学びの栞 (B) 


 16. 地獄・極楽


 16-a[24-n] (地獄界で凶鬼に会った一人の霊の話を聞く)

 大勢の霊たちが一人の霊の周囲を囲んで輪になって座っている。私も何だろうかと興味を持ったので近くへ寄って見た。すると、それは輪のまん中に立っている一人の霊が大勢の霊たちに話をしているのだった。熱心に耳を傾けている霊の聴衆たちの様子から、その話は非常に面白いらしく、また彼らがみな興奮を感じているのが私にもわかった。
 彼の話は、つぎのようなものであった。

 -----私はそのときフト人(霊)の話声を聞いた気がして眠りからさめ眼をうすく開けて何気なしにボンヤリとあたりを見回した。あたりはいつもより大分暗かったが私は自分がまだよく眼がさめていないのだと思って別段気にしなかった。しかし、すこしたって眼をこすって見たが依然としてあたりは暗いのだ。もうその頃には私の心はすっかり眠りからさめていたので、これは不思議なことだ、どうしたことだろうとちょっと不審を起こした。
 だが、つぎの瞬間、私はいままで見たこともない光景を眼にして心臓が止まるほど驚いた。闇の中、といってもうす明りはさしていたので、そのうす明りの光でみると大勢の霊たちが、いまちょうど諸君が私の周囲に輪になっているのと同じように輪をつくっていて、その真ん中に一人の体の大きい霊が立って、何やら大声でわめいているのだ。
 だが、これだけのことなら私も、心臓が止まるほど驚きはしなかったはずだ。
 私を驚かせたのは、ひとつは私が自分も知らぬ間に地下の大きな洞穴の中へ閉じ込められているらしいことがわかったこと、それとこれらの霊たちの顔つきや様子が、まさに千差万別どれもこれも違った顔つきをしているのだが、その顔つきが全部まるで話に聞いていた地獄の凶鬼を思わすような恐ろしく、怪奇な者ばかりだったことだ。私は地獄の凶鬼などは物語りの中の存在だと思っていたのに、いま眼のあたりに見たのだ。
 彼らの顔つきは、ある者は眼がくぼみ骸骨のような眼窩ばかりが暗い穴となっていて頬の肉は落ちていた。またある者は無気味な歯だけをむき出しニタニタといやらしくうす気味悪い笑いを顔面にただよわせ、ある者は顔の半分がそげて取れ半分だけの顔になっていた。また獣を思わせる顔つき、亡霊としか思えない姿の者などさまざまな怪奇な姿をしていた。この中でも特に恐ろしげだったのは輪のまん中に立ってわめき叫んでいる霊だった。彼は背丈も他の者の倍近くもあるように見えたくらい巨大で、その顔には、これまた顔いっぱいになりそうな大きな二つの眼をギラギラと光らせ、耳の近くまでさけたような大きな口から真赤な舌を蛇のように出して叫んでいたのだ。
 私の驚きや恐怖は諸君に説明しきれるものではなかったが、私は腹に力をこめ歯をくいしばって気持ちを取直し周囲を見た。するとやはり、ここは地下の洞穴のようだった。ただ普通の洞穴と違うのは、この洞穴がどこまで続いているのか奥行きが見当もつかない、あるいは無限の深さがあるのではないかという感じが何故とも知らず私には絶対の確信のように思われたこと、また、そのはるか奥に小さい、暗紅色の光がほのかに見えていたことだ。
 輪のまん中に立った霊は演説をしていたのだ。彼はおよそ次のようなことを云っていた。
 いまやお前たちは、地獄界の霊となったのだ。お前たちは地獄界で永遠の生を受ける幸せな者たちだ。つねに地上にある霊たちを誘惑し、彼らを暗き道へさそい込まねばならぬ。お前たちはそれによって、いよいよお前たちの永遠の生を祝すことができるのだ。お前たちの歓迎の印に、私はお前たちの一人一人と歓迎のあいさつを交わしてやろう。
 それから彼は怪奇な姿形の霊たちの一人一人と奇妙なあいさつを交し始めた。そして輪になった霊たち全員とのあいさつが終ると私のほうを指さして叫んだ。
 「汝ら、あれを見よ。あれも霊なるぞ。彼の姿形が如何に醜く見ゆるとも驚くなかれ。かの霊こんご汝らの僕として酷使されるべき霊に過ぎざればなり」
 そして彼はこんどは私に向かって叫んだ。
 「汝、この輪の中へ進み出よ、われら汝を検分すればなり……」
 私の恐怖と屈辱はこのとき最高頂に達した。だが、ちょうどこの時だった。
 霊界全体をゆるがすような地響きが起き、また山が崩れ大きな岩石が天から降ってくるような音がした。私が気が付いて見ると実際に山々がその頂きからくずれ、巨岩は山腹をがらがらと転げ落ちていく光景が私の眼の前に起こった。私は恐怖の叫びを上げた。
 「わが命これまでなり。われ山の下敷きとなって絶命す!」
 私が再び気がついた時、私は、いま諸君とこうして話をしているような霊界にもどされていた。あの山崩れは山陰に巣食う凶霊たちを私たちの団体の主霊が退治してくれた山崩れだったのだ。私は本当に危機一髪のところにいたわけだ。
 ここまで話すと彼はさもその時の恐ろしさを再び思い出すかのように身振りをしながらいった。
 「いま汝らに話せるは、わが見たる地獄界の様子なり。地獄界はまことに恐ろしくも不愉快なる所なり。汝ら心して地獄界に近寄ることすべきにあらず……」

 この霊の話は私自分にとっても初めて聞いた地獄界の実際経験談であった。私はその後霊界の経験を積むにつれ地獄界のことにも詳しくなったが、私はこの項以下の数項で、地獄界のさまざまについて記すことにしようと思う。
 なお最初にことわって置くが、私がこれから記す地獄界は、あくまで霊界の中の一つの世界(それは醜悪な世界だが)としての地獄界であって、宗教などが人々に恐怖を起こさせ、人々を善に導くための方便としているような仮空の地獄とは全く違うものだということだ。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.151-155

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 16-b[24-o] (霊に眼ざめない者が死後自分の意思で地獄へいく)

 現世で悪いこと、不道徳な生涯を送った者は死後は地獄へ投げ入れられ、そこで永遠の罰を受ける。これは西洋も東洋も問わず世界中の宗教などが説いている地獄の教え″だから私がわざわざ取上げて紹介するまでもないことであろう。しかし、これは私に言わせれば宗教のうえでの必要から作った作り話で少しも根拠はない仮空の話である。
 私の記す地獄は、これとは全く違った地獄であり、その地獄は別に現世の悪業の報いとして投げ込まれる地獄でもなければ、また地獄に住むというサタン(悪魔の大王)やデビル(凶鬼)などにより永遠の苦しみを与えられるという地獄でもない。私の記す地獄はさっきも少しふれたように霊界の中の一つの世界として現実に存在する地獄であるからだ。
 人間の死後精霊となった者のうち、どんな者が地獄へ行くかを一口にいうと、つまりは霊に眼ざめず、霊界の存在が見えない精霊たちだということになる。だが、彼らとて宗教の説くように現世で悪業を重ねたために、神のようなものによって罰として地獄へ行くわけではない。彼らは彼らの欲するところによって自ら地獄へ行くに過ぎない。ただ、これら霊から真に眼ざめることのできない精霊の中には確かに現世で悪業を行なっていた者は全て含まれるから、その点では結果的、表面的には宗教の教えと同じことになるように見えるが実際の理由は、宗教のいうところとは全く違うのだ。
 地獄へ行く精霊は、現世にあったとき、たとえば物質的欲望、色欲、世間的名誉欲とか支配欲などといった人間の外面的、表面的感覚を喜ばすことばかりに心を用い、本当の霊的なことがらを極端にないがしろにした者である。これらの者は霊的事物には全く眼が開かれなかったため、精霊界に入ってもやはり開かれない者が多い。このようなわけで彼らの精霊としての心は霊界の太陽の光や霊流を自分の内部に吸収することができない。そして精霊界にどんなに長い期間いても彼らは霊界の太陽の光や熱の与える幸福や霊的理性の輝きを感ずるようにはならず、逆にその間に、地獄界の火に心をひかれ、地獄界の凶霊たちに親しみを感ずるようになる。この結果として彼らは、自分の希望するところにしたがって、その自然の凶霊的な心の命ずるままに地款界へ入って行くのである。これは人間でも似た者同士が集まるのと理由は全く同じなのだ。
 地獄界の凶霊は霊界の光や霊流から霊としての喜びや幸福を感ずることができない代わりに、自分の欲望を満足させることを喜ぶ。これらの欲望は、他の凶霊を支配したり、他の霊に悪業を働いたり、あるいは他の霊の賞賛を得たりしたいといった人間でいえば外面的、物質界的な低級な欲望ばかりだが、それにしても幾ら低級な欲望とはいえ、これを満足させることは彼らには喜びであることは間違いない。そこで、彼らは、これらを彼らの“光”として永遠の生を送ることになる。
 霊界の霊は、自分たちの生命の源も幸福の源も全て霊界の太陽にあることを知っている。そこで、彼らは自分が本当は自分の主ではなく、太陽こそが主であり、その太陽が霊界に行きわたらせている霊界の秩序にしたがって生を送ることこそがもっとも正しい霊の生だと知っている。これに対し、地獄界の霊の生命の源は、彼ら自身の欲望であり、この欲望が彼らの光なのだ。そこで彼らにとっては主は自分自身であり他に何の主の存在も認めないことになる。地獄界が争いの場であり、苦と汚れに満ちた場になるのは、彼らの一人一人が自分を最上の主だと考えているためにほかならない。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.157-159

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 16-c[24-p] (地獄界の罰は凶霊自身が自ら招くものに過ぎない)

 宗教は地獄界の罰は神というようなものが与えるものだと説くが、これも全くの間違いである。地獄界の罰は、そこに住む凶霊自身が、その性質のゆえに自ら招くものに過ぎない。彼らは、つねに他の霊を支配し、これを虐待し、なぶり者にすることによって自分の喜びとしようとしている。このため彼らの世界には秩序はなく、あるのは醜い我執の対立だけとなる。
 そのうえ、彼らの悪のすさまじさは、彼らが人間界にいたときのような法律や世間の評判、彼らの打算というような束縛を脱して、赤裸々な悪としてのものすごさをむき出しにしているのだ。
 顔が半分かけた凶霊、骸骨のように眼窩だけが暗い穴を開けた凶霊……などといった怪奇な霊の顔つきも彼らが、その本来の悪の正体を霊となることによりむき出しにするようになったことを示しており、彼らとて人間であったときは、その外面的な容貌は、こんなではなかったはずなのである。
 凶霊たちが霊界の太陽の光を拒んでいるのは、このような怪奇な姿を明るい光のもとにさらされる恐ろしさと、彼らには霊界の太陽の光は、あまりにまぶし過ぎて耐えられないことの二つの理由による。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.159-160

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 16-d (私が地獄へ赴く精霊に付いて行って見た地獄の様子)

 私も実は一度だけ、地獄へ赴く精霊について地獄へ入っていったことがある。この項では、その時に見た地獄の様子を詳しく記すことにしよう。
 私は暗い穴ぐらのような通路を通って地獄へ入っていった。通路をどのくらいいったかよくわからないがやがて道は斜めに折れ、そこに下へ降りる階段があった。しかし、その階段はおり口から二、三〇段だけが眼に見えるだけでその先はどこまでも無限に下へ向かっているのではないかという感じがする階段であったことをいまでもはっきり憶えている。私は階段を恐る恐るだったが一段一段と降りていった。あたりは暗闇につつまれていたがほんの少しのうす明りが私の周囲の世界を照らしていた。だが、その光はどこから発しているのかはわからない感じだった。
 階段をしばらく降りると、その階段は幾つもの同じような階段に分かれていた。私は、そのうちの一つの階段を選んで降りていった。この階段を大分降りた時、私は黒い霧のようなものに階段も私も包まれてしまったのを知った。しかし、しばらくして私の眼が黒い霧になれてくると私には遠いほうに、小さな赤みを帯びた明かりがあるのが見え、また、この黒い霧の下には地面のようなものがあるのが見えてきた。私は階段を地面へ向かって降りていった。すると、そこに階段の踊り場のように少し広くなったところへ出た。私は踊り場に降り、周囲を見回した。頼りはさっきの小さな明かりだけであった。
 小さな明り、それはちょうど霊界の太陽のように無限のかなたに見えた。ただ明るさと光の色が違うだけであった。この小さな明りに照らして見ると私は、その踊り場と思ったものが階段の踊り場などではなく、広く広がる世界の一部であることがわかった。眼がなれるにつれ、私にはそこに広がる世界が霊界と同じように広大無辺な広い広い世界であることがわかってきた。そして、そこにはやはり霊界と同じように大勢の霊たちが永遠の生を送っているのだった。
 だが、この霊たちの姿、形、顔つきは、さっきの話で記したようにいずれも醜怪をきわめ、とても同じ霊とは思えないものであった。ある者の顔は黒色で醜く、またある者は顔一面に汚いアバタが吹き出しており、ある者は恐ろしげな歯だけをむき出している……といったふうだった。この世界にもやはり、霊たちの住居や町、樹木等々……霊界にあるものは全てあるようだったが、それらの物も正視できないほど怪奇な姿をしており、また世界全体に鼻をつまむ気持ちの悪い異臭がただよっていた。
 私はこの世界を、さっきの小さな明かり一つを頼りにそのほうへ向かって歩いていった。この世界の様子はどこまでいっても同じように気味の悪いものばかりだった。ある街角のような所へ出たとき、突然一人の霊(凶霊)が飛び出してきた。彼は何かわけのわからぬことを大声で口走っている。すると彼を追いかけるように他の凶霊が一人、飛び出してきてこれも同じようにわめいた。私が驚ろいて見ている間もなく、町のあちこちから、いずれも醜怪な顔つきの姿の凶霊たちが何百、何千と集まってきた。彼らはいずれも、その醜い顔つきを一そう醜くゆがめて大声で何かを口走り、ののしり合っている。私には、彼らの口走っていることの意味がわからなかった。しかし、彼らの言葉の底にあるのは全てが怒り、憎しみ、報仇の念、虚偽といったものばかりであり、その口調もとても聞くにたえないものであることが、私の全身をぞっとする思いで凍りつけてしまった。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.160-162

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 16-e (地獄で大勢の凶霊たちが繰り広げる残虐行為を見る)

 だが、つづいて私の眼の前で起こった事件は、さらに一そう私を耐えがたい気持ちにさせるに十分だった。彼らの全員が、一番初めに街角へ飛び出してきた凶霊に打ってかかった。ある者は彼をたたき、ある者は石をぶつけ、ある者はこずき、また眼や歯に棒切れや指を突っ込んで彼をいじめる者さえあった。彼の苦痛の叫びと瀕死の表情は私の心臓を突き通す痛みを感じさせた。しかし、大勢の凶霊たちには、これはかえって彼らをより一そうかりたてるだけで彼に対する残虐な行為はそのたびによりひどさを加えていった。
 私は、あまりの惨状に眼をおおいながら、そこを去って、また小さな明りのほうへ向けて歩き出した。しかし、いくらも行かないうち、そこでも同じような事件が起きていた。私は落着いて、この世界全体を見渡した。するとそこに私が見たものは、この広大な世界のいたる所で、同じようなことが何千何万と起きているのが見えてきたのだ。私は、これが地獄の責め苦というものなのだと、このときになって初めて解った。
 しばらく歩いて行くと私は、また階段のようなものの所へ出た。この醜い世界に耐えられない思いのしていた私は、この世界を逃れるため急いで、その階段を下っていった。
 だが、そこに見たものは、さっきの世界よりなお一そう醜怪さに満ちた世界で、私はほとんど気絶せんばかりの気持ちになった。
 凶霊たちの顔つき、姿、形もさらに醜く恐ろしいものであり、また、ここで見る一切のものは、これに呼応するように、さっきの世界よりひどい怪奇さ、醜さを見せ、鼻をつく悪臭と汚れは、またなおさらひどいものであった。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.162-163

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 16-f (地獄は下へ行くほど凶悪な霊の住む恐ろしい世界になる)

 地獄の世界も霊界と同じよう三つの世界に分かれている。そして、この三つの世界は上から見ると底なしの沼のような黒い霧の中にあり、下へ行くほど凶悪な霊の住む恐ろしい世界になる。この一番下の世界は、まさに宗教などの説く仮空の地獄と同じような恐ろしさに満ちているのだといってよいだろう。
 地獄と一口にいっても、そこには一つとして同じものはない。全ての世界には千差万別といった違いがあり、共通していることは、その世界がいずれも醜悪さに満ち、凶悪な霊たちの住む世界だということ、この世界では、つねに憎悪、軽べつ、報仇といった気持ちと争いに満ちているということだ。
 私の見た地獄にも色々あった。ある地獄では汚穢と糞土のみがあり、また淫房だけの地獄もあり、火事の焼け残りの跡のような印象を与える地獄もあった。恐ろしげに茂った森林のような地獄では凶霊たちが、その森林の中を猛獣のような姿でうろつき回っていたりした……。
 また地獄の凶霊たちに共通した特徴は、彼らが如何に凶悪さに満ち、凶悪な行動を好む者でも、全て、どこか生気に欠け死屍のような“死”の印象を強く与えることである。これは彼らが、霊界の真の生命の根源である霊界の太陽につながりを持っていないためにほかならない。
 もうひとつ言うと、私が地獄界で見た小さな明りは実は、この世、つまり自然界の太陽の明りだったのだ。まだ、物質界的欲望や我欲を脱し切っていない凶霊たちは、物質界の太陽の光につながって生きようとする態度を死後何万年経ても捨て切れずにいることを示している。
 だが、この世の太陽が霊の世界において、光も力も持ちえないのは、霊界の太陽がこの世にほとんど光を持たず、人々にその存在すら知られていないことを考えれば誰にもすぐ理解できることであろう。つまり霊界の太陽は、この世にその姿をかすかに見せるのは、幽霊がこの世に現われたり、人々が死の知らせを受取るときといったように非常にまれで、しかも一瞬のことに過ぎず、この世で光と力を持っているのは自然界の太陽なのだ。霊界では、この関係はちょうど反対になっているわけである。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.164-165

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 16-g (霊界と地獄界の関係についての力学的考察)

 私はこの項の初めにあたり、いままでとは少し違って力学の話をしよう。
 AとBと二つの力があり、その大きさは同じで、力の方向は正反対だったとする。このときは二つの力は、それぞれ力として存在しているのだが、二つの力をその中央で一つに結びつけるとすれば結果はゼロになり何の力も働いていないと同じになる。これが力の平衡にほかならない。
 このとき中間にCという力を入れるとしよう。するとCの力は如何に小さくともそのCの力の大きさと方向がABCの全体の力の大きさと方向を決めることになるだろう。つまりA、Bが幾らCに比べて大きかろうと、決定権≠持つのは小さなCであり、ここにCには自由の意思を働かす余地を持つことになる。
 では本題にかえろう。
 地獄界から霊界を見ると、霊界の太陽と地獄界の間にはつねに一つの黒い雲が浮かんでいる。この黒い雲は霊界の太陽の光と霊流が地獄界へ達するのを妨げようとしている。この黒雲の正体は実は、地獄の幽霊たちの想念が集まって作っているものだ。だから、小さい地獄の霊の団体の上にかぶさっている黒雲はその団体の上をおおうだけの大きさであり、大きい団体の上にある黒雲は大きな黒雲となっている。
 これに対し、霊界の太陽の光と霊流は、つねにこの黒雲を追い散らし、光と霊流を地獄界にも達しさせようとしている。ここにはつねにこのような争闘がくり返されているわけである。ときに霊界の太陽の力が勝る場合は光と霊流は地獄界に達し、凶霊たちにまさに死の苦しみを与える。凶霊たちは、この苦しみを逃れるため黒雲の力を強くしようとしたり、また、他の場所へ移動したりする。
 霊界の地面のとくに山や大きな岩のあるところ、草原のくぼみのような陰になった部分のいたる所の裂け目には奇怪な姿をした洞穴の入り口みたいなものがある。そのあるものは泥田のようであったり、死水のようだったり、渦巻きのようだったり、一つとして同じものはないが、このような所からは時々、異臭を放つ奇怪な煙や火が吹き上げることが少なくない。これは、その下にある地獄界が霊界を侵蝕しようとはかっている姿なのだ。これに対しては、霊界は、山を崩したり岩を転げさせたりして、これに対抗している。
 霊界に上、中、下の三つの世界があるように地獄界にも三つの凶悪の程度の違う世界がある。これは、霊界と地獄の力のつり合いを保つためである。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.165-167

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 16-h (霊界と地獄界は力学的な平衡の中でともに存在している)

 霊界と地獄界は、このような平衡の中でともに存在している。この平衡がくずれ霊界がなくなったとすれば地獄界も存在しなくなってしまうだろうし、逆に地獄界がなければ霊界も存在を続けることはできなくなるだろう。これが平衡の理というものだ。
 また、このように二つの違う世界の力が平衡を保っているところに、人間が死後初めて入る精霊界の精霊たちの自由の保証もある。精霊の自由はつまりは人間の自由と同じことだから、これは人間の自由が、このような形で保証されているといってもよい。人間は私がさっきいった力学の例での小さな力「C」にあたる。人間が、その心によりA、Bいずれの方向を選ぶのも彼の自由なのだ。
 霊界の霊たちが生気に満ち霊的理性に心が開けているのに対し、地獄界の凶霊たちが死の影を背負っているのも二つの世界の平衡の象徴といえる。
 ただここで、さいごに私は一つのことだけをいっておこう。霊界で霊たちに本当の生命と理性、幸福を与える根源は霊界の太陽一つしかない。また其の権威や力の源泉もこの太陽だけである。地獄の火(自然界の太陽)は、霊界においてはこのような力を全く持っていない。霊界の霊と地獄界の凶霊の相違も結局は、これらの霊、凶霊が二つの太陽のどちらの光を受け入れるかによっているわけである。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.167-168

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 16-i (極楽は素晴らしいのになぜ死にたくないのか)

  「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天におどり地におどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたまうべきなり。よろこぶべきこころをおさえて、よろこばせざるは、煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。 ( 『歎異抄』第9段)

 むかし私が見たある外国映画の一つのシーンにつぎのようなものがありました。ヨーロッパのどこかの監獄で、一人の囚人が、三〇年も四〇年も独房に閉じこめられてよぼよぼの老人になってしまいます。老人は、独房の高い小さな天窓から差し込む光を仰いでは、監獄の外の自由へのあこがれを募らせていました。
  第二次世界大戦の末期だったでしょうか、その監獄もある日、激しい空爆を受けて、高い塀も頑丈な建物も崩れ落ちてしまいます。その独房の老人は生き延びて、瓦礫のなかから這い出してきました。そして、よろよろと外へ向かって歩き始めます。しばらく歩いて振り返りますが、誰も追ってくる様子もありません。目の前には、広々とした野原が広がっています。それは、老人が長い年月あこがれてきた自由の世界のはずでした。老人は、また少しよろよろと歩き続けます。しかし、そこで立ち止まってしまうのです。やがて老人は、またよろよろと、崩れ落ちた監獄へ帰って行きました。
  自由が束縛されても、孤独の苦しみがあっても、あまりにも長い年月それに慣らされてしまいますと、もうそこから抜け出すことさえ不安になってしまいます。浄土・極楽がいかに壮麗ですばらしいところであると聞かされても、唯円が疑問に思ったように、煩悩の世界に慣れきってしまうと、「急いで行きたい」と思われないのも、無理ではないのかもしれません。

  武本昌三『講演集』(第2集)「生と死の実相について」 pp.7-8

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 16-j (永久に呪われた者など全宇宙のどこにも一人としていない)

 たとえ想念がつながっているとはいえ、一方の領域から別の領域にむけて想念を翻訳する場合にはときどき問題がでてくる。そのため、真実といっしょに、歪みや不正確な表現がでてくる。もしある人が恐怖心いっぱいの状態で真理を聞いたとすれば、無線信号は歪むだろう。聖書がちょうどその一例である。その大部分には出発点における純粋のインスピレーションと直観的真理が存在しているが、多くの誤解や誤りもまた大量に受け入れられてきた。重要な例を二、三あげてみよう。

 @神は残酷で嫉妬深いがゆえに畏れられるべきである、という信仰の根底には、人間は邪悪であるから罰される必要がある、という概念が存在する。わたしたちはこの信仰を特に残念に思っている。なぜならこの信仰は、自分たちは罰される必要があると教えられた人びとによって創り出されたからである。こちらではあなたがたが「神」と呼ぶ至高の存在―無限の一なる存在―を直接に知覚している(以下この力を、神とだけでなく女神とも呼ぶことにする)。至高の存在は誰もが感じ取ることのできる実在であり、満ちあふれる愛として、またわたしたちの存在を絶えず支えていてくれる慈悲として感じられる。大いなる女神は一個の魂たりとも罰することはない。すでにあなたがたは十分自分たちを罰してきた―わたしはそのことを伝えるためにやってきたのだ。
 A地獄という概念は誤りであり、それがあなたがたの世界のすべての牢獄にいる「犯罪者」よりもさらに大きい苦しみと悲しみの原因となってきた。永久に呪われた者など全宇宙のどこを捜してもひとりとしていない。これまで教えられてきたような地獄は存在しないのである。生きとし生けるものすべてには神の祝福があり、いかに道を誤った行動をとろうとも、どの魂にも希望に満ちた未来がある。誰の心の内にも力は眠っているのだ。

 しかしこちらには、まさに地獄ではないかと思われるものがたしかに存在している。地上でひどい誤りを犯した者が、必ずといっていいほど、自分の間違いを修正するのに役立つような険しい人生航路をとるからである。これを解決するためには多くの方法があるが、それについてはあとで述べることにしよう。さしあたり、地獄の劫火と永遠の破滅を説く教会の教えこそが地獄に送られるべきものであり、今後そのような話はいっさい無用にしてもらいたい、と言うにとどめておく。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.24-25

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 16-k  (暴力で死亡した人が体験する醜悪と混乱の領域)

 暴力によるさまざまな死と定義されるものをひとまとめにしてお話ししたが、すべての死者が同じような魂の発達段階にあるという意味ではない。たとえば戦争中に多くの人が死ぬが、この人たちは基本的に人生でなすべきことを終えた人びとであり、こちらの世界に順応するのに問題はない。だが暴力によって死亡した者の大多数は、自分自身や自分の人生について重大な思い違いをしたために苦しんだのであり、彼らが死―つまりベールのこちら側に移行することだ―に際して経験することは、前章でお話しした経験とは大きく異なっている。
 この部類に属する人がよく眼にするのは、先にお話ししたような心なごむ気持ちよい風景とは逆の、冷たくて不毛の風景であろう。あたりには、わずかな美や感興すらなく、眼につくものといえば醜くおぞましい存在ばかりかもしれない。この人は自分の生前の恐怖を魂の領域へと持ち込んでしまったのである。この新しい現実を作り出したのは自分自身の心なのだ、ということを理解するまでには、測り知れぬほど長い時間がかかることだろう。「より高く」より居心地のいい領域での暮らしを楽しんでいる人びとは、このような醜悪と混乱の領域があることを知って悲しんでいる。とくに訓練を積んだより高い領域の者たちは、ときどきこれらの領域に行っては援助の手をさしのべている。だがこの援助も、助けられる側に健全で広い心がなくては受け取ることはできない。この領域にいる者の多くは、みずからが生み出した怒りと混乱の罠に長く捕われたままである。
 こちらで体験される不幸な生(あるいは死)のようすを長々と説明するのはやめて、はっきりとした結論を指摘するにとどめたい。人間が物質界で生きることを真剣に考え、生きている間にできるかぎり学ぼうと努力するのはたいへん結構なことである。地上での勉強のほうが、こちら側で勉強するよりもある点では容易だからだ。こちらにやってきた霊的に貧困な人びとは多くの障害を克服しなくてはならず、障害の克服は、肉体をまとっている時よりもはるかに困難なことが多い。もし彼らの過ちや罪が大きければ、別の人生でそれをあがなうチャンスを与えられるまでに非常に長い時間がかかるだろう。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.45-46

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 16-l (天国も地獄もないのか =1=)

 それに関連して、もうひとつ、べつのことについてうかがいたいのですが。天国と地獄についてです。ここで聞いたことから考えると、天国も地獄もないのでしょうか。

 地獄はあるが、あなたがたが思っているようなものではないし、あなたがたが教えられたような理由で地獄を経験するのでもない。

 地獄とは何ですか?

 それは、あなたがたの選択、決定、創造の最悪の結果を体験することだ。わたしを否定する考え、あるいはあなたがた自身の真の姿を否定する考えから生まれる、当然の結果である。
 地獄とは、間違った考え方から受ける苦しみだ。だが、「間違った考え方」という言葉も正しくない。なぜなら、間違った考え方や正しい考え方という区別はないからだ。地獄とは喜びの対極である。満たされないこと。自分が何者かを知っていながら、それを体験できないこと。本来の姿にくらべて卑小な在り方。それが地獄であり、あなたがたの魂にとって、それよりもつらいことはない。
 だが、地獄はあなたがたが空想するような、永遠の業火に焼かれるとか、際限のない苦悶にさいなまれるとか、そういったものではない。何のために、わたしがそんなものを創らなければならないのか。わたしが仮に、あなたがたは天国に「ふさわしくない」という、まったく神らしくないことを考えたとしても、あなたがたの過ちに復讐したり、罰したりする必要がどこにあるのか。あなたがたを見捨てれば、それですむではないか? どんな復讐心を満たすために、あなたがたを筆舌につくしがたい永遠の苦しみに突き落とす必要があるというのか?
 正義のためだというなら、天国でわたしと一体になることを否定するだけで、正義の目的は達成されるではないか。そのうえ、永遠の苦しみを与える必要があるだろうか。
 不安にもとづいてできている宗教でいわれるような「死後の世界」はない。だが、不幸で、不完全で、欠点が多く、神の偉大な喜びから遠く離れた魂の経験というものはある。あなたがたの魂にとってそれは、地獄だろう。だが、わたしがあなたがたをそこに送るのではないし、そうした体験をさせるのでもない。あなたがた自身が、真の自分ではなくなるとき、自分で地獄の体験を創り出す。ほんとうの自分を拒否するたびに、あなたがたは地獄の体験を創り出す。
 だが、その体験でさえ永遠ではない。あなたがたはいつまでもわたしから離れてはいられない。そんなことは不可能だ。そうなれば、あなたがたが自らを否定するだけではなく、わたし、つまり神を否定することになる。わたしは断じてそのようなことはさせない。わたしが真のあなたがたの姿を把握しているかぎり、結局は真実が支配することになる。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.60-62

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 16-m (天国も地獄もないのか =2=)

 でも、地獄がないのなら、わたしはしたいようにできる、好きなように行動できる、報いを恐れず何でもできるということですか?

 不安でなければ正しい者にならず、正しいことをしないのか? おどかされなければ、「善良」にならないのか? 「善良である」とはどういうことか? 誰がそれを決めるのか? 誰が指針を示すのか? 誰が規則をつくるのか?
 言っておくが、規則をつくるのはあなたがた自身だ。あなたがたが指針を示すのだ。自分がどれだけ善良であったかを決めるのは、自分自身だ。あなたがほんとうは何者であるか、そして何者になりたいかを決めるのは、あなただ。そして、どこまで目的を果たせたかを決めるのも、あなただ。
 誰もあなたがたについて、決めつけたりしないだろう。神がどんな理由で、どんな方法で、自らの創造物を悪と決めつけるというのか。あなたがたが完璧で、すべての行為が完璧であることを望んだのなら、神ははじめからあなたがたを完壁なものとして創ったはずではないか。肝心なのは、あなたがたが自分自身を発見し、真の自分、ほんとうにそうありたい自分を創り出すことだ。だが、それとはべつの選択肢がなければ、真の自分を発見して創り出すことはできない。
 それなのに、わたしが与えた選択肢のどれかを選んだからといって、あなたがたを罰したりするはずがない。あなたがたに第二の選択をさせたくなかったら、どうして、そのような選択肢を与えるだろう。
 非難する神の役割をわたしにふりあてる前に、そこを考えなくてはいけない。
 あなたのさっきの質問に対する答えはイエスだ。あなたは報いを恐れずに好きなことをしていい。だが、その行為の行き着く先を心得ておくほうがいいだろう。
 行き着く先とは結果である。自然のなりゆきとして起こることだ。報いや罰とはまったく違う。結果は結果にすぎない。自然の法則に従い、起こったことを受けて当然に生じることだ。
 すべて物質的な生命は自然の法則に従う。この法則を思い出して適用すれば、物質的なレベルでの生命は支配できる。あなたがたの目には罰と見えるもの、あるいは悪とか不運と思われるもの、それは自然の法則の結果でしかない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.62-63

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 16-n[10-v] (天国へ行くのではなくすでに天国にいると気づくこと)

 それでは、わたしは天国へ行くために、十戒をまもる必要はないんですね。

 「天国へ行く」のではない。自分がすでに天国にいると気づくだけだ。受容と理解があるだけで、そのための努力や闘いがあるのではない。
 あなたは、すでにいる場所に行くことはできない。そのためには、いまいるところを離れなければならないし、そんな旅は無意味だ。
 皮肉なことに、ほとんどのひとは、行きたいところへ行くためには自分がいるところを離れなければならないと考えている。そこで、彼らは天国に行くために天国を離れる―そして、地獄を通る。
 悟りとは、行くべきところもすべきこともないし、いまの自分以外の何者にもなる必要もないと理解することである。
 あなたがたはどこかへ向かう旅をしているのではない。
 あなたが言うような天国はどこにもない。どこにもないという意味のnowherewhのあいだをあけてみよう。そうすれば、あなたがたは天国をいま(now)……ここ(here)に見るだろう。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.133

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 16-o[65-v] (あなたは自分が知っていることを知らないだけである)

 とにかく、わたしには天国がいま、ここにありえるのかどうか疑問ですし、天国を経験したこともありません。

 知らないことは経験できない。そして、あなたはいま、ここで「天国」を経験していないから、それを知らない。悪循環だ。知らないことは経験できない―その術をまだ見いだしていない―し、経験できないことは知ることができない。
 悟りとは、経験していないことを知ること、それによって経験するということだ。知ることによって経験への扉が開かれる―そして、たぶんわかっているだろうが、逆もまた真である。
 実際には、あなたがたは経験しているよりずっと大きなことを知っている。ただ、自分が知っていることを知らないだけなのだ。
 たとえば、あなたがたは神がいることを知っている。だが、それを知っていることを知らないかもしれない。そこで、あなたがたは経験を待ってうろうろしつづける。ところがその間ずっと、経験しているのだ。しかし、そうとは知らずに経験している。それではぜんぜん経験していないのと同じだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.135

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 16-p (死後の裁きと報いは人間の本能的な考え方を反映してきた)

 どのような時代においても、人間は、「地上でなした善と悪に応じて、死後に、幸福、または不幸になるはずだ」ということを、直観的に理解してきた。
 ただし、その理解がどれほど明確なものであるかは、その時点における人間の徳性の発達の程度と関連していたし、善と悪に対する認識の深さともかかわっていた。死後の裁きと報いに対する考え方は、その人間を支配している本能的な考え方を反映するのである。
 たとえば、戦闘的な民族であれば、「勇敢さに対して最も高い報いが与えられる」と考えた。狩猟民族であれば、「どれほど獲物を獲ったかによって死後の処遇が決まる」と考えた。官能を大事にする民族であれば、「天国とは、官能的な無上の喜びが与えられる世界である」と考えただろう。
 人間が物質に支配されているあいだは、霊性に関しては充分に理解できないはずであ る。だから、その場合には、天国の喜びも地獄の苦しみも、霊的というよりは物質的なレヴェルのものとならざるを得ない。天国に行っても飲み食いをすることになるだろう(ただし、地上よりも、はるかにおいしいものである)。
 その後、死後の様子は、霊的な要素と物質的な要素が入り混じったものとなる。たとえば、「天国には、至福に満たされた霊的な時間を過ごす人々がいる一方で、地獄には、物理的な責め苦を受ける人々がいる」といった具合である。
 目で見えるものしか信じられない時代にあっては、人々は、当然のことながら、死後の世界を地上界にそっくりなものとして思い描いた。目の前に見える世界とは異なった世界のことが思い描けるようになるためには、時間とともに人間の知的能力が大幅に拡大する必要があったのである。
 したがって、まだ知的な進化が充分でなかったころの地獄とは、人間が地上で体験し得る苦痛の程度を強化したものにすぎなかった。地上に見られる、あらゆる拷問、責め苦、体罰、苦痛などが、地獄にもあるとされた。
 たとえば、灼熱の地に住む人々であれば、地獄は灼熱地獄となるであろう。また、極寒の地に住む人々にとって親しい地獄とは、当然ながら、寒冷地獄であろう。
 霊界の実態がいかなるものであるかが、よく分かっていなかったので、地獄の責め苦といえば、物理的なものを思い浮かべざるを得なかったのである。
 だから、多少の細部の違いを別とすれば、あらゆる宗教の地獄はよく似ている。

    アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
      幸福の科学出版、2006、pp.313-315