学びの栞 (B)
33. 体外離脱・神秘体験・超常現象
33-a (体外離脱とはなにか)
体外離脱(OOBE=Out of Body Experience) とはどういうことか。このテーマにまだ出遭ったことのない人たちのために説明させていただくと、体脱体験とは、完全に意識があるまま、自分が自分の肉体の外にいることに気がつき、(いくつかの例外はあるが)あたかも肉体的にも機能しているがごとく物事を感知したり、また行動したりすることだ。空間(時間も?)をゆっくり移動したり、明らかに光速以上のスピードで動いたりできる。物質、例えば壁、鉄鋼板、コンクリート、土、海洋、大気、更には放射線の中さえまでも何の努力もせず、何の影響も受けず動き回ることができるのだ。
ドアを開ける手間もかけず隣の部屋に行ったり、三千マイルも離れた所に住む友人を訪ねることができる。興味が湧けば、月世界、太陽系、更には銀河系をも探索できる。または・・・・・・我々の時空間意識ではぼんやりとしか感知されていなかったり、論理化されていない異種のリアリティを持つシステムに入り込むこともできる。
こうしたことは新しい現象ではないのだ。最近行なわれた調査によると人口の全体の二十五バーセソトの人間が少なくとも一回はこのような経験をしているという。人類の歴史にはこうした体験談がたくさんある。初期の文献ではこうした経験は普通「幽体離脱」と名付けられていた。私はこの用語がオカルト的意味合いを持ち、我々の基準からすると確かに非科学的と言えるので、まずこの言葉を拒否して、使わないところから始めた。心理学者で私の友人であるチャールズ・タートは私たちが六十年代に一緒に研究していた時に「体外離脱」という用語を普及させた。過去二十年の内にこの言葉は西洋においてこの特別な状態を表現する一般的な用語として受け入れられるようになった。
ロバート・A・モンロー『魂の体外旅行』(坂場順子訳)
日本教文社、1992、p.3
私注: Robert A. Monroe=オハイオ州立大学で工学とジャーナリズムを学ぶ。
1958年の体外離脱体験によって人生観が一変し、1973年より、ヴァージニア州
シャーロッツビルの「モンロー応用科学研究所」の所長を務め、音響工学を用い
た拡張意識状態の研究に専念する。前著『体外への旅』
*****
33-b (体外離脱体験の調査)
体外離脱体験の発生率に関する調査はごくわずかしか存在しない。最も古いのは一九五四年にハートによって行われた調査である。ハートは百五十五名の学生に体外離脱体験をしたことがあるか質問したところ、二十七・一バーセソトがあると答え、そのほとんどの者が一回以上体験していると述べた。この時に得た結果は後年行なわれたいくつかの調査の結果ともほぼ一致している。グリーソは一九六八年に三百八十名のオックスフォード大学の学生に対する質問の結果を報告している。質問は「今までに自分の肉体の外にいると感じる経験をしたことがあるか」というものであった。それに対して三十四パーセソトが肯定的に回答した。一九七五年にパーマーとデニスはヴアージニアの小さな町で学生と住民を「無作為に」千人選んで行なった初めての調査の結果を発表している。その結果、学生の二十五パーセントが、また住民の十四パーセントが、体脱体験があると答えたのである。体脱体験の研究で極めて独創的な方法を取ったのはシールスの研究である。シールスはほぼ七十か国にわたる非西洋諸国から体脱体験にまつわる信仰に関するデータを集めた。文化の相違にもかかわらず信仰の内容は驚くほど類似していた。シールスは、この事実は「本物の出来事」、つまり本当の体脱体験が存在する間接的証明であると考えた。例えば、多くの国々ではシャーマンが体外に出て飛行できる能力を持つと見なされていることは極めてよく知られている。事実シャーマソはそうした能力がなければシャーマソとして聖別され得ない。エリアーデによると、こうした飛行が表わしているのは「秘密のもの、形而上学的真理、象徴的意味、超越、自由について知的な理解カを持つこと」である。南アフリカで行なわれた調査では新聞公募に応じた百二十二名の報告を分析し、体脱体験は被験者が眠っていたりリラックスしていたりまどろんでいたりする時に起こっているのが分かった。被験者の五十バーセソト以上が体脱が起こった時に普通の心理状態にあったと主張している。
ロバート・A・モンロー『魂の体外旅行』(坂場順子訳)
日本教文社、1992、p.471-472
*****
33-c (自己催眠による体外離脱ーーキルデ医師の場合)
どういう方法を取ったのかというと、手、足など末梢血管系の血流をどんどん減少させて、血液が心臓と脳に集中するように、自己催眠をかけたのだという。
「指先から血がなくなる。どんどんなくなっていく。掌からも血がなくなっていく。足のつま先から血がなくなっていく。土ふまずのところから血がなくなっていく。足全体からどんどん血がなくなっていく」
と頭の中で念じながら、同時に、手や足から血が徐々になくなっていくさまを頭の中でゆっくり丹念に順番に追いながら、できるだけリアルに想像していくことを繰り返して自己催眠をかけていくと、本当に末梢の血流量が減っていくのだという。
「突然、足指の先から頭までふるえが走りました。髪の毛が逆立ち、全身が鳥肌立ち、体中の柔毛が逆立つのを感じました。それと共に、凍りつくような寒さを感じました。そこは北極地方で寒いところだったとはいえ、部屋は暖かくしていたから、気温のせいではありません。末梢の血流が減ったので寒くなったのだと思います。次の隣間、ブラックアウトが起こりました。視野が真っ暗になって何も見えなくなったのです。それが一秒もつづいたでしょうか。気がついたら、私は体外離脱していたのです。私は天井のあたりに浮かんでいました。見下ろすと、私の肉体は膝だけ立てた格好でベッドの上に横になっていました。そして浮き上がった私も、はじめは、それと全く同じ格好、つまり、膝を立てた格好で横になっていましたが、すぐに自由に思った通り動けるようになりました。私の肉体は、まるで死体のように見えました。それを見ても、恐ろしいとか、哀れとか、特別の感情は何もわきませんでした」
−ー浮き上がった自分のほうはどうなっているんですか。何かこれが自分といえるような実体があるんですか。それとも単にそこに視点があるだけなのですか。
「ちゃんと私の体と同じような形があるんです。顔もあるんです。しかし、それは半透明のスキムミルクのようなものでできていました。これがエネルギー体というものなのかと思いました」
先にも述べたが、体外離脱中に、何か自分の実体といえるものがあるのかどうかは体験者によってちがうのである。キルデさんと同じように答える人もいれば、単に視点だけだったという人もいる。
−ーベッドの上の肉体のほうは、単なるオブジェ(物体)になってしまっていて、自分の主観性のかけらも残っていないんですか。
「全く何もないんです。それは意外なことでした。私は医者ですから、どうしても医学的にものを見てしまいます。肉体を見下ろしながら、『私の脳はあそこにある。なのにあの脳は何も考えていないんだ』と不思議に思いました。思考も感情も、一切がエネルギー体のほうにあるのです」
ー− そっちのほうの意識はしっかりしてるんですか。
「完璧です。完全に清明な意識が保たれていました」
---そういう事態にあわてふためくというような心の動きはありませんでしたか。
「全然ありません。心理的には冷静そのものでした。それで、もっとよく研究しようと思って、肉体のそばまでおりていってじっくり観察することにしました。そばにいくと、肉体がゆっくりゆっくり呼吸しているのがわかりました。それは異常なほどゆっくりでした。それで、呼吸数を数えてみようと思いました。私は麻酔医をしていたこともあるので、いつでも時計を見ずにキッカリ六十秒の時間をとることができるように訓練されていました。だから、時計なしで呼吸数がはかれたのです。数えてみると、一分間にわずか十回でした」
---それは少ないですね。
「正常値は二十回前後ですから、半分です。あまりにも少なすぎます。それでちょっと心配になり、今度は脈をとってみることにしました」
---体外離脱中のエネルギー体に、脈を取るなんてことができるんですか。
「ええ、やってみると普通にとれたんです」
---普通にというと。
「エネルギー体の手で、肉体の手を取って、手首の動脈のところに指をあてたら、ちゃんと脈が取れたんです。おかしな話と聞こえるかもしれませんが、実際、ちゃんと脈を感じたんです。しかし、かぞえてみたら、一分間に三十二回しかありませんでした。やはり正常値の半分です。低すぎます。ますます心配になって顔のところに手をあててみました。すると、顔から暖かみが失せて、冷たくなっているのです。冷たいだけでなく、こわばっていました。これは大変だと思いました。呼吸、心拍、体温などの生命徴候が明らかに低下しているのです。これは、死んでしまうことになるのかもしれないと思いました。肉体が死ぬとしたら、エネルギー体の自分のほうも死ぬことになるのだろうかと考えましたが、どうなるのかよくわかりませんでした。その頃はまだ、死というものがあると思い、死を恐れていましたから、心理的にパニック状能に陥りました。そして、戦場の兵士が生命の危機にさらされたときに、思わず『お母さん!』と叫ぶように、私も、『お母さん、助けて!』と叫んでいました。するとどうでしょう。私は一瞬にして、千キロも離れたヘルシンキの両親が住む家の居間に飛んでいたのです」
立花隆『臨死体験(上)』文芸春秋、
1994、pp.168-171
*****
33-d (キュブラー・ロス博士の体外離脱体験)
−ーロスさん自身は、臨死体験以外に、体外離脱をしたという経験はありませんか。
「あります。何度もあります。好きなときに好きなように離脱できるというわけではありませんが、十五年ほど前に、宇宙意識セミナーに出て、人間は誰でも体外離脱能力を持っており、訓練によってその能力を引き出すことができるということを学び、それができるようになったのです。そういうことができる人が、何千人、何方人といるのです」
ーー体外離脱してどこに行くんですか。
「いろんなところに行きます。その辺の屋根の上にとどまっていることもあれば、別の銀河まで行ってしまうこともあります。ついこの間は、プレヤデス星団(すばる)まで行ってきました。そこの人たちは、地球人よりずっと優れた文明を持っていて、『地球人は地球を破壊しすぎた。もう元に戻らないだろう。地球が再びきれいになる前に、何百万人もの人間が死ぬ必要がある』といってました。
立花隆『臨死体験』(上)文芸春秋社、
1994、pp.439-440.
*****
33-e (神かくし現象の不思議とその秘密 =1=)
「神隠し」といわれ、人々を面くらわせる現象がある。ある日突然、それまでごく当り前に普通に生活し、世間的にもごく普通に人々とも交際していた人が、まるでそれこそ気体にでもなって蒸発してしまったかのように人々の前から姿を消しそのまま永久に行方不明になってしまうのがこの現象だ。その人間のそれまでの行状、性格、環境いずれから考えても原因が人間にはわからないからこそ「神隠し」などと呼ばれるわけだ。
この現象の中には、たとえば山や野原で道に迷って人里へはたどりつけず、そのまま人々に発見されない所で死んでしまったというような、ごく世間的な常識でも理解できるものもあるに違いない。だが、このほかに霊界との関連で起き、まさに「神隠し」の名にふさわしいものも数多くある。私はその二つの典型的な場合について説明することにしよう。
その第一は、生きながら精霊に導かれて、人間としての自分は意識しない間に人々には気のつかれない場所へ連れて行かれ、そこで死んでしまうという、表面的に見れば、いま私が上げた道に迷ったのと全く同じ結果になる現象である。これは、如何にも道に迷って人々の知れない所で死んでいたように見えるが、本当の事情は全然別のものなのだ。
こんなケースでは、人は私のいう「死の状態」で精霊と話をしたりしながらこの世の道を歩いている。だが、彼の眼には、本当のこの世の世界は見えず、道も見えない。彼は精霊と話をしたりしながら自分の精霊の眼によって見る精霊界の景色を自分の脳裏に映しながら道をたどっているのである。だから、彼は、この世の地面の上を肉体の人間としての彼は歩いているのだが、彼の心は違う世界の中を歩いていっている。肉体の人間としての彼は、このとき「死んでいる」といってよいのだが、足だけは機械的にこの世の地面の上を動いているのである。
こんな状態のときの人はそこが、この世のどこであろうが、いっこうにわからずに夢遊病者のように歩いているのだ。彼の肉体の感覚は「死んで」いるから、どれほどの道のりを歩こうが、何日歩き続けようが疲労などといった「肉体的感覚」を全く感ずることもない。
この状態で彼の肉体は人々に絶対発見されない山や野や海の中へ入って行って、そのまま死を迎える----これが第一の神隠し現象である。
私は事実、精霊にこのように導かれていく人の姿を見たことがある。その時、彼の肉体の中には彼自身の精霊の姿が私の眼にも見えた。彼は他の精霊と一緒にこの世の道路を歩いていたが、やがて大きな崖のふちにきた。しかし、彼の肉体はそこでもいっこうに方向を変えず、また止まることもせず、ずんずんと歩いていく。彼の眼(精霊としての彼の眼)は、崖の先の空中にも全く違うものを見ていたに違いない。崖のふちにくると、しかし、肉体のほうの人間はその高い崖から当然落ちて死んでしまった。だが、精霊のほうの彼はいっこうにこのことに気付かぬように空中の“道”を進んでいったのだ。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.182-184
*****
33-f (神かくし現象の不思議とその秘密 =2=)
つぎに第二の現象に同じ一つの肉体の中に二つの霊が入れ代わってしまうものがある。これもやはり死の状態″で行なわれるのは同じで、死の状態になって霊に眼ざめた肉体の中に起こった霊的な感応によって近づいてきた他の霊が、そのまま居すわって、前から肉体にいた霊を追い出してしまう。このときの入れ代わり方には幾つかのケースがあって一様ではない。しかし、ともかく入れ代わった霊は、この肉体を支配するようになる。そこで、前の人間は全く別の人間になってしまうため、前の人間の生活にはもはやもどれなくなり、前の人間のときに住んでいた場所も彼には記憶が残っていなくなるし、その記憶を残す必要すらなくなってしまうのである。このあと新しい霊と肉体との一致がうまく行けば、その人間は同じ肉体を持ちながらも全く別の人格として以後の生涯を前の場所とは全然違う所で送ることになる。
これが神隠しの第二の場だ。
世間にいわれている神隠しは、単純に道に迷って行方不明になったものから私がいまここに上げた二種類のものまで色々なものがあるだろうが、その一つ一つが果たしてどれに当たるかは確かめることが困難な場合のほうが多いと思われる。
(訳者付記) 神隠しではないが一つの肉体を複数の霊が“共有”した例として、もっとも有名なものに、世界中に知られているサリー・ビーチャムという娘の話がある。面白い話なので紹介することにしよう。ただし世界中の研究家の間でも“霊の入れかえ”の事実は認められているが、それはその事実を認めただけで、本項の記述のように霊界の立場に立って「死の状態における霊の入れかえ」までを説いた人はいない。ここあたりはまさにスウェデンポルグ以外には想像すらつかないところであろう。
一八九八年にアメリカのクリスティーヌ・ビーチャムという内気で大人しい娘の中に、元気がよく陽気な人格が現われて来た。そして、この新人格はクリスティーヌのことをよく知っており、自分は確かにクリスティーヌと同じ肉体を共有しているが、自分とクリスティーヌは全く違う人格であり、自分の名前はサリーであり、クリスティーヌとは別人だと主張してゆずらなかった。そして、このサリーのことはクリスティーヌは全く知らなかったが、確かにこの二人の娘″の性格はサリーの主張どおり明らかな“別人”であった。
サリーが肉体を支配している間は、この肉体はサリーの性格をもって行動し、サリーに代わってクリスティーヌが目ざめるとクリスティーヌはサリーがしていたことを全く知らなかった。
クリスティーヌのかかりつけの医師プリンス博士が、この“一人で二人の娘”のことについて幾つもの実例を上げて学界に紹介したことからアメリカの心理・心霊学界にも大きな波紋を投ずるとともに、この事件は世界中に話題を提供することになった。
しかし、この“一人で二人の娘”は、すぐ、そのあと“一人で三人の娘”になって、さらに世間を驚かせることとなった。というのは、クリスティーヌとサリーのほかに、名前を自分では名乗らない、もう一人の全く性格の違う娘が登場して来たのだ。そして、この娘と合わせて、一つの肉体を三人が共有することになったのである。三人目の娘を仮にTとして、この“三人の娘”の行動の一例を上げるとつぎのようなものがある。
クリスティーヌはニューヨークで就職しようと思って汽車に乗ってニューヨークへ向かった。しかし、その途中でクリスティーヌはサリーに変わった。サリーはニューヨーク行きを希望せず、途中で汽車を降り、その町の食堂に就職した。サリーは、この食堂でしばらく働いていたのだが、ある日突然、サリーはTに変わった。Tは食堂の仕事をやめて給料を受取るとボストンへ行った。ところが、こんどは、またTはサリーに変わりサリーはボストンにアパートを借りた。このアパートで生活中、もとのクリスティーヌが目ざめたが、クリスティーヌは自分が知らぬ間にポストンの、しかも自分の知らない部屋に来ていることを知って驚いた。
まったく作り話か、幻想小説みたいな話だが、これが全く事実なのである。この話の解釈をめぐっては心理学者、心霊研究家の間に大いに議論がふっとうしたのだが、サリーやTはクリスティーヌとは全く別個の霊的な存在だとする説などが唱えられた。
エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
(今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.184-187
*****
33-g (お気に入りの亡霊との対話と様々な神秘体験 =1=)
その半年間の身辺の激変― 離婚、新居の購入、ヒーリングセンターの開設、世界各国での講演― は、それなりの対価を要求してきた。休むことなく働きつづけたわたしは疲労困憊の極致にあった。オーストラリアの講演旅行を終えたとき、わたしはようやく休養をとることにした。それ以上、働くことはできなかった。二組の夫婦といっしょに、人里離れた山荘にこもることにした。電話も郵便の配達もなく、毒蛇たちが来訪者の接近をはばんでくれた。天国のようなところだった。
ストーブと暖炉に必要な薪割りなどの肉体労働のおかげで、一週間もたつと、人なみの健康状態がもどってきた。友人たちは都会に帰る予定だったが、わたしはもう一週間、滞在する気になっていた。完全にひとりになって、自由を満喫したかった。しかし、出発前夜になると、友人たちもわたしといっしょに残るといいだした。わたしはがっかりして寝室にひきあげた。
暗闇のなかにいると、胸がふさがれるような気持ちに襲われはじめた。助けをもとめて泣きたいという衝動にかられた。おおぜいの人が問題の解決をもとめてわたしのもとにやってくる。しかし、わたしを支え、愛情を注いでくれる人はいるのか? サンディエゴとサンタバーバラ以外では霊を呼びだしたことはなかったが、霊たちは必要なときにあらわれると約束してくれていた。
「ペドロ。あなたが必要だわ」わたしはつぶやいた。
オーストラリアとサンディエゴの距離をものともせず、わたしのお気に入りの亡霊であるぺドロは、瞬時に山荘の寝室に姿をあらわした。ぺドロはすでにわたしの想念を読みとっていたが、それでもわたしはそのひろい肩にもたれて泣きたいとだだをこねた。「だめだ。それはできない」ぺドロはきっぱりといった。そしてすぐに、「だが、ほかのことをしてあげよう」といった。ゆっくりと腕をのばすと、ぺドロはわたしのあたまに手のひらを載せて、「わたしが消えたら、きみにも理解できる」といった。ぺドロの手のひらに吸いこまれるような感じがした。それまでに経験したことのない、やすらぎと愛が満ちてくるのを感じた。わだかまりがきれいになくなっていた。
別れのあいさつもなく、ぺドロのうしろ姿が闇のなかに消えた。まだ宵の口なのか、夜明けが近いのか、時間がまったくわからなかった。時間はどうでもよかった。暗闇のなかを歩いた。本棚のうえの小さな木彫に目がとまった。手のひらのうえで気持ちよさそうに寝そべっている子どもの木彫だった。とつぜん、さっきぺドロの手にふれられて感じた安心感、やすらぎ、愛と同じ感覚につつまれていることに気づいた。大きな枕をおろして、床のうえで眠りについた。
翌朝、友人たちから、なぜベッドで寝なかったのかと聞かれた。ついでに、すごく元気そうな顔をしているともいわれた。前夜に起こったことはいえなかった。あまりに感動的で、口にだすのがはばかられるような気がしていた。たしかに、ぺドロのいうとおりだった。わたしは理解していた。世界中で、何百万、何千万という人が配偶者、恋人、パートナーにめぐまれている。だが、どれだけの人が神の手のひらに憩う快感となぐさめを感じているだろうか?
そうだ。もたれて泣く肩がないといって、嘆いたり哀れんだりするのはもうよそう。こころの奥底では、自分が孤独ではないことを、とうに知っていたはずではないか。必要なものはすでに受けとっている。前夜のように、伴侶がほしい、愛がほしい、抱擁が、もたれる肩がほしいと、何度も思っては、得られなかった。しかし、わたしは別の贈り物を受けとっていた。だれも経験したことのないような贈り物だった。ほしいものと交換しようといわれても、断っただろう。わたしはそう理解した。
エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
(上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.280-282
*****
33-h (お気に入りの亡霊との対話と様々な神秘体験 =2=)
その時期に起こったことから判断して、「人生の大半はすでに答えを知っている謎を解くようなものだ」ということを、わたしはもう疑わなくなっていた。霊的体験や霊的な力にかんしては、とくにそれがいえる。たとえば、七〇年間、毎日欠かさず、イエスと話しつづけたサンディエゴの老婦人、アデル・ティニングから学んだ教訓がそれだった。霊は重厚な樫のキッチンテーブルを動かすことをつうじてしゃべった。アデルがテーブルのうえに両手を置くと、テーブルは浮いたり傾いたりして、一種のモールス信号のようなかたちでメッセージを送ってくるのだ。
スイスからきていたふたりの妹を、アデルの家につれていったことがあった。四人で例のテーブルを囲んで座ったが、それは三姉妹が動かそうとしてもびくともしない、とても重いものだった。アデルは目を閉じると、低い声で、くすくすと笑いだした。すると、アデルの指先のしたで、テーブルがゆれはじめた。「みなさんのお母さまがおみえです」そういって、目をあけた。茶色の目がきらきらと輝いていた。「お誕生日おめでとう、そういってらっしゃるわ」。妹たちはショックを受けていた。その日が三人の誕生日であることは、だれもアデルに教えていなかったからだった。
それから数か月たって、こんどはわたし自身がその芸当をやってのけることになった。ある晩、泊まり客のために子牛の料理をつくっていたときのことだ。ふたりの客人―テキサスからきた修道女で、そのひとりは盲人だった―が、車で薬局に買い物にいった。往復しても一〇分ほどの、近くの薬局である。三〇分たっても帰ってこないので、心配になってきた。わたしはキッチンテーブルに向かって座り、どうすべきかを思案した。「警察に連絡したほうがいいかしら」大きな声でそういった。「事故にあったのかもしれない」
テーブルがわずかに動きだしたかと思うと、がたがたとゆれ、横すべりをはじめた。あたりに響く声が聞こえた。「その必要はない」。思わず、ぎくっとした。「もしかして、イエスさまですか?」わたしはたずねた。「そうだ」という声が聞こえた。信じがたいドラマがはじまろうとしていたそのとき、裏口のドアがあいて、修道女たちが帰ってきた。いち早く状況を察したふたりが、にやっと笑った。「あら、あなたもテーブルをお使いになるの?」椅子をどかしながら、シスターXがそういった。「いっしょにやりましょう」。キッチンでそれほどたのしい思いをしたことはなかった。
エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
(上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.282-283
*****
33-i (お気に入りの亡霊との対話と様々な神秘体験 =3=)
神秘体験はまだつづいた。それからまもなく、サンタバーバラでワークショップがあった。神経をはりつめた五日間の最後の夜、自室にひきあげたのは午前四時だった。くたくたになってベッドに入ったとたんに、ひとりの看護婦が飛びこんできて、いっしょに日の出をみようといった。
「日の出ですって?」わたしは叫んだ。「どうぞご自由に。わたしはここからみるわ。もう寝ますよ」
数秒後には深い眠りに入っていた。ところが、眠りに「落ちる」のではなく、からだからぬけだして、どんどん上昇しているような気がした。ぐったりとしていたので、怖さも感じなかった。はるか上空にのぼったとき、何人かの「存在」に抱きかかえられていることに気がついた。存在たちはわたしを修理する場所に運ぼうとしていた。何人もの修理工が自動車を修理しているような感じだった。ブレーキ、トランスミッションなど、それぞれに得意分野があるようだった。損傷部品がたちまちのうちに新しい部品に交換され、わたしはベッドに送り返された。
二、三時間の睡眠だったが、うららかな気分で目がさめた。昨夜の看護婦がまだそこにいたので、修理されたことを話した。「あきらかに体外離脱体験ですね」看護婦がいった。わたしはきょとんとして看護婦の顔をみていた。瞑想もしなければ豆腐も食べない、カリフォルニァっ子でもなければグルもパパもいないわたしが? 「体外離脱体験」の実態がなんなのか、そのときのわたしにはさっぱりわからなかった。しかし、もしそれが前夜の飛翔体験のようなものなら、いつでも飛び立つ用意はできていた。
エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
(上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.283-284
*****
33-j (繰り返された体外離脱体験と神秘体験 =1=)
体外離脱体験をしたあと、わたしは図書館にいき、それにかんする本を一冊みつけた。著者はロバート・モンローという、その世界では著名な研究者だった。すぐさま、ヴァージニア州にあるモンローの農場を訪問することにした。モンローはそこに自分の実験室をもっていた。人間の意識にかんする実験は、むかしからドラッグを使っておこなうものと相場がきまっていた。ドラッグはわたし好みではなかった。というわけで、はじめてモンローの実験装置をみたときのわたしの期待の大きさは察していただけると思う。それはさまざまな電子機器とモニターを装備した最先端の実験室だった。わたしはその手のハイテク装置をみると、すぐに信用してしまうほうなのだ。
訪問の目的はもういちど体外離脱体験をすることにあった。わたしは防音ブースに入り、ウォーターベッドのうえに横たわった。そして特殊なアイマスクをつけ、光を完全に遮断した。助手がわたしの頭部にイヤホーンのヘッドセットを装着した。体外離脱体験を誘発させるためにモンローが考案したのは、いわば医原的手段、つまり人工的な音声パルスで脳を刺激するという方法だった。脳はそのパルスによって瞑想状態に入り、さらに意識の深層―それこそが、わたしのもとめていたものだった―を体験する状態にまで到達する。
しかし、一回目の実験は失敗に終わった。実験主任がスイッチを入れ、装置を駆動させた。ピーッ、ピーッという規則的な信号音が聞こえてきた。ゆるやかなリズムではじまったそのパルスは、しだいに速くなっていき、高い連続音になった。わたしはたちまち睡眠のような状態に入った。主任はわたしの反応が早すぎると判断してスイッチを切り、だいじょうぶですかとたずねた。「どうしてやめたの?」 かき乱されたわたしは文句をいった。「これからはじまりそうだったのに」
便秘ぎみの状態がつづいていたわたしは、ときどき腹痛に悩まされていたが、その日、ふたたびウォーターベッドに横になった。科学者が元来、用心深い連中であることはわかっていたので、今回はフルスピードになるまでスイッチを切らないようにあらかじめ釘を刺した。「そんなに早く離脱状態になった人はいませんよ」実験主任が警告した。
「でも、そうしてほしいの」わたしはいった。
事実、二度目の実験は期待どおりのものになった。ことばでは説明しにくいが、パルス音が聞こえるとすぐに雑念が消え、質量がブラックホールで消滅するように内部に沈潜していった。信じられないほど大きなヒユーッという音が聞こえてきた。吹きすさぶ烈風のような音だった。とつぜん、竜巻に吹き飛ばされたような感じがした。その瞬間、わたしは肉体から離れ、猛烈ないきおいで飛びだした。
どこへ? どこへいったの? だれもがそう質問する。からだはじっとしているのに、存在の別の次元へ、もうひとつの宇宙へと、脳がわたしをつれ去ったのだ。存在の物質的な部分はもはや意味を失っていた。死後にからだから離れる霊魂のように、さなぎから飛び立つ蝶のように、わたしの意識は肉体を離れ、サイキックなエネルギーそのものになっていた。わたしはただそこにいた。
実験が終わって、科学者たちから体験の報告をもとめられた。その超常的な体験を細部にわたって報告したかったが、ことばにならなかった。おなかの調子がにわかによくなったこと、頸部にある椎間板ヘルニアの自覚症状もついでに治ったこと、気分はよく、めまいも疲労も感じていないことを報告しただけで、あとは「自分がどこにいたのかは、わからない」としかいえなかった。
エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
(上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.285-287
*****
33-k (繰り返された体外離脱体験と神秘体験 =2=)
その日の夕方、ふしぎな虚脱感のなかで、やはり過激にやりすぎたのだろうかと考えながら、モンローの農場のゲストハウスに向かった。わたしは「アウルハウス」(梟の家)という、敷地のはずれの山小屋に泊まることになっていた。山小屋に入った瞬間に、奇妙なエネルギーの存在を感じた。なにものかがいる気配が濃厚だった。そこはメインハウスからあまりにも遠く、電話もないところだったので、メインハウスにひき返して、そこに泊まることを考えた。モーテルに泊まってもいいと思った。しかし、偶然というものがない以上、わたしがそこに泊まることにもなにかの意味があるのかもしれない。そう考えて、泊まることにした。
眠らずに起きているつもりだったが、ベッドに横になるとたちまち睡魔に襲われた。―それが悪夢のはじまりだった。一〇〇〇回も死をくぐりぬけるような悪夢だった。からだが責めさいなまれた。ほとんど息もできず、身をよじったまま、痛みにのたうちまわった。あまりにも苦しく、助けをもとめて叫ぶ力もなかった。叫んだところで、だれかに聞こえるはずもなかった。はてしなくつづく痛みに翻弄されながらも、どこかで経過を観察している自分がいた。ひとつの死が完了すると、つぎの死がはじまった。息をつくまもなく新しい死がおとずれ、叫び、もだえた。それが一〇〇〇回くり返された。
その意味はあきらかだった。わたしは見送ってきた患者すべての死を再体験していた。かれらの苦悶、恐怖、痛み、嘆き、悲しみ、喪失、血、涙を思い知らされていた。がんで死んだ人がいると、わたしはその耐えがたい痛みを自分のからだに感じた。心臓麻痺で死んだ人がいると、その恐怖をからだに感じた。
息継ぎの期間が三度あった。最初に痛みが消えたときは、男の肩がほしいと思った(わたしはマニーの肩にもたれて眠りに入るのが好きだった)。しかし、その欲求を口にしたとたんに、いかめしい男の声が聞こえた。「おまえにはやれない!」。その冷厳な否定の声には質問もゆるさない重苦しさがあった。「なぜなの?」と聞きたかった。死の床にある無数の患者がわたしの肩にもたれかかってきたではないか。しかし、わたしにはそれがゆるされなかった。
それどころか、無限につづく陣痛のような、強烈な痛みがまた襲ってきた。ひたすら失神することを願った。でも、そんな幸運は望むべくもなかった。二度目の息継ぎの時期があたえられるまでに、どれほどの時間がたったのかはわからない。虚空に向かって「にぎっていられる手をください」といった。手のもちぬしの性別は特定しなかった。そんな贅沢をいっているときではなかった。ただただ、にぎる手がほしかった。だが、「おまえにはやれない!」という冷厳な声が、またわたしを黙らせた。
三度目の小休止がくるかどうかはわからなかった。しかし、ついにそれがおとずれたとき、大きく息をついたわたしは、情けないことに、指先でもいいからほしいと思いはじめた。なぜかって? たとえにぎることはできなくても、だれかがそこにいるという安心感がほしかったのだ。しかし、その最後の要求を口にする前に、自制心が生じた。「ばかなことを! 手をくれないのなら指先なんかいらないわ。もうだれの助けもいらない。ひとりでやっていく」
憤慨したわたしは、あらんかぎりの反抗心をかき集めて、自分にいい聞かせた。「にぎる手のひとつもくれないほどのけちはもう相手にしない。ひとりのほうがましだわ。わたしにもそれなりの自負心や自尊心があるんだ」
エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
(上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.287-289
*****
33-l (繰り返された体外離脱体験と神秘体験 =3=)
それが教訓だった。そのあとにくる歓喜を是認するために、一〇〇〇回の死という恐怖を経験しなければならなかったのだ。
人生そのもののような試練のさなかに、突如、「信」の問題がやってきた。
神はけっして耐えられない試練をあたえることはないという、神への信。
神があたえたものならば、どんな苦しみでも耐えぬけるという、自己への信。
畏怖にも似た感情に襲われた。だれかが待っている。そう直観した。それはわたしがなにか口にするのを、「イエス」という肯定のことばを口にするのを待っていた。自分にもとめられているのはそれだけだ、イエスということだけだと気づいた。
思考が錯綜した。
なににたいしてイエスというのか? これ以上の苦悶に? これ以上の痛みに?人間の助力なしでこれ以上の苦しみに?
なんであれ、いま耐えている苦しみよりひどいものがあるだろうか?それに、わたしはまだここにいるではないか? あと一〇〇回の死? あと一〇〇〇回の死?
そんなことはどうでもよかった。遅かれ早かれ、終わりはくる。それよりも、痛みがあまりに強すぎて、もうなにも感じなくなっていた。わたしは痛みを超越していた。
「イエス」わたしは叫んだ。「イエス!」
エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
(上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.289-290
*****
33-m (繰り返された体外離脱体験と神秘体験 =4=)
部屋が静かになった。痛みと苦しみと窒息感が瞬時に消えた。意識が冴えわたっていた。窓の外は漆黒の闇だった。胸いっぱいに空気を吸った。じつにひさしぶりの深呼吸だった。もういちど、外の闇をみた。また深呼吸をして、あおむけになったまま、からだをゆるめた。そのとき、奇妙なことが起こりはじめた。最初は、おなかの振動からはじまった。おなかの輪郭は変化していないのに、猛烈なスピードで振動していた。あきらかに筋肉運動ではなかった。思わず「そんなばかな」とつぶやいた。
錯覚ではなかった。横になったままからだを観察していると、もっとふしぎなことが起こった。目をやった先のからだの部分が、片っ端から信じられないスピードで振動しはじめた。振動はその部分の基底層にまでひろがっていた。どこに目をやっても、無数の分子のダンスがみえた。
そのときはじめて、自分が肉体からぬけだしてエネルギーになっていることに気づいた。目の前に、この世のものとは思えないほど美しい蓮の花の群落がひろがった。花はスローモーションのようにゆっくりとひらいていた。ひらくにつれて輝度をまし、色彩が豊かに、精妙なものになっていった。無数の蓮の花はじわじわと寄り集まり、ついには巨大な、息をのむほどに美しい、ひとつの花に変わった。その花の背後から光が差してきた。それがどんどんあかるくなり、まぶしく霊妙な光になった。わたしの患者たちがみたという、あの光とまったく同じだった。
その巨大な蓮の花のなかをとおりぬけて光と一体になりたいという衝動にかられた。抗しがたい引力に吸い寄せられて、光に近づいていった。その霊妙な光こそが長く苦しい旅の終着点だという確信があった。みじんも急ぐことなく、自分の好奇心に感謝しながら、わたしはその振動する世界のやすらぎと美と静けさを堪能していた。意外なことに、そのときでも自分がメインハウスからはるかに離れた「アウルハウス」にいることは自覚していた。壁も、天井も、窓も……窓外の木々も、みるものがすべて振動していた。
視野はどこまでもひろがっていながら、草の葉から木製のドアまで、細部にわたってその分子構造の自然な振動がみてとれた。畏怖を感じながら、万物にいのちが、神性が宿っているさまをながめていた。そのあいだも、わたしは蓮の花をとおりぬけ、光に向かってゆっくりと移動しつづけていた。そしてついに、光とひとつに溶けあった。あたたかみと愛だけが残った。一〇〇万回の長いオーガズムも、そのときに味わった愛の慈悲深さとこまやかさにはおよばなかった。それから、ふたつのことばが聞こえた。
ひとつは「神をみとめます」という、自分の声だった。
ふたつ目はどこからともなく聞こえてきた、「シャンティー・ニラヤ」という意味不明のことばだった。
エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
(上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.290-291
*****
33-n (繰り返された体外離脱体験と神秘体験 =5=)
その夜、眠りに入る直前、目ざめたあとの光景が脳裏をよぎった。自分が日の出前に起きて、ハーケンストックのサンダルをはき、スーツケースに入れて何週間ももち歩いていたローブを着ている光景だった。サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフで買ったそのローブは、手をふれた瞬間、むかし着たことがあるような、もしかしたら前世で着ていたもののような気がした。買ったときには、とりもどしたような気分がした。
翌朝、なにもかもが想像どおりになった。草の葉、蝶、砂利など、目に入るすべてのものが分子構造のなかで振動しているさまをみながら、モンローの家に向かう道を歩いていった。それは人間が感じうる最高のエクスタシー感覚だった。周囲のすべてのものに畏怖を感じ、森羅万象に恋をしていた。水上を歩くことができたイエスのように、わたしは砂利道を浮くようにして歩いていた。至福状態のなかで、およそわたしらしくないことばで砂利に語りかけていた。「あなたたちを踏んだり、いじめたりするなんて、とてもできないわ」
それから四、五日かけて、その至福の状態はしだいに薄まっていった。それでも、家事や車の運転などの作業にもどるのはとてもむずかしかった。世俗的なこと一切がわずらわしかった。「シャンティー・ニラヤ」とはどんな意味なのか、いずれはわかるだろう。また、あの至福の体験が森羅万象に宿るいのちへの気づき、すなわち「宇宙意識」のおとずれであったことも、遠からず確信できるようになるにちがいない。その点にかんするかぎり、ものごとはうまくいっていた。だが、ほかのことはどうか? 自分自身の解答をみつけ、新しい仕事をはじめるまでは、事実上、生きた人間からの援助がないままで、またあの苦しい分離感のなかを歩いていかなければならないのだろうか?
エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
(上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.291-292
*****
33-o (繰り返された体外離脱体験と神秘体験 =6=)
数か月後、カリフォルニア州のソノマ郡でおこなわれるワークショップの会場に向かっていたとき、答えを手中にしかけているような予感がした。しかし実際には、あやうくその機会を逃すような決断をしかけていた。バークレーで開催される予定のトランスパーソナル心理学会議でわたしが講演するという条件とひきかえに、わたしのワークショップで末期患者の参加者の世話をすると約束していた医師が、直前になってキャンセルしてきた。やむなくひとりでワークショップをやり終え、疲労困憊していたわたしは、バークレーの会議には出席しないことにきめた。
だが、金曜日、ワークショップの参加者が帰ったあとに、友人から電話がかかってきた。五、六〇〇人のメンバーがわたしの講演を待っているから、ぜひきてくれといわれた。バークレーに向かう車のなかで、友人はわたしを元気づけようとして、メンバーの期待がいかに大きいかを、くり返し語った。しかし、自分のワークショップで消耗しきっていたわたしは、そういわれてもなんの感興もわかなかった。正直なところ、見識が高く、高度に進化したその会議のメンバーにたいしては、なにを話せばいいのか見当もついていなかった。しかし、会場に入ったとたん、モンローの農場で経験したできごとについて話すべきだということがわかった。ここなら、その経験がなんだったのかを説明してくれる人がいるかもしれない、と思った。
「わたし自身の霊的進化についてお話してみたいと思います」そう切りだしてから、経験したことの多くが自分の知的理解の範疇をこえているので、その解明に力を貸してくれる人を必要としているとつけ加えた。そして、冗談めかしながら、自分がけっして「進化した人」ではないことを強調した。―
例の、瞑想もしなければ、カリフォルニアっ子でもベジタリアンでもないという、あれである。「わたしは煙草も喫います。コーヒーも紅茶も飲みます。ようするに、わたしはまっとうな人間なんです」。会場に大きな笑いの渦が起こった。
「グルもいないし、ババをたずねたこともない」わたしはつづけた。「でも、みなさんが憧れている神秘体験の、ほとんどすべてといってもいいほどのものを、わたしは経験してきました」。なぜそんなことをいったのか? わたしのような人間でも経験できるのだから、ヒマラヤで何年も瞑想などしなくても、だれもが経験できるはずだ、そういいたかったのだ。
体外離脱体験の話をしはじめると、会場は打って変わって静かになった。モンローの農場で一〇〇〇回の死を死に、再生した経験の一部始終を、二時間に要約して話した。講演はいつまでもやまないスタンディング・オベーションで終わろうとしていた。すると、オレンジ色の僧衣をまとったひとりの僧がステージにあがってきて、うやうやしく「よろしければお力になりましょう」といった。瞑想をしないといったわたしにたいして、僧は瞑想にもいろいろなかたちがあると語りはじめた。「死の床にある患者や子どもたちのそばについて、何時間もその人に注意を集中すること、それは瞑想のもっとも高度なかたちのひとつです」僧はいった。
会場から賛同を示す大きな拍手が起こった。しかし、僧は拍手など聞こえていないかのように静かにわたしをみつめたまま、もうひとつのメッセージを語りはじめた。「シャンティー・ニラヤは……」美しく響くひとつひとつの音節をゆっくりとつなげながら、僧がいった。「……サンスクリットで、『やすらぎのついの住み処』を意味することばです。それは、わたしたちが神のもとに帰るとき、地上での旅の終わりにおとずれるところなのです」
「そうなんだ」わたしはこころのなかでつぶやいていた。何か月か前に、暗闇のなかで聞いた、あの声がよみがえってきた。「シャンティー・ニラヤ」
エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
(上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.292-294
*****
33-p (間違いなく神だとわかった8歳の時の体験)
わたしは自分の霊能力について考える以前から神の存在についてずいぶんあれこれと考えたものです。カトリック教徒として育ち、カトリック系の学校に九年間通いましたが、わたしにとってカトリック的な神の見方はあまりに制約が多く、非現実的なものに思われました。わたしたちは盲目的な信仰で神を信じなければならなかったのです。わたしはよけいに戸惑いました。たえず疑問を抱いて悩んだものです。神が本当に存在するとどうしてわかるのか? 誰か神さまを見た人がいるのだろうか? 神さまは何もないところからどうやって物を創りだすのだろう? 聖書の物語を書いたのは誰なのか? それは本当の話なのだろうか?
教会の儀式と戒律という鋳型のなかでいくら神を信じたくても、自分の内なる神という個人的体験は得られなかったのです。こんなふうに毎日の儀式をただ繰り返すだけがぼくの務めなのだろうか? わたしにはパズルの断片が何か欠けているように感じられました。修道女の先生たちは何か隠しているのではないだろうか? 同じミサに出ていながらほかのみんなにはわかって、ぼくにだけわからないものがあるのだろうか? 信仰に疑問を持っているのはぼくひとりだけだろうか? 幼いわたしの願いは実に単純でした。もし神さまがいるなら、どうかその証をぼくに示してください。
八歳のとき、このわたしの祈りが通じました。朝早くまだベッドに寝ていたとき、わたしの顔に冷たい風が強く吹きつけたのです。わたしは毛布をたぐり寄せながら寝室の窓に目を向けました。窓はぴったりと閉まっていました。今の風はどこから入ってきたのだろうと考えながらふと目をあげると、手のひらを下にして天井から伸びてくる巨大な手が見えたのです。その手は揺らめく白い光に包まれていました。わたしは呆然としていましたが、なぜか怖くはありませんでした。
事態が把握できなかったものの、子供だったせいで恐怖を感じなかったのでしょう。目の前に見えているものが現実だとあっさり信じました。そして、突然、言葉ではとうてい言い表わせないような圧倒的な安らぎと愛と歓喜が体いっぱいにみなぎりました。よく聖書に書かれているように、そこで神の声がとどろいてわたしの疑問に答えたりわたしの運命を啓示したりはしませんでしたが、これが間違いなく神だとわかりました。このすばらしい喜びをもう一度味わうためならどんなことでもするだろう、とも思いました。こうして、人から教えられたり、物理的に目で見えるものよりも、はるかに多くのものがこの世には存在するのだと少しずつ理解できるようになったのです。
ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
中井京子訳、光文社、1998、pp.18-20
*****
33-q (私の中に平穏と静謐にあふれて存在していた神)
それは復活祭の週、それも聖金曜日の出来事でした。祭壇上の器物はすべて片づけられ、残っている彫像や十字架にも布が掛けられていました。横の祭壇には聖体顕示台が置かれています(聖体顕示台とは、キリストの体を表わす聖体、すなわち、聖餅を収めた、丈の高い金色の華美な十字架のことです)。その聖体顕示台の前で学生たちは代わる代わる瞑想にふけりました。型どおりの祈祷ではないので、わたしたちは感じたままの祈りを捧げます。その週末のあいだ、学生はめいめい三十分ほどひざまずいたりすわったりしていました。
聖金曜日、その場にすわったわたしはあの手の体験以来、実にひさびさに神の存在を感じたのです。わたしはその狭い部屋で、花に彩られたみごとな金色の工芸品をじっと見つめていました。見つめたまま、二十分ほどたったとき、神が部屋のなかにいると気づいたのです。文字どおり姿を現わしてわたしの隣りに立っていたわけではなく、平穏と静謐にあふれる感覚的なものとしてわたしのなかに存在していたのです。八歳のときに感じたものとまったく同じでした。これこそわたしが探し求めていることの証だとふたたび感じました。神が現に存在するという証だ、と。それはわたしの目の前にある聖体などではない。それよりはるかに偉大なものだ。それはわたしのなかにいる。わたしの心に話しかけている―
言葉ではなく、はかりしれないほど豊かな神の愛、そして、わたしはその愛の一部なのだという感覚として伝えられてくるものです。なにも神学校や教会のなかだけではなく、どこにいようと、どんなものにでも神の存在を感じることができるのだと、やがてわかりました。神は無限なのだ。わたしはついに答えを得ました。わたしが神学校に入ったのはこのためだったのです。この神の感覚をつかむためだったのです。それからは神の存在にいっさい疑問を持ちませんでした。神を見たければ自分の心をのぞけばそれでよかったのです。
ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
中井京子訳、光文社、1998、pp.38-39
*****
33-r (体外離脱を体験して価値観が180度回転した)
私は大学時代、物理をやっていました。その当時は、世の中のことはすべて物理学で説明がつくと頑なに信じていました。今、出会う人からは皆、信じられないと言われますが、当時はコチコチでした。物質自体とそこから生まれるエネルギーとで、すべての現象の説明がつくはずだと。それがカバーする領域は人間の意識から何から、もうすべての領域だと信じていました。
ところが、三六歳の時に体外離脱を体験しました。自分が肉体から脱け出すということを体験したのです。それによって価値観が一八〇度回転しました。こういった物質論的な見方は間違いだと知ったのです。自分は肉体ではない、自分は肉体とは独立した存在だとはっきり知ったのです。
これはかなりショッキングな体験でした。これまでずっと自分が信じてきたことが、そうではないとわかったのですから。
物質ですべての説明がつくという価値観を今でも保持している人は大勢います。特に医師の中には多いようです。彼らは、自分の知識力で説明がつかないものはオカルトだと決めつけます。
しかし私も笑えないのです。意識や精神活動すら、脳内現象ですべて論理的な説明がつくはずだと、ある時期までずっと思っていました。(坂本政道)
矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
(徳間書店、2012、pp.30-31)
*****
33-s(まだ社会的に認知されていない体外離脱やチャネリング)
体外離脱にせよチャネリングにせよ、ここ一〇年で見ると出版市場ではかなり認知度が高まったと思っていますが、ではそれが社会的な認知として、つまり一般的に受け入れられたかどうかについては怪しいかぎりです。
科学的なアプローチが日本ではなされていませんし、科学界では相変わらずのトンデモ扱いです。
ロバート・モンローがヘミシンクを開発して、ある程度はシステマティツクに死を超えた先を自分で体験できるようなアプローチを作りましたが、それがさまざまなメディアを通じて伝播されているのが、唯一の救いです。
ヘミシンクを使えば、ギリシャ時代から懸案となっている「死後世界の問題」がはっきりするわけです。
あとはもう少し、実験データというか現象を検証したデータが蓄積されると、より多くの人の理解度が高まります。その結果、常識として受け入れられるようになります。
(坂本政道)
矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
(徳間書店、2012、pp.167−168)
*****
33-t[60-n] (語りかけてきた死者の霊と体外離脱の体験)
私自身は明確な体外離脱がありませんが、亡くなった母を降霊してもらった時から、自分の中で確実に変化が起きました。それは「他界」に対する認識です。
他界というのは、一般的にはあの世とか、霊界とか、いわゆるあっちの世界とか呼ばれている場所です。異界とか異次元とかいう表現方法もあるでしょう。
現在の常識に照らすと、これらは非常識ということになりますが、常識の定義は先ほど申し上げた通りですので、実は非常識でも何でもなく、これはあくまでも科学の範疇における「未知情報」です。そう考えないと科学は進歩しません。
人間が現在の科学で知り得ていることは、ほんのわずかにすぎません。
私も医師ですから医療現場では全力を尽くしますが、なぜこんなことが起きるのかと不可解な事実に直面すると、やはり科学は万能ではない、だからもっと柔軟にいろいろな情報を受け入れるべきだと痛感します。
あっちとこっちの世界の境界に立っている状況において、体外離脱するケースもたくさん報告されています。
著書(『人は死なない』)で書きましたが、私の友人である会社経営者で五〇代の男性Cさんのケースは非常に興味深い内容です。二八年前のある日、Cさんは妹さんを乗せて車で走っていました。ふと気がつくと、スリップ事故を起こしたCさんは助手席の妹さんと一緒に、大破した自分の車を見下ろす形で空中に浮かんでいました。
その時、隣に浮かんでいる妹さんが「お兄ちゃんは戻りなよ」と声を掛けた瞬間、Cさんは運転席で目覚め、妹さんはCさんの左肩に頭を乗せて亡くなっていました。
ちなみにこのCさんですが、妹さんを亡くした自動車事故から一二年後、当時一七歳だった息子さんをバイクの事故で亡くされました。
息子さんの遺体を自宅に引き取ったその晩、Cさんはリビングルームの扉の前に立って「僕のバイクは?」とCさんに尋ねる息子さんに遭遇、呆然としたそうです。急いで遺体を見に行くと、そこには息子さんが普通に横たわっていたとのこと。
これらは病院外でのケースですが、病院内での治療過程におけるさまざまな「離脱ケース」も聞いています。通常、病院関係者がこの手のテーマを話すことはほとんどありませんが、彼らも自分が知らない未知情報があるのかもしれないと感じているはずです。(矢作直樹)
矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
(徳間書店、2012、pp.186-187)
*****
33-u (マンションから飛び降りた後の臨死体験を経て)
(患者Bさんの話)
マンションから飛び降りた後、病院に運ばれたときのこと、そしてICUでの闘病中のことについて、もう少し話させてください。
墜落後、時間はまったくわかりませんが、意識が回復するまでの間に、自分が暗く冷たい海の底のようなところにいて、大勢の人が一人ずつ今そこにいる理由を誰かから聞かれている場面を覚えています。いざ自分の番になったときに、私は何がどうなっているのか理解できなくて答えられないでいると、「あなたはここへ来るべきではありません」と言われ、急に光が見えたと思ったら目が覚めました。
ICUでの闘病中は、必死で「治そう、治そう」と思っていました。人間、本当に必死のときには生きるようにできているものですね。そのとき私は「心も体ももっと生きたかったんだ」、「心で体をつぶしてはいけないんだ」と気付きました。
体がまったく動かないとき、自由が利くのは耳だけでした。ベッドサイドで誰かが音楽をかけてくれていたのが本当に安らぎになり、オペラのソプラノが心身にしみ込むようでした。このときは、苦しいながらも幸せな気持ちになりました。いろいろなモニターの警報音が鳴るのは不安でしたが。また、医療スタッフのみなさんが、私の耳元でいろいろ声をかけてくれたことを今でも大変よく覚えています。これは私にとってとても励みになりました。
ベッドの上でうつ伏せにされたことも、長時間のうつ伏せが苦しかったからよく覚えています。また、ベッドがゆっくりと回転する(著者注:入院後三日目〜二十一日目まで使用したカイネティック・ベッドの左右の往復連動)のも苦しく感じました。
目が開くようになってからは(まだ人工呼吸器に繋がっていて声は出ませんでしたが)、首にあまり力が入らず真正面つまり天井しか視野に入らなかったので、天井のシミを数えて時を過ごしました。苦しくなって鎮痛剤を増やされると、いろいろな生きものが見えました。
声が出せるようになる前ですが、かなり元気になって文字盤での意思疎通ができるようになっただけで嬉しかった。そして、話せるようになったときはすごく楽になり、話せるすばらしさを本当に痛感しました。
ただ、腰から下の感覚がないため本当に足があるのか不安になって、担当の先生に何度も質問をしてしまいました。
今、私は元気に日常生活を送っています。自分の誕生日と同じ日に生まれた長女が歩く練習をしているのを見ると、歩けない自分のかわりにこれから自分とは違った新しい人生を歩んでいくんだ、と本当に心から感動します。
かつての私は人の幸、不幸を見た目で判断していましたが、自分が今のような状態になってみてはじめてそれが誤りで、本人が自らの置かれた現実を受け入れ肯定していればそれでいいのだと知りました。
私は今、自分の置かれた世界のすべてを受け止めることができて、とても幸せです。
「あるがまま」に受け止める。悪い状況は永遠に続くわけではなく、その後はより良いものが得られるんだと実感しています。辛いときには、病院のICUで医療スタッフの方々に声をかけてもらったように「大丈夫、大丈夫、大丈夫」と心に念じると、不思議に食欲がわき、ぐっすり眠れ、そして元気になります。
矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.83-85
*****
33-v (十字路でトラックに轢かれて体外離脱を体験する)
(50歳の会社経営者Dさんの話)
七歳のとき、夏休みのある日のことです。私は自宅近くの市道を自転車で走っていました。目前の信号機のない十字路を突っきろうとしたところ、はっと気付くと右手からトラックが直進してきました。そして次の瞬間、私の眼前にトラックの底がありました。自転車ごとトラックの左後輪に巻き込まれたのです。
私の体は、倒れてつぶれた自転車とトラックのデフとの間で、サンドウィッチのように仰向けの状態で挟まれていました。眼前の景色がモノクロームになり、周囲が静止して見えました。痛みなどはまったくありませんでしたが、しばらくして気を失ってしまいました。
どれくらいの時間が経ったのかわかりませんが、気付いたら数メートル上から、交差点にトラック、壊れて引き出された自転車、そして白い帽子が血で真っ赤になってぐったりとした私を両手に抱えたトラックの運転手が立っている光景が、天然色映画のように見えました。まったく無音の世界でした。
その後、再び意識が途切れました。次に痛みで気付いたときは、病院の手術台の上でした。私は看護師達に取り押さえられ、医師がトラックに挟まれた左下肢中にたくさんめり込んだ小石を次々と取り除いているところでした。私は、すぐに意識がなくなってしまいました。
後で聞かされたところでは、頭蓋骨骨折、頭部挫創で洗浄後閉創されたそうです。状況から間違いなく脳挫傷もあったと思われます。
DさんもCさんと同様、大人になるまでの間、この体験を誰にも話したことはなかったと言っていました。その理由は、わかろうとしない人やわからない人に話しても理解されないからだそうです。
矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.91-92
*****
33-w (対外離脱の体験から霊的真理を感得する)
米国の成功した実業家であるロバート・アラン・モンローや、東京大学で物理学を専攻した坂本政道のように臨死体験がなくても偶然に体外離脱を経験し、その後自分の意思で体外離脱できるようになった人々や、後述するエマヌエル・スウェーデンボルグのように霊的体験の後に自由に体外離脱できるようになった人物の報告もあります。
坂本政道は、自著『体外離脱体験』の中で、自分は徹底した物質論者であり精神活動も含めてすべての現象は物質とエネルギーで説明できると固く信じていたが、自ら体外離脱を何度も体験したことから、自分の考えが間違いだったこと、人間の本質は肉体から独立して存在する非物質のものであることを感得した、と述べています。彼の客観的かつ詳細な記述には、非常に説得力があります。
矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、p.106
*****
33-x (ヘミシングによる対外離脱の体験)
(ヘミシングとは)米国人のロバート・モンロー(1915年ー1995年)が開発した音響技術です。モンローは元々は放送番組制作会社を経営するビジネスマンで、1940年代から60年代にかけて全米でヒットするようなラジオ番組をいくつも制作しました。
音響技術に詳しかった彼は音を使って人を睡眠状態に導き、睡眠学習や加速学習ができないか研究していました。自分が被験者となっていたのですが、それが原因したのか、体外離脱を体験するようになります。
彼は何度も体外離脱を体験することで、人は肉体を超える存在であり、死後も生き続けることを知るようになります。さらに、死後世界の詳細やガイドたちの存在、過去世の存在などを知るようになりました。その結果、世界観が大きく変容しました。
モンローはこの貴重な知識を多くの人に知ってもらいたいと思いましたが、本で伝えたところで、人の信念までは変えられないことを悟ります。さらに、人の信念を変えるには、みなが自ら体験するしかないということに気づきます。
それでは、それを可能にするにはどうしたらいいのか、ということから音を使った技術の研究を進め、へミシンクの開発に至りました。
体外離脱などに代表される意識状態は、眠りに落ちる寸前の状態で起こることが当時知られていました。その状態は脳波では4ヘルツ前後です。そこで、4ヘルツの音を聴かせてそういう脳波状態に導こうとしました。ところが人の耳は20ヘルツよりも低い音は聞こえないという問題がありました。
そこでバイノーラル・ビートという方法が使われました。それは左右の耳に周波数の若干異なる音をステレオヘッドフォンをとおして聴かせるというものです。そうすると、左右の耳で生じた信号は脳の中央部にある脳幹に伝わり、その周波数の差に相当する第3の信号が発生します。脳波はこの信号に同調するように導かれます。
聴かせる左右の音をたとえば100ヘルツと104ヘルツにすると、差に相当する4ヘルツの脳波が導かれます。このペアの周波数の差を変えることで、異なる脳波を導くことができます。
へミシンクでは、ひとつのペアだけでなく、7つほどのペアが使われていて、体は深くリラックスしながら、意識は目覚めているという状態を作り出しています。
そうすることで、深い意識状態に入りながら、その状態をしっかりと把握し、理解し、記憶できるようにしています。
へミシンクを聴くことで体外離脱を経験する人もいますが、多くの人が体験するのは、意識の一部が肉体に残った状態で、一部が物質世界からずれた状態へと入っていくという体験です。肉体を動かそうと思えば動かせる状態で、意識の一部は、あの世を訪問する、あるいは、過去世を体験します。
通常の体外離脱では、肉体から自分がほぼ完全に抜け出るので、一度肉体から出ると、肉体のことは意識できません。その代わりに非物質の体のほうを自覚します。
それに対して、へミシンクの体験では、やろうと思えば、肉体と非物質の体の両方を意識することができます。ただ非物質の世界にどっぷり浸かりだすと肉体のことは忘れる傾向があります。
坂本政道『死ぬ前に知っておきたいあの世の話』
ハート出版、2016、pp.206-208
*****
33-y (病院の患者が臨死体験の中で見た「三途の川」)
60歳の婦人が自転車に乗り、青信号で横断歩道を渡ろうとしたとき、赤信号を無視して、猛スピードで走ってきた乗用車に跳ねられ、4〜5メートル先のコンクリートの電柱にたたきつけられた。頭、手、足より大量の出血があり、全身に激痛が走る。必死でこらえていたときに、吐気を催し、吐潟物が口から吹き出してきたことまでははっきり覚えているが、あとは、夢なのか現実なのかわからない状態に陥った。
するとパーッと明るく美しい光に満たされた大地に川が走っている光景が目に入ってきた。川の向こうには美しい花がたくさん咲き乱れ、よく見ると亡くなった父や母、それに幼いころかわいがってくれた祖父母が満面の笑みを浮かべて「こっちへ来るように…」と手招きをしている。「ああ、これが三途の川か…⊥と思い、渡ると死ぬことを本や世間話から知っていたので、親類には会いたかったが、必死に思いとどまった……。
翌日、目を開けると、病院のICUのベッドの上だった。事故後、周りの人が救急車を呼んでくれて、病院に運ばれたという。しかし、多量の出血と吐潟物が気管をふさぐことによる呼吸不全で仮死状態に陥っていた。医師団の懸命の治療で救命されたことを後で知らされた。
仮死状態のときに「三途の川」と「美しく花が咲き乱れる彼岸」を見たのだろう。
このご婦人の場合、「三途の川」の存在を知っていたので、渡るのを思いとどまったことになる。
しかし、渡ろうと思ったが、渡れずに現世に戻ってきた人もいる。私が若かりし大学病院勤務時代に受け持った40歳代の男性だ。
肝臓ガンのため、外科に紹介し、ガン腺を摘出する手術(当時は、腹腔鏡による手術などなくすべて開腹手術)を受けている途中、突然、心肺停止の状態に陥った。
麻酔医の必死の蘇生術により、運よく救命され、手術も終了した。その後1週間、外科病棟に入院した後、内科病棟に戻ってきた。
そのとき、主治医だった私に「奇妙な夢を見ました」と言って、次のように話してくれた。「手術室に入って麻酔をかけられるまでは意識がありました。6時間におよぶ手術後、病棟のベッドに帰って、数時間後に目を覚ましたのも覚えています。しかし、その間、夢なのか、現実なのかわからない光景に遭遇したのです。
突然、目の前に川が現れ、向こう岸には美しいお花畑が見えました。よく見ると、ここ2〜3年で相次いで亡くなった父と母が私を呼んでいるのです。目の前にあった小舟に乗り、向こう岸にこぎ出しましたが、川の流れに押されてたどりつけないのです。
何回も何回も必死の力で試みましたが、結局は舟が下流に流されて、向こう岸には行けなかったのです」というもの。
この患者さんに「死ぬと、三途の川を渡り、向こう岸には美しい光と花に満ちた世界があると、これまでに聞いたことがありますか」と尋ねたところ、「そんなことはまったく知りません。初耳です」とおっしゃる。
この「奇妙な夢」は心肺停止の状態のときに見たものであろう。「三途の川」「美しい花が乱れ咲く彼岸」について、まったく知らなかった人がこうした表現をするのだから、臨死体験をした人の「共通の表現、風景」は真実なのかもしれない。
この人は、きっと霊(神、気、スピリット…)の力で、此岸(この世、現世)に引き戻されたのであろう。
石原結實『死んだらどうなる』ビジネス社、2018、(pp.55-58)
*****
33-z (世界の科学者の疑念を払拭した臨死体験の実例)
医師や科学者が臨死体験の信憑性を判断する上で最も重要とするチェックポイントは、臨死体験が起きた際の体験者の状態。臨死体験時に体験者の脳の働きが止まっていたと科学的に推測できるか否かだ。
医師に臨死体験の現実性を認めさせる決定打になったとされるのは、1991年に米国アリゾナの病院の手術室で起きた、パム・レイノルズさんの臨死体験だ。
このケースは、予期せぬ臨死ではなく、人工的に心肺機能を停止させ、脳も機能停止したことを確かめた上で開始されたハイテク手術中に起きた臨死体験だった。そのため、患者のハムさんが臨死体験をしている間も彼女の生理機能は測定器で克明に記録されていた。
パムさんの臨死体験は欧米ではテレビでも報じられ、彼女の名はウィキペディアにも載っているのでご存知の方もいるだろうが、その内容を簡単に紹介しておく。
パムさんが受けたのは低体温心停止法と呼ばれる手術で、脳にできた動脈癌を取り除くために、体温を摂氏15度程度にまで下げ、心臓の鼓動と呼吸を停止させてから脳にメスを入れる。
医師はパムさんが心肺停止状態となり、脳の活動を示す脳波計の波形もフラットになり、イヤホンから流していた音への脳の反応も消え、脳幹の機能が停止したことを確かめてから、出血を防ぐために脳からすべての血液を抜き取った。パムさんが医学上死亡したことを計器で確認してから、脳の動脈癌を切除したのだ。
切除に成功し、血液を体内に戻すと、パムさんの脳波計は波形を描きだし、脳が活動を再開したことを知らせた。やがて心臓の微細運動も検知された時点で、パムさんは電気ショックをかけられ、息を吹き返し、蘇生させられた。
その間、まったく意識がなかったはずのパムさんは、手術の前後だけでなく、手術中の様子も見聞きし、次のようにしっかり記憶していた。
麻酔を与えられ、すぐに意識を失った。骨を切るノコギリの音が聞こえてきて意識を取り戻したが、自分の視点が体外に出ていることに気がついた。手術室の空間に浮かんでいて、手術中の自分が真下に見えた。
機器が見え、「静脈と動脈が細すぎる」という女性の声が聞こえた。医師たちが自分の鼠径部で何かしているのが見え、頭の手術のはずなのに、なぜ鼠径部を触っているのか、いぶかしく感じた(医師たちは太ももの血管にバイパス装置をつなげようとしていた)。
その後、すでに他界していた祖母に呼ばれた。自然に上昇しはじめ、トンネルを抜けてまばゆい光の世界に行った。そこには光でできたような人々がいて、親戚も何人かいた。けれど、なぜかそのまま先に進めないような気がした。そこにいた伯父に付き添われてトンネルの入り口に戻ると、シーツに覆われた自分の姿が下界にあった。
死体のように見えたので、怖くなったが、伯父に押し出されて、自分のからだに飛び込んだ。冷たいプールに飛び込むような感じがした……。
手術後、意識を取り戻したときにはパムさんの意識は自分の体内に戻っていた。おかしな幻想を見たものだ、と思ったパムさんは、麻酔でいったん意識を失ってからベッドで意識を取り戻すまでの間に自分が見たことや光の世界で体験したことをベッドの周囲にいた人たちにしゃべった。それを聞いて家族は笑ったが、その場にいた医師は、青ざめた。パムさんが自分の手術中に見聞きしたと語った出来事や手術室内の描写は、現実そのままだったからだ。
医師はパムさんのコメントを報告書にはしっかり記録したが、関係者だけの秘密にした。麻酔がしっかり効いていなかった可能性があると考え、だとしたら医療ミスとして訴えられかねないと恐れたからだ。
が、あまりに奇怪な出来事だったので、パムさんの臨死体験は口コミで医師の間に広がっていった。そして手術から3年たった頃に、臨死体験の研究を始めていたアメリカの心臓専門医、マイケル・セイポム博士の知るところとなった。
医師が当時残した報告書の精査に加え、セイポム博士はパムさんや家族、手術に立ち会った医師や看護師への聞き取り調査も実施した。そして、麻酔が効かなかったためでも、虚言や幻想でもなく、パムさんの記憶は実際にパムさんの意識が体外に出てこの世ではない世界で体験したことの記憶だ、と結論づけた。
のちにパムさんのケースは、オランダの心臓外科医で臨死研究者のピム・ヴアン.ロメル博士にも再検証された。同医師がこの例に触発され、独自に調べた結果を医学論文として2001年に権威ある医学誌「ランセット」で発表したことから、世界中の医師や科学者に「臨死体験」が知られることになった。
病院の手術室で医師や計器による監視のもとで、人工的に心肺停止され、脳の血液も抜かれ、生物学的には確実に「死んでいた」間に起きた臨死体験であることが確認されていたから、医師や科学者にとっても説得力があったのだ。
エリコ・ロウ『死んだ後には続きがあるのか―臨死体験と意識の科学の最前線―』
扶桑社、2016、pp.22-26
*****
33-za (死後の世界から現実を見た視覚障害者の臨死体験)
心肺停止中の臨死体験と並んで、研究者が無視できないと注目していたのが、視覚障害者の臨死体験例だ。目の不自由な人たちが、臨死体験中には目が見えたと語り、その描写が現実の光景や周囲の人の証言とマッチしているケースが複数あるのだ。
最も有名な例は、ソーシャル・ワーカーのキムバリー・シャープさんが発表した、ビッキー・アピペグさんの体験談だ。
シアトルの病院で入院患者のカウンセリングを担当していたキムバリーさんは、交通事故で瀕死の重傷を負い、手術で一命を取り留めて入院療養していたビッキーさんから奇妙な体験を告白された。
ビッキーさんは未熟児で生まれ、保育器の中に過酸素状態で放置されたことで視神経を痛めて視覚障害者になった。物心ついたときから何も見た記憶がないビッキーさんが語った臨死体験は次のようなものだった。
交通事故でビッキーさんはいったん意識を失ったが、手術中に意識を取り戻した。が、その時には、意識が宙に浮いていた。救急救命室の天井近くから下を見下ろしていたのだ。
医師と看護師が女性のからだに何かしているのが見えた。その女性は背が高く痩せていた。花飾りのついたユニークな結婚指輪が見えたときに、自分が見ている女性は自分なのだとビッキーさんは気づいた。自分の容貌を見たのは生まれて初めてだった。
その直後に彼女の意識は上昇しはじめ、病院の天井を突き抜けて外に出た。景色が360度の視界で見渡せ、同時に風鈴のような美しい音が聞こえてきた。
次の瞬間には巨大なチューブのようなものの中に吸い込まれた。真っ暗闇のチューブを抜け出ると、木や花や野原の緑の世界で、そこには光でできたような人たちがたくさんいた。
ビッキーさんには眩しい光が見えただけでなく「感じる」こともできた。光は愛そのものであるように感じたのだ。
そこでビッキーさんは故人に出会った。視覚障害者の専門学校で一緒だったがずっと以前に亡くなった級友ふたりだった。生前には視覚障害者だっただけでなく発達障害を伴う子どもだったのだが、ふたりとも健常な大人として現れ、光り輝いていた。次に、ビッキーさんの育ての親で、やはりすでに他界していた祖母も現れた。
どの人も外見を見るのはビッキーさんにとっては初めてだったが、不思議なことに誰が誰だかはすぐに分かった。
ビッキーさんはやがて、そこが全知の世界だと気づいた。そして自分の隣にいて、誰よりも明るく輝いているのがキリストだと感じた。キリストは優しかったが、「あなたはこの世界に留まることはできない。地上に戻らなければならない」とビッキーさんに告げた。
ビッキーさんは「帰りたくない」と言ったが、キリストに「子どもを持つために帰りなさい」と言われて帰る気になった。事故にあう前に、自分が子どもを産むことを切望していたのを思い出したからだ。
ビッキーさんは「帰る前に見ていきなさい」と言われ、自分が生まれたときからの全人生を見せられた。パノラマのように、すべての角度から自分の体験が見え、自分の言動のひとつひとつが周囲にどんな影響を与えていたのかを悟った。この人生の回顧が終わると、キリストに「もう帰ってよろしい」と言われた。
突然、ジェットコースターで逆行するような感覚に襲われ、次の瞬間には自分の体内に戻っていた。光も何も見えない、元の自分に戻っていた。
ビッキーさんがこの不思議な体験をキムバリーさんに語ったのは、「臨死体験」という言葉が知られるようになる前のことだった。普通のカウンセラーなら、「たぶん薬の影響でおかしな夢を見たのでしょう」と、患者をなだめて終わってしまったところだったろう。
しかし、この話を聞いたキムバリーさんは普通のカウンセラーではなかった。実は彼女自身が昔、18歳のときに、急に道に倒れて意識を失い、その間に、意識がからだの外に出てしまい、自分のそれまでの人生を他人の立場から見た、という不可思議な体験の持ち主だったのだ。
エリコ・ロウ『死んだ後には続きがあるのか ―臨死体験と意識の科学の最前線―』
扶桑社、2016、pp.26-29
*****
33-zb (天国で亡き夫に再会したエリザベス・テーラー)
30年以上前にいったん死んで帰ってきたことがあると1990年代になってから語りだしたのは、エリザベス・テーラーだ。
彼女は自分でも頭がおかしくなっていたのだろうと思い、長い間口にするのをやめていたが、自分と似たような体験を語る人が増え、自分の記憶も実際に起きた臨死体験だった、と考えるようになったという。オプラのトークショーだけでなく、CNNの人気トークショー「ラリー・キング・ライブ」やABCのニュース番組にも出演して、体験した内容を次のように語った。
病院の手術台にいたときに、意識がからだの外に出てしまった。医師たちが、「だめだった」と死亡宣告をしようとしたので、死んではおらず元気だよと知らせようとして、手足を動かそうとしたが、動かなかった。
やがて、頭上の白い太陽のような眩しい光のほうに向かって、トンネルを抜けた。そこには3人目の夫で3年前に飛行機事故で急死したマイケル・トツドがいた。まだ夫の死を深く悼んでいたところだったので、再会できたのを大喜びしたが、「まだここに来てはいけない。闘い抜いて生き返れ」と言われた。マイケルとは離れたくなかったが、気がついたら、自分のからだに戻っていた。
周囲を11人の医師に囲まれていた。壁には自分の死亡時刻が書かれていた。5分間死んでいて、生き返ったのだった。
自分が本当に死んでいたのか、夢を見ていたのかは分からなかったが、マイケルに会った不思議な記憶を、忘れてしまわないうちに、と医師たちにすぐにしゃべった。その後、もう一回、人にしゃべったが、われながら正気の沙汰ではないと思うようになり、口にしなくなった。
エリザベス・テーラーが臨死体験について再び口を開いたのは、エイズで多くの人が若くして死ぬようになったからだ。そこで、エイズの専門誌で死後の世界に行ったことを公表することにした。臨死体験を経て、死を恐れなくなったこと、死は恐るに足りないことを伝えて、エイズによる死を恐れている人々に心のやすらぎを与えたい、とエリザベス・テーラーは考えたのだった。
エリコ・ロウ『死んだ後には続きがあるのか ―臨死体験と意識の科学の最前線―』
扶桑社、2016、pp.99-101
|