学びの栞 (B)
14. 精霊・精霊界
14-a[2-q] (人間が死んでまず最初に行く場所が精霊界である)
この世の人間が死んで、まず第一にその霊が行く場所が精霊界である。人間は死後ただちに霊となるわけではなく、一たん精霊となって精霊界に入ったのち、ここを出て霊界へ入り、そこで永遠の生を送る霊となる。精霊が人間と霊の中間的な存在であるように精霊界も、人間の世、この世の物質界、自然界と霊界との中間にある世界なのだ。
精霊界の広大さがどれほどのものであるかは私にも、あまりに広すぎて実はわからないくらいだが、日々何万、何百万という人間が肉体の生を終えて精霊界に入ってくることからだけでも、その広さは想像を絶する。
精霊界はその広大な周囲を巨大な岩山、氷の山、どこまでも連なる峯々からなる大きな山脈に囲まれた中にある。その広さにおいては、この世に比べることのできるものとてないが、形と様相だけからいえば、山間にある大きな窪地だといってもよい。
精霊界からは、その周囲を取りまく巨大な山脈の間のここかしこに霊界への通路があるのだが、この通路は精霊界に住む精霊たちの眼にはふつうは見えない。彼らが精霊界において霊界へと移転する準備が終わったときだけ眼に見えるようになるのだ。だから、精霊界に住む精霊たちは霊界が存在することすら知らず、彼らは、ちょうど、この世の人々がこの世だけが世界だと思っているのと同じように、精霊界だけを全ての世界だと思って生活している。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.42-43
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14-b[2-r] (死んだと思ったのにまだ生きていることに驚く精霊)
精霊界があまりに人間界と似ているため、自分は死んだと思ったのに、まだもとと同じように生きていることに驚く精霊も非常に多い。そして、この中には精霊界と人間界の類似に驚くものと、死んだと思った自分が生きている不思議さに驚くものの、二とおりがある。
「われ死せるものと思いしにかくの如く生きてあり。こは如何なる不思議ぞ。わが死せると思いしは幻想なりしか? はたまた、いま生きてあること幻想なりしか?」
このような精霊はきまって、こんな自問自答に自分の頭を悩ますのだ。このような精霊には霊界から来ている指導の霊(つまり精霊にとっては霊界の経験豊富な先輩である)が教えることがある。
「汝、精霊なるを忘れまいぞ。汝、死せるというは肉体の人間として死せるなり。しかし肉体の人間として死して汝は精霊として生まれたるものなり。汝が死せるは事実なり、だが汝いま生きてあるもまた同じく真実なり、益なき妄想に迷うことなかれ、汝は精霊として生きてあり、こは万に一の偽りもなき真実なり」
そして霊はおおよそつぎのように精霊に教えるのだ。
人間はもともと霊と肉体の二つからできているものであり、肉体のみが人間と思うのは浅はかな間違った考えであること。そして肉体が死ぬと霊は精霊となって精霊界へ導かれ、そこで永遠の生の準備をすること。準備が終われば霊となって、霊界へ行き、そこで永遠の霊の生に入ること、したがって、いまはそのための準備期であること……等々といったことを説いて聞かす。
だが、これに対しては、やはり驚きを示す精霊が多い。
「われ、人間の世にありたるとき、その如きこと全く聞かず、また、われにその如きこと教え聞かすもの一人もめぐり会いたることなし。われ、初めて聞けることばかりなり。また、われ、その如きこと初めて聞きて眼の前、闇に閉されし思いと眼の前開ける思いと交々(こもごも)混じり合い、わが心騒ぐばかりなり。われ、世にありしとき愚かなりしや」つまり、人間は肉体が死ねば、それが全ての終わりだと思っていた。また霊界とか霊などということは聞いたこともなかった、だが現実にいま、こうして死んだと思った自分が生きているのを知れば、どうしても自分のそれまでの考えが浅はかだったのは認めざるをえない。だが、それにしても人間であったとき想像さえしなかったことばかりであるので心と頭は混乱するばかりである……というのがこの精霊の率直な感想なのだ。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.45-46
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14-c[46-f] (精霊界には山や川や森や家などこの世の全てのものがある)
精霊界は、人間界とよく似ているところが多い。精霊たちは全て一つの人体(正確にいうとこの世の人間とは少し違う点があるが)をもっているし、顔つきも精霊となってしばらくの間は、この世の人間だったときとほとんど変らない。また精霊界には、この世にある全てのもの、例えば山や川、森や家などなんでもあるのだ。それに精霊たちは、人間の持つ全ての感覚も、そのままに備えている。ただ、感覚のうえで人間と違っているところがあるとすれば、人間にはありえない霊としての感覚をもっていることだ。そして、この霊的性格が次第に磨かれ、その性格が霊的な意味でだんだんに物質界的なものがなくなってくると彼らには霊界へ行く資格ができてくるのだ。精霊界は、このための試練や修業の場だといってよいだろう。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、p.48
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14-d (死の知らせは相手方に精霊界で伝達される)
精霊界には、一見しただけでそれとわかる他の一般の精霊とは様子の違った精霊がしばしば現われる。このような精霊は全て、下を向いて黙って頼りなげに精霊界の中を徘徊しており、自分がどこにいるのかも気付かず、また他の精霊のことも、精霊界のものごとにも気が付かない様子でいる。ちょうど人が放心状態でふらふら歩き回っている時の様子と同じだと思ってよい。
このような精霊は、他の精霊が声をかけるとすぐにふっと消えてしまう。人間界にときどき現われる幽霊のようなものだが、違う点は人間界の幽霊のように特定の人以外には見えないといったようなことはなく、精霊界のどの精霊の眼にも見えることである。
このような精霊は実は本当の精霊ではなくて、しいて名付けるとすれば仮の精霊ともいえよう。
精霊界に同時にこのような精霊が二人以上現われ、その者の問に顔つきなどの似ているところがあったとすれば、これは間違いなく親子、兄弟といった間柄の者だ。そして、その一方は現在死にかかっているとか死んだ直後の者であり、一方は、この者から世間でいう死の知らせを受取った者なのである。
死にかかっている者は、精霊と人間の境目を行ったり来たりしつつ次第に死に至る。この場合に精霊になった瞬間に彼は精霊界にふっと顔を出す。そして、このとき彼は死の知らせを受ける相手方の人間の霊にも霊の感応によって一瞬の死を経験させて精霊界へ呼び、そこで死の知らせといった通知″を渡すのだ。死の知らせは、人々によく知られたものであるが、それはその知らせを受取るほうも一瞬の死を経験することによってできるのだとは私はすでに、この手記の最初のほうで述べた。だが、もっと詳しくいえば、このように両者がともに精霊界に一瞬間はいることによって精霊界の中で、その通知はなされているのである。
このような二人の精霊のうち一方は、そのあと幾ばくもなく、もう一度こんどは本当の精霊となって精霊界にやってくる。だが、一方は、精霊界から姿を消したまま再びやってくることはない。つまり後者は、人間に帰っているからだ。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.187-189
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14-e (精霊と人間との直接の対話について =1=)
精霊と人間との直接の対話が人間にとって非常に危険な理由は、精霊は、まだ精霊界での選別を経た霊でないため、中には凶霊も少なくないこと。また、精霊には、まだこの世にあった人間のときの記憶がかなり残っているため、これが対話の相手の人間に害を与えることがしばしばあることの二つによるものである。
私は、このことを私自身の経験と私の見た幾つかの例によって示すことにしよう。
私はその時、私の霊を肉体から離脱させたが、その離脱の程度は少なく、前に述べた(二六頁)ように私の霊はまだ離脱した肉体を上空から見下せる位置にいた。私の肉体は死の状態でベッドに横たわっているのを私は見ていた。そのとき私の霊は急に気を失う時のような感じにおそわれた。そしてつぎの瞬間気がついて私の肉体を見ると、そのそばに一個の精霊が座り、私の肉体の顔をじっと凝視していた。彼はこうすることで私の肉体に宿る私の霊と想念の交通を行なおうとしていたのだ。そして想念の交通により、私の霊の内部に自分を流れ入れることに成功すれば、彼は私の霊を追い出し、私の肉体をわがものにしようとしたに違いない。なぜなら、私の霊が見た彼の顔つきはその顔面の半分が黒々としており、また片側のホホはそぎ落とされた醜い容貌をした凶霊だったからだ。そして凶霊はつねにこのような意図を持っているものなのである。だが、しかし、この時私の霊は肉体におらず彼も想念の交通を行ない得るわけもなかったので、彼はいずこともなく姿を消した。
もし、あの時私が霊の肉体分離の状態におらず、また彼と想念の交通を行なったとしたら-----と思えば私は背筋の凍る思いがいまでもするのである。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.196-197
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14-f (精霊と人間との直接の対話について =2=)
では精霊と人間との直接の対話や交流はどのように行なわれるのか。私はある人の話を紹介しよう。彼はいう。
「私は霊のこと、霊と人間の関係などについて深い思いにふけっていた。どのくらいの時間そうしていたか自分でもはっきりしないのだが、突然、私は奇妙な感じに捕われた。それは、私が考えていることが、まるで物体のような形をとって私の肉体の中にあるのが、私の眼にはっきりと見え始めたのだ。こんな経験は、私自身それまでしたこともなかったし、また他人に聞いたこともないことだった。私は自分が気が狂ってしまったのではないかという恐怖におそわれた。私は恐ろしくなり瞑想から普通の状態に帰ろうとしたのだが、おかしなことに、それがどうしてもできないのだ。するとどうだろう。つぎの瞬間にはもっと奇妙なことが始まったのである。体の中から私に話しかける声が聞こえてくるのである。私の恐怖は頂点に達した……。そして気が付いたとき私はベッドに静かに横たえさせられていたのだ。私は自分が気を失なう前に私の中で起こった不可思議な出来事をすぐ思い出したが、それは思い出すだけで私には目がくらみそうになる経験であった」
この人は肉体の人間でありながら精霊と対話を始めるところだったのだ。精霊と人間との直接対話の始まる前兆は、このように自分の肉体の中に自分の考えていることが見えるような気がすることである。これは精霊の想念がその人の霊的想念(人間の心の奥底の考え)の中に流れ込み、さらに自然的想念(人間としての普通の考え)の中へ次第に浸透し始めたことを示しているのである。
精霊の想念が人間の霊的想念へ流れ込み、さらに自然的想念へと入り込んで行くのは、前に話した霊と人間の直接対話の場合と変わらない。ただ、このようにその人の所へやって来るのが霊でなく精霊であるのは、現代の人々(それも特別な例外的な人々だが)の霊的な開眼の程度が太古の黄金時代の人ほどでなく精霊界までしか開けていないことによるのも、前に述べたことから解るであろう。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.197-198
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14-g (精霊と人間との直接の対話について =3=)
精霊と人間との直接対話は、前に述べた霊との直接対話と同じしかたで行なわれる場合と全く違ったしかたでなされる場合とがある。霊との対話と共通している点は、精霊が人間の霊的想念から自然的想念に入ることで人間のことと人間の言葉を知り、人間の言葉で対話をするという点である。また霊との場合と著しく違うのは、精霊との対話には場合によっては人を死に至らしめるほどの危険があること、また、精霊が人間を支配する危険などの多くの点である。
以下順々にこれらのことを記していこう。
(1)凶霊の場合の危険 精霊は自分以外に他に世界があるということを知らない。自分が世界の全てだと思っているのである。そこで人間の肉体に想念として流れ込んだにしても彼には、そのことは少しも解らない。もし彼に人間が仮に眼に見えたとしても彼は、その人間も自分だと思うはずなのだ。
だが、精霊と人間が対話を始めると精霊は自分以外に対話の相手、つまり人間が存在することを知る。この精霊が善霊であった場合は、これでも危険はない。だが、凶霊であったときには凶霊の人間あるいは自分以外の他の者に対する悪意は、この世の人間の間にある悪意の比ではない。このことは、精霊界のことを述べたときいったように、その凶霊の悪意は彼が人間であったときには人々の評判や世間的打算のために陰に隠していた悪意が精霊となることにより赤裸々にむき出しなものになるからだ。
凶霊が人間との対話の結果、人間の存在を知るに至ると彼は人間にさまざまな悪意のキバを向け、ついには、その肉体を亡ぼすに至ることも少なくない。
(2)人間の思い違いによる危険 人間は凶霊と対話しても、全ての霊は聖霊なのだと思い易い。対話によっても凶霊自身は、自分の他に人間″はいず、世界もないと思い続けていることもある。だが、こんな場合でも人間のほうが自分と対話しているのは、つねに霊である以上は聖霊だと思いがちなものなのだ。すると人間は、この肉体の中の霊の声にしたがって熱狂的にさまざまなことをしたりする。だが、これは人間が思っているように聖霊ではない。そこで人間は大きな間違いを犯し、時には殺人、盗賊その他さまざまな悪事を平気で重ね、結局は自分の身を亡ぼしてしまうようなことになるのだ。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.199-200
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14-h (精霊と人間との直接の対話について =4=)
では私は以下に、精霊との対話がどんなに危険があるかについて実例を紹介してみよう。五〇〇年ほど昔に戦争があり多くの人が死んだことのあるオランダの田舎の村のスピーレという農夫は、ある日、畑での農作業中に突然精霊の来訪を受けた。つまり突然のように不可思議な精神状態に陥ったと思ったら、自分でもわからぬ間に精霊との対話を始めていたのだ。
スピーレは夢中になって叫んだ。
「お前は何だ。おれの腹の中で声を出しているお前は何だ。悪魔か、それと悪霊か。おれの腹の中に勝手に入り込むとは何事だ! とっとと消えて失せろ!」
これに対し精霊は答えた。
「われはすなわち汝の主なるぞ。汝はわが僕(しもべ)に過ぎず、いままで汝に、その肉体を貸し与えおきたるなり。汝、わがいうことをよく聞き、わが命ずるところに従うべし」
スピーレは、この異常な返答に余りにびっくりしていい返すこともできなくなってしまった。この時のスピーレの様子を見ていた同じ村の農夫たちは、スピーレが大声で断末魔の叫びに似た叫びを発したので彼のほうを驚いて見やったが、つぎの瞬間には彼はスキを手にしたまま空ろな眼を空に向けて放心状態になって畑の中に立ちつくしていたという。
彼は村人たちによって家に連れ帰られたが精神状態が回復したあとは、それまでの彼とは全く別人のようになり、またしばしば人々には意味の解らない独白をいうようになった。
村がスピーレの放火による大火で焼け多くの人々が死傷し、スピーレ自身も死んだのはそれから数日しか経たないうちであった。
この事件はスピーレの発狂として片づけられたものだが、私は、これは精霊との対話の危険の一つのケースだと思っている。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.200-201
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14-i (精霊と人間との直接の対話について =5=)
精霊との対話が精霊のほうが自然的想念を含めて人間の想念を理解したうえで人間の言葉で行なわれる場合は、さっきもいったように霊との対話と同じ形で行なわれるケースだ。これに対し精霊の側が人間の言葉だけは理解しても人間の想念までは知らず、精霊自身の想念を主として対話をする別のケースがある。このときは奇妙な混乱が起きる。対話で話された精霊の想念を人間は自分の本当の想念だと思ってしまうのだ。そこで、このような場合人間は、それまでの自分を捨て、対話の相手である精霊の肉体化したあやつり人形になってしまう。その人間は精霊の考えを自分の考えとして生きる精霊の機械になることになる。
スピーレのケースはたぶんこれなのだ。彼に精霊の想念を植えつけた精霊は、おそらく過去に、その村で虐待された者か、あるいは五〇〇年はど前の戦争で殺された者の精霊だったのだろう。この精霊の記憶や想念をスピーレは自分のものと考え、その精霊になってその復讐をしたのであろう。
また、まだ一〇歳にもならない子どもが、一度も行ったことのない土地の様子を詳しく知っていたり、自分は昔、どこに住んでいた何某という者なのだといい出したりすることがよくある。そして、こんな場合では、その子どもは、本人のいう土地に連れて行くと、それがたとえ異国であっても、習ったこともない異国の言葉で異国人たちと自由に話したりすることが多い。
このような例は生まれ変わりと間違えられ易いが、実は精霊との対話によって、その精霊の記憶が人間の中にどっしりと居座ってしまった場合も非常に多くあるものである。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.200-202
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14-j (人と同じように精霊にも多くのレベルがある)
人と同じように、精霊にも多くのレベルがあります。低いレベルにいる精霊は、誤解しやすいメッセージや、時には有害な情報を、劣った霊媒能力を持つ人々や、十分に霊的に学んでいない人を通して伝えてきます。高いレベルの精霊は、霊的に高い進歩を遂げた人々や、きちんとした意図を持つ人、他人を犠牲にして自分だけ得しようという隠れた動機のない人々にしか、現れてくれないようです。
ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
PHP研究所、2001年、p.263
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