学びの栞 (B) 


 12. イエスとキリスト教・聖書


 12-a [6-b] (キリスト教は何百年にもわたってほかの文明を抹殺してきた)

 車椅子の年老いた女性に―

 ひとつわかってほしいことがあります。あなたの宗教、そしてあなたの信念は、すでに何百年にもわたってほかの文明を抹殺してきたということです。マヤ人やアステカ人は、教会と同じことを信じていなかったために、教会による支配を通じて抹殺され殺戮されていったのです。人間の歴史の中で暗黒時代と呼ばれる中世の時代の聖戦は、すべて宗教上の信念を広めるために戦われました。フランスと呼ばれる国では、教会の言うとおりに信仰しないという理由だけで、母親の手から赤ん坊を連れ去ったのです。そして多くの女性が赤熱した鉄の棒で眼を焼かれ、胸に烙印を押され、あたりは血であふれました。それもすべて、たかが宗教上の信念のためにです!
 そして今度は新教徒(プロテスタント)たちが現れて、地獄に燃えさかる炎や悪魔といった概念で子どもたちの心に恐怖を生み出し、教会の言うことに従い、その規則や戒律を守らないと永遠に地獄で焼きつくされるぞと言って、教会組織をしっかり維持していこうとしました。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.62-63

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 12-b (イエスとあなたのたった一つの違いとは何か)

 車椅子の年老いた女性に―

 わが愛しき女性よ、あなたとイエシュア(イエス)とのたったひとつの違いとは、彼が人間の内にある神という真理を理解し、それを完壁に体現して生きたということだけなのです。だからこそ、イエシュアはまさに偉大なる存在なのです。でも、あなたもまた、イエシュアがなったのと同じものになれる愛と高貴さをそなえている偉大な存在です。
 あなただろうが誰だろうが、イエシュアは他人を救うためにいるのではありません。自分がこの地上に生きる神であるのを悟ることにより、自分を救うことができたのであり、ほかの人間に対して、彼ら自身の内にある神を通じて、自分自身の救世主となる道を教えたのです。彼が教えたのはこういうことです。「私がしたことは、誰でもできる。父なるものとあなたとはひとつだからだ。天国はこの場所にあるのではない。天の王国とは、あなたの内にあるのだ」 彼は、地獄のことは一言たりとも語っていません。語っているのは、生きること、そしてその美しさについてです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p.66

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 12-c [9-n] (思考こそがすべて在るものの基盤であり創造主である)

 聖書にはこう書かれている。「はじめにまず言葉ありき。すべては言葉とともにありき」これはまったく正しくない! 言葉は思考なしにはまったく無の存在だった。思考こそがすべて在るものの基盤であり、創造主だからだ。
 はじめは(皆がはじめと呼ぶものではあるが)、すべては思考の無限であった。この無限性を私は父なる神と呼ぶ。あなたが神と呼ぶものは、限界のないもっと広い考え方で言うと、思考のことであり、それはすべての生命の起因、基盤となるものだ。いま在るもの、これまで存在してきたもの、これから存在するもの、それらはすべて思考、つまり神の精神である知性から派生してきたものなのだ。
 つまり、はじめにはまず思考という限りない空間があった。そして、自分自身のことを思いめぐらさなければ、また内面に思考を向け、自分自身でもあるこの思考自体について思いめぐらすことがなければ、神は形のない思考のままでいたことだろう。父なる神が自分自身であったこの思考について思いをめぐらせると、ある独自の形に自分を拡大することになった。というのは、ある想念が思いめぐらされると、この純粋な理性的行為が思考を拡大するのである。そして思考はさらに大きいものとなる。こうして、これまで自分の存在を拡大したことのなかった父なる神は、自己に思いをめぐらすことによって、偉大なる存在となっていったのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 123

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 12-d (イエスは神の王国に至る道は彼を通して可能であることを示した)

 霊的に開けた人々であれ、知的に進んだ人々であれ、キリストを本当に理解している人は今日ほとんどいません。そして、ナザレのキリストの神性についての理解が、いまだに混乱しているという悲劇的な状況があります。
 物質主義に陥っているという点では、正統派のキリスト教会は、心霊主義教会と同じくらい有罪です。というのは、イエス・キリストを通して提示された無限の神の存在の物質的な側面だけを利用し、キリストを神に祭り上げることによって、キリストを通して示された無限の愛と叡智を認識することができなかったからです。神の御子、無限にして普遍的な存在の御子として知られている、あの生命体の中に潜む、強い力についての自分たちの理解がいかにわずかなものであるか、彼らは理解できなかったのです。
 長い歴史のあいだに数多くの予言者が出現しました。彼らは、キリストが肉体をもって現れたときに人類が喜んで彼を迎え入れることができるように、人類の進化の歩みを早め、その準備をしたのでした。しかしキリストは地上に現れ、人間の中で生活し、人々に蔑まれ、相手にされませんでした。
 私自身も、キリストの魂救済の恩寵をしりぞけたときがありました。心霊主義に導かれ、それ以来、物質主義にとらわれる度合いが多少緩和されたと思います。それから、徐々に、キリストの生涯のなかに示された光、そして、美しさが見えるようになりました。最初、彼をすぐれた予言者、予見者、霊媒として受け入れました。旅を行く人間にとっての高貴なる兄弟、仲間として、キリストを受け入れたのでした。
 たしかに、彼は人類全体にとっての偉大な兄弟です。しかしながら、彼が兄弟であるというときの兄弟の意味は、キリストも我々と同じ人間であるにすぎないという、現在ゆきわたっている考えと一緒にできるものではありません。すべては程度の問題です。キリストが私たちの中に住んでいるのと同じ程度に、私たちは彼の中に住むことになります。
 キリストの肉体、魂、心を通してなされた表現は、限定されたものであり、部分的なものであることを忘れてはいけません。しかし、それでも、神とは愛の存在に他ならないということを見せるには十分でした。自らの生涯を模範として、イエス・キリストは、永遠の命、そして神の王国に至る道は彼を通して可能であることを示したのです。キリストの神聖な恩寵、壮大な思いと優しさ、哀れな人間にとっての救いの恩寵ともいうべき超越的な愛と慈悲、それと一体化することによって、人は永遠の生命に至ることができることを示されたのです。

  アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.232-233

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 12-e (キリスト教会の儀式も霊界の力を求めて工夫されている)

 ローマカトリック教会、英国国教会派の儀式は、霊界の力を求めて工夫されているという事実を知る必要があります。厳密な儀式が行なわれている教会に入れば、この種の力がただちに感じられるはずです。すべてのもの、香、つり香炉の用い方から、祝福を施すそのやりかたに至るまで、この力を創りだし、その力を参会者に分け与えようという意図をもって行なわれているのです。
 私は霊界に来て以来、数多くの教会を訪れ、この過程を自分の目で見てきました。音楽の調べが、礼拝者の心にどのように影響を及ぼすか、礼拝者自身が彼らの感情体によって、この霊力にどのように貢献するかといったことを見てきました。
 一方、非国教会の教会でも、ここでは凝った儀式はごく簡単な礼拝に変わってしまったのですが、本当に純粋な心と目的がある場合には、霊の力がやってきます。もっとも、それはちょっと異なった種類の力です。しかし、この種の教会の一部では、霊的な冷淡さ、つまり、自己満足の結果、燃えるような情熱の欠如が忍び寄ってきて、礼拝に集う人たちは自分自身に満足し切るあまり、自らを神によって選ばれた人々であると考えてしまう傾向があるようです(厳しい批判は私自身も免れませんが、これは私の霊体での旅で気づいたことです)。
 人々を引きつけ、支配するために、儀式や音楽その他を用いることの意義、およびそれが正しいかどうか、ということについては、どのようなものであれ、役に立つと同時に、濫用もありうると言っておきましょう。力を正当に獲得し、正しく利用するというのは創造計画の一部であることは疑いのないところです。そのような力は人間のなかにあって、使われるのを待っているのですから。知識と知性、純粋な理想と願望とによって、人間が高い天界と接続すれば、その人は自らの霊的な成長によって、このような力を自分自身に引きつけることになるでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.248-249

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 12-f[6-f] (どんな魂にでも必ず神の光にめざめるときは訪れる)

 キリスト教は、純粋な真実の種を包含しているがゆえに、もっとも純粋な宗教であったと私は述べました。この言葉の意味を説明したいと思います。キリスト教の“身代わりの腰罪”そして、「私が道であり、真実であり、生命である。私によらず天の父のもとに至る者はいない」という言葉に関して、異議を唱える人がいることでしょう。悲しいことに、これはいまだに、多くの人々にとっての障害となっています。私自身も今にしてわかったことなのですが、これらの言葉の背後にある霊的な意味を理解していないからです。
 身代わりの贖罪という福音を、私たちは教えません。人は自分が蒔いた種を刈り取らなければならず、人の邪悪な考えや行動の責任を、その人から取ってやることのできる人はいないということを私たちははっきりと理解しています。
 しかしながら、人間がどんなに深い奈落にまで沈んでいたとしても、その魂がキリストの力と愛とによって創造された真実の光で照らし出されたとき、その人は再び生まれ変わり、それまでの自我は死ぬことになります。このようにして、キリストだけが人間を無知と、罪と奈落から救い出すことができるのであり、人間を永遠の生命へと導くことができるのです。
 心霊主義者であれ、伝統的なキリスト教信者であれ、仏教徒であれ、無心論者であれ、どんな魂にでも、神の光にめざめるときは訪れます。別な言葉でいえば、キリストの光に目覚めるときがやってきます。すべての魂は、どのような名前がついていようが、どんなにキリストを否定しようが、慈悲深いキリストのはかり知れない愛と完全な叡智とによって、いつの日か、天国の“狭き門”を通らなければなりません。
 この前、仏教徒の考えについてお話しました。これについても、もう少し説明が必要だと思います。今日の仏教徒は、人間存在の究極にして最も崇高な目標は“ねはん”として知られている生命の局面に入ることであると信じています。従って、仏教徒は数多くの人生を急いで体験して、輪廻転生から自由になるために、できるだけ早く肉体をもって生まれ変わりたいという願望をもっています。ねはんに辿り着けば、永遠の輪廻から解放されると信じているわけです。
 ねはんの境地に達したとき、欲望から解放され、無の境地の中で安らぎを見出すであろうことは確かです。仏教徒の間違いは、釈迦の教えを間違って解釈しているところにあります。これと同じように、キリストの教えも二〇〇〇年前に使徒に与えられたものとは非常に異なったかたちで伝えられています。
 釈迦は、人間ひとりひとりの魂が最終的に身を任せなければならない道を指し示すためにやってきたのです。その道とは、崇高な存在に身をゆだねるという道です。自分自身の体験によって、幼子のような素朴さと、信頼の気持ちがあって初めて人間は天国に入れることを証明されたのです。釈迦はこれを教えられたのです。
 もう一つ述べておきたいと思います。もしも、皆さんが霊の真実のヴィジョンに従うならば、洋の東西を問わず、すべての宗教の源である、古代の叡智の中に、この真実を見出だされることでしょう。そのなかに、心静まらない霊がいる場所、それよりも高いアストラル界、精神界、天界、宇宙界のことが説明されているはずです。
 これまでの長い歴史を通して、さまざまなマスターがほぼ同じような教えをもって地上に戻ってきては、その教えを残していきました。人間と神のために自我を放棄し、欲望を放棄する覚悟のある人には、なんという光輝に満ちた運命が開かれることでしょうか。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.249-251

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 12-g[65-t] (必要なのは自分が現実の創造者であることを知ること)

 キリスト教の(マスター)たちは、このことを理解していた。たとえば、十字架にかけられてもイエスは動揺せず、それどころか十字架を予期していた。イエスは歩み去ることもできたのに、そうしなかった。イエスはどの時点でも、プロセスを停止させることができただろう。現にその力をもっていた。だが、そうしなかった。彼は人類を永遠に救済するために、十字架にかかることを選んだのだ。
 「見よ、わたしが何をなしえるかを」と彼は言った。真実を見なさい。そして、あなたがたにもそれが、それ以上のことができるのを覚えておきなさい。わたしは、あなたがたが神であると言ったではないか。だが、あなたがたは信じない。自分を信じられないなら、わたしを信じなさい、と。
 イエスは憐れみ深かったから、誰もが天国にこられるように―自己を救済できるように―と願い、ほかに方法がないなら、イエスを通してひとが天国にこられるように、世界に衝撃を与えることを願ったのだ。彼は人類の悲惨と死を打ち破った。あなたも同じことをするかもしれない。
 キリストの最も偉大な教えは、あなたがたが永遠の命を得られるだろうということではない。あなたがたには永遠の命があるということだ。あなたがたは神のもとで兄弟となるだろうということではない。あなたがたは兄弟だということだ。あなたがたは求めたものを与えられるだろうということではない。すでに与えられているということだ。
 必要なのは、それを知ることだけだ。あなたがたは自分の現実の創造者だ。そして人生はあなたがたが予想するようにしか、展開しない。
 考えることは、現実になる。これが創造の第一歩である。父なる神とは考えだ。あなたがたの考えは、すべてのものごとを誕生させる親である。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.75-76

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 12-h[19-l](聖書の内容は教会によって取捨選択されていた)

 でも、こうして座ってあなたと対話しているなんて、しかもあなたが―神が―答えてくれると想像するなんて……ひどく厚かましい感じがします。だって、こんなのは狂気のさたですよ。

 そうか。聖書の執筆者はすべて正気だったが、あなたは狂気だというわけか。

 聖書の執筆者はキリストの人生の証人で、見聞きしたことを忠実に書きとめたんです。

 訂正しよう。新約聖書の執筆者のほとんどは生きているキリストを見たことも、会ったこともない。彼らはイエスが地上を去ってから何年もたって生まれている。彼らはナザレのイエスに道で会っても、気づかなかっただろう。

 しかし……。

 聖書の執筆者たちは偉大な信者で、偉大な歴史家だった。彼らは自分たちや友人たちに伝えられた物語を書きとめたのだ。長老から長老へと、文字になるまで言い伝えられてきた物語を。
 しかも聖書の執筆者が知っていたことのすべてが、完成した書物に収められたわけではない。
 イエスの教えの周囲にすでに「教会」が生まれていた。そして、力強い教えのまわりに人びとが集うときにはどこでも必ずそうだが、教会のなか、信者の集団のなかには、イエスの物語のどの部分をどのように語るかを決めた人びとがいた。この取捨選択、編集のプロセスは、福音と聖書の内容を収集し、文字にし、出版するまで続いた。
 もとの聖書が書かれて何世紀かが過ぎたあとでさえ、カトリック教会の公会議が、公的に認められている聖書にどの教義と真理を収めるかを決めていた。それに、どの教義が「不健康」あるいは「時期尚早」で、大衆に知らせてはならないかも決定していた。
 聖なる書物はほかにもある。どれも、ほかの面ではごく、ふつうの人びとが、インスピレーションを得て書いたもので、どの執筆者もあなた以上に狂気だったわけではない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.93-94

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 12-i[73-f] (初期のキリスト教会がもたらした暗黒時代)

 私は今日の地上世界が抱えるさまざまな問題の根本原因の一つに、キリスト教会が(ローマ帝国滅亡から紀元一千年頃までの)ほぼ一千年にわたって、霊的・思想的・科学的に成長しなかったことにあると確信している。
暗黒時代″と呼ばれているその期間に、キリスト教会はまるでマフィアのように、当時の人間の精神、想像力、霊的ならびに心霊的生活、そして物質文化の発達を徹底的に牛耳った。
 心霊能力をもつ者は片っ端から火あぶりの刑に処せられたり拷問を受けたりした。かくして遺伝的要素の大きい心霊能力が事実上根絶やしにされてしまった。思想上でもキリスト教の正式の教義以外のものはすべて禁じられた。
 科学は魔術と同類に扱われて、何でも彼でも容赦なく否定された。西洋文明は完全にキリスト教会の鉄のごとき掌中に収められ、そして息の根を止められてしまった。
 その目的は何だったのか。それは、他でもない、その絶対的な締めつけの体制を脅かすことになりかねない教育、知識、権威、あるいは能力を持たせなくすることにあったのである。
 かくして西欧世界は一千年にもわたって進歩と科学的研究と心霊発達と霊的進化の機会を失ったのである。他のいかなる原因にもまして、このキリスト教という宗教が、悲劇と戦争と死者と苦しみと不安定と無知を生み出してきたのである。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp.90-91

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 12-j (福音書は他の宗教からコピーしたもので出来上がっている)

 実は福音書が書き記されたのはイエスの死後ずいぶん後のことである。当然のことながら当時はテープレコーダーはないし、巻き物以外には書物らしいものもなく、したがってイエスの言動について記録する手段はきわめて少なかった。
 そこで福音書の作者たちは、それが誰であったかはともかくとして、神の申し子はどんなことを言い、どんな行いをするかについて、他の宗教書からアイディアを借用せざるを得なかった。
 たとえば“山上の垂訓”はユダヤの聖歌や諺をつなぎ合わせたものである。“主の祈り”は古くからあるユダヤ教の祈りから引用している。一方そのユダヤ教の祈りは古代のカルデヤ人(セム族)のものが取り入れてある。
 要するに福音書はすべて他の宗教から少しずつコピーしたもので出来上がっている。処女懐胎をはじめ、イエスにまつわる奇跡的な話は、それよりはるかに古くさかのぼる仏陀にも起きたとされるものとそっくりである。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp.93-94

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 12-k (325年のニケーア会議で成立したキリスト教)

 キリスト教が成立したのは三二五年のニケーア会議においてである。
 その年、キリスト教という宗教は教義として何を取り入れ何を取り除くべきかを協議する目的で、コンスタンチヌス大帝の命令のもとに、二千四十八人の無知で迷信的で権力欲に燃えた聖職者が一堂に会した。そして三カ月をかけた協議の末に、かの“ニケーア信条”が出来上がった。その中で、それまではただの一人間だったイエスを神とすると宣言し、神であるために必要な神秘的な話、不思議な話を世界各地の神話・伝説から抜き出して、それをまことしやかに繋ぎ合わせ、今日“新約聖書”と呼ばれているものを編纂した。
 これに異議を唱えた聖職者は処刑されたり追放されたりした。コンスタンチヌスはその新しい教義を法律として布告し、以来、その法律に背いた者は片っ端から処刑された。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、p. 102

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 12-l (今日の新約聖書はどのようにして出来上がったか)

 イエスの話は記録ではなく口づてに伝えられた。そうした場合によくあるごとく、話は次第に大ゲサに誇張された。病気治療も心霊現象もみな神の子であるがゆえに起きた奇跡であった、ということになってしまった。
 そうこうしているうちにユダヤ教の聖地エルサレムが陥落した。するとユダヤ人の多くがイエスを救世主とする教えになびき、イエスが再臨してユダヤ王国を再建してくれるものと信じるようになった。
 そうなるとその教説をもっと立派に見せる必要がある。そこで彼らは世界中の異教からアイディアを借用することにした。たとえばどの宗教でも神の子は処女から生まれる。そこでイエスもそういうことにしなければならないと考えた。
 かくして神の子イエスの話がでっち上げられていった。前の話を書き改めたり置きかえたりすることが何回となく重ねられ、素朴な話が仰々しい話になり、尊大な話になり、イエス自身さえも何の話か分かるまいと思われるようなものになってしまった。
 そうした成り行きにローマ帝国の施政者が目をつけた。かねてより統率のための手段として新しい宗教を求めていた大帝コンスタンチヌスは、それを国教としてはどうかと考えた。そのためには、それらしいものに飾り立てる必要がある。
 そこで考え出したのがニケーア会議である。三カ月に及ぶ期間中に世界各地の神話・伝説・諺の中からそれにふさわしいものを抜き取って適当に繋ぎ合わせ、もっともらしく編纂した。
 こうしてユダヤ人がこしらえた原型にさらに上塗りをして飾り立てたのが今日の新約聖書である。その中でイエスは神の位に祭り上げられてしまった。教義が作成された。そしてそれを信じない者は死刑に処せられることになった。かくしてキリスト教が出来上がったのである。

   M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp. 105-106