学びの栞 (B) 


   21.霊界での再会


 21-a (霊界ではすべての魂がもう一度再会することになっている)

 わたしたちは、形が何もない状態のなかに入っていき、そこで永遠に暮らすのでしょうか。いいえ、そんなことはありません。私が保証します。霊界には本当に素晴らしい場所が用意されています。これは心霊主義者がいうサマーランドよりも遥かに美しい場所で、ここですべての魂がもう一度再会することになっています。
 心に銘記してください。ここはあらゆるレベルの人間の生命体が再会する場所です。ということは、地上で肉体をもった人間もここに上昇することができるのです。それは、家族の再会の局面で、ここで家族が一緒に集い、生き生きとした愛情の絆によって結びついた人たちが再会し、挨拶を交わすことができます。
 しかし、注意してほしいのですが、この再会は必ずしも長い時間続くものではありません。こちらの世界にいる私たちも、そちらの世界にいるあなた方も、召集がかかったときには、それぞれの任務に戻っていかなければなりません。私たちの任務は喜びに満ちたもので、あなた方の任務は、辛く、骨が折れるものだ、とあなた方は感じるかもしれません。しかし、さまざまな生命の段階にある人間はそれぞれに適した、あるいは、それぞれが適応した特定の状況、ないしは環境に戻っていかなければならないのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.192-193

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 21-b (魂が愛する者たちと再会して体験する愛の深さと喜び)

 霊の世界では別れはありえません。この意味が理解できるでしょうか。非常にわかりにくいかもしれませんが、霊の相性というこの考えを理解するように努めてください。二つの魂には、人間の生命体の異なったレベルでの任務が、それぞれに課されているかもしれませんが、愛し合う魂が接触できるポイントが必ずあります。ある程度の時間は待たなければならないかもしれませんが。
 ときには、あなた方自身も、意識の高い霊的なレベルに到達することができます。そのレベルとの接触を維持することはできず、どしーんと落ちてしまうかもしれませんが、霊的な高みと接触する時間をもつことはできるのです。ほんのわずかな時間、霊の世界に行けたからといって、永遠に天使になれると期待するのは無理というものでしょう。
 魂が愛する者たちと再会したときに体験する愛の深さと喜びを、いったいどうすれば、私はあなた方に伝えられるのでしょうか。本当に悲しい別れであったものが、もはや、それは自分に与えられた運命ではないと悟るのはなんという喜びでしょうか。愛し合う魂は、ときにはそれぞれの任務を果たすために、やむをえず別な道を歩まなければならないとしても、それは別れではないのです。これまで考えていたような別れが、愛の腕の中で、永遠に消滅するのを知って、本当に胸をなでおろすのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳) 講談社、1994年、pp.194-195

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 21-c[7-b] (霊界での愛する人との再会は素晴らしいことに本当なのです)

 人はすべて、死後も生き続けるということを、真実の証拠に基づいて信じられるようになるまでは、私たち自身もかつてそうであったように、愛する者との避けることのできない別れを恐れていることでしょう。
 そのようなわけで、心霊主義を探求する人は、ふつうの場合、ひとえにこの理由のために、今は霊の世界にいる愛する人との接触、個人的な接触をはかることを願っています。愛する者との再会ほど喜びに満ち、心を慰めてくれるものがあるでしょうか。今は亡き、父親、母親、夫、妻、兄弟、姉妹、子供と、再びこの世とあの世の障壁を越えて心を通わせられるということを知るほど、心を慰めてくれるものがあるでしょうか。それは本当のことなのです。素晴らしいことに本当なのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、p.246

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 21-d (先に他界した人とはあの世でまた会える)

 あの世で先に他界した人とまた会えますから、と私が説いても、所詮は再現性のない世界ですから、心の底から納得できる人はわずかでしょう。
 私たちの中から死に対する恐怖感が消えないのは、あの世なんてないのだとどこかで信じているふしがあるからです。信じる信じないはその人の自由意思ですから、私がとやかくいう話ではありませんが、何らかのきっかけ、それが事故や病気なのか、あるいは何かの拍子に肉体から抜け出てしまうのかわかりませんが、何かのきっかけであの世に対する好奇心や安堵感が芽生えると、以後の人生が楽になることは確かです。
 他界した人たちはお互いあちらの世界で会うことは自由なようです。
 私たちが暮らすこの世とあの世はまったく違って、あの世は出自、資産、権威、地位、名声や名誉といった三次元的な基準では分類されないようです。そこはエネルギーの同調で成立する世界であり、それぞれの魂の性質で集団ができているようです。
 長年、一緒に家族として暮らした人が他界すると、心に大きな穴が開いてしまったかのような気持ちになり、心が傷んだ期間が長くなりすぎて社会復帰できない場合もあります。成仏を心配するとか、いつまでもメソメソするのは他界された方を心配させてしまい、これは現世の人間がしてはいけないことです。後ろ向きな気持ちは、時間の助けも借りながら薄める必要があります。
 あの世は肉体的・物理的な世界ではありませんから、私たちが今この世界で感じているような愛情とは質が異なるようです。
 あの世では魂が進むほど執着が消え、愛に関しても個人的な感情ではなく、「全体愛」へと向かうという話です。肉体という変換機、フィルターが取れますから、プラトニック・ラブをさらにハイレベルにしたような超意識の覚醒なのでしょう。魂も波動、つまり周波数というかその人の持つエネルギーごとに細分化されているようです。魂は何らかの「気づき」を得ると、より高い次元へと向かうと言われますが、仮にその次元に留まっていたいと思えば、いつまでもずっとそこにいられるそうです。
 このあたりの詳細に関しては、日本の心霊科学研究における泰斗と呼ばれる浅野和三郎さんが書かれた『小桜姫物語』(潮文社刊)に詳しいので、ご興味があれば一度お読みください。

   矢作直樹『悩まない――あるがままで今を生きる』ダイヤモンド社、2014、pp.194-196

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 21-e (誰でも死んだら霊界で必ずお迎えが来る)

 少し意外に聞こえるかもしれませんが、死んだらお迎えが来るというのは本当です。これは死んだすべての人に当てはまります。例外はありません。お迎えなんか来るわけがないと思っている人にも、ちゃんとお迎えが来ます。この事実は強調して強調しすぎることはないと思います。死んだら必ずお迎えが来ます。
 先に亡くなった親や祖父、祖母が迎えに来るのが一般的です。あるいは、親しかった友達や仲間、会社の同僚、先輩、上司、恩師という場合もあります。何かの宗教を深く信じていた場合は、その神や信仰の対象、たとえばキリスト教徒ならキリスト、仏教徒なら仏、観音菩薩ということもあります。
 ただ、多くの場合は、あの世のヘルパーやガイドがそういう姿をして現れるということのようです。もちろん本物の親や祖父や友人が迎えに来ることもあります。神や仏が現れる場合は100%ヘルパーたちがふんしていると考えていいでしょう。
 お迎えの人たちに気がついて、その導きに従っていくと、「光あふれる世界」へ連れていってくれます。亡くなった人が途中で信念体系領域のどこかの世界に興味をひかれて、そちらに引き寄せられていかないように、うまくシールドしてくれます。道中ずっと話しかけて会話の中に引き込んでおくとか、意識が散漫にならないようにします。ヘルパーたちはこの道のプロですので、この辺のことはよく心得ています。ですから、一度お迎えの人たちに気がつけば、後はすんなりと「光あふれる世界」へ導かれます。
 ここで、すべての死んだ人にお迎えの人が来ているのなら、どうして全員が「光あふれる世界」に行かないのかと疑問に思われるかもしれません。
 それは、みながみなお迎えに気がつくわけではないからなのです。これまでの経験から言うと、気がつく人は少数派ではないでしょうか。
 でもお迎えに気がつきさえすれば、「光あふれる世界」へ行くことができます。途中の囚われの世界や信念体系領域に行かずにすみます。
 なので、死ぬ前の今の段階で、「死んだら必ずお迎えが来る」という事実をしっかりと知っておくということは、とても大切だと言えます。

   坂本政道『死ぬ前に知っておきたいあの世の話』
      ハート出版、2016、pp.45-46

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 21-f (臨終の際の「お迎え現象」について)

 「お迎え現象」についてすこしだけ説明させてください。東北大学医学部臨床教授、医療法人爽秋会理事長だった岡部健氏は、在宅緩和医療の第一人者で、医療スタッフや研究者の協力のもとで、十年以上、患者さんの家族にアンケート調査を行ってきたそうです。岡部教授は残念ながら二〇一二年九月に亡くなられました。
 岡部教授の調査によれば、四二%の方が何らかのお迎え現象を体験し、体験者の五一%がすでに亡くなった家族や知人を見たり、感じたといいます。中には、光や仏といった存在との遭遇も報告されています。
 この調査は、文部科学省の研究助成金を得て実施されたそうです。こうしたテーマに国の助成金がつくのは、きわめて珍しいことです。
 岡部教授はそれまで、すこしでも延命治療をすることが患者さんにとって良いと思われていたそうです。でも多くのがん患者さんたちと交流する中で、次第にそれは患者さんの求めていることではない、それよりも豊かに死んでいくことを望んでいることを知ります。その事実に惜然とされたと書かれています。
 そこから在宅緩和ケアという領域に進出され、その道の第一人者になられました。岡部教授がいらっしゃった宮城県内でも、仙台市は在宅看取り率が政令指定都市で第一位だそうです。(矢作) 

   矢作直樹・一条真也『命には続きがある』PHP研究所、2013 pp.34-35

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 21-g (死別は悲しい体験だが私たちは必ず再会できる)

 死別はたしかにつらく悲しい体験ですが、その別れは永遠のものではありません。愛する人には必ず再会できるのです。風や光や雨や雪や星として会える。夢で会える。あの世で会える。生まれ変わって会える。そして、月で会える……世の中には、いろいろな信仰があり、いろいろな物語があります。しかし、いずれにしても、必ず再会できるのです。
 ですから、死別というのは時間差で旅行に出かけるようなものなのですね。先に逝く人は「では、お先に」と言い、あとから逝く人は「あとから逝くから、待っててね」と声をかけるのです。それだけのことなのです。
 考えてみれば、世界中の言語における別れの挨拶には「また会いましょう」という再会の約束が込められています。日本語の「じゃあね」、中国語の「再見」もそうです英語の「See you again」もそうです。フランス語やドイツ語やその他の国の言葉でも同様です。これは、どういうことでしょうか。
 古今東西の人間たちは、つらく、さびしい別れに直面するにあたって、再会の希望を持つことでそれに耐えてきたのかもしれません。でも、こういう見方もできないでしょうか。
 二度と会えないという本当の別れなど存在せず、必ずまた再会できるという真理を人類は無意識のうちに知っていたのだと。その無意識が世界中の別れの挨拶に再会の約束を重ねさせたのだと。そう、別れても、わたしたちは必ず再会できるのです。
 「また会えるから」を合言葉に、愛する人との再会の日を心から楽しみに生きてくださいと読者に訴えました。ここには、矢作さんと同じように「人は死なない」という気持ちを込めています。(一条)

   矢作直樹・一条真也『命には続きがある』PHP研究所、2013 pp.137-139

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 21-h  (正しく供養して愛しい家族との霊界での再会に備える)

 供養とは、残された家族が亡くなった人を心配させない生き方をすることです。
 事故や天災で亡くなると、「あの世で、亡くなった人が苦しんでいる」と脅して供養をすすめようとする霊能者が現れますが、聞くに値しません。
 亡くなった人は、守護霊に出迎えられ、あの世ですべてを理解しています。
 そしてこの世で生きる家族も、自分の人生をまっとうしたあかつきには、必ずあの世で懐かしい人たちに再会できます。そのとき、「頑張って生き抜いたよ」と言えるように、そしてあなたもあなたの守護霊に「充実したね」と迎えられるように、自分の学びのカリキュラムをしっかりとクリアしていかねばなりません。

      江原啓之『守護霊』講談社、2017、p.152

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 21-i (愛する家族との絆はあの世とこの世に別れても失われない)

 死別をひどく悲しむ人は、その人がいなくなったと思うから、悲しいのだと思います。または、あの世で故人が苦しみ、寂しがっている気がするからつらくなるのだと思います。
 しかし故人は、ほとんどの場合、あの世で幸せに生きています。故人の守護霊や先祖霊たちがあたたかく出迎え、霊的世界になじむように導いてくれているので決して孤独ではありません。先に亡くなった人たちとも、向こうで再会を喜び合っていることでしょう。
 つらい闘病の末に亡くなった人も、苦しみから解放されてすっかり元気になっています。からだに不自由なところがあった人も、肉体がもうないわけですから、あの世ではあらゆる感覚が冴え渡り、あらゆる動作が思いどおりにできるようになります。心の苦しみは、はじめのうちはまだ残るかもしれませんが、少なくともからだに関する苦しみからは完全に解放されるのです。
 ただ、なかにはあの世にまだたどり着いていない霊もいます。お迎えが来ているのに、頑固にこの世をさまよっている霊です。生前「死んだらすべては無になり、あの世なんて存在しない」とかたくなに信じていた人ほどそうなりがちです。
 また、この世に強い執着がある故人や、自分が死んだことに気づけないままでいる故人のたましいも、未浄化霊となってさまよいます。
 そうでない限り、故人はあの世で幸せにしていますから、心配することはありません。
 そういうことを重々承知していても、死別が悲しくて仕方がないとしたら、それは相手を思っての悲しみなのではありません。自分自身をかわいそうに思っての悲しみなのです。厳しいようですが、旅立ったその人に依存しているのです。
 もっとも死別して間もないうちは、その人の不在が寂しくてならないのは無理もないでしょう。しかし故人とは、いつか自分が死んだあと、必ずあの世で再会できます。そして今も、遺してきた人たちのことをあたたかいまなざしで見守っているのです。あの世とこの世に別れていても、絆は失われていないのです。

     江原啓之『人間の絆』(小学館、2007) (pp.169-170)

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 21-j (あの世では家族と再会できても一緒に暮らせないことがある)

 あの世は、波長の異なる無数の階層に分かれています。あの世に帰ったたましいは、みずからの波長の高さにぴったり合った階層に平行移動するのです。この階層は非常にはっきり仕切られていて、自分の波長に応じた階層以外には、基本的には行くことができません。霊的世界は厳然たる差別界なのです。
 この話をすると、「では死後の世界では、たとえ家族でもいっしょに暮らせないんですか?」とよく聞かれます。
 答えからいうと、「できません」。家族であってもたましいは別々ですし、階層、つまりたましいの成長度合いも一人ひとり違うからです。この世でどんなに仲の良い家族だったとしても、あの世でいっしょにすごすことはできません。どんなに愛し合った恋人同士であってもです。ただし「面会」はできます。会いたいというテレパシーがお互いに通じ合ったときに、階層の違いを超えて会うことができるのです。
 かわいがっていたペットとも面会は可能です。動物には動物の死後の世界がありますから、ふだんいるところは別々なのですが、ペットのたましいとの絆も永遠に残りますから、面会もいくらでもできるのです。

     江原啓之『人間の絆』(小学館、2007)pp.182-183

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 21-k (亡くなった家族らとの再会を楽しみに生きる)

 拙著(『人は死なない』)で述べたように、私は死を従来の価値観とは切り離して考えています。
 死は肉体死であることに間違いありませんが、私たちの魂は永続します。その意味で、亡くなった方が自分のすぐそばで見守ってくれているのも事実であると公言しています。これも実は古来、日本人が持っている感性の一つにすぎません。
 その感性とは「ご縁」です。ご縁はつながりそのものです。日本人なら皆、ごく自然にこの感性を持っているわけです。言うまでもなく、ご縁は自分と誰かとのつながりです。生きている方とのご縁もあれば、すでに他界している方とのご縁もあります。同時に、ご縁は自分と神さまとのつながりなのです。神さまは目には見えませんが、そもそも見る存在ではなく、感じる存在だと思います。ご縁も見えるものではなく、感じるものです。
 死は終わりではありません。私たちの魂は永続します。そもそも私たちの本質は肉体ではなく魂ですから、病気も加齢も本当は何も怖がる必要はないのです。
 亡くなった人に対する深い悲しみは、味わった人にしかわかりません。私自身は両親も弟もすでに他界しました。喪失感はありますし、もっと話をしておけば良かったという気持ちもあります。でも今は、私がいずれあちらの世界へと戻った際に、皆で反省会でもしたいという思いが強まっています。
 ですので、残された者が持つ寂しさは今の私にはありません。こちらの世界とあちらの世界のことを理解しているつもりです。
 残された私たちは、ちょうど競技場で動くプレーヤーのような存在です。そして、観客席には他界した方々がいて、声援を送りながら私たちを見守ってくれています。その間にはハーフミラーがあり、競技場からは観客席が見えませんが、観客席からは私たちが見えます。
 競技場にいるプレーヤーにはいろいろな苦難が待ち受けています。しかし、私たちはそれを乗り越え、課題をクリアし、人生という競技を学ばなければならないのです。楽しい学びも当然ありますが、どちらかと言えば苦しいと思えてしまう学びのほうが多いかもしれません。
 私たちが疲れ果て、へとへとになり、悩んでいるそんな時でも、観客席からは「負けるな」という声援が飛んでいます。そして、何らかの難しい局面を無事に乗り切った時は、「よくやった」とご先祖さまたちは拍手喝采です。声援や拍手が音声として聞こえるわけではありませんが、私たちはそれを感じる瞬間があります。個人によって違いますが、もしあなたが「あれっ?」と何かの気配を感じたら、それはあなたを大切に見守っている方からのメッセージかもしれません。その感性を、もっと大切にしてください。見えないけれどおかげさま、なのです。
 そしていつか、彼らと再会する日のことを楽しみにしてください。

    矢作直樹 『おかげさまで生きる』幻冬舎、2014, pp.161-16