学びの栞 (B) 


 18. 苦難と悲しみ (苦労の意味)


 18-a (障害や困難は大きな成長の機会)

 障害や困難の克服が、霊的な成長を促進するということは本当です。重い精神病や肉体的な欠陥などのように深刻な問題を持つことは進歩のしるしであって、退歩を意味してはいません。私の見解では、こうした重荷を背負うことを選んだ人は、大変に強い魂の持ち主です。最も大きな成長の機会が与えられるからです。もし、普通の人生を学校での一年間だとしたら、このような大変な人生は大学院の一年に相当します。退行催眠で苦しい人生の方がずっと多く現れてくるのは、このせいでしょう。安楽な人生、つまり休息の時は、普通はそれほど意味を持っていないのです。

  ブライアン・ワイス『前世療法(2)』(山川紘矢・亜紀子訳)
    PHP研究所、1996、p.217


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  18-b (障害の多い方が多くを学べる)

 障害となるものが少ないよりも沢山ある時の方が、多くを学ぶことができます。困難な人間関係や多くの障害や悲しみに満ちた人生は、魂の成長にとってもっとも大きなチャンスなのです。霊的な成長を促進できるように、あなたはわざわざ、より困難な人生を選んだのかもしれません。
 失業などの良くない出来事は、時にはより良いチャンスへのドアを開けてくれるものであったりします。早まって悲嘆にくれたりしてはなりません。運命がその複雑なタペストリーを織りあげるには、もう少し時間がかかるのです。苦痛と困難に加えて、この世界には愛と喜びとエクスタシーもあります。私達は他の人々の間にいることによって、愛を学ぶためにここにいるのです。そして他の人々もまた、私達と同じ道で、同じレッスンを学んでいます。愛は知的なものではありません。私達が気づかなくても、絶えず私達に流れ込み、通りすぎてゆくダイナミックなエネルギーです。私達は愛を与えることも、受け取ることも学ばなければなりません。人間社会の中で、人との関わり合いの中で、人々への奉仕の中でこそ、すべてを超えた愛のエネルギーを私達は本当に理解できるのです。

  ブライアン・ワイス『魂の療法)』(山川紘矢・亜紀子訳)
   PHP研究所、2001、p.93-94


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 18-c (苦しみの果てに得たやすらぎ

 山茶花の美しい日でした。電話で解雇の知らせを受けた夜、私の心はキリキリ痛みました。眠るどころではなく、私は般若心経について書いた本を読みながら横になっていました。心を苦しむにまかせていましたのに、本を読み進むにつれて、その苦しみが少しずつ希望に変わっていくのを感じました。
 やがて、長い冬の夜が明けて、障子が白々としてきたとき、突然、私は激しいめまいを感じ一瞬、意識がなくなったように思いました。次の瞬間、昇ってくる朝日に照らされながら、私は何か大きな暖かいものにすっぼりと包まれているのを感じました。
 それは何だかわからないけれども、もう私は一人で悩む必要も苦しむ必要もないと確信できました。私のすべてを、現在も未来もその大きな力にまかせてよいのだと思いました。これまでも、いつも私はその大きなカに包まれていたのに、自分でそれに気づいていなかったのだと感じました。
 そして、自分の進むべき道がはっきりと、本当にはっきりと目の前に見えてきました。解雇や病気は、私が仕事を辞める理由にはならない。この宇宙の中での私は小さい、けれどもそれが私である以上、私は最善の生を生きなければならない。私と同時代に生きた人々のために、まだ私には何かができるはずだと感じました。私の生きてきた人生経験が、私に動かしがたい何かを与えてくれたこと、そして、私が、十年、二十年前の不安定な私ではなくなっていることを、はっきりと感じました。私の得たものを成長させて、世の中に返す義務があると思いました。一睡もしませんでしたが、前の晩のみじめな私はもうそこにはいませんでした。

 柳沢桂子『癒されて生きる−女性生命科学者のこころの旅路』
  岩波書店、1998、pp.29-30

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 18-d (苦難は神からの贈り物である)

 わたしの死は、あたたかい抱擁のようにやってくるだろう。ずっと前からいってきたように、肉体にいのちを宿している期間は、その人の全存在のなかではごく短い期間でしかないのだ。
 学ぶために地球に送られてきたわたしたちが、学びのテストに合格したとき、卒業がゆるされる。未来の蝶をつつんでいるさなぎのように、たましいを閉じこめている肉体をぬぎ捨てることがゆるされ、ときがくると、わたしたちはたましいを解き放つ。そうなったら、痛みも、恐れも、心配もなくなり・・・・・美しい蝶のように自由に飛翔して、神の家に帰っていく・・・・・・そこではけっしてひとりになることはなく、わたしたちは成長をつづけ、歌い、踊る。愛した人たちのそばにいつもいて、想像を絶するほどの大きな愛につつまれて暮らす。
 幸運に恵まれれば、わたしはもう地球にもどってきて学びなおす必要のないレベルに到達するかもしれないが、悲しいことに、とわの別れを告げようとしているこの世界にたいしてだけは不安を感じている。地球全体が苦しみにあえいでいる。地球が生まれてからこのかた、いまはど衰弱した時期はない。あまりにも無思慮な搾取によって、地球は長いあいだ虐待されてきた。神の庭園のめぐみをむさぼる人類が庭園を荒らしつくしてきた。兵器、貪欲、唯物論、破壊活動、それらがいのちを支配するルールになっている。恐ろしいことに、いのちの意味について瞑想する人たちによって世代をこえて受けつがれてきたマントラ(真言)はカを失ってしまった。
 まもなく地球がこの悪行を正す時期がくると、わたしは信じている。人類の所業に報いる大地震、洪水、火山の噴火など、かつてない規模の自然災害が起こるだろう。わたしにはそれがみえる。わが亡霊たちからも、聖書に描かれているような規模の大異変が起こると聞いている。それ以外に、人びとが目ざめる方法はないのか?自然をうやまうことを説き、霊性の必要性を説くためにとはいえ、ほかに道はないのか?
 目には未来の光景が映っているが、わたしのこころはあとに残していく人たちに向けられている。どうか、恐れないでほしい。死が存在しないことを想起さえすれば、恐れる理由はなにもない。恐れることなく自己をみつめ、自己について知ってはしい。そして、いのちを、やりがいのある課題だとみなしてほしい。もっとも困難な選択が最高の選択であり、正義と共鳴し、カと神への洞察をもたらす選択なのだ。神が人間にあたえた最高の贈り物は自由選択だ。偶然はない。人生で起こるすべてのことには肯定的な理由がある。峡谷を暴風からまもるために峡谷をおおってしまえば、自然が刻んだ美をみることはできなくなる。
 ・・・・・・・人生に起こるすべての苦難、すべての悪夢、神がくだした罰のようにみえるすべての試練は、実際には神からの贈り物である。それらは成長の機会であり、成長こそがいのちのただひとつの目的なのだ。

  エリザベス・キュブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳)角川書店、  1998、pp.372-374

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 18-e (辛い経験をすればするほど人はそこから学び成長する)

 一九八五年、エイズ感染児を養子にするという意向を発表した直後に、わたしはシエナンドー谷でもっとも忌むべき人間になりさがった。やむをえずその計画を放棄したあとでさえ、脅迫者たちはわたしを追いだすために殺人をも辞さない卑劣な行為をとりつづけた。わが家の窓は銃弾で撃ちぬかれ、家畜たちが撃ち殺された。美しい土地での静かな暮らしは、打ちつづく脅迫によって惨めで危険なものになった。だが、それはわたしの家だった。わたしは頑強に引っ越しを拒んだ。
 その一〇年前、わたしはそこヴァージニア州のヘッドウォーターズにある農場に移り住んだ。すべての夢をかなえるに足る農場だった。出版と講演で得た収入をぜんぶそこに注ぎこんだ。自宅を建て、近くに来客用の宿泊施設を建て、農場スタッフの宿舎を建てた。ヒーリングセンターを建て、そこでワークショップをひらいた。消耗する旅行のスケジュールは大幅に楽になった。エイズ感染児たちを養子にするという計画が浮かんだのはそのときだった。たとえ余命がほんのわずかでも、子どもたちはその美しい自然のなかの生活をたのしんでくれるはずだった。
 農場での簡素な生活はわたしのすべてだった。長い空の旅を終えてわが家へとつづく曲がりくねった道にたどり着くと、からだの芯からくつろぎがひろがった。どんな睡眠剤にもまして、夜の静けさが神経をやわらげてくれた。朝は動物たちの鳴き声のシンフォニーで目がさめた。牛、馬、鶏、豚、ロバ、ラマたち……。旅から帰ったわたしを全員がにぎやかに歓迎してくれた。みわたすかぎり野原がひろがり、朝露がきらきらと光っていた。太古から生きている樹木たちが沈黙の叡知をたたえていた。
 すべきことはいくらでもあった。泥だらけの両手はいつも大地に、水に、陽光にふれていた。ふたつの手がいのちの材料をこねまわしていた。
 わたしの人生。
 わたしのたましいがそこにあった。
 そして、一九九四年一〇月六日、わが家に火が放たれた。
 家は全焼した。資料も原稿も宙に消えた。もてるものすべてが灰燼に帰した。
 家が火の海につつまれているという知らせを受けたのは、帰路の飛行機に乗るべくボルティモア空港を小走りで急いでいたときだった。携帯電話の先の友人は、まだ家に帰るなと哀願した。しかし、わたしはそれまでにも両親や知人から「医者になるな」「瀕死の患者と面接するな」「刑務所にエイズ・ホスピスをつくるな」といわれつづけてきた。そして、そのつど、人に期待されることより自分が正しいと感じたことを頑固に実行してきた。そのときも同じだった。
 だれだって生きていれば辛苦を経験する。つらい経験をすればするほど、人はそこから学び、成長するのだ。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.13-14

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 18-f[2-t] (学べば学ぶほど課題は難しくなる人生の学校)

 人はいつもわたしに死とはなにかとたずねる。死は神々しいものだと、わたしは答える。死ほど安楽なものはないのだ。
 生は過酷だ。生は苦闘だ。
 生は学校に通うようなものだ。幾多のレッスンを課せられる。学べば学ぶほど、課題はむずかしくなる。
 火事はその課題のひとつだった。喪失を否定しても無益である以上、わたしはそれを受容した。ほかになにができただろう? つまるところ、失ったものは「もの」にすぎない。いかにたいせつなものであれ、あるいはいかに痛ましい感情であれ、いのちの価値にはくらべようもない。わたしはけがひとつ負わなかった。すでに成人しているふたりの子どもたち、ケネスもバーバラも生きている。脅迫者たちはわが家と家財一式の焼き討ちには成功したが、わたしを滅ぼすことはできなかったのだ。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.15-16

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 18-g[13-i] (この世に存在する唯一の目的は成長することにある)

 教訓を学んだとき、苦痛は消え失せる。
 地球の反対側ではじまったわたしの人生は事件の連続だったが、けっして楽なものではなかった。それは愚痴ではなく事実である。困苦なくして歓喜はない。それをわたしは学んできた。苦悩なくしてよろこびはないのだ。戦争の悲惨がなければ平和のありがたさがわかるだろうか? エイズがなければ人類社会が危機におちいっていることに気づくだろうか? 死がなければ生に感謝するだろうか? 憎しみがなければ、究極の目標が愛であることに気づくだろうか?
 わたしが気に入っていることわざに「峡谷を暴風からまもるために峡谷をおおってしまえば、自然が刻んだ美をみることはできなくなる」というものがある。
 三年前のあの一〇月の夜は、たしかに美がみえなかったときのひとつだった。しかし、それまでの人生でも似たような岐路に立たされ、ほとんど闇と化した地平線に目をこらしてなにかを探しつづけたことは何度もあった。そんなとき人にできるのは、拒絶しつづけて責める相手を探すか、傷を癒して愛しつづけることを選ぶかのいずれかである。存在の唯一の目的は成長することにあると信じているわたしは、後者を選ぶことをためらわなかった。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、p.16

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 18-h[13-n] (痛みに耐えることは魂の進化に貢献することである)

 パーソナリティーにひずみを生じさせる恐れや怒り、嫉妬などを理解するには、それらとカルマとの関係を考慮することが不可欠である。もしあなたが、人生を通じて手にする体験の数々は、自身の魂のエネルギー・バランスをとるために必要なことなのだと理解していたなら、そのときあなたは、それらに過剰に反応しなくてもいい自由、すなわち、自分の魂のために新しいネガティブなカルマを創造しなくてもいい自由を手にすることになる。
 痛みはそれだけなら、たんなる痛みにすぎない。しかしそれは、「痛みは価値ある目的に奉仕する」ということを知っている人間にとっては「試練」である。試練には意味がある。試練は耐えることができる。なぜならば、それは耐えるに値するものであるからだ。痛みに耐えることは、魂の進化に貢献することである。それ以上に価値のあることがあるだろうか?

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、p.212

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 18-i[36-r] (生まれる前に想像を越えた悲しみを選択することもある)

 この世に来る前、私達がスピリットの存在であった頃、ある時点で私達の意識は地上界で起こることを選択することになっている。その際、重篤な病気、ハンディキャップ、未熟児死亡、あるいは愛する人を失うなどのように、自らすすんで困難や試練を選ぶこともある。自分に近しい人を失くす事は心臓がやぶれるほどの経験であろう。恐ろしい歴史的な事件に巻き込まれたり、想像を越えた悲しみを選択するスピリットもいる。
 しかし、地上界に降り立つときは、その計画のこともスピリットとしての強い意識も忘れてしまう。それは人生で成長するためにもう一度見つけなければならないものだからだ。たとえば12歳のあなたが、35歳で非業な死をとげることを覚えているのなら、あなたの地上生活はどんなものになるだろうか。しかし、スピリットとのコミュニケーションにせよ、他の方法にせよ、将来起こることをちらっとでも見せられたとしたら、それは自分の人生のストーリーを解き明かすのが目的ではなく、何か大きな計画があることを意味している。

  ゴードン・スミス『なぜ、悪いことがおこってしまうのか』
    (ノーマン・テイラー・邦子訳)ナチュラルスピリット、2011、pp.202-203