学びの栞 (B) 


 37. 神と人間


 37-a (かつて人間は自分が神であることを知っていた)

 かつて人間は自分の血筋と血統を知っていた。かつて人間は、神を自分とは別の存在としてではなく、途切れなく続く生の荘厳なる「在るということ」として、また神なる永遠の自己の生の流れそのものである、思考の「在るということ」として知っていたのである。人間はかつて、それを知っていたのだ。人間は、自分たち人類のために、「内なる炎」、つまり人間の内にある神のことをいつも忘れないようにと、時代を超えて存在する数々の巨大なピラミッドをつくった。皆の歴史を通じて起きたさまざまな出来事にもかかわらず、それらのピラミッドは、いまでも人間の偉大さと神性の象徴として建っているのだ。
 この地上界で人間が存在しはじめた頃、まだ自分が神であることを知っていた頃、人は同じ化身に何千年もの間生き続けたが、身体に不滅の力を与えたのは、人間があるがままの状態で表現していた思考の純粋性であった。
 人間、神なる人間は、この次元での最初の生の体験の最中にも、すでに自分が神であることを忘れ始めていた。なぜか。それは、この物資界というすばらしい遊び場を心から愛したからであり、この次元を体験し、ここで創造していくことだけが大事なことになってきたからだ。そして、この場所で自分の創造性を表現することを探求する課程で、(また、それを可能にしてくれた手段である媒体を維持していくために)限りなき思考過程を体現する華麗な生き物である人間は、生存や、嫉妬、そして所有欲という限りある想念の体験を始めたのである。
 人間の存在、そしてその魂と精神は永遠の存在だ。それはけっして変えられない。だが、神々が自分のために大地の土から創造した化身は、そこに宿る有限の存在の想念に影響されやすい。人間が受け容れ、自分が感じることを許す想念は、すべて身体に表出する。この化身は人間の世界の最終の部分であり、そこに宿る神の思考過程によって維持されているからだ。
 神なる人間が生存という価値観を体験し始めたとき、それは身体の中にある永遠の生命の流れに点火する思考の力を少し弱め始めたのだ。こうして、身体がうまく機能しなくなってきた。身体がうまく機能しなくなってくるにつれ、それは人間が自分の脳で理性的に考える能力をも衰えさせた。理性的に考える力を失うにつれて、人間の意識を恐怖が支配し始めたのである。恐れという要素が人間の思考過程の中でひとつの価値観となるにつれて、化身のほうは、恐怖の力とその影響をこうむり始めた。それが病気であり、死なのだ。
 皆のいる次元の初期の文明は、偉大なる覚醒に恵まれていたが、やがてその思考過程の無限性が徐々にかげりを見せ始め、死の予感と生存という価値観を通して限界あるものへと変質していった。死の恐怖からくるこの生存という価値観は、俗に「生存本能」と呼ばれるものを通じて未来の世代へと伝えられていく。人間が考えることは、すべてその細胞と遺伝子の構造にパターンとして記録されるからである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 213-215

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 37-b (物質的な面を体験するにつれて限界に深入りしていった神々)

 神々は、身体という形を通して自分の創造性を体験してみたいという願いから、物質という制限ある世界へと入っていった。しかし、神々がこの次元で、人間として、限界という新しい世界観を体験したとき、知らないうちにこの肉体の体験から抜けられなくなっていたのである。最初の化身の死を体験したそれぞれの神は、空と呼ばれるものに入っていった。この空は、実際にある場所で、光のひとつの次元だが、「すべてを知る神」の意識、叡智のレベルでもなければ、物質の次元に戻ったわけでもなかった。神はもはや無限の思考という次元に戻ることはできなかった。限界という価値観を、自分の思考過程の中にあるひとつの変容として持つようになってしまったからである。
 自分が生の過程で進化し続けるために、またこの物質界という遊び場がすばらしい体験だったこともあって、神は早くここに戻りたくてしかたがなかった。そのため、自分自身の子どもの種を通して、神は別の化身の中に戻ってきたのである。物質次元で自己表現を続けるため、また、前の生で自分の思考過程を変えるのを許してしまった限りある想念をすべて融和させるためであった。しかし、この次元の物質的な面をもっと多く体験し始めるにつれて、神はさらなる変容を体験し、限界の中にどんどん深入りしていった。こうして、この「見る次元」での転生のサイクルが始まったのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、p. 215

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 37-c (何度もこの地上界に戻るにつれて神性を忘れてしまった人間)

 神々が生の冒険を続けるために、人間として何度も何度もこの地上界に戻るにつれて、この次元が徐々に彼らの生の概念すべてとなっていき、自分の血統と神性を忘れ去ってしまったのだった。もはや彼らは神を「すべてであるということ」、「すべての思考」とは考えなかった。もはや彼らには、もし望むなら、純粋な思考の次元に、存在のはじめから自己を表現していた意識の次元である限りなき存在に戻れるのを「知っている状態」が維持できなかったのである。限られた領域、限られた思考しか体験できないと考えるようになってしまったのだ。こうして、意識が表出する別の次元が「限られた天国」、限られた領域として新たに出現した。そこでは、あらゆる次元の中で最も偉大でしかも単純な次元を忘れ去ってしまった存在たちが、自分の化身の死を迎えたときに、自分の幸福観と集合的な価値観、思考にしたがって、生を体験できるのである。
 人間としての神々が、もはや自分が神なるもの、不滅なものであること、そしてすべての力、すべての知識は自分の内にあるということを知らない状態となったとき、彼らはまわりの存在の自我に対して脆弱になった。ほどなくして、神秘的な力と計り知れない知識の源を通じて、自分たちだけが神について理解していると語り、自分たちをほかの人間よりも高い位置に置こうとする存在が現れてきた。人間はもうすでに恐れおののく動物の群れのような存在となっていたため、これらの預言者や霊能者、そしてその託宣は、来たるべき滅亡と恐怖の預言を流布し、そうすることによって彼らは自分たちの権力を強めようとしたのである。そして預言者の語ることに人々が特に注意を払わなければ、彼らは罵りと永却の罰という脅迫を用いたのだった。
 こうして地上界には宗教が生まれ、人間をその内なる美と、その永遠の神性からさらに遠くへと離してしまったのである。宗教は大変賢かった。剣をもって人々を治め、支配する必要などなかったのだ。神は自分の手の届くところにはなく、すべての知識、すべての力も自分の内にはないのだという教えを永遠のものとして固めてしまうだけでよかったのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 216-217

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 37-d (神は自分の存在以外にあると信じ込まされてきた人間)

 魂は永遠の記憶を持っている。それは、すべての生のすべての体験を記憶しているのだ。人間が繰り返し言われることは、それがどんなに偏向した考え方であっても、最後には確固とした現実となる。人間という、真理を求めるこのか弱き存在は、何よりもまず受け容れてもらうことを願い、そのためにはどんなにばかげたことにでも耳を傾けてしまうものなのだ。もしある人間に、神は自分以外のところにあり、おまえは魂が卑しく邪悪なのだと繰り返し言えば、この想念はその人間の魂の記憶に確固たる概念として刻み込まれ、これを変えるのはきわめてむずかしくなる。まさにこれこそが、この地上界で何千年にもわたって起きてきたことなのだ。多くの単純な存在たちが、ひとつの生から別の生へと戻ってきては、またもこういった教えのもとに集ってきたのである。そして、彼らは自分たちが邪悪であり、神は自分の存在以外のところにあると信じるよう、あまりに強く条件づけられてしまったために、自分は神なるものなどではないと絶対的な知識として知るようになり、神を知るたったひとつの道、神のところへ戻るたったひとつの道は、預言者や僧侶や、宗教団体を通じてのものだと信じてしまっているのだ。
 自分が真実の本質であるという知識をもはや受け容れなくなったとき、人間は自分の独立性と力を投げ出し、烏合の衆の一部となった。これは、さまざまな時代を通じて、宗教や政府が人々をまるでひとつの存在であるかのごとくに支配することを許してきた。だが、人々はひとつの存在ではない。皆それぞれ満たすべき独自の命と、体験すべき冒険がある個々の神々なのだ。人間には、自分の冒険をする権利があるのだ。
 自分は卑しい罪人であり、父なるものは自分以外のところにあるという教えを受け容れたとき、人間は自分を神から完全に切り離してしまった。この考え、この信念の受容が、人間を何度も何度も化身に戻らせているもとなのだ。自分は神ではなく、父は自分の内にはないという考えを持っている限り、自分の神性に気づき、再びただ在る状態に生きるようになるまで、その人間は百万回でもこの次元に生まれてくるという、いわば恐ろしい運命にあると言える。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 217-218

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 37-e (皆のほとんどは自分が神であることをいまだに知らないでいる)

 この世に生まれることは、人を陥れる罠としてつくられたわけではない。永久に続くものとしてつくられたわけでもない。参加するための単なるゲームであり、創造性と生の探求の中の新しい冒険にすぎなかった。しかし、皆はすぐさま化身の五感に埋没して我を失い、身体があなたという人間すべてとなってしまったのだ。この次元での物質界にあまりにどっぷりと浸ってしまったために、あなたは不安に駆られた人間、恐れる人間、か弱き人間、ひとつの死ぬ要素でしかない人間となった。すべてはあなたが自分の内にある強力な本質を忘れてしまったからなのだ。そうして、あなたは死のことは学んだが、生については忘れてしまった。哀しみは学んだが、よろこびを忘れてしまった。人間のことは学んだが、神のことは忘れてしまったのだ。自分の好きなように幻をつくり出すことを可能にしてくれる荘厳なる知性のことを…‥。
 皆、誰もがこの地上界では多くの生を体験している。三万回の人もいる。一万回の人もいる。あるいは二回だけの人もいる。それだけ生き、死んでいるのだ。そして、この次元での生は夢であり、ゲームであり、生の冒険での幻にしかすぎないのに、それはあなたをひどく汚してしまった。数多くの生を生きている間に、家族から、社会から、宗教から、あるいは政府の権力から、自分は卑しい存在であり、神は自分の手の届くところにはないと繰り返し言われたために、思考過程の中でそれが確固たる現実となってしまっているのだ。
 今日でも、皆のほとんどは自分が神であることをいまだ知らないでいる。自分の内に、すべてを知り、すべてになる力があることを知らずにいるのである。だからこそ、教師や宗教や他の誰にでも自分の人生を支配させ、真実を解釈してもらっているのだ。地上の時間で、もうすでに長い間繰り返し語られてきた単純な真理を、他人の考えがわざわざややこしくし、混乱させるのを許してしまってきたのである。それは、父なる存在、天の王国はあなたの内にあるという真理のことだ。これより偉大なる真理がどうしてあり得ようか。しかし、これを知らない皆の多くは、神とつながり、覚醒するためには、教義や、いわば「機構」的なもの、儀式や祈りやお経や断食や瞑想が必要だとまだ思っているのだ。が、こういうことをすればするほど、あなたは自分の魂に、まだ自分は自分がなろうとしているものになれてはおらず、神の愛、そして自分が求めている叡智からは遠いことを確信させてしまうことになる。なぜなら、それを達成するために、こんな苦労をしなければならない状態にあるからだ。
 もちろん宗教が間違っているわけではない。宗教の教えを確立し、それを広めてきた者たちは、自分自身の神性、自分の価値、そして力というものを理解しようと求める過程で、自分の兄弟たちを隷属させ、その結果自分自身を隷属させてしまった愛すべき兄弟なのだ。彼らがしてきたことは、それ相当の害があったにしても、彼ら自身の体験、理解としてひとつの真実だった。私はすべての人々を愛するものであり、それは僧侶たち、預言者たちも例外ではない。彼らもまた神なのだ。
 儀式を行ない、教義を奉ずることは誤ってはいない。だが同時に、それは完全にぴったりとくるように感じられることもけっしてない。なぜなら、あなたの内なる声(それが神そのものだ)が、自分が到達しようと一生懸命がんばっているものにあなたはすでになっているではないか、と語りかけてくるからだ。
 私がここに戻ってきたのは、それよりも良い道があることを伝えるだけのためだ。また、あなたはすでに神なのだと伝えるためだ。そして、あなたはけっして失敗などしていないことを。間違ったことなど何ひとつしていないことを。あなたはみじめな卑しい存在ではないということを。あなたは罪人ではないということを。そして、悪魔というすばらしくもばかげた存在もないのだということを。こういったことがわかれば、こんどは幸せでいることに集中できる。それこそ神の姿なのだ。父なるものは、怒りと哀しみにあふれた、瞑想的で信心深い存在ではない。完璧なよろこび、限りないよろこびがその本質なのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 218-220

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 37-f (あなたが思うこと感じることは何でも人生の現実となる)

 あらためて言うが、神はあなたの内にあるのだ。数多くの生を通じていつもそこに存在していた。あなたはすでに神であり、それがあなたの存在の内にあるくぼみに棲む、創造性あふれる神なる知性なのだ。その愛であなたに限界ある存在というものを体験させてくれたもの、そして今度は再びその愛であなたを限りない存在へと誘ってくれるものなのである。
 限界ある存在というのはひとつの冒険、体験となってきた。この次元にいる者たちはほとんどがそれを充分に体験している。しかし残念ながら、さらに良いものがあることを忘れ、皆は限界ある存在を生き方のすべてにしてしまっている。限りない思考を使えば、化身や、すべての場所、すべての宇宙を超越できるのだともし知っていたら、あなたは二度と限定されることを選びはしないだろう。それを本当に知って、すべての思考を受け容れ、それを心に抱くことを自分に許すならば、あなたはどんな最高の夢でもかなわぬような人生のよろこびと平和を手にすることだろう。
 思考が究極の創造主だ。あなたが思うこと、そして自分に感じるのを許すことは何でも人生の現実となる。皆が抱く想念の中で、限りある思考の幅を超えるものは、すべて皆の人生を広げる形で具現化する。必要なのは、自分の思考過程を開放し、限られた人間を超えて無限の神になるために、さらに多くの限りない想念を受け容れることだけなのである。
 存在の内面では自分が卑しい存在だと「知っている状態」になったのとまったく同じように、いま、自分は内面では神なのだということを知れば、あなたのすべては神となる。ここで純粋思考の第七のレベルの叡智と呼んでいるもの、つまり存在の究極の状態、あなた自身がすべてのものの究極の力である状態に戻るためには、父なる存在が自分の内面にあるということをただ知るだけでいいのだ。なぜなら、自分が神であるという記憶は、あなたの存在の魂の内に宿っているからである。それはあなたの魂の内で眠った状態にあり、その存在を認められ、いつでも現実の体験となれるよう待ちかまえている。そうなるのは、知ることを通じてだ。自分が神であると知るとき、それを確信したフィーリングは、この「知っている状態」が真実であることを教えてくれる体験と叡智をつくり出す。その「知っている状態」を与えることのできる人は、ほかに誰もいないのだ。あなただけが、自分の思考過程と感情という存在を通して、その叡智を得られるのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 220-222

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 37-g[9-x](在るがままでいる以外成し遂げなければならないことは何もない)

 神と自分がひとつであることを知ると、思考過程から分離という価値観を取り除き、神である自分の頭と再び連結することができる。何よりも賢く、すべてを知る父なるものの知性とは、あらゆる存在の基盤であり、あなたがすべての思考そのものになるのを許している「思考の総体」であると気づくとき、あなたは神であるすべて、つまりはすべてのものになる。そうすれば、あなたは自分の自由へ、偉大さへ、そして栄光へと戻ることができる。もうこの天国に何度も何度も戻ってくる必要はなく、さらに偉大な天界へ、あなたを待ち受けるさらに壮大な冒険へと進んでいけるのだ。
 とにかく、在るがままでいる以外、この次元であなたが成し遂げなければならないことは何もない。自分が神であると知るのは、ただ在る状態ではじめて可能になることだ。なぜなら、神とは存在そのものであり、すべての生命の「在るということ」だからだ。ただ在る状態、どういう形でそれを表現しようとも、自分にただ在るがままにさせる状態でいるというのは、父なる存在とまったく同じになるということだ。そしてそれは、ほんの一瞬にできることなのである。わずか一瞬の間に実現することなのだ。
 神とは、たったいまのこの瞬間のことだ。無限とは、いまのこの瞬間なのである。永遠に神となるというのは、このいまの瞬間にある永遠に完全に生きることだ。神はそうして生きているのである。ただ在ることだ。そうすれば、すべての生命の「在ること」、その途切れなき継続性とひとつになることができて、身体もその継続性そのものへと進化していく。そうすればもう死ぬ必要もなくなる。すべての次元を超越して、第七の次元、つまりすべてのものの最終的な姿となっていく。それは思考だ。これは真理である。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 222-223

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 37-h (この地上界での人生は壮大なる幻で偉大な夢である)

 人間は限界の中から飛び出し始めているが、それは、自分の人生に疑問を投げかけ、なぜ自分が政府や、教義や、社会の偽善に隷属しているのか問いかけている者が皆の次元にたくさんいるからだ。彼らは自分やほかの人を愛し始めており、その愛を通じ、限られた意識のベールの向こう側を見て、それを超えていくことができるようになってきているのだ。自分たち、そしてすべての人々の内面には、やさしく、愛にあふれ、しかも賢い本質があるという考えに目覚めてきているのである。長い間、人類を支配してきた預言や寓話や恐れは、何ひとつとして実際に起きていないことに気づき始めているのだ。そういうものよりも自分たちのほうが長生きしているのである。自分が誰なのか、神を愛するのに、いったいなぜ神を恐れなければいけないのかを問いかけているのだ。
 この次元での意識は変わりつつある。人間を何世代にも何世代にもわたって、獣のような生き物にする原因となってきた考え方の限界が取り除かれ、本来の崇高なる神の本質という姿になることが可能になったのである。
 新しい学びが起きる時期がきている。でも実はそこに何も新しいことはない。魂の奥深くで、あなたは真実とは何かを知ることだろう。それは、真実というものが、教義的な信念のよどみを超え、いつもそこにあった思考と叡智の天国へとあなたの視線を誘うからだ。首のまわりから縄がほどかれ、よろこびの気持ちが顔を出し、魂の内面でそれが顕著になるにつれて、あなたは在るだけの状態の自分である華麗なる神になっていく。
 あなたのこの時代は終わりつつある。これは「肉体の時代」であった。新しい時代はすでに地平線にその姿を見せており、それは「光の時代」、「純粋なる精神の時代」、「神の時代」と呼ばれるものだ。すべては真に同等のものであり、天の王国はいつも自分の内にあったのだということを人間が知っている時代なのである。光の時代は、人間を限りなき思考へと連れ戻してくれるであろう。愛とよろこびの世界、存在の自由へと戻るのだ。この新しき世界を担う者たちは、人類の中でも軍官や暴君ではなく、平和を宣告し、限界というよどみを超えて、こう高らかに謳い上げる者たちとなるのだ。「私は神である。すべてこの目で見るものを私は愛する。なぜならば、私はすべてこの目で見るもの、そのものであり、その自分を私は愛しているからだ」。この叡智に到達する者は、ただひとりの光といえども、意識全体を進化させることだろう。そして、永遠という時間の中で、これまでよりもずっと賢くすべてを創造していくための智慧があふれる、限りない存在の状態へと、皆はひとり、またひとりと戻っていくのである。
 この地上界での皆の人生は、壮大なる幻だった。偉大な夢だった。だが、これから皆は、何かを学んだ状態でその夢から目覚めてくる。神のことを理解して目覚めるのだ。ひとり残らず目覚めてくるのである。ある日、あなたは厚い雲がかかってきた空を見上げることだろう。天界をじっと見つめていると、まわりにきらめくまぶしいばかりの光が見えてきて、あなたは雲の中に星がやってきたとでも思うかもしれない。あなたが見るものは、これからすべての人類が目にするものだ。あなたを眠りから覚まし、私が教えていることはすべて壮大なる真理であり、すばらしき現実であることをあなたに気づかせてくれるのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 223-225

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 37-i (私たち人間はどうして神から離れてしまったのか)

 ―私たちはどうして神から離れてしまったのか、すべての始まりの頃には私たちをひとつにまとめていたものと、どうして離れたのかが知りたいのです。

 皆が存在し始めたいちばん最初の頃、皆が父なるものと自分がひとつであることを知っていた頃、あなたの自我、つまりアイデンティティは、「ひとつの独自性を持つ神」というもので、生きるということは、すべての思考を体験する感情の冒険でした。神は、すべての思考だからです。あなたの自我は純粋で、何の変容もきたしていませんでした。あなたの存在の内に、思考(あるいは神とも言えます)を受け容れるのを制限するような価値観は何もなかったからです。自分がいまという瞬間の中で永遠の存在であることも知っていて、父なるものから思考を受け取り、それを感情に変え、今度は感情を創造性に具現化するという、無限の力を持ってもいたのです。
 あなたたちは皆、子どものような存在でした。自分の純粋な存在を変容させたり、自己表現を制限するような価値観を持ってはいなかったからです。恐れというものも知りませんでした。「これのほうが」「あれのほうが」という判断も知らなかったのです。競争や嫉妬、あるいは所有欲も知りませんでした。死のことも知らなかったのです。小さな子どものように、これらの価値観は何も体験したことがありませんでした。
 さて、あなたたち神々には、いちばんはじめから、創造したい、思考の感情を創造的な形に表現したいという強い欲求がありました。そして、これをする力は、あるひとりに多く、ほかのひとりには少なくというふうに与えられてはいませんでした。すべては同等だったのです。しかし、実際に創造を始めるやいなや、あなたの内に競争精神が生まれてきたのです。誰かの創造性の想念を広げ、さらに偉大なものをつくり出す、もっと多くを創造する、思考による思考で、さらに思考をつくる、という欲求です。この地上界になぜこれほど多くの種類の花があると思いますか? バラがひとつあれば充分なはずでしょう。それに、これほど多くの種類の蝶がいるのは驚きではありませんか?
 なぜ神々は競争するようになってしまったのでしょうか。それは、創造する欲求の中で、自分の創造性は他より劣るのではないかと思いめぐらし始めたからです。こうして、自分たちのことを、存在の内面では劣っているものとして見始めたのです。その劣っているという気持ちを補うために、神々は互いに他の上をいく創造物をつくろうとしたのです。そして、思考過程を創造性の競合にどんどんのめり込ませていけばいくほど、自分たちを「在るということ」の完璧な姿としては見なくなり、すべてのものが同等であるという神の本質とは別のものとして自分を見るようになったのでした。
 この生からの分離と、「不完全」という概念は、何かが「ほかのものより偉大である」と見たときにはじめて生まれるものです。なのに、実際の現実では、ひとつのものはほかのものよりいいとか悪いとかいうことはありません。すべてのものはただ在るだけで、「在るということ」において同等なのです。したがって、すべては完璧な状態にある、あるいはさらに適切な言い方をすれば、「在るということ」の状態、存在という状態にあるのです。何かをその本来の姿である「在るということ」の完璧な状態より劣るものにしてしまうのは、価値観であり、考え方の蓄積なのです。
 さて、最も大きな分離は、皆が人間という化身に入ったときに起きました。その時点までは、確かに自分をすべてのものから分離させ始めてはいたものの、まだあなたは自分の神性、そして存在の不滅性を知っていたのです。でも、自分を化身のレベルまで下げ、細胞物質の現実を体験し始めたとき、「固体の機能」と呼ばれるものに自分を縛りつけてしまったのです。それは、空腹、寒さ、生存であり、自分がなったものを維持していくための労苦です。こうしてあなたは細胞物質と絡み合う存在となりましたが、細胞物質が創造されたとき、それは固体の生存を可能にするようプログラムされていました。偉大なる不滅の存在と、それ自体の生存を志向する固体構造との結婚は、自我の存在状態を大きく変えました。これが「知識の木」、つまり変性自我の誕生です。そして、魂に記録され、細胞組織にプログラムされたこの次元での恐れや競争、嫉妬といった感情の体験が、この変性自我をさらに強化してしまい、自分は神なる存在であり、不滅であり、すべての生命とひとつであることを知っている状態を、さらに変質させてしまったのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 225-227

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 37-j (神々は死という概念をどうして受け容れるようになったのか)

 ―自分が永遠の存在であることをつねに知っていた神々が、自分は死ぬのだとなぜ信じるようになってしまったのかが、まだ私にはわかりません。もともと死という概念をどうして神々は受け容れるようになったのでしょうか。

 神々が変化という過程、つまり皆が死と呼ぶものを受け容れるようになったのは、自分たちの創造物そのものからだったのです。ここで創造されたものの多くは、互いに食物となるようつくられていました。それぞれの創造物が自分を維持していくのに必要な物質は、自分自身と同じ物質であったからです。それは皆が「食物連鎖」と呼ぶものです。
 ですから、植物は、これもやはり神々がつくった動物の食物となりました。動物が植物を食べてしまったとき、植物を創造した神々は、恐ろしいことに自分たちの創造物が目の前で溶解し、別の形のエネルギーに変容するところを見せつけられることになったのです。その動物は、また別の神によって最初の動物よりも大きく創造された別の動物の食物となり、さらにそれが別の動物の、というように続いたのでした。これが、神々が互いに競争する方法として選んだものだったのです。おわかりでしょうが、自分の創造したものがほかの神の創造物によって食べられ、消化されるのはとても屈辱的な体験だったのです。
 人間の化身をつくり、進化させる過程で死はさらによく理解されました。人間という生き物を完全なものとするため、それまでここで創造したものすべての一部となってきたように、神々は人間の一部ともなったのです。最初につくった人間はあまり動きが早いとは言えなかったので、動物がしょっちゅう人間の身体を食物にしていました。人間はとてもおいしいとさえ思っていたのです! ですから、このことを通して、神々は死という行為を体験し、理解したのです。この理解が、化身をさらに改善し、これも自分たち自身の創造物そのものである肉食動物の攻撃による死に対して、人間がもっと強い力を発揮できるようにしたのです。
 さて、人間が、自分の存在の内面以外のところにある偉大な神を恋する気持ちは、もともと神々がこの次元に恋したときに始まったものでした。神々は、自分たちがここで創造したすべてのものを体験し、関わっていきたいと望むようになったのです。神々は植物になっていました。動物にもなっていましたし、昆虫にもなっていました。あらゆるものになっていたのです。でも、すべてに支配力を持った形体を持つこと、それが神々の究極的な愛であり創造だったのです。
 神々が最終的に自分たちを男と女という形体へとつくりかえていったとき、そして、その際に他の創造物よりも人間を賢くして、肉食動物から逃れられるようにするべくすべての意識を集中したとき、神々はそれまでとは違う生の状態に入っていったのです。皮肉だったのは、人間を餌食にしようとする動物から逃れられたとしても、意識のかなりの部分を占めるようになってきていた生存という価値観からは逃れられなかったことです。神々の身体を結局だめにしてしまったのは、生存の価値観であり、死への恐怖でした。人は、何でも自分が恐れるものになっていくからです。
 神々が創造したあらゆるものの中で、恐れほど破壊的なものはありません。なぜなら、恐怖の影に怯えながら生命を表現できるものなどひとつもないからです。
 さて、神々が人間として死を体験したとき、そこにあったただひとつの現実、ただひとつの望みとは、この物質の天国を体験し続け、この世界でさらに多くの創造を成し遂げることでした。神々の自我は膨大なものだったのです。そうして神々は、よろこんでこの場所に戻ってきては、さらに良い存在へ、もっと良い存在へとなっていきました。自分たちの内に感じた「劣っている」という気持ちを何とか解決し、この場所での創造性に「優れている」という資質を表現するためです。しかし、さらに良いものになろうという価値観と欲求を通して、神々はこの次元の物質界にあまりにどっぷりと浸ったために、自分が神なるものであり不滅であることを忘れ、必ず死を迎える運命にある物体と化してしまったのです。それに、創造を考える過程にあった、すべての生命とひとつであるという叡智は、神々がこの次元に恋してしまう以前でさえ、競争と「偉大さ」「優秀さ」などの想念を通じてすでに失われ始めていました。
 主よ、これだけは言えます。すべてとひとつである状態は、本当にわずか一瞬、ほんの一呼吸しか離れていないところにあるのです。自分の存在の内奥で、どんなものとも別の存在でありたくないと願うとき、あなたはもはやそうではなくなります。すべての思考から自分を分離してきたのは、あなたの価値観、限られた思考、そして変容をきたしてしまったアイデンティティなのです。思考に対する価値判断を取り除くことによって、思考の全体性に戻ることができれば、二度と自分のいる場所を見失ったり、まわりと離れてしまうことはありません。そうすれば、あなたは多くの人にとって、父なる存在と波動の合った状態に戻る道を見つけるための光となっていくのです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 227-230

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 37-k (動物のような慎重さは人間がこの地上に生きるための条件)

 ―私たちは皆、実は完全な存在で、神そのものであり、本当に永遠に生きるのだということはわかります。それでも、自分がときとして感じるような、気をつけなくてはいけない、自分を守っていかなくてはならないという感じを消してはくれません。自分の本当の姿を自由に表現するのを抑えてしまうような、この自分についての幻影、慎重にしなくてはというこの感じを克服するのにはどうしたらいいでしょうか?

 主よ、動物たちは自己保存のためのすばらしい装置を与えられています。彼らが生き、体験し、進化できるよう細胞組織にプログラムされた原初的な生存の本能です。人類もまた、原初的な本能を与えられていて、それは種から種へと遺伝的に伝えられてきました。人間の生存本能は、自分を守るように、身体の細胞組織の内部に埋め込まれましたが、それは人類が裸で生まれてくるからです。牙も角もなければ、脚が速いわけでもなく、敏捷な手足があるわけでもないし、鋭い聴覚や強力な視覚を与えられてもいません。人はきわめて高度に進化し、ひとつにまとまった驚くべき存在であり、その自己保存のための最大の本能はその慎重さであり、自己を他から隔離することにあるのです。人間はこの本能を天賦のものとして持っています。もしそれがなければ、人間は生存できず、その本来の姿、思考し進化する、創造性あふれる個体となることはなかったでしょう。
 ここにいるほかの皆と同じように、物質界での運命を体験するために自分の自由をあきらめたとき、あなたはこの遺伝/本能パターンと融合したのです。それが、この次元の物質を通して自己を表現するためのひとつの条件でした。ですから、人間でいることは、恐れることであり、動物の群れのようになり、疑いを持ち、そしてきわめて注意深く行動することなのです。これは重要な真実です。
 慎重さは幻影ではありません。人間としてこの場所に生きるための条件なのです。その必要性は、自己の内面でそれを持つことが許されるべき、といった性質のものではなく、あなたの化身を保護するために必要な本能として受容すべきものです。でも、せっかくなら、この理解をもう一歩進めましょう。あなたそのものである小さくて神秘的な創造性の火花が、この場所で進化していくのを可能にするために、これまであなたの身体があなたを守ってくれたとわかったのですから、もう肉体を超越して、あなたの精神、魂という不滅の次元へと進むときがきています。言ってみれば、あなたの存在の精神が身体を支配し、思考、叡智の無限性を通じてそれを守っていく番なのです。
 主よ、自分の在るがままを愛すのです。それを愛しなさい。自分が永遠の存在であること、自分が神であることを知るのです。ただそれを知ることです! その想念を心に抱きなさい。さまざまな時代を通じてあなたを守ってきてくれた本能という遺産が、自分は死ぬべき存在ではなく、まさに不滅であり、限界ある人間ではなく無限の神であるという想念に出会ったとき、あなたの魂は、この限りなき想念をあなたの化身の細胞体に伝え、そしてそれを聞いた細胞体は狂喜することでしょう。そうすればあなたの身体は、そこに宿る偉大なる神の無限の思考によろこんでしたがってくれます。そして、あなたの身体は、これまで本能にしたがって生きる存在に不安と慎重さをもって接していましたが、これからはその細胞の内に無限なる神を宿し、身体中の物質がすべて「在りて在る神」の総体と波長が合った状態へと統一されていくのです。
 主よ、もっと本当の「あなた」になるというのは、自分の不安が定める境界を越えたところまで手を伸ばすだけのことなのです。そして、これまで自分の化身によって守られていたあなたが、自分の理解の内にあるすべてに対して支配力を行使したとき、身体はよろこんでついてきます。
 主よ、自分を愛しなさい。それも完全に。人生を愛しなさい。そのすべてをです!それができたとき、その価値観を通じて、わずか一瞬の間にあなたは再びひとつとなった状態に必ず戻ります。それだけでいいのです。ただ、知ることです。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 230-232

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 37-l (人間とは宇宙に遍満する神の生命が個々の人格に分けられたもの)

 人間の尊いのは肉体が偉大だからでもなく、肉体の知識が秀れているからでもない。肉体の知識が多いのはよいが、あくまで、それも人間の本性、霊的智慧、いわゆる神智を元にしていなければ、かえって人類を不幸に陥れる。唯物論者の行動が非常に理論的に巧緻でありながら、それを行動にうつすと、社会を不穏にし、世界状勢を不安動揺せしめてゆくのは、神智によらないからである。即ち人間はいったいいかなる者かを知らないからである。
 昔の私がそうであったように、世界の人びとの大半が、人間とは肉体そのものであり、精神とは肉体の中に存在する、ある機能の働きである、と思っている。
 人間とは五十年、六十年、この社会に生存していて、後は灰になり無になってしまうものと思っている。死んでしまえばそれまでのもの、と思いこんでいる。
 はたして人間は肉体の滅亡をもって最後の終止符になるであろうか。私は即座に、否と答える。
 なんとなく偶然にこの世に生まれ出て、食べたり飲んだりして肉体を維持し、ただなんとなく、社会生活を営んで、妻をめとり、夫に嫁し、子を生み育て、そして死んでゆく。人類の大半はこのような生活を繰り返して、今日にいたっているのであるが、それでは済まない、何か漠然とした不安の想いが、その大小にかかわらず、人びとの胸の中に去来しているのではなかろうか。このような生き方ではあまりにも無意義であり、無目的でありすぎる。このような生き方の他に、何かある。何があるかわからない。わからないが、またわかろうと積極的に思わない。こうした想いが一般人の心であって、その中の少数の人たちが、そのままで済まされずに、社会改革に乗り出し、思想活動に加わり、また一方の少数人は自分自身の心の内面に立ち入って、深く突きつめ、神を知り、霊を知るにいたる。ともに現況における心の苦しみを突き破ろうとしての動きなのである。
 大衆は流れているのである。時間の動きとともに、人類業生の烈しい渦の中を右に左に流されてゆくのである。
 その場、その時々の喜怒哀楽、渦をつかんでいったい何になろう。それが、こよなき歓喜のように見えたとしても、渦は、はかなく消えてゆくものである。
 形あるもの、それは形なきものの影である。形あるものが、形あるそのままで見えるようではその人は救われない。形あるものの形のみを変えて、社会改革を実現したとしても人類は救われない。形、型、組織、制度、と形の世界、物の世界のみに固着した眼をもった思想は人類を滅ぼしこそすれ、救うことにはなり得ない。
 人間とは肉体だけではないのである。神、すなわち宇宙に遍満せる生命が、その創造せんとする力が、個々の人格に分けられたもので、しかも横においてつながり合い、協力し合って、その与えられた力を、縦横に、自由無碍に発揮し、形ある世界に、完全なる神の姿を画き出そうとしている者である。
 神とは宇宙に遍満する生命の原理、創造の原理であり、人間とは神の生命を形ある世界に活動せしめんとする神の子なのである。
 このような、神と人間との関係を知り得たならば、この現象世界のいかなる変動の中にあっても、動揺せぬ生き方ができるようになるのである。

  五井昌久『神と人間』(白光真宏会出版局、1988)pp.14-16

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 37-m (人間の運命は究極的に神のもとに帰ることによって完成する)

 ここで皆さんに思い出してもらいたいのは、星が天空にかかっているのと同じように、人間の魂は生命の永遠の周期の軌道に乗っていて、眠ることのない神の意識に支えられてその軌道を巡り、かつ、その神の意識の中に保持されている、ということです。確かに、魂はある程度の自由意思を与えられ、選択する能力を与えられ、それによって善や悪を受け入れたり、拒否したりすることができます。しかし、人間の魂はいかなる時であれ、崇高なる魂である神との絆を断ち切る力はありません。そして、神に向かって上昇しようとする力が常に働いているのです。
 事実、ある期間にわたって、人間の魂が神をあざわらい、否定し、退けるということはあります。しかし、魂が神から逃げることは不可能であり、神との絆を切ることは絶対にできません。窮地に追い込まれたときには神に屈しなければならず、聖書のなかに出てくる、悔い改めて父のもとに帰った放蕩息子のように、神のところに帰るのです。
 人間の魂が、上のほうに引き上げてくれる神の力に抵抗するというのはどういうことでしょうか。それは、魂が上昇の道を歩む代わりに、下降の道を自分の意思で選んでいるということです。注意してほしいのですが、その場合でも、神から逃亡しているわけではありません。ほんの瞬間といえども、そんなことはありえません。神の知性の磁力はしっかりと人間の魂を引きつけており、神に向かう道に戻っていくように、常に人間の心に働きかけているのです。
 しかし、人間はさまざまな形で道を踏みはずしては、悪の道を進み、下へ、下へと落ちていくのです。そして最後の最後になって、心が遂に変わり、上昇が始まります。足から血を流しながら、神に向かう長い長い登り道の歩みが始まります。こういうわけで、自分の運命から逃避できる人はいないのです。人間の運命とは、究極的に神のもとに帰ることによって、究極的に完成するものなのです。
 と同時に、人間が神のような存在になるためには、高みに昇るだけでなく、最も低いところまで落ち、悪の深い淵まで落ち、最も深い地獄の底を通り抜けて、やがて自分の住む場所となる天界に達しなければならない、ということも確かです。
 人がこの深遠な真実を把握すれば、同胞である他の人々を責めることはなくなるでしょう。なぜなら、人間としての完全な魂の達成という素晴らしい目標によって、心は喜びで満たされ、その目標に向かって、他の人々も自分自身も、善や悪を経験しながら努力しているのだということがわかるからです。そうすれば、このように考えるはずです。「この兄弟が歩いている道は、彼が自分で選択した道だ。私が歩いている道は私が選んだ道だ。このことになんの問題もない。他人を責める必要なんて何もありはしない」

  アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.217-218

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 37-n[22-h] (大惨事も神が人間を完成させるための法則のなかにある)

 現代の天文学者が何も知らない世界が存在します。その世界は、エーテルでできており、その影響は地上においてもときどき感じられています。地球を取り巻く既知の惑星から出される放射エネルギーが、個々の人間、あるいは、人類全体に影響を及ぼすのと同じように、エーテルの惑星は人類および地上の出来事に影響を及ぼします。それだけに、科学的な観点から見て説明不可能な地殻の変動や地球の激変の原因は、このような強大な力についての知識が得られたときには説明できるようになるかもしれません。
 このように考えてくると、人間は、目に見えない、そしてその存在を認識されていない宇宙における、強大な未知の力によって翻弄される、ただのあやつり人形に過ぎないのではないかという疑問が出てくるでしょう。これは、肉体をもった存在としての人間の心、頭脳のあり方からすれば当然の疑問です。しかしながら、物質性によってもはや束縛されなくなった心ならば、一見したところ大惨事に見えるようなことも、無限の愛が、道を踏みはずした神の子供である人間を完成させるために駆使している、基本的な法則であるかもしれないと理解できるかもしれません。
 神の心ははてしなく深く、神の叡智は限りなく広く、人間が肉体をもって存在する局面に住むすべての個々人の人生を記憶し、かつ監督するだけでなく、人間の魂が数え切れないほどの体験を通して進化していくその全行程に浸透しているのです。魂が真に目覚めたとき、人間の魂の進化のために、こんなにも素晴らしい計画を考え出した、崇高な神の前にただひざまずいて、その壮大さ、荘厳さを称えることでしょう。

  アイヴァン・クック編 『コナン・ドイル 人類へのスーパーメッセージ』
    (大内博訳)講談社、1994年、pp.230-231

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 37-o (神とは「存在のすべて」であって「すべてでない」もの)

 あらゆるものを包みこむ無、それをある人びとは神と呼ぶ。だが、これも正確とはいえない。そうすると、無ではないあらゆるもの、それは神ではないことになってしまう。わたしは―見えるものも見えなかものも含めて―「存在のすべて」だ。したがって、東洋の神話で定義される神、つまり偉大なる「見えざるもの」とか、無、空といった説明もまた、神とは見えるすべてであるという西洋の現実的な説明と同じく、不正確なことになる。神とは「存在のすべて」であって、同時に「すべてでない」ものでもある、そう信じる者は正確に理解している。
 さて、「ここ」にあるものと「あそこ」にあるものを創り出した神は、自らを知ることが可能になった。この内側からの爆発が起こったとき、神は相対性という自分への最も偉大な贈り物を創造した。
 したがって、相対的な関係は、神があなたがたに与えた最も偉大な贈り物でもあるのだが、そのことはもっとあとで詳しく説明しよう。
 ついでだが、何ものでもないものから、すべてが飛び出してきたこと、この根元的な出来事こそ、科学者の言う「ビッグ・バン仮説」にほかならない。
 すべての要素が出現したので、時が生まれた。なぜなら、ものはまずここにあって、つぎにあそこにあるのであり、ここからあそこに移る時間は計測できるからだ。
 見える部分がそれ自身を定義づけ、各部分が「相対的」になったように、見えない部分も定義づけられ、相対的になった。
 神は、愛が存在するためには―そして純粋な愛である自分を知るためには―対照となるものが存在しなければならないことを知っていた。正反対のものが存在する必要があった。そこで、神は偉大なる極―愛の絶対的対極にあるもの、愛ではないあらゆるもの―を創りあげた。それが現在、「不安」と呼ばれるものだ。不安が存在した瞬間、愛もまた、体験しうるものとして存在しはじめた。
 愛とその対極、この二元性が、人間のさまざまな神話で言われる悪の誕生、アダムの堕落、悪魔の反抗などである。
 あなたがたは、純粋な愛を人格化して神と呼び、恐るべき不安や恐怖を人格化して悪魔と呼んだ。
 地上のある者は、この出来事を中心とした神話を完成させようとして、天使軍と悪の戦士、善の力と悪の力、光と闇の戦いのシナリオをつけ加えた。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.41-42

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 37-p (わたしでない部分が無数の小さな霊になった)

 この神話は、人間が魂の深いところで気づいてはいても、頭では把握しきれなかった宇宙的な出来事を、自分たちなりに理解して語ろうとする、人類の昔の試みだった。
 神は宇宙を分割することによって、見えるもの、見えないものを含めて現在存在するすべてのものを、純粋なエネルギーから創り出した。
 言い換えれば、こうして物理的な宇宙が創造されただけでなく、形而上的な宇宙も創り出された。
 「わたしであり/わたしでない」という等式の、わたしでない部分はさらに爆発して無数の小さい部分になった。このエネルギーのひとつひとつが、あなたがたが「霊」(いのち)と呼ぶものである。
 「父なる神」に多くの霊の子供が生まれると語っている神話がある。生命が自らを増殖させるという人間の経験になぞらえることが、この壮大な出来事を理解する唯一の方法だったのだろう。「天の王国」に数えきれない霊が突然に生まれたのだから。
 このたとえで言えば、神話は究極の現実にそう遠くない。なぜなら、わたしという全体をかたちづくっている無数の霊は、宇宙的な意味でわたしの子供だからである。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.42-43

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 37-q (「人間は神の姿をかたどり神に似せて創られた」の意味)

 自分自身を分割したわたしの聖なる目的は、たくさんの部分を創って自分を体験的に知ることだった。創造者が、「創造者である自分」を体験する方法は、ただひとつしかない。それは、創造することだ。そこで、わたしは自分の無数の部分に(霊の子供のすべてに)、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた。
 あなたがたの宗教で、「人間は神の姿をかたどり、神に似せて創られた」というのは、そういう意味だ。これは、一部で言われているように物質的な身体が似ているということではない(神は目的にあわせて、どんな物質的な身体にもなることができる)。そうではなくて、本質が同じだという意味だ。わたしたちは、同じものでできている。わたしたちは、「同じもの」なのだ! 同じ資質、能力をもっている。その能力には、宇宙から物質的な現実を創出する力も含まれている。
 わたしがあなたがたを創造したのは、神としての自分を知るためだった。あなたがたを通してしか、知る方法がなかったからだ。したがって、あなたがたを創った目的は、あなたがた自身がわたしであることを知らせるためだったと言ってもいい(昔から何度もそう言われてきた)。
 これは驚くほど単純に見えるかもしれないが、同時に非常に複雑でもある。なぜなら、あなたがた自身がわたしであることを知る方法はただひとつしかなく、それはまず、わたしではないものとしての自分を知ることだからだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.43-44

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 37-r (神が物質的な宇宙秩序を創った理由)

 さて、話を簡単にするために、神の子という神話のたとえを使うことにしよう。あなたがたにはなじみがあるし、多くの意味で、事実とそうかけ離れてもいないからだ。
 それでは、自らを知るというプロセスはどう進むか、ということに戻ろう。
 霊の子供たちに、彼らがわたしの一部であることを知らせる方法がひとつある。単純にそう告げることだ。わたしはそうした。だが、わかるだろうが、神、あるいは神の一部、神の子、王国の後継者(その他、神話ではさまざまな言い方をしているが、どれでもいい)とただ知らされても、彼らは、満足はできなかった。
 すでに説明したように、何かを知ることと体験することとはべつものだ。霊の子供たちは自らを体験的に知りたがった(わたしがそうだったように!)。知識として知るだけでは、霊の子供、あなたがたにはものたりなかった。そこで、わたしは計画をたてた。宇宙のすべてのなかでも、とりわけ思いきった計画だ。そして、すばらしい共同行為だ。共同行為と言ったのは、あなたがたもわたしに協力するからだ。
 その計画のもとで、純粋な霊であるあなたがたは、創造されたばかりの物質的な宇宙に入る。概念として知っていることを体験として知るには、物質的な世界で経験するしかないからだ。そもそも、物質的な宇宙秩序を創った理由はそこにあった。宇宙を律する相対性のシステムを創った理由も、すべての創造行為の理由もそこにある。
 物質的な宇宙に入れば、自らについて知っていることを体験できる。それには、まず、対極を知らなければならない。簡単に言えば、背が低いということを知らなければ、背が高いということはわからない。やせているということを知らなければ、太っているということはわからない。
 つきつめて言えば、自分が何であるかを知るためには、自分ではないものと対決しなければならない。これが相対性の理論の目的であり、すべての物質的な生命の目的だ。自分自身を定義するのは、自分ではないものによってなのだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.44-45

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 37-s (地上での仕事は自分が何者であるかを思い出すこと)

 さて、あなたがたがつきつめた自分を知る、つまり創造者としての自分を知る方法について話そう。
 あなたがたは、実際に創造するまでは創造者としての自分を体験することはできない。そして、自分自身を創らないという経験があってはじめて、自分を創ることができる。「何かである」ためには、まず「そうではない」ことを体験する必要があるからだ。
 もちろん、あなたがたには、自分ではなくなることなどできない。あなたがたはもともと、神の子供、「純粋な、創造的ないのち」なのだから。そこで、あなたがたは次善の方法をとった。自分がほんとうは何者であるかを忘れたのだ。
 物質的な宇宙に入ったとき、あなたがたは記憶を捨てた。忘れることで、単に王国の城で目覚めるのではなく、自分が何者であるかを選べるようになった。
 あなたは神の一部であると聞かされるのではなく、神の一部としての生き方を自分で選びとる。そうすればすべての選択肢を与えられたうえで、自らを体験することができる。すべての選択肢、それが神である。だが、選択肢のすべてであれば、選択の余地はない。あなたがたはどんなに努力しても、わたしの子供でなくなることはできない。だが、忘れることはできる。
 あなたがたは、これまでも、そしてこれからもつねに、神聖なる全体のなかの部分、身体の一部、手足、メンバーだ。だからこそ、全体に戻ること、神に戻ることは思い出すこと(リメンバランス:remembrance)と呼ばれる。あなたがたは自分が何者であるかを思い出す。あるいは自分の各部を寄せ集めて、自分のすべてを、すなわちわたしのすべてを体験する。
 したがって、地上でのあなたがたの仕事は、自分が何者であるかを学ぶことではなく(すでに知っているのだから)、思い出すことだ。そして、ほかのみんなが、何者であるかを思い出すことだ。だから、ほかのひとにもそれを気づかせること、思い出すようにしむけることも大きな仕事のひとつだ。いのちの真実を知っているすばらしい教師はみんな、そうしてきた。それが、ただひとつの目的だから。魂の目的だから。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.45-47

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 37-t (なぜ世界はこんな状態なのか― 神の三位一体の意味 =1=)

 人間が何度も何度も神に問いかけてきた疑問だな。時のはじめから、ひとはそれを問いつづけてきた。この対話の最初の瞬間からあなたは、なぜこんなふうでなければならないのか知りたがっていた。ふつうはこんな問われ方をしてきた。神が完璧であって、完全なる愛であるなら、どうして神は伝染病や飢餓、戦争、病気、地震や竜巻、ハリケーンといった天災、深い失望、世界的な災厄などを創ったのか。
 この質問に対する答えは、宇宙のさらに奥深い神秘と人生のさらに高い意味のなかにある。
 わたしは神のすばらしさを示すために、あなたがたのまわりを完全ずくめにしたりはしない。神の愛を実証するために、人間が愛を実証する余地をなくしたりはしない。
 すでに説明したように、愛を示すには、まず愛さないということが可能でなければならない。完全無欠の絶対世界はべつとして、それ以外では対極の存在なしには何も存在しえない。絶対の領域だけでは、あなたがたも、わたしも満足できなかった。わたしはつねにそこに存在していたし、あなたがたもその世界からやってきたのだ。
 絶対のなかでは知識があるだけで、体験はない。知っているというのは神聖な状態だが、最大の喜びは、何者かで「在る」ということのなかにある。「在る」ことは、体験してのちにはじめて達成される。「知る」こと、「体験する」こと、何者かで「在る」ことの順に発達し、進化する。これが聖なる三位一体、神の三位一体である。
 父なる神とは、「知る」ことだ。すべての理解の親であり、すべての体験はそこから生まれる。知らないことは体験できない。
 息子である神は、「体験」だ。父が自らについて知っていることを体現し、行動化する。体験しなければ、何者かで「在る」ことはできない。
 聖霊としての神は「在る」ことだ。息子が体験したすべてを超越して、ただ存在する。単純に、このうえなくみごとに「在る」ということは、知ったこと、体験したことの記憶を通じてのみ可能になる。単純に「在る」ということは至福である。神の状態、自らを知り、体験したあとの状態だ。これこそ、神がはじめから求めていたものである。
 もちろん、父と息子という説明が性別とは何の関係もないことは、説明しなくてもわかっているだろう。たまたま、あなたがたのいちばん新しい書物にあるわかりやすい表現を使ったまでだ。もっと以前の聖なる書物では、母と娘という比喩が使われていた。どちらも正確ではなく、言うならば親と子というのがいちばんあたっている。あるいは、「生じさせるもの」と「生じるもの」という言い方が。
 三位一体の第三の部分をつけ加えると、この関係ができあがる。
 生じさせるもの、生じるもの、そして在るもの。
 この三位一体の在り方が、神のしるしであり、聖なるパターンだ。三つでひとつ、それは崇高な領域のどこにでも見られる。時と空間、神と意識、微妙な関係はすべて、このかたちから逃れられない。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.48-49

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 37-u (なぜ世界はこんな状態なのか― 神の三位一体の意味 =2=)

 人生の微妙な関係を扱う者は、誰でもそのなかに三位一体の真実を認める。
 宗教家の一部は、三位一体の真実を父と子と聖霊と表現してきた。心理学者の一部は超意識、意識、潜在意識という言葉を使った。霊を扱う人びとは精神と身体と霊魂と言う。科学者の一部は工ネルギーと物質とエーテルと考える。哲学者の一部は、ものごとは思考と言葉と行為において真実になるまでは、真実とは言えないと語る。時について議論するときには、過去、現在、未来の三つの時制しかない。同じく、概念的にも時は、以前、現在、以後の三つに分かれる。空間的な関係は、それが宇宙における一点を考えるにしても、自分の部屋の各地点を考えるにしても、ここ、あそこ、そしてその間と考えるだろう。
 ところが、素朴な関係においては、「その間」という認識はない。素朴な関係はつねに二元的であるのに、崇高な領域の関係は必ず三元的だからである。左右、上下、大小、遅速、寒暑、そして被造物のなかでは最も偉大な二要素である男女。これらの二者には、その間というものはない。一方か他方のどちらか、あるいはこうした二極的関係のなかで大きい、小さいの違いがあるだけである。
 素朴な関係のなかでは、必ず対極が存在する。正反対のものが必ずある。日常の体験のほとんどはこちらにあてはまる。
 崇高な領域の関係では、対極というものはない。すべてはひとつであり、一方から他方へと変転して終わりのない循環をくり返している。

 時間もそうした崇高な領域で、あなたがたが過去、現在、未来と呼ぶものはひとつの全体のなかに存在している。つまり対極ではなく、同じ全体の部分なのだ。同じ思考の進行、同じエネルギーの循環、同じ変わることのない真実の各側面である。したがって、過去と現在と未来は同じひとつの「時」に存在すると考えれば、それは正しい(だが、いまはそれについて議論するのはやめておこう。いずれ、時という概念についてとりあげるとき、もっと詳しく考えることにする)。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.49-50

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 37-v (なぜ世界はこんな状態なのか =3=)

 世界がいまの状態なのは、ほかの在り方ができず、まだ物質的に素朴な領域にあるからだ。
 地震やハリケーン、洪水、竜巻など、あなたがたが天災と呼ぶものは、一方の極から対極への要素の移動にほかならない。生死の循環はすべて、この移動の一部である。それが生命のリズムであり、素朴な領域にあるものはすべて、このリズムに従う。生命それ自体がリズムだからだ。それは波であり振動であり、「存在のすべて」の鼓動だ。
 病や不調は健康と快調の対極であり、あなたがたの要請に応じて現実になる。どこかのレベルで自らが引き起こさなければ病気にはならないし、元気になろうと決意さえすれば快くなる。個人的な深い失望も自分で選んだものだし、世界的な災厄は世界的な意識の結果である。
 あなたの質問は、わたしがそういう出来事を選んだのではないか、災いが起こるのは神の意志であり、望みなのではないかということだろう。だが、わたしがこうした出来事を起こさせるのではない。
 わたしは、見ているだけだ。止めようとはしない。止めれば、あなたがたの意志を損なうことになる。そんなことをすれば、あなたがたが神の体験をするのを妨げることになり、あなたがたとわたしがともに選んだ体験ができなくなる。
 だから、世界の悪と呼ぶものを非難してはいけない。それよりも、それのどこを悪と判断するのか、どこを変えたいのかと自問しなさい。
 外に向かってではなく、内に向かって、「この災厄を前に、いま自分は何を体験したいのだろう。自分のどの部分を引き出したいのか」と問いかけなさい。人生のすべては、あなた自身の創造の道具なのだから。そして、出来事のすべては、自分は何者なのかを決定し、その自分になる機会を与えるために存在しているのだから。
 これがすべての魂にとっての真実だ。宇宙には創造者がいるだけで被害者はいない。この地球上に現れた〈マスター〉(大いなる師)はすべて、そのことを知っていた。だから、どの〈マスター〉を見ても、自らを被害者とは考えていない。多くの〈マスター〉が迫害されているが。
 それぞれの魂は〈マスター〉である。ただ、本来の自分や受け継いだ遺産を思い出せない者もいる。
 それでも、それぞれが自分の高い目的のために、そしてできるだけ早く真実の自分を思い出すために、状況と環境を創造しつづける。「いま」と呼ばれる一瞬一瞬に。
 あなたがたは他者が歩む因果の道を、善いとか悪いとか判断してはならない。
 成功をうらやまず、失敗を憐れむな。魂の決算の時がきたら、何が成功で何が失敗になるかわからない。ものごとを災難とか、喜ばしい出来事とか言うのは、それをどう活用するかを決めてから、あるいは見届けてからにしなさい。ひとつの死が数千の生命を救うなら、それは災いだろうか。悲しいことばかり続いたら、良い人生だろうか。しかも、それすらも決めつけるべきではなく、ただ自分の胸の内で考えるだけにして、ひとのことは当人にまかせておきなさい。
 だからといって、助けを求める声や、環境や条件を変える努力をしようという自らの魂の呼びかけを無視しなさいというのではない。ただ、何をするにしても、レッテルを貼ったり、決めつけたりするのは避けなさい。それぞれの環境が贈り物であり、それぞれの経験が隠された宝なのだから。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.51-52

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 37-w (なぜ世界はこんな状態なのか =4=)

 ― かつて、自らが光であることを知っている魂があった。これは新しい魂だったから、体験したくてならなかった。「わたしは光だ」とそれは言った。「わたしは光だ」。だが、いくら知っていても、いくら口に出してみても、体験にかえることはできない。この魂が生まれた領域では、光しかなかった。どの魂も偉大で、どの魂もすばらしく、どの魂もわたしの神々しい光を受けて輝いていた。そこでは、その小さな魂は、まるで太陽の前のロウソクのようだった。偉大な光のなかでは、その光の一部である魂は自らを見ることができないし、自分が何者であるかも体験できない。
 その魂は自分自身を知りたくて知りたくてたまらなくなった。あまりに知りたがるので、ある日、わたしは言った。
 「小さいものよ、その望みをかなえるにはどうすればいいか、わかるか?」
 「どうすればいいのですか、神さま? わたしは何でもします!」、小さな魂は答えた。
 「おまえはわたしたちから離れなければならない」とわたしは言った。「そうして、闇を求めなければならない」。
 「闇というのは何ですか、聖なるかた?」と小さな魂はたずねた。
 「それは、おまえではないものだ」とわたしは答え、その魂は理解した。
 そこで、その魂は全体から離れ、べつの領域に行った。その領域では、魂はあらゆる闇を体験する力をもっていた。そして、闇を体験した。
 その間のさなかで、魂は叫んだ。「父よ、父よ、どうして、あなたはわたしを見捨てたのですか?」。
 たとえば、あなたがたが暗闇にいるときのように。だが、わたしは一度もあなたがたを見捨てたことはない。つねにそばにいて、ほんとうは何者であるかを思い出させようとしているし、いつも、わが家に呼び戻そうとしている。
 だから、闇のなかの光になりなさい。そして、闇のなかにいることを呪ってはいけない。
 また、まわりが自分と違うものばかりでも、自分が何者であるかを忘れてはいけない。そして創造物をほめたたえなさい。たとえ、それを変えたいと思っても。
 最も大きな試練が、最も偉大な勝利になる可能性がある。あなたが生み出す体験は、自分が何者であるか、そして何者になりたいかという宣言なのだから。
 小さな魂と太陽のたとえ話をしたのは、どうしていまのような世界になったのかを理解させるため、そして、誰もが現実の奥に秘められた神聖な真理を思い出せば、その瞬間に世界は変わりうることを、もっとよく理解させるためだ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.53-54

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 37-x (私たちに悪いことが起こるのも自分が選んだことになるのか =1=)

 それでは、わたしたちの身に悪いことが起こるのは、自分が選んだからなのですか? 世界の災厄や災害も、どこかのレベルでは、「真のわたしたちとは正反対の在り方を体験する」ことができるようにと、自分が創り出したものだとおっしゃるのですか? そうだとすれば、自分を体験する機会を創造するのに、誰にとっても、もっと苦痛の少ない方法はないのでしょうか。

 あなたはいくつもたずねた。みんないい質問だ。ひとつずつとりあげていこう。
 あなたがたの身に起こる悪い(あなたがたがそう呼ぶのだが)ことのすべてが、あなたがた自身の選択の結果だというわけではない。あなたがたが意識的に選んだものではない、という意味だ。本質的には、すべてはあなたがた自身から生まれているのだから。
 あなたがたはつねに、創造のプロセスにある。創造がどんなふうに行われるかについては、またあとで話そう。いまは、わたしの言葉をそのまま聞いておきなさい。
 あなたがたは大きな創造の機械であって、考えるのと同じ速さで新しいことを出現させている。
 出来事、事件、条件、環境、すべては意識から創造される。個々の意識はそれほど力強いものだ。二人あるいはそれ以上の数のひとたちが、わたしの名において集まったら、どんなに大きな創造的エネルギーが放出されるか、想像できるだろう。それでは集団意識ならどうか。集団意識は全世界に広がり、全地球的な結果をもたらす出来事や環境を創造するほど大きな力がある。
 あながたの考え方からすれば、そうした結果をあなたがたが選んだわけではない。わたしが選んだのでもないし、あなたがたが選んだのでもない。わたしと同じで、あなたがたはそれらを見ている。そして、それとの関係で自分は何者であるかを決める。
 世界には犠牲者もなければ、悪人もいない。誰も、他者の選択の犠牲者ではない。ところがあるレベルでは、あなたがたはみんなで唾棄するものを創り出している。創り出したということは、それを選んだということだ。
 これは進んだレベルの思考だ。すべての〈マスター〉は遅かれ早かれ、このレベルに到達する。すべての責任を引き受けたときにはじめて力を得て、ほんの一部でも「変える」 ことができるようになる。「こんな目にあう」のは、何か、あるいは誰かのせいだと考えているかぎり、どうすることもできない。「わたしの責任だ」と言ったときはじめて、それを変えられる。
 自分がしていることを変えるほうが、他者がしていることを変えるよりずっと容易だ。
 なにごとであれ、それを変える第一歩は、選んだのは自分だと認め、受け入れることだ。個人として責任があると思えなければ、わたしたちはすべて一体であるという理解を通じて、認めなさい。それから、間違っているからではなく、ほんとうの自分にふさわしくないからという理由で、変化させる努力をしなさい。
 何かをする理由は、ひとつしかない。宇宙に向かって、自分が何者であるかを示すことである。
 そうすれば、人生は自己の創造になる。あなたがたは人生を使って、真の自分、こうありたいと願ってきた自分を創造する。また、ある行動を拒否する理由もひとつしかない。それが自分にふさわしくなくなった、という理由だ。その行為が、あなたがたの真の姿を表さない(representしない、つまりふたたび存在させない:re-presentしない)からである。
 正しい自分を示したいと願うなら、永遠のなかに映し出したいと思う自分にふさわしくないものはすべて、変えていくよう努めなければならない。
 大きな意味では、「悪い」ことはすべて、あなたがたの選択の結果として起こっている。間違いは、それを選んだことではなくて、それを悪と呼ぶことである。それを悪と呼べば、自分を悪と呼ぶことになる。創造したのはあなたがただから。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.54-56

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 37-y (私たちに悪いことが起こるのも自分が選んだことになるのか =2=)

 あなたがたは、この悪というレッテルを受け入れられない。だから、自分に悪というレッテルを貼るよりも、自分自身の創造物を捨てる。この知的な不誠実さで、心を偽り、あなたがたはいまのような世界を受け入れている。あなたがたが、個人として世界への責任を認めていれば―あるいは、心の底から責任を感じていれば―世界はまったく違った場所になっていたはずだ。みんなが責任を感じさえすれば、世界は変わっていた。それがわかっているからこそ、痛ましいし、皮肉なのだ。
 世界の天災や災害―竜巻やバリケーン、火山の噴火、洪水―つまり、物理的な大変動そのものは、あなたがたが創造しているのではない。あなたがたが創造しているのは、こうした出来事が人びとの人生に及ぼす影響の度合いである。
 宇宙では、どう考えてもあなたがたが引き起こしたとか、創造したとか言えないことも起こっている。これらの出来事は、人間の意識の集積によって創造される。全世界が共同してこれらの経験を生じさせている。ひとりひとりは、そうした出来事のなかを動きまわり、自分にとってどんな意味を(意味があるとして)もっているのか、そうした出来事と向かいあったとき、自分は何者であるのかを決定する。
 あなたがたは集団として、また個人として、魂の発達という目的に向かって、自分たちの人生と時を創造している。
 あなたは、もっと苦痛の少ないプロセスはないのか、とたずねた。答えはイエスだ。しかし表面的な経験には何も変化はないだろう。地上の経験や出来事に感じる苦痛を―自分の苦痛も他者の苦痛も―減らすには、受けとめ方を変えればいい。
 あなたがたは、外部の出来事を変えることはできない(出来事は多数によって創造されており、集団的に創造されたものを個人が変更できるほど、あなたがたの意識は成長していない)。だから、内的な経験を変えるしかない。これが、生きることの王道である。
 どんなことでも、それ自体は苦痛ではない。苦痛は誤った思考から生まれる。考え方が間違っているのだ。
 〈マスター〉はどんなに悲痛な苦しみも消すことができる。それによって、ひとを癒す。
 ものごとを勝手に決めつけるから、苦しむのだ。決めつけるのをやめれば、苦痛はなくなる。決めつけるのはそれまでの経験のせいだ。ものごとに対する考えは、過去の考えから生まれる。過去の考えはさらにその前の考えの結果である。そしてその考えはまたさらに過去の考えから生まれるというふうに、まるで積みあげたレンガのように続く。この鏡の廊下をずっとたどっていくと、わたしが「最初の考え」と呼ぶものに行きつく。
 すべての思考は創造につながるし、根元的な思考ほど力強い思考はない。だからこそ、その根元的な思考はしばしば「原罪」と呼ばれる。ものごとについての最初の考えが間違っていた、それが原罪である。この間違いは、第二、第三の考えをいだくときに、何度も積み重ねられる。この過ちからあなたがたを解放するために新しい理解を吹きこむこと、それが聖霊の役目だ。

  ニール・ドナルド・ウォルシュ『神との対話』
    (吉田利子訳)サンマーク出版、1997、pp.56-58

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 37-z (不思議の最たる生き物は人間である) 

 我々が生きているこの地球には、微生物から植物、動物まで、膨大な種類の多様な生命が存在しています。しかも、同一の地域、環境下においても、そこに生きている生物の大きさ、色、寿命、生態等は様々で、その多種多様性は変わりません。なぜ、このように生態の異なる多様な生き物が同時に存在しているのでしょうか。
 砂浜に産み付けられた卵から孵化したウミガメの子どもは、誰に教わるまでもなく海を目指します。カメレオンは、外敵から身を守るために周囲の色彩に合わせて皮膚の色を変えることができます。DNAに刷り込まれた本能、進化の結果だといってしまえばそれまでですが、よく考えてみると不思議なことです。なぜなら、そうした生命の本能や属性が偶然に出現したとは思えないからです。
 また、ライオンが排出した糞は土に還り、その養分を吸収して草が生え、その草を食べたシマウマをライオンが補食する。いわゆる食物連鎖を考えても、まるであらかじめ誰かが設計したかのような完璧かつ大がかりなシステムとなっています。そして、比喩的ないい方をすれば、そのシステムの中であらゆる生命が己の分を守って生き死にを繰り返してきました。少なくとも、人間以外は。
 現在、生命のおおよそのメカニズムは解明されているし、進化に関しては改めて述べるまでもなく常識とされています。また、最近の学説では、すべての生命のDNAどうしには何らかの連関があるとされています。
 しかし、なぜそのようにあるのか、いったいどのような因果関係があってこのように多様で個性的な、しかも調和のとれた生命の在り方が実現したのか。
 そのように考えると、私は道端に生えている雑草にさえ神秘を感じざるを得ないのです。
 そして、生命の不思議さを考えたとき、不思議の最たる生き物は、ありとあらゆる森羅万象を思索の対象とする人間に他なりません。

   矢作直樹『人は死なない』パジリコ株式会社、2013、pp.63-64

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 37-za (生かされている意味を考えて毎日を感謝しつつ生きる)

 私たちが今生きているということは、肉体を持っているということに大事な意味があるのです。「生」とはそのためにカミから与えられているものです。
 ですから、生かされている意味を失ってしまったら生かされなくなります。それが「死」というものなのです。
 魂が人間として行動するのに身体があった方がよければ生きていますが、その価値が無くなれば直ちに魂の居場所を移されても不思議ではないというものです。
 この地上界・人間界は、表裏で言うならば裏です。表ではありません。
 表とは、人間の目程度のものではとても見ることの出来ないカミの世界であり、魂が生きている世界のことです。どうぞ、ここに早く気づいて下さい。
 大自然の働きの前では、人間は実に無力ではありませんか。人間の精一杯の知恵や科学で研究したり対抗したりしても、人間自身の生も死も、一つだって操作できません。死というものを見つめて生きていれば、生がわかって来ます。
 表の世界、大自然、カミの目を知れば、自分が「生かされている」ことがよくわかるはずです。小ささに気づくはずです。
 嘆いたり文句を言ったりして何になりますか。生かされていることの意味を考えて、毎日を感謝しつつ生きることです。

    萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、1994、p.123

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 37-zb  (人間は自分たち人間のことを知らなさ過ぎる)

 霊視にしても、自分の眠りの中にありながら、私の意識はカミの掌の中にあって、そしてカミに使われているごく小さなものに過ぎないのだという自覚を、はっきり持てたということです。自分が力んで求めて手に入れた能力ではありません。
 私はこのことで間違った道に進まずに済んでいることがよくわかりました。
 拝んだり瞑想したりして、そこに姿を見せてくる幻影にとらわれていたら、自分の力によってカミを招来せしめ、カミと自分が交流しているという重大な錯覚をしてしまったでしょう。そんな過ちを犯している怪しげな霊能者や宗教家に惑わされて、だれもかれもがこの世の大切な体験を逃れて、座禅まがいの妙な真似をして自己満足しているよぅになったら大変です。
 人間は自分たちはなんでも出来る素晴らしい動物であると思って、随分我が物顔に生きていますが、しかし、大自然の法則や人間の摂理に背いたことをすると、必ずその間違いの結果を厳しく受けることになります。実に正確に結果が出ます。
 これだけでも人間がいかに小さな存在であるかがわかるというものですが、残念ながら人間は自分たち人間のことを知らなさ過ぎます。もっと人間というもの、そして自分の小ささというものを早くしっかりと知らなくてはなりません。
 自分が生かされている存在であることがしっかりわかれば、死が単に肉体の消滅であることも、魂の永遠不滅も、すんなり理解出来るのが当然です。

    萩原玄明『死者からの教え』ハート出版、1994、p.179