学びの栞 (B) 


 15. 愛・同胞愛

 15-a (愛する喜びを分かちあう)

 シスターたちは、みなさまと共に愛する喜びを分かちあうために来ました。みなさまや、みなさまのお子さまたち、ご家族の方々とごいっしょに、愛する喜びを分かちあうためです。             
 それはどこで? まず、あなたのご家庭で。それから、あなたの愛を必要としている日本の貧しい人びとがいます。あなたがちょっとほほえむだけでいいのです。新聞を読んであげると喜ぶ目の不自由な人も、買物をしてあげると喜ぶ、重い病気の母親もいるでしょう。小さいことでいいのです。でも、そこで、愛は始まるのです。
 あるとき、ひとりの紳士が私たちの家に来て、8人の子どもむ持つヒンズー教徒の家族がいて、何日も食べていませんから、なんとかしてくださいといいました。そこで私はいくらかの米をその家族に持っていきました。その子どもたちの目からひどく飢えているのがわかりました。
 ところが、母親は私の手から米を受けとると、半分に分けて出て行きました。彼女が戻ったとき、私は、「どこへ行ったの、何をしてきたの?」と尋ねました。すると彼女はなにげなくこう答えました。
「あの人たちも飢えているのです。」
 彼女は隣りの家族が、同じく飢えているのを知っていたのです。私は彼女が米む与えたことには驚きませんでした。しかし、彼女がそれを知っていたことに驚きました。人は、普通、自分で苦しんでいる最中に、けっして他人のことなど思いやらないからです。でもこの母親は知っていました。そして、彼女は愛と喜びと、そしてそれを分かちあう勇気を持っていました。すはらしいことです。
 うちのお母さんは、苦しいのにもかかわらず分かちあうほビ偉く、美しい母親だと、喜ぶ子どもたちの顔を見るのは、とても美しいことでした。これは尊いこと、生きた愛、生きた愛の行いです。
 私のシスターたちは、みなさまと共にここにいます。多くの人びとが来てシスターを助けてくださっています。しかし、それだけです。私はみなさまが豊富さからくださる物は、ほしくありません。私はみなさまに愛する喜びを分かちあってほしいのです。

  マザー・テレサ『生命あるすべてのものに』
    講談社現代文庫、1988、pp.14-16

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 15-b[54-t] (神の壮麗な光から皆の一人ひとりが神となった)

 はじめに父がそのすばらしき自己について思いをめぐらせたとき、父は自分を壮麗な光へと広げた。そしてそのとき、思考が永遠へと向かって広がっていくプロセスを続けていけるように、その広がりと光から皆の一人ひとりが、それぞれ独自の動きという形をとって、神となったのである。
 あなたに神なる本質を与えているのは、あなたには自分の望むとおりの思考を抱き、それを体験する自由があるという点だ。そして、その自由意志と呼ばれる神なる本質部分とは、愛のことだ。それは、神からあなたたちの一人ひとりへの贈り物なのだ。自分が思考を通して思い描く理想は何でも創造できる自由を持てるように、それぞれが意志という神なる本質を持っているのである。
 究極の愛とは、生命を、皆の一人ひとりを通した途切れないプロセスにしたいという父なる存在の願いのことなのだ。愛の中でも最も純粋なものとは、あなたが思考のさまざまな次元を探索し、神の精神を広げられるようにと、神が一人ひとりに与えた自由意志だ。
 自由意志は、あなたに独自性を与えながらも、父とひとつとなることも可能にし、それぞれの人間の思考過程が独自の創造性の流れを持ち得るようにしてくれる。そして、思索と自分の想念の拡大を通してあなたが創造するたびに、あなたを創造し存在させてくれたときに父が自己に対して感じていたのと同じ愛を、あなたはいわば「まねている」のである。なぜなら、創造とは、あなたの存在の内面にある愛を表し、独自性をもった、自由に動く創造的形体にしていくことだからだ。それは永遠へと向かって生き続けていくものなのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 1155-156

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 15-c[44-w] (自分の思考をどう使おうと神の愛はけっして変わらない)

 あなたへの神の愛の例として、ある神によって生命連鎖の中に長い生命を与えられた蛇という生き物を見てみよう。この生き物は、さまざまな筋肉と骨がある長く細い身体を持つ。動きは非常にすばやく、とても大きい頭部には、ただひとつの防御手段である、皮膚を破るほどの力を持つ牙がある。噛みつけばわずかのうちに大きな体格の人間でも倒すことができるが、逆にどんな人でも蛇を斬ったり、わけなくつぶしてしまうこともできる。
 さて、二人の神を考えてみよう。最初の神は科学的な心を持っていて、蛇をすばらしい生き物として見ている。脚もないのに動きは大変すばやいし、皮膚には美しい色と模様を持ち、どこまでも続くとさえ思われるような華麗な骨格があるからだ。別の神がやってきて、蛇はぞっとする下等な生き物だと言う。噛まれれば危険だし、人間を殺すことができるのだから、ひどい生き物だというわけだ。
 すべての生命の「在るということ」である父なる存在にとっては、すべてのものは在るがままの状態で純粋だ。すべては父そのものである生命の表現という意味においては、純粋無垢な存在なのである。何かを美しいとか、下等だ、醜いなどとするのは、その対象へのそれぞれの見方なのである。父なる存在である思考をもとにして、対象に思いをめぐらし、変えていくという創造的な力を持っている私たち神々だけが、本来は真に純粋で無垢なものを、ただ存在する以上の何かであると判断を下してしまうのだ。
 神の最高の創造物であるあなたに、この蛇に対して自分の好き勝手な判断を下し、意志を行使する権利を与えるほどの神の愛(蛇という生命の実体もこれだが)とは、いったいどれほど偉大なものであろうか。生命の力が持つあなたへの愛は、あなたが思考を通して願うものなら何にでもなろうというほど深いのだ。父なる存在は、何でもあなたが望むものになる。あなたが変えたいと望むとおりの姿にさせてくれる。父そのものである生命は、下等で醜悪、卑しいものにも、最高峰の美にも、あなたが見たいと願うものそのままになるのだ。
 さて、この父なる存在が、何でもあなたが知覚し願うものになるということ、それもあなたの思考過程のおもむくままにそうなるのは、驚くべきことではないだろうか。そう、これこそ愛というものだ。
 自分の思考はどう使おうとかまわない。父なる存在のあなたへの愛はけっして変わらないからだ。神そのものである人生を、あなたがどれほど下等で卑しいものと見ようが、それは神にとっては神そのもの、自分そのものでしかかいのだ。それでも神であり、純粋であり、愛されているものなのだ。この約束はゆるぎないものである。父なる存在は、それ自身では価値判断を下すことがまったくないからだ。父はただ在るのみである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 157-159

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 15-d[56-i] (人生において自己に対する愛ほど偉大な愛はない)

 人生において自己に対する愛ほど偉大な愛はない。それよりも偉大な愛はないのだ。自己を抱き、受け容れるという、その場所から自由が存在していくからである。そして、よろこびが生まれるのはその自由からなのだ。よろこびが生まれてはじめて、神を見ること、知ること、心に抱くことができるようになる。最も偉大で深く、意味のある愛とは、肉体の中にあって、動き、思索し、創造し、許し、そしてただ在るこの偉大な生き物である純粋で無垢な自己に対するものだ。どんな自分でもその在るがままを愛するとき、すべての顔、すべてのものの内にあるもの、つまり私が愛する偉大なる本質を、あなたも知ることができる。あなたは神が愛するように愛するのだ。すると、愛することがとても簡単になる。許すことが簡単になる。そしてすべての生命に神を見ることが簡単になるのである。
 自分の在るがままを愛するとき、不可能なこと、手の届かないことは何もなくなる。自分を本当に愛するとき、人は自分の笑いの光の中だけに生き、よろこびの道だけを歩むようになる。自分に恋するとき、その光、そのまとまった力、幸福、底抜けの明るさ、その楽しそうな状態が全人類へと広がっていくのだ。そしてあなたの驚くべき存在の内面に愛があふれるとき、いろいろ不快なことがあるこの世界が美しくなり、生きることは意味を持ち、よろこびにあふれた状態になり、そのよろこびは、あなたという存在のよろこびを通じて、すべての生命を高揚させ、その栄光をたたえ、あなたの存在が純粋であることを謳い上げるのである。
 自己への愛のため、自己を満たすために生きること以上に偉大な人生の目的はない。それを成し遂げるためには、人生に飛び込み、自分に幸せをもたらすことをすることだ。それによってのみ可能になる。たとえそれが何であってもである。それはまちがっているとか、あなたのために良くないなどと、いったい誰が言えるのか? 神はそんなことは絶対に言わない。神はあなたが向かっていくあらゆる方向そのものであり、あなたのすべての体験がもたらす結果でもあるからだ。ほかの人間にどう思うか訊ねたりもしてはならない。あなたの人生を悩ませてきたのと同じ制限を持っているというのに、他人がよろこびについていったい何を知っているというのだ。
 父なる存在は、あなたがよろこびあふれる人間になるよう迫っているようなものだ。あなたが心を開いてそれを受け容れるのを、いつもすぐそばで待っている。「求めよ、さらば与えられん」というのは、そういう意味なのである。いつのときにもよろこびを持つというのは、実は単純なことなのだ。そして、あなたはそれに値することを知ってほしい。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 203-204

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 15-e[56-j] (幸せで喜びにあふれた時あなたは神に近いところにいる)

 よろこびは、よろこびを生む。「迫られている」よろこびを受け容れるとき、それはこれから訪れるあなたの将来の日々のよろこびをさらに高め、あなたの心を開いてもっと多くを受け容れられるようにしてくれる。だからこそ、いつのときも自分を愛するのが絶対に必要なことなのだ。それができれば、これから先の自分の「ペース」が決まるのである。何が自分を幸せにするかを自分に訊ね、それが何であっても、自分のフィーリングが告げるままに実行することだ。自己への愛、そしてそのよろこびのために生きるとき、その陶酔と高揚の瞬間はすべてあなたの存在の魂に記録される。そして今度は、それがこれから先、さらに多くの幸福とよろこびの瞬間をつくり出していくのである。
 幸せでよろこびにあふれたとき、自分を愛し、在るがままの自分でいるときを多く過ごせば過ごすほど、あなたはすべての生にある神の力に近いところにいる。求めるものが、すべて自分を幸せにするため、という状態で人生を生きるなら、あなたは最も偉大な運命に向かって生きていることになる。そして奇跡的なことを成し遂げるだろう。自己と神に対する愛のすばらしい見本となるのである。偉大なる美、すばらしき神秘である自分自身を体験し、理解することができるだろう。最終的には、驚くなかれ、あなたは神の顔を見ていることになるだろう。それが自分自身であることに気づくことによって、である。するとあなたは、さらに偉大な新たなる叡智の中で、もうひとつ別の永遠の生という体験へと向かっていくのだ。
 私の生きた時代、私たちはアトランティア人に「魂なき者」と呼ばれていた。そのとき、私たちが何を探し求めたか、おわかりだろうか。それは少なくとも「目的」ではなかった。自分たちにはないと言われた魂を探し求めたのだ。私はみじめな野蛮人で、人間を憎んでいた。しかし、よろこびというものを知ってから、そして自分がそれに値するのだと知ってからは、すべての生命を維持し、育み、すべての生命そのものである本質となったのである。
 父なるものへと導いてくれるたったひとつの道とは、とにかく何であっても、それが自分のよろこびであると自分で決めたことなのだ。そこへ到達する道はそれだけなのである。それがあなたを神という故郷へと帰してくれるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 204-205

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 15-f[65-i] (互いを愛するとは自分自身を完全に愛することである)

 この世界にいるすべての人間は、飢えていようと、身体に障害があろうと、農民であろうと王であろうと、そこから何かを得るために自分の体験を選んでいるのだ。そこから学び、その体験を充分に得てはじめて、内奥の自己にまた別のさらに大事な叡智をもたらしてくれるほかの体験へと進んでいくのである。
 あなたが本当の師(マスター)となるとき、限界ある意識の闇と泥沼の中へと脚を踏み入れながらも、あなたは自分を全き存在に保つことができる。なぜなら、あなたは世にあふれる大衆の心を理解しているからであり、彼らがなぜそういう状態なのかがわかっているからである。それは、あなたもそうだったことがあるからだ。限界ある状態でいるという自由をあなたは彼らに許す。これこそが真の愛だ。なぜなら、それが限りない叡智を持つことを学び、互いを愛することができるただひとつの道であるのをあなたは知っているからだ。互いを愛するとは、もちろん自分自身を完全に愛することである。そして、群衆の中にひとつの顔を見るとき、その肌の色、外見、清潔か否かなどに関係なくその存在を見て、その内にある神が見えるのである。本当にじっくりと見れば、誰の内にも神は見えるからだ。そうすれば、あなたは父なる存在が愛するように愛している。父が見るものを自分自身だけにではなく、ほかの誰にも見るようになる。皆を見て、その真の姿である美を見ることができたとき、あなたはこの次元から、たくさんの館がある壮大なる空間へと昇る旅を始めている。だが、自分自身を完全に受け容れ、まわりのすべての生命に生きる神を受け容れることができない者には、その扉は閉じたままなのである。
 人間を神なる知性という、本来あるべき場所に戻し、何をしていようとも、人は自分自身の内にある神のために生きていることを知るとき(あなたが自分の内にある神のために生きているのと同じように)、あなたはすべての人を愛することを学ぶ。これまでの存在ではじめて、人がどんな自己表現をしていようとも、あなたは真に彼らを愛することができる。あなたの愛は価値判断で制限されるものではないからだ。そして、それこそ、神として生きる人間であるキリストの内面の存在の姿なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 311-312

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 15-g[52-c] (同胞愛以外の生き方は選択肢として開かれていない)

 人々と国々のあいだの同胞愛の必要性をここで再び強調したいと思います。というのは、人類全体が進化のスピードをあげ、すべての生命を常に支えている宇宙的な霊の力の中で人類全体が息づき、活動し、存在しているのだということを理解して初めて、人類は滅亡から自分自身を救うことができるのですから。
 希望を失わないでください。人生における価値観が一八〇度転換する日がくることは確かです。人生の状況も、それに応じて変わればよいのですが。人類は今、非常な苦しみと窮乏を経験しようとしています。それは、人間の命を真に生かしてくれる、より大きな真実を探求するためです。
 この単純な真実を語ることは、なんとも簡単なことのように思われます。この真実は、至るところに、あらゆるものの中に存在しているのですから。しかし、世俗的な心にとって、この真実を見てとるのは、なんと複雑で難しいことでしょうか。にもかかわらず、霊界にいる私たちは皆、ついにこの真実を理解するに至り、宇宙の同胞愛を感謝の気持ちで信頼し、その愛を分かち合い、一緒に安らかに生活しているのです。
 同胞愛以外の生き方などというものは、世界が歩むべき道の選択肢として開かれてはいないのです。現在、世界の国々は疑惑と恐怖心の中で存在しています。誰も譲ろうとせず、お互いを恐れています。ビジネスの世界では、一人一人が自分の分け前を確保しようとして、同胞と戦っています。このような生き方は、人間をどこに導いていくのでしょうか。安定でもなければ、永続的な繁栄でもないことは確かです。それどころか、文明がこれまで一生懸命築きあげてきたものすべての崩壊につながることでしょう。

  アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.279-280

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 15-h[52-d] (自らを傷つけることなく他人を傷つけることはできない)

 気を取り直して勇気を出しましょう。いつの日か、人類の心が高貴なる気高さを達成するときがやってきます。人間の心を高みに引き上げてくれる、真の同胞愛のヴィジョンに目覚めるときがやってきます。そのとき、人間は悟るはずです。すべての命、分自身の命も他のすべての人々の命も、一つの巨大な愛の心のなかに存在するのだということを。そして、自分の肉体としての生命は、その巨大な愛の心で息づいているのだと悟ることでしょう。そのとき、自らを傷つけることなく他人を傷つけることは不可能であると知るでしょう。人を憎み、戦うべく戦争に行くというのは自分自身との戦いに赴くことにほかならないのですから。他人を殺すことは、殺人者にとって霊的な死にほかならないのです。“剣を抜くものは剣によって死す”とは、このような意味です。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.280-281

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 15-i[56-p](真に偉大な人間は無限にして永遠の力に身を任せる)

 人間は、人生の目的は自己の個人的な利益の追求にほかならないという、誤った信念をもち続けてきました。人生において成功をおさめ、兄弟に打ち勝ちたいと望むなら、どのような犠牲を払ってでも、他人よりも優れた人にならなければなりません。このような生き方は、あらゆる点で、同胞愛という宇宙の法則に対して罪を犯すことになります。自分自身のためだけの利益を追求する人は、すべての霊的な法則を破ることになります。人類全体が同じような生き方を選択し続ければ、結果は病める肉体、病める心、混沌と戦争しかありません。
 真に偉大な人間とは、自分自身の欲望を追求する代わりに、無限にして永遠の力に身を任せる人です。それぞれの人間の魂は、本来の自己を見出すために自己を失わなければなりません。自分の力によって力と達成がやってくるという誤った考えをもっている間は、神を見出すことはできません。
 人間の魂が上昇し、自己中心主義のもったいぶった衣を脱ぎ捨てるとき、最も難しい試験に合格しなければなりません。自己という概念をすべて脱ぎ捨てなければならないのです。そのとき、魂は真っ暗闇の、一見破滅そのものにしか見えない深淵に直面するのです。気がくじけそうになる魂を支えてくれるのは、ただ一つの希望です。それは身をまかせ、降伏し、すべてを捨て、自我のすべての残滓を犠牲にすれば、神という名で呼ばれる、無限にして永遠の愛と一体になれるという希望です。
 このような降伏はけっして自己の消滅ではありません。自己の拡大です。というのは、人間の魂がその地点にまで到達すると、神への愛は圧倒的なものとなり、願うことはただ一つ、神と一体になりたいということになります。そして、その愛が神を自分にひきつけることになり、神性を自らのなかに包み込むことにさえなるのです。すると、すべての人間は神のように見えるようになります。なぜなら、すべての人の中に神が住んでいるのが見えるからです。
 宇宙的な同胞愛を理解する人は、「すべてを捨て、私の後についてきなさい」(キリストの言葉)を文字通り実行することになるでしょう。神そのものである宇宙的な無私を発見するために、すべてを断念し、自分を無にし、自分を放棄しなければなりません。この崇高な瞬間に、人は神と一体になるだけでなく、自分自身と一体になり、すべての生きとし生けるものと一体になるのです。これこそが贖罪です。つまり、神と一体になることなのです。
 人間の同胞愛とはこのことです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.282-284

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 15-j[6-g] (ただ一つ存在する真実の宗教とは愛である)

 ただ一つの真実の宗教が存在します。あらゆる形、信念、宗派、信条、儀式の背後に、ただ一つの絶対的な現実があります。
 これは宇宙的な宗教で、国境や、慣習、偏見によって束縛されることも限定されることもありません。名前はただ一つ。その名前は、すべての存在が理解できるものです。白人、黒人、黄色人種、女性、子供、動物、鳥、花、生きとし生けるものすべてが理解できるものです。真の同胞愛の宗教の意味はただ一つ、名前もただ一つ、それは愛です。
 この愛は必ず実現するでしょう。愛は人間に、さまざまな形や儀式や信条や教条は、そこに生き生きとした魂がなければなんの役にも立たないことを教えてくれるでしょう。すべての生きとし生けるものは霊の力を証明するものであり、霊の力にこたえることができるのです。
 人間にはさまざまな人種的な違いがあり、また多様な考えがあります。人種や考えがなんであれ、一人一人をそれぞれ公平に扱ってあげるべきです。しかし、すべての人間は最終的には、創造者の無限の愛を認め、それに敬意を払ってお辞儀しなければならないのです。そのとき、ついに人間は、すべての人間のために働く人は神のために働いているのだ、ということを理解するのです。
 この素晴らしい日が訪れるまで、地球は死から完全に解放されることはないでしょう。すべての人が、仲よく調和に満ちて、自己の意思を曲げて、宇宙の崇高な法則を崇拝するとき、死は勝利のなかに飲み込まれて消滅するでしょう。
 そのとき、人間の肉体はもはや死の横暴に屈することはなくなるでしょう。なぜなら、人間の肉体は死ぬのではなく、転換することになるのですから。罪は、その本質において死そのものです。死は罪の結果なのです。これは文字通りの意味です。罪は必ずなんらかの形による死をもたらします。しかし、叡智に満ちた、純粋で真実の愛は、永遠の生命を与えてくれるでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.284-285

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 15-k(1-e) (愛は人を癒しストレスは人を殺す)

 私達は愛と調和、平和と思いやり、許しと信頼などについて、学ぶ必要はありません。私達はいつだって、そうした存在なのです。
 私達のすべきことは、否定的で有害な感情や態度、私達の人生を苦しめ、自分や社会や世界に、これほどの悲惨をもたらしている思い込みや考えを取り除くことです。こうした否定的なくせを手放すと、私達は自分達の真の性質、肯定的で愛に満ちた自分自身を再発見します。それはふたをされ、輝きを失って、忘れ去られたまま、いつもそこにあったのです。
 汚れや泥、つまり否定的な思いや感情の厚い層を取り除き、ほこりを払ってみがきをかけると、もう一度、私達の真の姿であるダイヤモンドを見つけ出すことができます。私達は故郷へと帰りつつある、不滅の聖なる魂です。ずっと奥の方では、私達は常にダイヤモンドであったのです。
 怖れ、怒りなどの否定的な感情を手放すことは、魂の健康にとっても、体の健康にとっても大切です。精神的なストレス(怖れ、怒り、慢性的な不安、落ち込みなども含む)が病気や死の主要な原因の一つであることは、今では広く認められています。私達の体は心と密接に結びついており、私達の気分や感情はすぐに体の症状へと移し変えられます。愛は人を癒し、ストレスは人を殺します。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.128

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 15-l[10-k] (愛は最も高く最も純粋なエネルギーである)

 大部分の人々は、自分達の霊的本質に気づいているとはいえない生活を送っています。自分達は魂も霊も特にない、単なる物体にすぎないかのように行動しています。そうでなければ、私達がずっとやり続けているような馬鹿げたことを、するはずがありません。私達の九〇パーセント以上は、神の存在、天国の存在、そして死ぬと私達は他の世界へ行くということを信じています。でも、私達の行動は、これを裏切っています。私達はお互いをひどく粗末に扱っています。未だに大虐殺を行ない、絶え間なく戦争をしています。人殺しや強姦もすれば、拷問も盗みも行ないます。私達は非常に粗野で利己的に振る舞い続けているのです。
 恐怖は、私達の真の霊的本質を理解することを、妨げます。私達のような霊的存在は、殺人や強盗ではなく、思いやりと慈悲を実行すべきです。
 もし、あなたが見返りと罰について考える必要があるなら、愛や思いやりの行為に対して、あなたはふんだんに見返りをもらうのだと考えて下さい。そして、憎しみや暴力的行為に対しては、必ず罰せられます。でも、私達はまだこのことを理解していないようです。むしろ、愛の表現の方を、ずっと怖れています。拒否される、馬鹿にされる、侮辱される、弱虫だと思われる、レッテルを貼られる、愚かであるといったことを、私達は怖れているのです。
 しかし、こうした怖れは誤っています。私達は常に愛され、常に守られているのです。そして、無数の霊的存在が住んでいる広大な海の中の、霊的存在です。他の霊的存在は、肉体を持つものもいますが、大部分は肉体を持っていません。
 愛はこの海の水です。
 愛は最も高く、遍も純粋なエネルギーです。その最高の波動で、愛は知恵と意識の両方を持っています。そして、すべての存在を結びつけるエネルギーです。愛は絶対であり、決して終ることはありません。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
    PHP研究所、2001年、pp.196-197

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 15-m[10-l] (私達の才能や労働の成果は社会全体で分かち合うべきである)

 隣人に対する思いやりと協力と親切、それに私達の社会的責任は、経済とは無関係です。これは心の問題であり、自分の外から命令されたり課せられたりするものではありません。心の中から学ばねばならないことなのです。
 この意味では、国や社会がどのような経済的、政治的体制をとっているかは、重要ではありません。私達の才能や労働の成果は、社会全体で分かち合うべきです。そして、自分の家族のために必要なものを差し引いた後、他の人々への思いやりと愛の気持ちをこめて、分配されるべきです。特定の経済システムではなく、それぞれの個人の愛に満ちた心が、その労働の成果を分配するのです。
 私達は受け取り、そして与えます。お返しに、私達は他の人々から受け取ります。喜びは与えることと受け取ることのバランスの中に、存在しています。
 私達の社会が協力的で思いやりに満ちている時、みんなが責任を持ち、親切である時、私達は地上にほんの少し、天国を再現できるのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.203

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 15-n[44-zd] (神と愛について語り宇宙的な視野でものを見る)

 精神科医が神や愛について語るのを聞くのは、奇妙に思えるかもしれません。しかし、魂の心理療法の基本は、自分自身の神性、魂の本質、肉体に宿ってここに存在している其の目的を知ることであるからには、私は神と愛について語る必要があるのです。そうすることによってのみ、私達は宇宙的な視野でものを見ることができるのです。
 愛なくして、神なくしては、何もありません。
 神は私達の崇拝を要求しません。神は私達の理解をはるかに超えたものであると知っているのに、私達は人格化した神に、しがみついています。
 神に性別はありません。これも人格化の一つです。
 神は宗教を持ちません。私達はみな、心の中でこのことを知っています。
 神に人種はありません。
 神はすべてです。想像も及ばない知恵と力、そしてあらゆる資質を持つ、愛に満ちたエネルギーです。私達はみな、神から創られています。神は私達一人ひとりの中にあり、私達の存在の実体だからです。
 氷は水になる可能性を秘め、水は水蒸気になる可能性を秘めていますが、神は水蒸気を超えた存在です。
 神は目に見えず、知ることもできません。それでも、すべての物になる可能性を持っています。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.325-326

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 15-o (愛だけが真実で信じられないほど強力なエネルギーである)

 ただ、愛だけが真実です。愛は信じられないほど強力なエネルギーです。そして私達はこのエネルギーでできているのです。
 愛は絶対です。愛に終りはなく、留まることもありません。その最も純粋な形は無条件の愛です。あなたの愛を表現し、何も見返りを求めない時の愛がそれです。自由に愛を与えることによって、あなたは霊的な大富豪になります。
 あなたの直観に耳を澄ませましょう。そして、あなたの美しい心の、やさしく穏やかなささやきを、怖れでかき乱されないようにして下さい。恥ずかしがらずに、遠慮せずに、何も条件をつけずに愛する時の自由を、感じて下さい。なぜなら、この地球上での私達の人生は限られているからです。私達は学校にいるだけです。故郷に戻る時、私達が持って帰ることができるものは、思いと、行動と、愛だけです。
 そして、怖れてはなりません。私達は不滅の永遠の魂であり、常に愛されています。そして、私達は愛なのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.333

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 15-p[1-j](ひとの思考と行動はすべて愛か不安かを根拠としている)

 ひとの思考も行動もすべて、愛か不安か、どちらかを根拠としている。ほかの考えはすべて、この二つから派生したものだ。単なるヴァリエーションで、同じテーマが変化したものにすぎない。
 よく考えてみれば、これが真実だということがわかるだろう。これが、「支える思考」とわたしが呼ぶものだ。愛という考えか、不安という考え。そのどちらかが、すべての思考の陰にある。この二つは最初の思考、最初の力だ。人間の存在というエンジンを動かしている生のエネルギーだ。
 ひとが何度も何度も同じ体験をくり返す理由もここにある。ひとが愛し、つぎに破壊し、そしてまた愛するのはそのためだ。つねに、一方の感情から他方の感情へと揺れ動くからだ。愛は不安を支え、その不安は愛を支え、その愛がまた不安を支える……。
 ……原因は最初の誤りにある。神の真実に対する誤り、神を信頼しないという誤りだ。だから、神の愛を頼れない。神が条件つきであなたがたを受け入れると思う。究極の結果が不確かだと思う。神の愛がつねに存在すると信じられなくて、いったい誰の愛を信頼できるのか。あなたがたが正しく行動しなかったら、神は見捨て、手を引いてしまうとすれば、神ならぬ身の人間を頼れるはずがない。
 ……だから、あなたがたは最高の愛を誓った瞬間に、最大の不安にぶつかるのだ。
 「あなたを愛している」と口にした瞬間に、相手が同じことを言ってくれるかと心配になる。そして、相手の同じ言葉を聞いたとたんに、今度はその愛を失うのではないかと不安になる。そこで、あらゆる行動が「失う不安」に対する自衛反応になる。神を失う不安に対してすら、自衛しようとする。
 だが、自分が何者であるかを知っていれば悩みは消える。あなたがたは神が創造したなかでいちばんすばらしい、すぐれた存在であることを知っていれば、決して不安にならないはずだ。そんなすばらしい存在を誰が否定できるだろうか。神でさえ、そうした存在に欠陥を見いだすことはできない。
 なのに、あなたがたは自分が何者であるかを知らず、だめな存在だと考えている。では、どうして自分はだめなんだと思いこんだのか。そう思わせたのは、あなたがたが無条件で信じた唯一のひとたち、母親と父親だ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.31-32

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 15-q[1-k] (親はあなたにどうして偽りを教えるのか)

 親は、あなたをいちばん愛している。それなら、どうして偽りを教えるのだろう。
 ……思い出してみてほしい。親は、こうしてはいけない、こうしなくてはいけないと叱りはしなかっただろうか。子供はおとなしく言うことを聞いていればいい、うるさく口を出してはいけない、とは言わなかっただろうか。あなたが元気いっぱいなときに、たしなめはしなかったか。大胆な想像をめぐらしているときに、そんなことはやめなさいと言わなかったか。
 その言葉を聞いて、あなたは、それが神のメッセージの基準にあわず、神のメッセージではないにもかかわらず、そうだと思った。あなたにとっては宇宙の神々と思えるひとたちから送られたメッセージだったからだ。
 愛は条件つきだと教えたのは親だ。あなたはそれをたびたび感じとった。そしておとなになってから、その経験を愛するひととの関係にあてはめる。
 さらに、神との関係にもあてはめる。

 その経験をもとに、わたしについて考え、その枠組みにとらわれる。「神は愛に満ちあふれている」とあなたは言う。「だが、神の戒律を破れば、永遠に追放され、永久に罰せられるだろう」と。
 なぜって、親に突き放された経験があるから。親に罰せられた苦しみを知っているから。だから、わたしの場合も同じだと思うのではないか。
 あなたがたは、無条件に愛されるというのはどんなことかを忘れている。神の愛の体験を思い出せない。だから、世間で見いだす愛を基準にして、神の愛も同じようなものだと思う。
 あなたは「親」の役割を神に投影し、善いか悪いか判断して、褒美を与えたり罰したりする神を想像する。だが、それはあなたがたの神話にもとづく、単純すぎる見方だ。ほんとうのわたしとは何の関係もない。
 こうして神の真実ではなく、人間的な経験をもとに、あなたがたは神についての思想をこしらえた。そこから愛をめぐる現実のすべてが生まれた。それは不安のうえに築かれた現実で、復讐心をもった恐ろしい神という考え方に根ざしている。神が恐ろしいものだという考え方は間違っているが、それを否定すればあなたがたの宗教は崩れる。それに代わる新しい宗教こそ真の救済なのだが、あなたがたは受け入れられない。なぜなら、恐れる必要のない神、善悪を決めつけたり、罰を与えたりしない神は、あまりにすばらしすぎて、あなたがたが考える最も偉大な神にさえあてはまらないからだ。
 不安を秘めた愛という現実が、あなたがたの愛の経験を支配している。愛の経験を創り出していると言ってもいい。なぜなら、あなたがたは条件つきで愛されるだけでなく、自分も同じように、相手を条件つきで愛していることに気づくからだ。そして、相手から退いたり、自分のなかに引きこもったり、条件をつけたりしながらも、ほんとうの愛はそんなものではないとどこかで感じている。だが、自分には愛し方を変える力はないと思う。つらい思いをして愛し方を学んだのに、また無防備になったらきっとひどい目にあうと思う。ほんとうは、愛し方を変えないほうがひどい目にあうのだ。
 愛について(間違った)考え方をしているから、あなたがたは純粋な愛を体験できない。それに、真のわたしを知ることもできない。だが、それも、いつかは終わる。なぜなら、永遠にわたしを否定しつづけることはできず、やがては和解の時が訪れるからだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.33-34

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 15-r[1-l] (不安があれば物にしがみつき愛があればすべてを与える)

 人間の行動のすべては、愛か不安に根ざしている。人間関係だけではない。ビジネスや産業、政治、宗教、子供たちの教育、国家の社会問題、社会の経済的目標、戦争や平和、襲撃、防衛、攻撃、降伏に影響を及ぼす決断、欲しがったり与えたり、ためこんだり分けあったり、団結したり分裂したりという意思決定、自由な選択のすべてが、存在しうるただ二つの考えから発している。愛という考えか、不安という考えから。
 不安はちぢこまり、閉ざし、引きこもり、走り、隠れ、蓄え、傷つけるエネルギーである。
 愛は広がり、解放し、送り出し、とどまり、明るみに出し、分けあい、癒すエネルギーである。
 不安だから身体を衣服で包むのであって、愛があれば裸で立つことができる。不安があるから、もっているもののすべてにしがみつき、かじりつくが、愛があれば、もっているすべてを与えることができる。不安はしっかりと抱えこみ、愛は優しく抱きとる。不安はつかみ、愛は解放する。不安はいらだたせ、愛はなだめる。不安は攻撃し、愛は育む。
 人間の考え、言葉、行為のすべては、どちらかの感情がもとになっている。ほかに選択の余地はない。これ以外の選択肢はないからだ。だが、どちらを選ぶかは自由に決められる。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.34-35

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 15-s[1-m] (決断しようとすると不安が勝ってしまうのはなぜか)

 不安を抱えて生きるように教えられているからだ。あなたがたは適者生存、いちばん強い者が勝利を得る、いちばん利口な者が成功すると聞かされてきた。いちばん愛らしいものの栄光については、ごくわずかしか語られない。だから―いろいろな方法で―あなたがたは適者になろう、いちばん強くなろう、利口になろうと必死になり、どんな状況でも、少しでも劣っていれば負けてしまうという不安におびえる。子供のころからずっと、劣った者が負けると言い聞かされてきたためだ。
 あなたがたはもちろん、不安に支えられた行動を選択する。そう教えられてきたからだ。
 だが、教えてあげよう。愛に支えられた行動をとれば、生き延びるだけでなく、勝利するだけでなく、成功するだけでなく、それ以上のことができる。そのとき、自分はほんとうは何者か、そして何者になりえるのかという、栄光に包まれた経験ができるだろう。
 そのためには、善意ではあるが間違った教師たちの教えを退け、べつの種類の智恵をもったひとたちの教えに耳を傾けなければいけない。
 そういうすぐれた教師は、昔もいまもたくさんいる。わたしは、真実を教え、導き、思い出させるひとたちなしに、あなたがたを放っておきはしない。しかし、いちばん偉大な教師は外にいる者ではなく、あなたがたの心の声である。それが、わたしが使う第一の道具だ。
 あなたがたの心の声は、わたしのいちばん大きな声だ。なぜなら、あなたがたにいちばん身近な声だから。心の声は、すべてについて、あなたがたの言葉で言えば、真実か偽りか、正しいか間違っているか、良いか悪いかを教えてくれる。それに従う気になりさえすれば、針路を決めるレーダー、船の舵、旅の道案内となる。
 その声はたったいまも、あなたが読んでいるこの言葉が、愛の言葉か不安の言葉かを教えてくれるはずだ。この物差しを使えば、従うべき言葉か無視すべき言葉かわかるだろう。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.35-36

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 15-t[61-p] (物質的な領域には不安と愛という二つの在り方しかない)

 法則は非常に単純だ。

 @思考は創造につながる。
 A不安や恐怖は似たエネルギーを引き寄せる。
 B存在するすべては愛である。


 待ってください、その三つめにはびっくりしてしまう。不安や恐怖が似たエネルギーを引き寄せるなら、どうして存在するすべてが愛だということになるんですか? 

 愛は究極の現実だ。それが唯一であり、すべてだ。愛を感じるということは、神を体験することだ。至高の真実のなかでは、存在するすべては愛であり、存在したすべて、これから存在するであろうすべても愛である。絶対の領域に入るとき、あなたがたは愛のなかへ歩み入る。
 相対性の領域は、わたしが自らを体験するために創り出したものだ。このことは、もう説明した。だからといって、相対性の領域が現実になるわけではない。それはあなたがたとわたしが自分を体験的に知るために工夫した、そしていまも工夫しつづけている、創られた現実だ。
 だが、この創られた現実はほんとうに現実的に見える。現実的に見せて、ほんとうに存在すると思わせるのが目的だからだ。この方法によって、神は自分以外の「べつの何か」を考案した(厳密な意味ではこれは不可能なのだが。なぜなら、神、すなわちわたしは「すべて」であるから)。
 「べつの何か」、つまり相対性の領域を創造することで、わたしは、あなたがたが神であると言われるだけではなく、神であることを選択できる環境を創り出した。その領域で、あなたがたは概念ではなく創造行為として、神格を体験できる。
 不安や恐れは愛の対極である。これが第一の両極。相対性の領域を創ったわたしは、まず自らの対極を創り出した。さて、あなたがたが暮らす物質的な領域には、二つの在り方しかないと言った。不安と愛である。不安に根ざした思考が、ひとつの物質的な場を生む。愛に根ざした思考がもうひとつの場を生む。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.81-82

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 15-u[61-q] (真実や真理はいままでもあらゆる所で示されてきた)

 要するに〈マスター〉とは、愛だけを選択したひとたちである。あらゆる時に、あらゆる環境で、彼らは愛を選択した。自分たちが殺されても、殺害者を愛した。迫害されても、迫害者を愛した。
 このことを理解するのは非常に難しいだろうし、まして見習うことはできにくいだろう。だが、〈マスター〉はすべてそうしてきた。哲学はどうでもいいし、伝統も、宗教もどうでもいい。すべての〈マスター〉は愛だけを選んだのだ。
 あなたがたはそんな例をはっきり見てきた。大昔から何度も何度も、目にしてきた。あらゆる時代、あらゆる場所で、それは示されてきた。あなたがたの人生のなかで、いつも見せられてきた。宇宙はあらゆる設定を利用して、この真実をあなたがたの前に差し出してきた。歌や物語、詩、踊り、言葉、動き、動く絵つまり映画、そして、本と呼ぶ言葉の集りを通じて。
 その真実は最も高い山頂から声高に叫ばれ、最も低い場所でささやかれてきた。人類のあらゆる経験の回廊に、この真実がこだましている。答えは愛、それが真理だ。だが、あなたがたは聞こうとしなかった。
 いま、この本にめぐりあったあなたは、神が数えきれないほどの回数、数えきれないほどの方法で語ってきたことを、もう一度語ってほしいと言う。それでは、もう一度 ―ここで― この本のなかで語ろう。今度はあなたは耳をかすだろうか。ほんとうに聞こうとするだろうか。
 何があなたをこの書物に導いたと思うか? どうして、あなたがこの本を手にすることになったと思うか? わたしが自分のしていることに気づかないとでも思うのか?
 宇宙には偶然などというものはない。
 わたしは、あなたの心の叫びを聞いた。あなたの魂の探求を見た。あなたがどんなに深く真実を求めているかを知っている。あなたは苦しみのなかで叫び、喜びのなかで叫んだ。限りなく、わたしを求めた。わたしに現れてくれ、説明してくれ、真実を明かしてくれと呼びかけた。
 そこでわたしはいま、こうしてやさしく、誤解しようのない言葉で答えている。簡単で、混乱しようのない言葉で答えている。平凡な、惑わされようのない言葉で話している。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.82-83

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 15-v (愛は魂のエネルギーであり活発な力である)

 真のパワーに満ちた人間は、愛のなかで生きている。愛は魂のエネルギーである。愛はパーソナリティーを癒すものである。愛によって癒されないものは存在しない。存在するのは愛のみである。
 愛は静かな状態ではない。それは活発な力である。それは魂の力である。愛が行うことは、争いが存在する場所に平和をもたらすことばかりではない。それは、人々の異なった生き方を可能にする。
 愛は調和を促進する。周囲の人たちの幸せに対する活発な興味を引き起こす。思いやりを喚起する。光を引き寄せる。パーソナリティーの不安を一掃する。愛の光のなかに存在するのは、愛のみである。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、p.254

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 15-w[9-zzi] (究極の選択は愛と恐れのどちらを選ぶかである)

 対談を終えた後日、私と矢作先生は、来日した女性聖者サイ・マーにお会いする機会がありました。そのときその聖者の残した言葉が印象に残っています。
 「究極の選択は二つしかありません。愛と恐れ、どちらを選ぶかです」
 この言葉は極めて重要な指針を私たちに与えてくれます。私たちが恐れを選ぶなら、今後、恐れていることが予想どおりに起こってくることもありうるでしょう。例えば、大地震が来ると恐れおののけば、景気が悪くなるとただ怯えれば、大災害や大不況が私たちに降りかかってしまうかもしれないのです。逆に、愛を選べば、私たちは互いの絆を強くして、共に未来へと歩むことができるようになるでしょう。
 今、どちらの可能性もあるのだと思います。
 現代日本に暮らす多くの人々は、この二沢に直面したとき、恐れを選んでしまいかねない状況にあります。私たちはそれほど多くの難題を抱えているからです。
 しかし、そういう時代だからこそ、愛のほうを選びませんか、と私は皆さんに提言したいのです。私たちの対談で語られていることは、死についてであれ、死後の生命についてであれ、すべては、私たちが今、いかに生きるか、何に焦点を合わせるかにかかわっているものだと思います。どうしても恐怖から抜け出せないかたは、それを何かでごまかしたり、避けようとしたりせず、その恐れている自分自身をそのまま愛してあげてください。否定も肯定もせず、ただ、あるがままを。
 純粋で無条件の愛は、意識を拡げ、分離から融合へと導いてくれます。皆さんとともに愛と喜びと叡智に満ちた「一なる世界」へ戻っていければ、それほどすばらしいことはありません。生きとし生けるものが、平安でありますように! (中健次郎)

    矢作直樹・中健次郎『人は死なない。では、どうする』
       マキノ出版、2012、pp.189-190