学びの栞 (B) 


 19. 価値判断・視点の相違


 19-a (あなた次第で相手も変わる)

 まだ、飛行機も列車もなかった昔のこと。ヨーロッパを旅していた一人の男が、美しい山間のある村にひと月ほど逗留していた。その間、大勢というわけではなかったが、それでも何人かの旅人が男の泊っていた宿屋を訪れた。
 そしてある日、そんな旅人の一人が、宿屋の軒先にやってきて主人に尋ねた。
 「ご主人さん。この村は素晴らしい村だそうですね。村人は人情に厚く親切で、行き倒れの旅人でも手厚く面倒を見て下さるそうで・・・・・・・」
 すると主人は答えた。
 「旅のお方、あなたのおっしゃる通りだ。あなたは運のいい方だ。きっとみんな親切にしてくれますよ。たっぶっ旅を楽しまれるがいい」
 それから何日かして、別の旅人がやはり宿屋の入り口に立って、主人に聞いた。
 「主人。この村は相当物騒な村と聞いたが、大丈夫だろうか。村人の気性も荒いようだし、至って不親切だ。聞いた話では、何でもこの間も危うく命を落としかけた旅人がいるってことだね。用事が済み次第早く帰ろうと思ってる・・・・・・・」
 すると主人は答えた。
 「旅のお方。あなたのおっしゃる通りだ。あなたはしっかりしてなさる。くれぐれも用心して下さいよ。どんな目に遭うかわかりませんからね」
 その様子の一部始終を見聞きしていた逗留の男が我慢ができなくなって言った。
 「ご主人さん、あんたは随分ちゃらんぽらんだ。言ってることがまるで逆さまじゃないか。一体ビっちが本当のことなんですか」
 すると主人はにこりと微笑んで、こう答えたという。
 「いえ何ね。実はどっちも本当なんですよ。村に好感を持っている人は自然に笑顔になるでしょう。ならば村人だって親切にもなります。それで、この村はやっぱりいい村だってことになるんですよ。でも、最初から不信感を持っている人は無愛想だからね。村人だって心を閉ぎして、不親切にもなります。それでやっぱりこの村はひどいってことになるわけなんですよ。

  高橋桂子『ディスカバリー・世界の実相への接近』
         三宝出版、1996、pp.168-169

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 19-b (信念は真理を受け入れるのに妨げになることがある)

 ひとつ知っておくとよいことがあります。決して何も信じてはいけないことです。絶対に。信じるというのは、まだこれから知るべきこと、体験を通してこれから理解していくべきことについて、確信を持ってしまうことです。それに、信念は大変危険なものです。なぜなら、信念を持った状態では、まだ自分の存在の内面で真理として確立していないものに対して、自分の信頼、価値観、生命までも任せてしまうからです。そうすると、あなたはとても弱い立場に置かれます。そして、その脆弱な状態では、操られ、罵られ、呪われ、あげくは生命を失うこともあり得るからです。それも全部、ただの信念のためにです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 93

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 19-c[11-a] (自分の受け取る想念に価値判断を下してはならない)

 自分自身と自分の人生を「在るということ」の目から見るのを学ぶことだ。花を手にするとき、それが醜いとか美しいとか言わない。それは価値判断であり、その花の想念を変質させてしまうのである。純粋なのは、「花」という想念だ。花を見てそれを「花、光、生、ただ在るもの」として見るならば、それはあなたの体中に波動の高い電質を送る。そうすると、あなたはキリストと同じように考えている。すべてのものを等質のもの、ただ在るものとして見ているからである。自分の体験を限定したり価値判断を下したりしなければ、そのたびにあなたは、日常の存在を越えた限りない想念を受け取る脳の活動を認めているのである。
 自分の受け取る想念に価値判断を下してはならない。何かがプラスであるとも考えないことだ。マイナスも存在すると言わずに、それがどうしてプラスであり得ようか。もしあなたが「これはいいことだ」と言ったら、それは、悪いものもあるということを意味する。自分にやさしく、自分を愛するとき、自分は美しいとは言わず、自分は神である、と言うことだ。近所の人と一緒に何かをするとき、これはいいとは言わず、これは神だと言おう。それは、そのことがただ在ることを意味する。それは、単に生における純粋で貴重な体験であるということなのだ。
 ほかの存在がそれぞれの生で自己を表現しているのを見るとき、ただ在るもの、という以外の見方をけっしてしてはならない。その表現をいいとか悪いとか、プラスやマイナスとして見ると、自分の内に変質した見方をつくり出すことになる。そして、自分の知覚したものは、自分がそうなるものでもあるのだ。その想念は、自分の存在の内にフィーリングとして刻まれるからである。つまり、あなたは自分自身を犠牲にすることになるのだ。なぜなら、あなたの価値判断の影響を体験するのは相手ではなく、あなた自身だからである。そして、魂に記録されたそのフィーリングは、それから先の自分の行動と、自分自身の存在そのものを判断する前例をつくってしまうのである。
 誰かを責めるとき、それはその人の内に見える自分のある側面を責めているにすぎない。そういう面があれほど簡単に自分に見えるのは、このためなのだ。あなたの意識がそういう側面に向いてしまうもこのためなのである。その他人は、あなた自身の内なる価値判断を映す鏡として機能したにすぎず、あなたがほかの人間から受容してきた自分自身に対する価値判断を、しっかりと見直すための道具としてそこにあるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 289-290

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 19-d[11-b] (自分の思考過程から価値判断を取り除く方法とは)

 人を見るとき、彼らをただ在る存在として、また「公平」という見方で見ることだ。もしある人間がほかに対して残虐であったり、憎しみをもっているなら、その人が残虐であり、憎しみをもっているということは真実だ。なぜなら、まさに彼らはそういう形で自己を表現しているからである。その表現方法が悪い、間違っている、邪悪であるというと、それはひとつの価値判断となる。そしてそれは、百パーセントあなたの体験となり、内に変質をもたらすのだ。
 誰も価値判断を下すに値する人はいない。肌の色、行為、どんなことであろうと、そのために自分を神なる状態、ただ在るという状態から変質させる価値はないのである。それが誰であっても、どんな形で自己表現をしていたとしても、そういう表現を許している神が内にいる彼らを愛するのだ。ただ存在しているという、そのことだけで、人は愛されるべきなのである。存在しているというその事実だけでも、これから先その人がするどんな行為よりも偉大なことなのだ。彼らのその存在を愛するのだ。彼らが存在する限り、あなたもまた必ず存在していく。どんな人間であろうと関係なくその人を愛するならば、そしてその愛を在るがままで存在させるならば、あなたはいつも純粋な存在でいられるだろう。
 さて、自分の思考過程から価値判断を取り除くいちばん手っ取り早い方法は何だろうか。それは、もともとそういうものを生み出した自分のフィーリングや想念をまず意識することによってである。この気づきを通して、あなたは思考をより純粋にすることを自分に教えられる。
 幸せでないとか、悲しい、あるいは怒りや恐れ、焦り、あるいはとにかく自分が好まない感情を感じたときには、自分の思考を調べてみることだ。やがてあなたは、自分や他の人間に判断を下したり、生というものを分断された側面や部分で見るような「変性思考」と、自分の不快な感情との関係が見えてくるだろう。そして、もうこういうフィーリングにうんざりしてくると、あなたは自分と生との間を分断している価値判断を取り除き、思考を浄化し始めるのである。それにともなって、また自分の存在が限りない思考をさらに体験していくにしたがって、あなたには自分の限りない思考と、平和、よろこび、調和、そして身体の動きの軽さなどとの間にある関係も見え始める。
 それともうひとつ、自分が価値判断を下してしまうことについても価値判断を下してはならない。自分に慈しみの心を持ち、ただ自分の思考やフィーリングへの気づきが自分に教えるままにしておくことだ。それは必ず教えてくれる。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 290-292

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 19-e[11-c] (何であろうと自分に在るがままでいるのを許すこと)

 これまでつくり出されたすべての言葉の中で、この教えにいちばんぴったりするものがある。それは「在る」という言葉だ。どういう意味なのだろうか。それは、何であろうと自分に在るがままでいるのを許すこと、そして、そういう自分を完全に愛するということだ。何でもいま感じているものを感じ、その感情を生きることなのだ。「在る」とは、完全にその瞬間に生きることだ。いまという瞬間しか存在しないことを知っているからである。それは自分のしたいことをするということであり、それを追い求めていくよう魂が自分に強く望む冒険を生きていくことなのである。
 そういう生き方をすると、自分やほかの人間、あるいは自分に生まれてくる思考に対して価値判断を下すことはなくなる。すると、善−悪、可能−不可能、完全−不完全、ポジティブ−ネガティブといったものもなくなる。この瞬間の美を感じ、味わうことを許さない時間という幻影がもはやなくなってしまう。ただ在る状態でいるとき、そこには生の「在るということ」、それにいまという瞬間の途切れなき継続性だけがあるのだ。
 ただ在る状態では、思考は過去や未来をもてあそぶことはやめ、罪悪感や悔恨の情、あるいは、「しなければ」や「するべき」などにとらわれなくなる。在るという状態では、特定の真実を固守することなく、あらゆる真実を吟味するようになる。すべての真実を在るがままの存在として見て、自分の在るという状態の中でうまくはたらくものかどうかを決めるため、それぞれについて詳しく探求することを認めるのである。そういうふうに生きると、自分のもとにやってくるすべての思考は熟慮され、脳を通じて身体の中でフィーリングとして理解される。これがさらに多くの想念、知識、そして在るがままのものを招き入れるのだ。
 ただ在る状態でいるとき、あなたはすべてのものの「在るということ」と同じ線上にある。その関係を通して、何でも好きなものを手に入れられるのだ。そのためにすることといえば、ただ在ること以外、何もないのである。あなたの存在の神が、自分の考えていること、望んでいることを引き寄せてきてくれるのだ。それは必ずやってくる。あらゆる手立てを通じて外からこれを実現しようとする者は、この内面からの道をまねた取るに足らないまがいものをつくっているのだ。ただ在る状態では、あなたはすでにすべてを持っているのであり、すべてのものそのものなのである。
 ただ在るとき、そして自分がすべての想念を受け容れることを許しているとき、あなたは神の声を聞くことができる。そうすれば、知りたいと思ってきたことはすべて、瞬く間に知ることかできるのだ。自分の思考に価値判断を下さず、それが自分の魂の内に感情として表出することを許すとき、あなたはひとりの無限の神として生きている。単に「在るということ」、在るものすべてに対して心を開くことによってこれが可能になるのだ。あなたは自分自身の神なる自己の純粋な媒体となることができて、神の精神の純粋な単純さに近づくのである。
 知ること、許容することによって生きるのを学ぶのだ。そうすれば、あなたは変性自我を制したことになる。第七のレベル、第七のチャクラ、第七の天界を制したことになるのだ。第七のレベルでは価値判断は存在しない。生の途切れなき継続性があるだけだ。価値判断を制してしまえば、この次元のすべてを学んだことになり、いつでも自分の望むときにここを去ることができるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 292-294

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 19-f[55-a] (事故にはそれを体験することで学べる教訓がある)

 事故の原因は、犠牲者の前意識のなかに隠されているのでしょうか。それとも、人は自分ではどうにもできない災難の犠牲者にすぎないのでしょうか。じつは事故ですら、前意識の自己の深いところに、前もって作り出された不協和の結果なのです。これは非常に厳しい教えのように思われるかもしれませんが、よく考えてみれば、そうではありません。事故の犠牲者になる魂は、事故にはそれを体験することによってのみ学ぶことのできる教訓があることを、前意識において、十分に知っているのです。
 子供についても、きっと質問があるに違いありません。父親が酔っ払って欲情をおこし、その結果生まれたかわいそうな子供たちはどうなのか、と質問したいに違いありません。あるいは、病気の親から、病気をもって生まれた子供はどうなのかと。このような罪のない子供たちもまた、運命によって苦しみに満ちた人生を生きていかなければならないのかと。
 あるいは、狂気の肉体に閉じ込められた魂、生まれたときから病に犯された肉体に閉じ込められた魂はどうなのだろうか、という疑問を抱かれるかもしれません。このような疑問に対して、どうすれば納得のいく答えが得られるというのでしょうか。
 これらの場合にもまったく同じ答えが当てはまる、と私たちは答えたいと思います。人間の魂は自分に何が起きるか、ということについての予知能力を常にもっており、自らに提示された人生を受け入れることも拒絶することもできるのです。
 このような問題について、きわめて限られた洞察力しかもっていない人間にとっては、どのような動機によって、魂が苦難の人生を選択したのかを理解することは不可能であり、魂がどれほどの苦しみを体験しなければならないのかを垣間見ることすら不可能です。しかしながら、戦慄を覚えるほどの惨事が地上において行なわれているのを目撃した後ですら、人間が、善なるもの、神、宇宙の第一の源と呼んでいる、あの全能の存在の価値を判断してはなりません。たとえ、この存在が幼い子供たちが苦しむのに任せて、何もしないように見えるにしてもです。
 私たちがいるところでは、誰であれ価値判断をするということはありません。より広い視野から見ると、神はいかなる意味においても、復讐をしたり残酷であったりするようにはけっして見えないのです。私たちがいつも感じているのは、限りない愛であり、神の思いやりに満ちた知性であり、人間に対する永遠の慈悲心です。私たちに見えるのは、全智全能の父が、自分の子供が歩む道を自由に選択する意思の力を与えている姿です。苦しみの道であれ、喜びの道であれ、エゴを克服していく道であれ、すべての道は上昇を続け、やがては、完璧な宇宙の崇高な意識のもとに帰っていくのです。
 猫がネズミをもてあそんでいるのを見て、感傷主義者は身震いしてこう叫びます。「なんて恐ろしい、残酷なことをするんでしょう。自然は残酷さにみちみちている!」。一見そのように見えるかもしれません。しかし、そう見えるのは限られたヴィジョンしか持っていない人なのです。実際はそうではありません。さまざまな外観の背後には神の愛と理解があり、すべてのものに浸透しているのです。私たちのまわりに充満しているように見える苦しみは、神の崇高な調和と愛と美を、すべての神の被造物の意識に理解させるための手段を包み込んだものなのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.260-262

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 19-g[48-b] (不公平な出来事に抗議してもなんの役にも立たない)

 明らかに不公平と思われる出来事に抗議したり、問題にしたりしても、なんの役にも立たないように思われます。そのような病気の原因は、病気にかかっている人の親切でやさしい性質よりも、ずっと深いところに根ざしているのです。その原因は、病んでいる人の現在の人生を越えたところに起因しており、その根っこは現在の人生の外面的な部分に見出すことはできないのです。
 熱と同じように、苦しみは洗浄の先駆けとなるものであり、一つの過程の終りを告げるものでもあります。懐疑論者は人が昼も夜も苦しむのを見て、感傷主義者が猫に掴まったネズミを見て示すときと同じ反応を示すかもしれません。彼らは、病気に苦しむ人がやがてもたらすことになる、がっしりとした根や美しい花などというものを考慮に入れようとはしません。
 したがって、懐疑論者は、人間の内部にうごめくより豊かな生命力の根源については無知のままであり続けるでしょう。この内なる生命は、病気や苦しみを通して耕された土壌に、元気よく、美しく芽を出すことになるのです。懐疑論者は人間存在の表面だけを見て、表面のみを知るにとどまるでしょう。人間の魂の真の生命は、懐疑論者に見えることはありません。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.262-263

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 19-h[42-m] (自分自身の価値観があなたの人生の骨組みになっている)

 でも、わたしは善と悪が存在すると教えられて育ちました。善と悪は対立すると教えられてきました。神の目には、あるものはまずい、いけない、受け入れられないと教えられてきました。

 神は何でも「受け入れる」。存在するものを神が受け入れないはずはない。拒否するというのは、その存在を否定することだ。何かがいけないと言うのは、それがわたしの一部ではないと言うことである。そんなことはありえない。
 だが、あなたは自分の信念をもち、自分の価値観に従いなさい。それはあなたがたの親の、そして親の親の価値観だから。友人の、そして社会の価値観だから。自分自身の価値観があなたの人生の骨組みになっている。それを失えば体験の布目がばらばらにほつれてしまう。ただ、価値観をひとつずつ検討しなさい。ひとつずつ、見なおしなさい。家を解体するのではなく、レンガをひとつずつ調べ、壊れていて、もう家の構造を支えられなくなっているものはとり替えなさい。
 善悪についてのあなたがたの考え、それもあなたがたをかたちづくり、創造する思考のひとつだ。その思考を変える理由はひとつしかない。あなたがたが、「そう考えている自分」では幸福ではないときだけだ。
 あなたが幸福かどうか知っているのは、あなただけである。あなただけが、自分の人生について―「これはわたしの創造物である。わたしはとても満足している」と言うことができる。
 あなたの価値観が自分に役立つなら、大事にしなさい。これがわたしの価値観だと言い、まもるために闘いなさい。だが、闘うといっても、誰も傷つけないように気をつけなさい。傷つけることは、癒しにはつながらない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.87-88

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 19-i[65-u] (あなた方は他人の体験で自分を創りあげてしまっている)

 あなたは「自分の価値観に従いなさい」と言われたが、同時に、わたしたちの価値観はすべて間違っているとも言った。そこをわかるように説明してください。

 あなたの価値観が間違っていると言ったのではない。しかし、正しいとも言わなかった。それは、ただの判断だ。評価すること、価値を決めることだ。しかも、たいていの場合、その決定はあなたがたではなく、誰か他人が決めている。あなたの親かもしれない。宗教かもしれない。教師、歴史家、政治家かもしれない。
 あなたが真実だと思っている価値判断のなかで、体験にもとづいたものはごくわずかしかない。あなたがたは体験するためにこの世に生まれ、その体験を通じて自分を創りあげるはずだった。ところが、他人の体験から自分を創りあげている。
 罪というものがあるとすれば、これがそうだろう。他人の体験で自分を創りあげてしまうことだ。

 それが、あなたがたが犯してきた「罪」である。ひとりひとりが犯してきた罪だ。
 あなたがたは自分で体験するまで待たず、他人の体験を(文字どおり)福音として受け入れ、実際の体験をするときには、すでに知っていると考えていることをなぞる。
 そんなことをしなければ、まったく違った体験ができるのに。その体験は、教師や情報源のほうが間違っていると教えてくれるかもしれない。だいたいあなたがたは親や学校、宗教、伝統、聖書を間違っていると考えたがらない。だから、教えられたと思うことを受け入れて、体験のほうを否定する。
 人間のセクシュアリティに対するあなたがたの態度を見ればよくわかる。
 誰でも、性的体験が人間の行為のなかで最も愛すべきで、胸躍る、力強い、昂揚する、新鮮で、エネルギッシュで、前向きで、親密で、一体感のあるものだと知っている。
 それなのに、あなたがたは他人が考え出した性に関する判断、見解、考えのほうを受け入れる。その他人は、自分が得になるから同じ判断をさせたがるのだ。
 そういう見解、判断、思考は体験と真っ向から対立するのに、あなたがたは教師が間違っていると考えるのがいやだから、間違っているのは体験のほうだと自分に言い聞かせる。その結果、あなたがたは真実を裏切り、そのために、破壊的な影響が生じている。
 金銭についても、同じことだ。大金をもつたびに、あなたはうれしくなった。大金を受けとれば喜び、使うと楽しくなった。それは悪いことではない。それ自体が悪であること、本質的に「間違っている」ことは何もない。だが、この問題でも、ほかのひとの教えが深くしみこんでいるから、他人の「真実」を認めて、自分の体験を否定する。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.88-89

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 19-j[44-zp] (神には欠けているもの必要なものは何もない)

 だいたいあなたがたは、「もし神が法に厳格に従うことを望むなら、どうして法が破られる可能性などをお創りになったのか」という、あたりまえの質問をしようとしない。もちろん、彼らは、神があなたがたに「自由な選択」をさせようとなさったからだ、と教える。だが、一方ではなく片方を選んだら責められるというなら、自由な選択とは言えない。あなたがたの意思ではなく、誰かべつの者の命令によって選択するのなら、「自由意思」とは言えない。あなたがたにそう教えた者は、神を偽善者にしている。
 あなたがたは、神は赦してくださる、情け深いと教えられる。だが、「正しい方法」で赦しを願わなければ、適切な方法で「神のもとへ」おもむかなければ願いは聞き届けられないから、叫んでもむなしいだけだと言われる。適切な方法がひとつしかなければそれもいいが、宗教の数だけ「適切な方法」が存在する。
 そこで、ほとんどのひとは、おとなになってからの人生の大半を「正しい」礼拝方法、正しい神への従い方、正しい仕え方を探し求めて過ごす。ところが皮肉なことに、わたしは礼拝を求めていない。あなたがたの従順は必要ないし、仕えてもらう必要もない。
 そうしたことは昔から支配者が人民に求めてきた態度だ。支配者は、ふつうはきわめて自己中心的で、不安定で、専制的だ。そんなものは神の戒律ではない。そんな戒律が偽物で、神の必要性や欲求とは何の関係もないことに、世界がまだ気づかないというのは不思議なくらいだ。
 神には何も必要ではない。「すべて」、それが神だからだ。欠けているもの、必要なものは何もない。それが神という存在なのだ。
 神が何かを必要とする―それが手に入らなければ、怒って相手を罰すると考えるなら、あなたがたはわたしよりもずっと小さな神を信じることになる。あなたがたは劣った神の子だということになる。
 わが子たちよ、もう一度、はっきりと言う。わたしには必要なものはない。わたしは何も求めない。だからといって、わたしに欲求がないわけではない。欲求と必要性は同じではないからだ(同じだと思っている者が多いが)。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.90-91

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 19-k[44-zq] (神は欲求を実現させるために完璧なシステムを創った)

 欲求とは、すべての創造のはじまりである。最初の考えである。魂のなかの偉大な感覚である。それは神であり、つぎに何を創造するかの選択である。では、神の欲求とは何か。
 第一に、栄光のなかでわたし自身を体験することを願った。わたしが何者であるかを知ることを願った。あなたがたを、そして宇宙の世界すべてを創り出す前には―それは不可能だった。
 第二に、あなたがたに「自分で選んで創造し、体験する」という力を与えて、真の自分を知って体験させようと願った。
 第三に、生命のプロセスのすべてがたえまない喜びと創造の体験であり、終わることのない拡大で、一瞬一瞬が充分に満たされることを願った。
 欲求を実現させるために、わたしは完璧なシステムをつくりあげた。そのシステムはいまも働きつづけている。いま、この瞬間にも。あなたがたとわたしとのたったひとつの違いは、それを知っているかどうかだ。あなたがたがすべてを知った時には(その時はいつきてもおかしくない)、あなたがたも、わたしと同じように感じるだろう。大きな大きな喜びと愛と受容と祝福と感謝を感じるだろう。
 この五つは神の姿勢である。あなたがたもこの五つを実践すれば神性が得られることを、この対話のなかで教えてあげよう。短い質問なのに、ずいぶん長い答えになった。
 そう、自分の価値観に従いなさい。それが役に立つと思うあいだは。ただし、その価値観が役に立っているかどうか、最も気高く、すぐれた考えを体験する場を与えてくれているかどうか、思考と言葉と行動を通じて、点検しなさい。
 価値観をひとつずつ検討しなさい。外の光にあててみなさい。世界に向かって、自分が何者か、何を信じているかを、ためらわず、はっきりと言いきれるなら、あなたは幸せだ。この対話をこれ以上つづける理由はないだろう。なぜなら、あなたは自分を―自分のための人生を―創り出していて、改善の必要がないのだから。あなたは完璧に到達した。この本は閉じてよろしい。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.91-92

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 19-l[12-h] (聖書の内容は教会によって取捨選択・編集されていた)

 でも、こうして座ってあなたと対話しているなんて、しかもあなたが―神が―答えてくれると想像するなんて……ひどく厚かましい感じがします。だって、こんなのは狂気のさたですよ。

 そうか。聖書の執筆者はすべて正気だったが、あなたは狂気だというわけか。

 聖書の執筆者はキリストの人生の証人で、見聞きしたことを忠実に書きとめたんです。

 訂正しよう。新約聖書の執筆者のほとんどは生きているキリストを見たことも、会ったこともない。彼らはイエスが地上を去ってから何年もたって生まれている。彼らはナザレのイエスに道で会っても、気づかなかっただろう。

 しかし……。

 聖書の執筆者たちは偉大な信者で、偉大な歴史家だった。彼らは自分たちや友人たちに伝えられた物語を書きとめたのだ。長老から長老へと、文字になるまで言い伝えられてきた物語を。
 しかも聖書の執筆者が知っていたことのすべてが、完成した書物に収められたわけではない。
 イエスの教えの周囲にすでに「教会」が生まれていた。そして、力強い教えのまわりに人びとが集うときにはどこでも必ずそうだが、教会のなか、信者の集団のなかには、イエスの物語のどの部分をどのように語るかを決めた人びとがいた。この取捨選択、編集のプロセスは、福音と聖書の内容を収集し、文字にし、出版するまで続いた。
 もとの聖書が書かれて何世紀かが過ぎたあとでさえ、カトリック教会の公会議が、公的に認められている聖書にどの教義と真理を収めるかを決めていた。それに、どの教義が「不健康」あるいは「時期尚早」で、大衆に知らせてはならないかも決定していた。
 聖なる書物はほかにもある。どれも、ほかの面ではごく、ふつうの人びとが、インスピレーションを得て書いたもので、どの執筆者もあなた以上に狂気だったわけではない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.93-94

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 19-m (魂は偉大でないものを決して非難せずむしろ祝福する)

 人間の魂の目的はすべてを経験すること、それによってすべてになりえることだ。
 一度も下降したことがなければ、どうして上昇できるだろう? 一度も左になったことがなくて、どうして右になれるだろう? 冷たいということを知らなければ、どうして温かくなれるだろう? 悪を否定していたら、どうして善になれるだろう? 選択肢がなければ魂は何も選べない。魂が偉大さを体験するためには、偉大であるとはどういうことかを知らなければならない。そこで魂は、偉大さは偉大でないところにしか存在しないと気づく。だから、魂は偉大でないものを決して非難しない。それどころか祝福する。そこには自らの一部、別の一部が現れるために必要な一部があるから。
 もちろん、魂の使命はわたしたちに偉大さを選ばせること― 選ばなかった部分を非難せず、最善の自分を選ぶようにさせることだ。こんな大きな使命を果たすには、いくつもの生涯が必要だ。あなたがたはすぐに批判しようとし、自分が選ばなかったものを祝福しないで、ものごとを「間違っている」とか「悪い」とか「充分ではない」と決めつけたがる。
 非難するよりも、もっといけないこともある。自分が選ばなかったものを傷つけようとするのだ。破壊しようとする。自分が賛成できない人間や場所やものごとがあれば、攻撃する。あなたがたの宗教と対立する宗教があれば、間違っていると言う。自分と違う思想があれば、ばかにする。自分と違う考え方があれば、拒否する。だが、それは間違っている。それでは宇宙の半分しか創造できない。そして、残る半分を拒否していたら、自分の側の半分さえ理解できない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.114

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 19-n (価値判断をする時あなたは純粋な創造の場に置かれる)

 こうした事柄には「正しい」も「間違っている」もない。
 だが、あなたの決断はあなたが何者なのかを映し出す。
 実際、国家はその決断によってそれぞれの姿を映し出してきた。
 宗教はその決断によって、いつまでも消えない印象を創り出してきた。
 社会も、その決断によって、自画像を創り出してきた。
 あなたは、いまの自分の姿に満足しているか? 宗教の姿は、あなたの望んでいるものだろうか?
 いまの社会の自画像は、あなたが何者であるかを正しく反映しているだろうか?
 ……こういう疑問に目を向けてごらん。そうすれば、自分で考えなければならなくなる。
 自分で考えるのはつらいことだ。価値判断をするのはむずかしい。自分で考え、価値判断をするとき、あなたは純粋な創造の場に置かれる。なぜなら、さまざまなことについて 「わたしにはわからない。わからないのだ」と言うほかないだろうから。それでも、決定しなければならない。選択しなければならない。自分で考えて選択しなければならない。
 そういう選択―過去の知識にたよらない決断―それが純粋な創造と呼ばれるものである。そしてひとは、そうした決定をしているとき、自分自身を新たに創り出していることに気づく。
 あなたがたのほとんどは、この重要な仕事には関心がない。他人まかせにしたがる。だから、自分を創造せず、習慣の生き物、外側から創られる生き物でいる。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
   (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.208-209

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 19-o[10-y] (意識的に生きるというのはどういうことか)

 他人からどう感じるべきかを指示され、それが自分のほんとうの気持ちとは違うと、深い心理的な葛藤を経験する。あなたがたの奥深くにある何かが、他者が言うことは自分の思いとは違うと語りかける。それではどこへ行けばいいか? どうすればいいか?
 あなたがたがまず行くのは宗教者のところだ。そもそも、そうした立場にあなたがたを追いこんだひとたちのところだ。あなたがたは僧侶やラビ、牧師、教師のもとへおもむく。彼らは、自分の心のなかの声に耳を傾けてはいけないと言う。いちばんひどいひとたちは、あなたがたをおどし、おびえさせて、直感的に知ったことを捨てさせようとする。
 彼らは悪について、悪魔について、魔物について、悪霊について、地獄について、呪いについて、考えつくかぎりのあらゆる恐ろしいことを語る。そしてあなたがたが直感的に知ったことは間違っている、慰めを見いだすべき唯一の場所は彼らの思想、考え、教義であり、彼らが定義する正邪であり、彼らが考えるあなたがたの姿であると説得する。
 あなたがたはハイと言えば、すぐに自分を認めてもらえるという誘惑にかられる。彼らは受け入れるどころか、歌ったり叫んだり踊ったり腕を振りまわして、ハレルヤと叫んだりしてくれるだろう! これには抵抗しにくい。あなたは光を見いだした、救われた、と認めてもらえ、喜んでもらえるのだから!
 認められ、大げさに騒がれることはたいてい心から納得して決めたことではない。個人の誠実な選択がそんなふうに祝福されることはほとんどない。それどころか、嘲笑されるかもしれない。なんだって? 自分自身で考えるんだって? 自分自身で決定するんだって? 自分の物差しで、自分の判断で、自分の価値観で決めるんだって? いったい何様のつもりなんだ?
 そう、おまえは何者か、という問いにあなたは答えることになる
 その仕事はたったひとりでしなければならない。報償もなく、認められもしない。気づいてももらえないかもしれない。
 あなたは良いことをたずねた。そんな目にあって、どうして続けなければならないのか? どうしてそんな道へ歩み出さなければならないのか? 自己探求と創造の旅に出ることで、何が得られるのか? どこにそんなことをする動機があるのか? どんな理由でするのか?
 その理由はばかばかしいほど簡単だ。
 「ほかにはどうしょうもないから」

 それは、どういう意味ですか?

 つまり、そのゲームしか行われていないからだ。ほかには何もない。あなたにできることはほかには何もない。あなたは残る生涯もずっと、いましていることを続ける。生まれてからずっとしてきたように。問題は、それを意識的にするか、無意識のうちにするかということだけだ。
 この旅をやめることはできない。あなたは生まれる前に旅を始めた。あなたの誕生は、旅のはじまりを告げる合図にほかならない。
 そこで、問題はなぜそんな道へ歩み出すのか、ではない。すでに踏み出しているのだから。問題は、この道を意識的に歩くか、それとも無意識のまま歩くかということだ。はっきりと目を見開いて進むか、目覚めないままでいるか? 自分の経験の原因となるか、それとも、結果となるか?
 これまであなたは、経験の結果としての人生を生きてきた。いま、経験の原因になってみてはどうかと誘われている。それが、意識的に生きるということ、目を見開いて進むということだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.209-211

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 19-p (金についてあなたがたは考えちがいをしている)

 わたしの人生では、充分なお金があったためしがないようなんですが、どうしてでしょうか? わたしは永遠にあくせく働き、つつましく暮らす運命なんですか? 金銭面で可能性を充分に実現できないのは、何がじゃまをしているんでしょう?

 そういう状況に置かれているのは、あなたばかりではない。おおぜいのひとが同じ思いをしている。

 自分に価値を認めるかどうか、それが問題だとみんなが言うんです。自分に価値があると感じないからだ、と。何人ものニューエイジの指導者たちに言われました。何が足りないにしても、たどっていけば原因はつねに、自分に価値があると思っていないことに行きあたるんだって。

 そういう単純化は便利だが、この場合はその指導者たちが間違っている。あなたは自分自身に価値があると思えないから苦しんでいるのではない。それどころか、あなたの人生で最大の難問は、自意識をどうコントロールするかだった。自意識をコントロールしきれないというのは、自分自身に価値を置きすぎるからだと言うひともいるくらいだ!

 そう言われると、また情けなくなって恥じ入りますが、おっしゃるとおりです。

 真実を言っているだけなのに、あなたはそのたびに情けないとか、恥じ入るとか言うんだね。恥じ入るというのは、他人にどう見られるかを重要視する自意識の強い人間の反応だ。もう、それは卒業したほうがいい。新しい反応をするようにしてごらん。笑ってごらん。

 ええ、そうしましょう。

 あなたの場合、自分自身の価値が問題なのではない。あなたには大きな価値がある。ほとんどのひとがそうだ。あなたがたは自分に価値があると考えているし、そう思うべきなのだ。問題は、自分に価値があると思えないことではない。

 では、何が問題なのでしょう?

 問題は、豊かさというものの原則が理解できていないことだ。何が「正しい」か、何が「悪」かについて大きな誤解がある。例をあげてみようか。

 お願いします。

 あなたは、金は悪いものだと思っている。また、神は善いものだと思っている。それはよろしい!しかし、あなたの思考のなかでは、神と金は混じりあわない。

 そうですね、見方によれば、それは真実でしょう。わたしはそう考えています。

 すると、おもしろいことになる。なぜなら、良いことをして金を得ることがむずかしくなるからだ。つまり、あなたにとっては、「良い」と判断することは金銭的な価値が低いことになる。「より良い」こと(より大きな価値のあること)は、もっと金銭的な価値が少ないというわけだ。
 そう考えているのは、あなただけではない。あなたがたの社会全体がそう考えている。だから、教師は薄給で、ストリップの踊り子は大金を稼いでいる。指導者たちの報酬はスポーツ選手にくらべればスズメの涙で、その差を埋めるためには汚職をする。聖職者やラビはパンと水で暮らしているのに、タレントたちには金が降るように集まってくる。
 考えてごらん。あなたがたは、本質的な価値のあるものは安く手に入るべきだと思っている。たったひとりでエイズの治療法を研究している科学者は資金集めに苦労し、新しいセックスの技巧一〇〇種類について本を書き、ビデオを制作し、週末セミナーを開く女性は……大金持ちになる。
 そんなふうにすべてが逆さまになる傾向があるが、それもみんな考えちがいのせいだ。
 金について、あなたがたは考えちがいをしている。あなたがたは金を愛しているのに、金はすべての悪の根源だと言う。金を崇めているのに、「汚い銭」と呼ぶ。ひとを「汚い金持ち」呼ばわりする。
 誰かが「良い」ことをして金持ちになると、すぐに疑いをいだく。それは「おかしい」と思う。
 だから、医師はあまり儲けないほうがいい。あるいは、儲けても内緒にしておくことを覚えたほうがいい。
 聖職者は― さあ、大変だ!彼女が大金を稼ぐのは絶対に良くない(あなたが、女性聖職者を認めるとして、だが)。必ず困った目にあう。
 あなたは、崇高な天職を選んだものは、誰よりも報償が低くて当然だと感じている……。

 ふーむ、そうですねえ。

 そう、まさに「ふーむ」と言うべきだ。そこのところをよく考えたほうがいい。それはとんでもない考えちがいだから。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.218-221

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 19-q (あなたの人生は金に関するかぎり一貫性がなく揺れ動いている)

 「正しい」とか「間違っている」というのは相対的な言葉で、わたしも相対的な意味で使っている。この場合、あなたにとって有益かどうかで見れば―あなたが欲していることがらとの関係でいえば―あなたの考えは間違っているということだ。
 思考は創造につながることを忘れないように。だから、あなたが金は悪いものだと考え、自分自身は価値があると考えれば……葛藤が生じる。
 さて、わが息子よ、あなたの場合とくに考えちがいの影響が大きい。たいていのひとは、あなたほど悩まない。生活のためにいやでたまらないことをしているから、金を得ることを何とも思わない。言ってみれば、「悪い」ものを得るために「悪い」ことをしている。ところがあなたは人生を捧げている活動を愛している。一生懸命にしている活動を賛美している。
 あなたが自分の活動に対して大金を得れば、「良い」ことをして「悪い」ものを得ることになる。それがあなたには受け入れられない。純粋な奉仕をして「汚い銭」を得るくらいなら、飢えたほうがいいと思っている……あるいは、金をとると奉仕の純粋さが損なわれると感じる。
 そこに、金にまつわる矛盾がある。あなたの一部は金を拒否しているのに、一部は金がないことを恨んでいる。それでは、宇宙はどうしていいかわからない。宇宙はあなたから二種類の違った思考を受け取るからだ。そこで、あなたの人生は金に関するかぎり、一貫性がなくて揺れ動くことになる。あなた自身の金に対する考え方に一貫性がなくて揺れ動いているからだ。
 あなたは、焦点が定まっていない。自分にとっての真実は何か、あなたには確信がない。宇宙というのは、巨大なコピー機にすぎない。あなたの考えを何枚もコピーするだけだ。
 すべてを変える方法はひとつだ。あなたの考えを変えるしかない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.222

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 19-r (支えとなっている考えをどうすれば変えられるか)

 どうすれば、考え方を変えられますか? わたしはわたしの考え方で考えるしかありません。考え方とか姿勢とか思いとかは、一瞬でできるものではない。何年もの経験の結果、それまでの生涯の出会いの結果でしょう。お金に対するわたしの考え方はおっしゃるとおりですが、でも、どうすれば変えられるんですか?

 それは、この本のなかで最も興味深い質問かもしれない。ふつう、ひとの創造方法には、思考、言葉それに行為あるいは行動という三つの段階がある。
 第一が思考、創造的な考え、最初の概念だ。そのつぎに言葉がくる。ほとんどの思考はいずれ言葉になり、書かれたり語られたりする。言葉になることで思考にエネルギーが加えられ、世界に押し出されて、ほかのひとたちの目や耳にふれる。
 最後に、言葉が行動になり、結果を生むことがある。思考から始まったものが、物理的な世界に出現する。
 人間が創った世界で、あなたがたのまわりにあるものはどれも、こんなふうにして生じている― 多少、かたちは違っても本質は同じだ。創造の三つのセンターが使われているのだ。
 そこで、問題が生まれる。支えとなっている考えをどうすれば変えられるか?
 そう、これはたいへんに良い質問だ。そして、とても重要な質問だ。支えとなっている考えのいくつかを変えなければ、人類は滅亡してしまうかもしれない。
 根になる考え、つまり支えになっている考えをいちばん速く変える方法は、「思考−言葉−行為」というプロセスを逆転させることだ。

 説明してください。

 まず、こうありたいと思う考えにもとづいて行動しなさい。それから、こうありたいと思う考えを言葉にしなさい。それを何度も実行していれば、精神の訓練ができて、新しい考え方ができるようになる。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.223-224

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 19-s (あなたの心は他への反応でしかない思考で満ちている)

 
あなたは、自分がどうしていまのような考え方をするようになったか、わかるのか? 世界があなたの精神を操作して、いまのような考え方をさせているのを知らないのか? 世界に精神を操作されるより、自分で操作するほうが良くはないか?
 ひとがこう考えさせたいと思う考え方をするより、自分がこうありたいと思う考え方をするほうが良くはないか? 外部に反応するだけよりも、創造的な考えを身につけるほうが良くはないか?
 ところが、あなたの心は他への反応でしかない思考で満ちている。他者の経験から生じた考えだ。自分自身のデータにもとづいた考えはごく少ないし、こうありたいという自分の希望にもとづいた考えはさらに少ない。
 あなたの金に対する考え方の根本にある思考がいい例だ。金は「悪いものだ」という考えは、あなたの経験―「金があるのはすばらしいことだ!」と真っ向から対立する。そこで、あなたは自分をごまかし、根にある考えを正当化するために、経験のほうが間違っていると自分をだまさなければならなくなる。
 その思考があまりにしっかりと根を張っているので、金に対する考えのほうが不正確なのかもしれないとは思いつかない。
 あなたにいま必要なのは、自分自身のデータを見つけることだ。そうすれば根にある考え方が変わり、自分の考えを根にすることができる。
 ところで、まだ話していなかったが、あなたには、金に関して根となる思考がもうひとつある。
 足りないという考えだ。じつは、その考え方はすべてについての根でもある。金が足りない、時間が足りない、愛が足りない、食べ物が、水が、世界に同情が足りない……良いものはすべて足りない。
 この「足りない」という集合的な意識がいまのような世界を創りあげている。

 すると、金について変えるべき根となる思考―支えとなっている思考―が二つあるんですね。

 少なくとも二つあるということだ。たぶん、もっとたくさんあるだろう。調べてみようか……。
 金は悪い……金は手に入りにくい……神の仕事をして金を受けとってはいけない(これは、重大な考えだ)……ただほど高いものはない……金のなる木はない(じっは、あるのだが)……金は腐敗のもと……。

 わかりました。わたしにはずいぶん、しなければならないことがあるんですね。

 いまの状況で幸せでないのなら、そのとおり。いっぽう、あなたがいまの金銭状況で不幸なのは、あなたがいまの金銭状況で不幸だからだということを理解することが大切だ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.224-226

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 19-t (悪循環を起こす否定的な考えは変えなければならない)

  わたしがいまの金銭状況で不幸なのは、わたしがいまの金銭状況で不幸だからだ、というのはどういう意味ですか?

 あなたは、自分がこうだと思う人間になるからだ。否定的な考えをもつと、悪循環が起こる。その循環を断ち切る方法を探さなければならない。
 あなたの現在の経験の多くは、いままでの考え方がもとになっている。考えが経験につながり、経験が考えにつながり、それがまた経験につながる。この循環は、支えとなっている考えが楽しいものであれば、つねに喜びを生む。支えとなっている考えがひどいものだと、地獄を生み出すことになる。秘訣は、支えとなっている考えを変えることだ。
 ・・・・・まずしなければならないのは、思考−言葉−行為というパラダイムを逆転させることだ。行動する前に考えよ≠ニいう古い格言を知っているか?
 それは忘れなさい。根となる考えを変えたければ、「考える前」に行動しなければいけない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.227-228

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 19-u (他人が持っているものを欲しがってはいけない)

 世の中には自分より豪華で優雅で派手でバラ色に見える人生を送っている人はどこにでもいるものである。また、容姿端麗でいい身なりをして思いのままのぜいたくができている人は、とかく目につくものである。が、そういう人をうらやましがってはいけない。
 地上の人生は永遠の生命の中にあってはホンの一瞬の間にすぎない。もとより、たとえ一瞬とはいえ、それを楽しく愉快に過したいと思う気持は私にも分からないではない。が、その気持ちは物″によって満たされるものではない。本当の生き甲斐は霊的調和を達成することによって得られる。
 隣の人が持っているものを欲しがってはいけない。もしかしたら、隣の人はその代償として胃かいようか高血圧を患っているかもしれない。隣の奥さんをうらやましく思ってはいけない。もしかしたら鼻もちならないガミガミ女かもしれない。旦那がいつも残業してお金を稼いでいるのは、もしかしたら奥さんの顔を見る時間を少しでも減らしたいからかもしれない。
 他人が持っているものを欲しがってはいけない。それを手に入れるためにその人がどんな犠牲を払っているかは知るよしもないからである。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp. 115-116

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 19-v (人間の正当性の唯一の基準はその人の霊性の発達程度)

 私は教義への忠誠よりも個人としての人間の義務を第一とする教えの方が大切だと思う。一つの行為が善いとか悪いとかは、その行為者がその時点までに到達している霊的進化の程度によって決められることである。
 たとえば人食い人種が敵の捕虜を殺して食べても罪とはいえない。そういう習慣の中で生きてきており、それが“いけないこと”であるという意識が芽生える段階にまで霊性が発達していないからである。
 しかしあなたにはそれが分かっている。あなたはそれを罪悪であるとみる段階にまで到達している。だから人間の肉は食べられない。
 が、たぶん動物の肉は食べるであろう。しかしあなたよりさらに霊性の発達した人は動物の肉も食べられない。その人にとっては動物を殺して食べるということは罪悪なのである。そこでその人は植物食になる。
 そういうわけで、あなたが牛肉を食べても“いけないこと”とはいえなくても、植物食の人にとっては“いけないこと”なのである。このように人間の行為の正当性の唯一の基準はその人の霊性の発達程度なのである。

   M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp. 119-120

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 19-w[11-t] (人の持ちものを妬むのは愚かしいことである)

 人の持ちものを妬むのは愚かしいことである。妬ましく思うその対象物は目に見えるものでしかない。物的なもの、表面的なものばかりである。その持ち主はそのためにどれほどの代償を支払っているかは知るよしもないし、もし自分が同じ境遇にあったらそれを求めたく思うかどうかまでは考えてみない。
 人間にはそれぞれに必要なものがあり、そのうちのどれかを優先して求めている。もしもお金が欲しいのなら、それなりの努力をしなければならない。人の成功をうらやましく思っているだけでは成功はできない。

   M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
     潮文社、1988、pp. 126-127