学びの栞 (B) 


  41. 臨死体験・死後体験

41-a (精神医学の巨人・ユングの臨死体験)

ここに、このすべての能力をかねそなえた原体験者自身が記録者になったという稀有の体験例がある。それは、ベッカーさんとの対話の中でも話に出た、精神医学の巨人、C・G・ユングその人である。ユング自身が臨死体験をしているのである。それが彼の自伝(邦訳、みすず書房刊)の中に詳細に記されている。
 「一九四四年のはじめに、私は心筋梗塞につづいて、足を骨折するという災難にあった。意識喪失のなかで譫妄状態になり、私はさまざまの幻像をみたが、それはちょうど危篤に陥って、酸素吸入やカンフル注射をされているときにはじまったに違いない。幻像のイメージがあまりにも強烈だったので、私は死が近づいたのだと自分で思いこんでいた。後日、付き添っていた看護婦は、『まるであなたは、明るい光輝に囲まれておいでのようでした』といっていたが、彼女のつけ加えた言葉によると、そういった現象は死んで行く人たちに何度かみかけたことだという。私は死の頼戸際忙まで近づいて、夢みているのか、忘我の陶酔のなかにいるのかわからなかった。とにかく途方もないことが、私の身の上に起こりはじめていたのである。
 私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた」
 このあと、彼が宇宙から眺めた地球の姿の記述がつづくのだが、それを読んで私(立花隆)は驚いた。それが客観的な宇宙から見た地球像とよく合っていたからである。これが現代の記述なら私も驚かない。我々はみなアポロが撮った地球の写真を見ているから、ユングと同じように地球を描写できるだろう。しかしユングは、これをアポロ以前どころか、ガガーリン以前に書いているのである。ガガーリンが宇宙から地球を見て、「地球は青かった」というまでは、誰も宇宙から地球を見ると青く見えるなどということは知らなかったのである。しかもユングは、ガガーリンが見た位置(181〜327キロ)よりはるかに高いところから見た地球の姿を正しく描写しているのである。

  立花隆『臨死体験(上)』文芸春秋、1994、pp.51-52


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 41-b (キルデ博士の臨死体験)

 医師の臨死体験者をもう一人紹介する。フィンランドのラウニ・リーナ・ルーカネン・キルデ医学博士である。キルデさんには、NHKの番組の中でもちょっとだけ顔を出して体験を語ってもらっている。キルデさんは、公衆衛生学が専門で、ラップランド地方政府のチーフ・メディカル・オフィサーを十三年間つとめた人である。
 キルデさんの体験は、一九六九年、医学校を卒業して医者になったばかりの年に起きた。急性腹膜炎で、救急病院に担ぎ込まれ、緊急手術を受けたときのことである。
 「そのとき私は、全身麻酔をかけられて意識喪失状態にあったわけです。しかし、突然気がついてみると、私は天井のあたりに浮かんでいて、自分が手術されるところを見ていました。そして不思議なことには、手術をしている医者の考えが読めたのです。これからメスを取って切ろうとしているなというのがわかりました。彼が切ろうとしているところには小さな動脈がかくされているということもなぜか私にはわかりました。しかし彼はそれに気がついていない。だからその動脈が切られてしまうというのがわかったのです。私はこれを止めようとしてあわてて叫びました。『そこを切っちゃダメ! そこには動脈があるのよ!』。しかし、彼には私の声が聞こえません。私が予知した通り、彼は動脈を切ってしまいました。血がパァーと噴き上がり、天井近くまで達するのが見えました。その途端、私はトンネルの中に吸い込まれていきました。トンネルの中は真っ暗で何もありませんでした。その向こうに輝く光があり、そこに私は入っていきました。それは自由の女神像くらい巨大で強く光り輝いていました。光は暖かく、愛に満ちていました。輝き方があまりに強かったので、私は光を直接みることが出来ませんでした。私は思わずその前にひざまずいてしまいました」
 キルデさんは、一九九〇年にアメリカのワシントンで開かれた、第二回臨死体験研究国際会議の初日に行われた記念講演の講演者だった。医者であり社会的地位も高い臨死体験者として、彼女は欧米では有名な人なのである。彼女が自分の体験を書いた『死は存在しない』という本は、フィンランドでベストセラーのトップになっただけでなく、スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、スペインの各国で翻訳出版され、ノルウェー、スウェーデンでは、それぞれベストセラー一位と五位になっている。

 立花隆『臨死体験(上)』文芸春秋、1994、pp.149-150

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 41-c (体外離脱して自分の心臓手術を眺める)

 サリバンさん(コネチカット州で運送業、59歳)は、それまで手術というものを受けたことがなかったので、手術室に関する予備知識といえば、TVドラマの手術室の場面くらいしかなかった。そしてサリバンさんは、救急車でかつぎこまれて、心臓カテーテル検査を受けるとすぐに手術室に運び込まれ、あっという間に麻酔をかけられたので、手術室の中を観察しているひまもなかった。だから、サリバンさんが手術室の様子をちゃんと見たのは、体外離脱してからである。
 「わたしがまず何よりびっくりしたのは、沢山の人がわたしの体を取りかこんでいたことです。五人くらいいたと思います。そして、そのうち二人が、熱心にわたしの脚を手術していました。わたしは、悪いところは心臓だとばかり思っていたので、これにはびっくりしました。あの医者はいったい何をやっているのだろうと不思議に思いました。高田先生は、わたしの頭の方にいました。その両脇に医者と看護婦が一人ずついて、それから、わたしの頭のところに大きな白い帽子をかぶった看護婦がいて、先生以外に全部で五人いました」
 高田医師に聞くと、これはその通りなのである。サリバンさんの心臓は冠動脈が動脈硬化を起こし心筋梗塞をもたらしていたので、冠動脈のバイパスを作る必要があった。そのバイパス用の血管は普通、脚の血管を切って利用するのである。心臓の手術にかかる前に、脚を切開して、その血管をいつでも切り取れるようにむき出しにしておかなければならない。脚のところにいた二人の医師は、その作業をやっていたのである。こういうことは、かなり心臓手術に通じている人でなければ知らないことである。もしサリバンさんが本当に見ていなかったとすれば、なぜサリバンさんが二人の医師が脚の手術をしていたことを知ったのか不思議なところである。
 「上から見ると、私の目のところが、何かよくわからないもので覆われていました。あれはいったい何だったのですか」
 高田医師によると、患者の目を万が一にも誤って傷つけることがないように、患者の目を閉じさせ、その上に卵形のアイバッチをのせ、それをテープで固定してしまうのだという。だから、たとえ患者が手術中に意識を取り戻して目を開いたとしても、患者は何も見えないのである。体外離脱の解釈で、麻酔が途中で弱くなって、患者が薄く意識を取り戻した状態で、薄目を開けて外を見ていたのではないかという説もあるが、サリバンさんの湯合は、それも不可能なのである。
 「それからもうひとつ驚いたのは、みんながブーツをはいていたことです。なんでブーツをはいているんだろうといぶかしく思いました」
 高田医師によると、確かにそのとき高田医師をのぞいてみんなブーツをはいていたという。そのブーツは導電性の物質でできていて、衣服に生じた静電気などの電気をアースするためにはくのだという。昔は、麻酔薬のエーテルなど、電気火花で爆発の恐れがある物質が手術室にあったので、そういうブーツをはくようになった。しかし、最近はそういう危険な物質がなくなったのであまりはく意味がなくなったが、いまでも昔からの習慣でみんなはいているのだという。
 「それから高田先生は、手を胸の前に組んで、肘を左右に突きだすような格好をしていました。その姿勢のまま、肘の先で何かを指しながらいろんな指示を下すので、まるで、両肘が鳥の翼のように見えました。鳥が翼をバタバタ動かしているようでした。それで私は、おやおやこの人はこれからどこかに飛んでいこうとしているのだろうかと思いました」
 これについては、高田医師は自分ではピンとこないようだったが、同僚の医師が、それは高田医師のクセだと証言してくれた。手術前に両手は丹念に殺菌してある。それをまた何かにふれさせると、細菌がついてしまう。それを恐れて、肘を手の代わりに使うのだという。
 「それから高田先生は、黒い重そうな眼鏡をしておられましたね。そのとき以外眼鏡をしておられるのを見たことがないので、変だなと思っているんですが」
 これもその通りだった。高田医師は、手術のときだけ、特別の拡大鏡がついた眼鏡を着用するのだそうである。
 「それから、ライトが三つあったのを覚えています。そのうちの一つは、ランプの集合体で、それがときどき私の視野をさえぎるので、まわりこむようにして見なければなりませんでした。あと二つのライトがあったのを覚えているのですが…」
 ランプの集合体というのは、手術の上を照らす無影灯であろう。天井の片すみから見おろすようにすれば、たしかにそれで視野がさえぎられるはずである。もう一つのライトは、高田医師が頭につけていたヘッドランプであろうというが、もう一つはどれをさすのかはっきりしない。
 「それから、ものすごく大きな機械が、高田先生のすぐ後ろのところにありました。それが何に使われる機械なのかよくわかりませんでしたが、とにかく大きなものでした」
 高田医師によると、その位置にある大きな機械というと、心臓手術に使われる人工心肺装置にちがいないという。
 「私の胸が切り開かれ、心臓が見えていました。こういう大手術のときに血が大量に流れるのかと思っていたら、ほとんど流れていないのでびっくりしました。そして、心臓は血で赤いのかと思ったら、白っぽい紫色で血の気がぜんぜんないのにも驚かされました。それから、心臓はいわゆるハート形をしていると思っていたのですが、ハート形とはぜんぜん似ても似つかぬ形をしているのもびっくりでした。心臓はガラスのテーブルの上に置かれているように見えました」
 このくだりは、ガラスのテーブルという点をのぞいて、みんな事実に合致している。血液の循環は、人工心肺装置につながれて、そちらで行われているので、手術中の心臓にはぜんぜん血液がきていない。だから、白っぽい紫色をしているのである。
 結局、サリバンさんの手術描写は最後のガラスのテーブルという一点をのぞくと、ほぼ完全に手術の現場の様子に合致しているのである。そして、その中には、見ていなければわかるはずがないと思われる要素がいろいろ出てくるのである。
 これをどう解釈すればよいのだろうか。前に、こういう事例の一つの解釈として、耳で聞いた話など、他の感覚器官から得た情報を総合して、視覚像を頭の中で再構成してしまうのではないかという有力な説があると書いた。しかし、このケースはその説で解釈可能だろうか。
 バイパス用の血管を脚部から取り出す場面とか、ブーツ、拡大鏡付き眼鏡、高田医師の肘の動き、心臓の色など、他の感覚情報から得られたとはとても思えないのである。

 立花隆『臨死体験(下)』文芸春秋、1994、pp.223-226

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 41-d (「死後体験」も可能である)

 6度にわたるモンロー研(ロバート・モンロー研究所)の訪問で、得たことは多い。そのなかで一番の収穫は、自分は独りではなかつたということ、ガイドたちが見守ってくれていた、ということを知ったことである。その存在を直接感ずることがなくても、常日ごろ、わたしのすぐそばで、じっと見守ってくれていた。こう知ることでなにかすごくほっとした。肩の荷が下りたような気がする。また自分が死んだら、ガイドたちが面倒見てくれると思うと、死に対して持っていた漠然とした恐怖が、かなり軽減した。
 わたしは人間死んだらどうなるのかということに、子どものころから興味を抱いていた。それは死の恐怖に時々さいなまれたからである。死を思うと心が真っ暗になり、暗黒の闇のなかに突き落とされることがあった。そこは希望の2文字が、絶え果てる世界だった。
 死というのは残酷なものである。死に直面した場合、たった独りで対峙しなければならない。誰も助けてくれないのだ。そして、たった独りで死んでいかなければならない。死以外の世間事は時間の経過が解決することもあるが、死はそうはいかない。時間はことを悪化させるだけである。死に直面した場合、問題の先送りはできない。
 わたしは成長するにつれ、恐怖にさいなまれることはなくなったが、それでもいずれ死ぬときが来る。その際にまた死と対峠しなければならない。その前に何とか死の恐怖を解決できないものかと思ってはいた。
 それがモンロー研を訪問することで、新たな展開をみることになった。
 モンロー研で死後の世界を自分で体験し、そのさまざまな世界を直接把握することができた。死後は未知ではなくなったのだ。これだけでも死の恐怖はかなり減った。ここで、重要な点は、わたしは死後の世界について、誰かの話を聞いてそんなものかと理解したのではない。自分の直接体験で知ったという点だ。この違いは大きい。言ってみれば、幽霊を見た人の話をテレビで見て、「ふ−んそんなもんかね」と茶の間で言ってるのと、その茶の間に幽霊が出てきて、ぞつとしたぐらいの差がある。
 そしてガイドたち、トータル・セルフとの出会いである。ガイドたちが、常に見守ってくれていたことを知ったことは大きい。上述したように、それを知ることで得た安心感は大きい。
 モンロー研ではさらに、いくつもの過去世の自分を知ることができた。自分は悠久の過去からずっと存続してきたことがわかった。肉体は滅んでも魂は永遠なのだ。魂という表現が正しいかどうかはわからない。自分の本質とか実体とか言ったほうが、正しいかもしれない。それが肉体とは独立して存在すること自体は、体外離脱体験を通して知っていた。が、自分が悠久の過去から輪廻を繰り返していたことを、直接体験を通して知ることはなかった。モンロー研はそれを可能にした。
 それだけではない。わたしは家内といくつもの過去生で兄妹だったり、いいなづけだったり、夫婦だったりしたこともわかった。いわゆるソウル・メイト(魂の伴侶)である。死に別れたり、結婚できなかったりしたことが多かったので、いまの関係の持つ重さ、大切さが身にしみてわかる。家族に対しても同じ思いだ。袖すりあうも多生の縁。すべての出会いは偶然ではない。そこに過去からの強いつながりを感じるのである。

  坂本政道『死後体験』ハート出版、2003、pp.244-246

 私注:副題は「臨死体験」を超える ーー米国モンロー研究所のヘミシング技術が、
死後の世界探訪を可能にした、とある。
 著者は、東京大学、カナダのトロント大学大学院で学んだハイテク・エンジニア。

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 41-e[38-f] (私は霊となって人間死後の世界に出入してきた)

 私は過去二十数年間にわたり、肉体をこの世に置いたまま、霊となって人間死後の世界、霊の世界に出入してきた。そして、そこで多くの霊たちの間に立ち交り、数々のことを見聞きしてきた。
 私がこれから記すのは、私自身が人間死後の世界、霊の世界で、この身をもって見聞きし、体験してきたことの全てである。
 私のような人類に稀な体験は、多くの人々が信じようとしないだろう。だが、私は今は、このことを深く詮議はすまい。なぜなら人々がこの手記を読まれれば、ここに記されたことの全てが真実であることを信ぜざるを得なくなることを私は絶対の確信をもって信じているからだ。そして人々は、さらに霊が永遠の存在であり、われわれのこの世の自然界とは別に霊界というもう一つの世界の存在することも知るに至るであろう。
 私がどのようにして霊の世界、人間死後の世界へ入り、霊たちとあたかも人間と交わるように交わって来たか、霊の世界、死後の世界でどのようなことを見聞きしてきたか、霊の世界とこの世の間には、どのような関係があるのかをはっきり知るに至ったか----これらのことについては、だんだんと順序を追って記していくことにしょう。
 私が霊の世界で見聞きしてきたことは数多い。だから、この手記は厖大なものとなろう。その厖大さを考えるとき、私のこの世における残された時間は少ない。というのは私は来年の三月二九日には、この世を捨て霊の世界へ二度と帰らぬ最後の旅立ちをせねばならぬことになっているからだ。(訳者註)
 私は先を急ぐことにしょう。

 (註)この本を記したスウェデンボルグは、死の日(一七七二年三月二九日)を予告した手紙を人に送り、その予告どおりの日に彼の言葉でいえば「現世の用を果たした肉体」を捨て霊界へと「その住み家を変えた」。

    エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.6-7

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 41-f (直接霊たちと交わることができるようになった証拠)

 霊の肉体離脱の初めに、私は必ず眠っているのでもなく、といって眼ざめて覚醒しているのでもないという特別な感覚の中にいる自分を自覚する。それなのに、このような時、私は自分では、自分が十分に覚醒しているのだという意識がさえざえとする。だが、ここで注意しなければならないのは、この覚醒は普通の肉体的人間としての覚醒ではなく、霊としての、霊の感覚においての覚醒なのだということだ。
 だから普通の眼、耳、鼻といった外部的な肉体的な感覚は全て眠ってなくなってしまうといってよいだろう。これらは全て肉体としての人間に属する感覚だからだ。しかし、そのいっぽう、さっきいった霊としての感覚はますます醒めてはっきりしてくる。霊としての意識の中での視覚、聴覚、そしてさらに触覚にいたっては普通のときの五〇倍も一〇〇倍も鋭くなっているのが自分でも解ってくる。だが、何度もいうが、これらの感覚は全て肉体的な感覚の覚醒でないことはいま述べたとおりだ。このような時の私をもし人が見るとすれば、私は全ての人間としての意識を失って死んだのだとしか見えないだろう。また、心臓の鼓動、肺臓の脈はくも止まっているに違いないのだ。
 この状態のことを私は死の状態という。あるいは同じことだが、つぎに述べるような理由から霊の状態といってもよいと思う。死の状態、霊の状態になると私には自分自身の霊が自分の肉体の中にいるのだとも、外に出ているのだとも、どっちでもない状態にあるような気がして来る。霊たちの姿や霊界の様子が少しずつ私の眼に見え始め、また霊たちの言葉を聞いてこれを理解できるような気持が起こってくるのは、このときである。そして霊たちには私の手の触覚で直接さわることができる気がしてくる。これは霊と私の間に肉体というじゃまなものがなくなり、私が直接霊たちと交わることができるようになった証拠である。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.24-25

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 41-g (私は肉体を離脱し霊の視覚でベッドの自分を見ていた)

 この状態がさらに進むと私は霊界の中を自由に往来し、また他の霊たちと人間と交わるのと全く同じように交わることができるようになるが、それには、もう一つの段階がある。
 肉体を離脱して、まだそれほど肉体との距離のできていない段階では、私の霊は、いま離脱したばかりの自分自身の肉体をはっきり見ることができるし、かなりの程度肉体に対する支配力を持ち続けている。その様子を記すとつぎのとおりだ。
 私の霊は肉体を離脱し、二〜三〇メートルくらいの低い空にいた。下を見ると私の肉体がベッドに横たわっているのが見える。私が肉体的視覚でなく霊の視覚で見ているのがこのことだけでも解るだろう。(肉体的視覚であれば屋根の下にある私の肉体もベッドも見ることはできないはずだからだ)私の肉体はその時、ベッドの端に首筋があたっていた。霊としての私は空にいて思った。
 「あれでは、首が苦しい。もしかすると窒息してしまう。体をずらさなければいけない」
 私の霊がそう思うと、私の肉体は体をずらして首筋をベッドの端からはずしたのだ。
 このときの私の肉体は誰の目にも死者としか見えなかったはずである。だからもし人がいて、この死者としか見えない肉体の動くのを見たとすれば、その人は心臓も凍る思いがしたと思う。
 この状態からさらに進み、私の霊が自分の肉体をほとんど意識しなくなってくるようになると私の霊は完全に肉体から離脱し、霊界の諸方に自由に出入りし、多くの霊たちと自由に交われるようになるのである。
 私が生きながら霊界に入り、霊たちと交わり、霊界で数々のことを見聞きしてきたのは、このような仕方によってであった。(訳者註)

 (註)スウェデンボルグが他人の立入りも禁じて自分の部屋にこもったきり何日も食事もしなかったことがあったのは有名な逸話として残っている。ロンドン滞在中、これは下宿の主人たちに不思議な思いをさせたらしく、その記録も現存している。また彼が部屋にこもる期間は二、三日から十日間くらいだったという。このことは明治の末年、日本で出版された唯一のスウェデンボルグ伝の著者鈴木大拙氏(禅学者、故人)も紹介している。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.25-27

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 41-h[2-o] (死は霊にとっては霊界への旅立ちに過ぎない)

 人間の肉体の死は確かにこの世の全ての終りだということは物質界、自然界的に見れば正しい。だが、死を霊の立場、霊界の側から見れば、単にその肉体の中に住んでいた霊、肉体の中に住んでその肉体をこの世における一つの道具として使用して来た霊が、肉体の使用を止め、肉体を支配する力を失ったということに過ぎないのである。そして、霊はその後は霊界へと旅立って行くのだ。
 死は霊にとっては霊界への旅立ちに過ぎないのだ。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、p.31

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 41-i (稀に起きる死者の生き返りという現象 =1=)

 死んでから何時聞かののちヒルダは、そのベッドに横たえられている自分の遺体の中で自分が静かに眼をさまし始めているのに気がついた……。
 だが、むろん、これはこの世にいたときヒルダという名前をもっていた人間としての彼女が気がついたのではない。その肉体の中にあった霊のヒルダが眼をさまし、霊としての生涯を始めようとしていたのである。
 やがて彼女の霊は自分の周囲にいままで想像もしなかった世界が開けてきて、つぎには二人の導きの霊が彼女の遺体の頭の近くへ来て静かに腰を下ろしたのを知った。
 彼女の霊は遺体の中からむっくりと起き上がり、導きの霊のほうへ顔を向けて座った。死者の霊と導きの霊との想念の交通が始まろうとしているのだ。
 導きの霊の一人はヒルダの霊の顔をじっと見つめながらいった。
 「汝、いまや精霊なり、人間にはあらず。汝、これよりわが問いに答えよ」
 霊のヒルダは、初めて会う、この霊の言葉に耳を疑った。そして考えた。
 ----われ、先刻死せり、しかるに、この声の聞けるは何の不思議ぞ----。
 だが、導きの霊の言葉には霊のヒルダに反問を許さない響きがこもっている。霊のヒルダは疑問を感じながらも黙ってうなずいた。
 導きの霊はいった。
 「汝、人間の肉体にあること何年に及びしや」
 「二〇余年なり」
 霊のヒルダは答えた。
 「汝の人間、なにゆえに死せるぞ、その原因は如何?」
 導きの霊の問いかけは続く。
 だが、この質問に対する答えは霊のヒルダにはわからなかった。これは人間としての彼女の死があまりに突然だったためもあるだろう。だが、いずれにせよ霊のヒルダはその答えを探そうと思って苦しんだ。そして導きの霊にいった。
 「いま、われ、そのことよく考えてみん。なんとなれば、われ急にはそのことわからざればなり」
 二人の導きの霊は、この答えにお互いに顔を見合わせた。だが、この二人の顔に少し奇妙な答えを聞くものだと不審に思う表情が浮かんだのは霊のヒルダにはわからなかった。霊のヒルダは、導きの霊の質問に対する答えを探そうと思って、後にある人間のヒルダの遺体をふり返ったからだ。しかし、霊となったヒルダにこの世の存在である人間のヒルダの肉体が見えるわけはなかった……。
 霊のヒルダはどのくらいの時間この答えを探そうとしていたかはわからなかった。霊のヒルダは突然の恐怖とともに我にかえるまで何をしていたのかさえわからなかったからだ。
 霊のヒルダは恐怖の底で、あやうく大声を出すところだった。彼女(霊のヒルダ)は、恐怖にふるえ、苦しみにもだえながら、つぶやくようにいった。
 「わが体の中に人間ヒルダの肉体が入れきたる思いせり。わが眼は、わが体の中にヒルダの肉体を見ればなり、その肉体……」
 霊のヒルダはこれだけいうと後は声をつまらせてしまった。
 二人の霊は、霊のヒルダのこの言葉に大きく眼を見開き、霊のヒルダ以上の驚きの表情を見せた。彼らも、彼ら自身の霊としての体の中に人間ヒルダの肉体が形となって入ってきたのを突然見たからだ。
 二人の導きの霊は、興奮をおさえながら、霊のヒルダにあわただしく命じた。
 「汝、人間でありし時の肉体に帰るべし。汝なお肉体の支配を続けるべし。汝を精霊界に連れ行くは、わがよくするところにあらず」
 霊のヒルダは、この声を天に数千の雷鳴が一度にとどろいたような響きで聞いた……。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.178-180

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 41-j (稀に起きる死者の生き返りという現象 =2=)

 人間の肉体が死ぬとその中に精霊が眼ざめ、この精霊は霊界からやってきた導きの霊との想念の交換を経てから精霊界へ導かれて行くことは、すでにこの手記の初めのほうで記したとおりである。
 だが、この想念の交換中に、めったにないことだが、導きの霊が死者の霊にまだ精霊界へは連れて行かず、なお引続いて肉体の中にあって肉体の支配を続けるよう命ずることがある。これは導きの霊が何かの理由によってまだその死者の霊を精霊界に導いて行くのは早過ぎると判断した場合だ。
 このような時は、ヒルダの霊のときのように多くの場合、霊の体の中に死者の肉体が入り込んでくるような現象が起き、死者の霊はその入り込んできた肉体を自分の霊としての体の中に霊の眼で見る思いがするものである。
 死者の生き返りという現象はときどき起きる現象だが、それは、いま私がここに紹介したようにして起こるのだ。ヒルダが人間として生き返り人々を驚かせたり喜ばせたりしたのはいうまでもない。

  エマニュエル・スウェデンボルグ『私は霊界を見てきた』
    (今村光一抄訳・編)叢文社、1983年、pp.181-182

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 41-k (臨死体験ではどの国でも共通して美しい光を見る)

 臨死体験の研究で、どの例にも共通する出来事の一つは、臨死体験をした人が美しい心安らぐ光を感じるという事実です。この光は傷ついた脳に生ずる神経化学的な現象ではなく、向う側の世界をかいま見るという、すばらしい体験です。しばしば、すでに亡くなった親類や精霊が光のそばにいて、忠告や知恵、深い愛情などを送ってくれます。臨死体験者がそれまで知りもしなかった事柄や出来事に気がつくことも、よくあります。また、すでに亡くなった親しい人々から、まだ見つからない宝石の隠し場所や、遺言のしまい場所などを教えてもらう人々もいます。病気や怪我が快復したあとで、彼らは宝石や遺言を発見して、自分が意識を失っていたり、昏睡状態にあった時に受け取った情報の正確さを確認しています。臨死体験批判者が言う、脳の損傷によって「生ずる」光であるならば、このような正確な事実を引き起こすことはできません。
 臨死体験は文化によって、細かい点では多少の違いはありますが、この美しい光を見るということは、共通する現象のようです。アメリカでは、臨死体験者は光に達するまでに、トンネルをくぐり抜けると言っています。日本では、川、または水のある所を渡って光に達する例が一般的なようです。それにもかかわらず、トンネルをくぐり抜けようと、川を渡ろうと、または他の行き方をしようと、光が必ず現れています。また、それに伴う感覚も、みな共通しています。光には、平和と安らぎがあるのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.217-218

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 41-l (盲目の患者が昏睡状態のなかで医者の救命治療を見る)

 糖尿病で失明した年配の女性が、私が精神科医長だった病院に入院中、心臓発作を起こしました。蘇生チームが彼女を生き返らせようとしている間、この女性は意識不明でした。あとで彼女が報告したところによると、彼女は自分の体から浮かび上がって、窓の傍らに立ち、医者が急いで静脈に刺し込んだチューブから薬を注入する様子を、じっと見ていたそうです。痛みをまったく感じない状態で、彼女は医者達が彼女の胸を強く叩いて、肺に空気を送り込むのも見ました。蘇生が行なわれている間に、医者のポケットからペンが一本落ちて、体を脱け出した彼女の霊体が立っている窓のそばに、転がって来ました。医者は歩いて来るとペンを拾いあげて、ポケットにしまいました。それからまた、彼女の命を救うための必死の努力へと戻ってゆきました。
 二、三日して、彼女は医者に、心臓発作を起こした時に、蘇生チームの仕事を自分は観察していたと話しました。「違いますよ」と医者はなぐさめるように言いました。「おそらく、脳に十分酸素が行かなかったせいで、幻覚を見たのですよ。心臓が止まった時、よく起こる現象です」
 「でも、私はあなたのペンが窓の所まで転がったのを見たのです」と彼女は答えました。そして、蘇生法とペンについて、細かく話したのでした。
 医者はショックを受けました。この患者は蘇生法を行なっていた間、ずっと昏睡状態だったばかりでなく、何年もずっと失明していたのです。
 目だけでなく、私達は見る方法を他にもいくつも持っているようです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.241-242

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 41-m[53-b] (医者が臨死体験の事実を公表することを恐れる理由)

 こうした患者の臨死体験や体外遊離体験の話は、他にも沢山の医師から聞いています。それは医学や生理学的見地からも、この現象を下らないと言って片づけることはできません。彼らは高度の教育を受け、論理的で懐疑的で、医科大学で厳しく訓練された医者なのです。その彼らがみな、疑う余地もなく、自分達の患者は意識がない間に体を脱け出して、遠くで起こった出来事を見たり聞いたりしたと、私に話しているのです。
 もう、こうした出来事は珍しくはないのだと思います。ほとんどの患者は医者に話したがりません。幻覚を見たのだと言われたり、おかしい、異常だと医者に思われるのではないかと怖れているからです。どうしてそんな危険を冒しましょうか?
 そしてなぜ、医者はこうした体験を人々に話す危険を冒すべきなのでしょうか? 多くの精神分析医は、退行催眠で自分が体験したことを公に話すのを怖がっています。私は電話や手紙を何百人もの精神分析医から(そして何千もの電話や手紙を心理学者、ソーシャルワーカー、催眠療法士、看護婦、その他のセラピストから)もらっています。その中で彼らは、過去生退行を「私の部屋でこっそりと」、「仲間には話さず秘密裡に」この数年間、時には二十年間も行なってきたと言っています。そこには何千何万という治療例が隠されているのです。それこそ、大切なデータ、真実の宝庫です。これらは臨床記録であり、その多くは有効性を確認できるでしょう。手紙には過去生の記憶、患者が思い出した名前、日付、他の都市、国、大陸での過去生の詳細などについて、詳しく書かれています。今生では聞いたことも、ましてや訪ねたこともない場所の公的記録に、自分の「昔の」名前を発見した患者も何人もいます。自分の墓を見つけた人もいます。
 こうした記録を公表する時の危険性は、かなり高いものです。医師は自分が苦労して得た評判、仕事、家族の安全、社会的な立場などが、すべて危うくなるのではないかと、怖れています。私はこの恐怖を理解できます。自分の発見を公表する勇気が出るまで、私も何年もかかったのです。

  ブライアン・L・ワイス『魂の療法』(山川紘矢・亜希子訳)
     PHP研究所、2001年、pp.243-244

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 41-n (明らかにされ始めた臨死体験から幽霊体験まで =1=)

 医学の奇蹟的な進歩とともに、すべてが変わってしまった。医師は心臓や腎臓を移植し、強力な新薬を投与して、患者の寿命をのばすようになった。新しい診断機器によって早い時期から病気がみつかるようになった。一年前には不治といわれた患者に生還のチャンスがあたえられるようになった。それでも、問題が解決したわけではなかった。人びとはいつしか、医学が万能であると信じこむようになっていた。かつては予測もできなかった倫理的、道徳的、法律的、財政的な問題の数々が浮かびあがってきた。医師がほかの医師にではなく、保険会社に相談してものごとをきめる場面が多くなってきた。
 「事態は悪化する一方だわ」わたしはゲインズ牧師にそういった。そう予測するのに天才は必要なかった。病院の壁には、すでにたくさんの書類が掲示されていた。何件もの医療訴訟で訴追されていたのだ。わたしが知るかぎり、訴訟の頻度は高まる一方だった。しかし、医学は変わりつつけ、医療倫理は書き換えを迫られているようだった。「むかしのようなやりかたがいいんですがね」ゲインズ牧師はいった。わたしの解決案は牧師のそれとはちがっていた。「問題の根っこは、ほんとうの意味での死の定義がないというところにあるのよ」とわたしはいった。
 穴居人の時代から、死を正確に定義づけた人はだれもいなかった。ある日、わたしに多くのことを教えてくれ、翌日にはかき消すようにいなくなってしまった、あのエヴァのようなすばらしい患者たちには、いったいなにが起こったのだろうか。わたしはそのことに思いをめぐらせていた。やがて、ゲインズ牧師とわたしは「死んだらどうなるのか」について、医学校と神学校の学生、医師、ユダヤ教の指導者、キリスト教の牧師などのグループに質問をしはじめた。「いのちがなくなったとしたら、どこにいったのか?」。わたしは死を定義しようとしていた。
 どんな見解にも、偏見をもたずに耳をかたむけた。夕食のテーブルで子どもたちが語った無邪気な意見も虚心に聞いた。わたしは子どもたちに自分の仕事を隠さなかった。ありのままを話すことが、みんなの助けになっていた。ケネスとバーバラの顔をみながら、わたしは「生まれることと死ぬことはよく似ているのよ」といった。それぞれが新しい旅のはじまりなのだ。しかし、あとになって、誕生と死では、死のほうがずっとたのしく、はるかに平和な経験であると考えるようになった。この世にはナチス、エイズ、がんのようなものが多すぎる。
 たとえ怒り狂っていた患者にも、いまわの際にはいかに静謐な、リラックスした瞬間がおとずれるものかに、わたしは気づいていた。いよいよ臨終が近づくと、先に亡くなった愛する人たちと再会し、現実そのもののような経験をしているようにみえる患者もたくさんいた。かれらはわたしにはみえない人たちと生き生きとした会話を交わしていた。例外なく、どんな場合でも、死の直前には独特の静けさがおとずれていた。
 そして、そのあとは? それが知りたかった。
 わたしには自分の観察にもとづいた判断しかできなかった。そして、人がいったん死んでしまうと、わたしはなにも感じなくなった。その人は逝ってしまったのだ。ある日は語りかけ、手をふれることのできた相手が、翌朝にはいなくなっていた。遺体はそこにあったが、手をふれても木片にさわっているようなものだった。なにかが失われていた。なにか有形のもの、いのちそのものが。
 「でも、いのちはどんなかたちで去っていくのか?」わたしは間いつづけた。「そして、そんな場所があるとしての話だが、いのちはどこにいってしまったのか? 人は死ぬ瞬間に、どんな経験をしたのか?」
 思いはいつしか、二五年前の、マイダネックへの旅にもどっていった。あのとき、男たち、女たち、子どもたちがガス室で殺される前夜をすごした収容棟を歩いていた。そして、壁に描かれた無数の蝶の絵をみて魔法にかかったように立ちすくみ、自問したことを覚えている。「なぜ蝶なの……?」
 いまようやく、はっきりとそれがわかった。囚人たちは瀕死の患者と同じように、この先どうなるのかに気づいていたのだ。自分がまもなく蝶になることを知っていたのだ。死んだら、この地獄のような場所からぬけだせる。もう拷間もない。家族と離れることもない。ガス室に送られることもない。この身の毛のよだつような生活とも縁が切れる。蝶がさなぎから飛び立つように、もうすぐ、このからだからぬけだせる。あの蝶の絵は囚人たちが後世に残したかった死後のメッセージだったのだ。
 それから、わたしは死とその過程について説明するときに、蝶のイメージを使うようになった。だが、それで説明しきれるわけではなかった。もっと多くのことが知りたかった。ある日、パートナーの牧師をふり返って、わたしはこういった。「あなたたちはいつもいってるわね。『もとめよ、さらばあたえられん』って。じゃ、もとめるわよ。死にかんする研究を手伝ってほしいの」。牧師は即答しなかった。しかし、わたしたちはふたりとも、正しい問いにはかならずよき答えが返ってくることを信じていた。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.218-221

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 41-o (明らかにされ始めた臨死体験から幽霊体験まで =2=)

 翌週、ある看護婦から、面接の候補者にふさわしそうな女性がいることを知らされた。シュウォーッ夫人はICUに一五回も入ったことがあるという患者だった。そのたびに死の転帰をとるものと考えられていたが、驚くほど強靭で意志の強い夫人は、そのつど生還してきた。その看護婦は夫人に畏怖の念をいだくようになっていた。「ちょっと変わった人だと思いますよ」看護婦はいった。「なんだか怖くて」
 「死とその過程」セミナーで面接したシュウォーッ夫人は、ちっとも怖くなかった。夫人は夫が精神分裂病で、症状が発現するたびに一七歳になる末の息子に暴力をふるうと語りはじめた。夫人は、息子の成人前に自分が死んだら息子が殺されるかもしれないと危惧していた。法的には夫が唯一の保護者になるので、暴れだしたらどうなるかわからないというのである。「だから、わたしはまだ死ねないんです」夫人はいった。
 夫人の心配のたねがわかったので、わたしは法律扶助協会の弁護士にたのんで、その息子の後見人を社会的に安定した親戚のひとりに変えてもらった。シュウォーッ夫人はまた退院していった。これで残された時間を平穏にすごせるはずだった。わたしはもう夫人に会うことはないだろうと思っていた。
 しかし、一年もたたないうちに、夫人はわたしのオフィスにやってきて、もう一度セミナーで話をさせてほしいといった。わたしは断った。同じ被験者を二度以上参加させない方針だった。死というもっともタブー視されているテーマにかんして学生がしゃべる相手は、まったく未知の人に限定すべきだと考えていた。「でも、だからこそ、わたしは学生たちに話をする必要があるのです」夫人はいった。そして、長い間を置き、こうつけ加えた。「そして、先生にも」

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.221-222

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 41-p (明らかにされ始めた臨死体験から幽霊体験まで =3=)

 一週間後、気がすすまないままに、わたしはシュウォーッ夫人を会場に案内した。学生たちは前回のときの顔ぶれとは変わっていた。夫人は前回と同じ話をしはじめた。幸いにも、ほとんどの学生にとってははじめて聞く話だった。再度被験者にしたことを後悔しながら、わたしは夫人の話をさえぎって、こうたずねた。「どうしてもまたセミナーで話したいというのは、どんなことですか?」。その質問をきっかけに、夫人の話題ががらっと変わった。そのころにはまだ「臨死体験」ということばはなかったが、夫人がくわしく述べはじめたのはまさにその体験についてであり、わたしたちははじめてそれを直接耳にすることになったのである。
 そのできごとはインディアナ州で起こった。内臓出血でたおれたシュウォーッ夫人は病院にかつぎこまれ、個室に入れられた。容体は「危篤」と判定され、とてもシカゴに送り返せる状態ではなかった。今度こそ死ぬのかなと思いながら、夫人は看護婦を呼ぶべきかどうかを考えていた。そして、生死のはざまを往復するという試練をあと何回くり返せばいいのかと自問していた。息子にも後見人がついたことだし、もう死んでもいい時期なのかもしれない。
 夫人はなかなか決心がつかなかった。半分は死にたがっていた。あとの半分は息子が成人するまでは生きたいと願っていた。
 自問自答をしているとき、看護婦が入ってきた。看護婦は夫人をひと目みると、顔色を変えて飛びだしていった。夫人の話によれば、ちょうどその瞬間、意識がからだから離れ、天井に向かってふわっと浮きあがった。蘇生チームが駆けこんでくるのがみえた。蘇生チームは夫人を生き返らそうとして、死にもの狂いで働いていた。
 夫人は天井のほうから一部始終をみていた。こまかいところまで観察していた。チームの会話は一言もらさず聞いていた。口にださなくても、それぞれが内心に浮かべている想念さえ読みとることができた。驚いたことに、痛みはなにも感じなかった。からだからぬけだしていることにたいしては、恐怖も不安も感じなかった。ただただ好奇心にかられ、チームの人たちが自分の存在に気づかないことが不思議でならなかった。そんな無理はしないで、わたしはだいじょうぶだからと、くり返し声をかけた。「でも、その人たちには聞こえないんです」と夫人はいった。
 しかたなく、夫人は下降していき、レジデントのひとりの腕をつついてみた。ところが、なんと夫人の手はレジデントの腕をつきぬけてしまった。蘇生チームの医師たちにおとらず無力感にとらわれはじめた夫人は、その時点で、意思を疎通させようとする努力をあきらめた。「そこで意識を失ったんです」と夫人は説明した。四五分にわたる蘇生の試みが失敗に終わろうとしていた。夫人が最後に覚えているのは、顔までシーツがかけられ、死亡の宣告をされたこと、そして、狼狽していたレジデントがジョークをいったことだった。しかし、それから三時間半後、遺体を片づけにきた看護婦は、夫人が蘇生しているのをみて仰天することになったのである。
 会場にいた全員が夫人の驚くべき話に魅了されていた。だが、学生たちはたちまち、となりの人と顔をみあわせ、聞いたばかりの話を信じるべきかどうかの詮索をはじめた。けっきょくのところ、そこにいたのは科学の信奉者ばかりだった。学生たちは夫人のあたまがおかしいのではないかと考えはじめた。シュウォーッ夫人も同じ疑問にとらわれていた。なぜその体験を話してくれたのかとたずねたわたしに、夫人はこう答えたのだ。「わたしも精神病になったんでしょ?」
 けっしてそんなことはなかった。話を聞き終わった時点で、わたしはシュウォーッ夫人が正気そのものであり、真実を語っていたことを確信していた。だが、夫人は自信を失っていて、正気であることを確認してほしがっていた。会場から去る前に、夫人はもう一度質問した。「先生はわたしが精神病だとお考えですか?」。夫人の声は悲しげだった。面接の時間を早く終わらせようとしていたわたしは、大きな声でこう答えた。「医師エリザベス・キューブラー・ロスとして、わたしはあなたが現在も精神病ではなく、過去においても精神病ではなかったことを証明できます」
 それを聞くと、シュウォーッ夫人はようやく枕にあたまを落とし、大きな吐息をついた。ぜったいにあたまのおかしい人の反応ではなかった。夫人は冷静そのものだった。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.222-224

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 41-q (明らかにされ始めた臨死体験から幽霊体験まで =4=)

 後半の討論の時間になると、学生たちはわたしがシュウォーッ夫人の話を幻覚とみとめず、夫人を信じるふりをしたことの理由を知りたがった。驚いたことに、シュウォーッ夫人の経験が事実であること、死の瞬間にも意識が存続し、観察や思考ができること、痛みも感じないこと、それが精神病理学とは無関係な現象であることを信じた学生はひとりもいなかった。
 「では、先生はその現象をどう呼ぶのですか?」学生が質問した。
 すぐには答えがでてこなかった。学生は不満を表明した。わたしは科学で解明されていないことはたくさんあるが、だからといってその存在を否定することはできないと説明した。「いまここで犬笛を吹いても、みなさんには聞こえないでしょう」わたしはいった。「でも、犬ならみんな聞こえます。だからといって、犬笛の音が存在しないっていえるかしら?」。シュウォーッ夫人はわたしたちとは別の波長の世界を経験したとは考えられないだろうか? 「夫人はあとになって、レジデントがいったジョークを正確に報告しています。どうしてそんなことができたのか、説明してください」。夫人の体験した世界がわたしたちにはみえないからといって、夫人がみた世界のリアリティーを度外視することができるだろうか?
 いずれ、もっと科学的な説明がつくときがくるだろう。だが、その時点では、シュウォーッ夫人がセミナーに登場してきた動機について説明することで講義を終えなければならなかった。その動機がわからないという学生たちに、わたしは「純粋に母親としての配慮からだ」と説明した。シュウォーッ夫人はセミナーが録音されていることも、八〇人の証人がいることも知っていた。「もしその体験が精神異常だと判定されたら、息子の後見人は法的に無効になるのよ」わたしはいった。「そうなれば、ご主人が後見の権利をとりもどして、夫人のこころの平和が乱されることになる。それでも夫人は精神異常? ぜったいにそんなことないわ」
 それから何週間も、シュウォーッ夫人の話があたまから離れなかった。夫人に起こったことが夫人だけの、例外的な現象だとはとうてい思えなかった。生命の徴候が停止したあと、蘇生の試みがおこなわれているあいだに味わった、そのとてつもない体験を、あとで思いだせる人がひとりでもいる以上、ほかにもいてもおかしくなかった。ゲインズ牧師とわたしは、にわか探偵になった。生命の徴候が消え、死亡が確認されたあとで蘇生した人をそれぞれ二〇人ずつ探しだして、面接するつもりだった。わたしの勘があたっていれば、わたしたちはまもなく人間のまったく新しい一面につうじる扉をひらき、いのちにかんして新しい気づきを得ることができるはずだった。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.224-225

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 41-r (明らかにされ始めた臨死体験から幽霊体験まで =5=)

 探偵になったゲインズ牧師とわたしは距離を置き、別々に行動しはじめた。不仲になったというわけではない。それぞれが二〇症例を集めるまで面接ノートを相手にみせないという協定を結んだのである。わたしたちはひとりで、病院の隅々までしらべまくった。ほかの病院にも手をまわした。設定した基準に合致する患者をもとめて、片端から問いあわせ、再三にわたって確認をした。患者には、起こったこと、感じたことだけを話してくれるようにたのんだ。患者たちは自分の話がほかにもれることを恐れていた。
 ようやくそれぞれのノートの照合をはじめたとき、集まった体験記録の想像を絶する内容にわたしたちは目をみはった。「そう、死んだ父に会ったの。生きている姿そのままだったわ」と告白した患者がいた。よく聞いてくれたと牧師に感謝する患者もいた。「聞いていただいて、とてもうれしいです。だれに話しても変人あつかいされていましたからね。ほんとうにすばらしい、とろけるような体験だったんです」。ノートの記述はさらにつづいた。「また目がみえるようになっていました」事故で視力を失った女性がそういっていた。この世界に帰還してきたとき、女性はふたたび盲目にもどっていた。
 「臨死体験」や「死後生存」にかんする論文が続々とでてくるようになる時代よりずっと以前の話である。わたしたちの発見が懐疑主義者たちの格好の餌食になり、最悪の不信と嘲笑の対象になることはわかっていた。しかし、ひとつの症例だけをみても、それが真実であることはあきらかだった。一二歳の少女はその臨死体験を母親にも隠しているといっていた。少女の説明によれば、その体験はあまりにもたのしく、家に帰りたくないと思ったという。「パパとママがいるお家よりたのしいお家があるなんて、ママにはいいたくないの」と少女は告白した。
 その後、少女は体験の逐一を父親に話した。そのなかには、兄にやさしく抱かれたという体験もふくまれていた。父親は衝撃を受けた。そのときまで、兄がいたことなど少女にわかるはずがなかったからだ。兄は少女が生まれる数か月前に亡くなっていた。
 こうした発見の分析法や研究方法を模索しているあいだも、わたしたちはそれぞれ別の道を歩みはじめていた。ふたりとも、病院の窮屈な雰囲気にいやけがさし、ほかの職場を探していたのだ。ゲインズ牧師が先にでていった。一九七〇年のはじめ、牧師はアーバナにある教会をひき継いだ。同時に、ムワリム・イマラというアフリカ名を名乗るようになった。自分のほうが先に病院を去るものだとばかり思っていたわたしは、新しい仕事をみつけるまで、ひとりでセミナーを続行しなければならなかった。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.226-227

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 41-s (明らかにされ始めた臨死体験から幽霊体験まで =6=)

 セミナーは、盟友ともいうべきゲインズ牧師なしには、うまくいきそうもなかった。ゲインズの上司だったN牧師が後継者になった。しかし、わたしとは反りがあわなかった。ときには学生に、N牧師が医師でわたしが宗教家だと誤解され、情けない思いをしたこともあった。
 いよいよ病院をやめようと決心した。そして、自分でこれが最後だときめた「死とその過程」セミナーの金曜日がやってきた。わたしはいつも、きめたら果敢に行動するたちだった。セミナーが終わり、なんといって切りだそうかと考えながらN牧師に近づいていった。ふたりはエレベーターの前に立ちどまって、終わったばかりのセミナーについて二、三、ことばを交わした。牧師がエレベーターのボタンを押した。わたしのオフィスはセミナー会場と同じ階にあり、そこで牧師と別れることになっていた。エレベーターがきて、牧師が乗りこみ、ドアが閉まる直前に辞意を表明するつもりだった。そうすれば牧師にひきとめられることもない。エレベーターのドアがあいた。
 「わたしは……」といいかけた瞬間、エレベーターと牧師のあいだに、とつぜんひとりの女があらわれた。わたしは口をあけたまま凍りついた。その女は空中に浮いているようにみえた。からだはほとんど透きとおっているようだった。そして、いかにも親しげに、わたしにほほえみかけていた。「驚いた、だれでしたっけ?」わたしは素っ頓狂な声でたずねた。N牧師は異様なものをみるようにわたしをみつめた。その表情から察して、牧師はわたしが発狂しかけていると思ったらしい。「たしかに知っている人だわ」わたしはいった。
 「わたしをじっとみてる……」
 「なんですって?」あたりをみまわして牧師がいった。「なんの話をしてるんです?」
 「エレベーターに乗ってください。その人と話があるの」わたしはいった。
  N牧師は一刻も早くその場から離れたかったらしく、逃げるようにエレベーターに飛び乗った。
 ドアが閉まった瞬間、幻影とも幽霊ともまぼろしともつかないその女がわたしのそばにきた。「ロス先生。帰ってきましたよ」女がいった。「先生のオフィスまでごいっしょしてもかまいません? 話はすぐすみますから」
 オフィスまでは三〇メートルもなかった。しかし、そこまでの道のりは世にも不思議な、どきどきするような体験だった。精神異常の初期なのだろうか? たしかにこのところストレスがつづいていた。でも、幽霊をみるほど極端なものではなかった。幽霊はわたしのオフィスの前でとまり、自分でドアをあけ、来客にそうするようにわたしを先にみちびき入れた。ふり返るとドアが閉まっていた。
 「シュウォーッさん!」
 自分はいったいなにをいっているのか? シュウォーッ夫人は一〇か月前に亡くなったはずだ。たしかに埋葬された。にもかかわらず、夫人はわたしのオフィスにいて、目の前に立っている。どこか一途なところがあるが、生きていたときと同じように愛想のいい表情で立っている。ほほえみ返す余裕はわたしにはなかった。失神しないうちに座ることにした。「ロス先生.帰ってきた理由はふたつあります」夫人ははっきりとした口調でいった。「ひとつは、先生とゲインズ牧師に、ほんとうによくしてくださいましたとお礼をいうためです」。わたしはペンやレポート用紙やコーヒーカップにさわってみた。それが現実かどうかをたしかめたかった。そう、現実だった。夫人の声と同じように現実そのものだった。「でも、ふたつ目の理由は先生に申しあげるためです。死とその過程のお仕事をやめないようにって……まだ早すぎます」
 夫人は満面に笑みをたたえながら、デスクの脇にまわりこんだ。そのあいだに必死で考えをめぐらせた。これは現実に起こっていることなのか? なぜ病院をやめようとしていることがわかるのか? 「聞いてますか? 先生のお仕事はまだはじまったばかりです」夫人はいった。「わたしたちがお手伝いしますわ」。これが現実かどうかに確信がもてないというのに、わたしは思わず「もちろん、聞いているわよ」と答えていた。そう答えた瞬間に、自分が考えていることも、いおうとしていることも、夫人にはすべてわかっているのだということに気がついた。わたしは夫人にペンと紙をわたして、ゲインズ牧師に伝言を書いてくれるようにたのんだ。夫人がたしかにここにきたという証拠を残そうと思ったのだ。夫人はすばやくペンを走らせ、「これで満足しましたか?」といった。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.227-230

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 41-t (明らかにされ始めた臨死体験から幽霊体験まで =7=)

 正直なところ、わたしは動転しきっていた。気がつくと、シュウォーッ夫人の姿が消えていた。部屋のなかを探した。どこにもいなかった。廊下にでて探したが、影もかたちもなかった。急いでオフィスにもどり、夫人が書いたメモをしらべた。紙にさわり、筆跡をしらべているうちに、ふと手がとまった。自分はなぜ疑うのか? なぜ否定しようとするのか?
 そのとき、ようやくわかったことがあった。神秘体験をする準備ができていない人は、たとえその体験をしても信じることができないのだ。しかし、こころをひらいていれば、それをしっかりと体験し、信じることができるようになる。人にいえば吊るし首になるかもしれないが、それでもその体験が真実であることには変わりがない。
 とつぜん、この仕事はぜったいにやめまいという決意のようなものがわいてきた。病院はそれから数か月後にやめることになったが、その夜、わたしは意気揚々として、前途に希望を感じながら家路についた。シュウォーッ夫人はわたしが決定的なまちがいを犯すことを未然にふせいでくれたのだ。夫人が書いたメモはムワリムにわたした。わたしが知るかぎり、いまでも牧師はそれをもっているはずだ。長いあいだ、わたしは夫人の幽霊の話をムワリム牧師にしかしなかった。マニーにいえば、ほかの医師と同じ反応をすることはわかっていた。ムワリムだけはちがっていた。
 牧師とわたしは異次元にまで羽ばたいていった。そのときまでは死の定義をするために協力しあっていたが、いまやそれをこえて、死後の世界にまで視野をひろげはじめた。牧師はすでに新しい教会で働いていたが、研究のパートナーであることは変わらなかった。ふたりで死から生還した患者に面接し、死後の生にかんするデータの収集をつづけることにした。どうしてもやらなければならない仕事だった。なにしろ、わたしはシュウォーッ夫人と約束していたのだから。

  エリザベス・キューブラー・ロス『人生は廻る輪のように』
    (上野圭一訳) 角川書店、1998、pp.230-231

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 41-u (臨死体験で死に対する恐怖を手放すことができる)

 人の一生を見られる仕組みというのはいいですね。私は「臨死体験できる」仕組みが、社会的にある種の装置として備わるといいのではないかと考えています。
 向こうの世界に行く、つまり臨死体験してこっちの世界に帰ってくるというシステムができると、漠然と持っていた死に対する恐怖を手放すことができると思うのです。死の向こう側にある「真実」を知ることができます。これは死んだらどうなるかが、わかるような社会に変革されるということです。
 臨死体験できる仕組みは、社会における新しい価値観を創出するための一つの方法だと思います。昔から体外離脱に関する報告はたくさんあります。科学者であり神学者であり貴族だった巨人エマヌエル・スウェーデンボルグ(スヴューデンボリ)は『スウェーデンボルグの霊界日記』(たま出版刊)を著し、あちらの世界を詳細に世に知らしめました。
 世界中の宗教家やヨガの行者たちも、あちらの世界をさまざまに体験しています。彼らは死後世界に行き、そこで知識を得て、こちらに帰ってきてから各自で修行体系を作りました。
 しかし科学の世界では、臨死体験をシステマティックに研究することはやってこなかった。だからどうしても、こういう話は宗教世界での限定話になってしまうわけです。
 そうしたアプローチが科学界でも話題になり始めたのはここ最近のことです。臨死体験の研究で知られるアメリカの医師・心理学者のレイモンド・ムーディが、著書『かいまみた死後の世界』(評論社刊)や『死者との再会』(同朋舎出版刊)を出したのが一九七〇年代でした。(坂本政道)

  矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
    (徳間書店、2012、pp.18-19)

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 41-v (生きている間に死後世界を体験しておく) 

 あちら側に別の世界があり、こちらの世界とつながっているということを知ること。すると、これまで以上に前向きに生きられるし、前向きに死を迎えられます。「死んだらこちらの低次元世界が終わるだけで、向こう側に行くんだから」というような感じです。
 ちなみに死後世界にはさまざまな世界があり、中には変な世界がありますから、そういうところに行ってしまって苦しむことがないようにするにはどうしたらいいのかとか、そういう知識もノウハウとして知っていれば、変な世界に行くこともないでしょう。
 生きている間に死後世界を体験し、その中の輪廻の中継点と呼ばれる世界へ行けるように練習しておく、さらに自分のガイドとつながりをつけておけば大丈夫です。(坂本政道)

   矢作直樹・坂本政道『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』
     (徳間書店、2012、p.221)