学びの栞 (B) 


 27. 無知・迷妄・迷信


 27-a [46-b] (霊的真理に無知のまま霊界で眠り続ける無数の人たち)

 もしそこを見れば大きな悲しみをもたらすであろう次元について、ひとつだけ話しましょう。そこは、意識の第一、第二のレベルを表現している存在たちの次元です。そこは平野のような平らな場所です。そこには何があるのでしょうか。山々や川、草花や空が光の状態でいる姿はありません。何十億という存在が、その光の化身の形のままで、無限に続く列をなしている姿があるのです。彼らは眠りの状態でそこに横たわり、自分たちは死んでいるという幻影の中に生きているのです。なぜなら、この人たちは、墓場の先に生命はあり得ないと固く信じているからです。思考はいまでも生きていて、磁気を発し、衝動も持ち、活発なのに、そのエネルギーのレベルでは、自分が死んでいると思い込んでいるのです。でも、実はまだ本当に生きているのです。ひとつだけは覚えておくことです。どんなことであろうと、私たちが固く信じることは、それが真理であると自らを必ず納得させてしまうものなのです。そして、真理であると知っていることは、すべて現実の姿へと変容します。私たちの創造性、そして意志は、それほど強い力を持つものなのです。
 この次元にいる皆の多くは、自分が死ぬと、救世主が戻ってくるまでは、死んだ状態のままでいると教えられました。そして神の愛から断絶されるという恐れの気持ちから、この教えを真理として受け容れたのです。こうして、死を目前にしたとき、彼らは復活を待つ場所に行くのだと信じました。そのために、このレベルでは、自分よりも偉大だと信じている誰かによって復活させてもらうのを待つ存在が、何列にも何列にも並んでいるのです。私たちは彼らを目覚めさせようともしました。実際にひとにぎりの存在が目覚め、起き上がりました。しかしまた、彼らのほとんどは、何か悪魔のようなものが、自分たちを誘惑し、起こそうとするとも教えられてきています。これも、彼らは真実として知ってしまっていることです。そのため、誰が起こそうとしても、彼らは目覚めるのを拒むのです! 自分が生きていることに気づき、眠りから覚めるのに、まだ何千年とかかってしまうのかもしれません。本当に残念な教えだったと言えます。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 91-92

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 27-b (文化人・知識人はしばしば無知である)

 粗方の苦労知らずは、この世の事共も又知らぬ。知らぬ者は、無知蒙昧の輩であり例外なく傲慢である。傲慢なる者は己れの卑小さに気附かずに居る。この類の人間は主に中途半端な小者のエセインテリに多く見受けられる。科学者だの医者だの学者だの文化人・知識人と呼ばれるジャンルの人間達であるか、はたまた実利一方主義の無教養で頑固な蛮族で有る。
「そんな馬鹿な、この近代科学の世の中に、科学で実証出来ないものを信じるなんて、貴方の妄想か、精神の疲労か混乱から来てるんですよ」と高所から宣うのである。だが私が、「はい然様で御座んすか、それ程、科学様は御偉くて万能でオールマイティーでいらっしゃるんですかね。科学様がお認めにならぬものは一切この世にあってはならぬものなんですかね」とやり返すと大方の人は黙ってしまう。
 この宇宙、この世界、この国、この町、この家、この躰、これ等の事共のどれ程を人間が知っているというのであろうか。或る医大の教授が、「今の科学じゃ人間の体の仕組は未だ三十パーセントも解っちゃいないんですよ」とおっしゃっておられたが、これは正直で謙虚な方である。通常の医者や科学者は、超常現象や己れの無知なる部分を認めれば沽券にかかわる、それを認めれば科学者として医師としての負けだ。それ等を否定する事こそ立派な科学者で常識ある人間だと思い込んでいる。この姿こそ小心翼々とした哀れむべき根性である。頑迷と云う事は愚か者だと云う事である。聡明なる御仁は素直で謙虚である。「超常現象なんてあるわけはありません」とそれに対する勉強も研究も体験もせず何の知識もない癖に頭から否定してかかるのが傲慢なる愚者の発言であり、「この世の中には自分が知らない事はまだまだ山の様にあります。私には知識も経験も無いのでわかりません」と発言する人が聡明で謙虚な人なのである。

  美輪明宏「霊を受け入れる柔和質直な心」による。
   佐藤愛子『こんなふうに死にたい』新潮文庫、1987、
       pp.152-153 に所収。   

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 27-c[63-a] (世間の学者や教会関係者の霊に対する認識の浅はかさ)

 霊は人間と同じように人体をそなえている。ただ霊界は人間界のように物質界の中にはないから霊のそなえている人体は人間のような物質的肉体という形骸はもっていない。しかし多くの人々が考えているように霊を何か空気やエーテルか精気のようなものだと思えばそれは間違いである。このことは、もう汝にはわかりきっているだろう。また霊には人間の肉体の機能に相当する眼、耳、鼻のような感覚も全てあるし、口や舌をもち言葉もしゃべるのは同じように汝にはもう説明するまでもないだろう。
 ここまでいったあと、彼はさらに言葉をついで、私が精霊界のところでいったと同じように世間の人々を誤らせている世間の学者や教会関係者の霊に対する認識の浅はかさについて非難した。そしてさらにつぎのようにいった。
 「いまわが云いしことのほか、霊には霊的感覚、霊的能力なるものそなわれり。これ人間にはなきものなり。されど、われ、いまはこのことは云わず、汝、霊界になれるにつれ自ら知るに至ることなればなり」
 彼はこういったあと微笑を含みながら、ついでにいい添えておくといった感じで、さっき彼が無限ともいえる遠い所から突然現われて私を怒らせたのも霊能力のひとつで霊界ではごく当り前のことなのだと弁解した。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.71-72

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 27-d[13-f] (世間の知者や学者はしばしば霊的理性では劣等である)

 霊的に心の窓が開けた生涯とは簡単にいうと霊界の秩序を守り、これに素直に従った生涯を送るということである。そして霊界の秩序は人間にも素直な心さえあれば、その存在を感ずることも、その姿をもっと具体的に知性によって知ることも全く不可能なものではない。なぜなら、人間の住む自然界との間には、相応の理といって、多くの事物についての相応があるからだ。人間界自然界にあるものは、それに相応する対応物が全て霊界にもあり、早い話霊そのものが人間と実によく似た存在、つまり人間の相応物であることはすでに人々には、私のいままで記したことからよく解るはずだからだ。そこで心を素直にして自然界を見わたしてみる。鳥や獣、虫などの動物界、樹木のような植物界にせよ全て生命あるものは、不思議な自然界の秩序によって生活している。この不思議な秩序に素直に感嘆し、この秩序の事に素直な心をもって生活しようとする人間は、すでにその心の中に霊界の秩序の事をある程度感じとっている人たちだ。霊界の秩序は自然界の秩序と違ったものがあるのは事実としても、秩序という不思議な、人間の思慮を越えた統一のある世界だという点では何ら変わりはない。このような秩序をたとえおぼろげであっても自分の心の中に感じ、この秩序にしたがった生涯を送る人々は霊的な心の窓の開かれた人々だといえる。彼には、死後霊界に入ればただちに霊界の秩序の真の意味を理解し、これにしたがった霊としての生活を行なうことを意図する---- このような人々は上世界へ入る人々なのだ。
 この霊としての窓がそれほど開けてない人は、その程度によって中世界、下世界に住むことになり、全くそれらの窓が開けていない人々は霊界の光に耐えず地獄界に行くことになる。
 宗教などの説く教義は、その教義が真正なものであれば、これにしたがうことは多くの場合、霊的な心の窓を開くのに役立つ。しかし、単にそれだけで心の窓が開かれるものではなく、もっとも根本的なことは、何度も私がいった「直ぐなる心」なのだ。
 また表面的外面的な知識なども霊としての心の窓を開くものとも限らないし、多くの場合は逆に窓を閉じることにすらなる。私は霊界で世間にいたとき人々に学者、智者としてあがめられた多くの人々が、霊的な理性においては、これらの人々より知識などのなかった人々よりはるかに劣る霊として生きているのに何度もぶつかってきた。彼らは知識や学問を霊的な心の窓を開くための手段として利用せず、逆に、これが彼らの「直ぐなる心」を失わせたことの結果なのだ。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.171-172

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 27-e (人間は死んだら自動的に霊性が向上するわけではない)

 人間は死んだからといって自動的に誤りを犯さない神さまのような存在となるわけではない。出しゃばり屋だった者は当分の間あちらでも相変わらず出しゃばり屋である。死と呼ばれている大きな変化のあとに必ず調整″のための時期があるが、それがどのくらい続くかは分からない。とにかく霊界の時間とはまったく異なるからである。
 少なくともその期間中は地上世界と情念的につながっている。守銭奴に対してお金は地上に残してきたのだからもうどうしようもないという事実を得心させようとしても、それは並大抵のことではないのである。
 物質中心の考えで生きてきた人間が霊的生活に馴染むのは容易なことではないのである。それと同じことが宗教的ドグマで洗脳されてしまっている者にもいえる。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』(近藤千雄訳)
    潮文社、1988、pp. 82-83