学びの栞 (B)
23. 生まれ変わり・輪廻転生
23-a (聖書にもか書かれていた輪廻転生)
旧約聖書にも新約聖書にも、実は輪廻転生のことが書かれていたのだそうだ。紀元三二五年、時のローマ皇帝、コンスタンチン大帝はその母ヘレナとともに、新約聖書の輪廻転生に関する記述を削除した。紀元五五三年にコンスタンチノーブルで開催された第二回宗教会議において、この削除が正式に認められ、輪廻転生の概念は異端であると宣言されたのであった。人類の救済は輪廻転生をくり返すことによって行なわれるという考え方は、巨大化しつつあった教会のカを弱めるものだと、彼らは考えたのである。しかし、初めから、ちゃんとこの概念は存在していて、初期のキリスト教の先達は、輪廻転生の概念を受け入れていた。グノーシス派の人々−−アレキサンドリアのクレメンス(一五〇〜二一五)やオリゲネス(一八五〜二五四)、聖ジエローム(三四〇〜四二〇)等は、自分達は昔も生き、再び生まれてくると信じていた。
ブライアン・ワイス『前世療法』(山川紘矢・亜紀子訳)
PHP研究所、1996、p.33.
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23-b (キリスト教会が削除した輪廻転生)
ディビッドは、キリストはイスラエルに帰ってからインドの聖人に学んだことや輪廻転生を人々に説き始めたのだと説明した。
「でも、どうして聖書にそのことが書いてないのかしら?」
「輪廻転生のことは聖書に書いてあったんだよ。ただ五五三年のコンスタンチノーブルで開かれた、一般にニカイア会議と言われている宗教会議で、教会の支配を強めるために輪廻転生の思想を削除してしまったんだ。だって、人の運命は教会の支配下にあるというのが教会の主張なのに、キリストは一人ひとりが自分の運命に責任があると言っているのだからね。キリストはただ神のみが人を裁けると主張していて、教会やいわゆる宗教を作ることには反対していたんだ。彼は教会や宗教が自由や真実を知りたいと願う人の心を抑圧するのを知っていたんだよ」
これはケビンの説明と全く同じであった。
太陽はいよいよ海のかなたに沈み始め、空をまっ赤に染めた。
「ともかくキリストは輪廻転生を説いたけれど、教会がそれを否定して、それ以来人類を駄目にしてしまったというわけさ」
もし、キリストの教えがそのまま教会で生かされていたらどんなによかったことだろう。人間は永久に生を繰り返し、自分の行動が次の人生の運命を決めると知っていれば、非常に深い安らぎを得られるに違いない。
原因結果の法則は科学の世界の基本である。どうして同じ法則が人間の生活には適用されないのだろうか。私は科学のエキスパートではないが、科学がなぜそんなに重要視されているのか次第に疑問を感じ始めていた。特に私達がなぜ生きているのかを理解するには、科学は全く無力なのではないだろうか。それは一人ひとりの人間にとって、最も奥深い個人の問題なのである。偉くなろうとか、人に勝ちたいと思わない人の方がずっと神に近く、生の喜びを享受しているのではないだろうか。
シャーリー・マクレーン『アウト・オン・ア・リム』(山川紘矢・
亜希子訳)地湧社、1994、pp.257-258.
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23-c (カソリック百科事典も現世以前の魂の存在を否定)
ケオブのピラミッドは、さらに不思議である。ビラミッドの内部のホールや部屋には、地球の文明化が時間の長さに置き換えられて、正確に記されている。そこには大洪水、人類の霊的発展の進歩と退化、キリストの誕生と十字架刑、主要な戦争、宗教の発達等が正確に予言されているのである。今世妃の二つの世界大戦と、戦後の動きについてももちろん予言されていた。
私は、キリストの輪廻転生の教えが紀元五五三年のコンスタンチノーブルでの第五回宗教会議で、聖書から削除された記録にもう一度出合ったのだ。カソリック百科事典ですら、この第五回宗教会議の項で「魂が現世以前にも存在したことを信じる者は、無神論者である」と述べている。
シャーリー・マクレーン『アウト・オン・ア・リム』(山川紘矢・
亜希子訳)地湧社、1994、p.268
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. 23-d (輪廻転生を信じる人たち)
私は特に輪廻転生について読みあさった。驚いたことに、東洋思想のほとんどが輪廻転生の思想を持っているのである。ただ東洋思想における輪廻転生は宗教に基づくものが多いのに対し、西洋思想では主に哲学から発生しているという違いは見られる。ピタゴラス、プラトン、ソクラテス(もっとも彼は後に輪廻転生を否定し、プラトンと訣別している)、ブルターク、そして十七世紀のケンブリッジ・プラトン学派の人々、ミルトン、詩人のドライデン、政治家のジョセフ・アデイソン等々すべて輪廻転生の思想の持主であった。
さらに十八紀の思想家達、ニュートン、フランクリン、ボルテール、カント、ショーペンハウエル、デイビッド・ヒユーム等この時代の知性の代表者の多くも魂の再生を信じていたのである。さらに多くの作家、詩人が、その作品に彼らの思想を表現している。ゲーテは友人への手紙に彼の考えを記していた。
アメリカに目を向ければ、エマーソン、ソローに代表される一群のアメリカ超絶主義者がいる。彼らは従来の専制的な宗教に反旗を翻した。ウォルト・ホイットマンの『草の菓』は言うまでもなく、輪廻転生の思想の詩であった。マルコム・クローリーはホイットマンについて次のように書いている。
「ホイットマンにとって、宇宙は永遠に生成してゆくもの、すなわち構造物ではなく、過程を歩んでいるもの、絶え間なく変化していくものであった。そして宇宙は永遠という観点から、観察すべきものであった」
十八、十九世紀を通じて、文学者、哲学者、科学者、芸術家、詩人、歴史家、そして政治家等、何人もの偉人が輪廻転生について語っていた。彼らの多くは、地球上の生命の神秘の研究、あるいは東洋思想に親しむことによって、こうした考えに至っている。この中には、トーマス・ジェファーソソ、カミル・フラマリオソ (仏の天文学者)、グスタフ・ストムベルグ (スウェーデン系アメリカ人の天文学者)等も含まれている。
ところで、二十世紀はどうだろうか。この時代にもここではとても全部に触れられないほど、たくさんの書物が書かれているのである、ヘソリー・ミラー、パール・バック、トーマス・ウルフ、ジャック・ロソドン、マーク・トウェイソ、ルイザ・メイ、オルコット等、それこそあげ出したら切りがないほどである。面白いことに、コナン・ドイル、ロイド・ジョージ、ヘンリー・フォードもこの列の中に入っている。さらに芸術の分野をみれば、モソドリアソ、クレー、カソディンスキー、ヘルマン・ヘッセ、リルケ、ロバート・フロスト等が輪廻転生の思想の持主なのであった。
こうした人々の中で、ジョン・エリス・マクタガルトは特に優れた人物である。彼はすでに二五歳の時、ヘーゲル以来の最も注目すべき理論家、超自然主義者とみなされていた。『人間の不滅と前生』の中で、彼は次のように述べている。
「最も高潔な人でも、死んですぐ天国へ行けるほど知識も道徳も完全ではあり得ない。つまり、死の瞬間に、普通の人では考えられないような、人格の向上が生じるか、または、死んでから徐々に魂が浄化されていくのか、そのどちらかであろう。また、何代にもわたって、次第に向上していくということも考えられる。その前の世で得た知識は、次の新しい人生では忘れてしまっても、いつも前の世で獲等した心の強さ、柔らかさは新しい人生に伝わるのではないだろうか。もし、そうであれば、新しい人生では人は前よりも少しは賢くなっているに違いない。それに、また、我々の性格は前生で起こったさまざまな事柄で決まっているというのも疑えない事実である。私は前世で起こったよいことも悪いことも全く憶えていないが、それでもその一つ一つが現在の私に影響をあたえているこに違いないのである。従って、人は現生での生活態度を来生に持ち越していくというのも確かである」
シャーリー・マクレーン『アウト・オン・ア・リム』(山川紘矢・
亜希子訳)地湧社、1994、pp.237-238
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23-e (霊的な完成に近づくために必要な生まれ変わり)
将来、再び肉体を持って生まれ変わってくるという考えに対して、非常な嫌悪感を口にする人がいますが、これはその人の気持ちが閉ざされていることを示します。その人の霊的な心の部分にシャッターが降りているようなものです。それは一見したところ、自分が置かれた現実と思われるものと、現実についての内面的なより深い洞察力をもった直感との間に、黒いカーテンがかかっているようなものです。
人間の生活をよく観察し、人間の魂が霊的な完成に近づくことができるには、どれほどの時間が必要かを子細に検討してみれば、人間がたびたび生まれ変わることの必要性がわかるだけでなく、人生の本当にささいな出来事ですら、きわめて重要な意味を持つことがわかるはずです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル』(大内博訳)
講談社、1994、pp.225-226
23-f [2-b] (死んでも真のあなたは朽ち果てて灰と化すわけではない)
自分がこの地上界から消滅すると定めたとき、いったい何が起こるのだろうか。もちろん肉体は死ぬが、あなたの目の奥で静寂の中に思考をしている存在はずっと生き続ける。この地上を去るとき、もしあなたが死ぬと決めたのなら、真のあなたは、地中に埋められ、朽ち果てて灰と化すわけではない。あなたは風とともに存在し続けるのである。行き先は、この地上界であなたがいたところだ。そこであなたは、次回の冒険で何をしたいかを決めるのである。そう、すべては冒険でしかないのだ。そしてあなたは、神としての自分の真性を再び手にするまで、何回でも、望むだけここ地上界に戻ってくることになる。その後で、今度は別の天界、別の場所でのさらに壮大な冒険に向かっていくのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 82
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23-g [51-a] (あなたは何度も何度も生を繰り返す永遠不滅の存在である)
皆は自分の想像をはるかに超えて愛されている。というのも、何をしようとあなたは生き続けていくからだ。だったら、なぜこれまで心配をしてきたのだ? なぜ戦ってきたのだ? なぜ自分を病気にしてきたのだ? なぜ哀しみに打ちひしがれてきたのだ? なにゆえに、自分に限界を課してきたのだ? なぜ昇る朝日の荘厳さを、風の自由を、そして子どもたちの笑い声を楽しまなかったのだ? なにゆえに、苦労ばかりせず、生きることをしてこなかったのだ?
あなたは何度も何度も生きる。あなたの種は永遠不滅の存在なのだ。あなたがどんなに疑念を持とうと、自分の世界を限定しようと、どれほど心配し、絶望しようとも、あなたがけっして消せないものがある。それが、生命というものだ。どんなに心の目が盲いた貧しい人間であろうと、必ず生命はある。それが神と呼ばれるものが表す価値観であるからだ。そしてそれは、あなたのことなのだ。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 82
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23-h [51-b] (偉大な存在であるあなたはこの生の後も繰り返し生き続ける)
一輪の花に生命の途切れない営みを見ることができるならば、なぜあなたがその生命よりも劣っているなどと考えるのか。ただ春に花を咲かせ、夏には果実をならせて、秋になって葉を落とし、そして冬になると死ぬだけだと思うのだろうか。あなたはもっとも偉大な花よりも、さらに偉大な存在なのではないのか。あなたの生命はもっと重要なものではないのか。そう、まさにそのとおりだ。そして春のめぐり来るたびに花が咲き続けるように、あなたもまた生き続けるのだ。この生の後も、その後も、そしてその後も・・・・・・。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 85
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23-i [51-d] (亡くなった母親がもしこの次元に戻ることを選ぶなら)
[前年に母を亡くしたある女性に対して]
もしあなたのお母さんがこの次元に戻ることを選ぶなら、彼女にはあなたの子どもの子どもか、そのまた子どもになるという選択があります。もしあなたが生きている間にお母さんがこの地上に戻ると決めたなら、あなたの娘さんが子どもを持つ決心をしたときに、その子どもとして戻るでしょう。そして、もしお母さんがそうすればの話ですが、あなたにはその子が母親の生まれ変わりだとわかるはずです。その幼な子を見れば、表面上の表情や容姿を超越した感情をあなたは持つからです。そうやって彼女であることを知ることができます。
あなたのお母さんは、その瞬間、あなたのことを知っているでしょうか。もちろんです。なぜなら、この地上界を離れると、人は化身で存在していたときよりも意識が鋭くなります。もはや物質の密度に埋没していないので、自分が意識できるすべてのレベルに、言わば波調を合わせることができるわけです。もっと密度の低い、高い波動の中にいるので、ほかの波動レベルにあるものを見られる能力を持っているのです。ほかの波動は、思考形体、光の形体として、そのとき自分がいるレベルと並行する形で存在しています。ですから、もし自分でそうしていればの話ですが、あなたのお母さんはあなたをいまもよくわかっています。ここを離れるとき、もし望むならば、あなたもここにいる人たちのことがよく見えるのと同じなのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 90-91
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23-j (死後の世界から人はなぜまたこの地上界に戻ってくるのか)
―人はなぜこの地上界に戻るのかを知りたいのですが。
その理由なら、この次元に生きる存在の数だけあることでしょう。でもほとんどの場合、この次元に戻ってくるのは、多くの生を体験しているここが自分のよく知っている場所だからです。これが故郷なのです。言わば「ルーツ」です。この次元を去るとき、そういう人たちは、愛情ばかりでなく、罪悪感や憎しみからもくる強い感情的な執着を感じる存在を後に残していきます。ですから、ここを去ると、この場所、それにほかの存在への執着が感情的な絆をつくり出し、幾度もの生を通じて、それが彼らをまたここに引き戻すのです。
それとは別に、冒険者たち、つまりほかのたくさんの場所に行っていろいろ体験し、そこで得た叡智と体験をこの次元に持ち帰る人たちがいます。さらに、この次元での体験はすべて完了し、ここには二度と戻らずに、ほかの場所に進んでいく人たちもいます。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 102
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23-k (自分の息子の子供になって生まれ変わった人)
「自分の息子ですって? 自分の息子の子になるのですか? 父親である私が自分の息子の子で、彼が父親なのですか?」
「もちろんです! 以前この地上界に生きたとき、彼はあなたの父親で、あなたは彼の息子でした。そう、ただそれをもう一度繰り返しているだけなのです」
男は考えをめぐらし、賢き存在のほうを見てこう言います。「でも、私は妻を愛しているのです。いったいどうして自分の妻の孫になることなどできましょうか」
「あなたは幼い頃から祖母が大好きな男の子になります。青年になるまでには彼女は地上界を去ります。つまり、あなたが自分の心にある愛を語るのを助けてくれた状況は、その役割を終えているのです。そうして今度は、神の美しい姿を見るという次なる課題に取り組むときが来るのです」
男は考えをめぐらし、言います。「私を大いに助けてくれた賢き存在よ、準備ができたところで、私は息子の子どもになりたいと望みます」
賢き存在は彼に言います。「種はすぐにやって来ます。それが見えたら、息子の光の一部になりなさい」
「どうすればいいのですか?」と訊ねながらまわりを見渡すと、賢き存在の姿はもうありません。かわりに彼は自分の息子を見ています。息子の光の一部となったからです。息子は彼がそこにいることを知りませんが、最近、父のことがよく心に浮かんできています。「父が今の自分の姿を見ることができればなあ」と息子は考えます。でも、もちろん彼の父親はその姿を見ているのです!
そして子どもが子宮の中に誕生するときが来ます。男は自分の思考を通じ、どういう人生を望むかによって、この子がどんな子どもになるかを決める過程に自分も関わっていくのです。受胎の瞬間にその身体を自分のものにすることを選ぶかもしれないし、あるいはその子どもになるのに、生まれてから一年も待つ場合もあります。
男はまわりに自分がよく知っているものばかりあるので、とても不安になっています。だから、すぐに子どもになることを選びました。自分を前に進めると、一瞬のうちに自分が誰だったのかを忘れ去っているのでした。そして最初に意識したのは、咳をしている自分、そして眼をふいてくれ、小さな小さな布で彼を包んでくれる誰かのこと……。
この話は本当にあったことです。高次の光の存在は、この主のために自己表現の場を選んであげることはしませんでした。神秘の池という場所に彼を連れていき、それが自分で見えるように助けてあげただけなのです。そこは、魂が存るがままの姿となり、自分の人生をふりかえってみて、自分がどんな体験を必要としているのかを決めることができる場所だったのです。
その生では、小さな赤子のときからこの存在はすでに愛することを知っていました。自分自身の中に神を見ること、そして神そのものになることが、彼が体得しなければならないことだったのです。そして、この存在はそれを体得しました。彼の名は……「釈迦」といいます。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.108-109
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23-l (私たちは生まれ変わる時どのように自分の親を選ぶのか)
― 今度、子どもが生まれることになりました。まず、この子が、なぜ私のところに来ること選んだのか、それに、私たちはどうやって自分の親を選ぶのかが知りたいのです。
自己表現の媒体を持つために、人はいったいどうやって自分の親を選ぶのでしょうか。それには多くの理由も答えもあります。しかし、この次元を離れてから再びこのレベルに戻りたいと望む者たちは、皆、子どもをつくろうとしている存在を待っているのです。前世で子孫をもたらした者には、あなたが「親」と呼んでいる生命の遺伝パターンがあり、それを通じて戻ってくることもできます。
ほとんどの場合、人は自分の知っている者を親に選びます。前の生で子どもや親であった存在たちです。でも、この地上界での自己表現の媒体を提供してくれるというだけの理由で、自分の知らない人を親に選ぶ人もいます。自分が戻りたいときに、そのための媒体がないこともよくあって、場合によっては自分に合った化身を見つけるのに何百年もかかることもあるのです。
本当の意味で人の母親、父親である者は誰ひとりとしていません。すべての人間は、神という、生命の父母原理の息子であり、娘です。ここにいる者はすべて、兄弟姉妹であり、互いに同じ親から生まれた子どもなのです。あなたの子どもも親も、本当は兄弟姉妹であり、皆、等しく神の精神の一部なのです。
個々の存在は、自分がただ極めつけの美人になるとか、金持ちになるとか、あるいはみじめな貧民になるためだけに、この場所に戻ってくるわけでないことは、戻ってくる前からわかっています。ここに戻るのは、この場所で生きたいからであり、このレベルで感情を学ぶという課題に積極的に取り組みたいからなのです。自分の存在の内面を満たすべき感情面での理解、それを得たいためなのです。そして、ここであろうとほかの世界や次元であろうと、感情の中での叡智こそが人生という体験での真の宝物です。なぜなら、それは時を超えて、永遠にあなたとともにあり続けるものだからです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp.110-111
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23-m [51-f] (生まれ変わりでは私たちは必ず産道を通らねばならないのか)
―もうひとつ質問があります。ここに戻ってくるには、私たちは必ず産道を通って生まれてこなければならないのですか?
その質問に答えるのに、まずこの場所が三次元の知覚の次元であることをあなたにわかってほしいのです。ここは、思考を物質という三次元の形を通して目で見ることができる次元です。この次元が物質の密度を持つのは、思考が、光というある特定の周波数の波動まで拡張され、それがまず減速されて電磁場となり、さらにそれが物質の総体となり、この次元の固体となるに至ったのです。つまり、この次元の物質というのは、光の周波数を遅くして、それを最大密度の形態まで落としたものだということです。
ここにあるものが同じ密度を持つためには、すべてが同じ周波数で振動もなくてはなりません。ですから、あなたの身体は、いますわっている椅子と同じ周波数で振動しているのです。あなたにとってこのレベルが存在しているというのは、あなたの肉体、つまり、あなたの化身にある感覚器官が、物質という、光の周波数の中で最も低いレベルを感知するようにつくられているからなのです。
本質の部分でのあなたは、物質の密度よりも高い周波数を持つ光のエネルギーですから、もし物質でできた化身を持っていなければ、この次元にある物質の中を通り過ぎてしまうことでしょう。つまり、身体が、その密度と感覚器官を通して、この次元にある物質を知覚し、体験し、それと関わっていくことを可能にしているのです。
ですから、この波動の一部でいたいならば、実存する身体に宿り、その一部とならなくてはなりません。化身を持つためのひとつの方法が、産道を通って生まれてくることです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 112-113
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23-n[56-k] (あなたは何故この人生を選んで生まれ変わってきたか)
―肉体に戻ってくると決めたのは、自分だというのは本当ですか。
ほかに誰がそれを決めてくれるというのでしょう。
―それでは、なぜ私はこの時代、この場所を選んで帰ってきたのか教えてもらえますか?
この時代、この場所での生を体験するためです。
―でも、ここに戻ってきて達成すべき何か特別な目的、ここに帰ってくる理由があったのでしょうか。
主よ、「特別な目的」というのが、人生を体験するという特権のことなのです。
―ということは、それは何でもかまわないと言うのですか。
何でもかまいません。でもそれは、特定の何かではありません。あなたは、ただ人生を体験するために帰ってきたのです。あなたが「あなた」を選んだのです。あなたではいけませんか? そんなことはないでしょう。あなたはこの時期を選びました。いけませんか? いまはすはらしい時代です。生は花開き、あなたも花開いている時代です。
生きるということがどうも見過ごされ、あまり感謝もされない体験となってしまっていて、皆、生きること以外の何かを探している状態になっているようです。でも、あなたがここにいるまず第一の大切な理由は、単に生きることなのです! この生で達成できる最も栄光に輝くことといえば、まずこの生を全うすることなのです。これは真実ではありませんか? どんな大王だろうと、まずはじめに王になるための人生がなかったらどうなるでしょうか。王になるのは彼の目的ではなかったのです。そうなったのは、これはなかなかおもしろそうじゃないかと彼が決めたからにすぎません。いちばん大事なことは、王になれる時点まで彼が生きたということでしょう!
あなたがこの人生で達成できる最も偉大なことは、まずそれを全うするということです。おそらくこれはあなたが聞きたいと思っていることではないかもしれませんが、死期が近づいたとき、この答えがよくわかります。
皆、存在するための理由が必要と思っています。「おお主よ」と彼らは私に言います。「私の運命は何でしょうか? この人生での目的とは何でしょうか?」。そこで私は答えます。「生きることです!」。すると皆、困ったような顔をして、あまりうれしそうには見えません。何かとても込み入った計画―
大いなる山の頂に立ち、まわりには鳥がさえずり、黄金の衣に包まれた自分が人類の救世主となるような、そんな答えを聞きたがっていたからです。
主よ、あなたの目的とは、単に生きることです。それから先どうなるかは、この人生でのあなたの美と、生の広がり、成長への貢献の延長なのです。生きることそのものが最も重要なのだと気づき、生きることを通じて言わば「点数を稼ぐ」のだとわかったとき、自分がここにいるのはそれを望み、そうしたいからだと気づいたとき、そしてさらに、ここが自分という存在にとって戻ってくるのに居心地の良い場所だと思っていることに気づいたとき、すべては何も言わずとも理解できるはずなのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 206-207
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23-o[56-l] (この地上に生まれてきたのはここで自己を表現したかったから)
皆この次元にやってくるのは、ここで生き、ここで自己を表現したいからです。それがすべての人間にとっていちばん大切なことなのです。それがあなたの内に棲む父なるものにとってもいちばん大切なことです。存在が始まってから後に起きることは、何か特定のものにならなければいけないという性質のものではなく、人生のすべての瞬間に、自分がなれる最高のものになるということなのです。それが「創造」です。そして、あなたは必ず創造をしていきます。あなたの内にある神が、そうするようあなたをつき動かすからです。
あなたがここにいるのは、何か特定の運命のためではなく、生きるためであり、生きている一瞬一瞬に、あなたの創造性あふれる自己が、そしてあなたの魂が強く求めることをしていくためなのです。それがわかれば、創造という領域ではあらゆることすべてが可能になります。言葉では言いつくせぬような世界や人生を創造することができます。自分の命を満たすことができるのです。この明白な自由を持つのを許したとき、あなたは何でも自分が好きなものになることができるのです。そして、自分がそれをすべて体験するのに値するのだとわかったとき、あなたは光り輝き、いつでも好きなときに、何でも好きな望みを満たすのにその光を使うことができるのです。
皆の次元において最も覚醒した人々の中に、なぜ、ただ施しを受けて生きる放浪者として生きる人がいるのか知っていますか? それは彼らがその瞬間だけに生き、そのとき生きるのに必要なことだけをして、次の場所へと移っていくからです。彼らは数多くの場所に行き、多くのことを見たり、実際にやったり、さまざまな人々に会ったりしてきました。こうして彼らは多大な知識を得るとともに、人間の心についてさまざまな角度からの理解を得てきたのです。彼らはそのままの状態できわめて覚醒した状態にあり、そのままでとても幸せなのです。思うままに生きる自由を自分に許したからなのです。「主よ、でも彼らには何の目的もありません」とあなたは言うかもしれません。彼らの目的とはその瞬間に生きることであり、自分がしたいと思うときに何か新しいこと、冒険的なことに集中することなのです。
主よ、人生は牢獄となるようにつくられているのではありません。色あざやかでチャレンジにあふれ、数多くのエピソードと冒険が体験できる創造性と自己表現の場となるようにつくられています。そういう体験は、必ずよろこびをもたらすのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 208-209
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23-p[56-m] (この人生での体験を決定するのは私たちの判断である)
―でもラムサ、私は小さいときから、いつもこの場所から離れたいという気持ちがあり、自分の故郷はここではなく、何かほかの場所にあるのではないかと思ってきたのですが。
それはそのとおりで、確かに別の場所があるのです。生はさまざまなレベル、さまざまな場所で途切れなく続くものです。それはひとつの真実です。
でも、いまひとつの真実を話します。もし本当にここにいたくないのなら、あなたはここには戻らなかったことでしょう。あなたの存在の内にある生命の力は、さまざまなことを学び、そこから幸福を得るために人生を体験すべくここにいるのです。自分はここに来た何か「高次の存在」で、やってきてはじめてこれがひどい場所であるとわかったのだと思いますか? 「高次の存在」は、どこにいようとも幸福を見いだすものです。
この次元が困難な時代を迎えるとき、確かにここでの生を少しは耐えやすくしてくれるでしょうから、ほかの場所に行くことを思うのもいいのかもしれません。でも最後は、どこにいようとも、それをどんなものにするかは、自分の選択なのだと私たちは気づくことでしょう。良いも悪いも、幸福も不幸も、わくわくするのも凡庸にするのも、人生の体験を決定するのは私たちの態度であり、判断でしかないのです。
ここは存在するのにはすばらしい場所です。主よ、そのことがわかれば、あなたは賢き女性になります。別の場所があるのを知っている以上に偉大な美徳とは、この人生を自分の手にとって、それをできるだけすばらしいものにしていくことです。そのあらゆる部分を体験し、それを最高に楽しむことなのです! そうすれば、あなたの存在はこの人生で満たされるようになります。この次元を去るというとき、わざわざここに戻ってこないと体験できないものはもう何もなくなるのです。
ひとつの方向しか向いていない生き方をし、社会的に受容されるという理由だけでその生き方を続けている人たちは、死に際して苦悩と後悔にさいなまれます。あれをしておくべきだった、これをやるべきだった、あの人を愛しておけばよかった、この人と結婚すべきだった……。こういったすべての「しておけばよかった」ことが、その人をこの場所に戻し、それがすべて満たされるまで「今回はできる」ことを体験させるのです。すべて満たされると、もうここに戻ってくることはありません。
―でもそうすると、私はその「しておけばよかった」があったから戻ってきたことになるわけで、それがいったい何だか、いまの私にはわからないのです!
主よ、それは生きるということです! もしそれではあまりに単純すぎるというのなら、何か生きる理由を自分でつくり出し、心からそれを追い求めなさい。でも、それを満たしてしまったら、今度は何のために生きるのですか?また別の理由、そしてまた別の、また別の、と永遠に続いてしまうわけです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 209-211
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23-q[56-n] (本当に生きるとはどういうことかがわかること)
―すると、このために戻ってきたという特定のものはないわけですね。今回も私が成就できないかもしれないものとか……。
美しき主よ、叡智というのは蓄積された感情のことです。この次元に来るそれぞれの存在が他と異なっているのはこのためなのです。すでに体験し理解したことは、もう体験しません。なぜなら、もうしたいとは望まないからです。これからまだ理解すべきこと、あるいは自分の命を満たし、智慧を与えてくれると約束することには、あなたはいつも惹かれていきます。それがあなたを誘い、わくわくさせ、神秘の心をくすぐり、そして惑わせるからです。自分を在るがままにして、存在の内から湧き出る欲求、フィーリングに耳を傾ければ、すばらしき自己を、さらなる偉大な叡智と永遠のよろこびへと拡大していくのに必要なことは、あなたはいつも体験していることでしょう。
さて主よ、あなたの困惑について、ひょっとすると助けになるかもしれない知恵について、お話しましょう。もし存在の理由を必要としているならば、それは永遠というときを通じて、あなたが「在るもの」としてその瞬間だけを生きるということです。それは、「自己への愛」と呼ばれるものです。自分への愛は永遠へと続いていきますが、これやあれになるといった目的は、この生の間に満たされ、次はただ別のものがそれにとって替わるだけのことです。いつのときもあなたとともにあるのはこれしかない、というものは何でしょうか。それは自分をもっと豊かにし、さらに偉大な叡智と自分への深き愛へと広げてくれるものです。つまりそれは、最も厳しい目であるあなた自身の目から見て、自分を最も偉大な人間にしてくれることをしていく、ということなのです。これは永遠に続くものです。主よ、あなたこそが人生の目的なのです。
これやあれやをしなければならないとか、自分の運命はこうだああだなどと考えることを皆が超越して、その瞬間だけを生き、余計なものを取り払って、在るということに集中するようになれば、それまでとは比べものにならないほどの大いなる幸せと自由を発見します。それは、生の真の状態への解放であり、本当に生きるとはどういうことかがわかることなのです。
それこそが、あなたの目的です。在ることです!
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 211-212
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23-r (死後もっといい場所に行くのになぜまたこの地上に戻ってくるのか)
―この次元を去るとき、私たちは必ずもっといいところに行くとあなたは言いました。
そのとおりです。この会場を去るとき、あなたはすでに、より偉大な存在へと進みます。あなたの生は、あらゆる瞬間に、その前よりもすばらしくなっていくからです。
―ええ、では生まれ変わりのはたらきについて何か教えてくださいませんか。つまり、ここを去ってもっといい場所に行くのに、なぜまたこの次元に戻ってくるのでしょうか。何かを学ぶために帰されるのですか?
主よ、まずはじめに訊きますが、この場所で将来あなたを待ち受けているもっといいものはないと、どうしてわかるのですか?
―それはここに生きることが辛苦であるように思えるからです。対処していかねばならない苦痛や哀しみがたくさんあります。自分自身で多くの苦痛を体験しているのではなくても、そこらじゅうにそれが見えます。ですから、ここには明らかに多くの苦痛があり、これが近い将来ずっと良くなるとは想像しがたいのです。
ここ地上界にあった最後の「苦痛」は飢餓でした。皆、いつも空腹だったのです。その頃の生活と言えば、一生懸命働いて、ペニーでもルピーでもシェケルでも、とにかく空腹を満たすためのパンの一斤やチーズの一かけ、あるいはまずいワインなどを買うお金を稼ぐことでした。いまの自分たちを見てごらんなさい。皆、脂肪を落とそうと必死になっているではありませんか! 皆が充分に食べられるようになり、小太りになってきたと思ったら、誰かがやってきて「だめだめ、そりゃ美しくないよ」と言うのです。だから今度は、皆、一生懸命飢えようと努力しているというわけです。人生というのはまったく冒険の連続としか言いようがありませんね。
主よ、この場所での「苦痛」とは、つまり自我というもののことです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 233-234
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23-s (あなたは自分の意思でこの地上に生まれ変わってきた)
― ええ、でもあなたの言いたいことがよくわかりません。人生というのは繰り返しなのだと言っているように聞こえます。その繰り返しに終わりはないのでしょうか。
人生というのは循環ではないし、それが繰り返されることもありません。それはつねに変化していますが、同時にそれは不変となるべく一瞬一瞬、進化しているのです。生はすべてを包括し、それが存在するという事実、その「在るということ」だけで、次の瞬間をつくり出しているのです。それは一瞬一瞬、各々の存在の手で、各人の価値観にしたがって創造されています。変化のサイクルが繰り返しに思えるのは、生に対する見方のためなのです。
生まれ変わりは確かに真実です。でもそれは単に、生に対する見方が身体が死ぬことを許したために、ひとつの身体を置いて、ここかあるいはこの物質次元のどこかほかの場所で、別の身体を取り上げるだけのことです。
なぜここに戻ってくるのでしょうか。それは、戻ってきたいからです。あなたは自分がここに戻ってこさせられる、自分がどの次元にいようとも、そこから追い出されて化身に戻り、産道を通る苦労やまわりの自我に完全に依存するという苦労をただ繰り返すだけだと思うのですか?
ここにあなたを送り出した宣告などありませんでした。あなたに自分の意志に反することをさせられる人は誰ひとりいないからです。ここに戻ろうと決意したのは、あなたです。あなたが再びこの次元で自分を表現したいと望んだのです。ですから、もしあなたが自分のみじめな状況を誰かのせいにしようとするのなら、自分の目をしっかりと見据えなくてはなりません。自分のよろこびも、自分の存在も、自分の悲しみも、あるいはすばらしき人生も、すべてはあなた自身にその責任があるのです。本当に、そろそろこれを皆が知るべき時期にきています。
この地上界に生まれ変わることを強いられる人は誰もいません。しかし、気の遠くなるほど長い間ここに生きていると、人間はこれが存在のすべてだと思い始めてしまうのです。そして自分の身体を失い、感情的な執着から離れ、いろいろあったおもちゃがなくなってしまうと、もうすぐに大急ぎでここに戻ってきたくなります。ここがただひとつの天国だと思ってしまうからです。だからこそ、その人にとっては実際にそうなるのです。
あなたがここにいるただひとつの理由とは、あなたが、ここにいたいからです。あなたの存在の内に、ここで満たすべき何かがあるからです。その何かとは、よろこびや悲しみ、憐れみや怒り、あるいは苦痛など、自分がこの幻影の次元で体験したいと思うものを何でも表現する必要性のことです。それを自分の好きなだけ体験するためなのです。それに飽きたりつまらなくなったりしたら、自分の見方を変えて、何かほかの感情を体験するのです。事実はそれほど単純なものなのです。
ユートピアが、苦痛や悲しみや、地獄のような状況と並んで存在することはあるのでしょうか。もちろんあります。わずかな考え方の違いがそれを隔てているだけなのです。
あなたがことに戻ってきたのは、神を体験し、自己について理解し、「在りて在るもの」の本質を生きるためです。そして、その「在りて在るもの」の本質は、あらゆる人のすべてを内包しています。あらゆる見方・考え方、感情、性格、それにあらゆる状況を網羅しているのです。それは神という思考の領域で創造されるものであり、すべて幻影なのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 234-236
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23-t (あなたはなぜいまのような自分として生まれてきたのか)
あなたは自分がなぜいまの自分なのかわかりますか?それはほかの役割はもうほとんど体験してきていて、今回はいまの自分を体験しているからです。なぜ飢えた子どもではなく、いまのような裕福な人間に生まれてきたのでしょうか。それはあなたが裕福な人間になりたがっていた、飢えた子どもだったことがあるからです。だからいまはそうなったのです。なぜあなたは家族を養うためにパンを焼くパン職人ではないのでしょうか。それはあなたがパンを焼いて家族を養っていたパン職人だったことがあるからです。そして今度は、パンを彼から買うほうの存在になっているのです。
この世界のすばらしいところは、それが途切れなく続いていて、変えることもできるし、何でも自分の好きな役になれることです。そして、生命の場で進化していくにつれて、自分の内面にとって最も重要な学びを与えてくれる幻を演ずるための舞台を提供してくれる局面へと、あなたは進んでいくのです。そしてその舞台では、王様にも乞食にも、愛する者にも愛される者にも、奴隷にも自由な人間にもなれる自由があなたにはあるのです。そこでは、自分の魂がその命を満たすために必要な叡智を提供してくれる幻なら何でも可能なのです。
主よ、あなたがまだしていない体験はたくさんあります。まだしていないこと、会ったことのない存在がたくさんいるからです。この世界には、必要とするものもきわめて清楚で、崇高で平和な生き方をしている存在がいます。必要なもの、欲しいものは、ただ単に出現させてしまう人たちです。彼らは幸福でよろこびにあふれた生活を送っています。その生き方は、あなたが自分の体験として、まだこれから選んでいくべき思考レベルでの見方であり冒険なのです。
あなたがまだこれから体現していかなくてはならない叡智はたくさんあります。その中で、最も大事なものは何だと思いますか? ただ生きるという、単純な理由のために生きることなのです。生きることだけのために生きるのは、生について得られる叡智の中で最も偉大なものです。それが平和を知ることができるときだからです。よろこびを知ることができるときなのです。そして主よ、あなたが再び全身全霊で神になることができるときであるのです。
生についてのこの叡智は、まだあなたがこれから体験すべきものです。それはあなたが、自分がおどかされ、怯えさせられることを許してしまい、人を支える役割、労苦を耐える役割、競争する役割、理想主義的な役割、苦しむ役割、神経症的な役割へと自分を追い込んでしまってきたからです。それを自分の運命と受け容れてきたので、そのとおりになったのです。でも、もし生というものの他の部分を見に行くことを自分に許すならば、こういった役割は、生きる上であなたが持っている選択のわずか一部分にしかすぎないことがわかるでしょう。
この場所での生は、人類の歴史でいろいろなことがあったにせよ、本当はやはり相当優れたものです。残念なことに、都市に住み、社会意識のどろりとしたよどみの中に生きる者たちは、この場所がみじめでひどいところだと思っています。でも、もしも勇気を出して観念や脅しや人間の限られた意識から離れ、自然の中で自分の内にある神とひとつになって生活することができたならば、生きることはとてもすばらしいのだとわかるでしょう。それは途切れなく続く、無限で美しいものであることがわかるのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 236-238
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23-u (再生を希望しないなら生まれ変わらねばならない理由はない)
主よ、あなたがここに戻ってきた理由は、生きるためです。しかし、あなたはまだ自分をこの次元に拘束するものから自分を切り離してないので、神と生というものの壮大さを体験していないのです。氷河の上を歩いたり、橋のような形をした岩の下に隠れたり、あるいは冬の窓の外をじっと見つめ、そこに紅冠鳥がとまっているのを見た体験もなければ、砂漠を歩き、食物を求める蛇を見つめたりしたこともないのです。巨大なピラミッドの中でひとり眠ったり、誰も脚を踏み入れたことのないような場所を探検したこともありません。そのような場所はまだたくさんあります。大洋を航海し、大きな魚が飛び跳ねるのを見てもいないし、鹿の後をつけて木漏れ陽のさす森に脚を踏み入れた体験もないことでしょう。
自分の存在にとって、しびれるような、ぞくぞくするすばらしいことを、あなたはまだあまりしていないのです。そして、そのどれひとつをとってみても、それに比べれば、あなたの仕事や学歴や地位や自動車の年式などどうでもいいことなのです。
これらはあなたがまだこれから体験していく生の側面です。しかし、実際に体験すれば、それはあなたの神経症や恐れや策略や疑問に思う気持ちなどを、一気に消滅させてしまうことでしょう。そして、よろこびで爆発したいくらいだと思う瞬間が訪れます。
さて、もしここに戻ってきたくないのなら、戻ってきてはいけません。そうしなくてはならない理由など、絶対にないのです。私は二度と戻ってきませんでした。それは、風とともに昇華し、自分であるものすべてを持っていったからです。そうすることで、私は自由な存在になりました。自由な存在なのです! それは、この場での自分の人生でしたことすべてを超越したからです。自分を許し、この生を受け容れて心に抱き、神になるという、いますべきことへと進んでいったのです。そして、もしこの無知でみじめな蛮人にそれができたのなら、主よ、あなたにもできることは火を見るよりも明らかです。
この次元での生を終える形というのは、まずそれを生き、愛し、そこにある単純なものの一部となります。次に、生の自由を制限したり、限定したり、あるいは怯えて縮こまらせてしまうような観念を自分の中からなくしていくのです。そして、自分自身の自由の中に生き、自分を愛し、そして自分を他と比べるのをやめるのです。
社会的なイメージのために生きるのをやめ、自分の内でそれがどんなものであろうとも、自分白身の理想と真実のために生きるようになり、自分という永遠の存在を愛するようになったとき、あなたは草花や魚たちや、まさに生命すべてとひとつになるのです。そうすればあなたはこう言えます。「この体験はもう終わりだ。私はここにあるすべての生命を愛した。だから新たな冒険に進む準備ができたのだ。遠い国々、新しい叡智、そしてこれまでとまったく違う存在の形へと」。こういったことをしたならば、あなたはこの次元を輝く栄光のもとに去ることができるのです。私はそうやってここを去りました。
私はこの次元を愛する者です。ここにある渓谷をよく歩きます。木々の間をそよぎ、子どもたちの笑い声の一部となるのです。ここで生きることがどんなものか、私は知っています。ここで価値あるものを見逃してはいないからです。しかし、それよりもっと大事なのは、何よりも私が愛する者たち、わが愛する兄弟たちの苦難を知っていることです。そして私には答えがありますが、それは実践されなければほとんど役に立ちません。
あなたと、そしてほかのすべての人がここで自己を表現している理由は、それをしたいからなのです。それが生まれ変わりです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 238-240
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23-v[9-y] (あなたの悲しみが他の存在の幸福であることがよくある)
―それから、もしできたら、この次元に押し込まれていないときにあなたは何をしているのか話してもらえないでしょうか。
皆さんがしているのと同じこと、つまり自分を表現しているのです。ただひとつの違いは、皆の表現には制限がありますが、私のにはないということです。私は永遠に手が届くのです。自分の終わりについてはけっして思いめぐらすことはありません。そんなものはないのですから。そして、本当に私は風とともに行きます。それが私の究極の望みでした。
私は幸せでいます。あなたの人生を見つめ、あの人のも、この人のも見つめています。そしてここでの皆の幻を見て、それは皆にとっては確かに深刻なことばかりで、いわば気持ち悪い色の水でいっぱいですが、私はおかしくて笑ってしまいます。なぜなら、ただもっと見ようとすればいいだけのことで、そうすればもっと豊かなものがあるからです。
私は自己を表現していて、自分の在るがままで幸せでいます。いま皆が見ている姿ではないとき、私は「在りて在るもの」なのです。すべてのものが生まれてくる場です。第七のレベルとは思考の総体で、それは膨大な「空」であり、惑星を軌道に保ち、細胞の間をつなぎ、永遠に近づくところまで存在しているすべてのものを内包しています。そして、第七のレベルの存在になると、もはやレベルというものさえありません。ただ存在するだけなのです。そういう意味で、すべてのもの、すべての「知っている状態」、そしてあらゆる思考を体現する感情すべてとなるのです。
思考そのものになるのがどんなことか思いめぐらしてみてください。思考はどれほど遠くまで移動することができるでしょうか。太陽の表面に思考を置いてみることはできますか。月の裏面はどうでしょうか。あるいはあなたから見える天界の大小の星には? どこかほかの次元にいる別の存在に想念を送ることはできるでしょうか。これはみな、ほんの一瞬もかからずにできることです。そうなれるものを、あなたは自分の内面に持っています。そういう表現をしたがらないのは、あなた自身なのです。いまある状態の表現をしたがっていますから、それはそのとおりになっているのです。
―自分がなぜ繰り返し戻ってくるのかわかる時点が、必ずあるはずだと思うのですが……
あります。それは、幸福と呼ばれるものです。そしてその時点とは、いまの自分よりもなりたい存在などない、いまいるこの場所よりもいたいところはないというときのことです。それがわかる時点です。
もうひとつ、あなたにとっての悲しみや苦痛が、他の存在の幸福であることがよくあります。ここにいる人は誰でも自分の人生は幸せなのです。皆そのことに気づいていないのですが、それは彼らの幸せの理想像というのが、ピーターパンのおとぎ話に出てくる妖精ティンカーベルよろしく、あちこち忙しく動きまわっては、すこしでも状況をよくしようと、あれを青に、これを紫にピンクにという具合に色を変えているピエロのような存在だからです。
ここにいる誰もが幸福です。なぜなら、誰もが自分の意志にしたがって自分のしたいことをしているからです。もし病気になりたければ、病気になっています。もし不幸になりたければ不幸になっているのです。それは、そうなりたいからで、そうなることが彼らを幸せにしてくれるからなのです。無理に笑わせようとすると、突如として涙を流して泣き崩れてしまう人もいるくらいですから。
ここにいる誰もが自己を表現し、生を楽しんでいます。もしそうしていなかったら、一瞬のうちにその人は死んでしまうことでしょう。そして、ときが来れば、皆、確かに死にますが、それは自分はそうしなければならないと思っているからです。主よ、ある日あなたもまわりにいる皆を見ているだけで気づくことでしょう。どんな形で自己を表現しているにしても、皆、限りなく幸せだな、と。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 241-243
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23-w (過去のすべてのあなたは今のあなたほど偉大ではなかった)
―もうひとつ質問をしてもいいですか? ほかの生で私がいろいろな人間だったと言われましたが、過去世で私がどんな人間だったかを教えてもらえるでしょうか。
主よ、もしあなたの「記録」と呼ばれているものをすべて詳細にわたって取り出し、それを話そうとしたら、あなたの次の生までここにいることになってしまうでしょう。あなたの生の数は二万三百四十六と半分です。ですから、あなたの過去について語るなら、どの時代の、どの国で、どの幻像についてなのかを決めてもらわなくてはなりません。そうすればそれを取り出してくることができます。
しかし、主よ、自分の人生が凡庸で感情に欠けていると思っている人たちの多くが、過去に凝った想像を働かせていることに私は気がつきました。過去には、彼らが今の生にないと感じている人生の躍動感、あるいは自愛の念があると見ているからです。そして、過去についてこれ以上はないと思えるほどロマンチックで英雄的な空想をします。ここでの人生が退屈でつまらないものであるとき、自分は戦で勇敢に戦い、自分のために泣いた女をたくさん残してきたのだといつでも結論づけることができるからです。そして自分が凱旋してきたときには、町中がこれを祝い、そのお祝いは長い長い時間続いたというわけです。あるいは、その時代、自分は世界中のどんな女性よりも美しく、あらゆる男性は自分の恋人だったというのかもしれません。
さて、これは皆に理解してほしいことです。皆はそれぞれ数多くの生を生きてきました。その生は、華々しくてロマンチックなものであり、みじめで野蛮なものであり、有名人であり、悪名高い人間でもありました。しかし、過去のすべての自分も、いまのあなたほど偉大ではなかったのです。このいまという瞬間、主よ、あなたはこれまでで最も偉大な存在なのです。なぜなら、いまのあなたは、これまで生きてきたすべての生の知識と体験の集大成であるからです。主よ、いまというのが、これまであったすべての目的だったのです。
いまの自分の仮面や幻像や体験にかかわらず、あなたが現在のあなたほど優れた存在であったことはこれまでないのです。あなたがいま、有している智慧、知識、そして愛は、これまでよりもずっと大きなものだからです。もし私があなたを、五つ前の過去世まで「後退」させたとしたら、あなたは自分が誰だかわからないでしょう。なぜなら、あなたは自己という要素を、過去の自己では認識できないところまで進化させてきたからです。これまでに生きた生で自分だった人間が今日のあなたを見たとしたら、あなたのことを勇敢な人間、天才、異端者と呼ぶことでしょう。あなたを「取り憑かれた」人間と呼ぶでしょう。あなたの叡智が自分の時代のものよりもはるかに偉大だからです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 243-244
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23-x (過去生での自分を見ようとするのは賢いことではない)
過去に自分がどんな人間だったかを見るのは賢いことではありません。過去に答えを求めると、あなたは生のこの瞬間をけっして体験することはなく、いまが持っている未来についての答えも体験することはできません。自分がうしろを向いているために、それがやってきても見ることができないからです。主よ、あなたは過去に自分が誰だったのか知りたがっているというのに、いまの自分が誰かさえ知らないのです。
過去に自分が生きてきたことを知るのはいいことです。それはこれからやってくる明日に希望を持たせてくれるからです。しかし、そういうすべての体験に生きていた根本的な美は、あなたの内面でいまでもまだ静かに考えながら、ある悟りへと目覚めるのを待っています。自分は、好きなように生を創造し、自分の命を満たしていく力と選択を持つ偉大なる神なのだという悟りなのです。
このいまという瞬間に生きることを学ぶことです。いまというときは、いわば処女領域なのです。何でも許される瞬間なのです。あなたが自分の態度を通して、その処女領域である時間を、自分がこうだと決めたものにするのです。不愉快になったり、苦痛や哀しみを感じたり、みじめになったりすることもできます。それはすべてほんの一瞬でできることなのです。あるいは、次の瞬間に自分の態度を変え、美しく、自由で魅惑的、幸せでよろこびと歓喜にあふれる自分になることもできます。すべてはその瞬間に起きることです。さらに次の瞬間には、前の二つにはまったく影響されず、厳粛、聡明で、何にでも一生懸命取り組み、良心の珂責の意識を持つ人間になるなど、とにかく何でも自分が望むものになれるのです。
大事なことは、いまの自分が誰なのかを知り、この人生で幸せになるよう何か行動を起こすことです。もし将来の生で、今回の生を覚えていてほしいと思うなら、一つひとつの瞬間を感慨深いものにして、魂の内でそれがいつもあざやかなままで残るようにするのです。無限へと生きていくことを願うなら、まずこの瞬間の一つひとつをフルに生きることを学ばなくてはなりません。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 244-246
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23-y (未来のあなたは皮膚の色や顔が変わってもいつもあなたのまま)
一私の未来には何が見えるか教えてもらうことはできるでしょうか。
あなたが未来に誰になるかですか? あなたはいつもあなたのままです。目や皮膚の色、それに顔となる仮面は変わりますが、あなたはいつもあなたなのです。いつも同じ魂、存在の中に同じ神、同じ精神を持っています。次の生では、それが何であろうと、あなたが自分で演じようと決めた幻像の人物となります。そしてもしそれがこの地上界であれば、あなたは出生の過程を通り、自分独自の計画にもとづいて子宮の果実を創造して、その存在の中であなたが自分のために設定したゲームや幻影をすべて満たすようにしていくのです。あるいは、単に幻はなしで、さらに偉大なる叡智へと進んでいくこともできます。
主よ、いまという瞬間に生きることを学びなさい。この人生で堂々たる存在となり、あなたを体験するのです。風に乗り、想念で月へと航海しなさい。あなたのすばらしき想念を太陽のもとに置き、あなたが誰かを知らしめるのです。星の上に腰かけなさい。水に語りかけるのです。それがすべてあなたであり、すべて神であり、すべて生というものなのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 246
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23-z (あなたはいま自分の「神なる状態」へと進んでいる)
―ありがとうございます。最後の質問がひとつあります。私がどの次元に進もうとしているのか教えてもらえるでしょうか。
神へ、です。自分の「神なる状態」へと進んでいるのです。神であることに向かって進んでいるのです。自分の神なる状態を進化させているのです。あなたはこの場所に神としてやってきて、飢えや暑さや寒さ、それに領土の境界線など、肉体界のもろもろに巻き込まれてしまいました。そして、自分の神性、力、それにすべてを内包し、すべてよりも賢い知性である自分の姿を忘れ去ってしまったのです。それがあなたとこの次元とのつながりをつくり出しましたが、この次元もまた第七のレベルに向かって進化しているのです。
あなたは第七の叡智、つまりすべての内にある神を知るという次元に向かって進んでいます。そして、その知識の頂点にあるのが、それを与える者、つまりあなたなのです。完璧にそうなのです。
『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 246-247
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23-za (生まれ変わりの年限は近来その年限が短縮されてきている)
生まれ変わりの年限は、その霊魂の因縁によって違うが、近来、非常にその年限が短縮されて、死後二、三年や、七、八年で生まれ変わる人がたくさんできている。しかし、霊そのものが生まれ変わるのではなく、魂(幽界に蓄積された想念、普通霊魂と呼ばれている)が魄(すなわち肉体となる原子)を、寄せ集めて、肉体界に生まれ変わってくるのである。そのすべての原動力は、その人のみ霊元、いわゆる直霊から来て、守護神が、その誕生を、指揮するのである。であるから、Aという人間が、肉体界に生まれ変わりとして生活していながら、前生からつづいているAという霊魂の想念は、幽界にも生活しているのである。いわゆる二重写しのようになっているのである。もっといいかえると、想念は霊、幽、肉の三界を貫いて活動している、ということになり、その想念活動の力は、分霊から発しており、その元は直霊にあるのである。しかし、こうした説明は実にむずかしく、ややこしいので、普通は霊魂の生まれ変わり、と簡単にいっているので、そうした説明だけで、納得されていてもよいのである。ただし、この現界を、現世(うつしよ)というの写世、霊界から写し出されている、という意味の言葉であるのだ。
五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)p.79
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23-zb (男性が女性に女性が男性に生まれ変わったりするか)
そういうことは随分多い。それは、前世において、女性としての苦しみを味わいつくし、男に生まれてくればよかった、と固く思い込んだ人、または、その反対の場合、あるいは、因縁解脱への経験を積みやすくするために、守護神が性別を変えて再生させる。
男性でいて女性らしい人や、女性でいて男性の性格をもっている人などはほとんど、前世と今生との性別が変わっている人たちである。
霊そのものには男女の別はないので、男女の別のあるのは、魂魄の世界だけである。
観世音菩薩は男か女か、とよく問われるが、観世音菩薩、すなわち神の化身は、男女を総合した現われで、陰陽合体の絶対身である。
五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.83-84
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23-zc[13-d](絶えず輪廻転生している魂もあれば二度と戻ってこない魂もある)
輪廻転生についても、すでにお話しました。これは真実であると主張する人もいれば、嘘であると主張する人もいます。それぞれの観点から見れば、彼らは共に正しいのです。じつにさまざまな生命の形態が人間を待ち受けています。その数はあまりにも多く、人間の理解を越えています。このため、輪廻転生してたえず地上に戻ってくる魂もあれば、二度と戻ってこない魂もたくさんいるのです。
これまで述べてきたことからすると、これは矛盾しているように聞こえるかもしれません。しかし申しあげておかなければなりませんが、私たちが置かれている状態では、いかなる魂もある特定の進化の道や存在の形式を強制されることはけっしてないのです。もちろん、いずれは、すべての魂は霊的な生命の法則に従わなければなりません。そもそも、すべての魂は霊的な存在なのですから。
わかりやすくするために、簡単な例を使って説明してみましょう。エーテルで囲まれた場所に、何百万という原子が動き回っている様を想像してみてください。さらに、それぞれの原子は固有の性質に応じて吸引力に反応しているのを観察してください。それぞれの原子は、まるで磁力に引かれるように、それぞれの進化の道に従わなければならないのです。このような理由で、自我(人間一人一人にある神性という意味ですが)は、人間が神と呼ぶ創造的な知性から発射され、物質の世界に住むようになってからでも進化する魂に常に開かれている、無数の進化に向かう螺旋の“引っ張り”を感じることになるのです。
すべての魂は、いずれは宇宙の法則に従わなければならず、その法則に従ってそれぞれの運命を切り開いていかなければならないとしても、それぞれの魂は個として完全に独立した存在であり続けます。イエス・キリストは「あなたの頭の髪の毛一本一本といえども、すべて数えられているのです」と言われました。その深い意味についての洞察が、これによって得られるのではないでしょうか。
なんの役にもたたないならず者から、最も叡智に満ちた人物に至るまで、すべての魂はそれぞれの程度において神の知性に波長が合っているのであり、したがって、究極的には神のもとに戻る道を歩むことになるのです。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.236-237
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23-zd17-k] (てんかんは患者の霊体の調整ができて初めて直る)
てんかんは長い間、医学関係者を悩ませてきました。この病気は、子供が母親の体内に宿ったとき、両親の霊的な不調和が原因となって、子供の霊体に不適応が生じたのが原因であると聞けば、なるほどと思う人は多いかもしれません。
親の責任がどれほどのものか、私たちははたしてわかっているのでしょうか。父親の罪は、子供の三代四代までもついてまわると、俗にいわれています。確かにそうであるとしても、この諺にはそれよりもさらに深い意味が込められています。もっと正確にこれを言うならば、“人の罪は三番目、四番目の輪廻転生にまでついてくる”ということになるかもしれません。まさに、私たちのこれまでの輪廻転生の人生は、今後に続く人生の“父親”となるのです。
それでは、てんかんはどうすれば治療できるのか、という疑問がここで湧いてくることでしょう。てんかんに苦しむ人は一生この病気に苦しまなければならず、この病気は曖昧なままに放置されるしかないのでしょうか。じつは脳下垂体と松果体を接続することによって可能となる、患者の霊体の調整ができて初めて、てんかんは直ります。この二つの器官の間に裂け目が生ずるとき、てんかんの症状が起きるのです。もっと簡単に言うと、ネジが緩んでいるのです。ネジが緩んだときに、てんかんの症状が現れるのです。ネジを閉めてください。つまり、霊体を完全な形に調整してください。そうすれば、てんかんは直ります。
アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
(大内博訳)講談社、1994年、pp.268-269
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23-ze (アジアの戦場で殺された兵士が生まれ変わるまで =1=)
その精霊の様子は他の精霊たちと少し変わっていた。彼は、すぐ近くにいる十人ほどの精霊たちとはちょっと離れて立っており、彼らと交わろうとしないだけでなく、彼らの存在にすら気がっかないかのようにボンヤリした様子でいるのだった。だが、単にこれだけだったとすれば、死後間もない、まだ精霊界になれない精霊にはありがちなことだから、それほど変わった様子ともいえない。彼は実際、その数日前に死んで精霊界にやってきたばかりの精霊だったのだ。
彼がずい分変わった精霊だという印象を与えていた理由は実はほかのことにあった。
彼は、いまいったように他の精霊たちと少し離れた所にいて、他の者たちと交わろうとしないだけでなく、彼の顔つきには、自分自身がいまどこにいるのか、また、さらに自分自身が一体何なのかといったようなことや、自分が生きているのか死んでいるのか自分でもわからないで困惑しているといった様子が誰の眼にもすぐわかるほどだったからだ。それに彼は、落着かぬ表情をしながら、しきりと自分の首のあたりをさすったりして、そのあとは深く考え込んでしまうのだった。
新しい精霊への親切な気持ちから近くにいた十人の精霊のうちの一人が彼に声をかけた。
「汝、なにゆえ他の霊と交わらぬぞ、また汝、何をか考えおらん?」
だが彼は、この問いかけも聞こえないふうで、ボンヤリした様子にはちっとも変化は現われなかった。先輩格の霊は再び同じことを彼にいった。
「汝、なにゆえ他の霊たちと交わらぬぞ、また、汝、……」
彼は、この問いかけにも答えなかったが、こんどは声をかけられたことには気がついたらしく、つぎのように、まるで独自(ひとりごと)のようにつぶやいた。
「われは、まだ生きてあるのか? われは死せるにあらずや? われは生きてあるのか?」
彼はさかんにこんな疑問を自分自身に向かってくり返し発していたが、やがて、少し自分のことについて語り始めた。
彼はこの世にいたときはアジアのある国の兵士であった。そして、その国の兵士の中でも一番の弓の名手だったので、敵国の武将の命を狙うため他の数人の弓の使い手たちとともに敵国の城下に忍び入った。そして、その武将の命を狙って武将の屋敷の外からその帰りを待っていた。彼らは屋敷のうらの山にひそんでいたし、夜の闇は深かったから安心していたのだが、この油断が彼らの失敗であった。彼らは突然背後から襲いかかった多数の敵の手によって殺害された。彼は首を斬られて死んだ記憶があるという。
これだけ語ったあと、彼はまた、さっきと同じ疑問をくり返していった。
「わが殺害されし記憶に間違いあらず。しかるに、われ、今にても死せる気がせず、生けると同じ気持せり。その証拠に、われ、今かくの如く汝らと交わり、話をなせり。われ果たして死せる者なるか? あるいは死せると思いしはわが夢なるか?」
彼は相変らず、浮かぬ表情でこういいながら、また自分の首をさする仕草をした。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.174-176
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23-zf (アジアの戦場で殺された兵士が生まれ変わるまで =2=)
だが、この精霊が本当に奇妙で不思議な精霊として、ここにいた十人の他の精霊たちの間にあとあとまで記憶されているのは、この彼の様子や話のせいだけではない。実は、彼ら十人の精霊たちは、この後、この兵士の精霊に誰一人として一度もめぐり会うことがなかったためだ。精霊界も霊界もすでに記したように広大無辺だから偶然に会うというようなことがなくてもそれはむしろ当然である。しかし、前にもいったように精霊界にせよ霊界にせよ精霊や霊たちは他の者のことを霊としての心の中に思い浮かべさえすれば、その相手の霊は、このことだけで自分の眼の前に姿を現わすのだ。このことからすれば、彼ら十人の精霊は、その後おりにふれ彼らの心に強い印象を残した兵士の霊のことを思い浮かべたのにもかかわらず誰一人として彼に出会わないということは霊界の常識からして全く理解のできない異常なことといわなければならない。
しかし、この不思議なことの意味を私はその数年後に全く偶然の機会から世間で知ることができた。それはアジア諸国との間を往復している商船の船員によってもたらされ、世間に不思議な話として噂になった、アジアのある国の幼児の話だった。
この幼児はわずか三歳になったばかりだったが、まだ一度も見たことのない同じアジアの他国の町の様子を詳しく話すばかりか、自分は、その町に三年前まで住んでいた者の生まれ変わりだといった。そして、その者は兵士であり、その国一番の弓の名手だったこと、敵国の城下に忍び込んで敵の武将の命を狙っていた時に逆に敵国の兵士により首を斬られ死んだこと、そして前世での名前まで明かした。そのうえ、この幼児は自分の首にある傷は、前世で首を斬られて死んだためだといってその傷を示したのである。(この幼児には生まれた時から首に傷のようなものがあり、両親はこれを不思議に思っていた!)
幼児の話に人々が半信半疑だったのも無理はないが、この噂を聞いて訪れた、その国の商人によって、この幼児の語ったことが全て真実であることが証明されるに及んで人々の驚きは頂点に達した。しかも、この幼児は訪ねてきた商人と習ったこともない前世の国の言葉で自由に会話を交わしたというのである。
私もこの話には、その不思議な精霊のことを知っているだけに異常な興奮を感じた。やはり彼は精霊界に数日いただけで現世に生まれ変わっていたのであろう。それならばこの精霊が他の十人の精霊のうち誰一人としてその後会わなかった理由もうなずける。
だが、この話にはいまの私にも理解しにくい面が幾つかある。というのは、生まれ変わりは事実としても、どうしてその幼児がそれほどことこまかに前世のことを記憶していたかということだ。なぜなら、精霊になったときに後まで残る記憶は、こと現世のことに関してはごく概略の霊的な心の深い所にまで達していた記憶のみのはずだからだ。この点が、私にもまだ理解しにくいが、あるいは何かの事情で、このようなことも稀にはあるのであろう。(訳者注)
(訳者注)アメリカ心霊調査協会の生まれ変わりに関する最近の報告は二百件近い例を厳密な証拠調べ″によって検討し、その一つの結論として「前世の死が暴力死のような突然の死であったときは、よく前世の記憶が残るらしい」という一つの生まれ変わりの法則″を示している。本章の話と考え合わせると興味深い。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.176-178
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23-zg[43-c](私達は両親を自分で選んでこの世に生まれる)
私たちの人生は偶然の行為や出来事の産物ではありません。人生は私達の学びと進化を高めるために、注意深く計画されています。
私達は両親を自分で選びます。普通はこれまでの転生で縁のあった魂を親に選びます。子供、青年、成人へと肉体的に成長しながら、私達は霊的にも進化してゆきます。肉体の死によって魂が体を離れたあとも、私達の学びは高次の次元、つまり、意識のより高い次元で続いてゆきます。今、終ったばかりの人生を回顧し、そこでの課題を学び、次の転生を計画するのです。学びは肉体の死によって終りはしません。
魂が肉体を去ったあと、私達は多くの意識段階を訪れます。大切な段階の一つは、学びの場で、ここで私達は今終ったばかりの人生を回顧します。すべての出会い、すべての人との関係を再体験します。また、自分が助けた人と傷つけた人、愛した人と憎んだ人、良い影響を与えた人とよくない影響を与えた人、そのすべての人々の気持ちを味わいます。その人達の感情を心の底から感じるのです。それがこの地上で肉体を持って生きていた間の私達の行動について、一瞬のうちに行なわれるフィードバックのようなものであり、非常に強力な学びの道具であるからです。私達は人との関係によっていろいろなことを学びます。だからこそ、自分がどのように人々と触れ合っていたかを理解するのが、とても大切なのです。
輪廻転生は、私達の現在の人間関係を説明し、明確にしてくれます。ずっと昔の出来事が、現在の人間関係に影響を与えていることがよくあるのです。過去生にあった根本的な原因に気がつくと、現在の人間関係を修復できます。気づきと理解は、強力な癒しの力を持っているのです。
ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
PHP研究所、2001年、pp.23-24
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23-zh (輪廻転生して人間生活のあらゆる側面から学ぶ)
何回も転生をくり返す間、性が変わることはよくあります。誰でも男だったことがあり、誰でも女だったことがあるのです。傾向としては、どちらか一方の性に生まれて来ることが多いと私は思っていますが、誰でももう一方の性を選択課目として取らなければいけないようです。私達はあらゆる側面から学ばなければなりません。金持ちと貧乏人。強者と弱者。仏教徒、クリスチャン、ユダヤ教徒、ヒンズー教徒、回教徒、またはそれ以外の宗教の信徒。様々な人種。そして勿論、男と女もです。
ですから、自分の霊的本質を完全に実現するために、私達は否定的な生物学的傾向の克服を、いつかは学んでゆくのです。同様に、まったく同じ理由で、社会や文化が教え込んだ否定的な事柄の克服も学んでゆけるのです。
なかには進歩が遅れる人もいます。すべての人が同じ道を歩いていても、同じ速度で進歩しているわけではないからです。あとから来る人々を助けるために、思いやりと愛を持って手を差しのべることは、先に行く者の仕事です。
後ろに手を差しのべて助け、見返りも感謝さえも期待しないことです。
後ろに手を差しのべて助ける、それは霊的な人々が行なう役割だからです。
ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
PHP研究所、2001年、pp.100-101
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23-zi[53-i] (退行催眠以外の方法で過去生体験をする)
退行催眠以外の方法でも、過去生体験をすることができます。私の最初の二回の過去生への旅は、ボディワークをしてもらっていた時と夢の中で起こりました。
最初の体験は、指圧の治療を受けている時に、自然に起こりました。鮮明なイメージが現れ、私は古代の僧侶である自分を見つけました。現在の私よりも背が高くてやせていました。私は上が平らで側面がスロープになっている、奇妙な形の幾何学形をした建物の中に立っていました。ジグラートという言葉が、ずっと心の中で聞こえていましたが、その時はそれが何を意味するのか、知りませんでした。
その僧侶は絶大な権力を持っていましたが、自分の地位を霊的真理を教えるために使わずに、より一層の権力と富を得ることに夢中でした。彼の後半の人生を見ても、彼の価値観は霊的なものには移りませんでした。僧侶は王族の要求をきちんと満たしている限り、霊的な真理を教えるのは自由だったのに、そうしなかったのでした。
私は少しずつ、いつもの意識に戻ってゆきました。その日、家に帰ってから、私はジグラートという言葉を探し、百科事典の中に見つけました。バビロニアの時代、紀元前一〇〇〇年に、私がビジョンで見たのと同じ幾何学形をした寺院が、ジグラートと呼ばれていたのでした。
二、三年後、私は二度目の過去生体験を、今度は夢の中でしました。それは私が教えていた専門家向けの五日間トレーニングの二日目の晩に起こりました。参加者は全員同じホテルに泊り、トレーニングの厳しさに、みんなへとへとでした。
何もかも覚えているほどに鮮明な夢の中で、私はまたもや僧侶でした。今回は数世紀前のヨーロッパのどこかで、カソリックの神父でした。私は地下牢にいました。片方の腕は後ろの壁に鎖でつながれていました。私は異教的な禁じられている事柄を教えたとして、拷問にかけられたあと、殺されました。
私は目が覚めたものの、催眠状態のままで、夢はしばらく続いていました。真っ暗にした部屋のベッドの上に横になった私は、まだそのイメージを見て、感じることができました。そして、心の声か、もしくはメッセージに気づきました。
「真理を教えるチャンスがあった時、お前は教えなかった」
これが霊的な真理を教えなかったバビロニアの僧侶のことであるのは、すぐにわかりました。
「チャンスがない時に、お前は教えた。お前は……この間題を強行したのだ」
カソリックの神父は、愛と思いやりについて、安全に教えることができたはずです。当時の冷酷な政府にたてついて、殺される必要はなかったのでした。
「今回は、うまくやりなさい」と声は柔らかく諭しました。
私は眠りに戻ることができませんでした。仕方なく、朝食を食べに行きました。私のコースを取っている参加者の一人に、有名大学の高名な精神科教授がいました。
「お加減が悪そうですね」私の隣りに立って、彼女が言いました。
「ええ」と私が答えました。「昨夜、よく眠れなかったのです」
「知ってますわ」と彼女は答えました。「私はあなたの夢をのぞいたのですよ!」
私はそんなことができるとは信じませんでした。私の疑問を感じて、彼女は説明しました。
「私の家族は母方の系統に何代にもわたって、霊媒能力が伝わっています。私もその能力を持っているのです」
私はすぐ興味を持って、彼女が何を見たか、たずねました。
「あなたが何世紀も前のスコットランドで、カソリックの神父だったのを見ました。あなたの右腕は後ろの壁に鎖でつながれ、あなたは輪廻転生を教えた廉で、拷問を受け、殺されました」彼女は、私よりももっと詳しく知っていたのです。
それだけではありませんでした。
「注意して下さいね。あの人達の何人かは、今また、戻って来ていますからね」と彼女はつけ加えたのでした。
だから、私は目をしっかり開いているのです。
ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
PHP研究所、2001年、pp.320-323
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23-zj[36-l ](霊的存在である私たちは永遠に学習し向上していく)
わたしたち個々の人間は過去生におけるあらゆる体験から成り立っています。つまり、現在の人生は、ポジティブなものにせよネガティブなものにせよ、そういった過去から持ち越した思考や活動や行為のいわば寄せ集めなのです。わたしたちは過去のカルマに応じて、それぞれの霊的成長に欠かせない経済事情や社会的地位を持つ家族のもとへ再生してきます。
現世の肉体に宿る前に、魂は霊界で新しい人生の準備を始めます。前世で興味や経験を持った仕事の分野に戻るのが一般的です。たとえば、ある魂が二〇二一年に医師として現世を体験する予定だとしましょう。その魂はガイドや教師たちとともに必要な技能を習得し、その時代の医学分野の技術革新について研究します。人類を襲う新しい病気や疫病についても学ぶかもしれませんし、医師という仕事を通じて現世の人びとに知識と愛を広める方法を身につけることでしょう。こうした知識が身についたところで、魂は新しい人格に融合されます。人類の未来に参加し、多くの人びとの命に関与するという重要性をこの魂は理解しなければなりません。
霊的存在であるわたしたちは永遠に学習し、進歩し、向上していきます。わたしたちにとって転生とは、肉体を以て何を成し遂げ、何を学ぶのか、その青写真のようなものです。従って、わたしたちは霊的な成長と自覚のために最も望ましい機会や経験を現世で選びます。わたしたちのカルマには次の転生のタイミングとそこでの体験がからみあっているのです。
結局のところ、わたしたちはすべて“愛”を学ぶためにこの現世にいるのです。単純に聞こえるかもしれませんが、決して簡単なことではありません。愛にはたくさんの諸相があります。わたしたちがまず最初に学ぼうと考えるレッスンのなかに自己愛があります。自己に対する愛と自覚がなければ他人を愛する方法もわからないでしょう。自己と他者に対する無条件の愛を会得して初めて、わたしたちは啓発され、因果という自然法則を尊重するようになるのです。決して自分たちがよいポジションにつきたいからではなく、それがただひとつの道だとわかるからです。この法則を理解し、これを実践することで、わたしたちは互いの独自性を尊重するようになります。そして、同胞である人間と協調し、全体の向上をめざして生きていけるようになるのです。
ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
中井京子訳、光文社、1998、pp.153-154
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23-zk (成長していくために人は何度も輪廻転生をくりかえす)
そこで、あまり触れられてこなかった輪廻転生の問題についてお話しすることにしよう。
一部の宗教や文化において、このような自然のできごとに対して反対があるのは妙なことだ。人間が成長していくありさまは、かいつまんで言えばつぎのようになる。まず意識が生まれる。意識はこの世に突入するに十分な強さを集積する。ほとんどの場合、この世への転生によって学び、成長してゆく可能性という豊かな収穫が得られるため、人は何度も輪廻転生をくりかえすことになる。魂は幾度となく肉体から出たり入ったりする。この世へ肉体をもって転生する価値は、かけがえのないものである。転生によって自由― 前進するだけでなく後退する自由もあれば、あらゆる方向にむかっての可能性を追求していく自由もある― を試す機会が与えられる。そしてこれはすべて、人格すなわち魂にとって豊かな学びの体験なのである。
ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』片桐すみ子訳
人文書院、1996、p.17
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23-zl[36-n] (人はなぜ前世の記憶を失ってこの世に生まれてくるか)
さて、ジュディーはわたしにこう尋ねている。人間は、より大きな魂のことや肉体をまとってこの世に出現してからの長い歴史、森羅万象との密接な結びつきのことなど知らずに生まれてくるが、それはなぜだろうか、と。答えはある意味で単純なことだ。もし前世の記憶が戻ったなら、そのせいで今の人生に焦点をあわせることが困難になってしまう。みなさんは今回の人生以前に、あまりにも多くの人生を体験してきているのだ。
だがこれまでに、人間と人間のまわりに存在する精霊たちとの関係がもっとはっきりと理解されていた文化が存在していた。現在の文化でも、直観的・神秘的な知識の役割を重要視しているものがいくつかある。そのような知識がもっとも高度な人間的表現となってあらわれたものが、あらゆる生命―
あらゆる人間、あらゆる地上の生物、あらゆる自然の力や生命のサイクル― への畏敬の念なのである。すでにこの世にやってきたものたちや現在ここにいるものたち、そしてこれからやってくるものたちに対する心からの尊敬の念なのである。
ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.23-24
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23-zm[56-za](人生の目的は快楽をむさぼることではない)
わたしが禁欲主義者のような生活を勧めているとは考えないでいただきたい。あなたはすでに「上のほう」のわたしたちが、みなさんの生き生きとした性の快楽を全面的に肯定しているのをご存じであろう。これと同じく、美しい庭を世話することであろうと、おいしいものを食べること、美しく着飾ること、この世の果実を享受することであろうと、みなさんが世界の美に喜びを感じるのを見ることであれば、それはわたしたちにとっての喜びなのだ。このように安心して人生を楽しむ保障があってこそ、自分自身を大切にし、みずからをはぐくみ愛そうという気持ちも生まれてくる。泉の水が干上がっていては、他人に水を与えることはできない。
人生が一回かぎりしかないというのは間違いだ。したがってみなさんの目的は、できるかぎりの快楽をむさぼることではない。あなたは幾度も繰り返し生を享け、この世の転生を終えるころには光り輝く霊的存在となるはずだ。前途の道程の長さに、絶望しないでほしい。
行動や思想が立派だからといって地上で称賛される必要はない。あらゆる行動、あらゆる動機はすべて宇宙の広大な領域に記録されており、みなさんは嘘偽りのない、あるがままの存在として判断される。他者からの注目や尊敬を求めるのではなく、私利私欲ぬきで誠実に他の人びとを豊かにするよう努力しながら、地道に人生に取り組んでいこう。あなたは今生でも来世でも、自分の魂に満足することによって十分に報われることだろう。
ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.99-100
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23-zn (いまあなたがこうしてこの世にいる理由)
以前にも、こんなことがあったという気はしないか?
ときどきは。
そう、そうなのだ。あなたは何度も生涯を送っている。
何回ぐらいですか?
何度も、だ。
それは、励ましてくださっているんですか?
元気が出るだろう。
どうしてですか?
第一に、不安がなくなる。いまあなた自身も言ったように「失敗はありえない」ということがはっきりする。失敗はしないと、確認できる。「必要なだけのチャンス」がいくらでも与えられることがわかる。あなたは何度でもこの世に戻ってこられる。あなたがつぎの段階に到達できるなら、つぎのレベルまで発達するなら、そうしなければならなかったからではなく、自分でそう望んだからだ。
あなたには、こうしなければならないということは何もない! いまのレベルで人生を楽しんでいるなら、これが自分にとって最終段階だと思うなら、この経験を何度でもくり返せばいい! 実際、あなたは何度も何度もくり返してきた。自分が望んだからだ! あなたはこの人生のドラマを愛している。苦痛を愛している。秘密を、「知らない」ということを、サスペンスを愛している! あなたはそんなすべてを愛している! だから、いまあなたはこうしてこの世にいるのだ!
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.200-202
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23-zo (あなたは自分が望んでいまの暮らしをしている)
あなたは、わたしが望んでいまの暮らしをしていると言われるのですね。
もちろん。そのとおり。
わたしが、こういう在り方を選んだのだと?
そう。
そして、わたしはその選択を何度もしてきたと。
何度も。
何回ぐらいですか?
そら、また同じことを聞く。正確な回数を知りたいのか?
だいたいのところを教えてください。何百回か、それとも十数回か。
何百回もだ。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.202-204
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23-zp (あなたは過去生でもう何百回も生きてきた)
何百回も? わたしは、もう何百回も生きてきたのですか?
そう。
それなのに、ここまでしかこられなかったと?
そうでもない。かなりのところまできている。
そうなんですか?
そうだとも。なにしろ、過去の生では、あなたはひとを殺しているのだから。
それのどこがいけないんですか? あなたは、悪を終わらせるために戦争が必要なこともあると言われたではありませんか。
そのことは、もっと詳しく話そうか。その言葉は―あなたがしたように―さまざまな主張のため、さまざまな狂気を正当化するために利用され、誤用されてきた。
わたしが人間を眺める最高の基準に照らせば、怒りの表現や敵意の放出、「悪を正し」、敵対者を罰する手段として、殺害が正当化されることは決してない。悪を終わらせるために戦争が必要なこともある、というのは真実だ―あなたがたがそうさせてきたのだ。あなたがたは、自らを創造するなかで、人命の尊重がいちばん大切だ、そうでなければいけないと決めた。あなたがたがそう決めたことは、うれしい。破壊されてもいいような生命を、わたしは創造しなかったからだ。
その人命尊重のために、ときに戦争が必要になる。さしせまった悪に戦争で対抗することを通じて、他の生命に脅威が迫ったときの防衛を通じて、あなたがたは自分が何者であるかをはっきりさせるからだ。
最高の倫理法のもとでは―その法のもとではあなたがたは義務を有するが―ほかのひとやあなたに対する攻撃をやめさせる権利をもっている。それどころか、それは義務でもある。
だからといって、懲罰としての殺害や、報復としての殺害、小さな違いを解決する手段としての殺害が行われてもいいということではない。
あなたは過去において、愛する女性をめぐる私的な決闘でひとを殺した。しかも、それを自分の名誉を守るための行為だと言った。じつは、あなたは名誉をすべて失っていたのに。争いを解決するために破壊的な力を使うなんて、とんでもないことだ。今日ですら、多くの人間がばかばかしい争いを解決するために力―殺傷力―を使っている。
神の名をかたって人間を殺害するという偽善をしている者までいる。これは最大の冒涜だ。「ほんとうのあなたがた」にふさわしくないからだ。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.204-206
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23-zq [13-j] (今あなたはただ本当の自分自身になりたいと願っている)
さっきも言ったとおり、あなたはずいぶん進歩している。だから、これまで多くの生を過ごしたのに、「たった」これだけしか進んでいないのかとがっかりすることはない。あなたがたのなかには、非常に進歩し、非常に確かな自己意識をもっているひとたちがいる。あなたは、自分が何者であるかを知っているし、どんなふうになりたいかも知っている。さらに、あなたは目的地へ到達する道筋さえ知っている。これは偉大な兆候だ。確かなしるしだ。
何のしるしですか?
もうあなたには、数少ない生しか残されていないというしるしだ。
それは良いことなんですか?
良いことだ。
いまのあなたは、それが良いことだと言うだろう。だから良いことなのだ。
そう遠くない昔、あなたは、この世にとどまることだけを望んでいた。だが、いまのあなたが望むのは去ること、それだけだ。それは非常に良い兆候だ。
そう遠くない昔、あなたは生命を奪った― 虫を、草花を、木々を、動物を、人びとを殺してきた。
だが、いまのあなたは自分が何をしているか、なぜしているかを知らずには、何も殺すことはできない。それは非常に良い兆候だ。
そう遠くない昔、あなたは何の目的もないような生き方をしていた。だが、いまのあなたは、わたしが与えたもの以外には目的がないことを知っている。それは非常に良い兆候だ。
そう遠くない昔、あなたは宇宙に向かって、真実を教えてくれと願った。いま、あなたは宇宙に自分の真実を語る。それは非常に良い兆候だ。
そう遠くない昔、あなたは豊かになりたい、有名になりたいと願った。いま、あなたはただほんとうの自分自身になりたいと願っている。
そう遠くない昔、あなたはわたしを恐れた。いま、あなたはわたしを愛している。わたしをあなたと平等だと言うほどに愛している。
これらはほんとうに、とても良い兆候だ。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.211-213
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23-zr[36-q] (この宇宙では思いやりを伴わない出来事はひとつとしてない)
あなたは、恋人、あるいは配偶者を捨てたことがあるだろうか? 恋人、あるいは配偶者に捨てられたことは? もしあるとしたら、あなたたちの魂は、別の人生(複数の場合もある)のなかでいっしょに体験した、双方が引きつづき癒しを体験することの可能な特定の状況を、この人生のなかに設定することに、深い思いやりをもって、優雅に合意していたのかもしれない。
あなたがたの魂は、もしかしたら、かつていっぽうが体験したのと同じつらい喪失を、もういっぽうも体験することで、エネルギーの相互バランスをとる、という合意に達していたのかもしれない。この種の体験が無意味な痛みをつくり出すことはけっしてない。この宇宙のなかで、思いやりをともなわない出来事はひとつとしてないのである。
ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
サンマーク出版、2003、p.216
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23-zs (前世について知りたいという激しい感情を持つ)
今日の人間は輪廻転生とカルマを信じるにはもっとも適していないことによって、知的な学習に駆られるのです。現代人は、精神的に努力したか、物質的に努力したかにかかわりなく、来世では、前世を感じる素質を持つようになります。なにに従事したかにかかわりなく、現代人は生まれ変わったとき、前世についてなにかを体験したい、なにかを知りたいという強い望みを持つようになります。わたしたちは、時代の転換期に生きているのです。輪廻転生とカルマについて知ろうとすることがもっとも少ない時代と、前世を知りたいという強い望みを持つようになる時代との転換期に、わたしたちは生きているのです。来世では、「前世について知ることができないなら、いまの人生は砂上の楼閣のようなものだ」という激しい感情を自分のうちに感じることになります。
ルドルフ・シュタイナー『いかにして前世を認識するか』
(西川隆範訳)イザラ書房、1993、p.22
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23-zt (輪廻転生をとおして不完全になっていくこともある)
わたしたちは輪廻転生をとおして、いつも完全になっていくのではなく、不完全になっていくこともあるのです。わたしたちがだれかを中傷したり、だれかに災難をふりかけたりするとき、わたしたちは不完全になっていきます。その人に対して危害を加えたというだけではなく、わたしたち自身もその行為からなにかを受け取るのです。そのようなことをおこなわなければ、わたしたちは総合的な人格としてはもっと価値ある人間であったことでしょう。そのような、わたしたちの借りがたくさん書き込まれています。そのような借りを作っているので、わたしたちは不完全になっていくのです。わたしたちが、だれかを困らせたあと、以前に自分が有していた価値をふたたび取り戻そうとするなら、なにが起こらねばならないでしょうか。
わたしたちは、自分の行為の均衡を取らねばなりません。なにかを克服することをわたしたちに強いるものを見出さねばなりません。そして、この方向で、わたしたちの苦悩と苦痛について熟考してみると、「自分の不完全さを克服するための力を自分のものとするために、それらの苦悩、苦痛はわたしに適したものである。苦悩をとおして、わたしは完全になっていく」と、いうことができるのです。
ルドルフ・シュタイナー『いかにして前世を認識するか』
(西川隆範訳)イザラ書房、1993、p.68
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23-zu(三十歳頃に出会う人々は前世において家族であったことが多い)
精神科学のさまざまな探究の結果、わたしたちが三十歳ごろに出会う人々は、非常にしばしば、前世において親子もしくは兄弟姉妹の関係であったことがわかります。これは、注目すべき事実です。必ずそうだというわけではありませんが、多くの場合、前世においてわたしたちの両親であった人々には、現世においてもわたしたちの幼年時代にふたたび出会うのではなく、わたしたちが物質界で活動するようになった三十代ごろになって出会うのです。わたしたちが三十代ごろに出会った人々は、来世において、たいてい親子、兄弟姉妹、親戚として出会うことになる、と精神科学の探究は示しています。現世において三十代ごろに知り合いになった人々は、前世において親族であり、来世において親族であるということになるのです。「三十代にともに過ごす人々は、前世においてわたしの両親、兄弟姉妹であった。そして、彼らは来世においてわたしの両親、兄弟姉妹になる」と、いうことができるのです。
ルドルフ・シュタイナー『いかにして前世を認識するか』
(西川隆範訳)イザラ書房、1993、p.74
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23-zv (信仰と知識は男性と女性の関係と同様の関係にある)
霊的な事実を知っている者には、「外的な物質的生活においては、信仰と知識は男性と女性の関係と同様の関係にある」ことが明らかです。それは事実であり、正しく認識する必要があります。この平行関係は、いままで何度も強調してきたように、「人間は一連の輪廻転生をとおして、交互に、男、女として生まれるように、基本的に交互に、より信仰的な人間、より理性的な人間として生まれる」と、いうことができます。例外はあります。数回つづけて男、あるいは女として生まれることはありえます。
ルドルフ・シュタイナー『いかにして前世を認識するか』
(西川隆範訳)イザラ書房、1993、p.101
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23-zw (人間の前世の行為で地球の未来の様相が決定される)
人間の魂は永遠の存在であるということを受け入れている人々も、輪廻転生とカルマを考えることなしに、人間は死ぬと地上から離れ、霊的世界に歩み入ると思っています。多かれ少なかれ心霊主義的な「例外の人々」を除いて、人間は死の扉を通って地上から離れていくときに、罰せられるか、よしとされるかであり、地上の人生のつづきが、まったく新しい、天上の世界でおこなわれると思われています。
輪廻転生とカルマを認識すると、事態はまったく異なってきます。死の扉を通過するとき、人間の心のなかに生きていたものは天上の世界にとってのみ意味があるのではなく、人間が生まれてから死ぬまでに体験することが未来の地球形成を左右するということを明白にしておかなくてはなりません。地球の様相は、人間がかつてなにをなしたかによって決定されるのです。人間が前世でなにをしたかによって、地球の未来の様相は決定されるのです。これが、輪廻転生とカルマの理念に結びつく心情―道徳です。このことを受け入れた人間は、「わたしは、どのように生きるかによって、未来の文化に働きかけるのだ」ということを知ります。
ルドルフ・シュタイナー『いかにして前世を認識するか』
(西川隆範訳)イザラ書房、1993、pp.126-127
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23-zx (前世の生きたかによって次の生まれ変わりが決まる)
輪廻転生とカルマを信じない人間は「わたしが死ねば、せいぜい、地上でなしたことについて罰せられるか、ねぎらわれるかだ。わたしは天上の世界で生きていく。その世界は、なんらかの霊的な力によって支配されている。わたしが自分のなかに担っているものが、世界を害することはない」と、いいます。
輪廻転生とカルマの理念を認識した者は、そのように語ることはできません。前世でどのように生きたかによって、つぎの受肉がどうなるかが決まるということを知っているからです。
ルドルフ・シュタイナー『いかにして前世を認識するか』
(西川隆範訳)イザラ書房、1993、pp.127-128
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23-zy (現世でどのようにしてある人々と血縁関係になるか)
意味深いカルマに関する問いは、つぎのようなものです。「どのようにして、現在の人生において、ある人々と血縁関係になるのか。なぜ、人生のはじめに、それらの人々と出会うのか」。
そのような問いに対して、精神科学はつぎのようなことを見出しています。実際には無数の例外があるのですが、原則的にはつぎのようにいうことができます。わたしたちが人生の始めに出会う人々は、わたしたちが前世において人生の半ば、三十代に出会った人々なのです。前世において、それらの人々を、わたしたちは心的傾向などに駆られて、自分の意志で友に選んだのです。人生の始めに出会う人々のことを、前世においても人生の始めに出会っていたと思うなら、まったく間違っていることになります。血縁関係になる人々を、わたしたちは前世において、人生の始めでも終わりでもなく、半ばにおいて自由意志で友として選んだのです。非常にしばしば、自由意志によって結婚した相手と、つぎの人生において親子、兄弟姉妹関係になります。思弁によって仮定したこと、考え出したことは、だいたい間違っているということを、精神科学的探究は明らかにしています。
ルドルフ・シュタイナー『いかにして前世を認識するか』
(西川隆範訳)イザラ書房、1993、p.130
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23-zz (輪廻転生とカルマの理念は人生を実り豊かなものにする)
人間は自分のカルマによって、みずから両親を選んだのだというのは一般的な理念です。「いま、わたしがもっとも無意識に選んだ人々は、前世において、わたしがもっとも成熟していた時期に意識的に選んだのだ」ということを知ると、両親の選択についての表象が確かなものになります。
そのように考えるのは、多くの現代人にとって不愉快なことかもしれません。しかし、これは事実なのです。血縁関係に不満を感じている人々は、その不満を土台として、来世を異なったものに形成するように心がけねばなりません。そのように、輪廻転生とカルマの理念は人生を実り豊かなものにするのです。この理念は好奇心を満足させるものではなく、わたしたちを完全なもの、人生全体を完全なものにしていくものなのです。いまお話しした関係は、現世と来世についても当てはまるものです。
わたしたちが三十代に理性的に選んでいっしょに過ごした人々には、来世で人生のはじめに、おそらく両親、兄弟姉妹として出会うことになるでしょう。家族がどのように構成されるかを知るなら、輪廻転生とカルマの理念の下に、わたしたちの責任感情は意味深く拡大することでしょう。
ルドルフ・シュタイナー『いかにして前世を認識するか』
(西川隆範訳)イザラ書房、1993、pp.131-132
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23-zza (アメリカのモンロー研究所で実感する輪廻転生)
モンロー研究所の話に戻しますが、参加者の多くが体験するのは「人生は今回だけじゃない」ということです。一般に輪廻転生と聞くと、一人の人間が時代ごとにさまざまな人物として生まれ変わり、さまざまな人生を経験するというイメージですよね。
もちろん当然それもありますが、しかしどうもそれだけじゃないようです。
つまり自分が複数に分裂して、例えば五人とか一〇人とかですが、その分裂したそれぞれが輪廻する状況があるようです。自分が五人に分裂する場合を例にとると、自分はA、B、C、D、Eに分かれます。で、AはAl、A2、A3と順に輪廻してゆきます。それと並行してBもBl、B2、B3と輪廻します。同様にC〜Eも輪廻します。この中のたとえば、B3がこの自分です。
ということで、どうも単純な輪廻ではないようで、いくつにも自分が分かれ、それぞれが輪廻しているという状況のようです。ちなみに自分が何人に分裂するのかはわかりません。
ですから他の自分もたくさんいますし、それは別の時代を生きているわけです。同じ時代に生きている自分がもう一人くらいはいるようです。
これは物質世界のちょっと上からの視点で見た場合ですが、もっと上のほうから見ると、分裂も転生も、全部同時に見えます。
つまりそのさらに上の世界から見ると、それはもはや輪廻ではなく、すべてが同時並行して生きているような感覚です。
もう一挙に体験している感じですね。下のほうの視点から見ると、順番に輪廻しているという感覚です。(坂本政道)
矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
(徳間書店、2012、pp.192-193)
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23-zzb (輪廻転生を信じるようになるまで -1- )
リアがぼくに、
「セント・ジャーメインを知っていますか?」
と聞きました。
「いいえ、聞いたこともありません」
リアが言うには、セント・ジャーメインというのは、ぼくにメッセージを伝えたがっている精霊の名前だそうです。
セント・ジャーメインとは英語発音です。あとで調べてみると、日本語ではサン・ジェルマン伯爵と呼ばれているのだと知りました。
ともかくその日、まったくの初対面でぼくのことを何も知らないリアを通して、サンジェルマン伯爵から伝えられたメッセージは驚くべき内容でした。とても信じられませんでした。
まとめてみると、次のようになります。
「トシは、シャーリー・マクレーンの『アウト・オン・ア・リム』を翻訳しましたね。それは私たち精霊が、あなたがた夫婦を使って訳していただいたのです。
これから先、時代が大きく変わります。人々の意識が変わって、世界が変わります。多くの人々が集団覚醒をします。でも、このままでは時間が足りません。
こちら側では、多くの精霊や天使たちが、一生懸命活動して人々に覚醒をうながしています。『アウト・オン・ア・リム』は、覚醒のための大切な本です。シャーリー・マクレーンは、私たちによって、その本を書かされたのです。あなたがた夫婦も、その本を日本語にするために私たちに使われたのです。
実は、あなたがアメリカに転勤になったのも、アメリカで『気づきのセミナー』を受けたのも、すべては私たちの計画です。あなたがたも、シャーリーが導かれているのと同様に、私たちの導きによってすべてがとりおこなわれているのです」
ぼくはびっくりしました。
そんなことは、正直言って信じられませんでした。
ぼくをワシントンD.Cの世界銀行に派遣したのは、大蔵省で人事を担当している人です。
『アウト・オン・ア・リム』を翻訳してみようと思いついたのは、ぼく自身です。
精霊がしたことだって? いったい、何を言っているんだろう――。
しかし、あとになってよく考えてみると、訳し始めると、驚くほど何もかもがスムーズに運んだのは事実です。出版社を紹介してくれる友達が現れたり、出版社で出してくれることがスムーズに決まったり、一度も翻訳したことがないのにすらすらと訳せたのも予想外のことでした。
後ろから何者かの力が働きかけていた、ということもあり得たのかもしれない――。
以前、「気づきのセミナー」のアシスタントに応募したとき、「どうしてアシスタントをしたいのですか?」と、採用を決めるファシリテーターに聞かれました。ぼくは、「何かが後ろでぼくを押しているような気がするのです」と、われながら妙な答え方をしたことも思い出しました。
それにしても、「精霊たちは、どうして、ぼくたちが『アウト・オン・ア・リム』を訳したことを知っているのだろうか?」と不思議でした。
そんなぼくを見透かしたように、精霊はさらにこう続けました。
「私たちは、何でも知っています。
世の中の動きは、実はすべてが計画されているのです。
大蔵省の人事、それどころか、あなたが生まれる以前から、あなたの人生は決められていたのです」
一応、話は聞いたものの、とても信じられません。でも、リアが「何でも聞いて」と言うので、ぼくは自分は前世で何をしていたのか、聞いてみました。
そのとき初めて、自分は前世で中国、ロシア、アメリカなどにいたことを聞かされたのでした。
もちろん、すぐに信じたわけではありません。輪廻転生など、まだそのときは信じていませんでしたから。
ただ、さらに父や母、きょうだいの前世を聞くと、たとえばロシアでは友人だったり、あるときは親戚だったりと、グループで転生しているらしいのです。家内とは前世でも夫婦だったとか。それは、「ちょっと、面白いな」と思いました。
信じてはいないものの、同じ人が国境を越えてインド人になったり、中国人になったり、アメリカ人になったりしているというのは、不思議な話で、興味を引かれました。
精霊はさらに言いました。
「あなたがたが訳した『アウト・オン・ア・リム』は、日本人の意識を変える上で、とても大切な本です。
あなたが今、本を出そうとしている出版社はよい出版社なのですが、資力が十分ではありません。この本はとても大切な本なので、たくさんの人に読んでもらわなければなりません。ですから、今出そうとしている出版社から出してはいけません」
ぼくは抵抗しました。そんな話はとんでもないことです。地湧社の増田社長がせっかく「喜んで出します」と言ってくれたのに、「地湧社から出してはいけない」なんて、とんでもない話でした。
ぼくは精霊に、「そんな、約束を破るような話は絶対に聞けない」と、きっぱり拒絶しました。
精霊はそれ以上は何も言いませんでしたから、その話はそれで終わったものと理解しました。
精霊は、そのほかにも、いろいろなことを教えてくれましたが、ぼくは自分に何が起こっているのか、よくわかりませんでした。
精霊は、「いずれはあなたがた(ぼくと妻)も、私たちと直接、交信できるようになる」
とも言ったのですが、そんなことが自分たちに起こるなんて、とうてい信じられることではありませんでした。
山川紘矢『輪廻転生を信じると人生が変わる』ダイヤモンド社、2009, pp.76-81
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23-zzc (輪廻転生を信じるようになるまで -2- )
実は、帰国する途中でカリフォルニアを少し旅行する計画をすでに立ててあったのです。ロサンゼルスでは、パロスベルデスのB&B(Bed and Breakfast/朝食付きで宿泊できる比較的安価な一般家庭)に泊まることになっていました。
不思議なことに、ぼくの前世で母親だったという女性の住所をリアに確かめると、偶然にも、すでに予約してあったB&Bと同じ地区だったのです。
さて、B&Bの女主人ミセス・エクスレイは、死後の世界や輪廻転生にとても興味を持っている人でした。ぼくらが朝、瞑想していたのを夫人が見かけたのをきっかけに、そういう話を交わすようになりました。
エクスレイ夫人いわく、亡くなったご主人が部屋に現れるのだそうです。夫が生前、可愛がっていた犬が気配を感じ、生きていた主人にしていたのとそっくり同じようにしっぽを振って喜ぶのだそうです。
彼女は壁に飾った浮世絵の一枚を示して、
「私の前世は日本人だったのよ。この浮世絵の風景の場所に、私がいた記憶が確かにあるの」
とも言いました。
彼女は仲良しの、そうした話で気の合う友達を呼びました。そして、ぼくたちはワシントンで起こったことの一部始終を話したのです。もちろん、2年後に起こるという地震についても話しました。
パロスベルデスはロスの高級住宅地で、近くにとても美しい海岸があります。泳げるというので、連れていってもらいました。海岸に家内と 2人で下りていくと、崖に大きな割れ目ができていました。地殻変動でできたのでしょうか。まだ新しい割れ目でした。
それを見て、ぼくは「カリフォルニアに地震がくるのは間違いない」と感じ、ぞっとしたのでした。
ミセス・エクスレイは、ぼくの前世の母親の話を聞くと、「あら、その住所なら、すぐ近くよ! 今夜、私が連れていってあげましょう」と言ってくれました。
ミセス・エクスレイに連れられて、ぼくはドキドキしながら前世の母親の家を訪ねました。そこは大きな樹木に囲まれた、プールのあるすばらしい邸宅でした。
驚いたことに、ぼくと彼女は会うやいなや、しっかりと抱き合ったのです。お互いにごく自然と、まるで肉親のようにそうせずにはいられませんでした。
彼女はぼくよりも若く、とても感じのいい、美しい人でした。ハンサムなご主人は、仕事の関係で日本にもよく行くということです。
「あなたの奥さんは、ぼくの母親だったんですよ」
と言うぼくたちの振る舞いに少し戸惑って距離を置いているようでしたが、ぼくたち夫婦とエクスレイ夫人に親切に対応してくれました。
彼女の美しいお嬢さんはシャーリー・マクレーンの大ファンで、彼女の舞台も何回も見たそうです。「自分も、将来はシャーリーのようなミュージカルスターになりたい」と目を輝かせていました。可愛い金髪の坊やと可愛い白い犬もいました。
カリフォルニアのぼくの“母親”も、ぼくと同じ誕生日だったので驚きました。リア、ぼく、ぼくの母親の 3人が同じ誕生日だったのです。
お嬢さんのしていたペンダントとエクスレイ夫人のペンダントが金でできた全く同じものだったのも不思議でした。「一切、偶然はない」と、ぼくたちは不思議世界に取り込まれてしまったように感じました。
まるで映画の主人公になったみたいだ。そうだ、人生はまさに映画で、ぼくたちは映画に登場している人物なんだ。そしてひとつの映画が終わったら、また別の映画が始まって別の役を生き始めるんだ。――そんなふうに実感したのです。
山川紘矢『輪廻転生を信じると人生が変わる』ダイヤモンド社、2009, pp.86-89
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23-zzd (人はみんな世界中に生まれ変わっている)
ぼくは、自分の過去生はリア・バイヤーズというアメリカ人のチャネラーを通して教えてもらいました。初めてのとき、中国人、ロシア人、アメリカ人だったときの過去生を教えてもらいました。それから、いろいろな機会にイギリス人だったこと、アメリカインディアンだったことなど、自分でもなるほどと納得できるようなエピソードとともに知りました。
たとえばぼくはカリフォルニアのエサレン(ビッグサーにある人問の可能性を開発・研究する場所で、年間を通じて自分を知るための各種セミナーがおこなわれている)が大好きで、この8年ほど、毎年のように行っています。そこで、たまたま出会った20歳のアメリカ人の青年が日本にどうしても行きたいというので、「ぼくの家に来たら?」と軽く言ったところ、本当にやってきました。
ボビーという名前で、体は大きいのですが、大学2年生なのに少年のようなところがありました。ぼくたちには子供がいません。20歳の彼を預かることになり、子供を持ったようにわくわくしました。「あいうえお」から始めて1から100まで数を教え、子供向けの本を買ってきては日本語を教えました。ボビーは、あまり勉強好きではなかったのですが、驚いたことにあっという間に日本語を覚えてしまいました。
剣道をしたいというので、明治大学の剣道部の仲間に入れてもらいました。習字が好きで、最初から見事な字を書きました。食事も日本食が好きで、納豆、たくあん、のりなどが大好きです。
彼を預かったのは1ケ月だけでしたが、ぼくはまるで親代わりのような世話の焼き方をし、帰宅時間過ぎても家に戻らず、酒に酔いつぶれた彼を本当に心配しました。「どうして、よりによって彼を預かってしまったのだろう」と思ったものです。
そこで、精霊に過去生での関係を聞いてみました。すると、次のようなことがわかったのです。
ぼくはその昔、カリフォルニアに住んでいたエサレン族というインディアンだったそうです。その人生で、ボビーはぼくの赤ちゃんとして生まれました。ところが父親のぼくは仕事のために家を離れ、子供の面倒を十分に見なかったのだそうです。子供をないがしろにしたのです。
だから、今生で彼の面倒を見て、そのときの負債を返しているというのです。本当かどうかはわかりませんが、ぼくとしては「なるほど」という実感があり、縁とは不思議なものだと思いました。
また、ボビーは日本人だったことがあり、江戸の下町に住み、人々に書道などを教えて尊敬されていたそうです。その人生では剣道の腕も確かだったようです。
ボビーの前世が日本人だったというのは、ぼくにもボビー本人にも周りの人にも、とても納得のいく話でした。そもそも彼がどうしても日本に来たいと思い、その願いがかなってしまったことも不思議でした。
ぼくは冬の寒さが嫌いです。ロシア人だったとき、寒い牢獄に閉じ込められ、凍えて死んだことがあるのだろうか、と思ったりもします。リア・バイヤーズに前世を見てもらったとき、ぼくはロシア人だったことがあり、その頃の民衆があまりにも虐げられていると感じて革命を起こすために工作したものの、失敗して牢獄につながれたと聞いたのですが、それもぼくの中では実感をともなって納得できる感じがします。
聖フランチェスコとも、前世で会ったことがあるのかもしれません。
聖フランチェスコの出てくる『ブラザー・サン・シスター・ムーン』は、ぼくの好きな映画のひとつです。
人はみんな世界中に生まれ変わっているのです。それは世界はひとつだと理解するための練習なのでしょうか。面白いことです。
山川紘矢『輪廻転生を信じると人生が変わる』ダイヤモンド社、2009, pp.141-144
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23-zze (輪廻転生を認めるか認めないか)
小林 ダライ・ラマの主治医の話です。70歳くらいの柔和な顔の方でしたが、その方は、キリスト教的で輪廻転生を認めない西洋医学を究めた医者であると同時に、輪廻転生を前提としたチベット仏教徒でもあります。
私が「あなたの中では、西洋医学的な医者であることと輪廻転生とは、どちらが優先するのですか」と聞いたところ、その答えは「輪廻転生の方が優先する」というものでした。
やはり宇宙的な真実として、輪廻転生は存在するのでしょうか。
中川 ええ。真実は一つなのですが、宗教上の理由によりそれが認めにくいということがこの三次元世界ではあるのです。
小林 アメリカ人のほとんどはキリスト教徒ですが、キリスト教は輪廻転生を認めていないようですね。
中川 ええ。アメリカ人は、自分が死んだら天国に行くということは信じていますが、輪廻転生を信じているかどうかはわかりません。
小林 中川さん自身は、輪廻転生は存在するとお考えですか。
中川 はい。霊魂の世界は否定するも何もありません。霊界に行けば何百年という単位でそこにいて、現実に自分が体験するのですから。
ただ、三次元世界にいる間は体験がありませんから、輪廻転生を否定する人が多くても不思議ではないと思います。
また、輪廻転生が絶対に存在すると言ってしまうと、新興宗教にだまされたり利用されたりする人が出ますから、情報として知っておく程度でよいでしょう。
小林 30年ほど「不思議」や「超常現象」、「こころの世界」などを研究し、多くの超能力者や霊能力者とお会いしてきましたが、ほとんど全員が「輪廻転生や霊界・幽界は存在する」とおっしゃっていました。
中川 この世で信じなくてもかまわないのです。死んだら必ず体験”するわけですからね。
霊界には霊界のシステムがあり、人は死んだら、そのときの魂の波動と同じ波動のところへ行くようになっていますから、何の心配もいりません。死んでからしばらくは、三次元的意識(大脳的意識のエネルギー)が残っています。
日本人の中には、死んだら終わりで、神や霊の存在を信じないという人が半数を超えています。欧米ではキリスト教が正しく教えていますので、信じないほうが少数派ですが。
アメリカでは60%くらいの人は、死後の世界があり、魂はそこへ行くのだということを、(信じなくても)情報として持っていますね。
なぜかというと、よくテレビや映画の葬儀の場面で、牧師が聖書を見ながら「この者の魂は、神に召されて天に帰った」と言っています。
それを聞いて信じるかどうかは別としても、常識としてそういう情報を持っている人が多くなるのでしょう。
小林正観『守護霊との対話―中川昌蔵の世界―』弘園社、2005、pp.167-169
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23-zzf (短命な一生を終えた人が生まれ変わるとき)
神秘哲学者のルドルフ・シュタイナーは、幼児などの早死にの問題に対して、画期的な考え方を示しています。
誰かが病気になり、通常の人よりも短命な一生を終えたとします。その人は、通常の人生であれば、仕事をはじめとして十分に生かし切れたはずの力を死後も保持しています。早く死ななければ十分に発揮できたはずの力が、いわば余力となって残っているのです。
その人の死後、その力がその人の意志と感情の力を強めるといいます。そして、そのような人は、早死にしなかった場合よりももっと強烈な個性や豊かな才能を持った人間として、再びこの世に生まれ変わってくるというのです。
子どもの場合もまったく同じです。幼くして死んだ子どもは、強力なパワーを持って霊界に参入し、天才として生まれ変わってくることが多いそうです。長生きできる生命力を持っていた人間が不慮の災難に遭って、この世から去らなければいけないとき、その残された生命力はその後も使用することができるというのです。いわば、生命力には「エネルギー保存の法則」が働いているわけですね。
シュタイナーによれば、人類の歴史に影響を与えるような大発明家には、前世において不慮の死を遂げた人が多いそうです。(一条)
矢作直樹・一条真也『命には続きがある』PHP研究所、2013、pp.59-60
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23-zzg (過去生を知ってわかったニュージーランドに住みたくない理由)
オークランドに1ケ月滞在したところで、家内が母親と連れだって、やってきました。そのころにはもう、ぼくはオークランドが気に入って、どうしても定住したくなっちゃっていたんですね。ニュージーランド人のボブ君という友人もできちゃったりして。
ところがです。家内は、「ここはとても美しい場所ね。人もとても親切だし」と言いながらも、「でも、どうしても住む気になれないの」と言うんです。それにマオリ人を見ると、なじめない、と言い出す始末。
本当に、もうどうしたんだろう、とぼくには不思議でした。
ある日、ぼくたちは、例のチャネラーに会って、どうして家内はニュージーランドに住みつきたくないのか、聞いてみることにしたんです。すると、ウォーター・ローリー卿の霊が出てきて教えてくれたんです。
過去生において、ぼくはイギリス人の宣教師でした。ニュージーランドに派遣されたぼくは、この国がすっかり気に入り、同じ宣教師の友人に手紙を書いて、ここは素晴らしいから、ぜひ来るようにとすすめました。その結果、友人は新婚の奥さんを連れて、ニュージーランドに渡ってきたのです。
ところが、当時、マオリ族とイギリス人は争っていました。友人の奥さんは妊娠中だったのですが、争いに巻き込まれて、マオリ人に殺されたのです。
さて、そのときのぼくの友人の宣教師とは、今の家内の母親だったのです。そして彼の妻が、なんとぼくの家内、そして殺されたとき、その胎内にいたのはボブだったんだって!
それで家内がニュージーランドに住みたくない理由が判明したのでした。
山川紘矢『天国はここにあり』ダイヤモンド社、2010、pp.139-141
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23-zzh (輪廻転生する私たちが前世の記憶を持たない理由)
「輪廻転生」という言葉も、だいぶ知られてきました。でも、まだ信じられないという人も多いかもしれません。「前世なんていうものがあるなら、少しぐらい記憶が残っていてもいいじゃないか」という人もいますが、通常、僕たちが前世の記憶を持たないのには、ちゃんとした理由があります。
もし、前世の記憶が残っていたとしたらどうでしょう。記憶ばかりでなく、トラウマも引き継いできたら大変です。「前世の時のような死に方では死にたくない」という思いでいっぱいになり、生きること自体が苦しくなってしまうはずです。
まして昔となれば、飢え死にや戦死など、悲惨な最期が数多くあったことでしょう。戦火の中を生き抜いた人などは、二度と思い出したくない出来事もたくさんあるはずです。だから転生するときは、そういったつらく苦しい記憶がなく、新しくまっさらな人生に生まれてくるのです。でも時々、前世の記憶を持った子どもが生まれることもあります。人生の途上で、前世を思い出すこともあるかもしれません。デジャブという言葉があります。『前世で確か、同じような体験をした』という記憶です。旅をしたとき、確かに昔ここにいた記憶がある、という人には何人か出会いました。日本が大好きな西洋人などは前世で日本人だったに違いない、と言った人もいました。そう考えると、国は違ってもみんな同じ仲間なのではないかと、安心します。僕は記憶はありませんが、前世でアメリカ人だったことがあるな、と思えるときがあります。アメリカがとても好きですし、もう、何回行ったか数えられないほどです。ハワイに1年、シカゴに1年、ワシントンD.C.に3年住みました。カリフォルニア州にも全部あわせれば、1年ぐらいはいたことになります。
大蔵省に勤めていたころ、赴任していたワシントンD.C.で、アレキサンダー・エヴエレットという人のセミナーを受けたことがあります。
彼はもともとイギリスの教育者で、のちにアメリカに渡り、潜在能力開発プログラムの作成などに尽力した人です。「人が生まれ変わるのは、地球が太陽の周りを回っているのと同じくらい当然のことだ」と彼は言っていました。
山川紘矢『死ぬのが怖いあなたに』イースト・プレス、2011、pp.43-45
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23-zzi (霊界で次の生まれ変わりをどのようにして選択するか)
次の生として人間として生きるというのは選択肢のひとつに過ぎないのですが、多くの人はそれを選択するようです。人間として生きることがそれだけ魅力的だということのようです。
人間になる場合、次の人生の計画を立てる作業の一環として、一つ前の人生やそれまでの過去世での経験や学びについて見てみます。そして、人としてさらに学びを深めるには何が必要かを見極めます。
それに基づいて次の人生を計画します。
まず、何を学ぶことを目的とするか決めます。たとえば、もっと愛情を自分から発することを学ぶことを目的にしようとか。
その目的を達成するのに適するように生まれる環境を選択します。
たとえば、どこの国で、いつの時代に、どういう親の元に生まれるかを決めます。また、性別を決めます。
さらに、何を達成したいのか、学びたいのかに合わせて、身体的な条件(成長後の体格、容姿、健康状態、健常者か障害者か)とさまざまな能力などを設定します。特定のことを学ぶために、あえて障害を持って生まれることを選択する場合もあります。
その次に、その人生における重要な出来事や出会いについて設定します。たとえば、14歳のときに大病を患うとか。将来結婚するかもしれない人との出会いや会社を共に興すことになるかもしれない人との出会いなど。
ただし、出来事や出会いは設定しますが、それに対して自分がどう対応するかまでは設定しません。それはそのときになって自分が選択します。
このように人生の節目になるようなことは設定しておきますが、実際にどう生きるかの大部分は未定で、実際に生きながら選択していきます。だからすべての運命が決まっているわけではありません。身体要素や能力などの条件設定も含め、人生は自分で選択し、作っているのです。
坂本政道『死ぬ前に知っておきたいあの世の話』
ハート出版、2016、pp.38-39
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23-zzj (生まれ変わりの回数は一般的には数十回から数百回である)
私たちはこれまでに何回も人間として生きてきています。その回数は人によって異なりますが、数十回から数百回というのが一般的なようです。
普通は男も女もだいたい同じ回数経験してきています。
これまでに体験した人生には金持ちもあれば貧しい人もあります。王侯貴族もあれば農夫、漁師、主婦、乞食、職人、兵士、芸術家、学者、賢人、宗教家、政治家、詐欺師、盗人、殺人犯もあります。健常者や障害者、加害者や被害者もあります。長生きした者も生まれてすぐに死んだ者もいます。おそらく、考えられるような人生パターンのほとんどすべてを経験してきているでしょう。
何度も人間を体験しているのは、一度の人生で体験できることには限度があるからです。多種多様な人生を経験することで多くのことを学びたいのです。
人間になる前にはさまざまな生命体を体験してきています。地球上の生命だけでなく、地球以外の生命系での生命もたくさん体験しています。
数多くの生命体験をすることをとおして学び、意識の発展向上をはかっています。
坂本政道『死ぬ前に知っておきたいあの世の話』
ハート出版、2016、pp.148-149
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23-zzk (一つのグループ・ソウルからは一体の魂しかこの世に送り出されない)
最初の疑問は、「あの世の家族であるグループ・ソウルから、代表としてこの世に生まれてくるのは、いったい何人なの?」ということ。
子供ながらに、「私なんかが代表だなんて信じられないし、ほかの代表さんが頑張ってくれればいいんじゃないの?」なんて、思いも浮かびました。
でも、どうしても納得したい私は、霊界の高級霊や、神社の境内でさまざまな霊や御祭神などに尋ねて確かめたり、霊的研究についての書物などを調べたりしました。そこでわかったことは、一つのグループ・ソウルからは、一体の魂しかこの世に送り出されないということ。そして、その代表がこの世に生きているうちは、ほかの魂は生まれることができないこと。
ただし、本当に稀なことなのですが、中にはツインソウルといってこの世に生まれる際に、二つに分裂して同じ頃にこの世に生まれる魂もあるのです。二つに分裂した魂は、寿命をまっとうしてあの世に帰ってから、また一つの魂に戻りますが、二人分の感動を経験することができるので、たくさんの学びを得て、より魂を輝かせることができますよね。
同じくツインソウルで言いますと、二つに分裂した魂が、あの世と、この世に分かれて学ぶという形もあります。その場合、この世で学ぶ魂の守護霊を、あの世に残った魂が担当することが多いようです。カウンセリングをしていても、相談者さんの守護霊様が、その方の前世(前世のご自身)だということがありました。
1回の生まれ変わりで二度の経験ができる、まさに器用な魂! といっても良いでしょう。
美鈴『あの世を味方につける行き方』扶桑社、2010年、pp.21-23
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23-zzl (霊は進化するために何度も地上に転生輪廻する)
知性および精神性を発達させるために、霊は、繰り返し地上に転生輪廻する。
知性を発達させるためには、仕事に就く必要があるだろう。
思いやりを発達させるには、人間同士の相互関係が必要である。人間関係が試金石となって、よき人間、悪しき人間をつくり出す。善意と悪意、優しさと暴力、思いやりとエゴイズム、慈悲と貪欲、謙虚さと倣慢さ、誠実さと偽善、率直さとかたくなさ、忠誠と裏切り、などなど、要するに、善人と悪人を区別する、あらゆる性格が、同胞とのかかわりの中から生まれるのである。
たった一人で生きる人間には、悪も善もない。一人きりで生きている場合、悪を犯さずに済むが、また、善を行うことも不可能である。
みずからに欠けている善なる資質をすべて獲得し、厭うべき悪しき資質をすべて捨て去るには、一回の転生では、当然のことながら不充分であろう。
粗野で獰猛、かつ無知な人間が、たった一回の転生で、知的にも精神的にも最高に優れた人間になることは可能であろうか? どう考えても無理である。
では、彼は、永遠に、無知かつ粗野のままでいなければならないのだろうか? 諸々の高度な能力がもたらしてくれる喜びとは、永遠に無縁のままで生きねばならないのだろうか? ほんのちょっとでも良識を働かせてみるならば、それがあり得ない話だということが分かるはずだ。もし、そういうことがあり得るとしたら、それは、神の善意と正義、そして、自然が備えている進化の法則を、否定することになるからだ。
だからこそ、善と正義そのものである神は、人間に、完成という最終的な目的に至るために、何度でも何度でも地上に転生することを許してくださっているのである。
新たな転生のたびごとに、霊は、前回までの転生で得た能力や知識、知性や精神性を携えて地上に降りるのである。それぞれの転生は、したがって、進化に向けての一歩一歩であるのだ。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、pp.302-304
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23-zzm(転生輪廻はまだ充分に発達していない霊のためにある)
転生輪廻は、まだ充分に発達していない霊のためにある。ある一定の限界を超えて高い悟りに達した霊たち、あるいは、もはや粗雑な物質をまとったかたちでの修行を必要としない惑星に住む霊たちにとって、もはや転生輪廻は必要ではなくなるのである。
しかし、それは、いわば強制的な転生輪廻を必要としなくなったということであって、そうした霊たちであっても、高度な使命を遂行するために、人間たちに、直接、影響を与えるべく、肉体をまとって地上に降りるということはある。人々に奉仕するために、あえて、地上の苦しみ、肉体に宿るつらさを引き受けるのである。
地上において肉体生活を営んでいる時期以外は、霊は、霊界で、ある一定の期間を過ごすが、その際の幸・不幸を決めるのは、自分が地上でなした善と悪である。
アラン・カルデック『天国と地獄』(浅岡夢二訳)
幸福の科学出版、2006、p.304
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23-zzn (過去生で隻眼になったある医師の魂の記憶)
本山 ある医科大学で精神科の准教授をしている人が、小さいときからずっと、夜寝る前とかに、ふと、自分の片目が見えなくなるという不安にかられて悩んでいました。自分は精神科の医者ですから、知っているかぎりの医者に診てもらっていましたが、精神的な不安が治る薬を飲んでも効かない。
いろいろ試してもどうしてもだめだということで、私のところに相談にみえたのです。その人に私の前に坐ってもらい、見ていると、源頼朝ゆかりの竜泉院というお寺に縁がある人だということがわかりました。そこは高野山の別格本山なのです。坐ったら、そういうことがわかったんですよ。
稲盛 坐るだけで、その人の前世までわかるんですか。
本山 ええ、そこでその人にこんな話をしました。
「あなたは前生で、竜泉院一〇代目の住職だったのです。北条政子が、頼朝の血筋を受けた一〇代目の住職に、どうしても将軍職を継いでもらおうと思って鎌倉からわざわざ高野山まで行って頼んだ。そうしたら、その住職は、世俗的なことを断って住職になっているので、と断った。さらに頼まれると、自分で片目を短刀で突いて隻眼となり、このような不具の身に将軍職は務まらないと言って固辞し通した。その住職はその後、四八歳くらいで亡くなったのです」と。
彼はびっくりしてこう言いました。
「自分の母親は竜泉院の出で、今、住職をしているのは自分のいとこです」
それで私のもとから、家にも寄らずに高野山に行き、その住職と一緒に古文書を調べたところ、私が話したような記録が出てきたのです。
八〇〇年くらい前に自分の意志で目を突いた住職も、そのときはやはりずいぶん痛かったわけです。そうした痛さが、生まれ変わった本人の、今はある大学の精神科の准教授になっても、その魂には記憶されていて、意識の働きが弱まると出てきていたのですね。
この方の場合、その不安が四〇歳を過ぎるまでとれなかった。結局、「自分の前生はそうだったんだ」ということを自覚し、信仰に熱心だったこともあって、一生懸命お祈りをしたところ、恐怖心は二、三か月で消えてしまいました。
本山博・稲盛和夫『人間の本質』PHP研究所、2009、pp.81-83
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23-zzo (なぜ私たちはこの世に生まれてきたか)
なぜ私たちはこの世に生まれてきたか。
それは前世でやり残した課題をクリアするため。今までのたましいの歴史において、自分の短きところである短所は補い、長きところである長所は伸ばし、たましいをより磨こうと決意して生まれてきています。そのための課題となるカリキュラムを自分でちゃんと決めているのです。
そして、私たちはカリキュラムを一番よく学べる学校として家系や家族を、自らで選びます。例えば、自分に何かしら学ぶべき課題があって、そのために酒乱の父親がいる家庭を選んでくるといったこともあるでしょう。
前世の因果に、家系の因縁もあって、現世に生まれてきているのが、今の私たちです。
そして今の自分の運は、「前世の因果」「家系の因縁」という成分を含んで、因縁果として運ばれてくる運というわけ。ですから、学ぶべき課題として自分を成長させるような運が運ばれてくることもあるのです。
江原啓之『運命を知る』PARCO出版、2017、pp.33-34
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23-zzp (今のあなた自身を見つめれば前世もわかる)
前世の悪因縁とは、自分が前世で蒔いた悪い種と言えるでしょう。
乱暴な言葉遣いで人を傷つけたり、ブレイボーイな振る舞いでたくさんの女性を泣かせていたというのも、その一例。
「前世のことなど記憶にないし、わからない」と思うかもしれませんが、自分がどんなことをしてきたかは、自分がいつの時代の誰かといった具体的な前世を知らなくてもだいたい想像がつくのではないでしょうか。
なぜなら、前世は自分自身。自分の長所や短所は、前世から引き継いだものだからです。そういう意味では、霊能者に前世を視てもらうまでもなく、今のあなた自身を見つめれば、前世もわかります。今のあなたは前世の延長線上に生きているのですから。
江原啓之『運命を知る』PARCO出版、2017、p.58
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23-zzq (私たちの前世の才能は現世での才能によって推測できる)
前世で優れた数学者だった人は、現世ではまったく数学の才能がないのです。前世でどのような才能を持っていたと思われるかを知ろうとするなら、いまの人生でもっとも才能のないこと、いまの人生でもっとも適していないことについて考えてみるのがよいのです。それが明らかになると、前世でどんな才能を持っていたと思われるかがわかってきます。どんな才能を持っていたと思われるかがわかる、と申し上げました。一面では、いまお話ししたとおりなのですが、べつの面では、べつの事実が幾重にも交差しているからです。
たとえば、前世で特別の数学的才能を持ちながら若死にをして、その才能を十分に発揮できなかった人がいるとします。そのような人は、前世から継続した数学の才能を持って生まれます。天折したノルウェーの数学者ニールス・ヘンリック・アーベル(1802−1829)は、来世でも数学の才能を持って生まれることは確かです。
反対に、老年まで生き、才能を発揮した数学者は、来世では数学が不得意になります。数学の才能がなく、小学校のころ数学を憎んでいた人物を、わたしは知っています。その人物は、ほかの学科はよい成績を取っていました。数学がだめでも、ほかの学科がよかったので、進級できたのです。この人物は、前世では特別すぐれた数学者でした。
ルドルフ シュタイナー『いかにして前世を認識するか』
(西川隆範訳、イザラ書房、1993、pp.16-17)
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23-zzr (今生の私たちの思考は形を変え力に変化して来世に現われる)
いまの人生はそれだけで終わるものではなく、来世の原因を含むものであると確信している人の来世は意味あるものになります。輪廻転生など無意味だと考えている人の来世は、その考えによって無意味で空虚で荒涼としたものになります。
このように、わたしたちが心に抱いている考えは、思考として高められて来世に移っていくのではなく、力に変化して来世に現れるのです。霊的世界においては、わたしたちが生まれてから死ぬまでに有するような思考は意味を持たず、変化した形において意味を持つのです。たとえば、だれかが偉大な思想を持ったとします。そうすると、その思想は、その人が死の扉を通過したとき、思想としては消え去ります。その思想の影響によって得られた感激、感情は、死後も残ります。人智学から思想を受け取るのではありません。その思想によって体験したものを、たんに一般的な基本感情としてではなく、個々の細部にいたるまで受け取るのです。
ルドルフ シュタイナー『いかにして前世を認識するか』
(西川隆範訳、イザラ書房、1993、pp.24-25)
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23-zzs (輪廻転生とカルマの理念は人生を実り豊かにする)
輪廻転生とカルマが存在するということが、たんなる理論として少数の人間にのみ知られているという現状が変化すると、人生は大きく変革されることでしょう。今日でも、輪廻転生とカルマはまだ理論として受け取られています。今日では、輪廻転生とカルマを信じている数多くの人智学者がいる、ということはできます。しかし、彼らは輪廻転生とカルマがないかのような生きかたをしています。人生が、生まれてから死ぬまでの一度かぎりのものであるかのような生き方をしています。それは仕方のないことです。理念がすみやかに変化するようには、人生の習慣は変化しないからです。輪廻転生とカルマについての正しく、具体的な理念が生活のなかにもたらされると、その理念によっていかに人生が実り豊かになるかがわかります。
わたしたちは人生に歩み入り、人生のはじめに両親、兄弟姉妹らと出会います。人生のはじめに、自然がわたしたちのまわりにあるように、血縁の人々、近所の人々のなかにわたしたちはいます。わたしたちは成長すると、血縁という枠から抜け出て、血縁によらずに、人々と結びつきます。これらのことを、カルマ的に洞察することが大切です。そうすると、人生がまったく新たに解明されます。カルマを具体的に把握し、精神科学の探究から得られたものを人生に適応すると、カルマは人生にとって意味深いものになります。もちろん、カルマは精神科学的な探求によってのみ検証できるのですが、その成果を人生に適応することができるのです。
ルドルフ シュタイナー『いかにして前世を認識するか』
(西川隆範訳、イザラ書房、1993、pp.129-130)
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23-zzt (私たちは霊性向上のために試練を自らに課してこの世に生まれてくる)
何度も生まれ変わりを続ける魂の長い道程には、数々の失敗や間違いもあります。
そういったものはカルマとしてその人の魂に記憶されていますので、因果応報の作用が働いたり、あるいは、過去に犯した間違いを正すために、次の人生ではここで大きな出来事に遭遇してバランスをとろうとか、試練を味わうことで魂を覚醒させよう、というふうに自分が計画を練っているわけです。
もっと具体的に言うなら、事故に遭ったり、病気になったり、人に裏切られるといったつらい出来事を設定し、そういった試練を体験することによって、「人生とは?」「魂とは?」「生きる目的とは?」といったことについて、深く考えるように計画してきているのです。
いわば、試練を体験したり、乗り越えることによって“魂の成長” “霊性の向上” を目指すわけです。
人間として生まれた今、覚えていないかもしれませんが、これは “自分で” 計画しています。
“人生は修行の場だから、望んでもいないのにつらい出来事が起こる。それが私を苦しめる” という受け身の事象ではなく、“自分の魂をレベルアップさせるために、または神仏に目覚めるために、きっかけとして、試練を自らに課している”
ということになります。
桜井識子『幸せになるスピリチュアル作法』主婦と生活社、2015、pp.24-25
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23-zzu (輪廻転生とカルマの理念は未来の文化形成に大きな役割を演じる)
今日の人間は、「輪廻転生とカルマというのは夢想であり、無意味である。人間が生まれ、死ぬのは、見ることができる。しかし、人間が死ぬときに、なにかが抜け出ていくのを見ることはできない。だから、輪廻転生とかカルマとかを考慮する必要はない」と、いいます。
それに対して、「人間が死ぬときになにかが抜け出ていくのを見ることはできない。しかし、輪廻転生とカルマの法則を考慮に入れると、その法則なしには不可解であったことがらを理解することができ、人生の経過が明白なものになる」という見解があります。輪廻転生とカルマの理念は、現代文化の成立に際して人類の一般的思考としていかなる役割も果たさないとしても、未来のあらゆる文化においては、この理念が第一の役割を演じることになるでしょう。
ルドルフ シュタイナー『いかにして前世を認識するか』
(西川隆範訳、イザラ書房、1993、pp.110-111)
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