学びの栞 (B) 


 25. 法・裁き・賞罰


 25-a (ほとんどの法律は人を胴喝し隷属させる目的でつくられていった)

 ―あなたが言っているのは、ある特定の生き方をする必要はない、何になっても何をしてもいいし、要するに「何でもOK」に聞こえます。

 まったくそのとおりです!あなたに対する父の愛とはそういうものなのです。

 ―それなら、生きる目的というのは何ですか

 生きる目的というのは、生という場に、自分の存在の内にある想念を何でも表現していくということです。そして、それがどんな形で表れてこようとも、いつでも自分の望みどおりの瞬間にそれを変える選択があるのだと知っていてください。
 生きる目的というのは、その一部となること、その中心にいること、そしてそれを輝かせることです。生きていくこと、一瞬一瞬、人生が自分の内面で花開き展開していくにつれて、そのときに自分が望むものになること以外にあなたの運命はないのです。その目的を満たしていく中で、自分の望むとおりのものになり、望むとおりのことをし、望むとおりのものでいられる限りなき自由があなたにはあるのを知ることです。

 ―でも、何でもできるとすると、中には聖書にある神の法に反するものも出てくるのではないでしょうか。

 わが美しき主よ、あなたの愛する父は法など何もつくっていないのです。ただひとつを除いては。その法とは、あなたの崇高なる意志にしたがって自分の生を表現すべし、というものです。自分の意志を行使するという行為を通じてのみ、あなたは父そのものであるすべての生命の意識を拡張できるからです。もし父なる神が法をつくる存在であったなら、生命の進化と、その存在が永続していくのを可能にする表現の自由を、あなたが(ということは神自身が)有するのを阻んでしまったことでしょう。もしそうしたなら、神は限定された「源」、ひとつの終焉となってしまっていたはずです!
 聖書に書かれ、あなたが「神の法」と呼んでいるものは、実は数多くの法律です。預言者がそれぞれ法を加えていったからです。確かにそれは、「神の法」によれば、こうだとかああだとか、これを制限しているとか、あれをしなければならないといったことを語る強力な言葉となってきました。この、皆が「神の法」と呼ぶもののおかげで、人々は神に身を委ね、神を恐れるようになったのです。子どもたちは親を恐れるのではなく、親のようになることを教えられました。
 父なる神に法はないのです。法をつくるのは人間であって、神ではありません。父は人間に自由意志を与え、自分の世界で正当な法を与えることのできるただひとつの存在としました。すべての生命についての理解が進化していく中で、自分の世界にふさわしい信念、真実、あるいは価値観は何でも思考からつくり出せるという自由を与えたのです。人間はこの自由を用いて、社会に生きていくために必要と考えられた法律をつくり出しました。しかし、残念ながらほとんどの法律は、人を胴喝し、隷属させる目的で情け容赦なくつくられていったものです。自由を高めるためではなく、制限するためにつくられたのです。人間が無法状態に自分を置くことを許さないのは、自分という存在を恐れるあまり、自分自身を治める法律がなければならないと考えているからです。それは、自分の無限性と神性を理解していないだけなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 181-183

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 25-b[42-b] (すべてを包含する宇宙から見ると悪というものはない)

 ―でもラムサ、もし法律がなかったら、誰かが自分の内にある悪を表現して悪いことをしてしまうのをどう防ぐのでしょうか。

 よく聞きなさい。すべてを包含する宇宙から見ると、悪というものはありません。人間は魂が邪悪であると記されていますが、そうではありません。人間の魂は神なるものです。なぜなら、その魂、そして人間の存在そのものすべてが神だからです。もしそれが神でないとしたら、それはいったいどこからやってきたというのでしょうか。
 父なるもの、存在自体の管轄外にあるものはないのです。ひとつとしてありません。悪である、間違っていると誰かが判断した想念や行為は、意識の中では生きているものです。そしてもし意識の中で生きているなら、それは間違いなく神の精神の一部なのです。すべては神の一部ですから、もし何かひとつが悪であると言うなら、それは神もまた悪であると言っていることになります。神は悪ではありません!でも、神は善でもないのです。なぜなら、善というものの境界を定めるためには、悪、あるいは邪悪なものという考えに対比して判断しなければならなくなるからです。
 神は善でも悪でもありません。神は悪でないのとまったく同じように善でもないのです。そして神は完壁でもありません。父なるものはただ在るのです。すべての生命の「在るということ」であり、自身を知るためによろこびを得るということ自体のよろこびのために生きる「いまという瞬間の表現」なのです。そしてこの生の本質には、その壷をいいとか悪いとか、邪悪とか神なるものとか、あるいは完全か不完全かとかを判断することによって、ただ在るという状態から脱して何か他のものに変容するということはできないのです。
 神が世界を見下ろして、「これは邪悪だ」と言うことができたらどうなるかわかりますか?意識というもの全体、つまり、表現する必要があるものを表現しているすべてが、生の流れから消滅してしまうのです。もしこれが起きたら、生とその途切れない広がりが存在しなくなります。もともと創造を可能にしている自由意志が存在しなくなるからです。しかし、神は、完全に無限の「在るということ」、そしてその分かつことのできない全体性なのです。ですから、神は、制限を課すような限られた見方で自分自身を見つめることはできないのです。もしそれができたとしたなら、あなたはここにいることも、自分や自分の兄弟を判断するといったひとつの選択肢を体現していることもなかったでしょう。
 主よ、善も悪もないのです。あるのは「在るということ」だけです。「在るということ」では、すべてのものは、その部を満たしたかどうかだけで見られます。その魂が叡智の中で自己を満たしていくために必要な感情面の体験だけについて見るのです。あなたがこれまでしてきたことはすべて、たとえそれをどんなに美しいもの、あるいは卑しいものとあなた自身が判断してきたとしても、それはただ知るということのためだけにしてきたことなのです。何かを学ぶために、自分の魂と情熱に押されてしたことなのです。それを実際にしてみることによって、はじめてあなたはそれをすることの価値に気づき、またその価値を確かめることができて、そこから何かを得られたのです。それは邪悪でもないし、よこしまなことでもありません。それが神になるために必要なことなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 183-185

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 25-c[42-c] (もし善と悪があると信じるのならそれはあなたにとっての真実である)

 神ではなく、人間が人間に審判を下すのです。人間は、その創造性を駆使して善悪のバランスを編み出し、自分の同胞たちから表現の自由を奪ってきました。宗教的な教義や政府の定めた法律に従わない者に対する刑罰への恐れは、もう長い間、国家を支配し統率するための剣として使われてきました。そして、もし皆の言葉で「邪悪」と呼んでいるものがあるとしたら、それは存在の内にある神を表現する自由を人から奪ってしまうことです。そして、自分の同胞に対してこれをするたびに、実は、自分にも同じことをしているのです。それもさらに深い影響を受ける形で同じことが起きます。なぜなら、他の人間に対して下す審判や制限は、自分の意識の内面でもやはりひとつの法となるからです。その法によって、あなた自身も自分に限界を設け、自分に審判を下すことになるからなのです。
 人間は魂が邪悪なわけではありません。悪の保護下に生きてはいますが、大きな枠組みのなかでは悪というものはないのです。人間に自分の好きなものを思考から創造させるという選択を可能にしている生の場があるだけです。それだけが存在する現実なのです。この現実において神は、迷信、教義上の信念や、きわめて限定され、せばめられた人類の考え方を通して、悪という幻想の存在を許しているのです。悪を長い間観察し、判断し、期待し続けたことによって、確かに悪は人の現実の中に存在していますが、それはその人の現実だけのことです。その人が信じるようにその世界もなるのですから。
 法で存在するのは、自分の人生においてあなた自身が創造し、効力を発するとしたものだけです。もし善と悪があると信じることを選ぶのなら、それはあなたの真実であり、それはそれで間違ってなどいません。でもひとつ覚えておいてほしいのは、それがあなたの現実であり、私のものでも誰のものでもないことです。もしそれが確かにあなたのものならば、もともとあなたの意見の中で形づくられたのですから、そのすべてがあなたに属していることになります。その意見を持っている限り、それは確実に現実のものであり続けます。それを信じなくなれば、現実でもなくなるのです。ただ単にそういうことです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 185-186

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 25-d[42-d] (命を奪われた者はまた何度も何度もこの地上へ戻ってくる)

 さて主よ、あなたが悪と思っているものは何か教えてください。悪いものとは何だと理解していますか?

 ―そうですね、それは善の反対だということでしょう。でも、ふつうはやはりほかの人に危害を加えることが悪だと思っています。

 そうですか? それがなぜ悪なのでしょうか。

 ―たとえば誰かが私の娘に危害を加えたとすると、それは悪です。なぜかといえば……もし娘が死んだりしたら……。

 それは悪についてのあなたの判断ですね。でも、死ぬということがなぜ悪なのですか。

 ―ということは、あなたは人を殺すことさえ悪ではないと思うわけですね。

 そのとおりです。それは、ひとつのものが終わるという考えで自分に限界をつくることはしないからです。何ひとつとして、消滅するものはないのです。ひとつもありません! すると、もしある人が死ぬと、その死で失われたものは何でしょうか。
 父なる存在は、その在るということ、それに途切れなき生の永続性において、すべてが存在できるという保証を危うくするような、自分より偉大な存在など何ひとつつくり出してはいません。父が創造したものには、何ひとつとして消滅するものはないのです。それはすべて永遠に生き続けます。ですから、あなたの子どもも、消滅するのではありません。神の生命を消滅させられるものは何もないからです。

 ―あなたは、ほんとうに殺人でさえも間違ったことではない、悪ではないというのですか。

 そのとおりです。
 主よ、生は途切れなく続くものです。それはずっとずっと続いていくものなのです。そしてこの瞬間から次の瞬間へと生の場で自己を表現していく中で、私たちには人生の一つひとつの瞬間を幸福で満たす機会が無限にあります。しかし、自分の生の時間をどう満たすことを選ぼうとも、それは必ず、その人の意志と望み、そして自分の存在にとっていいと見たことにしたがったものとなるのです。もし、ある瞬間に、ひとりの存在が他の命を奪うことを選んだとしたら、次の瞬間、その人は強烈な罪悪感と自分に対する審判、そして、その行為が必ず自分のところにはね返ってくるという恐怖の念のもとで生きることになります。ですから、その人間のこれから先の時間はけっして安寧なものではありません。自分の行ないを許さない限りは……。
 この命を奪った者を忌まわしく思い、審判を下し、罵る人もたくさんいることでしょう。でも、私はこの他人を殺めた人間を愛します。愛さない、ということがどうしてできるでしょうか? この人間が、神の摂理、生、そして神の驚異の中には入っていないとでも言うのでしょうか。いいえ、主よ、そんなことはありません。
 命を奪われた者は、また何度も何度も戻ってくるのです。生とは永遠だからです。それは継続するのです。それは、ただひとつ永遠であるものですが、また同時にすべてのものでもあります。もし私がこの行ないを憎悪し、命を奪った者に審判を下したとしたら、それは自分に審判を下していることになるのです。その人はすでに自分自身に対する審判をつくり出しています。自分の行為については自分の価値判断のもとにあり、これから先、自分自身の思考と感情の世界で、それに直面し、対処していかなくてはならないからです。
 私はその行ないを憎悪しません。それを論証し、理解し、そして超越したのです。命を奪う者の行為を断罪すれば、私はそれより偉大な存在ではなくなります。これだけは確かです。そして、私の人生はその審判によって影響されるようになるのです。なぜかと言えば、「偉大なる在りて在るもの」である私が、自分の一部をわが存在から切り離してしまったことになるからです。すると私はもはやひとつの全き存在ではなくなってしまうのです。わかりますか?
 このようなものを目にするとき、そこではひとつの命が満たされるという過程が起きているのです。一瞬一瞬ごとに、私たちには、自分が何かに駆られるような形、あるいは目覚めさせられるよぅな形で自分の命を満たすことができるという選択があります。これは私たちが選ぶことなのです。これだけが人間が持っている「共和国」なのです。自分の内面奥深くにある共和国です。政府は法律や規則にしたがって大衆を治めようとするでしょう。しかし、ある存在の内面にある静謐な思考過程の中ではたらく意志を治めることは絶対にできないのです。それができるのは、その存在自身だけです。そしてその人間は、自分の感情の状態にしたがい、個々の瞬間のバランスをとって生きていくのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 186-189

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 25-e[50-b] (カルマ的つながりは必要性を宗教的に説明しているにすぎない)

 ―最近、私の人生に現れた二人の人がいるのですが、私の人生に関わった彼らの目的を知りたいのと、私たちはこれまでの生で一緒だったかどうかが知りたいのです。

 彼らがあなたの人生に関わる理由は、あなたが彼らにそうしてほしいと望んでいるからであり、同時に彼らもそこにいたいからです。それ以上に偉大なる目的があるでしょうか?

 ―でも、私は彼らにいてほしいのかどうかわからないのです。もしかすると、何か互いのカルマ的つながりのためにそこにいるのであって、お互いに何か学ぶべきことがあるためなのではないかと思ったりしているのですが。

 主よ、もしもその関係に何か足りないと感じているなら、ひょっとして過去生で一緒だったかもしれないというロマンチックな考え方は、いまの状態よりもあなたたちの関係をずっと素敵なものにしてくれるのは確かでしょう。でも、「カルマ的つながり」と呼ばれているものは、実はきわめて単純な「必要性」という言葉を、宗教的に説明しているにすぎないのです。ずっと続いていくあなたの多くの生を通じて、あなたはたくさんの人々とともにいる必要があるし、それを望み、楽しみたいのも確かです。でも、もし同じ友人が何度も何度も繰り返し現れたならば、それは実に凡庸で退屈、つまらないものとなってしまうことでしょう。もし彼らがいまそこにいるのなら、ひょっとすると、これに関して学ぶことは、とにかくもう一度一緒になり、やがては別々の道を行く必要があるのだと気づく、ということだけなのかもしれません。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 191-192

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 25-f[50-c] (皆がカルマと呼ぶものは神の法ではない)

 ―なるほど。言わんとしていることはわかるような気がします。でも、カルマについてはもうひとつ質問があります。たとえば殺人とか強盗とか事故などがある人に起きるのは、過去生でした何かとのバランスをとるために、カルマを満たしているのだと教えられました。カルマの法則について、どう考えているか聞きたいと思います。

 あなたに知っておいてほしいこと、そして皆にもわかってほしいことがあります。それは、皆が「カルマ」と呼ぶものは、神の法ではないということです。それを信じる人たちの法なのです。残念なことに、この理論を信じている人は山ほどいて、彼らは皆、完璧という幻想を得ようとして一生懸命骨を折っています。そして、ひとつの生でしたことは、どんなことでも、次の生に戻ってきてその代償を払わなければならないと信じているのです。自分に起きることはすべて、いつも「カルマを満たすため」になってしまうのです!主よ、でもこれは人の生についての説明としては、あまりに拙劣です。生には、もっといい説明をしてあげる価値があるのではないでしょぅか。カルマの法則は確かに現実ですが、それは信じる人たちにとってだけのことです。法で存在するのは、あなた自身が自分の世界で有効だとしたものだけなのです。真の意味で法を与えられる者は、個々の至高なる存在だけです。それは一人ひとりが責を受け容れる自我を持っているからであり、その人が真実と呼ぶもの、自分の存在における法としてつくり出すものは、何でもそのまま現実となるのです。こうして、多くの人間が、信念や、このように屈折した考え方を通して、自分たちのために、バランスの法則、あるいは「完全なるもの」の法則をつくり出したのです。
 カルマを信じることを選ぶなら、もちろんあなたは自分のつくった法に支配されることになるでしょう。その信念に力を与えたからです。そうすると、もちろんそれはあなたの人生で効力を発します。そして、何度も何度も戻ってきては、この地上界での前生でした行為を取り消したり、それを称賛したりを繰り返すことになるのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 192-193

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 25-g[50-d] (カルマは存在せず気まぐれな欲求だけが存在する)

 私は、カルマ、あるいは完璧という概念を認めませんが、それは、私がそうしたものをひとつの限定要素として見ており、何かの結果得られるよろこびとは考えないからです。カルマという制限された状況を通じ、完璧をめざして躍起となっている人たちは、その目標を得ることはけっしてないでしょう。なぜなら、ひとつのカルマを満たしていても、それは同時に新たなカルマをつくり出すことになるからです。そして、受け容れる側ではなく、つねに義理を負う側に身を置き、そこに安住することになるので、幾度の生を経たとしても、「在るということ」の状態、神の状態にはけっしてなれないのです。完璧というものはありません。あるのは、「在るということ」だけです。生の「在るということ」では、一瞬ごとにあらゆるものが変化し、進化していきます。ですから、完璧な状態というのは、けっして達成されはしないのです。
 私が認めるのは「在るということ」だけです。そこには、自己、つまりは神が進化していくのを抑えてしまう法律や理想は、まったく存在しないのです。「在るということ」の叡智では、自分のしたいこと以外、人生でしなければならないことは何もありません。カルマの教えを受け容れるならば、それは自分の経験のためにするあなた自身の選択であり、創造であるのです。しかし主よ、あなたは同時に限られた力と仕返しという幻想をつくり出してしまったことも知るべきです。カルマと呼ばれるものを受け容れるとそういう運命になり、自分自身の限定された考え方による囚われの身となるのです。
 あなたは自由な魂であり精神なのです。あなたはその瞬間、自分の好きな真実、現実、あるいは幻想を、自由に創造し体験できるのです。そして、いつの瞬間にも、自分が望めばあなたはこの夢をあらためて創造し直すこともできます。あなたにはそれをする限りない力があるからです。
 カルマは存在しません。欲求は存在します。そして欲求はとても気まぐれです。いつの瞬間にも、それが望むときに何でもできるし、何にでもなることができるのです。そしてそれは、何かになっている真っ最中に心変わりをすることもあり得るのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 193-194

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 25-h[50-e] (あなたが自分の運命を支配し人生を創造している)

 殺人、事故や強盗などは、懲罰ではありません。以前あなたがしたことへの「償い」ではないのです。それは、思いをめぐらした思索の結果、あなたの手で創造されたものであり、思索された体験なのです。それは永遠のものでも永遠の状況でもありません。ですから、より大きな叡智の中では、それはひどいことではないのです。振り返ってみると、すばらしい師でもあるのです。
 あなたは、一万人もの無実な人々が殺されるのを見て、こう言うかもしれません。「何とひどい惨状だ。この残虐行為に、なぜ天使たちは涙を流さないのか? なぜ神の栄光を謳い上げたりできるのか?」と。それは、天使たちは生命がいつか終わると信じて自分を限定することがないからです。殺された者たちは、さらなる学びと体験、つまり私が冒険と呼ぶもののために、直ちに皆が「天国」と呼ぶ場所にとどめられます。そして、あなたはその一万人の死体を埋葬し、その死に涙を流すかもしれませんが、神は泣くことはありません。明日がいつも必ずやってくるのはこのおかげなのです。
 誰があなたの運命をつくり出していると思いますか? 多くの人々は、ひとつの至高の存在が皆を操り、すべてのことを起こしていると信じています。そう信じていれば、自分自身の人生の責任という肩の荷を降ろすことができるからです。しかし、あなたが自分の運命を支配しているのです。あなたが、この瞬間に考え感じることによって、あなた自身の人生のあらゆる瞬間を創造しているのです。あなたが学ぶべきことはただひとつ、この瞬間、このいまこそが、まさに永遠そのものなのだということです。それは途切れなく続いているのだということです。そしてこのいまという瞬間の継続性の中では、あらゆる瞬間がまったく新しいものなのです。それは昨日にとらわれているわけではありません。あなたが明日のことを夢見て現実化していくためにつくり出したのは、まさにこのいまなのです。つまり、この瞬間、あなたは何でも好きなことができる自由があるのです。それが父なる存在のあなたへの愛なのです。それが、一瞬一瞬を新しく創造していく力と自由という、父が与えてくれたものなのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 194-195

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 25-i[50-f] (あなたは過去の行為について償いをする必要はない)

 誰も過去に支配されている人はいません。一瞬前だろうが、千年前だろうが、あなたがしたことについて償いをしなければいけないなどということはありません。いつのことについてもです。ある行為をした瞬間、あなたはひとつの理解を得たのであり、そこで学ぶべきことへの気づきを得たのです。
 過去は、そのときに体験されたいまという瞬間にすぎず、もうここにはないのです。現在との関連と言えば、あなたがすでにそこから学べることをすべて学んだということだけです。つまり、あなた自身の内奥の思考過程と、明確な目的を持った計画にしたがって自分の力を最大限に発揮してこの瞬間を創造する智慧を過去はあなたに与えてくれたのです。
 主よ、でもその過去はもう終わっているのです。それはもうここにはありません。過去は、智慧としてのみ、このいまの瞬間あなたの内面に生きているのです。過去のおかげで得られたのはそれなのです。だからこそ、このいまという瞬間のあなたは、これまでの人生で最も偉大なのです。なぜなら、このいまという瞬間、あなたは過去のいまよりも、「知っているという状態」にさらに深く進んでいるからです。この瞬間のあなたは、あなたの知識の蓄積すべてなのです。体験を通じて得られた知識、生という美徳を通じて得られた体験すべてであるのです。そして、自己を表現するすべての瞬間を、あなたは新たにつくり出しているのです。それは、感情の世界へ、そしてすべての体験の中で真珠のごとく光る智慧へと分け入っていく新しい冒険なのです。
 実際に存在しているのはいまだけなのだと気づくと、あらゆる瞬間に、自分の魂の内にあるフィーリングが強く求める冒険を生き、偉大なる智慧にむかって自分を広げていくために、これまでないような体験をどんどんしていくという生き方をどうしても選ぶようになります。
 あなたがこの地上界に戻ってきたのは、何か自分が思い出せないようなことを「解決する」ためでもないし、誰もそれが何だかわからないような、「自分がすべきこと」をするためでもありません。それなのにあなたは完璧を求めるように言われているのです! いつも混乱している状態にいたら、いったいどうして何かを達成できるというのでしょうか。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 195-197

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 25-j[77-g] (いかなる場合でも人が人の命を奪うことは間違いである)

 人間が同じ人間の命を無理やり奪ってしまうことくらい恐ろしい行為はありません。破壊的で忌まわしい行ないです。決して許されることではないでしょう。殺人の場合、正義の鉄槌を下さねばならないという重みが加わります。社会から悪党を排除するのだからどんな残忍な行為も正当化されるのだ、という信じがたい考えかたがあります。しかし、これは真実とは言えません。しかも、迅速な処刑によって税金の無駄づかいが防げるという論理をこれに加えれば、死刑という制度は安易に受け入れられてしまいます。
 そうです、人が人の命を奪うことは間違っています。どんな状況下においても、たとえそれが死刑でも、過ちは過ちです。少し冷静になって、この間題を感情的にではなく霊的観点から考えてみてください。宇宙とはわたしたちの理解をはるかに超えた大きな存在です。この間題に限らずあらゆる行為について、わたしたちもそろそろ霊的な眼で見るようにしなくてはいけません。神はそのはかりしれない知恵によってあらゆる命にリズムを与えています。太陽は昇って沈み、惑星は太陽の周囲を回転し、潮は干満を繰り返します。そして、それぞれの魂には始めと終わりがあるのです。このリズムによって、魂にはこの現世を去ってふたたび霊の世界に戻る時機が自然に定められているのです。そして、すべてを包括しているのはただひとり、神のみです。
 魂が自然に肉体を離れるのではなく、定められた時間よりも前に無理やり肉体から引き離されると、霊的な結果が生じます。自殺の場合は、本来の期限が来るまで魂のマグネティツクな流れが現世の大気のなかに残されます。死刑によって霊が肉体から追いだされた場合は、犯罪者の人格が処刑前のまま少しも変わらずに残ります。その霊があちら側に行くと、たいていは進化が不充分で霊的法則をまったく知らないために、恐怖に怯えつつ、しかも、怒りを抱いているものです。こうした魂は同類の魂たちと一緒に低次元の幽界を果てしなくさまよいつづけます。一般に、このような苦悶する魂は憤怒と憎悪を心にかかえ、自分たちの早すぎる死を恨んで復讐を求めます。地上を徘徊して心の弱い人間を捜し、他人を殺したり傷つけたりするようにそそのかすのです。なんだか、映画みたいでしょう?でも、本当なのです。
 最善の方法は、刑務所のシステムを通して彼らを更生させ、神聖な命について教育することです。現実にそぐわない安っぽい夢物語に聞こえるでしょうが、魂本来の時間を無視して命を奪えば、改心と更生の機会を完全に失ってしまうのです。しかし、神の光を見て変わるにはほんの一瞬の時間で足ります。そうやって更生した人物がいつの日か誰かを助け、他人の命を奪おうとする行為を未然に防ぐかもしれません。成長と啓発への扉はたえず開けておかねばならないのです。
 死刑によってわたしたちは暴力を普及させています。行為の結果について何も考えないまま安直にスイッチを入れるのはやめましょう。霊がもたらす結果を理解することでわたしたちの信念を改め、あわてて死刑を認めないように考えなおそうではありませんか。わたしたちの社会には、未発達の悩める魂を援助する霊的かつ倫理的責任があるのです。彼らを昨日のごみのように扱うのはやめましょう。
 わたしは決して殺人を容認しているのではありません。人が他人の命を奪うのは、その人物が自身の神性を充分に自覚していないためなのです。自分が神そのものであることを完全に把握していれば、他人を殺すことなど選択肢のひとつにすらなりません。いったい誰が人を裁けるというのでしょう? 神の真似事ができるほど命の法則をわたしたちは知り尽くしているのでしょうか? わたしたちはそこまで強大な力は持っていません。ここでもまた、心を大きく開いて、理非の分別がある霊的な観点から物事を見るように努めなければならないのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.188-190

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 25-k[74-m](地上生活のすべては“録画”されているから何一つ隠せない)

 人間は死んで次の世界へ行くと、しばらくは地上生活の反省をさせられる。地上時代のことがビデオテープを見るように展開する。すると自分の過ち、間違い、手落ちが明瞭に認識される。別にキリスト教でいうような審判日とか天国とか地獄があるわけではない。淡々とした調子で地上での行為について自己反省させられる。すべてが録画されているから何一つ隠せない。
 その時に自惚れの愚かさがありありと分かる。霊的な授かりものを自分のものと思い込んでいたから愚かなのである。自分のやったことはみな自分一人の功績と思い込んでいたわけである。
 実際には背後霊がいろいろと世話を焼いてくれていたのを無視していたわけである。そして何よりもいけないのは、自分の業績を低い次元、世俗的レベルに下げていたことになる。
 自分の業績を地上のものさしだけで計ると何だか立派なことをしたような誇りを覚えるものである。が、永遠の生命の観点から判断すると取るに足らぬことに思えてくる。

    M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
      潮文社、1988、pp. 113-114

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 25-l (死刑廃止と未浄化霊について)

 「私は死刑に反対の立場を取っています。現在の日本では、死刑の次に重いのは無期懲役ですが、無期懲役とは言っても、最短十年で仮釈放があり、無期の囚人の平均服役期間は二十七年(平成十七年)ほどだそうです。確かに、これでは納得できない被害者の家族の方も多いでしょう。その気持ちは私にもよく理解できます。
 しかし、それでも私はスピリチユアリストとして死刑に反対せざるを得ないのです。死刑を廃止する代わりに、終身刑を設けるべきだと考えています。なぜならば、死刑となった人のたましいは末浄化霊となって、同じようなたましいを持つ人に憑依し、似たような事件を起させることがあるからなのです。
 このことを説明するために、まず浄化や未浄化とはどういうことなのか、それから説明しましょう。
 前章で死後どうなるか、たましいの再生までの話を簡単にしました。詳しく死後のことを申し上げると、人間は死とともに肉体という穀を脱ぎ捨て、幽体と呼ばれる霊的エネルギー体になります。そして、私たちが生きている現世と、霊的世界の中間にある「幽現界」と呼ばれるところへ行きます。一般に「死後四十九日はこの世にいる」と言われるのは、この世にいるわけではなくて、実は幽現界にいることなのです。この幽現界にいるときが、浄化されていない状態です。
 なお、成仏と浄化はどう違うのかと思う方もいるでしょうが、成仏というのは仏教用語です。したがって、スピリチユアリストとしては浄化もしくは放念すると言っています。
 なぜ、すぐに浄化できないのかと言うと、現世への執着があるからです。亡くなってからも「預金通帳はどうしよう」とか「子どもは大丈夫だろうか」とか、様々な執着が浄化を妨げます。また、霊的な世界を信じない人は、死んだことをなかなか受け入れることが出来ず、「まだ自分は生きているんだ」と思ってしまいます。こうした想いや執着がなくなるまで、たましいは幽現界にとどまるのです。
 例えば、朝の新宿駅に行くと、通勤しているサラリーマンの霊を視ることがよくあります。「俺が行かないと、仕事にならない」と、そういう執着を捨てることができない末浄化のたましいの姿です。幽現界にいるたましいは、このように自由に移動できますから、意外なことに墓場には霊がいないのです。墓場にいる霊は、「死んだら墓場にいるものだ」と思い込んでいる霊なのです。
 自分が死んだことを受け入れて、執着もなくなると浄化されて、次の段階である「幽界」へと進みます。よく言われる「天国」や「地獄」は、「幽界」の高いレベルの層と低いレベルの層を指していることが多いようです。この「幽界」に行くまでに、普通の人でだいたい五十日ぐらいかかるとスピリチュアルな世界では言われています。昔の宗教家の人たちは、私に言わせればみんな霊能者ですから、そうしたことが分かっていたのでしょう。そのため、「四十九日はこの世にいる」と説法したのだと思います。
 また、ずっと独身でいて、「死んだ後に誰も供養してくれないから成仏できないのではないか」「永代供養で大丈夫なのかしら」と思っている人もいるでしょうが、心配はいりません。むしろ、家族がいない人のほうが子どもや孫への執着がないだけに、浄化が早いことが多いのです。
 生きている間も死んだ後も、いかに執着から自分を解放させるかということが大切なのです。

     江原啓之『日本のオーラ ― 天国からの視点 ―』新潮社、2007、pp.44-47