学びの栞 (B)
13. 魂の成長・霊性の開発
13-a (魂の波動を高めるには)
人間は肉体の波動、精神の波動、魂の波動の三つを持っている。肉体の波動は健康に関係があり、精神の波動は知性、理性、人格を作る。憎しみや不平不満や心配は魂の波動を低下させるというから、現代のように人が損得のみに一喜一憂する時代では全体の波動が下るのは自然のなりゆきといえよう。
死後の世界つまり四次元世界は幽現界、幽界、霊界、神界にあらかた分れていることは既に述べてきた。人が死ぬと魂はその人の波動と同じ波動の所へ自動的に移動する。波動が低いと幽現界の下層や地獄(暗黒界)へ落ちる。この世での成功、栄誉や富は波動とは別のものであるから、たとえ天下を取ったと満足していても、波動によっては地獄へ行かなければならないのである。
地獄というと針の山や血の池があって、赤鬼、青鬼が亡者を苦しめている絵図をたいていの年配者は思い出すだろう。昔の子供はそんな地獄相を聞かされて、悪いことはするまいと心に染み込ませたものだ(今は地獄もまたメディアによってエンターティンメント化されているから、今の子供は怖いものなしに育って行っている)。
地獄の実相は勿論そんなものではない。中川氏は与えられた使命上、死後の世界を一通り見学させられたのだそうで、それによると、地獄は実際に何もない暗いだけの世界で、波動によって何層もの横割構造になっている。そこへ行った魂は自分が人を苦しめた罪を逆の立場で、つまり自分が苦しめた人の立場になって体験する夢を永遠に見つづけて苦しんでいるということだ。地獄の最下層は真暗闇でジトジトした強い湿気の中、何ともいいようのない悪臭が充満していて、亡者はただじ−っとうずくまっているだけである。そこまで落ちるともはや苦しみを感じることもなく、いつまでもいつまでも永遠にそうしている。そこより少し上の階層ではそれぞれの罪の意識によって苦しまされているが、それに較べるといっそ、何も感じないで闇の中にうずくまっている方がらくだという考え方をする人もあるかもしれない。
だが苦しむことによって魂は、そこから逃れたくて修行をするのである。少しでも上へ上るために浄化を目ざす。そうして幽界の下層へ上り、更に修行をして少しずつ上へと上って行く。更なる修行を目ざして三次元世界に生れ替り、そこでこの世の苦しい現実に耐えて前世の償いをする魂もある。いわゆる輪廻転生というのはそういうことなのである。
では魂の波動を高めるためにはどうすればいいのでしょうという質問に対して、中川氏はこう答える。
「難かしいことは全くありません。学問も知識も必要ありません。人は一人では生きられないから私は生かされているー−。そのことを認識し、ありがとうという感謝の気持を表現すればいいのです。感謝することで魂の波動は上ります。実に簡単なことです」
それは昔々からいい古されてきた訓えである。あまりに素朴、当り前のことなので、質問した人は拍子ヌケしてしまう。だがそれは真理なのである。真理とは本来素朴なものなのだ。
佐藤愛子『私の遺言』新潮社、2002、pp.252-253
私注:中川氏は1914年生まれ、もとは大阪の家電販売会社
の創設者。60歳の時に会社を後継者に譲り、「大自然
の法則と心の波動を上げる」ための活動に入る。佐藤愛
子氏の霊的な師。
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13-b (真の人間を知るということは神を知るということと一つである)
人間は肉体のみにあらず、肉体のうちに、生命となって活動している何かがある、と認識して、そうした方向に生きている人。それは天国への階段を一歩踏み出した人である。
人間は霊が主であり、肉体が従である、という思いに入った人。これは同じ階段を二歩三歩昇った人びとである。
人間は神によって創られた者であって、あくまで神の下僕である、と、ことごとに神の審判を恐れつつ、しかし行いを謹しんで神にすがっている人びと。この人びとは、真の人間観からいまだ遠いが、他人を傷つけぬ場合は、天国の階段を昇り得る。
人間は神によって創られた被造者であるが、神は愛であるから、愛の行いを積極的にしていれば、決して自己に不幸はこないのである、と確信している人。この人も天国の階段を昇っている。
神のことも、霊のことも、特別に考えぬが、ただ、ひたすら、素直な明るい気持ちで、愛他行をしている人。この人も天国に昇り得る。
肉体界以外のことは知らないが、素直な明るい気持ちで、愛他行ができ、しかも、神仏の存在を信じ、あわせて、この地上世界が必ず善くなることを信じて生活している人。この人は天国の住者である。
人間は霊であり、肉体はその一つの現れであって、人間そのものではない。人間とは神の生命の法則を、自由に操って、この現象の世界に、形の上の創造を成し遂げてゆくものである、と識って、それを実行している人。この人は覚者であって、自由自在心である。即ち、個の肉体を持ちながら、みずからが、霊そのものであることを自覚し、その霊とは神そのものの生命であることを識り、神我一体観を行動として表現してゆく人、例えば、仏陀、キリストの如き人びとである。
真の人間を知るということは、神を知るということと一つである。いかに神、神と神を追い廻しても、その人の行いが愛と真心に欠けていては、その人は真の人間をしらぬのであるから、救われるわけがない。
五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.13-14
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13-c[24-c] (この地上で人間はやがて自分が行く霊界の土台を築く)
精神界には三つの局面がありますが、魂はこのすべての局面を体験するのではなく、それぞれの波長が合った局面へと進んでいきます。その後、魂は引き続いて霊的な存在として、あらゆる局面、段階を一つ一つ上がっていきます。それは(人が唯一の人生と思っている)一つの人生によって決まるのではなく、その魂が経験した数多くの肉体をもった人生によって決定されます。なぜなら、一人一人の魂は数多くの肉体をもった人生を体験するからです。それぞれの人生において、魂はやがて自分が訪れ、しばらく住むことになる精神界の局面を選びます。このようにして、最終的には魂は霊的な生活のすべての段階、すべての状況を体験します。
はっきりわかったでしょうか。物質の世界に住んでいる間に、人間はやがて自分が行かなければならないアストラル界、精神界、天界の土台を築いているということがおわかりになりましたか。その結果、人間は地上にいる間に抱いた願望と、達成した霊的な成長に応じて、アストラル界、精神界、天界で、より限られた自由や幸せ、あるいはより大きな自由や幸せを体験するようになるのです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳) 講談社、1994年、p.177
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13-d[23-zc](絶えず輪廻転生している魂もあれば二度と戻ってこない魂もある)
輪廻転生についても、すでにお話しました。これは真実であると主張する人もいれば、嘘であると主張する人もいます。それぞれの観点から見れば、彼らは共に正しいのです。じつにさまざまな生命の形態が人間を待ち受けています。その数はあまりにも多く、人間の理解を越えています。このため、輪廻転生してたえず地上に戻ってくる魂もあれば、二度と戻ってこない魂もたくさんいるのです。
これまで述べてきたことからすると、これは矛盾しているように聞こえるかもしれません。しかし申しあげておかなければなりませんが、私たちが置かれている状態では、いかなる魂もある特定の進化の道や存在の形式を強制されることはけっしてないのです。もちろん、いずれは、すべての魂は霊的な生命の法則に従わなければなりません。そもそも、すべての魂は霊的な存在なのですから。
わかりやすくするために、簡単な例を使って説明してみましょう。エーテルで囲まれた場所に、何百万という原子が動き回っている様を想像してみてください。さらに、それぞれの原子は固有の性質に応じて吸引力に反応しているのを観察してください。それぞれの原子は、まるで磁力に引かれるように、それぞれの進化の道に従わなければならないのです。このような理由で、自我(人間一人一人にある神性という意味ですが)は、人間が神と呼ぶ創造的な知性から発射され、物質の世界に住むようになってからでも進化する魂に常に開かれている、無数の進化に向かう螺旋の“引っ張り”を感じることになるのです。
すべての魂は、いずれは宇宙の法則に従わなければならず、その法則に従ってそれぞれの運命を切り開いていかなければならないとしても、それぞれの魂は個として完全に独立した存在であり続けます。イエス・キリストは「あなたの頭の髪の毛一本一本といえども、すべて数えられているのです」と言われました。その深い意味についての洞察が、これによって得られるのではないでしょうか。
なんの役にもたたないならず者から、最も叡智に満ちた人物に至るまで、すべての魂はそれぞれの程度において神の知性に波長が合っているのであり、したがって、究極的には神のもとに戻る道を歩むことになるのです。
アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.236-237
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13-e[56-o](人間の究極的な目標は神の意識の状態に到達すること)
私たちが理解しなければならないのは、すべての人間の究極的な目標は、神の意識の状態に到達することであるということです。この意識に到達したときには、個性は縮小し、吸収されます。人間の個性は普遍的な存在と真に一体となってしまうために、自らをゆだねるなかで、神という力強い存在の一つの脈そのものになってしまいます。そのとき、自我は消滅します。これはまさに究極的な状態であり、私たちが目指しうる最高の状態です。
しかしながら、これは、個としての人間が神にすっかり吸収されてしまって、自分の意思と知性を駆使して、全体から自分を遊離させ、独立した知性として自らを具現できないということではありません。
ふつうの人は、この吸収という考えにしりごみするということは私たちも承知しています。これまで人間は自らの個性、人格の発達に努めてきたのですから、無理もありません。しかし、すべての魂はやがて、自分自身を手放し、一つの普通的な生命体と一体になる覚悟をしなければなりません。
なぜなら、そうすることによってのみ、人間はより偉大な存在になることができるからです。これが、「父と私は一体である」とキリストがいった意味なのです。
アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.240-241
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13-f[27-d] (世間の知者や学者はしばしば霊的理性では劣等である)
霊的に心の窓が開けた生涯とは簡単にいうと霊界の秩序を守り、これに素直に従った生涯を送るということである。そして霊界の秩序は人間にも素直な心さえあれば、その存在を感ずることも、その姿をもっと具体的に知性によって知ることも全く不可能なものではない。なぜなら、人間の住む自然界との間には、相応の理といって、多くの事物についての相応があるからだ。人間界自然界にあるものは、それに相応する対応物が全て霊界にもあり、早い話霊そのものが人間と実によく似た存在、つまり人間の相応物であることはすでに人々には、私のいままで記したことからよく解るはずだからだ。そこで心を素直にして自然界を見わたしてみる。鳥や獣、虫などの動物界、樹木のような植物界にせよ全て生命あるものは、不思議な自然界の秩序によって生活している。この不思議な秩序に素直に感嘆し、この秩序の事に素直な心をもって生活しようとする人間は、すでにその心の中に霊界の秩序の事をある程度感じとっている人たちだ。霊界の秩序は自然界の秩序と違ったものがあるのは事実としても、秩序という不思議な、人間の思慮を越えた統一のある世界だという点では何ら変わりはない。このような秩序をたとえおぼろげであっても自分の心の中に感じ、この秩序にしたがった生涯を送る人々は霊的な心の窓の開かれた人々だといえる。彼には、死後霊界に入ればただちに霊界の秩序の真の意味を理解し、これにしたがった霊としての生活を行なうことを意図する---- このような人々は上世界へ入る人々なのだ。
この霊としての窓がそれほど開けてない人は、その程度によって中世界、下世界に住むことになり、全くそれらの窓が開けていない人々は霊界の光に耐えず地獄界に行くことになる。
宗教などの説く教義は、その教義が真正なものであれば、これにしたがうことは多くの場合、霊的な心の窓を開くのに役立つ。しかし、単にそれだけで心の窓が開かれるものではなく、もっとも根本的なことは、何度も私がいった「直ぐなる心」なのだ。
また表面的外面的な知識なども霊としての心の窓を開くものとも限らないし、多くの場合は逆に窓を閉じることにすらなる。私は霊界で世間にいたとき人々に学者、智者としてあがめられた多くの人々が、霊的な理性においては、これらの人々より知識などのなかった人々よりはるかに劣る霊として生きているのに何度もぶつかってきた。彼らは知識や学問を霊的な心の窓を開くための手段として利用せず、逆に、これが彼らの「直ぐなる心」を失わせたことの結果なのだ。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.171-172
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13-g (真に幸せになるためには霊性の本質についての理解が必要)
自分の思い込みやくせから抜け出すのは、本当に難しい仕事です。自分の内側を探り、自分自身を真に理解し、執着しない心や偏りのない物の見方を育てることは困難な仕事であり、忍耐と多大の修練を必要とします。この旅は厳しく長く、でも、それだけの価値があります。真に幸せになるためには、生と死、愛と許し、霊性の本質について理解する必要があります。内観、瞑想、愛をこめた奉仕、親切、チャリティーなどは、旅の途中の踏み段です。自分自身を許す、他の人々を許す、非暴力や慈善の実行、そして怒りや怖れや欲、自己中心、誤ったプライドなどを取り除く、といったことは、さらにその上の段階なのです。
ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
PHP研究所、2001年、pp.250-251
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13-h[65-o] (あなたは不死の存在で学ぶためにこの地上へきた)
もつと霊的になりなさい。より多くの時間を、祈りと、与えること、他の人を助けること、愛することに使いなさい。ボランティアをし、気前よく与え、愛を表現しなさい。プライド、エゴ、利己主義、怒り、罪悪感、虚栄心、野望を捨てなさい。物をため込む、心配する、過去や未来ばかり考える、他の人を傷つける、暴力を振うなどの時間を、もっと減らしなさい。
自分の直観的な知恵に照らし合わせずに、誰かの考えを受け入れてはいけません。それは愛、親切、平和、そして結びつきを強めるものですか? それとも、分離、分派、憎しみ、自己中心主義、暴力を助長しますか?
あなたは不死の存在です。そしてこの地球上に学ぶために、賢くなるために、神のようになるために、やって来たのです。ここで学んだことを、あなたは死んだ時に一緒に持ってゆきます。それ以外のものは、何一つ持ってゆくことはできません。とても簡単なことなのです。天の王国はあなたの内にあります。グルを求めるのはやめて、あなた自身を見つけて下さい。やがて、あなたは自分の本当の故郷を見つけるでしょう。
ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
PHP研究所、2001年、pp.259-260
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13-i[18-g] (この世に存在する唯一の目的は成長することにある)
教訓を学んだとき、苦痛は消え失せる。
地球の反対側ではじまったわたしの人生は事件の連続だったが、けっして楽なものではなかった。それは愚痴ではなく事実である。困苦なくして歓喜はない。それをわたしは学んできた。苦悩なくしてよろこびはないのだ。戦争の悲惨がなければ平和のありがたさがわかるだろうか? エイズがなければ人類社会が危機におちいっていることに気づくだろうか? 死がなければ生に感謝するだろうか? 憎しみがなければ、究極の目標が愛であることに気づくだろうか?
わたしが気に入っていることわざに「峡谷を暴風からまもるために峡谷をおおってしまえば、自然が刻んだ美をみることはできなくなる」というものがある。
三年前のあの一〇月の夜は、たしかに美がみえなかったときのひとつだった。しかし、それまでの人生でも似たような岐路に立たされ、ほとんど闇と化した地平線に目をこらしてなにかを探しつづけたことは何度もあった。そんなとき人にできるのは、拒絶しつづけて責める相手を探すか、傷を癒して愛しつづけることを選ぶかのいずれかである。存在の唯一の目的は成長することにあると信じているわたしは、後者を選ぶことをためらわなかった。
エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
(上野圭一訳) 角川書店、1998、p.16
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13-j[23-zq] (今あなたはただ本当の自分自身になりたいと願っている)
さっきも言ったとおり、あなたはずいぶん進歩している。だから、これまで多くの生を過ごしたのに、「たった」これだけしか進んでいないのかとがっかりすることはない。あなたがたのなかには、非常に進歩し、非常に確かな自己意識をもっているひとたちがいる。あなたは、自分が何者であるかを知っているし、どんなふうになりたいかも知っている。さらに、あなたは目的地へ到達する道筋さえ知っている。これは偉大な兆候だ。確かなしるしだ。
何のしるしですか?
もうあなたには、数少ない生しか残されていないというしるしだ。
それは良いことなんですか?
良いことだ。
いまのあなたは、それが良いことだと言うだろう。だから良いことなのだ。
そう遠くない昔、あなたは、この世にとどまることだけを望んでいた。だが、いまのあなたが望むのは去ること、それだけだ。それは非常に良い兆候だ。
そう遠くない昔、あなたは生命を奪った― 虫を、草花を、木々を、動物を、人びとを殺してきた。
だが、いまのあなたは自分が何をしているか、なぜしているかを知らずには、何も殺すことはできない。それは非常に良い兆候だ。
そう遠くない昔、あなたは何の目的もないような生き方をしていた。だが、いまのあなたは、わたしが与えたもの以外には目的がないことを知っている。それは非常に良い兆候だ。
そう遠くない昔、あなたは宇宙に向かって、真実を教えてくれと願った。いま、あなたは宇宙に自分の真実を語る。それは非常に良い兆候だ。
そう遠くない昔、あなたは豊かになりたい、有名になりたいと願った。いま、あなたはただほんとうの自分自身になりたいと願っている。
そう遠くない昔、あなたはわたしを恐れた。いま、あなたはわたしを愛している。わたしをあなたと平等だと言うほどに愛している。
これらはほんとうに、とても良い兆候だ。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.211-213
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13-k[23-zr] (あなたは涙も楽しさも苦痛もすべてを経験させてもらえる)
それじゃ、おたずねしたいんですが―せめて、もう少し簡単にはならないんですか?
おやおや、わが友よ―
いまは、三つ前の人生よりもずっと簡単に、言葉につくせないほど容易になっているではないか。 そうなんだよ―
ずっと容易になっている。たくさん思い出せば思い出すほど、たくさんのことを経験することができて、たくさんのことを知ることができる。そして、たくさんのことを知れば知るほど、たくさんのことを思い出す。循環しているんだ。だから、ますます容易になり、ますます良くなり、ますます楽しくなっていく。 だが、覚えておきなさい。これまでだって、退屈なつまらない仕事はひとつもなかった。あなたはすべてを愛していた! 最後の瞬間まで! 人生はじつに甘美なものだ! じつにすてきな体験だ、そうではないか?
そう、たぶんそうなんでしょうね。
たぶん? これ以上、どんなすてきな体験があるんだね? あなたはすべてを経験させてもらえる。涙も、楽しさも、苦痛も、喜びも、高揚も、激しい憂うつも、勝利も敗北も、引き分けも経験できる。これ以上、何がある?
そうですね、もう少し苦痛が少なければ。
苦痛を少なくし、智恵も減らしたのでは、目的が損なわれる。そんなことをしたら、あなたは限りない喜びを体験できなくなる。それこそが「わたし」なのに。 もうちょっと辛抱しなさい。あなたは智恵を得ている。もう、苦痛なしに喜びを増やしていくことができる。それも、非常に良い兆候だ。 あなたは苦痛なしに愛すること、苦痛なしに手放すこと、苦痛なしに創造すること、苦痛なしに泣くことさえ学んでいる(思い出している)はずだ。そう、あなたは苦痛なしに苦しむことさえできる。 この言葉がどういう意味かわかるかな。
わかると思います。わたしは自分の人生のドラマを以前より楽しんでいますから。後ろに下がって、人生をあるがままに眺めることができますから。笑うことだってできますし。
そのとおり。それは成長じゃないか?
ええ、成長でしょうね。
それでは、成長しつづけなさい、わが息子よ。ほんとうの自分になろうとしつづけなさい。そして、つぎの段階では、どんな気高い在り方ができるかを考えなさい。それに向かって努力を続けなさい。前進しなさい! それがわたしたちの仕事、神の仕事だ。だから、続けなさい!
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.213-215
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13-l (最終的にはあなたは必ず愛と調和を選択するだろう)
最終的に、あなたは愛と調和を選択するだろう。やがては、そのもっとも高い振動数をもつエネルギーの流れを引き寄せることになるだろう。そのエネルギーの流れは、そもそも、あなたが直面するあらゆる状況が提供するものである。最終的には、愛はすべてを癒すこと、および、存在するものは愛のみであるということも理解するようになるだろう。
そこにいたるまでには、いくつもの人生が必要となるかもしれない。しかしあなたは、この旅を必ず歩み終えることになる。必ずである。これは、「可能か不可能か」の問題などではない。
「いつになるか」だけの問題なのだ。あなたが創造するあらゆる状況や遭遇するあらゆる体験が、この目的の達成に役立つことになる。
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、p.128
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13-m[51-q] (あなたは自分と同じような振動数をもつ魂たちを引き寄せる)
あなたは、他人に思いやりをしめせないかぎり、自分自身にも思いやりをしめせない。と同時に、自分自身に思いやりをしめせないかぎり、他人にも思いやりをしめせない。自分自身に、そしてほかの人たちに思いやりをしめすことだ。そうすれば、あなたの周囲の世界が思いやりに満ちてくる。そのときあなたは自分の周囲に、自分と同じような振動数をもつ魂たちを引き寄せている。そうやって彼らといっしょに、思いやりに満ちた世界の創造に貢献している。
人々の美徳や長所や気高さを探し、それらに目をやるようになるにつれ、あなたは自分自身のなかでもそれらを探し、それらに目をやるようになる。たとえどんな状況においても、もし、そこに存在するもっとも高い振動数の流れを自分自身に引き寄せたならば、それによってあなたは、それと同じ振動数の意識を放射し、状況を好転させることになる。
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、pp.137-138
13-n[18-h] (痛みに耐えることは魂の進化に貢献することである)
パーソナリティーにひずみを生じさせる恐れや怒り、嫉妬などを理解するには、それらとカルマとの関係を考慮することが不可欠である。もしあなたが、人生を通じて手にする体験の数々は、自身の魂のエネルギー・バランスをとるために必要なことなのだと理解していたなら、そのときあなたは、それらに過剰に反応しなくてもいい自由、すなわち、自分の魂のために新しいネガティブなカルマを創造しなくてもいい自由を手にすることになる。
痛みはそれだけなら、たんなる痛みにすぎない。しかしそれは、「痛みは価値ある目的に奉仕する」ということを知っている人間にとっては「試練」である。試練には意味がある。試練は耐えることができる。なぜならば、それは耐えるに値するものであるからだ。痛みに耐えることは、魂の進化に貢献することである。それ以上に価値のあることがあるだろうか?
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、p.212
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13-o[68-c] (自分の魂の進化は周囲の世界に最大限の貢献をする)
あなたは、自分の魂の進化に意識的に貢献することで、周囲の世界に最大限の貢献ができる。このことを理解しているとき、あなたは、人間としての学習体験をあなたと共有している人々の幸せと霊的成長に、意識的に貢献する人間になっている。
もしあなたが自分に意地悪だったとしたら、そのときには他人にも意地悪なはずである。自分を大切にしていない人は、ほかの人たちをも大切にしていない。自分を思いやっているときにのみ、あなたはほかの人たちを思いやることができる。
あなたは自分自身を愛せないでいるとき、ほかの人たちを愛せないばかりか、ほかの人たちが愛されるのを見ることにさえ耐えられない。自分自身にやさしくすることができないでいるとき、あなたは、誰かが誰かに対してやさしくしているのを見ても、腹立たしくなってくる。自分自身を愛せないでいる人間にとって、ほかの人たちを愛することは、まれにしか発生しない、ほんの一時的な快感のみをともなう、虚しい体験である。
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、pp.212-213
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13-p (あなたが行う選択のすべてが魂の進化に完璧に貢献する)
あなたが人生のなかで遭遇したり、行ったりすることは、どれもがあなたの魂の進化にとって妥当かつ完壁なものではあるが、どのような体験を手にするかは、あなたが行う選択によって決まってくる。恨みを引きずりつづけることも選択できれば、怒りに身を任せること、悲しみに耽りつづけること、あるいは、そういった振動数の低いエネルギーを放出してしまうことも選択できる。
あなたが行う選択は、たとえそれが、ネガティブな体験に通じるものであれ、ハートのなかに住居を定めるためのものであれ、そのすべてが、あなたの魂の進化に完璧に貢献する。すべての道が、故郷へと通じているのである。
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、pp.271-272
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13-q (人は一人一人レベルの異なる霊的覚醒をもって生まれてくる)
われわれ人間は一人一人レベルの異なる霊的覚醒をもって生まれてくる。つまり人間の数だけ覚醒の度合の違いが存在するということである。しかもその一人一人が自分なりのペースで進歩しつつある。それゆえ自分の道は自分で求め、自分の能力に応じたところまで進まねばならない。心霊治療家の役目はその道の在り処を教えてあげたり、時にはその道中の道標となってあげることである。
M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、p.36
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13-r (人は地上生活を終了した段階で査定の過程を通過する)
私は人間は霊的進化の一過程としてこの地上に来ていると信じている。つまり地上生活は教育課程の一つであり、しかも、どうやらかなり基礎的なものであるらしい。われわれはみな霊的に進化しつつあるのであり、各自が発達の程度と速度とが異なるので、人間の頭数だけ発達段階と速度があることになる。
また私はこの地上生活を終了した段階で査定の過程を通過するものと信じている。地上での言動・業績について自分で反省し、そして多分、守護霊・指導霊のアドバイスを受けながら、果たして学ぶべきものをきちんと学んだかどうか、もう一度地上へ戻る必要があるかどうかについて、自ら決断を下すことになる。
M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
潮文社、1988、p.72
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13-s[48-c] (人間は生まれながらにして霊的進化の程度に差がある)
いかなる社会においても、精神的・物質的に持ちものに多い少ないの差があるのはやむを得ないことである。完全な平等を夢見るのは間違いである。その理想は人間が生まれながらにして霊的進化の程度と能力と体力に差があるという事実を無視している。 機会の均等は可能であろう。が、その機会をどう生かすかは本人の健康と体力と知力と想像力、それに、それまでに開発した霊的意識の程度にかかっている。 ある人は健全な身体と明晰な頭脳を具えているが、霊性の点では至って貧弱で、血のしたたるようなステーキを食べ、色事が大好きで、他の人間や動物の問題には無関心で、ましてや生きる目的だの来世だのはどうでもよいことである。 一方、生まれつき身体が不自由で家も貧しく、視力または聴力といった大切な機能が欠けているが、霊性は成熟しており、生命の尊厳に目覚め、幅広く徳積みに励む人もいる。
M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳) 潮文社、1988、pp. 125-126
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13-t[65-zb] (人生には浮き沈みがあり、すべてに学ぶべきレッスンがある)
人生には浮き沈みがあり、大きなものに一瞬のうちに流されることもある。そんな中でも足を地につけ、希望をもつことができるのだ。ありとあらゆるところ、すべてに学ぶべきレッスンがあるということにつきる。災難に闇雲にひきずりこまれるのではない。良い経験にせよ、悪い経験にせよ、多くの経験をし、その意味を理解することによって偉大な魂になっていく。楽しい、うっとりするようなときも人生には用意されており、そこにもやはり学ぶべきレッスンがあるのだ。
ゴードン・スミス『なぜ、悪いことがおこってしまうのか』
(ノーマン・テイラー・邦子訳)ナチュラルスピリット、2011、p.232
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13-u (様々な苦難は魂が成長するために自ら求めたもの)
「人はたましいを向上させるために生まれてくる」ことはすでに説明しました。では、たましいが永遠であるならば、死後はどうなるのでしょうか。死後、たましいは霊的世界、私たちが「あの世」と呼ぶ世界に行きます。
詳しくは省きますが、そこでたましいは自らの類魂と溶け合います。そこから「この世」で学び足りなかった部分をふり返り、多くの場合、もう一度学び直そうと決意を固めて、「再生」します。こうして、たましいは「この世」と「あの世」を行き来しながら浄化向上をしていき、最終的には大いなる光のエネルギー、大霊(グレート・スピリット)すなわち神と融合することを志していくのです。
なぜ、二つの次元を行き来する必要があるのでしょうか。霊的世界はすばらしい輝きとやすらぎの世界であるのに対して、この世はたましいのトレーニングジムといっていいでしょう。あえて自分に負荷をかけ、つらいこと、苦しいことを経験し、それを乗り越えて成長するために、この世に生まれてくるのです。
この世で経験する様々な苦難も、つらいことも、たましいが成長するために自ら求めたものなのです。トレーニングジムでもどこを鍛えたいのかによって、どのマシーンを使うかは違うでしょう。それと一緒で、いつの時代に、どの国で、どのような親から生まれるか、そして男女いずれに生まれるかも、たましいが学び直すに当たって、最も修行にふさわしい形を選んできているのです。
男に生まれるか、女に生まれるかは、自分のたましいが「今回は、男という配役をこなそう」とか「女という課題に挑戦しょう」とか、そのように選んで、この世に来ているということなのです。
たましいの傾向をみると、比較的に強く猛々しいたましいが、柔軟性や弱さを学ぶために女性に生まれてきます。逆に弱くて繊細なたましいが、強さを学ぶために男性に生まれてくるのです。
ですから、現世でもよく観察してみれば、「女らしさ」という言葉とはうらはらに、女性ほど強いものはないのがわかるはずです。それは女性のたましいが元来強いものだからなのです。経営者でも男性のほうが追い詰められると簡単に自殺してしまう。女性経営者のほうがしぶといように思えます。男性が幅をきかす政界なども、実は闘争の世界ではなく、妥協と譲歩の世界です。譲歩をしないタフネゴシエイターは、政界でも女性のほうが多いものです。少し前ならばイギリスの元首相マーガレット・サッチャー氏、最近ならばアメリカのブッシュ政権下で国務長官をつとめる、コンドリーザ・ライス氏などを思い浮かべると、おわかりいただけるでしょう。
江原啓之『日本のオーラ ― 天国からの視点 ―』新潮社、2007、pp.36-37
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13-v(霊は進化することでより大きな幸福を得る)
霊は、創られた当初は、単純で無知であるが、自由意志を備えているので、すべてを獲得しつつ進化することが可能である。
進化することによって、霊は、新たな知識、新たな能力、新たな知覚を獲得するが、さらに、未熟なときには知らなかった新たな喜びも獲得する。進化してくると、それまで、見ることも、聞くことも、感じることも、理解することもできなかったことを、見、聞き、感じ、理解することができるようになる。幸福は、獲得した能力に対応するのである。
したがって、二人の霊人のうち、一人のほうがより幸せであるとすれば、それは、その霊人のほうが、知的にも、精神的にも、より進化しているからなのである。一方が光り輝く世界にいるのに対し、もう一方は暗闇の中にいる。一方が光を見るのに対し、もう一方は何も感じることができない。目が見えないのと同じである。
霊の幸福とは、その霊が獲得した能力に、本質的に属するものなのである。どこにいようとも、すなわち、肉体に宿って地上に生きていようとも、肉体に宿らず霊界で生活していようとも、その幸福を味わうことが可能なのである。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.300-301
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13-w(霊の進化とはその霊自身の努力の成果である)
いま、コンサート会場に二人の男がいるとする。一人は、訓練された繊細な耳を持っており、もう一人は、音楽の素養もなく、まともに音楽を聞いたこともない。素晴らしい演奏が始まると、前者は至福の喜びを感じるが、後者は何も感じない。前者が理解し、感じることを、後者は、まったく、理解することも、感じることもできないのである。
霊と喜びの関係は、以上のようなものである。その霊が獲得した能力に応じた喜びしか得られないのである。
霊界は、あらゆるところ、光輝、喜び、調和に満ちているが、物質の影響を脱し得ない未発達霊は、そうしたものをかいま見ることさえできないのであり、それなりに進化した霊だけが、そうした素晴らしさを感じ取ることができるのである。
霊の進化とは、その霊自身の努力の成果である。
とはいえ、彼らには自由意志があるので、積極的に向上を図るのも、怠けるのも、彼らの自由である。ある者は、どんどん進化するが、ある者は、なかなか進化せず、したがって、なかなか幸福になれない。一方が、すばやく進化するのに対して、もう一方は、何世紀も何世紀も停滞の中にとどまることがあり得る。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.301-302
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13-x (至高の幸福は至純の霊にしか味わうことができない)
後れをとっている霊の場合、その全責任は自分にあると言わねばならない。同様に、高度に進化を遂げた霊は、その恩恵をあますところなくみずから受けることが可能となる。彼が得た幸福は、自分が成し遂げたことに対するほうび以外の何ものでもない。
至高の幸福は、完成の城に達した霊にしか、つまり、至純の霊にしか、味わうことができない。知的にも精神的にも進化した果てに、ようやく至福を得ることができるのである。しかし、知的な進化と精神的な進化を同時に果たすことは、たいへん難しい。そこで、あるときは知性を発達させ、またあるときは精神性を発達させ、そうして、最終的には、両者を同じレヴエルにまで上げていくのである。
知性が非常に発達し、知識も豊富なのに、思いやりを欠いた人間を、しばしば見、また、その反対のケースも、しばしば見るのは、以上のような理由からである。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.301-302
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13-y (人生には失敗や間違いは一つもない)
たましいの成長の過程においては、自分だけの狭い世界から抜け出すときが必ずやってきます。ときには何らかの痛みが必要なのでしょう。悩みや問題は、成長のステップです。
前に進むためには、思い込みや偏った考え方、エゴやプライドといったよけいな荷物を捨て去る必要があります。自己卑下や被害者意識など、自分を傷つける思いも捨てなければなりません。
心にこびりついたものに気づく作業はなかなか大変な作業かもしれませんが、ときが来れば誰にも気づきが起こり、きっと新しい自分を発見できます。早道のコツは自分の外に原因を探さないで、自分の中を探すことです。すべては自分です。
人生で起こる問題は、すべて自分自身の生き方を問うきっかけになります。能動的に、しかも、もっと楽に生きられるようになるチャンスなのです。
失敗や間違いなんて、人生に一つもありません。大事なことを学ぶためにその体験が必要だから、自分が引き寄せているのです。『引き寄せの法則』で大切なことは、すべては自分が引き寄せていると、心から思えるようになることです。運が悪いのではなく、運がいいのです。何が起きても大丈夫です。起こっていることは貴重なレッスンを含んでいるからです。自分が学ぶために自分のたましいが引き寄せているのです。
山川紘矢『死ぬのが怖いあなたに』イースト・プレス、2011、pp.102-103
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