学びの栞 (B) 


 38. 人類へのメッセージ


 38-a (病床からキュブラー・ロス博士が訴える)

 学ぶために地球に送られてきたわたしたちが、学びのテストに合格したとき、卒業がゆるされる。未来の蝶をつつんでいるさなぎのように、たましいを閉じこめている肉体をぬぎ捨てることがゆるされ、ときがくると、わたしたちはたましいを解き放つ。そうなったら、痛みも、恐れも、心配もなくなり・・・・・美しい蝶のように自由に飛翔して、神の家に帰っていく・・・・・・そこではけっしてひとりになることはなく、わたしたちは成長をつづけ、歌い、踊る。愛した人たちのそばにいつもいて、想像を絶するほどの大きな愛につつまれて暮らす。
 幸運にめぐまれれば、わたしは、もう地球にもどつてきて学びなおす必要のないレベルに到達するかもしれないが、悲しいことに、とわの別れを告げようとしているこの世界にたいしてだけは不安を感じている。地球全体が苦しみにあえいでいる。地球が生まれてからこのかた、いまほど衰弱した時期はない。あまりにも無思慮な搾取によって、地球は長いあいだ虐待されてきた。神の庭園のめぐみをむさぼる人類が庭園を荒らしつくしてきた。兵器、貪欲、唯物論、破壊衝動。それらがいのちを支配するルールになっている。恐ろしいことに、いのちの意味について瞑想する人たちによって世代をこえて受けつがれてきたマントラ(真言)はカを失ってしまった。
 間もなく地球がこの悪行を正す時期がくると、わたしは信じている。人類の所業に報いる大地震、洪水、火山の噴火など、かつてない規模の自然災害が起こるだろう。わたしにはそれがみえる。わが亡霊たちからも、聖書に描かれているような規模の大異変が起こると聞いている。それ以外に、人びとが目ざめる方法はないのか?自然をうやまうことを説き、霊性の必要性を説くためにとはいえ、ほかに道はないのか?
 目には未来の光景が映っているが、わたしのこころはあとに残していく人たちに向けられている。どうか、恐れないでほしい。死が存在しないことを想起さえすれば、恐れる理由はなにもない。恐れることなく自己をみつめ、自己について知ってほしい。そして、いのちを、やりがいのある課題だとみなしてほしい。もっとも困難な選択が最高の選択であり、正義と共鳴し、力と神への洞察をもたらす選択なのだ。神が人間にあたえた最高の贈り物は由由選択だ。偶然はない。人生で起こるすべてのことには肯定的な理由がある。峡谷を暴風からまもるために峡谷をおおってしまえば、自然が刻んだ美をみることはできなくなる。
 この世からつぎの世への移行を目前にしているわたしには、天国か地獄かをきめるのはその人の現在の生きかたであることがよくわかる。いのちの唯一の目的は成長することにある。究極の学びは、無条件に愛し、愛される方法を身につけることにある。地球には食べるものがない人たちが無数にいる。住む家がない人たちが無数にいる。無数の人たちがエイズで苦しんでいる。無数の人たちが虐待されている。精神や身体の障害とたたかっている人たちが無数にいる。毎日、理解と慈悲を必要とする人たちがふえている。その人たちの声に耳をかたむけてほしい。美しい音楽を聞くようにその声を聞いてほしい。請けあってもいい。人生最高の報酬は、助けを必要としている人たちにたいしてこころをひらくことから得られるのだ。最大の祝福はつねに助けることから生まれる。
 その真理は−ー宗教、経済体制、人種の差をこえてー−、すベての人の日常経験に共通するものだと、わたしは確信している。
 あらゆる人はひとつの同じ本源からやってきて、その同じ本源に帰っていく。
 わたしたちはひとしく、無条件に愛し、愛されることを学ばなければならない。
 人生に起こるすべての苦難、すべての悪夢、神がくだした罰のようにみえるすべての試練は、実際には神からの贈り物である。それらは成長の機会であり、成長こそがいのちのただひとつの目的なのだ。
 まず自分を癒さなければ世界を癒すことはできない。
 準備がととのい、それを恐れさえしなければ、その人は自力で霊的体験をすることができる。グルやパパに教わる必要はない。
 わたしが神と呼ぶ、その同じ本源から生まれたわたしたちはだれでも、神性を賦与されている。
 自己の不死性にたいする知識は、その神性から生まれる。
 自然に死ぬまで生きなければならない。
 ひとりで死んでいく人はいない。
 だれもが想像をこえるほど大きなものに愛されている。
 だれもが祝福され、みちびかれている。
 人は自分がしたいと思うことしかしない。それを知ることが重要だ。たとえ貧しくても、飢えていても、粗末な家に住んでいても、十全に生きることはできる。地球に生まれてきた者の使命さえはたしていれば、この世で最後の日にも、自己の人生を祝福することができる。
 いちばんむずかしいのは無条件の愛を身につけることだ。
 死は怖くない。死は人生でもっともすばらしい経験にもなりうる。そうなるかどうかは、その人がどう生きたかにかかっている。
 死はこの形態のいのちからの、痛みも悩みもない別の存在形態への移行にすぎない。
 愛があれば、どんなことにも耐えられる。
 どうかもっと多くの人に、もっと多くの愛をあたえようとこころがけてほしい。それがわたしの願いだ。
 永遠に生きるのは愛だけなのだから。


    エリザベス・キュブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
     (上野圭一訳)角川書店、1998、pp.372-375

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 38-b (自分のすばらしい血筋を思い出してもらうために)
     [ラムサの教え =1= ] 

 私たちが分かち合ってきたときはすばらしいものだった。あなたの人生を訪れ、その片鱗にでも触れることは、私にとって大変なよろこびだ。皆と分かち合ってきたことは、すべて私自身もしてきたことだ。皆の一人ひとりは私自身、つまり私が深く愛し、これからも愛する父なる存在であるからだ。皆という貴重な存在の進化に貢献できることは、すべて「われ在るもの」の王国である父に栄光を与え、その力を拡大するのである。
 私は自分がかつてその熱烈なる一員であった人類の兄弟としてやってきた。ここに人間として生き、あなたが体験していることすべてを体験した。あなたと同じ絶望に生き、同じ哀しみの涙を流した。あなたと同じ夢を見て、同じよろこびを知っていた。私はあらゆる次元を訪れたが、すべての体験の中で最も深遠だったのは、皆の中に人間として、神なる人間として自分がここ地上界にいたときであり、恐怖や絶望や、誰もが知っている栄光の刹那を体験しているときであった。私がここに戻ってくることを選んだのは、あなたたちのことをよく理解しているからだ。そして、理解することとは、愛することなのである。
 私は、あなたを救うために来たのではない。もともと何から救えばいいのかという、その対象が存在しないからだ。私がやってきたのは、遠い昔にあなたが忘れ去ってしまった、自分のすばらしい血筋のことをあらためて思い出してもらうためであり、これからすぐに目にするであろう栄光あふれる未来について語るためだ。私がやってきたのは、あなたが人生で自己を表現していく選択肢はもっともっとたくさんあることに気づき、もしそれがあなたの意志であるなら、そういう選択を実現させてくれる知識をもたらすのを手助けするためなのだ。私があなたに願いたいのは、調和のとれたよろこびあふれる人生への進化のために役立つ叡智を、自分が決めたときに、自分のやり方で、人生の中で実践していくということだけだ。
 この次元での私の人生の道は、未知の神になること(結局それは自分自身であることをのちに発見するのだが……)、そして次元を超えて永遠の冒険の中に戯れることだった。それは実現し、いまもそれは続いている。私がしたように、この生にあるすべてを抱き、受け容れるとき、そういう冒険があなたのことも待ち受けていることを伝えるために私はここに来ている。
 私が与えた叡智を生きるとよい。それを自分の存在の内に持つのだ。そうしたとき、望むことができるより、あるいは考えられるよりはるかに偉大な宝を自分は与えられたことにすぐ気づくことだろう。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 317-318

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 38-c (ちょうど真夜中の星のように明るく美しくなるように)
      [ラムサの教え =2= ]

 学んだこと、聞いたこと、読んだことを、単純明快に実践しよう。単純であればあるほど、あなたはもっと強力になる。何かが欲しいなら、それを求めるのだ! それをあなたにあげられる力を与えられた人間はこの地上界に誰もいない。父なる存在がそれをあなたに与えてくれるよう、自分の主=神のレベルから求めるのだ。そして、それが何であろうとも、父はそれを持っているのを知ることだ。では、どこに行ってそれを求めればいいのか? 内なる寺院だ。自分自身の思考の静寂の中で願うのである。その声は必ず聞かれることだろう。
 あなたが誰だか私は知っている。何をしているか、何を夢見ているかも知っている。誰も見ていないと思うなら、実はあなたは真夜中の天界にちりばめられた星と同じだということを知らなければならない。つまりあなたは誰もが見える場所にいるのだ。すべてのものは、あなたが誰で、何をしているか知っている。特に私たちのような目に見えない世界の者はなおさらだ。
 あなたが誰であるかが重要なのは、あなた自身にとってだけである。すべてが語り尽くされ、し尽くされたとき、結局頼れるのは、自分と、全能なる神という、自分の内にある大切な光だけなのである。自らを平静に保つことだ。そして独自性のある人間であれ。あなたの光、そしてほかが見るあなたが、ちょうど真夜中の星のように明るく、美しくなるように、自分を在るがままで愛するのだ。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 318-319

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 38-d (どれほどあなたが愛され必要とされているかを知ってほしい)
     [ ラムサの教え =3= ]

 私はわが臣民によって、覚醒した者ラムサと呼ばれた。そしてその名をこの瞬間まで使ってきた。だが、覚醒した者と言われるのはどうかと思ってしまう。私は、他の誰もが日々のことで忙しくしている間、ひとり平原にすわっていた人間だった。だが、その日常生活から孤立した自然の中で、私は「未知の神」を見つけた。
 わが愛する兄弟たちよ、世界は都にあるわけではない。そこは確かに生命のあふれる場所だ。しかし、偉大なる生とは、都から離れた場所、巨木の根もとや、空気は澄みきって、風は冷たくすがすがしい、雪をいただく山の頂上、あるいは広大な砂漠、無限の海などに見いだされるものだ。この地上界には、皆のほとんどが知っている以上にはるかに奥深いものがある。
 そのような場所でひとりとなり、真夜中の空や、夜明けの暁光のときまで昇っては沈んでいく月とともにあることに平穏を感じるまでは、あなたは真の意味で生を知ったことにはならない。そしてあなたのもとにやってくるすべての知識、すべての夢を通して、あなたもまた覚醒した者となる。なぜなら、大事なことは何かという問いの答えは、そこでは見事に変わってしまうからだ。自然の意識は、あなたを受け容れる。受け容れるのである! そして、あなたも自然自体のようにときのない存在となることを期待してくるのだ。そのような状況でこそ、あなたはこの神となり、人生の一日一日をしっかりと地に足をつけて生きるようになるのである。
 「未知の神」とは沈黙、偉大なる沈黙だ。が、語ることを許すなら、それはあなたに語りかけてくる。殻を飛び出し、この大地の一部となるのだ。その場所をすべて訪れることだ。その場所と一体となるのだ。身につけた絹や宝石をはずし、靴を脱ぐ。いまどき流行おくれの簡素な格好に身を固め、あなたがつくり出したこの天国で、神を体験しに出かけるのだ。これはあなたにぜひしてもらいたいことだ。このような場所に行き、その途切れなき永遠め意識の一部となるまでは、あなたは真の意味で生きたことにはならないし、あなた自身の姿であるこの神を理解できるようにもなれないだろう。
 自分のすべてをかけ、わが内面に燃える父なるもののレベルから、あなたがどんなに大事な存在か、そしてどれほどあなたが愛され、また必要とされているかを知ってほしいと私は願っている。自分が死のうが生きようが誰ひとりとして気にする者などいないと思うとき、私はあなたを思っていることを知ってほしい。自分の存在の大切さが見失われ始め、誰か仲間が必要だと感じたとき、私の名を呼ぶことだ。私はそこにいるだろう。この地上界のあなたの人生の日々を通じて、愛と希望とよろこびをはらんだあなたの大切な魂が、叡智、慈しみ、そして見えるもの見えぬものすべての生命を抱く愛の華麗なる花へと開いていく中で、私はつねにあなたとともにある。その開花にともなう感情の嵐の中で、ラムサという名前など聞かなかったらよかったと思う瞬間もあることだろう。しかし、それよりもはるかに偉大なる瞬間は、あなたの内面で神が見え、実感され、それを知ることができたときなのである。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 318-321

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 38-e (私の朝がやってきたようにあなたの朝ももうすぐやってくる)
      [ ラムサの教え =4= ]

 さて、これまで私は、考えられるあらゆる言い方で、何度も何度も何度も、あなたが知ることのできる最も重要な真実を語ってきた。それは、あなたは神である、ということだ。そしてあなたは、ひょっとしたらそれはまさに真実なのかもしれないと気づき始めている。愛すべき主たちよ、それをはっきりと知るということは、一瞬一瞬あなたの人生が開花していく過程を通じてのみ可能になるのだ。だが、あなたには次のことも知ってほしいと私は願っている。
 ある晴れた朝、夜明け前の時間、あまりの静寂の深さに、静寂そのものが聞こえるようにさえ感じられる中でベッドに横たわりながら、あなたは夢でない夢から目覚めることだろう。部屋を包む闇の中で目を開いたあなたは、寝床から起き上がり、そこからしか光が見えない窓のところに歩いていく。
 朝露で霞んだ窓を通して朝の暗い灰色の世界を見つめ、壮麗なる輝きを放つ光をもたらす前触れをはらんだ天界をながめる。暗闇にちりばめられてまたたく小さな宝石のような輝きの美を見つめていると、月がすでに昇っては沈んでいき、いまは地平線に静かにとどまりながら、自分よりも偉大なる光を待っているのがわかる。
 たったひとりで、どんな言葉も超えた感情にふるえながら、あなたはそこにすわり、いま目覚めようとしている生の静寂をじっと見つめている。やがて、林の中から鳥が一羽、羽ばたく音が聞こえる。あなたと同じように、その鳥も寝床から起き上がり、朝に敬意を表する準備をしているのだ。希望とよろこびにあふれた、その甘いやわらかな歌に耳を傾けながら、あなたは自分の視界を東に向け、遠い地平線に目をやる。そこには紫色に包まれた寂しそうな山々が、まるで生命を守る歩哨のように力強く、高くそびえ立ち、薄いバラの色を背景にそのシルエットを浮かび上がらせている。そして、地平線へと沈黙の旅をしてきた雲は、来たるべき夜明けの黄金にふちどられている。
 この壮麗なる風景とその存在の純粋さとひとつとなったあなたは、何ひとつ物音を聞かない。まもなく見られる地平線上に輝く栄光という、壮大なる出来事への期待にふるえる自分自身の心臓の鼓動だけがその例外だ。夜のカーテンが朝に光の中にゆつくりと消えていくにしたがって、星は徐々にその光を失い、神秘の月は、これから始まる夜明けへと自分の美を明け渡していく。
 この瞬間の美と歓喜にとらわれる中で、あなたのもとにある気づきが訪れる。この朝の途切れなき継続性なしには、あなたのすべての恐れ、心配、夢あるいは幻像も、何の存在もないものとなってしまうのだ。まさにその瞬間、金色に輝く山々のうしろから、黄金の槍をまるで輝ける希望の光のごとく、霧むせぶ渓谷へと突き刺しながら、火の玉のような宝石がその姿を現す。偉大なるラー(太陽神)がだんだんと昇ってくるにつれて、空は青や紫やバラ色、オレンジや深い赤の色で燃え上がる。鳥たちはそのさえずりの声を上げ、飛び回り始めるなか、世界は朝のすばらしき呼吸と期待に目覚めていく。
 この壮麗なる風景、時代を超えてあらゆる瞬間を目撃してきたこの風景に見とれ、この神秘の感情があなたの存在すべてを包み込んだとき、あなたはまさに自分が太陽神の生命そのものであることを悟り、天に舞い上がるほどの気持ちとなる。あなたはまさに遠い地平線に強く静かにそびえ立つ、生命を守る歩哨そのものなのだ。あなたはまさに、目覚める夜明けの色であり、林の中にある木々の枝の動きであり、窓辺に落ちる朝露の一滴であり、そして朝鳥の甘くやわらかなよろこびの歌そのものなのだ。
 そして、次に見る夜明けは「私そのものである神を見よ」という視点から見るものとなる。そしてあなたは、在りて在るものすべての壮麗さ、美しさにとらわれるようになる。なぜなら、いまやあなたは光と、そして力と一体であり、言葉を語らぬこの力の途切れなき継続性とひとつになった存在だからである。
 真実を学ぶのと、その真実になるのはまったく別のことだ。しかし、そんなことをまったく思ってもいないとき、あなたは起き上がり、このような壮麗な風景を空に見る。そして、あなたの存在そのものの平穏を通じ、この真実を「知っている状態」が現実となるのだ。ある晴れた朝に……。すると、あらゆる言葉、あらゆる混乱、怒り、自己の拒絶、神を理解することの複雑さ、探求、本や教師たち、それらはすべて終わりを告げる。静かに、それを表す言葉もない、深遠なる気づきを通して・・・・・・。
 あなたの朝はもうすぐやってくる……私の朝がやってきたように。

  『ラムサ―真・聖なる預言』(川瀬勝訳)角川春樹事務所、1996、pp. 321-324

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 38-f[41-e] (私は霊となって人間死後の世界に出入してきた)

 私は過去二十数年間にわたり、肉体をこの世に置いたまま、霊となって人間死後の世界、霊の世界に出入してきた。そして、そこで多くの霊たちの間に立ち交り、数々のことを見聞きしてきた。
 私がこれから記すのは、私自身が人間死後の世界、霊の世界で、この身をもって見聞きし、体験してきたことの全てである。
 私のような人類に稀な体験は、多くの人々が信じようとしないだろう。だが、私は今は、このことを深く詮議はすまい。なぜなら人々がこの手記を読まれれば、ここに記されたことの全てが真実であることを信ぜざるを得なくなることを私は絶対の確信をもって信じているからだ。そして人々は、さらに霊が永遠の存在であり、われわれのこの世の自然界とは別に霊界というもう一つの世界の存在することも知るに至るであろう。
 私がどのようにして霊の世界、人間死後の世界へ入り、霊たちとあたかも人間と交わるように交わって来たか、霊の世界、死後の世界でどのようなことを見聞きしてきたか、霊の世界とこの世の間には、どのような関係があるのかをはっきり知るに至ったか----これらのことについては、だんだんと順序を追って記していくことにしょう。
 私が霊の世界で見聞きしてきたことは数多い。だから、この手記は厖大なものとなろう。その厖大さを考えるとき、私のこの世における残された時間は少ない。というのは私は来年の三月二九日には、この世を捨て霊の世界へ二度と帰らぬ最後の旅立ちをせねばならぬことになっているからだ。(訳者註)
 私は先を急ぐことにしょう。

 (註)この本を記したスウェデンボルグは、死の日(一七七二年三月二九日)を予告した手紙を人に送り、その予告どおりの日に彼の言葉でいえば「現世の用を果たした肉体」を捨て霊界へと「その住み家を変えた」。

    エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.6-7