学びの栞 (B) 


 36. 人はどのようにして生まれるか

 B36-a (人はどのようにして生まれるか)

 人間は死後、その人の過去の想念や行動によって、その霊魂の幽界における生活が決まり、その霊魂が種々の苦難や悲哀、あるいは喜びを味わいつつ、進化に役立つ行をするのであるが、これ以上は幽界における経験よりは、肉体界における経験のほうが、よりその霊魂の進化を促進させるに役立つと、その霊魂の教育に当たっている先輩霊(高級霊)あるいは守護神が思った場合、肉体界誕生の待合場へその霊魂は移され、そこで肉体界誕生の日を待つのである。この場合、よほど高級な霊魂以外は意識を睡らされているのである。意識があっては、幽界の微妙な波動の世界から、肉体界の粗い波動の世界に転移することが、非常に苦痛であって、普通の霊魂では耐え得られぬからである。もっとも高級な霊魂の中には、意識したまま、この苦痛を耐え忍び、母体にある程度住して、あるいは、赤児と誕生して直ちに、再び霊界に還って、自己の業因縁を、すっかり解脱してしまうものもある。
 普通級の霊魂は、待合場に移されて以来、幽界の記憶を喪失したまま、誕生し、また再び肉体の死まで、過去の記憶を失ったままでいるのである。そうして幾度びか、死から誕生、誕生から死へを繰りかえしつつ、業因縁を解脱してゆくのである。
 この誕生する霊魂は、過去世において、その父母の、どちらかに深い因縁(関係)を持つ霊魂で、血縁が多く、その想念の周波数が、類似している。そのために、子は親にその姿形がよく似ているのである。
 しかし時には血縁でない場合もあるが、これとて、その想念の周波数が類似している霊魂であることには違いない。
 周波数が類似していても、その霊魂の光の大きさや、浄まり方の違い、過去世からの経験の違いによって、親子でありながら、親とは雲泥万里の差のある大人物も生まれ、小人物もできあがるのである。
 もっとも胎教や、誕生後の教育の相違も、親子の差を違える力になっている。
 ここで大事なことは、幽界の待合場には、多くの霊魂が、その誕生を待たされているのであり、その中にはA夫婦なら、A夫婦の関係霊魂も幾人かいるわけであって、肉体界のA夫婦の性交時の心の波動の高低や、想念の種類によって、その中の、その時のA夫婦の想念に一番適合する霊魂が、宿ってくるのである。
 例えば、A夫婦が、高い浄らかな気持で、性交を営んでいる場合は、高い浄らかなる霊魂が宿り、争いの想念を持ちながらの営みの場合は、荒々しい霊魂が宿るのである。
 だから、夫婦関係というものは非常に大事なもので、善良な立派な子供を欲するならば、胎教や、生後の教育よりも、性交時の夫婦の心の持ち方が、さらに一層大事なのである。
 この誕生については、夫婦それぞれの過去世からの因縁や、性交時の想念などを、守護神が、観じて、その児を宿らせるのである。
 また、生まれ変わりの年限は、その霊魂の因縁によって違うが、近来、非常にその年限が短縮されて、死後二、三年や、七、八年で生まれ変わる人がたくさんできている。しかし霊そのものが生まれ変わるのではなく、魂(幽界に蓄積された想念、普通霊魂と呼はれている)が魄(すなわち肉体となる原子)を、寄せ集めて、肉体界に生まれ変わってくるのであ。そのすべての原動力は、その人のみ霊元、いわゆる直霊から来て、守護神が、その誕生を、指揮するのである。であるから、Aという人間が、肉体界に生まれ変わりとして生活していながら、前生からつづいているAという霊魂の想念は、幽界にも生活しているのである。いわゆる二重写しのようになっているのである。もっといいかえると、想念は霊、幽、肉の三界を貫いて活動している、ということになり、その想念活動の力は、分霊から発しており、その元は直霊にあるのである。しかし、 こうした説明は実にむずかしく、ややこしいので、普通は霊魂の生まれ変わり、と簡単にいっているので、そうした説明だけで納得されてよいのである。ただし、この現界を、現世(うつしよ)、というのは写世(うつしよ)、霊界から写し出されている、という意味の言葉であるのだ。

  五井昌久『神と人間』白光真宏会出版局、
         1988 、pp.77-79


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 B36-b (人は自分の両親と環境を選んで生まれてくる)

 人はみな永遠の存在である。腕に抱かれた幼な子や赤ん坊も、星々と同じく大昔から存在している。意識は永遠であり、不滅なのだ。
 人は自分の人生の境遇を選択する。もしこちらの領域に来てみたなら、みなさんの世界に生まれ出る機会を切に待ち望む、数知れない仲間たちを目のあたりにすることだろう。彼らは地上の喜びと豊かな環境を懐かしがり、切望している。また多くの人にとって魂の領域自体も学ぶべきことは多いのだが、「地球学校」という意義深い領域にとってかわることはできない。
 この話を聞いて衝撃を受ける人も少なからずいるにちがいない。みなさんは、
 「本当にそうなのだろうか」
 と訝しむかもしれない。これが、多くの社会の文化的枠組みの中で受け入れられている生についての考え方に反するものだからである。「赤ん坊はたまたま生まれてきただけで、みずから選択して生まれてきたわけではなかろう」
 だが、これはまったくの間違いなのだ。
 赤ん坊はすっかり成熟した、完全に進化した魂であり、魂の領域では成人の姿をして見える。もし彼らの魂がこの世でさらに勉強するように駆り立てれば、彼らは自分たちが入っていくのにふさわしい環境を検討し、探す。彼らは母親を探し―彼らは、すでに「妊娠している」女性を注意深く観察することがよくある―そして一種の宇宙の順番待ちのリストに登録する。家柄を慎重に調べ、適切な縁組を探すのはわたしたちの領域にいる多くの者たちの仕事だ。そんなわけで赤ん坊はみなさんの世界への新参者ではなく、おそらくその両親と同程度の年月を経ているのである。両親が子供から非常に多くのことを学ぶのも不思議はない。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』片桐すみ子訳
    人文書院、1996、pp.18-19


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 B36-c[50-g] (あなたは自分で選んでこの地上に戻ってきた)

 あなたがここに戻ってきたのは、自分でそれを選んだからであり、自分で選んだ身体を通してやってきたのです。あなたの母親の卵子と父親の精子から、この「創造する幻」という次元で自己を表現するために自分の身体をつくり出したのです。前にしたことの帳尻を合わせるためにここに戻って来たのではなく、固体という存在を通して進化し、この次元での体験から得られる感情の中で自分を完成させるためなのです。
 あなたがここにいるのは、それがどんなところであろうと、自分がいたいからそこにいるのだ、ということを学ぶためです。叡智を学び、生の場でそれを実践するために、あなたはここにいます。この人生で(また、これから自分が望むだけ繰り返す幾度の人生でも)、あなたがここにいるのは、この幻を生き、魂が叡智という命を満たすのに必要なすべてを体験するためです。そして、この次元での体験から豊かな感情を得たとき、あなたはもはやここに戻る必要もないし、そう望むこともなくなります。そして、自分がいつここでの体験を全うしたのかを判断できるのはあなただけです。ほかに誰もいません。
 主よ、あなたは神になるためにここにいるのです。そして神になるためには、自分の存在からすべての法律、すべての宗教的な教義、すべての儀式的な慣行を取り除き、思考過程を限りないものにしなければならないのです。自己表現の無限の自由、けっして死ぬことのない身体、そして存在の平穏とよろこびを望めば、あなたがいま生きている生は完全に無限のものであることを知るでしょう。それをあなたが知ったとき、生は無限になるのです。なぜなら、自分の存在の中で真実として知ったこと、望むことはすべてそのとおりになるからです。あなたが自分の世界で受け容れる必要のある法は、これだけです。
 自分は永遠の存在であること、これまでも失敗は何ひとつないこと、そしてこれまであなたがおかしたたったひとつの間違いとは、何か間違いをしたと信じたことだということを知りなさい。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 197-198

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 36-d (人間はどのようにしてこの世に誕生してくるか)

 人間は死後、その人の過去の想念や行動によって、その霊魂の幽界における生活が決まり、その霊魂が種々の苦難や悲哀、あるいは喜びを味わいつつ、進化に役立つ行をするのであるが、これ以上は幽界における経験よりは、肉体界における経験のほうが、よりその霊魂の進化を促進させるに役立つと、その霊魂の教育に当たっている先輩霊(高級霊)あるいは守護神が思った場合、肉体界誕生の待合場へその霊魂は移され、そこで肉体界誕生の日を待つのである。この場合、よほど高級な霊魂以外は意識を睡らされているのである。意識があっては、幽界の微妙な波動の世界から、肉体界の粗い波動の世界に転移することが、非常に苦痛であって、普通の霊魂では耐え得られぬからである。もっとも高級な霊魂の中には、意識したまま、この苦痛を耐え忍び、母体にある程度住して、あるいは、赤児と誕生して直ちに、再び霊界に還って、自己の業因縁を、すっかり解脱してしまうものもある。
 普通級の霊魂は、待合場に移されて以来、幽界の記憶を喪失したまま、誕生し、また再び肉体の死まで、過去の記憶を失ったままでいるのである。そうして幾度びか、死から誕生、誕生から死へを繰りかえしつつ、業因縁を解脱してゆくのである。
 この誕生する霊魂は、過去世において、その父母の、どちらかに深い因縁(関係)を持つ霊魂で、血縁が多く、その想念の周波数が、類似している。そのために、子は親にその姿形がよく似ているのである。
 しかし時には血縁でない場合もあるが、これとて、その想念の周波数が類似している霊魂であることには違いない。
 周波数が類似していても、その霊魂の光の大きさや、浄まり方の遠い、過去世からの経験の違いによって、親子でありながら、親とは雲泥万里の差のある大人物も生まれ、小人物もできあがるのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.77-78

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 36-e[43-b] (私たちは自分の選択によってこの地上に生まれてくる)

 皆さん、物事には常に反対の側面があります。人間は地上においても、地上を去った後でも、自らの心と肉体による拷問に苦しめられるかもしれませんが、同時に、より高い世界に到達することもできます。そして実際に到達するのです。地上での生活に関して言えば、私たちは自分自身の選択によって肉体をもって生まれてくるのだ、と覚えておく必要があります。私たちに内在する選択の権利によって、私たちは地上におけるある状況に志願し、選択します。それは、私たちの本来の自己が、肉体をもった人生において最も貴重な体験をもたらしてくれるであろうことを知っているような状況です。
 どんな人であっても、その誕生日、誕生の場所、誕生の状況・環境といったものが、単なる偶然であるなどとは考えないでください。これからその魂が進化する出発点となる、地上での生活のすべては、いずれは、はっきりとした、神の意思に基づいた計画と一致しなければなりません。神聖な計画を知り尽くしているがゆえに、イエス・キリストは次のように言われたのです。「一羽の雀が地に落ちるのも、神の知らないことではない。あなたの髪の一本一本がすべて神の知るところである」
 これは真実です。すべての計画は神の御心にあり、神は常にあなたをその掌に置いておられるのです。
 人間はあらゆる体験の中で、自分自身の勇気と努力によって生きていくことを学ぶ必要があります。人間は本来の自分を発見しなければならないだけでなく、自分自身の本性をコントロールしなければなりません。これをするまでは、人間は自分の霊がもっている、無限ともいうべき可能性を実現することはできません。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳) 講談社、1994年、pp.168-169

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 36-f[47-a] (メーテルリンクの『青い鳥』に含まれている霊的真実)

 こちらの世界から、著名な作家のインスピレーションがどこから来ているのかを見ていると、じつに興味深いものがあります。メーテルリンクの『青い鳥』を思い出します。その本の中に、子供たちが地球に戻るべく名前を呼ばれるのを待ちながら、みんなが集まっている場面があります。
 それぞれの子供は袋を持っていて、その袋には、地球に持ってかえる贈物や知識だけでなく、自分が患うことになる百日咳や狸紅熱といった病気も、きちんと包まれて入っています。子供たちは、星の海を“父なる時”の船に乗って渡り、地球で待っている母親のところに帰ろうとしているのです。
 ただのおとぎ話だと言う人もいるでしょう。しかし、ここには、大変な真実が述べられているのです。それはおそらく、宇宙存在から降りてきたか、作者の自我の前意識のレベルから出てきたものでありましょう。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.264-265

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 36-g[17-q] (病苦を体験する覚悟をしてこの世に誕生する幼児)

 これまで、伝染病を除いて、すべての人間に共通した病気について述べてきました。多くの病気は前意識にその源を発しているということから考えてみると、なんの原因も理由もなく、伝染病がまるで野火のように、あっというまに広がっていくというのは理解しがたいかもしれません。しかし、この場合でも、相当多くの人々は伝染病に罹患しません。クリスチャンサイエンスを実行している人々はその一例です。つまり、人間の意識的な心は、このような問題に関しても、ある程度のコントロールができることを実証しているのです。
 クリスチャンサイエンティストが守っているのは自分自身の精神の活動だけではありません。伝染病にかかるという特定の体験をする必要がないところまで彼らは進化しているのです。伝染病にかかる人々は、この体験をする機が熟した人々であり、それによって教訓を学ぶことになっている人々だとも考えられます。
 これに同意する人は、ほとんどいないかもしれません。そしてこう聞くでしょう。「なぜ幼い子供が伝染病にかからなければならないのでしょうか。子供は純真無垢なのに、どうして守られないのでしょうか」
 どんな肉体の病気であっても、その背後に横たわっている原因を明らかにしようとすれば、広い領域を扱わなければなりません。ここで再び繰り返しますが、子供たちは、病気や苦しみ、あるいは健康や幸せ、その他もろもろの、人間生活を構成し、かつ人格の形成に資する人生の浮き沈みを体験する覚悟をして、この世に生まれてくるのです。
 しかし、伝染病は必要悪ではありません。そのうち、霊の法則がよく理解されるようになるにつれて、伝染病はなくなるでしょう。現在でも、どうすれば自分を守れるかということをわかっていれば、伝染病にかかる必要はないのです。意識的な心、および無意識の心によって支配されている肉体の細胞の生命が、伝染病の侵入を許しているとも言えるのです。もしも意識的かつ無意識的な思考の活動によって十分な抵抗をするならば、肉体の細胞は伝染病を退けることができるのです。
 したがって、子供は初めから、正しいものの考え方の訓練を受ける必要があります。子供の教育は七歳から始めるのではなく、生まれたときから始める必要があります。親も看護婦も、幼児はまわりの環境から、両親や看護婦、親戚の人々、友達が漂わす雰囲気から、良い考えであれ、悪い考えであれ、吸収するのです。肯定的な思いを与えられた子供は健康の息吹を与えられたのであり、肉体的にも、精神的にも、霊的にも、生き生きと元気よくなり、あらゆる原因による病気に対して抵抗力をもつことでしょう。
 子供の健康と幸福についての真実は、徐々に理解されるでしょう。まもなく、人類は自分の任されている幼い魂への責任に目覚め、この目覚めを通して、地球全体への責任に目覚めることでしょう。

  アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.276-278

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 36-h[17-n] (人は前世の罪を払拭する手段として癌を選ぶこともある)

 癌は場合によっては土のサインで現れることがありますが、常にそうであるとは限りません。というのは、癌はときとして、前世のある段階で、きわめて神聖な法則を破ったことに起因していて、患者がその罪を払拭する手段の一つとして癌を選ぶということもありうるからです。
 医学界は、癌の治療法とはじつは患者のエーテル体の治療だということを発見するときが来るでしょう。この治療は、特定の薬または薬草によってエーテル体に根気強く働きかけるのです。薬草としては、“リンドウ”が最も効果的でしょう。光線による治療も効果を発揮するでしょう。真珠色の光線は、エーテル体の浄化の光線として最も効果的です。
 霊体を構成するエーテルの物質が、薬草または光線の働きによってリラックスしてゆったりとすると、肉体に居すわっていた癌は分散して消えるでしょう。癌はふつう、体の特定の部分に現れますが、常に一定の場所に特定できるとは限りません。手術をすると、刺激物だけがあるというような例がよくあるのです。この刺激物は、血液の中を駆け回って、べつなところに居すわったりするのです。

  アイヴァン・クック編『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.272-273

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 36-i[43-d] (私達は生まれる前に自分の人生の計画を立てている)

 偶然でもなく偶然の一致でもなく、私達は私達の家族の一員として生まれます。私達は母親が妊娠する前に、自分の環境を選び、人生の計画を立てているのです。計画を立てる時には、愛に満ちた霊的存在に助けられます。そして彼らは私達が肉体に宿り、人生計画がひもとかれてゆく間、ずっと私達を導き守ってくれます。運命とは、私達がすでに選択した人生のドラマのもう一つの名前なのです。
 私達は生まれる前の計画段階で、これからの人生に起こる主要な出来事や、運命の転換点を実際に見ています。そしてその証拠は、沢山存在しています。私を含めてセラピスト達が集めた、催眠状態ないし瞑想中に、または自然に、生まれる前の記憶を思い出した沢山の患者の臨床記録がそれです。私達が出会う重要な人々、ソウルメイトや魂の友人との再会、こうした出来事が起こる場所に至るまで、すべて計画されているのです。デジャヴユ、すなわち、初めての場所や出来事なのに、ここにいたことがある、この一瞬は知っているという感覚は、生まれる前に人生の下見をした時の記憶であると、説明することもできます。あらかじめなされた計画が、実際の肉体を持った人生で実現に至ったということなのです。
 これはすべての人々にあてはまります。しばしば、養子や養女になった人々は、自分の人生計画は歪められてしまったのではないか、と考えます。しかし、答えは「ノー」です。養父母もまた、産みの親と同じように生まれて来る前に選ばれているのです。すべてのことには理由があり、運命の道には何一つ、偶然はありません。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.70-71

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 36-j (魂は特定の母親の体を受胎された頃に予約する)

 私が退行催眠を施した患者達の体験から得た結論は、魂は特定の体を、受胎された頃に予約するらしいということです。その後は他の魂がその体に入ることはできません。しかし、体と魂の結合は、生まれる瞬間まで完成しません。その前までは、生まれていない子供の魂は、体の中にも外にもいることができます。時には、向う側の世界での体験を覚えている場合さえあります。また、自分の体の外、またはお母さんの体の外で生じた出来事まで、知っています。
 魂は決して傷つけられません。流産も中絶も、魂を傷つけません。妊娠が最後までうまく行かなかった時、その同じ魂が、同じ親に生まれる次の子供の体に宿ることも、珍しくありません。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、p.72

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 36-k (900グラムで生まれた人生は責め苦ではなく祝福であった)

 小さなころから、わたしには三つの疑問があった。自分らしさがはっきりしない三つ子に生まれたのはなぜか?父はなぜあれほど頑固なのか?母はなぜあれほどやさしいのか?
 なるべくしてそうなっていたのだ。それは「計画」の一部だった。
 どんな人にも守護霊または守護天使がついていると、わたしは信じている。霊や天使は人間の生から死への移行に手を貸し、生まれる前に両親選びを助けてくれているのだ。
 わたしの両親はスイスのチューリッヒに住む、典型的なアッパー・ミドルクラスの、保守的な夫婦だった。ふたりとも、とくに目立つこともなく旧弊な価値観のなかで生きていた。チューリッヒ最大の事務用品会社の副社長だった父は頑健で、まじめで、責任感の強い、堅実な男だった。その濃褐色の目には、人生におけるふたつの可能性―自分のやりかたとまちがったやりかた―だけが映っていた。
 その一方で、父には貪欲なほどの生への熱情があった。家庭ではピアノを囲む家族の合唱を大声で歌いながら指揮し、スイスの壮大な自然美の探索をなによりも好んでいた。信望あるチューリッヒ・スキークラブの会員としての父がいちばん幸福だったのは、アルプスでスキーか登山かハイキングをしているときだった。その資質は子どもたちにも受け継がれていた。
 母は父ほど熱心には山歩きをしなかったが、いつも日に焼け、ひきしまったからだで、みるからに健康そうだった。愛くるしく、主婦としての腕も立ち、そのことが自慢だった。料理は玄人はだしだった。着る服の多くは自分で縫い、あたたかいセーターを編み、いつも家をきれいに片づけ、ガーデニングに精をだして、近所の人たちからほめられていた。父の仕事を陰でしっかりと支えていたのも母だった。兄が生まれてからは、良き母親であることに献身した。
 しかし、母の理想を完成させるためには、もうひとりかわいい娘が必要だった。母はたちまち二度目の妊娠をした。一九二六年七月八日、いよいよ出産がはじまるとき、母は巻き毛のマフィンのような女の子の誕生を祈った。人形のようなかわいい服を着せたいと願っていた。陣痛のあいだ、年老いた産科医のB先生がつき添っていた。母の状態を伝え聞いた父が、期待に胸をふくらませながら会社から駆けつけた。医師の手が赤ん坊をとりあげた。死産のケースを除けば、分娩室にいた医療スタッフの全員がはじめてみるようなちっぽけな未熟児だった。
 それがわたしの誕生だった。体重は九〇〇グラムしかなかった。医師はわたしの小ささに、というより、外観にショックを受けた。わたしは二十日鼠の赤ん坊のようにみえた。スタッフはだれもわたしが育つとは思わなかった。それでも、父はうぶ声を聞くとすぐに廊下に飛びだしていった。そして、電話で祖母に「また男の子だ」と知らせた。
 分娩室にもどった父は、看護婦から「キューブラー夫人はお嬢さんをお産みになりましたよ」と告げられ、あまりに小さな未熟児は性別がわかりにくいことがあると教えられた。父は電話機までひき返して、はじめての女の子であることを祖母に伝えた。
 「名前はエリザベスにするつもりです」父は誇らしげにいった。
 母をねぎらうつもりで分娩室にもどった父は、またもや驚かされることになった。ふたり目の女の子が生まれたばかりだったのだ。わたしと同じく、その子も九〇〇グラムのやせっぽちだった。父がその朗報を祖母に知らせてもどってくると、母はまだ産みの苦しみに耐えていた。まだよ、もうひとりいるの、と母は強い口調で訴えた。父は母が疲労のあまりに意識が混濁しているのだと考え、経験豊かな老女医は首をかしげながらも父の意見に同意した。
 ところが、母の陣痛がとつぜん頻度をましはじめた。母はいきみだし、やがて三番目の女の子が生まれた。その子は大きく、体重も三キロ弱と、先に生まれたふたりの子の三倍もあった。しかも、その子の頭には巻き毛が生えそろっていた! 母はぐったりとしながらも期待で身ぶるいをしていた。ようやくのことで、九か月間夢みてきた娘が生まれたのだ。
 老女医のB先生は千里眼を自認している人だった。長い職歴ではじめてとりあげた三つ子の顔をしげしげとながめながら、B先生は母にわたしたち三姉妹の将来を告げた。最後に生まれたエヴァはずっと「母親の胸にいちばん近いところ」にいる、二番目に生まれたエリカはいつも「中道を行く」、と告げたあと、B先生はわたしが姉妹にしてみせた仕草をまねしながらこういった。
 「この子についてはなんの心配もいらないね」
 翌日、地元の新聞は全紙をあげてキューブラー家の三つ子誕生を華々しく報じた。その見出しを読むまで、祖母は父がばかげた冗談をいっていると思っていた。祝宴は何日もつづいた。浮かれた雰囲気に鼻白んでいたのは兄ひとりだった。かわいい王子様だった日々はとつぜん終わりを告げ、気がつくとおむつの山の下敷きになったまま葬り去られていた。重い乳母車を押して丘をのぼり、三人の妹がおそろいの便器にまたがるのをながめていなければならなかった。後年、兄が家族から距離をとるようになったのは、そのときの疎外感が原因であることはまちがいない。
 わたしにとっても、三つ子であることは悪夢でしかなかった。もっとも憎む敵にさえみせたくないような悪夢だった。妹のふたりと自分のちがいがわからなかった。三人ともそっくりだった。もらうプレゼントも同じだった。先生も同じ成績をつけた。公園を歩いていると、かならず「どの子がだれ?」と聞かれた。母でさえ区別がつかないときがあるといっていた。
 こころの重荷としてはかなりのものだった。わずか九〇〇グラムで生まれ落ち、育つ見込みがほとんどなかったことに加えて、子ども時代のすべての時間が「自分はだれか」を知ろうとする試みに費やされたのである。わたしはいつも、人の一〇倍の努力をして人より一〇倍も価値が……なにかの価値……生きる価値があることを示さなければ、と感じていた。それが毎日の責め苦だった。
 いまにしてようやく、それが責め苦ではなく祝福であったことがわかる。そうした苦境は、まだ社会にでる前に、みずからが選びとっていたものだった。かならずしもよろこばしいものではなかったかもしれない。望んだものではなかったかもしれない。しかし、その経験こそがわたしに、待ち受けるできごとのすべてに立ち向かう勇気と決断力と耐久力をあたえてくれたのだ。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.23-27

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 36-l [23-zj](霊的存在である私たちは永遠に学習し向上していく)

 わたしたち個々の人間は過去生におけるあらゆる体験から成り立っています。つまり、現在の人生は、ポジティブなものにせよネガティブなものにせよ、そういった過去から持ち越した思考や活動や行為のいわば寄せ集めなのです。わたしたちは過去のカルマに応じて、それぞれの霊的成長に欠かせない経済事情や社会的地位を持つ家族のもとへ再生してきます。
 現世の肉体に宿る前に、魂は霊界で新しい人生の準備を始めます。前世で興味や経験を持った仕事の分野に戻るのが一般的です。たとえば、ある魂が二〇二一年に医師として現世を体験する予定だとしましょう。その魂はガイドや教師たちとともに必要な技能を習得し、その時代の医学分野の技術革新について研究します。人類を襲う新しい病気や疫病についても学ぶかもしれませんし、医師という仕事を通じて現世の人びとに知識と愛を広める方法を身につけることでしょう。こうした知識が身についたところで、魂は新しい人格に融合されます。人類の未来に参加し、多くの人びとの命に関与するという重要性をこの魂は理解しなければなりません。
 霊的存在であるわたしたちは永遠に学習し、進歩し、向上していきます。わたしたちにとって転生とは、肉体を以て何を成し遂げ、何を学ぶのか、その青写真のようなものです。従って、わたしたちは霊的な成長と自覚のために最も望ましい機会や経験を現世で選びます。わたしたちのカルマには次の転生のタイミングとそこでの体験がからみあっているのです。
 結局のところ、わたしたちはすべて“愛”を学ぶためにこの現世にいるのです。単純に聞こえるかもしれませんが、決して簡単なことではありません。愛にはたくさんの諸相があります。わたしたちがまず最初に学ぼうと考えるレッスンのなかに自己愛があります。自己に対する愛と自覚がなければ他人を愛する方法もわからないでしょう。自己と他者に対する無条件の愛を会得して初めて、わたしたちは啓発され、因果という自然法則を尊重するようになるのです。決して自分たちがよいポジションにつきたいからではなく、それがただひとつの道だとわかるからです。この法則を理解し、これを実践することで、わたしたちは互いの独自性を尊重するようになります。そして、同胞である人間と協調し、全体の向上をめざして生きていけるようになるのです。

  ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』
    中井京子訳、光文社、1998、pp.153-154

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 36-m (人が特定の環境を選んで生まれてくるのには理由がある)

 赤ん坊が特定の環境に入っていくのには、特別な理由がある。人には、自分の性格の中に、いわば「肉付け」したいと望んでいる部分があるものだ。たとえばある人が過去生で他人に対して寛容さが足りないという問題をかかえていたとしよう。謙遜さを学ぶために、その人は貧困を体験する家族の中に生まれていくことを選択するかもしれない。前世で国籍や人種、性別によって他人を差別した人がいるとする。その場合、その人物は自分が他人に対して犯した罪である不公平さを別の側面から体験するために、少数民族の中に生まれることを選ぶかもしれない。もしあなたがある人を深く愛し、前世で愛を打ち明けることができなかったとしよう。するとあなたがたは共に相思相愛になれる環境に生まれてくることを選択するかもしれない。ある魂が、前世において暴力をふるったり残酷な行いをしたとすれば、過去の行動で掛かり合ったことがらすべてを悟るような環境または体験を選択する場合もあるだろう。一介の農夫としての人生を何度も送ってきたら、こんどはコンピューターの達人としての人生を試してみたくなるだろう。ある人生で魔女を火あぶりにしていれば、別の人生では濡れ衣を着せられた女性となるかもしれないのだ。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.19-20

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 36-n[23-zl] (人はなぜ前世の記憶を失ってこの世に生まれてくるか)

 さて、ジュディーはわたしにこう尋ねている。人間は、より大きな魂のことや肉体をまとってこの世に出現してからの長い歴史、森羅万象との密接な結びつきのことなど知らずに生まれてくるが、それはなぜだろうか、と。答えはある意味で単純なことだ。もし前世の記憶が戻ったなら、そのせいで今の人生に焦点をあわせることが困難になってしまう。みなさんは今回の人生以前に、あまりにも多くの人生を体験してきているのだ。
 だがこれまでに、人間と人間のまわりに存在する精霊たちとの関係がもっとはっきりと理解されていた文化が存在していた。現在の文化でも、直観的・神秘的な知識の役割を重要視しているものがいくつかある。そのような知識がもっとも高度な人間的表現となってあらわれたものが、あらゆる生命― あらゆる人間、あらゆる地上の生物、あらゆる自然の力や生命のサイクル― への畏敬の念なのである。すでにこの世にやってきたものたちや現在ここにいるものたち、そしてこれからやってくるものたちに対する心からの尊敬の念なのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.23-24

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 36-o[65-p] (生まれる時には過去を忘れることが絶対に必要である)

 さいごに、みなさんが記憶を失っていることについて触れておこう。地球環境に入りこむとき、みなさんは自分がどこからやってきたのかを意図的に忘れてしまうが、この忘却は人間の体験には絶対必要なことなのだ。人間は自分のことを真剣に考えるように創られているのである。人生とは偉大で高貴なプロセスであり、そこには学びの道具としての途方もなくすばらしい可能性がある。各個人にとって、人生は一種のテストなのだ。もし前もってテストの問題を知ってしまったら、試験勉強にしっかりと身が入らないことだろう。このように、課題を完全に理解してないからこそ必死に試験勉強に取り組めるのではないだろうか。人生でも同じことだ。人生のすべての学課を吸収するためには、こちら側からあらかじめ知識を得たり十分理解していない情報を押しつけられることなく、ひとつの人生だけに焦点を合わせることが一番なのだ。
 地球はテストのための場、それも非常にすばらしい場所である。みなさんは誰もがみずから選んで地上にいるのであって、この地球が創造されたのも、みなさんの喜びのためであり、また願いを満足させるためなのである。

  ジュディー・ラドン『輪廻を超えて』
    片桐すみ子訳、人文書院、1996、pp.25-26

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 36-p (両親はあなたにもっとも大きな影響を及ぼす魂たちである)

 あなたの両親は、あなたの人生のなかで、もっとも近い関係にあり、あなたにもっとも大きな影響を及ぼす魂たちである。これは、たとえそのようには見えなくても、つねに真実である。あなたが両親や片親と、生まれてすぐに生き別れになったような場合でも同じことである。
 あなたの魂と両親の魂たちは、いっしょにバランスをとる必要のあるエネルギーのバランスをとるために、あるいは、双方ともが学ぶべきことを学ぶために不可欠な、それぞれの内側にある力を活性化する目的で、今回、親子の関係になることに同意したのである。あなたは、自分のカルマ的交流、すなわち自分の魂の別の人生における交流体験を認識しないかぎり、親(または兄弟、姉妹)との交流を通じて獲得しうる覚醒の深さを理解できない。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、p.216

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 36-q[23-zr] (この宇宙では思いやりを伴わない出来事はひとつとしてない)

 あなたは、恋人、あるいは配偶者を捨てたことがあるだろうか? 恋人、あるいは配偶者に捨てられたことは? もしあるとしたら、あなたたちの魂は、別の人生(複数の場合もある)のなかでいっしょに体験した、双方が引きつづき癒しを体験することの可能な特定の状況を、この人生のなかに設定することに、深い思いやりをもって、優雅に合意していたのかもしれない。
 あなたがたの魂は、もしかしたら、かつていっぽうが体験したのと同じつらい喪失を、もういっぽうも体験することで、エネルギーの相互バランスをとる、という合意に達していたのかもしれない。この種の体験が無意味な痛みをつくり出すことはけっしてない。この宇宙のなかで、思いやりをともなわない出来事はひとつとしてないのである。

  ゲーリー・ズーカフ『魂との対話』坂本貢一訳
     サンマーク出版、2003、p.216

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 36-r[18-i] (生まれる前に想像を越えた悲しみを選択することもある)

 この世に来る前、私達がスピリットの存在であった頃、ある時点で私達の意識は地上界で起こることを選択することになっている。その際、重篤な病気、ハンディキャップ、未熟児死亡、あるいは愛する人を失うなどのように、自らすすんで困難や試練を選ぶこともある。自分に近しい人を失くす事は心臓がやぶれるほどの経験であろう。恐ろしい歴史的な事件に巻き込まれたり、想像を越えた悲しみを選択するスピリットもいる。
 しかし、地上界に降り立つときは、その計画のこともスピリットとしての強い意識も忘れてしまう。それは人生で成長するためにもう一度見つけなければならないものだからだ。たとえば12歳のあなたが、35歳で非業な死をとげることを覚えているのなら、あなたの地上生活はどんなものになるだろうか。しかし、スピリットとのコミュニケーションにせよ、他の方法にせよ、将来起こることをちらっとでも見せられたとしたら、それは自分の人生のストーリーを解き明かすのが目的ではなく、何か大きな計画があることを意味している。

  ゴードン・スミス『なぜ、悪いことがおこってしまうのか』
    (ノーマン・テイラー・邦子訳)ナチュラルスピリット、2011、pp.202-203

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 36-s[78-g] (生まれる前に設定したコースから「横道」にそれる例)

 自殺全体のどれくらいが憑依なのかは私にはわかりませんが、自殺することを生まれる前に設定してくることは、まずありません。自殺したということは、生まれる前に設定したコースから「横道」にそれてしまったということになります。
 自分ではこの方向に行こうと、生まれる前に設定していたにもかかわらず、違う道へと行ってしまって死んでしまったということです。途中で設定とは違う方向に進むことも、多々あるんです。
 死産とか幼くして死んでしまう子もいますが、これもそういうシナリオを設定した上で生まれているわけです。そういう子供の場合には、その親に対して何らかの気づきを与えたい、親自身に変わってほしいと子供が思っている場合が多いようです。
 その他にも「ほんのちょっとだけ人間をやってみたい」という地球外知的生命体もいますから、幼くして亡くなる原因は実にさまざまです。地球外知的生命体のケースは、物質世界をほんの少しだけ味わってみたいということでしょう。(坂本政道)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
     (徳間書店、2012、p.91)

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 36-t (障害を持って生まれてくることの意味) 

 ― 障害を持つ子どもを抱えている知人がいるのですが、そうした場合も、望んで家族になったんでしょうか。
 江原 そうです。その子は、自分を受け入れてくれる親を選んで生まれてきたんです。過去の相談者の中にも、「障害を抱える子がいます」という人が幾人かいましたが、霊視すると成熟したたましいの持ち主であるケースがほとんどでした。そうしたご家庭ほど、家族の絆が強くなるものなんですよ。
 ― 「この子のために」という気持ちが強いからでしょうね。
 江原 その通りです。わが子が障害を持って生まれてくることは、大我な愛に目覚める大きなチャンスなんです。一つ言っておきたいのですが、私は「障害」という言葉が好きではありません。スピリチュアリズムの観点では、障害も個性の一つに過ぎない。なぜなら現世で生活する不便さがあるだけで、たましいには何の不自由もないんですから。
 ― ヘー、そうなんですか。
 江原 そうですよ。皆さんが障害と呼んでいるものは、たましいの乗り物である肉体の特徴に過ぎません。要はカリキュラムが違うだけなんです。
 ― 虐待とは違いますが、堕胎はどうなんでしょう。親のエゴで命を摘み取っているという見方もできると思いますが。
 江原 すべては動機しだいです。ハッキリ言っておきますが、受精の瞬間にたましいは宿っています。母体の安全が保証できないから苦渋の選択として堕胎をするなど、一部のケースを除いては、堕胎は殺人に等しい行為です。生まれたいと望む命を殺してしまう権利など誰にもないはずです。まだ若いからとか、不倫相手の子だからとか、いろいろ事情はあるかもしれません。けれど、いくら経済的に苦しくても、シングルマザーになるしかなくても、その子はその環境を覚悟して生まれてこようとしているのだということを忘れないでいただきたいのです。

   江原啓之『江原啓之 本音発言』講談社、2007、pp.245-246

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 36-u (浄化向上するためにこの世への誕生を待っている多くの魂)

 私たちのたましいはこの世に生を受け、それぞれの人生を生きています。同じようにこの世に生まれ、自らを浄化向上させていきたいと思っているたましいは、霊的世界にはたくさん待機しています。ところが、この世に肉体を持っている人がお腹を貸して産んでくれない限り、その願いは永遠に果たせません。
 ですから、親になって一人でも多くの人間をこの世に誕生させてあげることは、霊的世界に対する尊いボランティアなのです。また、親自身も子育てによって、多くの学びを得て、たましいの向上ができます。しかし、少子化は、この世に生まれたいと願っているたましいが、産んでもらえないことになります。そうしたスピリチュアル的な観点からみれば、少子化はよい状況とは言えません。
 この世に生まれたいと思っているたましいはいくらでもいます。日本だから嫌だ、なんてことはありません。ところが、たましいがそう望んでも、日本人の側が受け入れていないように思えます。
 考えてもみてください。日本の堕胎率がどれだけ高いことか。堕胎をせずに、妊娠した生命をすべて産んでいたら、少子化なんてありえないでしょう。人工妊娠中絶件数そのものは減ってはいるようですが、厚生労働省に報告されている件数では、年間三十万件以上もあるそうです。出生数が年間百十万人程度であることを考えると、中絶の多さが理解できるのではないでしょうか。「日本家族計画協会」と厚労省が共同調査した結果では、十六歳から四十九歳の女性の六人に一人が中絶の経験があると言います。
 お腹にいる胎児にも、たましいは宿っているのですから、中絶は「殺人行為」と一緒。どうして、そうなる前にセルフコントロールをしないのでしょうか。「彼氏がコンドームを使うのを拒んだから、つけないでしてしまった」という女性がいたりしますが、そういう話を聞くたびに、「どうして、それを断わる主体性がないのか」と腹立たしくなります。日本は、避妊の知識も普及していないような国ではない。一時的な快楽に溺れて妊娠したので、堕胎しました、といういい訳ほどナンセンスなものはありません。

  江原啓之『日本のオーラ  ― 天国からの視点 ―』新潮社、2007、pp.81-83