学びの栞 (B) 


 29. 霊能者・ヒーラー


 B29-a 霊能者の慈愛に触れる)

 浜玉町からやっと帰ったその日から、家中、到る所で大きなラップ音が始まった。一番ひどいのは私の寝室で、木材をへし折るような音は絶え間なく、音ばかりか電気スタンドがついたり消えたり、電源を切ってある加湿器がポチャポチャと水音を立て、水がなくなった印の赤ランプが点る。そして浜玉町で味わった脱力感・不安、心臓の異常感がきた。あいにく娘はパリへ行っていない。
 私は渾身の力を奮い起して「南無妙法蓮華経」を唱誦し、部屋が霞むほどに線香を燃やした。お題目を唱える時は最初、大声を出して相手のエネルギーを壊し、それから慈悲心をもって静かに諭すように唱えなさいと教えられていたが、もう慈悲心どころではなくなった。喧嘩腰である。闘いである。ここで弱気を出したらやられてしまう。勝つか負けるか。まさに「どたん場」という気持だった。
 朝になるのを待ちかねて私は美輪さんに電話をかけた。すると美輪さんはいつもの、こともなげな口調でいった。
「おやおや、佐藤さん、またいろいろ憑けて来たのねえ。鎧冑の武将と、それから、これは何だろう・・・・・・黒い丸い帽子の真中にトンガリがついているのをかぶってる・・・・・・ああ、わかった、蒙古の兵隊よ。元寇の役の時かしら。肩から袈裟がけに斬られてるわ・・・・・・」
 元寇の役で殺られた蒙古兵だとすると、およそ七百年も昔から浮遊している霊ではないか。その間、玄界灘のあたりは幾千万の人が通っている筈なのに、どうしてその間、誰にも憑かず今になってこの私に憑くのだろう。その私の疑問に対して美輪さんはあっさり、
「そういうものなのよ」
 といって笑う。払ってあげるといわれて私は美輪さんの家へとんで行った。祭壇がしつらえてある部屋で、お経を上げる芙輪さんの後ろに虚脱したように坐っていた。悪夢の中にいるようだった。しかしそのうち、なぜだ、なぜこんなことになるのかという怒りに似た思いは少しずつ消えて行き、私の頬を涙が伝い出した。美輪さんの慈愛が胸に染みた。なぜ美輪さんがさほど親しくもなかった私のために、ここまでしてくれるのか、それに思い到った時、凍土に春の雨が染みて行くように、私の心は潤ってやわらかくなった。
 今から思うと美輪明宏さんは私の人生が変って行く最初の案内者だった。私が美輪さんのすべての言葉を疑わずにそっくり受け取ったのは、彼の霊能力への信頼というよりもあの華美な装いの奥にある「慈愛」ゆえだったと思う。それに触れたことによって、私は胸の奥底に慈愛を秘めている人の心に敏感になった。いかに霊能に優れていても、慈愛のない霊能者はまことの霊能者とはいい難いのだ。霊能は神から与えられた能力、使命として与えられた力なのである。だから金や名声への欲望のために使ってはならないものなのだ。

  佐藤愛子『私の遺言』新潮社、2002、pp.37-39

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 B29-b (霊能者は盗難などを正確に解明できるか)

 その答えが、正確である、正確でない、というより以前に、そうした霊能で犯人や罪人を指摘したりすること、自体が、神の意志にそうことではなかろう、と私は思う。
 霊能は、神から来るものでなければならぬ。たとえ、それが、神霊直接でなく、もっと低い霊界からの指導であってもよいが、その指導は、常に、弟子あるいは聴聞者の魂の進歩に役立つものでなければならぬ。ただ、たんに犯人を指摘して、罪人を造る手伝いをすること、つまり人を裁くことを、一人の人間や、一つの家のためにやったりすることは、霊能者の本来性から外れている。霊能者は本来宗教者であるべきなので、単なる当て物やになったら、まして 人を傷つけるために役立つようになったら、神の心から、まるで離れた存在になってしまう。この意味をまず知ってもらって、問の答にうつろう。
 その犯人は何歳位の、こうした顔立ち等と、答える場合、本当にその人の場合もあればあるいは、聞く人の潜在意識をみて、聞く人が、あの人が怪しい、と写っているような人を名指したり、指摘したりすることが多いのである。その場合、その行者(霊能者)はその答えが、聞く人が怪しい、と思っているから、とそれに合わせていうわけではなく、その答えが神のお告げである、と信じていう場合が多いから困りものなのである。
 そのような問に答えて、犯人を指摘するような行者は、低い階層の人なので、真の神示も幽界の霊魂の念をも見分けができず、口から出る言葉は、すべて神のお告げだと信じているものである。だから、盗難など、そうした行者などに尋ねたりするものではなく、自己の心を省みて、何か心の間違いがあったらお許し下さいと、一人座して、神(守護霊、守護神)に祈るべきである。そうすれば、出るほうが、その人のためによければ、出てくるし、出ぬほうがその人のためになるなら、出て来ぬものなのである。物が失くなることより、右往左往して心を乱すほうが、よほど大きな損失である。その人に必要であるものは必ず返ってくるものである。私が、そうしたことを尋ねられたら、私はまず黙って祈ってやり、返るものなら、返る、返らぬ物なら、返らぬ、とはっきり答えるだけで、犯人のことなどには一言も触れぬことにしている。その盗られた、という因縁がなんであるかはわからなくとも、何かの因縁に違いないのだから、その因縁のため、人騒がせしたことを詫びながら、因縁の消え去ってゆくことを念じれば、大体盗られた物は返ってくるものである。禍を縁として、常に福に転じられるように心掛け、修練することが、人間にとって必要なことである。

   五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
     1988、pp.110-112

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 29-c (死者の霊が霊能者を通して身振りをしたり語ったりするか)

 ― 亡くなった親兄弟や知人の霊が、霊媒者に憑かって、身振りをしたり、口をきいたりすることがあるものでしょうか。

 勿論ある。あるけれども、それは、霊媒者、その者の程度とか、その時の状態とか、または、呼ばれている霊魂が、肉体界に全然興味がない時などは、憑かって来ない時もあり、かかったように見せかけても、実はにせ者であったりすることがある。どうして、にせ者等が憑かってくるかというと、その霊媒者に恥をかかせぬため、その霊媒者を、その背後から、コントロールしている支配霊が、相手(依頼者)の心の中を読み抜いて、Bなら、Bという死者の生前のくせを、真似て口をきくのである。その本者、にせ者は、とにかくとして、交霊の実際を一度や二度は見ておくことも、その人のためによい勉強になる、と思う。あまりに肉体迷信に捉われている現代において、肉体以外の世界があって、死者が生きて生活してる、ということを識ることは、その人の肉体生活を緊張させ、心を清くせねばならぬことを悟らせる契機になるに違いあるまい。そうした意味で、心霊研究は意義あるものと思う。ただし、これにも注意が肝要である。識ったら、いつまでも捉われぬことである。霊能者に逢って、自分も、そうした霊能が欲しいなどと絶対に思わぬことである。自己を高め、自己を救うものは、あくまで愛と真心と、愛を実践する勇気であることを忘れてはいけない。その他のことは、そうした心を養うための修練に過ぎぬのである。
 愛と真心の道を進んで、もしや苦難に遇い、その道が誤りのように見え出した場合でも、神は決して、この人たちを見放しはしない。いつか必ず、道展く日が訪れるであろうことを確信することが、この人生を正しく生きてゆく上に、最も大事なことである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.112-113

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 29-d[17-e] (人間は肉体を癒すための光を手に入れることもできる)

 私はかつて、医師として手術の場面に立ち会ったことがあります。今にして思うと、恐ろしさと嫌悪のあまり身震いがするほどです。しかしながら、数多くの人命が外科医の技術によって救われているという事実に対しては感謝しています。とはいえ、医学界が人間のアストラル体とその健康をも研究の対象とすれば、さらに多くの人々の生命が助かるだろう、とあえていっておきたいと思います。
 人間が自らを神聖な知性に対して開けば、肉体を癒すために利用できる光を手に入れることができます。これは、ヒーラー(治療家)の知的な資質よりもむしろ、その霊的な知性ないしは洞察力によるものです。この霊的な知性により、ヒーラーは癒しの光を自分自身に引きつけ(磁石の引力と同じようなものと考えればよいでしょう)、その光を患者に当てることができるのです。医学が光とさまざまな色彩の光線に関する情報をいつの日か受け入れ始めると、種々の新しい治療法が可能になりますが、これはその一つの例にすぎません。
 健康と癒しと生存に必要なものすべてが宇宙界にあって、人間に利用されるのを待っているというのは、まさしく真実なのです。しかし、不幸なことに、霊的に無知な人々は、神がこのように豊かに供給してくれるものを利用することができずにいます。
 この知識をもっている人々が、それを他の人々に伝えるというのは、不可能とはいわないまでも、非常に難しいことです。これは、魂自身の理解によって達成されなければならないのです。しかし、宇宙のキリスト意識から送られてくる光によって、影がさして真っ暗な状態にある人間の理解力に光がさす日が必ずきます。そのとき人間は真っ暗闇の状態から目を覚ますことになるでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.252-253

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 29-e[17-f] (病気の原因だけでなくヒーラーの力の源泉を探る)

 過去何世紀にもわたって、病を癒すためにさまざまな方法が実施されてきました。それぞれの治療法は効果があるように見えても、その対象は限られた数の病気にとどまり、すべての病気に通用する治療法というのはありませんでした。今私たちがなそうとしているのは、病気の原因を探るだけでなく、ヒーラーの力の源泉を見つけ出すことです。
 このようなことをいうと、大議論を巻き起こすことになるかもしれません。病気は、患者の心の状態が原因であると考えられているようですが、ふつうはそれよりもずっと深いところに根ざしているのです。ときには、人の意識から始まり、またときには、潜在意識に由来することもありますが、前意識に始まっていることが一番多いのです。
 前意識という意味は、現在生きている人生よりもずっと昔の意識の状態という意味です。人間の過去の人生に遡った意識ということです。つまり、数多くの輪廻転生にまで遡る意識のことです。しかし、これを、心理学者がいうところの“種としての本能”と混同してはいけません。
 前意識は人間の自我、霊と関係があるのに対して、人間の本能的な心とでも呼ぶべきものは、人間に内在すると思われる動物的ないしは種の本能に関係しています。人間の本能的な心は、前意識と呼応することはないようです。前意識は人間がすべて普遍的かつ霊的な遺産として共有しているものです。この前意識の状態は、動物界では未知のもののように思われます。
 今日の人々は、人間の意識、あるいは潜在意識のほうに関心を払うことが多く、意識ないしは潜在意識が、数多くの、さほど重大ではない肉体的問題の原因になっていて、場合によっては重大な病を引き起こすこともありうると認めています。また、意識にも潜在意識にも起因するとは思われない、数多くの病気もあります。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.254-255

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 29-f (ヒーラーはすべての病気を癒すことはできない)

 ヒーラーは次のように分類することができます。
  磁気的なまたは心霊的なヒーラー
  クリスチャンサイエンティストをはじめとする精神的なヒーラー
  催眠術を使うヒーラー
  食事療法のヒーラー、自然に依存するヒーラー
  霊的なヒーラー
  秘跡的なヒーラー
  整骨医などの操作的なヒーラー
  超自然的なヒーラー
  色彩光線によるヒーラー
 これらのヒーラーたちは、それぞれ何かの病気を治癒することはできますが、すべての病気を癒すことはできません。これは明確にしておくべきことですが、ここにあげた方法は、痛みや病気を治療する際には、患者の肉体だけではなく、エーテル体および精神体をも治療するのです。
 繰り返しますが、すべての重い病気は、人間の霊体と肉体の調和の欠如が原因であり、肉体に表れるのは病気の表現としては最後の段階なのです。ここに述べたさまざまなヒーリングの手段を使うとき、ヒーラーは患者との接触点を見つけなければなりません。それができなければ、患者を直すことはできません。したがって、一人のヒーラーがすべての病気を治癒することができないのは明白です。
 ハーブによる治療も忘れてはなりません。多くの場合、とくに、局部が炎症を起こしているときなどは、霊的な力を送り込むよりもハーブのほうがずっと効果的です。ある種のハーブや薬は肉体に作用するだけでなく、人間のエーテル体にも作用するということは一般にはあまり知られてはいませんが、本当のことです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.255-257

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 29-g[51-n] (人間は異なった振動数の12の色に波長があっている)

 ここではっきり述べておきますが、すべての人間の生命はさまざまな振動数の色に分けることができ、人間の生命はその色によって支配されています。ここでは、そのうち、一二の色についてだけ説明することにします。
 すべての人間は異なった振動数を持つ一二の色のどれかに波長があっています。したがって、ヒーラーが第七の色で振動している人に、第五の治療法を用いれば、必ず失敗することになります。それだけでなく、かえって害をなすかもしれません。しかし、その逆に、第七の色の患者にそれに適した治療を施すならば、病気を直すことができるでしょう。
 振動数は色で表現されます。つまり、色は振動数の外面的な目に見える象徴です。それぞれの数に応じた色を次にあげていきましょう。
 一番目は赤の光線、二番目は緑、三番目はブルー、四番目がピンク、五番目は黄色、六番目は紫、七番目はヴァイオレット、八番目はラヴェンダー、九番目は真珠色、一〇番目は銀色、一一番目は金色、一二番目は純白です。
 色彩を使うヒーラーにとっては、患者が振動している色は何であるか、それを発見するのがまず第一の仕事になります。光の色とその数に応じて、患者はある種の病気にかかりやすいのです。患者のあり方と調和をはかり、回復させるためには、沈静効果をもつ光か、刺激的な光のどちらかが必要になります。
 黄色い光線は、結核の治療にとくに効果的な色であり、ブルーの光線は神経系統の病気に最善の結果をもたらし、赤い光線は血液が毒に犯されているとき有効であり、紫と緑の光線には共に癌の治癒力があることが発見されるでしょう。
 患者によって、治療すべき霊の中枢がいろいろと異なる場合があります(まだこの点について明確にしていませんが、いずれそうしたいと思います)。人によっては、喉が一番感受性の強いこともあり、その場合には、緑の光線を喉に向けると効果的ということになります。
 また、中には、心臓が紫の光線に最も強く反応し、血液の病気や、血液中の毒素の治療の際に最も効果的であるという人もいるでしょう。それは、紫の光を心臓に当てれば、血液が心臓から出たり入ったりするときに、血液を掃除し、純化してくれるからです。
 繰り返しますが、この光線による治療はすべての人に対して効果があるといっているわけではありません。色とそれに準ずる番号の一覧表はすでに示した通りです。私たちは独断的にこうだといっているのではなく、提案をしているのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.258-259

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 29-h[17-i] (四と三は強烈な数字で人間にあらゆる面で影響を及ぼす)

 心霊のヒーラーは、霊体の滞りを癒すという点で、きわめて重要な働きをすることができます。心霊のヒーラーが役に立たない場合もありますが、それは、患者の本当の問題まで深く調べることができないからです。患者自身が自助できるとき、ヒーラーもその力を十分に発揮するのです。
 この種の心霊治療においては、明らかに病気が直って、つまり、患者の“家”を大掃除して飾り立てもしたのに、患者自身がより高い存在の力との接触から遠ざかってしまうと、健康状態が前よりももっと酷い状態になるというようなことがあります。一匹の悪魔に取りつかれていた人が、“家”の大掃除をしてその悪魔を追い出し、飾り付けもしたけれども、空っぽのままにしてどこかに出かけて帰ってみると、家には最初の悪魔も含めて七匹の悪魔が住みついていたという寓話は、ここで私たちが言わんとしていることの意味をよく伝えています。
 繰り返しになりますが、どんなヒーラーであれ、すべての病気を癒せるなどと言い張るのは無益なことです。一二の光線について先ほど申しあげましたが、それと結びつけながら、黄道帯の一二の星座、イスラエルの一二の“支族”について、そして一二という数字の神秘と重要性について考えてみましょう。
 これらの数字が一二であるというのは、一二の光線のもとに人間の家族を分類できることを暗示しているのかもしれません。すべての薬草は、一二の光線のいずれかに属します。古代の賢者は、すべての病気には必ずそれに呼応する薬草があり、薬草にはそれぞれ波動の合う数と色があり、素晴らしい効力を発揮するということを知っていました。古代の慣習や魔術的な力を持つ飲み物の源は、この知識に遡ることができるでしょう。
 人類に関して言えば、四と三という数字は強烈な数字であり、人間が関わっているあらゆる事柄で人間に影響を及ぼします。世界の計算の土台はずっと昔、四角と三角のシンボルの上に築かれました。エジプトのピラミッドの意味について考えて見てください。そうです。ビラミッドは生命の数字のシンボルとして立っているのです。
 さて、一二の家、一二の支族、人類がそれに呼応して振動する一二の光線を四つに分ける必要があります。その四つとは、土、空気、火、水のことです。
 いつの日か、それはずっと未来のことになるかもしれませんが、医師は患者の治療をするときには、まず患者のホロスコープを見ることになるでしょう。これは根拠のない話ではありません。私たちは真面目に話しているのです。もし人間が望むのであれば、すべての病気の原因をいつの日か発見することができるように、海図を与えようとしているのです。
 患者のホロスコープを見ることによって、それがなされるでしょうが、そのホロスコープはふつうのホロスコープではなく、今の人生を越えて、自我のこれまでのすべての人生に及ぶものです。これまでの数多くの輪廻の人生の中で振動してきた光が何であるか、それを明らかにしてくれるホロスコープです。
 この方法によって、すべての病気は四つのグループのいずれかに分類できることが発見されるに違いありません。患者が土のサイン、水のサイン、あるいは、火のサインに波動が合うと思われるときには、そのサインに見合った適切な治療を施すことができるでしょう。これまでのように、すべての人に対して同じ治療をすることはなくなるはずです。土、空気、火、水のどれに波動が合っているかを知ることによって、かかりやすい病気がわかり、その結果、予防策をとることも可能となるでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.265-267

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 29-i[17-j] (振動数による12の光線が接触する肉体の各部位)

 振動数によって一二の光線があることを説明したので、今度は、これらの光線が接触する一二のポイントについて話しましょう。心臓を出発点として、次のように数えます。

  1 心臓
   2 喉
   3 松果体
   4 脳下垂体
   5 脾臓
   6 脊柱の基部
   7 太陽神経叢
   8 生殖器官
   9・10  二本の手
   11・12 二本の足


 この一二の霊的な中枢は、ヒーリングの光線に対してきわめて敏感であることをなんらかの計測器によって証明するのは可能であり、いつの日か必ず証明されることになるでしょう。人間の体そのもの、および肉体の中にある生命体である魂は、外部の助けを借りずに自らを癒すことができるというのは事実です。それだけでなく、人間は他の人々を癒すことのできる光を引きつけ、それを他の人々に向けることもできます。
 しかし、すでに説明したように、病気の中にはその原因がきわめて皮相的であるため、表面的な治療で簡単に直せるものもあります。ねぶとなどは、磁力による、または霊的な力による治療よりも、湿布で治療したほうがずっと簡単です。
 また、それぞれの心霊中枢には、体の一器官が接続していることも発見されるでしょう。例えば、一定の色の光線、それは一つの波動にすぎないのですが、その光線で喉の中枢を治療すれば、反応が出てくるのは、喉ではなく胃なのです。強迫観念や精神錯乱を治療する場合には、脳下垂体の中枢を治療しなければなりません。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.267-268

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 29-j[17-m] (子供の喘息は母親のはりつめた神経組織が一因)

 薬草の治療について、さらに説明をしたいと思います。体の一二の部分のそれぞれに、波動と色彩が呼応する薬草を入手することが可能です。そして、火、水、土、空気のいずれに属するかを知れば、それに応じた、適切な薬草を選ぶことができます。適切な薬草を用いれば、いずれの場合もきわめて効果的ですが、間違った薬草を用いると害になる場合もあります。
 薬草は一定の法則のもとに生長します。薬草の生長は、気候とか季節にだけ依存するのではなく、地上の鉱物界、野菜界、動物界の生命を支配する一定の光線に基づいて、その形および性質を形成します。したがって、ヒーラーは占星術からみた患者の性質を理解していなければなりません。なぜなら、すべての薬草は、黄道帯のそれぞれのサインをもっているからです。
 薬草は病気の性質、病人の性質に一致するものを選ばなければなりません。例えば、獅子座の上昇するサインの人には、それにふさわしい数と光線の薬草をあげるべきで、べつな光線を与えてはいけません。薬草による治療を、かなりの厳密さと正確さをもって分類することは可能であるはずです。
 薬草による治療は、すべての病気に対応することはできません。患者はそのサイン、気質によって治療する必要があります。喘息は神経組織を原因とする病気です。この種の神経の反応、つまり体のリズムの乱れは、青あるいは緑の光線によって、効果的な治療を行なうことができます。喘息は他の神経系統の病気と同じく、心霊的な原因に起因していると思われます。ときには、磁力を用いた方法が治癒力をもつでしょう。治療すべき中枢は太陽叢です。消化不良の問題もあるかもしれないので、食事にも注意を払うべきでしょう。
 喘息の発作の多くは、この種の不注意によって引き起こされますが、そもそもの原因は心配事や心の悩みであることが多いようです。心の悩みを解決すれば、喘息は直るでしょう。このようなわけですから、喘息に関しては、ブルーの光線、つまり、心を穏やかにし、心の平和を回復してくれるこの光線が必要であることがおわかりいただけると思います。
 ある種の薬を飲むということは、単に症状を治療しているにすぎないのです。その根本原因までつきとめなさい。喘息の場合それは心霊的な混乱であって、多くの場合、太陽叢を中心とした混乱です。この病気に苦しむ子供は大体の場合、母親のはりつめた神経組織が原因です。あなた方はこれを即座に否定することでしょうが、しかし、事実なのです。いずれにせよ、この霊の浄化という治療を受ければ、この病気が再発することはけっしてないというのは、元気づけられることではないでしょうか。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.271-272

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 29-k[17-o] (人間のすべての病気を癒すことが可能である)

 ときには、霊のヒーラーが患者の治療をしているのを私たちが見守ることもあります。しかし、患者は治療に反応せず、治療は失敗に終わりそうに思われることもあります。場合によっては、わが子のごとく人類の面倒を見ている偉大なマスターたちですら、干渉しないこともあります。それは、自分自身の努力と苦労で、自我を克服することによってのみ、人間の魂は自らの暗黒の遺産を転換できるのだということを知っているからです。
 そのような罪人に向かって、キリストはこう言われました。「あなたの罪は許されました。行きなさい。これからは罪を犯さないようにしなさい」。過ちを犯した魂であっても、自らを克服して神を獲得しようとさえすれば、キリストの力と存在によって、このような救済は可能なのです。
 すべての病気を癒すことが可能です。そして、実際、人類が自らの自由意思と合意によって、生ける神の宮殿に足を運び、永遠の存在の心から流れ出る、そして生命の泉そのものである、あの純粋な白い光、あの真実、あの生ける愛を受けとるならば、すべての病気は癒されるでしょう。そのとき、人間の泣き叫ぶ声、嘆き悲しむ声は聞かれなくなり、完全な人間だけが存在することになるでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.273-274

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 29-l[17-p] (すべての病気はリズムまたは波動の乱れが原因である)

 すべての人間は、火、空気、土、水の四つのグループに分けることができると述べました。ホロスコープによって患者がどのグループに属するか、正確に判断することが可能です。もちろん、ヒーラーは直感によって患者のグループ分けをすることもできますが、より科学的な方法を用いれば用いるほど、より厳密な出生の光線を見つけることができるでしょう。
 数か月前、皆さんは私がどのような光線の下で生まれたか、という情報を受けとりました。このさまざまな色の組み合わせがふつうのものではなかったため、私の人生において、また死んだ直後に、困難が生ずる原因となりました。これは皆さんも覚えておられると思います。
 すべての病気は、基本的には、リズムの狂い、または波動の乱れが原因である、といってもよいかと思います。一二の光線が、いうなれば鉄の輪のように、しっかりと人類を押さえているのです。一二の光線に人間の健康の秘訣が隠されています。これらの光線についての知識が得られるにつれて、人間の生活は簡略化されることになるでしょう。生活の緊張やストレスは消えてなくなり、医師を悩ませてきた原因不明の病気もなくなるでしょう。これらの病気は、人類を包んでいる磁力や宇宙の力と人間との関係の調和が乱れたことが原因なのです。
 人によっては、今私が申しあげていることをあざわらって、こう言うかもしれません。「ばかばかしい。私たちは人間の体がどのようなものか理解しているし、治療の仕方もわきまえている」と。しかし、皆さんはわかっていないのです。人間の肉体がそもそもどのようなものか、初歩的なことすら理解していないのです。
 現代の医学は今のあり方をずっと飛び越えて、門を広く開放しなければなりません。たしかに、外科手術は見事な技術を発達させ、それによって素晴らしい癒しがもたらされています。事故のため体に裂傷を負ったり、骨折をしたような場合には、外科手術が役にたちます。現在はたしかにその通りですが、将来は、外科手術すら別な手段に取って代わられるときがくるでしょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.275-276

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 29-m (超能力者や霊媒の偽物と本物をどのように見分けるか)

 超能力者や霊媒の分野には、偽物やインチキが一杯います。偽物と本物を見分けることが、とても大切です。
 次に、そのためのいくつかの基準を書いておきます。
 1 私達はみな超能力者であり、自分で思っているよりもずっとすばらしい直観力を持っています。超能力者から得た情報を、あなた自身の直観的な知恵を基準にして、注意深く評価して下さい。もし、与えられた情報が正しくない、または合っていないと感じたならば、それはおそらく、間違った情報です。あなたも超能力者なのです。
 2 超能力者や霊媒が受け取った情報は、あなたに伝える前に一時、必ず霊媒によって加工されます。ですから、情報は超能力者の心理によって、かなり歪められる可能性があります。歪みの大きさは霊媒の個人的問題によります。超能力者も人間であり、たとえ優秀な超能力者であっても、個人的な問題----気分、欲望などが超能力のプロセスを邪魔すると、歪んだ情報を伝えることがあります。
 3 インチキな人達は高い料金を取り、自分の忠告にあなたを従わせようとします。また、自分は他の誰も持っていない能力を持つ「特別な」存在だと見せかけたり、あなたが従うべきグルなのだと思わせたりします。こうしたやり方に気づいたら、すぐに逃げ出しなさい。
 南アメリカでは、すぐれた霊媒やヒーラーの多くは、他の職業で生活費を稼いでおり、彼らがよく、経済的に助けを必要としている人々の家を訪ねては、助言やヒーリングをしているのを見て、私はとても驚きました。彼らは自分の仕事時間を削り、交通費も自分で払って行くのに、患者に一銭も請求しません。一、二週間ごとに数回、こうした訪問が行なわれています。
 4 真の成長は内面のプロセスです。超能力者はあなたが自分の内なる知恵の汲み出し方を学ぶのを助けることはできますが、瞑想を十分に行なえば、あなたは自分自身のための超能力者となって、外部の指導を必要としなくなります。しかし、最初は、歪みのごく少ない超能力者や霊媒に確認してもらうと、とても助かります。
 5 超能力や霊媒能力は必ずしも、霊的な進化とは相関していません。非常に高い能力を持つ霊媒がまったく利己的に、見下げ果てた行動を取る例もあります。その人が特別の超能力を持っているというだけで、彼を霊的に高い地位にまつり上げてはいけません。その霊媒は能力があるから、きっと倫理的にも正しいだろうと思い込むと、その人にうまく利用され、犠牲者になりかねません。
 6 ほとんどの場合、霊媒や超能力者は、訓練を受けたセラピストや心理カウンセラーではない、ということも覚えていて下さい。自分の恐怖、症状、問題などが、超能力者に見てもらえばすぐに、奇跡的に消えてしまうと期待してはいけません。あなたが抱えている問題を一気に解消して理解させてくれるような、治療的な説明を期待するのもやめましょう。それは彼らが行なっていることではありません。しっかりした訓練を受けていないので、ほとんどの人達は出て来たものを分析し、説明する力はありません。彼らはそれを見つけ出して、ただあなたに伝えるだけです。あなたはもう一つの世界をのぞき見させてもらえるかもしれません。そして、それはあなたにとって、とても価値があり、癒しになるかもしれませんが、こうしたのぞき見は心理療法ではありません。
 もし、霊媒が不正確なことや、有害なことを言ったなら、その人は必ずしも、賢明で心暖かいセラピストではない、ということを覚えておきましょう。必要であれば、他の人を判断する時と同じように、霊媒をきちんと見定めて下さい。あなたの力と誠実さを、誰かに完全に委ねてしまってはいけません。
 7 高度の超能力や霊媒能力を持つ人々を、私達は尊敬し、時にはうらやむことがあります。しかし、私達の真の目的を忘れてはいけません。私達はこの地上に、霊的存在として学び、成長してもっと愛と思いやりを深め、人生のバランスと調和を達成して、心の平和をいつも感じるようになるために生まれて来たのです。ごく少数の例外を除いて、私達は有名な超能力者になるために、ここに生まれたわけではありません。霊的な道を進むにつれ、そうした能力が増すこともあります。でも、それは目的ではありません。そうした力は道を豊かにし、小道に何条かの光を投げかけるでしょう。でも、それ自体が目的ではありません。何年か前、私は仏陀とその弟子の話を聞きました。ある日、彼らは静かな庭園で瞑想をしていました。すると、弟子の一人が深い瞑想状態で、空中浮揚し始めました。地面から自分の体が浮き上がるのを感じて、彼はとても興奮し、自分の偉業を誇らしく思いました。彼は瞑想からさめると同時に、地面に落ちました。そして立ち上がると、仏陀のそばに行きました。
 「私は空中浮揚をマスターしました」と弟子は言いました。
 「それは良い」と仏陀は答えました。「だが、それに瞑想の邪魔をさせてはいけない」
 8 向う側の精霊と交信できる人達がいます。どのようにあなたがその方法やメカニズムを解釈しようと、何かとてもリアルで強力なことが起きているのです。でも、誰かが亡くなって霊体に戻ったからといって、すぐにすばらしい知恵がその人に与えられるわけではありません。同じことは霊的ガイドや守護霊についても言えます。無知で愚かな霊から、真にすぐれたマスターまで、いくつものレベルがあるのです。その違いを見分けるのがとても大切です。誰かが愚かで無知な霊をチャネルしている時に、どうして、言われたことを真面目に聞く必要があるのですか?
 どうすれば見分けることができるのでしょうか? やはり、あなた自身の直観を使って下さい。愛のこもった内容やメッセージの正確さによって、高いレベルの精霊であるかどうか見分けられます。高いレベルの精霊は、その体験が確かなものであるのを証明するために、ごく個人的な事柄に言及することがよくあります。
 9 霊媒は向う側からのメッセージを、シンボル、寓話、ビジョンなどの形で受け取ることがあります。この部分はとても正確な場合が多いのですが、シンボルを解釈したり、意味づける時に、霊媒はメッセージを歪曲しがちです。霊媒の解釈は誤解を招いたり、不正確であったりする可能性があります。例えば、霊媒がバラ(ローズ)の花に気がついて、クライアントに、「庭がありますか?」とか、「花は好きですか?」などと質問したとします。クライアントはとても混乱する可能性があります。実は、そのイメージは、クライアントの亡くなったローズという名前の祖母に関するものかもしれないのです。理想としては、霊媒は自分が見たものを、ただ説明するだけにすべきです。「ローズはあなたにとって、何を意味していますか?」と質問すべきなのです。
 メッセージが言葉の形で受け取られる時は、雑音のひどいラジオを聞いている時のように、霊媒がはっきり聞き取れないことがあります。こうした状態では、言葉が誤って解釈されかねません。交信している精霊に向って、霊媒がしばしば「イエスかノーか」の質問をするのは、そのためなのです。その答えによって、受け取ったシグナルを正確に読み、解釈しているかどうか、わかるのです。
 10 すぐれた超能力者や霊媒は、私達を非常に助けてくれます。特に、向う側の世界をかいま見せ、亡くなった人からのメッセージを私達に届けてくれる時は、有難い存在です。彼らを通して、私達は死後の生活の現実、不滅の魂、家族や友人との再会のチャンスなどを、体験できるのです。彼らは私達に、人生の生き方、価値観、大切なことと大切でないことなどについて、指標を与えてくれます。しかし究極的には、私達はこうしたことを直接、自分自身の中で体験する必要があります。体験した時、私達は初めて本当に理解します。亡くなった愛する人々を直接、聞き、見、感じることができると、私達はその人とほんのしばらく離れているだけだとわかります。神聖なるものを喜びと共に体験できた時に、私達は古の聖人や神秘家達のように覚醒するのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.265-270

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 29-n[30-a] (ブラジルの霊能者セリアのリーディング =1=)

 私は会場の前のほうにすわっていました。人々は自分の名前を紙に書いて、かごの中に入れます。セリアはその紙を手に取り、もみくちゃにしてから、中を見ずにいくつかの名前を呼びました。自分の亡くなった知人や親類の名前が呼ばれたことに気がつくと、その人々はセリアがすわっている小さな演壇に近づきました。一人で近づく人もいれば、夫婦で、時には家族全員が出てゆく人達もいました。
 この人々の顔に浮かんだ感情や体で表現された言葉は、純粋で自然でした。あらゆる社会階層を含む八百人以上の人々が集まっていました。いつ自分が呼ばれるか、誰も知りませんでした。
 私はセリアほど、速いスピードで仕事をする人を見たことがありません。正確な名前、体の特徴や性格について、すべてが滝のように注ぎ込まれました。どのようにその人が死んだかを知っているだけでなく、彼女は亡くなった人の人生の個人的なひみつを、引き出すことができました。それを聞いて、家族はとてもなぐさめられていました。その小さくてか細い、六十五から七十歳くらいと思われる体からは想像のできない力を、彼女の言葉は発していました。彼女の身長は一メートル五〇センチもなく、ぜん息を抑えるために、吸入薬を必要としていました。
 なかでも次の二つの物語は感動的でした。セリアが男の人の名前を呼ぶと、彼の両親姉妹が演壇のそばにやって来ました。セリアがその若者が死んだひどい自動車事故を鮮明に描写している間、一家は震えていました。セリアは家族に、その若者は今は元気であり、愛をみんなに送っている、それに一人きりではないと伝えました。その自動車に乗っていた他の二人の若者も、彼と一緒に死んでいました。セリアがさらに二つの名前を呼ぶと、他の二人の犠牲者の家族が演壇に近づきました。亡くなった若者の一人の父親は、直立して少しよそよそしい感じで、他の人達の後ろに立っていました。彼は気持ちを抑えようと闘っていました。他の人達は泣き崩れて、お互いに抱き合っていました。
 セリアは、みんなと離れている男の妻に向って言いました。
 「そんなに罪悪感を感じるのはやめなさい。みんな、今は魂になって元気なのですよ」この女性の息子が車を運転していて、その事故に責任があったために、この母親は特にたまらなく感じていたのでした。
 「三人は愛をあなた方に送っています」とセリアは続けました。それからさらに、個人的な事柄をいろいろと伝えました。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.279-280

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 29-o[30-b] (ブラジルの霊能者セリアのリーディング =2=)

 そのあと、セリアは他の人達の後ろに立っている頑な男性をじっと見つめました。彼女は演壇の上の小さな机の後ろに立ちました。他の人達は床の上に震えて立っていましたが、彼女の頭の高さは、他の人と変わりありませんでした。彼女はその男性をもっとはっきり見たかったのです。
 「あなたの息子は私に、あなたが今起きていることを受け入れられずにいる、そしてあなたがエンジニアであるのが、それをもっと難しくしている、と言っていますよ」その男性はこの言葉が正確であることを認めて、うなずきました。
 「息子さんは、もうカーペットのことを言うのはやめていい、と言っています。もう、それは重要ではありません」
 この瞬間、その男性は妻を抱きしめて、泣き崩れました。他の人は知らなかったのですが、彼と妻はある部屋のカーペットについて、ずっと言い争っていたのでした。父親はこのカーペットのほこりが、息子のアレルギーとぜん息の発作の原因だと主張しました。でも彼の妻は、大好きなカーペットのせいではないと言って、それを捨てようとはしなかったのでした。
 この非常に個人的な性質の話が、エンジニアの知性を打ち破って、彼の心に達したのです。彼はもはや、自分が体験していることを否定できませんでした。そして妻をしっかり抱きしめて、二人で泣きじゃくっていました。息子はまだ魂として生きている、私達の本質は体ではなく、決して死ぬことはないと、わかったのでした。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.280-281

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 29-p[30-c] (ブラジルの霊能者セリアのリーディング =3=)

 六十か七十人のリーディングが終ったあと、セリアは休憩を取りました。十人ほどの人々と一緒に、私は小さな部屋へと通されました。セリアはいすにすわって休んでいました。私は彼女に、輪廻転生や他の霊的なテーマについて講演をし、本を書いている有名なアメリカの医者だとして、紹介されました。私の仕事について彼女が質問した内容から察すると、セリアが私のことも、私の本のことも知らないのは確かでした。彼女は私の仕事を祝福し、私は彼女の能力を賞讃しました。そして、無条件の愛だけが大切であるという点で意見の一致をみました。
 突然、声も声の調子も変えずに、彼女は私にメッセージを伝え始めました。
 「あなたの息子さん、アダムがここにいて、彼の心臓は今は正しい位置になっていると、あなたに知って欲しいと言っています。彼は弟のジョーダンと、あなたのお父さんと同じ名前の妹を見守っています。また、お母さんのキヤロリーに愛を送っています。仕事を通してあなたに平和と静けさをもたらすために、彼の死は大切だったのです」
 ずっと前に亡くなっているキャロルの父とおじの二人だけが、彼女の名前をキヤロリーと発音していました。二人にとって、それが彼女の愛称だったのです。
 セリアの声の調子が少し変わり、もっと真剣になりました。
 「あなたの霊的な仕事は正しい仕事です。正しくて、すぐれています。自信を失ってはいけません。続けなさい。この仕事は、あらゆる所を助けています。向う側の世界をも助けているのです。これはもっと大きくなってゆくでしょう」
 セリアの言葉が私の心と胸にしみ入ると同時に、私は十七年前のキャサリンのメッセージと、感動的で私の人生を変えてしまった、私の父と息子のアダムからのメッセージを思い出していました。そして十七年後、またしても寒気が私の体を走り抜けました。
 セリアが私や家族のことを何一つ知らず、私の本も読んでいないことを、私は知っていました。彼女の言葉の正確さに、私は鳥肌が立ちました。
 あれから十七年もたつのに、私はまだ「奇跡」を当たり前だとは思っていません。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
    PHP研究所、2001年、pp.282-284

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 29-q[30-d] (ジェームズ・ヴァン・プラグのリーディング =1=)

 小さな会議室は百五十人の人で一杯でした。そして霊媒のジェームズ・ヴァン・プラグが亡くなった人からの情報を伝える一言一言に、みんな聞き入っていました。どんな懐疑的な人でも、愛する人が生き続けている証拠を欲しがっている人々に彼が伝えるごく些細な事柄の正確さに、驚かずにはいられなかったでしょう。メッセージを受け取った人々は、その情報が正確であることを認めていました。その情報が個人的なものであればあるほど、私達はみなびっくりし、感動しました。
 キャロルと私は部屋の真ん中より少し後ろ寄りにすわっていました。どうしてジェームズがあんなに細かいことまでわかるのか、私は頭で理解できずにいました。「彼らが私に話すのです」というのが、いつも彼の答えでした。
 私の左隣りに、三十代半ばに見える女性がいました。ジェームズが男性の名前を告げると、彼女の左隣りにいた年配の女性が、震えながらいすから立ち上がりました。「私の母です」と私の隣りの女性が私に打ち明けました。
 ある人々が「証拠になるもの」と呼んでいる確認できる事柄が、ジェームズの口からその六十代の女性に向って、流れるように飛び出していました。
 「ええ……はい……ええ、はい!」彼女は答え続けました。その手は固く握りしめられていました。彼女の足はふらついていました。
 「彼はバラの面倒を見てくれてありがとうと言っています」とジェームズは続けました。
 「あなたが彼への愛からバラの面倒を見ていることを知っています。そして彼の愛をあなたに返しています」年配の女性はうなずき、涙が目から溢れていました。
 「それと、犬のことはあまり心配しないようにしなさい」とジェームズはユーモアをこめて、謎めかして言いました。
 彼女の娘が私に説明してくれました。「母は父のバラ園の手入れをしています。そうするように、駆り立てられているみたいです。そして、私達の犬が走り廻って庭をだめにしないかと、とても気にしているのです。本当にすごいですね!」彼女の目にも涙が溢れていました。この出来事に感動して、私はいくらかでも客観性と距離を保つのが難しいほどでした。
 すぐに、ジェームズは全員を泣かせてしまいました。
 「ここに彼のものを何か持って来てくれてありがとうと、彼は言っています」と言って、ジェームズはしばらく無言でいました。「それは彼の指輪です。彼が出て来るチャンスを多くするために、あなたはそれをここに持って来たのです」
 ジェームズが言い終ると、その女性はゆっくりと左腕を伸ばして、リーディングの間中、ずっと握りしめていた左手を開きました。その手の中には、彼女の夫の指輪がありました。その瞬間まで、彼女の二席横にいた私でさえ、それに気づいていませんでした。部屋の中にいる全員が深く感動しました。輝くようなほほ笑みが、老婦人の顔に広がりました。夫が自分と話をしにここまで来ているのを、彼女は知ったのでした。
 「母はあの指輪を持ち歩くことは絶対にありませんでした」私の物問いたそうな様子に彼女の娘が答えました。「何か役に立てばと思って、この会場に持って来たのです。とても役に立ったと思います」彼女のほおを、静かに涙が流れ落ちていました。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.292-294

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 29-r[30-e] (ジェームズ・ヴァン・プラグのリーディング =2=)

 フロリダ州フォートローダーデールのホテルに集まった六百人近くの人々を前にして、ジェームズはまた、参加者の中の特定の人々に向って話すように、「指示され」ました。七歳の娘を、白血病で亡くして悲しみに沈んでいる夫婦をジェームズが助ける様子を、私はそこで見ていました。
 「彼女は愛を送っています。そしておもちゃや人形やユニコーンの間に、彼女を置いていてくれることを、とても感謝しています」
 その時はそれが何の話か、私にはわかりませんでしたが、若い夫婦はすぐに反応を示しました。感動に震えながら、二人は娘を火葬にしたと説明しました。彼女の遺灰を入れた箱は、人形やおもちゃに囲まれて、彼女の寝室に置かれていたのです。ベッドのシーツと枕カバーは彼女のお気に入りだったユニコーンの柄がついたものでした。
 ジェームズはそれまで、この若い夫婦と会ったことも話したこともありませんでした。それに、彼が次に差し向けられた人が、私の知り合いの若い女性であることも、彼は知りませんでした。ジェームズはカリフォルニアから着いたばかりで、その女性と会ったことはありませんでした。
 「デイビッドがここにいます……デイビッド、どなたかの息子さんで、亡くなって今は霊になっています」とジェームズは始めました。
 二、三人の女性が立ち上がりました。デイビッドという名前は、珍しくないからです。でも、私の知人の若い女性は立ち上がりませんでした。彼女には子供がいません。彼女の夫の弟はデイビッドという名前でしたが、二年前、急に亡くなりました。でもその時はまだ、彼女が思い当たるほど、情報は特定されていなかったのです。
 「誰かパイロットはいますか?」その時、ジェームズがたずねました。「彼はパイロットのことを私に話しています。デイビッドと関係のあるパイロットの方です」
 立っていた女性達はみな腰をおろし、そのかわりに私の知人が震えながら立ち上がりました。
 「私には、デイビッドがいます」と彼女は言いました。「彼は私の義理の弟、夫の弟です。そして、二年前に亡くなりました。彼の母はパイロットです。飛行機で飛んでいます」
 やっと相手が見つかって、ジェームズは満足した様子でした。
 「彼は愛を彼女にあげたがっています」とジェームズは言いました。それから、誰かの声に耳を傾けるかのように、彼は上を見上げ、次に横を向きました。若い女性に視線を戻すと、今度は彼女の頭の上を見上げました。
 「赤いナイフがあなたの頭の上に見えます」と彼は彼女に言いました。「誰かがこのナイフを見て、きれいにしなければ、と考えているのが見えます」
 その女性は赤いナイフのことは何も知りませんでした。彼女も夫も、そんなナイフは持っていませんでした。彼女はこの情報を確認できませんでした。
 「覚えておいて下さい」とジェームズは言いました。そしてすぐに、次の「知らない人」に移りました。この会場にいる人はみな、彼にとっては「知らない人」だったのです。
 二、三日後、私はその若い女性と話しました。「こんな話、信じないでしょうね」と彼女は私に言いました。
 ワークショップが終って家に帰ると、彼女はペンシルバニアに住んでいる義理の母に電話をかけました。そして、義理の母、つまりデイビッドの母親に、ワークショップやジェームズのことを何も言わずに、質問を一つだけしました。
 「赤いナイフに何か思い当たることがありますか?」
 「あなたがそんな質問をするとは、おかしいわね」と義理の母は言いました。「昨日(ワークショップの前日)地下室を掃除していて、釣りの道具を動かしたの。デイビッドの古いスイス製のナイフが見えたので手に取ったのよ。このナイフをきれいにしなければ、と思ったのを覚えているわ」
 ワークショップの前日に赤いナイフを手にして、それをきれいにしなければならないと思った母親の気持ちに、ジェームズは気づいたのでした。参加者の中にいた若い女性は、このナイフも母親が思ったことも、まったく知りませんでした。しかも、これは一六〇〇キロ以上離れた所の地下室で起こったのでした。
 スイス製のナイフ、パイロット、ユニコーンの話は、偶然の一致や普遍性の一つと言うには、あまりにも特殊すぎます。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.294-297

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 29-s[30-f] (英国の霊能者ローズマリー・アルテアのリーディング)

 一九九七年八月末、私達はモーリー・ポヴイツチ・ショーの観客にまじってすわり、有名なイギリスのヒーラーであるローズマリー・アルテアが、愛する人を失って悲しみに沈んでいる人々に向って、とても個人的な情報を与えてゆく様子を見ていました。キャロルと私はニューヨークを訪問中で、その日の前日、私の出版エージェントであるジョニ・エバンスに挨拶をしに行きました。ジョニはローズマリーのエージェントでもあります。彼女は急に思いついて、ショーに私達を誘ってくれたのでした。ローズマリーは私達が行くのを知りませんでした。
 セリアやジェームズ・ヴアン・プラグと同様に、『鷹とバラ』の著者であるローズマリーは、向う側からのメッセージを伝える技術に熟達しています。自分の能力を世界のために使おうと、彼女はローズマリー・アルテア・ヒーラー協会、RAAHという非営利団体をイギリスで設立しています。私は彼女の本を楽しんで読み、テレビで彼女を見たこともありましたが、ローズマリー本人を見るのはこれが初めてのチャンスでした。正確ですぐれた超能力者はとても少ないので、私はこの機会に飛びつきました。
 残念なことに、アメリカのテレビでは、すべてが試しになってしまいます。ローズマリーは、まったく初めて会い、その人の人生について何一つ知らない人々の愛する故人について、正確な情報を伝えるように要求されていました。それも、スタジオの観客の前で行なって、それがすべてテレビに映るのです。
 プレッシャーで大変だろう、と私は思いました。こんな気の散る状態ではない所で、彼女は個人的にその人々と会うべきです。それでも、ローズマリーはそのやり方で大丈夫な様子でした。そして、テレビは人々の自然な反応を捉えようとしているのがわかりました。心の中で、私は彼女がこうした邪魔にもかかわらず、うまくやるように祈りました。これでは、彼女の能力の公平な科学的評価にはなりません。
 ローズマリーはこうした障害をすべて克服して、驚くほどの正確さで次から次へと、悲しんでいる家族に情報を伝えました。彼女がもたらしたなぐさめと希望、そして安堵は、誰の目にも明らかでした。観客全員がこの感動的で劇的な体験にあやかったのでした。
 私はローズマリーと一緒にステージにいる人々のうち、二人を知っていました。ラルフとキャシーのロビンソン夫妻は、その前年に行なわれた私のセミナーの一つに参加し、私達はかなり長い時間、二人の息子、ライアンの悲劇的な死について、語り合って過しました。ライアンは友人によって、誤って撃ち殺されたのでした。
 ライアンと彼の友人は、大人が監視していなかった十代の若者達のパーティーで、ロシアの拳銃を見つけました。拳銃には弾が入っていないと彼らは思い込みました。その拳銃は安全装置をかけたままで、引金を引いて、カチッと音をさせることができたからです。二人は何回も引金を引きましたが、一回も弾は発射しませんでした。でもなぜか、安全装置が知らない間にはずれたのです。弾倉には一つだけ、銃弾が入っていました。そして寒い十月の夜、十六歳の誕生日の直前に、ライアンは頭に銃弾を受けて死んだのでした。
 ロビンソン夫妻の世界は崩壊しました。二人は悲しみでやつれ果てました。
 私はライアンの死と彼の短い生涯について、かなり詳しく知っていました。何一つそれについて知らないローズマリーが、二人の方を見ました。
 「バン!」と彼女は大声で言いました。「彼はずっと、バン!と言い続けています」そして、この恐ろしい事故当時の周囲のにおいまで、描き出しました。そしてさらに、沢山の細かい事実を伝えたのでした。
 ライアンの両親は二人とも教養のある人達でしたが、とても感動している様子でした。ローズマリーとの出会いは、私が彼らに対してできたことよりも、ずっと二人を癒すために役立っていました。
 「彼はとても腕白でおちゃめね」とローズマリーがつけ加えました。ライアンはまさにその通りの少年でした。彼の母は心から同意して、うなずきました。
 二、三日後、ラルフが私に手紙をくれました。
 「制作陣がローズマリーに私達がライアンを亡くしたことを教えたか、または彼女がすごいか、どちらかでしょう。彼女は私達に対して、とても丁寧でした。ショーが始まる前に待合室にやって来て、私達一人ひとりと紹介し合って、どのようなことをするのか、教えてくれました。ショーの後でも、再び私達と一緒に過して、全員が満足できるように気を遣っていました。ともかく、これは大変に価値のある体験でした。二人とも参加したことをとても喜んでいます」
 ライアンの死とその後の体験で、ロビンソン夫妻は霊的に大きく成長しました。二人は、あとに遺された家族をサポートするための、全国組織を援助するプログラムを作りつつあります。
 私にとって、偶然はありません。ロビンソン夫妻は沢山の人々に愛を与えてきました。そして今、ローズマリーが何かを二人に返すことができたのです。そして私はそのプロセスのすべてを、目撃できたのでした。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.298-301


 29-t[30-g] (誰にでも霊界からのメッセージは受け取れる)

 同じショーの間に、ローズマリーは「聞く」ということについて、すばらしい話をしました。私達はメッセージが欲しい、しるしが欲しい、交信したいと、頼んで頼んで頼んでばかりいる、と彼女は言いました。でも、私達はじっと耳を傾ける時間をめったにとろうとはしません。耳を傾けなくて、どうして聞くことができるのでしょうか? 聞くためには、時間がかかるのです。辛抱強くなければなりません。そして、特に、「偶然の一致」のメッセージを注意して聞く必要があります。
 今すぐ、しるしが欲しい、メッセージを欲しいと思うのは、自然で当たり前の望みです。でも、聞くことは技術であり、その技術をみがくには時間がかかります。
 心を静め、内へと入り、耳を傾ける時間を作り、心を傾けるスペースを創造する練習をしていれば、あなたにも聞こえて来るはずです。そして、しるしを見、メッセージを受け取るようになります。それと同時に、あなたは忍耐という能力も発達させることができるのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.302

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 29-u (自分でも知らずに霊媒としての真実を伝えていた私)

 バラ園と夫の指輪を持っていた老婦人に、癒しのメッセージを届ける様子を目撃するよりずっと前に、私はジェームズ・ヴァン・プラグをニューオリンズのワークショップで見ました。彼は亡くなった人について、遺族や友人に正確な情報を伝えていました。四百人もの人々で部屋は一杯でした。ジェームズはイメージやメッセージを受け取ると、それを全員に伝えます。さらに二、三の情報を彼が伝えると、誰かが立ち上がって、そのメッセージが正確であることを確認するのでした。
私は後ろの方にすわって、秘かにジェームズと同じようにやってみました。彼の質問やコメントやメッセージを予測しようとしたのですが、ちっとも当たりませんでした。彼は人々を誘導しているのだろうか? 彼は一般的な話をするので、大勢の参加者の中には、誰か一人ぐらいはその言葉に合致する人がいるのだろうか? それとも人の表情や態度を読むのが、異常にうまいのだろうか?
 彼はこの情報や知識を参加者以外の所から得て、人々の悲しみを癒す手助けをしていたのです。なるほど、この世界には、こうした情報を引き出す能力のある人々が、何人かはいるのだ、と私は思いました。私がその一人ではないことは、確実でした。
 二週間後、私はフロリダ州ウエストパームビーチで、七百人の参加者に向けて、霊性と過去生退行のワークショップを開きました。参加者の質問に答えて、私は例をあげて、霊媒の仕事を説明することにしました。
「霊媒はこんな風にやっています」その情景を想像しながら、私は言いました。
「ロバートという名前の若者に気づきました。彼は十九歳か二十歳で、自動車事故で死にました。自分は元気だ、大丈夫だ、そして、あなたをとても愛している、自分のためにそんなに悲しまないで欲しいと、彼はあなたに伝えたがっています。彼は元気で、今もあなたのそばにいます。また、彼の部屋のクローゼットにかかっている黒の革ジャンパーを、ゲイリーにあげて欲しいと、言っています」私はこの場面全体を、自分で創作して話しました。
 そしてすぐに、他の話題へと移りました。
 部屋の後ろの方にすわっていたキャロルは、こう思ったそうです。
「この話は、参加者の誰かに関係があるに違いないわ」
 ワークショップが終ったあとで私が本にサインをしていると、二人の女性が私に近づいて来ました。その内の一人は、涙で目をうるませていました。
「ロバートと自動車事故の話を、あなたはどこで知ったのですか?」と涙でうるんだ目をした女性がそっと質問しました。
 私は全部自分の作り話だと言いました。「いいえ、違います」と彼女は断固とした調子で答えました。「私の弟のロバートは、自動車事故で二十歳の時に亡くなりました。私達は彼のことを忘れられずにいます。彼のクローゼットにかかっていた黒い革ジャケットを、彼の弟のゲイリーにあげたばかりです。私は彼がそうして欲しいと思っているのを感じたのです」

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.317-319

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 29-v[30-w] (愛する人の生存を知って無上の喜びに包まれる)

 わたしのもとを訪れる人びとが神経質になっていても仕方ないと思います。おそらく交霊術者を相手にするのは初めての体験でしょうし、せいぜい何かの本を拾い読みしたとか、映画やテレビで生半可な解説を聞きかじったという程度で、それ以外に何も根拠がないのでしょうから。不安と期待で心が揺れ動く依頼人を相手にした場合、まず手始めに、霊はわたしだけでなく依頼人のエネルギーも利用するのだということを理解してもらわなければなりません。エネルギーは電流によく似ていると説明します。依頼人が神経質になっていれば、この電線を通じて波動や細波のようなものが伝わり、せっかくの霊の想念もわたしにはわけのわからないたわごとにしか聞こえません。依頼人が落ちつけば、その分だけ交信状態がよくなり、わたしも霊の思いを聞き取りやすくなります。なによりも重要なのは依頼人の信頼を得るということです。ほかの誰も知らないような事柄を話しだすと、彼らにもわたしが本物だとわかり、身構えていた固さが少しずつ取れてきます。そこで、わたしは先へ進み、霊界の扉を開けて依頼人を未知の領域へ案内するのです。
 交霊会は、人物の名前や特徴をわたしが“つかむ”ところから始まるかもしれません。あるいは、こんなふうにあっさりと始まる場合もあります。「あなたのお父さんがここに来ています。彼は心臓発作で死んだと言っています」という具合に。依頼人がこの情報と霊の存在を認めた瞬間、部屋のなかのエネルギーが一変します。再会が実現したのです。興奮の感情が室内を満たします。依頼人には心の変化だけでなく、肉体の変化も現われます― 目を見開き、口をあんぐりと開け、額から玉の汗が噴きだし、心臓の鼓動が速くなります。このころになると、依頼人はもっと話を聞きたくなり、霊に直接話しかけるようになります。こういう場合、わたしは少し自制して落ちついてくださいと頼まなければなりません。霊はわたしと意思の疎通をしようと懸命に努めていて、過度の興奮が伝わると悪影響をおよぼすからです。
 依頼人は上機嫌で浮かれるだけでなく、感情的になって、泣きだすこともよくあります。この涙は悲しみと歓喜と満足感と安堵が入り交じったものです。わたしがその人物特有の癖や声の抑揚を伝えると、依頼人は理屈抜きで実感するのです。愛する人は決して死んではいないのだ! さらに、霊が室内に送り込む“愛”を肌で感じ取ります。詳細なメッセージが次から次へと伝えられてくると、どんなに疑い深い人でも懐疑の念を棄て、希望に胸をときめかせるようになります。嘆き悲しんでいた人もやがて無上の喜びと至福と満足に包まれます。そのうえ、数々の証拠を含んだメッセージが、墓地の向こうにも世界が存在することを示す証しとなるのです。そして、すべての人びとに深い影響を残します。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.196-197

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 29-w[51-t] (心霊番組の霊能者と徐霊の問題点について)

 時たま私はテレビの心霊番組を見るが、テレビメディアが心霊問題まで格好の「見世物」にしていることに腹が立つよりも心配になってくる。心霊番組を作るのなら、霊魂や死後の世界についての真摯な探求心を持ってほしいものだ。そこに登場する霊能者なる人を私はインチキであるとはいわない。霊能はその人の波動によって千差万別であるからだ。波動の高い人は高い波動の世界まで見えるが、低い霊能者は低いものしか霊視出来ないといわれている。それはともかくとしてそれぞれのやり方で除霊が行われ、一件落着のように見えるが、本当は問題はそれで終るのではない。
 その時は除霊が成功したとしても、憑依されていた人自身の波動が高くならなければ、除かれた霊はまた戻ってくる。あるいは出て行った浮遊霊の後に別の浮遊霊がやってくる。体質が霊体質の人は特にその自覚が必要なのである。そのことを霊能者は声を大にしていわなければいけないと私は思う(あるいはいっていてもテレビ局が勝手に除去してしまうのかもしれないが)。

  佐藤愛子『私の遺言』新潮社、2002年、pp.254-255

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 29-x (心霊治療は霊的覚醒への扉を開くためにある)

  心霊治療は、実は、治るということが目的ではない。それは手段にすぎない。患者が私のもとを訪ねて来た時、その人は身体上の治療の必要性があると同時に、霊的矯正をも必要としている。神は、その病気という苦しい体験を通じて霊的なものに目覚めさせる手段を用意される。ただの説教では人間は、たとえ声がかれるほど説いて聞かせても、何一つ得心させることは出来ないものである。そこで病気という触媒を通して行われることがあるのである。
 苦痛と不自由を強いられ、医者から不治″の宣告を受けた病気を治してもらうことで、患者はそれまで気づかなかった力へ心の窓を開く。もっと知りたい気持になる。自分を癒やしてくれた力はいったい何なのかを知りたいと思う。かくして私がその人の霊的覚醒への扉を開いてあげたことになる。

  M.H.テスター『現代人の処方箋』近藤千雄訳、(潮文社、1988)p.28

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 29-y (いわば不治の病をかかえた人ばかりを相手にして)

 部屋にはこれといって宗教的な感じのする装飾はしていない。ロウソクを灯すこともしない。香を焚くわけでもない。聖歌を流すこともしない。むろん法衣もなければ祭壇もない。自宅の場合は友人が訪ねてきた時と何ら変わりはないし、勤務先の場合は一人の顧客を接待するのと少しも変わらない。
 私は患者に向ってこう説明する。私は心霊治療家であって、一般の医師の資格はもっていない。また皆さんから依頼されるままに治療を施すのであって、これを職業としてやっているのではない。従って、治療費は一銭もいただかない。しかし同時に、一般の医者のように治療に関して何一つ保証はうけあえないから、治るか治らないか試してみるくらいの気持ちでいてほしい。治れば結構なことで私もうれしいが、治らなくても元々と思っていただきたい。どうしても謝礼がしたいというのでしたら、そこにある献金箱へ入れてくださればよい。慈善事業への寄付に使用させていただきます、といった内容である。
 こんなそっけない態度は治療を施す立場の人間としての温みと同情に欠けるかの印象を与えるかも知れないが、実は私のような心霊治療家のところへ来る人の大半は現代医学に見放された、いわば不治の病をかかえた人ばかりである。鼻かぜやハシカなどでやってくる人はいない。方々の医者をあるきまわり、さんざんいじくられ、薬をあびるほど飲まされ、あげくの果てに「これはあなたの持病と思って我慢していただくほかありません」と冷たくあしらわれた人たちなのである。
 つまり最後のたのみとして、私のもとに来ているのである。その中には、かつて私が治してあげた人から聞いてきた人もいる。あるいはかつて私自身が心霊治療によって奇蹟的に救われた体験を綴った拙著『The Healing Touch』を読んでかけつける人もいる。いずれにせよ、もはやカッコいい話やお上手などで動かされる人たちではない。私はそういう人に、縁あって私のもとに神が連れてこられたのだという真剣な気持ちで接するのである。

    M.H.テスター『背後霊の不思議』(近藤千雄訳)
      潮文社、2010 、pp.54-55

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 29-z (私の足もとにしがみついて思い切り泣いた患者)

 さて患者の病状を聞き私の考えを話してから、いよいよ治療にかかる。まず上着を取ってもらい、背もたれのない丸いイスに腰かけていただく。次に私の右手をひたいに左手をエリ首のところに当てがう。
 私は音楽が好きなので、患者の気分をほぐす目的で音楽を流すこともある。決して宗教的ムードを出すためではない。その証拠に私がかける音楽はモダンジャズからクラシックまで種々さまざまである。
 さて、そうしたくつろいだムードの中で私自身は、実は通常意識から潜在意識へとスイッチを切り換えている。治療をやり始めの頃はこれに十分から十五分もかかったが、今では二、三分でできる。その心理的操作の感覚は言葉では説明しにくいが、強いて言えば、うつらうつらと白昼夢を見ているような心地とでも言えようか。
 もっとも、決して夢を見ているわけではない。通常意識が空っぽになり、浅い入神状態にあるのだと思われる。その間は部屋の様子や患者の存在を忘れており、やがてその状態から覚めた時、患者を見て一度どこかで会ったような人だなどと、錯覚をおぼえることがある。
 私がそうやって通常意識を休めている間に、私の身体を伝って何やら不思議なエネルギーが流れるのがわかる。その様子はとても言葉では説明できそうにない。また私から時間の観念が消え失せてしまう。治療に何分かかったか、さっぱりわからない。時として右手に振動を感じることがあり、熱を覚えることもある。そんな時は全身が熱くなる。ネクタイをゆるめ、シャツをめくり上げるのはそのためである。
 こうして右手をひたいに左手をエリ首のところに当てた恰好でしばらくするうちに、私の手はその人の一ばん悪い箇所にひとりでに移動しはじめる。悪い箇所とはかならずしも痛い箇所ということにはならない。ヘルニアなどの場合、座骨神経を圧迫して足先がしびれることがあり、患者はしきりにそのしびれを口にされるが、私の手はその根本原因であるところの腰の部分に行く。
 治療に要する時間は正味十分程度である。病状を聞いたり入神状態に入るに要する時間等を入れると三十分ほどにもなるであろうが、霊的な治療は入神中のほぼ十分間に行われるようである。
 前に述べたように、私は治療の前にもあとにも何一つ有難いお話はしない。にもかかわらず、大ていの患者は治療のあと感激の涙を流す。男女の別、地位の上下には関係ない。今でも印象に残っている例としては、五十歳位の教養豊かな男性が私の足もとにしがみついて思い切り泣いたことがある。女性などは顔をクシャクシャにしてしまう。
 そんなわけで、前もってティッシュペーパーを山ほど用意することにしている。むろん中には泣かない人もいる。ただじっとすわって心の静寂の中に浸っている人もいる。

    M.H.テスター『背後霊の不思議』(近藤千雄訳)
      潮文社、2010 、pp.56-58

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 29-za (宇宙に充満している壮大なパワーが病気を治してくれる)

 われわれの身辺には生命力が充満している。宇宙エネルギーと呼んでもいいし、宗教的に神と呼んでもよい。自然界を研究すればするほど、この生命力のすばらしさに驚嘆せずにはいられなくなる。雪の花びらを顕微鏡でのぞいても、あるいは夜空を望遠鏡でのぞいても、その緻密さ、その広大さ、そして何よりもその美しさに心をうたれない人はいないはずである。
 ダイヤモンドの構造の美事さ、野道に咲く花の可憐さ、生体の機能の不思議さ、水に泳ぐ魚、空に飛ぶ鳥、四季のうつりかわり、汐の干満、人間の脳の複雑さ、赤ん坊の完璧さ、どれ一つとってみてもその神秘性に感嘆せずにはいられない。つまり、そこに創造主神〃の存在を意識せずにはいられないのである。
 神とは要するに宇宙のデザイナーのことである。完璧なデザインがあるからには、それを創り出したデザイナーがいるはずである。そのデザインたるや単なる机上の青写真ではない。一糸乱れぬ因果律に従った創造があり発展がある。その創造発展を推進していく強大なパワーがまた存在する。それが宇宙に充満しており、それが病気を治してくれるのである。

    M.H.テスター『背後霊の不思議』(近藤千雄訳)
      潮文社、2010 、pp.59-60

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 29-zb (心霊治療家はまわりに遍在する生命力を患者に注入する)

 生命力は目に見えるものではない。感受するものである。要は、それを感受する装置の問題である。
 仮りに浦島太郎が竜宮からこの現代に帰ってきたとしよう。誰かが音楽の話をする。浦島太郎はその音楽とやらを見せてくれないかと言うであろう。あなただったらこの際どう説明するだろうか。
 私だったらポケットからトランジスタラジオを取り出し、「いいですか、音楽というのは目に見えるものではなくて耳で聞くものなのです。音楽はわたしたちの身のまわりに常に存在するのですが、普通の耳では聞けません。それを受信する特殊な装置がいるのです。それがこれです。このボタンを押すと装置がはたらいて音楽を受信して、私たちの耳に運んでくれるのです。ホラ、いいですか、いま聞こえてきますヨ」と。
 心霊治療家としての私はいわばこの受信装置のようなものである。まわりに遍在する生命力を受け入れて、その波長つまり強さ、電気でいえばボルトを調節して患者に注入するのである。その生命力が本質的にいかなるものかは私自身もよく知らない。それは電気というものがどんなものかよく知らずにいるのと同じである。知らなくてもいい。要はそれを正しく活用すればよいのである。
 もしも私が暗い部屋にいて、誰かになぜ電灯をつけないのかと聞かれ、「イヤ、この目で電気を見たこともないし知識もないもんだから」とでも答えようものなら、笑いものにされるであろう。電気の本質を知らなくても、スイッチを押すことさえ知っておれば事は足りるのである。

    M.H.テスター『背後霊の不思議』(近藤千雄訳)
      潮文社、2010、pp.60-62

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 29-zc (心霊治療には必ず霊魂が背後に控えていて指導に当っている)

 電気に相当するのが生命力であり、電気屋は治療家であり、指導する人は背後霊ということになる。
 背後霊と聞いて驚ろかれるかも知れないが、心霊治療にはかならず霊魂が背後に控えていて指導に当っている。スピリットが働きかけると、治療家は誰かが自分の肉体に侵入して自分自身がわきへ押しやられたような感じを受ける。私がはじめてそれを体験した時は異様な感じがしたが、しかし決して不自然〃なものではなかった。今では治療の一つの重要なプロセスとして自然に受け入れている。もっとも、治療家のすべてが同じプロセスをへるとは限らないが・・・・
 さて、そうした心霊治療能力を具えていても治療家自身にはその活用方法のすべてがわかっているわけではない。つまりこの病気はこうすればよいといった個々の治療法は治療家自身にはわからない。それはさっきの電気のたとえ話の中の電気屋のようなもので、部屋に電流が通じるようにしてあげるまでが彼の仕事で、その電気を何に使うかは関知するところではない。
 そこでその”無知”な治療家に代ってスピリットが有効な活用方法を考えるわけで、大てい複数のスピリットが指導に当る。私の場合は一人の指導者格のスピリットがいて、必要に応じて各分野の専門家をつれてくるようである。内科、外科、神経科、整形科等々、それぞれみな違う霊がいるらしい。もっとも私の方でいちいち存在を感知しているわけではない。時によってはまったく無意識のうちに終ることもある。
 患者の中には治療直後はなんの変化も感じなかったが二、三日後に目に見えて良くなったという人がいるが、こういう場合は私の背後霊が訪問して本人の知らぬうちに治療しているのである。

  M.H.テスター『背後霊の不思議』(近藤千雄訳)
    潮文社、2010 、pp.63-65

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 29-zd (週に何千人もの重症患者が心霊治療で完全に治癒している)

 さて同じ心霊治療でも、今まで説明したのとはまったく別のタイプの治療法がある。遠隔治療というのがそれである。つまり遠く離れた場所にいる患者に治療を施すのである。
 遠隔治療という言葉をはじめて聞いた時は私も疑問に思ったのであるから、読者が疑問に思われても不思議はない。例によってたとえ話でわかりやすく解説しよう。
 最近のオリンピックは宇宙中継されるようになったが、地球の裏側で行われている競技がどういう仕組みで画面に映るのであろうか。細かい専門的なことは別として、テレビカメラによって撮られた映像が分解されて宇宙衛星に送られ、そこから世界各地の中継所に送られ、そこで中継された電波を各家庭のアンテナがキャッチして画面に映し出すわけである。
 こうしたことはかつてのラジオ時代には想像も及ばなかったことであるが、それが今では現実となっている。しかも、われわれ人間自身が考え出したことなのである。自然法則の操り人形にすぎない人間でも、これだけのものを考え出した。ならば、この大宇宙を創造した神に遠隔治療くらいの芸当が出来ないはずはないではないか。要するに、私なら私という治療家を中継所として、治療エネルギーを患者に送るわけである。具体的に説明しよう。
 患者から一通の手紙が届く。差出人は一六〇キロ離れたところに住んでいる。寝たきりでお訪ねできないので、遠隔でお願いしますと書いてある。私はその手紙を両手でもって精神を統一する。すると、背後霊が私を通じて患者の存在位置と様態を察知する。続いて治療エネルギーを送る。といっても、患者の性格によっては、治療を受け入れる条件が整うまで待つこともある。
 いずれにせよ効果は確実に現われる。感謝状が週に数十通に及ぶことからもそれが察していただけると思う。一、二週間前までは一歩もベッドから離れられなかった人が、直接出向いて礼に来られることもある。私などはまだ数の少ない方である。
 治療家によっては、週に何百通もの礼状を受け取る人もいる。英国全土を合計すると、おそらく週に何千人もの重症患者が完全に治癒している計算になる。驚くべき事実である。
 念のために付言するが、遠隔治療は単なる祈りや気のせいで治っているのではない。治療家と背後霊との連繋のもとに行われる入念な施療の結果なのである。祈りも確かに威力をもっている。私はそれを否定するつもりはない。ただ心霊治療に関するかぎり祈りは必要でないし、むしろ治療を妨げることにもなりかねないことを指摘しておきたい。

    M.H.テスター『背後霊の不思議』(近藤千雄訳)
      潮文社、2010 、pp.39-41

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 29-ze (ミディアムのレベルにはピンからキリまである)

 「ミディアム」とはその名の示すとおり、死んで肉体を脱ぎ捨てた者と、まだ地上に残っている者とを中継する「媒体」であり、150年間以上、英国の数多くのスピリチュアル・チャーチで、そして世界各国で、霊から指導を得て遺族に死後の存続の証拠を伝え続ける作業が繰り広げられているのである。
 ミディアムのレベルはもちろんピンからキリまである。他の人間の諸行と同じで、スーパー・スターもいれば、ただのスターも、そしてあまり光らない蛍もいるであろう。アルバート・ベストやゴードン・スミスのように正確な名前、住所、出来事の詳細やその人物特有の個人的情報を挙げて人々を驚かせるミディアムもいる。
 同じミディアムでも時期によって輝きが違うということもある。またミディアムの調子が悪い日もあるが、受け手の態度にもその日のコミュニケーションの出来不出来が左右されることがある。腕を組み、椅子の背にもたれかかり、「驚かせてみろ」と不信に満ちた冷ややかな目つきで見すえられることのなんとやりにくいことだろう。(グラスゴー大学、アーチ・ロイ名誉教授「推薦の言葉」より)

    ゴードン・スミス『霊的世界からの癒し』(ノーマン・テイラー・邦子訳)
      徳間書店、2009、pp.13-14

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 29-zf (イギリスで最上級の評価を受けているミディアム)

 ゴードン・スミスは英国でmost accurate mediumと最上級のmostで評価されています。
 ミディアムのレベルの差は素質の差だけではありません。
 能力に甘んじてそこにとどまるか、あるいはメッセージをより正確に、より詳細に伝えるために、厳しい修行と精神力を必要とする切磋琢磨の道を選ぶか、そこが分かれ目のような気がします。
 霊との対話は私たちがこの世界で使用している言葉ではなく、「表象」、「感じ」「思い」で行われます。
 それらを的確にキャッチして、霊の言わんとするところを解釈し、それを受け手にできるだけ正確に伝達するという作業はミディアムの腕の見せどころでありましょう。
 高度な技術が要されますので、未熟なあるいは勉強不足のミディアムのデモンストレーションになりますと、「さあ?」「思いあたりません」「帰って家族に聞いてみます」というリアクションが多くなり、他の観客にとってもいたたまれない状況になってしまうことも珍しくありません。
 しかし、ゴードンのデモンストレーションでは「ノー」という言葉をほとんど聴いたことがありません。たまに聞くときでも受け手の思い違いだったりするのですが、そのときもゴードンは霊のいうことに全面的に信頼を寄せているので、いい直したり、変えたりすることは一切ありません。(「訳者あとがき」より)

  ゴードン・スミス『霊的世界からの癒し』(ノーマン・テイラー邦子訳)
        徳間書房、2009、pp.263-264

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 29-zg[59-e] (スピリチュアル・ヒーリングで劇的に病気が治った症例)

 『人は死なない』にはほとんど書きませんでしたが、すでにスピリチュアル・ヒーリングで劇的に病気が治った症例はいくつもあります。中国地方にいる某物理学者の方は、数年前にがんを患い、その後、腸閉塞を起こしたりして調子が悪かったそうですが、知人のヒーラーのところに行った途端、治ってしまったというのです。皮膚科でも取ったほうがいいと言われたがんが、ヒーリングを受けた一週間後、自然にポロッと落ちてしまったそうです。皮膚科の先生が相当驚いたそうですが、それは驚くのは無理もありません。
 そんな劇的な体験をしたのが物理学者だったものですから、ご自身も相当な感銘を受けたようで、次から次へと学校や物理学界で宣伝したそうです。
 他にもがんで手術をしようかと悩んでいたその先生の教え子の女子大生は、ヒーリング後にがんが消えてしまったそうで、当然がんが消えたその証拠も画像で残っているわけですが、その結果、彼女は手術しないで済みました。
  スピリチュアル・ヒーリングは、別に稀なことではありません。(矢作直樹)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.173-174)

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 29-zh (霊能者の力は様々で一概にはいえない)

 ここで注意しておきたいことは、霊能者といわれる人たちの霊視、霊聴、除霊、浄霊の方法、その力はさまざまで、どの人が正しく、どの人が間違っているとは一概にいえないということである。例えば「霊視」ひとつをとっても、霊能者それぞれに見える「角度」というものがあって、その角度から見る対象は必然的に違う。A霊能者はこの窓から向うの景色を見る。B霊能者はその隣りの窓から見る。それだけでも窓の大きさや角度によって見える景色が違う。霊視とはそういうものであるから、同一の意見がないのはやむを得ないということだ。
 「いいですか。霊視というものを頭から丸呑みに信じないで下さいよ。あくまで一つの情報として受け取って下さいよ」
 霊性世界の敷衍に努めておられた故中川昌蔵氏はくり返しそういわれた。
 あの世の情報には霊視のほかに、霊能者自身の守護霊が教える場合もある。従ってその守護霊の霊格の高低によって、霊能者の霊視にも高低がつくのは当然のことであろう。

     佐藤愛子『冥土のお客』光文社、2004、pp.72-73

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 29-zi (菩薩界からこの地上へ転生して来た人)

 相曽師とは違って中川師は能吏といった趣の、すべてに簡潔明晰な若々しい人物でした。相曽師より四歳ばかり年下で、その頃八十歳を越えておられたと思いますが、とてもそんな年には見えませんでした。
 師は大阪の家電販売会社の創設者として成功され、六十歳の時に後継者に会社を譲って「大自然の法則と心の波動を上げる」活動に入られたということでした。そのきっかけは、ある日突然発熱して原因不明のまま重篤になり、臨終を迎えるまでになったことが始まりです。「ご臨終です」という医師の声が聞こえた時、暫くして、師の耳に「この者の命は終った」という声が聞こえたということです。それから別の声が、「しかしこの者にはまだ使命が残っている」といい、がやがやと互いに意見をいい合っている様子でした。それを聞いて師は、忘れていたことを思い出したのです。師の魂は大自然の法則を教え、魂の向上をはかることを人々に教える使命と目的をもって地上に転生輪廻して来たのでした。六十年間、実業に没頭してそれをすっかり忘れていたことを思い出すと、身体が震えて跳ね起きていたといいます。すると病気の症状は全くなくなり、原因不明のまま退院をされました。そして、繁栄していた会社を人に譲って、与えられた使命を全うする生涯に入られたのでした。
 その時、師は守護霊から二つの約束を求められました。第一は組織を作らないこと。第二はこの運動で報酬を得ないことでした。
 「わたしは菩薩界から転生して来ておりましてね」
 中川師は淡々といわれました。まるで、「わたしは大阪から来ましてね」とでもいう時のように。我々は死ぬと、この三次元から四次元へ行きます。まず幽界へ行き、順当に行けばそこから霊界に向うのですが、霊界に入る前に精霊界という所で波動の調整をする。三次元世界で身についた欲望や情念を浄化する修行をするのです。霊界の上には六次元(神界)があり、神界の上、七次元が菩薩界です(菩薩界からこの世に来た方にマザー・テレサがおられます、と中川師はいわれました)。菩薩界の上、八次元世界は如来界です。如来界から更に上へ、九次元、十次元と連らなっているのだが、それ以上は我々にはもうわかりません。行き着く所は「天地創造神」になるのだろうけれど、そこまでは私なんぞにはわからんですな、と師はあっけらかんといわれるのでした。

     佐藤愛子『冥界からの電話』新潮社、2018、pp.136-138

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 29-zj (霊能者に対する信頼によって霊界の存在を確信する)

 その日に(公開カウンセリングで)選んだなかに、二十代の女性からのご相談がありました。お名前を呼び、ステージに上がるよう声をかけたのですが、実は一緒に会場に来ていたお母さんに、亡きご主人からのメッセージが届いていたのです。そこで、お母さんにも壇上に上がっていただきました。娘さんに抱きかかえられるようにしてよろよろと歩いていらした時点で、すでにお母さんは泣き崩れていたのです。
 ご主人はずいぶん前に病気で亡くなったようです。夫婦の仲はとてもよかったらしく、死が近づくとご主人は、奥さんに「いっしょに死んでくれ」と言ったそうです。けれども奥さんは「子どもたちがいるから死ねない」と答え、ご主人の死後も女手ひとつで必死になって子どもたちを育て上げたとのこと。
 しかし奥さんの心には、ご主人とのやりとりがずっとトラウマとして残っていたようで、「私は生きていてはいけなかったのか」とずっと悩んでおられたのです。とても重いお悩みです。
 ご主人の霊はちゃんとステージに来ていて、私にこう打ち明けてくれました。
 自分はもうすぐ死ぬという心細さから、妻に甘えてそんなことを言ってしまった。あの世にいるいまは「いっしょに死んでほしかった」などとは思っていない。あの言葉を後悔している――。
 そうしたご主人のメッセージの一つひとつを奥さんに伝えていきました。
 このとき大事なのは、霊視によって視えた事実、たとえば「ご主人はこういう性格だったでしょう?」、「いつもこういう言葉が口ぐせだったでしょう?」といった、家族にしか知り得ないような事実を織り交ぜることです。私はこれを絶対に欠かしません。なぜなら、それこそがスピリチュアル・カウンセリングの核心だと思うからです。
 奥さんは、私が伝えるご主人からのメッセージにより「生きていてよかったんだ」という安堵を得るでしょう。しかしそれだけでは不十分で、同時に「あ、この人には自分の真実が視えているんだ」という信頼を持ってもらうことが大切なのです。
 なぜならその信頼によって、あの世の存在や、霊的真理に対する確信が、心のなかで揺るぎないものとなるからです。
 たましいは永遠。
 亡くなった人はいまも生きて、そばで見守っている。
 いまある苦労は、たましいの幸せのため。
 実感をともないながらそう確信できれば、それは相談者にとって生涯の宝となるのです。
 奥さんは私の言葉に「そうです、そのとおりです」と言って泣くばかりでした。しかしその涙はしだいに感激の涙に変わり、ずっと心にわだかまっていた罪悪感もすっかり浄化されていくのがわかりました。
 ご主人のほうも、思い悩む奥さんをずっと心配していたようです。なんとかして奥さんに「もう大丈夫だよ。ごめんね」と伝えなければと思い、私を媒体にしたのでしょう。
 亡くなった人からのメッセージをご遺族にお伝えできるのは、スピリチュアル・カウンセラーにしかできないことです。こういう出来事があると、私自身もスピリチュアル・カウンセリングのすばらしさを再認識しますし、デモンストレーションとしてだけでも、今後もぜひ続けなければという思いを新たにするのです。

     江原啓之『人生に無駄はない』新潮社、2008,pp.124-126

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 29-zk (人々のために尽くして生きるのが霊能者の道である)

 自分には人に見えないものが見えてしまい、人に聞こえないものが聞こえてしまうと、信じられないような不思議な可能性が自分に具わっているのではないかと誰だって増上慢にもなります。自分にだけ不思議な特別な力が授かったとなれば、自分は普通の人間の中から御仏に特に選ばれた高級人間なのかと嬉しくもなります。
 が、やがて、自分が選ばれたのは御仏の深慮遠謀であって、自分はこの地上の人々に霊的真理を普及理解せしめるという大きな役目をおわされた一つの道具に過ぎないということがよくわかって来るのです。
 しかし、この役目は実際に従事してみますと並大抵のものではありませんし、また容易なものでもないのです。いっそのことこんな妙な能力などまったく要らない、世の人々と同様に何も見えず何も聞こえない方が人間としてどれほど幸せだろうかとつくづく思うこともしばしばです。
 が、しかし、御仏によってそれほどに厳しい立場にわが身を置かれてしまったのなら、もはや御仏のご意思に従いこの地上の物質界から我が身を超越させ、人々のためになることのみを志して生きるしかないと覚悟することになります。
 それが霊能者といわれる者の道なのです。
 超常現象や心霊現象というものは、本来この世にあって何の不思議ではないものなのです。それを、自分の卓越した力によるかのようにひけらかしている霊能者がもし今ここにいるとしたならば、その者はまだ自分の役目に気づくところまで行っていないごく初歩の段階、つまり、自分に驚いて得意になっている段階の者であるということが出来ます。
 言い換えるならば、霊的な能力を自分自身の特別な力と思っているうちは、その霊能力も、無知な子供の危険な火遊び程度の幼稚なものだということです。にもかかわらず「神仏に近い人間」を演じてみせなければならないために、何の根拠もないことをもっともらしく説いています。
 素直に耳を傾ける人々に向かって、塩を撒けば成仏するとか、線香何本をどう立てれば浮かばれるとか、護摩木を何百本焚くから通じるとか、もっぱら「物」を駆使する方法を厳かに教えます。
 そんなことで浮かばれずにいる死者が成仏などするものですか。
 人間が死者の魂との交流を真に望むならば、自分の全身全霊の魂を以てするしか道はありません。

     萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、1994、pp.156-157