学びの栞 (B) 


 22. 宇宙・地球


 22-a [9-r] (遠い昔にこの地球にやってきた神々の中に皆のほとんどはいた)

 ここにいる皆のほとんどは、遠い昔にこの地球と呼ばれる場所にやってきた神々の中にいたのであり、ここですべての生命を創造し、進化させてきた。皆の知る時間で何百万年という時間をかけ、父なる存在そのものである思考をもとに、あなたは自分の崇高なる知性と創造力を通して創造のための理念をつくり上げた。
 光の存在である皆は、水中にあった気体物質の反応を通じて生まれたバクテリアから、生命体を形成したのである。これが、あなたがさまざまな生命の形を創造するのに使った粘土とも言えるものだ。はじめの頃、皆の創造するものは、ただ「何かのかたまり」として自己を表現する物質の集まりにすぎなかった。物質という現実、そこから創造するという過程を理解し始めたばかりだったので、まだあなたの創造性はきわめて単純なものでしかなかった。しかし、長い長い時間をかけ、あなたは植物や動物、そしてこの地上界に生きるすべての生き物を創造したのだ。
 生き物たちは、あなたの創造的な感情の表現として、また創造的な生命の表現、つまり自分でも自己を表現できる生命の形として、あなたがつくり上げたものだ。花も皆の中のある一団によって創造された。色が施された。香りも加えられた。のちに花のその他さまざまな要素が、それぞれ違った種類にもたらされていったのである。
 これらのものを創造するのに、あなたは別に一生懸命働いたわけではないことを知っておく必要がある。というのは、光の存在であるあなたには、そうしようにもそれをする肉体がなかったからだ。どんなものであろうと、何か創造したいと望んだとき、あなたは単に、それそのものになったのである。物質に実体を与え、性格や知性、形を与えるために、自分の創造したものの一部となったのだ。それぞれの創造物が、その創造主の知性を持つ生きた存在となったとき、あなたは自分の創造物から離れていった。つねにもっと偉大な創造を求めていったのである。
 もしも創造主の「生命の呼吸」を内に持たなかったとしたら、皆が創造したものは、これほど美しく荘厳ではあり得なかっただろうし、そこに目的ある意味もなかったことだろう。自分の創造したものに、知性、あるいは本能という遺伝上の記憶パターンと呼べるものを吹き入れたのは、あなたなのだ。これがあなたの創造したものに対して存在の目的を与え、生殖のプロセスと遺伝子の共有を通して新しい種に進化できる手段を与えたのである。だが、新しい種も本能という知性はそのまま内に持っている。進化の過程を最初に動かした、創造性あふれる偉大な神々からの生命の息吹きを内に抱いているのである。だからこそ、生きとし生けるものには、すべて神なる本質が、そして神々であり自分の創造主でもあるあなたからの生命の火花が、その内面に存在しているのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 130-131

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 22-b [9-s] (魂の内に宇宙を感じて宇宙を創造したのはあなたである)

 形あるものの創造が始まった最初の頃、神々は自分に思いをめぐらせ(光という自己の存在についてだ)、太陽と呼ばれるものを創造することによって、光の観念を物質化した。それも何千兆個という無数の数をである! これらの太陽はすべて、電磁場の波動を下げた結果できた気体物質を集約、融合させることで創造された。生命の中心である火花、つまりこの偉大なる太陽から、惑星と呼ばれる回転する球体がつくられ、それぞれの軌道に乗せられた。そしてこの球体の上に、あなたたち神々がさまざまな形あるものをつくり上げたのである。それを皆が学ぶのには、気の遠くなるような長い時間がかかったのだ。
 この宇宙、そしてさらに偉大な太陽系の数々を取り囲む多くの宇宙を創造したのはいったい誰か? あなただ。そう、あなたなのだ! 単純明快に、あなたがつくり上げたのである。一つひとつのものを創造するにともない、あなたは自分の体験を広げ、それが魂の内に感情を発生させた。これこそ思考の中でも最高の宝だ。そして物質の次元の創造も、さまざまな感情を通して行なわれたのだ。
 あなたがまさに光の始まりの火花であったこと、そして、創造主であるあなたたちが、崇高なる意志を通じてすべて在るものを創造したことにこそ、あなたの神性があるのだ。あなたがすべてを創造した。神が宇宙を創造したのではない。神は宇宙そのものなのだ。魂の内に宇宙を感じることにより、自分の思考過程からそれを創造したのは、あなたである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 129-130

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  22-c (宇宙から地球を見るという行為は臨死体験にも通じる) [入れ替え]

 宇宙と人間の関係の歴史の中でもっとも特筆すべきは、戦後の米ソにおける宇宙開発である。もともと、地球の重力圏からの脱出は絶対に不可能だとされていた。すなわち、一九五七年にスプートニク一号が軌道に乗る一年ほど前までは、学識のある大学教授たちが、こんなことは問題外だと断言し続けてきたのである。その四年後の六一年には、ガガーリンの乗った人間衛星船ヴォストーク二号が打ち上げられ、人類最初の宇宙旅行に成功した。
 さらに六九年には、アポロ一一号のアームストロングとオルドリンが初めて月面に着陸したわけだ。ここに、古来あらゆる民族が夢に見続け、かつ、シラノ・ド・ベルジュラック、ジュール・ヴエルヌ、H・G・ウェルズといったSF作家たちがその実現方法を提案してきた月世界旅行は、ドラマティックに実現したのである。気の遠くなるほど長い間夢を求め続けた結果、人類はついに月に立ったのだ。
 一九七一年二月、アポロ一四号による月ミッションで、エドガー・ミッチェルは月着陸船の操縦士という大任を果たし、人類史上六番目に月面を歩いた人間となった。彼は人類の過去と未来に思いを馳せ、『月面上の思索』という本を書いている。月面でミッチェルは何を体験し、何を感じたか。同書には、以下のような彼の言葉が紹介されている。
 「突然、月の縁の向こうから、一瞬ではあったが、かぎりなく深い壮麗さを湛えた、長く、ゆっくりとした動きがあった。その瞬間が延長していくように感じられた後、ブルーとホワイトのきらめく宝石、繊細で優美な空色の球体がゆっくりと渦を巻く白いレースのヴェールをつけて、漆黒の神秘の深海に小さな真珠のように、静かに昇ってくる姿を現した。これが『地球』だとわかるまでにどれほどかかったろうか――ふるさと」(前田樹子訳)
 現在のわたしたちは、「かぐや」のハイビジョンカメラがとらえた「ふるさと」の映像を簡単に見ることができる。月面に昇る「満地球」の姿は、あまりにも感動的だ。ミッチェルは、「私の目に映ったわがふるさとの惑星は、神性の閃きだった」と述べている。
 宇宙から地球を見るという行為は、じつは神秘体験や臨死体験にも通じる。歴史上にその名を残すような偉大な宗教家を含む神秘体験者や、世界中に多く存在する臨死体験者たちは、彼らの身体から魂が離脱し、宇宙空間へ飛び出して地球を見たと報告している。宇宙船が重力をつきぬけて地球から宇宙へ出てゆくという現象は「幽体離脱」すなわち「脱魂」なのである。
 ミッチェルをはじめとした宇宙飛行士たちは、まるで透視能力を持ったかのように頭が明晰になったり、光を見たりしたことも報告している。これも、神秘体験および臨死体験と共通している。わたしは『ロマンティック・デス』において、宇宙体験とは、神秘体験であり、臨死体験であると述べた。そして、それらはすべて、重力からの脱出に基づく体験なのである。
 死とは重力からの解放であるが、人間が死ぬことによって解放されるのは重力からだけではない。死によって、人間はこの世と結びついた思考、感情、知覚のすべてから解放されることができる。そのときには、感覚世界のすべてがその人の前から消え去る。そして、この物質世界にさまざまな事物が存在するように、霊的な種類のさまざまな事象が具体的に存在する新世界が開けてくるのである。しかし、われわれがここで使う「重力」という言葉には、単なるGだけでなく、この世と結びついた思考、感情、知覚、その他人間を縛っているあらゆる「しがらみ」の意味が込められている。
 重力がなくなる、つまり、無重力とはどういうことか。それは「上」とか「下」とか「縦」とか「横」といった概念がなくなることである。上下や縦横とは、地球空間においてはもっとも基礎的な概念だが、それらは宇宙空間においては存在しないのだ。宇宙空間に出た宇宙船の中では、人間は床に立つのではなく、空間に浮かぶ。まるで、ベッドに横たわった自分の身体を眺める幽体離脱した臨死体験者のように。「上」「下」「縦」「横」といった概念がなくなってしまうと、人間の内面はどうなるのか。人間同士や国家の間に上下をつける感覚も消え、一種の「平等」や「平和」の意識を無理なく持つことができるのではないだろうか。

    一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.19-21

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 22-d [44-r] (銀河系だけでも百億の太陽があり地球だけに生命があるのではない)

 ここにはほんの小さな銀河があるにすぎない。そしてもし皆が、自分たちがそこに存在するただひとつの生命であると考えているなら、それは倣慢であると言わざるを得ない。皆の住む銀河系だけでも百億個の太陽があり、それぞれの太陽には生命を維持している惑星があるのだ。
 いったいどのくらいの数の太陽系が存在しているかを伝えられる数の単位は存在しない。大小あらゆる惑星、そこに生息する生命をすべて数えあげられる数字も存在しない。数はないのである。もし無限というものを理解したいと願うなら、時間や距離や単位を超えて考えられるように、頭の中をプログラムし直す必要がある。さらに大きな現実では、そういうものは存在しないからだ。
 神はただ在る。始まりとはいつのことだったのか? そんなものはなかったのだ。神はつねに在ったのだ。思考、宇宙、空、テルスター(telstar)を維持し、それに生命を与える。テルスターが何か知っているだろうか。光を物質に変容させ、それを宇宙に噴き出して星団をつくるものだ。ではテルスターはどこからきたのだろうか。思考、空、宇宙空間、見わたせば星と永遠が見える偉大なる空(くう)からだ。神の最も完璧で限りない存在としての姿を思い描きたければ、宇宙空間という終わりなき永遠を思い描くとよい。宇宙空間こそが、あなたの目にするものすべてを取り囲み、在るものすべてを維持し、その存在を確立してくれるものだからだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 150-151

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 22-e [44-s] (終わりのない宇宙をいったいどう知覚すればいいのか)

 皆、宇宙空間のことを、まるで何もない場所であるかのように語る。しかし、すべてのものをしっかりとその公転軌道に固定しているのは何なのだろうか。虚無空間に皆の惑星である地球を浮かばせているのは何か?百億個の太陽を有する皆の銀河を支えているのは何か?何がすべての物質の通過を可能にしているのか?よく考えてみれば、光が移動するときはいったい何の上を通っていくのか? これがすべて、あなたが「何もない」と言う場所で起きているというのだろうか。百億個もの星と、その太陽系を維持できるその「何もないもの」をぜひ見せてほしい。
 神はあるレベルでは、すべてのものを構成する物質だ。別のレベルで言えば、異なる次元にある時間の流れであり、並行した宇宙を創造する時間の歪曲(タイムワープ)である。さらに別のレベルでは、物質を支える光という周波数帯だ。そして何よりも大きなレベルでは、あなたを現在の位置に保っている「何もないもの」、つまり思考であり、宇宙空間の永遠なのである。
 神とは生命すべてであり、脈打ち、広がり、進化し、永遠へと途切れなく続いていく。それは、過去にあったものの存在を可能にする「在るということ」であり、いま在るものの永続性であり、これからやってくるものの可能性である。生命を与える動きであり、定まった目標や理想に到達するのではなく、思考から光へ、そして物質へと、つねに生命を創造し続けている限りない思考プロセスなのである。神とはすべての物の本質部分であり、それがある意図を持った動きの中でつねに変化し、創造し、広がり、そして存在する姿なのである。
 すべてを包括し、何よりも力を持ち、つねに進化を続け、動き、存在し続けていくものの姿を、いったいどうすれば認識できるというのだろうか。このいまの瞬間の神が、次の「いま」には同じものではないというのに、どうして「これが神である」と示すことができるのか。終わりのない宇宙をいったいどう知覚すればいいのであろうか。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 151-152

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 22-f (宇宙のなかの地球に住む私たち)

 光の速度が秒速30万キロメートルというのは私たちにとってはものすごい速さですが、宇宙的な見地からすればたいしたものではありません。月からの光が地球に届くまでの時間はわずか1秒,太陽からは8分ですが、一番近くの恒星からは4年、ベガからは25年、ある種の銀河からは何十億年もかかります。現在の天体望遠鏡はさらに遠くの天体を観測することができます。たとえばクエーサーというのは光度がわが銀河系全体の1万倍もある天体ですが、このクエーサーのなかには120億光年の彼方に位置するものもあります。つまり、私たちは120億光年前のクエーサーの姿を今見ているわけです。
 ・・・・・・・・歴史家は古代ローマをじかに眺めることなどできませんが、私たち宇宙物理学者は本当に過去を見て、かつての天体の姿を観測することができます。今見るオリオン星雲はローマ帝国末期のものですし、肉眼でも見えるアンドロメダ銀河は200万年前の姿です。もしアンドロメダの住人が今こちらを見ているとしたら、やはり同じ時間のずれで、原始人の住む地球を見ていることになります。 (pp.33-34)

 地球の歴史の45億年を1日に換算して、午前零時に地球が誕生したとすると、午前5時頃に生命が出現して、それ以降ずっと発展しつづけます。午後8時になってやっと最初の軟体動物が生まれ、午後11時に出現した恐竜は11時40分に絶滅して、哺乳類の急速な進化が始まります。11時55分を過ぎてようやく人類の祖先が登場し、最後の1分間に脳の容積が2倍になりました。産業革命が始まったのはわずか100万分の1秒前のことにすぎません。(pp.72-73)

  ユベール・リーヴズ外『世界で一番美しい物語』
    (木村恵一訳)筑摩書房、1998

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 22-g[51-m] (低い波動の存在は自分の能力を越えたものは認識できない)

 人間が現在の低い波動の存在にとどまっている間は、自分自身の能力を越えたところにあるものは認識することができません。濁った水のなかを泳いでいる魚と同じように、死の向こうには異なった存在局面があることも知らず、手探りで前進しているだけなのです。この太陽系のなかにあるエーテルからなる美しい惑星にもまったく気づいてはいません。物質世界の傍らに存在するこの新しい宇宙は、非常に拡大された、振動が加速された意識にしか感知することはできません。ちなみに、この新しい宇宙は、物質的な世界をも貫いている死後の存在局面とは別なものです。
 地球は太陽系のなかで最も暗い惑星です。ということは、地球に住んでいるあなた方は、今よりも明るい未来を期待できるわけです。私たちに心を開き、死の恐怖を払いのける機会を私たちに与えてくれれば、あなた方は美と驚異と喜びの世界に向かって、もっと勇敢に足を踏み出すことができるでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、p.229-230

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 22-h[37-n] (大惨事も神が人間を完成させるための法則のなかにある)

 現代の天文学者が何も知らない世界が存在します。その世界は、エーテルでできており、その影響は地上においてもときどき感じられています。地球を取り巻く既知の惑星から出される放射エネルギーが、個々の人間、あるいは、人類全体に影響を及ぼすのと同じように、エーテルの惑星は人類および地上の出来事に影響を及ぼします。それだけに、科学的な観点から見て説明不可能な地殻の変動や地球の激変の原因は、このような強大な力についての知識が得られたときには説明できるようになるかもしれません。
 このように考えてくると、人間は、目に見えない、そしてその存在を認識されていない宇宙における、強大な未知の力によって翻弄される、ただのあやつり人形に過ぎないのではないかという疑問が出てくるでしょう。これは、肉体をもった存在としての人間の心、頭脳のあり方からすれば当然の疑問です。しかしながら、物質性によってもはや束縛されなくなった心ならば、一見したところ大惨事に見えるようなことも、無限の愛が、道を踏みはずした神の子供である人間を完成させるために駆使している、基本的な法則であるかもしれないと理解できるかもしれません。
 神の心ははてしなく深く、神の叡智は限りなく広く、人間が肉体をもって存在する局面に住むすべての個々人の人生を記憶し、かつ監督するだけでなく、人間の魂が数え切れないほどの体験を通して進化していくその全行程に浸透しているのです。魂が真に目覚めたとき、人間の魂の進化のために、こんなにも素晴らしい計画を考え出した、崇高な神の前にただひざまずいて、その壮大さ、荘厳さを称えることでしょう。

  アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.230-231

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 22-i  (私たちは星の子であり宇宙の子である)

 人類の生命が宇宙から来たという仮説は、今や多くの科学者が支持している。DNAの二重螺旋構造を提唱してノーベル賞受賞者となった分子生物学者のフランシス・クリックが「生命の起源と自然」を発表し、生命が宇宙からやってきた可能性を認めた。
 その後、イギリスの天文学者フレッド・ホイルと、星間物質を専門とするスリランカ出身の天文学者チャンドラ・ウイツクラマシンジは「パンスペルミア説」を提唱した。生命は宇宙に広く多く存在しており、地球の生命の起源は地球ではなく、他の天体で発生した微生物の芽胞が地球に到達したものであるという説である。ホイルとウイツタラマシンジは、生命の種子が彗星によってもたらされたと主張したのである。
 その後、クリックはさらに、高度に進化した宇宙生物が生命の種子を地球に送り込んだとする「意図的パンスペルミア説」を提唱した。地球が誕生する以前の知的生命体が、意図的に“種まき”をしたというSFのような仮説である。
 「パンスペルミア説」が正しいにせよ、SF的な「意図的パンスペルミア説」が正しいにせよ、わたしたち人間の肉体をつくっている物質の材料は、すべて星のかけらからできている。これは、もう間違いないであろう。その材料の供給源は地球だけではない。はるか昔のビッグバンからはじまるこの宇宙で、数え切れないほどの星々が誕生と死を繰り返してきた。その星々の小さな破片が地球に到達し、空気や水や食べ物を通じてわたしたちの肉体に入り込み、わたしたちの「いのち」を営んでいるのだ。
 わたしたちの肉体とは星々のかけらの仮の宿であり、入ってきた物質は役目を終えていずれ外に出てゆく、いや、宇宙に還っていくのである。宇宙から来て宇宙に還るわたしたちは、「宇宙の子」であるといえる。人間も動植物も、すべて星のかけらからできている。

   一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.11-13

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 22-j (宇宙の138億年のなかで築かれてきた人間の歴史)

 二〇〇三年二月、米国NASAの打ち上げた人工衛星WMAPは、生まれてまだ三八万年しかたっていない頃の宇宙の地図を描き出した。人類が今、描くことのできるもっとも昔の姿であり、それを解析することによって、宇宙論研究の究極の課題だった宇宙の年齢が約一三八億年と求められた。
 この一三八億年という時間の長さは、人間の脳にとってイメージしやすいものではない。
 気の遠くなるような宇宙の時の流れを考えるとき、理解を容易にするため、わたしたちにとって馴染みの深い時間単位に置き換える工夫がある。たとえば、ビッグバンの起こったときを一月一日の午前〇時であったとした場合、一月一六日の夜七時五〇分頃に地球が誕生する。そしてさらに二週間かかってようやく人類が登場するが、この時間の長さの中では、人類が文明を持ってから、まだ一秒とわずかしかたっていないことになる。
 また、地球の年齢を一週間とする方法もある。この縮尺度では、ビッグバンにはじまる宇宙の年齢は約二、三週間となる。肉眼で見える最古の化石は約六億年前のカンブリア紀初期のものとされているが、それがちょうど一日前に生きていたことになる。人間は一〇秒前に出現し、農業は一、二秒前にはじまったことになる。その他にも、直線の上に宇宙および地球のいろいろな出来事を記していくという方法もよく取られる。
 クリックは著書『生命この宇宙なるもの』で、時間を本の行にたとえるという方法を紹介している。それによれば、約二〇〇ページの本全体を、カンブリア紀のはじまりから現在までの長さ、約六億年とすると、大ざっぱにいって一ページは三〇〇万年、一行は「八万年、一字は約四〇〇〇年になる。地球の起源は同書の七冊分も以前のことであり、宇宙の起源は一〇冊以上も前となる。記録されている人間の歴史は、最後の一字でしかない。クリックは「この本のページをめくり戻して、一字が四〇〇〇年だということを考えながら、一字ずつゆっくり読んでいくとすれば、私たちが考えなければならないぼう大な長さの時間を感じとることができるかもしれない。この尺度では、あなたの一生は、コンマよりも小さい」(中村桂子訳)と述べる。
 フランシス・クリックは宇宙を一冊の本にたとえたけれども、わたしは『ハートフル・ソサエティ』において宇宙を一冊の古文書としてとらえた。古文書としての宇宙の解読作業は劇的に進化している。それというのも、二〇世紀初頭に「量子論」と「相対論」という、現代物理学を支えている二本の柱がつくられたからである。さらにこの二つの物理学の根幹をなす法則を駆使することによって、ビッグバンモデルと呼ばれる、宇宙のはじまりの瞬間から現在にいたる宇宙進化の物語が読み取られてきた。
 宇宙はまず、量子論的に「有」と「無」の間をゆらいでいるような状態からポロッと生まれてきたという。これは「無からの宇宙創生論」といわれているものだ。そうして生まれた宇宙は、ただちにインフレーションを起こして急膨張し、インフレーションが終わると超高温、超高密度の火の玉宇宙になり、その後はゆるやかに膨張を続ける。その間に、インフレーション中に仕込まれた量子ゆらぎが成長して、星や銀河が生まれ、太陽系ができて、地球ができて、その上にわたしたち人類が生まれるという、非常にエレガントな一大叙事詩というか宇宙詩とでもいうべきシナリオができ上がってきたわけである。

   一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.13-15

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 22-k (あらゆる宗教の発生は月と深く関わっている)

 わたしは月こそ「あの世」であり、死者は月へ向かって旅立ってゆくと考えており、これまで多くの著書でその考えを述べてきた。
 世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きていた。そして、死後への幸福なロマンを持っていた。その象徴が月である。彼らは、月を死後の魂のおもむくところと考えた。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのである。
 多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と関わっている。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然だといえるであろう。
 人類において普遍的な信仰といえば、何といっても、太陽信仰と月信仰である。太陽は、いつも丸い。永遠に同じ円形をしている。それに対して月も丸いけれども、満ちて欠ける。この満ち欠け、時間の経過とともに変わる月というものは、人間の魂のシンボルとされた。
 つまり、絶対に変わらない神の世界の生命が太陽をシンボルとすれば、人間の生命は月をシンボルとするのである。人の心は刻々と変化変転する。人の生死もサイクル状に繰り返す。死んで、また蘇ってという、死と再生を繰り返す人間の生命のイメージに月は完全に合致する。
 太陽と月といえば、最大の謎がある。それは、地球から眺めた月と太陽が同じ大きさに見えることだ。人類は長い間、この二つの天体は同じ大きさだとずっと信じ続けてきた。しかし、月が太陽と同じ大きさに見えるのは、月がちょうどそのような位置にあるからなのである。月は太陽の四〇〇分の一の大きさである。そして不思議なことに、地球から月までの距離も、地球から太陽までの距離の四〇〇分の一なのだ。こうした位置関係にあるので、太陽と月は同じ大きさに見えるわけだ。
 それにしても、なんという偶然の一致であろうか。皆既日食も、太陽と月がぴったりと重なるために起こることはいうまでもない。この「あまりによくできすぎている偶然の一致を説明する天文学的理由はどこにも存在しない。太陽と月と地球は、大いなる宇宙の秘密そのものに関わっているとしか思えないではないか。
 地球上から見るかぎり、月はつねに死に、そして蘇る星である。また、潮の満ち引きによって、月は人間の生死をコントロールしているという事実がある。さらには、ミッチェルをはじめとした月面に降り立った宇宙飛行士の多くは、月面で神の実在を感じたと報告している。月こそは神の住処であり、天国や極楽そのもののイメージとも重なるのである。
 さて、「葬式仏教」という言葉があるくらい、日本人の葬儀や墓、そして死と仏教との関わりは深く、いまや切っても切り離せないが、月と仏教の関係も非常に深い。
 「釈尊」ことブツダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったという。ブツダは、月の光の影響を受けやすかったのだろう。言い換えれば、月光の放つ気にとても敏感だったのである。わたしは、やわらかな月の光を見ていると、それがまるで「慈悲」そのものではないかと思うことがある。その満月の夜に、ブツダは「慈経」に説かれている最初のメッセージを発したとされている。ブツダとは「めざめた者」という意味だが、めざめた者には月の重要性がよくわかっていたはずである。「悟り」や「解脱」や「死」とは、重力からの解放にほかならず、それは宇宙飛行士たちが「コズミック・センス」や「スピリチュアル・ワンネス」を感じた宇宙体験にも通じる。
 ミャンマー、タイ、スリランカといった東南アジアの上座仏教の国々では、今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行なう。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だといえるだろう。
 太陽の申し子とされた日蓮でさえ、月が最高の法の正体であり、悟りの本当の心であり、無明つまり煩悩や穢土を浄化するものであることを説いた。日蓮は、「本覚のうつつの心の月輪の光は無明の闇を照らし」「心性本覚の月輪」「月の如くなる妙法の心性の月輪」と述べ、法華経について「月こそ心よ、華こそ心よ、と申す法門なり」と記している。
 仏教のみならず、神道にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっている。「太陽と死は直視できない」という有名なラ・ロシュフーコーの言葉があるように、人間は太陽を直視することはできない。しかし、月なら夜じっと眺めて瞑想することも可能である。あらゆる民族が信仰の対象とした月は、あらゆる宗教の元は同じという「万教同根」のシンボルなのである。キリスト教とイスラム教という一神教同士の対立が最大の問題になっている現代の人類社会において、このことは限りなく大きな意味を持っている。
 さらに先述したように、人類の生命は宇宙から来たとされている。わたしたちの肉体とは星々のかけらの仮の宿であり、入ってきた物質は役目を終えていずれ外に出てゆく。そして、夜空にくっきりと浮かび上がる月は、あたかも輪廻転生の中継基地そのものである。人間も動植物も、すべて星のかけらからできているという意味で、月は、生きとし生けるすべてのものの根源は同じという「万類同根」のシンボルでもある。

   一条真也『唯葬論』(三五館、2015)pp.24-28

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 22-l (自然界の法則と奇跡の地球)

 中川 自然界はあらゆるところで、バランスが実によくとれています。私たちが知らないだけのことなのですが。
 空気中の窒素と酸素の割合にしてもそうです。窒素が79%、酸素が21%なのですが、この数字がほとんど変わらないのです。もし、酸素が少しでも増えたらマッチの火が消えないどころか、たちまち火事になって消せなくなってしまいます。
 また、酸素は必要ですが、多すぎると肺の中が酸化されて、人間は生きられなくなってしまいます。
 ですから、この79%対21%というのは、人間や動物を設計したときに同時に設定されたもので、そのバランスも狂わないようにしてあるのです。
 小林 酸素がわずかでも薄ければ飛行機が飛べず、濃すぎれば火が消えないというのですから、本当に地球の存在自体が奇跡≠ニ呼ぶべきものですね。
 ついでに言うなら、人間の体重の71%が水、29%がリン酸やカルシウムで、地球の表面の71%が海、29%が陸地です。そういう数字の一致も、多分「偶然」ではなく、何ものかによる意思の結果なのではないでしょうか。
 中川 「偶然」とは言えませんね。
 小林 大自然の法則の一つに、「循環」ということも言われていますね。
 中川 はい。自然界では、廃棄物が全くありませんね。人間だけが廃棄物を出していますが、これは大きな間違いなのです。一番の責任は、廃棄物を作るメーカーにあるのですが。
 ドイツでは、廃棄物を出さないようにメーカーが責任を持っており、その後処理のことも考えたコスト計算をしてから商品を作ります。ですから、消費者も処理の費用を負担しているわけですね。
 自然界の中では全て形を変えて循環していますから、一つの分子や原子が永遠に使えるのです。そのように設計してあるのです。
 地球というのは、一つの限られた物体であり、そこにある物質にも限りがあります。それを使い続けてごみを出したのでは、いずれなくなり、それでは神のつくった永遠の生命というのは、途切れてしまうでしょう。

 小林正観『守護霊との対話―中川昌蔵の世界―』弘園社、2005、pp.77-79

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 22-m (砂漠も海も意味がなく存在しているのではない)

 中川 例えば、人が親切にしてくれるまで待っていても、いつまでたっても親切にしてもらえません。そういうときは、まず自分から人に親切にする。そうすれば必ずそれがまた自分に返ってきます。これも一つの共生のかたちなのです。
 あるいはまた、動物は酸素がなければ生きられませんね。ところが、地球ができたときはメタンガスや水素ばかりで、酸素が全くありませんでした。
 神はまず植物をつくり、植物はそれらのガスを分解して酸素をつくりました。そしてある程度酸素ができたところで神は動物をつくったのです。現在でも動物の必要な酸素は植物がつくっています。そして植物の必要な炭酸ガスは動物がつくっており、ここでも共生が行われています。
 小林 砂漠の砂や海水が、炭酸ガスをたくさん吸い込んでいるらしいという話がありますが。
 中川 ええ。深海には炭酸ガスと水がシャーベットのようになって沈んでいるらしいですね。
 小林 砂漠も海も意味がなく存在しているのではなく、炭酸ガスを吸い込んでいるのですね。そういう意味では、海や砂浜というのはありがたい存在ということになります。松原でもあれば、これ以上ない、素晴らしい環境ということですね。
 中川 調和のとれた景観は、それだけで大きな価値があります。最近は、熱帯雨林を伐採しすぎているために酸素が減り、炭酸ガスが増えて、酸素と炭酸ガスのバランスが崩れて天候異変が起きています。植物も、動物が滅びればバランスを崩して生きることが難しくなり、地球は破滅するでしょう。そして、元のいわゆる原始地球に戻り、しばらくしてまた人類が発生し、石器時代から再出発するということにもなりかねません。
 小林 アインシュタインは、「第三次世界大戦の主たる武器は何だと思いますか。やはり原爆や水爆でしょうか。それとも人工衛星を使ったレーザー兵器でしょうか」と聞かれて、こう答えたそうです。
 「第三次世界大戦の武器が何であるか、予測するのは難しい。ただ、第四次世界大戦の武器が何であるかは、今すぐに断言できる。その武器とは、槍に弓矢に、石斧だ」と。
 石器時代に逆戻り、というわけです。

 小林正観『守護霊との対話―中川昌蔵の世界―』弘園社、2005、pp.105-106

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 22-n (私たちは地球に来る前にどこか他の星にいたことがあるか)

 はい。
 宇宙にはそれこそ星の数ほど星があります。その中には生命が住んでいるものが多数あります。地球上に住んでいる生命がそうであるように、知的な生命もいれば、そうでない生命もいます。
 それぞれの生命系はみなユニークな学習の場を提供しています。
 私たちはみな地球へ来る前には別の生命系で体験をとおして学んできています。いくつもの生命系を渡り歩いています。
 代表的なところでは、プレアデス星団、おおいぬ座シリウス、ケンタウルス座アルファ、うしかい座アークトゥルス、はくちょう座デネブ、こと座ヴェガ、オリオン座リゲルとミンタカなど。
 他にも数多くの生命系が太陽系の近くにあり、さまざまな知的生命体がいます。人間と似た姿の生命体も多数いますが、それ以外に、イルカ、カマキリ、仮面ライダーのような姿(顔だけ昆虫)、龍や翼竜など、実にバラエティに富んでいます。
 このように物質的な生命もいますが、非物質の生命もいます。そういう生命は特定の形を持たないことが一般的で、私たちには光の点や渦、泡、球、虹のように見えることが多いようです。
 私たちは地球での輪廻を終えると、次のレベル(第4密度)にある生命系へ移っていきます。
 プレアデス星団には多くの生命系があり、その中には第4密度のものもあります。そこは行く先の可能性の一つです。他にも第4密度の生命系は多数あります。

    坂本政道『死ぬ前に知っておきたいあの世の話』
       ハート出版、2016、pp.163-164