学びの栞 (B)
26. 人間関係 道徳
26-a (まわりに他がなければあなたも無である)
わたしはいつになったらもっと利口になって、なめらかな人間関係がもてるようになるんでしょう? 幸せな関係を築く方法があるのですか? それとも、人間関係というのは、いつまでたっても難題なのですか?
人間関係について学ばなければならないことは何もない。ただ、知っていることを実証すればいい。
幸せな関係を築く方法はある。自分が考え出した目的ではなく、本来の目的のために関係を活用することだ。
人間関係はいつでも課題だ。つねに創造すること、表現すること、自己の高い面、より大きな自分、すばらしい自分を経験することを求められる。その経験をいちばん直接的に、力強く、純粋に実践できるのが人間関係という場だ。それどころか、ひととの関係なしには、その実践は不可能だ。
ほかの人間や場所、出来事との関係を通じてのみ、あなたは(個性のある実体として、他と区別しうる何者かとして)宇宙に存在できる。他がなければ、あなたも無だということを覚えておきなさい。
自分以外の他との関係があるから、あなたは存在する。それが相対性の世界というもので、それと対照的なのが絶対性の世界、わたしが存在する世界だ。
このことをはっきりと理解すれば、そしてしっかりと把握すれば、すべての経験を、すべての人間的出会い、とりわけ個人的な人間関係をうれしいと思うようになる。人間関係は、最も高い意味で建設的なことがらだから。経験はすべて、ほんとうの自分を創りあげるために活用できるし、活用すべきだし、(あなたが望むと望まざるとにかかわらず)現実に活用されつづけているのだ。
自分を創りあげることは、意識的な構想にもとづくすばらしい創造にもなるし、「偶然まかせ」にしておくこともできる。起こった出来事に左右されるだけの人間であることもできるし、出来事に対してどうありたいか、何をするかという決断を通じて、どんな人間になるかを選ぶこともできる。意識的な自己の創造は後者のほうだ。あとのほうの経験によって、自己が実現される。
すべての関係をうれしいもの、特別なもの、自分を創りあげる経験としてとらえなさい。そして、いま、どうありたいかを選びなさい。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.164-165
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26-b (人間関係の目的は完全な自分を分かち合う相手をもつこと)
愛情関係が失敗するとき(真の意味では、失敗した関係というものはありえない。ただ、人間的に見て、望んだとおりにならないという意味での失敗があるだけだ)、その原因はそもそも間違った理由で関係を結んだことにある。
(もちろん、「間違った」というのも相対的な言葉で、「正しい」という言葉に対比されるだけだ。正しいというのがどんな意味かはともかくとして! だから、「人間関係が失敗し、変化してしまうのは、最初にその関係を結んだ理由では関係を続けられなくなったときである」と言ったほうが正確だろう)
ほとんどのひとは、相手との関係で何を与えられるだろうかと考えるのではなく、何が得られるだろうかと考えて、関係を結ぶ。
人間関係の目的は、自分自身のどの部分を「明らかに」したいかを決定することであって、相手のどんな部分を把握し、つかまえておきたいかを決めることではない。
人間関係の目的はひとつしかない―それは、人生のすべてに言えることだ。目的は、ほんとうの自分は何者であるかを決め、ほんとうの自分になること、それである。
特別な誰かに出会うまでは、自分は「何者でもない」と思うのは、とても夢があるが、真実ではない。それどころか、そう考えると、相手にほんとうの自分とは違うあらゆることを強いるという、信じがたい圧力をかけてしまう。
「あなたを失望させたくない」ばかりに、相手はほんとうの自分らしくない努力をし、自分らしくない行動をしようとして、やがてはそれに耐えられなくなる。相手は、あなたの期待を満たせなくなる。割り当てられた役割を演じられなくなる。そこで、恨みが生じる、怒りが湧き起こる。
相手はやがて、自分自身を救うために(そして関係を救うために)、真の自分をとり戻そうとし、ほんとうの自分らしくふるまうようになる。そうなると、あなたは相手が「すっかり変わってしまった」と言う。
人生に特別な相手が現れて自分が満たされたと感じる、というのは非常にロマンティックだ。だが、人間関係の目的は、相手に満たしてもらうことではなく、「完全な自分」―
つまりほんとうの自分という存在をまるごと― を分かち合う相手をもつことだ。
ここに、すべての人間関係のパラドックスがある。ほんとうの自分を充分に経験するためなら、特別の相手を必要としない……ところが、他者がいなければあなたは何者でもない。
これが人間の経験の謎であり、驚異であり、いらだちの種でもあり、喜びでもある。このパラドックスのなかで意味のある生き方をするためには、深い理解と大きな意志が必要だ。これができる人間は非常に少ない。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.165-167
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26-c (人間関係では相手にとらわれることが失敗の原因である)
あなたがたのほとんどは、人間関係を結びはじめる年ごろには期待と、あふれる性的エネルギーと、大きく開かれた心と、性急ではあるにしても喜びに満ちた魂をもっている。
それが四〇歳から六〇歳になるころ(多くはこれよりも早く)、壮大な夢をあきらめ、高い希望を棚上げし、ごく低い予想に甘んじるか、まったく期待しなくなる。
問題は、非常に根本的でシンプルで、しかも悲劇的な誤解にある。あなたの壮大な夢、気高い思い、そして優しい希望は、愛する自分ではなく愛する他者にかかわるものだという誤解だ。人間関係の試練は、相手があなたの思いにどこまで応えてくれるか、自分が相手の思いにどこまで応えられるかにある、と思いこむ誤解だ。しかし、真の試練とは、あなたがあなた自身への思いにどこまで応えられるか、ということなのだ。
人間関係が神聖なのは、最も気高い自分をとらえて実現する経験ができる、つまり自分を創造する最大の機会―それどころか、唯一の機会―を与えてくれるからだ。逆に、相手の最も気高い部分をとらえて経験する、つまり他者との経験のための最大の機会だと考えると、失敗する。
人間関係では、それぞれが自分のことを考えるべきだ。自分は何者か、何をするか、何をもっているか。自分は何を欲し、要求し、与えているか。自分は何を求め、創造し、経験しているか。そう考えれば、すべての人間関係はすばらしいものとなり、その目的に―
そして関係を結んでいる人間にとっても―大いに役立つだろう。
人間関係では、それぞれが他者について心をわずらわせるのではなく、ただただ自分について心をくだくべきだ。
これは奇妙な教えに聞こえるかもしれない。あなたがたは、最も気高い人間関係では相手のことだけを考えるものだと聞かされてきたからだ。ところが、ほんとうはあなたがたが相手にばかり気持ちを向けること―相手にとらわれること―が、失敗の原因である。
相手は何者か? 相手は何をしているか? 相手は何をもっているか? 相手は何を言っているか? 何を欲しているか? 何を要求しているか? 何を考えているか? 期待しているか? 計画しているか?
〈人マスター〉は、相手が何者で、何をし、何をもち、何を言い、何を欲し、何を要求しているかはどうでもいいことを知っている。相手が何を考え、期待し、計画しているかはどうでもいい。大事なのは、その関係のなかであなたが何者であるかだけである。
最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.167-168
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26-d (相手への愛情を通じて自分への愛情を求めるのは過ちである)
(「最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ」というのは)、それはまた、ずいぶん過激な教えですが……。
よくよく考えれば、過激ではない。自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。多くのひとたちは、相手への愛情を通じて自分への愛情を求めるという過ちを犯している。もちろん、自分がそうしていると気づいてはいない。意識的ないとなみではない。精神のなかで、精神の深いところで起こっているだけだ。潜在意識で起こっていることだ。ひとは、考える―「正しく相手を愛することができれば、相手はわたしを愛してくれるだろう。そうしたら、わたしは愛される人間になり、自分を愛することができる」と。
これを裏返せば、愛してくれる他者がいないから自分を憎んでいるひとが多い、ということだ。これは病―ほんとうの「愛の病」だ。この病にかかると、じつは愛されているのに、それはどうでもよくなる。どんなにおおぜいのひとが愛を告白してくれても、満たされない。
第一に、彼らは相手を信じない。自分をあやつろうとしているのだ、何かをねらっているのだと考える(ほんとうに自分を愛してくれるはずがあるだろうか? そんなはずはない。きっと間違いを犯しているのだ。何か期待しているのだろう! いったい何が欲しいのだ? そう考える)。
彼らは、ほんとうに自分を愛しているのだろうかと、くよくよと考える。そして、相手を信じられないので、愛情を証明しろと迫りはじめる。相手は愛していることを証明しなければならなくなる。そのために、相手はほんとうの自分とは違うふるまいをしなければならなくなるかもしれない。
第二に、ようやく愛されていると信じたとしても、たちまち、いつまで愛してくれるだろうかと心配しはじめる。そこで、愛情をつなぎとめておくために、ほんとうの自分とは違う、ふるまいを始める。
こうして、人間関係のなかで二人とも自分を失ってしまう。自分自身を発見することを期待して人間関係を結んだのに、かえって自分を失ってしまう。
人間関係のなかで自分を失うこと―人間関係が苦いものになる理由の大半がここにある。
パートナーになった二人は、「1たす1は2より大きくなると期待したのに、2より小さくなってしまったことに気づく。ひとりでいたときよりも、自分が小さくなったと感じる。能力も小さくなれば、わくわくするような興奮も減り、魅力的でなくなり、喜びも満足も減ったと思う。
それは、彼らが小さくなったからだ。人間関係を築くため―そして維持するため―に、自分の大半を捨ててしまったからである。
ほんとうの人間関係は、決してそんなものではない。だが、あなたが考えるよりもずっと多くのひとたちが、そういう人間関係を経験している。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.168-170
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26-e (自分自身を大切にし愛することを学ばねばならない)
あなたがたは発達進化し、自分自身になっていく存在である。そして、あなたがたはあらゆるものとの関係を活用して、何者になるかを決定する。
その仕事のためにあなたは生まれてきた。それが、自分を創造する喜びである。自分を知る喜び、意識的に自分が望む自分になる喜びである。それが、意識的に自分自身になっていくということである。
個人的な人間関係は、このプロセスの最も重要な要素だ。したがって個人的な関係は聖なる土壌である。他者とは何の関係もないが、しかし他者を巻きこむから、すべては他者とかかわってくる。
これが神聖なる二分法である。これは閉じた輪である。したがって、「自己中心的な者に幸いあれ、なぜなら、彼らは神を知るからである」と言っても、決して極端な教えではない。自分自身の最も気高い部分を知るということ、そしてそこにとどまるということは、立派な人生の目的だ。
だから、あなたの最初の関係は、自分自身との関係である。まず自分自身を大切にし、慈しみ、愛することを学ばなければならない。
他者の価値を見抜くためには、まず自分に価値を見いださなければならない。他者を祝福すべき者として見るためには、まず自分を祝福すべき者として見なければならない。他者の神聖さを認めるには、まず自分自身が聖なる存在であることを知らなければならない。
馬の前に馬車をつないでいるなら―たいていの宗教はそれを求めているが―そして、自分を認める前に他者を神聖な存在として認めるなら、やがてはそれを恨むようになるだろう。人間にとって耐えられないことがひとつあるとすれば、それは自分より他者のほうが神聖だということだから。しかし、あなたがたの宗教は、他者をあなたよりも神聖だと考えろと強要する。そこで、あなたがたはしばらくは従う。それから、他者を迫害するようになる。
あなたがたは(何らかの方法で)わたしが送った教師のすべてを迫害してきた。「あのひと」だけではない。それは、彼らがあなたよりも神聖だったからではなく、あなたがたが彼らを神聖な存在に祭り上げたからである。
わたしが送った教師たちはすべて、同じメッセージを携えていた。「わたしはあなたより神聖である」ではなく、「あなたはわたしと同じく神聖である」というメッセージだ。
このメッセージをあなたがたは聞くことができなかった。この真実をあなたがたは受け入れられなかった。だから、あなたがたは決して心から、純粋に誰かを恋することができない。心から、純粋に自分を恋していないからだ。
これからは自分を中心にしなさい。いつでも相手ではなく自分が何者であるか、何をし、何をもっているかを考えなさい。
あなたがたの救済は相手の行動のなかにではなく、あなたがたの反応のなかにある。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.170-172
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26-f (自己創造の手段として人間関係をいかに活用するか)
相手が何をしても平気というわけにはいきません。相手の行動に傷つくこともあります。人間関係で傷つくと、わたしはどうしていいかわからなくなるんです。「受け流せ、平気でいろ」と言うのは立派ですが、言うは易く、行うは難しです。わたしは実際、相手の言葉や行動に傷つくんです。
いつかは傷つかなくなる日がくるだろう。その日、あなたは人間関係の真の意味、人間関係を結ぶ真の理由に気づき、真の人間関係を実現するだろう。
それを忘れているから、いまのような反応をするのだ。だが、それはそれでよろしい。それも成長の過程であり、発達進化のー部だから。人間関係というのは魂の仕事、偉大な理解、偉大な記憶だ。そのことを思い出さないかぎり―そして、自己創造の手段として人間関係をいかに活用するかを思い出さないかぎり―あなたはいまのレベルで努力しなければならない。いまの理解のレベル、意志のレベル、記憶のレベルで。
そこで、あなたが相手の在り方、言うこと、行動に傷つき、苦痛を感じたときには、どう反応すればいいか。まず、どう感じているかを自分にも相手にも正直に認めなさい。あなたがたの多くは正直に認めるのを怖がる。そうすると自分が「悪く見える」のではないかと思うからだ。心の底のどこかで、「そんな感じ方をする」のはばかけていると気づいている。そんな自分がちっぽけなのかもしれないと。「自分はもっと大きな人間」のはずだ、と。だが、感じるのはどうすることもできない。苦痛を感じないわけにはいかない。
できることはひとつしかない。自分の感情を大事にすることだ。自分の感情を尊重するとは、自分自身を尊重することだ。あなたがたは自分を愛するように隣人を愛さなければならない。だが、自分の感情を尊重できないで、どうして相手の感情を理解したり、尊重したりできるだろう?
相手との相互関係のなかで、まず問いかけなければならないのは、自分は何者か、何者になりたいか、ということだ。
いくつかの在り方を試してみなければ、自分が何者か思い出さず、何者になりたいかわからないことは多い。だからこそ、自分の正直な感情を大事にすることが大切なのだ。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.172-173
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26-g (災難のたねから自己の成長が生まれることを知る)
最初の感情が否定的な感情でも、何度でも必要なだけその感情を味わえば、いつかはそこから踏み出せる。怒りや逆上や嫌悪、憤怒を味わい、「仕返し」したいと思っている者も、いつかは「そんな自分にはなりたくない」と考えて否定的な感情を捨てることができるだろう。
〈マスター〉とは、そのような経験をさんざん積んだあげくに、最終的な選択が前もってわかるようになったひとたちだ。彼は何も「試す」必要がない。そんな衣服は着古し、自分には合わないことを知っている。それが「わたし」ではないとわかっている。〈マスター〉はほんとうの自分を実現することに人生を捧げているから、自分に似合わない感情を味わうことはない。
〈マスター〉はほかの者なら災厄だと思う目にあっても動じない。〈マスター〉は災厄を祝福する。災難のたねから(そしてすべての経験から)自己の成長が生まれることを知っている。〈マスター〉の人生の第二の目的は、つねに成長することだ。完全に自分を実現したら、残っているのは、さらに成長することだけだから。
この段階で、魂の仕事から神の仕事へと移る。それこそが、わたしの仕事なのだ!
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.173-174
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26-h (あなたが愛ならこの人間関係で何をするだろうか)
この対話では、あなたがまだ魂の仕事の段階にあるとみなすことにする。あなたはまだ(「ほんとうの」)自分を知りたがっている。人生(神)は、真の自分を創造する豊富な機会をあなたに与えるだろう(人生とは発見のプロセスではなく、創造のプロセスであることを忘れないように)。
あなたは何度でも自分自身を創造することができる。それどころか、あなたは毎日、自分自身を創造している。だが、いまの段階では、いつも同じ回答を出すとは限らない。環境や条件によって、ある日は人間関係において忍耐強くて愛情深く、親切である自分を選ぶだろう。つぎの日には怒ってみにくく悲しい自分になるだろう。
〈マスター〉とは、つねに同じ回答を出すひとたちだ。その回答とは最も気高い選択である。
その点で、〈マスター〉のふるまいはすぐに予想がつく。逆に未熟な者のほうはまったく予想がつかない。ある状況への対応、反応について、最も気高い選択をすると予想できるかどうか―それを見れば〈マスター〉への道のどのあたりにいるかがわかる。
もちろんそうなると、「気高い選択」とは何かという疑問が起こるだろう。
この疑問をめぐって、時が始まって以来、人間はさまざまな哲学や神学を発展させてきた。この疑問にほんとうにとりくむひとは、すでに〈マスター〉への道を歩んでいる。大半のひとたちは、まだほかの疑問にとりくんでいる。気高い選択とは何か、ではなく、最も有利な選択とは何か、あるいは、どうすれば失うものを最小限にできるかという疑問だ。
被害をおさえるとか、できるだけ得をするという観点から人生を生きていると、人生の真の利益を失ってしまう。機会が失われる。チャンスを見のがす。そんな人生は、不安に駆りたてられて生きる人生だし、そんな人生を送るあなたは、ほんとうのあなたではない。
なぜなら、あなたは不安ではなく愛だから。愛は何の保護も必要としないし、失われることもない。
だが、第一の疑問ではなく、第二の疑問に答えつづけているかぎり、愛を経験的に知ることはないだろう。得たり失ったりするものがあると考える人間だけが、第二の疑問をいだくのだから。違った見方で人生を見る人間、自分をもっと気高い存在と見るひと、勝ち負けではなく愛するか愛し損なうかだけが試されていると理解しているひと、そのひとだけが第一の疑問にとりくむ。
第二の疑問をいだく者は「わたしの身体、それがわたしだ」と言う。第一の疑問をいだく者は、「わたしの魂、それがわたしだ」 と言う。
だが、聞く耳のある者は聞きなさい。わたしはこのことを言っておく。すべての人間関係の決定的な接点において、問題はひとつしかない。
「いま、愛なら何をするだろうか?」
ほかのどんな疑問も無縁であり、無意味であり、あなたの魂にとって重要ではない。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.174-175
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26-i (他者のためにすることは自分のためにすることである)
さて、非常に微妙な解釈が必要なところにさしかかっている。愛に支えられた行動についての原則は、だいたい誤解されているからである。そしてその誤解が人生の恨みや怒りを誘い、その恨みや怒りのゆえに、おおぜいが自己実現と成長の道から離れたままでいるからである。
あなたがたは何世紀にもわたって、他者に最高の善をもたらす在り方や行為を選択すること、それが愛に支えられた行動だと教えられてきた。
だが、最も気高い選択とは、あなた自身に最高の善をもたらすものである。
奥深い真実というものはすべてそうだが、この言葉もたちまち誤解を生みかねない。この言葉の謎は、自分に与えられる最高の「善」とは何かを考えるとき、少しは解けてくるだろう。そして至高の選択が行われるとき、謎は解け、輪は完結し、あなたにとっての最高の善が他者にとっても最高の善になる。
このことを理解するには、一生涯かかるかもしれない。あるいはもっと多くの生涯が必要かもしれない。なぜなら、この真実の中心にはさらに大きな真実があるからである。あなたが自分のためにすることは、他者のためにすることである。他者のためにすることは、自分のためにすることである。なぜなら、あなたと他者とはひとつだから。
そして、それがなぜかといえば・・・・・・、
あなたのほかには何もないから。
地上に現れた〈マスター〉はみんな、それを教えてきた(「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う。わたしの兄弟の最も小さなひとりに対してしたのは、このわたしに対してしたのである」)。
だが、それは、大半のひとたちにとって最も難解で、現実にはほとんど応用されない真理にとどまっている。ところが、これこそがあらゆる「難解な真理」のなかで、いちばん現実に応用しやすい真実なのである。
人間関係のなかでは、このことを覚えていることが重要だ。そうでないと、関係は非常にむずかしくなるだろう。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.175-176
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26-j (神はあなたが自分自身をも愛することを求めている)
古い理解にもとづいて、ひとは―善意で、しかも信仰心のあついひとは―人間関係のなかで、いちばんひとのためになると思うことをしてきた。悲しいことに、たいていはその結果として虐待されつづけてきた。あるいは酷使されつづけてきた。うまくいかない人間関係ばかりが続いた。
他者を基準として「正しいことをしよう」と努力したひと―すぐに赦し、同情を示し、ある種の問題やふるまいを見過ごしつづけてきたひとたちは、結局は神を恨み、怒り、信じなくなった。正義の神なら、たとえ愛の名においてであっても、そんな際限のない苦しみと喜びの欠如と犠牲を要求しつづけるだろうか。
神は要求していない、それが答えである。
神は、あなたが愛する相手に自分自身も含めるようにと求めているだけである。
神はさらに先へ進む。神は、自分を第一に考えることを提案し、勧めている。
あなたがたのなかにはこれを冒涜と呼ぶ者がいること、したがってこれは神の言葉ではないと言う者がいること、さらには、神の言葉であると受け入れたうえで自分自身の目的のためにねじまげて解釈し、神意にかなわない行動を正当化する者がいることも、よくわかっている。
気高い意味で自分自身を第一に考えるなら、決して神意にかなわない行動をするはずはない。
したがって、自分のために最善のことをしようとして、神意にかなわない行動になるなら、問題は自分を第一としたことではなくて、何が最善かを誤解したことにある。
もちろん、自分にとって何が最善かを見きわめるには、自分が何をしようとしているのかを見きわめなければならない。無視している者が多いが、これは重要なステップである。あなたは「何をしようと」しているのか? あなたの人生の目的は何か? その疑問に答えなければ、ある状況で何が「最善」かはいつまでも謎だろう。
実際問題としては―ここでも難解な真理はさておいて―虐待されている状況で自分にとって最善なことは何かと考えれば、少なくともその虐待をやめさせなければならない。虐待をやめさせることはあなたにとっても、虐待する側にとっても良いことである。虐待を続けさせておけば、虐待する側までが虐待されることになるからだ。
それは虐待者を癒すのではなく、傷つけることである。虐待は受け入れられるものだと思っていたら、虐待者は何も学べない。ところが、虐待はもう受け入れられないとわかれば、虐待者は何かを発見できるだろう。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.177-178
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26-k (何を悪と呼び何を善と呼ぶかで自分自身を定義する)
愛情ある態度をとるということは、必ずしも相手の好きにさせるということではない。
子供をもった両親はそのことをすぐに悟る。おとながおとなに対する場合、国が国に対する場合には、そう早くは悟れない。
だが、横暴な独裁者を栄えさせてはいけないし、横暴はやめさせなくてはいけない。自分への愛、独裁者への愛がそれを要求する。
これが、あなたの「あるのは愛がすべてだとしたら、どうして人間は戦争を正当化できるのですか?」という問いへの答えである。
ときには、人間は真の人間らしさを表す偉大な宣言として、戦争を嫌悪する人間として、戦争へ行かなければならない。
ときには、ほんとうの自分であるために、ほんとうの自分を放棄しなければならない。
すべてを放棄する覚悟をするまでは、すべてを手に入れることはできない、と教えた〈マスター〉たちがいる。
したがって、平和な人間としての自分を「まっとうする」ために、戦争に加わらない自分という考え方を放棄しなければならないかもしれない。歴史は人間にそんな決意を求めてきた。
同じことは、私的な関係についても言える。人生には、ほんとうの自分でない面を示すことで、ほんとうの自分を証明することを要求されることが何度かある。
何十年か生きていれば、それがわかってくる。ただし、観念的な若者にとっては、究極の矛盾と感じられるかもしれない。もっと成熟してから振り返れば、神聖な二分法に思われるだろう。
だからといって、人間関係で傷ついたら「仕返しせよ」というのではない(国家間の関係でも同じだ)。ただ、傷つけられても放っておくことが、あなた自身にとっても他者にとっても愛ある行為とは限らない、というのである。
こう考えれば、最高の愛があれば悪に対しても力ずくの対応をしない、という一部の平和主義者の主張は通らなくなるはずだ。
ここでもう一度、難解な真理に戻る。悪に対する愛ある行為とは何かを真剣に考えれば、「悪」という言葉と、これにまつわる価値判断を無視できなくなるからだ。じつは、悪というものはなく、ただ客観的な現象と経験があるだけだ。しかし、人生の目的からして、あなたは増えるいっぽうの現象のなかから、悪と呼ぶ現象を選び出さなければならなくなる。そうしないとあなたは自分自身もほかのことも善と呼ぶことができず、自分自身を知って創造することができないからである。
あなたは何を悪と呼び、何を善と呼ぶかで自分自身を定義する。
最大の悪は、どんなものも悪ではないと宣言することである。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.178-179
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26-l (人間関係に傷ついたらそれが何を意味するかを考えよ)
この人生という相対性の世界ではすべてがほかとの関係でのみ存在しうる。人間関係の目的と機能もまったく同じである。あなた自身を発見し、あなた自身を定義し―あなたが選択するならば―ほんとうの自分自身をつねに創造しなおすための経験の場を提供すること、それが人間関係の目的であり、機能である。
神に似た存在であることを選ぶというのは、殉教者になることを選択することではない。もちろん、犠牲者になることを選択することでもない。
悟り―そのときには傷つき、被害を受け、喪失するという可能性がなくなる―への途上においては、傷つき、被害を受け、喪失することをみな経験の一部として認め、それとの関係でほんとうの自分とは何かを決定すればいい。
あなたはひとが考えたり、言ったり、したりしたことに傷つくだろう。いつか、傷つかない日がくるまでは、しかたがない。その日に最も早く到達する方法は、完全に正直になることだ。自分がどう感じているかをはっきりさせ、認め、口にすることである。あなたの真実を語りなさい。優しく、しかし包みかくさず真実を語りなさい。あなたが真実だと感ずるように生きなさい。おだやかに、しかし一貫してあなたが真実だと感ずるように生きなさい。経験によって新たなことがわかったなら、すなおにすばやく変更しなさい。
まともな精神をもった者なら誰でも、まして神なら、人間関係で傷ついても「受け流せ、平気でいろ」などとは言わない。いま傷ついているなら、平気でいようとしても遅い。あなたの仕事は、傷ついたということが何を意味するかを考え、それを示すことだ。そうすることによって、あなたはこうありたいと思う自分を選び、その自分になるのだから。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、p.180
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26-m (人間関係においても人生においてもあなたには義務はない)
それでは、神聖な生き方をしようとして、あるいは神に気に入られようとして、長年耐える妻とか、ばかにされつづける夫、人間関係の犠牲者になる必要はないんですね。
やれやれ、あたりまえではないか。
それから、人間関係のなかで「わたしは最善をつくした」「義務を果たした」「なすべきことはした」と神にもひとにも恥じることがなく言えるようにしたいからって、人間としての尊厳を侵されたり、誇りを傷つけられたり、気持ちをずたずたにされたり、心を傷つけられたりするのを我慢する必要はないんですね。
一分たりとも我慢する必要はない。
それじゃ、お願いですから教えてください。人間関係のなかで、わたしは何を約束すべきなんですか? どんな協定をまもるべきなんですか? 人間関係ではどんな義務が生じるんですか。どんな指針をまもればいいんですか?
それに答えても、あなたは気に入らないだろうな。指針はないし、どの協定も結んだ瞬間にゼロ、無効になる。あなたには義務はない、それが答えだ。人間関係においても、人生においても、義務はない。
義務がないんですか?
義務はない。制約も制限もないし、指針もルールもない。あなたはどんな環境や状況にもしばられないし、どんな規範や法律にも拘束されない。
また、どんな違反をしても罰せられないし、違反をする可能性もない。
神の目には「違反」などということはない。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.181-182
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26-n (他人の期待に応えるのが務めなら指針も必要になる)
前にも「ルールなんかない」という宗教のことは聞いたことがあります。宗教的なアナーキズムですね。それで、どうしてうまくいくのかわかりません。
うまくいかないはずがない。あなたが自分自身を創造するという仕事に励むなら。いっぽう、他人の期待に応えるのが務めだと思うなら、ルールも指針もないためにむずかしくなるかもしれない。
だが、少しでも考えるひとなら不思議に思うのではないか。もし神が、わたしにこうせよと望むなら、どうして最初からそのように創られなかったのか、と。どうして、神が望む自分になるために、自分を「克服する」闘いをしなければならないのか? 探求心があれば、当然、それを知りたがるだろう。もっともな疑問だからだ。
宗教家たちは、わたしがあなたがたを真の自分より劣るものとして創ったと信じこませている。真の自分になれるかもしれないが、それにはあらゆる困難を克服しなければならないと、あなたがたは思っている。さらに言うならば、わたしに与えられたあらゆる自然な性質まで克服しなければならないと思っている。
その自然な性質のなかに、罪を犯すという性質が含まれているというわけだ。あなたがたは罪を背負って生まれた、そして罪のうちに死ぬだろう、本質的に罪人だと。
その罪を自分ではどうすることもできないと教えている宗教さえある。どんなふうに行動しようと関係ないし、何の意味もない、自分の行動しだいで「天国へ行ける」と考えるのは傲慢だ、と言う。天国へ行く(救済の)道はただひとつで、自分の行動とは何の関係もなく、神が神の子を仲立ちとしてあなたがたを受け入れてくださるという恵みによって救われるだけだ、そう教えている。
そういう宗教は、神が受け入れてくれれば「救われる」が、それまでは、何をしようと、どんな生活を送ろうと、どんな選択をしようと、自分を向上させ、価値を高めたいとどんな努力をしようと、何の効果もないし、何の影響力もない、と言う。自分自身の価値を高めることはできない、なぜなら本質的に無価値だからだ、という。そのように創られているのだ、というわけだ。
どうしてか? それは神のみぞ知る、ということらしいな。神は過ちを犯したのかもしれない。うまく創造できなかったのかもしれない。あるいは、神はすべてをやり直せたらいいと思っているのかもしれない。だが、実際にはこうなってしまった。さて、どうしたものか……。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.182-183
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26-o (他との関係であなたには機会があるだけ義務はない)
わたしをばかにしてますね。
いや。ばかにしているのは、あなたがたのほうだ。あなたがたは、わたし、すなわち神が本質的に不完全な存在を創りながら、完全であることを要求している、完全でなければ地獄に落とそうとすると言う。
それから、世界が始まって数千年したところでわたしが態度をやわらげ、これからは善である必要はない、善でなかったときに悔いて悲しみさえすればいい、そしてつねに完璧でありうる神のひとり子を救世主として受け入れればいい、そうすれば完璧さを求めるわたしの飢えは満たされると言った、と言う。あなたがたは、わたしの子―完璧な神のただひとりの子―があなたがたをそれぞれの不完全さから救った、わたしが与えた不完全さから救ったと言う。
言い換えれば、神の子は父である神からあなたがたを救ったことになる。
これが、あなたが、そしておおぜいが考えている神の行いだ。
さあ、ばかにしているのはどちらかな?
あなたがキリスト教のファンダメンタリスト(原理主義者)たちの教義を真っ向から攻撃していると感じたのは、この本のなかで、これが二度めです。驚きました。
「攻撃」という言葉を使ったのはあなただ。わたしはただ、その問題について話しているにすぎない。
ところで、問題はあなたが言ったような「キリスト教のファンダメンタリスト」の教義ではない。神そのものの性格、そして神と人間との関係だ。
ここでその問題にふれるのは、義務について―人間関係や人生そのものにおける義務について話していたからだ。
あなたは義務のない関係を考えられない。ほんとうの自分を受け入れられないからだ。完璧に自由な人生を、あなたは「宗教的なアナーキズム」だと言う。だが、わたしは神の偉大な約束と呼ぶ。
この約束によってのみ、神の偉大な計画が完成するからだ。
他との関係で、あなたには何の義務もない。ただ、機会があるだけだ。
義務ではなく機会、それが宗教の要石であり、本質的ないのちの基盤である。そこを逆に考えているかぎり、いつまでたっても肝心なことがわからないだろう。
関係―あなたとすべてのものとの関係―は、魂の仕事を行うための完璧な道具として創り出された。だからこそ、人間関係はすべて聖なる地盤なのだ。だからこそ、個人的な関係はどれも神聖なのだ。
この点では、教会が言うことの多くは正しい。結婚は神聖だとされている。だが、神聖な義務だからではなく、比類ないチャンスだからだ。
他との関係で、決して義務感から行動してはいけない。他との関係はほんとうの自分を決定し、ほんとうの自分になるための栄えあるチャンスを与えてくれる。何をするにしても、その意識を出発点にしなさい。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.183-185
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26-p (多くの人は間違った理由から人間関係を結んでいる)
それはわかるような気がします。しかし、わたしは人間関係がむずかしくなるたびに、投げ出してきました。その結果、小さいころにはひとりのひととの関係がいつまでも続くはずだと思っていたのに、断続的に複数の相手と関係をもつことになってしまった。ひとつの関係を続けるにはどうすればいいか、よくわからないのです。いつか、わかる時がくるのでしょうか? そのためには、どうすればいいのでしょう?
あなたは、ひとつの関係を続けることが成功だと思っているようだ。人間関係が長続きすれば、うまくいったのだと勘違いしないようにしなさい。地上でのあなたの務めは、どれほど長く人間関係を維持できるかを試すことではなく、ほんとうの自分とは何かを決定し、ほんとうの自分を経験することであるのを忘れてはいけない。
決して、人間関係は短いほうがいいと言うのではない。だが、長ければいいわけでもない。
ただし、このことだけは言っておくべきだろう。
長い人間関係はお互いの成長にとって、お互いの経験にとって、お互いの充足にとってすばらしい機会だし、それだけすばらしい成果がある。
わかってます、わかってるんです! いつも、そうにちがいないと思っていたんです。でも、どうしたら、それが可能になるのでしょうか?
第一に、正しい理由で人間関係を結ぶこと(「正しい」と言っても、相対的な意味で、あなたの人生の大きな目的に照らして「正しい」ということだ)。
前にも言ったように、たいていのひとはいまだに「間違った」理由から人間関係を結んでいる。寂しさから逃れるため、心のすきまを埋めるため、愛を感じたいため、ひとに愛を感じさせたいため。こういった理由はましなほうだ。なかには自我を救うため、憂うつから脱したいため、性生活を向上させたいため、過去の経験から立ち直りたいためというのもあるし、退屈だからという場合さえある。こうした要求はどれも満たされるはずがないし、途中で劇的な変化が起こらないかぎり、人間関係もうまくはいかない。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.185-187
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26-q (あなたがくれるなら私もあげるという愛という名の商取引)
わたしは、そういう理由で人間関係を結んだのではありませんでした。
そうだろうか。どうして人間関係を結んだか、あなたにはわかっていないのではないか。そんなふうには考えなかったかもしれない。目的意識をもって、人間関係を結んだのではなく、たぶん「恋に落ちた」から人間関係を結んだのだろう。
そのとおりです。
あなたは、自分がなぜ「恋に落ちた」か、立ち止まって考えたことがないのではないか。自分が何に反応したのか、考えたのか? どんな必要性を満たそうとしたのか、考えたか?
たいていの場合、愛は、充足したいという欲求への反応として起こる。
誰でもいろいろな欲求をもっている。これが必要、あれが必要だと感じている。あなたがたはお互いに、充足したいという欲求を満たすチャンスを見いだした。そこで、あなたがたは―暗黙のうちに―取引をする。あなたが持っているものをくれるなら、わたしも持っているものをあげましょう、という取引だ。
これは商行為だ。だが、あなたがたはそんな真実は口にしない。「あなたと大きな取引をします」とは言わず、「とても愛しています」と言う。それが失望のはじまりだ。
それは、前にもおっしゃいましたね。
そう。そしてあなたも同じことをくり返した。それも一度ではなく、何回も。
この本はときどき堂々めぐりになるようです。同じことを何度もくり返している。
人生とはそんなものではないか。
まいったな。
ここでは、あなたが質問し、わたしはただ答えているだけだ。あなたがべつのしかたで三度同じ質問をすれば、わたしは三度、答える。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.187-188
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26-r (人生には本質的に保証のようなものはない)
わたしは、あなたがべつの答えをしてくださると期待しているのかもしれません。人間関係についてのあなたの答えを聞いていると、ロマンティックな関係がずいぶん色あせてしまう。何も考えずに、激しい恋に落ちることのどこがいけないんでしょうか?
ベつにいけなくはない。好きなだけおおぜいと恋に落ちるがいい。しかし、一生つづく人間関係を築きたいのなら、少しは考えたほうがいいのではないか。
逆に、水が流れるように次つぎに人間関係を結ぶのが楽しいなら、あるいはもっと困ったことに「そうあるべきだから」と決めつけてひとつの人間関係にとどまっているなら、静かに絶望して人生を送ることになる。そういう過去と同じパターンをくり返すのが楽しいなら、これまでと同じように生きていけばいい。
わかりました、わかりましたよ。あなたは容赦ない方ですね、そうじゃありませんか?
それが真実というものだ。真実は容赦がない。あなたを放っておいてはくれない。真実はあらゆる方向から忍び寄ってきて、あなたに現実をつきつける。たしかに、いやなことかもしれないな。
どうもそうらしいですね。つまり、わたしは長続きする人間関係を築く方法を知りたいと言い、あなたは、そのひとつは目的意識をもって人間関係を結ぶことだとおっしゃるのですね。
そのとおり。自分も相手も、同じ目的をもっていることを確認しなさい。
お互いが、人間関係の目的は義務ではなく機会を創り出すことだと考えれば、成長し、自分を充分に表現し、人生をできるだけ高い位置に引きあげ、自分自身にいだく間違った考えや卑小な考えを癒し、最後には二人の魂の合体を通じて、神とひとつになるための機会を創り出すことだと確信すれば―そしてあなたが、これまでのような誓いではなく、そういうことを誓えば― 人間関係はとても良くなる。正しい一歩を踏み出すことができる。非常にすばらしい出発点になる。
それでも、成功は保証されないんですか。
人生で保証が欲しいというなら、あなたは人生を望んでいないことになる。それでは、書かれた台本どおりのリハーサルを望んでいるだけだ。
人生は本質的に保証のないものだ。そうでなければ、人生の目的そのものが損なわれてしまう。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.188-190
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26-s (難題や困難を神からの偉大な贈り物だと思いなさい)
そうですか。わかりました。それで、人間関係の「非常にすばらしい出発点」はできました。そのあとは、どうすればいいんでしょうか?
難題に挑戦するなら、困難な時もあるだろうと覚悟する必要がある。
難題や困難を避けようとしてはいけない。難題や困難を歓迎しなさい。心から歓迎しなさい。神からの偉大な贈り物だと思いなさい。他との関係のなかで―そして人生で―するべきことができる栄えある機会だと思うことだ。
困難にぶつかったとき、パートナーを敵だの対立相手だのと考えないように努力しなさい。
どんなひとも、どんなことも敵だと思わないこと、それどころか問題だとも思わないことだ。すべての問題をチャンスだととらえる力を養いなさい。チャンスというのは……。
……わかってます、わかってます。「ほんとうの自分とは何かを決め、ほんとうの自分になる」チャンスですね。
そのとおり! だんだんわかってきたようだ!
だけど、それではずいぶんつまらない人生のように聞こえます。
それは、あなたの視点が低すぎるからだ。地平線を広げなさい。視界の奥行きを広げなさい。自分のなかに、これまで見ていた以上のものを見ることだ。パートナーにも、いままで以上のものを見ることだ。
ひとがあなたに見せる以上のものを見ても、決して人間関係を―それに誰をも―傷つけることにはならない。
なぜなら、ほんとうは見える以上のものがあるからだ。ずっと多くのものがある。ひとがそれを見せないのは、恐れているからだ。あなたがもっと多くを見ているのに気づけば、相手は安心して、あなたがすでに見ているものを向こうから見せてくれるだろう。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.190-191
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26-t (神の仕事とはすべての人を目覚めさせることである)
ひとは自分への期待に応えるということですね。
そういうことだ。ここでは「期待」という言葉は使いたくないが……。期待は人間関係を損なう。だから、わたしたちが相手に見るものを、相手は自分自身に見る、と言い換えよう。わたしたちが見るヴィジョンが大きくなればなるほど、相手は進んでそのヴィジョンを自分のなかに発見し、わたしたちにも見せてくれる。
祝福される関係とは、そんな、ふうに働くものではないか? それが癒しのプロセスではないか―相手がもっている、彼ら自身についての間違った考えをすべて「放り出して」 いいのだと思わせてやるプロセスではないか。
わたしがここで、この本であなたにしているのも、そういうことではないか?
そうです。
それが神の仕事だ。魂の仕事とは、あなた自身を目覚めさせることだ。神の仕事とはすべてのひとを目覚めさせることだ。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.191-192
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26-u (あなたがたはみな特別な存在である)
相手がほんとうの自分を見て、ほんとうの自分とは何かを思い出すようにしむければ、その魂の仕事ができるんですね。
それには二つの方法がある。ひとにほんとうの自分を思い出させるか(これは非常にむずかしい。ひとはあなたを信じようとしないだろうから)、自分でほんとうの自分を思い出すか(こちらのほうがずっとやさしい。ひとに信じさせる必要はなく、自分が信じればいいのだから)。いつもほんとうの自分を思い出してみせていれば、いつかは相手もほんとうの自分を思い出す。ひとはあなたのなかに自分自身を見るから。
永遠の真実をはっきりと示すために、おおぜいの〈マスター〉が地上に送られてきた。また洗礼者ヨハネのように、メッセンジャーとして輝かしい言葉で真実を伝えるため、間違いようのないはっきりした言葉で神を語るために送られたひとたちもいる。
こうした特別なメッセンジャーは、非凡な洞察力と、永遠の真実を見抜いて受け入れる特殊な力、それに複雑な概念を大衆が理解し、実践できるように伝える能力に恵まれていた。
あなたもそんなメッセンジャーのひとりだ。
わたしが?
そう。信じるか?
それは簡単には信じられません。つまり、わたしたちはみんな、特別な存在でありたいと思っていますが……。
……あなたがたはみな、特別な存在だ……。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.192-193
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26-v (神の栄光を世に明らかにする心構えができているか)
神に関するかぎり、あなたはつねに自意識を捨てていた。あなたはいく夜も真実を明らかにしてくれと天に願い、洞察力を与えてくれと懇願してきた。それも自分を豊かにしたいからでも、名誉が欲しいからでもなく、ただ純粋に知りたいという熱望からだった。
そのとおりです。
そしてあなたは、何度もわたしに約束した。もし知ることができたなら、残る生涯を― 目覚めている時のすべてを―永遠の真実をひとに分かち与えるために捧げると……。
それは栄光を得たいためではなく、ひとの苦しみや痛みを終わらせたいという心底からの願いがあるためであり、歓喜をもたらしたい、助けたい、癒したい、神と協力関係にあるという自分が味わった思いを通じて、もう一度ひととつながりをもちたいと思ったためだった。
そう、そのとおりです。
だから、あなたをメッセンジャーとして選んだのだ。あなたを、そしてほかの多くのひとたちを、わたしは選んだ。なぜなら、いま、そしてこれからしばらくの間、世界には、神の言葉をほがらかに響かせるたくさんのトランペットが必要だからだ。おおぜいが切望している真実と癒しの言葉を語る多くの声が必要だからだ。集まってともに魂の仕事をするたくさんの心が、神の仕事をする準備ができているたくさんの心が必要だからだ。
あなたはそれに気づいていなかったと、正直に言いきれるのか?
いいえ。
あなたはそのために生まれてきたのではないと、正直に言いきれるのか?
いいえ。
それでは、この本によって、あなた自身の永遠の真実について決断して宣言する心構えが、そしてわたしの栄光を世に明らかにする心構えができているか。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.193-195
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26-w (神のメッセンジャーは一人残らずおとしめられてきた)
いまのやりとりのいくつかも、この本に記さなければなりませんか?
何にせよ、しなければならないということはない。わたしたちの関係では、義務というものはないことを思い出しなさい。あるのは機会だけだ。これは、あなたが生涯、待っていた機会ではないのか? 若いころからこの使命のために自分自身を捧げ、準備をしてきたのではなかったのか?
そうです。
それでは、義務だからするのではなく、チャンスだから実行しなさい。
このやりとりを本に記すかどうかだが、どうしてためらうのか? わたしがあなたを内緒でメッセンジャーにしたがっていると思うのか?
いいえ、そうは思いませんが。
自分は神につかわされた人間だと言いきるのには、非常に勇気がいる。知っているだろうが、世界はほかのことなら何でも受け入れても、神につかわされた人間は受け入れたがらない、そうではないか? 神のメッセンジャーはどうか? わたしのメッセンジャーはひとり残らず、おとしめられてきた。栄光を得るどころか、心痛以外の何も得られなかった。
それでも、やってみるかな? わたしの真実を語っても、あなたの心は痛まないか? 人びとのあざけりに耐えられるか? より大きな魂の栄光を実現するために、地上の栄光を捨てる覚悟ができているか?
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.195-196
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26-x (神を描けることをまったく疑っていない女の子)
ある日、ママがキッチンに入っていくと、少女はテーブルにクレヨンを散らかして、夢中になって絵を描いていました。「そんなに熱心に、何を描いているの?」とママがたずねると、「神さまの絵を描いているのよ、ママ」と愛らしい少女は、目を輝かせて答えました。
「まあ、それはすてきねえ」とママはやさしく言いました。「でもね、神さまがどんな方なのか、ほんとは誰も知らないのよ」。
「そう」と少女は楽しげに答えました。「じゃ、わたしが描いてしまうまで待っててね……」。
じっに美しくかわいいジョークだ。どこがいちばん美しいのか、わかるかな? 女の子が、ちゃんとわたしを描けることをまったく疑っていないからだよ。
そうですね。
さて、わたしも話をひとつして、この章を終わらせることにしよう。
どうぞ、お願いします。
昔、ある男が気づいてみると、本を書くのに毎週、何時間も費やしていた。くる日もくる日も、彼はペンを持って原稿用紙に向かい―
時には真夜中までかかって新しいインスピレーションのひとつひとつをとらえようと努力していた。やがて、誰かが何をしているのかと男にたずねた。
「ああ、わたしは神との長い長い対話を書き記しているんです」と男は答えた。
「それは、たいへんけっこうだ」と相手は、もっともらしく答えた。「だが、ほんとうは誰も神が何を言うか知らないんだよ」。
「そうかい」と男は微笑んだ。「じゃ、わたしがこの本を書きあげるまで待っててくれないか」。
ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
(吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.197-198
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26-y (愛の心と人との絆を失っていく社会の風潮)
私が子どものころは、世の多くのおとうさんたちは夕方に帰宅したものです。今のように二十四時間営業のコンビニエンスストアもなく、夜になれば外はまっ暗でした。それが当たり前だったので、なにも不自由は感じませんでした。
毎日のように、家族みんなで食卓をかこむ時間がありました。ところが今はどうでしょう。真夜中まで電車やバスが走るようになりました。そのためいくらでも残業できるようになっていきました。それにともない、家族ですごす時間はいつのまにか削られていきました。
お店には新製品が次々に並び、そのサイクルも縮まる一方です。新製品を持っていないと時代遅れな人と見なされる風潮もあります。
高度経済成長期は、電気冷蔵庫、電気洗濯機、白黒テレビを手に入れることが、多くの日本人の目標でした。それらは「三種の神器」と呼ばれるくらい、燦然と輝く憧れの存在でした。便利なモノが幸せをくれると、無邪気に信じることのできた時代だったのです。
しかし今や、モノをどれだけ手に入れても、それが本当の幸せをもたらさないことを、日本人は、すでに長年の経験から痛いほどよくわかっています。
人間が霊的存在である限り、どんなにたくさんのモノが手に入っても、心は満たされないのです。人間の心を満たすのは、モノではなく愛なのです。
「愛の電池」がどんどん枯渇していく日本人。もうこのへんで、愛の大切さ、人との絆の大切さを思い出し、人間としての原点に立ち返るころではないかと、多くの人が気づいてはいるのです。しかし「愛の電池」不足による誤作動のため、物質的な欲望をコントロールすることさえもできなくなっている人がそれ以上に多い。それが日本の現状ではないでしょうか。
終わりのない悪循環のなかで、本当の宝を失っていく私たち。便利な道具は私たちに自由をもたらさなかったどころか、かえって物質主義的価値観にがんじがらめの不自由な世の中をつくってしまっています。
このまま行ったら、いったいどんな世の中になってしまうのかと、私は恐ろしくてなりません。そう遠くない将来に、現代人がその傲慢さを涙であがなう時が来る。このごろはそんな気さえしてならないのです。
江原啓之『人間の絆』(小学館、2007)pp.190-192
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