分の考えていること、望んでいることを引き寄せてきてくれるのだ。それは必ずやってくる。あらゆる手立てを通じて外からこれを実現しようとする者は、この内面からの道をまねた取るに足らないまがいものをつくっているのだ。ただ在る状態では、あなたはすでにすべてを持っているのであり、すべてのものそのものなのである。
 ただ在るとき、そして自分がすべての想念を受け容れることを許しているとき、あなたは神の声を聞くことができる。そうすれば、知りたいと思ってきたことはすべて、瞬く間に知ることかできるのだ。自分の思考に価値判断を下さず、それが自分の魂の内に感情として表出することを許すとき、あなたはひとりの無限の神として生きている。単に「在るということ」、在るものすべてに対して心を開くことによってこれが可能になるのだ。あなたは自分自身の神なる自己の純粋な媒体となることができて、神の精神の純粋な単純さに近づくのである。
 知ること、許容することによって生きるのを学ぶのだ。そうすれば、あなたは変性自我を制したことになる。第七のレベル、第七のチャクラ、第七の天界を制したことになるのだ。第七のレベルでは価値判断は存在しない。生の途切れなき継続性があるだけだ。価値判断を制してしまえば、この次元のすべてを学んだことになり、いつでも自分の望むときにここを去ることができるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 292-294

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 11-d[20-r] (害を及ぼすものは決して体内に入れてはならない)

 この瞬間に自分のクローンをつくる力を持っているのでもない限り、いまの身体をわざわざ傷つけるようなことはしないほうがよい(ちなみに、もし脳が完璧に機能していたら、あなたはそういう力を実際に持つことができる)。
 自分の身体を愛することだ。身体にやさしくし、栄養を与え、世話をすること。身体はこの地上界での生を体験させてくれる純粋な表現手段なのである。思考過程では無限にあること。だが同時に、それをさせてくれる化身を大切にすることだ。
 あなたが女性ならば、女性であれ。男性ならば男性であることだ。自分のそのままを愛するのだ。身体をけっして虐待してはいけない。わざわざ醜く傷をつけたり汚すことはしてはならない。もともとそのためにつくられていないことなど、させてはいけない。
 自分という存在の壮麗さを見てみるがよい。自分が神なるものとして行動するのだ。皮膚に触れるものとして最高のものを身につけるとよい。精油を塗り、香水で飾るのだ。身体が欲するものだけを食すること。身体に耳を傾ければ、栄養に必要なものは何かを必ず教えてくれる。
 害をおよばすもの、害をおよはすと自分が知っているものは、けっして体内に入れてはならない。とにかく何でも脳への酸素の流れを不足させるものは、脳細胞を多量に死滅させる。脳細胞はけっして戻らない。脳は細胞を再生する能力がないからだ。脳細胞が破壊されると、思考を身体で実感する感情に変換する能力が落ちてしまう。想念に思いをめぐらすことはできても、それはあなたにとっては存在しないのと同じになってしまうのだ。そうすると、よろこびが消える。フィーリングを通じて想念そのものになることなしに、いったいどうしてその想念によろこびを感じられるというのか。
 感じることができないと、この次元での「知る状態」を刻み込むことができない。これが、幻想を引き起こすドラッグを摂取したときに自分の脳におよばしている害なのだ。こういうものを摂取するたびに、それは脳から酸素を取り去ってしまう。あなたが感じている「ハイ」と呼ぶ状態は、脳が死んでいくことによって引き起こされているものなのだ。ドラッグを使うたびに、あなたは自分の知る能力を制限していく。そして、いずれはあなたが泣くことも笑うこともできなくなるときが来る。自分の存在の内に、もはや感情をつくり出すほど強いものが何もなくなってしまうからだ。
 すべてを知るという状態を体験すること、一輪の花が咲くのを見て涙し、陽が昇るのを待ち、その輝かしい美のすべてを知ることは、知る力を持つことであり、想念をフィーリングへと変換する力を持つことなのだ。それが「絶頂感」(エクスタシー)と呼ばれるものだ。これこそ、皆の言葉で言えば、いい「ハイ」なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 294-296

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 11-e[32-a] (自分を決して隷属させたり怯えさせたりしてはならない)

 時間が生まれる前からずっとあなたを愛し続けてきたもの、あなたが生きてきたすべての生であなたとともにあったもの、そして身体の死、あるいはその昇華のときに傍らにいることになるただひとつの存在とは、あなただ。あなたのこれまでの体験を受け容れ、それでも変わることなくあなたを愛せるのはあなただけなのだ。自分自身を心から受け容れ、愛するとき、そしてその愛を自分の基準とするとき、あなたは人間の社会意識を超越し、神のレベルの全体意識へと入っていく。あなたの存在とは、美を超えたものであるからだ。完璧さえも超え、法律や教義や社会の基準も超えている。それは運命という領域、自己の実現、つまりは神の実現という領域へと入っていくものなのだ。生の「在るということ」の観点から見て、重要なのはこのことだけである。
 あなたは自分が考えるそのまますべてであり、自分に知ることを許したものすべてなのだ。すべてのものである父なる存在が、あなた自身の姿であるのを知ることだ。それを知っている状態に入ることを通じて、あなたは、在りて在るものすべてとなれるのである。
 どんなものにも終わりがないことを知り、しかも絶対なものはないことも知ること。すべてはこの瞬間にあり、これからも必ず続いていく。自分の思考の限界を取り払うのは、単にもっと偉大なる真実があると知ることだ。それよりもさらに偉大な真実もある! この点を知るのだ。そうすれば、どの程度受け容れる準備ができているかにしたがって、それがあなたの内にひらめいてくる。
 自分をけっして隷属させたり、怯えさせたりしてはならない。必ず道はあり、それよりさらにいい道もある。このことを知るのだ。そして、よろこびへと通ずるあなたの道を照らしてくれる想念がやってくるのを許すのだ。
 自分の限界を直視すること。それを自分の心に抱き、受け容れるのだ。それを制するのだ! あなたが神の全体を知ることを妨げるものは、すべてなくす。罪悪感や価値判断を捨て去り、「知っている状態」、答え、そしてよろこびが自分のもとにやってこられるようにするのだ。
 自分の恐れに直面し、自分にその幻影をはぎとらせてあげるのだ。自分は永遠の存在であり、たとえ未知のものでも、あなたを幸福とよろこびから引き離すことができるものなど何ひとつないことを知るのだ。この地上界で体験しているよりずっとすばらしいものを知ることを躊躇させてしまう恐怖は、なくしてしまうのだ。とにかくあなたは、遠い彼方からやってくる存在たちさえ恐ろしいと思っているくらいなのだから。巨大な宇宙船に乗ってくる兄弟たちは信じられないほどの美を持っている。恐れをなくし、別の時間、別の空間、そして別の次元からやってきた別の存在と友人となれる力を持てるようにするのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 294-296

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 11-f [61-j] (あなたは天の王国への鍵を自分の内に持っている)

 より偉大なものになることを求めるとき、もしそのお手本となるような偉大さをこの地上界に探そうとするなら、あなたがなれるものは、どんなにがんばってみてもこの次元にあるものでしかない。人間の限られた思考を超えるというのは、膨大なる叡智を持つ、目に見えない何かがあるのではないかと思いめぐらすことなのである。
 それが誰の口から出たかに関係なく、真実にはつねに心を開いておくことだ。そして、自分のフィーリングをガイド役とするのである。賢者は、たとえ盲目であったとしても、何が正しいか自分の魂の内で知っている。真実とは、あなたが踏みつける一本の草にもあるのだ。それは子どもの笑い声の中にある。乞食の眼の中にある。それはあらゆる場所に、あらゆるものに、すべての人々に、すべての瞬間にあるものなのだ。これを知らぬ者は神をも知らない。なぜなら、神は在るものすべてそのものであり、たとえ一本の草であっても、ほんのわずかな瞬間のつぶやきであっても、在るものすべての源から自分を引き離すことはできないからだ。賢くなることを学ぶのだ。それがどんな形でやってこようとも、真実に耳を傾け、自分はそれを受け取るに値することを知るのだ。
 天の王国は自分の内にあると知る者は賢き存在だ。どんな想念でも、それを思い、魂の内に感じる力があるあなたは、天の王国への鍵を自分の内に持っている。それは感情という宝だ。感じることを学ぶのだ。神を完全に知るというのは、一つひとつの想念を完全に感じとることなのである。神であるその想念が、自分の存在の核、つまりあなたの存在の魂の内で感じられるまでそれを感じるのだ。
 自分の脳を直ちにすべて活動させたいという無理な望みをしてはいけない。想念をひとつずつ、体験をひとつずつ重ねながら脳を開いていき、それぞれの想念があなたの内で固まっていくようにするのだ。
 何よりも大切なのは、自分を在るがままにさせてあげることだ。ただ在ることによって、あなたはすべてであるからだ。単に自分の「在るということ」そのもの、「我は在る」という本質であるとき、あなたは生命全体と同じ線上に並んでいる。そのときのあなたは、人間としての断絶した自分を、神とひとつである自分へと変容させたのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 297-298


 11-g[65-s] (ものごと自体には正邪はなくそれは主観的な判断による)

 それでは、求められなければ誰も助けてはいけないのですか? そうではないでしょう。でなければ、インドの飢えた子供を、アフリカで苦しんでいる大衆を、いたるところにいる貧しいひとや、しいたげられたひとを助けられなくなります。あらゆる人道的な努力ができなくなり、すべての慈善が禁じられることになります。個人個人が絶望して助けてくれと叫ぶのを、あるいは国民が援助を乞うのを待って、それからでなければ、明らかに正しい行為も許されないというのでしょうか。

 答えは問いのなかにあるではないか。ものごとが明らかに正しいのなら、それをするがいい。だが、何かを「正しい」と考え、何かを「間違っている」と考えるのは、一方的な決めつけだということを覚えておきなさい。ものごとは、あなたがそう言うから、正しいとか間違っていることになるのであって、それ自体には正邪はない。

 そうなんですか?

 「正しい」とか「間違っている」とかは、ものごとの本質ではなく、個人の主観的な判断だ。その主観的な判断によって、あなたは自らを創り出す。個人的な価値観によって、あなたは自分が何者であるかを決定し、実証する。
 その判断をくだせるように、いまのような世界が存在している。世界が完璧になったなら、自分を創造するプロセスとしての人生はそこで終わってしまう。明日、訴訟がなくなれば、弁護士はやっていけなくなるだろう。明日、病気がなくなれば、医師もいらなくなる。明日、疑問がなくなれば、哲学者もいらない。

 それでは、明日、問題がなくなれば、神もいらなくなるんですね!

 そのとおり。あなたの言うとおりだ。創造を通じて存在するわたしたちすべてにとって、もう創造することがなくなる。ゲームは続いたほうがいいのだ。すべての問題を解決したいと言っても、すべての問題が解決してなくなればいいとは思わないだろう。そうしたら、何もすることがなくなってしまう。あなたがたの産業界と軍部はこのことをよく知っている。だから、戦争をしない政府を樹立しようとする試みに強く反対する。
 医学界もこのことをよく知っている。だから、奇跡的な新薬や治療法に、まして奇跡そのものの可能性に、断固として抵抗する。自分たちの存立がかかっているからだ。
 宗教界もこのことをよく承知している。だから、不安や批判、報復というものを含んでいない神や、彼らの信仰とは違った信念をもつ人間という考え方に、一丸となって攻撃を加える。
 あなたこそ神であるとわたしが言ったら、宗教はどうなるか? あなたは癒されると言ったら、科学と医学はどうなるか? あなたがたは平和に暮らすだろうと言ったら、和平仲介者はどうなるか?
 世界は完成された、改善の必要はないと言ったら、世界はどうなるか。
 改善にたずさわる修理工はどうなるだろうか?
 世界は基本的には二種類の人びとから成り立っている。あなたの欲するものを与えるひとと、操作するひとだ。ある意味では、欲するものを与えるひと、肉屋やパン屋、ロウソクづくりなども、操作するひとだと言える。何かが欲しくなるというのは、どうしても必要だと思うようにしむけられるということだから。それが昂じて中毒になると、際限なく欲しがるようになる。欲望が中毒に変わらないように注意しなさい。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.70-71

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 11-h (抵抗するということは相手に生命を付与することになる)

 あなたは「抵抗すれば、相手はかえって強くなるが、見つめれば、相手は消える」とおっしゃいましたが、そのことを説明してもらえますか?

 現実だと感じないものに抵抗することはできない。抵抗するということは、相手に生命を付与することだ。エネルギーに抵抗すれば、エネルギーをそこに発生させることになる。抵抗すればするほど、相手は実体をもつ。何に抵抗しても、これは同じことだ。
 目を開いて見つめれば、相手は消える。相手は幻想という実体をさらけ出す。
 あなたが何かを見つめれば―ほんとうに見つめれば―相手を見透かし、それが幻であると見抜くから、究極の現実以外は何も残らない。究極の現実の前には、小さな幻想など何の力もない。相手は弱くなった手であなたをとらえておくことができなくなる。あなたは相手の「真実」を見きわめ、それによって自由になる。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.139

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 11-i (欲望や自我を拒否するという生き方は真実ではない)

 それでは欲望や自我を拒否するという生き方は、間違った道なんですね?

 真実ではない。「拒否」という言葉は、間違った意味をもっている。拒否しても、実際には何も捨てられない。説明してきたとおり、抵抗すれば相手はますます強くなるからだ。真の悟りとは捨てることではなく、違う選択をすることだ。何かから離れる行為ではなく、何かに向かう行為である。
 あなたは何かから離れることはできない。相手は地獄までもあなたについてくる。それならば、どんな誘惑にも抵抗しないことだ。ただ、そこから顔をそむけなさい。わたしのほうへ顔を向けなさい、わたしに似ていないすべてのものから顔をそむけなさい。
 ただし、間違った道というものはない。この旅は、目的地に「行き着かない」旅ではありえないから。違うのは、いつそこに着くかというだけである。しかも、これさえもほんとうは幻想だ。「いつ」ということはないし、「その前」も「その後」もない。つねに現在があるだけだ。あなたが自分を経験しつづける永遠の時があるだけだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.141

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 11-j (苦しみは出来事に対する反応のなかにあるだけである)

 それじゃ、苦しみは何のためにあるのですか? 苦行は神への道ではないんですか? ひとによっては、それだけが唯一の道だと言いますが。

 わたしは苦しみを喜ばない。喜ぶという者がいれば、そのひとはわたしを知らないのだ。
 苦しみは、人間経験に不必要な要素だ。不必要であるだけでなく、賢明でないし、心地よくないし、身体にも悪い。

 それでは、なぜこんなに苦しみがあるんでしょうか? どうしてあなたは、あなたが神だとしてですが、苦しみを嫌っているのに、苦しみに終止符を打ってくれないのですか?

 わたしは終止符を打った。わたしが与えた道具を使って苦しみを終わらせるのを、あなたがたが拒んでいるだけだ。
 いいか、苦しみは出来事とは何の関係もない。出来事に対する反応のなかにあるだけだ。
 出来事はただ起こっているだけだ。それをあなたがたがどう感じるかは、またべつの問題だ。

 わたしはあなたがたに、痛みを減らす―それどころか、なくしてしまう―やり方で反応する道具を与えたのに、あなたがたはそれを使ってこなかった。

 すみませんけれど、どうして出来事のほうをなくしてはくれないんですか?

 非常にいい質問だ。残念ながら、それはわたしにはコントロールできない。

 あなたは出来事をコントロールできないんですか?

 もちろん、できない。出来事は、あなたが選択して創り出した時間と空間のなかで起こる―わたしはその選択に決して介入しない。そんなことをしたら、あなたがたを創造した意味がなくなってしまう。だが、このことはすでに説明した。
 あなたがたはある出来事を意図的に創り出し、ある出来事を―意識的、無意識的に―引き寄せている。出来事によっては―大きな天災もこのなかに入るが―「運命」として片づけられるものもある。
 その「運命(fate)」ですら、「遍在するすべての考えから(from all thoughts everywhere)」という言葉の頭文字になる。言い換えれば、地球という星の意識から生まれる。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.144-145

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 11-k (思考が行動になれば地球の破滅は救える)

 世界は猛スピードで破綻に向かっていると言うひとがいます。わたしたちの生態系は死にかけている。地球は規模の大きな自然災害が起こりつつある。地震。火山の噴火。地軸の傾きでさえ、災厄かもしれない。また、集合的意識によってすべてを変えられる、思考によって地球を救うことができると言うひともいます。

 思考が行動になれば救える。あらゆるところでおおぜいのひとたちが、環境を救うために何かをしなくてはいけないと信じるようになれば、地球を救える。だが、急がなければいけない。長いあいだに、すでに大きな被害が起こっている。世界を救うためには、非常に大きな姿勢の転換が必要だろう。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.146

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 11-l (私たちは関心を向けることで対象を実在させる)

 苦しみの話に戻りますが―わたしたちはいったいどこで、苦しみは善であると考えはじめたのでしょうか?「黙って苦しむ」ことがきよらかなことだと、いつから考えたのでしょう?

 信心深いひとは「黙って苦しむ」が、だからといって、苦しみが善だというわけではない。〈マスター〉の弟子たちは黙って苦しむが、それにはわけがある。彼らは苦しみが神への道だというわけではないが、神への道をたどるにはまだ学ばなければならないことや、思い出さなければならないことがあるから苦しむのだとわかっている。
 〈真のマスター〉は決して黙って苦しんでいるのではない。そう見えるだけだ。〈真のマスター〉が黙っているのは、苦しんでいないからだ。彼らは苦しみと呼ぶ状況を経験しているだけだ。
 実践している〈マスター〉が苦しみについて語らないのは、言葉の力をはっきりと理解しているからだ。したがって、語らないことを選んでいるのだ。
 わたしたちは、関心を向けることで、対象を実在させる。〈マスター〉はこのことを知っている。〈マスター〉は何を実在させるかを選ぼうとする。
 誰でも、ときおりは同じことをしている。自分の気持ちしだいで頭痛が消えたり、歯の治療の痛みが減ったりした経験のないひとはいないだろう。
 〈マスター〉もこれと同じで、もっと大きなことがらについても同じことをしているだけだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.146-147

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 11-m (あなたの幸運は必ず訪れ、あなたは必ず救われる)

 あなたの言葉を考えてみよう。あなたは、「いまのざまを見てください」と言い、自分は「救貧院行きの一歩手前」だと言う。だが、わたしはぜんぜんべつの見方をする。わたしの目に映るのは、豊かな家の一歩手前にいる人間だ!あなたは給料の小切手を一回もらえなければ、自分は忘却の淵に消えると感じているが、わたしはあと一回の小切手でニルヴァーナに達するところにいると見ている。もちろん、その「小切手」を何だと考えるか、何のために働いているかによって見方は違ってくるが。
 あなたの人生の目的が安定だとしたら、あなたが「給料の小切手を一回もらえなければ救貧院行き」だと感じるのはよくわかる。だがこの考え方にも訂正の余地はある。なぜなら、わたしからの小切手なら、物質的な世界での安定感を含め、良いものがすべて手に入るから。
 わたしからの小切手―あなたがわたしのために「働く」ときの代償―は、魂の安らぎだけではなく、もっともっと大きなものだ。物質的な安らぎも手に入れられる。だが、皮肉なことに、わたしの報いによって魂の安らぎを経験すれば、物質的安らぎについては心配しなくなる。
 家族の物質的安心にすら、関心がなくなるだろう。あなたが神の意識のレベルにまで向上したら、ほかの人間の魂への責任はないこと、すべての魂が安らかであれと願うのは立派だが、それぞれの魂が自らの運命を選ぶべきだし、選んでいるのだということが理解できる。
 もちろん、意図的にひとを虐待したり、破滅させたりするのは高尚な行為ではない。また、自分に頼るようにしむけたひとたちの欲求を無視するのもよくない。
 あなたの仕事は、彼らを自立させること、できるだけ早く完全に、あなたなしにやっていきなさいと教えることだ。彼らが生きるためにあなたを必要としているかぎり、あなたは彼らにとって祝福とはならない。あなたが必要ないと気づいた瞬間に、はじめて祝福となる。
 同じ意味で、神の最大の瞬間は、あなたがたが神を必要としないと気づいた時だ。
 わかっている、わかっている……このことは、これまで教えられてきたすべてに反すると言うのだろう。だが、あなたがたが教わってきたのは怒りの神、嫉妬の神、必要とされることを必要とする神だ。それは神ではなく、神性であるべきものの神経症的な身代わりにすぎない。
 〈真のマスター〉とは、生徒がいちばん多い者ではなく、最も多くの〈マスター〉を創り出す者である。
 〈真の指導者〉とは、追随者がいちばん多い者ではなく、最も多くの指導者を創り出す者である。
 〈真の王者〉とは臣民がいちばん多い者ではなく、最も多くの者に王者らしい尊厳を身につけさせる者である。
 〈真の教師〉とは知識がいちばん多い者ではなく、最も多くの者に知識を身につけさせる者である。
 そして〈真の神〉とは信者がいちばん多い者ではなく、最も多くの人びとに仕える者、したがって他のすべての者を神にする者である。

 それが神の目標であり、栄光である。信者がもはや信者ではなくなること、神とは到達できない存在ではなく、不可避の存在であることをみんなが知ることだ。
 あなたの幸運は必ず訪れる。あなたは必ず「救われる」。それがわからないことこそ地獄で、地獄はそれ以外にはない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.155-156

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 11-n (神の場で暮らせばすべての出来事が祝福になる)

 あなたの愛によって、愛する者を世界に押し出しなさい。そして、彼らが自分自身を充分に体験できるようにしむけなさい。それが、ほんとうの愛である。
 家庭人にとって、この道は大きな試練だ。気を散らすことがいくらでもあり、現世的な心配がいくらでもある。
 だが、精神的な美だけを追求する者はそうしたことにわずらわされない。パンと水をたずさえ、粗末なワラ床でやすみ、祈りと瞑想と神性を思いめぐらすことにすべての時間を捧げる。そういう環境なら、神性を見ることはどれほど簡単だろう!務めはどれほど単純だろう!
 しかし、配偶者があり、子供があったら! 午前三時におむつを替えなければならない赤ん坊に神性を見る。毎月一日に支払わなければならない請求書に神性を見る。配偶者を襲う病に、奪われた職に、子供の発熱に、親の苦痛に神の手を見る。それができたら、聖者だろう。
 あなたが疲れるのはよくわかる。苦闘にうんざりしているのもよくわかる。教えてあげよう。わたしに従えば、苦闘は終わる。神の場で暮らせば、すべての出来事が祝福になる。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.157

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11-o (神を最も必要としているときに神を捨ててはいけない)

 でも、失業して、家賃を払わなければならず、子供は歯医者にかからなければならないとき、どうすれば神の場に着けるのですか。高貴で哲学的な場が、こうした問題を解決してくれるとはとても思えないんですが?

 わたしを最も必要としているときに、わたしを捨ててはいけない。いまこそ、試練のときだ。いまこそ、チャンスだ。ここに書かれたすべてを証明するチャンスだ。
 「わたしを捨ててはいけない」と言うと、まるでさっき話に出た、要求がましい神経症のひとたちが考える神のように聞こえる。しかし、そうではない。あなたは好きなだけいくらでも、「わたしを捨て」ればいい。わたしはかまわないし、それでわたしたちの間柄が変化することもない。わたしは、あなたの質問に答えているだけだ。つらいときには、真の自分を忘れがちになり、自分が選んだ人生を創造するために与えられた道具を忘れがちになる。
 いまこそ神の場に行く時だ。そこでまず大きな精神の平和が得られる。平和な精神からは良いアイデアがあふれ出す。そのアイデアで、あなたが抱えていると思っている問題が解決するかもしれない。
 第二に、神の場でこそ、あなたの自己が実現する。それがあなたの魂の目的、唯一の目的だ。
 神の場にいれば、いま経験していることはすべて、かりそめにすぎないとわかるだろう。言っておくが、天国も地上も過ぎ去るが、あなたは過ぎ去らない。この永遠という視点から見れば、ものがよく見えてくる。
 現在の状況や環境は、一時的なかりそめのものだと、正しく考えられるようになる。そして、それを道具として使えるようになる。状況や環境は、現在の経験を創造していくうえでの、一時的なかりそめの道具にすぎないからである。
 あなたは自分を何者だと考えているのか? 失業と呼ぶ経験との関連で、自分を何者だと考えているのか? そして、もっと肝心なことだが、わたしを何者だと考えているのか? 問題が大きすぎて、わたしには解決できないと思うのか? いまの苦境からの脱出という大きな奇跡は、わたしの手には負えないと思っているのか? たとえ、わたしに与えられた道具があっても、あなたがとりくむには問題が大きすぎるというなら理解できるが、わたしの手にも負えないとほんとうに思っているのか?

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.157-159

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 11-p (あなたの人生はあなたの意図するとおりに進んでいく)

 あなたは求めるものをすべて得られはしなかったと言う。だが、わたしは、あなたがつねに求めるものを得てきたと言う。
 自分は選んだものをめったに得られないという考え、それも創造につながる思考だし、それを含めて、人生はつねにあなたの思考の結果だ。
 あなたは現在、失業している、自分は失業という状況の犠牲者だと考えている。だが、ほんとうは、もうあなたはその仕事を選択していないのだ。あなたは朝、期待に満ちて目を覚ますのではなく、いやいやながら起きるようになった。仕事が楽しくなくなり、ぐちっぽい気分になりはじめていた。それどころか、何かほかにしたいと夢を見はじめていた。そうしたことが、何の意味ももたないと思うのか? あなたは自分の力を誤解している。忘れないように、あなたの人生はあなたの意図するとおりに進んでいくのだよ。
 それでは、あなたはいま、何をしたいのか? 人生では、選んだものもめったに手に入らないという理論を実証したいのか? それとも、自分がほんとうは何者であり、わたしが何者であるかを明らかにしたいのか?

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.161

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 11-q (神が不完全な人間を創造したのではない)

 それでも、どうしてわたしはいつも暗い考え方ばかり選ぶんでしょうか? 暗いほうを選んでは、自分を責めるんでしょうか?

 無理もないとは思わないか? あなたがたは小さいころから、「悪い」と言われつづけてきた。自分が「罪」を背負って生まれたのだと思いこまされてきた。罪悪感は、そういう学習の結果だ。あなたがたは、何もできないほど幼いころから、自分のしたことに罪悪感を感じるようにしつけられてきた。完璧な者として生まれなかったことを恥じるように、教えられてきたのだ。
 あなたがたは不完全な者としてこの世に生まれ出たと教えられている。あなたがたの宗教で言う原罪だ。たしかにそれは最初の罪だが、あなたがたの罪ではない。神が不完全なものを創造した、創造できたと考えているとすれば、それは神の何たるかを知らない世界があなたに対して犯した最初の罪だ。
 その誤解を中心にすべての教義ができあがっている宗教がある。まさに「誤解」だ。わたしが生み出したもの、生命を与えたものはすべて完璧だからである。生きとし生けるものはすべて、完璧さの完璧な反映であり、わたしの姿をかたどって、わたしに似せてつくられている。
 だがあなたがたの宗教は、神は罰するという考えを正当化するために、怒りの対象をつくりあげた。
 そのせいで、模範的な人生を送っている者まで、救われなければならないことになった。救われなければならないような悪いことはしていなくても、もって生まれた不完全さから救われなければならないというわけだ。こうして(その宗教は)、あなたがた全員に、急いで何とかせよ、そうしないと地獄へ落ちるぞとおどす。
 要するに、何をしても復讐心と怒りの神の気持ちをやわらげることはできない。復讐心と怒りの宗教に生命を与えるだけだ。おかげで宗教はいつまでも栄える。権力は多数の者が分かち合うのではなく、少数の者に集中しつづける。
 もちろん、あなたがたは劣った考え、劣った思いを選び、自分を力のないちっぽけな存在だと思いつづける。そう、教えられてきたのだから。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.162-163

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 11-r (私たちは畏敬の念を欠く認識の影響を強く受けてきた)

 私たちは生命というものを軽く見過ぎている。そしてその認識が、あらゆる認識に染み込んでいる。たとえば、私たちは動物の王国に目をやり、その王国内のさまざまな活動を、自分たちの生き方を肯定するためのものとして眺めている。私たちは、ある動物が別の動物を殺して食べているようすを見て、弱い生命体は強い生命体を養うためにだけ存在すると結論づけている。自分たちが自然の摂理だと認識するアイデアを盾に、生命を食い物にする自分たちの行為を正当化しようとしている。
 私たちは傷つけ、殺害する。サイロに穀物を大量に蓄え、ミルクを下水に捨てつづけるいっぽうで、飢えに苦しむ無数の人々が存在する状況をつくり上げている。私たちはお互いを、自分の感情的、肉体的ニーズを満たすために存在する獲物として見ている。「この世界は食うか食われるかの世界だ」と私たちは言う。そして、「そのなかで生き残るには、利用される前に利用しなくてはならない」とつけ加える。
 私たちは人生を、勝者と敗者をつくり出す戦いの場として眺めており、ほかの人たちや生き物たちのニーズが自分たちにとって脅威に映ると、躊躇なく攻撃を仕掛ける傾向にある。
 私たちの行動パターンや価値観は、畏敬の念を欠く認識の影響をあまりにも強く受けてきたため、いまや畏敬の念とは何かさえ忘れてしまっている。もし私たちが、競争相手をののしったり、誰かの力を奪おうとしたりしたとしたら、そのとき私たちは、畏敬の念から遠ざかっている。もし私たちが、与えるためにではなく奪うために働いているとしたら、そのとき私たちは、畏敬の念をもたずに働いている。
 私たちは、他人の安全を犠牲にして自分の安全を確保しようとしているとき、畏敬の念を自分自身から奪い去っている。私たちは、他人を裁いているとき、畏敬の念を自分から遠ざけている。自分自身を裁いているときにも、また、ある人間を別の人間よりもすぐれていると考えているときにも、行っていることは同じである。
 畏敬の念を欠いたビジネス、政治、教育、セックス、子育て、そして社交のすべてが、「人間によるほかの人間の不当な利用」という、まったく同じ結果を引き起こす。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
   サンマーク出版、2003、pp.47-48

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 11-s (あなたは自分が与えたものを受け取ることになる)

 信頼は、あなたを「与える人間」にしてくれる。与えることは、豊かになることである。あなたは、自分が与えたものを受け取ることになる。もしあなたが、裁きながら与えているとしたら、あるいは充分に与えていなかったとしたら、あなたは誰かから裁かれる運命、あるいは充分には受け取れない運命にある。あなたが人々に対して行うことは、正確に、あなたに対しても行われることになる。それがカルマの法則である。
 あなたが人々を愛し、彼らに力を貸したならば、それもまた正確にあなたに戻ってくる。もし愛と思いやりを放射したならば、あなたはそれを受け取ることになる。また、もしあなたが恐れや疑い、人々との距離を保つ願望などを放射したとしたら、やがて必ず、何らかのネガティブな体験があなたにもたらされることになる。なぜならば、それこそが、あなたが求めているものであるからだ。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、p.270

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 11-t[19-w] (人の持ちものを妬むのは愚かしいことである)

 人の持ちものを妬むのは愚かしいことである。妬ましく思うその対象物は目に見えるものでしかない。物的なもの、表面的なものばかりである。その持ち主はそのためにどれほどの代償を支払っているかは知るよしもないし、もし自分が同じ境遇にあったらそれを求めたく思うかどうかまでは考えてみない。
 人間にはそれぞれに必要なものがあり、そのうちのどれかを優先して求めている。もしもお金が欲しいのなら、それなりの努力をしなければならない。人の成功をうらやましく思っているだけでは成功はできない。

   M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp. 126-127

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 11-u (変えなければいけないのはあなたの心の姿勢である)

 「おっしゃることはよくわかるが、うれしい知らせをそう毎日毎日待っているわけにもいくまい」こうおっしゃる方があるかも知れない。
 それは確かにそうなのだが、いま私はそういった格別のうれしいことがなければ、健康になれないと言おうとしているのではない。毎日の生活は今までどおりでいいのである。何一つ変える必要はない。ただ変えなければいけないのは、あなたの心の姿勢だといっているのである。
 この点が大切なところなので、よく認識していただきたい。逆境において勇敢であれと言っているのではない。口をへの字にむすんで頑張れと言っているのでもない。あなたのかかえている悩みが下らないことだと軽くみているわけでもない。
 私は悩みごとや心配ごとのない人生を夢想するほど単純な人間ではない。人それぞれに何らかの悩みをかかえていることは百も承知である。
 問題はその悩みや心配ごとに対するあなたの心の姿勢が楽観的、積極的、希望的であるか、それとも悲観的、消極的、絶望的となるかである。
 後者の姿勢をとった時、そこに現われる感情はすべて正常な生理的バランスを破壊するものばかりである。すなわち心配、怒り、我欲、ねたみ、偏狭、どん欲、肉欲、高慢、うらみ、恐怖、ざっとこんなところが挙げられる。このうちのどれ一つをみても、あなたを病気にし、あるいは場合によっては死に至らしめかねない恐ろしい感情であることを知らねばならない。
 かくして健康への第一のカギはまずあなたの日常における心の姿勢を楽観的、積極的、希望的な方向へ切り換えることにある、ということになる。

  M.H.テスター『背後霊の不思議』(近藤千雄訳)
    潮文社、2010 、pp.35-37

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 11-v  (人間の心は言い聞かせたとおりの反応を示す)

 心の姿勢を変えるのに、そんな薬やアルコールはいらない。自分の意志の力で変えることができるのである。その秘訣、いわば健康へのカギを回す秘訣をこれから伝授しようというわけである。これさえ身につけば、ケンカっぽい性格が優しい性格となり、怒りっぽい人が静かな男となり、敵意が愛情にかわり、偏狭さが大らかさにかわるはずである。
 その秘訣とは、人間の心はたとえ事実はそうでなくても、そうだと言い聞かせればそのように反応を示すという、この特徴を応用することである。
 ・・・・・人間の生理的機能は実際の事実がどうであろうと、心がそれに対してどういう姿勢をとるかによって、健全なバランスを強化することにもなり、逆に崩すことにもなる。そこで、つとめて明るく積極的な姿勢をとるように心がければ、病気にならないという理屈になる。しかもその姿勢は、みせかけであってもよいというのである。実際に楽しいことがなくてもよい。ほんとに楽しいと身体で感じてなくてもよい。わざとでよいから楽しく振る舞い、楽しい気分にもっていく。すると、コンピューターは「楽しいぞ」という暗号を中枢に送り、そこから連鎖的に健康な生理反応が生じる。ここがミソなのである。
 こうした事実のもつ意味の重要さを、よくよく認識していただきたい。子供だましのような単純なことだが、その意味するところはきわめて重大である。これを逆に見れば、重大な意味をもつが事実はいたって単純ということでもある。とにかく、その単純な事実のウラに健康と富と成功のカギが秘められているのである。

  M.H.テスター『背後霊の不思議』(近藤千雄訳)
    潮文社、2010 、pp.37-38

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 11-w (幸せな人間の役を演じていけばそれで幸福になれる)

 あなたはいわば俳優になったつもりで、幸せな人間の役を演じればよい。そうすれば実際に幸福な人間になれる。元気はつらつたる人間の役を演じればよい。やがて本当に元気はつらつな人間になっていく。冷静な人間の役に徹すればよい。いつしか少々のことでは腹を立てない人間になっているであろう。
 体調が思わしくなく、いつも憂うつで、なおかつ私の言うことが信じられないという方は、とにかく一度ためしてみてはいかがであろう。だまされたつもりで、次に私が言うとおりにしてみられたい。
 人に見られては恥ずかしかろうから、風呂場にでも入ってカギをかけていただこう。風呂場には大てい鏡がある。その鏡に向って一つ名演技を演じていただこうというのである。内心バカバカしいと思っていてもかまわない。大切なのは頭で考えることではなくて、あなたの心の姿勢であり態度なのである。それがワザとであってもいい。ミセカケであってもいい。とにかくそう振る舞えばよいのである。
 さて、ではこう振る舞っていただこう。今、あなたのもとに素晴らしい知らせが舞い込んだとしよう。何でもよい。とにかくうれしい知らせである。あなたは全身が熱くなるほどうれしくなってバンザイを叫ぶ。
 「やった! ついにやったぞ! これでオレの未来は万々歳だ。ようし、やるぞ!」
 満面に笑みをうかべ、子供のように全身でうれしさを表わすのである。決してやさしいことではない。最初のうちはアホらしいやら照れくさいやらで、思うようにいかないかも知れない。が、とにかく私を信じて一日に一回でいいから、こうしてうれしさ一ぱいの人間の役を演じてみることである。その日一日、きっといつもと違った雰囲気を感じるようになるはずである。それが効果の現われ始めた証拠である。
 これを続けていくうちにいつしか憂うつさを忘れ、体調が整っていくのを知るはずである。胃かいようの人であれば、激痛を忘れている時が多くなる。頭痛もちの人であれば、頭痛をすっかり忘れている日があることに気がついて、びっくりするはずである。

   M.H.テスター『背後霊の不思議』(近藤千雄訳)
     潮文社、2010 、pp.39-41

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 11-x (価値のあるレッスンはしばしば最も痛いものである)

 残されて悲しんでいる人達への答えはいつも同じです。亡くなった人達へとつながるものは愛の橋だと。そこを渡るためには知性を働かせ、悲しみをポジティブなものに変えなければなりません。そうは言っても悲しみは当然です。深い痛みと寂しさは私達の中に薄氷一枚へだてて存在しています。学び続けていかなければならないものであり、あまり選択の余地がないものなのです。人生の楽しいことを享受するのは簡単ですが、それに感謝しているでしょうか。私達は悲劇を屈辱であり、傷だと受け取ります。しかしそこには段階があります。第一の段階は落ち込み、次にそれが怒りとなり、孤独に変わり、そして信仰の疑いへと続きます。次の段階として癒しの時期がやってきます。これが「気づき」への黎明期となるのです。物事を恵みととるか、不運な呪いとしてとるか。どちらをもチャレンジとして受け止めてはどうでしょうか。道を究める人に言わせると、一番価値のあるレッスンはしばしば最も痛いものであると。

  ゴードン・スミス『なぜ、悪いことがおこってしまうのか』
    (ノーマン・テイラー・邦子訳)ナチュラルスピリット、2011、p.288